『秀英体研究』より



1. はじめに

1─1 秀英体研究にあたって


 ひょんなことから大日本印刷株式会社の活字書体、すなわち秀英体の調査・分析をする機会を得た。最初はレポート用紙に10枚程度を報告するつもりであった。
 それがいつのまにか、膨大なページ数を必要とする研究に拡大していったのは、ひとつには現在の大日本印刷に、想像以上に金属活字・写植活字・電子活字に関する資料が現存していることが判明したためであった。ところがその多くは社内報告書や社内資料として作成されたものであって、製作者名、製作年月日を欠くものが多かった。そのひとつひとつを整理して、推定で発行年の順序に並べるところから研究をスタートさせた。

 またこの研究の基礎調査の間に、タイポグラフィ研究にとっての基礎文献となる活字見本帳が、大日本印刷の社内のあちこちからたくさん発見された。もちろんこれらの資料の多くは、かつては実用に供されたものであったから、表紙が印刷インキで汚れていたり、書き込みや切り取りが見られるものであった。それでもこれらの活字見本帳はきわめて貴重な資料であるために、その一部をここに原寸の影印で紹介して今後の研究を待つことにした。それとともに原本は保管に万全を期し、その一部をデジタル・データとして保管した。

 また技術環境の変化とともに、大日本印刷では2003年(平成15)3月31日にいたって、金属活字による組版と、それを刷版とする金属活字版印刷部門を閉鎖した。大日本印刷の金属活字版印刷とは、とおく1876年(明治9)の秀英舎の創業とともにスタートし、2003年までの125年余に及ぶ、わが国最古の歴史を誇るものであった。その貴重な記録の散逸をみる前にしっかりと記録しておきたかった。

 以上のことから、それを『秀英体研究』と呼んで研究をスタートさせた。当初の予定がレポート用紙10枚程度の気軽な報告のつもりであったから、2ヶ月もあれば整理とまとめに十分だと考えていた。着手してすぐに、それはあまりに安易な考えだと気づいた。しかしながら約束は約束であり、連日連夜、膨大な資料の山との格闘の仕儀となった。したがってその一部に十分な調査・分析が及ばず、これが研究という名に値するのかという自責の念がある。

 また各種の資料からの引用もおこなったが、一部の資料にはその時代の業界用語が説明もなく用いられていたり、いわゆる旧漢字字体によって、カタ仮名交じり文や旧仮名づかいによるものも多かった。ところが本書の目的はあくまでも秀英体という活字書体の研究であったために、引用の一部を新仮名づかいとしたり、補足説明や意訳めいたものを加えたことをお断りしておきたい。そのために基礎資料はできるだけ丁寧に出典をしるしたつもりである。したがってさらなる引用をされる場合にはお手数でも基礎資料にもあたっていただきたい。いずれにしても読者の海容をまつゆえんである。

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 調査・分析には、鈴木孝・根岸修次の助力を得た。そのまとめには、おもには坂本繭美があたった。あわせて坂本繭美は7章「秀英舎と築地活版所 見本帳別の考察」を執筆し、詳細な図版分析によって仮名書体の系統樹の作成も担当した。またデジタル・データの画線修整にあたっては、とくに慎重を期して欣喜堂・今田欣一氏の協力を得た。今田欣一氏はかつて株式会社写研に在籍していた際に、秀英初号明朝体の写植活字への移植にあたって中核メンバーとして関与された。不思議な偶然によって、ここにふたたび秀英体の調査に協力をいただいた。
 また関連資料の収集には大日本印刷の全面的な協力とともに、各種機関と個人の協力をいただいた。なかんずく板倉文庫の協力がおおきかった。とくにしるしておきたい。

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 ここでは大日本印刷の活字書体、すなわち秀英体のうち、おもには号数制体系のもとにおけるひら仮名書体を中心に調査・分析を試みた。カタ仮名にはまったく手をつけなかったし、いわゆる太仮名と呼ばれるグループのひら仮名書体、ゴシック体と併用される仮名書体にもほとんど手をつけなかった。これらの調査は今後に待つことになる。またポイント制活字への論及が少ないのは、おもにはそれらの作業が外部企業に発注されて、活字母型製造所などの外部企業によってなされたことと、明治末期から大正期のそれはほとんどが単純な移植作業が中心であり、活字書体の形姿そのものにはほとんど変化がみられなかったことによる。
 もちろん技術論からみれば興味深いものがあるが、本書での目的ではなかった。

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 秀英体の仮名書風にはおおきくわけてふたつの系譜があることがわかった。そのひとつをここでは秀英体A型仮名書風と呼んだ。もうひとつを秀英体B型仮名書風とした。

