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【近代活字版印刷術発祥の地】 長崎のいま 寸描

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2015年05月 長崎のいま
いわゆる「厳流坂」の旧長州藩長崎屋敷跡の地にもうけられていた<新町活版所跡碑>は、もとの角地から、10 m ほど坂をくだった場所に移転されている。
黄檗宗をもたらした隠元和尚にちなむ古刹、崇福寺 ソウフクジ の参道には<福地櫻痴生誕の地>碑があるが、正確な生誕地は、この道の反対側であったとされる(岩永充氏、江越弘人氏談)。

また歌手:さだまさしもこのあたりで幼少期をすごしたとされる。崇福寺山門の直前角に、親族の経営による、珈琲とミルクセーキがおいしくて、終日さだまさしのCDをながしていた喫茶店があった。やつがれ、「長崎さるく」の途中で、ここでの休息をたのしみにしていたが、いつのまにか洋物輸入雑貨店にかわっていた。
長崎の変貌はいまもかわらずはやいものがある。
DSCN9124 DSCN9118 DSCN9220 DSCN9218 DSCN9231 DSCN9316ホテルのロビーに掲出されていた「長崎港古絵図」の複製。原画はオランダ国立ハーグ中央古文書館蔵。
阿蘭陀船がオランダ国旗をかかげて入港しており、半円形に突出した出島と、その背後に出島の管理にあたった、扇形の長崎奉行所東役所が描かれている。

1671・寛文11年に長崎奉行所東役所の一部が立山(現、長崎市立山一丁目・長崎歴史文化博物館の所在地)に移され、立山役所(総坪数3278坪)と改称された。それ以後はこの両所を総称して長崎奉行所と呼んだ。
幕末、この長崎奉行所東役所に「海軍伝習所」がおかれたが、現在は埋め立てが進んで長崎県庁の敷地となっている。左の矩形の突出部はおもに中国人が居住した「唐人まち」で、現在は長崎新地の一部となっている。
DSCN9322 DSCN9325 DSCN9329 DSCN9331 DSCN9469 DSCN9481 DSCN9550出島は現在大幅な修復工事中であるが、そのすぐ脇、市電にそった場所に「長崎県印刷会館」があり、印刷関連の貴著な資料が収蔵されている(長崎市出島町10番13号)。
同館資料庫にはアルビオン型の手引き印刷機が大小二台収蔵されており、そのうち小型機の上部、鳥居天板部には、東京築地活版製造所、大阪活版製造所両社の社名と、マークを表裏にみることができる。

商標01

左) 平野活版所のマーク。◯もにブラックレターのH。1877・明治10年版活字見本帳からみられる。
右) 東京築地活版製造所の登録商標。1886・
明治19年の新聞広告からみられる。

この東京築地活版製造所の「いわゆる ◯も に ローマン体の H 」のマークは同社の登録商標で、1886・明治19年の新聞広告からみられる。
この大阪活版製造所の「旭日の中心に ◯も」のマークは、1885・明治18年の同社の登録商標である。
したがって、このアルビオン型手引き印刷機は1886・明治19年以降の製造とみられる(『平野富二伝 考察と補遺』 古谷昌二、朗文堂、p.531)
9784947613882最下部写真は同館所蔵のもので、長崎製鉄所が建造した、わが国最古の鉄橋が撮影されている。橋のたもとにたつ「くろがね橋/鉄橋」の碑は、中島川にかかるほかの橋と同様、西 道仙の書による。この右手 西浜町は長崎一の繁華街となっている。
「鉄橋」はコンクリート製に改修されているが、当時の欄干の一部が 三菱重工業長崎造船所 (地元では ながせん と愛称する)の史料館に保存されている。
まさに幕末から160年あまりの長崎の激動をおもわす場所が、この西浜町あたりである。