タグ別アーカイブ: 機械製造

【ご報告】『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会

平野表紙uu

明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝 考察と補遺』
古谷昌二 編著
────────
A 4 判 ソフトカバー 864ページ
図版多数
発 行 : 朗 文 堂
定 価 : 12,000円[税別]
発 売 : 2013年11月22日
ISBN978-4-947613-88-2 C1023
平野展ポスターuu明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝』 考察と補遺  古谷昌二編著
刊行記念 展示・講演会
─────────
日 時 : 2013年11月30日[土]-12月01日[日]
      11月30日[土]  展示 観覧  10:00-16:30
                     著者講演会 14:00-16:00
            12月01日[日]   展示 観覧  10:00-15:00
                     掃 苔 会   10:00-12:00
      編著者・古谷昌二氏を囲んでの懇話会、サイン会は、会期中随時開催
会 場 : 日展会館
─────────
主 催 : 平 野 家
協 力 : 朗 文 堂
後 援 : 理想社/タイポグラフィ学会/アダナ・プレス倶楽部
【詳細報告は 朗文堂花筏 にてご報告いたします】

古谷昌二氏講演2 _MG_0547uu _MG_0566uu _MG_0573uu_MG_0579uu展示3_MG_0365uu_MG_0418uu

【TV番組紹介】黒船からロケットへ! ~世界初技術への挑戦~

BSジャパン
http://www.bs-j.co.jp/program/detail/22910_201312071600.html

黒船からロケットへ! ~世界初技術への挑戦~
BS JAPAN 12月7日[土] 午後4:00-4:55

黒船来航を機に「黒船と肩を並べる船を建造したい」奮起した日本人がいた。平野富二。
ペリー来航の1853年に石川島造船所を設立。現在の国内ロケット技術の基礎である。
通運丸全体通運丸模型上掲写真は、石川島平野造船所で最初期に建造された外輪式の蒸気船「通運丸」シリーズの簡易模型です(物流博物館でキットを販売。松尾篤史氏製作)。

2013年9月、日本は宇宙開発事業において大きな一歩を踏み出した。イプシロンロケットの打ち上げ成功である。
様々な新技術によって、これまでの半分ほどの費用で打ち上げが可能になり、今後新興国を中心に受注に向けた動きが活発化すると見られている。
歴史的とも言われるイプシロンロケットに生かされていたのが、実は造船で知られるIHI(旧石川島播磨造船所)の技術であった。
番組では、その秘密の数々を解き明かす。
────────────────
株式会社 IHI (旧石川島播磨造船所)の淵源は、BSジャパンの紹介のとおり、1853年(嘉永6)アメリカ使節ペリーの来航を契機に、徳川幕府が水戸藩に大型洋式帆船を建造させるために、隅田川河口にある石川島の地に造船所の開設を命じたものでした。ですから株式会社 IHI は、本年をもって記念すべき創業160年とされています。
この年には平野富二はまだ8歳の幼さで、長崎で学問をつづけていたときです。

幕末からつづいた石川島造船所は、幾多の変遷をへて、石川島修船所と石川島造兵所となり、1876年(明治9)8月31日主船寮が廃止され、内局に主船局が新設されたのにともない、旧石川島修船所の在品は、新設された海軍省主船局に所属する横須賀造船所に引き継がれ、石川島にのこされたのは、ドックとわずかな装置と建物だけになっっていました。

そんなうち捨てられようとしていた施設を、平野富二は1876年(明治9)6月14日「拝借の儀を出願」し、海軍省から9月19日に許されています[株式会社 IHI 沿革・あゆみ]。
このとき平野富二は弱冠31歳、活字と活版印刷関連機器の製造、東京築地活版製造所の運営がほぼ軌道に乗り、意欲満満、素志たる造船業に進出したことになります。[参照:『平野富二伝』古谷昌二、第六章-三 築地活版製造所の拡張と造船業への進出 p.200-]

BS JAPAN 【黒船からロケットへ! ~世界初技術への挑戦~】の番組は、12月1日に放映され、今回が再放送です。前回はイベントの最中で見逃しましたが、友人から再放送の情報をいただきました。
技術産業を背景としてのタイポグラフィを考えるのには、よい機会かとおもわれます。直前のご案内となって恐縮ですが、皆さまのご鑑賞をお勧めいたします。

