タグ別アーカイブ: 印刷史研究

一枚だけのカレンダー。師走です-お疲れでしょうから、森永アイスクリーム『パルム』は如何ですか

日本人の知らない「文字のはなし」 日本で使われている「文字」というコトバ 中国では「文」と「字」は別のものなのです
中国料理店で寄り道 グルメな書家 蘇軾 美味しい、美味しい、トウロンポウ 書にまつわる美味しいおはなし

平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン
【森永乳業 Daily Premium Calender 】

渋いオジサン-寺尾聡というと、わたしの世代では「ルビーの指輪」が印象的です。
その寺尾聡が TV CM に登場して「ワォ~」と叫んでいるのが森永乳業のアイスクリーム「PARM」です。「PARM」は人気商品で、累計10億本を越える販売実績があるそうです。
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森永乳業の巨大な Website のなかに、平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン
「 Daily Premium Calender 」があります。 
── タイポグラフィと活版印刷 ──
{文字とは文化と歴史の結晶 それは「知」と「技」と「美」の総合技芸} と題して、11月の毎週月曜日-木曜日[祝日はのぞく]、都合15 回にわたって、片塩と朗文堂 アダナプレス倶楽部:大石の共著のかたちで連続エッセイを担当いたしました。

なにしろコンテンツの豊富なWebsiteですし、トップ画面はすでに12月のカレンダーに切りかわっています。11月だけの連載でしたが、スタートの月曜日が祝日で、11月5日[火]からのスタートで、11月28日[木]が最終回となりました。
Websiteの常で、情報はアーカイブに収納されましたので、そこへのご案内をリンクしました。2013年11月の「 Daily Premium Calender 」をご笑覧たまわりますようお願いいたします。
パルムuu

【 目 次 】
── タイポグラフィと活版印刷 ──
{文字とは文化と歴史の結晶 それは「知」と「技」と「美」の総合技芸} 

  • 11月05日[火] 第01回 スタート 
    新しい活版造形者とともに 『VIVA!! カッパン♥』
      活版ルネサンスと
      身体性をともなった「ものづくり」の歓び 
  • 11月06日[水] 第02回
    活版印刷 水 紀行
      それは河畔の街からはじまった……
      活版印刷術と水にまつわる物語
  • 11月07日[木] 第03回
    こころを豊にする短歌講座
      贅沢短歌  本木昌造(永久 ナガヒサ)、池原 奞(シュン、香穉 カワカ)
  • 11月11日[月] 第04回
    日本近代化のパイオニア 『平野富二伝』
      近代化の影の立役者「活版印刷術」
      平野富二の生涯から明治の男の気骨を知る
  • 11月12日[火] 第05回
    日本人の知らない 「文字のはなし」
      日本で使われている「文字」というコトバ
      中国では「文」と「字」は別のものなのです。
  • 11月13日[水] 第06回
    「豚」+「柿」+「ミカン」=「諸事大吉」
      笑う門には福来たる?
      ユーモアあふれる吉祥文
  •  11月14日[木] 第07回
    ゆっくり急げ!
      イルカと錨。亀と龍。
      相反する事物の意味は?
  • 11月18日[月] 第08回
    彫られた文字  石のエクリチュール
      堅牢な石に彫られた碑文
      その軌跡をたどり、文字の歴史を知る
  • 11月19日[火] 第09回
    グルメな書家 蘇軾ソショク 中国料理店で寄り道
      美味しい、美味しい、トウロンポウ
      書にまつわる美味しいおはなし
  • 11月20日[水] 第10回
      An essay of the typography.
        ところで、タイポグラフィって何でしょう?
  • 11月21日[木] 第11回
    贅沢短歌  心を豊かにする短歌講座
      現代日本人の多くは、残念ながら
      150年以上前の書物をスラスラとは読めません。
  • 11月25日[月] 第12回
    印刷用の書体 明朝体と宋朝体《前編》
      活字書体の「明朝体」って
      中国の文字ではないの?
  • 11月26日[火] 第13回
    印刷用の書体 明朝体と宋朝体《後編》
      活字書体の「明朝体」って
      明の時代の文字ではないの?
  • 11月27日[水] 第14回
    分子生物学からみるメディア論
      DNA と活版印刷術
      実はこのふたつ、とても似ているのです
  • 11月28日[木] 第15回 最終回 
    活字よ 永遠に――――
      ウーパールーパーとサラマンダー
      活版印刷術とのふしぎな関係 

