カテゴリー別アーカイブ: 字学

【字学】 忌み数としての 13 の位置づけ そしてわが国最大の忌み数 四 は ── 嗤ってすませたい迷信 ?

《 旅のつれづれに 忌数 イミカズをみていた 》
「衣食住に関心が無い」と日頃から嘯いているやつがれ、どうやら観光にも向いていないようで、帰国後は「観光写真」の整理どころではなく、たまった業務の消化に当分のあいだおわれることになる。
むしろ旅とは、その地のひとと暮らしをみたり、その地の艸木をみているだけで、うれしい時間であり、収穫の多い体験の蓄積となる。
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昨年六月、北京空港のメーンサインボードにみるローマ大文字の選択を、活字書体の判断における三原則 ── レジビリティ、リーダビリティ、インデユーシビティ : legibility, readability and inducibility という視点から紹介した。
このシリーズは五回連載のつもりでプロットをたてていたが、小社周辺にはおもいのほか「サインデザイン」を主要業務にされているかたがおおく、問題提起はしたものの、むすびないし結論の提示はしていない。
すなわちここでは、ローマ大文字の判別性 Legibility を中心にかたったが、数字(アラビア数字)には触れなかった。意外に知られていないが、数字にももちろん判別性 Legibility の視点から、サインなどでは除外されているものがある。

おりしも東京オリンピックをひかえて大型施設の建設がさかんである。そこではサインシステムに関する熾烈なコンペもひかえており、来社されて相談されたかたには相当レベルまで対応策を提示したが、【北京空港のサインからⅣ】、【北京空港のサインからⅤ】は、当分非公開とさせていただいた。

ということで、今回は旅のつれづれに【忌数 いみかず ── 忌むべき数。「四」(死)、「九(苦)」など】『広辞苑』を見てみよう。
北京01 北京02 北京03◯ 花筏 【北京空港のサインからⅠ】 チェックインカウンター表示 A,B,C,D,E,F,H,J,K,L あれっ! G, I はどこに ?
◯ 花筏 【北京空港のサインからⅡ】 字間調整と、漢字・ローマ大文字の判別性 Legibility, 誘目性 Inducibility をかんがえる
◯ 花筏 【北京空港のサインからⅢ】 巨大競技場施設のゲート表示からはずされている、いくつかのローマ大文字の例をみる

《 ロシアの航空会社 : アエロフロート利用で チェコの首都 プラハへの旅 》
アエロフロート機内座席配置 アエロバスA330アエロフロート 機内座席配置 同社URLより ここには4番の列、13番の列もあった。

DSCN6632 DSCN6639《 トラベル Travel と トラブル Trouble は近接語ないしは類似語かもしれない 》
日常生活とはなれて旅にでると、さまざまなトラブルに遭遇する。そのときは狼狽したり腹がたつこともあるが、ときの経過とともに浄化され、いずれも懐かしいおもいでになるのも旅のおもしろさのひとつかも知れない。

島国日本を脱出して外国への旅となると、よほど時間と資金のゆとりがない限り航空機の利用になる。それもアジアの近隣国ならともかく、欧州やアメリカ大陸への旅となると、どうしても10時間を優にこえる長距離・長時間の旅となるし、直行便でなくトランジットが加わると、もっと時間とストレスが増す。
パスポート、携行品、そして最近はベルトまで外しての身躰チェックなど、さまざまな手続きと検査を終え、ようやく機内のひととなる。

ドアがバタンと閉まると一気に圧迫感が増す。やがて滑走路に向けて地上走行がはじまり、緊急時における対処法について、国際規定にのっとった対処法が乗務員によってなされる。最近はヴィデオ上映の会社もあるが、安全ベルト、酸素マスク、救命胴衣などの器具の装着を実物もちいて説明がなされる。それを見るともなく、聞くともなくしているうちに、次第に離陸に向けた緊張感が機内をおおう。

DSCN5322 DSCN5317 DSCN5331 DSCN6583一昨年、チェコのプラハに行ったときのこと。このときの航空会社はロシアのアエロフロート、機体はエアバスの大型機で、モスクワで中型機に乗り換えてプラハまで往復した。
エアロフロートの機内食はまずいという評判が一部にあるが、成田 → モスクワ間は、成田で積み込んだ日本製の食事となるからまったく気にならなかった。むしろ量が多くて持てあますほどだった。
モスクワで乗り換えて、中型機でプラハへの4時間ほどの飛行中にも食事がでたし、帰途にもでたが、いずれも旨かった。ロシアの堅いパンは、フランスパンと同様に、そういうものだとおもえば旨い。

DSCN5325 DSCN6585ブロガーの投稿に「モスクワ空港にはおおきな喫煙室がある」とあちこちに書かれていた。
トランジットで二時間ほどの時間があったので期待して駆けつけたら、空気清浄機はあれど頑丈な鍵がおろされて閉鎖されていた。どうやら最近突然閉鎖されたらしい。その分男性用トイレはひどいことになっていたが。

JAL や ANA(エイ・エヌ・エーと読んだほうが外国のタクシードライバーにはよく伝わる) といった、わが国の航空会社以外の航空機での旅の楽しみのひとつに、その国の独自言語と独自文字表記による『機内誌』と、無償で配布される新聞の閲覧がある。
そしてやつがれ、かつてニューヨークやサンフランシスコのホテルで「13階が無い」ないしはエレベーターが停止しないホテルに宿泊したことがあり、「忌数-いみかず」をそれとなく気にしてみている。

アエロフロートの機内誌には日本語版もあったが、基本的にロシア文字である。
いわゆるロシア文字とはキリル文字の一派とされ9世紀、ギリシャ人の宣教師キュリロス(Kyrillos。ロシア名キリル)が、ギリシャ文字をもとに福音書などの翻訳のために考案したグラゴール文字をもとにして、10世紀はじめにブルガリアで作成した文字とされる。現在のロシア文字はこれを多少改修したものである。

当然ながらキリル文字を使用する国〻は、ローマンカソリックや、プロテスタントの国〻とは、様〻な面で異なる生活様式や思考・行動がある。この言語と文字表記を背景とした「正教 オーソドックス」は、チェコでもギリシャでもおおいにやつがれの思考を悩ませた。
以下に<正教 Orthodoxy>を『世界文学大事典』(集英社)より紹介する。

