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A Kaleidoscope Report 006 『印刷製本機械百年史』活字鋳造機の歴史

活字鋳造機の歴史

『印刷製本機械百年史』
(印刷製本機械百年史実行委員会 全日本印刷製本機械工業会 昭和50年3月31日)


グラフィックデザイン全般の不振をささやかれるなかで、どういうわけか、最近タイポグラフィに関心を寄せる若者が増えてきた。まことにうれしいことである。
タイポグラフィ560年余の歴史は、金属活字のなかで誕生し、その揺籃期 ヨウランキ-ユリカゴノ-ジダイ を金属活字のなかですごしてきた。すなわちタイポグラフィとは「工芸 Handiwork」であり、タイポグラファとは「技芸者」であった。

ところが、わが国の近代タイポグラフィは、欧州諸国が産業革命を達成したのちに、近代化を象徴する「産業・工業 Industry」として海外から導入され、それまでの木版刊本技芸者を駆逐して、急速に発展を遂げたことにおおきな特徴がある。
わが国の木版刊本製作術は、おもに板目木版をもちいた版画式の複製術で、その歴史といい、技術水準といい、端倪タンゲイすべからざる勢いがあった。
それでも明治初期に招来された「金属活字を主要な印刷版とする凸版印刷術」が、ひろく、「活版印刷、カッパン」と呼ばれて隆盛をみたあとは、従来技術の木版刊本製作術は急墜した。それにかわって近代日本の複製術の中核の役割は「活版字版印刷術、活版印刷、カッパン」が担ってきた。

本論では詳しく触れないが、木版刊本から活字版印刷へのあまりに急激な変化の背景には「活字」の存在があった。江戸期木版刊本の多くが、徳川幕府制定書体の「御家流字様」と、その亜流――連綿をともなった、やや判別性に劣る字様(木版上の書体)――によって刻字されていたことが、「楷書活字」「清朝活字」「明朝体」に代表される、個々のキャラクターが、個別な、近代活字に圧倒された側面を軽視できない。
ここではその「個々のキャラクター ≒ わが国の近代活字」を「どのように」製造してきたのか、すなわち、活字製造のための機器「活字鋳造器、活字鋳造機」と、その簡単な機能を紹介したい。
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活字は鋳物であった。鉛を主体とし、スズ、アンチモンの三合金による鋳造物、すなわち重量も質量もある物質として確固として存在した。そして衰退を続けているとはいえ、いまだに活字鋳造がなされ、活字を主要な印刷版とする凸版印刷術、タイポグラフィは厳然として存在している。

もっとも素朴な活字鋳造器、活字ハンド・モールド(復元版・伊藤伸一蔵)

1590年(天正8)イエズス会士ヴァリニャーノが、わが国にはじめて西洋式活字版印刷機をもたらした。ヴァリニャーノはわが国に活字版印刷のインフラが未整備なことを知り、のちにその「技術者」を同伴して再来日したとされる。
そして1591年からのおよそ20年の間に、島原・天草・長崎などで「活字版印刷」を実施した。俗称キリシタン版の誕生である。
キリシタン版には、宗教書のほかに、『伊曾保 イソホ 物語』『日葡 ニッポ 辞書』など30種ほどが現存している。そのなかには日本語を組版するための活字、あるいは日本国内で活字原図製作・活字母型製造・活字鋳造を実施したとみられる活字を使用した書物もある。

したがってヴァリニャーノが伴ってきた「技術者」とは、「印刷術」だけでなく、活字父型製造(パンチ)、活字母型製造(マトリクス)・活字鋳造(タイプ・キャスティング)の技術にも長けていたとみることができる。
キリシタン版に関する文献は少なくないが、
「どんな手段で原寸の活字原図を製作し、どんな手段で活字父型・母型を製造し、どんな活字鋳造機器をもちい、どのように和文活字をつくったのか」
こうした角度からの研究はまだ未着手な部分が多い。

16世紀世紀末に伝来したキリシタン版は、1612年幕府直轄領におけるキリスト信教禁止令、1614年高山右近・内藤如安らのキリシタンを国外追放、1630年キリスト教関係の書物の輸入禁止など、一連の徳川幕府によるキリスト教禁止令によって、江戸初期に廃絶された。
すなわち17世紀前半において、イエズス会士ヴァリニャーノらがもたらした、西洋式活字版印刷機と活字製造機器は、半世紀の歴史を刻むことなく失われた。
このヴァリニャーノらがもたらした活字と印刷機による「印刷された書物 ≒ キリシタン版」はわずかに現存するが、その印刷機はもちろん、活字一本でも発見されたという報告は管見に入らない。したがってそうとう徹底した処分がなされたものと想像される。

しかし、幕末から明治初期、わが国近代タイポグラフィの黎明期に導入された「活字鋳造機器」は、16世紀世紀末のキリシタン版の時代と大差がない、きわめて素朴な活字鋳造器としての「ハンド・モールド」であったとみてよいであろう。
しかしキリシタン版と同様に、その伝来の正確な時代、ルートは判明しない。

わが国ではかつて「ハンド・モールド」を、中央からふたつに割って、そこから活字を取り出す形態から「割り型、割り鋳型、手鋳込み器」などと称した。そして「ハンド・モールド」からできた活字を、その地金の注入法からとって「流し込み活字」と呼んだ。

「ハンド・モールド」はきわめて簡便な「道具」であったので、「機械」とはされず、ふつう「器」の字があてられるのが特徴である。その「ハンド・モールド」は、キリシタン版の時代を別としても、江戸時代の後期には、すでに、江戸、長崎、鹿児島などに伝来していたとみられ、一部は、東京/国立博物館、長崎/諏訪の杜文学館(移動して長崎歴史博物館に収蔵)、鹿児島/尚古集成館などにその断片が存在している。

文書記録にはこのように紹介されている。
「嘉永4-5年[1851-2]の頃、即ち本木昌造モトギ-ショウゾウ先生の28-9歳の時、俗に所謂イワユル流し込みの活字を鋳成したのである」(『開拓者の苦心 本邦 活版』三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日、以下〔三谷〕)。
三谷幸吉が紹介したこの記録には、昭和10年代から多くの異論があった。すなわちこの「流し込み活字」でつくったとされる『蘭和通辯 ランワ-ツウベン』なる書物が現存しないためであり、また幕府の施設であった「蕃書調所 バンショ-シラベショ」などの諸機関が、地方官である本木昌造らより先行して活字を鋳造したとする、おもに川田久長らが唱えた説との対立であった。

しかしながら、筆者は本木昌造とそのグループが、嘉永年間、すなわち19世紀の中葉に、「割り鋳型をもちいて流し込み活字」をつくったとする説にさほど違和感を覚えない。もちろん稚拙な、「活字ごっこ」にちかいものであり、当然『蘭和通辯』なる書物をつくることもできないほどの、児戯に満ちたものであったとみるべきであるという前提においてである。


明治の開国ののち、長崎の本木昌造とそのグループ、そしてその後継者の平野富二/平野活版所と、工部省勧工寮のふたつのグループの活字鋳造は、「ポンプ式ハンド・モールド」を上海から輸入して鋳造したとする記録を散見する。たとえば三谷幸吉はこのように紹介している。
「蜷川氏は平野富二氏と知己の間柄であったが、活字の製法は工部省で習得した。さて工部省の製造法は手鋳込みポンプ式であった」〔三谷、p108、p133〕。

筆者も平野活版所(のちの東京築地活版製造所)と、工部省勧工寮(現在の国立印刷局)は、その活字の製造量と、両社の価格設定からみると、ハンド・モールドで活字鋳造したとするのには無理があり、おそらく簡便な改造機、「ポンプ式ハンド・モールド」をもちいたものとみる。
ところが、この「ポンプ式ハンド・モールド」の実態がまったくわからないのが実情である。わが国での名称も、記録には「手鋳込みポンプ式、手鋳込み活字鋳造機」とさまざまにしるされている。

おそらく明治最初期に導入された「道具ではない、活字鋳造用の機械」とは、「ポンプ式ハンド・モールド」であったとしてよいとみなすが、これは外国文献でも、管窺に入るかぎり、『Practical Typecasting』(Rehac Theo, Oak Knoll books, 1993)にわずかに写真紹介されているだけである。しかもレハックは、
「この簡便な活字鋳造機は、実機は現在米国に存在しないし、写真もスミソニアン博物館蔵のこの写真一葉だけである」
とする。わが国には実機はもとより、写真も存在しない。

以上を踏まえて、「活字鋳造機の歴史」『印刷製本機械百年史』(印刷製本機械百年史実行委員会 全日本印刷製本機械工業会 昭和50年3月31日 p92-97)を紹介したい。本書は印刷・活字業界の歴史版総合カタログといった趣の書物であり、本文のページ数より、巻末に各社の会社紹介を兼ねた広告ページが多数紹介されている。

『印刷製本機械百年史』の執筆者と、同書に掲載されている主要文献は以下の通りである。
◎執筆者/沢田巳之助(印刷図書館)、本間一郎(元印刷情報社)、山本隆太郎(日本印刷学会)
◎主要文献/PRINTING PRESS(James Moran)、石川県印刷史、活版印刷史(川田久長)、写真製版工業史、大蔵省印刷局史、大蔵省印刷局百年史、印刷術発達史(矢野道也)、佐久間貞一小伝、藍・紺・緑、開拓者の苦心(三谷幸吉)、印刷インキ工業史、印刷機械(中村信夫)、印刷文明史(島屋政一)、明治大正日本印刷技術史(郡山幸夫・馬渡力)、中西虎之助伝

『印刷製本機械百年史』p93

『印刷製本機械百年史』p94

『印刷製本機械百年史』p95

『印刷製本機械百年史』p96

『印刷製本機械百年史』p97

《活字鋳造機》
記録によると、明治4年[1871]工部省勧工寮で手鋳込活字鋳造機[ポンプ式活字ハンド・モールドとみられる]1台を設備したという。また明治5年[1872]平野富二が長崎から上京し、神田佐久間町に、後の東京築地活版製造所を開業したとき、母型、鋳型各1組と、手鋳込鋳造機[ポンプ式活字ハンド・モールドとみられる]3台を持参したという記録がある。さらに明治6年[1873]5月13日発行の『東京日日新聞』に、
  今般私店に於いて泰西より活字鋳造の具、
  並に摺立機械等悉く取寄せたり、
  而して彼の各国の如く製を為す。云々。
  活字鋳造摺立所 蛎殻町3丁目 耕文書院
という広告が載っている。

世界で最初に実用された活字鋳造機は、ダビッド・ブルース(2代)が1838年最初に特許をとり、1843年に完成したものであるから、上記の鋳造機も、恐らくそれであろう。
[ブルース活字鋳造機は明治9年《1876》春、弘道軒・神崎正誼がわが国にはじめて導入した。平野活版所がブルース活字鋳造機を導入したのは、弘道軒に遅れること5年、明治14年《1881》春であり、この紹介には疑問がある(「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌』片塩二朗
タイポグラフィ学会2011]。
わが国では一般にカスチング、あるいはなまってカッチングと呼んでいた。

これをはじめて国産化したのは大川光次である。大川は代々伊井家に仕えた鉄砲鍛冶の家に生まれた。明治5年[1872]頃から、赤坂田町で流し込み活字の製造や、活字鋳型の製造販売を業としていたが、明治12年[1879]印刷局に入り、鋳造部長となった。弟の紀尾蔵もともに印刷局に勤めていた。

明治16年[1883]大川兄弟は[印刷局を]退職し、再び[赤坂]田町で鋳型製造を始めたが、同時に鋳造機の製作も開始した[大川公次・紀尾蔵の兄弟が弘道軒のブルース活字鋳造機をモデルとしてブルース型活字鋳造機の製造販売を開始(『秀英舎沿革史』秀英舎 明治40年3月20日)。わが国ではこれを、カスチング、キャスチング、手廻し活字鋳造機などと呼んだ。東京築地活版製造所、秀英舎などがただちにこれを導入した]。
これが日本における活字鋳造機製作の最初である。大川は後に芝の愛宕町に移り、明治45年[1912]60才で死去したが、その門下から国友、須藤、大岩などという人が出て、いずれもキャスチングを製作するようになった[大川光次の門からは大岩製作所がでた。この大岩製作所からは小池製作所がでて、2009年8月31日まで存在した]。

自動鋳造機がわが国に始めて入ったのは明治42年[1909]である。この年、三井物産がトムソン自動鋳造機を輸入、東京築地活版製造所に納入した。次で44年[明治44年、1911]には国立印刷局にも設備された。トムソン鋳造機はシカゴのThompson Type Machine Co.が製作したもので、1909年特許になっている。しかし、これはそのままでは和文活字には不適当だったので、築地活版では大正7年[1918]これを改造して、和文活字を鋳造した。

大正4年[1915]、杉本京大が邦文タイプライターを発明し、日本タイプライター会社(桜井兵五郎)が創立された。これに使用する硬質活字を鋳造するため、特別な鋳造機が作られた。それは大正6年[1917]ごろであるが、この鋳造機が後に国産の独特な活字鋳造機を生む基となったといえる。

日本タイプライターの元取締役だった林栄三が印刷用としての硬質活字を研究、大正13年[1924]林研究所を創立し、この硬質活字を「万年活字」と名付けて時事新報社に納入した。彼はこの硬質活字を鋳造するために、技師長・物部延太郎の協力を得て自動活字鋳造機を設計し、「万年活字鋳造機」と命名した。

大正15年[1926]、林研究所は[林栄三の名前から]林栄社と改称した。万年活字は結局いろいろな欠点があることがわかって、使われなくなったが、翌年万年鋳造機各6台が大阪毎日新聞と共同印刷に納入され、普通の活字の鋳造に使われて好成績を収めた。機械の価格は1台2,500円であった。当時トムソン鋳造機は1万2,000円であったのである。

『印刷製本機械百年史』掲載の林栄社

これとほとんど時を同じくして、日本タイプライター会社でも、一般活字用の自動鋳造機を完成、万能鋳造機と名付けて発売した。これは普通の単母型の他、トムソン鋳造機用の平母型や同社で製作する集合母型を使用できるのが特徴であった。

これも同じころ、須藤製造所から須藤式自動鋳造機が発売された。これは鋳造速度の早いことを特徴としており、毎分5号活字で100本、6号なら120本鋳造できた。

この他に池貝鉄工所が昭和2年[1927]トムソン型の鋳造機を作ったが、永続しなかった。また東京機械製作所でも作ったというが、その年代は明らかでない。これは鋳込まれた活字が他の機械と逆に右側に出るのが特徴だった。

昭和6年[1931]ごろ、林栄社社長・林栄三が、活字1回限り使用、すなわち、返字の作業を廃止し、活字はすべて新鋳のものを用いて組版した方が鮮明な印刷が得られ、採算上も有利であるという説を発表した。
[この時代まで、活字は繰り返し、反復して使用されていた。印刷を終えた活字版は、解版されて、活字と込め物などに分類され、活字はもとの活字ケースに戻して(返し・返字)再使用されていた。林栄社の提案を受けて、中規模程度の活版印刷所でも、おおくは本文活字の活字母型を購入し、活字鋳造機を導入して自社内で活字鋳造を実施する企業が増大した。そのため活字鋳造所は本文用サイズ以外の活字や特殊活字の販売が中心となった]。
これが普及するに伴って、活版印刷業界に自家鋳造が盛んになり、鋳造機の需要も増えたので、昭和10年[1935]前後から、鋳造機のメーカーが著しく増加し、大岩式、谷口式、干代田式などの各種の自動鋳造機が市場に出た。

大岩式は大岩鉄工所社長、大岩久吉がトムソン鋳造機を範とし、和文活字に適するよう改造して、昭和8年[1933]発売したものである。大岩の死後、製作権はダイヤモンド機械製作所に移り、現在では小池製作所(小池林平社長)によって継承されている。

『印刷製本機械百年史』巻末に掲載された小池製作所

谷口式は谷口鉄工所の製作で、印刷所における自家鋳造に便利なようにできるだけ機構を簡素化し、価格を低廉にしたのが特徴だった。千代田式は千代田印刷機製造株式会社(古賀和佐雄社長)が昭和11年[1936]ごろ発売した自動鋳造機である。

この他に国友兄弟鉄工所が動力掛けのキャスチングを発売した。当時のキャスチングは鋳型の冷却装置がなく、鋳造中時々ぬれ雑布で[鋳型を]冷さなければならなかったが、この機械では鋳型に水を通して冷却するようなっていた。

戦争中は活字鋳造機も他の印刷製本機械と同様、製造を制限されていたが、終戦と同時に新しいメーカーが続出した。

まず池貝鉄工所がトムソン型を作ったが、昭和30年[1935]以降は生産を中止した。昭和22-23年頃三鷹にあった太陽機械製作所から太陽鋳造機というのが売出され、4-5年つづいた。また同じころ小石川の岩橋機械から岩橋式鋳造機が売出されたが長く続かなかった。
田辺製作所からも簡易鋳造機という名で構造を簡単にし、価格を下げた製品が出た。これは自家鋳造用として相当歓迎され、後にいずみ製作所が製作するようになり、昭和36年[1961]同社が社長の死去により閉鎖されるまで継続した。

昭和20年[1945]9月、大岩鉄工所の出身である小池林平は小池鋳造機製作所(現在の株式会社小池製作所)を創立、大岩式を基とした自動鋳造機の製造を始めた[2008年8月31日破産、のちに特許と従業員のおおくは三菱重工業が吸収した]。昭和21年[1946]には児玉機械製作所が設立され、やはり大岩式鋳造機を製造したが、これは33年[昭和33年、1958]に廃業した。

京都の島津製作所も、アクメという商品名で活字鋳造機を発売した。これは戦前の東京機械のものと同様、活字が右側へ出るのが特徴で、22-23年頃から30年頃[1947-1955]までの間相当台数が市場に出た。その他にも小さいメーカーが、2-3社あったようだが、明らかでない。

昭和21年[1946]12月、長野県埴科ハニシナ郡戸倉トグラ町の坂井修一は、林栄杜の元工場長で、当時長野県に疎開し八光ハッコウ電機製作所の工場長をしていた津田藤吉と相談して、八光活字鋳造機製作所を創立した。
最初のうちは被災鋳造機の修理及び鋳型の製作が仕事であったが、昭和23年[1948]3月、1本仕上げ装置を完成、標準型八光鋳造機の量産を開始した。従来の鋳造機では鋳込んだ活字の上下にカンナをかけて鋳張りを除き、次にこれを90度回転して左右を仕上げる方式であったが、この1本仕上げと呼ばれるのは、まず1本ずつ左右にカンナをかけ、ついで上下を仕上げる方式である。
次で、25年[1950]新聞社の要望に応え、単能高速度鋳造機を発表した。これは従来の標準8ポイントで毎分120本という鋳造速度を50%アップしたものである。

