カテゴリー別アーカイブ: 朗文堂―好日録

【会員情報】 仙台の只野俊裕さん、「本作り相談所 蕃山房」を開設して活躍中

20160411130310293_0001 20160411130310293_0002ふるい友人の只野俊裕さんから、著作{「ゼッケル文庫」に見る16世紀の金属活字版印刷術の様相-装飾大文字の変遷と進化-}『東北大学附属図書館調査年報 第3号』(東北大学附属図書館、平成28年3月30日)をご恵送いただいた。

只野さんは、仙台の 笹木出版印刷株式会社 に長年勤務され、取締役営業部部長をもって停年退職された。同社はタイポグラフィに積極的な企業で、欧文活字字道鋳植機(いわゆるモノタイプ)のわが国初導入企業とされ、また「陶活字」を追試・試作して、社内に「笹っぱ活字館」をもうけるなどしていた。
同社創立90年に際し、<花筏 タイポグラフィあのねのね*20 2012年05月19日>に関連記事があるのでご覧いただきたい。

勤務時代はタイポグラフィ学会にも所属され、しばしば上京されていたのでお会いする機会も多かった。最近はお会いする機会が減ったが、なにぶん図書づくりが大好きな只野さんゆえ、退職後も「本作り相談所 蕃山房」を開設して活躍しているようである。
ご本人から消息をうかがったので紹介したい。
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私は2011年(東日本大震災の年)9月に笹氣出版印刷を退社しました。
現在は週に三日だけ相談役として顔を出しています。
主には「本づくり相談所 蕃山房」と号して、震災復興に関する出版や
書籍の制作に携わる事業を行っています。
そしてもう一つが東北大学附属図書館協力研究員としての活動です。
東北大学附属図書館のゼッケル文庫は宝の山です。
このことはまたお話しする機会があるかもしれません。

退職後はのんびりとやって行こうと思っていましたが、
東日本大震災(地震被害、津波被害、原発被害)の現場に生きている身としては、
そうは参りませんでした。
突き動かされるように、印刷の力による震災復興に微力を尽くしたいと願って
活動しています。

詳細は蕃山房ホームページ http://banzanbou.com/ をご覧ください。
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蕃  山  房  只野俊裕
本づくり相談所(企画・編集・制作・出版)
〒989-3126  仙台市青葉区落合一丁目4-8

電話 兼 FAX : 022-778-8679
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【講演会】 会員:真田幸治さんが泉鏡花記念会で「雪岱文字―春陽堂版『鏡花全集』を中心に」講演の報告

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20160411130506209_0002 20160411130506209_0003489[1]タイポグラフィ学会、アダナ・プレス倶楽部会員(B級グルメ担当とも)、真田幸文堂・真田幸治さんが、論文「雪岱文字の誕生 ―― 春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ」『タイポグラフィ学会誌』(2015年09月30日)を発表され、それを契機として金沢市「泉鏡花記念館」で関連講座が開催されました。その報告をご紹介いたします。

【『タイポグラフィ学会誌08号』論文】
論文 : 真田幸治「「雪岱セッタイ文字」の誕生 ── 春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ」
論文の概要
装幀家、挿絵画家などとして再評価著しい小村雪岱であるが、その評価は主に泉鏡花の著書の意匠によるものだ。

しかしながら「雪岱文字」が大きな役割を担っていたという事実は知られていない。
それは資生堂のロゴにおいても大きく寄与している。そして春陽堂版『鏡花全集』の装幀において「雪岱文字」はひとつの完成を見る。
本論では「雪岱文字」が、どのように誕生し展開されていったのかを考察する。

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泉鏡花記念館 企画展「鏡花本 装幀の美―清方・英朋・雪岱」関連講座
雪岱文字 ― 春陽堂版『鏡花全集』を中心に
◯ 講 師  真田幸治(装幀家・タイポグラフィ学会会員)
◯ 日 時  平成28年4月16日(土) 13:30-15:00
◯ 会 場  泉鏡花記念館 講座室
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image1 image2 image3{真田幸文堂 真田幸治さんのコメント}
金沢・泉鏡花記念会での講演「雪岱文字 ― 春陽堂版『鏡花全集』を中心に」、無事に終了しました! 手応えもあったと思います! そして、いまは帰京の車中です。
食の方はとても美味でした。とくに本日の寿司がまた当たり! とてもとても美味しかったです。
添付の画像は新聞記事のコピーと、寿司屋のネタです(万寿貝とノドグロ)。

【展覧会】 恩地孝四郎展/東京国立近代美術館 会期末迫る & 恩地家三代公式記録 multirhythm WebSite紹介

国立近美恩地孝四郎展日本における抽象美術の父にして木版画近代化の立役者、そして時代に先駆けたマルチクリエイター恩地孝四郎、過去最大規模の回顧展。
日本で最初の抽象表現《抒情『あかるい時』》はもちろん、海外美術館所蔵の重要作62点を含む約400点を一挙公開します。
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日本における抽象美術の先駆者であり木版画近代化の立役者でもある恩地孝四郎の、20年ぶり3回目、当館では実に40年ぶりとなる回顧展です。

恩地は抽象美術がまだその名を持たなかった頃、心の内側を表現することに生涯をかけた人物です。
彼の創作領域は一般に良く知られ評価の高い木版画のみならず、油彩、水彩・素描、写真、ブックデザイン、果ては詩作に及ぶ広大なもので、まるで現代のマルチクリエイターのような活躍がうかがえます。
本展では恩地の領域横断的な活動を、版画250点を中心に過去最大規模の出品点数約400点でご紹介いたします。