平野富二と造形-活字人にして造船家、やはり造形にはこだわりが強かったようです。

『平野展』ポスターL古谷さん肖像《『平野富二伝』古谷昌二編著、朗文堂刊 発売日が迫りました》
発売日 : 2013年11月22日[金]
書店店頭、オンラインブックショップなどでの販売は、発売開始後すこし遅れます。

《『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会、開催日が迫りました》
明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝』 考察と補遺  古谷昌二編著
刊行記念 展示・講演会
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日 時 : 2013年11月30日[土]-12月01日[日]
      11月30日[土]  展示 観覧  10:00-16:30
                  著者講演会 14:00-16:00
             12月01日[日]  展示 観覧  10:00-15:00
                 掃 苔 会   10:00-12:00
      編著者・古谷昌二氏を囲んでの懇話会、サイン会は、会期中随時開催
会 場 : 日展会館
             東京都台東区上野桜木2-4-1 電話 03-3821-0453
      JR 鶯谷駅より徒歩5分
             東京メトロ千代田線根津駅より徒歩15分
      日展会館案内図
─────────
主 催 : 平 野 家
協 力 : 朗 文 堂
             東京都新宿区新宿2-4-9 電話 03-3352-5070 
後 援 : 理想社/タイポグラフィ学会/アダナ・プレス倶楽部

《新刊発売とイベントがかさなって、いささかバタバタしております》
心地よい緊張というのでしょうか。主催者:平野家のみなさま、ご後援いただいた、理想社、タイポグラフィ学会、アダナプレス倶楽部と、それぞれ役割分担をして、大わらわでの準備作業が展開しています。
編著者の古谷昌二氏は、校正を終えたばかりだというのに、講演会のデータづくりに追われています。

平野富二。体重は100Kgをゆうに超え、人力車はふたりがかりで引いたといわれるほどの、大柄な男であった。
平野富二の写真記録(部分)。推定1885年(明治18)台紙によると印刷局にて撮影。体重は100kgをゆうに超え、ふたり乗りの人力車にひとりで乗っていたと記録されるほどの、大柄な男であった。
明治10年頃の平野富二による活版製造所の活字見本帳(部分)。「MOTOGI & HIRANO」と印刷されている。平野ホール蔵。
明治10年頃の平野富二による活版製造所の活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』(部分)。
「MOTOGI & HIRANO」と印刷され、中央部に「丸もに H」のブラックレターがみられる。平野ホール蔵。

《平野富二-活字人にして造船事業家、造形にはこだわりがあったか》
平野富二(1846-91 弘化3-明治25 行年46)は東京築地活版製造所を創立し、つづいて石川島造船所(現 IHI) を創立した明治の造形家であり、明治産業近代化のパイオニアです。
その業績にちなみ、書籍『平野富二伝』のジャケット、ならびにその関連イベントに使用した装飾罫は、「明治16年5月新製」(築地活版製造所)として、得意先に配布された装飾罫を、デジタル技法によって精緻化し、再現して使用しました。
飾り罫01uu東京築地活版製造所では明治16年5月-20年10月にかけて、これらのフライヤー状の「新製見本」を精力的に配布していました。

平野富二と東京築地活版製造所は、冊子型の活字見本帳として、1876年(明治9)に最初の活字見本帳を製作しています。この見本帳の扉ページには1876年と印刷され、英国セントブライド博物館が所蔵していましたが、現在では所在不明です。またその一部欠損本がわが国の印刷図書館に所蔵されています。

その後、翌1877年(明治10)に『BOOK OF SPESIMENS  MOTOGI & HIRANO』(推定明治10年 活版製造所 平野富二 平野ホール所蔵)を発行しています。本書は知られる限り、平野ホール所蔵書が唯一本です。同書は関東大地震のとき消火の水をかぶったとされ、いくぶん損傷がみられますが、今回の《『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会》でご覧いただけます。

1879年(明治12)には『BOOK OF SPESIMENS  MOTOGI & HIRANO』の改訂版が発行されていて、この改訂版のほうは数冊の所存が確認されています。
その後平野富二が造船業をはじめて多忙をきわめたたこともあり、しばらく冊子型活字見本帳は発行されることが無く、フライヤーのような「新製見本」を発行しつづけたようです。