『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会終了いたしました。

《両日とも好天に恵まれ、多くの皆さまにご来場いただきました》
2013年11月30日[土]、12月01日[日]の両日にわたって開催された『明治産業近代化のパイオニア――平野富二伝』刊行記念展示・講演会(主催 平野家、協力:朗文堂、後援:理想社・タイポグラフィ学会・アダナプレス倶楽部)は、多くのご来場者をお迎えして無事に終了いたしました。
ご来場いただきました皆さま、ご協力いただきました皆皆さまのご尽力にふかく感謝いたします。
────────────────
『平野富二伝』著者:古谷昌二氏の講演会は、用意した椅子席がたりなくなるほどの盛況で、講師:古谷さんによって諄諄と説かれていく、明治産業近代化に果たした平野富二の功績の大きさに、ご来場者もあらためて驚かれたというご感想がたくさん寄せられました。

またはじめてひろく公開された平野家所蔵品は、平野富二の逝去後、関東大震災、戦禍などの大きな災禍のなかでも、平野家一門によってたいせつに守りぬかれてきた品品でした。これらの一次資料の数数に、皆さまは熱心にみいっておられました。

『平野富二伝』著者・古谷昌二氏と実兄・古谷圭一氏

『平野富二伝』会場入口 岡田c 『平野富二伝』会場 講演前 『平野富二伝』会場2 岡田C 『平野富二伝』福地・西郷 岡田cご後援いただきました タイポグラフィ学会 は、本木昌造賞平野富二賞 の両賞をもうけており、
「平野富二賞は、タイポグラフィの普及発展に著しく功績のあった個人及び団体に対するもので、その対象者は社会へのタイポグラフィの認識を高める行動及び啓蒙などにおいて、その事績が本学会にとどまらず、広く社会に貢献していると認められるものです」
としており、両賞関連資料の展示と、その活動報告をされました。

理想社 は、今回の展示・講演会にさいし、相当量作製されたパネル類の製作に協力いただき、また搬出入にもご協力いただきました。
平野富二自作短歌【動画:YouTube 3:41 活版印刷〈公版書籍印刷と端物印刷〉端物印刷 Adana-21J 】

アダナプレス倶楽部 は、いつものように「活版オジサン」(明治36年版『活版見本』東京築地活版製造所所収、電気版・ボーダーを使用)を掲げての参加でした。
今回は、平野家にのこされた池原奞(シュン、香穉カワカ)の画幅・書軸・短冊がきわめて多く、平野富二と池原奞シュンが相当親密な関係にあったとみられることにひそみ、本木昌造活字復元プロジェクトで再生した、いわゆる「和様三号活字」をもちいて、平野富二の明治20年自作短歌、
「世の中を 空吹く風に 任せ置き  事を成す身は 國と身のため」
の活字組版を用意し、小型活版印刷機 Adana-21J によってご来場者ご自身での印刷体験をしていただきました。
────────────────
《掃苔会と、通運丸。雑司ヶ谷ダラーイ船渠での進水式》
会場となった日展会館の近くには「谷中霊園」があります。ここには平野富二の巨大な顕彰碑と塋域エイイキがあり、その友人・知人、明治産業近代化に貢献されたひとびとの墓地もたくさんあります。
今回は『平野富二伝』に紹介された、石川島造船所関係のかたがたの資料も多数加わり、また幸いなことに、好天にめぐまれ、平野家ご長老の参加をふくめ、とても意義深い「掃苔会」となりました。

また展示には平野富二設立「石川島平野造船所」に源流を発する企業「株式会社 IHI 」のご協力もいただきました。
そこで展示の一環として「石川島資料館」にある、石川島平野造船所で最初に建造された、外輪式の蒸気船「通運丸」60トンなどの模型を拝借しようとしたところ、模型とはいえやはり活字とちがってそこは船で、とても気軽に移動するわけにはいかず、急遽紙製のちいさな模型を製作・展示することにしました。
通運丸模型 通運丸全体
平野富二の業績のうち、活字製造と活版印刷機器製造の分野には、インキ(英:インク)、ピンセット(英:ツィーザー)などの、オランダ語由来のことばがのこります。
もうひとつの造船・機械製造業の分野でも、やはり江戸期長崎出島からの情報発信のなごりがみられ、ふるい文献には「ダラーイ船渠」などとしるされています。
これは英語ではドライドック、現在でも造船界では乾式船渠ともされるようです。
今回の通運丸製作は、豊島区のマンションの一室「雑司ヶ谷ダラーイ船渠」で進水し、会場で艤装(爪楊枝についた旗2本を艦首と艦尾にさしただけですが)されて、無事に展示されました。

