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東京国立博物館・書道博物館 連携企画<趙之謙の書画と北魏の書> 終了しました。

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東京国立博物館・書道博物館 連携企画
── 悲盦没後130年 ──

趙之謙の書画と北魏の書

【詳細:東京国立博物館  http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=623
【詳細:書道博物館     http://www.taitocity.net/taito/shodou/index.html

特別展『趙之謙の書画と北魏時代の書』―悲盦(ひあん)没後130年―が
09月28日[日]をもって
終了いたしました。すばらしい展覧会でしたね。

本2014年は中国清朝後期のひと、趙之謙(ちょう-しけん 1829-84)の没後130年にあたります。
趙之謙は会稽(浙江省紹興)の裕福な商家にうまれましたが、十代のころから家産がかたむいて貧困を余儀なくされました。それでも趙之謙は書画や篆刻で生計を立てながら勉学にはげみ、やがて結婚しました。妻は苦しい家計をやりくりし、なんとか幸せな家庭を築くかにみえました。

ところがこのころから、江西省に興ったキリスト教系の宗教結社による「太平天国の乱」が会稽にも波及し、紹興の自宅は焼失し、妻子も争乱の犠牲となりました。
家と家族をもろともに失った絶望の果てに、趙之謙はみずからの号を「悲盦 ヒアン ≒ 悲庵」とあらためました。ときに趙之謙34歳のときのことでした。

こののち趙之謙は趙家の再興をめざして科挙(高級官吏登用試験)に挑みました。挑戦すること再再にわたりましたが、ついに科挙及第の夢を果たせずにおわりました。
それでも北京での滞在中に数多くの金石キンセキ資料に接し、その研究に没頭しました。
なかでも北魏(鮮卑族王朝、398-556)の書に心酔して、のちに「北魏の書」と呼ばれるあたらしい書の表現を確立しました。

北魏の書に触発され、雄偉きわまりない書風を創出した趙之謙は、碑学派の中心的な人物として活躍し、清朝後期の碑学派は全盛期をむかえました。
この碑学派をおもくみる風潮は明治の日本の書壇にも継承され、趙之謙の独特な作風に影響をうけた書芸家は少なくありません。

いっぽう趙之謙はその後も科挙に挑戦していましたが、ついに高級官僚の途を断念して、44歳の時地方官僚として江西省に赴任し、政務に奔走しました。しかし積年の過労がたたり、数えて56歳でその生涯をとじました。
[書道博物館のフライヤーよりご紹介]

<西湖のほとりにある趙之謙を紀念する半隠亭と、復元された墓址> ──────────
中国浙江省杭州市
の西湖をめぐる堤のひとつに楊公堤がある。
楊公堤は明の正徳03年(1508)当時の杭州知事:楊孟瑛が、
西湖を浚渫した際にでた湖底の泥をもちいて築いたとされる。
2003年に大改修がなされて、並木の美しい散策路をそなえた二車線の道路になった。全長は3,228メートル。

趙之謙は赴任先の江西省で没したとされるが、墓地はこの西湖のほとり、丁家山山麓に設けられていたとされる。
小社スタッフが、趙之謙の書画と篆刻が好きだったために、2011年の中秋に西湖の趙之謙の墓地をたずねた。その折りの記録を紹介したい。

DSCN8047 DSCN8049 DSCN8050 DSCN8056 DSCN8055 DSCN8062DSCN8060杭州西湖の観光地図をみるなら、楊公堤の「三台雲水」のちかくであるが、多くの観光案内図にはこの半隠亭と趙之謙墓地の所在地は触れられていない。
丁家山とは、やまというより、所詮堤のなかのわずかな高台であり、道路の改修前には訪れることも困難な場所であったという。そのためにいつの間にか墓所は毀損されて、その正確な位置はわからなくなっていた。

それでも趙之謙の遺徳をしのぶひとがおおく、かつて墓地があったと伝承される高台に、あずまや風の「半隠亭」がもうけられ、そこからの西湖の眺望はすばらしい。
墓地は道路をはさんで斜め前方に簡素に再建されている。
碑学派の書芸家や篆刻家の一大拠点、杭州西湖にはふさわしい眺望である。
【URL:百度百科 趙之謙画像集 百度百科 趙之謙

<西湖余談> ────────
天下の名勝として知られる西湖には、北宋の詩人:蘇東坡ソトウバが築造したとされる「蘇堤」をはじめ、いくつかの人工堤防がある。
もっとも著名なのは東の断橋から錦帯橋を通って、西の平湖秋月まで、長さ1kmにわたって西湖を東西に分断する形で造られた堤防「白堤」であろう。

この堤は、当初は「白沙堤」と呼ばれ、宋の時代には「孤山路」とも呼ばれた。
堤防の上には外側(湖面側)
に桃、内側(湖岸側)に柳が植えられ、春になると桃の花の薄紅色と、柳の新緑とのコントラストが美しく、夏のかおりたつ蓮の花とともに、白堤を代表する景観として知られている。

中唐代の大詩人・白居易ハク-キョイ(あざな:楽天ラクテン 772-846)が杭州の刺史(長官)であった時、西湖の開拓と大規模な水利工事をおこしてして民に恩恵を与えたことから、後世のひとがその遺徳を忍んで、いつのころからか「白堤」と呼ばれるようになったという。
閑静な楊公堤とはことなり、「白堤」は四季をとわずいつもひとであふれている。