この「新製見本」は『SPECIMENS OF NEW TYPES  新製見本』(明治21年2月 築地活版製造所)として再刷し、軽装の合本とされて発行されました。
『SPECIMENS OF NEW TYPES  新製見本』の表紙裏には、要旨「大型活字見本帳は目下製造中ですが、できしだいお知らせ申しあげます」とありますが、結局東京築地活版製造所の大型見本帳『活版見本』が完成したのは、大幅に遅れて、1903年(明治36)となりました。
飾り罫02uu
飾り罫01uu 《平野富二がもちいた印鑑》
印鑑uu
  平野富二は相当の文章家で、さまざまな文書をのこし、その自筆による公文書類は『平野富二伝』に際して古谷昌二氏によって紹介されました。それらの書類をみると、どうやら印鑑にもこだわりがあったようで、さまざまな印鑑を使用しています。
平野家には関東大震災と戦禍を免れたふたつの印鑑がのこされています。これらも実物を展示公開の予定です。

平野富二がもちいた印鑑二点(平野ホール所蔵)。
左) 平野富二長丸型柄付き印鑑
楕円判のT. J. HIRANO は「富二 平野  Tomiji Hirano」の「富 Tomi  二 Ji」から T. J. としたものか。初期の東京築地活版製造所では、東京を TOKIO とあらわしたものが多い。この印判の使用例は見ていない。
右) 平野富二角型琥珀製四角平型印鑑、朱肉ケースつき
四角判の「平野富二」は、朱肉入りケースともよく保存されている。使用に際しては柄がないために使いにくかったとおもわれる。

《平野富二がもちいた社章》
下図4点は『平野富二伝』第12章 明治18年の事績(p.531)に紹介された社章、商標およびマークです。

商標01商標02uu
上左) 『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(推定明治10年)にみられる築地活版所の社標で、本木昌造の個人紋章「丸も」のなかに、ブラックレターのHがみられます。ながらくもちいられ、明治17年の新聞広告にも掲載されています。
上右) 東京築地活版製造所の登録商標で、明治19年の新聞広告からみられます。
下左) 平野富二と稲木嘉助の所有船痛快丸の旗章で、明治11年に届け出ています。装飾文字のHをもちいています。
下右) 明治18年石川島平野造船所は商標を制定し、登録しています。この商標は『中外物価新報』(日経新聞の前身 明治18年7月7日)に掲載した広告にはじめて示されています。イギリス人御雇技師(アーチボルト・キングか)の発案とされ、「丸も」のなかにカッパープレート系のふとい HT が組み合わされています。
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このような著述をなした『平野富二伝』編著者:古谷昌二氏の講演会と、ここに紹介した平野家所蔵品の展示会を予定しております。
下記の情報をご覧いただき、ぜひともご参加ください。

 『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会のお知らせ

近刊『平野富二伝』古谷昌二編著 第一章 誕生から平野家再興まで -立神ドッグ建碑由来の説明板の紹介

立神ドック建碑2uu立神ドック建碑1uu写真) 三菱重工業株式会社長崎造船所 史料館提供

《三菱重工業長崎造船所にある立神ドッグ建碑由来の説明板》
長崎造船所とは、長崎県長崎市と諫早市イサハヤシにある三菱重工業の造船所・工場のことです。正式名称は三菱重工業株式会社長崎造船所。地元長崎では、もっぱら「長船 ながせん」の名で親しまれています。
ここに本格的な洋式造船所が設けられた歴史はふるく、時局下にあっては戦艦武蔵が建造され、最近では2002年に艤装中の豪華大型客船「ダイヤモンド・プリンセス」が火災をおこしたことなどでも知られます。

上掲写真は、三菱重工業長崎造船所本工場の立神通路の壁面に設置されている『建碑由来』説明板の写真です。この説明板の中央右寄りに、「立神ドック略歴」とあり、それに続いて平野富二の事績がしるされています。