『印刷製本機械百年史』掲載の八光活字鋳造機製作所

[昭和]30年代に入ると、数多かった鋳造機メーカーも次第に減り、林栄社、八光、小池の3社となったが、それと同時にこの3社の激しい技術開発競争により、多くの改良が加えられ、活字鋳造機は面目を一新するに至った。すなわち、函収装置、温度自動調節装置、母型自動交換装置、地金供給装置、ぜい片回収装置などが次々と開発され、文字通り世界に類のない全自動鋳造機が生まれたのである。

一般活字以外の特殊な鋳造機としては、昭和24年[1949]頃、小池製作所でインテル及び罫の連続鋳造機を発表した。それまでわが国では罫、インテルは1本ずつ手鋳込みだったのである。これと同じような機械は他社でも作られたが、小池式の方が能率が上ったので間もなく中止され、小池のストリップ・キャスターだけとなった。小池製作所ではそれにつづいて、見出し鋳造機および花罫鋳造機を製作した。

ブルース型活字鋳造機とトムソン型活字鋳造機の国産化とその資料
Catalogue of Printing Machine』(Morikawa Ryobundo, Osaka, 1935 

A Kaleidoscope Report 005 『東京築地活版製造所紀要』紹介

A Kaleidoscope Report 005


資料/『東京築地活版製造所紀要』紹介

ふしぎな資料がある。題して『株式會社東京築地活版製造所紀要』である。
題名が平板だし、パラッとみたときは単なる企業紹介誌かとおもって精読はしなかった。しかも流通部数がよほど少なかったのか、ほとんどの論者がとりあげることがなかった資料である。
だから、この小冊子が、いつ、どこからきて、なぜ稿者の手許にあるのかもわからない。
つまり装本だけはやけに丁寧だが、薄っぺらな小冊子である。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所 昭和4年10月)

本文ページ/四号明朝体  26字詰め  12行  字間五号八分  行間五号全角アキ

冊子の装本仕様は以下のようになっている。

天地184ミリ × 左右127ミリ
大和綴じを模した和装仕上げ
表  紙  皺シボのある薄茶厚手紙、活字版墨1色片面刷り
口  絵  部  5葉
     (裏白片面印刷。塗工紙に石版印刷とみたいが、オフセット平版印刷の可能性あり)
本   文  10ページ(非塗工紙に活字版墨1色両面印刷/活字原版刷りとみたい)
本文組版  四号明朝体 26字詰め 12行 字間五号八分 行間五号全角アキ
刊  記  無し(本文最終行に 昭和四年十月とある)

『株式會社東京築地活版製造所紀要』と題されたこの冊子は、刊記こそないものの、収録内容と活字書風からみて、昭和4年10月に、東京築地活版製造所によって、編輯・組版・印刷されたとみることができる。しかし「紀要」とは、「大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物」とされる。
もちろん「ことば」は時代のなかで変化するが、本冊子を「紀要」として公刊した意図がみえにくい内容である。つまりこの冊子は、現在ならさしずめ「企業紹介略史」ともいえる内容である。

本ブログロールには、この全文を現代文として釈読し、若干の句読点を付した「釈読版」と、原本のままを紹介した「原文版」を掲載した。
時間が許せば読者にはこの両方をお読みいただきたいが、「釈読版」の一部には、筆者が私見を述べた項目をこれから随時挿入する予定である。したがって本稿を閲覧される読者は、面倒でも「更新アイコン」をクリックしていただきたい。筆者の挿入部分は黒く表示し、釈読部と他文献からの引用部分は青く表示してある。

当時の専務取締役社長は、第六代松田精一(- 調査中)であった。このひとは、東京築地活版製造所の社長であるとともに、長崎の十八銀行頭取でもあったことは本ブログロールでも既述した。
ここでは
まず、『株式會社東京築地活版製造所紀要』が刊行された昭和4年10月前後において、東京築地活版製造所がどのような状況にあったのかを調べたい。つまり同社がなぜ、『株式會社東京築地活版製造所紀要』なる小冊子を、相当の経費をかけてまで製作する必要があったのか、そしてこの冊子が、なぜほとんど一般には流布することなく終わったのか、本冊子製作の真の目的を探るためである。

「東京築地活版製造所の歩み」

(『活字発祥の碑』所収 牧 治三郎 編輯・発行 同碑建設委員会 昭和46年6月29日)

・大正12年(1923年) 3月
東京築地活版製造所本社工場、新社屋完成。地下1階地上4階竣成。

・大正12年(1923年) 9月
関東大震災により築地本社及び月島工場の全設備が羅災。

・大正14年(1925年) 4月
野村宗十郎社長病歿、享年69才、正七位叙賜。

・大正14年(1925年) 5月
常務取締役に松田精一社長就任 [長崎十八銀行頭取を兼任] 。

・大正14年(1925年)11月
『改刻明朝五号漢字』 総数9,570字の見本帳発行。

・大正15年(1926年) 2月
『欧文及び罫輪郭花形見本帳』 を発行(74頁)。

・大正15年(1926年)10月
『新年用活字及び電気銅版見本帳』 を発行。

・昭和 3年(1928年)
大礼記念 国産振興東京博覧会 国産優良時事賞。 大礼記念京都大博覧会、国産優良名誉大賞牌。 御大典奉祝名古屋博覧会、名誉賞牌。 東北産業博覧会、名誉賞牌各受賞。

・昭和 4年(1929年) 9月
『欧文見本帳』 を発行 (68頁)。

・昭和 5年(1930年) 1月
時代に即応し、創業以来の社則を解いて 印刷局へ官報用 活字母型を納品。

・昭和 5年(1930年) 6月
五代目社長 野村宗十郎の胸像を、目黒不動滝泉寺境内に建立。

・昭和 6年(1931年)12月
業務縮小のため 小倉市大阪町九州出張所を閉鎖。

・昭和 7年(1932年) 5月
メートル制活字及び 『号数略式見本帳』 を発行。

・昭和 8年(1933年) 5月
『新細型9ポイント明朝体』 8,500字完成発売。

・昭和 9年(1934年) 5月
業祖 本木昌造の銅像が 長崎諏訪公園内に建立。

・昭和10年(1935年) 6月
松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。

・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。

・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。

・昭和11年(1936年) 7月
『新刻改正五号明朝体』 (五号格)字母完成活字発売。

・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。

・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において 会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。

これは「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』のパンフレットに、牧治三郎がのこした記録である。年度順に簡潔に述べてあるが、もうひとつ当時の活字鋳造所、東京築地活版製造所の状況や苦境がわかりにくいかもしれない。
つまりこの『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、すでに同社が主力銀行/第一銀行、十八銀行の資力だけでは到底支えきれない窮状にあり、別途に主力銀行を選定し、その支援をもとめるために製作されたものだとみられるからである。

東京築地活版製造所は創立者・平野富二の時代から、渋澤榮一との縁から第一銀行、そして松田源五郎との縁から長崎の十八銀行とは密接な関係にあったが、それでもなお資金不足に陥ったということであろう。
『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、東京築地活版製造所の創立から、昭和4年(1929)までの「企業正史」を目論んだとはいえ、創立当時の内容は、ほとんど第1次『印刷雑誌』(明治24年・1891)「本木昌造君ノ肖像并行状」、「平野富二君ノ履歴」を一歩もでることがない資料である。

金融関係の資料であるから、明瞭な公開資料は乏しいが、東京築地活版製造所が解散・閉鎖された際の主力銀行は★日本勧業銀行と、第一銀行であったとする資料がのこされている。
また株式会社★第一銀行は、かつて存在した日本の都市銀行である。統一金融機関コードは0001、前身の第一国立銀行は国立銀行条例による国立銀行(民間経営)、いわゆるナンバー銀行の第一号、渋澤榮一が第一代頭取で、明治6年(1873)年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である。1971年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となる。現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行である。

ここで渋澤榮一(1840-1931)に若干触れたい。
渋澤は東京築地活版製造所創立者の平野富二とは昵懇であり、これもやはり平野富二の創立にかかる株式会社 I H I の主要取引銀行であり、主要株主としてみずほ銀行グループがいまも存在するからである。
渋澤は天保11年(1840)武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。はじめ幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営した。また王子製紙の創立者でもある。ほかにも紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業の設立に関与し、財界の大御所として活躍した。
渋澤は長寿をたもち、引退後は社会事業、教育に尽力した。昭和6年(1931)に歿した。すなわち東京築地活版製造所が本当に苦境にあったとき、すでに最大の支援者・渋澤榮一は卒していたのである。

いずれにしても、東京築地活版製造所は『株式會社東京築地活版製造所紀要』発行後まもなくから、主要取引銀行に、第一銀行・十八銀行にかわって、日本勧業銀行が徐々にその中枢を占めるにいたった。
もしかすると、東京築地活版製造所第五代社長であり、中興のひとともされる野村宗十郎の積極作戦が、過剰設備投資となり、同社の経営を圧迫したのかもしれない。
また新築の本社工場ビルが移転作業の当日に関東大地震に見舞われるという、大きな被害を回復できないままに終わったのかもしれない。

長崎のナンバー銀行/十八銀行頭取を兼任していた東京築地活版製造所第六代社長:松田精一が昭和10年(1935)6月に辞任後は、同社における伝統ともいえた根強い長崎系の人脈・血脈が細ったとみることが可能かもしれない。
すなわち牧治三郎の記述によると、「もと東京市電気局長」大道良太専務取締役(詳細不詳)が第七代社長として就任した。しかしながら、同年同月には大道に代えて吉雄永寿(詳細不詳ながら長崎人とみられる)を専務取締役・第八代代表に選任している。

当然ながらこの唐突な人事の裏には相当の争い ── 日本勧業銀行系と、第一銀行、十八銀行による主導権の争奪があったとみることが可能である。もともと吉雄姓は長崎には多く、新街私塾塾生名簿にも登場する姓であるが、新街私塾塾生名簿は幼名でしるされているため、まだその人物を特定できない。しかしながら、この唐突な吉雄永寿の専務取締役社長就任は、長崎人脈への経営権の奪還とみなせるので、この時点ではまだ日本興業銀行は主導権を全面的には奪取していなかったとみたい。

昭和12年(1937)11月、吉雄永寿(詳細不詳)専務取締役・第八代社長が辞任した。この後任には、
「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の ── 牧治三郎」阪東長康専務取締役第九代社長が就任した。そして宮内省関係者であって、国家権力構造と密接な関係があったとみられる阪東長康が、どこかから ── 稿者は日本興業銀行とみなす以外にはないとおもうが ──「派遣」され、その指揮下、就任からわずかに5ヶ月後、昭和13年(1938)3月、東京築地活版製造所は社員の嘆願も空しく、日本商工倶楽部での臨時株主総会において会社解散を決議した。
「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の ── 牧治三郎」東京築地活版製造所専務取締役・第九代社長阪東長康は栄光の歴史を誇った東京築地活版製造所を売却する使命をおびて「派遣」されたとしかみることができない人事とみるのは酷であろうか。
いずれにせよ、ついに東京築地活版製造所はここに明治5年(1872)以来の栄光の社歴を閉じることになった。

ここで奇妙な事実がある。業界トップの企業であり、有力な広告主でもあった東京築地活版製造所の動向は、当時の印刷業界紙誌は細大漏らさず記録していた。ところが昭和10年ころから、同社の動向は業界紙誌にほとんど登場することがなくなった。
そして、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部での臨時株主総会において一挙に会社清算解散を決議。従業員150余人の歎願も空しく、一挙に解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧業銀行から現在の懇話会館に売却され、 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。── この間の詳細は記録されないままに終わった。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』は同社の解散に先立つこと9年5ヶ月前の記録である。そして解散決議後、同社の土地・建物は、債権者の日本勧業銀行から現在の懇話会館にまことにすみやかに売却された。
それに際して、当時はたくさんあった印刷・活字業界関連紙誌は、東京築地活版製造所の業績や消長を丹念に細大漏らさず紹介していたのに、なぜか「東京築地活版製造所解散」の事実を、わずか数行にわたって報道しただけで、一切の媒体が奇妙な沈黙を守っている。
どこからか、おおきな圧力があったとしかおもえないし、稿者がもっともふしぎにおもうのはこの事実である。

牧治三郎は、この『活字発祥の碑』パンフレットのほかに、『活字界』にも当時の東京築地活版製造所のなまなましい記録をのこしているので、再度紹介しよう。

*     *     *

続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』(編輯・発行 全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 〔大阪活版製造所社長を兼任〕、 曲田 成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [平野]造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25―6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。
社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治27―8年戦役 〔日清戦争〕の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の〔活字〕 鋳造機は、手廻機 〔手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機〕 120台、米国製トムソン自動〔活字〕 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 〔活字〕鋳造機〔詳細不明。 調査中〕1台で、フユーサー機は日本〔製の活字〕母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 〔した。その〕後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀〔勧業銀行〕から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 〔 い〕にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
〔はなしが〕前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で〔はあるが〕、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易〔学〕でいう鬼門〔裏鬼門にあたるの〕だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版〔東京築地活版製造所〕の重役で、〔印刷機器輸入代理店〕西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

※ 東京築地活版製造所の正門が「写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易〔学〕でいう鬼門〔裏鬼門にあたるの〕だそうである」とした牧治三郎の記述には『活字界』が発行された昭和45年当時の活字業界人を震撼させた。
牧治三郎は東京築地活版製造所の新ビルの正門を「南西の角、すなわち裏鬼門」と記述し、稿者にも語っていたが、近年の資料発掘によって、正門は万年橋方向ではなく、祝橋方向に向いており、むしろ北西の方向にあたることが判明した。なんらかの事実誤認があったとみられるにいたっている。

次の〔東京築地活版製造所第六代社長〕松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、たれが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 〔で〕 の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 〔に〕解散廃業を決議して、土地建物は債権者の勧銀〔勧業銀行〕から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

受賞経歴

東京築地活版製造所の象徴的存在・本木昌造

第1代代表/平野富二 第2代社長心得/本木小太郎(写真には掲載されていない) 第3代代表/曲田 茂 第4代代表/名村泰蔵 第5代代表/野村宗十郎

小図:明治7年の同社 大図:明治37年の同社

小図:第5代代表/松田精一 大図:昭和4年ころの同社

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株式会社東京築地活版製造所紀要
[釈 読 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

◎  活版製造の元祖 ◎

本邦における活字製造の元祖は東京築地活版製造所であるとあえて申しあげさしていただきます。社は明治六年〔一八七三〕七月、営業所を東京京橋区築地二丁目に設け、爾来 ジライ 一意改善に向かって進み、ここに五〇有余年〔1873-1929年、およそ56年〕、経営の堅実、基礎の強固となったことは、つとに世人セジン〔世のなかのひと〕より認められている所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造 モトギ-ショウゾウ 翁であります。まずその事績からお話しいたします。

氏は文政七年〔一八二四〕六月九日、肥前ヒゼン〔旧国名、一部はいまの佐賀県、一部はいまの長崎県〕長崎に生まれました。本木家は徳川幕府に仕えて、阿蘭陀通詞 オランダ-ツウジの職を執っていましたが、弱冠にして父の職を継ぎました。時あたかも外国船の来航ようやく頻繁となり、鎖港あるいは攘夷など、世論は紛々たるの時にありました。翁は静かに泰西 タイセイ〔西洋〕諸国の文物の交流の状態を探り、遂に活字製造のことに着眼しました。勤務の余暇にはいつも泰西の印刷術を見て、その印刷の精巧なることに感嘆して、わが国をして文化の域に至らしめるためには、このように鮮明な活字を製造して、知識の普及を計らなければならないと決意しました。

それ以来これを洋書の中に探ったり、あるいは来航した外国人に質問したりして、常にあらざる苦心をした結果、数年で少々その技術を会得し、嘉永四年〔一八五一〕ころに至って、はじめて「流し込み活字」〔流し込み活字は後出するが、どちらもハンド・モールドとされる素朴な活字鋳造器を用いた活字とみられる〕ができあがりましたので、その活字によって『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』と題する一書を印行して、これを蘭国 オランダ に贈りましたところ、おおいに蘭人の賞賛を博しました。これが本邦における活字鋳造の嚆矢 コウシ、ハジマリ であります。
〔このパラグラフの既述には、ながらく議論があった。すなわち嘉永4年・1851年という年代が早すぎるという説。数年前まで「流し込み活字」の実態が不明だったこと。『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』なる書物が現存せず、この既述の真偽を含めて議論が盛んだったが、いまだ定説をみるにいたらない〕

しかし翁は、流し込み活字による活字製作の業をもって足りるとせず、益々意を活字鋳造のことに傾けて、文字を桜やツゲの板目に彫ったり、あるいは水牛の角などに彫って、これを鉛に打ちこみ、あるいは鋼鉄に文字を刻して、銅に打ちこんだりと、様々に試みましたが、原料・印刷機械・インキなどのすべてが不完全なために、満足のいく結果をみるにはいたりませんでした。

たまたま明治年間〔1868年1月25日より明治元年〕にいたって、米国宣教師姜氏〔後出するウィリアム・ガンブルの中国での表記は姜別利 ガンブル である。すなわち、米国宣教師姜氏と、上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏とは同一人物とみなされる。ながらくこの事実が明らかにならず、混乱を招いた〕が上海にあって美華書館 ビ-カ-ショ-カン なるものを運営しており、そこでは「ガラハ電気」で字型〔活字母型〕をつくり、自在に活字鋳造をしていることを聞き及び、昇天の喜びをもって門人を上海に派遣して研究させようと思いましたが、姜氏らはこれを深く秘して示さなかったので、何回人を派遣しても、むなしく帰国するばかりでした。

しかしながら、事業に熱心なる本木氏は、いささかも屈する所無く、なおも研究を重ね、創造をはやく完成しようと計画していた折り、薩摩藩士・重野厚之丞シゲノ-アツノジョウ氏〔維新後政府の修史事業にあたる。文学博士・東京大学教授/重野安繹シゲノ-ヤスツグ 1827-1910〕が薩摩藩のために上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)、及びワシントン・プレスという、鉄製の手引き印刷機が用を成さずに、空しく倉庫にあることを聞き、早速それらの機器の譲渡を受けて様々に工夫をこらしました。