【 正教 [英]Orthodoxy,[ロシア]Православие 】
ローマ帝国の東方でギリシャ文化を背景に展開したキリスト教。東方正教、ギリシャ正教という呼称でも知られる。のちに西方のカトリック教会とは袂を分かった。
使徒伝承を忠実に保持していると自認し、原語的には〈オルトス=正しい〉〈ドクサ=神の賛美、教え〉に由来する(ロシア語もそれを表現している)。
ロシアには10世紀ごろから入り、大公ウラジーミル(?-1015)が国教として正式に受容した(988〔989〕)。ロシアはビザンティン帝国の滅亡後、正教世界の中心となった。正教はロシア文化の背景の一つを成す。

《 陽気なロシア人 飛行機の離着陸のたびに ハラショー の大歓声と拍手 》
これも団塊オヤジのブログからの知識だったが、アエロフロートのパイロットは、空軍出身者が多く、飛行経験時間もながいので安全性がたかいとする。それでも乗客は離着陸のたびに「ハラショー khorosho 」と一斉に歓声をあげ、機内は拍手につつまれる、とあった。
ところが国際線だからという遠慮があったのか、成田 → モスクワ、モスクワ → 成田への離着陸の際には歓声も拍手もあがらず静かだった。すこしがっかりした。

それがいちおう国際線ではあったが、乗り換えてヨーロッパ域内線というのか、モスクワ ⇄ プラハへの便ではまるでちがった。
離陸の際はまばらだったが、着陸(に成功)すると、機内から一斉に「ハラショー khorosho 」の大歓声とおおきな拍手がわきあがった。
ハラショーは辞書的には「感動の意を表す語。すばらしい。よい。結構」の意のロシア語であるが、どちらかというと「ヨッシャ~、ヤッタァ~、バンザ~イ」というノリにちかく聞こえ、航空機独特の緊張感は機内から一斉に消える。


アエロフロート機内座席配置 アエロバスA330したがってしばらくの地上走行のあいだ、機内はまことに和気藹藹、大声でのロシア語が飛びかって、和やかかつにぎやかになる。やつがれはエコノミー席の11番の列で、うしろには12, 13番の列もふつうにあった。
乗降デッキが横づけされて重いドアが開くと、談笑を交わしながらのゆっくりとした歩行になったため、たまたまやつがれビジネスクラスの箇所で歩行が停滞した。
その席の列はわが国の一部では忌避される四番であった。

《 Quatar カタール航空で、成田発 ドーハ経由 ギリシャへの旅 》
ことしの五月、この連休となる時期には例年サラマ・プレス倶楽部のイベントが開催されてきたが、ことしはそれが11月に変更されたので、普段の「弾丸旅行 ── 現地泊二泊・機内泊 往復二泊」にかえて、めずらしくゆっくりと旅をした。
目的地はギリシャ、首都アテネとカルデラ環礁のサントリーニ島の二ヵ所。

航空会社は JAL との共同運行によるカタール航空。ギッシリ満員の乗客だったが、日本人客室乗務員もいて、11時間50分の長時間フライトでドーハの巨大ハブ空港、ハマド国際空港カタールに到着した。
出発は日本時間で夜の22時20分だったので、成田空港での待機中にあらかたお腹はいっぱいになっていたが、水平飛行になってまもなく夕食が配られた。
興味ぶかかったのはトレーの敷紙に「ハラール食品」とおおきく表示され、ハラール認証機関名がアラビア文字で表示されていたこと。帰路もおなじ経路だったが、いくぶんスパイシーな味つけだっただけで、「ハラール食品」はやつがれは格段の抵抗はなかった。

【 ハラール [アラビア語] 】
「イスラム法(シャリーア)で認められたこと(もの)」を意味するアラビア語。
おもにイスラム法上で許される食べ物をさす。逆に「許されないもの」として禁止されていること(もの)をハラーム、中間にあたる「疑わしいもの」は、シュブハという。[中略]

イスラム教徒が食べることを許される食品は、規律に沿って屠畜されたウシやヒツジ、ヤギなどの動物、野菜や果物、穀類、海産物、乳製品と卵、水などである。
飲食が禁じられているものは、ナジス(不浄)とされるブタやイヌ、アルコールを含む飲料や食品、牙やかぎ爪で獲物をとるトラ、クマ、タカ、フクロウなどの動物、毒性のある動物や害虫、ノミやシラミ、ナジスを餌とする動物などである。

イスラム圏に輸出される食品や菓子、化学製品などについては、イスラム教徒が摂取できるかどうかの審査(ハラール認証)を行う認証団体が各国にあり、ここで認証されたものは、ハラール食品やハラール製品などとよばれる。
『日本大百科全書』(小学館)

出発前に仕事の片付けにおわれていたので、いくぶん疲労もあって写真を撮らなかったが、ドリンクメニューにもソフトドリンクばかりがならび、少なくともエコノミー席ではアルコール類はなかったようである。
アラビアのイスラム教諸国では「ハラール」の掟は厳格らしい。

カタール航空座席配置カタール航空機内座席配置図 この機種には13番の列はなかった

今回の旅は、相当はやくからスケジュールができていたので、いわゆる「早割」で、料金がやすく、また乗り継ぎ便をふくめて坐席番号もあらかじめ指定されていた。
希望は昇降に便利で、トイレにも行きやすく、機内サービスもゆきとどく、前方の11B・11C(通路側確保)が条件だった。

アエロフロートでの旅と同様機体はすべてエアバスで、ドーハで一度大型機から中型機に乗り換え、五時間ほどのフライトでアテネ新空港に現地時間12時10分についた。
いわゆる南回りでの欧州は久しぶりだったし、カタールという、富裕な産油国であり、イスラム教国の航空会社ははじめてで新鮮だった。

《イスラム教の国も、13を忌避するのか?》
成田からドーハまで11時間50分の長期フライトの間、なんどかトイレにたった。前方の11番から後方のトイレの間に、13番の列が無いことに気づいた。
あれっ、イスラム教徒も13を忌避するのかとふしぎにおもったが、乗り継いだドーハ → アテネの便の機体でも、同様に13の列はなく、11, 12, 14 の順に坐席が配置されていた。
結局往復都合4回、カタール航空の機体を利用したが、13番の列はみなかった。
また、搭乗時にそれとなくみていたが、通常ファーストクラスとビジネスクラスに配される四の列はあたりまえのようにあった。
帰国後カタール航空のURLでしらべたら、機種によっては13番の列もあることを知った。ハラールには厳格であっても、13を忌み数とするふうは少ないようであった。

《旅の最終日、ギリシャ:サントリーニ島からアテネ新空港へ 13忌避の本家本元か》
ギリシャでは、前半をアテネ市内と近郊の観光とし、後半は高速フェリーで八時間ほど、火山噴火の大カルデラ環礁でしられるサントリーニ島でゆっくりした時間をすごした。
最終日、サントリーニ島キララ空港からアテネ新国際空港への45分のフライトとなった。