また見逃せないのは、里帰り展示される62点。戦後、特に外国人からの評価が高かった恩地の作品は、その多くが海を渡っていきました。
本展では海外所蔵館(大英博物館・シカゴ美術館・ボストン美術館・ホノルル美術館)の多大な協力のもと、現存作が一点しか確認されていない作品や摺りが最良の作品など恩地の重要作をご覧いただきます。
【 詳細 : 東京国立近代美術館
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この 【展覧会】 恩地孝四郎展 ―― 形はひびき、色はうたう 東京国立近代美術館 に関する情報は、東京国立近代美術館からの情報をもとに、本コーナーには02月08日に紹介した。
その際別途に、恩地孝四郎嫡孫・恩地元子様からも封書で、長文の文書と招待券を頂戴していた。
忙しさに取り紛れて文書をじっくり拝読していなかったことが悔やまれるが、とても貴重な資料をご提供いただいていたことを改めて確認したのでここに皆さまにご紹介したい。

恩地家三代――恩地孝四郎(1891-1955)、恩地邦郎(1920-2001)、恩地元子(現当主)は、いずれも東京藝術大学にまなび、才能と個性と造形力がゆたかなかたばかりであるが、やつがれは荻窪の恩地邸にしばしば押しかけ、恩地邦郎氏とそのご夫人展子様にたいへんお世話になった。

恩地孝四郎は1935年(昭和09)04月創刊の『書窓』(アオイ書房、志茂太郎)の第一号から1944年06月、志茂太郎が官製の国民運動「変体活字廃棄運動」に抵抗したため、強制疎開によって郷里の岡山に帰郷したための終刊号、『書窓』(第17巻第05号、通巻103号 日本愛書会書窓発行所)まで、一貫して編輯・執筆・造形・装本にあたっていた。
つまりやつがれは、わが国における近代版画家、抽象絵画の祖としての恩地孝四郎ではなく、印刷・出版人としての恩地孝四郎像を追っていた。

アオイ書房/志茂太郎と、『花あしび』(堀辰雄、2000年10月06日、朗文堂)の刊行を企画していたころ、堀辰雄関係の知人の紹介を得て、荻窪の恩地邸(遠藤 新 アラタ 設計)をはじめて訪問したのは、恩地邦郎氏が長年にわたった明星学園での教職をはなれた直後のことであり、おそらく1990年ころであったとおもう。
恩地邦郎氏ご夫妻はこころのあたたかなかたで、いつも居間でくつろぎ、展子夫人のピアノ演奏もたのしませていただいた。
やがて当時の「金曜かい」の若手の諸君(いまは50代初頭の中年になっているが)も恩地邸に押しかけるようになり、お庭のアカンサスを愛で、孝四郎氏と邦郎氏の二代にわたるアトリエを拝見させていただいた。

それからは、毎年のように銀座の画廊で個展を開催されたので、そこでお会いしたりしていたが、ご著作『随想 春の雪』(恩地邦郎、1997、ぶんしん出版)を頂戴した。それからまもなく2001年に行年81をもって恩地邦郎氏は逝去された。
近年になり、宇都宮美術館の企画で<恩地孝四郎邸見学会>があり、そのグループの一員として、やつがれと大石とで懐かしい荻窪の恩地邸をおとづれた。
およそ15年ぶりほどの訪問であったが、恩地家第三代・恩地元子様が、故邦郎・展子ご夫妻とほとんど変わらぬ笑顔で恩地邸をご案内されていた。
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前置きがながくなった。恩地家三代 ―― 恩地孝四郎(1891-1955)、恩地邦郎(1920-2001)、恩地元子(現当主)の三人の活動について、お知らせ、報告するWebSiteが開設されている。

URL :  multirhythm

管理・運営は恩地元子氏によるもので、いわば恩地家公式WebSiteといえるものであるが、とても丁寧なつくりこみがなされており、情報も正確でゆたかである。
初代・恩地孝四郎の歿後60年余、二代・恩地邦郎の歿後15年余のときが経過した。ともすると記憶はしだいに鮮明さをうしない、精度を欠くようになる。
このWebSiteの誕生を欣快とし、皆さまにご紹介するゆえんである。

朗文堂好日録046 - 喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-02 プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

プラハ

02    プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

新コーナー{文字壹凜}にかまけて、<花筏>の更新が遅滞していた。
昨週週末(01月15-16日)長崎に出張した。土曜日は長崎の若手学芸員の皆さんとおあいした。想像以上に<花筏>をよくご覧いただいていた。うれしかった。
{文字壹凜}は縦書き式短文ブログであるが、一応目標としていた100投稿をこえて、まもなく120投稿に達することができた。スタート直後からデバイスの異同による「バケ」に悩まされているが、読者のご寛容に救われている。これもまた楽しい試練ではある。

<花筏>に管理者:千星健夫氏が手を入れてくれて、ここでも<活版 à la carte>と同様に画像をスライドショウで楽しんでいただくことができるようになった。 再開第一弾を【朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ 】の続編とした。ほぼ一年ぶりのこととなる。ご愛読を乞い願う次第である。

☆       ☆       ☆

京都在住、ぢやむ杉本昭生氏の活版小本の新作フランツ・カフカ『道理の前で』を紹介した。
杉本氏はいつも活版小本を送付される際に「一筆箋」のような文章を添付されているが、今回はめずらしくこぼしが多かった。
たしかに「活版小本」の杉本昭生氏がマッチ箱サイズをねらっても、あまり収穫がないような気はした。 この 「テ」 は読書家の杉本氏には似合わなかった。ほかの豆本製作者に任せてもよいかもしれないとおもえた。