ついでながら……、杭州は人口880万の大都市でもあり、観光地の周辺は混雑のためもあってタクシーは不足がちである。
もし楊公堤の<趙之謙墓地>をたずねるのなら、わかいひとは湖畔の随所にある「有料レンタサイクル」を利用されるか、タクシーでいくなら現場で待機していてもらったほうが安心である。
いずれにしても案内板はすくなく、注意深くみていないと見落として通りすぎてしまうような景観である。

【 関連情報 : 活版 à la carte 十五夜のお月さま――月に叢雲ムラクモ、花に風といいますね。月餅と最中、Flea Market 蚤の市 】
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【展覧会】清時代の書 ── 碑学派 東京国立博物館/書道博物館

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《清時代の書 ―碑学派―》 三館連携企画
東京国立博物館 平成館 企画展示室
台東区立書道博物館
台東区立朝倉彫塑館
2013年10月8日[火]-2013年12月1日[日]
※ 月曜休館。一部展示変え、特別開館日あり。詳細は各館のWebsiteで確認ください。 
東京国立博物館 《清時代の書-碑学派》Website

────── 同館フライヤーより[一部に補筆しました]
中国・清時代(1616-1912)では、考証学の盛行を背景に、書においても金石(きんせき)資料が注目され、従来の王羲之(おうぎし)を中心とする法帖(ほうじょう)に代わって、青銅器の銘文や、石碑に刻まれてのこされた書、すなわち金石の書が尊ばれるようになりました。

この時代、金石に書の拠りどころを求めた人たちを「碑学派(ひがくは)」と称し、これまでもっぱら法帖を学んでいた「帖学派(じょうがくは)」と区別しています。
かれらは、はじめのうちは、漢時代の隷書や、唐時代の楷書に注目していましたが、やがて山野に埋もれていた青銅器や石碑にも視野を広げ、野趣あふれる楷書や篆書・隷書を中心とする、あらたな書風を形成しました。
また阮元(げん げん)や包世臣(ほう せいしん)らが、「北碑の書」[代表作:洛陽郊外 龍門石窟古陽洞 龍門二十品など]を称揚する理論を提唱したことで、碑学派は清時代の書の主流を占めるようになりました。

今回で11回目を迎える連携企画は、東京国立博物館、台東区立書道博物館のほかに、台東区立朝倉彫塑館を加え、台東区内に近接する3館が連携して、碑学派の主な書人の代表作を紹介し、碑学派の流れを概観します。

東京国立博物館では、碑学派の前期に重きを置き、主として碑学派の勃興期に焦点をあてます。
書道博物館では碑学派の後期を中心に、同館の創設者/中村不折(なかむら ふせつ)と、楊守敬(よう しゅけい)・康有為(こう ゆうい)とのつながりや、日本における「碑学派の書」の受容なども紹介します。
朝倉彫塑館でも、一部に日中の文化交流を彩る清時代の書画を展示します。

従来の書の流れを大きく変えることとなった、清時代の碑学派。学問に裏付けられて生まれた、碑学派の書の魅力をたっぷりとお楽しみください。

《主要展示作品》
・瘞鶴銘
   中国 梁時代・天監13年(514) 台東区立書道博物館蔵
・篆書白氏草堂記六屏
   鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶9年(1804) 個人蔵
・行書七言律詩軸
   阮元筆 中国 清時代・18-19世紀  京都国立博物館蔵
・楷書嬌舞倚床図便面賦軸
   包世臣筆 中国 清時代・18-19世紀 東京国立博物館蔵
・篆書八言聯
   呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵(2013/11/6から展示)
・楷書斉民要術八屏
   趙之謙筆 中国 清時代・同治8年(1869)頃 個人蔵

────── 清朝末期の参考資料
◎ 光緒帝
中国清王朝末期第11代の皇帝・徳宗期の年号を光緒といい、徳宗のことを光緒帝ともいう。1875-1908。
◎ 変法自強――法と制度を変えて自ら強くするの意――と光緒帝
中国清朝末期に康有為、梁啓超らがわが国の明治維新にならって、憲法制定、国会開設、教育・学校制度の変革などを唱えた政策が変法自強[変法自彊ともする]。
1898(明治31)年、徳宗・光緒帝がこれを採用して、立憲君主制にもとづく国体変革「戊戌変法 ボジュツ-ヘンポウ」をおこなおうとしたが、西太后(1835-1908)らの守旧派勢力から武力弾圧をうけて失敗。康有為、梁啓超らは日本に亡命した。これを「戊戌政変」という。光緒帝はその後幽閉され、西太后の逝去とともに薨去した。
◎ 康有為 Kang Youwei
中国清朝末期の政治学者。号は長素、江東南海のひと。清朝末期日本にならった「変法自強」を唱えて「戊戌新政」を推進したが、政争にやぶれてわが国に亡命した。
亡命後も「清朝保皇」を唱え、立憲君主制による清朝擁護の論陣を展開し、孫文らの革命運動と対立した。1858-1927。