それでもまだ十分なる功績を挙げることができずにいましたが、当時上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏が、任期が満ちて帰国することの幸いを得て、これを招聘 ショウヘイ して長崎製鉄所の付属施設として、「活版伝習所」を興善寺町の元唐通事会所跡〔現在の長崎市立図書館〕に設けて、活版鋳造および電気版の製造をはじめました。このようにして活字製造の事業はいささかの進歩をみるにいたりました。

◎ 東京築地活版製造所 ◎

長崎製鉄所の付属施設であった「活版伝習所」にあった者が、のちに二つに分れて、ひとつは長崎新町活版所となって、その後、東京築地活版製造所、および、大阪活版製造所を創始しました。またもうひとつは、長崎製鉄所と共に工部省に属し、明治五年〔1872〕東京に移って勧工寮活版部となり、のちに左院活版課と合して太政官印刷局となり、さらに大藏省紙幣寮と合して印刷局〔現、独立行政法人・国立印刷局〕となったのであります。

明治四年〔1871〕夏、本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月、活字の販路を東京に開かんと思いまして、若干の活字を携えて上京しました。当時東京にも同業者はありましたが、何れも「流し込み」と称する〔素朴な活字鋳造器、ハンド・モールドによった。いっっぽう平野富二らは、これを改良したポンプ式ハンド・モールドと従来型のハンドモールを併用したとされる〕不完全な方法でできたものであって、しかもその価格は、五号活字一個につき約四銭であったのを、氏はわずかかに一銭宛で売りさばきましたので、需要者は何れもその廉価であって、また製造の精巧なることに驚嘆しました。
同年文部省の命を受け、活版印刷所を神田佐久間町の旧藤堂邸内(現・千代田区和泉町一)〔神田佐久間町は現存する。秋葉原駅前から数分、現和泉小学校、和泉公園の前、旧藤堂藩上屋敷に隣接した町人地であった。現在の神田佐久間町は商住地である〕に設けました。

翌明治六年〔1873〕に至り、いささか販路も拓け、工場の狹隘を感じましたので、七月京橋築地二丁目へ金参千円を費やして仮工場を設けました。同七年〔1874〕には本建築をなして、これを震災前 〔関東大震災 大正12年9月1日、1923〕迄事務室として使用していました。
同八年〔1875〕九月、本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。

明治九年〔1876〕には更に莫大なる費用を投じて、煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。社は率先して(明治十二年〔1879〕)活字改良及その他工業視察のために、社員曲田 成 マガタ-シゲリ を上海に、本木翁の一子、本木小太郎氏を米国および英国に派遣しました。

明治十五年〔1882〕に至り、政論各地に勃興して、いたるところで新聞・雑誌の発刊を競うようになって、活字および印刷機械の用途はすこぶる活況を呈すようになりました。同時に印刷の需用も盛んになりましたので、同十六年冬に石版[印刷]部を設置し、翌十七年、さらに〔活字版〕印刷部を設けて、石版・活版の〔平版印刷と凸版印刷の〕両方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れるようになりました。

明治十八年[1885]四月、合本会社(株式会社)組織に改組することに決して、平野富二氏を挙げて社長に、谷口默次氏〔大阪活版製造所社長を兼任〕を副社長に、松田源五郎〔長崎・十八銀行頭取〕、品川東十郎〔本木家後見人格〕の二氏が取締役として選任せられました。〔ここに挙げられた人物は、すべて長崎出身者である。すなわち東京築地活版製造所はきわめて長崎色のつよい企業であった〕

明治二十二年〔1889〕六月、平野氏社長の任を辞しましたので、新帰朝者・本木小太郎氏がかわって社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏が〔お目付役兼任として〕取締役として選ばれました。
同二十三年一月、本木〔小太郎〕氏辞任によって、支配人曲田成氏がかわってその社長の任に就きました。〔本木小太郎の社長心得期間は半年間。結局小太郎は社長には就任せず、その後は旧新街私塾系の人物のもとを放浪し、その最後は、谷口黙次の次男で、三間家に入り、東京三間ミツマ印刷社長となった三間隆次の家で逝去した。三間家は現・銀座松屋のあたりとみられている〕

明治二十六年〔1893〕十二月、我国の商法の実施に依りまして、社名を株式会社東京築地活版製造所と改めました。翌二十七年十月曲田社長病歿し、そのために名村泰藏 ナムラ-タイゾウ 氏が専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業を督励した結果、事業は発展し、明治三十九年六月、資本金を二十萬円としまして、日露戦役〔明治37-38 1904-05〕後の事業発展の経営に資する所といたしました。四十年九月名村社長病に殪 タオ れました。よって取締役野村宗十郎氏が選ばれて専務取締役社長となったのであります。

〔野村宗十郎〕氏は当社中古の一大異彩でありまして、明治二十三年〔1890〕入社以來献身的な精神をもって事に臨み、剛毅果断ゴウキ-カダン、しかも用意周到で、自ら進んで克くその範を社員に垂れました。社務の余暇にも常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず、遂に我邦最初のポイントシステムを創定して、活版界に一大美搖をあたえたのであります。そのために官は授くるに藍綬褒賞を以てして、これが功績を表彰せられたのであります。

そのほかにも印刷機械の製作ならびに改良の目的をもって、明治四一年〔1908〕三月、東京市京橋区月島西仲通に機械製作工場を設けたり[月島分工場のこと。実際は名村泰蔵が十年がかりで建造にあたった。大正十二年九月一日、関東大震災で焼失〕、活字販路拡張のために、明治四十年一月大阪市西区土佐堀通り二丁目に大阪出張所を、さらに大正十年〔1921〕十一月三日、小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、その事蹟は枚擧に遑 イトマ ないほどでありました。

かくして〔野村宗十郎〕氏の努力は、日に月に報じられてきた時恰 トキ-アタカモ、大正十二年九月一日、千古比類のない大震災に遭いまして当社の設備はことごとく烏有 ウユウ に帰してしまったのであります。〔この日、東京築地活版製造所は新社屋が落成し、まさに移転作業の最中に罹災した。幸い新築の新社屋は軽微な被害であったが、月島の機械工場は全面罹災し、活字鋳造機、活字母型、その他印刷機もほとんどが焼失した。また焼失を免れ、改造をほどこされた新社屋も、その正面入口が鬼門だとのうわさが絶えず、後継の歴代社長はそのうわさに脅かされることになった〕

剛毅に富んだ〔野村宗十郎〕社長は、毫ゴウも屈せず益益鋭意社業を督して日夜これが復興に盡瘁ジンスイせられた結果、着々曙光を認め大正十三年〔1924〕七月十九日、鉄筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣なお灰燼の裡ウチに、屋上高く社旗を翩翻ヘンポンとさせるにいたりました。その業漸く成らんとするに際し、大正十四〔1925〕年四月二十三日、享年六十九才をもって逝去されました。

大正十四年〔1925〕六月、取締役松田精一〔長崎・十八銀行頭取を兼任〕氏、選ばれて社長に就任せられ、同年九月資本金を倍加して金六拾萬円とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

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株式会社東京築地活版製造所紀要
[原 文 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

株式会社東京築地活版製造所紀要
活版製造の元祖

本邦に於ける活字製造の元祖は東京築地活版製造所であると敢て申上げさして頂きます。社は明治六年七月榮業所を東京京橋區築地二丁目に設け爾來一意改善に向つて進み、茲に五十有餘年、經榮の堅實、基礎の鞏固となつた事は夙に世人より認めらるる所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造翁であります。先づ其事蹟から御話致します。

氏は文政七年六月九日肥前長崎に生まれました。本木家は世々幕府に仕えて和蘭陀通詞の職を執つて居ましたが弱冠にして父の職を繼ぎました。時恰も外船の來航漸く繁く鎖港或は攘夷等と世論紛々たるの時に當りまして、靜かに泰西諸文物隆興の狀態を探り遂に活字製造の事に着眼しました。勤務の餘暇常に泰西の印刷術を見て其の印刷の精巧なるに感歎し、我國をして文化の域に至らしめるには此の如く鮮明な活字を造つて智識の普及を圖らなければならないと決意して、以來之を洋書中に探つたり、或は來航外人に質問したりして非常の苦心をした結果數年で稍々會得し、嘉永四年の頃に至つて始めて流込活字が出來上りましたので「和蘭陀通辯書」と題する一書を印行して之を蘭國に送りました所、大いに蘭人の賞賛を博しました。之れ本邦に於ける活字鑄造の嚆矢であります。然て活字製作の業之を以て足れりとせず氏は益々意を鑄造の事に傾けて、或は文字を櫻、黃楊の板目、又は水牛角等に彫つて之を鉛に打込み、或は鋼鐵に刻して銅に打込んで種々試みましたが原料、印刷機械、インキ等總べて不完全な爲めに満足な結果を得るに至りませんでした。

偶々明治年間に至つて米國宣教師、姜氏が上海に在つて美華書院なるものを設立して[ガラハ(電氣)]で字型を造り自在に鑄造をすると聞いて昇天の喜びを以て人を上海に派して研究させ様と思いました所が、彼れは深く秘して示さぬので幾囘行つても失敗して空しく歸國するばかりでした。

然し事業に熱心なる本木氏は聊かも屈する所なく尚も研究を重ね創造を早からしめ樣と計畫の折柄、重野厚之亟(文學博士重野安繹氏)が薩藩の爲め上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)及印刷機械(ワシントン・プレス)が用をなさぬと云つて空あしく庫中に藏してあると聞き、早速之を譲受け種々工夫をこらしましたが未だ充分なる功績を上げ得ぬので、當時上海の美華書院活版技師ガンブル氏の滿期歸国を幸い之を傭聘し長崎製鐵所附属として活版傳習所を興善寺町元唐通事會所跡に設けて活版鑄造及電氣版の製造を始めました。かくて活字製造の業稍々進歩を見るに至りました。

東京築地活版製造所
活版伝習所に在った者が後に二つに分れて、一は長崎新町活版所となって其の後、東京築地活版製造所及大阪活版製造所を創始しました。一は製鐵所と共に工部省に属し明治五年東京に移って勧工寮活版部となり後ち左院活版課と合して太政官印刷局となり更に大藏省紙幣寮と合して印刷局となったのであります。

明治四年夏本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月活字の販路を東京に開かんと思いまして若干の活字を携えて上京しました。當時東京にも同業者はありましたが何れも流込と称する不完全な方法で出来たものであって然も其値も五號活字一箇に付約四錢であったのを氏は僅かに壹錢宛で賣捌きましたので需要者は何れも其廉価であって又製造の精巧なるのに驚嘆しました。同年文部省の命を受け活版印刷所を神田佐久間町舊藤堂内(現今和泉町)に設けました。

翌六年に至り稍々販路も拓けまして工場の狹隘を感じましたので七月京橋築地二丁目へ金参阡餘圓を費して假工場を設けました。同七年には本建築をなして之を震災前迄事務室として使用して居ました。同八年九月本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。明治九年には更に莫大なる費用を投じて煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。

社は率先して(明治十二年)活字改良及其他工業視察の爲め社員曲田成を上海に、本木翁の一子小太郎氏を米國及英國に派遣しました。明治十五年に至り政論各地に勃興して到る處新聞雑誌の発刊を競う様になって活字及印刷機械の用途は頗る活況を呈す様になりました。
同時に印刷の需用も盛んになりましたので同十六年冬に石版部を設置し、翌十七年更に印刷部を設けて石版活版の兩方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れる様になりました。
明治十八年四月合本會社(株式會社)組織の事に決して平野富二氏を擧げて社長に、谷口默次氏を副社長に、松田源五郎、品川東十郎の二氏が取締役として選任せられました。

明治二十二年六月平野氏社長の任を辭しましたので新歸朝者本木小太郎氏代て社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏取締役として選ばれました。同廿三年一月本木氏辭任に依り支配人曲田成氏代て其任に就きました。

明治廿六年十二月我國商法の實施に依りまして社名を株式會社東京築地活版製造所と改めました。翌廿七年十月曲田社長病歿し爲めに名村泰藏氏専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業督勵の結果事業發展し、明治三十九年六月資本金を弐拾萬圓としまして日露戦役後の事業發展の經營に資する所と致しました。

四十年九月名村社長病に殪れました、依て取締役野村宗十郎氏選ばれて専務取締役社長となったのであります。氏は當社中古の一大異彩でありまして、明治廿三年入社以來獻身的精神を以て事に臨み、剛毅果断、而かも用意周到で自ら進んで克く其範を社員に垂れました。
社務の餘暇常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず遂に我邦最初のポイントシステムを創定して活版界に一大美搖を興えたのであります。爲めに官は授くるに藍綬褒賞を以てし之れが功績を表彰せられたのであります。
其他印刷機械の製作並に改良の目的を以て明治四一年三月東京市京橋區月島西仲通に機械製作工場を設けたり、活字販路擴張の爲め、明治四十年一月大阪市西區土佐堀通り二丁目に大阪出張所を更に大正十年十一月三日小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、其事蹟枚擧に遑ない程でありました。

斯くして氏の努力日に月に報じられて來た時、恰も大正十二年九月一日千古比類のない大震災に遭いまして當社に富んだ社長は毫も屈せず益々鋭意社業を督して日夜之れが復興に盡瘁せられた結果着々曙光を認め大正十三年七月十九日鐵筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣尚ほ灰燼の裡に屋上高く社旗を翻するに至りました。其の業漸く成らんとするに際し大正十四年四月二十三日享年六十九才を以て逝去されました。

大正十四年六月取締役松田精一氏選ばれて社長に就任せられ同年九月資本金を倍加して金六拾萬圓とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

A Kaleidoscope Report 004 活字工業会と活字発祥の碑

『活字発祥の碑』
(編纂・発行/活字発祥の碑建設委員会 昭和46年6月29日)
A4判28P 針金中綴じ  表紙1-4以外の本文・活字原版刷り

「活字発祥の碑」を巡る旅も4回目を迎えた。ここではまず、昭和46年(1971)6月29日、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』から紹介しよう。同書に文章をよせたのは以下の各氏である。

『活字発祥の碑』 目次
◉ 活字発祥の碑完成にあたり…………1
渡辺宗助/全日本活字工業会会長・活字発祥の碑建設委員会会長
◉ 活字発祥の碑完成を祝う…………2
室谷 隆/日本印刷工業会会長・印刷工業会会長
◉ 活字発祥の碑建設を慶ぶ…………3
新村長次郎/全日本印刷工業連合会会長・東京都印刷工業組合会長
◉ 活字発祥の碑建設に当たりて…………4
山崎善雄/株式会社懇話会代表取締役
◉ 心の支えとして…………5
松田友良/東京活字協同組合理事長
◉ 東京築地活版製造所の歩み…………6
牧治三郎
◉ 東京日日新聞と築地活版…………12
古川 恒/毎日新聞社
◉ 活字発祥の碑建設のいきさつ…………14
活字発祥の碑建設委員会
◉ 築地活版のこと…………16
今津健之介/全日本印刷工業組合連合会
◉ 父・宗十郎と築地活版…………17
野村雅夫
◉ 築地活版の想い出…………18
谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長
◉ 活字とともにあって…………19
渡辺初男/株式会社文昌堂会長
◉ 建設基金協力者御芳名…………20
◉ 建設委員会名簿・碑建設地案内図…………24

このパンフレットには編輯者個人名の記載はないが、おおかたの編輯にあたったのは、当時の全国活字工業組合広報部長であり、また、活字発祥の碑建設委員会委員長補佐としてここにも名をのこしている中村光男氏としてよいだろう。

ほとんどの寄稿が1ページずつの、いわゆるご祝儀文である。とりわけ関連団体の代表者の文章にはみるべき内容は少ないが、活字鋳造現場からの素朴な声として「築地活版の想い出」(谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長 P18)、「活字とともにあって」(渡辺初男/株式会社文昌堂会長 P19)の記録には、ほかにない肉声がのこされているので紹介しよう。


谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長
東京都台東区松ヶ谷2-21-5に旧在

築地活版の想い出
谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長

私がいっぱしの文選工になろうとの志を抱いて、築地活版所に入ったのが明治43―4年[1910―11]の頃、たしか22才の時でした。当時煉瓦造りとモルタル造りの社屋があり、印刷部と鋳造部とに分かれていて、私は印刷部のほうの活字部門に入りました。当時の社長は野村宗十郎さんで、活字部長が木戸金朔さん、次長が川口さんという方でした。この頃が築地活版所のもっとも華やかなりし時でした。

当時のお給金は1日19銭で、3食とも会社で弁当を食べていましたが、これが16銭、あとはたまの夜業代が[手許に]残るだけでした。そのため私は浅草に住んでいましたが、当時の電車賃5銭5厘(往復)をはらえず、毎朝5時に起きて1時間半がかりで築地の工場まで通ったものです。会社は7時から5時まで10時間労働というきびしいものでしたが、今の人には全く想像もつかないことでしょう。

私はわずか半年ばかりしか[東京築地活版製造所に]勤めませんでしたが、その時『古事記類苑』[不詳]という書物の活字を拾った[文選した]ことを憶えています。[活字]鋳造機は手廻しのもの[ブルース型手廻し活字鋳造機、国産]が100台ほどあったようですが、夏は暑くて、裸になって腰に白いきれをまいて作業をし、たいへんなものでした。

また、当時は月島に分工場が、九州に支店がありましたが、月島からは、築地活版のしるしのついた赤い木箱の車で活字を運んでいました。配達もこの車やモエギの風呂敷に包み、肩にかついでやったようです。

私は大正3年[1914]、26才の時に独立して開業しましたが、やはり築地活版所の活字を[開業]当初は売っていましたから、だいぶいろいろとお世話になったものです。

私も築地活版所が解散する前に、[同社の]株をもっていて、株主総会にも2、3回出たことがあります。会社が思わしくなくなっても、株主には損はさせないと強調していました。しかし、1株55円だったものが、最後には5、6円になったようです。

しかし、築地活版所が無から有を生じることに努力して、印刷界発展の基礎をつくった功績は、まことに偉大なもので、とても筆に尽くせないものがあります。今日築地活版所跡に記念碑が建設されると聞き、昔の想い出を2,3綴ってみました。