ところで、やつがれ フランツ・カフカ(1883-1924)のひそかなファン。 したがって「活版小本 カフカ『道理の前で』」 4 ページ 一丁、15丁60 ページかがり綴じ、前後見返しつき、前扉別紙差し込みからなるマッチ箱サイズの上製本をうれしく拝読させていただいた。
そこでフトおもいだしたのは、この作品はチェコ プラハの「黄金の小径」で執筆されたのではないかというおぼろな記憶だった。

2013年晩夏、三泊四日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいった。 その報告は「花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ」にあるが、ここには序章があるだけでその後の記述はない。
すなわちやつがれが情報過多に陥り、ひとさまにプラハの紹介をすることができなかったというのが苦しいいいわけになる。

2013年のプラハ行きはロシアの航空会社「アエロフロート航空」で、モスクワ経由でいった。
このときの収穫はおおきなものがあったが、ともかく魅力がありすぎて、未整理なままやつがれの脳裡の片隅にある。 2014年に再挑戦をこころみたが、円安のためもあって旅費が高騰していた。

プラハにはいま、アダナ・プレス倶楽部会員・博士山崎が研究のため長期滞在中である。 ノー学部と博士山崎は情報交換が盛んのようである。したがってどうやらもう一度プラハにいく機会がありそうな昨今である。

プラハの一隅にはカフカの生家があり、そこはいまちいさな博物館となって公開されているという。 そしてカフカの墓は、その近くの「ユダヤ人墓地」にあるという。 前回はユダヤ街にいく時間がなかった。再訪を得たらぜひともたずねたいとおもう。
すなわち、畏友杉本昭生が製作し、失敗作と自嘲した一冊の活版小本、フランツ・カフカ『道理の前で』が契機となって、プラハ再訪を決断することになったということである。 プラハ絵はがき01 プラハ絵はがき02 プラハ絵はがき03 プラハ絵はがき04プラハ市販の長尺絵はがきより。下から二段目、プラハ城脇、かつて錬金術士が居住したことから「黄金の小径」と呼ばれる長屋街。いまはみやげ店がならぶ人気の観光スポット。左手の青い22番の建物は、カフカがここで『城』などの作品を執筆していたとされる家。

Kafkasd2ところでやつがれ、ふるくから フランツ・カフカ(1883-1924)のひそかなファン。
民族と言語がもざいくのようにあやなす欧州、とりわけ中欧のカフカのような人物の経歴をあらわすのは困難だが、カフカは当時のボヘミヤ地方、正確にはオーストリア=ハンガリー帝国領のプラハで、高級小間物商をいとなむユダヤ人の両親のもとでうまれた。
その母語となるとさらに複雑で、父親のヘルマン・カフカ(1852-1931)はチェコ語を母語としたが、母親のユーリエ(1856年-1934)は当時の支配階級にならい、ドイツ風の慣習に馴染んでドイツ語をはなす、ほとんどドイツに同化していたユダヤ人であった。

父ヘルマンは息子を学校にいかせるにあたり、プラハにおいて多数の話者を持つチェコ語の学校ではなく、支配者階級のことばであるドイツ語の学校を選んだ。 しかしカフカはチェコ語やフランス語の本を多く読み、プラハ大学で哲学や法律をまなんでいた。
そのみじかい人生の晩年、カフカは結核に罹患したためもあって休暇がふえ、また民族意識に目覚め、ヘブライ語やラテン語の学習にもはげんだ。 しかしその著作や、のこされた書簡のほとんどは、ドイツ語でしるされている。

フランツ・カフカは1924年(大正13)6月3日、宿痾の結核でオーストリアのキールリングで歿した。満40歳であった。
遺骸は故郷プラハに移送されて、この街のユダヤ人墓地にねむる。
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フランツ・カフカの作品は、長編小説『審判』、『城』、『失踪者』のほかに、多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、その少なからぬ点数が未完であることで知られている。
これらの「遺稿」が刊行をみたのは、プラハ大学での一級下級生であったマックス・ブロートの力に負うところがおおきい。

その作風は、孤独感と不安が横溢しながらも、それを巧妙にユーモアでおおい、夢の世界を想起させるような独特の小説作品をのこした。
作品の評価が歿後にはじまったことと、幻想的で浮遊するような軽妙さの二点において、10年ほどのちのことになるが、わが国の 宮澤賢治 (1896-1933)と似たところがみられる。
宮澤賢治の著作で生前に刊行されたのは『春と修羅』(詩集)と、『注文の多い料理店』(童話集)だけであり、ほとんど無名に近い状態であったが、歿後に草野心平らの尽力によっておおくの作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となった。

《2014年09月 アフター・バカンスでプラハの観光地は賑わっていた》
プラハ観光の最大の中心地「プラハ城」には、ゴシック、ロマネスク、ルネサンス、アールヌーヴォなどの様様な様式の建築物があるが、なんといっても、天を突く尖塔がシンボルのゴシック様式による 「 聖ヴィート大聖堂 」 が観光客をあつめていた。