「立神ドック略歴  明治三年(一八七〇)長崎製鉄所長平野富二乾ドック築工を民部省に建議、許可となり着工。同四年(一八七一)一時工事中止。明治七年(一八七四)フランス人ワンサンフロランを雇入れ築工工事再開。 明治一二年(一八七九)工事完成。(長さ一四〇米、巾三一米、深さ一〇米 当時東洋一)   (後略)  昭和四三年(一九六八)三月   三菱重工業株式会社長崎造船所」

これに補足しますと、
「慶応元年(1865)7月に立神軍艦打建所として用地造成が完了しましたが、当地における軍艦建造が取止めとなり、そのまま放置されていました。 明治2年(1869)になって、平野富二が民部省にドックの開設を建議し、民部省の認可が下りました。同年11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに着工しました。しかし明治4年(1871)4月、長崎製鉄所が工部省の所轄となるに及んで、平野富二は長崎製鉄所を退職し、工事は中止されました」[古谷昌二]

平野富二(1846-91)は長崎出身で、活字と活版印刷関連機器製造「東京築地活版製造所」と、造船・機械製造「石川島造船所」を設立したひとです。
残念ながら、東京築地活版製造所はよき後継者を得ずに1938年(昭和13)に解散にいたりましたが、造船・機械製造「石川島造船所」は隆盛をみて、こんにちでは株式会社 IHI として、三菱重工業とは競合関係にある巨大企業です。

この地におおきな造船所がつくられた歴史を簡略にしるします。
1857年(安政4年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」の建設着手。
1860年(万延元年)  「長崎製鉄所」と改称。
1861年(文久元年)  完成。
1868年(明治元年)  官営「長崎製鉄所」となる。
1871年(明治4年)  工部省所管「長崎造船局」と改称[このとき平野富二は退職]。
1879年(明治12年)  立神第一ドック完成。
1884年(明治17年)  三菱の経営となる。「長崎造船所」と改称。

あわせて平野富二(富次郎 1846-91)のこの時代の行蔵を簡略にしるしましょう。
長崎にうまれた平野富二は、この三菱重工業長崎造船所の前身、長崎製鉄所とは16歳のときから関係をもちました。まず1861年(文久元)長崎製鉄所機関方見習いに任命され、教育の一環として機械学の伝習を受けていました。このころは飽の浦に建設された長崎製鉄所の第一期工事が完成して間もないころでした。

1869年(明治2)平野富二が民部省[1869年(明治2)に設置された中央官庁。土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱った。1871年廃止されて大蔵省に吸収された]にドックの開設を建議し、民部省の認可が下りました。同年11月20日、「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工しました。しかし、1871年(明治4)4月長崎製鉄所が 工部省 の所轄となるに及んで、平野富二は退職し、工事は中止されました。

長崎製鉄所を退職したのち、1872年(明治5)7月から、本木昌造の再再の懇請により活字版印刷事業に着手し、東京に出て、1873年(明治6)から活字製造と活版印刷機器の製造「のちの東京築地活版製造所」で成功して資金をつくり、あわせて幕末に水戸藩が設けた石川島修船所の敷地を借りるかたちで、念願の造船業「石川島造船所」の事業に1876年(明治9)31歳のときに進出しました。
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造船業者や船乗りは「板子一枚下は地獄」とされ、きわめて危険な職業であることの自覚があるようです。ですからライバル企業「石川島造船所」現在の IHI の創業者「平野富二」の名を、自社の主力ドッグである立神ドックにその名を刻した、三菱重工業長崎造船所のみなさんの心意気にこころをうたれます。

上掲写真は、2001年「平野富二没後110年祭」に際して、列席された長崎造船所史料館からいただいたものです。ここは巨大工場の最奥部にあり、危険もあり、情報管理の面からも一般人の見学はゆるされていません。したがってこの写真が公開されたことはあまりないようです。
同社はまた『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)の見開きページで、「立神に巨大ドッグを 壮大な夢を抱いた平野富二、工事現場での大ゲンカ仲裁も」として、イラストと写真入りで紹介しています。
このとき平野富二は25歳という若さで、2-3,000人の労働者の指揮にあたっていました。

平野富二武士装束uu

平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職して、活版印刷の市場調査と、若干の活字販売のために上京した1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。
知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、早早に士籍を捨てた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。