もうすこし整理がすすみましたら、今回の詳細報告の舞台を 《タイポグラフィ・ブログロール 花筏》 に移して順次ご報告いたします。
『平野展』ポスターL明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝』 考察と補遺  古谷昌二編著
刊行記念 展示・講演会
─────────
日 時 : 2013年11月30日[土]-12月01日[日]
      11月30日[土] 展示 観覧  10:00-16:30
                  著者講演会 14:00-16:00
             12月01日[日]  展示 観覧  10:00-15:00
                 掃 苔 会   10:00-12:00
      編著者・古谷昌二氏を囲んでの懇話会、サイン会は、会期中随時開催
会 場 : 日展会館
─────────
主 催 : 平 野 家
協 力 : 朗 文 堂 
後 援 : 理想社/タイポグラフィ学会/アダナ・プレス倶楽部

【イベント開催趣旨】
平野富二没後120年、平野活版製造所(のちの東京築地活版製造所)設立140年、石川島造船所(のちの石川島平野造船所・現 IHI)創業160年という記念すべき年にあたり、古谷昌二氏編著『平野富二伝』が刊行されました。

本展示講演会は『平野富二伝』に詳細にしるされた、明治前期の活字版印刷術の黎明期に、活字製造、活版印刷機器製造ならびに技術基盤の確立に活躍し、ついで、造船、機械製造、土木工事、鉄道敷設、水運開発、鉱山開発など、わが国近代産業技術のパイオニアとして、おおきな業績をのこした平野富二(1846-92)に関して、これまで一般にはあまり知られていなかった事績を発掘し、その全貌を紹介し、再認識していただくことを目的とします。

同時に、明治前期の工業界をリードした、技術系経営者としての平野富二の多彩な事績の紹介が、そのままわが国近代の産業技術発達史の一断面をなすものであるとの認識のもとに、関東大震災や第二次世界大戦の戦禍を乗りこえ、平野家に継承されてきた貴重な資料を中心に、本格的にははじめて資料を整理・展示し、《明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二像》を描きだすものです。

『平野展』フライヤー

平野富二と造形-活字人にして造船家、やはり造形にはこだわりが強かったようです。

『平野展』ポスターL古谷さん肖像《『平野富二伝』古谷昌二編著、朗文堂刊 発売日が迫りました》
発売日 : 2013年11月22日[金]
書店店頭、オンラインブックショップなどでの販売は、発売開始後すこし遅れます。

《『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会、開催日が迫りました》
明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝』 考察と補遺  古谷昌二編著
刊行記念 展示・講演会
─────────
日 時 : 2013年11月30日[土]-12月01日[日]
      11月30日[土]  展示 観覧  10:00-16:30
                  著者講演会 14:00-16:00
             12月01日[日]  展示 観覧  10:00-15:00
                 掃 苔 会   10:00-12:00
      編著者・古谷昌二氏を囲んでの懇話会、サイン会は、会期中随時開催
会 場 : 日展会館
             東京都台東区上野桜木2-4-1 電話 03-3821-0453
      JR 鶯谷駅より徒歩5分
             東京メトロ千代田線根津駅より徒歩15分
      日展会館案内図
─────────
主 催 : 平 野 家
協 力 : 朗 文 堂
             東京都新宿区新宿2-4-9 電話 03-3352-5070 
後 援 : 理想社/タイポグラフィ学会/アダナ・プレス倶楽部

《新刊発売とイベントがかさなって、いささかバタバタしております》
心地よい緊張というのでしょうか。主催者:平野家のみなさま、ご後援いただいた、理想社、タイポグラフィ学会、アダナプレス倶楽部と、それぞれ役割分担をして、大わらわでの準備作業が展開しています。
編著者の古谷昌二氏は、校正を終えたばかりだというのに、講演会のデータづくりに追われています。