DSCN5492 DSCN549509月なかば、この晩夏の時期は、欧州では 「 アフター ・ バカンス 」 とされる。 バカンスの期間は混雑を避けて旅行を控えていた高齢者と、バカンス期間にアルバイトをしてふところがあたたかくなった若者が、オフシーズンで安くなったチケット利用しての旅行者が多くみられた。
この建物は F ・ キセラの設計によるもので、内側からみると、画家/アルフォンス ・ ムハ ( わが国では ムシャ ) らによるステンドグラスが美しい ( らしい。 やつがれ、混雑につかれて内部には入らなかったゆえに失敗した )。
DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 「 聖ヴィート大聖堂 」 のファサード上部に、いわゆるブラックレターの掲示板があった。 この系統の書体は、活字界では 「 テクストゥール 」 とよばれる。 ゴシック様式の尖塔によく似た、鋭角的で、ゴツゴツとした突起の目立つ形象の活字書体である。 プラハ絵はがき03その後黄金の小径へ。色とりどりのちいさな家が立ち並ぶ通りで、いまはみやげもの屋となっているが、もともとは城に仕える召使たちが住んでいて、いっとき錬金術士がおおく居住していたために「黄金の小径」と呼ばれる人気スポットとなっている。

ここの22番と表記された青い建物が、いっときカフカが仕事場としていた家とされる。 せまい建物におおきなリックサックを背負った若者がたくさんつめかけていて、なかなか中にはいれなかった。
そこで錬金術士の工房(なかなか怪しくてよかった)や、椅子のあるみやげもの屋に逃げたことを後悔しているが、なんとか写真だけは押さえてあった。

{ 新宿餘談 }
友人にドイツの印刷系の大学院を修了した人物 IS 氏がいる。博士論文のテーマに 「グーテンベルクは錬金術士だった」 をテーマにして研究をすすめていたところ、指導教授に 「これを発表したら、君もわたしもこの世界から抹殺される」 と説得されてほかのテーマにしたという。

このはなしは故ヘルマン・ツァップが笑いながらおしえてくれた。そして日本に戻っていたIS 氏を
「ユニークな発想のおもしろいひとですよ……、ぜひお会いになってください」
として
紹介された。
IS 氏は晩年のツァップにインターネット環境の設置をすすめ、その設定にもあたっていたことがあった。
いまは毎週一回はメールを送付されるIS 氏であるが、ちょっと人間関係が複雑なわが国の環境になじめないでいる。ときおり来社されて
「グーテンベルクは錬金術士だった、そう思いますよね」
とかたられる。やつがれは苦笑するしかないが、内心は首肯している面もある。
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以下「黄金の小径」を紹介するが、格別の説明はしない。むしろスライドショウでお楽しみいただけたら幸いである。
じつはやつがれ、このプラハ城と「黄金の小径」で人混みにもまれ、すっかり疲労困憊。

ゲートをでるとルネサンス様式の建物があり、そこでの「夕べのコンサート」をノー学部が予約していた。 ベドルジハ・スメタナの『わが祖国』(チェコ語: Má Vlast )が演奏された。
このスメタナの代表作は毎年おこなわれる「プラハの春音楽祭」のオープニング曲として演奏されるそうである。

『わが祖国』とうたいあげなければならなかったボヘミアのひと、ボヘミアンのスメタナをおもい、「祖国とは、母語とはなんだろう」とおもわずにはいられなかったであろう、ボヘミアンのフランツ・カフカをおもい、妙に鼻の奥がムズムズしたが、なんとか耐えることができた。 DSCN5558 DSCN5559 DSCN5561 DSCN5562 DSCN5565 DSCN5566 DSCN5567 DSCN5568 DSCN5569DSCN5573 DSCN5574 DSCN5575 DSCN5576 DSCN5577 DSCN5580 DSCN5580 DSCN5583 DSCN5585 DSCN5586 DSCN5587 DSCN5588 DSCN5589 DSCN5591 DSCN5592 DSCN5596 DSCN5726

朗文堂好日録-045 卯月 四月がおわり、新緑と薫風の 皐月 五月のはじまり。

《 卯月 四月のスタートは04月07日、新宿私塾から 》

私塾26期スタート

新宿私塾第26期入塾

新宿私塾鈴木1504uu

《 新宿私塾第26期、櫻花爛漫の春、意欲満満でスタートしました 》
隣接する新宿御苑の、櫻、ミモザ、山吹などがあでやかに花をつけた04月07日、新宿私塾 第26期が開塾いたしました。

これから半年間、ほぼ夏休みもなく新宿私塾は開講され、爽秋の09月15日に終了します。
講師、塾生の先輩ともども、全力であたらしいタイポグラフィの前衛を育成するために努力しますし、25回の講座は、いずれも内容の濃いものとなっています。
半年後、自信にあふれた塾生の皆さんの、お顔と、お姿を、再度紹介できたら幸せです。

DSCN8614DSCN8609DSCN8619新宿私塾では、タイポグラフィにおける 「 知 ・ 技 ・ 美 」 のみっつの領域で、バランスのよい学習をモットーとしています。 それはまた 「 知に溺れず、技を傲らず、美に耽らず 」 という、つよい自戒をともないます。
この半年のあいだ、塾生の皆さんがおおきな収穫が得られるように、講師陣はもとより、200名を優にをこえた 「新宿私塾修了生」 の皆さんも、精一杯の努力と応援をいたします。

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《お客さまご訪問 中華書局:李 晨光氏、商務印書館(香港):毛 永波氏 》

DSCN8622《 2015年04月03日〔金〕、おふたりの中国の印刷 ・ 出版人がご来社に 》
朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部のホームページをプリントされ、それを提示されながらの、ほとんどノーアポでのご訪問でした。
日本で<活版ルネサンス>の動向が顕著なことと、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部のうわさわ聞きつけてのご訪問でした。
◎ 写真左) 李 晨光 さん ( 中華書局  デジタル出版センター主任 )
◎ 写真右) 毛 永波 さん ( 商務印書館〔香港〕有限公司 取締役 ・ 副編集長 )
おふたりは <第18回 東アジア出版人会議 > のパネラーとして来日され、その寸暇をぬすんでのご訪問でした。


