朗文堂好日録-033 毎+水=? 【設問編】 年度末の宿題を、年末年始に回答です。

毎+水=?

【 設 問 編 】

朗文堂ニュース 2013年03月11日】に、上掲の図版を掲げて、皆さんに質問を投げかけた。
おりしも年度末、慌ただしいときであった。
回答は、この【タイポグラフィ・ブログロール 花筏】で報告するとしていたが、忙しさにかまけ、いつの間にか忘れていた。

ところで「宿題」の件である。設問から半年余もたったので、もう皆さんはお忘れかとおもっていた。ところがWebsite には「ウェブ検索」のほかに、「画像検索」のコーナーがあり、そこにはしっかりと上掲の図も掲載されていた。

いままでやつがれは、ほとんど「画像検索」コーナーはもちいなかったが、最近この Website のサポートにあたっているキタクンは、もっぱら「画像検索」コーナーからはいって、検索をガシガシとはじめる。
デジカメもケータイも、すぐに壊したり、なくすので、「使う資格無し」として没収されるほど「機械オンチ」のやつがれは、こういう作業を「ググる」というのだとようやく知った。やがてキタクンを真似て、結構「画像検索」を試みるようになって便利なこともある。

検索ソフトのグーグルは、どのように画像データーを収集・編集・処理するのか知らないが、「朗文堂画像検索」編はあまりにふるく、画像も低解像度のものが多かったせいか、いくぶん貧相である。
どちらかというと、【朗文堂花筏 画像】編にあたらしいデータが収録されている。そこにこの「設問」の画像が逃げようもなく存在していた。
そんなことを気にしているうちに、ついに歳末に読者からの叱声がきた!
「朗文堂NEWS にアップした、 毎 と 水 のかさなった 字 の解説はどうした…… !?」
というわけで……、上掲の課題を越年させて、ポチポチとしるしている次第。

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森永チョコレートアイスクリームPARM ブランドサイト《平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン Daily Premium Calendar》に、2013年11月、15回にわたるタイポグラフィ・エッセイをしるした。
この写真の施設は「甲骨文」出土地として知られる、中国河南省安陽市の駅前に新設された「文字博物館」である。撮影は斜めから撮ったものだが、ファサード正面にむかって巨大なモニュメントが一直線上にならんでいる。

一番手前は金色に輝く「文 鳳凰文」である。その背後に「字 宀 ベン、メン、うかんむり≒家のなかでつぎつぎとうまれた子供=字」を象徴する巨大なモニュメントがそそり立つ。
ここ「文字博物館」での「文字」には、ちょっと注意が必要である。たしかに「文字」そのものは、中国漢代にもその使用例がある(『漢語大詞典』)が、その意味するところは、現代日本語の「文字」とはおおきくかけはなれている。

やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。そのために「文字博物館」の図録の序文には、「文≒紋」と、「字」のなりたちが、正面入口のふたつのモニュメントを例として丁寧に説かれている。
すなわちわれわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。
したがって甲骨文、金文、石鼓文、籀文(チュウブンン ≒小篆)などは、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としての扱いはうけずに、「文」と表記される。

このことの説明に際していつも苦慮するが、例をケータイ電話などでの「顔文(字)」に喩えたらわかりやすいかも知れない。
ケータイ電話の「顔文(字)」は、同一メーカー所有者など、一定の集団のあいだでは共有されるが、その意味範疇はあいまいであり、伝達の範疇は意外と狭いものがある。
またわが国の一部の資料に「文は部首である」とするものもある。これはにわかには首肯できない。

《正式な学問として存在する中国での字学》
甲骨文を研究する学問を、中国では「甲骨学」とし、その著名な開拓者を「甲骨四堂」、あるいは「甲骨学 四堂一宣」シドウイッセン とよんで尊敬している。
四堂とは、郭 沫惹カク-マツジャク/鼎堂、羅 振玉ラ-シンギョク/雪堂、王 国維オウ-コクイ/観堂、董 作賓トウ-サクヒン/彦堂であり、一宣とは、胡 厚宣コ-コウセンのことである。

郭沫惹氏 百度百科よりわが国ではあまり知られていないが、「甲骨学 四堂一宣」の大家、郭沫惹(カク-マツジャク、あざなは鼎堂テイドウ。中国四川のひと。日本の九州大学医学部卒。中日友好協会会長をながくつとめた。1892-1978)が、中国河南省鄭州の「河南省文物考古研究所」(王 潤杰オウ-ジュンケツ館長)のために書した、同所の扁額とパンフレットの題字の「殷虚」は、悪相とされる漢の字「殷虚」の形象・字画を巧妙にさけて、ご覧のような「好字、好相の字」におきかえている。
ところがこれらの「好字、好相の字」は、残念ながら携帯電話の「顔文(字)」と同様に、あたらしいメディア上には表示できない。

つまり中国河南省鄭州テイシュウなどの遺跡で発掘される、前商(殷)時代・周時代初期の土器や銅器などにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などは、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。
【リンク:吾、台湾にて佛跳牆を食す !

やっかいなことだが、わたしたちはいつのまにかすっかり「文字」ということばに馴れてしまい、相当な専門書にも、「甲骨文」にかえて「甲骨文字」などとしるされている。もしこれをよしとするならば、青銅器などにみる「金文」は「金文字」となり、「籀文 チュウブン」は「籀文字」となり、つづみ形の石に刻まれた「石鼓文セッコブン」(現在は移転して北京:故宮博物院所蔵)は「石鼓文字」となる。つらいはなしではある。

したがって、わたしたちにとっては、この安陽の施設は「文モン or 紋モン and 字 の博物館 ≒ もん と じ の博物館」としてとらえたほうが誤解が少ないようである。
そんな予習のためにも、炬燵・蜜柑にアイスクリームを加えていただき、下記情報をご笑覧いただきたい。
平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン Daily Premium Calendar 2013年11月12日
朗文堂好録-027 台湾再訪Ⅱ 吾、仏跳牆を食す。「牆」と異体字「墻」のこと
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水+毎=?さて、本題にもどろう。上掲の「字 ≒ 文字」は、ひとつの「字」である。
漢の字、中国の字(漢字、中国では字 or 国字)というより、国字(わが国でつくられた漢字風の字)、もしかしたら個人の創意、あるいはわずかなテライ、もしくは軽い諧謔ユーモアをこめてつくられた「字」かもしれない。
図版でおわかりのように、上部に「毎」をおいて、下部に「水」をおき、ひとつの「字」としたものである。

やっかいなことに、この「字」は、わが国の歴史上で実際に書きしるされており、しかも複数の貴重な文書の上になんども登場していて、一部の「集団」からは、いまなおとてもおもくみられている「字」である。
したがって簡単に「俗字」「異体字」として片付けるわけにもいかず、原典文書の正確な引用をこころがける歴史学者などは、ほかの字に置きかえられることをいやがることがある。

1970年代の後半だったであろうか……。まだ写研が開発した簡易文字盤製造キット「四葉  シヨウ」もなかったころのことである。展覧会図録として、この「字」をふくんだ文書の組版依頼があった。
当時は原始的というか、当意即妙というのか、原字版下を作成して、ネガフィルムをおこし、それをガラス板にはさんで写真植字法で組版するという、簡便な方法で対処したことがあった。もう40年ほど前のこととて、その資料も、使用例も手もとにはない。

もちろん現代の文字組版システムは汎用性にすぐれており、こうした「特殊な字」は、アウトラインをかけるなどして「画像」とすればいいということはわかっている。それでも学術論文までもが Website で発表されるという時代にあって、やはりなにかと困った「字」ではある。
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先まわりするようだが、デジタル世代のかたが愛用するパソコン上の「文字パレット」や、「手書き文字入力」ではでてこないはずだ(やつがれのばあいは ATOK であるが)。
ちなみにこの「字」のふつうの字体は、人名・常用漢字で、JISでは第一水準の「字」であり、教育漢字としては小学校二年で学習(配当)する、しごくあたりまえの「字」である。

また、一部のかたが漢の字の資料としておもくみる『康煕字典』では、「毎」は部首「母部」で、「辰集下 五十七丁」からはじまり、「水」は部首「水部・氵部」で、「巳集上 一丁」からはじまる。
現代中国で評価がたかい字書のひとつ『漢語大詞典』(上海辞書出版社)もある。これらのおおがかりな資料にもこの「字」は見あたらない。為念。

また、わが国のふつうの『漢和辞書』とされるものは、なんらかの中国資料の読みかえがほとんどであるから、当然でてはこない。
管見ながら、これらの資料には「標題字」としては、上掲の「毎+水の字」は掲載されていないようである。もしかして、万がいつ、応用例としてでも、ちいさく紹介があったらごめんなさいである。
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とかく「漢字」「文字」というと、ほんの一部のかたのようではあるが、にわかに知的興奮にでもかられるのか、妙に衒学的になったり、エキセントリックになるふうがみられるのは残念である。
ここではやわらか頭で、トンチをはたらかせ、
「なぁ~んだ、つまらない」
「ナンダョ~、簡単じゃないか」
とわらって欲しい。
そしてこの「字」をつくりだした、天性のエンターティナーに、おもいをはせてほしい。
「回答」というほどのものではないが、答えは タイポグラフィ・ブログロール《花筏》にのんびりしるしていくつもりである。

タイポグラフィ・ブログロール花筏での花筏

花筏 京都・哲学の道こういう写真はテレがあってあまり得意ではない。おそらく4-5年前、やつがれの体調がすぐれなかったころの写真だとおもう。

京都市左京区の南禅寺から、銀閣寺 ( 慈照寺 ) にかけて、琵琶湖疎水にそった小径を、「 思索のこみち 」、あるいは 「 哲学の道 」 などと呼ぶ。
むかしは閑静な小径だったが、いまはすっかり観光地になって、思索も哲学もあらばこそ、騒騒しい通りになっている。

この側溝の右手には、琵琶湖疎水のゆたかな流れがあり、このときもみなもが見えないほど、櫻花が散りしく 「 花筏 」 であった。
この小径の櫻はよく知られているが、同時に疎水にそって 「 ミツマタ(三椏)」 がたくさん植えられており、櫻に先だって淡い黄色の花をつける。

ミツマタは、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分岐する特徴があるため、この名があり、三枝、三又とも書く。中国ではこの灌木の花のかおりのよさから 「結香 」 ( ジェシァン ) と呼ばれている。
ご存知のように手漉き紙の材料として 「 ガンピ(雁皮) 」 や、「 コウゾ(楮) 」とともに主要な原料となる。

この琵琶湖疎水と蹴上発電所の開発に際しては、平野富二ともおおいに関係がある。
古谷昌二 『 平野富二伝 』 (第17章 明治23年の事績 琵琶湖疎水工事視察とペルトン水車受注 p.714-23)。

その資料を探していたところ、こんな恥ずかしい写真がでてきた。
2013年の歳末にふさわしいかどうかは疑問だが、ご紹介した。

平野富二と活字*10 渺渺たる大海原へ-長崎港と平野富二の夢、そして注目してほしい出版人・安中半三郎のこと

新タイトル1
平野富二ボート用吊り装置平野富二ボート吊築造願
《平野富二自筆文書幷概念図——ボート釣築造願》 

    古谷昌二『平野富二伝』第10章-7 明治16年(1883)におけるその他の事績 p.440-441
上図) ボート釣装置概念図
本図は、下掲の平野富二自筆文書「ボート釣築造願」に添付されたボート釣装置の概念図である。 築地川の石段から二十間離れた岩壁に、長さ五尺のアーム二本を三間の間隔で川に向かって延ばし、小形ボートを吊り上げるもので、船上でのボート吊下装置を応用したものであることが分る。

下図) 平野富二所有のボート用釣装置設置願書
1883年(明治16)2月8日、平野富二は、築地活版製造所の前を流れる築地川の河岸石垣に、自分所有のボート用として、釣装置を設置する願書を同日付で東京府に提出した。
平野富二は、自宅と、活字製造部門と活版印刷関連機器製造部門「東京築地活版製造所」のある築地から、築地川を下って、石川島までの間を、ボートを利用して往復していたことが伺われる資料である。本文書は、東京都公文書館に所蔵されている平野富二自筆の願書である。  

「   ボート釣築造願
                   京橋區築地弐丁目
                     拾四番地平民
                                                            平野富二
右奉願候私所有之ボート壱艘同所拾七番地前川岸江繋留仕度就テハ別紙圖面之通 ボート釣河岸ヨリ突出製造仕度奉存候間何卒御許可被成下度尤右場所御入用之節何時モ取除元之如ク私費ヲ以取繕可申候此  段圖面相添奉願候也  但川中ヘ五尺出張リ候事
                                                 右
   明治十六年二月十八日         平野富二 印
   東京府知事芳川顕正殿  前書出願ニ付奥印候也
                                    東京府京橋區長池田徳潤印           」
 東京府は、警視庁に照会の上、撤去の際には元形の通り修復することを条件として許可している。

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明治36年版『活版見本』(東京築地活版製造所)口絵にみる銅版画を原版とした社屋一覧。
平野家はこの1903年(明治36)のとき、すでにあるじ富二を失っていたが、長女・津類ツルを中心に、この図向かって左手奥にあった平野家に、関東大震災で罹災するまで居住していた。
手前の築地川は水量がゆたかで、そこに下掲写真では小舟を移動して撮影したものと想像されるが、この銅版画には象徴的に、一隻の小舟が繋留されて描かれている。しかしすでに平野富二は逝去しており、吊り上げ装置らしきものはみられない。

M7,M37社屋

平野富二はまた、1879年(明治12)5月22日この築地川の川端に、アカシアの苗木を自費で植え付けの願い書を東京府知事宛に出している。
『株式会社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所、昭和4年10月)の口絵には、「明治37年ノ当社」とする写真があり、そこには前掲の銅版画では省略されたのかもしれないが、河岸にアカシア並木らしきものがみられる(『平野富二伝』古谷昌二、p.311-2)。銅版画に描かれた小舟は、手前の河岸にはみられるが、対岸には一隻もみられない。
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《港湾都市長崎でうまれた平野富二の原風景 —— 移動はもっぱら小型舟のサンパンだった》
ふるくいう —— 「三つ子の魂  百までも」。
平野富二(1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47)は、三方を急峻な山なみで囲まれ、生いしげるあかるい照葉樹林の照り返しで、金波銀波が鮮やかに海面を彩る、長崎港湾にうまれた。
やがて長崎製鉄所に属し、船舶の機関士として学習と航海をかさね、渺渺ビョウビョウたる大海原オオウナバラに進出した。
平野富二は、この大海原につらなる、ふるさと長崎へのこだわりが、ひときわつよいひとであったとおもわれる。
そして、船をつくり、みずから操船し、あるいは乗船して、大海原での航海を好んでいたひとであったとおもうことがおおい。

この平野のおもいは終生かわることなく、ふるさと長崎をつねに意識していたのではないかとおもわせることがおおい。すなわち平野富二の記録に接するたびに、随所に長崎とのつよい関係がみられ、ハッとさせられることがしばしばある。
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平野富二数えて38歳、1883年(明治16)2月8日、ようやくその事業が一定の順調さをみたとき、自宅と、活字・活版印刷関連機器製造工場たる「東京、築地での、活版製造所」、すなわち「東京築地活版製造所」と、造船・重機械製造工場「石川島平野造船所」への往来に、ふるさと長崎で縦横に乗りまわしていたサンパン(舢板。小舟やはしけの中国風の呼び名)と同様な、小型舟艇(ボート)をもちいたかったのであろう。

その小型舟艇の繋留のために、みずからしたためた「許可申請書」が、上掲の図版と文書である。添付図版は、河岸の石積まで丁寧に描いたもので、技術者らしい、簡潔にして要を得た概念図である。
その原風景は、長崎港湾にひろがる、小菅修船所、飽の浦アクノウラの長崎製鉄所、立神船渠センンキョ、ドックを、縦横にサンパンで往来していた平野富二16-25歳のころとなにもかわらなかった。
古谷昌二『平野富二伝』からみてみよう。

    古谷昌二『平野富二伝』第1章 誕生から平野家再興まで p.2-5
1-1 少年時代
平野富二は、幼名を富次郎といい、長崎の出身。町司チョウジ矢次豊三郎ヤツグトヨサブロウの二男。母は旧姓を神邊カンベ、名前を美禰ミネと称した。1846年8月14日、長崎引地町ヒキヂマチにおいて生れた。
数え年三歳の時、病がちであった父を亡くして、三歳違いの兄和一郎(後に重之助、重平、温威と改名)と、父の死後に生れた妹ていと共に母の手で養育された。
数え年八歳の時から長崎在住の太田寿吉に就いて書道を習い、西原良介と仁木田豊蔵の二人から書読を学んだ。
1857年(安政4)10月、数え年12歳で長崎奉行所の隠密方御用所番オンミツガタ-ゴヨウショバンに任命され、一日おきに出勤した。休日は西原・仁木田の二人の師匠に就いて「論語」「孟子」「大学」「中庸」の四書と、「詩」「書」「易」「春秋」の四経、ならびに「日本外史」数巻の読文指導を受けた。 これが平野富二の学んだ基礎学問の概要である。
長崎古地図

◎ 嘉永三年当時の長崎市街図
   古谷昌二『平野富二伝』第1章 誕生から平野家再興まで p.5
本図は、長崎文錦堂から刊行された『肥前長崎図』(嘉永三年再板)の市街中心部分を示す。平野富二数えて5歳のころの幼年時代の長崎市街を示すものである。

図の中央右寄りの折目に沿って、石垣と濠に挟まれた縦に細長い道筋が、平野富二(矢次富次郎)の生地「引地町」と表示されている。それに平行して左隣りに「さくら町」(桜町)と「新町」があり、「さくら町」の「引地町」寄りに「牢や」(牢屋)がある。「新町」の「引地町」寄りに「長門」(長州)と「小くら」(小倉)と表示された一画が示されている。

図の下方にある扇形の島は「出島」で、その上部の石垣で囲まれた岬の先端部分に長崎奉行所西役所がある。そこから三本の道路が上方に通じており、右側二本が「ほか浦町」(外浦町)と二行で表示されている。外浦町は平野富二が結婚し、矢次家をでて別家平野家を再興した1872年(明治5)に居住していた。 

考察5 出生地
平野富二(富次郎)は、矢次ヤツグ家が代々居住していた長崎引地町ヒキヂマチで出生したと見られる。
平野家にある過去帳や、平野富二の京橋区除籍謄本には、出生地として外浦町ホカウラマチと記されているが、これは富二が東京に戸籍を移す直前に住んでいた住所を示したものと見られる。
「矢次事歴」によると、1872(明治5)に平野富二が分家し、妻を帯同して外浦町ホカウラマチに移転したとしている。引地町は、桜町サクラマチと新町シンマチの東側にある、石垣と濠ホリの間にある細長い町で、『長崎市史』地誌編 名勝舊蹟部によると、もとは桜町から東南に向って傾斜した荒蕪地コウブチで、戦国時代に桜町に濠を掘って貯水し、敵軍の襲来に備えたが、後に人口が増大して市街地を拡張する必要が生じたため、濠の一部を埋立て、土地を造成して住宅地とした。このことから引地町と名付けられたという。

桜町の造成された土地に牢屋ロウヤが置かれ、それと隣接する引地町に長崎奉行所付の町使チョウジ(町使は今の警官に相当するもので、帯刀を許されていた)の長屋があって、町使役14人が居住していた。なお、町使は、後に町司チョウジと表記されるようになった。
この引地町という町名は、現在、長崎市の町名から消えてしまっている。現在の町名では、興善町コウゼンマチと桜町の一部となっており、両町の東側(厳密には東南側)の細長い一帯が引地町であった。
明治初期には、桜町と新町(現在は興善町の一部)が小高い台地の上にあり、その台地の外縁に築かれた石垣に沿って道路があり、その道路に面して引地町の家並があった。家並の背後には濠が残され、俗称地獄川と呼ばれていた。この濠は、現在、その一部が埋立てられて道路となっている。

当時の町割りは、道路を中心とし、それに面した地区に町名が付けられた。 1871年(明治4)四年4月、新政府によって戸籍法が発令され、これに伴ない町村制の改革が行なわれて、全国的に大区・小区の制度が採用された。
『明治六年の「長崎新聞」』によると、長崎では1872年(明治5)2年2月から戸籍調査がはじめられた。
その時に定められた矢次家の住居表示は、「矢次事歴」によると、1874年(明治7)4月の時点で、第一大区四ノ小区引地町五十番地であった。1873年(明治6)11月、大区・小区の大幅な整理統合が順次行なわれ、その結果、1878年(明治11)9月の時点では、第一大区二ノ小区引地町二百十五番に表示が変更されている。
1878年(明治11)10月には、町村編成法が公布され、大区・小区制が廃止されて、長崎市街地一円は長崎区となった。
矢次家の住所地は、明治4年の町村制改変史料があれば、これに表示されていると見られる。調査すれば平野富二の出生地を現在の位置で確定できるかも知れない。

考察10  隠密方御用所番
この役職は、長崎奉行が直轄する番方バンガタに属し、今でいう警察の機能を持った部門で、町司に関連する職場であった。矢次家は初代から長崎の町司を勤めていたので、その関連業務に従事することになったものと見られる。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』では、「隠密方オンミツカタ」という言葉を憚はばかってか、単に「御用所番」としているが、「隠密方」は忍者やスパイとして連想されるものとは違う。
長崎奉行所の隠密方は、長崎奉行から内命を受けて、不正の摘発や内密な調査を行い、上司に報告する役割で、平野富二の師である本木昌造も、一時期この役割を担っていた。
番方は、平時に長崎港内の水上警察業務や密貿易防止のための巡視などの海上保安業務を行っていた。役割業務からすると本来は武士が行うものであるが、長崎では奉行所で働く地役人が行った。番方の身分は町人であるが名字帯刀を許されていた。
富次郎の奉行所出勤の様子について、母美禰が富二の二女・津類ツルに語ったという口伝クデンが三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に紹介されている。

「奉行所への出勤は、用人清水国松に連れられて出役した。兄重之助も奉行所に出役していたが、その出役ぶりが悪く、何くれと言い訳をして出役しないことが多かった。ある日、富次郎が一人で急いで朝食をしていると、兄重之助が後からノソノソと起きてきて、弟でありながら漬物鉢の菜を先に箸をつけたと怒り、漬物鉢を庭に放り投げ、駄々をこねて奉行所を休んだことがある。弟の富次郎は、兄のその様な素振りには一向お構いなく、用人国松を供に連れて奉行所にさっさと出勤したという。当時、矢次家に居た三人の祖母は、その様な兄弟の日常の素振りを見て、矢次家の家禄は弟の富次郎が継ぐことになるだろう、と口癖の様に云って富次郎を誉めていた。しかし富次郎はこれを心好く思わず、僅かばかりの家禄など望まない、と言って、もっと大きな将来の望みを抱いていた」

この時、富次郎は数え年一二歳であったが、兄重之助は数え年二〇歳で町司抱入の役にあった。矢次家に居た三人の祖母とは、祖父茂三郎の妻のほかに、曽祖父和三郎の妻と、富次郎の母実禰の三人と見られる。この逸話は後年になって平野富二の娘・津類ツルによって語られたと見られ、津類にとっては富次郎の母も「おばあさま」であった。

長船よもやま話 ジャケット

三菱長崎造船所サンパン

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』
(長船150年史編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所 平成19年10月 p.88-89)

《長崎港とサンパンの歴史——『長船よもやま話』より》 
40  サンパンで飽の浦-立神を5分

      明治時代の所内交通はもっぱら舟でした。
1906年(明治39)1月に稲佐橋(木橋)が開通するまで、対岸方面への往来は小舟に頼るほかありませんでした。また、長崎港には内外の船の出入りが多かったので、碇泊した船と岸を結ぶため、多くの小舟が待機しており、なかでも大浦下り松(松ヶ枝町マツガエマチ)海岸はとくに多かったそうです。

このほか大波止オオハト、浪の平、浦上川などを合わせると、千隻セキ近い小舟が長崎港にあったそうです。
中国語では小舟やはしけをサンパン[舢板]と呼びますが、長崎でも通い舟のことをサンパンと呼んでいました[中略]。
このころ当所[三菱長崎造船所]の飽の浦-立神間の交通は舟でした。幹部社員などがいつでも乗れるように、海岸石段には常に何隻ものサンパンが待機していました。櫓を漕ぐ船夫も、明治30年代には100人以上が在籍して、交通係の指令が下ると、二丁櫓で、部長以上などは三丁櫓で飛ばし、立神まで4-5分もかからない速さでした[中略]。

1904年(明治37)に向島第一トンネルが開通し、立神まで歩いていけるようになり、さらに1914年(大正3)には飽の浦-立神間に定期貨物列車が運行、大正7年になると列車に客車が連結され、海上では自動艇5隻が配置されるなどで、構内のサンパンは姿を消したのです。

Nagasaki_vue_du_Mont_Inasa.jpg (7890×1012)写真) 稲佐山イナサヤマ展望台から眺めた長崎市の様子。 【ウィキペディア:長崎市より】
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平野富二は26歳までの多くをこの長崎の地で過ごした。1869年(明治2)明治新政府民部省の認可のもと、若き富次郎が総指揮にあたって掘削した「立神タテガミ造船所」をはじめ、隣接する「飽の浦アクノウラ製鉄所、長崎製鉄所」、対岸の「小菅船渠コスゲセンキョ、小菅修船所」なども描かれている。
長崎市街は、まちの北東部から注ぐ中島川と、北部から南下して長崎湾に注ぐ浦上川に沿ったほんの一部だけが平坦地で、三方の後背地は急峻な山にかこまれている。
東京に出てきてからも、気軽に築地と石川島を小型舟艇で往来していた、平野富二の生い立ちが偲ばれる地図である。
長崎

長崎◎  長崎縣内務部第二課編纂 『仮称:長崎港湾地図』(明治32年 西暦1899年2月)
長崎の版元/安中書店・安中半三郎が刊行した長崎市街地と港湾部の詳細な地図。
東京築地活版製造所(印刷者名:野村宗十郎)が銅版印刷した。上掲図はクリックすると拡大します。

長崎地名考 扉長崎地名考 付録
長崎地名考 刊記

《安中書店、虎與號商店、虎與號書店 —— 安中半三郎のこと》
安中書店・安中半三郎(やすなか-はんさぶろう いみな:東来 1853-1921 別屋号:虎與號トラヨゴウ商店、虎與號トラヨゴウ書店。旧在:長崎市酒屋町四十四番戸)は、版元:安中書店と虎與號を経営するかたわら、香月薫平、西道仙らとともに「長崎古文書出版会」を結成し、その成果が『長崎叢書』となって、やがて長崎県立図書館(長崎市立山1丁目1-51)の設立につらなった【リンク:長崎県立図書館沿革】。
また「長崎慈善会」を結成して「長崎盲唖院」を設け、この生徒13人から出発した授産教育機関は、いまは長崎県立盲学校【リンク:長崎県立盲学校沿革】として存在している。

ここには、長崎縣内務部第二課編纂 発行者 安中半三郎 『仮称:長崎港湾地図』(明治32年 西暦1899年2月)、『長崎地名考』(香月薫平著、発行者 安中半三郎、 安中書店蔵版、発行所 虎與號商店、明治26年11月11日)を紹介したが、ほかの刊行書もたくさんある。
いち民間人、それも出版人の動向によってつくられた施設が、公的な施設となって持続されることなどは、ありそうでないことである。またそれがながく語りつがれ、公式記録にも掲載されていることに驚く。
ようやく長崎学の関係者のあいだで、この注目すべき安中半三郎に関する研究が進捗しつつようである。おおいに期待して、その発表をまちたい。

それでもまだ安中半三郎に関する資料は乏しいようである。安中半三郎がもちいていた屋号「虎與號」は、現代表記では「虎与号」となる。また厄介だが、湯桶ユトウ読みで、「とらよごう TORAYO-GO」と呼んでいたことが、いくぶん不鮮明ではあるが、『長崎地名考』刊記に添付された出版社標からもわかる。
下にその拡大図を掲げた。

ORAYO-GO

安中半三郎は平野富二より6歳ほど年下であったとみられ、その交流はいまはわからない。それでも明治中期から末期にかけて、長崎出身の平野富二の後継者、東京築地活版製造所に依頼して、活字版印刷、銅版印刷、石版印刷などの先端印刷技術をもちいて、積極的に図書や地図や詩画集などを刊行していた。
『長崎地名考』の印刷は東京築地活版製造所で、平野の没後まもなくであるが、富二の没後も東京築地活版製造所は長崎との関係が深く、専務社長/曲田 茂が印刷者として刊記にしるされている。

平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで 

Web長崎立神ドック
長船よもやま話 ジャケット
長船よもやま話 本文

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』
(長船150年史編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所 平成19年10月)

三菱重工業株式会社長崎造船所、いかにも長い名前である。地元長崎では愛着をこめて、もっぱら同社を「長船ナガセン」と呼んでいるし、同社社内報のタイトルも『長船ニュース』である。本稿では「三菱長崎造船所」と呼ばせていただく。
「三菱長崎造船所」の淵源はふるく、1857年(安政4)10月10日をもって創業の日としている。その創業150周年記念として刊行されたのが『長船よもやま話』(2007年、平成19年)である。

「お堅い150年史も必要だけど、社員や家族も気軽に読める、絵本のような150年史はできないものか……」(同書編集後記より)とされて、三菱長崎造船所の「長船よもやま話編纂事務局」の皆さんの訪問をうけたのは2006年(平成18年)のことであった。
当時の筆者は「三菱長崎造船所」の創業とは、官営の造船所から施設を借用というかたちで、経営主体が郵便汽船三菱会社・岩崎弥太郎に移った1884年(明治17)のときと考えていたので、「創業150周年」のことには少少面喰らったが、どこの名門企業も、創業のときをできるだけ遠くにおきたいようで、それはそれで納得した。

三菱長崎造船所 史料館三菱長崎造船所 史料館全景。「長崎造船所史料館」(長崎市飽の浦町1-1。JR長崎駅からタクシーで15分ほど。観覧は無料だが予約が必要)。同館Websiteより。
この赤煉瓦の建物は1898年(明治31)7月、三菱合資会社三菱造船所に併設の「木型場」として建設されたもので、三菱重工業株式会社 (本社:東京都港区港南2-16-5)発祥の地、長崎造船所に現存する、もっとも古い建物である。
1945年(昭和20)8月の空襲における至近弾や、原子爆弾の爆風にも耐えて、100年余の風雪に磨かれた赤煉瓦は、わが国の近代工業の黎明期の歴史を偲ばせるのに十分な風格がある。

「長船よもやま話編纂事務局」の皆さんは、拙著『富二奔る』を精読されており、筆者も 長崎造船所史料館  をたずねたことがあったので話がはずんだ。それにあわせて『大阪印刷界 第32号 本木号』(大阪印刷界社 明治45年)、『本木昌造伝』(島屋政一)、明治24年『印刷雑誌 1-4号』などを前にして、本木昌造と平野富二の業績に関しての話がおおいにはずんだ。何点かの持ちあわせていた画像資料は、一部を平野家のご了承をいただいて提供した。

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』は、ふつうの社史とは幾分異なり、創業150周年にあわせて見開きページで完結する150章をもうけて、フルカラー印刷による。ページ構成は、軽妙なイラストと、多くの写真資料で、わかりやすく三菱長崎造船所の長い歴史が説かれている。
すなわち、「三菱長崎造船所」では、創業のことを、徳川幕府の艦船修理工場「長崎鎔鐵所ヨウテツショ」の建設着手のときとして、オランダ海軍機関士官ハルデスらによって、長崎飽の浦アクノウラに建設が開始された1857年(安政4)10月10日をもって創業記念日としている。

1 辛抱強かったハルデスさん
  150年前、飽の浦の沼地に、日本初の洋式工場を建設
1855年(安政2)現在の長崎県庁の位置に開設された長崎海軍伝習所では、オランダから贈られた練習艦「観光丸」で訓練していましたが、そのうち、船や機関に小さな故障が出はじめました。
そこで江戸幕府に艦船修理場の設置を願い出ましたが、とても対応がスローモー。そこで永井伝習所取締は、独断でオランダ側に工場建設のための技術者や、資材の手配を申し入れました。

1857年(安政4)オランダ政府は長崎海軍伝習所第2次教師団長カッテンディーケ以下、教官と技術者37名を派遣して、資材や機械類も長崎に到着しました。
カッテンディーケは主任技師のオランダ海軍機関士官ハルデスと工場建設地を探し、飽の浦アクノウラを適地に決めました。

奉行所の認可を得て、わが国最初の洋式工場建設に着工したのは、この1857年(安政4)10月10日でした。それは今を去ること150年前で、この日が当所の創業記念日であり、日本における重工業発祥の日でもあります。[中略]
ハルデスの努力により、工場はおよそ3年半後の1861年(文久元)3月に落成し、任務を終えたハルデスらは帰国しました。[後略]
『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』(p.10-11)

立神ドック建碑1uu

立神ドック建碑2uu

写真) 三菱重工業株式会社長崎造船所 史料館提供

《三菱重工業長崎造船所にある立神ドック建碑由来の説明板》
現在の三菱長崎造船所は、飽の浦アクノウラと立神タテガミ地区を包摂した本工場、香焼コウヤギ工場、幸町サイワイマチ工場、諫早イサハヤ工場の4工場をおもな拠点として活動を展開している。
三菱長崎造船所本工場は、飽の浦地区に本社機能や病院がおかれているほかに、おもにタービン工場や機械工場として使用され、史料館もこの地区にある。

いっぽう、三菱長崎造船所本工場立神タテガミ地区は、平野富二による開削時代には、飽の浦地区とは、岬というか、山ひだ一枚を隔てて離れていた。
それは直線距離ではわずかとはいえ、山越えの道はきわめて不便で、もっぱら海路での往来しかできなかった。それを三菱長崎造船所がトンネルを掘り、拡幅して道路として、現在は飽の浦地区と直結されている。
立神には第1-第3ドックを備えた巨大な造船工場があり、ここでは30万トン級の巨大な船舶の建造も可能とされる[長崎造船所の沿革]。

平野が開削に着手した立神ドックは、拡張されて、いまなお立神第2ドックの首部をなして健在であり、そこに写真で紹介した『建碑由来』がはめ込まれている。
立神に本格的な洋式造船所が設けられた歴史はこのようにふるく、時局下にあっては対岸から見えないように巧妙に遮蔽物を置くなどして、秘密裡に戦艦武蔵が建造された。また最近では2002年に艤装中の豪華大型客船「ダイヤモンド・プリンセス」が火災をおこしたことなどでも知られている。

上掲写真は、三菱重工業長崎造船所本工場の、立神タテガミ通路の壁面に設置されている『建碑由来』説明板の写真である。この説明板の中央右寄りに「立神ドック略歴」とあり、それに続いて平野富二の事績がしるされている。
なお写真右上部に「明治十年竣功(工)」とあるが、一部に不具合があって、実際の竣工は下部の「立神ドック略歴」に記録されたとおり明治12年となった。

「立神ドック略歴  明治三年(一八七〇)長崎製鉄所長平野富二乾ドック築工を民部省に建議、許可となり着工。同四年(一八七一)一時工事中止。明治七年(一八七四)フランス人ワンサンフロランを雇入れ築工工事再開。 明治一二年(一八七九)工事完成。(長さ一四〇米、巾三一米、深さ一〇米 当時東洋一)   (後略)  昭和四三年(一九六八)三月   三菱重工業株式会社長崎造船所」

これに補足すると、
「慶応元年(1865)7月に立神軍艦打建所として用地造成が完了しましたが、当地における軍艦建造が取止めとなり、そのまま放置されていました。 明治2年(1869)になって、平野富二が民部省にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりました。同年11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに着工しました。しかし明治4年(1871)4月、長崎製鉄所が工部省の所轄となるに及んで、平野富二は長崎製鉄所を退職し、工事は中止されました」[『平野富二伝』古谷昌二]

平野富二(1846-91)は長崎出身で、活字と活版印刷関連機器製造「東京築地活版製造所」と、造船と重機械製造「石川島平野造船所」を設立したひとである。
残念ながら、東京築地活版製造所はよき後継者を得ずに、1938年(昭和13)に解散にいたったが、造船・機械製造「石川島平野造船所」は隆盛をみて、「石川島播磨重工業株式会社」となり、こんにちでは「株式会社 IHI」 として知られている。
株式会社 IHI と、三菱重工業とは、ともに官営造船所の払い下げからスタートした民間企業という歴史をもち、なおかつ、さまざまな分野で競合関係にある巨大企業である。

すなわち株式会社 IHI では、創業を水戸藩徳川斉昭が幕命によって、江戸・石川島の地に造船所を創設した1853年(嘉永6)年12月5日としており、同社はことし創業160周年を迎えている。
また設立の年はすこし複雑で、1876年(明治9)平野富二による「石川島平野造船所」の設立と、のちに渋澤榮一らの参加をえて、1889年(明治22)に会社法人「有限責任 石川島造船所」が設立された日の双方を設立の時としている。ただし公的には、同社が法人格を得た1889年(明治22)を設立の日としている。
IHI 会社概要 最下部] [IHI 沿革・あゆみ
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ここで、長崎の地におおきな造船所がつくられた歴史を簡略にしるしてみたい。
1857年(安政4年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」の建設着手。
1860年(万延元年)  「長崎製鉄所」と改称。
1861年(文久元年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」が完成。
1868年(明治元年)  明治政府による官営「長崎製鉄所」となる。
1869年(明治02年) 平野富二が民部省に立神にドックの開設を建議し、民部省の認可が下りた。
1869年(明治02年) 11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工した。
1871年(明治04年)  長崎製鉄所が工部省所管「長崎造船局」と改称[このとき平野富二は退職]。
1876年(明治09年)  平野富二、東京石川島に「石川島平野造船所」を設立。
1879年(明治12年)  官営「立神第一ドック」完成。
1884年(明治17年)  官営「長崎製鉄所」が払い下げにより三菱の経営となる。「長崎造船所」と改称。

あわせて平野富二(富次郎 1846-91)のこの時代の行蔵を簡略にしるしてみよう。
長崎にうまれた平野富二は、この三菱長崎造船所の前身、長崎製鉄所とは16歳のときから関係をもった。
まず1861年(文久元)長崎製鉄所機関方見習いに任命され、教育の一環として機械学の伝習を受けていた。このころは飽の浦に建設された長崎製鉄所の第一期工事が完成して間もないころであった。
ここでいう「製鉄所」とは、溶鉱炉を備えた製鉄所という意味の現代用語とは幾分異なり、「大規模な鉄工所」(古谷昌二氏談)とみたほうがわかりやすい。

1869年(明治2)平野富二が民部省[1869年(明治2)に設置された中央官庁。土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱った。1871年廃止されて大蔵省に吸収された]に立神にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりた。同年11月20日、「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工した。
このとき平野富二は24歳、春秋に富んだときであった。
しかしながら1871年(明治4)4月長崎製鉄所が 工部省 の所轄となるにおよんで、平野富二は退職し、工事は中止となった。

平野富二は、長崎製鉄所を退職したのち、1872年(明治5)7月から、長崎製鉄所の先輩だった本木昌造の再再の懇請により、経営に行きづまっていた「崎陽新塾活字製造所」を継承した。
平野は翌年、既述した「平野富二首證文」などによって資金を得るとともに、東京に出て、1873年(明治6)から活字製造と活版印刷機器の製造所、「長崎新塾出張活版所」、のちの「東京築地活版製造所」で成功して、あらたな資金をつくった。

あわせて幕末に水戸藩が設けた「石川島修船所」の敷地を借りるかたちで、念願の造船業「石川島平野造船所」の事業に1876年(明治9)に進出した。

すなわち巨大なドックをつくり、おおきな船舶をつくりたいという、平野富二24歳のときの夢は、長崎での工事は中断されて自身の手では完成をみなかった。
それでもこの立神の地に、巨大ドックを開設するという事業に着眼した平野富二は慧眼といえ、やがて工部省所管の官営造船所「長崎造船局」によって、1879年(明治12年) 立神第一ドックが完成し、その後三菱長崎造船所の主力工場となった。
それでも平野はあきらめることなく、巨大ドックをつくるという24歳のときの夢を抱きつづけ、その7年後、水戸藩徳川斉昭が、幕命によって江戸・石川島の地に造船所を創設したまま、放置されようとしていた施設を借りる(のち買収)かたちで、東京石川島の地で実現した。
このとき平野富二、31歳の男ざかりであった。

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造船業者や船乗りは「板子一枚下は地獄」とされ、きわめて危険な職業であることの自覚があるようである。したがってライバル企業「石川島平野造船所」、現在の IHI の設立者「平野富二」の名を、自社の主力ドックである立神ドックに、その名を刻した、三菱重工業長崎造船所の皆さんの意気にこころをうたれる。

上掲写真は、2001年「平野富二没後110年祭」に際して、列席された長崎造船所史料館のスタッフからいただいたものである。ここは三菱長崎造船所本工場の最奥部にあって危険があり、また情報管理の面からも、一般人の見学はゆるされていない。したがってこの写真が公開されたことはあまりないようである。

同社はまた『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)の見開きページで、
「立神に巨大ドックを 壮大な夢を抱いた平野富二、工事現場での大ゲンカ仲裁も」
として、イラストと写真入りで立神ドック建造中の姿を紹介している。

このとき平野富二は25歳という若さで、おそらくまだ髷を結い、帯刀して、3-4,000人のあらくれ労働者の指揮にあたっていたとみられる。

平野富二武士装束uu

平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。
知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。

建設中の立神ドッグ

開鑿中の立神ドック
本図は、横浜で発行された英字新聞『ザ・ファー・イースト』(1870年10月1日)に掲載された写真である。 和暦では明治3年9月7日となり、平野富二(富次郎)の指揮下で開始されたドック掘削開始から、ほぼ 9 ヶ月目に当たる状態を示す。
この写真は、長崎湾を前面にした掘削中のドライドックの背後にある丘の上から眺めたもので、中央右寄りにほぼ底面まで掘削されたドックが写されている[『平野富二伝』古谷昌二]。

考察13 開鑿ニ着手 明治二年(一八六九)一一月二〇日、製鉄所頭取青木休七郎、元締役助平野富次郎、第二等機関方戸瀬昇平は、「ドック取建掛」に任命され、続いて頭取助品川藤十郎と小菅掛堺賢助も要員に加えられた。 この中で筆頭の製鉄所頭取青木休七郎は名ばかりで、実質的な責任者は平野富次郎であった。 この時の製鉄所辞令が平野家に残されている。 
「平野富次郎  右ドック取建掛  申付候」  [『平野富二伝』古谷昌二]。 

任命状

  平野富次郎  右ドック取建掛  申付候図 ドック取建掛の辞令
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎製鉄所の辞令である。この辞令の用紙サイズは、高さ174㎜、幅337㎜で、ここに書かれている巳十一月とは明治2年(1869)11月(和暦)であることを示している[『平野富二伝』古谷昌二]。

長崎縣権大属任免状uu 

平野富次郎の長崎縣権大属任免状 
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎縣の任免状である。 この任免状の用紙サイズは、高さ187㎜、幅519㎜である。 最終行の「長崎縣」と書いた上部に小さく、「庚午 閏十月十六日」と記されており、明治3年(1870)閏10月16日[旧暦]の日付であることが分かる[『平野富二伝』古谷昌二]。
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三菱長崎造船所『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)には、以下のように平野富二、24歳のときの夢が記録されている。

7  立神に巨大なドックを
   壮大な夢を抱いた 平野富二  工事現場での大ゲンカの仲裁も
当所の立神タテガミドックは、仏人技師ワンサン・フロラン総指揮のもとに開削されたと一般には知られていますが、それ以前、このドックを開削した長崎人がいました。平野富二です。
富二は長崎うまれ、12歳で奉行所番となり、長崎製鐵所と関わりを持ったのは16歳のときでした。製鐵所では機関手見習いを仰せつけられています。

この後、機関手の実務勉強や実績を経て、製鐵所機関伝習方元締役と、小菅修船場長を兼務し、小菅修船場から海を隔てた対岸の立神に、一大ドック建設の夢をいだき、24歳のとき建白書を書き上げました。
建白書は、
「小菅修船所船渠で得た純益金1万8000円を資金として、立神に巨大なドックを開削し、おおいに造船の業を起こし、内外の航路と諸船舶修復の権利を掌握、加えて長崎港の繁栄を」
というものでした。この建白書は民部省で審議され、民部大丞井上馨から、「直ちに着手せよ」との許可がおりました。

1870年(明治3)9月、富二は立神ドックの開削に着手しました。しかし、この工事はなかなか簡単には進みませんでした。使用者は3千人から4千人と増え、なかには浮浪無頼のやからもおり、ケンカや酒狂、窃盗、博打、仕事もせずに惰眠をむさぼるなど、その取締りも困難でした。当時の富二はほかにも、製鐵所機関伝習方元締役、小菅修船場長の役職があり、その公務は多忙を極めていました。
加えて彼には持病があり、立神ドック開削現場で起こった二派に分かれての大ゲンカを、戸板に乗って運ばれて取り静めたこともありました。

しかし、こうした富二の苦労も報われませんでした。1871年(明治4)4月、長崎製鐵所が民部省から工部省の所管となり、小菅ドックや開削中の立神ドックなど、一切の財産帳簿類を整理し、工部省に引き渡して職を辞しています。
完成に至らなかった立神ドック開削に、それまで要した金額は2万1500円と記録に残されています。

平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編 一、二 にみる活字見本(価格付き)

基本 CMYK
長崎港のいま
長崎港のいま。本木昌造、平野富二関連資料にしばしば登場する「崎陽 キヨウ」とは、長崎の美称ないしは中国風の雅称である。ふるい市街地は写真右手奥にひろがる。

新塾餘談 初編一 新塾餘談 初編一 口上 新塾餘談 初編一 活字見本 新塾餘談 初編一 売弘所 新塾餘談 初編二 新塾餘談 初編二 口上 新塾餘談 初編二 活字見本 新塾餘談 初編二 売弘所『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』  ともに壬申二月 ( 明治05年02月) 牧治三郎旧蔵

『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は、「 緒言-明治壬申二月 本木笑三ママ 」、「 燈火の強弱を試る法 図版01点 」、「 燈油を精製する法 」、「 雷除の法  図版02点 」、「 假漆油を製する法 」、「 亜鉛を鍍する法 」、「 琥珀を以て假漆油を製する法 」、「 口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」が収録されている。

また図版として計03点が銅メッキ法による 「 電気版 」 としてもちいられている。
『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は第1丁-10丁までが丁記を付せられてあるが、11丁からは急遽追加したためか、あるいは売り広め ( 広告 ) という意識があったのかはわからないが、丁記が無く、そこに 「 口上 」 がしるされている。
製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 の名がある。

『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 は、筆者手許資料は第01-9丁までを欠く。 10-20丁からの記述内容は、もっぱら電気鍍金法メッキの解説書である。 「口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」 は21丁にあるが、ここからは丁記は無い。
「 口上 」 の記載内容は 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 と同一で、発行もおなじ壬申二月 ( 明治05年02月 ) であるが、製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 のふたつの名が追加されている。
銅メッキ法による 「 電気版 」 は19丁に、電解槽とおぼしき図版が印刷されている。

また最終丁には、長丸印判によって 「 定價永三十六文 」 と捺印されている。
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新町活版所跡碑部分上掲図版は、長崎の新街私塾 ( 新町活版所 ) から刊行された 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( ともに壬申二月  明治05年02月 平野富二このとき26歳 ) の巻末に掲載された 「 崎陽 新塾活字製造所 」 の活字見本 ( 価格付き ) である。
この図版は、これまではしばしば本木昌造の企画として紹介され、文例から 「 天下泰平國家安全 」 の、本木昌造による活字見本として知られてきたものである ( 小生もそのように紹介してきた。 ここに不明をお詫び申しあげたい )。

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。平野富二 ( 富次郎 ) が、市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年 ( 明治04 ) 秋、26歳のときの撮影と推定される。 知られる限りもっともふるい平野富二像。

旅姿で、月代 サカヤキ をそらない丁髷に、大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。 撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は 「 A. Morikawa TOKYO 」 である。

廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されたが、早早に士籍を捨て、平然と 「 平民 」 と名乗っていた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である。
平野富二の眉はふとくて長い。 目元はすずやかに切れ長で、明眸でもある。 唇はあつく、きりりと引き締まっている ( 平野ホール蔵 )。

本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治04)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二 ( 富次郎 ) に、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 への入所を再再懇請して、ついに同年07月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年 ( 明治04) 07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「 新街私塾 」 一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。 そのことは、『 大阪印刷界 第32号  本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 )、 『 本木昌造伝 』( 島屋政一 朗文堂 2001年 ) などの諸記録にみるところである。
長崎活版製造会社之印長崎港新町活版所印新街私塾

『 本木昌造伝 』 ( 島屋政一 朗文堂 2001年08月20日 ) 口絵より。 元出典資料は 『 大阪印刷界 第32号 本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 ) であり、『 本木昌造伝 』 刊行時に画像修整を加えてある。 上から 「 長崎活版製造会社之印 」、「 長崎港新町活版所印 」、「 新街私塾 」 の印章である。
長崎の産学共同教育施設は、会社登記法などの諸法令が未整備の時代のものが多く、「 新街私塾 」 「 新町私塾 」 「 長崎新塾 」 としたり、その活字製造所、印刷所なども様様な名前で呼ばれ、みずからも名乗っていたことが、明治後期までのこされたこれらの印章からもわかる。

苦難にあえでいた 「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治04)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが 「 活字見本 ( 価格付き )」 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( 壬申二月  明治05年02月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで 『 平野富二伝 』 で古谷昌二氏よりなされた。

長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による 「 活字を一手に占有 」 することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。

1871年 ( 明治04 ) 07月10日ころ、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 へ入所した平野は、早速市場調査と、活字の販売をかねて09-10月に上京した。 この旅から平野が長崎にもどったのは11月01日(旧暦)とみられている。
そのとき、長崎ではまだのんびりと 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 の活字組版が進行していたとおもわれる。 また 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 の緒言に、本木は 「 本木笑三 」 という戯号をもちいて、なんらの緊張感もない序文をしるしていた。

長崎にもどった平野は、本木とその協力者 ( 既存の出資者 ) に 「 活字見本 ( 価格表付き )」、すなわち販売用カタログを緊急に製作する必要性を説き、その承諾をえて、『 崎陽新塾餘談 初編一 』  『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 (壬申 二月  明治05年02月)の両冊子の巻末に、急遽 「 販売を目的とする価格付きの活字見本 」 を印刷させ、まずは活字を、ついで活版印刷機器を、ひろく需用者に販売することにしたものとみられる。
長崎港のいま 新町活版所跡の碑 活版伝習所跡碑 本木昌造塋域 大光寺 本木昌造銅像 長崎諏訪公園このような活字を製造し、販売するという平野富二の最初の行動が、この活字見本 ( 価格付き ) であったことの指摘が、『 平野富二伝 』 ( 古谷昌二編著 朗文堂 p.136-7 ) でなされた。 これはタイポグラファとしてはまことに刮目すべき指摘といえよう。