平野富二。体重は100Kgをゆうに超え、人力車はふたりがかりで引いたといわれるほどの、大柄な男であった。
平野富二の写真記録(部分)。推定1885年(明治18)台紙によると印刷局にて撮影。体重は100kgをゆうに超え、ふたり乗りの人力車にひとりで乗っていたと記録されるほどの、大柄な男であった。
明治10年頃の平野富二による活版製造所の活字見本帳(部分)。「MOTOGI & HIRANO」と印刷されている。平野ホール蔵。
明治10年頃の平野富二による活版製造所の活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』(部分)。
「MOTOGI & HIRANO」と印刷され、中央部に「丸もに H」のブラックレターがみられる。平野ホール蔵。

《平野富二-活字人にして造船事業家、造形にはこだわりがあったか》
平野富二(1846-91 弘化3-明治25 行年46)は東京築地活版製造所を創立し、つづいて石川島造船所(現 IHI) を創立した明治の造形家であり、明治産業近代化のパイオニアです。
その業績にちなみ、書籍『平野富二伝』のジャケット、ならびにその関連イベントに使用した装飾罫は、「明治16年5月新製」(築地活版製造所)として、得意先に配布された装飾罫を、デジタル技法によって精緻化し、再現して使用しました。
飾り罫01uu東京築地活版製造所では明治16年5月-20年10月にかけて、これらのフライヤー状の「新製見本」を精力的に配布していました。

平野富二と東京築地活版製造所は、冊子型の活字見本帳として、1876年(明治9)に最初の活字見本帳を製作しています。この見本帳の扉ページには1876年と印刷され、英国セントブライド博物館が所蔵していましたが、現在では所在不明です。またその一部欠損本がわが国の印刷図書館に所蔵されています。

その後、翌1877年(明治10)に『BOOK OF SPESIMENS  MOTOGI & HIRANO』(推定明治10年 活版製造所 平野富二 平野ホール所蔵)を発行しています。本書は知られる限り、平野ホール所蔵書が唯一本です。同書は関東大地震のとき消火の水をかぶったとされ、いくぶん損傷がみられますが、今回の《『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会》でご覧いただけます。

1879年(明治12)には『BOOK OF SPESIMENS  MOTOGI & HIRANO』の改訂版が発行されていて、この改訂版のほうは数冊の所存が確認されています。
その後平野富二が造船業をはじめて多忙をきわめたたこともあり、しばらく冊子型活字見本帳は発行されることが無く、フライヤーのような「新製見本」を発行しつづけたようです。

この「新製見本」は『SPECIMENS OF NEW TYPES  新製見本』(明治21年2月 築地活版製造所)として再刷し、軽装の合本とされて発行されました。
『SPECIMENS OF NEW TYPES  新製見本』の表紙裏には、要旨「大型活字見本帳は目下製造中ですが、できしだいお知らせ申しあげます」とありますが、結局東京築地活版製造所の大型見本帳『活版見本』が完成したのは、大幅に遅れて、1903年(明治36)となりました。
飾り罫02uu
飾り罫01uu 《平野富二がもちいた印鑑》
印鑑uu
  平野富二は相当の文章家で、さまざまな文書をのこし、その自筆による公文書類は『平野富二伝』に際して古谷昌二氏によって紹介されました。それらの書類をみると、どうやら印鑑にもこだわりがあったようで、さまざまな印鑑を使用しています。
平野家には関東大震災と戦禍を免れたふたつの印鑑がのこされています。これらも実物を展示公開の予定です。

平野富二がもちいた印鑑二点(平野ホール所蔵)。
左) 平野富二長丸型柄付き印鑑
楕円判のT. J. HIRANO は「富二 平野  Tomiji Hirano」の「富 Tomi  二 Ji」から T. J. としたものか。初期の東京築地活版製造所では、東京を TOKIO とあらわしたものが多い。この印判の使用例は見ていない。
右) 平野富二角型琥珀製四角平型印鑑、朱肉ケースつき
四角判の「平野富二」は、朱肉入りケースともよく保存されている。使用に際しては柄がないために使いにくかったとおもわれる。