《 デジタルプリントの話題はほどほどに、中華書局 : 聚珍倣宋版、商務印書館 : 倣宋体活字で話題がおおいに盛りあがる 》
中華書局には 「 聚珍倣宋版 」 があり、商務印書局には 「 倣宋体活字 」 という、すぐれた本文用活字書体がある。
このふたつの活字書体はわが国にも昭和前期にもたらされ、中華書局系は名古屋 ・ 津田三省堂らによって 「 宋朝体 」 の商品名で発売された。 商務印書館系は大阪 ・ 森川龍文堂によってもたらされ、「 龍宋 」 の商品名で発売されていた。

この宋王朝刊本字様に淵源を発する活字書体を、故 ・ 毛沢東首席が好んだ ことは紹介した。 また現代中国では、宋体 ( わが国の明朝体 ) にかえて、倣宋体 ( わが国のいわゆる宋朝体 ) が再評価されている。 たまたま小社でも 「 宋朝体研究 」 が進行中で、その資料をみたおふたりとも、おおいに驚き、喜んでいただいた。
どうやら職掌上デジタルメディアにたずさわっていても、やはり印刷 ・ 出版人の < 活字好き > は日中ともに変わらないようであった。

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《[活版カレッジ] 2015年 春期昼間部講座 04月08日開講 》 

活版カレッジ<活版カレッジ 2015年春期講座>が04月08日[木]から開講しました。
今回は女性が三名、男性が一名での開講となりました。これから三ヶ月にわたり、集中して活版印刷の集中講座が続きます。
<活版カレッジ>は、科学と、学術的根拠にもとづいた実技と実践を基盤とし、小型活版印刷機 Adana-21J ,  Salama-21A によるケーススタディ ・ メソッドをふんだんに駆使し、あたらしい時代の活版印刷の現場での、現実的な課題の解決方法を学ぶことを目的とします。

<活版カレッジ>は、基本的に春夏秋冬と年に四回開催されますが、ここ数回にわたって事前のご予約者が多く、ほとんど一般公募ができない状態がつづいています。 すでに夏期講座、秋期講座にも相当数のご予約をいただいております。 ともかく受講のご意思のあるかたは、まずご一報をいただくことをお願いいたします。

DSCN8633uu3640uu< 活版カレッジ 2015年春期講座 >
01月01日播種した<野沢菜>が開塾を待ちかねたように、花をつけての祝福でした。

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《 四月◯日、◯日、◯◯日、◯◯日 Salama-21A 操作指導教室 が盛んに開催されています 》

Salama-21A 操作指導教室<Salama-21A 操作指導教室> は、Salama-21A を購入予定のお客様のための操作指導教室です。
ご購入いただいた( ご購入予定の ) Salama-21A を、お客様ご自身で快適にご使用していただくために必要な操作方法の基礎を、短時間で集中的に習得していただくことを目的としています。そのため、各回最大 4 名様に限定、完全予約制の教室です。

アダナ・プレス倶楽部では、活版印刷機器のご購入の前に十分おはなしをさせていただき、またできるだけお客さまのご都合にスケジュールをあわせての受講をおすすめしております。 もちろん受講に際して印刷機などの購入は義務づけられていません。
詳細は <アダナ ・ プレス倶楽部 教室のご案内 Salama-21A 操作指導教室 >をご覧ください。

新年度というせいもあったのでしょうか、弥生四月は  <活版カレッジ> と <Salama-21A 操作指導教室>  が週三回を上まわるペースで開催されていました。
アダナ ・ プレス倶楽部では遠近を問わず、これから活版印刷をはじめられる皆さまに、できるだけ <Salama-21A 操作指導教室> の受講をおすすめしています。
…… としるしましたが、皐月五月連休があけの週は、すでに月-金にわたって <Salama-21A 操作指導教室> のスケジュールがいっぱいにはいってうれしい悲鳴です。
上掲の写真は長野県からご参加されたお客さまです。
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《 04月14日[水] ちいさな勉強会-第二回開催 》
かつて朗文堂には<ちいさな勉強会>があり、そこから誕生した図書や研究がたくさんあった。  今回誕生した<ちいさな勉強会>も以前と同様に、規模の大小や、動員人数の多寡を問わずに、自然に、自発的に発生した勉強会である。 詳細報告はいずれ。

活版歳時記 ────
三椏 ミツマタ の花  四月初旬   撮影者 : 古谷昌二さんのコメント

三椏の撮影地は、秦野からバスで大山山麓の蓑毛に行き、そこからヤビツ峠に通じる山道の途中に群生していました。 富士山の写真は、ヤビツ峠から少し登った岳ノ台 ( 標高およそ900 m ) からのズームアップしたものです。 いずれも秦野市に属している地区です

三椏や  やまさと ふかく  かをりける

― よみし ひとを しらず ―

234uu 235uu 233uu 246uuみつまた ( 三椏 ・ 三叉 ) は中国原産のジンチョウゲ科の落葉低木で、わが国でも暖地に栽培されています。 その枝がかならず三つにわかれることからその名がうまれました。 樹皮の靱皮をとって手漉き紙の材料とします。
櫻にさきだって、黄色の筒型小花をつけ、つよいかおりを発するので 「 結香 ムスビキ」 の和名もあります。 中国ではその色合いとかおりをめでて 「 黄瑞香 」 とされます。
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《 きょう、五月三日はさつき晴れ。 皐月が紅白の花をいっぱいにつけて春本番を祝うとき 》
五月は 「 皐月 」 とされ、さつき、つづじが百花繚乱の花をつけるときである。
五月はまた、新緑の季節とも、薫風のときともされる。 なかでもからりと晴れた日を 「 さつき晴れ 」 と呼んで、すがすがしく、ここちよい日本の春の日日がつづく。