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ギリシャでは13という数字をきらうふうが随所にみられた。ホテルの部屋番号は11, 12,
14 となるし、劇場などの坐席番号でも13はほとんどみないということであった。
そのためか、サントリーニ島/キララ空港から、アテネ新国際空港までの45分のフライトで利用した「エーゲ航空 Aegean」の坐席番号、荷物入れには急いで撮影したため不鮮明ではあるが13番は無かった。
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《帰国後に【忌み数】で辞書漁りをしてみたところ》
わが国の辞書、辞典類の多くは、積極的にこの語に触れることはなく、どちらかというと、渋〻紹介しているのではないかとおもえるほどであった。
積極的に、豊富な図版資料をもちいて触れていたのは『フリー百科事典ウィキペディア』と、研究社の英語辞典であった。

『日本大百科全書』(小学館)
【忌み数 いみかず】
忌んで使用を避ける数。数について吉凶をいうことはいろいろの事柄について行われている。その多くはことばの音が不吉なことに通じるのを理由にしていわれている。たとえば四は死に通じ、九は苦と同音なので忌まれている。
それについての俗信をあげると、四の日の旅立ちや引っ越しはいけない。四の日に床につくと長患いする。また六についてはろくなことはなし、一〇は溶けるといい、一九は重苦、三三はさんざん、四九は死苦といって忌まれている。いわゆる厄年といわれているものにもこの考えがみられる。19歳、33歳、42歳、49歳などがそれである。

奇数・偶数については、中国では奇数を吉とし、日本では偶数を吉としていたともいわれるが、かならずしもそうとは決まっていない。日本では古来八の数はよいと考えられているが、中国では七を吉としているようである。しかし贈答品については日本でも四、六、八を避け、三、五、七、九をよしとしている。壱岐島では婚姻に四つ違いは死に別れ、七つ違いは泣き別れなどといい、奇数・偶数とは関係ないようである。

13という数を嫌うことは西洋ではキリストの最後の晩餐の陪席者が13人だったことによるという。13は日本でも厄年の一つとされている。
13歳の子女が十三詣(まいり)と称して虚空蔵菩薩に開運出世を祈願する風習が各地にある。また山小屋では13人は悪いとされる。船にも13人乗りを嫌う地方があり、三宅島では藁人形などを一つ加え14にするとよいといっている。

『日本国語大辞典』(小学館)
【いみ‐かず  忌数】
〔名〕忌んで避ける数。四(死)、九(苦)などの類。

『広辞苑』(岩波書店
【忌数 いみかず】
忌むべき数。「四」(死)、「九(苦)」など。

『フリー百科事典 ウィキペディア】
【忌み数】
忌み数(いみかず)とは、不吉であるとして忌避される数である。単なる迷信とされる場合もあるが、社会的に定着すると心理面、文化面で少なくない影響を及ぼす。漢字文化圏では 4 をはじめとして、悪い意味を持つ言葉と同音または類似音の数字が忌み数とされる事が多い。西洋では 13 がよく知られている。〔以下リンク先にて

『フリー百科事典 ウィキペディア』
【13 忌み数】
13 は、西洋において最も忌避される忌み数である。「13恐怖症」を、ギリシャ語からtriskaidekaphobia(tris「3」kai「&」deka「10」phobia「恐怖症」)という。なお、日本においても忌避される忌み数であったとする説がある。〔以下リンク先にて

『医学英和辞典』(研究社)
trìs・kài・dèka・phóbia
n 十三恐怖症《13 の数字を恐れること》.
【Gk treis kai deka three-and-ten 13+-phobia】

『新大英和辞典』(研究社)DSCN3943[1]
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 《経験智と読書智、もっと調査が必要とはいえ、当分は〔精神医学的に〕13忌避はしない》
かつて読売ジャイアンツにクロマティという外野手がいて、ずいぶん話題の多いひとであったが、背番号44番を背負ってジャイアンツファンからは好感を持ってむかえられていた。
やつがれ、もともと鈍感なのか、13番列のエコノミー席に座ったとしてもなんら気にならないとおもうし、四・九もほとんど意識したことがない。
とりあえずは〔精神医学〕用語とは距離をおいて、のんびりしていたいものである。

【資料紹介】 東京大学文書館 重要文化財『文部省往復』 明治期分137簿冊PDF公開開始

東京大学文書館は、東京大学にとって重要な法人文書及び同学の歴史に関する資料等の適正な管理、保存及び利用等を行うことにより、同学の教育研究に寄与することを目的として2014年4月に設置されました。
東京大学文書館は、東京大学百年史編集室および東京大学史史料室で収集した資料及び成果を引き継ぎつつ、新たな役割を担って活動しています。

■ 特定歴史公文書等 文部省往復

『文部省往復』は、東京大学と文部省との間でやりとりされた公文書綴です。
文部省が所蔵した資料は関東大震災などの影響によって失われており、東京大学文書館が所蔵している『文部省往復』は、日本近代高等教育の成立期の稀少な歴史資料です。
これは2013年2月に重要文化財指定を受けており、学術的に重要な資料として評価を得ています。

『文部省往復』は、これまで東京大学文書館の前身である東京大学史史料室で保存・公開されてきましたが、劣化の進行により頻繁な閲覧提供が難しくなっていました。
そのために同館では、旧文部省側には存在しない歴史資料を保存し、広く活用を促進するために、デジタル画像化・メタデータ作成を進めてきました。

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先般同館所蔵資料のデジタル画像の公開が開始されました。その第一弾は、『文部省往復』(S0001)です。

『文部省往復』は重要文化財に指定されており、その中の明治期の簿冊〔書類などを綴じて冊子としたもの〕137冊を、科研費プロジェクト「文部省往復を基幹とした近代日本大学史データベース」(代表 : 東京大学大学院 情報学環  教授 吉見俊哉)でデジタル化されました。画像は同館HP上に掲載されている
資料目録 http://www.u-tokyo.ac.jp/history/S0001.html  よりアクセスすることができます。
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{ 新 宿 餘 談 }
先般デジタル公開された『文部省往復』は、『東京大学百年史』(東京大学百年史編集委員会編、全10巻、1984-1987年)をはじめ、『年譜 東京大学1887-1977-1997』(東京大学史史料室編集・構成。創立120周年記念で作成された写真入り年譜、1997年10月)など、多くの記録にもちいられてきた貴重な資料である。
しかも、同館が述べているように<『文部省往復』は、日本近代高等教育の成立期の稀少な歴史資料>にとどまらず、成立期の近代印刷 ≒ タイポグラフィの稀少な歴史資料である。
まずその明治期分137簿冊がデータ化され、公開されたことをおおいに欣快としたい。