《平野富二がもちいた社章》
下図4点は『平野富二伝』第12章 明治18年の事績(p.531)に紹介された社章、商標およびマークです。

商標01商標02uu
上左) 『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(推定明治10年)にみられる築地活版所の社標で、本木昌造の個人紋章「丸も」のなかに、ブラックレターのHがみられます。ながらくもちいられ、明治17年の新聞広告にも掲載されています。
上右) 東京築地活版製造所の登録商標で、明治19年の新聞広告からみられます。
下左) 平野富二と稲木嘉助の所有船痛快丸の旗章で、明治11年に届け出ています。装飾文字のHをもちいています。
下右) 明治18年石川島平野造船所は商標を制定し、登録しています。この商標は『中外物価新報』(日経新聞の前身 明治18年7月7日)に掲載した広告にはじめて示されています。イギリス人御雇技師(アーチボルト・キングか)の発案とされ、「丸も」のなかにカッパープレート系のふとい HT が組み合わされています。
──────────
このような著述をなした『平野富二伝』編著者:古谷昌二氏の講演会と、ここに紹介した平野家所蔵品の展示会を予定しております。
下記の情報をご覧いただき、ぜひともご参加ください。

 『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会のお知らせ

【近刊紹介】『平野富二伝』古谷昌二編著

【本書の発売日が決定いたしました!】
朗文堂近刊書、古谷昌二編著『平野富二伝』には、多くの皆さまがご関心を寄せられ、発売日、関連イベントに関するお問い合わせをたくさん頂戴いたしました。ありがとうございました。

発売日  2013年11月22日[金]

『平野富二伝』刊行記念・展示・講演会のお知らせ 
関連情報は、上記をクリックしていただきますと該当ページがひらきます。

 

書店店頭、オンラインブックショップなどでの販売は、発売開始後すこし遅れます。
一刻も早く、連休中にもお読みになりたいというかたは、ご面倒でも小社にご来社いただき直接ご購入いただくか、朗文堂ブックコスミイク robundo@ops.dti.ne.jp まで事前にご注文ください。
ご送付のばあいでも 11月22日[金]まで のご注文にかぎり、送料を小社負担でおもとめいただけます。ご注文をお待ちしております。

平野表紙uu平野富二伝 考察と補遺 DM表平野富二伝 考察と補遺 DM裏[明治産業近代化のパイオニア 平野富二伝 考察と補遺 DM PDF]

明治産業近代化のパイオニア平野富二伝 考察と補遺
古谷昌二 編著
────
発行:朗 文 堂
A4判、ソフトカバー、864ページ
図版多数
定価:12,000円[税別]
発売:2013年11月22日
ISBN978-4-947613-88-2 C1023

 ──────── 編著者プロフィール
古 谷  昌 二   ふるや しょうじ
古谷さん肖像

昭和10年(1935)、東京都に生まれる。
昭和33年(1958)、早稲田大学第一理工学部機械工学科を卒業。
同年、石川島重工業株式会社(現、株式会社IHI)に入社。
製鉄設備を初めとして、産業機械分野の設計、開発、技術管理、新機種営業部門を歴任。
平成7年(1995)、定年退職に際し、その後の一つのテーマとして平野富二の事績調査に取り組み、IHI OBを中心とした社史研究会「平野会」の設立と運営に協力。
日本機械学会正会員。

雑誌投稿:
「IHI 高圧高炉用炉頂装置の概要」
共著(『石川島播磨技報』、第7巻、第34号、昭和42年3月)
「大形高炉設備の設計」
(『石川島播磨技報』、別冊2、昭和44年8月)
「石川島のダラーイドック」
(『佃島物語』、その十五、平成7年10月)
「平野富二の師 本木昌造」
(『佃島物語』、その二三、平成12年5月)
平野会資料:
「旭日丸事績」を初め、幕末から明治初期の石川島に関する資料、平野富二に関するテーマ別に纏めた資料など多数を執筆し会員に配布。IHI本社図書室に保管。

──────── 著者まえがきより抜粋
本書は、明治前期の活字版印刷術の黎明期に活躍し、ついで、造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発など、わが国近代産業技術のパイオニアとしておおきな業績をのこした平野富二に関して、これまで一般にはあまり知られていなかった産業人としての事績を発掘して、その全貌を紹介し再認識してもらうことを目的とする。
同時に、明治前期の工業界をリードした、技術系経営者としての平野富二の事績紹介が、そのままわが国近代の産業技術発達史の一断面をなすものである。