なでしこ01 なでしこ02空中庭園 ( ベランダ鉢植え ) なでしこの寄せ植え。  昨年の晩秋に近くの花屋で160円で購入。 黒ポットに入れたままにしていたが、花の少ない冬のあいだもつぎつぎと花をつけてたのしませてくれた。
櫻が散ったころにはさすがに花も枝もかれていたが、すべてをチョキチョキと散切り頭にして化成肥料をあたえたら、また新芽がでて花をたくさんつけた。  ノー学部はなでしこは好みではないようで、ほとんど面倒をみなかったが、さすがにその生命力にはおどろいたようだ。

とろろあおい播種 トロロアオイの花。四月下旬、とろろあおいの種を播く。 容器はとりあえず卵のパックトレイにした。 まだ双葉だが、五月下旬におおきめの鉢に定植すれば、晩夏に薄黄色の大輪の花をたくさんつけるはずだ。 花は2013年10月のもの。

五月二日[ 土 ] は <八十八夜> であった。  この日は立春 ( 二十四節気のひとつ。 太陽の黄経が 315 度のとき。 ことしは02月04日12時58分 ) から八十八日にあたる。
平均気温がたかめの昨今ではあまり実感がないが、古来 「 八十八夜の別れ霜 」 とされ、この日からのちは、霜害の心配がなくなり、「 茶摘みどき 」 とされている。 

<八十八夜>のころの新芽を摘んだお茶は 「 新茶 」 とされて珍重される。 商店街の茶店の店頭には、緑色の地に白抜きされた 「 新茶 」 の のぼり が薫風にゆれるときとなる。
四季の変化にめぐまれたわが国の、まさに春たけなわのときである。

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《 きょう、五月三日はさつき晴れ。 憲法記念日でもあるが 》

検索大手の某社は、このところさまざまな記念日に、特別製のデザインをこらしたタイトルをトップページにおき、それを祝ってきた。
ところで黄金週間 ( 和製語  Golden week ) とされるいま、昨日の <八十八夜> にも格別の設定はみられなかったし、本日五月三日の<憲法記念日>にも、また、きょうとあすには九州で<博多どんたく>が開催されているが、それでもトップページには通常のカログラムが措かれるだけだった。

あす五月四日は <みどりの日>( 1989年 平成元年に制定された。 自然に親しみ、その恩恵に感謝し、ゆたかなこころをはぐくむ日とされる ) であり、あさって五月五日は鯉のぼりが躍る端午の節句 <こどもの日> である。
すなわちこれから三日間にわたって、日本国民の祝日がつづくわけであるが、はてさて、検索大手の某社はどうするのであろう。 ちょっと楽しみではある。
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五月六日[ 水 ・ 憲法記念日の振り替え休日] 追 記 =========
黄金週間 ( 和製語  Golden week ) もきょうで終わる。
長期休暇のすくないわが国ゆえ、できたら昨秋にいって収穫の多かった、チェコのプラハにいきたかった。 ところが円安がすすんで、昨年とおなじコースでも十数万円余計にかかることがわかって断念した。

【 リンク : 花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ

プラハ

01 02 03 04プラハで市販の 長尺観光絵はがき より
DSCN5855 DSCN5851rotunda_01rotunda_02ロトンダ系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)
DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 liturgisch_02テクストゥール系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)

自国の通貨の価値をさげる、ないしはさがる ( 円安 ) とはそういいうことである。 ほんの一部の輸出指向型の企業が利潤をあげたとしても、ひろく国民の意欲は沈滞したままである。
その分海外居住のながい友人たちが、ドルやユーロをふところに、ひさしぶりに帰国してたずねてきたりしていた。 パリに居住してもう35年ほどにもなろうかという友人は、
「 久しぶりに紀伊国屋に寄ったけど、日本の図書はみんなえらく安っぽくなっているなぁ 」
と、なかばあきれたようにかたっていた。 悔しくもあり、なさけなくもあった。
また、町にはさまざまな国の観光客があふれている。 それだけでなく、一部の外国人の <爆買い> なども話題になる昨今である。
なにか複雑なおもいがしないでもない。

ところで先日しるした某検索大手のタイトルであるが、04月29日[水 ・ 昭和の日] からはじまった黄金週間 ( 和製語  Golden week ) に際して、なかなか含蓄のある対応をしていた。
  ◯ 04月29日[ 水 ・ 日本の祝日/昭和の日 ]    通常カログラム
  ◯ 05月03日[ 日 ・  日本の祝日/憲法記念日]    通常カログラム
  ◯ 05月04日[ 月 ・  日本の祝日/みどりの日 ]    バルトロメオ ・ クリストフォリ生誕360周年 特製カログラム
  ◯ 05月05日[ 火 ・  日本の祝日/こどもの日 ]     こどもの日 特製カログラム
◯ 05月06日[ 水 ・ 振替休日]                                通常カログラム

この間、某検索会社のトップページのカログラムをあらためてよくみたら、「 g 」 のディセンダーの右横に、ちいさく  日本  とあった。
いかに地球がちいさくなり、
国際化時代といえども、前述の円安問題とあわせて、考えさせられるできごとではあった。
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【友人 森郁男氏紹介】『瞽女 キクイとハル』(川野楠己著、鉱脈社刊) にあたっての礼状 》
長年の友人 : 森郁男さんは、詩人にして造形家であり、とてもこころのやさしいかたです。
このたび毎年恒例の、薩摩琵琶、正派 正紘会の『 琵琶演奏大会 』 のご案内とともに、
『 瞽女 キクイとハル 』 ( 川野楠己、鉱脈社 ) のご案内をいただきました。