渡辺初男/株式会社文昌堂会長
東京都新宿区東大久保1-489に旧在

活字とともにあって
渡辺初男/株式会社文昌堂会長

[前略]私の父、渡辺嘉弥太郎の話によりますと、明治19年[1886]秀英舎(大日本印刷の前身)に入社した当時[の活字鋳造設備]は、カスチング(手動鋳造機)[ブルース型手廻し活字鋳造機、国産。原型は米国、国産機は弘道軒・神崎正誼の義弟、上野景範が、英国公使時代の明治9年(1876)春に神崎に送ったもの。それを原型として赤坂田町4丁目、大川光次郎兄弟が興した大川製作所が明治16年(1883)に国産化に成功。大川製作所は師弟相伝で、大川製作所→大岩製作所→小池製作所と継承された。小池製作所は2008年8月閉鎖されたが、その主要従業員と特許などは三菱重工が吸収した。『七十五年の歩み――大日本印刷株式会社の歩み』(昭和27年 P27)、『活字文化の礎を担う――小池製作所の歩み』(東洋経済 小池製作所 昭和60年6月30日 P32)より。なお秀英舎は、大川製作所による国産化がなってから、ただちに同機を数台導入したとされる]が3台[あった]とのことでした。後にトムソン(自動鋳造機)[トムソン型自動活字鋳造機]が大正時代に導入されたそうです。明治時代に「欧文のライン[を揃えて鋳造すること]、および規格[活字格とも。活字のサイズ、高さなどの仕様が各社で微妙に異なっていた。そのためこれらの企業の金属活字を混用することは長らく、あるいは最後までできなかった]を作るのに苦労した」等の話も聞き覚えております。


ブルース型手廻し活字鋳造機[参考写真]

トムソン型自動活字鋳造機[参考写真]

それから39年間、[父、渡辺嘉弥太郎は]只活字ひと筋に[秀英舎に]勤め、関東大震災を契機として、大正13年[1924]に独立開業しましたが、その当時の主流をなす3大メーカーとして、築地[活版所]、秀英[舎]、博文館[共同印刷の前身]がありました。いずれも書体とか規格[活字格とも]に特徴がありました。書体も大分近代化し、やや細目のものが出廻り始め、昭和20年[1945]の戦災から後の変遷は、ひときわ目覚ましいもので、ほぼ書体においては、現在の基礎をなすものと思えます。

母型の彫刻機[ベントン型活字母型(父型)彫刻機]、活字自動鋳造機等も続々と新機種が出て、書体の改刻等により新書体の誕生、JIS規格の制定と相俟って生産能力の向上等現在に至っております。

このように考えてみますと、印刷文化に貢献しつつ100年を迎えました。しかし日進月歩の歩みは1秒も休みなく、昨今の印刷技術の進歩は幅広く、変遷も著しく、ややもすると、活字が斜陽化するような誤解を生じ易いと思われますが、文選植字機[文選と植字を同時にこなす、いわゆる日本語モノタイプ、自動活字鋳植機]等の開発も進み、良い持ち味のある印刷物には活字は欠かせないものと自負いたしております。[後略]

また、パンフレット『活字発祥の碑』には、6-9ページの4ページにわたって、牧治三郎が「東京築地活版製造所の歩み」を寄稿している。ここには図版紹介がなく、また一部に詳細不明なところもあるが、簡潔ながら良く整理された貴重な資料である。次回、別項として、筆者手許資料で補完した姿をもってこの「東京築地活版製造所の歩み」の全文を紹介したい。

さらにパンフレット『活字発祥の碑』から紹介するのは、「活字発祥の碑建設のいきさつ」(P14-15)である。この執筆者は、全国活字工業組合広報部長、活字発祥の碑建設委員会委員長補佐として名をのこしている中村光男氏(株式会社中村活字店社長)だとみている。この記録を読むと、除幕のまさにその瞬間まで、中村氏は全面的にこの建碑事業の人脈を、ほぼ牧治三郎にたよっていたことがわかる内容となっている。活字鋳造業者とは、ほとんどが現場の職人出身であり、当時にあっては意外と交友関係は狭く、知識に乏しかったのである。

活字発祥の碑建設のいきさつ
活字発祥の碑建設委員会(P14-15

長崎[諏訪公園]には本木昌造翁の銅像があり、また、大阪には記念碑[四天王寺境内・本木氏昌造翁紀年碑]が建立され、毎年碑前祭などの行事が盛大に行なわれておりますが、印刷文化の中心地といえる東京にはこれを現わす何もなく、早くから記念碑の建設、あるいは催しが計画されていましたが、なかなか実現するまでに至りませんでした。

こうした中にあった、活字発祥の源である東京築地活版製作所の建物が、昭和44年[1969]3月取壊わされることになり、[同社の]偉大なる功績を[が、]、この建物と共に失われていく[ことを危惧する]気持ちをいだいた人が少なくなかったようであります。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

ちょうどこの年[昭和44年、1969]は、本木昌造先生が長崎において、上海の美華書館、活版技師・米国人ウイリアム・ガンブル氏の指導を受けて、電胎母型により近代活字製造法を発明[活字母型電鋳法、電胎法はアメリカで開発されて、移入されたもので、わが国の、あるいは本木昌造の発明とはいいがたい]してから100年目にあたる年でもありました[ガンブルの滞日と滞在期間には諸説ある。長崎/本木昌造顕彰会では、興善町唐通事会所跡(現・長崎市市立図書館)の記念碑で、明治2年(1869)11月-翌3年5月の間にここで伝習がおこなわれたとする。したがってこの年はたしかに伝習後100年にあたった]。

この年[昭和44年、1969]の5月、箱根で行なわれた全日本活字工業会総会の席上、当時の理事・津田太郎氏から、築地活版製造所跡の記念碑建設についての緊急提案があり、全員の賛同を得るところとなりました。

その後、東京活字協同組合理事長(当時)渡辺初男氏は、古賀[和佐雄]会長、吉田[市郎]支部長、津田[太郎]理事らと数回にわたって検討を重ね、記念碑建設については、ひとり活字業界だけで推進すべきではないとの結論に達し、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会(現印刷工業会)、東京都印刷工業組合の印刷団体に協賛を要請、[それら諸団体の]快諾を得て、[活字鋳造販売と印刷の]両業界が手をとりあって建設へ動き出すことになったのです。

そして[昭和44年、1969]8月13日、土地の所有者である株式会社懇話会館へ、古賀[和佐雄]会長、津田[太郎]副会長、渡辺[初男]理事長と、印刷3団体を代表して、東印工組[東京都印刷工業組合]井上[計]副理事長が、八十島[耕作]社長に、記念碑建設についての協力をお願いする懇願書をもって会談、同社長も由緒ある築地活版に大変好意を寄せられ、全面的なご了承をいただき、建設への灯がついたわけです。

翌昭和45年[1970]6月、北海道での全日本活字工業会総会で、記念碑建設案が正式に賛同を得、7月20日の理事会において、発起人および建設委員を選出、8月21日第1回の建設委員会を開いて、建設へ本格的なスタートを切りました。

同委員会では、建設趣旨の大綱と、建設・募金・渉外などの委員の分担を決めるとともに、募金目標額を250万円として、まず、岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになりました。

翌昭和45年[1970]9月、津田[太郎]建設委員長、松田[友良]、中村[光男 中村活字店]、後藤[孝]の各委員が岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行ない、ついで、9月18日、第2回の委員会を開いて建設大綱などを決め、業界報道紙への発表と同時に募金運動を開始、全国の印刷関連団体および会社、新聞社などに趣意書を発送して募金への協力を懇請しました。

同年末、懇話会館に記念碑の構想図を提出しましたが、その後建設地の変更がなされたため、同原案図についても再検討があり、懇話会館のビルの設計者である日総建の国方[秀男]氏によって、ビルとの調和を考慮した設計がなされ、1月にこの設計図も完成、建設委員会もこれを了承して、正式に設計図の決定をみました。新しい設計は、当初2枚板重ね合わせたものであったのを1枚板とし、その中央に銅鋳物製の銘板を埋め込むことになりました。

また、表題は2月4日の理事会で「活字発祥の碑」とすることに決まり、碑文については毎日新聞の古川[恒]氏の協力を得、同社田中会長に2案を作成して、その選定を依頼、建立された記念碑に掲げた文が決定したわけです。

なお、表題である「活字発祥の碑」の文字については、書体は記念すべき築地活版の明朝体を旧書体[旧字体]のまま採用することとしましたが、これは35ポイントの見本帳(昭和11年改訂版)[東京築地活版製造所が35ポイントの活字を製造した記録はみない。36ポイントの誤りか?]で、岩田母型[元・岩田活字母型製造所]のご好意によりお借りすることができたものです。

また、記念碑は高さ80センチ、幅90センチの花崗岩で、表題の「活字発祥の碑」の文字は左から右へ横書きとし、碑文は右から左へ縦書きとし、そのレイアウトについては、大谷デザイン研究所・大谷[四郎・故人]先生の絶大なご協力をいただきました。

一方、建設基金についても、全国の幅広い印刷関連業界の団体および会社と、個人[p20-21 建設基金協力者御芳名によると、個人で基金協力したのは東部地区/中村信夫・古川恒・手島真・牧治三郎・津田藤吉・西村芳雄・上原健次郎、西部地区/志茂太郎 計8名]からもご協力をいただき、目標額の達成をみることができました。誌上を借りて厚くお礼を申しあげます。なお、協力者のご芳名は、銅板に銘記して、碑とともに永遠に残すことになっております。

こうして建設準備は全て整い、銘板も銅センターの紹介によって菊川工業に依頼、この5月末に完成、いよいよ記念碑の建設にとりかかり、ここに完成をみたわけであります。

なお、建設委員会発足以来委員長として建設へ大きな尽力をされました津田太郎氏が、この4月に全日本活字工業会長の辞任と同時に[高齢のため、建設委員会委員長の職も]退任されましたが、後任として5月21日の全国総会で選任されました、渡辺宗助会長が委員長を継承され、つつがなく除幕式を迎えることができました。

私ども[活字発祥の碑建設]委員会としては、この記念碑を誇りとし、精神的な支えとして、みなさんの心の中にいつまでも刻みこまれていくことを祈念しております。また、こんご毎年なんらかの形で、碑前祭を行ないたいと思っております。

最後に重ねて「活字発祥の碑」建立へご協力いただきましたみなさま方に、衷心より感謝の意を表する次第であります。

また、この『活字発祥の碑』序幕の時点では、長らく活字工業会の重鎮として要職にあった、株式会社千代田活字・古賀和佐雄は、渉外委員としてだけ名をのこし、欧文活字の開発から急成長し、東京活字協同組合をリードしてきた、株式会社晃文堂・吉田市郎は、すでにオフセット平版印刷機製造と、当時はコールド・タイプと称していた、写植活字への本格移行期にはいっていた。そのため活字発祥の碑建設委員会では建設委員主任としてだけ名をのこしている。

つまり、古賀和佐雄・吉田市郎らの、高学歴であり、事業所規模も比較的大きな企業の経営者は、活字鋳造界の衰退を読み切って、すでに隣接関連業界への転進をはかる時代にさしかかっていたのである。これを単なる世代交代とみると、これからの展開が理解できなくなる。

また11ヶ月にわたったこの「活字発祥の碑」建立のプロジェクトには、活字鋳造販売界、印刷界の総力を結集したとされるが、奇妙なことに、ここには活字母型製造業者の姿はほとんどみられない。その主要な原因は、いわゆる日本語モノタイプ(自動活字鋳植機)などの急速な普及にともない、活字母型製造業者が過剰設備投資にはしったツケが生じて、業績は急速に悪化し、すでに昭和43年(1968)、活字母型製造業界の雄とされた株式会社岩田活字母型製造所が倒産し、同社社長・岩田百蔵が創設以来会長職を占めていた東京活字母型工業会も、事実上の破綻をきたしていたためである。

前号で吉田市郎のことばとして紹介した「われわれは、活字母型製造業者の冒した誤りを繰りかえしてはならない」としたのがこれにあたる。ただし岩田活字母型製造所は倒産したものの、各支店がそれぞれ、ほそぼそながらも営業を続けた。したがって活字母型製造業者は、かつての「東京活字母型工業会」ではなく、「東京母型工業会」の名称で、わずかな資金を提供した。また、旧森川龍文堂・森川健一が支店長をつとめた「岩田母型製造所大阪支店」は、本社の倒産を機に分離独立して、大阪を拠点として営業をつづけた。同社は「株式会社大阪岩田母型」として資金提供にあたっている。


「活字発祥の碑」完成 盛大に除幕式を挙行
『活字界 30号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年8月15日)

ここからはふたたび、全日本活字工業会機関誌『活字界』の記録にもどる。建碑とその序幕がなったあとの『活字界 30号』(昭和46年8月15日)には、本来ならば華やかに「活字発祥の碑」序幕披露の報告記事が踊るはずであった。しかし同号はどこか、とまどいがみえる内容に終始している。肝心の「活字発祥の碑」関連の記事は、「活字発祥の碑完成、盛大に除幕式を挙行」とあるものの、除幕式の折の驟雨のせいだけではなく、どことなく盛り上がりにかけ、わずかに見開き2ページの報告に終わっている。

それだけではなく、次の見開きには、前会長・古賀和佐雄の「南太平洋の旅――赤道をこえて、南十字星きらめくシドニーへ、時はちょうど秋」という、なんら緊急性を感じない旅行記をは2ページにわたってのんびりと紹介している。

そして最終ページには《「碑」建設委員会の解散》が、わずか15行にわたって記述されている。この文章はどことなく投げやりで、いわばこの事業に一刻も早くケリをつけたいといわんばかりの内容である。

華やかであるべき「活字発祥の碑」の除幕式が、こうなってしまった原因は、驟雨の中で執り行われた除幕式の人選であった。神主に先導され、東京築地活版製造所第5代社長の子息、野村雅夫夫妻と、同氏の弟の服部茂がまず登場した。この光景を多くの参列者は小首をかしげながらみまもった。そして序幕にあたったのは野村宗十郎の曾孫ヒマゴ、泰之(当時10歳)であった。その介添えには終始牧治三郎がかいがいしくあたっていた。

おりからの驟雨のなか、会場に張られたテントのなかで、野村泰之少年があどけない表情で幕を切って落とした。その碑面には以下のようにあった。ふたたび、みたび紹介する。

特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に
『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)
 


昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。

あちこちで漏れた囁きは、しだいに波紋となって狭い会場を駆け巡った。参列者の一部、とりわけ東京築地活版製造所の元従業員からは憤激をかうことになった。その憤激の理由は簡単であり単純である。除幕された碑面には野村宗十郎の「の」の字もなかったからである。前述のとおり、この碑文は毎日新聞・古川恒の起草により、同社田中社長が決定したものであった。当然重みのある意味と文言が記載されていたのである。

式典を終え、懇親会場に場を移してからも、あちこちで「野村さんの曾孫ヒマゴさんが序幕されるとは、チョット驚きましたな」という声が囁かれ、やがて蔽いようもなく「なんで東京築地活版製造所記念碑の除幕が野村家なんだ! 創業者で、碑文にも記載されている平野家を呼べ!」という声が波紋のように拡がっていった。そんななか、牧治三郎だけは活字鋳造界には知己が少なかったため、むしろ懇話会の重鎮――銅線会社の重役たちと盃を交わすのに忙しかったのである。そんな光景を横目にした活字界と印刷界の怒りは頂点に達した。懇親会は険悪な雰囲気のまま、はやばやと終了した。

左) 平野富二
弘化3年8月14日―明治25年12月3日(1846―92)

右) 野村宗十郎
安政4年5月4日―大正14年4月23日(1857―1925)


 

《「碑」建設委員会の解散》

発祥の碑建設委員会は[昭和]45年8月に第1回目の会合を開き、それから約11ヶ月にわたって、発祥の碑建設にかかるすべての事業を司ってきたが、7月13日コンワビルのスエヒロで最後の会合を持ち解散した。

最後の委員会では、まず渡辺[宗助]委員長が委員の労をねぎらい、「とどこおりなく完成にこぎつけることができたのは、ひとえに業界一丸となった努力の賜である」と挨拶。

引き続き建設に要した収支決算が報告され、また今後の記念碑の管理維持についての討議、細部は理事会において審議されることになった。

《リード》
「活字発祥の碑」除幕式が、[昭和46年 1971]6月29日午前11時20分から、東京・築地の建立地[東京都中央区築地2丁目13番22号、旧東京築地活版製造所跡]において行なわれた。この碑の完成によって、印刷文化を支えてきた活字を讃える記念碑は、長崎の本木昌造翁銅像、大阪の記念碑を含めて三体となったわけである。中心となって建立運動を進めてきた全日本活字工業会、東京活字協同組合では、今後毎年記念日を設定して碑前祭を行なうなどの計画を検討している。

《本文》
小雨の降る中、「活字発祥の碑」除幕式は、関係者、来賓の見守るうちに、厳粛にとり行なわれた。

神官の祝詞奏上により式は始まり、続いて築地活版製造所第5代社長、野村宗十郎氏の令息雅夫氏のお孫さん・野村泰之君(10歳)が、碑の前面におおわれた幕を落とした。

拍手がひとしきり高くなり、続いて建設委員長を兼ねる渡辺[宗助]会長、松田[友良]東活協組理事長、印刷工業会・佐田専務理事(室谷会長代理)、株式会社懇話会館・山崎[善雄]社長がそれぞれ玉串をささげた。こうして活字および印刷業界の代表者多数が見守る中で、印刷文化を支えてきた活字を讃える発祥の記念碑がその姿をあらわした。

参列者全員が御神酒で乾杯、除幕式は約20分でとどこおりなく終了した。

ともあれ、「活字発祥の碑建設委員会」は11ヶ月にわたる精力的な活動をもって建碑にこぎつけて解散した。同会委員長代理であった中村光男氏は、同時に、そして引き続き、全日本活字工業会広報委員長でもあった。ここでもう一度建碑までの時間軸を整理してみよう。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

この連載において、牧治三郎は大正12年(1923)秋、野村宗十郎社長のもとで竣工した旧東京築地活版製造所ビルの正門が、裏鬼門、それも死門とされる、[方位学などでは]もっとも忌むべき方角に正門がつくられていたことを指摘した。そしてこのビルの建立がなった直後から、東京築地活版製造所には関東大地震、第二次世界大戦の空襲をはじめとするおおきな罹災が続き、また、野村宗十郎をはじめとするビル落成後の歴代経営陣にも、多くの病魔がおそったとを不気味な調子で記述したり、口にもしたのである。

信心深く、ふるい技能、鋳物士イモジの伝統を継承する活字業界人は、反射的に、それを、折からの不況と、業績不振とに関連づけた。そして除霊・厄払い・厄落としのために記念碑の建立を急ぎ、なにはともあれ昭和46年(1971)6月9日、無事に除幕式にこぎつけたのである。この間わずかに11ヶ月という短期間であったことは特筆されてよい。

