タグ別アーカイブ: 隷書

【展覧会】 美しい隷書 ──── 中国と日本 をみる。

20140404171554707_0001

書道博物館企画展
中村不折コレクション 美しい隷書 ──── 中国と日本
【会    期】  2014年04月04日[金]-07月13日[日]
【開館時間】  09時30分-16時30分(入館は閉館の30分前まで)
【休  館  日】   毎週月曜日
【詳     細】  台東区立書道博物館 URL
────────────
隷書とは、篆書を簡略化して日常書体とすることによってうまれました。 篆書は左右対象で、曲線を多く用いた威厳のある形姿でしたが、書くために時間がかかるという不便があったために、徐徐に簡略化がすすみました。 やがて曲線を減らし、水平と垂直線を増やした隷書がもちいられるようになりました。

したがって隷書の「隷」は、篆書に「隷属」するという意からうまれました。 いまだにわが国の辞書の一部には、隷書の紹介を、秦(春秋戦国時代の大国のひとつ。前221-前207年中国史上最初の中央集権国家となる。3世16年で漢の高祖に滅ぼされた)の雲陽のひと 程邈テイバクが、秦朝の公用書体だった小篆の繁雑さを省いてつくったもので、「徒隷」、すなわち卑しい身分のものにも解しやすい漢字書体だとするものがありますが、そろそろ見直しが必要のようです。

隷書が誕生した直後は比較的直線がめだちましたが、次第に波のようなうねりをともなうようになり、歯切れのよい、リズミカルな形姿を獲得していきました。その頂点をむかえたのが漢(前207-後220)の時代です。 漢代初期の隷書は、おおらかで動きのある素朴な趣が主流でしたが、その後期になると、鮮やかで美しい隷書として完成をみるにいたりました。 そしてその隷書で書かれた石碑が数多く建立されたのも漢代の特徴のひとつです。 また20世紀の初頭に、西域の敦煌トンコウやトルファンから出土した文書モンジョからも、肉筆で書かれた隷書が発見されています。

中村不折フセツコレクションには、隷書の名品が数多くあります。不折はみずからの書風を形成していく過程において、これらの隷書からも大いに刺激をうけました。したがって不折流とされる独特の書風には隷書の要素が多分に取り込まれ、表情がゆたかで、あかるく、また装飾性にも富んでいます。 ご観覧をお勧めいたします[同館フライヤーより。一部追加改変してご紹介しました]。
【関連情報/ウィキペディア:隷書体

<1899年・明治32年に中村不折が築造した「お蔵」が発見され、同館中庭に復原>
DSCN4253 DSCN4248同館の創立者:中村不折(1866-1943 ウィキペディア:中村不折 中村不折画像集)が1899年(明治32)に住居としていた「下谷区根岸町31番地/現・台東区根岸三丁目12番地」の敷地内に作品や収蔵品の収蔵庫として「お蔵」を建てていたことは、のこされた写真などから知られていました。
ところがこのあたりは関東大震災、第二次世界大戦の被害が甚大で、いつのころかその存在が忘れられていました。

発見は偶然だったといいます。2011年(平成23)郷土史家で、根岸子規会の会長:奥村雅夫氏が、道路拡張工事で姿を消す街並みの記録をのこそうとしてこの近辺を撮影していたところ、民家の一隅(上部に木造建造物があり、そのなかに入れ子構造になっていたとされる)からこの「お蔵」を発見されました。

中村不折はこの「お蔵」があった「下谷区根岸町31番地/現・台東区根岸三丁目12番地」の住居には、1915年(大正04)に「台東区根岸二丁目10-4」(現在の書道博物館の敷地)に転居するまでのあいだ居住しており、旧宅の「お蔵」の前で撮影した写真も複数のこされています。
その写真は図録などでたびたび紹介されましたから、もっとおおきなものとおもっていました。実際には上掲写真のように、大谷石とおもわれる石造りの堅牢な蔵ですが、意外にちいさなものでした。