建設中の立神ドッグ

開鑿中の立神ドック
本図は、横浜で発行された英字新聞「ザ・ファー・イースト」(1870年10月1日)に掲載された写真である。 和暦では明治3年9月7日となり、平野富二(富次郎)の指揮下で開始されたドック掘削開始から、ほぼ 9 ヶ月目に当たる状態を示す。 この写真は、長崎湾を前面にした掘削中のドライドックの背後にある丘の上から眺めたもので、中央右寄りにほぼ底面まで掘削されたドッグが写されている[古谷昌二]。

考察13 開鑿ニ着手 明治二年(一八六九)一一月二〇日、製鉄所頭取青木休七郎、元締役助平野富次郎、第二等機関方戸瀬昇平は、「ドック取建掛」に任命され、続いて頭取助品川藤十郎と小菅掛堺賢助も要員に加えられた。 この中で筆頭の製鉄所頭取青木休七郎は名ばかりで、実質的な責任者は平野富次郎であった。 この時の製鉄所辞令が平野家に残されている。 「平野富次郎  右ドック取建掛  申付候」[古谷昌二]。 

任命状

  平野富次郎  右ドック取建掛  申付候図 ドック取建掛の辞令
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎製鉄所の辞令である。この辞令の用紙サイズは、高さ174㎜、幅337㎜で、ここに書かれている巳十一月とは明治2年(1869)11月(和暦)であることを示している[古谷昌二]。

長崎縣権大属任免状uu 

平野富次郎の長崎縣権大属任免状 
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎縣の任免状である。 この任免状の用紙サイズは、高さ187㎜、幅519㎜である。 最終行の「長崎縣」と書いた上部に小さく、「庚午 閏十月十六日」と記されており、明治3年(1870)閏10月16日の日付であることが分かる[古谷昌二]。
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このような著述をなした『平野富二伝』編著者:古谷昌二氏の講演会と、ここに紹介した平野家所蔵品の展示会を予定しております。
下記の情報をご覧いただき、ぜひともご参加ください。

 『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会のお知らせ

平野富二、活字製造販売事業開始の広告

『崎陽 新塾餘談 初編一』の活字販売広告は
たれの企画と意図にもとづいて
急遽巻末に加えられたのか?
『平野富二伝』(古谷昌二編著)より

崎陽新塾餘談 天下泰平国家安全「崎陽 新塾活字製造所 口上」 『崎陽 新塾餘談 初編一』 壬申  明治5年2月 印刷博物館蔵

本図は新街私塾から刊行された『崎陽新塾餘談 初編一』(壬申  明治5年2 平野富二このとき26歳)の巻末に掲載された「崎陽新塾活字製造所」の活字見本(価格付き)です。
この図版はこれまではしばしば本木昌造の企画の一環として紹介され、「天下泰平国家安全」の活字見本として知られてきたものです(小生も紹介してまいりました。ここに不明をお詫び申しあげます)。

平野富二武士装束uu平野富二(富次郎)が市場調査と、若干の活字販売のために上京した1871年(明治4)撮影と推定される。
知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、早早に士籍を捨てた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。

ところが本木昌造は、このころはすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治4)6-7月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二(富次郎 25歳)に、「長崎新塾活字鋳造所」への入所を再再懇請して、ついに同年7月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所しました。
これ以後、すなわち1871年(明治4)7月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡しています。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放することはなく、「新街私塾」一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていました。そのことは、『大阪印刷界 第32号 本木号』(大阪印刷界社明治45年)、『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年)などの諸記録にみるところです。

苦難にあえでいた「崎陽新塾活字製造所」の経営を継承した平野富二は、従来の本木昌造時代の経営を大幅かつ急速に刷新しました。また本木の方針による「活字を一手に占有」することはなく、ひろく活字を販売し、活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとしました。
そのために平野は『崎陽 新塾餘談 初編一』の巻末に、「販売を目的とする価格付きの活字見本」を急遽印刷させ、ひろく活字を需用者に販売することにしたものとみられます。

その最初の行動が、この活字見本(価格付き)であったことの指摘が、『平野富二伝』(古谷昌二編著 朗文堂近刊 p.137)でなされました。これはタイポグラファとしてはまことに刮目すべき指摘といえるでしょう。
掲載誌が、新街私塾の『崎陽 新塾餘談 初編一』であり、販売所として長崎(崎陽)の二ヶ所だけが記載されているために、その効果は限定的だったとみられますが、これが平野富二のその後の事業展開の最大のモデルとなったとみられる、貴重な資料であることの再評価がもとめられます。