掲載誌が、新街私塾の 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』、『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 であり、販売所として、初編一では長崎 ( 崎陽 ) の 「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 であり、初編二には前記二社のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 の名が追加されている。
これらの販売所はすべて本木関連の企業であり、当然その効果は限定的だったとみられるが、これが平野のその後の事業展開の最大のモデルとなったとみられ、貴重な資料であることの再評価がもとめられるにいたった。

補遺4 活字の販売 
明治5年(1892)2月に新街私塾から刊行された小冊子 『 新塾餘談 初編一 』 の巻末に、
「  口上
此節雛形の通活字成就いたし片仮名平仮名とも大小數種有之候間  御望の御方へハ相拂可申右の外字體大小等御好の通製造出申候
   壬申 二月          崎陽 新塾活字製造所 」
という記事があり、続いて、初号から五号までの明朝体と楷書体活字を用いた印刷見本と、その代価が掲載されている。

この広告文は、活字を一手占有するという本木昌造の従来の方針を改め、世間一般に販売することにした平野富次郎による経営改革活動の一環と見ることができる。 東京で活字販売の成功と事業化の見通しを得たことが、本木昌造と協力者の方針を変更させ、このような活字販売の広告を出すに至ったものと見られる。              ( 『 平野富二伝 』 古谷昌二 p.136-7 )

壬申、1872年(明治05)、平野富二はたかだかと口上をのべた。このとき平野数えて27歳。
「 口上  ――  [ 意訳 ] このたび見本のとおり活字ができました。 カタ仮名活字、ひら仮名活字も、活字サイズも大小数種類あります。 ご希望のお客さまには販売いたします。 そのほかにも外字やサイズなど、お好みに合わせて製造いたします。
明治五年二月  崎陽 新塾活字製造所 」
以上をのべて、本格的な活字製造販売事業を開始し、あいついで活版印刷機器製造事業をはじめた。

この 「 口上 」 という一種のご挨拶は、本木の高踏的な姿勢からは発せられるとは考えにくく、おそらく平野によってしるされた 「 口上 」 であろう。
同時に平野は、東京への進出に備えて、あらかじめ1872年(明治05)8月14日付け 『 横浜毎日新聞 』 に、陽其二 ヨウ-ソノジ、ミナミ-ソノジ らによる、長崎系同根企業の 「 横浜活版社 」 を通じて、同種の広告を出していた。

同年10月、平野は既述した 「 平野富二首證文 」 を担保として、上京のための資金 「 正金壱千円 」 余を調達した。 その調達先には、長崎六海商社と、元薩摩藩士で関西経済界の雄とされる五代友厚の名前があがっているが後述したい。
そして、退路を断った東京進出への決意を胸に秘めて、新妻 ・ 古ま ほか社員08名 ( のち02名が合流 ) をともなって上京した。

上京後の平野は、ただちに同年10月発行の 『 新聞雑誌 』 ( 第66號 本体は木版印刷 ) に、同種の 「 天下泰平國家安全 」 の活字目録を、活字版印刷による附録とし、活字の販売拡大に努めている。
このときの 『 新聞雑誌 』 の発行部数は不明だが、購読者たる明治の教養ひとにとっては、木版印刷の本紙の付録として添付された、活字版による印刷広告の鮮明な影印は、新鮮な驚きがあったであろうし、まさしく文明開化が具現化したおもいがしたのではなかろうか。

この 「 壬申 二月 」、1872年(明治05)02月とは、わが国の活字と活版印刷術が、平野富二の手によって、はじめて、おおらかに、あかるく、ひろく公開され、製造販売が開始された記念すべき年であったことが、本資料の再評価からあきらかになった。
これからは時間軸を整理し、視点を変えて、再検討と再評価をすべき貴重な資料といえる。

平野富二と活字*07 12月03日、きょうは平野富二の命日です。

 平野富二 東京築地活版製造所初号明朝体
1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。

平野富二肖像写真(平野ホール藏)
平野富二と娘たちuu

写真上) 平野富次郎 丁髷士装の写真
平野富二が「平野富次郎」と名乗っていた26歳ころの写真。知られる限り最も古い写真。月代サカヤキを剃らずに丁髷を結い、大刀小刀を帯びた旅姿の士装として撮影されている。撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は「A. Morikawa TOKYO」である。
1871年(明治4)夏、本木昌造は巨額の債務にあえいでいた長崎新町活版所の事業のすべてを平野富二(富次郎)にゆだね、その委嘱を受けた平野は同年9月、将来の事業展開を東京に開かんとして、市場調査のために、若干の活字を携えて上京。持参した活字のほとんどを販売し、その記念として長崎に帰る直前に撮影したものとみられる。
推定1871年秋(明治4 富二26歳) 平野ホール蔵

写真中) 平野富二肖像写真
1885年(明治18)3月、平野富二は海軍省から一等砲艦を受注して、長年の夢であった軍艦の建造を実現した。また4月には東京築地活版製造所を本木家から独立させて株式組織とした。これらを記念して撮影したものとみられる。

平野富二肖像写真 台紙裏台紙の裏面には一対の鳳凰を配し、上部に「東京印刷局写真」、下部に「PHOTOGRAPH BY INSETUKIOKU」としるした装飾紋が、薄紫紅色で印刷されている。印刷局では1886年(明治19)まで写真館を営業していた。
推定1885年(明治18 富二40歳) 平野ホール蔵

写真下) 平野富二と 指輪が自慢な愛娘との写真
平野富二には、夭逝した琴(コト、古登とも)、家督を相続した津類(左:ツルとも、1870-1941)、漢学者の山口正一郎に嫁した幾み(右:キミとも、1881-1937)の三女があった。
高血圧のため減量中の富二はズボンがだぶついているが、愛娘の間にあって、照れたようにあらぬ方に視線を向けている。娘たちはおめかしをして、指輪が自慢だったようで、てのひらをひろげて指輪をみせている。この写真は病に倒れる前の、愛情溢れる平野富二一家の記念となった。
推定1890年(明治23 富二45歳) 平野ホール蔵

《平野富二がもちいた社章など》
商標01uu

商標02uu

上左) 『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所 平野富二、推定明治10年)にみられる築地活版所の社標で、本木昌造の個人紋章「丸も」のなかに、ブラックレターのHがみられる。ながらくもちいられ、明治17年の新聞広告にも掲載されている。

上右) 東京築地活版製造所の登録商標で、明治19年の新聞広告からみられる。

下左) 平野富二と稲木嘉助の所有船痛快丸の旗章で、装飾文字のHをもちいて、明治11年に届け出ている。

下右) 明治18年石川島平野造船所は商標を制定し、登録した。この商標は『中外物価新報』(日経新聞の前身 明治18年7月7日)に掲載した広告にはじめて示されている。イギリス人御雇技師(アーチボルト・キングか)の発案とされ、「丸も」のなかにカッパープレート系のふとい HT が組み合わされている。

平野富二と活字*06 嫡孫、平野義太郎がのこした記録「平野富二の首證文」

この金を借り、活字製造、活版印刷の事業をおこし
万が一にもこの金を返金できなかったならば
この平野富二の首を差しあげる

(平野義太郎 『活字界 31号』 p.4 昭和46年11月5日)

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。

平野富二使用の印鑑(平野ホール藏)

平野富二使用の印鑑2(平野ホール藏)
平野富二が使用した印鑑二点(平野富二ホール藏)。左)楕円判、右)四角判平野富二がもちいた印鑑二点(平野ホール所蔵)。
左) 平野富二長丸型柄付き印鑑
楕円判のT. J. HIRANO は「富二 平野  Tomiji Hirano」の「富 Tomi  二 Ji」
から T. J. としたものか。初期の東京築地活版製造所では、東京を TOKIO と
あらわしたものが多い。この印判の使用例は見ていない。
右) 平野富二角型琥珀製四角平型印鑑、朱肉ケースつき
四角判の「平野富二」は、朱肉入りケースともよく保存されている。使用に際しては
柄がないために使いにくかったとおもわれる。 

東京築地活版製造所明治10年版2 東京築地活版製造所明治10年版3 東京築地活版製造所明治10年版4 東京築地活版製造所明治10年版5 東京築地活版製造所明治10年版6

平野義太郎氏の写真平野義太郎(1897年3月5日-1980年2月8日)

── ついにあかされた《平野富二首證文》 ──

「平野富二の事蹟=平野義太郎」

『活字界 31号』(全日本活字工業会 昭和46年11月5日)

平野義太郎
平野富二嫡孫、法学者として著名 1897-1980年

★平野富二の事蹟=平野義太郎

平野富二が明治初年に長崎から上京し(当年26歳)、平野活版所(明治5年)、やがて東京築地活版製造所(明治14年)と改称、つづいて曲田成マガタシゲリ氏、野村宗十郎氏が活字改良に尽瘁ジンスイされました。このことを、このたび日本の印刷文化の源泉として建碑して下さったことを、歴史上まことに意義あるものとして、深甚の感謝を捧げます。

  1. 風雲急な明治維新の真只中における、祖父・平野富二の畢生ヒッセイの事業は、恩師である学者、本木昌造先生の頼みを受け、誰よりも早く貧乏士族の帯刀をかなぐり棄てて、一介の平民となって、長崎新塾活版所の経営を担当したことでした。
    そのときすでに販売に適する明朝活字、初号から五号までを完成していました[サイズのおおきな初号、一号活字は、冷却時の熱変形(ヒケ)が大きく、しばらくは木活字を代用とした。鋳造活字としての初号の完成は明治15年ころとされる]。しかも平野は他の同業者に比し、わずか4分の1の1銭で五号活字を売り捌いたということは、製造工程の生産性がいかに高かったかを示すものでした。
  2. さて印刷文化の新天地を東京にもとめ、長崎から東京にたずさえてきた(明治5年7月 当時富二27歳)のは、五号・二号の字母[活字母型。五号と二号は相関性があり、五号の四倍角が二号となる]および、鋳型[活字ハンドモールドのことか]各1組、活字鋳込機械3台[平野活版所には創業時から「ポンプ式活字ハンドモールド」があったとされるが、これを3台を所有していたとは考えにくい。詳細不詳]、ほかに正金壱千円の移転費だけでありました。
    四号の字母[活字母型]は、そのあと別送したものです[四号の四倍角は一号であり、前述の五号・二号との併用には不都合があった]。
    平野は長崎で仕込んだ青年職工・桑原安六以下10名を引きつれて上京、ついに京橋区築地2丁目万年橋際に新工場を建てました(明治6年7月)。そこはいま碑の建てられた場所です。この正金壱千円の大金を、平野はどのようにして調達したのでしょうか。
  3. この正金壱千円の移転費を、長崎の金融機関であった六海社(平野家の伝説では薩摩の豪商、五代友厚)から、首證文という担保の、異例な(シャイロック型の)[Shylock  シェークスピアの喜劇『ヴェニスの商人』に登場する、強欲な金融業者に六海商社を義太郎は擬ナゾラえている]借金をしたのでした。
  4. すなわち、
    「この金を借りて、活字鋳造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金することができなかったならば、この平野富二の首を差し上げる」
    という首證文を担保にした借金だったのである。
  5. 平野活版所は、莫大な費用を投じ、煉瓦建工場を建設(明治7年5月)、つづいて阿州[阿波藩・現徳島県]藩士、曲田成 マガタ シゲリ を社員に任用し、清国上海に派し、あまねく良工をさがしもとめ、活字の種板を彫刻させた ── これが活字改良の第一歩であった。
  6. 曲田成氏という人は、平野富二について、つねに片腕になって活動された人であって、しかも特筆すべきことは明朝活字の改良は、曲田氏の手によってなしとげられたといって[も]過言ではないことである。
  7. 明治14年3月(1881)、築地活版所は[長崎新塾出張活版製造所から改組・改称し]東京築地活版製造所と呼称した。平野は従来の投資になる活版製造所の一切の所有権を、恩師・本木昌造先生の長子、[本木]小太郎社長に譲渡した[平野富二と活字*03【お断り】参照。本木小太郎を専務心得として曲田茂支配人の後見をつけた。本木小太郎は東京築地活版製造所代表としての専務職には就任していない]。
    それで平野は本木先生の信頼にたいして恩義に報いたのであり、また自分は生涯の念願である造船業に全エネルギーを注ぎ込んだ(石川島平野造船所の建設)。

    曲田 茂 マガタ  シゲリ
    阿波徳島の士族出身、幼名岩木壮平、平野富二と同年うまれ
    平野富二が1892年に逝去し、右腕と頼んだ曲田茂もあいついで1894年に客死した。これにより東京築地活版製造所はよき後継者を失い、ほとんどが野村宗十郎の意を受けた官僚出身者が代表者となることが多く、1938年に解散を迎える遠因のひとつとなった。
    弘化3年10月1日-明治27年10月11日(1846-94)

ちなみに、曲田成氏は明治26年、東京築地活版製造所の社長[専務]となり、わずか1ヶ年余の活動ののち、明治27年に死去された。
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この平野義太郎の寄稿のうち、きわめて特徴的かつ注目したい文章が、冒頭と終末部にある。

平野富二が明治初年に長崎から上京し(当年26歳)、平野活版所(明治5年)、やがて東京築地活版製造所(明治14年)と改称、つづいて曲田成マガタシゲリ氏、野村宗十郎氏が活字改良に尽瘁ジンスイされました。このことを、このたび日本の印刷文化の源泉として建碑して下さったことを、歴史上まことに意義あるものとして、深甚の感謝を捧げます。

ちなみに、曲田成氏は明治26年、東京築地活版製造所の社長[専務]となり、わずか1ヶ年余の活動ののち、明治27年に死去された。

ここで平野義太郎は、冒頭と終末部に曲田茂を取りあげ、しかも曲田茂の死去をもってその寄稿文を終えている。
東京帝国大学法学部助教授時代、平野義太郎の婚儀(1923年・大正12年7月20日)には、東京築地活版製造所を代表して野村宗十郎が列席し、その写真記録も『平野嘉智子を偲ぶ』(平野義太郎 1974年12月20日)にのこされている。それでも義太郎は長年にわたって、支配人、専務として、ながらく東京築地活版製造所を専断した野村宗十郎には、好感はいだかなっかったであろうことは容易に察しがつく。

そのために、冒頭に「曲田成マガタシゲリ氏、野村宗十郎氏が活字改良に尽瘁ジンスイされました」と述べたものの、文中では、
「平野活版所は、莫大な費用を投じ、煉瓦建工場を建設(明治7年5月)、つづいて阿州[阿波藩・現徳島県]藩士、曲田成 マガタ シゲリ を社員に任用し、清国上海に派し、あまねく良工をさがしもとめ、活字の種板を彫刻させた ── これが活字改良の第一歩であった」
「曲田成氏という人は、平野富二について、つねに片腕になって活動された人であって、しかも特筆すべきことは明朝活字の改良は、曲田氏の手によってなしとげられたといって[も]過言ではないことである」
として、冒頭の一句をのぞき、それ以後野村宗十郎の名をあげることはなかった。また曲田茂が客死したあとに、支配人・野村宗十郎が迎えた名村泰蔵専務(社長格)らの名をあげることもなかった。
そして終末に曲田茂の死去をもって唐突に文章を終えている。

すなわち鋭敏な義太郎は、東京築地活版製造所に隣接した平野家から、東京築地活版製造所、支配人、専務としての野村宗十郎の専断を苦苦しいおもいでみていたのではないかと想像している。したがって祖父:平野富二による活版印刷関連機器の製造販売は、嫡孫:義太郎にとっては、曲田茂が旅先に客死した1846年(明治27)をもって終わりとみなしていたのではなかろうか。

碑前祭厳粛に挙行 活字発祥記念碑竣工から1年

『活字界 34号』(全日本活字工業会 昭和47年8月20日)

「活字発祥の碑」の建碑がなり、その除幕式を記録した『活字界 30号』(昭和46年8月15日)の記録は、B5判わずかに2ページであった。そこにはおおきな戸惑いと困惑がみられたことは、前回の《平野富二と活字*05》で報告した。

それでも除幕式を終えてからも『活字界』、とりわけ編集長であった中村光男氏は積極的に取材を重ね、周辺情報と、人脈を掘りおこしていた。
なかでも毎日新聞技術部の古川恒の紹介をえて、平野富二の嫡孫・平野義太郎の知遇を得たことが、中村光男氏にとっては、井戸のなかから大海にでたおもいがしたようである。

驚くかもしれないが、そもそも平野富二の嫡孫であり、また元東大法学部助教授の俊才として名を馳せた、高名な法学者・平野義太郎が、東京都内に現住していることは、当時の活字業界人は知らなかった。
その次第はあらかた『富二奔る ―― 近代日本を創ったひと・平野富二』(片塩二朗 朗文堂 2002年12月3日)にしるした。そのもととなったのは、端的にいえば、天下の悪法・治安維持法のためであった。

ここに登場した平野義太郎には膨大な著作があるが、義太郎の詳細な評伝も刊行されている。
東大時代の教え子たちによってあまれた『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)は微に入り細をつくものであり、恩師にたいする敬愛の情にあふれている。
また広田重道編著による『稿本 平野義太郎評伝 上』(1974年9月30日)もある。
この広田重道というひとは詳らかにしないが、おそらく平野義太郎の教え子のひとりとみられ、物心ともに平野家の支援をうけての本格刊行準備だったとおもわれる。


『稿本 平野義太郎評伝 上』は、「稿本」とはいえ、当時の和文タイプライターの印字物を版下とした「軽印刷」方式により、B5判192ページにおよぶ印刷物としてのこされた。いまなお平野ホールにはこの「稿本」が20冊以上包装状態のままのこされているが、下巻はみていない。
一応【ウキペディア:平野義太郎】にリンクをもうけたが、平野義太郎にご関心のあるかたは、できるだけ前出の書物をご参照願いたい。
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この一連の投稿のうち《平野富二と活字*01》で、牧治三郎が筆者に述べたことばを紹介した。

牧治三郎とは、東京築地活版製造所の第四代社長・野村宗十郎(1857-1925)の評価についてしばしば議論を交わした。
筆者が野村の功績は認めつつも、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所設立者、平野富二にこだわるのを、
「そんなことをしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ」
とたしなめられることが多かった(『富二奔る』片塩二朗)。

ギタサンとは俗称で、ようやくここに登場した平野富二の嫡孫、平野義太郎(ヨシタロウ、法学者、1897-1980)のことである。
ここでは初出にあわせて「たしなめられる」としたが、その実際は、度のつよいメガネ越しに、眼光鋭く、ねめつけるように、執拗に繰りかえしたことばである。

つらい指摘ではあるが、牧治三郎は筆者に向けてばかりでなく、少なくとも印刷・活字業界において、平野富二研究に手がおよぶことを避けさせるために、活字版印刷術の始祖として本木昌造を過剰に称揚し、中興の祖として野村宗十郎の資料を集中して発表していた。
また、ときとひとを選んで、相当の金額で、それら平野富二関連以外の資料の販売もしていたのである。そのひとりに、物故した平野富二の曾孫のおひとりがあり、その関連書簡は平野ホールに現存している。その発表の是非は、平野家のご判断をまつしかない。
牧治三郎の蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」とはそういうものであったことを辛いおもいで振りかえる。前章の最後に「重い気分でいる」としたのは、牧治三郎のこうした知られざる一面をしるすことになるからである。
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すなわち牧治三郎は、平野義太郎を赤化した人物とみていた。昭和10-30年ころまでは、それは一部からは危険人物とほぼ同義語としてもちいられていた。
そしてその祖父、平野富二はあまりにその存在がおもくておおきく、その業績の偉大さが理解できないあまり、これも危険人物とみなしていたのが牧治三郎であった。
     

牧  治 三 郎  まき-じさぶう
67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)―2003年(平成15)歿。

1900年(明治33)5月 新潟県新発田市にうまれる。
1916年(大正5)7月 東京印刷同業組合書記採用。
1923年(大正12)7月 日本大学専門部商科卒業。
以来、印刷倶楽部、印刷協和会、印刷同志会、東京印刷連盟会、大日本印刷業組合連合会、東京印刷協和会、東京洋紙帳簿協会、東京活字鋳造協会などの嘱託書記を経て、昭和13年7月退職。
京橋区[中央区湊三丁目3-8-7]で印刷材料商を自営していた。

そんな赤化をおそれる社会風潮を利用して、
 「そんなこと── 平野富二研究 ── をしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ」
と、炯炯とした眼光で相手をにらみつけ、牧治三郎は平野富二の研究者にたいして、始祖としての本木昌造を過剰に評価し、中興の祖として野村宗十郎を称揚することによって、その前に巧妙に立ちふさがって存在していたのである。

もちろん当時50代になっていた筆者は、唯唯諾諾としたがうことはなく、こう牧治三郎に反論した。
「わたしは平野義太郎さんが、社会主義者であろうが、共産主義者であろうが、一向に驚きませんし、前から「講座派」の中心人物として、お名前とお顔くらいは知っていました。それに、たとえ孫の義太郎さんがそういう思想をもち、悪法だったことがあきらかな、治安維持法による逮捕歴をもっていたとしても、祖父たる平野富二の評価にはまったく関係ありません」
牧治三郎は、吐きすてるように答えた。
「おまえは、甘いんだ。ギタサンはアカなんだぞ。どうなっても知らねぇぞ」

このときは牧治三郎の荒涼たる精神風景の一端をみるおもいだった。
ここで一気に牧治三郎の果たした隠された役割 ── 昭和13-20年にわたり、変体活字廃棄運動と印刷企業整備令においてなした牧治三郎の役割を分析したいおもいがあるが、もうすこし醸成させたい面もあるし、変体活字廃棄運動の取材でおたずねした90翁がご健在で、その再取材も待ちたいところである。

暗い井戸をのぞくようなきもちになるが、その役割をきわめて簡略にしるすと、牧治三郎にとっては、本木昌造はすでに神話化した存在であり危険性は無かった。野村宗十郎は官僚出身で、印刷業界には関心が乏しく、ほとんど業界事情に無知であることを見抜いていた。
したがって東京築地活版製造所創業者の平野富二の多方面にわたる業績さえ封印すれば、東京築地活版製造所そのものが、たんなる活字製造業者として矮小化されて評価されることになる。そうすれば牧治三郎にとっての東京築地活版製造所とは、みずからが扱いやすい、卑小な存在になることを見抜いていた。

そうすることによって、平野富二がなしとげた、石川島造船所の創立、港湾・土木・鉄道敷設・航路開発など、わが国の近代化にはたした大きな役割もかすむことになり、それがひいては、変体活字廃棄運動や、印刷企業整備令にもとづいて行動した、この時期のみずからの行蔵を封印することをはかっていたのであろうか……。

 「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」『日本印刷大観』
(東京印刷同業組合 昭和13年8月20日)
四六倍判 本文848ページ 凸版・凹版・平版・孔版など各種印刷版式使用 上製本
印刷同業者組合の内部文書などは別として、牧治三郎がはじめて本格的な著述をのこしたのは『日本印刷大観』である。同書には広告や差し込みページが多いが、その本文848ページのうち、「印刷の起源及び発達」239ページ、28%ほどを庄司浅水が記述し、のこりの590ページ、69%ほどを「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」として牧治三郎が記述している。
牧は『日本印刷大観』刊行の直前に、東京印刷同業組合の職をはなれた。

この『京橋の印刷史』が牧治三郎の主著といえば主著といえるのかもしれない。しかしながら本書はおよそ印刷同業組合の一支部がつくるような資料とはいえないほどの、広汎な内容とボリュームをもつ。また背文字・表紙・スリップケースに著者名も発行者名も無く、ただ書名の『京橋の印刷史』だけがポツンとしるされた書物である。その異常といえば異常な書物が『京橋の印刷史』である。

東京都印刷工業組合京橋支部というちいさな組織があった。その創立50周年記念事業として『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部 五十周年記念事業委員会 昭和47年11月12日 p.799)がのこされている。最終ページ、刊記と同一ページにある「あとがき」に、同誌編集委員の萩野義博氏(文中では 「萩」)がこうしるしている。

この印刷史を刊行する話があったのは昨年[昭和46]早春の部長会であった。四月の定例会に諮り、満場一致の賛成を得、直ちに印刷史実に造詣の深い牧治三郎氏にすべてお願いすることにした。
その後牧氏の資料の中に、京橋支部が昭和六年に創立十周年式典を行っているから、今年は丁度五十周年になるとの話があった。そこで支部の五十周年事業について、支部の元老・長老にご出馬を願い、高橋元老を会長として五十周年記念事業委員会を結成、発足することになった。

『京橋の印刷史』はB5判上製本、活字原版刷り、800ページにおよぶ大著である。それを機関決定からわずかに20ヶ月、きわめて短時日で刊行した、乃至はさせられた、「東京都印刷工業組合京橋支部」の執行部のおもいとは、奈辺にあったのだろう、とおもう。

同書刊記(奥付)には「発行者 高橋与作」とある。萩野義博氏のいう「高橋元老を会長とし」として紹介された高橋与作(與作)とは、昭和13年「変体活字廃棄運動」の提唱者として『印刷雑誌』に登場し、愛書家、活字狂を自認していたアオイ書房・志茂太郎と激しく衝突した人物である。
また筆者も『活字に憑かれた男たち』のなかなどでもしばしば触れている人物である。
ありし日の志茂太郎志茂太郎肖像写真(1900-80)

平野富二と活字*05 ついに驟雨のなかに迎えた『活字発祥の碑』除幕式 

『活字発祥の碑』 除幕式挙行、なぜか剣呑なふんいきがおおった除幕式の会場、そしてついに、周旋役の座を追われた牧治三郎

同書「あとがき」と、刊記にのみ「著者 牧治三郎」とある。こういう書物には珍しいことであるが、表紙・扉・スリップケースなどには、一切「著者 牧治三郎」の名前は登場しない。
牧は新潟から幼少のときに上京して、終生京橋(現・東京都中央区)に居住していた。また圭角がめだち、自己主張のつよい人物であったが、つねに韜晦のふうもみられた。
そしてまた、高橋与作も京橋に居住して「変体活字廃棄運動」を主唱した人物である。

このことを牧治三郎に直接ただしたことがあった。返答はひとことだった。鮮明に記憶し、記録している。
「そりゃ、京橋の印刷屋には、活字の没収や企業整備令でずいぶん手加減してやったからな。あのくらいやってもらっても、あたりまえだ」
しばしのご猶予をいただきたいとするゆえんである。
──────────
『活字界 34号』(昭和47年8月20日)は、落成・除幕式の折の陰鬱な記録『活字界 30号』(昭和46年8月15日)2ページとはまったく様相を異とし、── 「活字発祥の碑」建碑・序幕から1年、碑前祭の記録 ―― が、全8ページのうち、表紙1, 4をのぞく6ページをもちいて、中村光男氏の弾み立つような文章に溢れている。

また平野義太郎は、主賓としてこの会にまねかれ、先に紹介した寄稿記事「平野富二の事蹟=平野義太郎」『活字界 31号』(全日本活字工業会 昭和46年11月5日)から、「平野富二首證文」のはなしを、平野家につたわる伝承として、列席者のまえで「平野富二のエピソード」として開陳した。

《碑前祭厳粛に挙行 活字発祥の碑竣工から1年、碑前祭の記録》

[昭和47年]6月29日午後3時から、東京・築地懇話会館前の「活字発祥記念碑」の前に関係者など多数が出席して碑前祭が行われた。
[全日本活字]工業会では昨年6月29日、各界の協力を得て旧築地活版所[東京築地活版製造所]跡に「活字発祥記念碑」を建立した。この日はそれからちょうど1周年の記念日に当たる。

碑前祭には、全印工連[全国印刷工業組合連合会]新村[長次郎]会長、日印工[日本印刷工業会]佐田専務、東印工組[東京印刷工業協同組合]伊坂理事長、全印工連[全国印刷工業組合]井上[計]専務、懇話会館・山崎[善雄]社長、同坂井支配人、同八十島[耕平]顧問、全印機工[全日本印刷機製造工業会]安藤会長はじめ、毎日新聞・古川恒氏、平野義太郎氏(平野富二翁令孫)、牧治三郎氏(印刷史評論家)など来賓多数も列席、盛大な碑前祭となった。

碑前祭は厳粛に行われ、神主が祝詞をあげ、渡辺[宗助、全国活字工業会]会長を先頭に新村会長、伊坂理事長とつぎつぎに玉串を捧げた。

懇話会館入口では出席者全員に神主から御神酒が配られ、この後は同会館の13階のスヱヒロで記念パーティが行われた。渡辺[宗助全日本活字工業会]会長はパーティに先立って挨拶し、その中で
「ホットとコールド[金属活字と写植活字]は全く異質なものであり、われわれは今後とも[金属]活字を守り、勇気をもって努力していきたい」
と語った。つづいて挨拶に立った全印工連新村[長次郎]会長は、
「活字があったればこそ、今日の[印刷業の]繁栄があるのであり、始祖を尊ぶ精神と、活字が果たしてきた日本文化の中の役割を、子孫に伝えなければならない」
と活字を讃えた。

また、和やかな交歓が続くなかで、日本の活字発祥の頃に想いをはせ、回顧談や史実が話された。毎日新聞社史編集室の古川[恒]氏は、グーテンベルグ[ママ]博物館の話を、平野義太郎氏はそのご子息と一緒に出席、祖父について同家に伝わるエピソードを披露した。牧治三郎氏からは本木昌造翁、平野富二翁、ポイント制を導入して日本字のポイント活字を鋳造・販売し、その体系を確立した野村宗十郎翁などを中心に、旧築地活版所の歴史を回顧する話があった。

活字をめぐる情勢は決して良いとはいえないが、こうして活字業界の精神的な柱ともいうべき碑ができ上がったことの意義が、建立から1年を経たいま、確かな重さで活字業界に浸透していることをこの碑前祭は示していたようだ。

平野義太郎氏挨拶――生命賭した青雲の志

私はここで[晴海通り側からみて、懇話会館ビル奥のあたりが平野家であった]生まれましたが、平野富二はここで死に、その妻、つまり私の祖母[古ま・駒 1852-1911]もここで死んでおります。その地に碑を建てられ、今日またここにお集まりいただいた活字工業会の方々をはじめみなさまに、まず御礼を申し上げます。

エピソードをなにか披露しろということですので、平野富二が開国直後の明治5年に東京へ出てくる時の話をご紹介します。この時、門弟を4-5人連れて長崎から上京したのであるが、資本がないし、だいたい上京の費用がない。
そこで当時の薩摩の豪商[五代友厚を意識しての発言とみられる]に、
「もし返さなかったらこの首をさし上げる」
といって借金をした[という]話が、私の家に伝わっております。それくらいに一大決意で[活字版印刷術製造の事業を]はじめたということがいえましょう。本木昌造先生の門弟としてその委嘱を受けて上京、ここではじめて仕事を始めたということです。     [この項つづく]

平野富二と活字*05 ついに驟雨のなかに迎えた『活字発祥の碑』除幕式

『活字発祥の碑』 除幕式挙行
なぜか剣呑なふんいきにおおわれた除幕式の会場
そしてついに、周旋役の座を追われた牧治三郎

平野富二と娘たちuu

『活字発祥の碑』20131014180912139_0002

パンフレット『活字発祥の碑』 編纂・発行/活字の碑建設委員会
昭和46年06月29日 B5判 28ページ 針金中綴じ
表紙1-4をのぞき 活字版原版印刷
『活字発祥の碑』落成披露時に関係者に配布された。 

『活字界』合本。

『活 字 界』
発行/全日本活字工業会 旧在:千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年06月01-終刊80号 昭和59年05月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判8ページ  無綴じ  活字版原版印刷

01号―40号/編集長・中村光男
41号―56号/編集長・谷塚  実
57号―75号/編集長・草間光司
76号―80号/編集長・勝村  章
編集長を交代後した昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる
昭和59年までは、全日本活字工業会の専務理事を務めていた。
このころ筆者は吉田市郎氏の紹介を得て、事務局を数度訪問した。
────
『活字界』はパンフレット状の業界内に配布された機関誌で、残存冊子、なかんずく
全冊揃いはほとんど存在しないが、中村光男氏が2分冊に合本して保存されており、
それを個人所有しているものを拝借した。

★     ★     ★

活字発祥の碑建設のいきさつ

パンフレット『活字発祥の碑』(『活字発祥の碑』建設委員会 p.14-15 昭和46年8月)

この中綴じの小冊子は、1,500部ほどが用意され『活字発祥の碑』除幕式に際して

来場者と全国活字工業会会員に配布された。
執筆者は専務理事にして『活字界』編集長、中村光男氏とされる。 

長崎[諏訪公園]には本木昌造翁の銅像があり、また、大阪には記念碑[四天王寺境内・本木氏昌造翁紀年碑]が建立され、毎年碑前祭などの行事が盛大に行なわれておりますが、印刷文化の中心地といえる東京にはこれを現わす何もなく、早くから記念碑の建設、あるいは催しが計画されていましたが、なかなか実現するまでに至りませんでした。
本木昌造銅像 長崎諏訪公園
大阪四天王寺内 本木昌造銅像「日本鋳造活字始祖」

谷中霊園 平野富二墓標前。掃苔会。 大阪四天王寺本木昌造銅像
上) 長崎市諏訪公園の広場にある『本木昌造翁像』
下) 大阪市四天王寺境内にある『本木氏昌造翁紀年碑』。台座には何礼之(ガ-レイシ 1840-1923)による撰文、吉田晩稼(1830-1907)の筆になる勇壮な大楷書による碑文が刻されている。台座の篆書は『日本鋳造活字始祖』とある。東京谷中霊園にある『平野富二墓』も、吉田晩稼の筆による。

長崎の『本木昌造翁像』は、戦前に座像の銅像として建立されたが、時局下の金属供出令で失ったものを、戦後に再建した。幸い戦前の座像の成形鋳型が保存されていたので、「本木昌造活字復元プロジェクト」に際し、印刷博物館によって再鋳造されて披露された。

大阪四天王寺の『本木氏昌造翁紀年碑』も、明治後期に建造されたが、やはり時局下の金属供出例で、台座をのこして1943年(昭和18)に失われた。1952年(昭和27)「本木先生頌徳記念碑」が再建され、さらに1985年(昭和60)に「大阪府印刷工業組合」と、築地の『活字発祥の碑』とおなじ「全日本活字工業会」が中心となって奔走して、現在の士装の旅姿の立像に戻った。(『本木昌造先生銅像復元記念誌』大阪府印刷工業組合 昭和60年9月30日)。

本木昌造先生銅像復元記念誌

こうした中にあった、活字発祥の源である東京築地活版製作所の建物が、昭和44年[1969]3月取壊わされることになり、[同社の]偉大なる功績を[が]、この建物と共に失われていく[ことを危惧する]気持ちをいだいた人が少なくなかったようであります。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「[東京築地活版製造所  旧]社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

ちょうどこの年[昭和44年、1969]は、本木昌造先生が長崎において、上海の美華書館、活版技師・米国人ウイリアム・ガンブル氏の指導を受けて、電胎母型により近代活字製造法を発明[活字母型電鋳法、電胎法活字母型は、すでにアメリカで開発されものを移入したもので、わが国の、あるいは本木昌造の発明とはいいがたい]してから100年目にあたる年でもありました[ガンブルの滞在期間には諸説ある。長崎/本木昌造顕彰会では、興善町唐通事会所跡(現・長崎市市立図書館脇)の記念碑で、明治2年(1869)11月-翌3年5月の半年あまりの間に、ここで伝習がおこなわれたとする。したがってこの年はたしかに伝習後100年にあたった]。

この年[昭和44年、1969]の5月、箱根で行なわれた全日本活字工業会総会の席上、当時の理事・津田太郎氏[1908-不詳]から、[『活字界 第21号(昭和44年5月発行)、第22号(昭和44年7月発行)[5月の時点では予定稿か]、「[東京築地活版製造所  旧]社屋取壊しの記事」と予定稿をうけて]東京築地活版製造所跡の記念碑建設についての緊急提案があり、全員の賛同を得るところとなりました。

その後、東京活字協同組合理事長(当時)渡辺初男氏は、古賀[和佐雄]会長、吉田[市郎、全国活字工業会東京]支部長、津田[太郎]理事らと数回にわたって検討を重ね、記念碑建設については、ひとり活字業界だけで推進すべきではないとの結論に達し、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会(現印刷工業会)、東京都印刷工業組合の印刷団体に協賛を要請、[それら諸団体の]快諾を得て、[活字鋳造販売業者と印刷業者の]両業界が手をとりあって建設へ動き出すことになったのです。

そして[昭和44年、1969]8月13日、土地の所有者である株式会社懇話会館へ、古賀[和佐雄]会長、津田[太郎]副会長、渡辺[初男]理事長と、印刷3団体を代表して、東印工組[東京都印刷工業組合]井上[計ケイ のち参議院議員 民社党 → 新進党 1919-2007]副理事長が、八十島[耕作]社長に、記念碑建設についての協力をお願いする懇願書をもって会談、同社長も由緒ある東京築地活版製造所に大変好意を寄せられ、全面的なご了承をいただき、建設への灯がついたわけです。

翌昭和45年[1970]6月、北海道での全日本活字工業会総会で、記念碑建設案が正式に賛同を得、7月20日の理事会において、発起人および建設委員を選出、8月21日第1回の建設委員会を開いて、建設へ本格的なスタートを切りました。

同委員会では、建設趣旨の大綱と、建設・募金・渉外などの委員の分担を決めるとともに、募金目標額を250万円として、まず、岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになりました。

翌昭和45年[1970]9月、津田[太郎]建設委員長、松田[友良]、中村[光男 中村活字店]、後藤[孝]の各委員が岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行ない、ついで、9月18日、第2回の委員会を開いて建設大綱などを決め、業界報道紙への発表と同時に募金運動を開始、全国の印刷関連団体および会社、新聞社などに趣意書を発送して募金への協力を懇請しました。

同年末、懇話会館に記念碑の構想図を提出しましたが、その後建設地の変更がなされたため、同原案図についても再検討があり、[新]懇話会館のビルの設計者である日総建の国方[秀男]氏によって、ビルとの調和を考慮した設計がなされ、1月にこの設計図も完成、建設委員会もこれを了承して、正式に設計図の決定をみました。新しい設計は、当初2枚板重ね合わせたものであったのを1枚板とし、その中央に銅鋳物製の銘板を埋め込むことになりました。

また、表題は2月4日の理事会で「活字発祥の碑」とすることに決まり、碑文については毎日新聞の古川[恒ヒサシ、技術部 1910-86]氏の協力を得、同社[毎日新聞社]田中会長に2案を作成して、その選定を依頼、建立された記念碑に掲げた文が決定したわけです。

なお、表題である「活字発祥の碑」の文字については、書体は記念すべき築地活版の明朝体を旧書体[旧字体]のまま採用することとしましたが、これは35ポイントの[活字]見本帳(昭和11年改訂版)[東京築地活版製造所が35ポイントの活字を製造した記録はみない。36ポイントの誤りか?]で、岩田母型[元・岩田活字母型製造所の残存会社のことか。岩田母型製造所は業績不振のために、すでに1968年(昭和43)に倒産していた]のご好意によりお借りすることができたものです。

また、記念碑は高さ80センチ、幅90センチの花崗岩で、表題の「活字発祥の碑」の文字は左から右へ横書きとし、碑文は右から左へ縦書きとし、そのレイアウトについては、大谷デザイン研究所・大谷[四郎・故人。日本レタリング協会 → 現:日本タイポグラフィ協会の創立者。羽衣(リョービ → タイプバンク)、曲水、千草などの書体をのこした]先生の絶大なご協力をいただきました。

ありし日の志茂太郎『活字発祥の碑』の建立に際し、西部地区(岡山)から個人の資格で、ただひとり拠金した志茂太郎を紹介したい。
活字と書物を愛しぬいた「漢」おとこ、志茂太郎(1900-80)。戦前は中野区で伊勢元酒店を経営するかたわら、個人出版社「アオイ書房」をもうけて、愛書誌『書窓』シリーズをはじめ、フォトティポ手法による『サボテン島』、民間出版物では最初期での使用例、写真植字法 → オフセット平版印刷による『夏の手紙』、本格銅版印刷の
『地上の祭』などの記録にのこる書物をのこした。
時局下の「変体活字廃棄運動」に猛然と抵抗し、東京をおわれて郷里の岡山県久米南町山城 クメナンチョウ-ヤマノジョウ にもどった。

戦後は志茂の造語「書票」をもって「書票協会」を設立して活動をつづけた。友人には「岡山の田舎で肥桶を担いでいる」としたためていたが、実際には東京田園調布にも当時から屋敷を構えるほどの資産家でもあった。この書票協会はのちの雑誌『銀花』につらなった。
宏大な山城ヤマノジョウにはいまも番地は無く、あたり一帯が志茂家の所有であった。その一画、志茂家墓地に、晩夏に大輪の花を一斉につけるトロロアオイの花【リンク:朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち】につつまれてねむる(『活字に憑かれた男たち』片塩二朗、朗文堂)。

かつて山城の旧志茂邸(現在は住居部分は取り壊されている)をたずねたおり、再訪を10月初旬の早朝にもう一度……と、同家をあずかる志茂公子氏に慫慂された。その再訪時には、墓地一面にトロロアオイの花が絢爛と咲きほこっていた。それ以来やつがれはベランダ野艸園でトロロアオイを育てつづけている。
ことしは気候が不順だったためか、下掲の写真の花は2013年10月6日に開花したが、もう一鉢は間もなく開花しそうな勢いである。活字と書物に真摯にとり組み、この花を愛でた志茂太郎のこころがおもいおこされる季節である。
晩夏に大輪の花をつけるアオイ
岡山県久米南町山の城、志茂家専有墓地にある志茂太郎の墓地。
一方、建設基金についても、全国の幅広い印刷関連業界の団体および会社と、個人[p20-21 「建設基金協力者御芳名」によると、個人で基金協力したのは東部地区/中村信夫・古川恒・手島真・牧治三郎・津田藤吉・西村芳雄・上原健次郎、西部地区/志茂太郎 計8名]からもご協力をいただき、目標額の達成をみることができました。誌上を借りて厚くお礼を申しあげます。なお、協力者のご芳名は、銅板に銘記して、碑とともに永遠に残すことになっております。

こうして建設準備は全て整い、銘板も銅センターの紹介によって菊川工業に依頼、この5月末に完成、いよいよ記念碑の建設にとりかかり、ここに完成をみたわけであります。

名古屋・津田三省堂 右)初代津田伊三郎(在米中のもの)、左)二代津田太郎名古屋の活字商:津田三省堂 右)創業者:津田伊三郎(在米中に撮影 1869-1942)、左)第2代:津田太郎(1908-不詳)。津田太郎の従兄弟イトコにして養女:津田幸子氏提供。

なお、建設委員会発足以来委員長として建設へ大きな尽力をされました津田太郎氏が、この4月に全日本活字工業会長の辞任と同時に[高齢のため、『活字発祥の碑』建設委員会委員長の職も]退任されましたが、後任として5月21日の全国総会で選任されました、渡辺宗助会長[民友社活字製造所代表]が[『活字発祥の碑』建設]委員長を継承され、つつがなく除幕式を迎えることができました。

私ども[活字発祥の碑建設]委員会としては、この記念碑を誇りとし、精神的な支えとして、みなさんの心の中にいつまでも刻みこまれていくことを祈念しております。また、こんご毎年なんらかの形で、碑前祭を行ないたいと思っております。
最後に重ねて「活字発祥の碑」建立へご協力いただきましたみなさま方に、衷心より感謝の意を表する次第であります。

★     ★     ★

パンフレット『活字発祥の碑』から、簡潔にして要を得た「活字発祥の碑建設のいきさつ」を紹介した。
また、この『活字発祥の碑』序幕の時点では、長らく活字工業会の重鎮として要職にあった、株式会社千代田活字製造・古賀和佐雄(1898-1979)は、渉外委員としてだけ名をのこしている。
戦後まもなく、欧文活字の開発から急成長し、東京活字協同組合をリードしてきた、株式会社晃文堂・吉田市郎(1921-)は、すでにオフセット平版印刷機製造と、当時はコールド・タイプと称していた、写植活字への本格移行期にはいっていた。

そのために吉田市郎は活字発祥の碑建設委員会では建設委員主任として名をのこしていた。吉田氏は戦後に欧文活字の鋳造からスタートしたために、造形界にも知人が多かった。したがって『活字発祥の碑』碑文を、東京築地活版製造所の活字見本帳を参考に書した大谷四郎を起用したのは吉田市郎であり、ここまでの筆者の記述をよく助けてもいただいた。
また、全日本印刷工業組合連合会専務理事、全国中小企業団体中央会理事などを歴任して、のちに参議院議員となった井上  計(1919-2007)、印刷業界誌出身の編集者:三浦  康氏(生没年不詳)なども、みな吉田市郎氏からの紹介であった。
これらのひとの口の端から漏れでたことばを、ひとつひとつ牧治三郎と筆者はかたりあってきた。

若き日の吉田市郎氏

活版印刷にツキせぬ愛着をお持ちの吉田市郎氏吉田市郎氏(1921-2014)。上) リョービ印刷機販売社長時代の吉田市郎氏。
下) アダナプレス倶楽部《活版ルネサンス》にご来場時のもの。
新潟県出身。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。卒業後三井物産に就職したが、まもなく召集されて軍役につく。
召集解除後まもなく、神田鍛冶町に「晃文堂」を設立し、1970年代に広島の菱備製作所と合弁で「リョービ印刷機販売 → リョービイマジクス」を設立してその社長、会長としてながらく経営にあたった。タイポグラフィ学会「平野富二賞」を受賞している。

現在は悠悠自適の日日を過ごされているが、やつがれが頭の上がらないおひとりが吉田市郎氏である。

つまり、古賀和佐雄・吉田市郎らの、高学歴であり、事業所規模も比較的大きな企業の経営者は、活字鋳造界の衰退を読み切って、すでに隣接関連業界への転進をはかる時代にさしかかっていたのである。これを単なる世代交代とみると、これからの展開が理解できなくなる。

また11ヶ月にわたったこの「活字発祥の碑」建立のプロジェクトには、活字鋳造販売業界、印刷業界の総力を結集したとされるが、奇妙なことに、ここには活字鋳造所とは唇歯輔車 シンシホシャ の関係にある、活字母型製造業者の姿はほとんどみられない。
その主要な原因は既述したが、いわゆる日本語モノタイプ(自動活字鋳植機)などの急速な普及にともない、活字母型製造業者が過剰設備投資にはしったツケが生じ、業績が急速に悪化し、すでに昭和43年(1968)、活字母型製造業界の雄とされた株式会社岩田活字母型製造所が倒産し、同社社長・岩田百蔵が創設以来会長職を占めていた「東京活字母型工業会」も、事実上の破綻をきたしていたためである。

連載1回目で、吉田市郎のことばとして紹介した、
「われわれは、活字母型製造業者の冒した誤りを繰りかえしてはならない」
としたのがこれにあたる。
ただし岩田活字母型製造所は倒産したものの、各支店がそれぞれ、ほそぼそながらも営業を続けていた。したがって活字母型製造業者は、かつての「東京活字母型工業会」ではなく、「東京母型工業会」の名称で、わずかな資金を提供した。
また、旧森川龍文堂・森川健一が支店長をつとめた「岩田母型製造所大阪支店」は、本社の倒産を機に分離独立して、大阪を拠点として営業をつづけた。同社は「株式会社大阪岩田母型」として、単独で資金提供にあたっていた。

『活字発祥の碑』
「活字発祥の碑」完成 盛大に除幕式を挙行

『活字界 30号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年8月15日)

ここからはふたたび、全日本活字工業会機関誌『活字界』の記録にもどる。
建碑とその序幕がなったあとの『活字界 30号』(昭和46年8月15日)には、本来ならば華やかに「活字発祥の碑」序幕披露の報告記事が踊るはずであった。

しかし同号はどこか、とまどいがみえる内容に終始している。
肝心の「活字発祥の碑」関連の記事は「活字発祥の碑完成、盛大に除幕式を挙行」とあるものの、除幕式の折の驟雨のせいだけではなく、どことなく盛り上がりにかけ、わずかに見開き2ページだけの簡単な報告に終わっている。

それだけではなく、次の見開きページには、前会長・古賀和佐雄の「南太平洋の旅――赤道をこえて、南十字星きらめくシドニーへ、時はちょうど秋」という、なんら緊急性を感じさせない旅行記を、2ページにわたってのんびりと紹介している。

そして最終ページには《「碑」建設委員会の解散》が、わずか15行にわたって記述されている。
この文章はどことなく投げやりで、いわばこの事業に一刻も早くケリをつけたいといわんばかりの内容である。

《「活字発祥の碑」完成 盛大に除幕式を挙行》

《リード》
「活字発祥の碑」除幕式が、[昭和46年 1971]6月29日午前11時20分から、東京・築地の建立地[東京都中央区築地2丁目13番22号、旧東京築地活版製造所跡地]において行なわれた。この碑の完成によって、印刷文化を支えてきた活字を讃える記念碑は、長崎の本木昌造翁銅像、大阪の記念碑を含めて三体となったわけである。中心となって建立運動を進めてきた全日本活字工業会、東京活字協同組合では、今後毎年記念日を設定して碑前祭を行なうなどの計画を検討している。

 《本文》
小雨の降る中、「活字発祥の碑」除幕式は、関係者、来賓の見守るうちに、厳粛にとり行なわれた。
神官の祝詞奏上により式は始まり、続いて築地活版製造所第4代社長、野村宗十郎氏の令息雅夫氏のお孫さん・野村泰之君(10歳)が、碑の前面におおわれた幕を落とした。

 拍手がひとしきり高くなり、続いて建設委員長を兼ねる渡辺[宗助]会長、松田[友良]東活協組理事長、印刷工業会・佐田専務理事(室谷会長代理)、株式会社懇話会館・山崎[善雄]社長がそれぞれ玉串をささげた。こうして活字および印刷業界の代表者多数が見守る中で、印刷文化を支えてきた活字を讃える発祥の記念碑がその姿をあらわした。
参列者全員が御神酒で乾杯、除幕式は約20分でとどこおりなく終了した。

 《「碑」建設委員会の解散》 最終ページp.8に全15行で、ちいさく紹介されている。
発祥の碑建設委員会は[昭和]45年8月に第1回目の会合を開き、それから約11ヶ月にわたって、発祥の碑建設にかかるすべての事業を司ってきたが、7月13日コンワビルのスエヒロで最後の会合を持ち解散した。