なにごとによらず、うたげのあとは虚しさと虚脱感がおそうものである。ところが意欲家の中村光男氏は、建碑がなったのち、ふたたび全日本活字工業会広報委員長の立場にもどって、同会機関誌『活字界』を舞台に、「活字発祥の碑」を巡って、みずからもそれまであまり意識してこなかった、活字鋳造の歴史と背景を調査、記録することにつとめた。これ以後、牧治三郎にかわって、毎日新聞の古川恒がなにかと中村光男氏を支援することになった。そしてここに、ながらく封印されていた「平野富二首証文」の記録が、嫡孫の平野義太郎からあかされることになった。

これに驚愕した中村光男氏は、序幕から一年後に「活字発祥の碑 碑前祭」を挙行して、ここに平野家一門を主賓として招くと同時に、『活字界』(第34号 昭和47年8月20日)に「平野義太郎 挨拶――生命賭した青雲の志」と題して、再度「平野富二首証文」の談話記事を掲載することとなる。

そして「活字発祥の碑」の序幕にあたった、野村宗十郎の子息、野村雅夫とその一門は、まったく邪心の無い人物であり、なにも知らずに牧治三郎に利用されただけだったことが以下の記事から業界に知れて、いつのまにか活字業界人の記憶から消えていった。
平野家の記録
上左:平野富二  中:義太郎、一高時代、母つるとともに(1916)
下:義太郎、東大法学部助教授就任のとき
『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)より

平野富二とふたりの娘。向かって左・長女津類、右・次女幾み(平野ホール藏)

ーーついにあかされた《平野富二首証文)ーー
平野富二の事蹟=平野義太郎」
「活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫」

『活字界 31号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年11月5日)

平野義太郎
平野富二嫡孫、法学者として著名 1897―1980

★平野富二の事蹟=平野義太郎

平野富二が明治初年に長崎から上京し(当年26歳)、平野活版所(明治5年)、やがて東京築地活版製造所(明治14年)と改称、つづいて曲田成マガタシゲリ氏、野村宗十郎氏が活字改良に尽瘁ジンスイされました。このことを、このたび日本の印刷文化の源泉として建碑して下さったことを、歴史上まことに意義あるものとして、深甚の感謝を捧げます。

1)風雲急な明治維新の真只中における、祖父・平野富二の畢生ヒッセイの事業は、恩師である学者、本木昌造先生の頼みを受け、誰よりも早く貧乏士族の帯刀をかなぐり棄てて、一介の平民となって、長崎新塾活版所の経営を担当したことでした。そのときすでに販売に適する明朝活字、初号から五号までを完成していました[初号活字は冷却時の熱変形(ヒケ)が大きく、木活字を代用とした。鋳造活字としての初号の完成は明治15年ころとされる]。しかも平野は他の同業者に比し、わずか4分の1の1銭で五号活字を売り捌いたということは、製造工程の生産性がいかに高かったかを示すものでした。

2)さて印刷文化の新天地を東京にもとめ、長崎から東京にたずさえてきた(明治5年7月)のは、五号・二号の字母[活字母型]および、鋳型[活字ハンドモールドのことか]各1組、活字鋳込機械[平野活版所には創業時から「ポンプ式活字ハンドモールド」があったとされるが、これを3台を所有していたとは考えにくい。詳細不詳]3台、ほかに正金壱千円の移転費だけでありました。四号の字母[活字母型]は、そのあと別送したものです。平野は長崎で仕込んだ青年職工・桑原安六以下10名を引きつれて上京、ついに京橋区築地2丁目万年橋際に新工場を建てました(明治6年7月)。そこはいま碑の建てられた場所です。この正金壱千円の大金を、平野はどのようにして調達したのでしょうか。

この正金壱千円の移転費を、長崎の金融機関であった六海社(平野家の伝説では薩摩の豪商、五代友厚)から、首証文という担保の、異例な(シャイロック型の)[Shylock シェークスピアの喜劇『ヴェニスの商人』に登場する、強欲な金融業者に六海商社を義太郎は擬ナゾラえている]借金をしたのでした。

すなわち、「この金を借りて、活字鋳造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金することができなかったならば、この平野富二の首を差し上げる」という首証文を担保にした借金だったのである。

3)平野活版所は、莫大な費用を投じ、煉瓦建工場を建設(明治7年5月)、つづいて阿州[阿波藩・現徳島県]藩士、曲田成 マガタ シゲリ を社員に任用し、清国上海に派し、あまねく良工をさがしもとめ、活字の種板を彫刻させた――これが活字改良の第一歩であった。

曲田成氏という人は、平野富二について、つねに片腕になって活動された人であって、しかも特筆すべきことは明朝活字の改良は、曲田氏の手によってなしとげられたといって[も]過言ではないことである。

明治14年3月(1881年)、築地活版所[長崎新塾出張活版製造所から改組・改称し、東京築地活版製造所]と呼称した。平野は従来の投資になる活版製造所の一切の所有権を恩師・本木昌造先生の長子、[本木]小太郎社長に譲渡した。それで平野は本木先生の信頼にたいして恩義に報いたのであり、また自分は生涯の念願である造船業に全エネルギーを注ぎ込んだ(石川島平野造船所の建設)。
曲田 茂 マガタ  シゲリ
阿波徳島の士族出身、幼名岩木壮平、平野富二と同年うまれ
弘化3年10月1日-明治27年10月11日(1846-94)

ちなみに、曲田成氏は明治26年、東京築地活版製造所の社長となり、わずか1ヶ年余の活動ののち、明治27年に死去された。

★活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫

このたび[の]活字発祥の碑が建設されつつあることを、私は全然知りませんでした。ところが突然、西村芳雄氏、牧治三郎氏の御紹介により、全日本活字工業会の矢部事務局長から御電話がありまして、文昌堂の渡辺[初男]会長と事務局長の御来訪を受け、初めて[活字発祥の碑の]記念碑が建設されることを知りました。そして6月29日午前11時より除幕式が行われるため是非出席してほしいとのお言葉で、私としても昔なつかしい築地活版製造所の跡に建設されるので、僭越でしたが喜んでお受けした次第です。何にも御協力出来ず誠に申し訳なく存じております。

なお、除幕式当日の数日前には御多忙中にも拘わらず、渡辺[宗助]建設委員長まで御来訪いただき感謝致しております。当日は相憎[生憎]の雨天にも拘わらず、委員長の御厚意により車まで差し回していただき恐縮に存じました。除幕式には私共夫妻と、孫の泰之それに弟の服部茂が参列させていただき、一同光栄に浴しました。

式は間もなく始まり30分程度にてとどこおりなく終了しましたが、恐らく築地活版製造所に勤務された方で現在[も健在で]おられる方々はもちろんのこと、地下に眠れる役職員の方々も、立派な記念碑が出来てさぞかし喜んでおられることと存じます。

正午からの祝賀パーティでは、殊に文化庁長官[今日出海]の祝詞の中に父の名[野村宗十郎]が特に折り込まれて、その功績をたたえられたことに関しては、唯々感謝感謝した次第です。

雨もあがりましたので、帰途再び記念碑のところに参りましたら、前方に植木が植えられ、なおいっそう美観を呈しておりました。

最後に全日本活字工業会の益々御発展を祈ると共に、今後皆様の御協力により永久に記念碑が保存されることを希望してやみません。

「活字発祥の碑」建碑を終えてからも、『活字界』は積極的に取材を重ね、周辺情報と、人脈を掘りおこしていた。なかでも平野富二の嫡孫・平野義太郎の知遇を得たことが中村光男氏にとって、井戸のなかから大海にでたおもいがしたようである。驚くかもしれないが、そもそも平野富二の嫡孫であり、また東大法学部助教授の俊才として名を馳せた、高名な法学者・平野義太郎が、東京都内に現住していることは、当時の活字業界人は知らなかった。その次第はあらかた『富二奔る――近代日本を創ったひと・平野富二』(片塩二朗 朗文堂 2002年12月3日)にしるした。端的にいえば、天下の悪法・治安維持法のためであった。また平野義太郎の詳細な評伝も刊行されている。『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)。両書をご参照願いたい。

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碑前祭り厳粛に挙行、活字発祥記念碑から一年
『活字界』(34号 全日本活字工業会広報委員会 昭和47年8月20日)

『活字界』34号は、落成・除幕式の折の陰鬱な記録とはまったく様相を異とし、「活字発祥の碑」建碑から1年、碑前祭りの記録――が、全8ページのうち、6ページをもちいて、中村光男氏の弾み立つような文章に溢れている。ここで平野義太郎がかたった「首証文」の借用書に関して名前が出てくる、長崎・大阪の豪商・金融業者・「協力社、永見松田商社、六海商社、五代友厚」に関してあらかじめ簡略に紹介しよう。

『百年の歩み――十八銀行』
(十八銀行、昭和53年3月28日

《長崎における会社》 P11
当時の長崎に存在した会社、商店についての資料は非常に少ない。明治11年『県統計表』によると国立銀行五行(第十八、第九十七、第九十九、第百二、第百六)の外に、会社としては、つぎの8社があげられているにすぎない。
勧業会社(対馬厳原   物産繁殖           株金1万5、000円)
六海商社(長崎区西浜町 物産繁殖          株金5万円)
以文会社(長崎区勝山町 書籍ならびに活字印刷  株金  5、000円)
又新社 (長崎区東浜町 石鹸製造           株金  2、000円)
養蚕社 (対馬厳原   養蚕ならびに職工      株金  1、000円)
漸成社 (東彼杵郡大村 養蚕             株金  1、500円)
長久社 (東彼杵郡大村 桑苗ならびに茶園     株金    800円)
新燧社 (本社東京   マッチ製造              株金1万円)

《第十八国立銀行の前身――永見松田商社の設立》 P12
明治3年1月長崎の有力商人たちのうち、中村六之翁、盛千蔵、山下右一郎、永見伝三郎(当行初代頭取)、村上藤平、三田村庄次郎、和田伊平次、松田勝五郎、永見寛二、深川栄三郎、伊吹卯三郎、下田嘉平の13人は、長崎県の要請により、「協力社」という為替会社とは性格を異にする商社を組織することになった。

この協力社は長崎産物会所が旧幕時代に海産物商その他に前貸ししていた貸付金約9万5,000両の整理をはかるため設立されたもので、協力社はこの貸付金を回収して明治4年から10ヵ年賦上納することと定められていた。しかし、これらの貸付金は諸国産物商に対する滞り貸付や、幕府の残した抵当物件のようなもので回収は急速にははかどらず、協力社は為替、貸金業などをいとなんでいたものの運営資金は乏しく、金融の効果はあげ得なかった。

松田源五郎(当時第2代頭取)は、かねて新時代を迎えてこれからの長崎の発展のためには、近代的金融機関「バンク」の設立が必要であると痛感し、当時の有力な商人、富商らに、その実現について極力働きかけていたが、旧商慣習になずむ人たちが多く、その実現は容易なことではなかった。

しかし、永見伝三郎、松田勝五郎、永見寛二その他の一部の有志は、ようやくこの進歩的主張に動かされ、明治4年会社設立に踏み切り、12月15日資本金5万円をっもって、東浜町326番地に本店をおき、合資組織による「永見松田商社」を設立、松田勝五郎を社長として翌明治5年1月2日をもって開業した。この永見松田商社こそ、後年における第十八国立銀行および株式会社十八銀行の先駆をなすものであり、九州における近代商業銀行の嚆矢といってもあえてさしつかえない。

また「永見松田商社」へ参加しなかった人びとも、明治6年1月「協力社」を「六海商社」という合資組織の会社に改組し、盛千蔵が社長となった。

平野義太郎は「平野富二首証文」の提出先として、長崎の伝承では六海社としているが、これは上記資料からみても「六海商社」のことであろう。六海商社はもともと長崎銅座の豪商による一種の講であったとされる。いまはわずかに長崎市街地に銅座川の名をのこすにすぎないが、わが国はながらく産銅国として知られ、銅竿を長崎に集め、ふき替えをして銀や金などを取り出してから輸出して、巨利をあげていた業者の講があった。そして、その町人地を江戸期は銅座と呼び、明治以後はそれらの富商は六海商社に結集していたとされる。「協力社」系の企業、六海商社の資金力は、前記資料をみても、のちのナンバー銀行「十八銀行」と同額の5万円であったことに注目したい。ここに「平野富二首証文」を提出したという風聞は、長く長崎には流布していたようである。

しかし平野一家では、それを大阪の豪商、五代友厚(1835―85)として、いまも伝承している。五代は元薩摩藩士として外遊を重ね、維新後は外国事務局判事などをつとめた。のち、財界に身を投じて、おもに大阪で政商として活躍した人物である。その興業は造船・紡績・鉱山開発・製藍・製銅などにおよび、大阪株式取引所、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)などの創立に尽力した。また五代関連の資料では、大阪活版製造所の創立者を五代に擬すものが多い。

しかし五代は近代主義者であり、開明派をもって任じており、26歳の有為の青年・平野富二に、「首証文」を担保として提出を求めたとは考えにくい。もちろん軽々しく断定はできないが、筆者はむしろ長崎の伝承にしたがって、ふるい銅座の旦那衆であった「六海商社」が、上京開業資金の借り入れに際して担保を要求したため、青年・平野富二は六海商社に「平野富二首証文」を提出したものとみなしている。

また平野義太郎は、平野富二の右腕兼後継者として、曲田茂マガタ-シゲリを何度もあげたが、野村宗十郎に関しては、冒頭にわずかに一度触れただけで、ほとんどそれを無視した。これは通説にたいする見事なしっぺ返しである。義太郎が再々のべたように、いわゆる「活字書風築地体」の確立に果たした役割は、やはり創業者・平野富二と、その右腕の曲田茂によった、と筆者もみなしている。野村宗十郎の役割と功績は、少し別な見地から再評価されるべきであろう。

ともあれ、明治維新に際して長崎の富商は「協力社」に集められ、そのうち金融業者を中心に、これまた長崎出身、福地櫻痴による新造語「BANK→バンク→銀行」に変貌した。そのうち「永見松田商社、のちの立誠会社、長崎十八銀行」は、本木昌造の事業、平野富二の事業にきわめて積極的に関与していた。とりわけ実質的な創業者であり、第2代頭取・松田源五郎は、東京築地活版製造所、大阪活版製造所の取締役としても記録されている。また第5代頭取・松田精一は、、十八銀行頭取(1916―36)と、東京築地活版製造所の社長職(1925―35)を兼任していたほどの親密さでもあった。

したがって松田精一が歿し、長崎人脈と、長崎金脈が事実上枯渇したとき、明治5年(1872)7月、神田佐久間町3丁目長屋に掲げた「長崎新塾出張東京活版所」、すなわち、のちの東京築地活版製造所は、あっけなく解散決議をもって昭和13年(1938)3月、66年の歴史をもって崩壊をみたのである。このあたりの記録は次稿『東京築地活版製造所の歩み』でさらに詳細記録をもって紹介したい。

6月29日午後3時から、東京・築地懇話会館前の「活字発祥記念碑」の前に関係者など多数が出席して碑前祭が行われた。[全日本活字]工業会では昨年6月29日、各界の協力を得て旧築地活版所跡に「活字発祥記念碑」を建立した。この日はそれからちょうど1周年の記念日に当たる。

碑前祭には、全印工連新村[長次郎]会長、日印工佐田専務、東印工組伊坂理事長、全印工連井上[計]専務、懇話会館山崎[善雄]社長、同坂井支配人、同八十島[耕平]顧問、全印機工安藤会長はじめ、毎日新聞古川恒氏、平野義太郎氏(平野富二翁令孫)、牧治三郎氏(印刷史評論家)など来賓多数も列席、盛大な碑前祭となった。

碑前祭は厳粛に行われ、神主が祝詞をあげ、渡辺会長を先頭に新村会長、伊坂理事長とつぎつぎに玉串を捧げた。

懇話会館入口では出席者全員に神主から御神酒が配られ、この後は同会館の13階のスヱヒロで記念パーティが行われた。渡辺[宗助]会長はパーティに先立って挨拶し、その中で「ホットとコールド[金属活字と写植活字]は全く異質なものであり、われわれは今後とも[金属]活字を守り、勇気をもって努力していきたい」と語った。つづいて挨拶に立った全印工連新村[長次郎]会長は、「活字があったればこそ、今日の]印刷業の]繁栄があるのであり、始祖を尊ぶ精神と活字が果たしてきた日本文化の中の役割を、子孫に伝えなければならない」と活字を讃えた。

また、和やかな交歓が続くなかで、日本の活字発祥の頃に想いをはせ、回顧談や史実が話された。毎日新聞社史編集室の古川[恒]氏は、グーテンベルグ[ママ]博物館の話を、平野義太郎氏はそのご子息と一緒に出席、祖父について同家に伝わるエピソードを披露した。牧治三郎氏からは本木昌造翁、平野富二翁、ポイント制を導入して日本字のポイント活字を鋳造・販売し、その体系を確立した野村宗十郎翁などを中心に、旧築地活版所の歴史を回顧する話があった。

活字をめぐる情勢は決して良いとはいえないが、こうして活字業界の精神的な柱ともいうべき碑ができ上がったことの意義が、建立から1年を経たいま、確かな重さで活字業界に浸透していることをこの碑前祭は示していたようだ。

平野義太郎氏挨拶――生命賭した青雲の志

私はここで[晴海通り側からみて、懇話会館ビル奥のあたりが平野家であった]生まれましたが、平野富二はここで死に、その妻、つまり私の祖母[駒・コマ 1852―1911]もここで死んでおります。その地に碑を建てられ、今日またここにお集まりいただいた活字工業会の方々はじめみなさまに、まず御礼を申し上げます。

エピソードをなにか披露しろということですので、平野富二が開国直後の明治5年に東京へ出てくる時の話をご紹介します。この時、門弟を4-5人連れて長崎から上京したのであるが、資本がないし、だいたい上京の費用がない。そこで当時の薩摩の豪商[五代友厚を意識しての発言とみられる]に、“もし返さなかったらこの首をさし上げる”といって借金した[という]話が、私の家に伝わっております。それくらいに一大決意で[活字製造の事業を]はじめたということがいえましょう。本木昌造先生の門弟としてその委嘱を受けて上京、ここではじめて仕事を始めたということです。

これら創生期の人々も、その後築地活版を盛り立てた方々も、きっと今日のこの催しを喜んでいることだろうと思います。

A Kaleidoscope Report 003 活字発祥の碑 活字工業会

多くのドラマを秘めた「活字発祥の碑」

東京・東京築地活版製造所跡に現存する「活字発祥の碑」、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』、その建碑の背景を詳細に記録していた全国活字工業会の機関誌『活字会』の記録を追う旅も3回目を迎えた。