──────── 目 次
第 一章 誕生から平野家再興まで
第 二章 土佐藩機械方就任と長崎製鉄所復帰
第 三章 長崎新塾活版所入社と経営改革
第 四章 東京への進出
第 五章 築地への移転と本木昌造との死別
第 六章 築地活版所の拡張と造船業への進出
第 七章 石川島造船所の操業開始
第 八章 活字改良、海運業進出と地方事業の展開
第 九章 明治一四・一五年の事績
第一〇章 明治一六年の事績
第一一章 明治一七年の事績
第一二章 明治一八年の事績
第一三章 明治一九年の事績
第一四章 明治二〇年の事績
第一五章 明治二一年の事績
第一六章 明治二二年の事績
第一七章 明治二三年の事績
第一八章 明治二四年の事績
第一九章 明治二五年の事績
第二〇章 没後の記録
平野富二年譜
平野富二没後の記録年表

──────── 著者あとがきより抜粋
明治前期に花開いた文明開化で、一般民衆が身近に実感したであろうものは数多くあるが、その中でも代表的なものは、新聞の普及による情報革命と、小形蒸気船による輸送革命であろう。
新聞は良質な活字と高性能な印刷機の出現によって、最新の情報が迅速に広く民間に届けられるようになった。
小形蒸気船は蒸気を動力として、多量の物資や乗客を、一時に短時間で、しかも安全に運送する乗り物として民間に親しまれた。

この活字と印刷機と、小形蒸気船に代表される製品を製造し、普及させたのが平野富二である。その根底となる技術はいずれも西欧先進国に学んだものであるが、それらをわが国で初めて国産化し、高性能で堅牢な製品として世の中に普及させた。

その他の分野でも、平野富二は民間人として「我国で最初に国産化した製品」を数多く生み出している。
例えば、蒸気暖房装置、演技場の大形石油ランプ、製糸動力用ボイラ・蒸気機関、鉱山用各種機械、水力発電用ペルトン水車、凌雲閣のエレベーター、吾妻橋に代表される大形橋梁などである。
一等砲艦鳥海も民間造船所で初めて建造された軍艦である。
近代化の象徴である鉄道建設や水道布設などにおいても、ドコビール式軽便レールを導入して、画期的工法で土地造成工事を行なった。

それらの製品を生み出し、工事を実施する過程においても、活字の多品種・大量生産を実現させ、現代に通じる品質管理、公害を配慮した工場移転、徒弟教育の実施、職工の生命保険付保など、時代を先駆ける先端的経営を行なった。

その意味で、平野富二をわが国産業近代化のパイオニアの一人として位置付けることができる。まさに福地桜痴の言う「明治工業史の人」である。

平野富二の生涯は苦労と失敗の連続であった。通常の伝記では成功談の羅列で終始するが、平野富二の場合は失敗談なくしてその人の生涯を語ることはできない。
平野富二の前半生の履歴をまとめ上げた福地桜痴や、全生涯を記録した『本木昌造 平野富二 詳伝』の編著者である三谷幸吉は、失敗談については敢えて触れることなく、意識的にこれを避けている。

平野富二は、恩師本木昌造の苦境に陥った活版印刷事業をたまたま引き受け、事業として成功に導いた。その結果得られた資金を活用して、念願の造船事業に進出することができた。
しかし、民間事業こそがわが国将来の発展に寄与するものであるとの信念から、敢えて政財界と結託することを嫌って一定の距離をおいていた。そのため、多額の資金を要する造船事業では再三に亘り政府に融資依頼を行なったが、いずれも不成功に終わっている。渋沢栄一の理解と協力で株式組織に変更するまでは、資金難の連続であった。

本書では、平野富二が取り組んだ事業の中でも不成功に終わった事例を数多くとりあげた。造船関係では兵庫造船所の借用、鉄道関係では利根川・江戸川連絡鉄道計画、甲信鉄道計画とその関連の江の浦軽便鉄道計画、築港関係では江の浦築港計画、土木関係では横須賀吾妻山掘割工事、鉱山関係では能美鉱業所の経営受託である。
しかし、不成功となったその後の経緯までをたどって見ると、単に失敗に終わらせず、その経験を少しでも世の中のために有効に生かす意志と努力を酌み取ることができる。