最後の委員会では、まず渡辺[宗助]委員長が委員の労をねぎらい、「とどこおりなく完成にこぎつけることができたのは、ひとえに業界一丸となった努力の賜である」と挨拶。
引き続き建設に要した収支決算が報告され、また今後の記念碑の管理維持についての討議、細部は理事会において審議されることになった。

もともと華やかであるべき「活字発祥の碑」の除幕式が、こうなってしまった原因は、驟雨の中で執り行われた除幕式の人選であった。
神主に先導され、東京築地活版製造所第四代社長の子息、野村雅夫氏夫妻と、同氏の弟の服部茂氏がまず登場した。この光景を多くの参列者は小首をかしげながらみまもった。
そしてあどけない挙措で序幕にあたったのは、野村宗十郎の曾孫ヒマゴ、泰之(当時10歳)であった。
その介添えには、終始牧治三郎がかいがいしくあたっていた。

おりからの驟雨のなか、会場に張られたテントのなかで、東京築地活版製造所第四代代表、野村宗十郎の曾孫・野村泰之少年がまだ幼さののこる表情で幕を切って落とした。その碑面には以下のようにあった。ふたたび、みたび紹介する。

特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に

『活字界 第28号』 全日本活字工業会 昭和46年3月15日)


昨年[1970年 昭和45]7月以来、着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。
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除幕式の会場となったテントのあちこちで漏れた囁きは、しだいに波紋となって狭い会場を駆け巡った。
参列者の一部、とりわけ東京築地活版製造所の元従業員からは憤激ももれていた。
その憤激の理由は簡単であり単純である。除幕された碑面には野村宗十郎の「の」の字もなかったからである。前述のとおり、この碑文は毎日新聞・古川恒の起草により、同社田中社長が決定したものであった。
当然重みのある意味と文言が記載されていたのである。

式典を終え、懇親会場に場を移してからも、あちこちで、
「野村さんの曾孫ヒマゴさんが序幕されるとは、チョット驚きましたな」
という声がひめやかに囁かれ、やがて蔽いようもなく、
「なんで東京築地活版製造所の記念碑の除幕が野村家なんだ。創業者で、碑文にも記載されている平野家を呼べ!」
という声がさざ波のように拡がっていった。
そんななか、牧治三郎だけは活字鋳造業界には知己が少なかったため、むしろ懇話会の重鎮 ―― 銅線会社の重役たちと盃を交わすのに忙しかったのである。
そんな光景を横目にした活字界と印刷界の怒りは激しいものがあった。除幕式と祝賀会には、初代文化庁長官・今 日出海(1903-84)も出席していたが、  どこか険悪な雰囲気のまま、はやばやと終了した。

     

左) 平野    富二  1846-92   (弘化3年8月14日-明治25年12月3日)
右) 野村宗十郎  1857-1925 (安政4年5月4日-大正14年4月23日)

 《『活字界』編集長、中村光男の再挑戦》
なにごとによらず、うたげのあとには、虚しさと虚脱感がおそうものである。
ところが意欲家の中村光男氏は、建碑がなったのち、ふたたび全日本活字工業会広報委員長の立場にもどって、同会機関誌『活字界』を舞台に、「活字発祥の碑」を巡って、それまであまり意識してこなかった、活字鋳造の歴史と背景を、調査、記録することにつとめることになった。
すなわち、歴史をひもとき、それに学び、ゆくかたをかんがえるゆとりができたともいえる。

また東京築地活版製造所設立者の平野富二にとっては、『活字発祥の碑』の序幕が、かつての部下だった野村宗十郎一家によってなされても、さしてこだわりは無かったのではないかともおもうことがある。
平野富二とは、維新以降は士籍を捨てて、平然と「長崎縣平民」と名乗っていたし、歿後に従五位を追贈されているが、一門にも、当時の従業員も、さしてそれを喜んだふうはない。どうやら平野富二とは、そういう毀誉褒貶や些事に拘泥することがすくなかったひとではなかったかとかんがえている。

これ以後は、牧治三郎にかわって、毎日新聞技術部の古川恒が、なにかと中村光男氏を支援することになった。そして古川恒の紹介を得た中村光男氏が、芝白金の平野家をたづねることになった。
ここで、ながらく封印されていた「平野富二首証文」の伝承が、嫡孫の平野義太郎から直接あかされることになった。

これに驚愕した中村光男氏は、序幕からちょうど一年後、1972年(昭和47)6月29日再度神官をまねき、「活字発祥の碑 碑前祭」を挙行することとした。その列席者は、関連諸団体の幹部はもとより、一般人まで参列し、除幕式当日より列席者が多いという盛況を呈することとなった。もちろん、今回は東京築地活版製造所設立者、平野富二の嫡孫が主賓ということと、「平野富二首證文」のうわさは、活字鋳造界だけでなく、印刷界にもひろまっていたためである。

「活字発祥の碑 碑前祭」には、平野家一門のうち、嫡孫・平野義太郎と、その実子[曾孫にあたる。義太郎は一女五男をなしているが、現在ではそのうちのたれが列席したかは不明]を主賓として招いて、平野義太郎に「挨拶」を懇請した。
この「活字発祥の碑 碑前祭 挨拶」をもとに、中村光男は原稿をおこし、平野義太郎もそこに手を入れたとみられるが、『活字界 第34号』(昭和47年8月20日)に「平野義太郎 挨拶 ―― 生命賭した青雲の志」と題して、「平野富二首証文」の談話記事を掲載することとなる。
相当おもい気分でいるが、その紹介と考察は次回にゆずりたい。

そして「活字発祥の碑」の序幕にあたった、野村宗十郎の子息、野村雅夫氏とその一家は、まったく邪心の無い人物であり、なにも知らず、ただ牧治三郎に利用されただけだったことが、除幕式から五ヶ月後、『活字界 第31号』(昭和46年11月5日)に以下の記事が掲載され、いつのまにか活字業界人の記憶から消えていった。
平野家の記録
上左)  平野富二  中)  平野義太郎、一高時代、母:平野鶴類 ツル とともに(1916年)
下)  平野義太郎、東大法学部助教授就任のとき
『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)より

平野富二とふたりの娘。向かって左・長女津類 ツル、右・次女幾み キミ (平野ホール藏)

活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫

『活字界 第31号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年11月5日)

《活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫》
このたび[の]活字発祥の碑が建設されつつあることを、私は全然知りませんでした。ところが突然、西村芳雄氏、牧治三郎氏の御紹介により、全日本活字工業会の矢部事務局長から御電話がありまして、文昌堂の渡辺[初男]会長と、事務局長の御来訪を受け、初めて[活字発祥の碑の]記念碑が建設されることを知りました。
そして6月29日午前11時より除幕式が行われるため是非出席してほしいとのお言葉で、私としても昔なつかしい築地活版製造所の跡に建設されるので、僭越でしたが喜んでお受けした次第です。何にも御協力出来ず誠に申し訳なく存じております。

なお、除幕式当日の数日前には御多忙中にも拘わらず、渡辺[宗助]建設委員長まで御来訪いただき感謝致しております。当日は相憎[生憎]の雨天にも拘わらず、委員長の御厚意により車まで差し回していただき恐縮に存じました。除幕式には私共夫妻と、孫の泰之それに弟の服部茂が参列させていただき、一同光栄に浴しました。

式は間もなく始まり30分程度にてとどこおりなく終了しましたが、恐らく築地活版製造所に勤務された方で現在[も健在で]おられる方々はもちろんのこと、地下に眠れる役職員の方々も、立派な記念碑が出来てさぞかし喜んでおられることと存じます。
正午からの祝賀パーティでは、殊に文化庁長官[今日出海]の祝詞の中に、父の名[野村宗十郎]が特に折り込まれて、その功績をたたえられたことに関しては、唯々感謝感謝した次第です。

雨もあがりましたので、帰途再び記念碑のところに参りましたら、前方に植木が植えられ、なおいっそう美観を呈しておりました。
最後に全日本活字工業会の益々御発展を祈ると共に、今後皆様の御協力により永久に記念碑が保存されることを希望してやみません。

平野富二と活字*04 多くのドラマを秘めて建立が決定した「活字発祥の碑」

「活字発祥の碑」建立に向け
長年の黒子の役割をかなぐり捨てた牧治三郎
懇話会館、銅配給統制協議会、日本故銅統制会社
そして変体活字廃棄運動と印刷企業合同の鍵を握るひと

『活字発祥の碑』平野富二肖像写真(平野ホール藏) 東京築地活版製造所跡に現存する「活字発祥の碑」、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』、その建碑にいたるまでの背景を詳細に記録していた、全国活字工業会の機関誌『活字会』の記録を追う旅も4回目を迎えた。

この「活字発祥の碑」の建立がひどく急がれた背景には、活字発祥の地をながく記念するための、たんなる記念碑としての役割だけではなく、その背後には「鋳物師  イモジ」のエトス、情念や伝統そして系譜を背負う活字鋳造業者らの特殊な心性にもとづき、抜けがたく「禊ぎと祓い」にあたろうとの意識があり、牧治三郎の(過誤による)指摘をうけた「厄除け・厄払い・鎮魂」の意識もあったことは既述した。
それは当時、あきらかな衰退をみせつつあった活字業界人だけではなく、ひろく印刷界のひとびとの間にも存在していたこともあわせて既述した。

その端緒となったのは、全国活字工業組合の機関誌『活字界』に連載された、牧治三郎による記録で、活字版原版印刷、B5判、1回2ぺージ、都合4ページのしごく短い連載記録であった。
◎ 「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第21号、昭和44年5月20日)
◎ 「続 旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)
これらの記録は、このタイポグラフィ・ブログロール《花筏》の「平野富二と活字*01-03」で既述してきた。

『活字界 21号』「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年5月20日)
『活字界 22号』「続 東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年7月20日)この牧治三郎の連載を受けて、全日本活字工業会はただちに水面下で慌ただしい動きをみせることになった。
昭和44年5月22日、全日本活字工業会は第12回総会を元箱根の「山のホテル」で開催し、その記録は『印刷界』第22号にみることができる。

そもそもこの時代の同業者組合の総会とは、多分に懇親会的な面があり、全国活字工業組合においても、各支部の持ち回りで、景勝地や温泉旅館で開催されていた。そこでは参加者全員が、浴衣姿や、どてら姿でくつろいだ集合写真を撮影・記録するのが慣例であった。

たとえばこの「活字発祥の碑」建立問題が提起される前年の『活字界』(第17号、昭和43年8月20日)には、「第11回全日本活字工業会総会、有馬温泉で開催!」と表紙にまで大きく紹介され、一同が揃いのどてら姿の集合写真とともに、各種の議題や話題がにぎやかに収録されている。
ところが、牧治三郎の連載がはじまった昭和44年の12回総会記録『活字界』(第22号、昭和44年7月20日)では、「構造改善をテーマに講演会、永年勤続優良従業員を表彰、次期総会は北海道で」との簡潔な報告があるだけで、いつものくつろいだ集合写真はみられず、背広姿のままの写真が掲載されて、地味なページ構成になっている。

この12回総会の実態は、まだ機関誌『活字界』は発行されてはいないものの、「続 旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)の活字組版のゲラが配布され、全国活字工業会副会長にして、中部地区支部長・津田太郎(津田三省堂代表)によって、「『活字発祥の碑』建立問題」の緊急動議が提出され、かつてないほど熱い議論が交わされていたのである。
すなわち、歴史研究にあたっては、記録された結果の検証も大切ではあるが、むしろ記録されなかった事実のほうが、重い意味と、重要性をもつことはしばしばみられる。

『活字界 18号』全員が揃いのどてら姿での集合写真。
有馬温泉「月光園」で開催された「第11回全日本活字工業会総会」の記録。

(『活字界』第18号、昭和43年8月20日)

『活字界 22号』「44年度定期相談」例年になく地味な総会の模様が記録されている。

元箱根「山のホテル」で開催された「第12回・33年度全日本活字工業会総会」の記録。
                              (『活字界』第22号、昭和44年7月20日)
ここでの主要なテーマは、牧治三郎の連載を受けた、津田太郎による緊急動議「活字発祥の碑」建立であったが、ここには一切紹介されていない。ようやく翌23号の『活字発祥記念碑建設趣意書』を報告したリード文によって、この総会での慌ただしい議論の模様がはじめてわかる。
『古賀和佐雄』76歳(昭和49年秋)

 

 

 

 
古賀和佐雄(1898-1979)
『古賀和佐雄-その人と千代田印刷機製造の六十年』
(千代田印刷機製造株式会社、昭和58年2月28日)より

この「第12回全日本活字工業会総会」においては、長年同会の会長職をつとめていた古賀和佐雄(1898-1979)が、在任期間が長すぎることと、高齢を理由に辞意を表明したが、会議は「活字発祥の碑」建立の議論に集中して、会長職の後任人事を討議することはないまま時間切れとなった。

千代田活字の工場。昭和16年ドイツ表現派の影響がみられる建設とされる。古賀和佐雄と、瓢箪のマークで知られた千代田活字製造に関しては、『古賀和佐雄-その人と千代田印刷機製造の六十年』(千代田印刷機製造株式会社(三浦 康 筆)、昭和58年2月28日 非売品)に詳しい。

上掲写真は千代田印刷機製造株式会社(千代田区猿楽町1-6。同書p.215にちいさく掲載)と看板にあるが、1941年(昭和16)武田組が建造した建物で、建築史研究者はドイツ表現派の影響がみられる興味深い建築とする【リンク:ぼくの近代建築コレクション】。
1990年代には千代田印刷機製造株式会社(千代田マシナリー)本社ビルは、この道の正面反対側(千代田区猿楽町1-5)にあり、このふるい建物は活字販売部と称していた。三浦康氏と同道して、しばしばこちらの建物で同社二代代表・古賀健一郎氏とお会いしたことが懐かしい。

古賀和佐雄が戦前に、凸版印刷とともに中国東北部(旧満州)ハルビンに設けた活字鋳造所は「三三書局」として2000年ころまで営業を継続していた。
筆者も友人のコンピュータ・ソフト開発会社/イーストの丸山勇三社長(1945-2000)ら数名と黒竜江工業大学にいった際に、ハルビンの「三三書局」を訪問したことがある。そこで工場内を拝見したが、近近この付近では区画整理が予定されていて、そうなると事業継続は難しいときいた。それでも同社の活字見本帳を購入して、いまも所持している。

その後、「ハルビンの活字鋳造所は2008年ころに閉鎖された」(北京在住 2011年金田理恵氏談)ときいた。このハルビンの「三三書局」が、中国では最後の活字鋳造所として記録されている。したがって現在の中国には活字鋳造所はまったく存在しない。
[後日談:なにぶん広い中国のことゆえ、2015-6年にかけて多方面からの情報がはいり、上海に一社、山東省某所に一社の活字鋳造所があることが判明した。この両社は事実上創業を停止しているそうであるが、中国東北部瀋陽(旧満州奉天)にも活字鋳造所があり、2016年、北京清華大学原博(Gen bo)助教授によって発注された活字を鋳造した。2016年08月記]

また活版造形者には、いまなお人気の「鉄製レール引き戸式活字ケース」は、古賀和佐雄と千代田活字の実用新案による製品である。
同社とそのグループは2002年(平成14)に倒産し、その後 小森コーポレーション がその事業の一部を継承している。上掲写真の「活字販売部」の建物は、2004年(平成16)解体された。
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「活字発祥の碑」建立の議論のため、全日本活字工業会は、第12回総会の終了後に臨時理事会を開催して、千代田印刷機製造株式会社・千代田活字有限会社・千代田母型製造所の社主/古賀和佐雄の会長辞任が承認され、後任の全国活字工業会会長には、株式会社津田三省堂社長/津田太郎が就任した。

津田太郎(1908-不詳)も、長年にわたり全国活字工業会副会長兼中部地区支部長の任にあった。したがって津田太郎も高齢を理由として新会長への就任を固辞し、人選は難航をきわめたそうである。
しかし、たれもが自社の業績衰退と、しのびよる写真植字法の勃興への対応に追われ、多忙を理由として激務となる会長職への就任を辞退した。

そのため、よんどころなく津田太郎が、すでに自分も高齢であること、名古屋という遠隔地にあることを理事全員に了承してもらうという条件付で、新会長への就任を引き受けたのが実態であった。
こうした内憂と外患をかかえながら、全国活字工業会による隔月刊の機関誌『印刷界』には、しばらく「活字発祥の碑」建立に向けた記録がほぼ毎号記録されている。そこから主要な記録を追ってみたい。

*      *      *

特集/東京築地活版製造所記念碑設立顛末記

『活字界』(第23号、昭和44年11月15日)
『活字界 23号』「東京築地活版製造所記念碑設立顛末記」(昭和44年11月15日)

[編集部によるリード文】 ── 専務理事兼編集長:中村光男の手によるものと想像される。

本誌第21,22号の牧治三郎氏の記事が端緒となって、本年の総会[昭和44年5月22日、元箱根・山のホテルで開催]において津田[太郎]理事から東京築地活版製造所の記念碑設立の緊急動議があり、[会員の皆さまから]ご賛同をえました。

その後東京活字工業組合の渡辺[初男]理事長は数次にわたり、古賀[和佐雄全国活字工業会]会長、吉田[市郎全国活字工業会東京地区]支部長、津田[太郎]理事と会談の結果、[東京築地活版製造所跡地の記念碑設立のことは]単に活字業者団体のみで推進すべきことではない[とされた]ので、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会、東京都印刷工業組合に協力を要請して快諾を得たので、[快諾を得ました。]

[そこで]去る8月13日、古賀和佐雄会長、津田[太郎]副会長、渡辺[宗助]理事長、ならびに印刷3団体を代表して、井上[井上 計、のちに参議院議員]副理事長が、牧氏の案内で懇話会館・八十島[耕作]社長に面接し、別項の懇願書[本文での『活字発祥記念碑建設趣意書』前半部分に相当するものと推測される]を持参の上、お願いした。八十島社長も由緒ある東京築地活版製造所に大変好意を寄せられ、全面的に記念碑設立を諒承され、すべてをお引き受けくださった。新懇話会館が建設される明春には記念碑が建つと存じます。

活字発祥記念碑建設趣意書

謹啓 愈々ご清栄の段お慶び申し上げます。
さて、電胎母型を用いての鉛活字鋳造法の発明は、明治3年長崎の人、贈従五位本木昌造先生の苦心によりなされ、本年で満100年、我国文化の興隆に尽した功績は絶大なるものがあります。

先生は鉛活字鋳造法の完成と共に、長崎新塾活版製造所を興し、明治5年7月、東京神田佐久間町に出張所を設け、活字製造販売を開始し、翌6年8月、京橋築地2丁目に工場を新設、これが後の株式会社東京築地活版製造所であります。

爾来歴代社長の撓まぬ努力により、[活字]書風の研究改良、ポイント活字の創製[導入]実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました。

また一方、活版印刷機械の製造にも力を注ぎ、明治、大正時代の有名印刷機械製造業者は、殆ど同社の出身で占められ、その遺業を後進に伝えて今日に至っていることも見のがせない事実であります。

更に同社は時流に先んじて、明治の初期、銅[版印刷]、石版印刷にも従事し、多くの徒弟を養成して、[凸版印刷・凹版印刷ならびに]平版印刷業界にも寄与し、印刷業界全般に亘り、指導的立場にありましたことは、ともに銘記すべきであります。

このように着々社業は進展し、大正11年鉄筋新社屋の建築に着工、翌年7月竣工しましたが、間もなく9月11日の大震火災の悲運に遭遇して一切を烏有に帰し、その後鋭意再建の努力の甲斐もなく、業績は年々衰微し、昭和13年3月、遂に廃業の余儀なきに至り、およそ70年の歴史の幕を閉じることとなったのであります。

このように同社は鉛活字の鋳造販売と、印刷機械の製造の外に、活版[印刷]、平版印刷に於いても、最古の歴史と最高の功績を有するのであります。

ここに活字製造業界は、先賢の偉業を回想し、これを顕彰するため、同社ゆかりの地に「東京における活字文化発祥」の記念碑建設を念願し、同社跡地の継承者、株式会社懇話会館に申し入れましたところ、常ならざるご理解とご好意により、その敷地の一部を提供されることとなりましたので、昭和46年3月竣工を目途に、建設委員会を発足することといたしました。

何卒私共の趣意を諒とせられ、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げる次第であります。
敬 具

昭和45年9月

発起人代表    全日本活字工業会々長   津田太郎
東京活字協同組合理事長             渡辺初男
協     賛    全日本印刷工業組合連合会
            東京印刷工業会
            東京都印刷工業組合
────
記念碑建設委員会委員
委員長                        津田太郎(全日本活字工業会々長)
委員長補佐                     中村光男(広報委員長)
建設委員                           主任 吉田市郎(副会長)
                                                                      宮原義雄、古門正夫(両副会長)
募金委員                                                    主任 野見山芳久(東都支部長)
                                                                       深宮規代、宮原義雄、岩橋岩次郎、島田栄八(各支部長)
渉外委員                                                     主任 渡辺初男(東京活字協同組合理事長)
                                                                       渡辺宗助、古賀和佐雄(両工業会顧問)
                                                                       後藤 孝(東京活字協同組合専務理事)、牧治三郎

特集/活字発祥記念碑来春着工へ、建設委員会で大綱決まる

『活字界』(第27号、昭和45年11月15日)

紹介された「記念碑完成予想図」。
実際には『活字界 28号』にみる設計変更が求められて、それがほぼ現在の姿になった。

旧東京築地活版跡に建立する「活字発祥記念碑」の大綱が、このほど発足した建設委員会で決まり、いよいよ来春着工を目指して建設へのスタートを切った。建設に要する資金250万円は、広く印刷関連業界の協力を求めるが、すでに各方面から基金が寄せられている。
──────────
全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となり、印刷関係団体の協賛を得て進めてきた、東京における活字発祥記念碑の建設が軌道に乗り出した。同建設については、本年6月北海道で開かれた全国総会で正式に賛同を得て準備に着手、7月20日の理事会において発起人および建設委員を選出、8月21日、東京・芝の機械振興会館で第1回の建設委員会を開催した。

同会では、建設趣意書の大綱と建設・募金・渉外など委員の分担を決め、募金目標額は250万円として、まず岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになった。

9月8日、津田[太郎]委員長をはじめ、松田[友良]、中村[光男]、後藤[孝]の各委員が、岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行なった。

ついで、第2回の建設委員会を9月19日、東京の赤坂プリンスホテルで開催、岡崎石工団地における調査の報告および作成した記念碑の予想図などについて説明があり、一応これらの線に沿って建設へ推進することになり、さらに、募金総額250万円についても再確認された。

このあと業界報道紙11社を招いて記者会見を行ない、建設大綱を発表するとともに、募金の推進について紙面を通じてPRを求めたが、各紙とも積極的な協力の態度をしめし、業界あげての募金運動が開始された。

活字発祥記念碑は、旧東京築地活版製造所跡(中央区築地1丁目12-22)に建設されるが、同地には株式会社懇話会館が明年4月にビルを竣工のため工事を進めており、記念碑はビルの完成後、同会館の花壇の一隅に建設される。なお、現在記念碑の原案を懇話会館に提出して検討されており、近日中に最終的な設計ができあがることになっている。

特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に

『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)


「活字発祥の碑」完成予想図と、碑文の文面並びにレイアウト。

昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

また、表題は2月4日の理事会で「活字発祥の碑」とすることに決まり、碑文については毎日新聞の古川[毎日新聞技術部・古川恒(フルカワ-ヒサシ 1910-86)]氏の協力を得、同社田中会長に[宛てて]2案を作成して、その選定を依頼、建立された記念碑に掲げた文が決定したわけです。

 《特集/東京築地活版製造所記念碑設立顛末記 『活字界 第23号』の起稿者はたれか?》
『活字界』(第23号、昭和44年11月15日)の「東京築地活版製造所記念碑設立顛末記」はふしぎな文章である。すなわち編集長:中村光男はリード文の中で、これを「懇願書」としている。ところが本文では「活字発祥の碑建設趣意書」となっているし、見出しは「設立顛末記」とされている。

これをみると、明治3年の長崎のひと本木昌造先生から説きおこし、東京築地活版製造所の歴史を縷縷といている。ここには「歴代社長の撓まぬ努力」はしるされているが、平野富二に関してはまったく触れられておらず、後段には「ポイント活字の創製[導入]実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました」とある。これは野村宗十郎の功績とされていることがらである。

いたずらに推測をかさねることは慎みたいが、全体の構文といい、あまりに本木昌造と野村宗十郎の称揚に熱心であることから、筆者はこの一文の起稿者は牧治三郎だったとみている。
それを全日本活字工業会で一定の手入れをして、書式を整え、牧治三郎に託し、その案内をもって「懇話会」にこの「活字発祥の碑建設趣意書」を提出したものと考えている。

また、プロジェクトの進行にともない、次第に全日本活字工業会会員との距離がひらき、それにかわって登場した古川恒ヒサシ(毎日新聞技術部、1910-86)によって撰文され、毎日新聞田中社長が校閲したとされる碑文は以下のようなものとなり、そこには本木昌造、野村宗十郎の名前はしるされなかったという事実がある。
ささいなことのようではあるが、こうした牧治三郎の姿勢が、のちにこの碑が除幕式を迎えたとき、おおかたの活字鋳造業者は「なぜだ? どうして?」となって、牧治三郎は活字業界からの信頼を失墜した。

活字発祥記念碑建設趣意書
謹啓 愈々ご清栄の段お慶び申し上げます。
さて、電胎母型を用いての鉛活字鋳造法の発明は、明治3年長崎の人、贈従五位本木昌造先生の苦心によりなされ本年で満100年、我国文化の興隆に尽した功績は絶大なるものがあります。
先生は鉛活字鋳造法の完成と共に、長崎新塾活版製造所を興し、明治5年7月、東京神田佐久間町に出張所を設け、活字製造販売を開始し、翌6年8月、京橋築地2丁目に工場を新設、これが後の株式会社東京築地活版製造所であります。

爾来歴代社長の撓まぬ努力により、[活字]書風の研究改良、ポイント活字の創製[導入]実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました。
また一方、活版印刷機械の製造にも力を注ぎ、明治、大正時代の有名印刷機械製造業者は、殆ど同社の出身で占められ、その遺業を後進に伝えて今日に至っていることも見のがせない事実であります。

《昭和13年以来、昵懇の仲だった懇話会と牧治三郎》

「活字発祥記念碑建設趣意書」の提出先、あるいはその「懇願先」となった懇話会館への「案内役」は、当時67歳を迎え、小規模な活版印刷材料商を営んでいた牧治三郎があたっていた。
ときの印刷界・活字界の重鎮が連れだって「懇願書――活字発祥記念碑建設趣意書」を携え、懇話会館を訪問するために、印刷同業組合のかつての一介の書記であり、小規模な材料商であった牧が、どうして、どのように、その案内役となったのか、そして牧の隠された時局下の行蔵の実態も、間もなく読者も知ることになるはずである。
そもそも株式会社懇話会館という、いっぷう変わった名称をもつ企業組織のことは、ほとんど知られていないのが実情であろう。「株式会社 懇話会館」のWebsiteと、筆者の手許資料から紹介する。

会社名 株式会社 懇和会館
設 立 1938年(昭和13)11月28日
代表者 取締役社長 松本 龍輔
事業内容 不動産の取得
不動産の賃貸
前各項に付帯する一切の業務
所在地 〒104-0045 東京都中央区築地1丁目12-22 コンワビル13階
   
資本金 3億円
株 主 古河電気工業株式会社
住友電気工業株式会社
株式会社 フジクラ
三菱電線工業株式会社
日立金属株式会社
昭和電線ケーブルシステム株式会社
役 員 代表取締役社長 松本 龍輔
取締役       佐藤 哲哉
取締役       本郷 祥介
取締役       佐藤 貴志
取締役       大塚 眞弘
取締役       山室 真
取締役       萩本 昌史
監査役       檀野 和之
関連会社 築栄実業株式会社

《株式会社懇話会館の歴史 ── この項文責筆者》
1938年(昭和13)春、次第に戦時色が濃くなって行く中で、政府は戦時物価統制運用のために、軍需資材として重要な銅資材の配給統制に着手した。そのために「銅配給統制協議会」を最高機関として、複数の関連各機関が設立された。

一方その効率的な運用のために、都内各所に散在していたこれら各機関の事務所を一ヶ所に集中させることが求められ、同年11月、電線会社の出資により「株式会社懇和会館」が設立され、同時に現在の地に旧東京築地活版製造所が所有していた建物を取得し、ここに「銅配給統制協議会」「日本銅統制組合」「電線原料銅配給統制協会」「日本故銅統制株式会社」「全国電線工業組合連合会」などの関連諸団体が入居してその利便に供した。

その後1971年(昭和46)、オフィスビルとして建物を一新し、「コンワビル」という名称で広く一般の企業団体にもその一部を事務所として賃貸するほか、都内に賃貸用寮も所有し、テナントへのビジネスサポートを提供する企業として歩んでいる。
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ここで筆者はあまり多くをかたりたくはない。ただ『広辞苑』によれば、【統制】とは、「統制のとれたグループ」の用例のように、ひとつにまとめておさめることであり、「言論統制」の用例のように、一定の計画に従って、制限・指導をおこなうこと、とされる。
また【統制経済】とは、国家が資本主義的自由経済に干渉したり、計画化すること。雇用統制、賃金統制、軍事的強制労働組織などを含む労働統制、価格統制、配給統制、資材・資金の統制、生産統制などをおこなうとされる。

そしてあまりにも唐突に、1938年(昭和13)3月、清算解散が決定されたのが東京築地活版製造所であった。その旧社屋には、まるで東京築地活版製造所の解散を待っていたかのように、おなじく1938年(昭和13)11月、「銅を中心とする金属関係の統制機関」、「懇話会館」が購入して、一部を改装して使用した。

『電線会社の出資により「株式会社懇和会館」が設立され、同時に現在の地に旧東京築地活版製造所が所有していた建物を取得し、ここに「銅配給統制協議会」「日本銅統制組合」「電線原料銅配給統制協会」「日本故銅統制株式会社」「全国電線工業組合連合会」などの関連諸団体が入居してその利便に供した』

以上を踏まえて、株式会社懇話会館の株主構成をみると、いずれの株主も電線製造という、銅を大量に使用する大手企業ばかりであり、その生産・受注・販売にあたっては、熾烈な企業間競争をしている企業がずらりとならんでいる。
それらの企業が、戦時統制経済体制下にあったときならともかく、1938年(昭和13)から75年余のながきにわたって、呉越同舟、仲良く、ひとつのビルを共有していることには素朴な疑問を持たざるをえない。

また、その発足時の母体となった「銅配給統制協議会」、なかんずく「日本故銅統制株式会社」とは、時局下で陰湿に展開された「変体活字廃棄運動」を牽引した、官民一体の統制組織であり、活字界における故銅――すなわち貴重な活字母型や鋳造活字を廃棄、没収に追い込んだ組織であったことは、まぎれもない事実としてのこっている(片塩二朗「志茂太郎と変体活字廃棄運動」『活字に憑かれた男たち』)。

この、わが国活字界における最大の蛮行、「変体活字廃棄運動」に関しては、さらに詳細に「弘道軒清朝活字の製造法並びにその盛衰」『タイポグラフィ学会論文集 04』に記述したので、ぜひご覧いただきたい。

ここで読者は牧治三郎の主著のひとつ、『創業二五周年記念 日本印刷大観』(東京印刷同業組合、昭和13年8月20日)を想起して欲しい。同書はB5判850ページの大冊であるが、その主たる著者であり、同会の書記という肩書きで、もっぱら編輯にあたったのは牧そのものであった。そして牧が東京印刷同業組合の書記を辞し、懇話会館が設立されたのもおなじく「昭和13年」である。

さらに、牧の地元、東京印刷同業組合京橋地区支部長・高橋與作(与作)らが「変体活字廃棄運動」を提唱したのも昭和13年の夏からであった。
また本論からはずれるので詳述は避けるが、時局下の企業の赤紙とされた「企業合同」の実務、すなわち官からの数値命令を、具体的に個個の企業名に置きかえる実務を取りしきったのは、まぎれもなく牧治三郎であったことを辛くおもう。

さらにパンフレット『活字発祥の碑』に牧がつづった、昭和10-13年にかけての東京築地活版製造所の記録には以下のようにある。
これをみても、1938年(昭和13)とは、東京都中央区(旧京橋区)における牧の周辺のうごきは慌ただしく、いまだに解明されていない部分があまりにも多いのである。

◎ 昭和10年(1935)6月
  松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。
◎ 昭和10年(1935)7月
  築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。
◎ 昭和10年(1935)10月
  資本金60万円。
◎ 昭和11年(1936年)7月
  『新刻改正五号明朝体』 (五号格) 字母完成活字発売。
◎ 昭和12年(1937年)10月
  吉雄[永寿]専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。
◎ 昭和13年(1938年)3月
  臨時株主総会において会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。
       牧治三郎「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』
(編輯発行・同碑建設委員会、昭和46年6月29日)
【補  遺 ── 筆者】
◎ 1938年(昭和13)春
次第に戦時色が濃くなって行く中で、政府は戦時物価統制運用のために、軍需資材として重要な銅資材の配給統制に着手した。そのために「銅配給統制協議会」を最高機関として、複数の関連各機関が設立された。
◎ 1938年(昭和13)11月
電線会社の出資により「株式会社懇和会館」が設立され、同時に東京築地活版製造所の旧本社ビルを取得し、ここに「銅配給統制協議会」「日本銅統制組合」「電線原料銅配給統制協会」「日本故銅統制株式会社」「全国電線工業組合連合会」などの関連諸団体が入居してその利便に供した。
◎ 1971年(昭和46)、東京築地活版製造所から購入した旧ビルを、オフィスビルとして建物を一新し「コンワビル」という名称で広く一般の企業団体にも事務所として賃貸。

《牧治三郎の辛い時代の想起と、記念碑の提唱》
すなわち、牧は印刷同業組合の目立たない存在の書記ではあったが、1920年(大正9)から1938年(昭和13)のあいだの東京築地活版製造所の動向を、じっと注目していたのである。
そして長年の経験から、だれをどう突けば、どういう動きがはじまるか、どこをどう突けば、どういうお金が出てくるか、ともかく人とお金を動かすすべを熟知していた。
もうおわかりとおもうが、牧は戦前から懇話会館とはきわめて昵懇の仲であり、その意を受けて動くことも多かった人物だったのである。

筆者は「変体活字廃棄運動」という、隠蔽され、歴史に埋もれていた事実を30余年にわたって追ってきた。そしてその背後には、官民合同による統制会社/日本故銅統制株式会社の意をうけ、敏腕ながらそのツメを隠していた牧治三郎の姿が随所にみられた。

それだけでなく、戦時下の印刷・活字業界の「企業整備・企業統合 ―― 国家の統制下に、諸企業を整理・統合し、再編成すること――『広辞苑』」にも牧治三郎がふかく関与していたことに、驚愕をこえた怖さをおぼえたこともあった。
そのわずかばかりの資料を手に、旧印刷図書館のはす向かいにあった喫茶店で、珈琲好きの牧治三郎とはなしたこともあった。ともかく記憶が鋭敏で、年代までキッチリ覚えていた牧だったが、このときばかりは、
「戦争中のことだからな。いろいろあったさ。たいてえは忘れちゃったけどな」
とのみかたっていた。いつもは炯炯たる眼光で相手を見据えながらはなす牧だったが、そのときの眼光は鈍くなり、またそのときにかぎって視線はうつむきがちであった……。

つまり牧治三郎には懇話会館とのそうした長い交流があったために、懇話会館に印刷・活字界の重鎮を引き連れて案内し、この記念碑建立企画の渉外委員として、ただひとり、なんの肩書き無しで渉外委員として名をのこしたのである。
もしかすると、この活字発祥の地を、銅配給統制協議会とその傘下の日本故銅統制株式会社が使用してきたこと、そしてそこにも出入りを続けてきたことへの贖罪のこころが、牧にはあったのかもしれないと(希望としては)おもうことがある。

それがして 牧の記録、
「以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭で[も] よいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動[への] 参加を願うのもよいと思う 」
という発言につらなったとすれば、筆者もわずかながらに救われるおもいがする。
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次回は、いよいよ「活字発祥の碑」の建立がなり、その除幕式における混乱と、狼狽ぶりをみることになる。すなわち、事実上除幕式を2回にわたっておこなうことになった活字界の悩みは大きかった。
そしてついに、牧治三郎は活字界からの信用をすっかり失墜して、孤立を深めることになる。

平野富二と活字*03|『活字界』牧治三郎二回の連載記事に 戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

『活字界』での牧治三郎 二回の連載記事に
戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

牧治三郎の問題提起「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」をうけて
当時の執行部は、驚愕、戦慄、恐懼、狼狽して「禊ぎと祓い」にはしった。
牧は不気味な口吻をもって、活字鋳造業者に警告を発するとともに
即座に知己の多い「懇話会」への建碑の根回しをはじめていた。
したがって「活字発祥の碑」建立企画から、落成披露までの間の主役は牧であった。
ところがこの2回・8ページにわたった連載記事の掲載から11ヶ月後
すなわち「活字発祥の碑」の除幕式の直後から、牧は急速に業界の信頼をうしなう。
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掲載号2回目と同じ『印刷界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月20日)には
早速東京活字協同組合理事会での協議をへた「記念碑建設の方向の決定」を
急遽広告欄を割いて、広報部・中村光男氏が囲み記事として以下のように報告している。
その周章狼狽ぶりがよくわかる内容になっている。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男

東京活字協同組合では[昭和46年〕6月27日開催の理事会で、「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と、同建物跡に〔新ビルを〕建設される懇話会館の八十島〔耕作〕ヤソジマ-コウサク社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。
『活字界  22号』 (全日本活字工業会  昭和46年7月20日)
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【お断り】 東京築地活版製造所の呼称は時代によって様様であり、しばしば略称や旧社名とも混用されている。本稿ではその混乱を避け、特殊な引用の場合をのぞき、1873(明治6)創立-1938年(昭和13)清算解散までのあいだのすべての期間の社名を「東京築地活版製造所」とし、また法人社格も表記しないことにした。

東京築地活版製造所明治10年版1
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写真上) 『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO  通称:明治10年版東京築地活版製造所活字見本帳』(活版製造所 平野富二、平野ホール所蔵)。

この口絵は東京築地活版製造所の最初期の建築物。木口木版画を清刷りとして、電気版で印刷したとみられる。右側の袖看板には「長崎新塾出張東京活版所」とある。手前に人力車が描かれているが、これはもっぱら平野富二が愛用したもので、現代の運転手つき自家用車にあたるとみてよい。これに関して次女・幾みがのこした記録を紹介するのには、もうすこし時間をいただきたい。

写真中) 『活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年)
この口絵は銅版画を清刷りとして電気版で印刷としたものとみられる。画面中央部のちいさな建物は上掲写真の明治7年完成の創業当初からのもので、このころは事務棟とされていた。その手前、築地川に浮かぶ舟艇とその周辺設備は、平野富二との関連で重要な設備と乗り物であるが、『平野富二伝』(古谷昌二、2013、朗文堂 pp 440)を参照願いたい。

写真下) 記録をのこすことが少なかった東京築地活版製造所最後の本社工場ビル。1923年3-9月にかけて順次設備が完成し、1971年に新築のために取り壊された。
東京築地活版製造所第四代専務、野村宗十郎の発意によって、創業期からの建物を全面撤去して、同地に1923年(大正12)3-9月に竣工。完成直後、本格移転日の前日に関東大地震に見舞われたがビル本体の損傷は少なかったとされる。

1938年(昭和13)東京築地活版製造所清算解散にあたり、債権者から精銅業者の団体「懇話会」に売却され、「懇話会館」の名称のもとに継続して使用された。
1971年(昭和46)3月、懇話会が関東大地震、戦災の猛火を良くしのいできたこのビルを、老朽化を名目に取り壊し、あたらしいビルの建築を決定した。現在は新ビルが建ち「コンワビル」として使用されている。
全日本活字界は「活字発祥の碑」の建造地として、この写真の左角・旧正門(西南)付近に建設を希望したが、所有者の「懇話会」から容れられず、右奥のあたり(東南角)に設けることを許された。

※ このビルの正門が晴海通り万年橋方向にむかい、それは西南方向で裏鬼門にあたる ── とされているが、近年資料の発掘と調査が進み、正門は祝橋にむかい、西北方向にあったという指摘・見解が多くなっている。
稿者はこのふるいビルが取りこわされると聞き、一度だけ夜に前を通ってみたことがあるが、正門の位置などは意識もなく、記憶していない。幸い建設会社が判明し資料紹介中というところ。
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東京築地活版製造所の創立者に本木昌造におき、本木昌造への過剰な称揚と讃仰が目立つようになるのは、ずっと時代がさがって、第五代・野村宗十郎(1857-1925)が専務社長時代になってからになる。なお東京築地活版製造所では歴代専務が社長として会社を総覧し、支配人がそれをたすけていた。
また長崎系の人脈と、長崎系の資金が枯渇した昭和最初期、この時代に刊行された『株式会社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所、昭和4年10月) にも、そうした本木昌造を過剰に称揚する風潮をあおりたてるような文章が冒頭からつづいている。これもちかぢか紹介し たい資料である。

野村宗十郎の本姓は服部であった。のちに野村姓を名乗り、元薩摩藩士と称した。古谷昌二氏が東京築地活版製造所歴代社長略歴を調査されており、その真相があきらかになることが期待される。
父親が長崎在勤であったために、本木昌造の新街私塾にまなび、のちに大蔵省の主計官僚となった。その野村宗十郎を東京築地活版製造所に迎えたとき、どういうわけか平野富二は、倉庫掛の役職を野村に命じた。

本木昌造伝 野村宗十郎寛永寺墓地。野村宗十郎の墓地。東京都目黒区、目黒不動尊の仁王門を入ってすぐ右手に、野村宗十郎の胸像がある。
野村宗十郎とその一家の墓所は、東京谷中霊園内上野寛永寺墓地にある。

この大蔵官僚・野村宗十郎を迎えたとき、おそらく平野富二は、活字製造や機械製造にくらかった野村に、製造業者・現業者としてのはじめを、在庫の管理からまなばせようとしたものとおもわれるが、自負心と上昇意欲がつよく、能力もあった野村は、この待遇にいたく自尊心を傷つけられ、おおきな不満があったとものとみられる。
あるいは、なにかと官僚をきらうふうがあった平野富二とは、単に相性が悪かっただけなのかもしれないとおもうこともある。
牧治三郎はかつてこう述べていた。
「野村先生は平野さんが嫌いでさぁ、平野さんのことになるとムキになっていたなぁ。よっぽど嫌いだったんだろう。平野さんが大蔵省からきた野村先生を、いきなり倉庫係になんかにしたから、恨んでたんだろうな」
それでも野村は東京築地活版製造所でもその才能を発揮して、支配人、専務社長と昇進をかさねた。

平野富二が1892年(明治25)若くして歿し、後継となった第三代専務社長・曲田 茂(マガタ-シゲリ 1846-94)をたすけて支配人となったが、まもなく曲田が旅先に客死するにおよび、1894年、当時貴族院議員をつとめていた顕官の名村泰蔵(長崎出身。新街私塾で英語と数学を教授。大審院長。1840-1907)を第四代専務社長として迎えた。
その名村も歿するにおよび、1907年(明治40)ついにみずからが東京築地活版製造所第四代専務に就任した。
その後野村宗十郎は、東京築地活版製造所の諸記録から、平野富二の存在と、その功績を抹消することに 蒼いほむら を燃やし続けた。
[参考:花筏 【資料紹介】 株式会社東京築地活版製造所第三代社長『曲田成君略傳』(松尾篤三編集兼発行 東京築地活版製造所印刷)

《平野富二の移転当時は、大火災の跡地であった築地界隈》
平野富二が買い求め、1873年(明治6)年に移転した、あたらしい東京築地活版製造所の敷地に関して、牧治三郎は次のようにしるしている。

平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)中奥御小姓の住宅跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]を中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人[ひとり]歩きが出来なかった。
(『活字界 21号』(牧治三郎、全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

現在の築地西本願寺。江戸期の寺領の数分の一の規模になっている。築地万年橋からの風景:右・松竹ビル、中・コンワビル(東京築地活版製造所跡)、左・電通関連企業ところが、牧治三郎が 江戸切絵図 で調べたような情景は、1872年(明治5)2月25日までのことである。
いかに該博とはいえ、どうやら牧はこの記録を見落としていたようである。
1872年2月25日、銀座から築地一帯に強風下での大火があって、築地では本願寺の大伽藍はもちろん、あたり一面が焼け野原と化した。
そして新政府は、同年7月13日に、築地本願寺の寺域をおおきく削るとともに、築地本願寺はもとより、東京中心部の墓地を集合移転させる構想のもとに、青山墓地をつくり、あいついで、雑司ヶ谷、染谷、谷中などに巨大な墓地をつくって、市中から墓地の移転をすすめていた。

したがって築地本願寺とその周辺の末寺の墓地は、ねんごろに除霊をすませて、すでに新設墓地へ移転していたのである(『日本全史』 講談社  918ページ  1991年3月20日)。
現代でも旧京橋区、銀座から築地一帯が繁華な商住地となり、そこに墓地をみることがすくないのは、こうした背景による。

すなわち活字と印刷機器製造のために、また長崎製鉄所出身で「鋳物士 イモジ」の心性を知る平野富二が、牧治三郎が指摘したような場所を選択することは考えられない。
平野富二が選んだ新天地は、火焔によって、また築地本願寺とその末寺の寺僧によって、すっかり除霊が済んでおり、当然移転に際しては神官による「禊ぎと祓い」がなされた土地であったことは注目されて良い。
1873年(明治6)7月、平野富二が本格スタートの地として選び、現在は「活字発祥の碑」が建立されている「築地二丁目万年橋東角二十番地」(現住所:東京都中央区築地1-12-22)とは、こうした場所であった。

《築地川から石川島へ、そして大海原へ。水利にめぐまれた創業の地-古今東西を問わず、活字版印刷は水運の良い場所で創始した》
筆者はかつて、東京築地活版製造所、石川島造船を創業した平野富二が、どのように水利・水運を意識してこの地を選んだのかに興味をもったことがある。
それは陸上輸送が不便で、自動車などの登場するはるか以前、560年ほど前から活版印刷ははじまっていた。
河川・運河沿いに発展した印刷工房マインンツ グーテンベルク工房それらの工房の発祥地をみると、ライン川沿い、マインツで創業したヨハン・グーテンベルク、ヴェネツィアの運河群に面して創業したアルダス・マヌティウス、パリのセーヌ川のほとり、ヴィスコンティ通りに開設されたオノレ・バルザックのちいさな印刷所は、のちにドベルニ&ペイニョ活字鋳造所として盛名を馳せた。
また19世紀世紀末にテムズ河畔に結集した、ダヴス・プレス、ケルムスコット・プレスなどのプライベート・プレスの工房など、歴史に名をのこした活版印刷工房のおおかたが、川や運河に面した地で創業している。
つまり20世紀までの活版印刷士(タイポグラファ)は、重量のある活版印刷機、金属活字、印刷用紙、図書の運搬のために、水運をもちいていたからである。
まして平野富二は、いずれは造船業への進出の夢を抱いての創業であった。

そうした関心から、1872年(明治5)7月、平野富二が最初に「神田佐久間町三丁目門長屋」に設けた「長崎新塾出張東京活版所」の仮工場(現在も佐久間町の町名と家並みがそのままのこる。秋葉原駅から徒歩五分ほど。正しくは通りひとつを隔てた津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋とその抱えこみ地。現千代田区神田和泉町一。千代田区立和泉公園のあたり)の場所から、移転先の「築地二丁目万年橋東角二十番地」(現住所:東京都中央区築地1-12-22)までのあいだを、「江戸切絵図」を手にしながら実際に歩いたことがある。
驚いたことに、和泉公園前、神田佐久間町三丁目のスタート地点から、終始神田川のゆたかな水量にめぐまれ、暗渠になっている部分もあったが、ほぼ「江戸切絵図」に描かれた河川や堀割跡にそって、築地万年橋跡、中央区築地1-12-22まであるくことができた。

築地川は現在は埋め立てられ、首都高速道路の一部で上部は公園になっているが、すくなくとも昭和初期までは、喫水の浅い船でなら、神田川、堀割、築地川の水利をもちいて、相当の物資の輸送も可能ではないかとおもわれた。
同様の試みは日吉洋人氏(武蔵野美術大学基礎デザイン学科助手。活版カレッジ修了)もおこなった。

もちろん、天然の良港長崎にうまれ、すでに幕末から艦船に搭乗・操艦していて、船にはおおいに親しんでいた平野富二である。
しだがって本章冒頭で紹介した『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36)の口絵に、ゆたかな水量の築地川が描かれ、そこに小型の舟艇が繋留されているのは決して偶然ではないのである。

平野富二にあっては、河川は道と同様の存在であり、この水利にめぐまれた築地の地をえらんだ背景には、いずれは大道たる大海への足と道、すなわち造船業の創始と、航路開発・港湾開発へ進出の夢を、あつく抱いてこの地を選んだものとおもわれた。

1853年(嘉永6)水戸藩が開設した石川島造船所跡に、1876年(明治9)みずからの造船所(石川島平野造船所)を開設して造船事業をはじめた平野富二は、水運の有効性を十分に知っていた。また終生、船での旅をいとうことなく繰りかえしたひとでもあった。このことは『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二、朗文堂)に詳述されている。

したがって築地の本格創業にむけた新天地の選択には、ゆたかな水量の築地川と、そこから石川島をへて、渺渺とひろがる東京湾から太平洋につらなる「水運の利便性」という視点から、この地が選択された可能性がおおきいとみられた。
與談ながら……、石川島造船所(現 I H I )が本2013年をもって「創業160年」としているのは、1853年(嘉永6)水戸藩が開設した石川島造船所の開設をもってその起点としている。

江戸切り絵図から

江戸切絵図
数寄屋橋から晴海通りにそって、改修工事がなった歌舞伎座のあたり、采女ヶ原 ウネメガハラ の馬場を過ぎ、万年橋を渡ると永井飛騨守屋敷(現松竹ビル)、隣接して秋田筑後守屋敷跡が東京築地活版製造所(現コンワビル)となった。
いまは電通テックビルとなっているあたり、青山主水邸の一部が平野家、松平根津守邸の一部が薩摩藩出身・英国公使/上野景範カゲノリ家で、義弟とみられる弘道軒・神﨑正誼マサヨシが、この上野の長屋に寄留して楷書体活字のひとつ「弘道軒清朝活字」を創製した。
神崎正誼の弘道軒活版製造所は、本格創業の地としてここから徒歩五分ほど、銀座御幸通り(現ユニクロ銀座旗艦店の裏手)に開設したが、活字製造者やタイポグラファにとっては まさにゆかりの地である。