東京大学の 沿革 をたどると、明治10年(1868)4月12日、東京大学創設とある。これは同大の主要な前身たる東京開成学校と東京医学校を合併し、旧東京開成学校を改組して、法・理・文の三学部とした。また旧東京医学校を改組し医学部を設置した。また東京大学予備門を付属していた。
さらに上記の施設の淵源をたどると、貞享元年(1684)の徳川幕府の「天文方」をはじめ、昌平坂学問所(昌平黌)、種痘所(西洋医学所)などのさまざまな教育施設が、業容と名称をさまざまにかえながら、漏斗にあつまる液体のように、「第一次東京大学、帝国大学、東京帝国大学、東京大学」へと収斂されてきたことがわかる( 沿革略図 )。
!cid_24E9F9FC-FB87-48D6-B903-1EA9AA128284 !cid_A8095C08-3F5F-40C3-A674-CCDD92543E22 !cid_8A4D6963-3481-4BF9-B05D-34212F3202F7《 『文部省往復』 その一端をみる 》
『文部省往復』明治4年背文字特定歴史公文書等 文部省往復
ID S0001/Mo001  『文部省及諸向往復 附 校内雑記』〔明治四年(甲)東京帝国大学〕
『文部省往復』明治4年版目次p.12 『文部省往復』四〇七丁 『文部省往復』四〇八丁特定歴史公文書等 文部省往復は、草創期の明治4年でも甲乙の二分冊よりなる。
巻頭の目次に表記されているのは丁記であり、データーのファイル番号とはことなる。
◯ S0001/Mo001 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)
明治4年1月-明治5年1月、 達之部、准允之部、伺之部、上申之部、届之部、校内雑記を収録 614丁
◯ S0001/Mo002 『文部省及諸向往復』 明治四年 (乙)
明治4年1月- 明治4年12月、 本省往復之部、太政官及諸寮局往復之部、駅逓寮往復、東京府往復之部、諸県往復之部、諸学校往復之部を収録 610丁
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『文部省往復』明治4年版甲・乙二分冊をようやく読みおえた。あいまいだったところが明確になり、脈絡がつかなかった部分が道筋がついてきた。いまはオリジナル資料の威力と凄みをしみじみと味わっている。
あらためてデータ作製と公開にあたられた東京大学文書館とスタッフの皆さんに深甚なる敬意を表したい。

◯ S0001/Mo001 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)の巻頭、目次ページ四〇七丁に意外な記録をみつけた。

四〇七丁  長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件

昨2016年05月朗文堂サラマ・プレス倶楽部主催<Viva la 活版 ばってん 長崎>が開催された。その際地元長崎での研究と、東京での研究がつきあわせられ、平野富二の生家の地が特定されるなどのおおきな成果があった。
その後「「平野富二生誕の地」碑建立有志会」(代表:古谷昌二)が結成され、全国規模の会員の運動となって、生誕地に記念碑を建立すべく活動がはじまっている。

あわせて、工部権大丞山尾庸三の命により、長崎から東京への移動を命ぜられた活字版印刷器機と、活字と活字鋳造機が、どこへ、どのように持ち去られ、そしていまはどのようになっているのか・・・・・・というテーマで積極的な調査がはじまっている。

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「平野富二生誕の地」碑建立有志会 URL より
明治4年から明治5年の平野富二の動向[古谷昌二執筆]

新政府直轄の長崎府による経営となった長崎製鉄所の新組織で、頭取本木昌造の下、機関方として製鉄所職員に登用され、1869年1月(明治元年12月)、第一等機関方となる。
同年4月(明治2年3月)、イギリス商人トーマス・グラバーから買取った小菅修船場の技術担当所長に任命される。その結果、船舶の新造・修理設備がなく経営に行き詰まっていた長崎製鉄所に大きな収益をもたらす。
さらに、立神ドックの築造を建言してドック取建掛に任命され、大規模土木工事を推進、多くの人夫を雇うことによって長崎市中に溢れる失業者の救済にも貢献。

その間、元締役助、元締役へと長崎製鉄所の役職昇進を果たし、1870年12月(明治3年閏10月)、長崎県の官位である権大属に任命され、長崎製鉄所の事実上の経営責任者となる。その時、数えで25歳。
折しも長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管されることになり、工部権大丞山尾庸三が経営移管準備として長崎を訪れ、帳簿調査などで誠実な対応振りを高く評価される。

長崎製鉄所の工部省移管により、1871年5月(明治4年3月)、長崎製鉄所を退職。造船事業こそ自分の進むべき道と心に決めていたことから、工事途中の立神ドック完成とその後の運営を願い出るが果たせなかった。
1871年8月(明治4年7月)、活版事業で窮地に追い込まれていた本木昌造から活版製造部門の経営を委嘱され、経営方針の見直しと生産体制の抜本改革を断行、短期間で成果を出す。需要調査のため上京、活字販売の見通しを得る。

1872年2月(明治5年)になって、安田古まと結婚し、新居を長崎外浦町に求める。近代戸籍の編成に際して平野富二と改名して届出。
同年8月(和暦7月)、新妻と従業員8人を引き連れ、東京神田和泉町に活版製造所を開設、長崎新塾出張とする。活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たし、木版印刷が大勢を占める中、苦労しならが活版印刷の普及に努める。

政府、府県の布告類や新聞の活版印刷採用によって活字の需要が急速に伸張したため、1873(明治6)年7月、東京築地に移転。翌年、鉄工部を設けて活版印刷機の本格的製造を開始。平野活版製造所または築地活版製造所と称する。

 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)の目次「四〇七丁 長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件」から、本文四〇七丁をみた。
長崎にあった活字版印刷器機と活字鋳造機は、当時の最先端設備であった。そのため断片的な記録ながら、これらの設備の獲得のために、「工部省と文部省(大学)とのあいだで紛争があった」という記録は印刷史の記録にもわずかにのこっていた。

四〇七丁の記事は、大学南校(のちに東京開成学校から東大へ)の用箋にしるされ、湯島にあった大学にむけて、
<長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件――大意:長崎県にあった活字版印刷設備は当校〔大学南校〕がうけとる約束だったのに、長崎県から工部省に渡された件>と題して、「当校には断りもなく工部省に横取りされた。約定違反であり、不条理である」と憤懣やるかたないといった勢いでしるされている。

この記録からみても、大学南校、大学東校には長崎県活版伝習所関連の設備の大半は到着しなかったとみられる。また両校の最初期の教科書類を瞥見した限りでは、長崎由来の活字を使用した形跡はみられない。