このようないきさつがあって、「お蔵」は書道博物館の中庭に復原されました。
この明治期の「お蔵」が復原されたことで、同館敷地内には、明治のお蔵、大正のお蔵、昭和の本館、平成の中村不折記念館が、庭園をとりかこむようにして配置されています。
中村不折の石蔵移築プロジェクト/更田邦彦建築研究所
【書道博物館:明治のお蔵が復原されました

<大正のお蔵で『三体石教』をみる>
三体石教
書道博物館はしばしば訪れますが、企画展示の観覧ととあわせて、「大正のお蔵」とされる、正面からはいって左側の収蔵物をよくみます。
ここには『熹平石教キヘイセッケイ』、『三体石教サンタイセッケイ』など、信じられないような貴重な収蔵品があります。 上掲図版は『三体石教』(残石・第五石)とされるもので、建造は三国時代の魏・正始年間(240-48)です。書道博物館販売の「絵はがき」から紹介しました。

この『三体石教』は上から、大篆、小篆、隷書の三書体によって石に刻まれた<石の書物>ともいうべき存在でのものです。
大篆の絵図記号のような「文」が(この段階ではまだ字とはいいがたい。むしろ文 ≒ 紋)が、小篆になると絵図記号を脱して「文 ≒ 紋から 文」らしくなり、隷書にいたって、完全に現代でもよめる「字」になっています。
以下にちいさな勉強会の学習『石の書物-開成石教』(グループ昴スバル 朗文堂、p.34 -)から紹介しましょう。

三国時代、魏王朝の『三体石教 サンタイセッケイ』

統一王朝の漢が滅びたのち、中国はふたたび魏晋南北朝とよばれるながい混乱の時代にはいった。最初に三世紀のはじめに、魏ギ(220-265)、蜀ショク(221-263)、呉ゴ(222-280)が鼎立する「三国時代」があった。
その三国のうち、洛陽にみやこをおいた魏王朝は、日本に関するもっともふるい文書記録『魏志倭人伝』をのこした王朝としてわが国では知られている。

『喜平石教キヘイセッケイ』の建立から68年後、三国時代の魏王朝がみずからの正当性を主張するために、明帝・正始02年(241)、洛陽の最高学府「太学タイガク」に、『尚書』『春秋』『春秋左氏伝』の三種類の儒教教典をしるした石碑を建立した。
この碑は建立の時代から『正始石教セイシセッケイ』とも呼ばれるが、むしろ『三体石教』として知られるのは、儒教教典のひとつひとつの「字」が、大篆、小篆、隷書の三書体によってしるされているためである。

そもそも漢王朝の末から魏王朝のはじめにかけては、古典をまなぶ必要がとかれ、今文キンブンとしての隷書ではなく、古文としての大篆や小篆でしるされた、ふるい教典を研究することが盛んであった。
そのために今文としての隷書だけでしるされた、後漢(東漢)の『熹平石教』より、68年ものちに建立された『三体石教』は、古典の教典は古文(ふるい時代のもんじ)であらわすと同時に、中国の殷商王朝(甲骨文・金文)、周王朝(大篆)、秦・前漢王朝(小篆)、前漢・後漢王朝(隷書)など、歴代王朝の歴史を継承する、中国正統王朝としての魏王朝の存在を誇示するものでもあった。

『三体石教』はのちに洛陽をはなれて、西安や安陽に移転された。それでもその存在は拓本が存在していたことと、文書記録によって知られていたが、黄河の洪水や戦乱に巻きこまれてながらく所在不明となっていた。
それが清王朝の末期、洛陽で『尚書』編の一部の残石が発見され、ついで1957年(昭和32)西安市北大街青年路西段での下水道工事のさいに、偶然地中から大量に残石が発見されておおきな話題となった。 しかしながらこの石碑は1700年以上の流転のあいだに相当破損がすすみ、書写人の名前などは判明しない。
現在残石は各所に所蔵されているが、そのほとんどは西安碑林博物館に収蔵されている。
<初出は展覧会案内として 2014年4月1日に投稿したものに加筆修整した>