《大火のあと、煉瓦建築が推奨された ── 火災を怖れた東京築地活版製造所の社風の一端》
東京築地活版製造所の建物が、創業直後から煉瓦づくりであった……、とする記録に関心をむけた論者は少ないようである。
もともとわが国の煉瓦建築の歴史は幕末からはじまり、地震にたいする意外なほどの脆弱さをみせて、普及が頓挫した関東大地震のあいだまで、ほんの65年ほどという短い期間でしかなかった。

わが国で最初の建築用煉瓦がつくられたのは1857年(安政4)、長崎の溶鉄所事務所棟のためだったとされる。その後幕末から明治初期にかけて、イギリスやフランスのお雇い外国人の技術指導を受けて、溶鉱炉などにもちいた白い耐火煉瓦と、近代ビルにもちいた赤い建築用の国産煉瓦がつくられた。
それが一気に普及したのは、前述した1872年(明治5)2月25日におきた、銀座から築地一帯をおそった大火のためである。

築地は築地本願寺の大伽藍をはじめとして、あたり一面が全焼し、茫茫たる焼け野原となった。 その復興に際し、明治新政府は、新築の大型建築物は煉瓦建築によることを決定した。 また、この時代のひとびとにとっては、重い赤色の煉瓦建築は、まさしく文明開化を象徴する近代建築のようにもみえた。

そのために東京築地活版製造所は、その社屋をさまざまな資料などに わざわざ「煉瓦建築で建造」したと、しばしば、そしてあちこちにしるしていたのである。
さらに平野富二にとっては、水運に恵まれ、工場敷地として適当な広大な敷地を、しかも焼亡して、除霊までなされた適度な広さの武家屋敷跡を、わずかに1,000円(米価1俵60kg基準で、現代との価格差を2,000倍とすると、2千万円見当)という、おそらく当時の物価からみても低額で取得することができたのである。

その事実を、平野富二は複数の出資者にたいして、購入価格を開示して、けっして無駄な投資をしたのではないことを表明したために記録にのこったものとみたい。
平野富二は官業をきらい民間企業、民業にこだわったために、のちに渋澤榮一の助言をえて、株式会社に改組するまでは「複数の個人出資者」の存在はおもかった。このことは、嫡孫・平野義太郎があかした「平野富二首證文」をつうじてまもなく紹介したい。
すなわち、牧治三郎が述べた「幕末切腹事件」などは、青雲の志を抱いて郷関をでた平野富二にとって、笑止千万、聞く耳もなかったこととおもわれる。

《野村宗十郎専務時代の東京築地活版製造所新ビルディングの西南角の正門は、裏鬼門に設けられていた》
「寝た子をおこすな」という俚諺がある。
牧治三郎が活字鋳造業者の機関誌『活字界 22号』の連載記事で述べた、
「大正12年に新築された東京築地活版製造所のあたらしいビルの正門は、裏鬼門とされる場所に設けられた」
とする記述は、もしかすると、あまりにも甚大な被害をもたらした関東大地震と、戦災の記憶とともに、歴史の風化に任せてもよいのかもしれないとおもったことがある。
このおもいを牧に直接ぶつけたことがあった。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村宗十郎社長には遠慮して〔直接には〕話さなかったが、当時の築地活版〔東京築地活版製造所〕の重役で、〔印刷機器・資材輸入代理店〕西川求林堂の故西川忠亮氏に『新ビルの正門は裏鬼門だ』と話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。
『活字界  22号』 (牧治三郎、全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

「西川求林堂の西川忠亮さんから指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、自社の新ビルの正門が裏鬼門、それももっとも忌まれる死門の方角にあたることを知らなかったのですか」

「もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ[活字鋳造工]の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出入しなかった。
オレや組合〔印刷同業会〕の連中だって建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんな裏鬼門で、しかも死門とされるとこには正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな」

「それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか」

「野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」


家相八方位吉凶一覧(平成26年神宮寳暦』)東京築地活版製造所の新ビルの正門は、家相盤あるいは風水羅針盤とされる
「家相八方吉凶一覧」でいう、裏鬼門に設けられたと牧治三郎は記録した。

『平成二十六年神宮寳暦』(高島易断所本部、東京神宮館蔵版、208p. 2013)

《家相八方位吉凶一覧からみた裏鬼門、そして死門とは》
宅地や敷地の相の吉凶を気にするひとがいる。 ふるくは易学として ひとつの学問体系をなしていた。
またこの時期(10月-翌年1月中)なら、書店のレジの近くに各種の『和暦』が山のようにつまれ、そこにはほとんど上掲のような「吉凶図」をみることができる。

ここで東京築地活版製造所の本社工場のことをあらためてしるすと、1873年(明治6)7月、平野富二らがこの地に煉瓦建てのちいさな建物をもうけた。そして斯業の発展とともに増改築をくりかえした。そして1923(大正12)全面改築がなされて、上掲写真のような姿になっていた。
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このビルは堅牢なつくりであった。不幸なことに完成直後に関東大地震に見舞われ、太平洋戦争でも空襲の猛火に包まれた歴史をもっていた。
東京築地活版製造所の本社工場の新ビルディングは、1923年(大正12)3-9月に竣工した。
地下1階地上4階の堂堂たるコンクリート造りで、活字や印刷機器の重量に耐える堅牢な建物であった。ところが竣工から間もなく、同年9月1日午前11時58分に襲来した関東大地震によって、東京築地活版製造所の新ビルは、焼失は免れたものの、設備の一切は火災によって焼失した。
またこのとき隣接して存在していた、同社設立者の平野家も、土蔵を除いてすべてを焼失し、印刷関連機器の製造工場「東京築地活版製造所月島分工場」も火焔に没した。

関東大地震でも焼失を免れたこのビルは、東京築地活版製造所が清算解散した1938年(昭和13)に債権者をへて、精銅・銅線業者による「懇話会」に売却され、一部を改装して継続使用された。そののち戦災の猛火にもあったが、それにもよく耐えて、1971年(昭和46)まで「懇話会館」の名称で使用されていた。
さすがに老朽化が目立って、1971年(昭和46)3月「懇話会」によって、全面取り壊し、新築ビルが建設されることになったことをきっかけとして、牧治三郎による『活字界』での二回の連載記事が掲載された。
この場所にはあたらしい「コンワビル」が新築されてこんにちにいたっている。

取り壊し前の東京築地活版製造所の新ビルの正門は、西南の角、すなわち易学の「家相八方位」ではもっとも忌まれる死門、坤(コン、ひつじさる)の方角に設けられていた(牧治三郎)。
現代ではこうした事柄は、おおかたからは迷信とされて一笑に付されるが、それでもひとからそれをいわれれば気分の良いものではない。
また戯れにひいた神社のお神籤で「凶」などをひくと、なにか不快になるものだ。迷信とはそんなものかもしれない。つまりソッとしておくことである。
ところが牧治三郎は、取り壊しが決定した元東京築地活版製造所ビルの、こうした「幕末の忌まわしい事件による不浄の地 ── これは事実と反することは既述した」と、「正門が忌むべき裏鬼門にあった ──一部の識者から異論が呈されている」ことの歴史を暴きたてたのである。 まさしく 「寝た子をおこした」 のである。

     

牧  治 三 郎  まき-じさぶう
67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)―2003年(平成15)歿。

これからその牧の当時の写真を再度紹介するとともに、B5判2ページ、2回、都合4ページにわたった活字鋳造業界の機関誌『活字界』の連載を紹介したい。
ここには東京築地活版製造所が、必ずしも平坦な道を歩んだ企業ではなく、むしろ官営企業からの圧迫に苦闘し、景気の浮沈のはざまでもだき、あえぎ、そして長崎人脈が絶えたとき、官僚出身の代表を迎えて、解散にいたるまでの貴重な歴史が丹念につづられている。

この『活字界』の連載での牧治三郎指摘を受けて、当時の印刷人や活字人が、どれほど驚愕し、戦慄し、周章狼狽して、急遽「禊ぎと祓い」のために対処したのかを紹介することになる。
その心性の背後には、不浄を忌み、火を怖れうやまうという、「鋳物師 イモジ」の風習と伝統があったことは、ここまで読みすすまれた読者なら、もうおわかりであろう。
なお、牧治三郎の文章はときおり粗放になることがある。また『活字界』という、いわば身内の業界機関誌でのみじかい連載でもあったので、校正なども粗略に終えたかも知れない。そのため[ ]をもちいて筆者が補筆した部分がある。

牧治三郎の連載は、以下の二冊の小冊子に発表された。そしてその提唱をうけた業界の対応は、なんとも素早く連載二回目と同様の『活字界 22号』に掲載されている。
◎ 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
                  『活字界 21号』(全日本活字工業会、昭和46年5月)
◎ 続・旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
                  『活字界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月)

この『活字界 21号』と『活字界 22号』の発行のあいだ、わずか2ヶ月のあいだに、全日本活字工業会の下部組織、東京活字協同組合は、はやばやと、6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議をしている。
そして同理事会の協議の結果、連載二回目掲載誌の『活字界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月)に、同時に、
「東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった」
として、本来は広告のスペースを無理やり潰して、以下の方向性を打ちだすことになった。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男
(牧治三郎の問題提起2回目と同じ『印刷界22号』に 、囲み記事として広告欄に掲載された)

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島[耕作]ヤソジマ-コウサク社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

*      *      *

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎 『活字界 21号』(全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

『活字界 21号』「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年5月20日)

《活字発祥の〔舞台、〕歴史〔の幕を〕閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビルに改築のため、去る[昭和46年]3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年野村宗十郎社長[専務]の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、大阪出張所[大阪活版製造所]の字母[活字母型]が健在だった[大阪活版製造所の閉鎖時期については資料が少ない。大正12年に存在していたとは考えにくいが、同社系の企業が谷口印刷所などとして存在していた時代であり、そこからの提供を指すものか?]ので、1週間後には活字販売を開始[した]。 いまの東京活字[協同]組合の前身、東京活字製造組合の罹災[した]組合員も、種字[活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?]の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。

大阪活版製造所跡の碑文と景観「大阪活版所跡」碑(所在地:大阪市東区大手通二丁目。写真:雅春文庫提供)

大阪活版所、大阪活版製造所に関しては、その設立の経緯、消長とあわせ、まだ十分には印刷史研究の手がおよんでいない。この「大阪活版所跡」碑の側面の碑文にはこのようにある。
「明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された 大阪の近代印刷は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした」

この「五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された」の部分がわかりづらい。すなわち平野富二は、五代友厚(1836-85)に、のちに巨額の「返済」をしているからである。これは近近「平野富二首證文」のなかで考察したい。

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DSCN1520uuDSCN1414uuDSCN1413uuなお大阪商工会議所ビル,、鹿児島商工会議所ビルの前には、いずれも五代友厚の立像が建つ。また鹿児島中央駅前には「若き薩摩の群像」のおおきな彫刻があり、その中央には英国留学中の五代友厚が前方を指さす勇壮な姿で刻されている。

ところで、『五代友厚伝』をはじめ、ほとんどの大阪・鹿児島発の情報には「五代友厚が大阪活版所を開設した」と記録されている。
ウキペディアの五代友厚にも「明治2年(1869年)の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行」とある。
これは通称『薩摩辞書』のことを指すとおもわれるが、『薩摩辞書』は本木昌造一門の当時の力量では組版・印刷がおもうにまかせず、ついに断念して、上海で印刷されたと一部に記録されるものである。
本木昌造、平野富二の両氏に資金を提供したとみられる五代友厚であるが、印刷史研究の手はまだおよんでいないようにみえる。有志の皆さんの奮起を期待するゆえんである。

平野富二が最初に東京の拠点を設けた場所として 「外神田佐久間町三丁目旧藤堂邸内[門前とも]の長屋」としばしばしるされるが、正確な場所の特定はあまり試みられていない。
『東都下谷絵圖』(1862)を手にしてJR秋葉原駅から5分ほどの現地を歩いてみると、神田佐久間町三丁目は地図左端、神田川に沿って現存しており、現状の町並みも小規模な印刷所が多く、街並みにもさほど大きな変化はない。
その後の調査によって、津藩藤堂和泉野守上屋敷の門長屋(千代田区神田和泉町一)とその抱えこみ地に、平野富二一行は一年ほど滞在したことが諸資料から判明した。
(尾張屋静七判『江戸切絵図』人文社、1995年4月20日)

 《明治5年外神田で営業開始》
東京築地活版製造所の前身は周知の通り、本木昌造先生の門弟、平野富二氏が、長崎新塾出張活版製造所の看板を、外神田佐久間町三丁目旧藤堂邸内の長屋に出して、ポンプ式手廻鋳造機〔このアメリカ製のポンプ式ハンドモールド活字鋳造機は、平野活版所と紙幣寮が導入していたとされる。わが国には実機はもとより、写真も存在しない〕2台、上海渡りの8頁ロール(人力車廻し)〔B4判ほどの、インキ着肉部がローラー式であり、大型ハンドルを手で回転させた活版印刷機〕 1台、ハンドプレス〔平圧式手引き活版印刷機〕1台で、東京に根を下ろしたのが、太陰暦より太陽暦に改暦の明治5年だった。
[東京築地活版製造所は、資料『東京築地活版製造所紀要』などでも、創業を築地移転後の明治6年としている。またこの項目の機械設備紹介はあまり先行事例をみず、牧治三郎独自の貴重な調査・紹介記録とおもわれる]。

新塾活版開業の噂は、忽ち全市の印刷業者に伝わり、更らにその評判は近県へもひろがって、明治初期の印刷業者を大いに啓蒙した。

《明治6年現在地に工場に建築》
翌6年8月、多くの印刷業者が軒を並べていた銀座八丁〔越後人ながら銀座・京橋自慢の牧は、この呼び名を好んで口にした〕をはさんで、釆女が原ウネメガハラから、木挽町コビキチョウを過ぎ、万年橋を渡った京橋築地2丁目20番地の角地、120余坪を千円で買入れ、ここに仮工場を設けて、移転と同時に、東京日日新聞の〔明治6年〕8月15日号から6回に亘って、次の移転広告を出した。

是迄外神田佐久間町3丁目において活版並エレキトルタイプ銅版鎔製摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也 明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

《移転当時の築地界隈》
平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]の中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった。

《煉瓦造工場完成》
新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕の築地移転によって、喜んだのは銀座界隈の印刷業者で、神田佐久間町まで半日がかりで活字買い〔に出かけるための〕の時間が大いに省けた。商売熱心な平野氏の努力で、翌7年には〔煉瓦づくりの〕本建築が完成して、鉄工部を設け、印刷機械の製造も始めた。

《勧工寮と販売合戦》
新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕の活字販売は、もとより独占というわけにはいかなかった。銀座の真ん中南鍋町には、平野氏出店の前から流込活字〔活字ハンドモールドを用いて製造した活字〕で売出していた志貴和助や大関某〔ともに詳細不詳〕などの業者にまじって、赤坂溜池葵町の工部省所属、勧工寮活版所も活字販売を行っていた。同9年には、更らに資金を投じて、工場設備の拡張を図り、煉瓦造り工場が完成した。

勧工寮は、本木系〔の平野富二らと〕と同一系統の長崎製鉄所活版伝習所の分派で、主として太政官日誌印刷〔を担当していた〕の正院印書局のほか、各省庁及府県営印刷工場へ活字を供給していたが、平野氏の進出によって、脅威を受けた勧工寮は、商魂たくましくも、民間印刷工場にまで活字販売網を拡げ、事毎に新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕を目の敵にして、永い間、原価無視の安売広告で対抗し、勧工寮から印書局に移っても、新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕の手強い競争相手だった。

《活字割引販売制度》
この競争で、平野氏が考え出した活字定価とは別に、割引制度を設けたのが慣習となって、こんどの戦争〔太平洋戦争〕の前まで、どこの活字製造所でも行っていた割引販売の方法は、もとを質だせば、平野活版所と勧工寮との競争で生れた制度を踏襲した〔もの〕に外ならない。勧工寮との激烈な競争の結果、一時は、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕の身売り説が出たくらいで、まもなく官営の活字販売が廃止され、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕も漸やく、いきを吹き返す事が出来た。

《西南戦争以後の発展と母型改刻》
西南戦争〔1877年/明治10〕を最後に、自由民権運動の活発化とともに、出版物の増加で、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕は順調な経営をつづけ、そのころ第1回の明朝体〔活字〕母型の改刻を行い、その見本帳が明治12年6月発行された。
〔牧治三郎はこの明治12年版東京築地活版製造所の見本帳を所有しており、しばしば有料貸し出しに応じていた。東京築地活版製造所では明治9年にすでに冊子型見本帳を発行しており、一冊は英国セント&ブライド博物館が所蔵しており、稿者は一部コピーを保存している。ここには発行所として「東京築地活版製造所」の使用をみることができる。10年ほど前から同博物館では所在不明としている。
もう一冊は印刷図書館蔵であるが、表紙など一部ページを欠き、仮表紙に「活版様式」とある。
ついで明治10年版があり、これは平野富二の旧蔵書で関東大地震の際、火炎が迫ってきたので家人が家の前の溝に投げ込んで非難したと伝わる。水をかぶっているが原姿をたもって平野ホール藏。その俗称明治10年版の「改訂版」としるされたのが明治12年版、牧治三郎ご自慢の品であった〕 。

次いで、同12年には、活版所の地続き13番地に煉瓦造り棟を新築し、この費用3千円を要した。残念なことに、その写真をどこへしまい忘れたか見当らないが、同18年頃の、銅版摺り築地活版所の煉瓦建の隣りに建てられていた木造工場が、下の挿図である。この木造工場は、明治23年には、2階建煉瓦造りに改築され、最近まで、その煉瓦建が平家で残されていたからご承知の方もおられると思う。

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続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎 『活字界 22号』 (全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

『活字界 22号』「続 東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年7月20日)

《8万円の株式会社に改組》
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

《築地活版所再度の苦難》
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25-6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

《戦争のたびに発展》
明治27-8年戦役〔日清戦争〕の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、東京築地活版製造所の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、東京築地活版製造所は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く東京築地活版製造所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の〔活字〕鋳造機は、手廻機〔手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機〕120台、米国製トムソン自動〔活字〕鋳造機5台、仏国製フユーサー自動鋳造機〔詳細不明。調査中〕1台で、フユーサー機は日本母型〔?〕が、そのまま使用出来て重宝していた。

《借入金の重荷と業績の衰退》
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿〔した。その〕後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に〔関東大地震の〕復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

《正面入口に裏鬼門》
〔はなしが〕前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で〔はあるが〕、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易でいう裏鬼門にあたるのだそうである。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、東京築地活版製造所の重役で、〔印刷機器・資材輸入代理店〕西川求林堂の故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長〔第六代専務社長、長崎十八銀行頭取を兼任〕のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈った。

ところが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部〔で〕の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙〔に〕解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭でよいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動参加を願うのもよいと思う。

*      *      *
旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男
(牧治三郎の問題提起と同じ『印刷界 22号』に、囲み記事として急遽広告欄に掲載された)

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島〔耕作〕社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

平野富二と活字*02|東京築地活版製造所の本社工場と、鋳物士の習俗

紅蓮の火焔を怖れ、敬い、火焔から再生する鋳物
-活字鋳造-に執着した特殊技能者の心性

《ふしぎなビルディングがあった …… 》
このビルの敷地は、旧住所:京橋区築地二丁目万年橋東角二十番地、現住所:東京都中央区築地1-12-22 コンワビルが建つあたりにあって、長崎から上京してきた平野富二らによって、1873年(明治6)から建築がはじまり、数次にわたる増改築をかさねながら、東京築地活版製造所の本社工場として使用されてきたものである。

明治6年-大正末期までもちいられた東京築地活版製造所の本社工場

築地川を埋め立てたポケットパークからみた東京築地活版製造所の跡地に建つコンワビル

築地川にあった万年橋の名は交差点名にのころ。

宇都宮 & 活字発祥の碑 136uu
晴海通りにある案内板

それが1921年(大正10)、当時の専務(東京築地活版製造所では社長職に相当)野村宗十郎(1857-1925)の発意によって、旧本社工場を取り壊しながら、その跡地に1923年(大正12)3月-9月にかけて、あたらしい本社工場として、順次竣工をみたものであった(現住所・東京都中央区築地1-12-22 コンワビル)。

1923年(大正12)関東大震災の寸前に竣工なった東京築地活版製造所の写真。
正門(左手前角)がある角度からの写真は珍しい。

このあたらしいビルは、地上4階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの堅牢なビルで、いかにも大正モダン、アール・ヌーヴォー調の、優雅な曲線が特徴の瀟洒な建物であった。
ところがこのあたらしく建造されたビルは、竣工直後からまことに不幸な歴史を刻むことになった。
下世話なことばでいうと、ケチがついた建物となってしまったのである。
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《活字鋳造士/鋳物士の伝統と、独自の心性と風習》
もともと「活字  Type」とは、鋳型をもちいた鋳物の一種である。
明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鍛冶や鋳物業者などと同様に、熔解釜や蒸気ボイラーなどの加熱に、木材・炭・石炭・骸炭(ガイタン  コークス)などの裸火をもちいていた。

そこでは風琴に似た構造の「鞴 フイゴ」をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解し、地金を鋳型に流し入れて「イモノ」をつくっていた。
フイゴはふつうの家庭では「火吹き竹」にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。

その裸火のために、鋳物工場や、活字鋳造所では、しばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を、玄妙な存在としてあがめつつ、火・火焔・火災を怖れること はなはだしかった。
ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは「踏鞴 タタラ」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足カラアシを踏むことを「蹈鞴 タタラ を踏む」としてのこっている。

このタタラという名詞語は、ふるく、用明天皇(記紀にしるされた6世紀末の天皇。聖徳太子の父とされる。在位推定585-87)の『職人鑑』に「蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。
つまりフイゴやタタラとは、高温の火勢をもとめて鋳物士(俗にイモジ)や鍛冶士が、とてもふるくからもちいてきた用具である。
そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、あさな、ゆうなに灯明を欠かさなかった。

また太陽の高度がさがることを、火の神の衰退とみて、昼がもっとも短くなる冬至の日には、ほかの鍛冶士や鋳物士などと同様に、東京築地活版製造所では「鞴 フイゴ 祭り」が、ほかの活字鋳造所でも「鞴 フイゴ 祭り、蹈鞴 タタラ 祭り」 を催し、一陽来復を祈念することが常だった。
すなわち東京築地活版製造所とは、総体としてみると、近代産業指向のつよい企業ではあったが、こと鋳造現場にあっては、「鋳物士」のふるい伝統とならわしを色濃くのこしていた。

現代では加熱に際して電熱ヒーターのスイッチをいれるだけになって、鋳造「工場」所などでも神棚をみることはほとんど無くなったが、刀鍛冶士の鍛造現場などでは、作業のはじまりには神事をもって作業にはいる習俗としてのこっている。
こうした習俗は、明治-大正期の東京築地活版製造所だけではなく、わずか30-40年ほど前までの活字鋳造業者、すなわちここで取りあげている全日本活字界の業界誌『活字界』が発行されていたときでも、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火焔を神としてあがめ、火伏せの神を信仰する、異能な心性をもった職能者であった。
かつて牧治三郎は、以下のようにしるし、以下のように筆者にかたっていた([  ]内は筆者による)。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村宗十郎社長[専務]には遠慮して話さなかったが、当時の築地活版 [東京築地活版製造所]の重役で、 [印刷機器輸入代理店]西川求林堂の故西川忠亮氏に『新ビルの正門は裏鬼門だ』と話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。
「続・旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(牧治三郎『活字界  22』昭和46年7月20日)

「西川求林堂の西川忠亮さんが指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、自社の新ビルの正門が,、裏鬼門、それももっとも忌まれる死門にあることを意識してなかったのですか」

「もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ[活字鋳造工]の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出入りしなかった。
オレや[印刷同業]組合の連中だって、建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんなとこに正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな」

「それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか」

「野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」

こうしたイモノを扱う業者が、火を怖れあがめる風習は、わが国だけに留まる習俗では無い。中国の歴史上にはもちろん、現代のフランス国立印刷局にもそうした風習のなごりをみることができる。
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欧州における中世の錬金術と、鋳造活字の創始には深い関連があるとされている。そのためか、フランスに本格的なルネサンスをもたらし、またギャラモン活字の製作を命じた フランス国王、フランソワⅠ世(François Ier de France, 1494-1547)の紋章と、パリの「フランス国立印刷局 Imprimerie Nationale」の紋章は、ともに「火の精霊」とされたサラマンダーである。

「火の精霊・サラマンダー」は、古代ローマ時代では、「冷たい躰をもち、たちまち炎を消してしまうトカゲ」、「炎をまとう幻のケモノ」とされ畏怖されていた。
やがてそれが錬金術師・パラケルスス(Paracelsus  1493? -1541)『妖精の書』によって、四大精霊(地の精霊・ノーム/水の精霊・ウンディーネ/火の精霊・サラマンダー/風の精霊・シルフ)のうち、火に属する精霊として定義された。

わが国では神秘性を帯びて「火喰い蜥蜴 ヒクイトカゲ」とあらわされることもあるが、即物的に「サンショウウオの一種」とされることもある。
さらにこの生物のアルビノ個体が、カップ麺のCMによって、ひろく「ウーパールーパー」として親しまれたために、サラマンダーの「火の精霊」「火喰い蜥蜴」としての奇っ怪な側面は知られることがすくない。
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《フランス国立印刷局における、火の精霊・サラマンダー》

朗文堂 アダナプレス倶楽部は2008年の年賀状において、ギャラモン活字をもちいて、
「我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo」
と題して、サラマンダーを、鋳造活字の象徴的な存在として扱ったことがある。

ふり返ってみれば、わが国では鋳造活字と「火の精霊」サラマンダーに関する情報が不足気味のところに、いきなり年賀状として、
「汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す 金青石[鉱石]は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する  ── 火のなかの怪獣 サラマンダー ── アダナプレス倶楽部ではサラマンドラと表記している」の絵柄を送付したから、正月早早このはがきを受け取られたかたは、その奇っ怪さに驚かれたかたもいらしたようである。ちなみにここでいう「金青石 キンショウセキ」とは鉱石ないしは鉱物の意である。

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我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo

―― サラマンドラのごとく金青石は火によって生きる ――

灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火の如き 火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する

朗文堂 サラマ・プレス倶楽部  2008年01月

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《わが国の鋳物士・活字鋳造者にみる火の神への信仰》
わが国でも、近年まではどこの鋳物士や活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。
同様に太陽すなわち火の神がもっとも衰える冬至の日には、どこと活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」を催し、「一陽来復 ── 陰がきわまって陽がかえってくること」を祈念することが常だった。

すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性と、特殊な職能をもった職人集団の末裔であったことは忘れられがちである。
【詳細情報:花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダー ウーパールーパーとわが家のいきものたち

それだけでなく、明治初期に勃興した近代活字鋳造業者は、どこも重量のある製品の運搬の便に配慮して、市街地中央部に工場を設置したために、類焼にあうこともおおく、火災にたいしては異常なまでの恐れをいだくふうがみられた。

ところで……、東京築地活版製造所の新社屋が巻き込まれたおおきな厄災とは、関東大地震にともなうものではあったが、おもには鋳物士らがもっとも忌み怖れる、紅蓮の火焔をもっておそった「火災」であった。

1923年(大正12)9月1日、午前11時53分に発生した関東大地震による被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人を数えた。 被害世帯も69万戸におよび、京浜地帯は壊滅的な打撃をうけた。
2011年(平成23)の東日本大震災が、地震にともなう津波による死傷者が多かったのにたいして、関東大地震では、ちょうど裸火をもちいていた昼時でもあり、火災による死傷者が目立ったことが特徴である。
このときに際して、東京築地活版製造所では、なんと、新社屋への本格移転を翌日に控えて テンヤワンヤの騒ぎの最中であった …… 。

津田太郎写真
津田 太郎(1908-不詳)
名古屋:津田三省堂第二代社長 全日本活字会会長などを歴任。
[写真:『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社、昭和30年11月5日)より。当時59歳]

140年余の歴史を有する わが国の活字鋳造所が、火災・震災・戦災で、どれほどの被害を被ってきたのか、津田三省堂・第二代社長、津田太郎(名古屋在住。全日本活字会会長などを歴任。 1908-不詳)が「活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として」と題して『活字界4号』(昭和40年2月20日) に報告しているので、該当個所を抜粋してみてみたい。最終部に「物資統制令・故鉛」ということばが出ている。これを記憶しておいてほしい。

  • 「活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として」── 津田三省堂 津田太郎
                  『活字界4号』(昭和40年2月20日。 [ ]内は筆者による)

     明治42年12月、津田伊三郎が名古屋で活字[取次販売]業を開始する。
    最初は[それまでの名古屋の活字は大阪から導入していたが、津田伊三郎は東京の]江川活版製造所の活字を取次いだ[。ところ]が、たまたま同製造所がその前年に火災を罹り、水火を浴びた[ために熱変形を生じた、不良の]活字母型を使用したため 、活字[の仕上がりが] 不良で、評判[が]悪く、翌43年2月から、津田三省堂は東京築地活版製作所の代理店として再出発した。
  • 明治42年、現在の鶴舞公園[愛知県名古屋市昭和区鶴舞一丁目。名古屋で最初に整備された公園]で共進会が開催せられ、印刷業は多忙を極めた。
    この頃の印刷界は[動力が]手廻しか、足踏式の機械が多く、動力(石油発動機、瓦斯機関)が稀にあった程度で[あった。]
    [四六判]8頁 [B4 サイズほど]の機械になると、紙差し、紙取り、人間動力=予備員という構成で(現代の人にこの意味が判るでしょうか)あったが、この頃から漸次電力時代に移ってきた。
  • 活字界も太田誠貫堂が堂々手廻し鋳造機[ブルース型活字手回し鋳造機]5台を擁し、燃料は石炭を使用していた。その他には前述の盛功社が盛業中で、そこへ津田三省堂が開業した。
    もっとも当時は市内だけでなく中部、北陸地区[を含めた商圏]が市場であり、後年に至り、津田三省堂は、津田伊三郎がアメリカ仕込み?の経営(コンナ言葉はなかったと思う)で、通信販売を始め、特殊なものを全国的に拡販した。五号活字が1個1厘8毛、初号[活字]が4銭の記憶である。
    [現在では初号明朝体は1本800見当で販売されているので、明治末期にくらべると、およそ2千倍の価格となる。これは米価とほぼ等しい]
  • 取引きも掛売りが多く、「活字御通帳 カツジ-オカヨイチョウ」をブラ下げて、インキに汚れた小僧さんが活字を買いに来た。営業は夜10時迄が通常で、年末の多忙時は12時になることは常時で、現在から考えると文字通り想い出ばかりである。
    活字屋風景として夜[になって]文撰をする時、太田誠貫堂は蔓のついたランプ(説明しても現代っ子には通じないことです)をヒョイと片手に、さらにその手で文撰箱を持って文字を拾う。
  • 盛功社は進歩的で、瓦斯の裸火(これは夜店のアセチレン瓦斯の燃えるのを想像して下さい)をボウボウ燃やして、その下で[作業をし]、また津田三省堂は 蝋燭を使用(燭台は回転式で蠟が散らない工夫をしたもの)、間もなく今度は吊り下げ式の瓦斯ランプに代えたが、コレはマントル(説明を省く) [Gas Mantle  ガス-マントルのこと。ガス灯の点火口にかぶせて灼熱発光を生じさせる網状の筒。白熱套とも]をよく破り、のちに漸く電灯になった。
    当時は10燭光(タングステン球)であったが、暗いので16燭光に取り代えて贅沢だ!と叱られた記憶すらある。
  • 当時の一店の売上げは最高で20円位、あとは10円未満が多かった。もっとも日刊新聞社で月額100円位であったと思う(当時の『新愛知』、『名古屋新聞社』共に[社内にブルース型]手廻し鋳造機が2―3台あり五号[本文用活字]位を[社内で]鋳造していた)。
  • 大正元年[1912]大阪の啓文社が支店を設け[たために、地元名古屋勢は]大恐慌を来したが、2―3年で[大阪に]引き揚げられた。またこのあと活字社が創業したが、暫く経て機械専門に移られた。
    当時は着物前垂れ掛で「小僧」と呼ばれ、畳敷きに駒寄せと称する仕切りの中で、旦那様や番頭さんといっても1人か2人で店を切り廻し、ご用聞きも配達もなく至ってのんびりとしたものである。
  • 大正3年(1914)、津田三省堂が9ポイント[活字]を売り出した。
    名古屋印刷組合が設立せられ、組合員が68軒、従業員が551人、組合費収入1ヶ月37円26銭とある。
    [大正]7年は全国的に米騒動が勃発した。この頃岐阜に博進社、三重県津市に波田活字店が開業した。
  • 大正11年(1922)、盛功社[が取次だけでなく、名古屋でも]活字鋳造を開始。国語審議会では当用漢字2,113字に制限[することを]発表したが、当時の東京築地活版製造所社長野村宗十郎が大反対運動を起している。
  • 大正12年(1923)9月、東京大震災があり、新社屋を新築してその移転前日の東京築地活版製造所は、一物[も]残さず灰燼に帰す。
  • 大正14年(1925)秋、津田三省堂は鋳造機(手廻し[ブルース型手回し]活字鋳造機 6台)を設置[して関東大地震によって供給が途絶した活字販売を、みずからが鋳造業者となって]再起した。活字界の元老 野村宗十郎の長逝も本年である。
  • 大正15年(1925)、硝子活字(初号のみ)、硬質活字等が発表されたが、普及しなかった。
  • 昭和3年(1928)、津田三省堂西魚町[名古屋市西区]より、鶴重町[名古屋市東区]に移転。鉛版活字(仮活字[初号角よりおおきな文字を電気版で製造し、木台をつけて活字と同じ高さにして販売])を売り出す。
    また当時の欧文活字の系列が不統一[なの]を嘆じ、英、仏、独、露、米より原字を輸入して100余種を発表した。
  • 昭和5年(1930)1月、特急 “つばめ”が開通、東京―大阪所要時間8時間20分で、昭和39年(1964)10月の超特急[開通したばかりの新幹線のこと]は4時間、ここにも時代の変遷の激しさが覗われる。
  • 昭和5年(1930)、津田三省堂は林栄社の[トムソン型]自動[活字]鋳造機2台を新設、[ブルース型]手廻し[活字]鋳造機も動力機に改造して12台をフルに運転した。
  • 昭和6年(1931)、津田三省堂で宋朝活字[長体活字先行。もとは中国上海/中華書局聚珍倣宋版の活字書体を導入して、それを宋朝体と呼称したのは、津田伊三郎の命名による]を発売した。
  • 昭和8年(1933)、津田三省堂が本木翁の[陶製]胸像3,000余体を全国の祖先崇拝者[本木昌造讃仰者]に無償提供の壮挙をしたのはこの年のことである。
  • 昭和10年(1935)、満州国教科書に使用せられた正楷書[中国上海/漢文正楷書書局が元製造所とされるが、津田伊三郎はわが国の支配下にあった満州(中国東北部)から原字を入手した]を津田三省堂が発売した。当時の名古屋市の人口105万、全国で第3位となる[2012年226万人余]。
  • 昭和12(1937)年5月、汎太平洋博覧会開催を契機として、全国活字業者大会が津田伊三郎、渡辺宗七、三谷幸吉(いずれも故人)の努力で、名古屋市で2日間に亘り開催、活字の高さ 0.923 吋 と決定するという歴史的一頁を作った[これは1941年(昭和16)東京印刷同業組合活字規格統制委員会が追認したが、1958年(昭和33)全国活字工業会は23.45mmと決めた。活字の高さの統一は世界的にもいまもって容易ではない]。
  • 昭和12年(1937)7月7日、北支芦溝橋の一発の銃声は、遂に大東亜戦争に拡大し、10余年の永きに亘り国民は予想だにしなかった塗炭の苦しみを味わうに至った。
    物資統制令の発令 [によって]活字の原材料から故鉛に至るまで[が]その対象物となり、業界は一大混乱をきたした。受配給等のため活字組合を結成し、中部は長野、新潟の業者を結集して、中部活字製造組合を組織して終戦時まで努力を続けた。
  • 次第に空襲熾烈となり、昭和20年(1945)3月、名古屋市内の太田誠貫堂、盛功社、津田三省堂、平手活字、伊藤一心堂、井上盛文堂、小菅共進堂は全部被災して、名古屋の活字は烏有に帰した。

津田太郎の報告にみるように、関東大地震のため、東京築地活版製造所は不幸なことに、
「新社屋を新築して その[本格]移転前日の東京築地活版製造所は、一物も残さず灰燼に帰した」
のである。
活版印刷機と関連機器の製造工場は「月島分工場」にすでに移転していたが、その「月島分工場」も火焔に没した。また東京築地活版製造所本社工場の活字鋳造機はもちろん、関連機器、活字在庫も烏有に帰した。

不幸中の幸いで、重い活字などの在庫に備えて堅牢に建てられたビル本体は、軽微な損傷で済んだ。すなわち地震にともなう火災によって、東京築地活版製造所の設備のほとんどは灰燼に没した。すでに引退を決めていた野村宗十郎であったが、さっそく再建の陣頭指揮にあたり、兄弟企業であった大阪活版製造所系の企業からも支援をうけて再興にとりかかった。

津田三省堂は、関東大地震までは活字販売業者であったが、震災で主要仕入れ先の東京築地活版製造所からの活字の供給が途絶したため、このときをもって活字鋳造業者に転ずることになった。
津田太郎はまた、名古屋を中心とした中京地区の活字鋳造所は、第二次世界大戦の空襲によって、すべてが灰燼に没したとしている。

ところが……、本来なら、あるいは東京築地活版製造所設立者の平野富二なら、おそらく笑い飛ばしたであろう程度のささいなことながら、関東大震災を契機として、ひそかにではあったが、この場所のいまわしい過去(事実はことなっていたが)と、新築ビルの易学からみたわるい風評がじわじわとひろがり、それがついに専務・野村宗十郎の耳に入るにいたったのである。
こんな複雑な背景もあって、この瀟洒なビルはほとんど写真記録をのこすことなく消えた。 不鮮明ながら、ここにわずかにのこった写真図版をパンフレット『活字発祥の碑』から紹介しよう。

1921年(大正10)ころ、取り壊される前の東京築地活版製造所の本社工場の写真。

上掲の明治36年版『活字見本帳』口絵図版とおおきな違いはみられない。

1923年(大正12)野村宗十郎専務の発意によって竣工なった東京築地活版製造所の写真。
正門(左手前角)がある角度からの写真は珍しい。

平野富二と活字*01 『活字界』と「活字発祥の碑」

「活字発祥の碑」をめぐる諸資料から
機関誌『活字界』と、パンフレット『活字発祥の碑』

平野富二肖像写真(平野ホール藏)

平 野  富 二 (1846.8.14-92.12.3,  弘化3-明治25)
(平野ホール所蔵)

『活字発祥の碑』

《活字発祥の碑とは …… 》
この『活字発祥の碑』は、旧住所表記 : 築地二丁目万年橋東角二十番地、現住所 : 東京都中央区築地1-12-22、コンワビルの敷地内、東南の一隅にある。


1872年(明治5)7月、長崎から上京してきた平野富二(1846.8.14-92.12.3)らは、神田佐久間町三丁目門長屋に「長崎新塾出張東京活版所」の仮工場を設けて活字版製造事業をはじめたが、たちまち狭隘となった。

そのため平野富二は、活字製造とその組版にとどまらず、活版印刷機と関連機器の製造をめざして、本工場設立のための適地をもとめ、翌1873年(明治6)7月、前年の大火によって焼亡地となっていた「京橋区築地二丁目万年橋東角二十番地」に、土地取得代金1,000円とあわせ、都合金3,000円を投じて本格工場を設けることとなった。
すなわち、翌1873年(明治6)7月、旧住所表記 : 築地二丁目万年橋東角二十番地、現住所 : 東京都中央区築地1-12-22にもうけた本社工場が、のちの東京築地活版製造所となった。

このあたり一帯に、平野富二による東京築地活版製造所本社工場と、それに隣接して平野家住居の建築がはじまり、数次にわたる増改築をかさねながら、東京築地活版製造所の本社工場として、創業から66年の歴史を刻み、1938年(昭和13)に唐突に清算解散した。
したがってわが国の活字版印刷術(タイポグラフィ)と、活字版印刷士(タイポグラファ)にとっては、この地は記念すべき「印刷文化の源泉の地」とされる場所である。

この「印刷文化源泉の地」と、東京築地活版製造所設立者・平野富二を顕彰するために、1969年(昭和44)全日本活字工業会・東京活字工業組合が中心となって、牧治三郎(戦前の印刷業者の各種組合の書記を歴任。昭和13年はじめに同業組合を離れ、印刷材料商自営。印刷史研究家。1900-2003)による建碑の提唱から、わずかに11ヶ月という短期間をもって、当時の印刷界の総力をあげて記念碑「活字発祥の碑」が建立された。

「活字発祥の碑」には、毎日新聞技術部・古川恒(フルカワ-ヒサシ 1910-86)の撰文によって、以下の文言が刻まれた。
次第にあきらかになるとおもうが、ここには俗にいう「本木昌造活字・活版印刷創始」説につらなる文言はまったく無い。

活 字 發 祥 の 碑
明治六年(1873)

平野富二がここ
に長崎新塾出張
活版製造所を興
し後に株式會社
東京築地活版製
造所と改稱日本
の印刷文化の源
泉となった

本2013年(平成25)は、平野富二がこの地に東京築地活版製造所を創立してから140年、記念すべき年にあたる。

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『活字発祥の碑』 編纂・発行/活字の碑建設委員会
昭和46年06月29日 B5判 28ページ 針金中綴じ
表紙1-4をのぞき 活字版原版印刷
『活字発祥の碑』落成披露時に関係者に配布された。

『活字界』 1号-80号 合本。

『活 字 界』
発行/全日本活字工業会 旧在:千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年06月01-終刊80号 昭和59年05月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判8ページ  無綴じ  活字版原版印刷

01号―40号/編集長・中村光男
41号―56号/編集長・谷塚  実
57号―75号/編集長・草間光司
76号―80号/編集長・勝村  章
編集長を交代した昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる
昭和59年までは、
全日本活字工業会の専務理事を務めていた。
このころ筆者は吉田市郎氏の紹介を得て事務局を数度訪問し、中村光夫氏とお会いした。
────
『活字界』はパンフレット状の業界内に配布された機関誌で、残存冊子、なかんずく
全冊揃いはほとんど存在しないが、中村光男氏が2分冊に合本して保存されており、
それを個人が所有しているものを拝借使用した(返却済み)。


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★       ★       ★

一部に既発表の記事もふくむが、ここに「タイポグラフィ・ブログロール花筏」において、意をあらたに、またタイトルもあらためて、「平野富二と活字」と題して本稿を書きすすめたい。
本編(本章)は、おもに全日本活字工業会の機関誌『活字界』(昭和39-59年、全80号) と、同会発行のパンフレット 『活字発祥の碑』(同碑完成時に関係者に配布された。昭和46年) のふたつのメディアを往復しながらの記述になる。

《全日本活字工業会と、その業界誌としての小冊子『活字界』》
「平野富二と活字」第1回目の主要な登場人物は「株式会社中村活字店・第4 代代表 中村光男氏」 と、戦前における印刷業界情報の中枢、印刷同業組合の書記を永らく勤めて、当時67歳ほどであったが、すでに印刷・活字界の生き字引的な存在とされていた 牧  治三郎 である。

『活字界』 は1964年(昭和39)の創刊である。 編集長、のちに専務理事は、ながらく中村活字店第4代代表・中村光男氏がつとめていた。
『活字界』はB4判二つ折り、無綴じ二丁、すなわちB5判8ページの活字版原版印刷によるが、パンフレット様の小冊子であって、発行部数も当初は500部、後半になると200部ほどと少なく、残存部数、なかんずく80号にわたる全冊揃いはほとんど存在しない。
ところが幸い、中村光男氏が2分冊に合本して保存され、それを別の個人が所有していたものを拝借した。

この年は池田勇人内閣のもとにあり、経済界は不況ムードが支配していたが、東京オリンピックの開催にむけて、新幹線が東京―大阪間に開業し、首都高速道路の一部が開通し、東京の外環をぐるりとほぼ半円形に囲んだ4車線幹線道路、環状七号線が部分開通した、あわただしい年でもあった。

こんな時代を背景として、大正時代からあった「活字鋳造協会」と、戦時体制下の統制時代にあった「活字製造組合」を基盤として、全国の活字鋳造業者が集会をかさね、あらたな組織として「全日本活字工業会」に結集し、その機関誌 『活字界』 を発行したことになる。
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《活字自家鋳造と、活字自動鋳植機の普及 ── 活字母型製造業者の浮沈》
世相はあわただしかったが、活字製造に関していえば、大手から中堅の印刷所、大手新聞社などのほとんどは、見出し語などのわずかな活字をのぞき、活字を活字鋳造所から購入するのではなく、すでに自社内における「活字自家鋳造体制」になっていた。
それがさらに機械化と省力化が進展して、活字自動鋳植機 (文選・活字鋳造・植字組版作業を一括処理した半自動の組版機、いわゆる「日本語モノタイプ」の導入が大手企業を中心に目立ったころでもあった。

小池製作所KMTカタログ 1983年10月

小池製作所KMTカタログ表紙4、インテル鋳造機、活版清刷り期機小池製作所KMTカタログ 活字母型庫小池製作所のいわゆる日本語モノタイプ、「K.M.T. 全自動組版機」(1983年10月)カタログ。下段が活字母型庫の紹介であるが、書体、サイズの相違だけではなく、交換可能とはいえ、現実的には縦組み用と横組み用のために、活字母型の向きが異なる、ふたつの活字母型庫を設備する必要があった。
この「K.M.T. 全自動組版機」が2011年暮れまで稼働していた記録を下掲の動画でみることができる。筆者のしる限りこの「K.M.T. 全自動組版機」は現在2社が所有しているが、稼働しているのは1社のみとなっている。

活字自動鋳植機とは、初期の手動式写真植字機と同様に、導入機の数量と同数の、あるいは活字サイズ、活字書体ごとに、きわめて大量の「活字母型」を必要とした。
したがって組版業務の敏速化と省力化をめざして、活字母型自動鋳植機数十台を導入した新聞社や大手印刷所からは、一挙に、大量の「活字母型」の需要が発生した。

そのため、活字母型製造業者の一部は、それまでの「単母型 Foundry Type」にかえて、日本語モノタイプ導入企業から、瞬間的に膨大な数量の活字母型「Machine Type, 活字母型庫、活字母型盤、いわゆるフライパン」の需要がみられた。
そのために活字母型製造業者は、1950年(昭和25)国産化に成功して主流の技法となった、パンタグラフ理論にもとづく「機械式活字父型・母型彫刻機、いわゆるベントン彫刻機」を一斉に大量増設して、この需要に対処した。
ところが、その導入が一巡したのちは、奈落に突き落とされる勢いで需要が激減して、まず活字母型製造業者が設備過剰となって苦境に陥り、業界としての体をなさなくなっていた。
http://youtu.be/0uZYZi5l0QQ(動画欠落)

「Machine Type, 活字母型庫、活字母型盤、いわゆるフライパン」が稼働している姿をのこした長瀬欄罫製作所の動画(朗文堂 アダナプレス倶楽部撮影)。
3分41秒とみじかいものであるが、前半部が小池製作所製の「KMT 日本語モノタイプ/活字自動鋳植機」である。後半部はおなじく小池製作所製「インテル鋳造機」。長瀬欄罫製作所は2011年年末をもって廃業した。

【 詳細 : 花筏 タイポグラファ群像*005  長瀬欄罫製作所/小池製作所を記録する 】

つまり活字鋳造所と、活字母型製造所とは、本来唇歯輔車の関係にあった。すなわち手彫り直刻による活字母型製造時代にはほとんどが同一事業所であった。それが職能の違いから、次第に活字母型製造が独自に開業したものであったが、それでも表裏の関係にあった。
やがて活字母型製造所が、大手印刷所や新聞社の自家鋳造に対応するための活字母型を、活字鋳造所を経由しないで、独自に提供するようになって、活字鋳造所からの距離をおくようになっていた。

また新設がめだった「自動活字鋳植機」のための「活字庫、活字盤・フライパン」を提供するために、活字母型製造業界をあげて活況を呈していたために、従来型の「活字単母型」と、ほぼその補充や修理を発注するだけになっていた活字鋳造所と、活字母型製造所との関係は、その原字権をめぐる紛争が頻発したことの影響もおおきくあって、きわめて微妙なものになっていたのである。

《まず活字母型製造所、続いて活字鋳造所の衰退を予見した吉田市郎氏の報告》
このようにおもに活字鋳造所が結集した「全日本活字工業会」をあげて、前途に漠然とした不安と、危機感をつのらせていた時代でもあった。 こんな業界の時代背景を「欧州を旅して」 と題して、株式会社晃文堂・吉田市郎氏が『活字界4号』 (昭和40年02月20日、5ページ)に寄稿しているので紹介しよう。
若き日の吉田市郎氏
「欧州を旅して」 ── 株式会社晃文堂 吉田市郎
活字地金を材料とした単活字[Foundry Type]や、モノタイプ、ルドロー、インタータイプ、ライノタイプなどの自動鋳植機による活字[Machine Type]を[鋳造による熱加工処理作業があるために] Hot Type と呼び、写植機など[光工学と化学技法が中心で 熱加工処理作業が無い方式]による文字活字を Cold Type といわれるようになったことはご存知のことと思います。

欧州においては、活版印刷の伝統がまだ主流を占めていますが、Cold Type に対する関心は急激に高まりつつあるようでした。[中略]

こうした状況は、私たち[日本の]活字業界の将来を暗示しているように思われます。私たちは[日本語モノタイプの導入が一巡したのちの]活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません。このあたりで活字業界の現状を冷静に分析・判断して、将来に向けた正しい指針をはっきりと掲げていくべきではないでしょうか。

現在のわが国の活字製造業は幸いにもまだ盛業ですが、その間にこそ、次の手を打たねばなりません。したがって現在の顧客層の地盤に立って、文字活字を Hot Type 方式だけでなく、Cold Type 方式での供給を可能にすることが、わが活字業界が将来とも発展していく途のひとつではないかと考える次第です。

ここで吉田市郎氏が述べた、
「こうした状況は、私たち活字業界の将来を暗示しているように思われます。私たちは活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません」
の一節が現代ではわかりにくいかもしれない。
前段でもすこしくその背景を記述したが、この状況を風景として捉えると、現代の急速に衰勢をみせ、苦境におちいったフォントベンダー(電子活字製造販売業者)と、ネットショップなどで独自販売ルートを開発し、ほとんどが小規模なタイプデザイナー(活字書体設計士)がおかれている状況にちかいものがあるようだ。