この「活字発祥の碑」の建立がひどく急がれた背景には、活字発祥の地をながく記念するための、たんなる石碑としての役割だけではなく、その背後には、抜けがたく「厄除け・厄払い・鎮魂」の意識があったことは既述してきた。それは当時、あきらかな衰退をみせつつあった活字業界人だけではなく、ひろく印刷界のひとびとの間にも存在していたこともあわせて既述した。

その端緒となったのは、全国活字工業組合の機関誌『活字界』に連載された、牧治三郎によるB5判、都合4ページの短い連載記録、「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第21号、昭和44年5月20日)、「続 旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)であった。これらの記録は、このブログの「万華鏡アーカイブ、001,002」に詳述されているので参照してほしい。

牧治三郎の連載を受けて、全日本活字工業会はただちに水面下で慌ただしい動きをみせることになった。昭和44年5月22日、全国活字工業会は全日本活字工業会第12回総会を元箱根の「山のホテル」で開催し、その記録は『印刷界』第22号にみることができる。そもそもこの時代の同業者組合の総会とは、多分に懇親会的な面があり、全国活字工業組合においても、各支部の持ち回りで、景勝地や温泉旅館で開催されていた。そこでは参加者全員が、浴衣姿や、どてら姿でくつろいだ集合写真を撮影・記録するのが慣例であった。

たとえばこの「活字発祥の碑」建立問題が提起される前年の『活字界』(第17号、昭和43年8月20日)には、「第11回全日本活字工業会総会、有馬温泉で開催!」と表紙にまで大きく紹介され、どてら姿の集合写真とともに、各種の議題や話題がにぎやかに収録されているが、牧治三郎の連載がはじまった昭和44年の総会記録『活字界』第22号では、「構造改善をテーマに講演会、永年勤続優良従業員を表彰、次期総会は北海道で」との簡潔な報告があるだけで、いつものくつろいだ集合写真はみられず、背広姿のままの写真が掲載されて、地味なページレイアウトになっている。

このときの総会の実態は、全国活字工業会中部地区支部長・津田太郎によって、「活字発祥の碑」建立問題の緊急動議が提出され、かつてないほど熱い議論が交わされていたのである。すなわち、歴史研究にあたっては、記録された結果の検証も大切ではあるが、むしろ記録されなかった事実のほうが、重い意味と、重要性をもつことはしばしばみられる。

有馬温泉「月光園」で開催された「第11回全日本活字工業会総会」の記録。
(『活字界』第18号、昭和43年8月20日)

元箱根「山のホテル」で開催された「第12回全日本活字工業会総会」の記録。
(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)。ここでの主要なテーマは、牧治三郎の連載を受けた、津田太郎による緊急動議「活字発祥の碑」建立であったが、ここには一切紹介されていない。ようやく翌23号の報告(リード文)によって、この総会での慌ただしい議論の模様がはじめてわかる。

この「第12回全日本活字工業会総会」においては、長年会長職をつとめていた古賀和佐雄が辞意を表明したが、会議は「活字発祥の碑」建立の議論に集中して、会長職の後任人事を討議することはないまま時間切れとなった。そのため、総会後に臨時理事会を開催して、千代田印刷機製造株式会社・千代田活字有限会社・千代田母型製造所の社主/古賀和佐雄の会長辞任が承認され、後任の全国活字工業会会長には、株式会社津田三省堂社長/津田太郎が就任した。
古賀和佐雄は7年にわたる会長職在任は長すぎるとし、また高齢であることも会長辞任の理由にあげていた。しかし後任の津田太郎は1896年、明治29年1月28日うまれで当時75歳。高齢を理由に辞任した古賀和佐雄は明治31年3月10日うまれで当時73歳であった。すなわち高齢を理由に、若返りをはかって辞任した会長人事が、その意図に反して、73歳から75歳へのより高齢者への継承となったわけである。
津田太郎はそれ以前から全日本活字工業会副会長であったが、やはり高齢を理由として新会長への就任を固辞し、人選は難航をきわめたそうである。しかし、たれもが自社の業績衰退とその対応に追われていたために、多忙を理由として、激務となる会長職への就任を辞退した。そのためよんどころなく津田が、高齢であること、名古屋という遠隔地にあることを理事全員に諒承してもらうという条件付で、新会長への就任を引き受けたのが実態であった。こうした内憂と外患をかかえながら、全国活字工業会による隔月刊の機関誌『印刷界』には、しばらく「活字発祥の碑」建立に向けた記録がほぼ毎号記録されている。そこから主要な記録を追ってみたい。

◎『活字界』(第23号、昭和44年11月15日
特集/東京築地活版製造所記念碑設立顛末記

この東京築地活版製造所記念碑設立顛末記には、無署名ながら、広報委員長・中村光男氏の記述とみられるリード文がある。そのリード文にポロリともらされた「懇願書」としるされた文書が、同一ページに「記念碑設立についてのお願い」として全文紹介されている。この「懇願書、ないしは、記念碑設立についてのお願い」の起草者は、平野富二にはまったく触れず、本木昌造と野村宗十郎の功績を強調するとする文脈からみて、牧治三郎とみられる。ただし牧の文章はときおり粗放となるので、全日本活字工業会で協議のうえ形式を整えたものとみている。

また「記念碑設立についてのお願い」あるいはその「懇願先」となった懇話会館への案内役は、当時67歳を迎え、ごくごく小規模な活版印刷材料商を営んでいた牧治三郎があたっている。ときの印刷界・活字界の重鎮が連れだって「懇願書――記念碑設立についてのお願い」を携え、懇話会館を訪問するために、印刷同業組合のかつての一介の書記であり、小規模な材料商であった牧が、どうして、どのようにその案内役となったのか、そして牧の隠された異才の実態も、間もなく読者も知ることになるはずである。そもそも株式会社懇話会館という、いっぷう変わった名称をもつ企業組織のことは、ほとんど知られていないのが実情であろう。同社のWebsiteから紹介する。

◎ 企業プロフィール

昭和13年(1938年)春 戦時色が濃くなって行く中、政府は戦時物価統制運用のために軍需資材として重要な銅資材の配給統制に着手、銅配給統制協議会を最高機関として、複数の関連各機関が設立されました。

一方その効率的な運用のためには、都内各所に散在していたこれら各機関の事務所を一ヶ所に集中させることが求められ、同年11月に電線会社の出資により株式会社懇和会館が設立され、同時に現在の地に建物を取得し、ここに銅配給統制協議会・日本銅統制組合・電線原料銅配給統制協会・日本故銅統制株式会社・全国電線工業組合連合会などの関連諸団体が入居されその利便に供しました。

その後昭和46年(1971年)に銀座に隣接した交通至便な立地条件に恵まれたオフィースビルとして建物を一新し、コンワビルという名称で広く一般の企業団体にも事務所として賃貸するほか、都内に賃貸用寮も所有し、テナント各位へのビジネスサポートを提供する企業として歩んでおります。

◎ 会社概要

社  名    株式会社 懇話会館
所 在 地     東京都中央区築地一丁目12番22号
設  立       1938年(昭和13年)11月28日
株  主        古川電気工業株式会社
住友電気工業株式会社
株式会社 フジクラ
三菱電線工業株式会社
日立電線株式会社
昭和電線ケーブルシステムズ株式会社
事業内容
1) 不動産の取得
2) 不動産の賃貸
3) 前各号に付帯する一切の業務

ここで筆者はあまり多くをかたりたくはない。ただ『広辞苑』によれば、【統制】とは、「統制のとれたグループ」の用例のように、ひとつにまとめておさめることであり、「言論統制」の用例のように、一定の計画に従って、制限・指導をおこなうこと、とされる。また【統制経済】とは、国家が資本主義的自由経済に干渉したり、計画化すること。雇用統制、賃金統制、軍事的強制労働組織などを含む労働統制、価格統制、配給統制、資材・資金の統制、生産統制などをおこなうとされる。

ここで少しはなしがずれるようだが、広島に無残な姿をさらしている、通称「原爆ドーム」に触れたい。この建物は国家自体がなんらかの薬物中毒にでもかかったように、闇雲に戦争に突入していった、悲しい時代の記念碑的な建物として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。そして、「二度とおなじような悲劇を繰りかえさない」という戒めと、願いを込めて、「負の世界遺産」とも呼ばれている悲しい建造物である。

広島県商品陳列所(1921―33頃)から、「原爆ドーム」となった建物。
ウキペディアより。

この現在「原爆ドーム」と呼ばれている建物は、1915年(大正4)に、チェコ人のヤン・レッツェル(Jan Letzel)の設計による、ネオ・バロック風の「物産陳列館」として完成した。その後1921年「広島県立商品陳列所」と改称され、さらに1933年「広島県産業奨励館」となった。この頃には盛んに美術展が開催されて、広島の文化の拠点としても貢献したとされる。

しかしながら、戦争が長びく中で、1944年(昭和19)3月31日にその産業奨励の業務を停止し、かわって、内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。つまりここには「土木・木材関係の統制機関」がおかれていたことになる。そしてあまりにも唐突に廃業が決定された東京築地活版製造所の旧社屋には、「銅を中心とする金属関係の統制機関」が入居した。すなわち「統制機関」としては、広島のある時期の「内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの行政機関・統制組合の事務所、現在の原爆ドーム」と、戦前のある時期の懇話会館は、「聖戦遂行」のための、国家権力を背景とした「統制機関」としては同質の組織だったことになる。

そして1945年8月6日午前8時15分17秒、広島の空に一瞬の閃光が炸裂して、この歴史のある貴重な建物は、中央のドーム部分をのぞいて崩壊した。ここ広島にも、「統制」による悲しい物語が人知れずのこされている。そして、東京築地活版製造所の新ビルディングは、完工直後の関東大地震、太平洋戦争による空襲のはげしい罹災をへながらも、よく使用にたえた。しかしながらさすがに老朽化が目立つようになって、1971年(昭和46)に取り壊され、あらたなオフィスビルとして建物を一新されて、コンワビルという名称でこんにちにいたっているのである。

以上を踏まえて、株式会社懇話会館の株主構成をみると、いずれの株主も電線製造という、銅を大量に使用する大手企業ばかりであり、その生産・受注にあたっては、熾烈な企業間競争をしている企業がずらりとならんでいる。それらの企業が、戦時統制経済体制下にあったときならともかく、1938年(昭和13)から70年余にわたって、呉越同舟、仲良く、ひとつのビルを共有していることには素朴な疑問を持たざるをえない。

また、その発足時の母体企業となった銅配給統制協議会、なかんずく日本故銅統制株式会社とは、時局下で陰湿に展開された「変体活字廃棄運動」を牽引した、官民一体の統制組織であり、活字界における故銅――すなわち貴重な活字母型を廃棄に追い込んだ組織であったことは、まぎれもない事実としてのこっている(片塩二朗「志茂太郎と変体活字廃棄運動」『活字に憑かれた男たち』)。このわが国活字界における最大の蛮行、「変体活字廃棄運動」に関しては、さらに詳細に、近著「弘道軒清朝活字の製造法並びにその盛衰」『タイポグラフィ学会論文集 04』に記述したので、ぜひご覧いただきたい。

ここで読者は牧治三郎の主著のひとつ、『創業二五周年記念 日本印刷大観』(東京印刷同業組合、昭和13年8月20日)を想起して欲しい。同書はB5判850ページの大冊であるが、その主たる著者であり、同会の書記という肩書きで、もっぱら編輯にあたったのは牧そのものであった。そして懇話会館が設立されたのも「昭和13年春」である。さらに、牧の地元、東京印刷同業組合京橋地区支部長・高橋與作らが「変体活字廃棄運動」を提唱したのも昭和13年の夏からであった。さらに牧がつづった昭和10―13年にかけての東京築地活版製造所の記録には以下のようにある。これだけをみても、1938年(昭和13)とは、東京都中央区(旧京橋区)における牧の周辺のうごきは慌ただしく、解明されていない部分があまりにも多いのである。

・昭和10年(1935年) 6月
松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。
・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。
・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。
・昭和11年(1936年) 7月
『 新刻改正五号明朝体 』 ( 五号格 ) 字母完成活字発売。
・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。
・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。
牧治三郎「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』
(編輯発行・同碑建設委員会、昭和46年6月29日)

すなわち、牧は印刷同業組合の目立たない存在の書記ではあったが、1920年(大正9)から1938年(昭和13)の東京築地活版製造所の動向をじっと注目していたのである。そして長年の経験から、だれをどう突けばどういう動きがはじまるか、どこをどう突けばどういうお金が出てくるか、ともかく人とお金を動かすすべを熟知していた。もうおわかりとおもうが、牧は戦前から懇話会館とはきわめて昵懇の仲であり、その意を受けて動くことも多かった人物だったのである。

筆者は「変体活字廃棄運動」という、隠蔽され、歴史に埋もれていた事実を20余年にわたって追ってきた。そしてその背後には、官民合同による統制会社/日本故銅統制株式会社の意をうけ、敏腕ながらそのツメを隠していた牧治三郎の姿が随所にみられた。それだけでなく、戦時下の印刷・活字業界の「企業整備・企業統合――国家の統制下に、諸企業を整理・統合し、再編成すること――『広辞苑』」にも牧治三郎がふかく関与していたことに、驚愕をこえた怖さをおぼえたこともあった。そのわずかばかりの資料を手に、旧印刷図書館のはす向かいにあった喫茶店で、珈琲好きの牧とはなしたこともあった。ともかく記憶が鋭敏で、年代までキッチリ覚えていた牧だったが、このときばかりは「戦争中のことだからな。いろいろあったさ。たいてえは忘れちゃったけどな」とのみかたっていた。そのときの眼光は鈍くなり、またそのときにかぎって視線はうつむきがちであった……。

つまり牧治三郎には懇話会館とのそうした長い交流があったために、懇話会館に印刷・活字界の重鎮を引き連れて案内し、この記念碑建立企画の渉外委員として、ただひとり、なんらの肩書き無しで名をのこしたのである。もしかすると、この活字発祥の地を、銅配給統制協議会とその傘下の日本故銅統制株式会社が使用してきたこと、そしてそこにも出入りを続けてきたことへの贖罪のこころが牧にはあったのかもしれないと(希望としては)おもうことがある。それがして 、牧自筆の記録、「以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭で[も] よいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動[への] 参加を願うのもよいと思う 」という発言につらなったとすれば、筆者もわずかながらに救われるおもいがする。

[編集部によるリード文]本誌第21,22号の牧治三郎氏の記事が端緒となって、本年の総会[昭和44年5月22日、元箱根・山のホテルで開催]において津田[太郎]理事から東京築地活版製造所の記念碑設立の緊急動議があり、ご賛同をえました。その後東京活字工業組合の渡辺[初男]理事長は数次にわたり、[古賀和佐雄]会長・[吉田市郎]支部長・津田理事と会談の結果、単に活字業者団体のみで推進すべきことではないので、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会、東京都印刷工業組合に協力を要請して快諾を得たので、去る8月13日、古賀和佐雄会長、津田副会長、渡辺理事長、ならびに印刷3団体を代表して井上[計、のちに参議院議員]副理事長が、牧氏の案内で懇話会館・八十島[耕作]社長に面接し、別項の懇願書を持参の上、お願いした。八十島社長も由緒ある東京築地活版製造所に大変好意を寄せられ、全面的に記念碑設立を諒承され、すべてをお引き受けくださった。新懇話会館が建設される明春には記念碑が建つと存じます。⌘

活字発祥記念碑建設趣意書

謹啓 愈々ご清栄の段お慶び申し上げます。
さて、電胎母型を用いての鉛活字鋳造法の発明は、明治3年長崎の人、贈従五位本木昌造先生の苦心によりなされ、本年で満100年、我国文化の興隆に尽した功績は絶大なるものがあります。

先生は鉛活字鋳造法の完成と共に、長崎新塾活版製造所を興し、明治5年7月、東京神田佐久間町に出張所を設け、活字製造販売を開始し、翌6年8月、京橋築地2丁目に工場を新設、これが後の株式会社東京築地活版製造所であります。

爾来歴代社長の撓まぬ努力により、書風の研究改良、ポイント活字の創製実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました。

また一方、活版印刷機械の製造にも力を注ぎ、明治、大正時代の有名印刷機械製造業者は、殆ど同社の出身で占められ、その遺業を後進に伝えて今日に至っていることも見のがせない事実であります。

更に同社は時流に先んじて、明治の初期、銅[版印刷]、石版印刷にも従事し、多くの徒弟を養成して、平版印刷業界にも寄与し、印刷業界全般に亘り、指導的立場にありましたことは、ともに銘記すべきであります。

このように着々社業は進展し、大正11年鉄筋新社屋の建築に着工、翌年7月竣工しましたが、間もなく9月1日の大震火災の悲運に遭遇して一切を烏有に帰し、その後鋭意再建の努力の甲斐もなく、業績は年々衰微し、昭和13年3月、遂に廃業の余儀なきに至り、およそ70年の歴史の幕を閉じることとなったのであります。

このように同社は鉛活字の鋳造販売と、印刷機械の製造の外に、活版、平版印刷に於いても、最古の歴史と最高の功績を有するのであります。

ここに活字製造業界は、先賢の偉業を回想し、これを顕彰するため、同社ゆかりの地に「東京における活字文化発祥」の記念碑建設を念願し、同社跡地の継承者、株式会社懇話会館に申し入れましたところ、常ならざるご理解とご好意により、その敷地の一部を提供されることとなりましたので、昭和46年3月竣工を目途に、建設委員会を発足することといたしました。

何卒私共の趣意を諒とせられ、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げる次第であります。    敬 具

昭和45年9月

発起人代表    全日本活字工業会々長   津田太郎
東京活字協同組合理事長  渡辺初男
協    賛    全日本印刷工業組合連合会
東京印刷工業会
東京都印刷工業組合
記念碑建設委員会委員
委員長        津田太郎(全日本活字工業会々長)
委員長補佐     中村光男(広報委員長)
建設委員           主任 吉田市郎(副会長)
宮原義雄、古門正夫(両副会長)
募金委員           主任 野見山芳久(東都支部長)
深宮規代、宮原義雄、岩橋岩次郎、島田栄八(各支部長)
渉外委員          主任 渡辺初男(東京活字協同組合理事長)
渡辺宗助、古賀和佐雄(両工業会顧問)、
後藤 孝(東京活字協同組合専務理事)、牧治三郎

◎『活字界』(第27号、昭和45年11月15日)
特集/活字発祥記念碑来春着工へ、建設委員会で大綱決まる

紹介された「記念碑完成予想図」。
実際には設計変更が求められて、ほぼ現在の姿になった。

旧東京築地活版跡に建立する「活字発祥記念碑」の大綱が、このほど発足した建設委員会で決まり、いよいよ来春着工を目指して建設へのスタートを切った。建設に要する資金250万円は、広く印刷関連業界の協力を求めるが、すでに各方面から基金が寄せられている。