ただし大学南校においてはオランダ政府から徳川幕府に献上された「スタンホープ手引き式乾板印刷機」をもちいていたとする記録はのこっている。
そして長崎から移管を命じられた活字版印刷器機・活字鋳造器械・活字などは大半が工部省勧工寮に到着したが、それにかえて新進気鋭の平野富二が、新妻とスタッフを連れて、再購入した新鋭機とともに東京に乗りこんできたのである。

1872年2月(明治5年)になって、富次郎は安田古まと結婚し、新居を長崎外浦町に求める。近代戸籍の編成に際して平野富二と改名して届出。
同年8月(和暦7月)、新妻と従業員8人を引き連れ、東京神田和泉町に活版製造所を開設、長崎新塾出張とする。活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たし、木版印刷が大勢を占める中、苦労しならが活版印刷の普及に努める。

すなわち、『文部省往復』と、「平野富二生誕の地」碑建立有志会での研究成果を照らしあわせると、平野富二の東京への初進出の場所「神田和泉町」とは、大学東校(のちに東京医学校から東大医学部へ)の敷地内そのものであった。
これらのことどもは、先行した印刷史研究関連資料からは容易に引き出せなかったが、東大医学部の前身・大学東校の記録も『文部省往復』には満載されている。

そしてこの神田和泉町時代の大学東校内のおなじ建物に、時期こそ違ったが寄宿し、ここでまなんだ、医師・軍医・文学者/森鷗外と、やはりここで寄宿し、それを指導した石黒忠悳らの記録も次〻と精査されはじめている。

本年は明治産業近代化のパイオニア-平野富二生誕一七〇周年である。

その研究成果の展示・発表と、平野富二の東京での足跡をたどるバスツアーが企画されていると仄聞する。当然神田和泉町も築地二丁目と同様に、重要な訪問地として設定されている。ここから近代医学教育と治療が本格的にはじまり、本格的な近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィも、ここで呱呱の産声を揚げたことになる。

【 詳細 : 東京大学 東京大学文書館 特定歴史公文書等 文部省往復 】

【展覧会】 董其昌とその時代-明末清初の連綿趣味/東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画

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ぢゃむ 杉本昭生【活版小本】 次の本が出来るまで その41

七十二候(しちじゅうにこう)
「七十二候」とは、「二十四節季」をさらに約五日ごとに分類し気候の変化や動植物の様子を表現したものです。
12月2日より12月31日までを掲載します。
※大雪 次候の虎始交は書家であり画家の中村不折氏の作品です。最後に製作者のリストを掲載しておきます。いつか本にできればと思っています。
しかし印をひとつずつ押すのは大変でしょうね。でも楽しそう。
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書道博物館 施設概要】 冒頭部・部分
書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館である。
殷時代の甲骨に始まり、青銅器、玉器、鏡鑑、瓦当、塼、陶瓶、封泥、璽印、石経、墓券、仏像、碑碣、墓誌、文房具、碑拓法帖、経巻文書、文人法書など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術史上貴重な文化財がその多くを占めている。

こうしたコレクションと、昭和11年11月に開館した当初の博物館建設に伴う一切の費用は、すべて不折自身の絵画や書作品の潤筆料から捻出した。その偉業は日中書道史上においても特筆されるべきものである。
こうして書道博物館は、開館以来約60年にわたって中村家の手で維持・保存されてきたが、平成7年12月、台東区に寄贈された。そして平成12年4月に再開館したのが現在の台東区立書道博物館である。
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{新宿餘談}
中国明王朝は朱元璋(太祖)がほかの群雄を倒し、蒙古族王朝元を北に追い払って金陵(南京)に建朝した。三代成祖(永楽帝 1402-24)のとき北京(順天府 1421)に遷都。
明代前半期は久しぶりの漢族正統王朝のもとで「文藝復興」の時代とされ、また奇妙なことに西欧の「ルネサンス」の時代ともかさなっている。
ところが後半期は、皇族は奢侈にはしって治世が安定せず、宦官の専権が目立ち、各地で農民の叛乱が勃発し、異民族からの圧迫も多く、国勢は次第に衰微をみた。

董其昌(とう-きしょう 1555-1636)はそんな明朝末期に活躍した文人であり、特に書画に優れた業績を残して「藝林百世の師」とされた。また清朝の康煕帝が董其昌の書を敬慕したことは有名で、その影響で清朝においては正統の書とされた。

ところで、董其昌が活躍した明末清初の時代とは、わが国では徳川時代初期にあたり、徳川幕府の正統の書とは、楷書でも行書でもなく「お家流」とされた連綿体であった。
またここ最近、規矩の明確な明朝体・ゴシック体の使用に「活字ばなれ」と称されるような疲労感がみられ、ひら仮名からはじまり漢字にいたる「連綿体」が世上の関心をあつめている。
この奇妙な符合がどこから発しているのかを考えるのに好適な展覧会が、新春早早から開催される。
書道博物館オモテ 書道博物館ウラ

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
董其昌没後380年
董其昌とその時代一明末清初の連綿趣味-

中国明王朝の時代に文人として活躍した董其昌(とう-きしょう 1555-1636)は、高級官僚として官途を歩むかたわら、書画に妙腕を発揮しました。
書ははじめ唐の顔 真卿を学び、やがて王羲之らの魏晉時代の書に遡ります。さらに当時の形式化した書を否定して、平淡な書風を理想としながら、そこに躍動感あふれる連綿趣味を盛り込みました。
画は元末の四大家から五代宋初の董 源に遡り、宋や元の諸家の作風を広く渉猟して、文人画の伝統を継承しつつ、一方では急進的な描法によって奇想派の先駆けとなる作例も残しています。

董其昌は書画の理論や鑑識においても、卓越した見識を持っていました。『画禅窒随筆』は、董其昌の書画に対する深い理解と理念を示すものとして知られています。

明王朝から清王朝への移行は、単なる政権交代ではなく、漢民族が異民族である満州族に覇権を奪われた歴史上の一大事でもありました。
董其昌によって提唱された書画の理念は、明末から清初にかけた激動の時代の書画にも濃厚に反映されました。連綿趣味は、当時の人〻の鬱勃たる心情を吐露する恰好の場となったのです。
ところが満州族である清の康熈帝と乾隆帝が董其昌の書画を愛好したことで、その後三百年に及ぶ清朝においても董其昌は大きな影響を与え続けました。