そこで、東京活字母型工業会の会長職を長年つとめ、活字母型製造界の雄とされた岩田母型製造所と、その代表・岩田百蔵のことをしるしてみたい。
岩田母型製造所は数百台におよんだ活字母型彫刻機の増設などが一気に過剰設備となり、この吉田氏の旅行記の掲載後、3年を待たずして倒産にいたった。

岩田百蔵氏写真54歳当時のもの

岩田百蔵
[『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社、昭和30年11月5日)]
写真は54歳当時のもの。

埼玉県川越市相生町うまれ。川越尋常小学校卒。
1914年(大正3)堀活版母型製造所に徒弟として入所して斯業の技術を習得。
1920年(大正9)4月京橋区木挽町一丁目11に、実兄・岩田茂助とともに岩田母型製造所を創業。大正12年関東大地震により罹災。滝野川区西ヶ原に移転。大正15年大森区新井宿六丁目に移転。
太平洋戦争中は軍事協力工場として繁忙をきわめた。

1947年(昭和22)11月大森区新井宿六丁目6-2に移転。のち[大阪の活字鋳造所で、時局下の「変体活字廃棄運動」によって大半の活字母型を没収された、旧森川龍文堂・森川健一を取締役支店長として]大阪市西区京町堀通り一丁目16に岩田母型製造所大阪支社を設けた。
岩田母型製造所は業績不振のために1968年(昭和43)に倒産した。
株式会社岩田母型製造所取締役社長。東京活字母型工業会会長。1901-78年。享年77

その後、各地の支店や残存会社がよく経営を持続したが、2007年(平成19)3月残存会社のイワタ活字販売株式会社(代表取締役・鈴木廣子)の廃業にともなって、わが国は金属活字母型製造の一大拠点を失った。

こうした活字母型製造業、ひいては活字鋳造業が不振に陥る事態を予測していた吉田市郎氏の転進が、こんにちのプリプレスからポストプレスまでの総合印刷システムメーカーとしてのリョービ・グループの基礎を築くにいたった。
すなわち吉田氏は、かたくなに「活字 Type」を鋳造活字としてだけとらえるのではなく、金属活字 Hot Type から写植活字 Cold Type へ移行する時代の趨勢をはやくから読みとっていた。
そして1980年代からは、写植活字から電子活字 Digital Type への転換にも大胆に挑む柔軟性をもっていた。それでも吉田氏は全日本活字工業会の会員として、事実上同会が閉鎖されるまで、永らく会員のひとりとしてとどまり、金属活字への愛着をのこしていた。
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《印刷・活字業界の生き字引とされた牧治三郎》
『活字界』 には、創刊以来しばしば 「業界の生き字引き的存在」として 牧治三郎 が寄稿を重ねていた。
牧と筆者は20-15年ほど以前に、旧印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために自宅(中央区湊三丁目3-8-7)まで同行したこともある。当時の牧治三郎はすでに高齢だったが、頭脳は明晰で、年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。
下記で紹介する60代の写真の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から見据えるようにしてはなすひとだった。

そんな牧が印刷図書館にくると、
「あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」
という具合で、当時の司書・佐伯某女史が
「古老が呼んでいるわよ……」
と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず駆けつけたものだった。

越後新潟出身の牧治三郎は、幼少のころから東京都中央区の活版工場で「小僧」修行をしていたが、
「ソロバンが達者で、漢字をよく知っていたので、いつのまにか印刷[同業]組合の書記になった」
と述べていた。また、
「昔は活版屋のオヤジは、ソロバンはできないし、簿記も知らないし……」
とも述べていた。すなわち牧治三郎は係数にきわめてあかるかった。

また牧は新潟県新発田市-しばたし-の出身で、郷里の尋常小学校を卒業して、12歳ほどから東京都中央区(東京府京橋区)の印刷所で徒弟としてはたらいた。のちに苦学生として日本大学専門部商科(夜間)を卒業したが、終生中央区周辺に居住してそのふるい街並みを好んでいた。
しかしその街並みを、ふるい呼称の「京橋区」と呼ぶことにこだわり、頑固なまでに「中央区」とはいわなかった。ただ牧の自宅があった湊三丁目周辺の、下町のおもかげをのこした景観は、バブル期からの「地上げ」などによって、現在はすっかりオフィスビルの立ちならぶ風景となり、おおきく変わっている。

寛永寺墓地。野村宗十郎の墓地。牧治三郎とは、東京築地活版製造所の第四代社長・野村宗十郎(1857-1925)の評価についてしばしば議論を交わした。
筆者が野村の功績は認めつつも、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所設立者、平野富二にこだわるのを、
「そんなことをしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ」
とたしなめられることが多かった(『富二奔る』片塩二朗)。
ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎(ヨシタロウ、法学者、1897-1980)のことで、いずれここでも紹介することになる人物である。

なにぶん牧治三郎は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記を長年にわたってつとめ、業界の表裏につうじており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという野村宗十郎を高く評価して「野村先生」と呼んでいた。
したがって筆者などは「若ケエノ」とされても仕方なかったが、野村の功罪をめぐって、ときに激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

しかし 「牧老人が亡くなった……」
と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、略歴をうかがう機会もないままに終わったことが悔やまれた。
牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷・活字・製本関連の機器資料と、その歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログやパンフレットのたぐいもよく収蔵していた。書棚はもちろん、床からうずたかく積みあげられた膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。

これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、当時の筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒」関連の資料は、蔵書の山から見いだせなかった。
そんなとき、牧治三郎は、
「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」
と述べていた。どうやらそれは実現しなかったようで、蔵書は古書市場などに流出しているようである。

幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出」 『活字界15』(昭和42年11月15日)にインタビュー記事があった。当時67歳というすこしふるい資料ではあるが、牧治三郎の写真を紹介し、あわせて『京橋の印刷史』からその略歴を紹介したい。
     

牧  治 三 郎  まき-じさぶう
67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)―2003年(平成15)歿。

1900年(明治33)5月 新潟県新発田市にうまれる。
1916年(大正5)7月 東京印刷同業組合書記採用。
1923年(大正12)7月 日本大学専門部商科卒業。
以来、印刷倶楽部、印刷協和会、印刷同志会、東京印刷連盟会、大日本印刷業組合連合会、東京印刷協和会、東京洋紙帳簿協会、東京活字鋳造協会などの嘱託書記を経て、昭和13年7月退職。
京橋区(中央区湊三丁目3-8-7)で印刷材料商を自営。

〈印刷同業組合の事務局に1916年(大正5)7月以来長年にわたって勤務し、その間東京活字鋳造協会の事務職も兼務した。印刷同業組合書記職は時局が切迫しつつあった1938年(昭和13年)7月に退任した。筆者と面談していた1980年ころは、中央区湊三丁目で 活版木工品・罫線・輪郭など、活字版印刷資材の取次業をしていた〉
主著 /
「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」(前章―7章担当) 『日本印刷大観』(東京印刷同業組合 昭和13年)
連載「活版印刷伝来考」『印刷界』(東京都印刷工業組合)
『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部  昭和47年11月12日)

牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「 禁 出門 治三郎文庫 」 とあり、現在も古書店などで、この蔵書印を目にすることがある。このように「禁 出門 治三郎文庫」の蔵書印を捺された資料が、滅却することなく、二次流通にまわっているのをみると、牧治三郎もって瞑すべしとおもわぬでもない。

朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち

ウパルンⅠ世

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《飼育に未熟だった。かわいそうに、短命に終わったウパルンⅠ世、そしてサラマンダーへ

【2013年07月27日、土曜日】
やつがれが歯医者(での治療 or 拷問?)にいっているあいだに、ちかくの「マルイ」の特設熱帯魚売り場から、家人が魚ともいえない妙なモノと、小ぶりな水槽、循環水ポンプ、水草などをかかえるようにして買いこんできた。

これには、TV-CM ですっかりお馴染みとなったウーパールーパーという愛称があるが、正式にはメキシコサラマンダー(Ambystoma mexicanum)とされ、もともとメキシコの湖沼に棲む両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属に分類される有尾類だそうである。
その愛称ないしは流通名が「ウーパールーパー」らしい。

ところが灼熱の焔からうまれる鋳造活字をあつかうタイポグラファとしては、こと「火の精霊 ── サラマンダー or サラマンドラ or サラマンドル」と聞くと、こころおだやかではない。
サラマンダーとは、欧州で錬金術が盛んだったころに神聖化され、ルネサンス初期のスイス人にして、医師であり錬金術士でもあった パラケルスス によって、「四大精霊」とされたものである。
四大精霊とは、地の精霊・ノーム/水の精霊・ウンディーネ/火の精霊・サラマンダー/風の精霊・シルフである。
──────
活版印刷の祭典「Viva la 活版 Viva 美唄」のイベントタイトルを、北海道の大河・石狩川にちかく、その支流・美唄川のほとりの会場「アルテ ピアッツァ美唄」にちなんで、若きアドリアン・フルティガーの設計で、パリのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所から発売された、欧文金属活字「水の精霊 オンディーヌ」をもちいたことは、アダナプレス倶楽部のコラム欄に既述した。その一部を引こう。

「Viva la 活版 Viva 美唄」の新イベントサイン用書体として選択されたのは、日本語総合書体【銘石B くれたけ】と、欧文デジタルタイプの【オンディーヌ】であった。
【詳細情報:朗文堂タイプコスミイク 銘石B Combination 3  PDF データーつき

「オンディーヌ  Ondine」とは、フランス語で「水をつかさどる精霊」の意で、清浄な湖や泉に住んでいて、ほとんどのばあい、美しい女性のすがたとして描かれている。
語源はラテン語の unda(波の意)とされ、欧州各国語では、ウンディーネ(独:Undine)、アンダイン、あるいはアンディーン(英:Undine)、オンディーナ(伊:Ondina)などとされるようだが、ここではフランス発祥の活字(ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所、活字設計:アドリアン・フルティガー 1953-4年製作)でもあるので「オンディーヌ  Ondine 水をつかさどる精霊」としたい。

「Viva la 活版 Viva 美唄」のイベントタイトル書体として選択された「オンディーヌ」には、北海道美唄のゆたかな山河をめぐり、四大精霊のひとつ「水の精霊・オンディーヌ」にちなんで選択されたのには、こんな背景があった。
──────
もうひとつ「火の精霊・サラマンダー」は、古代ローマ時代では、「冷たい躰をもち、たちまち炎を消してしまうトカゲ」、「炎をまとう幻のケモノ」とされていた。
やがてそれが錬金術師・パラケルスス(Paracelsus  1493? -1541)『妖精の書』によって、四大精霊のうちの火に属する精霊として定義された。

わが国では神秘性を帯びて「火蜥蜴ヒトカゲ」とあらわされることもあるが、即物的に「サンショウウオの一種」とされることもある。
欧州では古来、炎をまとったトカゲ、または火の中でも生きていられるトカゲとして、怪異な姿で描かれることが多い。また、サラマンダーは、怪我をしても火を食して再生すると信じられていたことがあり、いまでもキリスト教の教会や、騎士のシンボルとしても使われており、かならずしもウーパールーパーのような可愛いしろものばかりとはいえない。
【リンク:サラマンダー画像集】。

フランス国立印刷所uu
中世の錬金術と、鋳造活字の創始には深い関連があるとされている。そのためか、フランスに本格的なルネサンスをもたらし、またギャラモン活字の製作を命じた フランス国王、フランソワⅠ世(François Ier de France, 1494-1547)の紋章と、パリの「フランス国立印刷局 Imprimerie Nationale」の紋章は、ともにサラマンダーであり、すこし愛嬌がありすぎるがウーパールーパーはその縁者なのである。
家人はやつがれのこうしたこだわりの痛いところをついて、ペットとしてのサラマンダー(ウーパールーパー)を、なんの断りもなく、勝手に買い求めてきたのである。

やつがれがフランス国立印刷局を訪問した当時の紋章は、恐竜にも似た怪奇的な図柄であったが、現代はモダナイズされて「火を吐くトカゲ」の、愛嬌のあるデザインにかわっている。
また最近、フランス国立印刷局から、その紋章、サラマンダーに関するいくばくかの資料をいただいたが、この一連の資料を紹介するのには、もう少しの時間をいただきたい。
───────
また朗文堂 アダナプレス倶楽部はすでに2008年の年賀状において、ギャラモン活字をもちいて、
「我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo」
と題して、サラマンダーを、鋳造活字の象徴的な存在として扱ったことがある。
ふり返ってみれば、わが国では鋳造活字とサラマンダーに関する情報が不足気味のところに、いきなり年賀状として「火のなかの怪獣 サラマンダー ── アダナプレス倶楽部ではサラマンドラと表記している」の絵柄を送付したから、正月早早このはがきを受け取られたかたは、その奇っ怪さに驚かれたかたもいらしたようである。ちなみにここでいう「金青石 キンショウセキ」とは鉱石ないしは鉱物の意である。

20130701201604192_0002uu

我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo

―― サラマンドラのごとく金青石は火によって生きる ――

灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火の如き 火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する

朗文堂 アダナプレス倶楽部 2008年01月  

20130701201604192_0003《わが国の鋳物士・活字鋳造者にみる火の神への信仰》
わが国でも、近年まではどこの鋳物士や活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。
同様に太陽すなわち火の神がもっとも衰える冬至の日には、どこと活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」を催し、一陽来復を祈念することが常だった。

すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団の末裔であったことは忘れられがちである。その一部を下記にひいた。
【参照資料: A Kaleidoscope Report 002* 『活字発祥の碑』】

もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者や鍛冶士などと同様に、蒸気ボイラーなどに裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の「鞴 フイゴ」をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して「イモノ」をつくっていた。ふつうの家庭では「火吹き竹」にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。

そのために鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を、玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること、はなはだしかった。
ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは「踏鞴 タタラ」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足カラアシを踏むことを「蹈鞴 タタラ を踏む」としてのこっている。

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇(記紀にしるされた6世紀末の天皇。聖徳太子の父とされる、在位585-87)の『職人鑑』に、「蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆」としるされるほどで、とてもながい歴史がある。
つまり高温の火勢をもとめて鋳物士(俗にイモジ)がもちいてきた用具である。 そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。

また太陽の高度がさがり、昼がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」を催し、一陽来復を祈念することが常だった。
すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団の末裔であったことを理解しないと、「活字発祥の碑」 建立までの経緯がわかりにくい。

《おもいでをたくさんのこして逝った、ウパルンⅠ世》
焔のなかから再生する鋳造活字とサラマンダーの関係はいまはおくとして、やつがれは持病として喘息をかかえており、ハウスダストをもたらす犬猫の飼育は避けているが、小魚となればすでに「出目金3匹、泥鰌2匹」をベランダの水槽で飼育しており、問題はない。
しかもいきなり、この「妙なモノ ── ウーパールーパー」と目があってしまった。俗なことばだが「つぶらな瞳」であった。
飼うことにきめた。というより、もう飼うしかなかった。名前は「ウパルン」とした。

かつてこの「ウーパールーパー」のブームがあった。それは1985年に「日清焼そばU.F.O.」のCMに、ウーパールーパーの呼び名で登場して、その奇妙な愛らしさから、おおきなブームになったものである。どうやらCMに登場した個体も、家人がもとめてきたものも、アルビノ(白体個体)とされるものらしい。
表情はほとんど無いが、ともかく仕草が愛らしく、イトミミズが好物で、乾燥飼料には抵抗していた。帰宅すると「ウパルン」を観察するのが楽しみとなった。

ことしの夏はともかくひどく暑かった。ところが習慣として外出時にはエアコンは切る。そのために密閉された室温は40℃を超える日も多かった。当然水槽の水温もあがり「ウパルン」は次第に衰弱していった。
衰弱の原因が水温が高すぎることに気づき、あわてて外出時もエアコンを入れっぱなしにしたが、ついに「ウパルン」はみじかい一生をおえた。「ベランダ野艸園」の片隅に葬った。

《手づくり花壇の裏、せまい排水溝に野鳩が巣をかけた》
春先から、ベランダに野鳩のつがいがしばしばやってきていた。
やつがれは、暑かろうが寒かろうが、目覚めからのいっとき、ベランダの「ロダンの椅子」に腰をおろし、紫煙をくゆらすのを無上のよろこびとする。そこで陳腐なセリフだが、
「きょうも元気だ! タバコが旨い」 ── となって、やおら始動する。

そのとき、ときおりベランダの手すりに鳩をみかけた。小枝を咥えていることもあり、どこかに巣をかけるつもりだな、とはおもった。オドオドとしているが、こちらはロダンの彫刻さながら、不動のまま、ただ紫煙をくゆらせているので、飛びさることはなく、いつも植え込みの藪のしたからどこかに消えていった。

排水溝にもうけた鳩の巣

野鳩のことゆえ、 どうせエアコン室外機の下にでも巣をかけているのかとおもって、見て見ぬふりをしていた。

《颱風一過、2013年09月16日 ── 野鳩の巣を発見》
颱風18号が日本列島をまっぷたつにして駈けぬけていった。東京でも暴風雨がひどく、各地から河川の氾濫、洪水、土砂崩れ、竜巻、交通機関の混乱などの情報が報じられていた。
ベランダにブロックを積みかさねてつくった、わが「空中庭園・野艸園」でも、枝折れや、植木鉢の倒壊などの被害があった。この「空中庭園・野艸園」は、ノー学部が勝手に、ベランダの左右いっぱいにブロックを積みあげてつくったもので、いわばフラワー・ポットの大型版である。

被害状況を調べようと、ブロック積みと、ベランダの壁のわずかな隙間、20センチほどの排水溝をのぞいた。そこに野鳩の巣がふたつあり、卵が4個みられた。
ひとの気配に驚いたのか、狭い隙間から鳩は飛びさろうとしていた。よくもまぁ、こんなところに巣をかけたな、と呆れた。できるだけ鳩を驚かせないように撮影したので、不鮮明な写真となったがご容赦を。

《ことしも咲きましたよ! トロロアオイの花。2013年10月06日[日曜日]》
春先の02月17日に植えた「トロロアオイ」が、ようやく大輪の花をつけた。
晩夏に咲く花であることは知っていたが、まさかこんな異常気象の夏になるとはおもわず、ことしはすこし早めに播種して、ふた株を大振りな植木鉢に移植しておいた。
その記録は「花筏」にのこっていた。
【タイポグラフィ・ブログロール:花筏 朗文堂好日録-028 がんばれ! ひこにゃん !! 彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種 2013年02月19日
その一部を引こう。

¶  2013年02月17日、トロロアオイの種子をテストで 播種
2011年、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部では、5月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ 2011〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。
それにかえて、会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2011』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性会員のOさんから、
「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」
との写真添付@メールが送られてきた。
Oさんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉にはるばる仙台から駆けつけてくださる、熱心な活版ファンである。またOさんご自身も「東日本大震災」ではなんらかの被害にあわれたかとおもえたが、それに関してはお触れにならなかった。

ことしもアダナ・プレス倶楽部会員のご希望のかたにはトロロアオイの種子をお配りしたいとおもっているが、昨年は開花期に中国にいったりして十分な水遣りができず、種子の大きさも小ぶりになったような気がしている。
そこですぐにも霙ミゾレになりそうな寒い雨の日だったが、発芽テストのために、ひとつまみの種子を黒ポットに植えた。元気に発芽してくれるように、しばらくは家の中で育ててみたい。

この種子のもとは、もう5年もまえに、都下あきる野市五日市町の軍道紙グンドウガミの工房からわけていただいたものである。そのときからアダナプレス倶楽部の会員の皆さんに種子を配布してきたが、何人ものかたが、単年に終わらせず、もう3回も同じ茎からトロロアオイの開花をみているそうである。
また花は、おひたしにして食すと、とても美味しいそうである。やつがれは毎年播種して、開花をまちわび、種子を採取している。
ことし2013年は、10月06日[日曜日]に、ご覧のようにみごとな開花をみた。この花は大輪だが、昼過ぎにはもうしばみはじめ、いちにちだけの開花で終わる。

DSCN2111uuDSCN2130uu

《そしてやってきた、ウパルンⅡ世。きわめて元気である》

DSCN1880uuDSCN2165uu「ウパルンⅠ世」が短い生涯をおえてから、水槽にはメダカのようなちいさな淡水魚と、アダナプレス倶楽部会員・田中智子さんにいただいた、これもちいさなエビ ── いずれも本来は「ウパルン」の餌として用意したものが泳ぎまわるだけになった。
08月の終わりとともに「マルイ」の熱帯魚特設売り場は撤去されたらしい。
そこで花園神社の鳥居のちかく、地下鉄E2口に通じる、半地下のビルの熱帯魚店に、家人に誘われるままに「ウーパールーパー」をみにいった。
ともかく水槽が空疎で、帰宅後のさびしさもあったので、抵抗なくついていった。

そこには白いアルビノのウーパールーパーはいなかったが、上掲写真の「サラマンダー」がいた。プラスチックのちいさなカップにはいっていたが、そのうちの一匹と、なんの因果か、また目があった。
ウパルンⅠ世とくらべると、いささか無骨ではあるが、愛嬌のある、いい顔だった。結局買って帰ることにした。

名前はまた「ウパルン」とした。正式には「ウパルンⅡ世」である。Ⅰ世とくらべると、まぁよく食べるウパルンⅡ世である。
過食をおそれて餌やりを遅らせると、はげしく水槽内を動きまわって催促する。エラのような、手足のような、触角のようなものも、ひんぱんに動かせて水槽を駆けまわる。
飼育法の学習をかねて、Website の「ウーパールーパー画像集」をみたが、うぬぼれながら、そこでも五指にはいるほどの美男 ? のような気がしているがいかがであろう。
ただ「ウパルン」は体長20センチほどにまで成長するらしい。そうなったら、いささか不気味かもしれない。

《秋の深まりを感ずるこのごろ。2013年10月09日[水曜日]》
野鳩の巣がけのことを書いたので、気になって今朝そっとのぞいてみた。一羽がしっかりと抱卵していた。もう10月の中旬で朝晩は肌寒くなってきている。したがって、はたして雛が無事かえるのかいささか不安ではある。
そして年初には、表紙込みで13枚あったカレンダーが、いつのまにかもうのこり2枚になっている。もろもろの打ち合わせも、年末・年初の企画や、来年の企画対応がふえてきた。

2013年、平成25年、いろいろあった年ではあるが、わが家のいきものたち ── メダカ、エビ、ウパルン、出目金3匹、泥鰌2匹、そして北海道・美唄の艸叢からもってきた、キャベツ大好きのカタツムリのでんでん、勝手に居着いた野鳩をふくめて、わが家のいきものは元気である。

タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見

【初掲載:2013年07月07日 改訂版:2013年07月20日掲載】

《きっかけは2011年12月をもって第一線を退いた 長瀬欄罫製作所 の提供の品であった》
2011年、あのおおきな地震と、原子力発電所の大事故が03月11日に発生した年であった。
東京都文京区関口にあった「長瀬欄罫ランケイ製作所」が、設備の老朽化と、経営者と従業員の高齢化、後継者不在のために、2011年の年末をもって閉鎖することが夏頃から書状をもって公表されていた。

長瀬欄罫製作所 第二代/長瀬 慶雄ナガセ-ヨシオ(昭和17年/1942年/8月8日 東京うまれ)とやつがれとは、ほぼ同世代であり、ながいつきあいになる。
長瀬欄罫は戦前は文字どおり活版印刷用の「欄罫製造業者」であった。戦後は大日本印刷の外注企業として、おもにページ物に使用する金属インテルや、日本語モノタイプ(自動活字鋳植機、通称:小池式 KMT 邦文活字自動鋳植機)をもちいて、各社に本文用活字を供給していた。

長瀬慶雄氏は、親子二代にわたって長年使用してきた「インテル鋳造機、欄罫鋳造機、KMT邦文活字自動鋳植機」などの廃棄をきめていたが、やはり長年にわたって愛用してきた機器に愛着があり、無償でよいからと、継続して使用する業者に譲渡される方途を探っていた。
やつがれも、友人・知人をあげて引き受け手を探したが、活版印刷関連業者はどこも現状維持が精一杯で、まして大地震と大事故のあとのことでもあり、無償でもこれらの大型機器の引き取り手は無かった。
────────
ところが暮れも押し詰まった2011年12月24日に、台湾の「日星鋳字行」という活字版製造所が、インテル鋳造機の引き取りに名乗りをあげて来日された。
12月24日とはクリスマス・イヴであった。
どうしても年内いっぱいには工場を閉めたいという、長瀬さんのつよいご希望があり、あわただしく「乙仲業者」を起用して、台湾にむけてインテル鋳造機を梱包発送できたのは、2011年12月29日というギリギリの日程であった。

台湾・日星鋳字行にもありました! このちいさな器具が。
「やつがれ-これをナント呼んで、ナニに使っていますか」
「張介冠チョウカイカン代表-名前は知らないけど、欧文活字を鋳込むとき、ベースラインを見本活字とあわせるのに必ずつかっています」
「やつがれ-なるほど、日本とほとんど同じですね」
「柯 志杰カシケツさん-そうか、知らなかったなぁ」
【参考資料:朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる 2012年10月22日

大型機器が搬出された工場内は、ガランとした空間になったが、そこに前から気になっていた、ちいさな「器具や道具」が数個のこされていた。長瀬氏も「欧文活字の検査に使っていた」とされたが、名前は忘れたということであった。
「あした産業廃棄物業者がきて、全~部持っていくから、それはあげるよ」
ということで、その「器具」をいただいて、あわただしい師走の街並みをぬって帰ってきた。
【参考資料:タイポグラファ群像*005 長瀬欄罫製作所/小池製作所を記録する
───────
年が明けて、名前が分からないままというのも落ち着かない気分だったので、年始の挨拶などの会話で、この「道具」の名前の取材からはじめた。
その記録は、
タイポグラフィ あのねのね*016 これはナニ?  2012年02月23日
タイポグラフィ あのねのね*018 2012年03月13日
の2回にわたって『花筏』に発表した。掲載記事にリンクするとともに、要点だけを以下に挙げた。

タイポグラフィ あのねのね*016 要旨

これはナニ? なんと呼んでいますか? 
活版関連業者からお譲りいただきました。

◎  元・岩田母型製造所、高内  一ハジメ氏より電話録取。(2012年01月04日)
   《版見》と書いて《はんみ》と呼んでいました。
◎ 築地活字 平工希一氏談。(2012年01月10日)
   ふつうは「はんめ」と呼んでいます。漢字はわかりません。
   ひとに聞かれると「活字の高さを見る道具」だと説明しています。

◎  匿名希望 ある活字店談。(2012年02月02日)
   うちでは「はんめんみ」と呼んでいます。
   漢字は不確かながら「版面見」ではないかとおもいます。
◎ 精興社 小山成一氏より@メール(2012年02月15日)
   小社では《ハンミ》と呼んでいたようですが、元鋳造課長の75歳男に訊いたところ、
   判面(はんめん)と呼んでいたとのことでした。
────────

タイポグラフィ あのねのね*018 要旨

Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具 

Type Lining Tester  活字列見

《これはナニ? なんと呼んでいますか?  タイポグラフィ あのねのね*016での問題提起》
2012年2月23日、タイポグラフィ あのねのね*016 において、下掲の写真を紹介するとともに、その呼称、役割、使途などを調査する一環として、金属活字鋳造、活字版印刷関連業者からのアンケートをしるした。 
その問題提起とアンケート結果は、上記アドレスにリンクしてあるので、まだ前回資料を未見のかたは、ご面倒でも事前にご覧いただきたい。

簡略なアンケートながら、このちいさな器具の呼称は、
「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」
などと、活字鋳造業者、活版印刷業者のあいだでは様様に呼ばれていたことがわかった。
140年余の歴史を有するわが国の近代活字版印刷術 タイポグラフィ と、活字鋳造業界には、じつに多様な業界用語があり、それがしばしば訛ってもちいられたり、省略されてもちいられることが多い。まして金属活字鋳造業界はながい衰退期にあるため、情報の断絶がしばしばみられるのがつねである。

『VIVA!! カッパン♥』(アダナプレス倶楽部・大石薫、朗文堂)は、「活版印刷の入門書」とされるが、大半を活版印刷に使用する(された)機器の紹介が占めている。あらたな事象を知るためには、迂遠なようでも、まず関連機器の正式な名称とその役割を知ることがたいせつと信じてのことであった。

またその使途・用途は、アンケート結果をみると大同小異で、ほとんどが、
「活字の高さを調べる器具」
「活字のライン、とりわけ欧文のベースラインの揃いを確認する器具」
との回答をえた。
現在の電子活字、とりわけその主流を占めるアドビ社の「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」においては、ベース・ラインの設定は、全角 em を1,000としたとき、120/1000の位置に設定されている。欧文活字設計、欧文組版設計において、もっとも重視される基準線がベース・ラインであることは、昔も今もなんら変化がない。
そしていまや、和文電子活字、和文電子組版でさえ「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」が主流となったため、ベース・ラインはより一層その重要性をたかめている。

わが国の金属活字の時代も、当然ベース・ラインの揃いは重視され、すくなくとも『活字と機械』に紹介された図版をみると、1914年(大正3)には使用されていたことがあきらかになった。
しかしながら、拡大鏡をもちいるとはいえ、この簡便な器具での視覚検査だけではおのずと限界がある。したがって相当以前から、このほかにも「顕微鏡型」とされる、より正確な、各種の活字鋳造検査器具が開発され、また鋳造現場での創意・工夫がなされ、随所にもちいられていた。
そのひとつは「ライン顕微鏡 Lining microscope」とされ、アダナプレス倶楽部が所有している。

  

《文献にみる、この器具の資料》
まだ精査を終えたとはいえないが、この器具はいまのところ外国文献には紹介を見ていない。しかし過去の例からいって、本格的に写真図版を紹介すると、やがて資料の提供があちこちからあるものと楽観している。
またのちほど紹介する、インチ目盛りのついた類似器具が、かつて学術書組版のために、欧文自動活字鋳植機(いわゆる欧文モノタイプ)を使用していた、新宿区内の企業から発見されている。いずれ外国文献の報告はあるものと期待をこめてみていたい。

わが国の資料では、『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)の各章の扉ページ(本書にページ番号は無い。電気銅版とみられる同一図版が6ヶ所にもちいられている)にもちいられたカット(イラスト)の左上部、上から二番目に類似の器具が図版紹介されている。
今回の調査をもって、この図版にみる12点の器具すべての呼称と役割が判明した。それだけでなく、ここにある12点の器具は、すべて朗文堂アダナ・プレス倶楽部が所有し、いまもってほとんどの道具や器具を使用している。すなわちわが国の活字印刷術とは、おおむね明治末期から大正初期に完成期を迎えていたとみなすことが可能である。
 
       

上左:『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)表紙には損傷が多く、若干補修した。本書にはページナンバーの記載は無い。
上右:『活字と機械』扉ページ。外周のイラストは電気銅版(電気版、電胎版とも)とみられ、外周部の同一の絵柄が、都合6ヶ所にもちいられている。

『活字と機械』扉ページより、左上部2番目の器具を拡大紹介した。この時点ではまだ正式呼称はわからなかった。主要素材は銅製で、下のネジを回すと、手前の鉄片が上下する仕組みになっている。取っ手にみえる円形の輪は、この鉄片の上下動を固定する役割を担っている。

右最下部:「活字ハンドモールド──同社では活字台・活字スタンプ」と呼び、1902年(明治35)12月27日に特許を取得している。

また江川活版製造所創業者、江川次之進が、この簡便な器具を「活字行商」に際してもちいたことが、直系子孫が保存していた掛け軸の絵柄から判明している。2012年05月《活版凸凹フェスタ》にて詳細な発表をした。また近近江川活版製造所に関する論文発表の機会も得たい。

《ついに発見! 晃文堂資料から──LININNG TESTER  列見》
これまでも筆者は、かつて吉田市郎がひきいていた「晃文堂」に関してしばしばふれてきた。
ここでふたたび『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』(株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1958)を紹介したい。

『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』は、たんなる活字見本帳ではない。活字版印刷術 タイポグラフィを見据えた、総合技芸をサポートする豊富な内容となっている。そのp.67に問題の器具の写真が紹介されている。
左半分は〈INSPECTION TOOLS〉すなわち〈活字鋳造検査器具〉の各種である。
その(A)に LININNG TESTER  列見 と紹介されている。 

左図の中央部に、(A)LINING TESTER  列見が紹介されている。(B)「ライン顕微鏡 Lining microscope」である。この類似機をアダナプレス倶楽部が所有している。

ここにみる機器は製造ラインが破綻したものもあるが、小社をふくめ、いまも活字版印刷所、活字鋳造所などでは現役でつかわれている。アダナ・プレス倶楽部では《活版ルネサンス》などのイベントに際し、陳列・展示、一部は水面下にあった製造ラインを「復活 ルネサンス」させて、製造・販売にあたっているものである。

ようやく晃文堂が提示したこの器具の呼称があきらかにされた。いまならば和製英語としても「ベースライン・テスター」でも良かろうとおもわれるが、前述のようにかつての活字版印刷術の職人は、欧文を横文と呼んで毛嫌いするかたむきがあり、あえて「欧文のベースラインの行の列をみる → 列見」としたようである。
そしてこれが訛って「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」などと呼ばれるようになったものとおもわれた。
────────

 《『印刷事典』第1版と、『印刷事典』第5版の記述の紹介》
「活字列見」は、ご覧のように愛嬌のある姿をしているので、『花筏』での紹介後に人気をあつめたとみられ、何人かのかたが「つぶやき プロフィール・アイコン」などに使用されているらしい。
そんなうわさを聞くと、責任も発生してくるので、晃文堂カタログに紹介された「LINING TESTER  列見」をもとに外国文献にもあたってみた。
図版紹介はないものの、「lining gauge, aligning gauge ; Linienmaß」の名称での説明が関連用語として外国文献にも紹介されていた。

ついで和洋折衷ともいえる『英和  印刷-書誌百科事典』(日本印刷学会、印刷雑誌社、昭和13年1月12日──印刷学会出版部では同書を『印刷事典 第一版』とする)と、『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)にあたってみた。

あたりまえといえばそれまでだが、事典や辞書とは、名前から引いて表題語にたどりつくものである。したがって狭隘な自分の経験即だけでかたられたり、業界用語として訛ってもちいている用語では、目的語にたどり着けないことがある。いかに「ウンチク派」とそしられようとも、やはり正式な名前とその機能を知ることは肝要である。
結果は以下にご覧のとおりで、おもわず苦笑するしかなかった。

ついでながら『英和  印刷-書誌百科事典』の刊記(奥付)をご覧いただくとわかるが、同書は1938年(昭和13)という、活版印刷が奈落に突き落とされる寸前の、もっとも高揚期に刊行された書物で、秀英舎から大日本印刷に衣替えした直後、しかも矢野道也、郡山幸夫、川田久長ら、日本印刷学会の創立者たちの名前がしるされている。
とりわけ印刷者として、川田久長の個人名と自宅住所がしるされているのは興味ふかい。また1938年(昭和13)における、活版印刷の和欧混植組版の技倆はかるための、最適の資料ともいえる。



『英和  印刷-書誌百科事典』のp.330から Lining の解説がはじまり、p.332 にいたって図版入りで以下のように解説がなされている。

lining gauge (Linienmass
活字の Line を測定する器具。aligning gauge ともいふ。

図版は、これまで紹介したものより、「榎町のおじいちゃん、小宮山のおじいちゃん」の所蔵品の「モノタイプ・コーポレーションの純正測定器」として紹介したものに近似している。


ついで、『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)にあたってみた。同書p.381には、【ならびせん 並び線 (同)ベースライン】の記述に続いて、以下のように図版入りで解説されている。

【ならびせんみ 並び線見  lining gauge, aligning ; Linienmaβ
欧文活字の並び線を測定する器具。(同)版面見、筋見
─────
さて、ここで整理してみよう。
『花筏』での紹介後、あちこちで図版や図像としてご利用いただいたのは嬉しいが、情報の提供はいただけなかった。
できたら過誤のご指摘をふくめて、情報のご提供をいただけたら嬉しい。

◎  『英和  印刷-書誌百科事典』(日本印刷学会、印刷雑誌社、昭和13年1月12日)
    lining gauge (Linienmass
    活字の Line を測定する器具。aligning gauge ともいふ。[図版あり]
◎  『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)
    ならびせんみ 並び線見  lining gauge, aligning ; Linienmaβ
    欧文活字の並び線を測定する器具。(同)版面見、筋見[図版あり]
◎ 『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』
  (株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1958) 
    LINING TESTER  列見[写真図版あり]


◎ まとめ
この器具は、活字鋳造現場、とりわけ欧文活字のベース・ラインの測定・設定にもちいられる。英語では Lining gauge, Aligning, Lining tester などとされ、 ドイツ語では Linienmass とされる。わが国では「並び線見、版面見、筋見、列見」などと呼んだ。

朗文堂-好日録030 漱石公園-夏目漱石終焉の地 漱石山房と、イオキ洋紙店



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《夏目漱石 と 方丈記》
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例タメシなし。
世の中にある、人と栖スミカと、またかくのごとし。
                 『方丈記』(鴨  長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

昭和は、もう遠くなったのかも知れない……。
上掲写真はイオキ洋紙店(162-0805 東京都新宿区弁天町111に2011年まで旧在)の、ありし日の姿である。

初代・伊尾喜イオキ氏(名前を失念/のちほど調査記入予定)は、用紙販売業界の大手「大文字洋紙店」から、戦後すぐに暖簾わけのかたちで独立開業して、市谷・榎町・早稲田・江戸川橋など、近在一帯の印刷・出版業者からの信頼をあつめた。
小社は初代・伊尾喜さんの時代から「二十日会ハツカカイ――大正製薬・中外製薬などの紙器印刷会社・西武堂主催の無尽講だった」の会員として親しくおつき合いし、二代・伊尾喜章社長(70歳で退任したが、ふるい顧客は終始アキラさんと呼んだ)とも親しくおつき合いしてきた。小社の印刷用紙も、ながらくこのイオキ洋紙店から購入していた。

印刷とその関連業界とはふしぎな業界で、ふるい体制がそのままのこっている。
とりわけ印刷用紙の製造販売は、明治初期の「洋紙製造」が「国策(国営)」からはじまったという歴史があり、どことなく硬直した上意下達のおもむきがあり、つい最近まで「山陽国策パルプ」などの社名までがのこっていた。
イオキ洋紙店は、出身の「大文字洋紙店」にならって「洋紙」を社名にもちいていた。すなわち「イオキ洋紙店は、印刷・出版用紙を販売していた」ことになるが、ここでの「洋紙と用紙」のつかいわけは厄介であり、しばしば混同・誤用されている。

流通販売経路も古色蒼然としたもので、製造会社 → 代理店 → 府県商フケンショウ → 紙販売店の流通経路は、流通革命といわれた時代を経て、ネット通販全盛のいまなお盤石のようにみえる。
「府県商 フケンショウ」の名は、かつて印刷用紙販売が「統制下」にあり、(都道)府県知事の許認可を必要としたためで、その認可をうけている用紙販売業者を業界用語で「府県商」と呼んだ。
「イオキ洋紙店」も府県商であった。

画材店や文具店などの、少量の用紙を扱う業者は、ふつう「紙販売店」とされる。「紙販売店」は、容易には府県商を飛びこえて、代理店やメーカーから直接に仕入れることはできない仕組(商慣習?)になっている。
これは出版社や印刷会社のほとんども同様で、府県商を飛びこえて、代理店やメーカーとは容易に取引ができない仕組み(商慣習?)がある。
────────
インキにも似たような例がみられる。すなわち「印刷用インキ」は、いまもって、かたくなまでに「印刷用インク」とはいわない !? 
近代活版印刷 ≒ タイポグラフィは、鎖国下にあった江戸期に、オランダから開港地の長崎に、ほそぼそともたらされた。オランダ語では「Inkt  インキ」、英語では「Ink  インク」とされる。

近代医学もほぼ同様に、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 鎖国下で出身を隠していたが正確にはドイツ人、1796-1866)や、ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)らによってもたらされ、蘭法医学と呼ばれてひろまった。

蘭法医は奇妙な金属製の器具をもちいて、それを消毒と称して熱湯のなかで煮沸シャフツした。それは V 字の形状で、バネ(発条)をそなえていて、「Pincet  ピンセット」というものだと教えられた。
活版印刷でも、活字版組版の結束や、活字の差しかえに際して、やはりピンセットをもちいた。
そのためにピンセットは、長崎の医術用や活版用からはじまり、やがて長崎をでて、各種の小細工にももちいられるようになったが、それでも「ピンセット」と呼ばれてきた。
のちに英語の「Tweezer トゥイーザー」も知ったが、すっかり人口に膾炙カイシャした「ピンセット」の名称は不動にみえる。

ところで「Inkt  インキ」である。「印刷用インキ」業界には「府県商」こそ存在しないが、こちらも印刷用紙と同様に、製造会社 → 代理店 → インキ販売店の流通販売経路が厳然として存在する。
1970年代からつづく活版印刷業務の衰退にともなって、活版印刷用インキの販売にあたっていた「活版印刷資材販売業」は、ほぼすべての企業が「オフセット平版印刷資材販売業」などに転廃業をしている。
それでもまだまだ印刷業界では「インクよりインキ」が優勢であるが、「インクジェット」などのあたらしい機器が登場するにおよび、次第に頑固頑迷な業界でも「インキ → インク」への転換もみられる昨今である。

「活版ルネサンス」を標榜し、あたらしい活版造形者とともに活版印刷を継承していこうとする朗文堂 アダナプレス倶楽部にとって、この「活版用インキ」の確保が困難な状況になりつつある。
すなわち大手のインキ製造会社は、統廃合を繰りかえし、採算性が悪化した「活版用インキ」の製造を廃色・中断・終了にすることが多い。
それも唐突に一枚のファクシミリ(@メールにあらず)が届いて、
「店頭在庫をもって、製造・販売を終了します」
という「通告」型が多いのが悩みの種である。この時点ではすでに製造は終了し、倉庫はおろか、流通在庫などもほとんど無い状態になっている。
そのために「活版用インキ製造の継続」をメーカーと粘りつよく交渉しているが、いくら親しくなっても、大手のメーカーからの直接仕入れはできない慣習があるらしい。

最近は、活版印刷関連機器はもとより、活版印刷用インキに関しても、外国からの問い合わせ、注文が多い。いずれの国でも、あたらしい活版造形者の増加とともに、中古機市場は部品供給などに難があるために縮小している。
また印刷インキにも、かつての活版印刷業者では考えられなかったような、特殊な色彩展開を計るかたも増えている。そのご熱意はわかるものの、その「高度なご要求」の問い合わせには、上述の理由もあって、なかなか対応が困難なばあいが多い。
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《45年ちかくにおよんだ牛込柳町公害問題の解消》
もうかれこれ45年になることにおどろく……。「牛込柳町鉛公害」と、「光化学スモッグ」がおおきな話題となった。
東京の自動車保有台数が200万台を突破したのが1969年(昭和44)であった。翌1970年4月、新宿区牛込柳町で、当時はハイオクタン・ガソリンなどに含有率の高かった、鉛を含んだ自動車の排気ガスによって鉛公害が問題となり、同7月には、環状七号線に沿った杉並区を中心に、広い地域で光化学スモッグが発生した。

ときの東京都知事は美濃部亮吉氏だったと記憶している。環境問題、とりわけ大気汚染がおおきな話題となりはじめたひとつのきっかけでもあった。
ところが「光化学スモッグ」はまだ記憶にあたらしいが、「牛込柳町鉛公害」は、対象地域が狭いせいもあって、おおかたからは忘れられているようだ。なにせ45年も前のことであるから、ネット上の若者などは、おおきな話題となったことも知らない時代となっている……。

しかし「牛込柳町鉛公害」をうけて、東京都からはさっそくさまざまな対策が打ちだされた。まずガソリンの品質が問題となり、無鉛ガソリンが普及した。
牛込柳町交差点は、外苑東通りと大久保通りが交差しているが、どちらも交通量が多く、しかも地形がすり鉢状になっていて、風の吹きぬけがわるいために、排気ガスが滞留しているとされて、大久保通りでの停止線が、坂の上の、交差点からは遠くに引かれて奇妙な景観を呈した

いっぽう外苑東通りは道路幅の拡張がはかられた。外苑東通りは、信濃町から四谷三丁目を経由して、靖国通りとの立体交差の曙橋をすぎ、市谷中之町までは片側二車線で、歩道もゆったりとられている。
すぐに市谷中之町の交差点に達する。ここを左折すると女子医大方面に、右折すると大日本印刷の本社や市谷工場がひろがる。
この市谷中之町交差点から牛込弁天町交差点までのあいだ、およそ1キロほどの外苑東通りが、突然片側一車線になり、歩道もせまく、しかも繁華な商店街がつづいているために、駐停車お車もあって渋滞が激しかった。

この箇所の拡幅工事は、個人経営の商店が多かったためもあって、立ち退きが難航し、1970年代の初頭から、断続的に40年ほどのちのいまもつづいている。それでも完成はいつになるのかわからない状態である。
イオキ洋紙店はこの外苑東通りに面しており、この拡幅工事の影響をもろにうけた。すなわち倉庫のほとんどと、本社ビルの大半が立ちのきを終始迫られることになり、ついに2011年をもって、暖簾と社員と顧客を親族企業に譲渡し、70年ちかくにわたった「イオキ洋紙店」の看板をおろした。
さきに紹介した『方丈記』は以下のようにつづく。

玉敷タマシキの都のうちに、棟を並べ、甍イラカを争へる、高き、賤しき、人の住まひは
世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年コゾ焼けて、今年造れり。或いは大家オオイエ亡びて、小家コイエとなる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は
二、三十人が中ウチに、わづかに一人二人なり。
朝アシタに死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。
                 『方丈記』(鴨  長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

《夏目漱石と愛猫家 漱石終焉の地》
世の中には、愛猫家 アイビョウカ と愛犬家がいる。やつがれはなまくらで、猫も犬も好きであるから、ながらく犬と猫をいっしょに飼っていた。
ところが風邪が引き金でひどい喘息になって、呼吸困難に。ついには入院騒ぎとなって、医者に犬猫などのペットの飼育を固く禁じられた。犬猫のフケ、抜け毛、寄生しているダニの死骸などが呼吸器官にはいって、喘息を引きおこすのだそうである。

そんなわけで、いまは犬猫の飼育をあきらめている。その分、愛猫家と愛犬家を冷静にながめることができるようになった。
愛猫家は、ともかく感情の起伏が激しく、猫と同様に、ときおり爪を立て、引っ掻いたり、噛みついたりするから厄介だ。愛猫家を、ゆめ、こころやさしきひとなぞとおもわぬほうがよい !?