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全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となり、印刷関係団体の協賛を得て進めてきた、東京における活字発祥記念碑の建設が軌道に乗り出した。同建設については、本年6月北海道で開かれた全国総会で正式に賛同を得て準備に着手、7月20日の理事会において発起人および建設委員を選出、8月21日、東京・芝の機械振興会館で第1回の建設委員会を開催した。

同会では、建設趣意書の大綱と建設・募金・渉外など委員の分担を決め、募金目標額は250万円として、まず岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになった。

9月8日、津田[太郎]委員長をはじめ、松田[友良]、中村[光男]、後藤[孝]の各委員が、岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行なった。

ついで、第2回の建設委員会を9月19日、東京の赤坂プリンスホテルで開催、岡崎石工団地における調査の報告および作成した記念碑の予想図などについて説明があり、一応これらの線に沿って建設へ推進することになり、さらに、募金総額250万円についても再確認された。

このあと業界報道紙11社を招いて記者会見を行ない、建設大綱を発表するとともに、募金の推進について紙面を通じてPRを求めたが、各紙とも積極的な協力の態度をしめし、業界あげての募金運動が開始された。

活字発祥記念碑は、旧東京築地活版製造所跡(中央区築地1丁目12-22)に建設されるが、同地には株式会社懇話会館が明年4月にビルを竣工のため工事を進めており、記念碑はビルの完成後同会館の花壇の一隅に建設される。なお、現在記念碑の原案を懇話会館に提出して検討されており、近日中に最終的な設計ができあがることになっている。

◎『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)
特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に


「活字発祥の碑」完成予想図と、碑文の文面並びにレイアウト。

昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。

次回のA Kaleidoscope Report 004では、いよいよ「活字発祥の碑」の建立がなり、その除幕式における混乱と、狼狽ぶりをみることになる。すなわち、事実上除幕式を2回にわたっておこなうことになった活字界の悩みは大きかった。そしてついに、牧治三郎は活字界からの信用を失墜して、孤立を深めることになる。

A Kaleidoscope Report 002

『 活字発祥の碑 』をめぐる諸資料から
機関誌『 印刷界 』と、
パンフレット『 活字発祥の碑 』

『 活字発祥の碑
編纂 ・ 発行 / 活字の碑建設委員会
昭和46年6月29日
B5判  28ページ  針金中綴じ  表紙1 ・ 4をのぞき 活字版原版印刷

活字界
発行 全日本活字工業会 旧在 千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年6月1日終刊80号 昭和59年5月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判 8ページ  無綴じ  活字版原版印刷
01号40号 編集長 中村光男、41号56号/編集長 谷塚 実、57号75号 編集長 草間光司、76号80号 編集長 勝村 章。   昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる昭和59年までは、全日本活字工業会の専務理事を務めていた

 

★       ★       ★

レポート第2編は、全日本活字工業会の機関誌 『 印刷界 』 と、同会発行のパンフレット 『 活字発祥の碑 』 のふたつのメディアを往復しながらの記述になる。 主要な登場人物は 「 株式会社中村活字店 ・ 第4代社長 中村光男 」 と、印刷業界の情報の中枢、印刷同業組合の書記を永らく勤めて、当時67歳ほどであったが、すでに印刷 ・ 活字界の生き字引とされていた 牧治三郎 である。

『 印刷界 』 は1964年(昭和39)の創刊である。 編集長は中村活字店第4代社長 ・ 中村光男氏。 この年は池田勇人内閣のもとにあり、経済界は不況ムードが支配していたが、東京オリンピックの開催にむけて、新幹線が東京 ― 大阪間に開業し、首都高速道路が開通し、東京の外環をぐるりと囲む4車線道路、環状七号線が開通した、あわただしい年でもあった。 こんな時代を背景として、大正時代からあった 活字鋳造協会と、戦時体制下の統制時代にあった 活字製造組合 を基盤としながら、全国の活字鋳造業社が集会をかさね、あらたな組織として 全日本活字工業会 に結集して、その機関誌 『 活字界 』 を発行したことになる。

世相はあわただしかったが、活字製造に関していえば、大手印刷所、大手新聞社などのほとんどが活字自家鋳造体制になっていた。 それがさらに機械化と省力化が進展して、活字自動鋳植機 ( 文選 ・ 活字鋳造 ・ 植字組版作業を一括処理した組版機 ) の導入が大手を中心に目立ったころでもあった。 そのため、活字母型製造業者には、瞬間的に膨大な数量の活字母型の需要がみられたものの、導入が一巡したのちは奈落に突き落とされる勢いで需要が激減して、まず活字母型製造業が、業界としての体をなさなくなっていた。 また、新興の写真植字法による文字組版を版下として、そこから写真製版技法によって印刷版をつくる オフセット平版印刷業者が、文字物主体の印刷物にも本格進出をはじめた時代でもあった。 つまり活字鋳造業界あげて、前途に漠然とした不安と、危機感をつのらせていた時代でもあった。 こんな時代背景を 「 欧州を旅して 」 と題して、株式会社晃文堂 ・ 吉田市郎氏が 『 活字界4号 』 (昭和40年2月20日、5頁 )寄稿しているので紹介しよう。

活字地金を材料とした単活字や、モノタイプ、ルドロー、ライノタイプなどの自動鋳植機による活字を [ 鋳造による熱処理作業があるために ] Hot Type と呼び、写植機など [ 光工学と化学技法が中心で 熱処理作業が無い方式 による文字活字を Cold Type といわれるようになったことはご存知のことと思います。 欧州においては、活版印刷の伝統がまだ主流を占めていますが、Cold Type に対する関心は急激に高まりつつあるようでした。[ 中略
こうした状況は、私たち 日本の 活字業界の将来を暗示しているように思われます。 私たちは活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません。 このあたりで活字業界の現状を冷静に分析 判断して、将来に向けた正しい指針をはっきりと掲げていくべきではないでしょうか。 現在のわが国の活字製造業は幸いにもまだ盛業ですが、その間にこそ、次の手を打たねばなりません。 したがって現在の顧客層の地盤に立って、文字活字を Hot Type 方式だけでなく、Cold Type 方式での供給を可能にすることが、わが活字業界が将来とも発展していく途のひとつではないかと考える次第です。

当時の吉田市郎氏は、全日本活字工業会副会長であり、東京活字協同組合の会長でもあった。 そして吉田氏はこの報告のとおり、1970年代初頭からその立脚点を、晃文堂時代の活字を主要な印刷版とする凸版印刷、すなわち 「 活版印刷 」 から、写真植字機と写植活字を開発し、オフセット平版印刷機までを製造するためにリョービ ・ グループに参入し「 株式会社リョービ印刷機販売 ・ 現リョービイマジクス 」 を設立した。

 この吉田の転進が、こんにちのプリプレスからポストプレスまでの総合印刷システムメーカーとしてのリョービ ・ グループの基礎を築くにいたった。すなわち吉田氏は かたくなに活字を鋳造活字としてだけとらえるのではなく、金属活字から写植活字への時代の趨勢を読みとっていた。 そして1980年代からは、写植活字から電子活字への転換にも大胆に挑む柔軟性をもっていた。 それでも吉田氏は全日本活字工業会の会員として永らくとどまり、金属活字への愛着をのこしていた。

『 活字界 』 には創刊以来、しばしば 「 業界の生き字引き 」 として 牧治三郎 が寄稿を重ねていた。 牧と筆者は15―10年ほど以前に、旧印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために自宅まで同行したこともある。 当時の牧治三郎はすでに100歳にちかい高齢だったはずだが、頭脳は明晰で、年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。 下記で紹介する60代の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から見据えるようにしてはなすひとだった。 そんな牧が印刷図書館にくると、「 あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」 という具合で、当時の司書 ・ 佐伯某女史が 「 古老が呼んでいるわよ…… 」 と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず駆けつけたものだった。

牧治三郎は幼少のころから活版工場で 「 小僧 」 修行をしていたが、「ソロバンが達者で、漢字もよくしっているので、いつのまにか印刷同業組合の書記になった 」 と述べていた。 「 昔は活版屋のオヤジは、ソロバンもできないし、簿記も知らないし……」 とも述べていた。 牧とは、東京築地活版製造所の元社長 ・ 野村宗十郎の評価についてしばしば議論を交わした。 筆者が野村の功績は認めつつ、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所設立者、平野富二にこだわるのを 「 そんなことをしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ 」 とたしなめられることが多かった ( 片塩二朗 『 富二奔る 』 )。

ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎 ( ヨシタロウ、法学者、1897―1980)のことで、いずれここでも紹介することになる人物である。 なにぶん牧は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記をつとめており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。 牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという野村宗十郎を高く評価して 「 野村先生 」と呼んでいた。したがって筆者などは 「 若ケエノ 」 とされても仕方なかったのだが、野村の功罪をめぐって、ときには激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

しかし 「 牧老人が亡くなった……」 と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、略歴を伺う機会もないままに終わったことが悔やまれた。 牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷 ・ 活字 ・ 製本関連の機器資料とその歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログやパンフレットのたぐいもよく収蔵していた。その膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒」の資料は蔵書の山から見いだせなかった。牧は「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」と述べていたが、どうやらそれは実現しなかったよで、蔵書は古書市場などに流出しているようである。幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出 」 『 活字界15 』 ( 昭和42年11月15日 ) にインタビュー記事があったので、40年以上前というすこしふるい資料ではあるが、牧治三郎の写真と略歴を紹介したい。

牧  治 三 郎  まき-じさぶろう
67歳当時の写真と蔵書印
1900年( 明治33 ) ―( 2003―5年ころか。 不詳 )。
印刷同業組合の事務局に1916年(大正5)以来長年にわたって勤務し、その間東京活字鋳造協会の事務職も兼務した。1980年ころは、中央区新川で 活版木工品 ・ 罫線 ・ 輪郭など活字版印刷資材の取次業をしていた。
主著 /「 印刷界の功労者並びに組合役員名簿 」 『 日本印刷大観 』 ( 東京印刷同業組合 昭和13年 )、連載 「 活版印刷伝来考 」 『 印刷界 』 ( 東京都印刷工業組合 )、 『 京橋の印刷史 』 ( 東京都印刷工業組合京橋支部 昭和47年11月12日 )。
牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「 禁 出門 治三郎文庫 」 とあり、現在も古書店などで、この蔵書印を目にすることがある。

ふしぎなビルディングがあった……。
このビルは、東京築地活版製造所の本社工場として、当時の社長 ・ 野村宗十郎(1857―1925)の発意によって 1923年(大正12)7月 ( 現住所 ・ 東京都中央区築地1-12-22) に竣工をみた。 ビルは地上4階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの堅牢なビルで、いかにも大正モダン、アール・ヌーヴォー調の、優雅な曲線が特徴の瀟洒な建物であった。 ところがこのビルは、竣工直後からまことに不幸な歴史を刻むことになった。 下世話なことばでいうと、ケチがついた建物となってしまったのである。

もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者などと同様に、蒸気ボイラーなどに裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の 「 鞴 フイゴ」 をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して 「 イモノ 」 をつくっていた。 ふつうの家庭では 「 火吹き竹 」 にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。 そのために鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を 玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること はなはだしかった。 ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは 「 踏鞴 タタラ 」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足を踏むことを 「 蹈鞴 タタラ を踏む 」 としてのこっている。

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇 ( 聖徳太子の父、在位585-87 ) の 『 職人鑑 』 に、 「 蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆 」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。 つまり高温の火勢をもとめて鋳物士 ( 俗にイモジ ) がもちいてきた用具である。 そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。 また太陽の高度がさがり、昼がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、活字鋳造所でも 「 鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭 」 を催し、一陽来復を祈念することが常だった。 すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であったことを理解しないと、「 活字発祥の碑 」 建立までの経緯がわかりにくい。

それだけでなく、明治初期に勃興した近代活字鋳造業者は、どこも重量のある製品の運搬の便に配慮して 市街地中央に位置したために 類焼にあうこともおおく、火災にたいしては異常なまでの恐れをいだくふうがみられた。 ところで……、東京築地活版製造所の新社屋が巻き込まれた厄災とは、 関東大地震 による、まさに 《 火災 》 であった。

1923年(大正12)9月1日、午前11時53分に発生した関東大地震による被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人を越えた。 被害世帯も69万戸におよび、京浜地帯は壊滅的な打撃をうけた。 このときに際して、東京築地活版製造所では、なんと、新社屋への移転を翌日に控えて テンヤワンヤの騒ぎの最中であった……。

130年余の歴史を有する わが国の活字鋳造所が、火災 ・ 震災 ・ 戦災で、どれほどの被害を被ってきたのか、津田三省堂 ・ 第2代社長、津田太郎 ( 全日本活字会会長などを歴任。 1896 ― 不詳 )が 「 活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として 」 と題して 『 活字界4号 』 ( 昭和40年2月20日 ) に報告しているので 該当個所を抜粋してみてみたい。最終部に 「 物資統制令 ・ 故鉛 」 ということばが出ている。 これを記憶しておいてほしい。

・明治42年12月、津田伊三郎が名古屋で活字 [ 取次販売 ] 業を開始する。 最初は [ それまでの名古屋の活字は大阪から導入していたが、津田伊三郎は東京の ] 江川活版製造所の活字を取次いだ[。ところ]が、たまたま同製造所がその前年に火災を罹り、水火を浴びた 熱変形を生じた不良の 活字母型を使用したため [ ] 、活字 [ の仕上がりが ] 不良で評判 [ ] 悪く、翌43年2月から、東京築地活版製作所の代理店として再出発した。

・明治42年、現在の鶴舞公園で共進会が開催せられ、印刷業は多忙を極めた。この頃の印刷界は [ 動力が ] 手廻しか、足踏式の機械が多く、動力 石油発動機、瓦斯機関 が稀にあった程度で [ あった。] 8頁 [ B4サイズほど ] の機械になると、紙差し、紙取り、人間動力=予備員という構成で 現代の人にこの意味が判るでしょうか あったが、この頃から漸次電力時代に移ってきた。

・活字界も太田誠貫堂が堂々 [ とブルース型 ] 手廻し鋳造機5台を擁し、燃料は石炭を使用していた。 その他には前述の盛功社が盛業中で、そこへ津田三省堂が開業した。 もっとも当時は市内だけでなく中部、北陸地区 [ を含めた商圏 ] が市場であり、後年に至り 津田三省堂は、津田伊三郎がアメリカ仕込み? の経営 コンナ言葉はなかったと思う で、通信販売を始め、特殊なものを全国的に拡販した。 五号活字が1個1厘8毛、初号 [ 活字 ] が4銭の記憶である。

・取引きも掛売りが多く、「 活字御通帳 をブラ下げて、インキに汚れた小僧さんが活字を買いに来た。 営業は夜10時迄が通常で、年末の多忙時は12時になることは常時で、現在から考えると文字通り想い出ばかりである。 活字屋風景として夜 [ になって ] 文撰をする時、太田誠貫堂は蔓のついたランプ 説明しても現代っ子には通じないことです )をヒョイと片手に、さらにその手で文撰箱を持って文字を拾う。

・盛功社は進歩的で、瓦斯の裸火 これは夜店のアセチレン瓦斯の燃えるのを想像して下さい をボウボウ燃やして、その下で [ 作業をし ]、また津田三省堂は 蝋燭を使用 燭台は回転式で蠟が散らない工夫をしたもの )、間もなく今度は吊り下げ式の瓦斯ランプに代えたが、コレはマントル 説明を省く [Gas Mantle  ガス-マントルのこと。ガス灯の点火口にかぶせて灼熱発光を生じさせる網状の筒。白熱套とも]をよく破り、後漸く電灯になった。 当時は10燭光 タングステン球 であったが、暗いので16燭光に取り代えて贅沢だ! と叱られた記憶すらある。

・当時の一店の売上げは最高で20円位、あとは10円未満が多かった。 もっとも日刊新聞社で月額100円位であったと思う。 当時の 新愛知 名古屋新聞社 共に [ ブルース型 ] 手廻し鋳造機が2―3台あり五号 活字 位を鋳造していた )。

・大正元年 大阪の啓文社が支店を設け [ たために、地元名古屋勢は ] 大恐慌を来したが、2―3年で [ 大阪に ] 引き揚げられた。またこのあと活字社が創業したが、暫く経て機械専門に移られた。当時は着物前垂れ掛で 小僧 と呼ばれ、畳敷きに駒寄せと称する仕切りの中で、旦那様や番頭さんといっても1人か2人で店を切り廻し、ご用聞きも配達もなく至ってのんびりとしたものである。

・大正3年、津田三省堂が9ポイント 活字 を売り出した。 名古屋印刷組合が設立せられ、組合員が68軒、従業員が551人、組合費収入1ヶ月37円26銭とある。 7年は全国的に米騒動が勃発した。 この頃岐阜に博進社、三重県津市に波田活字店が開業した。

・大正11年、盛功社 が取次だけでなく 活字鋳造を開始。 国語審議会では当用漢字2,113字に制限 [ することを ] 発表したが、当時の東京築地活版製造所社長野村宗十郎が大反対運動を起している。

・大正12年9月、東京大震災があり、新社屋を新築してその移転前日の東京築地活版製造所は、一物[]残さず灰燼に帰した。その為に津田三省堂も供給杜絶となり遂に殉難して休業のやむなきにいたった。

・大正14年秋、津田三省堂は鋳造機 手廻し [ ブルース型活字鋳造機 ] 6台 )を設置 [ して ] 再起した。 活字界の元老 野村宗十郎の長逝も本年である。

・大正15年、硝子活字 初号のみ )、硬質活字等が発表されたが、普及しなかった。

・昭和3年、津田三省堂西魚町より鶴重町に移転。 鉛版活字 仮活字 を売り出す。 また当時の欧文活字の系列が不統一を嘆じ、英、仏、独、露、米より原字を輸入して100余種を発表した。

・昭和5年1月、特急つばめが開通、東京―大阪所要時間8時間20分で、昭和39年10月の超特急は4時間、ここにも時代の変遷の激しさが覗われる。

・昭和5年、津田三省堂は林栄社の [ トムソン型 ] 自動 活字 鋳造機2台を新設、[ ブルース型 ] 手廻し鋳造機も動力機に改造し12台をフルに運転した。

・昭和6年、津田三省堂で宋朝活字を発売した。

・昭和8年、津田三省堂が本木翁の 陶製 胸像3000余体を全国の祖先崇拝者に無償提供の壮挙をしたのはこの年のことである。

・昭和10年、満州国教科書に使用せられた正楷書を津田三省堂が発売した。 当時の名古屋市の人口105万、全国で第3位となる。

・昭和12年5月、汎太平洋博覧会開催を契機として、全国活字業者大会が津田伊三郎、渡辺宗七、三谷幸吉( いずれも故人 ) の努力で、名古屋市で2日間に亘り開催、活字の高さ 0.923吋 と決定するという歴史的一頁を作った。

