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【展覧会】清時代の書 ── 碑学派 東京国立博物館/書道博物館

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《清時代の書 ―碑学派―》 三館連携企画
東京国立博物館 平成館 企画展示室
台東区立書道博物館
台東区立朝倉彫塑館
2013年10月8日[火]-2013年12月1日[日]
※ 月曜休館。一部展示変え、特別開館日あり。詳細は各館のWebsiteで確認ください。 
東京国立博物館 《清時代の書-碑学派》Website

────── 同館フライヤーより[一部に補筆しました]
中国・清時代(1616-1912)では、考証学の盛行を背景に、書においても金石(きんせき)資料が注目され、従来の王羲之(おうぎし)を中心とする法帖(ほうじょう)に代わって、青銅器の銘文や、石碑に刻まれてのこされた書、すなわち金石の書が尊ばれるようになりました。

この時代、金石に書の拠りどころを求めた人たちを「碑学派(ひがくは)」と称し、これまでもっぱら法帖を学んでいた「帖学派(じょうがくは)」と区別しています。
かれらは、はじめのうちは、漢時代の隷書や、唐時代の楷書に注目していましたが、やがて山野に埋もれていた青銅器や石碑にも視野を広げ、野趣あふれる楷書や篆書・隷書を中心とする、あらたな書風を形成しました。
また阮元(げん げん)や包世臣(ほう せいしん)らが、「北碑の書」[代表作:洛陽郊外 龍門石窟古陽洞 龍門二十品など]を称揚する理論を提唱したことで、碑学派は清時代の書の主流を占めるようになりました。

今回で11回目を迎える連携企画は、東京国立博物館、台東区立書道博物館のほかに、台東区立朝倉彫塑館を加え、台東区内に近接する3館が連携して、碑学派の主な書人の代表作を紹介し、碑学派の流れを概観します。

東京国立博物館では、碑学派の前期に重きを置き、主として碑学派の勃興期に焦点をあてます。
書道博物館では碑学派の後期を中心に、同館の創設者/中村不折(なかむら ふせつ)と、楊守敬(よう しゅけい)・康有為(こう ゆうい)とのつながりや、日本における「碑学派の書」の受容なども紹介します。
朝倉彫塑館でも、一部に日中の文化交流を彩る清時代の書画を展示します。

従来の書の流れを大きく変えることとなった、清時代の碑学派。学問に裏付けられて生まれた、碑学派の書の魅力をたっぷりとお楽しみください。

《主要展示作品》
・瘞鶴銘
   中国 梁時代・天監13年(514) 台東区立書道博物館蔵
・篆書白氏草堂記六屏
   鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶9年(1804) 個人蔵
・行書七言律詩軸
   阮元筆 中国 清時代・18-19世紀  京都国立博物館蔵
・楷書嬌舞倚床図便面賦軸
   包世臣筆 中国 清時代・18-19世紀 東京国立博物館蔵
・篆書八言聯
   呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵(2013/11/6から展示)
・楷書斉民要術八屏
   趙之謙筆 中国 清時代・同治8年(1869)頃 個人蔵

────── 清朝末期の参考資料
◎ 光緒帝
中国清王朝末期第11代の皇帝・徳宗期の年号を光緒といい、徳宗のことを光緒帝ともいう。1875-1908。
◎ 変法自強――法と制度を変えて自ら強くするの意――と光緒帝
中国清朝末期に康有為、梁啓超らがわが国の明治維新にならって、憲法制定、国会開設、教育・学校制度の変革などを唱えた政策が変法自強[変法自彊ともする]。
1898(明治31)年、徳宗・光緒帝がこれを採用して、立憲君主制にもとづく国体変革「戊戌変法 ボジュツ-ヘンポウ」をおこなおうとしたが、西太后(1835-1908)らの守旧派勢力から武力弾圧をうけて失敗。康有為、梁啓超らは日本に亡命した。これを「戊戌政変」という。光緒帝はその後幽閉され、西太后の逝去とともに薨去した。
◎ 康有為 Kang Youwei
中国清朝末期の政治学者。号は長素、江東南海のひと。清朝末期日本にならった「変法自強」を唱えて「戊戌新政」を推進したが、政争にやぶれてわが国に亡命した。
亡命後も「清朝保皇」を唱え、立憲君主制による清朝擁護の論陣を展開し、孫文らの革命運動と対立した。1858-1927。