やつがれの娘は極端な愛猫家である。それがどうしてか猫どもにはわかるらしい。娘時代には、ちかくの遊歩道で、
「おいで」
と、ひとこえかけると、どこにいたのか野良猫が四五匹でてきて、ゾロゾロと娘のあとをついて歩くのは不気味でさえあった。やつがれがいくら呼んでもノラどもはわいてもこないが……。
いまは結婚して杉並区のマンション11階が住まいであるが、ベランダ一面にネットを張って、猫(いずれも捨て猫・ノラ猫だった)を三匹ほど飼っている。当然猫と同様に感情の起伏が激しく、ときおり爪を立て、引っ掻いたり、噛みついたりするから極めつきに厄介だ。

いっぽう愛犬家は……。これはやめておこう。愛犬家が気がついていないことだから。

かつて、外苑東通りの弁天町にイオキ洋紙店があったころ、その倉庫裏からでると、すぐのところが「新宿区立 漱石公園――夏目漱石終焉の地、漱石山房」だった。漱石も愛猫家であったようである。

夏目漱石の小説が好きだったころがある。
最初のころは『吾輩は猫である』『倫敦塔』『坊つちやん』など、初期の時代の作品が好きだった。
次第に年を重ね、漱石が逝去した数えの50歳(漱石は満49歳10ヶ月で卒した)を越えるころになると、漱石後期三部作とされる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』などを好んで手にした。


 

 
 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5)12月9日は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。

なにしろここは、イオキ洋紙店のすぐ裏手で、倉庫の裏からでるとすぐそこだったので、商用がおわるとしばしばここをたずねた。あかるくて、なんにもなくて、よいところである。
漱石の生誕の地も、ここからあるいて10分とかからない。
漱石は英国に留学したり、松山の英語教師になったりしているので、英語通で旅好きなのかとおもっていたら、どこにいっても、すぐさまこの牛込界隈に、まるで家に駆けこむ猫のように立ち戻っていた。それはまるで「猫はひとではなく、家につく」といわれるようなもので、そしてここに歿した。

この近くには佐々木活字店もある。活字店訪問のおり、久しぶりにここをたずね、すっかり更地になって、はやくも夏の野艸が生い茂っているイオキ洋紙店の跡と、漱石公園・漱石山房をたずねた。そしてフト『方丈記』の一節がおもいうかんだ次第である。
─────
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例タメシなし。
世の中にある、人と栖スミカと、またかくのごとし。
玉敷タマシキの都のうちに、棟を並べ、甍イラカを争へる、高き、賤しき、人の住まひは
世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年コゾ焼けて、今年造れり。或いは大家オオイエ亡びて、小家コイエとなる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は
二、三十人が中ウチに、わづかに一人二人なり。
朝アシタに死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。
                 『方丈記』(鴨 長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

【講演録】文字と活字の夢街道


『四天王寺』所収。講演録「文字と活字の夢街道」
2004年01月05日  片塩二朗

大阪市天王寺区に聖徳太子建立の寺とされる四天王寺がある。
四天王寺は593年、一説には623年ころに創建されたとみられ、山号を荒陵山とする。
もちろん著名な名刹のお寺で、伽藍の配置は塔・金堂・講堂が、中心線上に一直線にならんだ「四天王寺式」とされる荘重なものである。

堂宇は幾度も焼失したが、第二次大戦後に復元建造がなり、いまは正式には「和宗総本山 荒陵山 四天王寺」という。気取りのない親しみやすいお寺であった。

 この四天王寺では毎月第二土曜日に、各界から講師を迎えて「四天王寺仏教文化講演会」を開催している。この講演会はすでに数百回を数えているが、過去の講演記録をみると、必ずしも仏教関係者ばかりではなく、キリスト教関係者を含むひろい範囲にわたっている。

あるご縁があって、やつがれがこの「四天王寺仏教文化講演会」の講師として招かれたのは、もうふるいはなしで、平成11年(1999)6月のことであった。
前の月の講演者が、建築家の安藤忠雄氏だとうかがって、肩にちからが入ったことを覚えている。それでも当時50歳代なかばの年齢で、日ごろから冠婚葬祭を苦手とすることを広言し、しかも不熱心ながら浄土真宗の門徒たるやつがれが、どうして「四天王寺仏教文化講演会」の講師に選ばれたのかはいまだによく解っていない。

ただ、講師控え室でお抹茶をいただきながらうかがった寺僧のはなしでは、しばしば講演中に居眠りをしたり、座布団を枕に、横になる老人がいるそうである。ある講師はそれに憤慨して、講演を中断して、途中で帰ってしまったことがあったとされた。

 「この講演会は、土曜日の午後に、家にいてもなにかと居心地のわるい、ご高齢の皆さんへの仏さまの功徳なのです。ですからご講演中にご高齢者が居眠りをされても、どうぞご寛容に……」
とのはなしが印象的であった。 
────────
そんなわけで、おもに関西の文字と活字 ── いつものとおりタイポグラフィのはなしをさせていただいた。畳敷きの大広間で、来場者は150名あまりいらしていた。やつがれの教え子などの関係者をのぞけば、おそらく講堂のなかではやつがれがもっとも若輩だったかもしれないが、みなさん居眠りをされることなく、興味ふかそうに聴いておられた。
講演後の懇話会では、元教職にあったというかたも多く、相当の教養人がお集まりだったことを知って慌てたほどだった。

すでにふるいはなしでもあり、この講演会のことはほとんど忘れていたが、四天王寺勧学部の担当者から連絡があって、月刊誌『四天王寺』に講演録として掲載するとのことであった。
よくわからないまま気楽に承諾したが、通巻699号という、歴史のある立派な月刊誌に掲載されていた。
担当者は、90分ほどの、それもとりとめもないやつがれのはなしを、とてもよくまとめていた。また写真のいくつかは、わざわざ現地に出向いて追加取材をされたようで、掲載誌ではやつがれの写真ではなかった。したがって四天王寺勧学部の担当者は、相当の力量のあるかたとみられたし、またご熱意のほどがしのばれた。
またその後にも、再度の講演を慫慂されたが、
「滅相もございません」
と、仏教用語でお断りした。相手もすぐにわかったようで、お互いに大嗤いした。

というわけで……、たまたまふるい資料がでてきた。あのころ、片塩二朗は大阪にいって、やはりひとつばなしで、こんなはなしをしていたのか ── とわれながらあきれる内容ではある。
────────
ここに紹介した写真のほとんどは、2012年に関西を再訪し、いつものコースを巡ったときのものである。ところが、黄檗山萬福寺宝蔵院オウバクサン マンプクジ ホウゾウイン『鉄眼一切経テツゲンイッサイキョウ』の原本となった中国福建省『嘉興蔵カコウゾウ』が、いつのときか、同書を中国から購入していた北陸地方の黄檗宗の末寺から、本山たる同寺に贈呈されて「萬福寺宝物館 文華殿」に展示されている。そのために原本(オリジナル)とならぶことになった、覆刻版『鉄眼一切経』は、どうにも微妙な立ち場になっていた。
また、「王仁博士」の伝承墓地は、20年ほどまえには訪れるひともほとんどいない、閑静な場所だったが、いつのまにか妙に大仰かつ華美になっていて、なにか落ち着かないものがあった。

さいきんは、関西圏でもあたらしい活版造形者の増加がみられるし、一部ながら、若者に背を押されるように、ふるくからの活版印刷業者が後継者を得られて活性化され、元気になられていることはうれしいことである。
そんな関西圏の皆さんへの連帯と、エールの意を込めて、できるだけ講演録を優先し、若干の修整をくわえてご紹介したい。

★      ★      ★      ★

 四天王寺仏教文化講演会 聴講録 ③ 

文字と活字の夢街道

片塩 二朗

《大阪からはじまる、わたしの夢街道》
わが国ではあまり知られていない学問ですが、わたしの専門はタイポグラフィです。
このタイポグラフィということばには、うまい翻訳語がありません。明治の翻訳者は「活字版印刷術」と訳しました。何か職人さんの秘術か秘技のようですね。

タイポグラフィは、本来は印刷という「技芸」であり、それをもととした学問・研究だったものです。ところが残念なことに、わが国では近代印刷そのものが、欧州での産業革命期を経た、完成された「産業」、それも「文明開化」の象徴として、書籍印刷、新聞印刷、雑誌印刷、商業印刷にまでわたり、なにもかもが一緒に導入されたために、キリスト経典の写経からはじまる、書籍印刷のなかで培われた「印刷における技芸」という側面を知ることが少なく、多くの誤解に包まれています。

わたしは「タイポグラフィ ≒ 書籍形成法」ということばを使っています。形を成す、形成ということばは、ドイツ語では「ゲシュタルト」です。ドイツのわたしの友人は、ほとんどゲシュタルタ、またはタイポグラファと呼ばれています。

わたしの会社は新宿の朗文堂というちいさな出版社です。つくっている書物の大半は書籍形成法、タイポグラフィに関する書物です。売れているとはあまり自慢できませんが、専門書出版社として、そこそこの評価はいただいております。
おおきな出版社ですと、企画部があり、編集は編集部、営業は営業部などと分担して担当しますが、わたしどものような零細な出版社ですと、企画を立て、執筆者を捜す。見つからなければ仕方がないから自分で原稿を書く。そして、パソコンを叩き、組版システムを使って、印刷・製本となります。世界規模でもタイポグラフィ専門書の出版社は似たような規模です。

完成した書物は、書籍の問屋さん ── 取次トリツギのコンピュータまかせの配送(委託配本)をせずに、各地の書店さんを訪問し、実物をご覧いただき、いただいた注文数だけ、一店一店、できるだけ丁寧に取次経由でお納めしています。
この方式は限られた読者層を前提とする専門書の版元がよく採用していますが、大量一括販売を目的とする前者を委託配本方式、わたしどものような方法を注文配本方式と呼んでいます。

このような事情で、しばしば大阪の書店さんをお訪ねしています。大阪では書店向け営業の仕事が終わりますと、それからがわたしのひそかな楽しみの時間です。
おおむね、こちらの四天王寺さんに足を運びます。ここからわたしのタイポグラフィの夢街道がはじまることになります。

 《この町から文化文明の再発信を》
大阪は出版の町、印刷と出版の発信地でした。
「でした」という過去形なのが残念ですが……。
いまでも大阪はとても活力ある「商都」ですが、美術館や博物館、コンサートホール、あるいは大阪発のメディアが少ないようです。
近代金属活字版印刷術、タイポグラフィの歴史は、江戸時代の開港地、長崎で揺籃期ヨウランキをすごして、ここ大阪の「大阪活版製造所」から本格開花しました。
すなわち大阪城大手門前に、明治4年(1871)に大阪活版製造所が開設され、ついで青山進行堂、森川龍文堂などの著名な活字鋳造所が大阪の印刷・出版・新聞文化を支えました。

ところが近年は、大阪の情報発信力は低下しています。例えば活字メディアとしてのタウン誌です。一見地味な存在ですが、各都市や地域で魅力的なタウン誌がたくさん発行されています。発行にはご苦労があるようですが、それが都市や地域を活性化させ、特色ある存在にしています。
大阪にもいくつかはあるのですが、まだまだ数が足りないのではないかとおもいます。

江戸期の大坂は町民文化の花が開いた町でした。
江戸前期の浮世草子作者・俳人の井原西鶴(イハラサイカク 1642-93)は『好色一代男』『西鶴諸国ばなし』などを著しました。
浄瑠璃・歌舞伎脚本作者、近松門左衛門(1653-1724)は『曾根崎心中 ソネザキシンジュウ』『国姓爺合戦 コクセンヤガッセン』『心中天の綱島 シンジュウアマノツナシマ』などで大活躍しました。
また難波の旅舎で歿した松尾芭蕉(1644-94)は『のざらし紀行』『笈オイの小文』『奥の細道』などをのこしています。

これらの書物のほとんどは木版刊本ですが、すばらしい出版物が大坂からたくさん発行されました。そして、京阪神地区の読者の需要をみたすと、その印刷版としての版木が「くだりもの」として江戸に搬送されて珍重され、江戸でも刊行されていました。江戸に搬送する価値はないものと評価されると「〇〇〇〇」とされたようです。

江戸には幕府・行政機関がありましたから、官僚の町ですね。あるいは職人の町、消費の町でした。ですから、江戸期から明治初期までは、書物を通じて大阪から文化が発信されていたことになります。
ところがここのところ、大阪発の情報が少ないようにおもいます。これは残念なことです。聖徳太子ゆかりの、この四天王寺さんをはじめ、伝統ある大阪のまちから、ぜひとも、もう一度、文化文明の発信をしていただきたいとおもうのです。
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わたしは信州信濃、長野県の北部で生まれました。越後新潟県との県境で、豪雪地帯で知られ、また島崎藤村の『破戒』や『千曲川のスケッチ』の舞台になった 飯山 というちいさなまちです。
高校生になってまちを出たときは人口4万3千人ほどでした。現在は近隣の町村を合併しても2万3千人ほどです。豪雪地帯で、過疎化がどんどん進んでいます。
過疎地というだけでなく、小説の舞台であろうがなかろうが、悲しいことに、文化文明をそこ飯山からは発信できない辛い現実があります。

なぜならわたしの郷里には、印刷の強固な基盤がありません。
印刷という技芸や技術はとても大きな総合産業で、おおきな裾野、関連産業、関連文化を必要としますので、本格的な出版となりますと、とても一社だけで孤立してはできません。ですからわたしが郷里に帰って情報発信しようとしても、なかなかできないわけです。

その点、大阪府の人口はおよそ880万人、周辺都市人口をあわせれば1,000万人余の巨大都市です。とりわけ大阪市の人口は270万人ほど、これは英国のロンドンとほぼ匹敵する、規模のおおきなまちです。十分に情報発信ができる基盤があるはずです。
しかし、それが難しくなった理由というのはたったひとつです。それはここからすぐそこ、この四天王寺さんの境内にある『本木昌造 モトギ ショウゾウの碑』に象徴的に表れています。

《近代印刷版印刷術の始祖・本木昌造モトギショウゾウ》
四天王寺さんのご境内、ここからすぐのところです。
いまは墓地にのみ込まれたかたちになっていますが、明治のころには、ご境内の参道の一部だったようです。そこに本木昌造記念碑と、等身大の本木昌造さんの銅像が立っています。
本木昌造は正式な士族ではありませんが、長崎阿蘭陀通詞オランダツウジとして苗字帯刀と士装が許されていました。陣笠をかぶり、大刀と小刀を携えた旅姿としてのこされています。家紋は本木昌造の裏紋で、活字界ではよく知られたもので、俗に「まる に も」とされる家紋です。

明治30年(1897)の創建でして、台座には篆書で「日本鋳造活字始祖」とあります。撰文は何禮之 ガ レイシ、書は吉田晩稼 バンカ による、おおぶりで勇壮な楷書です。いずれも長崎の本木一門の出身者で、明治期に活躍したかたたちです。台座はいくぶん損傷がみられますが、創建時の姿を保っています。

本木昌造(1824-75)は、徳川幕府の長崎在勤のオランダ語の通訳、阿蘭陀通詞で、このかたが近代活字版印刷術、つまりタイポグラフィを日本にひろめたひととされています。
ですからこのかたを、わたしたちはたんに「日本鋳造活字始祖」としてではなく、もうすこし積極的に「日本近代活字版印刷術の始祖」と讃えています。
かつて、昭和60年代の末ころまでは、毎年10月1日、ここ四天王寺さんで、大阪の印刷・活字・出版関連業者が集まって「本木昌造祭」が営まれていました。
まず、長崎うまれのこのかたの銅像が、なぜこちらの四天王寺さんにあるのかということを、おはなししたいとおもいます。

本木昌造記念碑は、大阪在住の4人が発起人となって明治26年(1893)、本木会を結成したことにはじまりました。当初は、この碑と銅像を高麗橋のたもとに立てようとしたようです。というのは高麗橋が大阪ではじめての鉄橋で、この鉄橋の建造に尽力したのも本木昌造だったからです。

しかし当時の価値観で、位階(地位・身分の序列で等級の意)がないひとの銅像建立はまずいということになりました。同じ理由で、中之島公園、天王寺公園と相次いで断られました。それで四天王寺さんにお願いして、ようやくこちらの境内の一画をお借りしたようです。
ついでですが、本木昌造は明治最末期になって従五位下を、後継者の平野富二(東京築地活版製造所、石川島平野造船所/現 IHI の創業者)も従五位を追贈されています。

碑面には明治30年9月建立となっていますが、現在立っている銅像は三代目です。最初の銅像は日清戦争(明治27-8、1894-5)の影響で、台座だけが先行して、実際に銅像が建立されたのは明治33年(1900)に銅像が建立され、完成をみたと記録されています。
不幸なことにこの銅像は、戦時中の金属供出令により軍需物資として供出されてしまいました。昭和27年(1952)に仮再建されましたが、これは簡易的なものでした。そして昭和60年(1985)に戦前の姿を再現して建立されてこんにちにいたっています。

本木昌造は幕末の混乱でとても苦労されたかたですが、オランダ通詞としての本木家の伝統もあって、西洋の近代活字版印刷の書物に触れる機会がおおかったせいでしょうか、活字鋳造とタイポグラフィに興味を持ったとされています。
このように幕末から明治最初期の、日本における近代活字版印刷術を担ったほとんどのかたは、徳川幕府の旧官僚でした。
ところが明治維新の結果、中央官庁は戊辰戦争に勝利した、薩長土肥を中心とした旧西南雄藩の新権力が握りました。もちろん旧徳川系の士族の多くは失業したわけですね。けれども、活字鋳造、活字組版、印刷は、読み書きの能力が相当高度でないとできません。それには旧徳川系の失業士族にはピッタリの職種でした。

当時の日本は世界でも有数の識字率を誇っていましたが、印刷士という職業は、世界的にリテラシーの能力の優れた人が担う技芸であり、産業でもあったわけです。ですから戊辰の戦争に敗れたとはいえ、読み書き能力にすぐれた旧徳川の官僚団がその任に就きました。
ゆえに印刷士は、わが国のばあい、いまもって、どことなく、反権力、反中央志向がございます。これが典型的に表出したのが大阪の地です。

本木昌造の本拠は長崎でしたが、明治4年、大阪に印刷所を開設しました。「長崎新塾出張大阪活版所、のちの大阪活版製造所」であり、日本における本格的な印刷所の最初です。
この開設には薩摩藩の出身ながら、官界につくのを潔しとせずに、関西財界の雄となった 五代友厚 (ゴダイ トモアツ、大阪商工会議所初代会頭、天保6年12月26日(1836年2月12日)- 明治18年(1885年)9月25日)の要請と資金支援があったとされています。

その後、本木昌造は京都に「点林堂テンリンドウ」という印刷所を開設しました。点林堂とは一種の洒落でして、「林」という字の左側に点を打って、すこし離すと「本木モトギ」になるわけです。当時の印刷人は酒落が得意で、反骨精神に富んでおりました。
それはさておき、大阪市東区大手前に誕生した日本初の本格的印刷所では、廃藩置県の太政官布告が印刷されています。廃藩置県はじつは大阪から発せられていたわけです。

ところが昭和期前半、戦前の大阪で不幸な事件がありました。東京のある印刷業者が、
「金属活字は贅沢だ、文字のサイズの大小や、楷書だ明朝だと能書きをいうな、活字は一種あればいい。ほかの金属活字は国に寄付(献納・売却)して、聖戦遂行だ」
と提唱しました。それを官僚が巧妙に利用して、昭和13年(1938)ころから、官製の国民運動「変体活字廃棄運動」が興りました。

この運動に東京の活字鋳造関係者は相当はげしく抵抗しました。また実務にあたった印刷同業組合、活字同業組合のお目こぼしもあって、東京の活字と活字母型は結構戦争の中でも生きのこっています。
ところが大阪では、中央から派遣されていたひとりの高級官僚が、この運動(活字と活字母型の献納・売却)を一種の使命感をもって強力に推進し、活字母型はほぼ全面的に没収されました。
最近明らかにされましたが、これらの資材は、実際には戦時物資として使われることもなく戦後をむかえましたが、戦後の払い下げでも混迷があり、結局有効に利用はされていません。

このように「変体活字廃棄運動」は、発信地の東京よりも、たったひとりの中央官僚が、きわめて精力的に「運動」を推進したために、大阪で猖獗ショウケツをきわめました。東京では「印刷業者の企業合同」はかなり強引にすすめられましたが、活字業者はなんとかその難を逃れたケースが多くみられます。

その結果、大阪の活字鋳造の基盤がゆらぎ、脆弱となり、戦後の復興にあたってみられた「出版物渇望時代」に、大阪では活字の供給がおもうに任せない面がありました。
金属活字は使用すると損耗します。その活字が無ければ、印刷も出版も新聞発行もできませんから、多くの出版社や新聞社は、その軸足を、活字の供給が円滑な東京に移してしまいました。これは不幸なことでした。文化文明の根底には、なんといっても活字と書物があります……。

昭和20年までの大阪には、多くの出版社がありました。変体活字廃棄運動で活字がなくなったから東京へ行った出版社がたくさんあるのです。すなわち文化文明の根底には活字があります。そしてはっきりと目に見える物として、書物が生まれる。それが文化文明をさらに発展させるのではないかとおもいます。
この魅力に富んだ大阪に、もう一度活字と印刷と書物を見直す気運が高まり、活力ある文化文明を作っていただきたいというのがわたしの願いです。

《世界最古の印刷物のナゾ》
奈良の法隆寺に「百万塔陀羅尼 ダラニ」という重要文化財に指定されている小塔があります。重要文化財といってもその一部であり、同じ形のものがいくつかあり、かつて奈良の骨董店では60-100万円くらいで販売していました。この金額の差は何かといいますと『無垢浄光大陀羅尼経 ムクジョウコウダイダラニキョウ』という仏教経典が中にあるかどうかです。

なぜ世界最古かといえば、『続日本紀』につぎのような記録があります。
「はじめ天皇の八年、乱平らげるとき、すなわち弘願を発して三重の小塔百万基を作らせたもう。高さ四寸五分、根元の径三寸五分、露盤の下に各々の根本・慈心・相輪・六度などの陀羅尼を置く。ここに至りて功(工)終わり、諸寺に分置す」。

ここでの乱とは恵美押勝エミオシカツ(藤原仲麻呂 706-64)の乱のことです。この戦乱が治まったことに感謝し、国家の安泰を祈って、770-71年につくられたものとされています。
塔は木製のくりもので、標準的な高さは21.4センチ、基底部の直径は10.5センチほどのちいさなもので、全体に白土ハクドが塗布されていましたが、剥落したものも少なくありません。

これを百万塔作り、それぞれの塔心部に四種の陀羅尼を丸めて収め、十寺に十万基ずつ賜った ── すなわち都合百万枚の印刷物を収容した百万塔となったわけです。
おなじ『続日本紀』宝亀元年4月26日(770年5月25日)の条には、完成した百万塔を、大安寺・元興寺・興福寺・薬師寺・東大寺・西大寺・法隆寺・弘福寺・四天王寺・崇福寺の10の官寺に置いたことがしるされています。
すなわちいまなお、百万塔の「印刷物」は、製造年代の明確な資料が存在する最古の印刷物であることに争いはありません。

ところがこの四天王寺をふくめて、これらの大きなお寺の伽藍の多くは、何度にもおよぶ焼失の歴史を持っており、小塔もほとんどが失われました。現存するのはわずかに法隆寺だけになっています。明治はじめの調査では、四万数千基あったとされています。
しかし、ほぼ同時期に廃仏棄釈運動があり、そのときに法隆寺も荒廃したようです。貴重な品だから売れば儲かるぞと、何人かが小塔を持ち出してしまったわけです。
法隆寺に残存した小塔には『無垢浄光陀羅尼経』の六種の呪(陀羅尼)の印刷された経文が入っていています。経文は写真の通り、あまりお上手な字でも、印刷物でもございません。

昭和27年(1952)、大阪の印刷学会西部支部でこの経の研究が行われました。これは印刷物とされているが、印刷版は何だろう。印刷法はどうしたのだろうという研究です。
ある方は粘土に文字を浮き出しで作り、陶器のように焼き固めたのではないかといい、ある人は銅板を叩き出すようにした、あるいは凹ませた物の中に銅を流して印刷版をつくったのではないかという説。しかし、これらの説は否定されました。

最後まで残ったのが板目木版印刷版と、銅と錫の合金によろ印刷版説、あるいは膠のような物を固めて印刷版として使ったのではないかという説です。
印刷法も、捺印のように押圧したのか、紙片を上に置いてバレンのようなもので擦ったのか、議論はさまざまになされましたが、結局さしたる成果をあげないまま、研究会は解散しました。
したがいまして、今もって、どのようにして印刷版がつくられ、印刷(摺印、押印)されたのか定かではない、ふしぎな重要文化財です。

《現存する世界最古の印刷物は、韓国の陀羅尼経?》
日本の歴史教科書の多くは、法隆寺の百万塔陀羅尼が770年または771年に作られた世界最古の印刷物であるとしています。ところが、これを世界最古としているのはほぼ日本だけです。
残念ながら、現在世界最古の現存する印刷物、ただし明確な文書記録はないものの──は、韓国の『無垢浄光陀羅尼経』とされてほぼ争いのない現実があります。こちらは早い説をとれば705年、遅い説をとれば751年の板目木版印刷物です。
もちろん文化と文字の伝播の歴史からみて、中国にはよりふるいものがあったものとみられていますが、現在までに中国からの確実な報告はありません。

1) 新羅のみやこ、慶州にある仏国寺全景。
2) 仏国寺石橋。春は櫻、秋はもみじの名所でもある。
3) 仏国寺大雄殿前の釈迦塔(韓国国宝第21号)。
   この下部から二層めの基壇から経典が発見
された。
4) 経典は鍍金された金属製容器に入れられて、密閉された状態で発見された。
    推定ながら板目木版印刷とされている。

5) 仏国寺釈迦塔出土『陀羅尼経』(統一新羅、8世紀、長さ≒60センチ)韓国国宝第126号 
[引用資料:『慶州』(宇進文化社、1992)。『国立慶州博物館』(通川文化社、1988年)]

『無垢浄光陀羅尼経』は、韓国の中東部、慶州にある仏国寺の講堂前、釈迦塔の第二層目から1966年に発見されました。こちらの方が古いことは寺伝をふくむさまざまな論拠から証明されているのですが、日本の学者や学会はこれを頑として認めていません。
わが国ではこの発見の報に接したとき、最初のうちは新羅の僧が中国に行き、中国からお土産でもらってきたものを塔の中にしまいこんだのだろうとしました。それがこの塔が建立されたとされる705-751年ぐらいだったのではないか……。そこまではしぶしぶ認めたわけです。
しかし、この推測も否定されました。否定したのは皮肉なことに日本の通産省(現経済産業省)の下部機関です。

この経緯を説明しますと、まず韓国政府からこの紙の成分の研究依頼があったことにはじまりました。そこで高松の通産省紙業技術研究所で手漉き紙の研究をされている方たちが、ソウルの中央博物館に行って調査・研究されました。その調査を経て、紙の素材は韓国産のコウゾに間違いないということが通産省の技官から発表されました。

当時の日本の紙は、コウゾとガンピの混合材科を使っています。日本の紙は世界でも優秀な品質と評価されますが、その評価の元はガンピの混入です。ですから調査した紙は韓国固有の紙であるとして製紙業界では異論はなかったわけですが、東洋史、仏教史を研究されている方はこれに関しては沈黙を守っておられます。
あるいは、法隆寺百万塔には『続日本紀』などの信頼にたる文書記録があるのにたいして、慶州仏国寺釈迦塔には寺伝程度しか文書記録がないことを理由にあげて、その製造年代に疑念を呈しています。

仏国寺から発見されたこの経典は、ソウルの中央博物館に収蔵されています[この建物は取り壊されて現存しない]。
この博物館は少し問題のある建物です。というのは、ソウルの中心、李王朝の宮廷の真ん前に、当時の日本政府が朝鮮総督府としてこの巨大な建物を建てたわけです。戦後、韓国はこれを中央博物館として使っていましたが、現在は、取り壊され、建て替え中のようです。

わたしはソウルの書店にも営業に行きますが[現在はほとんど行かないが……]、時問が空きますと中央博物館によく行きました。
かつて親日家の友人に現地で聞いたはなしですが、そこではおもしろい話がありまして、建設当時、中央博物館の中央ホールの壁をぐるりと取り巻く彫刻絵柄をつくっているとき、日本の某大佐が、
「この花はどうも桜では無いようだ。何の花だ」
と訊ねたそうです。
「大佐殿は関東のご出身でいらっしやいますか」
「そうだ」
「関東では吉野桜しかないようですが、ここに描いたのは関西方面で咲く牡丹桜です」
という説明をしたそうです。
これは当時の韓国の人のひそかな抵抗だったようで、そこに刻まれたのは吉野桜でも牡丹桜でもなくて、まぎれもない韓国の国花、ムクゲでした。晩夏に薄紫の可愛い花をつけます。

《王仁博士の中国千字文》
そんな韓国の国花ムクゲが豪華に咲き誇る場所が関西にあります。場所は大阪府枚方市藤阪東町2丁目。JRの長尾駅からゆっくり歩いて15分ほどです。そこに王仁ワニ博士の伝承上の墓地があります。
「なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな」(『古今和歌集』仮名序)
という有名な歌がありますが、これが王仁博士の作と伝えられています。

王仁(ワニ、生没年不詳)は、『古事記』と『日本書紀』の双方に記述されている人物で、百済から日本に渡来して、『千字文』と『論語』を伝えたとされるひとです。
『日本書紀』では王仁ワニ、『古事記』では和邇吉師ワニキシと表記されています。
『古事記』には以下のように紹介されています。

又、科賜百濟國、若有賢人者、貢上。故受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十卷・千字文一卷、并十一卷、付是人即貢進。
〔此和邇吉師者、文首等祖〕 
読み下し:天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて[百済が]献上した人の名は和邇吉師ワニキシという。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。
〔この和邇吉師が、文首フミノオビトの始祖である〕
──『古事記』(中巻・応神天皇二十年己酉)

このように応神朝オウジンチョウ(5世紀前後に比定されている)に、皇子の教育係として派遣されてきたとされる人物が王仁さんです。彼は日本の史書には『論語十巻』と『千字文一巻』を持ってきたと書いてあります。しかし、この『千字文一巻』のくだりは疑わしいというのが歴史研究者、東洋史のかたの見解のようです。
そもそも『千字文』というのは四字を一句として二百五十句で構成された、文字の勉強のための教則本です。
日本の東洋史の方がなぜ信用できないとおっしゃるかというと、その当時、つまり5世紀前後とされる応神天皇の頃には、6世紀中葉、中国でできたとされる『千字文』はまだ成立していなかった。したがって、これは後世に書かれた古事記の作者の創作だろう、というのがほとんどの方の見解のようです。

『千字文』とは、中国南朝のひとつ梁(みやこは建業・南京 502-557)の 周興嗣 シュウコウシが、梁の武帝の命によって撰した韻文一巻です。四字一句、250句、重複のない一千字からなり、「天地玄黄 宇宙洪荒……謂語助者 焉哉乎也」におわります。
初学の教科書や習字手本として流布したものですが、周興嗣の作以前にもあった可能性が指摘されています。しかも中国の千字文というのは一つではなく、別種の千字文がございます。中国では最近も発見されておりますが、十種類ぐらいはあったのではないかという説が多くございます。
ともあれ、5-6世紀の事象であまり最古論争をしても収穫は少ないものです。これは歴史のロマンということでソッとしておきたいところです。

 《隠元インゲン和尚のもうひとつのおみやげ》
つぎに江戸時代前期、鉄眼禅師テツゲンゼンジが17年もの歳月をかけて覆刻開版(原本どおりの複製版の作成。鉄眼は覆刻法・かぶせ彫りという方法によった)した重要文化財『鉄眼一切経テツゲンイッサイキョウ』についておはなしいたします。

鉄眼(テツゲン 諡号:宝蔵国師、1630-82)さんは、寛永7年、今でいう熊本でお生まれになり、13歳で出家、23歳で黄葉宗 オウバクシュウ の隠元禅師 インゲンゼンジ に帰依されたかたです。
現在は萬福寺マンプクジ境内に宝蔵院 ホウゾウイン という塔頭があり、その後背地に重要文化財『鉄眼一切経版木収蔵庫』と、墓地(開山塔)があります。

一切経 イッサイキョウ とは、別称大蔵経 ダイゾウキョウ ともいわれ、仏教聖典の総称とされています。経蔵、律蔵、論蔵の三蔵と、それらの注釈書を網羅した仏教の大全集です。
日本の遣隋使、遣唐使たちは、仏教経典を一生懸命に日本に運んでいらっしゃいますが、江戸時代になっても、仏教大全集というべき一切経は、高価な中国製の刊本を購入するしか無く、まだ日本製の物がなかったわけです。

京阪線に黄葉駅があります。駅の近くに黄葉山萬福寺があり、これが隠元(中国明代の福建省の僧侶。1592-1673)和尚創建の寺です。隠元和尚はインゲン豆だけでなく、スイカをもたらしましたし、喫茶のふうをひろめて普茶フチャ料理ももたらしました。

隠元和尚はまた、福建版一切大蔵経(嘉興蔵カコウゾウ)を持ってきました。とても大量の経典です。それを日本の若い僧侶・鉄眼が複製版をつくりたいと願い出てゆるされました。
鉄眼は綴じられていたもとの経典を外して、それを裏返して桜材の板目木版の上に置いて、漆と膠で貼り付け、それをなぞって彫刻しました。これが覆刻法──かぶせ彫りという複製法です。
版木はおよそ六万枚で、今日でもほとんどが保存されていますし、印刷(摺印)も続いています。

これには楷書体、明朝体という二種類の字様(木版刊本上では書体を字様とする)が使われています。こんにちの日本でもとてもよく使われる書体ですが、こんにちの活字明朝体とはすこし異なっています。
近代明朝体、とりわけ金属活字の明朝体は、西洋価値観が外国占有地・租界の上海で浸透していて、当時の欧米活字の主流であった「モダンスタイル・ローマン」に倣って、水平線・垂直線で構成されるものとなり、『鉄眼一切経』にみる字様とはかなり異なります。
ですから中国の人は、金属活字明朝体を「印刷体・倣宋体」と呼び、大袈裟で、内容が空疎で、どうにもできが悪い書風だという風に見ているようです。
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日本人の文字と活字書体を見る眼は特異です。すなわち仏の慈悲を説く仏典と、神の愛を説く聖書が、まったくおなじ活字書体であっても違和感を抱かないようです。
あるいは行政や司法の担当者が使っている書体と、日常生活で使われる書体、クッキング・ブック、ガーデニング・ブック、自動車やコンピューターのマニュアルなどが同じ活字書体──ほとんどが明朝体でも頓着しないようです。

こういう活字書体にたいする認識度というのは世界的にあまり例がありません。先進国の中でこういう国は日本だけだといっても乱暴ではないようです。これは良いとか悪いというわけではありません。わたしは若干残念だとおもっているのですが、やはり好きな作家の文章は、好きな活字書体で読みたいな……、とおもうのです。

日本の文字活字の風景を変えるちから、それは行政のまち、官僚のまち、そして硬直してしまった東京では、もはや困難かもしれません。
関西圏のながい文字と活字の歴史をおはなししてきました。みじかい雌伏のときをへて、いまは大阪を中心とする関西圏が、もう一度文字と活字に活力を取りもどす起点になっていただきたいとおもう次第です。                      
※平成11年6月12日のご講話より

【紹介】ロシア/サンクドペテルブルクの印刷博物館

タイポグラフィ学会会員、GKグラフィックス所属の 木村雅彦氏 が、2013年05月19-25日まで、榮久庵憲司氏からの指示で、ロシアのサンクドペテルブルクのサンクドペテルブルク美術大学(1757年創立)での講演に出張された。
その忙しい日程をぬって、サンクドペテルブルク美術大学からの情報で、同市に印刷博物館が設置されていることを知り、同館を展観するとともに、博物館図録(205×205ミリ、オフセット平版印刷、フルカラー、中綴じ、20ページ)と、館内写真の提供をいただいた。
また同市がほこるエルミタージュ美術館にも、木製の手引き活版印刷機があったとして、その資料もあわせて提供いただいた。

サンクトペテルブルク(露: Санкт-Петербург)は、かつてはロシア帝国の首都であった。いまはロシアの第二の大都市で、レニングラード州の州都でもある。また第一次世界大戦の開戦以降(1914 – 24年)はペトログラード(Петроград)、ソ連時代(1924 – 91年)はレニングラード(Ленинград)と呼ばれていたまちであった。人口はおよそ500万人、大阪市と姉妹都市である。

木村雅彦氏のはなしでも、図録をみても、残念ながら動態をたもっているわけではなく、博物館標本に留まるようではあるが、ともあれ、ほとんど情報のなかった現代ロシアの活版印刷事情を知る手がかりができたことになる。

以下に、木村雅彦氏撮影の「サンクドペテルブルク印刷博物館」の近影写真を紹介したい。

博物館図録は全文がロシア語活字で表記されていて、ほとんど歯が立たないが、サンクドペテルブルクの印刷の歴史は相当ふるいようである。こうしたまだ知られざる外国の施設と、わが国の関連施設の交流が、これから徐徐に進んでいくことを期待したいものである。

エルミタージュ美術館 所蔵の、木製手引き活版印刷機》

朗文堂好日録ー029 宮澤賢治とピンセット

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、
日日のよしなしごとを綴りたてまつらん
本稿は「あの日、2011年03月11日」から間もなく
2011年04月28日掲載文の修整一部再録です
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文豪/宮澤賢治大先生へ
たかが……、されど、貴重なピンセット
かなり苦労しております。

 《苦労しています! 活版用ピンセット》
¶ 活版印刷材料商がほぼ全面的に転廃業をみた現在、「活版用ピンセット Tweezer  Pincet」はとても入手に困難な器具のひとつである。

『VIVA!! 活版♥』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年05月11日、以下写真同じ)

みた目は医療用やデザインにもちいるピンセットと類似しているが、これはバネの弾力が強く、先端内側の刻みが深くて、生まれも育ちも「活版用ピンセット」である。
アダナ・プレス倶楽部の発足当時に「活版用ピンセット」の流通在庫を探したが、いくら探してもどこにもなく、新規製造を交渉したら、500―1,000本が最低製造ロットだとされて困惑した。

すべての製造業界が一括大量生産型に変貌した現代工業では、少少割高でも少量製造に応じてくれる業者を探すのはとても困難になっている。これは「活版印刷ルネサンス」を標榜しているアダナプレス倶楽部にとっては、いつも悩みの種である。
ようやく探しあてた金属加工商に相当数の在庫があったが、宅配便の手配などをいやがる高齢の経営者だったので、現金を持って訪問しては購入していた。ところがある日、
「あの活版用ピンセットが全部売れちゃってね、悪いけどもう在庫はないよ」
との架電があった。あまりに唐突だったので唖然とした。

¶ 園芸用ピンセットに変貌した活版用ピンセット
しばらくして、最低でも50本ほどはあった「活版用ピンセットを買い占めた」のは、大手の園芸業者であり、芝生などに生える野草(雑草)を引き抜くのにピッタリだとして、全量を購入したことがわかった。
折りしもサッカー・ブームである。あの巨大なピッチの芝に紛れこむ野草とは、相当しっかりした根をはるらしい。それを始末するのに「活版ピンセット」は十分な強度と耐久性を持っていた。
朗報もあった。園芸業者の購入意欲は強く、相当数の「園芸用ピンセット=活版用ピンセット」を新規製造することになったのだ。もちろん仕様は「活版用ピンセット」と同一である。ヤレヤレと胸をなでおろした。

¶ 文豪・宮澤賢治先生に苦情をいうわけではないが……。
活版印刷とピンセットというと、活版の非実践者は「活字を拾う――文選作業」に用いるものだと誤解している向きが多い。ところが和文・欧文を問わず、意外に軟らかな活字を拾う(採字)ためにはピンセットはまったく使わない。
Websiteでも《活版印刷今昔01》 http://blue.ap.teacup.com/masamichi/472.html の執筆者は、文選作業でピンセットを使用している写真画像に相当お怒りのご様子である。

すなわち活版印刷にはピンセットは必需品だが、その用途は、活字組版の結束時や、校正時の活字類の差し替え作業にもちいることにほぼ限定される。
この活字文選とピンセットの相関関係の誤解は、意外に読者層に多い。その原因はどうやら宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』に発するようである。

¶ 宮澤賢治(1896-1933)は、岩手県花巻市生まれ、盛岡高等農業学校卒。早くから法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身した。詩『春と修羅シュラ』『雨ニモマケズ』、童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などがある。
ここで『新編銀河鉄道の夜』(宮澤賢治 新潮社 平成元年6月15日)を引きたい。ご存知のように宮澤賢治作品のほとんどは、30代の若さで逝去したため、生前には未発表の未定稿であり、数年あるいは十数年にわたって宮澤賢治の手もとに留めおかれ、しかも数次におよぶ宮澤賢治自身による推敲スイコウ・改稿・改作を経ている。

没年の翌年からはじまった刊行作業のために、編集者はたいへんな苦労をしながら校訂をしてきた。以下に紹介する『銀河鉄道の夜』は、『新修宮澤賢治全集』(筑摩書房 1972-77)を底本としており、多くの流布本や文庫本とくらべると、比較的未定稿の原姿を留めた書物といえる(天沢退二郎氏評)。
この「活版所」『銀河鉄道の夜』に問題の記述がある(改行段落を一行アキとし、適宜ふり仮名を付した。アンダーラインは筆者による)。

活 版 所

ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜 カラスウリ を取りに行く相談らしかったのです。

けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。

家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。

ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込む小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。

ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。

 ¶  『銀河鉄道の夜』は、孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語で、宮沢賢治童話の代表作のひとつとされている。
ところが宮澤賢治の生前(1896年08月27日-1933年09月21日、満37歳で歿)とは、ほど無名にちかい存在だったといえて、ほかの多くの宮澤賢治の著作と同様に、その生前に書物として刊行されることはなかった。
それが逝去ののちに、草野心平らの尽力で、その多くの未刊作品群の存在が知られ、世評もたかまって書物として刊行されたものがほとんどである。『銀河鉄道の夜』もそんな作品のひとつである。

¶ すなわち、『銀河鉄道の夜』は宮澤賢治の生前には刊行されず、事前の校閲や著者との合議がなかったから、没後に発表された刊行書の随所に、ことばの不統一がみられる。
まず、章題の「活版所」は、本文中では「活版処」とされている。
明治の大文豪が「吾輩・我輩」を混用して書物を刊行したが、その没後、大文豪の書物の刊行にあたったある大手版元の校閲部では、有無をいわせず「吾輩」に統一して、一部から顰蹙をかったことがあった。

また、やつがれが敬愛する司馬遼太郎氏などは、送り仮名も、漢字のもちいかた、漢字と仮名の使いわけも、あちこちにバラツキがみられるが、生前のご本人はほとんど気にしなかったようである。もちろん並の校閲者では手も足も出なかったとみえて、「不統一のママ」で刊行されている。なんでも揃えるという考えには賛成しかねるゆえんである。

「ひとつの小さな平たい函」とあるのは、前後の脈絡からみても、おそらく「文選箱」のことであろう。ガキのころから活版所を遊び場のひとつとしていたやつがれは、10歳のころには「文選箱」を宝物にしていた。また、いまもって文選箱を持つと、妙に気持ちが昂ぶる悪弊がある。

「たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと」とある。これも、傾斜のある「活字ケース架 俗称ウマ」に向かって、文選作業のために立ったのであろう。
ふつう文選作業にあたって、使用頻度が低く、最下部に配される「外字」や、より使用頻度がすくなくて、特定の部所(活字ケースの縦の段)をもたず、部首別にだけわけて配列される「ドロボー・ケース、無室ケース」の採字以外は、活字ケース架の前にしゃがみこむことはあまりない。
活字文選作業は使用頻度の高い字種ほど採字しやすいところにあって、立ってなされることがほとんどである。

「たくさんの輪転器がばたりばたりとまわり」とある。
活字版印刷機にも、印刷版が往復運動をする通常型の平圧印刷機のほかに、シリンダー型印刷機(円筒印圧機)もあるので、それを「ばたりばたりとまわり」としたのかもしれない。ただしこれらの印刷機は「輪転器」とはいわない。
また新聞社などでは、かつては活字版から紙型をとり、そこに活字地金を流し込んで円筒形の印刷版(ステロ版)として、輪転印刷機をもちいることが多かった。

また近年では、品質の悪い用紙でも印刷対応ができ、印刷版が比較的安価な樹脂凸版などでも対応でき、設備投資がすくなく、技術者の養成が比較的短期間ですむ「活版輪転機、俗称・かつりん」の使用がみられる。
これらの「機械」はいずれも相当大型であり、「器具」とはいいがたい「機械」であるので、「輪転機」とあらわされるのがふつうである。

¶ ついに問題の箇所である。
ジョバンニは「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」とある。
既述したが、わが国でも欧米でも、活字の文選作業は手で拾う作業である。
鉄製がほとんどのピンセットをもちいて活字を拾うと、鉄より相当軟らかな鉛を主成分とする活字の面ツラを傷つけるおそれがあるためである。
活版印刷全盛の時代には、床に落下した活字を拾うことさえ禁じられていた。
落下した活字には、汚れが付着するだけでなく、活字面 type face にキズやカケが発生している可能性があり、そのまま印刷して活字の面のキズやカケによるクレームがないように、灼熱地獄行きの「地獄箱 Hell Box──多くは林檎箱や石油缶だった」に活字を投げ入れた。
この活字は捨てられるのではなく、溶解され、怪獣サラマンドラのごとく甦るのである。

したがって、活版印刷の現場では、古今東西を問わず、活版用ピンセットは、組版を結束したり、校正時の差し替え作業にもっぱら使われる器具である。
したがって、宮澤賢治は活版印刷所の内部にはあまり立ち入ったことが無く、当時は盛んだった活版印刷の現場を取材しなかったことが推測される。

また、もし作者の生前に『銀河鉄道の夜』の印刷・刊行をみていたら、編集者・校閲者・文選工・組版工・印刷工といった、たくさんのひとの手と作業工程を経るなかで、たれかがこの、
「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」
とされる問題点を、謙虚に、そして小さな声で、ひそかに指摘したとおもわれる。

「あのですね、宮澤先生。ピンセットで活字を拾ったら、活字が泣きますよ」と……ネ。
まぁ、『銀河鉄道の夜』は、幻想・夢想のなかにたゆたうような名作である。あまり目くじらをたてる必要も無いが……。
それにしても、造形者や編集者が「印刷処・印刷所」にほとんど足を運ばなくなってひさしいものがある。この現状をひそかに危惧するいまである。

タイポグラファ群像*003 細谷敏治氏

細 谷  敏 治(ホソヤ-トシハル 1913年[大正2年]11月5日-)

印刷人・活字人。1913年(大正2)11月5日、山形県西村山郡河北町谷地うまれ。
河北町谷地小学校より寒河江サガエ中学校(旧制)を経て、東京高等工芸学校印刷工芸科卒。
株式会社三省堂に技師として入社。活字版製版部門を担当し、研究室でおもに活字製版(組版)と、1939年(昭和14)から機械式活字父型・母型彫刻機(いわゆるベントン)をもちいた活字父型・活字母型製造の研究に励む。

第二次世界大戦の終結ののち、1947年(昭和22)から株式会社三省堂が所有していた米国製ベントンの国産化(津上製作所・のちに不二越製作所も参入)と、1948年(昭和23)に国産機が発売されると、その操作法の指導にあたり、杉本幸治らとともにひろく業界に貢献した。

1953年(昭和28)長年の研究が結実して、「活字パンチ母型製造法」を考案発明して、株式会社三省堂の関連会社として「日本マトリックス株式会社」を千代田区神田三崎町2-44に設立、代表取締役に就任。
その後「打ち込み式活字母型の製造法」「モノタイプ活字母型[和文]の製造法」「組み合わせ活字父型の製造法」ほか5件の特許権を取得。

のち株式会社三省堂の会社更生法適用を機に、「国際母型株式会社」を設立して代表取締役に就任。1972年(昭和47)「焼結法による活字父型」を考案開発し「新パンチ母型製造法」を確立。新聞社などの活字母型の損耗が激しい活字母型の供給に尽力した。
元印刷学会会員。著書『母型』。『アステ』(加藤美方編 リョービ印刷機販売 No.5  1987)に、細谷敏治による実用新案「パンチ母型」の紹介が詳しい。

細谷敏治氏 42歳の写真(『日本印刷人名鑑』日本印刷新聞社 昭和30年11月5日)

機械式活字母型彫刻機 国産1号機[第1ロット]の傍らに立つ細谷敏治氏

三省堂時代の後輩・杉本幸治氏(右)とともに
杉本幸治は完成した「杉明朝体」の資料をみせに細谷敏治氏のもとに出向いた。
杉本幸治はこの7日後、2011年03月13日逝去。これがふたりの永遠の別れとなった。
(杉本幸弘氏撮影 2011年2月6日)

*     *      *

《現役のタイポグラファと細谷敏治翁を訪問――前回の訪問記より》
敗戦後の金属活字復興と、細谷敏治氏のことは、この『花筏』でも何度かふれてきた。
◉ 朗文堂-好日録 010 ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁  2011年08月27日
◉ タイポグラファ群像*002 杉本幸治氏 三回忌にあたって再掲載 2013年03月13日

わが「空中庭園」にも、蝶や蜂がしばしば訪れるようになったのは、2011年08月の中旬、甲子園野球が決勝戦を迎えようかというころだっった。お盆の4日だけの休暇で、ノー学部が帰郷したのをさいわい、高校野球の観戦もせず、08月14日[日]だけ、爆睡、また爆睡を決め込んだ。時折目覚めてカフェに行き、珈琲一杯とサンドイッチを食してまた爆睡。
そうしたら疲労がいっきに回復して、かねて気にしていた、大先輩の訪問をおもいたって、相手の迷惑もかんがえず、勝手に08月15日[月]に押しかけた。

『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社 昭和30年11月5日)


九段下で乗り換えて、多摩プラーザに「活字界の最長老・細谷敏治翁」を訪ねる。
細谷翁は90を過ぎてなお、車の運転をして周囲をハラハラさせたが、現在御歳98歳、やつがれとの年齢差33歳。
さすがに車の運転こそやめたが、耳は特発性難聴を患ったやつがれよりは、はるかに確かだし、視力も相当なもの。しかもシャカシャカと歩いて元気そのものなのである。くどいようだが98歳!