今年度は、董其昌の没後380年にあたります。このたび14回目を迎える東京国立博物館と台東区立書道博物館の連携企画では、中国書画の流れを大きく変えることとなる董其昌に焦点をあてながら、そのあとさきに活躍した人〻の書画を取りあげます。
両館の展示を通して、魅力あふれる董其昌ワールドをお楽しみください。
【詳細:書道博物館
【詳細:国立博物館 東洋館

【図書+書体紹介】 当代の人気者ふたりが語り尽くす 集英社『みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議』+くらもち銘石B

20161126145209_00001 20161126151043_00001みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議  
◯ 著者:みうら じゅん  著者:宮藤 官九郎     

◯ 発行所:集英社  ISBNコード: 978-4-08-780763-9
◯ 判型/総ページ数:四六判/256ページ 
◯ 定価:1,200円(本体)+税
◯ 発売日: 2016年7月20日
【 詳細 : 集英社 BOOKNAVI
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【内容紹介】
「ゆるキャラ」「マイブーム」の名付け親として知られるみうらじゅんと、
『あまちゃん』『ゆとりですがなにか』でおなじみの脚本家、宮藤官九郎。

彼らが、「男と女のあいだに友情は成立するのか?」「なぜ戦争はなくならないのか?」「なぜ男はハゲを恐れるのか?」といった、世界中の誰もが疑問に思いながらも曖昧なまま放置されてきた〝難題〟について、人類を代表して語り合います。

サブカルネタを軸にしながら、政治や国際情勢、下ネタまで縦横無尽に繰り広げられる“知と恥”の哲学問答は、決して世の中を憂うことなく、くだらなさの中にこそ人生の真理を見出していくための知恵が満載です。
混沌の時代を生き抜くための、グローバルスタンダードがここにある!

【本書で取り上げた議題】
◯ なぜ男と女はわかりあえないのか?
◯ 男と女のあいだに友情は成立するのか?
◯ セックスは女の人を何回イカせたら許してもらえるのか?
◯ チンコはデカいほうがいいのか、そうでもないのか?
◯ なぜ戦争はなくならないのか?
◯ お化けはいるのか、いないのか?
◯ なぜ男はハゲを恐れるのか?
◯ なぜ人はコンプレックスを持つのか?
◯ 天職とは何か?
◯ 親は子供にどんな背中を見せたらいいのか? ほか、約30テーマを収録。
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{新宿餘談}
『みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議』のブックデザイナーは、これまた当代の人気者 : 川名 潤 さんです。川名さんは<銘石B Combination 3>から、和字として「くらもち」を選択され、本書の随所でご使用されています。
ご愛用ありがとうございました。
銘石B
type con

「銘石B」の原姿はとてもふるく、中国・晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種、とくに碑石体と呼ばれる書風をオリジナルとしています。
『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土しました。王興之(309-40)は王彬の子で、また書聖とされる王羲之(307-65)の従兄弟にあたります。

この墓誌は東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれます。
遙かなむかし、中国江南の地に残された貴重な碑石体が、現代に力強くよみがえりました。「銘石B」は和字(平仮名と片仮名)三書体(くれたけ、くろふね、くらもち)が標準でセットされており用途に応じた選択ができます。

【ボヘミアン、プラハをいく】 04 パリ在住ボヘミアンの磯田俊雄さん、フランス版『山椒魚戦争』(カレル・チャペック作)と、フランソワⅠ世にちなむシャンボール城のメダルを持参して来社

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【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層

《 長いつき合いになる。 在仏のボヘミアン : 磯田俊雄さん 》
最高気温が摂氏14度というひどく寒い日だった。 パリ在住30年余になる磯田俊雄さんが2016年11月22日、ほぼ一年ぶりにパリから飄飄と来社。

たまたまハンブルクから大澤能彦さんも来社されており、欧州勢のバッティング。 欧州在住がながいふたりとも愛煙家で、やつがれは友垣をえたおもいでうれしい。 大石は渋い顔。

磯田氏は神戸出身。 四人兄弟の末、パリでソルボンヌ大学博士課程修了の才媛と結婚し、息子も立派に自立した。
フラ~とニューヨークにいったはずが、いきなりパリからファックス。
「パリに住むことにしました。 荷物はカメラの寺さんに任せました。 当分かえりません」
爾来在仏35年ほどか。 このひとも、気軽で暢気なボヘミアンといってよかろう。

かれとは大日本印刷 CDC 事業部でコピーライターとして勤務していた頃からのふるいつき合いである。 若く見えるが、やつがれともさほど年は離れていない(はずだ)。 それでも最初の頃に「磯やん」と呼んでいたので、いまだに「磯やん」。
もともとフランス語での簡単な翻訳監修や〝eBay〟の窓口は 「 哲っちゃん 」 という同窓生が担っていたが、高齢化してスペイン国境に近い田舎に移転して隠居生活。 したがって現在は大石がメールを乱発して、磯やんを悩ませたり酷使しているようである。

今回も大石の依頼で、プラハの作家カレル ・ チャペック(Karel Čapec  1890-1938)がのこした、邦題 『山椒魚戦争』 のフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版 (印刷地 : プラハ、フランス語表記 1960年発行)の 『 La Guerre des Salamanders 』 を苦心惨憺で購入されての持参であった。
フランス国立印刷所 旧ロゴ[1]「Je me nourris de Feu et je L’éteins  意訳:我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす」火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード ・ ギャラモンに 王のギリシャ文字を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章である。 フランス国立印刷所は創設以来、現在でも、同所のシンボルロゴがこのサラマンドラである。
下部には、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)によるとされる、
識語 <我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす> が配置されている。 この紋章がフランス国立印刷所のシンボルロゴに連なり、シャンボール城で記念メダルを販売している。

ほかにも大石は、「サラマンダー」をみずからの紋章としていたフランソワⅠ世の離宮(狩猟用離宮 ・ 世界遺産) シャンボール城 の記念メダルをねだっていたらしい。
そもそも大石はひどい地理 幷 方向音痴である。 したがって、
「 パリ郊外のシャンボール城にいくと、サラマンダーの紋が入った記念メダルが購入できるはずです。 それをぜひ購入してきてください」
といった調子のメールを磯やんに送っていたらしい。

「大石さんはときどきヘンなことをいってくるんです。 パリ郊外などと、まるで東京から横浜にいってメダルを買って来いみたいな調子だったけど、ロワール渓谷のシャンボール城は、パリの隣り街じゃないんです。 パリから170キロほど、禁漁区のおおきな森にかこまれた、昔の王様の狩猟用の別荘のようなところで、電車も無いし、車でも一日がかりですよ・・・・・・」
とボソボソとこぼす。 やつがれは歓喜せんまで、つよいの共感のあまり、深くうなずきながら、そこは共に気軽なボヘミアン、
「 磯やん、申し訳ない、悪かった。 面倒をかけた。 ごめん、ありがとう。 これからもよろしく」
以下、一部ウィキペディア画像の助けを借りながら、シャンボール城とフランソワⅠ世を紹介したい。