この年平野富二は27歳。本格的な活字製造事業を開始し、同時に東京への進出に備えて、あらかじめ1872年(明治5)8月14日付けの『横浜毎日新聞』に、陽其二らによる同根企業の横浜活版社を通じて同種の広告を出しています。
10月には新妻・古まほか社員10名をともなって上京して、ただちに同年10月発行の『新聞雑誌』(第六十六號 本体は木版印刷)に同種の活字目録を活字版印刷による附録とし、活字の販売拡大に努めています。

この壬申 明治5年とは、わが国の活字が、平野富二の手によって、はじめてひろく公開され、販売が開始された記念すべき年であったことが、本資料の再評価からあきらかになりました。 
これからは時間軸を整理し、視点を変えて再検討と再評価をすべき貴重な資料といえるでしょう。
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このような著述をなした『平野富二伝』編著者:古谷昌二氏の講演会と、平野家所蔵品の展示会を予定しております。
下記の情報をご覧いただき、ぜひともご参加ください。

 『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会のお知らせ

【近刊紹介】『平野富二伝』古谷昌二編著

【本書の発売日が決定いたしました!】
朗文堂近刊書、古谷昌二編著『平野富二伝』には、多くの皆さまがご関心を寄せられ、発売日、関連イベントに関するお問い合わせをたくさん頂戴いたしました。ありがとうございました。

発売日  2013年11月22日[金]

『平野富二伝』刊行記念・展示・講演会のお知らせ 
関連情報は、上記をクリックしていただきますと該当ページがひらきます。

 

書店店頭、オンラインブックショップなどでの販売は、発売開始後すこし遅れます。
一刻も早く、連休中にもお読みになりたいというかたは、ご面倒でも小社にご来社いただき直接ご購入いただくか、朗文堂ブックコスミイク robundo@ops.dti.ne.jp まで事前にご注文ください。
ご送付のばあいでも 11月22日[金]まで のご注文にかぎり、送料を小社負担でおもとめいただけます。ご注文をお待ちしております。

平野表紙uu平野富二伝 考察と補遺 DM表平野富二伝 考察と補遺 DM裏[明治産業近代化のパイオニア 平野富二伝 考察と補遺 DM PDF]

明治産業近代化のパイオニア平野富二伝 考察と補遺
古谷昌二 編著
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発行:朗 文 堂
A4判、ソフトカバー、864ページ
図版多数
定価:12,000円[税別]
発売:2013年11月22日
ISBN978-4-947613-88-2 C1023

 ──────── 編著者プロフィール
古 谷  昌 二   ふるや しょうじ
古谷さん肖像

昭和10年(1935)、東京都に生まれる。
昭和33年(1958)、早稲田大学第一理工学部機械工学科を卒業。
同年、石川島重工業株式会社(現、株式会社IHI)に入社。
製鉄設備を初めとして、産業機械分野の設計、開発、技術管理、新機種営業部門を歴任。
平成7年(1995)、定年退職に際し、その後の一つのテーマとして平野富二の事績調査に取り組み、IHI OBを中心とした社史研究会「平野会」の設立と運営に協力。
日本機械学会正会員。

雑誌投稿:
「IHI 高圧高炉用炉頂装置の概要」
共著(『石川島播磨技報』、第7巻、第34号、昭和42年3月)
「大形高炉設備の設計」
(『石川島播磨技報』、別冊2、昭和44年8月)
「石川島のダラーイドック」
(『佃島物語』、その十五、平成7年10月)
「平野富二の師 本木昌造」
(『佃島物語』、その二三、平成12年5月)
平野会資料:
「旭日丸事績」を初め、幕末から明治初期の石川島に関する資料、平野富二に関するテーマ別に纏めた資料など多数を執筆し会員に配布。IHI本社図書室に保管。

──────── 著者まえがきより抜粋
本書は、明治前期の活字版印刷術の黎明期に活躍し、ついで、造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発など、わが国近代産業技術のパイオニアとしておおきな業績をのこした平野富二に関して、これまで一般にはあまり知られていなかった産業人としての事績を発掘して、その全貌を紹介し再認識してもらうことを目的とする。
同時に、明治前期の工業界をリードした、技術系経営者としての平野富二の事績紹介が、そのままわが国近代の産業技術発達史の一断面をなすものである。