・昭和12年 7月7日、北支芦溝橋の一発の銃声は、遂に大東亜戦争に拡大し、10余年の永きに亘り国民は予想だにしなかった塗炭の苦しみを味わうに至った。 物資統制令の発令 [によって] 活字の原材料から故鉛に至るまで その対象物となり、業界は一大混乱をきたした。 受配給等のため活字組合を結成し、中部は長野、新潟の業者を結集して、中部活字製造組合を組織して終戦時まで努力を続けた。

・次第に空襲熾烈となり、昭和20年3月、名古屋市内の太田誠貫堂、盛功社、津田三省堂、平手活字、伊藤一心堂、井上盛文堂、小菅共進堂は全部被災して、名古屋の活字は烏有に帰した。

 津田太郎の報告にみるように、関東大地震のため、東京築地活版製造所は不幸なことに 「 新社屋を新築して その移転前日の東京築地活版製造所は、一物も残さず灰燼に帰した 」のである。 活字鋳造機はもちろん、関連機器、活字在庫も烏有に帰したが、不幸中の幸いで、重い活字などの在庫に備えて堅牢に建てられたビル本体は、軽微な損傷で済んだ。 野村宗十郎はさっそく再建の陣頭指揮にあたり、兄弟企業であった大阪活版製造所からの支援をうけて再興にとりかかった。

ところが……、本来なら、あるいは設立者の平野富二なら、笑い飛ばすであろう程度のささいなことながら、震災を契機として、ひそかにではあったが、この場所のいまわしい過去と、新築ビルの易学からみた、わるい風評がじわじわとひろがり、それがついに野村宗十郎の耳に入るにいたったのである。 こんな複雑な背景もあって、この瀟洒なビルはほとんど写真記録をのこすことなく消えた。 不鮮明ながら、ここにわずかにのこった写真図版を 『 活字発祥の碑 』 から紹介しよう。
1921年(大正10)ころ、取り壊される前の東京築地活版製造所。

1923年(大正12)竣工なった東京築地活版製造所。
正門がある角度からの写真は珍しい

平野富二の首証文
東京築地活版製造所の前身、平野富二がここに仮社屋を建てて、長崎新塾出張活版製造所、通称 ・ 平野活版所の看板を掲げたのは1873年 ( 明治6 ) で、赤煉瓦の工場が完成したのは翌1874年のことであった。 長崎からの進出に際し、平野富二は ―― 長崎の伝承では 六海社 ( 現 ・ 長崎十八銀行の源流のひとつ ) に、平野家の伝承では薩摩藩出身の豪商 ・ 五代友厚 ( 大阪で造船 ・ 紡績 ・ 鉱山 ・ 製銅などの業を興し、大阪株式取引所、現大阪商工会議所などの創立に尽力。1835―85 ) 宛に―― 「 首証文 」 を提出して、資金援助を仰いでいた。 現代では理解しがたいことではあるが、明治最初期の篤志家や資産家は まだ侠気があって、平野のような意欲と才能のある若者の起業に際して、積極的な投資をするだけの胆力をもっていた。 筆者は、長崎の伝承と平野家の伝承も、ともに真実を伝えるものであり、平野はこの両社に 「 首証文 」 を提出して資金を得たとみているが、何分確たる資料はのこっていない。

すなわち平野富二は 「 この金を借りて、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる 」 ( 平野義太郎 『 印刷界31 4P  昭和46年11月5日』 ) という、悲愴なまでの覚悟と、退路を断っての東京進出であった。ときに平野富二26歳。

この 「 平野富二首証文 」 の事実は意外と知られず、長崎新塾活版製造所が、すなわち本木昌造が東京築地活版製造所を創立したとするかたむきがある。 しかしながら、平野の東京進出に際して、本木昌造は新街私塾の人脈を紹介して支援はしているが、資金提供はしていないし、借入金の保証人になることもなかった。 それでも平野は可憐なまでに、本木を 「 翁 」 としてたて、その凡庸で病弱な後継者 ・ 本木小太郎に仕えた。

東京築地活版製造所の創立者を 本木昌造におくのはずっと時代がさがって、野村宗十郎の社長時代に刊行された 『 東京築地活版製造所紀要 』 にもとづいている。 これもちかじか紹介し たい資料である。 薩摩藩士でありながら、本木昌造の新街私塾にまなび、大蔵省の高級官僚だった野村宗十郎を同社に迎えたとき、どういうわけか平野富二は倉庫掛の役職を野村に振った。 おそらく活字製造に未経験だった野村に、まず在庫の管理からまなばせようとしたものとおもわれるが、自負心と上昇意欲がつよく、能力もあった野村は どうやらこの待遇に不満があったとみられる。 しがたって野村が昇進をかさね、社長就任をみてからは、東京築地活版製造所の記録から、平野の功績を抹消することに 蒼いほむら を燃やし続けた。

移転当時は大火災の跡地であった築地界隈
東京築地活版製造所の敷地に関して、牧治三郎は次のようにしるしている。―― 「 平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守 ( 五千石 ) 中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺を中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった」。

ところが、牧治三郎が江戸切絵図で調べたような情景は、1872年(明治5)2月25日までのことである。 どうやら牧はこの記録を見落としたようだが、この日、銀座から築地一帯に強風のなかでの大火があって、築地では西本願寺の大伽藍はもちろん、あたり一帯が焼け野原と化した。 そして新政府は、同年7月13日に東京中心部の墓地を移転させる構想のもとに、青山墓地をつくり、あいついで 雑司ヶ谷、染谷、谷中などに巨大墓地をつくって市中から墓地の移転をすすめていた。 したがって築地西本願寺の墓地は、ねんごろに除霊をすませて、これらの新設墓地へ移転していたのである ( 『 日本全史 』 講談社 918ページ 1991年3月20日 )。

江戸切絵図
数寄屋橋から晴海通りにそって、改修工事中の歌舞伎座のあたり、采女ヶ原の馬場を過ぎ、万年橋を渡ると永井飛騨守屋敷 現松竹ビル )、隣接して秋田筑後守屋敷跡が東京築地活版製造所 現懇話ビル となった。 いまは電通テックビルとなっているあたり、青山主水邸の一部が平野家、松平根津守邸の一部が上野景範家で、弘道軒 神﨑正誼がこの上野の長屋に寄留して 清朝活字 を創製した。 活字製造者やタイポグラファにとっては まさにゆかりの地である。


大火のあとの煉瓦建築
創業時からの東京築地活版製造所の建物が煉瓦造りであった……、とする記録に関心をむけた論者はいないようである。 もともとわが国の煉瓦建築の歴史は 幕末からはじまり、地震にたいする脆弱さをみせて普及が頓挫した関東大地震までのあいだまで、ほんの65年ほどという、意外と短い期間でしかなかった。 わが国で最初の建築用煉瓦がつくられたのは1857年 ( 安政4 ) 長崎の溶鉄所事務所棟のためだったとされる。 その後幕末から明治初期にかけて、イギリスやフランスの お雇い外国人 の技術指導を受けて、溶鉱炉などにもちいた白い耐火煉瓦と、近代ビルにもちいた赤い建築用の国産煉瓦がつくられた。 それが一気に普及したのは、前述した1872年 ( 明治5 ) 2月25日におきた 銀座から築地一帯をおそった大火のためである。

築地は西本願寺の大伽藍をはじめとして 一帯が全焼し、茫茫たる焼け野原となった。 その復興に際して、明治新政府は、新築の大型建築物は煉瓦建築によることを決定した。 また、この時代のひとびとにとっては、重い赤色の煉瓦建築は、まさしく文明開化を象徴する近代建築のようにもみえた。 そのために東京築地活版製造所は 、社史などに わざわざ 煉瓦建築で建造したと、しばしば、あちこちにしるしていたのである。 さらに平野富二にとっては、水運に恵まれ、工場敷地として適当な広大な敷地を、焼亡して、除霊までなされた適度な広さの武家屋敷跡を、わずかに1,000円という、おそらく当時の物価からみて低額で獲得することができたのである。 その事実を購入価格まで開示して、出資者などにたいし、けっして無駄なな投資をしたのではないことを表示していていたものとみたい。すなわち、牧治三郎が述べた 「 幕末切腹事件 」 などは、青雲の志を抱いて郷関をでた平野富二にとって、笑止千万、聞く耳もなかったこととおもわれる。

新ビルの正門は裏鬼門に設けられた
「寝た子をおこすな」という俚諺がある。 牧治三郎が短い連載記事で述べたのは、もしかすると、あまりにも甚大な被害をもたらした関東大地震の記憶とともに、歴史の風化に任せてもよかったかもしれないとおもったことがある。 このおもいを牧に直接ぶつけたことがあった。 [ 西川さんが指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、正門が裏鬼門にあることを意識してなかったのですか? ]。 「 もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ [ 活字鋳造工 ] の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出りしなかった。 オレだって建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんなとこに正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな 」。 [ それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか? ]。 「 野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった 」。

東京築地活版製造所の新ビルの正門は、家相盤「家相八方吉凶一覧」でいう、裏鬼門に設けられた。

家相八方位吉凶からみた裏鬼門
宅地や敷地の相の吉凶を気にするひとがいる。 ふるくは易学として ひとつの学問体系をなしていた。 あらためてしるすと、このビルは1938年(昭和13)東京築地活版製造所の解散にともなって「 懇話会 」 に売却され、1971年 ( 昭和46 ) まで懇話会が一部を改修して使用していたが、さすがに老朽化が目立って取り壊され、その跡地には引き続いてあたらしい懇話会館ビルが新築されてこんにちにいたっている。 取り壊し前の東京築地活版製造所の新ビルの正門は、西南の角、すなわち易学ではもっとも忌まれる死門、坤 に設けられていた。 現代ではこうした事柄は迷信とされて一笑に付されるが、ひとからそれをいわれればおおかたは気分の良いものではない。 牧治三郎は取り壊しが決定したビルの こうした歴史を暴きたてたのである。 まさしく 「 寝た子をおこした 」 のである。

これからその牧の連載を紹介したい。 ここには東京築地活版製造所が、必ずしも平坦な道を歩んだ企業ではなく、むしろ官業からの圧迫に苦闘し、景気の浮沈のはざまでもだき、あえぎ、そして長崎人脈が絶えたとき、官僚出身の代表を迎えて、解散にいたるまでの歴史が丹念につづられている。 これについで、次回には 当時の印刷人や活字人が、牧の指摘をうけて、どのように周章狼狽、対処したのかを紹介することになる。

*      *

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 21号』(編集 ・ 発行  全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

東京築地活版製造所の本社工場の新ビルディングは、大正12年 1923 3月に竣工した。 地下1階地上4階の堂々たるコンクリート造りで、活字や印刷機器の重量に耐える堅牢な建物であった。 ところが竣工から間もなく、同年9月1日午前11時58分に襲来した関東大地震によって、東京築地活版製造所の新ビルは 焼失は免れたものの、設備の一切は火災によって焼失した。 また隣接して存在していた、同社設立者の平野家も、土蔵を除いて焼失した。 焼失を免れたこのビルは1971年(昭和46)まで懇話会館が使用していたが老朽化が目立って、全面新築されることになったことをきっかけとして牧治三郎による連載記事が掲載された。

活字発祥の歴史閉じる
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビルに改築のため、去る3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。 この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円 ( 現在の金で4億円 ) を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕が、ここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

大正12年に竣成
[ 東京築地活版製造所の旧社屋は ] 大正11年、野村宗十郎社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。 特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所当時の古建材で建てた 月島分工場も灰燼に帰した。 罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、大阪出張所 [ 大阪活版製造所 ] の字母 [ 活字母型 ] が健在だったので、1週間後には活字販売を開始、[ した ]。 いまの東京活字 [ 協同 ] 組合の前身、東京活字製造組合の罹災 [ した ] 組合員も、種字 [ 活字複製原型。 ここでは電鋳法母型か 種字代用の活字そのもの ] の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。
平野富二が最初に東京の拠点を設けた場所として 外神田佐久間町3丁目旧藤堂邸内 [ 門前とも ] の長屋 としばしばしるされるが、正確な場所の特定はあまり試みられていない。 東都下谷絵圖 1862 を手にしてJR秋葉原駅から5分ほどの現地を歩いてみると、神田佐久間町3丁目は地図左端、神田川に沿って現存しており、現状の町並みも小規模な印刷所が多くてさほど大きな変化はない。 すなわち藤堂和泉守屋敷は、台東区立和泉小学校となり、その路地を挟んで佐竹右京太夫邸との間の、細長い民家の家並みが 長屋 」跡とみられ 、その神田佐久間町三丁目の一部が、平野の最初の拠点であったとみられる。 尾張屋静七判『 江戸切絵図 人文社 1995年4月20日 )

 明治5年外神田で営業開始
東京築地活版製造所の前身は周知の通り、本木昌造先生の門弟、平野富二氏が、長崎新塾出張活版製造所の看板を、外神田佐久間町3丁目旧藤堂邸内の長屋に出して、ポンプ式手廻鋳造機 [ このアメリカ製のポンプ式ハンドモールド活字鋳造機は、平野活版所と紙幣寮が導入していたとされる。わが国には実機はもとより、写真も存在しない ] 2台、上海渡りの8頁ロール 人力車廻し [ B4判ほどの、インキ着肉部がローラー式であり、大型ハンドルを手で回転させた印刷機 ] 1台、ハンドプレス [ 平圧式手引き活版印刷機 ] 1台で、東京に根を下ろしたのが、太陰暦より太陽暦に改暦の明治5年だった。

新塾活版開業の噂は、忽ち全市の印刷業者に伝わり、更らにその評判は近県へもひろがって、明治初期の印刷業者を大いに啓蒙した。

 明治6年現在地に工場に建築
翌6年8月、多くの印刷業者が軒を並べていた銀座八丁をはさんで、釆女が原 ウネメガハラ から、木挽町 コビキチョウ を過ぎ、万年橋を渡った京橋築地2丁目20番地の角地、120余坪を千円で買入れ、ここに仮工場を設けて、移転と同時に、東京日日新聞の8月15日号から6回に亘って、次の移転広告を出した。

是迄外神田佐久間町3丁目において活版並エレキトルタイプ銅版鎔製摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也 明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

移転当時の築地界隈
平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守 五千石 中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺の中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった。

煉瓦造工場完成
新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] の築地移転によって、喜んだのは銀座界隈の印刷業者で、 神田佐久間町まで半日がかりで活字買い [ に出かける ] の時間が大いに省けた。 商売熱心な平野氏の努力で、翌7年には本建築が完成して、鉄工部を設け、印刷機械の製造も始めた。

勧工寮と販売合戦
新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] の活字販売は、もとより独占というわけにはいかなかった。銀座の真ん中南鍋町には、平野氏出店の前から流込活字 [ 活字ハンドモールドを用いて製造した活字 ] で売出していた 志貴和助や大関某 [ ともに詳細不詳 ] などの業者にまじって、赤坂溜池葵町の工部省所属、勧工寮活版所も活字販売を行っていた。同9年には、更らに資金を投じて、工場設備の拡張を図り、煉瓦造り工場が完成した。

勧工寮は、本木系と同一系統の長崎製鉄所活版伝習所の分派で、主として太政官日誌印刷 [ を担当していた ] の正院印書局のほか、各省庁及府県営印刷工場へ活字を供給していたが、平野氏の進出によって、脅威を受けた勧工寮は、商魂たくましくも、民間印刷工場にまで活字販売網を拡げ、事毎に新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] を目の敵にして、永い間、原価無視の安売広告で対抗し、勧工寮から印書局に移っても、新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]の手強い競争相手だった。

活字割引販売制度
この競争で、平野氏が考え出した活字定価とは別に、割引制度を設けたのが慣習となって、こんどの戦争 [ 太平洋戦争 ] の前まで、どこの活字製造所でも行っていた割引販売の方法は、もとを質だせば、平野活版所と勧工寮との競争で生れた制度を踏襲した [ もの ] に外ならない。 勧工寮との激烈な競争の結果、一時は、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]の身売り説が出たくらいで、まもなく官営の活字販売が廃止され、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]も漸やく、いきを吹き返す事が出来た。

西南戦争以後の発展と母型改刻
西南戦争 [ 1877/明治10年 ] を最後に、自由民権運動の活発化とともに、出版物の増加で、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]は順調な経営をつづけ、そのころ第1回の明朝体 [ 活字 ] 母型の改刻を行い、その見本帳が明治12年6月発行された [ 印刷図書館蔵 ]

次いで、同14年には、活版所の地続き13番地に煉瓦造り棟を新築し、この費用3千円を要した。 残念なことに、その写真をどこへしまい忘れたか見当らないが、同18年頃の、銅版摺り築地活版所の煉瓦建の隣りに建てられていた木造工場が、下の挿図である。 この木造工場は、明治23年には、2階建煉瓦造りに改築され、最近まで、その煉瓦建が平家で残されていたからご承知の方もおられると思う。

*      *

続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』 ( 編集 ・ 発行  全日本活字工業会  昭和46年7月20日 )

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 [ 大阪活版製造所社長を兼任 ]
、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。
その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [ 平野 ] 造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

 築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治256年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治278年戦役 [ 日清戦争 ] の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の [ 活字 ] 鋳造機は、手廻機 [ 手廻し式活字鋳造機 ブルース型活字鋳造機 ] 120台、米国製トムソン自動 [ 活字 ] 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 [ 自動 ] 鋳造機 [ 詳細不明。 調査中 ] 1台で、フユーサー機は日本 [ 製の ] 母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 [ した。 その ]後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 [ ] にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
[ はなしが ] 前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で [ はあるが ] 、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易 [ ] でいう鬼門[裏鬼門にあたるの]だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版 [ 東京築地活版製造所 ]の重役で、 [ 印刷機器輸入代理店 ] 西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 [ ] の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 [ ] 解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭でよいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。 これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動参加を願うのもよいと思う。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会 広報部 中村光男
( 『 印刷界22号 』 囲み記事として広告欄に掲載された )

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で 旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件 について協議した。 旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌 活字界 に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と 同建物跡に建設される 懇話会館の八十島 [ 耕作 ] 社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会は こうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。 この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。