また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社が保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。それに際しては、同社の独自技術の「新パンチ母型製造法」がひとりあるきして、「パンチ母型」なる細谷造語が誕生した。
今回は、その細谷翁直直の「特別個人講義」を受講した。資料もきっちり整理が行き届いており、「やはり本物はちがうな」という印象をいだいて渋谷に直行。

 車中あらためておもう。
「戦前の工芸教育と、戦後教育下における、工業(工業大学・工学部)と、藝術・美術(藝術大学・美術大学・造形大学)に分離してしまった造形界の現状」を……。
すなわちほぼ唯美主義と耽美主義が支配している、現状の「藝術・美術・造形」教育体制のままで、わが国の造形人、なかんずくこれから羽ばたき、造形界に参入しようとする若いひとたちを、これからもまだ市民社会や企業が受け容れるほど寛容なのか、という素朴な疑問である。

『アステ No.5  特集  活字』(1987年、リョービ印刷機販売株式会社)

《現役のタイポグラファと、細谷敏治翁を再訪》
2013年04月13日[土]、タイポグラフィ学会会員の、松尾篤史氏と大石薫をさそって細谷敏治翁を訪問した。また今回もやつがれだけでおはなしを伺うのでは、あまりにもったいないし、難聴気味のやつがれでは、聞き漏らす事柄も多くなったためである。

 細谷敏治翁99歳。土曜の昼下がり、孫ほどの年齢差のあるふたりの若者と、翁のはなしがはずんでいた。やつがれは時折タバコ休憩に施設外でながら、次世代のタイポグラファへの知見の継承が順調にすすんでいることを嬉しくおもった。
見本の「焼結法による活字父型」と、細谷翁の造語による「パンチ母型」(写真上左)をみせていただき、厚かましくもそのひとつをいただいて、若者はさらに細部の話題に踏みこんでいく。

はなしはどうしても、三省堂/今井直一氏と、後輩だった 杉本幸治氏 のはなしが中心となる。ここにはまだ記録できない事柄も多いのが残念ではあるが、敗戦後の活字の復興とは、なにわともあれ急がれ、それだけにさまざまな企業や個人の思惑が渦巻いていたようである。

細谷翁は健脚で、いまも聖路加病院まで通院し、またときおり近在のコンビニにひとりで出かけるそうである。
「コンビニにいかれて、なにをお買いになるんでしょうか?」
「いやぁ、ときどきちょっと、コレを買いにネ」
翁はオチョコを口に運ぶ手つきをした。一同仰天した。
「辛いのものだけでなく、甘いものも好きでね。ともかくコンビニは便利ですよ」
細谷敏治翁、99歳。まだまだ追加項目が発生しそうな勢いである。

花こよみ 019

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

例年になくはやく櫻が開花した春でした。
そこで、ひさしぶりの「花こよみ」。
おりしも春爛漫、若葉が萌え、花が咲き、鳥が歌い、いのちが輝く、とても良い季節です。
清明節(03月05日)早朝にほころんだ  菜の花  壹凛、ご進呈もうしあげそうろう。

原へねころがり

なんにもない空をみていた

     八木 重吉(1898-1927)  

Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅲ タイトルデザインと過去の活版関連イベントデザインの記録



 

《さぁ、アダナ・プレス倶楽部 AD バッカス松尾が登場したぞ》
あたらしい活字版印刷を紹介するための、イベント企画骨子に関する話し合いは、年をまたいでつづいた。
ながい話し合いと対外交渉ののち、会場が「アルテ ピアッツァ美唄」にきまり、イベント・タイトルに『Viva la 活版 Viva 美唄』がきまり、テーマ・カラー「シェンナ」もきまった。
おまけに「こころのテーマ曲」として、イギリスのロックバンド、Coldplayのヒット曲『Viva La Vida』まできめてしまった。

その報告はあらかた、この『花筏』に掲載してある。
【リンク:Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅰ 開催のお知らせ  2013年03月13日
【リンク:Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅱ 準備着着進行中 !? 2013年03月15日
【リンク:Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅲ タイトルデザインと過去の記録 2013年03月28日

いまは企画細部の詰めの段階である。だからときおりパソコンから、ロック『Viva La Vida』が流れている。そんなときはおおかた、やつがれの思考のどこががいきづまっているときである。この動画には原語と対訳の歌詞もついているが、それを自分流に訳してたのしんでいる。
それでも周囲に遠慮して、深夜か休日にガンガン流しているが、パソコン内蔵スピーカーのこととて、音質はあまり感心しない。
────
こうなると、いよいよアダナ・プレス倶楽部 アートディレクター/松尾篤史氏の出番となる。
ふつう松尾篤史氏は「バッカス 松尾」とされる。
もともと「バッカス」「松尾」は、ともに酒の神とされる。俚諺によると、天狗とは「バッカス  松尾」のことであろうとする ?   だから、すでにもってご神体であらせられるから敬称はない。しいていえば「バッカス松尾雨降男苔雫大明神」とでも呼ぶべきか。

何冊かの彫刻家/安田 侃カン氏関連の図書資料と、「アルテ ピアッツァ美唄  ギャラリーショップ」で買いこんできた DVD 『ARTE PIAZZA BIBAI』を、バッカス松尾と一緒に何度もみる。
さらに現地で撮影してきた写真資料もあらためてみてもらう。

DVD 『ARTE PIAZZA BIBAI』には、安田 侃氏が相当長時間登場して「アルテ ピアッツァ美唄」の展示空間形成の狙いをかたっているので、単に動画というだけでなく、彫刻家本人の、声の強弱、トーン、ニュアンス、表情、身振りをふくめて、肉声での解説がきける、とても良い資料となる。

テーマ・カラー「シェンナ」に関しても議論がつづいた。バッカス松尾からみると「アルテ ピアッツァ美唄」における「シェンナ」の色調に、微妙なバラツキが見えるのが気になるらしい。
そこでもう一度、みんなでイタリアのフローレンス州、シエナの旧市街地の写真を確認する。

シエナの旧市街を形成する建物のほとんどが、13-17世紀に完成している。そこにもちいられた「シェンナ」は天然顔料であり、もともと均一な色調をしていたわけではないであろう。それでもこれをおおきな景観、ランドスケープとしてみたときには、おだやかな統一感がみられる。

また注意深くみると、中央広場に面した商店の日除けテントは、現代の工業製品とおもわれるが、見事なまでにバーンドシェンナに統一されている。
それに対して、ふるい民家の屋根の色などは、それぞれが微妙に異なりながら、総体としてシエナのまちの景観を、シェンナ色でおおきく包みこんでいる。
つまり中世や近世の建築とはそんなものであり、天然素材とはそんなものであろう。現代の大量均一工業生産物とおなじものを中世にもとめても、収穫はすくないということになろうか。




《イベントのタイトル・カラーは、フレキシビリティをもった「シェンナ」に決定した》
タイトル・カラーは、こうして「バーントシェンナ」に決定した。
この色を、すこし濃いめの朱色(ウォーム・レッド)と考えれば、古来タイポグラファがもっとも珍重してもちいてきた色彩とほぼおなじである。

タイポグラファがこの色をおもくみる理由はさまざまあるが、もっとも重要なポイントは、これを色の面としてとらえると、誘目性(ひとの視線をとらえる)にすぐれ、またその色面に、活字版印刷基本色の、スミ乗せでも、白抜きでも、シェンナ(≒ 朱色、≒ ウォーム・レッド)にあっては、文字が判別・判読できるという点にある。
このような誘目性と判別性・可読性にすぐれた重宝な色は、どこにもありそうでいて、実はシェンナ(≒ 朱色、≒ ウォーム・レッド)のほかに、ほとんどないのである。

『文字百景 081  活字と朱色』(木村雅彦、朗文堂、2000年05月)
デザインワークにおいて、金赤色(黄100+赤100)をつかっていると困ることがあります。それは表紙などに、金赤インキを色の面として使うときの、スミインキとの相性の悪さです。

スミと金赤は、彩度差はありますが、明度差がすくないために、金赤の色面に、スミの文字を乗せたり、スミの色面に、金赤の文字を乗せたり、抜き合わせたりすると、いささか読みにくくなります。
とくに金赤の色面のなかに、白ぬきの文字と、スミ乗せの文字を組み合わせて使用したばあいなどに、うまくコントロールできないことがあります。

ところが、金赤のかわりに、ウォーム・レッド(朱色)を使うと、朱色の色面の中の、白ぬきの文字と、スミのせの文字を、ほぼ均等に読むことができます。
また、意外にウォーム・レッドの彩度が高いために、本文印刷用の文字の刷り色として使用しても、さきの記載内容を顕在化させるという目的を、難なくはたすことができるのです。
この機能性が、近代のタイポグラファにも評価され、書籍の表紙や、ポスターなどには、このスミとウォーム・レッド、朱色の構成がたくさんみられます。

このような理由もあって、小社図書でも、
◉『欧文組版入門』(ジェイムス・クレイグ著/組版工学研究会監訳、1989年12月05日)
◉ 『タイポグラフィの領域』(河野三男、1996年04月20日)
◉ タイポグラフィ・ジャーナル『ヴィネット』シリーズ
◉ 『欧文書体百花事典』(組版工学研究会編、2003年07月07日)
などの表紙やジャケットは、シェンナ色であり、朱色(ウォーム・レッド)である。

また、表紙こそ白地だが、帯(俗称:腹巻き)にシェンナ色をつかった書物『活字の宇宙』(アドリアン・フルティガー、2001年04月17日、朗文堂、p18)には以下のようにある。

「Schrift, Écriture, Lettering ── 文字と活字の発達史を木版印刷の上に追う」
1950年スイス・チューリッヒ工藝専門学校の卒業制作/アドリアン・フルティガー

このちょっとかわった、じゃばら折りの書物は、チューリッヒ工藝専門学校で、カリグラフィを主要なテーマとして学んでいたころの卒業制作を、ほとんどそのまま、書物としてまとめたものです。
わたしはこの学校で、文字の生成史をまなびましたが、そこでは書くことより、むしろ彫るという、身体的な行為を通じて文字を学ぶべきだと知りました。
それはわたしの一生を「彫刻士 Graver」として特徴づけることにつながりました。

この卒業制作がもととなって、わたしはシャルル・ペイニョ氏(Charles Peignot 1897-1983)に見いだされて、パリの名門ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所で、活字人としての幸運なスタートを切ることができました。また同社でメリディエン(子午線、Meridien)、ユニヴァース(宇宙、Univers)や、そのほかのさまざまな活字書体をつくることになりました。

《タイトルデザイン、活字書体は、欧文「オンディーヌ」と、和文「銘石 B 」に決定》
アドリアン・フルティガー(Adrian Frutiger  1928- )は、この卒業制作作品がもととなって、いまは亡きシャルル・ペイニョ(Charles Peignot  1897-1983)にみいだされて、ふるくは文豪オノレ・バルザックの創始にはじまり、これもいまは無きパリの名門活字鋳造所「ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所」に、1950-57年にかけて住み込みで働くことになった。

同社でフルティガーがのこした主要活字書体は以下の通りである。
◉プレジデント(大文字のみ)……………………1952年
◉フェビュス………………………………………1953年
◉オンディーヌ……………………………… 1953-4年
◉メリディエン…………………………………… 1954年
◉ユニヴァース…………………………… 1954-55年(写植先行)
◉エジプシャン F …………………………………………1956年(写植先行)

フルティガーは、パリでの生活を終えて、現在は祖国スイスのベルン郊外で、80歳代なかばの生活を静かに送っている。
ここであらためて、フルティガーのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所時代の活字設計を検証すると、20世紀活字における名作とされる「メリディエン 子午線」、「ユニヴァース 宇宙」などのほとんどの活字書体を、24-28歳という、とても若い時代に設計していることにおどろく。

上図は『ドベルニ&ペイニョ社活字見本帳 1952年版』の口絵部分である。フランス活字「オンディーヌ」はこの翌年に発売が開始されたが、この大冊の冊子版活字見本帳には、まだ掲載が間に合わなかったとみられ「オンディーヌ」は紹介されていない。
フルティガーによると、同社に在社時代は左ページ写真の 4F 部分に住みこみで働いたということであった。

この建物は現存し、「ルマン24時間耐久自動車レース」の開催で著名な「損害保険会社:ルマン社」が使用している。
上図右ページはド・ベルニ家とペイニョ家の歴代経営者の肖像であるが、最上部に同社の創業者として「オノレ・バルザック」の肖像画が紹介されている。
────
オノレ・バルザック(Honoré de Balzac  1799年5月20日-1850年8月18日)は、19世紀フランスを代表する小説家であったが、このひとが開設した活字鋳造所が「ド・ベルニ家 & ペイニョ家」両家によってささえられ、通称「D et P 社、D & P社」として170年ほどの歴史をフランスで刻み、多くの名書体をうんだことはほとんど知られていない。

バルザックは、ほとんど度を超えた印刷狂であり、また活字狂でもあった(参考資料:』「ワインより中身の濃いフランス・タイポグラフィ」『文字百景 038』酒井哲郎、朗文堂。「石のエクリチュール断章」『ユリイカ』片塩二朗、青土社、1998年05月)。

ツールというちいさなまちからパリにでてきた20歳の青年バルザックは、法律の学業をほうりだして、貸し本屋であつかう程度の軽い読み物を書きだした。そのうちにロール・ド・ベルニという、貴族階級で、母親のような歳で、しかも9人の子持ちの女性と「いい仲」になった。
「de ド」はこの時代でもすでに形骸化しているとはいえ、貴族階級の敬称である。またのちには、バルザックも勝手に「de」を冠して名乗っていた。

バルザックはロール・ド・ベルニ夫人の資金をふんだんにつかって、1825年に印刷・出版業に手をそめ、さらに活字鋳造業にも進出した。その創業の地はパリのセーヌ左岸、カルチェラタン地区のこみち、マレー・サンジェルマン通りであり、現在の呼称はヴィスコンティ通り17番地である。
その創業の建物は現存して、いまは出版社が使用しているが、正面壁面のレリーフによって、その由来・歴史が紹介されている。

バルザックの小説のファンならご存知の『谷間のゆり』の主人公、モルソン伯爵夫人とは、このロール・ド・ベルニ夫人がモデルだったとされる。
このマダム・ド・ベルニの肖像画がのこされているが、豊満な胸に、ぽっちゃりと厚い唇で、いかにもフランス上流階級の蠱惑的な女性である。

あわれなことに、ムッシュ・ド・ベルニ、つまりガブリエル・ド・ベルニの肖像画はのこっていない。この人はバルザックに資産を勝手に湯水のようにつかわれ、妻がバルザックと不倫関係にあったとして、歴史の片隅に名をのこすだけである。

ところがバルザックの印刷狂・活字狂とは、所詮文士の道楽であったようで、4年あまりで莫大な負債をかかえてあっけない破綻をむかえた。ところが「加福は糾える縄のごとし」か、「塞翁が馬」というのか、バルザックがタイポグラフィから撤退したこの1825年に、ガブリエルとロールの18歳の息子、アレクサンドル・ド・ベルニがその活字鋳造事業を継承し、次第に手腕を発揮することになったのだから驚きである。

『Specimen Divers Caracters Vignettes』
(文字活字とオーナメントの見本帳、1828年。1992年復刻版より)。
◉  発行所は「活字鋳造所  ローラン と ド・ベルニ」とされている。バルザックは1925年にタイポグラフィから撤退しているが、その名前は扉ページ右下隅に「印刷者:オノレ・バルザック  Imprimé per H. Balzac」とだけ、ちいさく表示されている。
◉ オノレ・バルザックと、ロール・ド・ベルニ夫人の肖像画。
◉ バルザックが使用していた「アルビオン手引き式活版印刷機」。バルザックは相当の印刷狂であって、このほかにも最初の総鉄製として知られる「スタンホープ手引き式活版印刷機」も所有していた。これらの印刷機をふくむ活版印刷関連の諸設備は「サッシェ城 バルザック記念館」(日本語版)に現存【リンク:バルザック使用の印刷設備画像している(未見)

バルザックは、1829-1837年 にかけて、当時の城の所有者であるマルゴンヌ氏に招かれて、毎年このサッシェの城館に長期滞在した。 バルザックは「ゴリオ爺さん(Le Pere Goriot)」や、「谷間の百合(Le Lys dans la Vallee)」などの作品をサッシェ滞在中に執筆しており、バルザックが用いた部屋や印刷設備が当時のままの状態で保存されているようである。

レクサンドル・ド・ベルニは、当初はバルザックが連れてきた技術者/ローラン(J. E. Laurent)にたよることが多かったものの、長ずるにおよび、近隣の活版印刷関連機器メーカーのペイニョ家から妻をむかえ、活字部門を「ド・ベルニ&ペイニョ社」とした。

なかでもペイニョ家の後継者に優秀な人物が多かったが、その兄弟三人が第一次世界大戦で戦没したために、それを追悼して、フランス国立印刷所の旧社屋は、パリ市「ペイニョ三兄弟通り」と「グーテンベルク通り」に面して建っている。

なおフランスでは、グーテンベルクが活躍した15世紀のころ、現:ドイツ領の マインツ市 (独:Mainz マインツ)とは、フランス領の「Mayence マイエンス」であったとする。
そのためにフランス領マイエンスのひと、グーテンベルク(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg、c.1398-1468年2月3日)のことを、フランスではフランス人であったとするふうがある。

その後に敏腕して大胆、かつ慧眼にとんだシャルル・ペイニョが登場して、同社は1827-1972年までの145年におよぶながい歴史を刻んだのである。
────
ところで、オノレ・バルザックが手をつけ、アレクサンドル・ド・ベルニが育成し、ペイニョ三兄弟が丹精をこめ、シャルル・ペイニョが開花させたフランス活字はどこにいっったのだろう。
その複製原型、すなわち活字父型は、フランス国立印刷所に寄贈されており「Référence la bibliothèque Deberny et Peignot Foundry」に厳重保管されている。

またその複製権は、スイスの活字鋳造所「Haas社」に譲渡されたが、金属活字界の長期低落傾向のなかにあって、ドイツ系の企業に譲渡され、現在は同国内で電子活字データーとなっている。しかしながらいまもって、ドイツ国内でも企業間を転転として、ながい流浪の旅をつづけているのは、すこしものがなしいものがある。


「オンディーヌ  Ondine」とは、フランス語で「水をつかさどる精霊」で、湖や泉に住んでいて、ほとんどのばあい、美しい女性のすがたとして描かれている。
語源はラテン語の unda(波の意)とされ、欧州各国語では、ウンディーネ(独:Undine)、アンダイン、あるいはアンディーン(英:Undine)、オンディーナ(伊:Ondina)などとされるが、ここではフランス発祥の活字でもあるので「オンディーヌ  Ondine 水をつかさどる精霊」としたい。

「オンディーヌ」の原姿は、すでにチューリッヒ工藝専門学校の卒業制作のなかにもあらわれており、フルティガーが22-3歳といった、春秋に富んだ時期の、みずみずしい活字書体である。
活字書体「オンディーヌ」は、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所から1953-4年にかけてシリーズ活字として順次開発・発売されている。
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すこし厄介なことだが、この頃のフランスの活字鋳造所では「ディド・ポイント」という活字サイズのシステムを採用していた。ディド・ポイントシステムにおける 1pt. とは、フランスの常用尺の 1/72 インチ(≒0.3759 mm)を採用してきた。このシステムはフランスだけでなく、欧州大陸諸国でも採用したため、コンチネンタル・ポイントともされる。

これと、英米諸国(どういうわけかわが国も)の活字鋳造所がもちいているシステムは、「ほぼ 1/72 インチ ≒0.3514 mm」を 1pt. としてきた。これは「アングロ・アメリカンポイント、アメリカンポイント、さらに略して単に ポイント」ともされる。
現代のコンピューター組版システムでは、「正確な 1/72 インチ = 0.3528 mm」を 1pt. としているものがほとんどである(DTP Point)。
この厄介で重要なタイポグラフィにおける基本尺度の問題、すなわち欧州大陸と、英米諸国における基本尺度の相異は、新宿私塾か、活版カレッジで学ぶのが手っとり早い。
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「バッカス松尾」は、スイス出身のアドリアン・フルティガーと、フランスのド・ベルニ&ペイニョ活字鋳造所に敬意を表して、無理なく、しっかりと、ディド・ポイントシステムの活字グリッドによって、タイトル・デザインを構築した。
原寸を欠く、ソーシャル・メディアのディスプレー上では確認しずらいとおもうが、フランス発祥のディド・ポイント活字を、そのままアメリカン・ポイントシステムに依存するのはいささか考えさせられるものがある。
したがって「オンディーヌ」のようなフランス発祥の活字にとっては、ここにみるように、ディド・ポイント方式に依拠した「バッカス松尾方式割り出し」においては、なにかと座りがよいものだ。

 《Viva la 活版 Viva 美唄 制定和文書体は『銘石 B 』》
「Viva la 活版 Viva 美唄」のタイトル・デザインの漢字・和文制定書体は『銘石 B 』である。
ここで、はなしがすこしかわるが、中国江南の地から誕生した書風「碑石体」に触れたい。

東晋のひと王羲之オウギシと、その従兄弟イトコ、 王興之オウコウシの墓誌の書風である。
なにぶん小社が発売しているパッケージ書体のため、いささかムキになるかもしれないが、ご容赦を。

これまでもしばしば、十分なインパクトがありながら、視覚にやさしいゴシック体、それもいわゆるディスプレー・タイプでなく、文字の伝統を継承しながらも、使途のひろいサンセリフ ── すなわち、わが国の電子活字書体にも「ヒューマン・サンセリフ」が欲しいとの要望が寄せられていた。
確かにわが国のサンセリフ ≒ ゴシック体のほとんどは、もはや自然界に存在しないまでに鋭角的で、水平線・垂直線ばかりが強調されて、鋭利な画線が視覚につよい刺激をあたえている。

2012年04月、欣喜堂と朗文堂が提案したデジタル・タイプ『ヒューマン・サンセリフ  銘石B』の原姿は、ふるく、中国・東晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種で、とくに「碑石体ヒセキ-タイ」と呼ばれる書風をオリジナルとしている。
────
魏晋南北朝(三国の魏の建朝・220年-南朝陳の滅亡・589年の間、370年ほどをさす。わが国は古墳文化の先史時代)では、西漢・東漢時代にさかんにおこなわれていた、盛大な葬儀、巨費を要する石碑や墳墓の建立が禁じられ、葬儀・葬祭を簡略化させる「薄葬」が奨励されていた。

その薄葬の推奨者/曹操(三国魏の始祖。あざなは孟徳。没後武王と諡オクリナ。その子・曹丕が帝を称して魏をたて、追尊して武帝という。廟号は太祖。155-220)の墓と伝承されるものは30有余もある。

ふるいはなしではない。2009年12月27日、甲骨文出土地として著名な安陽市小屯村のちかく、すなわち中国の河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村に位置する、東漢(後漢)末期の墓「西高穴セイコウケツ2号墓」が、河南省文物局によってその発見が公表され、おおがかりな発掘調査がなされ、東漢末の権臣・曹操の墓であると認定された。そのためにここは「曹操高陵」とも称される。
また2010年6月11日、国家文物局により2009年度全国十大考古新発見に選定された。

ところが中国の歴史家のあいだでは、相当の実績と権威のある河南省文物局、国家文物局の「認定・選定」にもかかわらず、いまだにその真贋論争はやまないようである。
歴史をふり返ると、薄葬に徹したがゆえに、すでに唐の李世明・太宗(唐の実質的な建朝者。第二代皇帝。598-649)が7世紀半ばに高句麗親征に出かけた際に、2-3世紀の中国の先賢に敬意を表すべく「安陽県の曹操墓」に詣ったとされる。ところが、それが「西高穴セイコウケツ2号墓」にあたるのかどうかも不明である。薄葬はときに混乱をまねく例である。
────
こうした「薄葬令」のために、紹興のまちに会稽内史として赴任し、楷書・草書において古今に冠絶した書聖とされる王羲之(オウギシ。右軍太守  307?-365?)の作でも、みるべき石碑はなく、知られている作品のほとんどが書簡であり、また真筆は伝承されていない。
現在の王羲之の書とは、さまざまな方法で複製したもの、なかんずくそれを法帖ホウジョウ(先人の筆蹟を模写し、木石に刻み、これを木石摺りにした折り本)にしたものが伝承されるだけである。

王興之の従兄弟・書聖/王羲之(伝)肖像画。
同時代人で、従兄弟イトコの王興之も、こんな風貌だったのであろうか。

『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土した。王興之(オウ-コウシ 309-40)は、王彬オウ-リンの子で、また書聖とされる王羲之(オウ-ギシ  307-65)の従兄弟イトコにあたる人物である。

この時代にあっては、中国伝統の、地上に屹立する壮大な石碑や墓碑にかえて、埋葬者の係累・功績・生没年などを「磚セン」に刻んで墓地にうめる「墓誌」がさかんにおこなわれた。『王興之墓誌』もそんな魏晋南北朝の墓誌のひとつである。
『王興之墓誌』の裏面には、のちに埋葬された妻・宋和之の墓誌が、ほぼ同一の書風で刻されている(中国・南京博物館蔵)。

この墓誌は煉瓦の一種で、粘土を硬く焼き締めた「磚 セン、zhuān、かわら」に碑文が彫刻され、遺がいとともに墓地の土中に埋葬されていた。そのために風化や損傷がほとんどなく、キャラクター数はすくないが、全文を読みとることができるほど保存状態が良好である。

『王興之墓誌』の書風には、わずかに波磔ハタクのなごりがみられ、東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれている。遙かなむかし、中国江南の地にのこされた貴重な碑石体が、現代日本のヒューマン・サンセリフ「銘石B Combination 3」として、2012年04月、わが国に力強くよみがえった。

《王羲之の伝承墓のこと》
王羲之の従兄弟、王興之の墓から出土した『王興之墓誌』を紹介した。ならば一族のひとであり、2歳ほど年長の王羲之の墓、および墓誌を紹介しないと片手落ちになろう。

王羲之は4世紀の時代をいきたひとである。わが国でいえば古墳時代であり、まだひとびとは「字」をもたなかった時代のことである。
王羲之の墳墓の地と伝承される場所は紹興(会稽)周辺、浙江省嵊州ジョウシュウ市金庭鎭キンテイチン瀑布山バクフザンをたずねた。嵊州市は紹興から高速道路で2時間ほど、その嵊州市からさらに山間の道を東へ20キロほどいった山中に、道教の廟「瀑布山」はあった。

山を背に、爽やかな風が吹きぬける、立派な堂宇を連ねた道教の廟であった。
墓地は山裾の高台にあったが、明代に「重修」したと墓碑の背後にしるされていた。墓地本体は「磚セン」を高くつみあげ、その上に夏の艸艸が密生した円墳がのっていた。

魏晋南北朝にあっては「薄葬」が奨励されたために、おおきな墳墓や石碑はほとんど見られないが、いささか立派すぎる墳丘であった。また墳丘を修理した際にも、この時代の墓地にほとんどみられるような「墓碑銘」出土の報告はない。
この王羲之の墳墓とされる墓からは従兄弟や親族の墓地のような「墓碑銘」は出土しなかったのであろうか。
また中国の古代遺跡によくみられる大樹の「古柏」は、伝・蒼頡ソウケツ墓の寺院前の見事な「古柏」はもとより、北京郊外・明の十三陵の「古柏」より、よほど若若しい木だった。

墓地伝承地の周囲には、書芸家が寄進した書碑がたくさんみられたが、その多くが昭和期日本の書芸家の寄進によるもので、チョイともの哀しいものがあった。
ただ齢ヨワイをかさねた王羲之が、終ツイの栖家としたなら、この嵊州市郊外の山中の空間は、それにふさわしいものとおもえる場所ではあった。すなわち4世紀のひとの墳墓を、21世紀に、異国のひとがフラリとたずねたとしたら、この程度の収穫で我慢すべきであろうとおもえる場所であった。

《この程度なら、お茶の子さいさい !!  といいながら、目の元気な朝にチェックをと持ち帰り》
こうして「バッカス松尾」による、タイトル・デザインが決定した。若きアドリアン・フルティガーによる、フランス活字「オンディーヌ」も新鮮だったし、「銘石 B 」とのバランスも絶妙にとれていた。
ところがこれをタイポグラフィ・ブログロール『花筏』にアップするといったら、
「レター・スペースの調整が不十分です。朝の目の元気なうちに、もういちどチェックしたい」
ということで持ち帰ってしまった。

それから3日後、ようやく届いたタイトル・デザインデーターを、皆さんに紹介した。
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その間、ふるいファイルをひっくりかえしていたら、もうすっかり忘れていたイベント・タイトルがでてきた。また忘れないうちに、ここに紹介したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《アダナ・プレス倶楽部発足後、最初期の大型イベント  【ABC タイポグラフィ ! 】の記録》
もう間もなく、あれから6年の歳月を数えることになる。
2007年06月11日-07月02日、青山ブックセンター(青山本店)で【ABC タイポグラフィ ! 】と銘うったイベントを、同店と、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部の共同で開催 した。

もともと朗文堂の出版部(Book Cosmique)と、書店・青山ブックセンターとの関係はふかいものがある。それは朗文堂が正式に出版コードをとって出版に進出した年と、株式会社ボードの運営によって、それまでの広尾の店舗のほかに、東京メトロ六本木駅の至近距離に「青山ブックセンター六本木店」を設けた年はおなじ年だったことに端を発する。

「青山ブックセンター六本木店」は、建築、アート、デザイン、写真集などに力をいれて集荷し、また洋書もたくさん陳列していた。営業時間も深夜までという画期的な営業で、夜業のおおい造形界の支持はあつかった。また当時の六本木、赤坂、渋谷、青山といった地区には、デザイナーというか、あたらしい造形者のスタジオも多かった。

書店員さんも、優秀な人員がおおくあつまっていた。振りかえれば狭隘なスペースだったが【朗文堂 Tシャツ展】を開催したこともあった。
当然歴代店長にはお世話になったし、六本木店の優秀なスタッフが、その後あいついで開店した「新宿ルミネ1・2号店」、「青山本店」、「自由が丘店」、「福岡店」、「橋本店」などの店長となった。
そこでもなにかと交流があったし、昼時をねらって「新刊書籍紹介の営業」にでかけては、ちかくの喫茶店などで、書物談義のあれこれを、あつくかわすことができた。
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2004年のことだったと記憶している。「青山ブックセンター」に、最初の、おおきな不幸がおそった。その後も同店はなんどか騒動をくりかえし、経営権は二転三転した。
ともかく小社としては、初進出のときから、とてもお世話になってきた書店さんだけに、2004年7月のあの大騒動のときも、なにもせず淡淡と静観していた。その姿勢は現在もかわらない。

「朗文堂の出版事業部 Book Cosmique が設立した際には、青山ブックセンターさんにとてもお世話になりました。こんどは活版印刷機器製造販売事業部  アダナ・プレス倶楽部が本格スタートします。先年来いろいろあったにしても、こんどは応援団として、やはり青山ブックセンターさんのお世話になりたい……」
こんなお願いを、当時まだわずかにのこっていた、ふるい「青山ブックセンター」のスタッフにもちかけた。こうして2007年06月11日-07月02日という、かなり長期間のイベントが実現した。

イベント名は 【ABC タイポグラフィ ! 】を提案した。
「ABC は、最近は当社の略称から、愛称として浸透してきましたけど、このタイトルはすこし大胆すぎませんか」
ベテラン書店員さんは、いくぶん不安そうにかたった。
ふるくいう。前回もいった ── 「名は 体タイをあらわす」ト。
ここでの「体 タイ」は、ものごとの本質ないしは実体の意である。当然たいせつなものとなる。

ここでまた、情念系・大石  薫と、酒の神・バッカス松尾が登場する。
「ABC は銅版彫刻に源流がある活字書体で、カッパプレート・ゴシックヘビーをもちいて、青山ブックセンターさんへの力づよい応援のこころをあらわします。
de は、やはり『ABC で』ということで、場所をあらわしますが、細身のプリンス・スクリプトにすることで、意外性のある『 』としました。こうすることでリズムとメリハリが発生します。

またあえて『 』と、アキュート(揚音符、鋭アクセント)をつけたのは、こうすることで接頭語の「de」ではなく、ようやく『   で』と読まれますし、平板な声調の「で → 」ではなく、「ABC で  ↗」という、強めのニュアンスにもなるからです。
そして『タイポグラフィ』は、カナモジ会のアラタを参考に書きおこしていますから、斬新ですし、とてもインパクトがあります」

ちなみに、朗文堂のコーポレート・カラーは「黄色から赤までのあいだの、無限の中間色」である。あえてマンセル色相環を持ちだすまでもないが。
アダナ・プレス倶楽部のイメージカラーは、これとすこしかえて、深みのあるみどり色「ブリティッシュ・グリーン」である。
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ここでいいたいことは山のようにあるが、どうせ誤解されるだけだからやめておこう。
ただし、書店を全国規模でみると、いちにちに一店舗以上が転廃業しており、印刷企業にいたっては、その倍以上のカウントで転廃業が続いている現状がある。
気分がおもくなるが、印刷設計士(グラフィックデザイナー)を職業とされるかたは、どうか一度検索して確認してほしい。

彫刻家:安田 侃は、色と素材に敏感であり、イタリアのトスカーナ州にアトリエをおいて、そこで産出される白大理石の彫刻作品と、シェンナの砕石を、はるばる美唄まではこんできている。
色彩や素材とは、造形家にとってはそれほどたいせつなものである。
画家は、油彩でも水彩でも岩絵の具でも、できあいの色はほんのわずかなので、自分で大半の色をつくりだしている。
陶芸家、版画家、染織家、紙工家、彫金家、硝子工芸家、そして活字版印刷術者(タイポグラファ)も、必要とする色が、できあいであることのほうがまれである。当然ながら、必要とする色は自分でつくりだすことのほうが多い。

すなわち、みずからの身体・躰・五感をもちいて造形にかかわる技芸家(アーチスト)は、こと色彩と素材に関して、パソコンソフトウェアのうえで「設定」したり、カラー印刷された色の小片(カラーチップ、色見本)などを添付して、それをギョウシャに指示することで、ことすめりというわけにはいかないのである。

あえて今回の会場を、はるかにとおい「アルテ ピアッツァ美唄」にして、「身体性のともなった造形活動」を主題としたことも、このあたりにおおきな契機があった。
そしてここまで読みすすまれた読者のなかに、もし印刷設計士(グラフィックデザイナー)のかたがいらしたら、みずからのアイデンティフィケーションを見つめなおす機会を「Viva la 活版 Viva 美唄」でともにしていただけたら幸いである。

現在のスケジュールでは「Viva la 活版 Viva 美唄」は2013年07月13日[土]―15日[月・祝] 9:00―17:00 となっている。
そのトップ・バッターは13日[土]早朝から、やつがれ担当のタイポグラフィ・ゼミナール【タイポグラフィの過去・現在・未来】の予定である。東京ほか、福岡・新潟・大阪・徳島・名古屋などの各地から駆けつけられる会員は、おおかた土曜日早朝のフライトで北海道にはいられるようである。したがって金曜発先乗りの3名のほかは、ほとんどたれも間に合わない時間帯である。
地元のかたがどのくらい聴講されるか皆目わからない。それでも聴衆は3名でも5名でもまったく構わない。ともかく全力投球する。それがタイポグラファの役割と信ずるがゆえである。

閑話休題 ところで ── カッパプレートは、アップライト・キャピタル・ローマン(大文字)だけの活字書体であるが、金属活字では、おもしろいフォント・スキームをもっており、スモール・キャピタル(小型大文字)が、上図の見本のように、大文字よりすこしだけたかさが低いものから、小文字程度のたかさまで、大小さまざま、何段階かある。

つまり上図「GRAND FINALE」では「語頭  G, F」はアップライト・キャピタル・ローマンであるが、「RAND, INALE 」には、「語頭の G, F」とふとさは同一で、たかさのことなるスモール・キャピタルが数種類選択できる。
管見ながら、現代の電子活字でこうした対応をしている事例はみたことがない。

また、ここにみる「カタカナ活字」が契機となって、アダナ・プレス倶楽部ではのちに、原字著作権者:ミキ家と、原字ライセンス所有者:モトヤの了承のもとに、金属活字「アダナ・プレス倶楽部特製 アラタ1209」を製造し、継続して販売にあたっている。
リンク:こんな時代だから、金属活字も創っています! アラタ1209
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【ABC タイポグラフィ ! 】の名称は、当初は書店担当者は不安があったようだった。ところが意外に客層からは好評で、来場者も多かった。そしてアダナプレス倶楽部のキックオフ・イベントとして、良いおもいでとして記憶にのこっている。
その記録は下記のアーカイブ・リンクを参照していただきたい。
リンク:アダナプレス倶楽部便り:ニュースNo.018  ABC タイポグラフィ !

当時の青山ブックセンターは、書店業界の苦闘のさなかにあった。その間に、さびしいことだが、本当に活字と書物が好きな書店人の多くが去っていった。いまはすっかり世代交代して、店舗を訪問しても、見知った顔をみれないのはさびしいかぎりである。

ところがなにを気にいってくれたのかしらないが、【ABC タイポグラフィ ! 】の残渣のように、【ABC de ………… 】の名称が同店のイベント名称としてのこっているのは、ほほ笑ましい。
ところがそこに、酒の神・バッカス松尾がいないせいか、書体は平板であり、アキュートつきの「 」もつかわれていないようだ。
ふるくいう。前回もいった。もう一度いおう ── 「名は 体タイをあらわす」ト。
ここでの「体 タイ」は、ものごとの本質ないしは実体の意である。当然たいせつなものである。



《バッカス松尾は、ここでもフランス活字を使用していた》

「ビフィール Bifur」は1929年、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所から発売された、見出し用活字である。
原字製作はアドルフ・ムーロン・カッサンドル(Adolphe Mouron Cassandre、1901-1968)である。カッサンドルは、さまざまなポスター作品などを手がけたフランスのグラフィックデザイナー、舞台芸術家、版画家であり、またタイポグラファでもある。
本名はアドルフ・ジャン=マリー・ムーロン(Adolphe Jean-Marie Mouron)であるが、略称としてA. M. Cassandreを作品へのサインなどに使用したひとである。

「ビフィール Bifur」のおおきなサイズの活字は、ふとい画線部と、万線のようなほそい画線部が、一種の組み合わせ活字となっていて、バッカス松尾は、2009年からはその機能をもちいて3色刷りでの表現に挑戦した。


《アダナプレス倶楽部名物:活版オジサン。これだけは美唄にも連れていこう》


Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅱ 準備着着進行中 !?


《 Viva la 活版 Viva 美唄、イベントの名称を決定 》
あたらしいイベント概略が次第にかたまると、まずその名称の議論が活発にかわされる。
ふるくいう。―― 「 名は 体タイをあらわす」 ト。
ここでの 「 体 タイ」 は、ものごとの本質ないしは実体の意である。 当然たいせつな議論となる。  そのあらましは 『 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』 にしるしてある。

そもそもやつがれは、どういうわけか名称に  “ VIVA ”  を冠することが多い。
“ VIVA ”  とは 「 すばらしき、すばらしい。  あるいは、美しい、麗しい。 むしろ驚きを込め、積極的に、讃歌 」 という意をこめてもちいている。
もともとイタリア語やスペイン語の  “ VIVA ”  は 「 歓びの声、歓声 」 にちかい。
わが国での訳語として馴致している 「 萬歳、万歳 」 の漢の字は、和訓音では 「 ばんざい 」 とも 「 まんざい 」 とも読めるから避けたいところだ。

まして めでたく 「 バンザーイ ( 三唱 )」 ではすこしニュアンスが違うとおもわれるし、用例はふるくからあるようだが 「 万才 」 にいたっては、どうかご勘弁をというところだ。
ついでながら 「 漫才 マンザイ 」 は、関西で、滑稽なはなしをかわす掛合演芸で、大正中期に舞台で演じられ、昭和初年のころに漢の字表記として 「 漫才 」 は定着したものとされる。
本心では 「 Viva  ワォ~ 」 としたいくらいなので、「 萬歳、万歳、バンザーイ 」 は敬遠している。
フ ゥ ~、 漢の字がからむと、はなしがまことにややこしくなる。


“ la ”  は 定冠詞で、 “  la  Frida ”  のように、女性の名前の前に置くと 「 フリーダちゃん 」 のようなニュアンスになって、愛情と親しみをあらわす。

つまり、『 Viva la 活版 Viva 美唄 』 とは、活版印刷という技芸 ( Art ) と、北海道美唄における、丹精をこめて形成された、彫刻 ・ 景観 ・ 自然への讃歌として 『 すばらしき 活版、すばらしい 美唄 』 のおもいから名づけられた。
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名称決定までには、さまざまな議論があった。 ところが、テーブルにさりげなく置かれた一冊の画集が決定打となった。 議論は即座に収束して 『 Viva la 活版 Viva 美唄 』 の名称が決定した。
このたった一枚の絵画が、みんなのこころをおおきく揺りうごかしたのである。

     

のちに知ったことだが、活版カレッジ ・ アッパークラスの 「 横ちゃん 」 は、このひとの絵を小学生のときに見て、いまだに忘れられないほど、おおきな衝撃を受けたということであった。
ところが、まことに恥ずかしきかぎりだが、やつがれはこのときまで、いたましくも、はかなく、そして精一杯につよく、みずからの人生をいききった メキシコうまれの画家、フリーダ ・ カーロ ( Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón 1907-1954 ) のことはなにも知らなかった。
したがって以下しばらくは、申しわけないが情念系を得意とする !?  大石 薫からの受け売りと、にわか仕込みである。
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フリーダ・カーロ は、 ハンガリー系ユダヤ人移民の職業写真家を父として、1907年メキシコにうまれた。
6 歳のころ 急性灰白髄炎 ( ポリオ ) にかかり、右腿から踝クルブシにかけての成長が止まって痩せ細り、これを隠すために、ズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた。

学業は優秀で、当時ようやく女性にも開放されたメキシコの高度教育機関 「 国立予科高等学校 」 へ進学した。 ここで文学や絵画にたいする関心が高まったフリーダは、次第に画家への道を目指すようになった。

1925年、フリーダが18歳のとき、通学に乗っていたバスが路面電車と衝突し、多くの死傷者が発生する事故がおきた。 このときフリーダも 生死の境をさまようほどの重症をおい、その後も事故の後遺症で、背中や右足の痛みに悩まされた。 その痛みと病院での退屈な入院生活を紛らわせるために、本格的に絵画を描くようになったという。

1929年、フリーダが22歳のとき、21歳年上の画家 ディエゴ ・ リベラと結婚した。
この結婚も、その後の妊娠にも、不幸がかさなった。 病気や事故による躰の障害がもととなって、背骨と胎盤が傷ついていたために、いたましいことに 3 度にわたってフリーダは流産した。
また芸術家肌で奔放な夫 ・ リベラは浮気をかさね、なかでもフリーダの実の妹 クリスティナ と関係をもつなどしたために、フリーダのこころにおおきな影を落とすこととなった。 フリーダもまた、夫 ・ リベラへのあてつけのように、日系アメリカ人/イサム ・ ノグチ  と関係をもつなどの騒動がかさなった。

そんなこともあって、フリーダ ・ カーロとディエゴ ・ リベラは、10年余におよんだ結婚生活に終止符をうって、1939年に離婚が成立した。 フリーダはメキシコの生家である 「 青い家 」 にもどって、ひとりで闘病と創作活動をつづけた。
ところがほぼ一年後に、フリーダは、互いに経済的自立をはかること、互いに不貞をはたらかないこと、などの条件を提示して、リベラと復縁して、「 青い家 」 での同居生活にはいった。
こうしてようやくこころの安寧を取りもどしても、間断なくおそう脊髄の傷みはおさまらず、投与された鎮痛剤も効かないほどの苦痛が間断なくおそうようになり、ついに右足切断手術をうけるという闘病生活がつづいた。
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メキシコ人、フリーダ ・ カーロは、200点ほどの作品をのこし、シュルレアリズムの画家とされている。 そのほとんどは自画像であり ( 画像集リンク )、 躰とこころのやまいに苦悩する自分のすがたを、カンバスにそのまま叩きつけたような 「 痛痛しい作品 」 が多い。

ところが晩期の作品に、明るい色彩に満ちた静物画をポツンとひとつのこしている。 みずからカンバスにしるして 『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』 である。
もう一度 画面に 『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』 を紹介したい。

フリーダ ・ カーロは1954年7月13日、47歳にして 幽明 さかいをことにした。
その遺灰は、生家であり、ディエゴ ・ リベラとのおもいでにあふれる 「 青い家 」 にねむっている。
いま 「 青い家 」 は、「 フリーダ ・ カーロ記念館 」 として一般公開されている。
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たび重なる不幸と困難に見舞われながら、それでもなお、人生の最後に 『 すばらしき人生 』 といえるだけの、明るく澄みきった心境にいたった フリーダ ・ カーロの短い晩年ををおもう。
  彼女の生涯と作品は、「 生きること 」 と、「 創ること 」 のためには、誠心誠意、真剣に向き合うべきだという問題提起を突きつけられるとともに、それに立ちむかう勇気もあたえられる。

さぁ、こうしてイベントの名称は 『 Viva la 活版 Viva 美唄 ―― すばらしき 活版、すばらしい 美唄 』 に決定した。 こうなれば、あとは一瀉千里、一気呵成である。
『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生  フリーダ ・ カーロ 』 の一枚の絵画に感動したのなら ―― そう、皆さんご存知の、イギリスのロックバンド、Coldplay のヒット曲、
  『 Viva La Vida 』 ( リンク : Coldplay-Viva La Vida  4:03 YouTube ) を、まことに勝手ながら 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 の 「 こころのテーマ曲  !? 」  に決定とさせていただいた。
この曲は YouTube での再生回数が 122,100,000 回(一億二千二百十万余 2013年03月16日)におよぶ。 そのうちの20-30回は、アダナ ・ プレス倶楽部会員の再生によるものであろうか。

《 Viva la 活版 Viva 美唄 ―― イベント名称と概略がきまったら…… 》
こうしてイベント名称が 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』、「 こころのテーマ曲 」 が 『 Viva La Vida 』 に決まった。
『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 の会場となる 「 アルテ  ピアッツァ 美唄 」 の概略は、この 『 花筏 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』(2013年03月13日)で紹介した。

彫刻家/安田 侃氏によって形成された 「 アルテ ピアッツァ美唄 」 には、公共施設によくみられる 「 サイン ・ ボード 」 と称する案内板はほとんどない。 それどころか、門も塀も仕切りらしきものもない。
したがって入場料の徴収場所もないから、当然入場は無料である。
「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 には、勝手に出入りし、何時間でも観覧したり、芝生や木陰での読書はもちろん、樹木にもたれてウツラウツラと うたた寝までできる。
おまけに 「 カフェ アルテ 」 の水出し珈琲は、水がおいしいせいなのか、ともかく絶品である ( ただし、ここと、ギャラリー棟の ミュージアム ・ ショップの商品は有料 )。

「 ストゥディオ アルテ 」 の外観。 この左手奥に 「 カフェ  アルテ 」 の入口がある。ギャラリー棟や彫刻広場からは、いくぶん離れており、樹木に遮られて相互に見通すことはできない。 右側の森のなかまでつづくテラスには、しばしばリスが顔をだす。
このひろびろと明るい 「 ストゥディオ アルテ 」 を拝借して、『 Viva la 活版 Viva  美唄 』 の活版ゼミナールと、タイポグラフィ ・ ゼミナールを開催する予定である。 展覧会は、この坂の下、彫刻広場と水の広場に面したギャラリー棟の 「 ギャラリー  アルテ 」 で開催する。

だから来場者は、好きな場所から 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 にはいり、好きなところから出てゆくことになる。
そしてあちこちに、さりげなく ―― 実際は実に巧妙かつ趣向を凝らして ―― 置いてある彫刻作品と、偶然のように、出会い、発見し、邂逅のよろこびを感ずることになる。

ときには、傾斜のいくぶん上部にあるために、彫刻広場 ( アートスペース ) など、下からの視界を樹林に遮られている 「 彫刻ストゥディオ 」 と 「 カフェ  アルテ 」 の建物に出あわないまま、彫刻広場と、ギャラリー棟の周辺を見ただけで、十分満足して帰るひともいるらしい。
それはそれで良しとするのが、この施設の特徴のようである。

来場者の多くが、ブログロールや短文ブログに、好意的な記録をのこしている。
その多くは 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 周辺の、豊かな樹林や、一面の芝生の鮮やかな緑と、アートスペースの 「 彫刻広場 」 と 「 水の広場 」 を中心とした、純白の大理石による彫刻との鮮やかなコントラストに目を奪われているようである。
この純白の大理石は、イタリア中西部、トスカーナ州の州都 ・ フィレンツェ郊外のピエトラサンタで産出されるものだという。 彫刻家/安田 侃氏は、この白大理石をもとめて、いまもってイタリアのフィレンツェ郊外、ピエトラサンタに主要なアトリエを置いている。

春の雪解けから、晩秋の積雪までのあいだ、すなわち緑が萌えているころに、この大理石の見事なまでの白さを、ほとんどボランティアで維持しているのは 「 NPO法人 アルテ ピアッツァ  びばい 」 と、「 アルテ市民ポポロ 」 の皆さんである。
「 アルテ市民ポポロ 」 有志の皆さんは、三ヶ月に一度、この大理石をひとつひとつ丹念に洗って、汚れを落とす作業を展開するそうである。 小社社員約一名も、どうやら 「 アルテ市民ポポロ 」 になったらしい。

── NPO法人 アルテピアッツァ びばい
アルテピアッツァ 美唄は、自然と彫刻が調和する美しい空間です。 アートを通じて、地域と人、人と人、そして過去と今、未来を結ぶ場として、美唄のまちに新たな 「 時 」 を積み重ねてきました。 このかけがえのない空間を、これまでにも増して確かに支えていくために、「 アルテ市民ポポロ 」 の取り組みがスタートします。

地域の枠を越えて アルテピアッツァ 美唄 を支える思いを共通項としたコミュニティ 「 アルテ市民ポポロ 」 の誕生です。 「 アルテ市民ポポロ 」 に参加される皆さんは、この空間を揺るぎなく次代に伝えていく上で大切な役割を担うコミュニティの主役です。
“ バトンを未来へ ”
新しい絆を結ぶコミュニティの一員としてご参加くださることを心から願っています。

《 テーマ ・ カラーの設定 ―― ルネサンスをうんだまち、シエナの、シェンナ色 》
さて、ここでまた、自称 情念系 ・ 大石  薫 が、
「 今回の 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 テーマ ・ カラーは、バーントシェンナに決まりですね 」
とのたもうた。 そも 「 バーントシェンナ 」 とはなんぞや ?