 秀英体A型仮名書風はわが国の開国にともなって、文明開化をめざして近代化の道をいっさんに走りだしたころに誕生した。すなわちそれまでのお家流書風と訣別すべく意図的に制作されたものであり、幼童のための手習いにおける近代化を象徴する、意欲的な仮名書風を秀英舎が採用したものでもあった。その形成には福沢諭吉や「かなのくわい」の内田嘉一(かいちとも 号/芳斎・晋斎)らがおおきく関与していたことが想像された。その報告としては九章に紹介がある。

 また秀英体B型仮名書風の成立には、江戸時代からの木版印刷用の版下師や彫刻師の影響がおおきかったことも想像された。個人名が判明している範囲では宮城玄魚(はるなとも 号/梅 素・楓阿弥)程度であるが、これも今回の調査では十分に論及することができなかった。これらに関してはのちにより詳細な報告の機会を得たい。

 わが国の活字書体とその書風の淵源をたずねると、その嚆矢たる東京築地活版製造所につきあたる。そのおおきな影響をかつて矢作勝美氏は『明朝活字』(平凡社 昭和51年12月20日)の中で東京築地活版製造所の明朝体に関してこう述べている。

 明朝体の発展過程をたどってきたところからすると、一見矛盾したいい方にとられそうだが、あえて巨視的な見方をすれば、明朝体の発展過程は、築地体のフォームが下敷きにされ、書体のもつある部分的要素を削ったり、あるいは整える、といったところにほとんどのエネルギーが傾注されてきた、といっても過言ではないようだ。どの辺に限界があり、どのようにとどめておくべきであったか、ということは大きな問題であるが、それはともかく、削るものがなくなるところまで落ちたのが、細型による形骸化現象であるといっていいだろう。

 こうした巨視的な見地に立てば、ある時点からは築地体の遺産を食いつぶしてきたのがこれまでの大筋である、といった見方もできるだろう。むろんそのなかには、当然築地活版所自身もふくまれるのはいうまでもない。築地活版所は昭和13年(1938)3月、業績不振を理由に、自らの手によって会社解散を決議し、ながかったその歴史をとじるとともに、私たちの前から姿を消していった。


 現在の秀英体、なかんずく明朝体の淵源をたずねると、それはやはり創業時から使用していた東京築地活版製造所による四号明朝体に辿り着く。それをもとに秀英舎では微細な改刻を重ねて、ほぼ独自の活字書体としての形姿を獲得したのは1895年(明治28)4月のことであった。その後明治期いっぱいを通じて、秀英舎(製文堂)は日々の改刻、字種の拡張、字体の補整を重ねて、明治最末期には秀英体活字書風の最高潮の実現をみせている。

 その後の秀英体は、号数体系活字からポイント制活字への慌ただしい移植の時代を迎え、比喩的にいうと、雨後のタケノコのように林立した活字母型製造所などによって、小さな靴をむりやり履かされたり、ブカブカのシャツを着せられる時代を迎えた。世はまさに円本ブームにわきたち、書物の製作に速度と経費が異常に重視される時代を迎えた。そしてこの喧騒は5年ほどをもってあっけなく終焉した。

 さらにその後の秀英体には、関東大地震、太平洋戦争などの災禍がおそいかかった。その間に最大のライヴァルであり、それぞれの創業者同士が「肝胆あい照らす仲」とされた東京築地活版製造所は、業績不振を理由としてひっそりと消えていった。
 戦後の再建にあたって、大日本印刷ではそれまでの伝統を再評価するとともに、その敏速な回復をはかるために活字製造における戦略的な展開をはかった。それは新技術の機械式活字母(父)型彫刻機(わが国ではベントン/ベントン彫刻機と略称されたが、ほとんど活字母型の彫刻に用いられた)の採用であり、それにともなう原字の整備であった。

 大日本印刷では自社の活字資産のうち、明治末期からの秀英体の蓄積をもととして慎重に活字原字を整備した。その整備の作業は戦後まもなくの1949年(昭和24)から着手され、機械式活字母型彫刻機によるあたらしい活字が1951年(昭和26)から続々と誕生した。

 そしてそれは光学式活字組版機「電算写植機」に継承され、さらには電子式活字組版機「タイプ・セッタ」にも継承されて、現在の活字と画像を一括処理する「イメージ・セッタ」にまで継承されている。

 その戦後からの50年ほどのあいだに、これもまた比喩的にいうと、秀英体にはまず最初に機械式活字母型彫刻機による機械メスが入れられ、ついでビットマップ・フォント・フォーマット、アウトライン・フォント・フォーマットという電気メスが容赦もなく入れられつづけてきたといえる。

 つまり秀英体はその誕生から100年余を経過して、工芸者の時代から技術者の時代を経てきた。その間に工芸者たる活字父型彫刻師の彫刻刀による微細なカーヴや、いうにいえない手技のぬくもりのごときものは機械メスと電気メスによって脱落させられた。