──────── 目 次
第 一章 誕生から平野家再興まで
第 二章 土佐藩機械方就任と長崎製鉄所復帰
第 三章 長崎新塾活版所入社と経営改革
第 四章 東京への進出
第 五章 築地への移転と本木昌造との死別
第 六章 築地活版所の拡張と造船業への進出
第 七章 石川島造船所の操業開始
第 八章 活字改良、海運業進出と地方事業の展開
第 九章 明治一四・一五年の事績
第一〇章 明治一六年の事績
第一一章 明治一七年の事績
第一二章 明治一八年の事績
第一三章 明治一九年の事績
第一四章 明治二〇年の事績
第一五章 明治二一年の事績
第一六章 明治二二年の事績
第一七章 明治二三年の事績
第一八章 明治二四年の事績
第一九章 明治二五年の事績
第二〇章 没後の記録
平野富二年譜
平野富二没後の記録年表

──────── 著者あとがきより抜粋
明治前期に花開いた文明開化で、一般民衆が身近に実感したであろうものは数多くあるが、その中でも代表的なものは、新聞の普及による情報革命と、小形蒸気船による輸送革命であろう。
新聞は良質な活字と高性能な印刷機の出現によって、最新の情報が迅速に広く民間に届けられるようになった。
小形蒸気船は蒸気を動力として、多量の物資や乗客を、一時に短時間で、しかも安全に運送する乗り物として民間に親しまれた。

この活字と印刷機と、小形蒸気船に代表される製品を製造し、普及させたのが平野富二である。その根底となる技術はいずれも西欧先進国に学んだものであるが、それらをわが国で初めて国産化し、高性能で堅牢な製品として世の中に普及させた。

その他の分野でも、平野富二は民間人として「我国で最初に国産化した製品」を数多く生み出している。
例えば、蒸気暖房装置、演技場の大形石油ランプ、製糸動力用ボイラ・蒸気機関、鉱山用各種機械、水力発電用ペルトン水車、凌雲閣のエレベーター、吾妻橋に代表される大形橋梁などである。
一等砲艦鳥海も民間造船所で初めて建造された軍艦である。
近代化の象徴である鉄道建設や水道布設などにおいても、ドコビール式軽便レールを導入して、画期的工法で土地造成工事を行なった。

それらの製品を生み出し、工事を実施する過程においても、活字の多品種・大量生産を実現させ、現代に通じる品質管理、公害を配慮した工場移転、徒弟教育の実施、職工の生命保険付保など、時代を先駆ける先端的経営を行なった。

その意味で、平野富二をわが国産業近代化のパイオニアの一人として位置付けることができる。まさに福地桜痴の言う「明治工業史の人」である。

平野富二の生涯は苦労と失敗の連続であった。通常の伝記では成功談の羅列で終始するが、平野富二の場合は失敗談なくしてその人の生涯を語ることはできない。
平野富二の前半生の履歴をまとめ上げた福地桜痴や、全生涯を記録した『本木昌造 平野富二 詳伝』の編著者である三谷幸吉は、失敗談については敢えて触れることなく、意識的にこれを避けている。

平野富二は、恩師本木昌造の苦境に陥った活版印刷事業をたまたま引き受け、事業として成功に導いた。その結果得られた資金を活用して、念願の造船事業に進出することができた。
しかし、民間事業こそがわが国将来の発展に寄与するものであるとの信念から、敢えて政財界と結託することを嫌って一定の距離をおいていた。そのため、多額の資金を要する造船事業では再三に亘り政府に融資依頼を行なったが、いずれも不成功に終わっている。渋沢栄一の理解と協力で株式組織に変更するまでは、資金難の連続であった。

本書では、平野富二が取り組んだ事業の中でも不成功に終わった事例を数多くとりあげた。造船関係では兵庫造船所の借用、鉄道関係では利根川・江戸川連絡鉄道計画、甲信鉄道計画とその関連の江の浦軽便鉄道計画、築港関係では江の浦築港計画、土木関係では横須賀吾妻山掘割工事、鉱山関係では能美鉱業所の経営受託である。
しかし、不成功となったその後の経緯までをたどって見ると、単に失敗に終わらせず、その経験を少しでも世の中のために有効に生かす意志と努力を酌み取ることができる。