フランス離宮シャンボール城概観 シャンボール城の装飾屋根 シャンボール城 フランソワⅠ世紋様シャンボール城の各所にみられる火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード ・ ギャラモンに 「王のギリシャ文字」を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり、 創立以来いまなおフランス国立印刷所のシンボルロゴでもある。

フランソワⅠ世の紋章 「サラマンダー」 は、フランス国立印刷所の伝統を継承しつつ、かぎりなく前進をつづける、あたらしいフランス国立印刷所のシンボルロゴとして 21世紀の初頭に再生された。  詳しくは次ページを参照願いたい。saramannda- フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所シンボルロゴ《火の精霊 ― サラマンダーと、サラマ・プレス倶楽部のサラマくん》
フランス ヴァロワ朝 フランス王、第9 代フランソワⅠ 世(François Ier de France,  1494-1547)は、フランスにルネサンスをもたらし、また1538年にフランス王室で印刷事業をはじめたひとである。
フランス国立印刷所は、580年ばかり以前のこの年、フランソワⅠ世治世下の王室印刷所、1538年の創立をもってその淵源としている。

フランソワⅠ世は、みずからと、その印刷所の紋章として、フランス王家の伝統としての百合の花を象徴する王冠 【 画像集リンク : フランス王家の紋章 】 とともに、火焔のなかに棲息するサラマンダーを取りいれた。
そこにはまた、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)の活字父型彫刻による識語、<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす> 付与した。 この紋章がシャンボール城ではメダルとして販売されており、今般磯やんが持ち来たったということである。

以下サラマンダーとフランス王立印刷所のシンボルロゴに関して、詳しくは次ページに 【 [文 ≒  紋学] フランス国立印刷所のシンボルロゴ/火の精霊サラマンダーと 王のローマン体 ローマン ・ ドゥ ・ ロワ、そして朗文堂 サラマ ・ プレス倶楽部との奇妙な関係 】を一部修整して再掲載したのでご覧いただきたい。

《 プラハの造形家 ・ 執筆者 ・ 園芸家にして小説家 : チャペック兄弟とは 》DSCN0063DSCN0025DSCN0027DSCN0005チェコのプラハ市第10区に 「 チャペック兄弟通り  BRATŘİ ČAPKŮ 」 と名づけられた小高い丘への通りがある。 そこの頂上部に連棟式のおおきな二軒住宅がある。
向かって左が、画家にしてイラストレーター ・ 執筆者の兄  :  ヨゼフ・チャペック の住居で、現在は直系の子孫が居住しているという。
向かって右が、ジャーナリストにして戯曲家 ・ 作家の弟 : カレル ・ チャペック の住居跡である。

カレルの家は、現在は無住となっており、すでにプラハ市第10区が買収済みだという。
ところがどちらもいまは非公開の建物であり、庭園である。 したがってカレルの庭園の写真は相当無理をして、ほんの一画だけを撮影した。
この兄弟がここに居住していた頃にのこした一冊の図書、世界中の園芸家に読み継がれている、原題 『Zahradníkův rok 』、邦題 『 園芸家の一年 』、『 園芸家の12カ月』 がある。
20161027164925_00001イラスト : ヨゼフ・チャペック
チャペック01 20161027164925_00002翻訳書も手軽に入手できる。『 園芸家12カ月 』 (カレル・チャペック著、小松太郎訳、中公文庫)、『 園芸家の一年 』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、恒文社)、『 園芸家の一年 』(カレル ・ チャペック著、飯島 周訳、平凡社)。
どの版も工夫を凝らしており楽しいものだ。

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チャペック02やつがれにとっては、兄 : ヨゼフ ・ チャペック、弟 : カレル ・ チャペック兄弟とは、なによりも愛読書 『 園芸家12カ月 or 園芸家の一生 』 の挿絵画家、著者であり、せいぜい戯曲『 ロボット (原題:R.U.R.)』において 「 ロボット 」 なる造語をふたりでつくった兄弟程度の知識に留めておきたいところだが、ここに困った図書が一冊ある。
20161103145611_00004『 山椒魚戦争 』(カレル ・ チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫)。 いま、やつがれの手もとにあるのは、1978年7月18日 第1刷り2013年10月4日の版の、第14刷りの版である。
ここでは「著者」ではなく、「カレル ・ チャペック作」とされている。その理由を訳者は 「訳者はしがき」 「解説」 「訳者あとがき」 のなかで縷縷のべている。

すなわち 『 山椒魚戦争 』 には、活字見本帳 ・ ちらし ・ 新聞記事の切りぬき、マッチ箱などの図版(文字活字によるものがほとんど)が無数にあるのである。
文庫版とはそんなものだろうともいえそうだが、チャペック兄弟の図書は、プラハにおける初版はもちろん、多数の翻訳書をふくめて、わずかな例外をのぞいて軽装版である。 ところが岩波文庫版には、残念ながら二点の図版紹介をみるだけであり、しかも原寸を欠いている。

岩波文庫版 『 山椒魚戦争 』 は、1978年の初版以来、35年ほどのあいだ、14版を重ねてきた図書である。
このような名著に四の五のいうわけではないが、ともかく活字サイズが 「本文 明朝体8pt. 相当」、「注釈 ・ 図版説明 ・ 訳注 ・ 解説 ・ 訳者あとがきなど 明朝体6pt.相当」 といったちいさな活字サイズであり、しかも総ページ数496ページにおよぶのである。
とりわけこの本文より文章量が多いとおもえる注釈などの活字書風とサイズ 6pt. はつらい。

情けないことに、すでに視力がずいぶんと低下したやつがれは、再再の挑戦にもかかわらず同書を通読していない。 別の翻訳者と版元からの 『 山椒魚戦争 』 が電子化されて、電子図書「キンドル」で読めるが、こちらはいささか翻訳になじめないでいる。
造形者にとってある意味では必読書ともいえる『 山椒魚戦争 』である。ぜひ視力がしっかりしているうちに読了をおすすめするゆえんである。
20161103145611_0000320161104192107_00001ところで、大石は磯やんの助力をえて、このたびフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版(印刷地 : プラハ、フランス語表記 1960年発行)の『 La Guerre des Salamanders 』 を購入した。
ところが大石は、すでに上掲図版のフランス Éditions Cambourakis, 2012 『 La Guerre des Salamanders 』 をもっている。
同書はフランス語で表記されているが、図版は原寸で、ほとんどがオリジナルの各国語のまま、改変を加えずに紹介している。