 いまの秀英体は、すっかり整形され、一見精緻なたたずまいをみせているものの、ある意味では機械生産品がもつ、均一ながらも無表情で鋭利な文字形象と化し、いくぶん痩せ衰えた形姿になっている。前述の矢作勝美氏の指摘のとおり、わが国のすべての明朝体とはつまるところ、明治からの遺産を食いつぶしてきたともいえる。秀英体もそうした意味ではやはり後述するように製文堂時代に発する明治末期からの遺産を食いつぶしてきたといわざるを得ない。

 そこにはまた、縦線と横線の太さのコントラストのおおきな差異、ハライやハネの先端部などにおける鋭利な画線が存在しており、文字の判別性と可読性をいささか損なうにいたっている。それはタイポグラフィの専門用語を用いるならダズリング・イフェクト(Dazzling Effect 幻惑効果・眼がチカチカして読書に集中できないこと)であるが、ひとり秀英体だけではなくて現在の精緻化されたほとんどの明朝体のうえにそれが現出していることを、そろそろ指摘しなくてはならないのだろう。

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 これには少しばかり説明が必要であろう。活字書体の原字制作とは、長らくのあいだ、工匠ないしは技芸家とされたパンチカッター(活字父型彫刻師/種字彫刻師)の手によった。かれらは活字の複製原型を裏文字(鏡文字)で軟鋼やツゲの駒の上に原寸彫刻をする(パンチド・カッティング)特殊技能者であった。そして隠れた技法として、もっぱら視覚補整対応方式(Optical Scaling)によって活字の複製原型たる活字父型をつくってきたという歴史がある。

 すなわち金属活字の歴史のなかでは500年余にわたって、活字サイズの大小の変化に応じて、判別性と可読性の向上のために書体の基本デザインをかえずに、大きなサイズではカウンター(文字のふところ)を狭めたり、鋭角な線質をやわらげたりしてきた。また小さなサイズでは逆にカウンターをゆるめたり、線質を明瞭な構成に切り換えるなどして、それぞれのサイズの活字父型に視覚補整を施しながら彫刻したという歴史があった。

 それが産業革命下の欧米においてパントグラフの応用による機械式活字母型彫刻機などの登場をみてからは、急速に比例対応方式(Linear Scaling)の活字書体設計法に変化した。この方式では工匠や技芸家の特殊能力に依存することは減少して、機械の精度・設置台数の多寡・オペレーション能力などへの依存が高まった。文字原図は彫刻法にかわり、用紙の上に文字原型を裏文字にかえて正向きに描くという描画法になり、それがパターンと呼ばれた金属板に複写された。パターンは一あるいはほんの少数のサイズだけで、ほとんどの活字サイズに一律に比例的な縮小または拡大をさせて文字の大小に対応する方式となった。また光学式写真植字機はほとんどすべてがこの方式を踏襲したし、現在の電子活字でも世界的にみてもまだまだ比例対応方式が主流である。

 物事の長所と短所はまま表裏をなす。活字原図制作の比例対応方式の採用によって、あまりに特殊なパンチド・カッティングの技術習得は不要となって、タイプ・デザイナーと呼ばれたあらたな職業人が業界に参入することになった。また開発時間と経費の大幅な圧縮などの長所も多かった。それでもやはり、大きなサイズではカウンターがゆるくなって間延びした文字形象となったり、小さなサイズではカウンターが狭まったり、細線部が詰まったり不明瞭になって判別性に劣ることがあった。

 このような産業革命下の欧米の活字界で、ほぼ同時に大きなテーマとなったのが前述したダズリング・イフェクトの現出であった。つまり活字製造の相当部分が急速に機械化されることになり、善かれ悪しかれそうした産業革命の時代を背景に誕生したモダン・ローマンのように、様式化されて硬質な画線が際立ち、水平・垂直線の線の太さの差が大きく異なって、彫刻の特徴が際立った硬質な画線がもたらす強いコントラスト、つまりモダン・ローマン全般に避けがたく発生する幻惑効果への対応が一九世紀の欧米のタイポグラファに求められたのである。

 もちろん漢字書体の明朝体と欧文書体のモダン・ローマンとはおのずから性格が異なるし、日本語組版には漢字だけではなくひら仮名とカタ仮名の使用もあって同列に語ることはできない。それでも、すくなくとも近代金属活字書体としての明朝体漢字の初期段階の開発に関与したとみられる欧米のタイポグラファの多くは、18─19世紀の産業主義と機械化による大量生産の時代を生きてきたひとびとであったという事実だけは指摘しておきたい。