最大の失敗といえば、若い頃から持病を抱えながらもわが身を顧みず事業に没頭した結果、脳溢血で病床に就くこと三度、それが原因で折角育てあげた事業を途中で整理せざるを得なくなったことであろう。
その後は摂生に努めたが、国家に貢献する事業への信念から肉体の健康を疎かにし、それが原因で未だ前途のある生涯を四七歳の若さで終えたことである。

定年まで人生の一番大切な時期を過ごさせて頂いた会社の創業者である平野富二について、なぜ長崎の人が東京の石川島で個人経営の造船所を創業したのかという疑問に始まり、その人物と事績をもっと知らなければならないと思っていた。
それを定年後の取り組みの一つとして定め、本格的な資料調査を開始したのは既に十数年前になる。当初は、それほど多くの資料は存在しないだろうと予測し、二、三年で纏められると思っていた。平野富二に関する資料は、関東大震災、その後の戦災と戦後の混乱でほとんどの歴史資料を失ってしまったと見られていたからである。

当初は、平野富二に関する纏まった伝記資料としては、三谷幸吉の『詳伝』が唯一のものであった。それを手掛かりにして、資料収集を開始すると、断片的ではあるが次々と新しい資料を見出すことができた。

平野富二は、長崎奉行所とそれに関連する長崎製鉄所に勤務していた関係で、その役職履歴から勤務に関する多くの文書が長崎県に残されている。
東京に出てきてからは、事業の関係で役所に提出した文書が東京都公文書館に数多く保管され、また、横浜製鉄所や石川島造船所に関しては国立公文書館と防衛研究所図書館に多くの関連する文書が保管されており、近年、アジア歴史資料センターからインターネットで検索・閲覧できるようになった。
早稲田大学図書館に保管されている「大隈文書」にも平野富二直筆の願書等が残されていることが判った。

株式会社IHIの元専務取締役高松昇氏は残念ながらすでに故人となられたが、同氏とは十数年来、平野富二の研究でお互いに協力しあう関係にあり、お教え頂くことが多かった。相談の上、『長崎市史』に掲載されていた平野富二碑の碑文をもとに、その石碑の所在確認と、先祖の菩提寺に残されているとみられる記録を平野家に調査してもらうこととした。これが縁で平野家の方々と面識を得ることができた。

丁度その頃、祖先の遺品を整理されていた平野義和氏とその子息正一氏によって多数の資料が見出され、活版印刷関係の資料についてはその分野の研究をされている、朗文堂の片塩二朗氏と印刷史研究家板倉雅宣氏に伝えられた。平野家からは貴重な資料閲覧と写真撮影をさせていただき、特に正一氏からは独自に調査された貴重な資料のコピーを提供して頂いた。
また、片塩二朗氏と板倉雅宣氏からは平野富二が印刷分野で高く評価されていることを教えて頂き、御著作を初め多くの資料を提供して頂いた。

平野富二の資料収集を期に、高松昇氏の主宰により株式会社IHIのOBを主体とした「平野会」が結成された。社史に関連する資料の収集と資料管理を後援することを目的としたもので、その会員はIHIの歴史に関心を持つ各専門分野を経験された方々であった。この「平野会」は、所期の目的を達成して解散したが、多くの資料を調査・収集することができた。

二〇〇二年に朗文堂から片塩二朗著「富二奔る」(『ヴィネット08』)が、二〇〇六年に印刷朝陽会から板倉雅宣著『活版印刷史』が、さらに、二〇〇九年に株式会社IHIから高松昇著『平野富二の生涯』(非売品)が刊行された。
これらの動向により、平野富二に縁故のある関係者の子孫の方々が現れ、貴重な情報・資料の提供をうけることができた。

本書は高松昇氏の御著書を補う形で、広く一般読者や研究者に読んで頂くために纏めたもので、以上に述べた多くの機関や個人の方々から提供をうけた貴重な資料を利用させて頂いた。いちいちお名前を記すことを控えさせて頂くが、この場を借りて心から御礼申し上げる。

平成二五年八月
石川島造船所創業一六〇年、平野富二没後一二〇年を経過した歳に当たって                                                              古谷 昌二