ちなみに<瞽女 ごぜ>とは、「 盲御前 ( めくらごぜん )」 という敬称に由来する 女性の盲人芸能者のことです。( ウィキペディア : 瞽  女
近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に、北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人でした。

瞽女 キクイとハル

川 野  楠 己 著
四六判 並製 325ページ 定価 : 2,000円+税

<発行元 ・ 問い合わせ>
鉱  脈  社
880-8551  宮崎市田代町263番地
TEL. 0985-25-1758  FAX. 0985-25-7286
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こんな簡単な紹介を<朗文堂ニュース 4月28日>に掲載した。 すぐに森郁男氏からの達筆の礼状がはがきで届いた。 ここに紹介することには若干のためらいもあったが、はがきでもあるので紹介したい。
森郁男氏はがきこの紹介にあたって、当然たくさんの情報があるとおもって <詩人 ・ 造形家 森 郁男> でネット検索してみたが、やつがれのスキルでは情報に到達できなかった。  森さんはやつがれとはほぼ同世代だが、このような達筆なかたでもあり、また筆まめなかたでもあった。
お便りはいつも封書かはがきでいただき、@メールはなかったようにおもう。 おそらく森さんはデジタルメディアはあまり利用されず、それだけに検索などでは情報に到達しにくいのかもしれないとおもわれた。

やつがれは極めつきの悪筆で、その劣等感から、打圧式の英文タイプライター、打圧式和文タイプライターをはやくからもちいていた。 また専用ワープロが登場するとすぐに飛びついた。 したがって専用ワープロでは、「富士通 オアシス」、「シャープ 書院」、「NEC  文豪」などに次次とのりかえてきた。

その分パーソナル ・ コンピューターへの切り替えがおくれ、その後遺症 ( 俗称 IT 弱者 ) は無視できない状況にある。  つまりパソコンをもちいても、ほとんどが専用ワープロ時代のソフトウェアと大差の無いものをもちいている。
それよりなにより、最後の専用ワープロ ( 初期のものよりずいぶん小型になったとはいえ、その名もすごい ) 「 NEC 文豪 」 と、3.5 in ,  5 in ,  8 in などのフロッピーディスクが、机の引き出しを占拠したままである。
スタッフにはだいぶ以前に、もうディスク ・ ドライバーが無くなりましたから……、と宣告されているのだが、フロッピーディスクには貴重なテキストが保存されているわけだし、いまなおグズグズと廃棄に踏みきれずにいる。

それにしても、森郁男さんのことをどこかで皆さんにご紹介したいものである。

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《 04月06日 情報誌 MORGEN が 鈴木 篤著 『わたくしは日本国憲法です。』 書評を掲載 》
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株式会社遊行社 モルゲン編集部発行の <MORGAN  2015年04月06日号> ( 毎月一回発行。 「 モルゲン 」 はドイツ語で 〔 明日 〕 の意。 全国の中学校 ・ 高等学校の 「 朝の読書 」 実施校を中心に、全国中学校 ・ 高等学校などの教育施設に配布 ) において、明治学院学院長 木暮修也先生の筆によって、<あなた方の武器を失ってはいけない> と題して、鈴木 篤著 『わたくしは日本国憲法です。』 の書評を掲載していただいた。 木暮修也先生ならびに遊行社の皆さまに深甚なる感謝を申しあげたい。

皆さまのご支援をたまわり、『 わたくしは日本国憲法です。』 は順調な出荷がつづいている。 しかしながらわが国の憲法の周辺に暗雲が垂れこめているのもまた、昨今の憂うべき状況である。
ここに <殺さないで! 生かそう日本国憲法 『 わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい> の記録の一部を再掲載するとともに、同会の掉尾をかざって、声高らかに朗読された<日本国憲法 前文>を紹介したい。

◎ 主   催 : 殺さないで!生かそう 日本国憲法 『わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい 事務局
◎ 日   時 : 2014年09月06日[土] 午後01時-03時
◎ 場   所 : グリーンパレス 5 階 孔雀の間
〒132-0031  東京都江戸川区松島1丁目38-1
【 関連情報 : 『 わたくしは日本国憲法です。』  出版記念の集い 終了のご報告

9784947613905顔写真鈴木篤氏01 04

日 本 国 憲 法

施行、 昭和二二年五月三日

日 本 国 憲 法
前 文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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《 薩摩の国 鹿児島名物 かからん団子でごあんど! 》

< 花筏  朗文堂好日録-043 ふたつの桜餅 2015年03月23日 > で、ふつう 「 桜餅 」 と呼ばれている和菓子には、「 長命寺桜餅 」、「 道明寺桜餅 」 とされる二種類あり、その分布が東西に別れたりすることはなく、アメーバー状に双方の 「 桜餅 」 がひろがっていることを報告した。 これが意外に好評だったので( つい調子にのって )、今回も餅菓子を紹介したい。
桜餅

例年五月の初旬、端午の節句に際して、鹿児島の知人から送っていただくのが 「 かからん団子 」 である。 形状は 「 かしわ餅 」 と似ているが、ヨモギなどが刻みこまれており、甘さはほんのりとしたもので、むしろ風味と香りがたのしめて、「 かしわ餅 」 にまさる気がしている。
甘党のやつがれはこれが大好物で、一度に10個は食したいところだが、いつもノー学部にとりあげられ、わずかに三個ほどをちびちびと食す。 葉は食すにはチトかたい。