最大の失敗といえば、若い頃から持病を抱えながらもわが身を顧みず事業に没頭した結果、脳溢血で病床に就くこと三度、それが原因で折角育てあげた事業を途中で整理せざるを得なくなったことであろう。
その後は摂生に努めたが、国家に貢献する事業への信念から肉体の健康を疎かにし、それが原因で未だ前途のある生涯を四七歳の若さで終えたことである。

定年まで人生の一番大切な時期を過ごさせて頂いた会社の創業者である平野富二について、なぜ長崎の人が東京の石川島で個人経営の造船所を創業したのかという疑問に始まり、その人物と事績をもっと知らなければならないと思っていた。
それを定年後の取り組みの一つとして定め、本格的な資料調査を開始したのは既に十数年前になる。当初は、それほど多くの資料は存在しないだろうと予測し、二、三年で纏められると思っていた。平野富二に関する資料は、関東大震災、その後の戦災と戦後の混乱でほとんどの歴史資料を失ってしまったと見られていたからである。

当初は、平野富二に関する纏まった伝記資料としては、三谷幸吉の『詳伝』が唯一のものであった。それを手掛かりにして、資料収集を開始すると、断片的ではあるが次々と新しい資料を見出すことができた。

平野富二は、長崎奉行所とそれに関連する長崎製鉄所に勤務していた関係で、その役職履歴から勤務に関する多くの文書が長崎県に残されている。
東京に出てきてからは、事業の関係で役所に提出した文書が東京都公文書館に数多く保管され、また、横浜製鉄所や石川島造船所に関しては国立公文書館と防衛研究所図書館に多くの関連する文書が保管されており、近年、アジア歴史資料センターからインターネットで検索・閲覧できるようになった。
早稲田大学図書館に保管されている「大隈文書」にも平野富二直筆の願書等が残されていることが判った。

株式会社IHIの元専務取締役高松昇氏は残念ながらすでに故人となられたが、同氏とは十数年来、平野富二の研究でお互いに協力しあう関係にあり、お教え頂くことが多かった。相談の上、『長崎市史』に掲載されていた平野富二碑の碑文をもとに、その石碑の所在確認と、先祖の菩提寺に残されているとみられる記録を平野家に調査してもらうこととした。これが縁で平野家の方々と面識を得ることができた。

丁度その頃、祖先の遺品を整理されていた平野義和氏とその子息正一氏によって多数の資料が見出され、活版印刷関係の資料についてはその分野の研究をされている、朗文堂の片塩二朗氏と印刷史研究家板倉雅宣氏に伝えられた。平野家からは貴重な資料閲覧と写真撮影をさせていただき、特に正一氏からは独自に調査された貴重な資料のコピーを提供して頂いた。
また、片塩二朗氏と板倉雅宣氏からは平野富二が印刷分野で高く評価されていることを教えて頂き、御著作を初め多くの資料を提供して頂いた。

平野富二の資料収集を期に、高松昇氏の主宰により株式会社IHIのOBを主体とした「平野会」が結成された。社史に関連する資料の収集と資料管理を後援することを目的としたもので、その会員はIHIの歴史に関心を持つ各専門分野を経験された方々であった。この「平野会」は、所期の目的を達成して解散したが、多くの資料を調査・収集することができた。

二〇〇二年に朗文堂から片塩二朗著「富二奔る」(『ヴィネット08』)が、二〇〇六年に印刷朝陽会から板倉雅宣著『活版印刷史』が、さらに、二〇〇九年に株式会社IHIから高松昇著『平野富二の生涯』(非売品)が刊行された。
これらの動向により、平野富二に縁故のある関係者の子孫の方々が現れ、貴重な情報・資料の提供をうけることができた。

本書は高松昇氏の御著書を補う形で、広く一般読者や研究者に読んで頂くために纏めたもので、以上に述べた多くの機関や個人の方々から提供をうけた貴重な資料を利用させて頂いた。いちいちお名前を記すことを控えさせて頂くが、この場を借りて心から御礼申し上げる。

平成二五年八月
石川島造船所創業一六〇年、平野富二没後一二〇年を経過した歳に当たって                                                              古谷 昌二