 このような一九世紀の最後の10年間に、ヴィクトリア朝のイギリス──すなわち産業主義の時代の活字と書物の状況に対して憤慨したのがウィリアム・モリスであった。モリスは産業主義に代えて手技による工芸への復帰を提唱してケルムスコット・プレスを設立するなどした。これらは一種の運動体となり「個人印刷所運動」と呼ばれて活字書体を熱心に開発し、それをもとにしてかれらの理想とする書物をつくった。モリスはまたこうも語っている。

「ルネサンスの時代のニコラ・ジェンソンは最高水準のローマン体をのこしたが、その後は次第に印刷活字は衰退して、18世紀になるとついに活字はボドニ・ローマン体という、醜さの極致へといたるほどに質が落ちてしまった」

 19世紀世紀末のウィリアム・モリスらの活動がいささか個人主体の運動にとどまったのに対して、20世紀の初頭にイギリスでまたあらたな試みがなされた。かれらはモリスのようには産業主義を頭ごなしに否定することはなく、機械文明による「善き量産」を唱えてモノタイプ自動活字鋳植機などの機械的組版システムの採用と、それにあわせた金属活字全般の復刻と新刻を通じて活字と書物の改良運動に熱心に取り組んだ。その中核はスタンリー・モリスンらであって、同時にまたタイポグラフィ・ジャーナル『フラーロン』に結集したメンバーであった。かれらはモリスの慨嘆を理論化しながら実践したともいえるが、この周辺からはいまなお評価が高いタイムズ・ニュー・ローマンが誕生したし、現在のデジタル・タイプの欧文書体をみても、その過半はこの「フラーロン派」のひとびとによる新刻か改良の手を経たものだといっても過言ではないほどである。

 本書では8章「ポイント制活字の開発と機械式活字母型彫刻機」で、この活字原型製造法の変遷とダズリング・イフェクトのテーマに触れたが十分とはいえなかった。また実際には9章「秀英体、平成の大改刻へのすすめ」に関わってくる、これからもっとも大切なテーマとなる。残念ながらこのテーマはわが国近代タイポグラフィ研究のなかではほとんど看過されてきた。そのために一見資料が少なくみえる。だが19世紀中葉から20世紀初頭の欧米の専門書のなかではきわめて丹念に研究・論究されていた枢要なテーマである。それらのあらたな紹介も進めていきたいと念願している。

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 この10年間でわが国の印刷産業の出荷額は1兆円も減少して、ついに8兆円の大台を割り込むにいたった。その間さまざまなニュー・メディアが登場したし、相もかわらず巷間では「活字離れ」がささやかれている。たしかにデジタル・ネットワークの拡充、環境問題、そして工場展開の急速な国際化は、さまざまな形で印刷と出版の世界にも光と影を与えている。

 いうまでもなく、従来どおりに紙にインキを乗せるだけの印刷は漸減の傾きをみせている。それでも新情報時代といわれる時代にあっても、その情報伝達における中枢を占めるものは依然として文字であり活字である。いまや印刷は情報産業というあたらしい器を得て、さらなる飛躍への挑戦を試みる時代を迎えている。

 ここで調査したのは、その活字そのものである。活字とは情報を支える可動印刷用文字書体でもある。それはなにも金属を支持母材とするだけではない。光学式写植時代にはガラス板を支持母材としたし、現在の電子活字とは電子情報化して肉眼で捉えにくくはなったものの、その可動印刷用文字書体としての活字の本質と役割においてはなんらかわるところがない。

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 これから本格的に秀英体活字の研究報告を見ていただくことになるが、秀英体とはその誕生から100年余を経過した印刷用文字活字であり、秀英舎(製文堂)・大日本印刷が大切に守り育ててきたものであり、企業所有の貴重な資産でもある。

 それはまた同時に、庭契会などの秀英舎・大日本印刷を取り巻く協力企業や外注先企業によって外部にも拡散し、それを意識するとしないとに関わらず、いまやひとり大日本印刷にとどまらず、わが国の新聞・書物・雑誌におおきな影響を与えている社会的な資産でもある。

 この研究にあたっては大日本印刷の資料提供を含む全面的な協力があった。そこで接触した若い社員たちは、たとえどんなメディアに関わっていようとも、印刷における唯一無二の原点たる「活字と書物づくり」が大好きであることを確認できたことがなによりもうれしかった。すなわち大日本印刷の社員のたれもが、活字と書物をなによりも愛しており、とりわけ自社の活字たる秀英体に深い愛着と誇りを抱いていることを発見できたことがうれしかった。

 願わくばこの研究報告をきっかけとして、秀英体が引き続き21世紀を通じて雄々しく飛翔しつづけることができるように、平成の大改刻、すなわち「秀英体再生プロジェクト」を立ち上げ、それに挑戦してくれるとさらにうれしいのだ。





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