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かからん団子

若葉が芽ばえる皐月五月にあって、関東の 「 かしわ餅 」 と同様に、「 かからん団子 」 も、五月五日、端午の節句を中心に食される和菓子である。
カシワの葉は、新芽が育つまでふるい葉 ( 枯れ葉 ) が落ちず、新芽が成長して枯れ葉をふりおとすことから、「 子孫繁栄-家系が途切れない 」 という縁起をかついだものとされる。

端午の節句そのものは中国から渡来した風習であるが、中国ではその日にあたって 「 粽 ちまき 」 を食すことが多い。 したがって端午の節句に際して 「 かしわ餅 」 を食べるという風習は、18世紀ころの江戸で育まれたものとされている。 それが参勤交代で全国につたわり、地域ごとにすこしずつ変化して発展したものらしい。

そもそも樹木としての 「 かしわ」 は、中部地方以西にはあまり自生しないそうである。 したがって近畿圏以西ではもっぱらサルトリイバラの葉を代用して作られるようになったとされる。
薩摩の国、鹿児島の 「 かからん団子 」 も同様で、サルトリイバラもしくは同属のサツマ サンキライの葉をもちいている。

「 かからん団子 」 は、ヨモギなどを練りこんだ餅を、黒餡などで包んだもので、「 かしわ餅 」 というより、むしろ草餅にちかく、戦前の鹿児島の農村部では 「 ふっきぃい餅 」 と共に一部で手作りされていたという。
つまり鹿児島では 「 かから ( ん ) 」と呼ぶ葉 ( サルトリイバラもしくは同属のサツマ サンキライ。 かしわの葉ではない ) で草餅を包んだものである。 以前は庶民の菓子で、地元の和菓子店が地元客向けに作るケースが大半であったが、こんにちでは 「 かからん団子本舗 」 などが誕生して、薩摩土産としても販売展開しているという。
【 ウィキペディア : かからん団子  柏 餅  端 午

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《皐月五月で春本番。ベランダの艸花に蝶や蜂がやってくる朝が続く 》

< サイスケ > は、鹿児島市長田町の五代友厚生誕地をたずねたとき、石垣の割れ目にチンマリと張りついていた、まるで地苔類かとおもわれるほどのちいさな野艸を、三株、たばこの空き箱にいれて持ち帰ったものである。
かにかくに、五代友厚 ( 1836-85  幼名 : 徳助、通称 : 才助 ) は、そのうちに各方面であらたな震撼をあたえるとおもわれるが、いまのところはまだ静かにしておこう。
【 ウィキペディア : 五代友厚

サイスケの写真は、上から二葉が採種現場(2014年11月上旬)。
以下ベランダの鉢植えで、2015年03月末、04月末である。
冬を越した直後はデージーかとおもったが、どうやら世間一般では雑草の代表のように、忌み嫌われている、名を知らぬ野草のようである。 やつがれは雑草という名の艸はないと常常いっている。 むしろいかにも五代友厚の旧家に育つ艸らしくて面白いとおもう。 どんな花が咲くのか、しっかり見まもりたい。

DSCN8651 DSCN8664DSCN8561DSCN8652オレンジ ・ フユシラズ  ツルコザクラ
ツルコザクラは一年草のようで、春先には勢いをうしなっているが、オレンジ ・ フユシラズはツルコザクラを押しのけ、文字通り冬知らずで咲きつづけ、花柄つみを丹念にていたので、いまもって次次と花をつけている。 いつまで咲きつづけるかみていたい。冬知らずだけではないようだ。
   DSCN8558オレンジ・フユシラズ鹿児島うまれのいちご ( 品種忘却 )。鹿児島市内の種苗店で気まぐれに購入した。
寒風に耐えて冬を越したが、最近は植木鉢から大脱走をこころみていて困惑している。

DSCN8563DSCN8650 DSCN8644ムルチコーレ
DSCN8572本場由来の野沢菜-2015年01月01日播種。 花咲くはずが葉が茂るばかり…… 。 かく嘆いたのは弥生三月の終わりであった。
卯月四月の終わりには、これでは菜の花も顔色なかろうというまでのみごとな花を連日つけている。 小型のアゲハチョウと蜂がもっともお気に入りなのが、この野沢菜の花である。

蝶や蜂といっしょに花を楽しんだあと、種子を採種してご希望のかたにおわけするつもりである。 
DSCN8568DSCN8648野沢菜の花と種子──────────
《 五月五日、こどもの日。  おもいたって足利学校にいったはずが…… 》
ことしの五月の連休は、かくのごとく、どこに行くのではなく、なんとなく出社していた。
おもいたって、栃木県足利市のふるい教育施設<足利学校>にでかけた。 かつて足利のちかく、小山市に商用でしばしば出かけることがあり、その帰途に<足利学校>に寄ったが、なにかの都合で閉鎖されていた。
20150506173357288_0002 20150506173357288_0001 足利学校のちかくで DSCN8752浅草から東武線の特急でさほどの時間ではなく東武足利市駅につく。<足利学校>は徒歩圏内にあった。
旅の同行者、ノー学部の挙動が不審だった。 車中一枚のフライヤーをとりだし、せっかくだから、しかも近いから、<あしかがフラワーパーク>にいきたいという。
大混雑だった。ひとに中毒するやつがれ、疲労困憊。 されどおもしろくはあった。
報告はいずれまた …… 。
20150506173746921_0001あしかがフラワーパーク 栃木県足利市の大藤 夜八時春のおぼろ月が。足利市駅。