ほかにも煙草の臭いが移るからとしてめったにみせないが、プラハにおけるチェコ語の初版、戦後版、ドイツ語版、ロシア語版、英語版、仏語版など、異種本を10冊余ほど所有しているようである。
これらの異言語版は、この兄弟の思想的立脚点もあったのか、初版をふくめてほとんどが軽装版であり、いわゆる上製本仕立ては一点だけである。
そして内容を理解するために、邦訳書ももっているが、もっぱらチェコ語版と英語版で、挿画と造本、なによりも「 サラマンダー、山椒魚 」 の各国の解釈を 「 活字見本帳のような図版 」 で楽しんでいるようである。

岩波文庫 『 山椒魚戦争 』 には、本文中の図版として紹介されたものは、上掲図版 Éditions Cambourakis, 2012 『 La Guerre des Salamanders 』  p.264 のものと同一の図版が、「カタコトの日本文」 p.309 として紹介され、あとは「訳者あとがき」に紹介された「新中國版畫集」 p.455 のわずか二点であり、しかも他の版のほとんどが原寸紹介であるが、同書はどちらも原寸を欠いている。
すなわち 『 山椒魚戦争 』の隠喩、欧州中央部に位置し、文化文明の十字街路たるボヘミア ・ プラハならではの、多言語下における活字組版表現の実験を楽しみ、紹介するゆとりをいささか欠いているようである。
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《カレル ・ チャペックを中軸に、その教育体験と職歴をみる 》
読みたいのに読めないという焦燥感はつよい。 皆さんにお勧めしたいのは、『 山椒魚戦争 』はできるだけ視力が健康な、若いうちに読了されることである。
ここで、わが国ではとかくSF作家とされる弟 : カレル ・ チャペックの受けた教育と仕事から、そのもうひとつの魅力、造形家の側面に迫ってみたい。

1909年、ギムナジウムを優等で卒業したカレルは、プラハの名門大学カレル大学へ進学し、哲学を専攻する。 1910年、ベルリンのフリードリヒ ・ ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)へ留学 。1911年、ベルリンの大学を修了後に 兄 : ヨゼフがいたパリのソルボンヌ大学へ留学、造形芸術家集団に参加する。 パリ時代にヨゼフとともに戯曲 『 盗賊 』 を書く。

1914年、第一次世界大戦が勃発する。 チャペックは鼻骨の怪我により従軍することはなかったが、カレルの友人たちは従軍した。

1915年に帰国後、母校のカレル大学で博士号を得る。 卒業後しばらくは家庭教師の仕事をしていたが、1916年、チャペック兄弟として正式にプラハの文芸 ・ 造形界にデビューした。
このころはフランス詩の翻訳、とりわけアポリネールの象形詩に熱心に取り組んで、アポリネールがフランス語で象形化した詩(詩画)を、チェコ語での再現の実験に取り組んだ。
同年、持病の脊椎のリウマチにより兵役免除となる。 1917年、独立前に唯一発行が許されていた『 国民新聞 ナーロドニー ・ リスティ 』 に論説文を書く仕事に就く。

1920年、プラハのヴィノフラディ劇場の演劇人としても活動していたカレル ・ チャペックは 『 ロボット R.U.R. 』 を書き上げる。 このときにヨゼフの助言をえて「ロボット」ということばが生まれ、全世界に拡散した。 後に妻となるオルガ ・ シャインプフルゴヴァーとこのとき出会う。

1921年、チェコスロバキア政府は共産主義運動を弾圧し、政府の動向ににあわせて次第に保守化していく『 国民新聞 』 に不安を感じ、『 民衆新聞 リドヴェー・ノヴィニ 』 へヨゼフとともに移籍する。 戯曲 『 虫の生活 』(ヨゼフとの合作)を出版する。
その後逝去のときまで『 民衆新聞 』に在籍し続けた。

《 チャペック兄弟の最後 プラハ市 : ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov にねむる》
ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)裏口2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)入口2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟のムハの霊廟アップ ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟の斜め前にあるスメタナの墓プラハ : ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov はチェコの首都 : プラハの中央部にゆたかな緑につつまれて鎮まっている。
ここには 「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」 があり、アール ・ ヌーヴォーの華といわれながら、晩年にボヘミアンとしての民族意識にめざめ、無償で描いた超大作絵画 「 スラブ叙事詩 」 をのこしたアルフォンス ・ ミュシャ(現地ではムハ)がねむり、その斜め前にはボヘミアとスラブの魂を歌曲にした作曲家 : スメタナもねむる(白い墓標)。
DSCN6084 DSCN6082 DSCN6045 DSCN6048そのかたわらにヨゼフとカレル、ふたりのチャペックの墓がある。兄 : ヨゼフはゲシュタポに捉えられ、ドイツの強制収容所に歿したために、歿時の月日記載がないのが胸をうつ。
弟 : カレルの墓は、1938年の没年ではあるが、現代のロケットともあまり相違ない形象のロケット型の墓標である。
ふたりとも第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざま、過酷な時代をいき、そして誇り高きボヘミアンであった。
最後にチャペック兄弟の最後をしるした一文を、来栖 継氏の「解説」から紹介したい。

『 山椒魚戦争 』(カレル ・ チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫) 「解説」 p.453-4
[前略] 一九三九年三月十五日、ナチス ・ ドイツ軍はチェコに侵入し、全土を占領した。[弟カレル]チャペックも生きていたら、逮捕 ・ 投獄されたにちがいない。 事実、ゲシュタポ(ナチス-ドイツの秘密警察)は、それからまもなく[カレル]チャペックの家へやって来たのだった。 やはり作家で、同時に女優でもあるチャペック未亡人のオルガ ・ シャインプルゴヴーは、ゲシュタポに向かって、「 残念ながらチャペックは昨年のクリスマス [1938年12月25日歿] に亡くなりました 」 と皮肉をこめて告げた、とのことである。

チャペックの兄のヨゼフ ・ チヤぺックも、「独裁者の長靴」と題する痛烈な反戦 ・ 反ファッショの連作政治マンガを描きつづけた。 そのために彼は、ゲシュタポに逮捕され、一九四五年四月、すなわちチェコスロバキア解放のわずか一ヵ月前、ドイツのベルゲン=ペルゼン強制収容所で、栄養失調のため死んだ。 彼が収容所でひそかに書いた詩は、戦後 『 強制収容所詩集 』 という題名で出版された。[後略]