13世紀の末、イタリア中西部、トスカーナ地方の富裕なまちのいくつかで、ひとつの潮流 「 La  Rinascita 」 が勃興した。
わが国ではそれを明治初期に訳語をあてて 「 文芸復興 ・ 学芸復興 」 としたが、やがてフランス語由来で、それが英米語を経由した 「 Renaissance,  ルネサンス 」 と呼ぶようになった。 イタリア語 「 Rinascita 」、フランス語 「 Renaissance 」 を直訳すると、いずれも 「 再生 」 である 。

北海道美唄市出身の彫刻家/安田 侃氏が、ルネサンス発祥の地のひとつとされる、トスカーナ州フィレンツェ郊外にアトリエを置いていることは前述した。
イタリアにいってフィレンツェをたづねるには、ミラノから、あるいはローマから、電車でフィレンツェに入ることが中心である。

電車がトスカーナ地方に入ると、車窓からみえる風景がかわり、ものなりが豊饒で、市民生活もゆたかにみえる。 それよりなにより、まちの色彩はろばろとひろがって、あかるくなる。 北部のミラノやヴェネツィアとも、また首都のローマとも、まちの色彩がおおきく異なることにおどろく。

つまりほかのまちでみる、くすんだ灰色か、おもい暗褐色の屋根瓦や壁面とは異なって、このあたりの屋根瓦や壁面は 「 シェンナ 」 という名の、明るい朱色というか、明治初期のわが国の煉瓦色を、もうすこしおだやかにしたような、あるいは鉄錆びたような朱色の色調が中心となる。
それがまた、風雨にさらされ、古さびて、独特な軽快さと、明るさとなって、味わいゆたかな景観を形成している。
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イタリア中西部、トスカーナ州 州都 「 フィレンツェ Firenze 」 は、ふるくから地中海貿易と金融業によって財をなした、メディチ家などの富の蓄積があり、13世紀末から次第にルネサンスをもたらしたまちのひとつである。 こんにちでも観光名所として、世界中からの観光客が絶えないまちである。 人口およそ36万人。

州都 フィレンツェの南方 およそ50キロほどのところに 「 シエナ、シエーナ  Siena 」 のまちがある。
現在の人口はおよそ 5 万5000人ほどの中都市であり、中世の姿をとどめる旧市街は 「 シエナ歴史地区 」 として世界遺産に登録されている。 

 シエナは、中世には金融業でさかえた有力都市国家であり、13世紀から14世紀にかけて最盛期をむかえた。 このころのシエナはトスカーナ地方の覇権をフィレンツェと競い、たびたび武力衝突もみた。 またその経済力を背景としてルネサンス期には芸術の中心地のひとつであった。
──────────
ここからはなしがすこしく厄介になる。 まちの名前と、色の名前である。 この、まちの名、顔料の名、色の名前は、似ているだけに混同されやすい。
わかりにくければ、それぞれ Wikipedia にリンクを付与したので、参照していただきたい。

シエナ、シエーナ   Siena 」 のまちから産出した岩を砕いて、それを原料とした天然顔料を 「 n 」 をひとつ足して 「 シェンナ   Sienna 」 という。
「 シェンナ 」 はまた、天然顔料素材の名であり、その独特の色味から 「 色の名前 」 でもある。

「 シェンナ 」 は、人類がもっともふるくからもちいた天然顔料の一種であり、ふるい洞窟の壁画などにも 「 シェンナ 」 の使用の痕跡をみることができる。
「 シェンナ 」 の名前の由来は、「 シエーナ, シエナ 」 から産出した岩をもちいたことによる。
「 シェンナ 」 は、水和酸化鉄を主成分とし、ケイ酸コロイドと、少量のマンガンを含む、天然の岩を原料とする。 いくぶん黒味を帯びた、黄褐色の顔料である。

天然顔料の 「 シェンナ 」 には、焼結していないものと、焼結したものとがある。
その顔料は 日本工業規格 JIS でも 「 色名 」 として定義され、JIS 慣用色名として 「 マンセル値 」 によって定義されている。

◯ 焼結していないもの ―― 「 ローシェンナ row sienna 」。 黄色味のつよい色をしている。
   ローシェンナ ( JIS 慣用色名 )     マンセル値 4YR 5/9
◯ 焼結してあるもの ―――「 バーントシェンナ  burnt sienna」。 酸化第二鉄を主成分とした赤褐色の顔料としてもちいられる。
   バーントシェンナ ( JIS慣用色名 )       マンセル値 10R 4.5/7.5  

さて…… 、彫刻家 ・ 安田 侃氏がもたらした 「 シェンナ 」 は、「 ローシェンナ 」 なのか 「 バーントシェンナ 」 なのか、その記録は 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 の広報物には見あたらない。 どうもその双方を行きつ戻りつしているようにおもえるが確証はない。
安田 侃氏はどうやらやつがれと同年のうまれらしい。 そして7-8月には、しばしば美唄のアトリエ 「 ステゥディオ アルテ 」 にあらわれるようである。 できたらご本人に伺いたいものである。

 

Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅰ 開催のお知らせ

 朗文堂 アダナ・プレス倶楽部では、手動式卓上小型活字版印刷機 Adana-21J を中核としながら、活字版印刷(以下活版印刷、活版とも)のこんにち的な意義と、その魅力の奥深さの普及をとおして、身体性をともなった造形活動の姿勢を重視し、ものづくりの純粋な歓びの喚起を提唱してまいりました。活版印刷の今日的な意義と、魅力の奥深さをより一層追求するためには、活字版印刷術の技術と、知識の修得はもちろんのこと、「ものづくり」と真剣に向き合うための姿勢と環境も重要です。
────
そこでアダナ・プレス倶楽部では、活字組版を中心とした実践と、発表の場のいっそうの充実のために、過去5年間4回にわたって開催してまいりました「活版凸凹フェスタ」を一時中止  して、もう一度じっくりと構想を練りなおし、技芸を磨く準備期間と、制作期間を経て、「ものづくり」と真剣に向き合う姿勢を育む活動へとシフトすることになりました。


その第一弾として、本年7月の3連休に、北海道の美唄ビバイ市にある、
「アルテ  ピアッツァ 美唄」において、
『Viva la 活版 Viva 美唄』を開催いたします。

【名 称】 Viva la 活版 Viva 美唄
【会 期】 2013年07月13日(土)―15日(月・祝) 9:00―17:00
(最終日は13:00まで)
【会 場】 ARTE PIAZZA BIBAI アルテ ピアッツァ 美唄
北海道美唄市落合町栄町
http://www.artepiazza.jp/
【入 場】 無 料
(ゼミナールの一部に参加費が必要なものもあります)
【主 催】 朗文堂 アダナ・プレス倶楽部

【本イベントのオフシャルサイト    :アダナ・プレス倶楽部 NEWS 】
【本イベントのバックアップサイト :朗文堂 NEWS 】

★      ★      ★

「アルテ ピアッツァ美唄」は、美唄市の出身で、世界的な彫刻家として知られる安田 侃(ヤスダ カン 1945- )氏が、いまなお創作を継続している、大自然と彫刻がたがいに相共鳴する彫刻の野外公園美術館です。

イタリア語で「芸術広場」を意味する「アルテ ピアッツァ 美唄」は、自然と人と芸術の新しいあり方を模索し、提案し続け、訪れる人々に自分の心を深く見つめる時間と空間を提供するすばらしい施設です。

そのような素敵な環境にある「ストゥディオ アルテ」 と、昭和のぬくもりをのこす旧栄小学校にある「ギャラリー アルテ」 の一画をお借りして、『Viva la 活版 Viva 美唄』では、各種のゼミナールと、活版カレッジ有志による活字版印刷を中心とした展示をおこないます。

「ストゥディオ アルテ」と隣接している「カフェ アルテ」では、おいしい珈琲(絶品です ! )や紅茶やケーキが楽しめます。またお天気にめぐまれ、戸外のテラスで軽食でも摂っていると、エゾリスがチョロチョロと顔をだしたりします。

★      ★

美唄市 は、かつては四大産炭地のひとつとされて、三菱鉱業、三井鉱山、中小の炭鉱などが進出して、全国でも有数の炭鉱都市として栄えたまちです。最盛時には炭鉱までのローカル鉄道「美唄鉄道」がはしり、1950年代の最盛時の人口は10万人弱という繁華なまちでした。

1970年代にはいると、国の施策として石炭から石油へのエネルギー転換がはかられ、このまちでも1973年に三菱美唄炭鉱が閉山されて、ほとんどの炭鉱の灯が消えました。活気のあった炭鉱住宅はひっそりと静かになり、子どものいなくなった小中学校は廃校となりました。

それから40年ほどの歳月がすぎ、現在の美唄市は人口2万5000人ほどで、ここがおおきな産炭地だったことを忘れさせるほど、豊かな緑がひろがり、すっかり静かなまちになりました。それでも空知地方の中核都市、物資の集散地としての役割を担い、廃鉱のまちにありがちな暗さがないのがふしぎなくらいです。

[以下の部分は、アルテ ピアッツァ 美唄『popolo』広報誌を参考にしました]
アルテ ピアッツァ 美唄が誕生したきっかけは、1981年にイタリアで創作活動を続けていた安田 侃氏が、日本での創作活動の拠点を探していた際に、廃校となっていた旧栄小学校に出あったことにはじまります。

もともと安田氏は、地元美唄駅の鉄道員の息子として、この地にうまれたひとでした。栄小学校の朽ちかけた木造校舎は、数十年前の標準的な小学校の木造建築様式であり、子どもたちの懐かしい記憶と、ぬくもりがそのまま残っていたとされます。

そして校舎の一部に併設されて、しかもいまなお開設されている、ちいさな美唄市立栄幼稚園に通う子どもの姿が安田氏の心をとらえたとかたっています。
そこではエネルギー革命という、過酷な時代に翻弄された歴史を知らず、無邪気に遊ぶ園児たちを見て安田氏は決意しました。
「この子どもたちが、心をひろげられる広場をつくろう」。
それがアルテピアッツァ 美唄誕生のきっかけとなったといいます。

その後、安田 侃氏と、彼のおもいに共感した多くの人びとの尽力によって、1992年に栄小学校の廃校跡地を中心に、広大な敷地をもつ、世界でも希有な彫刻公園「アルテ ピアッツァ 美唄」が開園しました。

アルテ ピアッツァ 美唄は、樹林と草原の中に、40点あまりの石彫とブロンズの作品が配置され、それぞれが自然と溶け合いながら豊かな空間を創りだしています。
展示空間としてよみがえった校舎や体育館では、さまざまな展覧会、講演会、コンサートなどがさかんに開かれています。
中央の芝生の広場では、夏には水遊び、冬には雪遊びにやってくる大勢の子どもが走り回ります。かつて、ここに通っていた子どもたちの記憶と、現在の子どもたちの明るい歓声が、混じり合ってこだましています。

ここを訪れる人は、はじめてきた人でも、どこか懐かしい気持ちがするといいます。

安田 侃氏はかたっています。
「アルテピアッツァ 美唄 は幼稚園でもあり、彫刻美術館でもあり、芸術文化交流広場でも、公園でもあります。ですからわたしは、誰もが素に戻れる空間、喜びも哀しみもすべてを内包した、自分自身と向き合える空間を創ろうと欲張ってきました。この移り行く時代の多様さのなかで、次世代に大切なものをつないで行く試みは、人の心や思いによってのみ紡がれます」

アルテピアッツァ 美唄は、自然と人と芸術の新しいあり方を模索し、提案し続け、訪れる人びとに自分の心を深く見つめる時間と空間を提供しています。それはまさに、芸術の本質に通じているのです。

【動画紹介:アルテ ピアッツァ美唄 YouTube 8:18】

タイポグラファ群像*002 杉本幸治氏 ─ 本明朝・杉明朝原字製作者/ベントン彫刻法の普及者 ─ 三回忌にあたって再掲載

杉  本   幸  治
1927年[昭和02]04月27日-2011年[平成23]03月13日

◉ 杉本幸弘氏・細谷敏治氏から写真掲載許可をいただき、あらたなデーターで再掲出します。
◉ 講演会会場撮影:木村雅彦氏。 2012年01月13日
◉ 杉本幸治氏三回忌にあたり、2013年03月13日、再掲載いたしました。 

1927年(昭和02)04月27日、東京都台東区下谷うまれ。
東京府立工芸学校(5年履修制の特殊な実業学校。現東京都立工芸学校に一部が継承された)印刷科卒。

終戦直後の1946年( 昭和21)印刷・出版企業の株式会社三省堂に入社。今井直一専務(ナオイチ 1896-1963年05月15日 のち社長)の膝下にあって、本文用明朝体、ゴシック体、辞書用の特殊書体などの設計開発と、米国直輸入の機械式活字父型・母型彫刻システム(俗称:ベントン、ベントン彫刻機)の管理に従事し、書体研究室、技術課長代理、植字製版課長を歴任した。

またその間、今井専務の「暗黙の指示と黙認」のもとに、株式会社晃文堂(のち株式会社リョービ印刷機販売、リョービイマジクス株式会社。2011年11月から、株式会社モリサワに移譲されてモリサワMR事業部 → 株式会社タイプバンク → モリサワとなった)の「晃文堂明朝体」の開発と、「晃文堂ゴシック体」の改刻に際して援助を重ねた。

1975年三省堂が苦境におちいり、会社更生法による再建を機として、48歳をもって三省堂を勇退。その直後から細谷敏治氏(1914年うまれ)に請われて、日本マトリックス株式会社に籍をおいたが2年あまりで退社。
そののち「タイポデザインアーツ」を主宰するとともに、謡曲・宝生流の師範としても多方面で活躍した。
金属活字「晃文堂明朝体」を継承・発展させた、リョービ基幹書体「本明朝体」写植活字の制作を本格的に開始。以来30数年余にわたって「本明朝ファミリー」の開発と監修に従事した。

2000年から硬筆風細明朝体の必要性を痛感して「杉明朝体」の開発に従事。2009年09月株式会社朗文堂より、TTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。同年11月、OTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。

特発性肺線維症のため2011年03月13日(日)午前11時26分逝去。享年83
浄念寺(台東区蔵前4-18-10)杉本家墓地にねむる。法名:幸覚照西治道善士 コウガク-ショウサイ-ジドウ-ゼンジ。

◎        ◎        ◎        ◎

東日本大震災の襲来の翌翌日、特発性肺線維症 のため入退院を繰りかえしていた杉本幸治氏が永眠した。
杉本氏は、わが国戦後活字書体史に燦然と輝く、リョービ基幹書体「本明朝体」をのこした。また畢生ヒッセイの大作「硬筆風細明朝 杉明朝体」を朗文堂にのこした。
わたしどもとしては、東日本大震災の混乱の最中に逝去の報に接し、万感のおもいであった。
これからは30年余におよぶ杉本氏の薫陶を忘れず、お預かりした「杉明朝体」を大切に守り育ててまいりたい。

在りし日の杉本幸治氏を偲んで

杉明朝体はね、構想を得てから随分考え、悩みましたよ。
その間に土台がしっかり固まったのかな。
設計がはじまってからは、揺らぎは一切無かった。
構造と構成がしっかりしているから、
小さく使っても、思い切り大きく使っても
酷使に耐える強靱さを杉明朝はもっているはずです。
若い人に大胆に使ってほしいなぁ。

-杉本幸治 83歳の述懐-


上左)晃文堂明朝体の原字と同サイズの杉明朝体のデジタル・データー
上右)晃文堂が和文活字用の母型製作にはじめて取り組んだ金属活字「晃文堂明朝」の原字。
(1955年杉本幸治設計 当時28歳。 原寸はともに2インチ/協力・リョービイマジクス)

ふたつの 「書」 の図版を掲げた。かたや1955年、杉本幸治28歳の春秋に富んだ時期のもの。こなたは70歳代後半から挑戦した新書体「杉明朝体」の原字である。

2003年、骨格の強固な明朝体の設計を意図して試作を重ねた。杉本が青春期を過ごした、三省堂の辞書に用いられたような、本文用本格書体の製作が狙いであった。
現代の多様化した印刷用紙と印刷方式を勘案しながら、紙面を明るくし、判別性を優先し、可読性を確保しようとする困難な途への挑戦となった。制作に着手してからは、既成書体における字体の矛盾と混乱に苦慮しながらの作業となった。名づけて「杉明朝体」の誕生である。

制作期間は6年に及び、厳格な字体検証を重ね、ここに豊富な字種を完成させた。
痩勁ながらも力感ゆたかな画線が、縦横に文字空間に閃光を放つ。
爽風が吹き抜けるような明るい紙面には、濃い緑の若葉をつけた杉の若木が整然と林立し、ときとして、大樹のような巨木が、重いことばを柔軟に受けとめる。

《杉明朝体の設計意図――杉 本  幸 治――絶 筆》

2000年の頃であったと記憶している。昔の三省堂明朝体が懐かしくなって、何とかこれを蘇らせることができないだろうかと思うようになった。 ちょうど 「本明朝ファミリー」 の制作と若干の補整などの作業は一段落していた。 しかしながら、そのよりどころとなる三省堂明朝体の資料としては、原図は先の大戦で消失して、まったく皆無の状態であった。

わずかな資料は、戦前の三省堂版の教科書や印刷物などであったが、それらは全字種を網羅しているわけではない。 したがって当時のパターン原版や、活字母型をベントン彫刻する際に、実際に観察していた私の記憶にかろうじて留めているのに過ぎなかった。

以下3点の写真は、機械式活字父型・母型彫刻システムを理解するための参考として掲載した。2008年09月28日、山梨市・安形製作所における《アダナ・プレス倶楽部  活字製造体験会》活字母型製造試作作業の模様。
同体験会は、活字原字製作を参加者が独自におこない、活字パターン(亜鉛凹版・2インチ)製造をアダナ・プレス倶楽部が担当した。活字母型彫刻は山梨市の安形文夫氏の指導のもとで、12ポイントの活字母型を彫刻体験し、それをもって、のちに活字鋳造所、横浜の築地活字に出向き、12ポイント活字の鋳造を実体験するというものであった。
なお、このとき活字母型彫刻の指導にあたられ、アダナ・プレス倶楽部に支援を惜しまなかった同社所長:安形文夫氏は膵臓癌のため2012年元旦早朝2時に逝去された。
【タイポグラファ群像*004 安形文夫】。

戦前の三省堂明朝体は、世上から注目されていた「ベントン活字母型彫刻機」によるもので、最新鋭の活字母型制作法として高い評価を得ていた。この技法は精密な機械彫刻法であったから、母型の深さ[母型深度]、即ち活字の高低差が揃っていて印刷ムラが無かった。加えて文字の画線部の字配りには均整がとれていて、電胎母型[電鋳母型トモ]の明朝体とは比較にならなかった。

しかしながら、戦後になって活字母型や活字書体の話題が取り上げられるようになると、「三省堂明朝体は、ベントンで彫られた書体だから、幾何学的で堅い表情をしている」とか、「 理科学系の書籍向きで、文学的な書籍には向かない」 とする評価もあった。

確かに三省堂明朝体は堅くて鋭利な印象を与えていた。しかし、それはベントンで彫られたからではなく、昭和初期の三省堂における文字設計者、桑田福太郎と、その助手となった松橋勝二の発想と手法に基づく原図設計図によるものであったことはいうまでもない。

世評の一部には厳しいものもあったが、私は他社の書体と比べて、三省堂明朝体の文字の骨格、すなわち字配りや太さのバランスが優れていて、格調のある書体が好きだった。そんなこともあって、将来なんらかの形でこの愛着を活用できればよいが、という構想を温めていた。

三省堂在職時代の晩期に、別なテーマで、辞書組版と和欧混植における明朝活字の書体を、様様な角度から考察した時、三省堂明朝でも太いし、字面もやや大きすぎる、いうなれば、三省堂明朝の堅い表情、すなわち硬筆調の雰囲気を活かし、縦横の画線の比率差を少なくした「極細明朝体」をつくる構想が湧いた。

ちなみに既存の細明朝体をみると、確かに横線は細いが、その横線やはらいの始筆や終筆部に「切れ字」の現象があり、文字画線としては不明瞭な形象が多く、不安定さがあることに気づいた。
そのような観点を踏まえて、まったく新規の書体開発に取り組んだのが、約10年前からの新書体製作で「杉本幸治の硬筆風極細新明朝」、即ち今回の 「杉明朝体」という書体が誕生する結果となった。

ひら仮名とカタ仮名の「両仮名」については、敢えて漢字と同じような硬筆風にはしなかった。仮名文字の形象は、流麗な日本独自の歴史を背景としている。したがって無理に漢字とあわせて硬筆調にすると、可読性に劣る結果を招く。 既存の一般的な明朝体でも、仮名については毛筆調を採用するのと同様に、「杉明朝体」でも仮名の書風は軟調な雰囲気として、漢字と仮名のバランスに配慮した。

「杉明朝体」は極細明朝体の制作コンセプトをベースとして設計したところに主眼がある。したがってウェイト[ふとさ]によるファミリー化[シリーズ化]の必要性は無いものとしている。一般的な風潮ではファミリー化を求めるが、太い書体の「勘亭流・寄席文字・相撲文字」には細いファミリー[シリーズ]を持たないのと同様に考えている。

「杉明朝体」には多様な用途が考えられる。例えば金融市場の約款や、アクセントが無くて判別性に劣る細ゴシック体に代わる用途などがあるだろう。また、思いきって大きく使ってみたら、意外な紙面効果も期待できそうだ。

杉本幸治氏を偲ぶ  しごく内輪の会

杉本幸弘・吉田俊一・米田 隆・片塩二朗・根岸修次(記録担当)
2011年05月19日[木] 朗文堂 PM05:00-

◎ 片塩:早いもので杉本幸治先生の四十九日忌の法要も終えられました。
そこで本日は、ご長男の杉本幸弘ユキヒロさんをお迎えして、晩年の先生を手こずらせた!? この5人で、ご供養半分、こぼし半分で、杉本先生(以下 先生とも)のおもいでばなしをしよう……、ということでご参集いただきました。
ともかくここにいるメンバーは、先生にはお叱りを受けることが多かったんです。
◎ 杉本幸弘(杉本幸治氏長男/以下 幸弘):オヤジはなにぶん東京の下町うまれでしたから、江戸っ子気質カタギというか、叱るときはポンポン容赦なかったですね。
それでも、いうだけいわせておけば静かになるし、いってしまったことは忘れるので、母も妹も、もちろんわたしも、だまっていわせておきました。お叱りが、こう頭の上を滑っていくのを待つわけですね(笑)。
◎ 吉田:われわれはそうはいかないから、ハイ、ハイってね。まぁなんやかやと、よく叱られたなぁ(笑)。

◎ 米田:パソコンでも、車でも、先生はけっこうわがままをいったでしょう?
◎ 幸弘:オヤジがパソコン(Mac)を購入して、使用をはじめたのは1980年代、60代前半のころでした。
◎ 吉田:NEC 98型の全盛期からじゃなかったんだ?
◎ 米田:時代のせいでしょうけど、パソコン開始年齢としては比較的ご高齢になってからですね。
それでも先生は難しいソフトウェアでも完ぺきに使いこなしていらっしゃった。
◎ 片塩:そうそう、あきらかに、わたしより数段マックの扱いにはくわしかったですね。ほとんどE-メールはなさらなかったようですけど。
でも1980年代からパソコンをはじめたというのは、年齢は別として、遅くはないでしょう。
◎ 吉田:たれかと違って、携帯電話を愛用されたし、ケイタイメールはよくいただきましたよ。
◎ 片塩:どうせわたしはデジタル・オンチで、ケイタイも使いませんからね(笑)。
それを笑って、先生はいつも「オレは技術者 エンジニア だからな」と自慢されていた。

◎ 幸弘:オヤジがもっとも愛用したのは一体型の i Mac で、OS-9と OS-X を選択併用できる機種でした。オヤジはおもに OS-9 を使用していましたね。
また車の運転免許証をとったのもほぼ同時期で、わたしが免許を取得したのをみて「オレもとる」ということではじまりました。これも60代の前半でしたね。
それ以来すっかり運転マニアになって、どこにいくのにも車。それも事前に路線図をじつに詳細に、隅隅まで確認して、ここで右折、ここで左折と決めて、渋滞していてもほとんど変更しない。ともかく地図のとおりにまっすぐに(笑)。
なにせ頑固でしたからね、自分で車を運転して2009年まではでかけていました。

◎ 米田:2009年10月ころに、医者から外出を禁止されたでしょう。あのころから先生は弱られたのかもしれませんね。
◎ 幸弘:いや、その前から体調は十分とはいえませんでした。
2006年04月22日《杉本幸治 本明朝を語る》(リョービイマジクス主催)の講演会があったでしょう。その前夜まで、オヤジはひどく熱があって。
ともかく体調が悪くて、セーターやパジャマやら、いっぱい着込んで、その上にドテラまで羽織って寝込んでいたんですよ。ですから明日はとても無理だろうとおもっていたら、早朝からたれにも告げず、ひとりで出かけてしまって驚きました。
◎ 吉田:そうでしたか! 講演ではお元気だったけどなぁ。熱があるようにはみえなかったけど、咳き込みがあって、ちょっと心配はしました。
それに「特発性肺線維症」なんて持病はたれにもおっしゃらなかったし。
◎ 片塩:そうそう、ひどい咳をしていた。それでもわたしも、チョットした喘息程度かなとおもっていましたね。
でも講演はいやだ、いやだって逃げまわっていたのに、あの日の先生の講演は熱演で、たくさんご来場いただいた聴講者も随分刺激を受けていたようですよ。
◎ 幸弘:ともかくあの日のオヤジは、そおっと出ていったんですよ。家のものはたれも知らなかった。わかっていれば止めたでしょうね。
◎ 米田:そうだったんだ。知らなかったですね。でも先生はお元気で、夢中になって話しておられたなぁ。

◎ 片塩:あの少し前から先生は、勤労動員に追いまくられた戦時中の東京府立工芸時代のはなしや、三省堂時代のはなしをよくされるようになっていました。そして大切にされていた「石原忍とあたらしい文字の会」の一括資料などをお譲りいただきました。それと、『太平洋戦争下の工芸生活』(東京都立工芸学校23-26期編集委員会 平成09年03月27日 私家版)などを嬉しそうにおみせになるんですね。
このタイトルの題字製作は先生ですが、おもしろいことに、骨格はほとんど「本明朝」そのものですね。先生にはこの骨格が染みついていたのかなぁ。
先生は同校の本科印刷科25期生で、2期先輩に野村保惠さんが、3期後輩の金属工芸科に澤田善彦さんがいらっしゃった。この本は面白いですよ。印刷と工芸、あるいは工芸と美術・芸術・デザインの関係と相違がとてもよくわかります。

『太平洋戦争下の工芸生活』 表紙の題字は杉本幸治氏による。
(東京都立工芸学校23-26期編集委員会、私家版、平成09年03月27日)

『杉本幸治 本明朝を語る』 表紙デザイン:白井敬尚氏
(編集・製作/組版工学研究会 リョービイマジクス 2008年01月25日)

◎ 吉田:講演会のあとが、またひと騒ぎあったなぁ。
◎ 米田:あの黄色い表紙の講演録『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス発行)にまとめたのは、結局先生が再出演されたわけですか?
◎ 片塩:そうなんですよ。リョービイマジクスさんが撮影した DVD 画像をみて、先生は講演内容が断片的で、まとまりがないとお気に召さなかった。
これじゃあ説明になってないなぁ、と何度も首を振られてね。
そこで再度資料を取り揃えて、歴史的視点を中心にかたろうとなって……。この部屋(朗文堂)で3時間ほど対談しました。そのころはまだ酸素タンクは使っておられなかったですね。

◎ 吉田:あとから、随分先生が原稿を添削したようですね。
◎ 片塩:あれは添削ではなくて、テープから起こした原稿をみて、ここはオレが死ぬまで発表しちゃ駄目。ここはオレと細谷敏治さんが亡くなるまで駄目っていうのがほとんどですね。
だいたい三分の二ほどの原稿がカットされました。
◎ 吉田:戦後の活字の復興に発揮した、三省堂・今井さんの使命感とその功績、細谷さんと先生の、おふたりのおおきなご努力は、まだ発表できないんですか?
◎ 片塩:それは杉本先生の厳命ですから。小社のO社員も立ち会って、厳重に約束させられましたから。
ただ、わたしがお話しをもとに少し書き込んだ部分は、
「どうしてこの事実がわかったんだ?」
と、原稿からお顔をあげてふしぎそうでした。
「あのお話しと、このお話しを連結すると、このように帰納されますけど、違いますか?」
と伺うと、
「いや、この通りなんだ。間違いなくこの通りなんだ。そうなんだけど……、たれもこうした事実に目をむけなかったからな。この辺の事情がよくわかったなぁ」
とおっしゃるんですね。もちろん自分がおはなしになったことですよ。
それでもまた原稿に視線をさげて、赤ペンで大きくバツ印をつけて、「これはオレが死ぬまで駄目」となるわけです。

◎ 幸弘:ともかくオヤジは、戦後すぐから、あちこちの活字鋳造所や印刷所にいかされたといっていましたね。
◎ 片塩:そうなんです。本当は各社の明朝体の活字書風をみれば、「三省堂明朝体」、あるいはそのとおい原型となった、昭和初期の秀英体、とりわけ秀英四号明朝体との関係がわかることですが、おおかたの「活字ファン」は、漢字にはほとんど関心がなく、活字を仮名書風を中心にみて、印象をのべたり、評価するんですね。
やはり全体、もっともキャラクター数とさまざまな特徴のある漢字をみないで、仮名活字だけで活字書体をかたってもねぇ……。おのずと限界はありますよ。
各社とも復興にあたって、仮名書風くらいは、独自に、あるいはむしろ意図的に独自書風で開発していますし、その後も仮名活字は各社とも改刻が繰りかえされていますから、戦後のあわただしい活字復興の実態が、おおかたにはいまでもわからないようですね。

◎ 幸弘:オヤジがT印刷にいっていたことも、意外に知られていないようですね。
◎ 片塩:もちろんです。意外にではなく、まったく「秘密」だったんでしょうね。
もちろん例外はありますが、おおまかにいってD社系は津上製作所製の彫刻機で、細谷さんが基本操作指導にあたり、K社系とT社系は不二越製作所製の彫刻機で、基本操作指導は杉本先生のご担当だったようです。これは今井専務の指示だったと先生はおっしゃっていました。
そういう意味で晃文堂は、戦後に、なんのしがらみもなくスタートした活字鋳造所でしたし、社長の吉田市郎さんとも波長があって、晃文堂での原字製作からはじめ、まったく最初からつくる活字製作作業が楽しかったんでしょうか。それが「晃文堂明朝」、「晃文堂ゴシック」の製作につながり、のちの「本明朝体シリーズ」の展開につながったんでしょうね。

◎ 吉田:先生の「本明朝」へのこだわりは、ふつうじゃ考えられないほどだった。ちょっとでもスタッフが手を入れても激怒するほどのこだわりで……。
◎ 片塩:ですからわたしも「本明朝-L, M, B, E」と、「杉明朝体」にこだわるのは、そのすべてが杉本幸治さんという、いち個人が、26-7歳からはじめて、お亡くなりになる寸前の83歳まで、半世紀はおろか、57年余のながきにわたって、コツコツと、たったおひとりで製作されたということにあります。
もちろん明朝体の最大の特徴は、分業化できることにあります。ですから晃文堂やリョービイマジクスのスタッフの支援・協力はあったにせよ、「本明朝」の根幹部分には、たれにも手も触れさせなかったでしょう?
◎ 吉田:外字の隅隅まで、それはもう厳格でしたね。
写真植字書体開発も後期になると、コンピューターの支援、いわゆるインター・ポーレーションで、シリーズやファミリーを拡張していました。それが「本明朝-L, M, B, E」だけは、インター・ポーレーションを一切もちいず、金属活字時代のオプティカル・スケーリング(個別対応方式)のように、ひとつひとつのウェイトを、コツコツとおひとりでお書きになった。
幸彦さん、お父さん ── 杉本幸治さんというかたは、そういうひとだったんですよ。
◎ 幸彦:そうでしたか……。なにせウチでは、かみなりオヤジの面ばかりみていましたから。
◎ 米田:先生はシャイなひとだったし、家ではなにもおっしゃらなかったでしょうけど、ともかく、凄い! のひとことでした。たれにもできることじゃなかった。 

◎ 吉田:ですから「本明朝-U」には、先生はすこしご機嫌斜めだったな。
◎ 米田:あれは吉田さんのアイデアでしたか?
◎ 吉田:いや、ユーザーのご希望と、リョービとリョービイマジクスの総意ということで……(笑)。
◎ 米田:あのウェイトだと、インター・ポーレーションといってもたいへんだったでしょう?
◎ 片塩:まぁ、いろいろあっても、先生からみると──「本明朝-U」は、吉田俊一が勝手にやったこと。「本明朝-Book」は、片塩がリョービを焚きつけてやったこということで……。なんやかや、ともかくいろいろありましたねぇ(笑)。



毎日新聞社に津上製作所製造のベントン彫刻機第1ロット、2台が導入された折の写真。
1949年。後列左から3人目が小塚昌彦氏。写真は同氏提供。

◎片塩:またベントン彫刻機のはなしにもどりますが、先生は K,T 印刷系の企業は不二越製作所製のベントンが多く、どうにも具合が悪くて難儀した、とこぼされていました。
なにしろおおきな企業とそのグループ各社は、お互いにメンツがあるから、互いに協力することなく、張りあって開発したんでしょうか……。
機械式活字父型・母型彫刻機(ベントン)は、三省堂の今井直一ナオイチ専務(当時、のち社長)が、活字に一家言おありになって、金属活字はすでに明治末期から開発が停滞し、既成書体の電鋳活字母型(電胎活字母型トモ)はすでに疲弊していて、使用に耐えないとされました。
そしてたとえ戦禍を免れたとしても、電鋳法の活字母型は耐久性においてすでに限界であり、また活字母型深度にバラツキがあるため、活字の高低差がもたらす印刷ムラに問題があるとされ、各社に根本的な改刻か、廃棄をうながされたんですね。

今井さんは当時の印刷界では数少ない大学(現・東京藝術大学)出身者で、アメリカにも留学され、最新の技術情報にも詳しく、印刷連合会や印刷学会の重鎮でもありました。そんな今井さんでしたから、第二次世界大戦の壊滅的な被害から、活字と活字版印刷の敏速な復興を、タイポグラファのリーダーとして、一種の使命感をもって願っておられた。
そのために、大正時代の末に米国から輸入して、関東大震災と第二次世界大戦の被害をのがれた、自社の機械式活字母型彫刻機を公開して、それをもとに両社がそれぞれ独自に設計図をおこして、津上製作所と、のちに不二越製作所による国産機が誕生しました。
またベントン彫刻機を導入したほとんどの企業に、ともかく敏速な復興のために、ほぼ実費だけで活字パターンまで提供されました。

この機械式活字母型彫刻機の採寸のときの記録が大日本印刷にのこっていますが、それによると、三省堂側の立会人は入社直後、23歳当時の杉本先生です。
大日本印刷機械部と津上製作所の技術陣が、三省堂に出向いて採寸したわけですが、その際先生は、機械式活字母型彫刻機をばらして分解・採寸することを、頑として許さなかったんですね。
23歳ですよ、まだ先生は。このころから一度口にするとひかなかったようですね。

それでも多数の部材を、大日本印刷機械部と津上製作所の技術者たちは、解体することなく採寸・スケッチして、そこから模倣国産機をつくったわけですから、日本の工業技術力は、敗戦直後とはいえ高かったわけですね。
ところが、大日本印刷、毎日新聞社、三省堂などが、最初から津上製作所に発注していましたから、細谷さんの会社を含めて、あちこちの企業に、いまでも「国産ベントン彫刻機 第一号機」があります。まぁ第1ロットという意味でしょうか。

ところが、それに続いてあらそって導入した各社は、どこでも英文の機械操作説明書だけでは困ってしまった。それだけでなく、活字原字が無い、活字パターンが無い、基本操作がわからない、彫刻刀の刃先の研磨法がわからない、粗仕上げから精密仕上げへの切りかえ段階と、その方法がわからない……、ともかくわからないことだらけだったんですね。
そこで三省堂社員のおふたりが在籍のまま、あちこちの企業に、今井専務の「暗黙の指示と了承・黙認」のもとに、ときとして活字パターンとともに「派遣」されたのが実態だったようです。

◎ 米田:先生は、今年にはいって細谷敏治さんに会われたんですって?

細谷敏治氏  ──  ほそや としはる
1913年(大正2)山形県西村山郡河北町カホク-マチ谷地ヤチうまれ。谷地町小学校、寒河江サガエ中学校をへて、1937年(昭和12)東京高等工芸学校印刷科卒。
戦前の三省堂に入社し、導入直後から機械式活字父型・母型彫刻機の研究に没頭し、敗戦後のわが国の金属活字の復興にはたした功績は語りつくせない。

三省堂退社後に、日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい活字自動鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型製造には必須の技術となった。
実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月01日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年1月20日」を取得している。

この活字父型焼結法による特許・実用新案によった「機械式活字母型製造法」を、欧米での「Punched Matrix」にならって「パンチ母型」と名づけたのは細谷氏の造語である。
したがって欧米での活字製造の伝統技法「Punched Matrix」方式は、わが国では弘道軒活版製造所が明治中期に展開して「打ち込み母型」とした程度で、ほかにはほとんど類例をみない。
また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
(2011年08月15日撮影、細谷氏98歳。左は筆者)。

◎ 幸弘:最後の検査入院の2日前でした。2011年02月06日に、どうしても細谷さんに会いたいからって、私と妹のふたりがかりで車にのせて、多摩の老人施設におられる細谷さんをお訪ねしました。
◎ 吉田:細谷さんはご高齢だけど、ともかくお元気だからなぁ。先生よりだいぶ年長でしょう。
◎ 片塩:1913年(大正2)のおうまれですから、98歳におなりです。先生より15歳ほど年長になられますね。
でも、お病気になってから細谷さんとお会いになったなんて泣けるなぁ。
あのおふたりが、戦後わが国のほとんど全社の活字復興に果たした役割は、筆舌に尽くしがたいけど、対談でも先生は細谷さんにたいして「愛憎こもごも」といった感じではなされていましたから……。特に新聞活字母型の量産体制には、先生は少少ご不満があったようでした。
◎ 幸弘:あのときは、とても嬉しそうにふたりで話しこんでいましたね。オヤジはもっぱら「杉明朝体」の自慢。そのときの写真もここに撮ってありますよ。
◎ 吉田:先生、肌の色つやはまったく変わっていませんね。お元気そうだ。

左)細谷敏治氏98歳。 右)杉本幸治氏83歳。 2011年02月06日。杉本幸弘氏撮影。
細谷敏治氏と、杉本幸弘氏のご了解をいただいてこの写真を公開した(2012/01/06)。

◎ 片塩:これは、わが国の戦後明朝活字を構築された両巨頭の記念すべき写真ですよ、幸弘さん。この写真では先生は酸素マスクをつけてすこし痛痛しいけど、細谷さんのご了解をいただけたら公開してもよろしいですか?
◎ 幸弘:細谷さんのご了承があれば、わたしは結構ですよ。
オヤジはしばらく入院・退院を繰りかえしましたが、結局2011年02月08日に再入院(検査入院)となって、あの大地震の2日後、2011年03月13日(日)午前11時26分「特発性肺線維症」で亡くなりました。

◎ 吉田:最後の入院から6日後にお亡くなりになられた。みんな、また検査入院かとおもって油断していました。
あのときは救急車で入院でしたか?
◎ 幸弘:いえ、グズグズってなったので、私の車で病院まで急いでいきましたが、即刻集中治療室に入って。結構衰弱していましたね。

◎ 片塩:わたしも先生の「検査入院だから……」、に安心というか、無警戒でしたね。
この入院前か、入院中かに、先生からどこか妙なお電話をいただきました。お加減はいかがですか? と聞いて、お見舞いにいくと伝えたら、
「格好悪いとこを見られたくないから、来なくていい」
そしてこぼすんです。
「米田クンが来てくれないから、プリンターが動かない」
そこで、
「米田さんへの、杉明朝改刻への免許皆伝の件はどうなっていますか」
と伺うと、
「もう米田クンは免許皆伝だよ」
とおっしゃるんですね。そして、
「片塩さんが前から欲しがっていた雲形定規を差しあげる」
というんですね。なにかいつもと違って、おはなしが妙でしたから、
「先生、そんなことをおっしゃらず、はやくお元気になってください」
とお伝えするだけで精一杯でした。

◎ 幸弘:去年の夏、「杉明朝体」がおむね終わって、体調の良いときに川崎まででかけて、MAC-PROと、書体製作ソフトやアドビのCS-4を購入しました。それは去年の春(2010 年04月)の入院のときに、ベッドの横でノート・パソコンで書体がつくれたらいいな……、といっていたんです。
ところが退院したところ、それまでの i Mac が故障して駄目になったんですね。
ですから08月15 日に買って、18日に届いたんですけど、2階に置いたので階段がきつくて……。
そしてすぐ、また08月20日に再入院になりましたから、結局2回くらいしかあたらしいマックは使っていなかったようです。
◎ 米田:ケーブルだって、ふるいスカジー・タイプだったし、切り替えはたいへんでした。
◎ 片塩:今度のマックは、「下からフニャーって画像が沸いてきて、なんか気持ち悪いんだよなぁ」なんておっしゃっていましたね。

◎ 吉田:先生はことしになってから、「杉明朝体・ボールド」をつくるって急にいいだしたし、最後まで新書体の製作にこだわっていたね。
◎ 米田:あれはですね、先生は「杉明朝体」は 6 pt.-9 pt.くらいの小さなサイズでの使用を見込んでいたんです。ところが、朗文堂さんからの組版資料として、どんどん小さいのから大きなサイズまでの組版サンプルが届くから、
「大きなサイズ、太い杉明朝体もいいなぁ」
となって、
「それなら先生、杉明朝体 ボールドを書いてください。わたしが中間ウェイトを製作しますから……」
こんないきさつがあって、先生は意欲を燃やされたんですね。

◎ 吉田:それで米田さんへの免許皆伝というはなしだったのか。
「杉明朝体」は最初の企画では「超極細硬筆風明朝体」だったんでしょう。
◎ 片塩:いや、先生の命名は「超極細硬筆風明朝体 八千代」でした。それをわたしが、
「八千代なんて、どこかの芸者みたいですな」
とやっちゃって……(笑)。
口にしてから、しまったとおもったけどもう遅い。またきついお叱りで。
それと、わたしは最後まで「杉明朝体」は R 社さんから発売していただきたいとおもっていました。小社はその任にあらずと。それでも先様にもいろいろご都合があって……。

『杉明朝体』 フライヤー(朗文堂 2009年9月)

杉明朝OTFフライヤー 詳細画像

◎ 幸弘:細谷さんとの面会でも、この写真のように「杉明朝体」のカタログをふたりでみながら、熱心に書体談義をしていましたよ。
◎ 片塩:それは嬉しいことですけどね。でもですよ、わたしは先生がのこされた「杉明朝体」とともに、いまでも「本明朝-L, M, B, E」は、戦後活字史の名作中の名作だとおもっていますから。
◎ 吉田:これでいいんじゃないですか。先生も得心されておられたしね……。
ところで、03月11日、東日本大震災の日に、米田さんは病院にお見舞いにいっていたんですね。亡くなる2日前だけど。

◎ 米田:03月11日は金曜日でしたが、電車で武蔵小杉の病院にお見舞いに出かけました。
先生はときどき酸素マスクをはずしてお元気で、そろそろ帰ろうかなというときに、まずドカンときて、つづいてユッサユッサときました。医者も看護師もバタバタと避難するし、ほかの患者さんもそうとう動揺されていましたね。
それで携帯電話は通じないし、夕方になって失礼しましたが、バスがこない。そこで駅まで歩いたら、電車はまったく動いていない。結局武蔵小杉から千葉県白石市の自宅まで、20時間ほどかけて徒歩でかえりました。
◎ 一同:それはたいへんだぁ! 米田さんは真面目だからなぁ。……その辺の漫画喫茶とか、カプセル・ホテルとかにもぐりこもうと考えなかったんですか?
◎ 米田:いや、もうどこもいっぱいでしたよ。半分ムキになって歩きました。
◎ 一同:杉本先生のはなしはつきないね。ここでは先生に献杯もできないから、このへんでちょっと席を変えましょうか……(合掌)。

朗文堂好日録-028|がんばれ ! ひこにゃん !!|彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種

愛すべき ゆるキャラ「ひこにゃん」のことは、かつてこの《花筏》でもしるした。当時は知識不足で「ヒコニャン」とカタ仮名表記してしまったくらいで、さほど関心があったわけではない。
★ 朗文堂-好日録 010  ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁 2011年08月27日

ところが昨今の報道では、絶対の人気をほこった滋賀県彦根市の「ひこにゃん」が、熊本県の「くまモン」の人気にすっかり押され気味だという。
くまモン」とは熊本県庁が2010年から「くまもとサプライズ」キャンペーンにおいて展開している、熊本県のPRマスコットキャラクターである。こちらはまだ実物はみていないが、下の動画をみるとなかなかのおもしろさである。見てみたい気も ムニャムニャ モゴモゴ なくはないぞ。。
★  「くまもとサプライズ くまモン オフィシャルサイト」 くまモン体操  3:01  YouTube

R J C リサーチの調査によれば、P R キャラクター総合力ランキングの地域ジャンルにおいて「くまモン」は 2011年 の 46 位から、2012年は 43 ランクアップして、彦根市の ひこにゃん、奈良県の せんとくん に次ぐ 3 位になったとしている。2013年、ことしはどのような具合であろう、チョイト心配だ。
それでも最近の報道では、2013年の年賀状が「ひこにゃん」宛てに 1 万 891 通も届き、バレンタインデー・チョコレートも 228 個届くほどの人気ではあるらしい。
★ ひこにゃん、自由すぎる!  2:53  YouTube  
────────────────
「ひこにゃん」に関しては、原作者と彦根市が、類似グッズの販売をめぐって、著作権と商標権を裁判で争い、ようやく和解にいたったようである。

それを受けて、彦根市はそのWebsiteに「ひこにゃん 公式サイト」をもうけて、そこに「ひこにゃん 商標使用のページ」をおいて、くわしく使用法をといている。

いっぽう「くまモン」は、あらかじめ熊本県がデザイナーから商標権を買い取り、熊本県のブランド力向上つながると判断したものについては、商標の使用権を無料にしていて、すでに認可件数は6,000件を超しているとのことである。

小社のようなちいさな企業でも、出版部(Book Cosmique)、活字部(Type Cosmique)で、類似の問題がまれに発生することがある。だから無関心ではいられないテーマである。ともあれ小社では、こうした問題には、できるだけオープンにすることを基本として、問題がおきたら、ともかく誠意をもって、慎重に対応することにしている。

そこで、ようやく紛争を解決した「ひこにゃん」を応援すべく、ふるい資料で恐縮だが、上述の「朗文堂好日録 010」を再編集して、ここに「ひこにゃん」応援のためにあらためて紹介したい。

★      ★       ★

¶ 2011年07月某日、関西方面出張。
この年は「東日本大震災」の年であった。例年の新年度のイベントや、GW 恒例開催の「活版凸凹フェスタ 2011」も中止としていた。なんとなく全般に意気消沈して低調な東日本だった。

ところがその間、意外なほど西日本各地では活況を呈していた。朗文堂 サラマプレス倶楽部はそれを受け、2011年07月某日、タイポグラフィゼミナール、活版ゼミナールを兼ねての強行軍での関西出張となった。
たまたまほぼ同じ時期でのおはなしだったので、スケジュールを集約調整して、大阪 3 ヶ所、京都 2 ヶ所、滋賀 1 ヶ所を駈けまわるという強行スケジュールとなった。

京都駅に降りたっておどろいたのは、駅舎もまちも明るいことだった。計画停電、節電下の関東地区とは大違いだった。このころの東京の駅舎は昼でも夜でも減燈され、まちなみは暗く、活気にとぼしかった。
なにはともあれ交通の便だと、オノボリサン丸出しもいいところで、京都駅前の「京都タワーホテル」を根拠地とした。
これはのちほど、京都育ちのHさんに、古都の景観を損傷した京都タワービルには入ったこともない …… と呆れられたが。ともかくそこをベース・キャンプにして仕事に集中。

それから 4 日間というもの、大阪・京都・大津といったりきたり。それなりの成果もあったし、充実感もあった。
されど、ここで仕事のはなしをするのは野暮というもの。なにせノー学部といっしょだったから、忙中に閑あり。やってくれました !
なんともまぁ、唖唖、こんなこと !!

¶ なにかおかしいぞ……、と、嫌な予感はした。ノー学部の巧妙な誘導質問だった。
「京都から大津にいって、そこから彦根にいくって、たいへんですか」
「直線距離ならたいしたことはないけど、なにせ琵琶湖の縁をこうグルッとまわってだね……、結構面倒かな」
「彦根城には、いったことはあるんでしょう。前に好きなまちだと聞いたことがあります」
「水戸天狗党の藤田小四郎のことを調べていたころに、敵対した井伊大老の居城ということで 1 回だけいった」
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」

やつがれ、なにを隠そう、ちいさいながらも城下町で育ったせいか、彦根のふるい家並みのまちが好きである。ここには大坂夏の陣で破れた忠義の武将、木村重成公の墓(首塚)もあるし、お馴染みの「徳本 トクホン 行者 六字名号碑   南無阿弥陀仏」もある。それよりなにより、近江牛のステーキは垂涎ものである! それにしても、なんのゆえありて、彦根ではなく、
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」
ト、彦根城とのたもうたのか、考えなかった時点でもはや敗北。

¶ 雨中の江州路をゆく……。
こうしるせば、ふみのかおりたかいのだが、実相は違った。ハレ男を自認しているやつがれにしては、この日はめずらしくひどい雨がふっていた。
「並んで、並んで。ハイハイ並んでくださ~い」。

やつがれ、駅からタクシーで彦根城にきて、いきなりわけもわからず傘をさしたまま、雨のなかのながい行列に並ばされた。2-300人はいようかという大勢の行列である。みんな「ひこにゃん」なるものを見るのだそうである。
きょうは雨なので、お城に付属した資料館のようなところ(彦根城博物館ホール)に、50人ほどの来館者を次次と入れて、そこに「ひこにゃん」なるものは登場するらしい。
濡れながら行列に並んで、やつがれはまだ「ひこにゃんとは、いったいなんぞい」とおもっていた。

ところがナント、まことにもって不覚なことながら、やつがれ(順番の都合で偶然とはいえ)、最前列に陣どって、ともかく嗤いころげて「ひこにゃん」をみてしまったのだ。要するにかぶり物のキャラクターだったが、ちいさな仕草がにくいほどあいらしかった。

かつて徳川家康の麾下にあった井伊直政は、徳川四天王とされ、その麾下は勇猛で、つねに先鋒の役をつとめたとされる。井伊家の軍勢とは甲斐武田勢の一部を継承したもので、「井伊の赤備え」と敵方からおそれられた赤い兜も、愛嬌のあるものにかわっていた。
ここではうんちくは不要だろう。ともかく「ひこにゃん」はあいらいく、おもしろかったのだから。

       エッ、この人力車に乗ったのかって ── 乗るわけないでしょうが、いいおとなが ── 。ところがやつがれ、こういうキッチュなモノが意外と好き。
ハイハイ正直に告白。「ひこにゃん」も大わらいして見ましたし、この人力車にも乗りましたですよ、ハイ。チト恥ずかしかったケド、しっかりとネ。

ともかく急峻な坂道を天守閣までのぼり、さらに内堀にそってずっと玄宮園のほうまで歩いたために、足が棒になるほど疲れていた(言い訳)。
実際は、なによりもはやく旨い近江牛を食しに、このド派手な人力車に乗って、車中堂堂胸をはって(すこし小さくなっていたような気もする ケド)いった。ステーキはプチ贅沢、されど旨かった。
────────────────
あとはもうやけくそ! 字余り、破調、季語ぬけおかまいなしで、一首たてまつらん。

雨中に彦根城を訪ねる   よみしひとをしらず
    ひこにゃんに 嗤いころげて 城けわし
    青葉越し 天守の甍に しぶき撥ね
    湖ウミけぶり 白鷺舞いて 雨しげく

木邨重成公の墓に詣る  よみしひとをしらず
    むざんやな 苔むす首塚 花いちりん

   

 

¶  簡素な浄土宗の寺、宗安寺
彦根市本町2丁目3-7に 宗安寺 はある。この通称赤門とされる「山門」は、石田三成の居城、佐和山城の正門を移築したものとされる。
その脇には徳本トクホン行者の筆になる六字名号「南無阿弥陀仏」の巨大な碑がある。このひとと、この六字名号碑に関しては、いずれ本格的にとり組みたいとおもっている。

ご本堂向かって左手奥の墓地には、戦国武将・木村長門守重成( ? -1615)の首塚が、ひっそりとたたずんでいる。重成は豊臣秀頼の家臣として、大坂冬の陣で善戦し、その和議に際しては徳川家康の血判受けとりの使者をつとめた知略のひとであった。
翌年大坂冬の陣若江堤で戦死し、首実検ののちに安藤長三郎が譲り受け、代代安藤家の墓域で守護をつづけているものであった。どちらもあっぱれ、忠義の家というべきだろう。

¶  2013年02月17日、トロロアオイの種子をテストで 播種
2011年、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部では、五月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ 2011〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。
それにかえて、会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2011』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性会員の O さんから、
「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」
との写真添付 @メール が送られてきた。

O さんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉にはるばる仙台から駆けつけてくださる、熱心な活版ファンである。また O さんご自身も「東日本大震災」ではなんらかの被害にあわれたかとおもえたが、それに関してはお触れにならなかった。

ことしもサラマ・プレス倶楽部会員のご希望のかたにはトロロアオイの種子をお配りしたいとおもっているが、昨年は開花期に中国にいったりして十分な水遣りができず、種子の大きさも小ぶりになったような気がしている。
そこですぐにも霙ミゾレになりそうな寒い雨の日だったが、発芽テストのために、ひとつまみの種子を黒ポットに植えた。元気に発芽してくれるように、しばらくは家の中で育ててみたい。

朗文堂好日録-027 台湾再訪Ⅱ 吾、佛跳牆を食す。「牆」と異体字「墻」のこと。台湾グルメ!

《そも  佛跳牆-ブッチョウショウ とはなんぞや ? 》
この中国料理は近年わが国でも次第に知られるようになったが、説明と発音が面倒なためか、最近の中国や台湾向け観光旅行のガイドブックなどでは「ぶっとびスープ」などと紹介している。
そこには以下のような説明が加えられることが多い。
◉  特殊な料理なので、どこの店でも扱っているメニューではない。
◉ 10日から1週間前、最低でも 4 日程度前には予約をする必要がある。
◉ 予約をしても、食材が揃わないとして断られることがある。
◉ ホテルのレストランなどでも「佛跳牆」をみるが、期待はずれに終わることが多い。

なにやら面倒な料理のようだ。
検索してみたら、東京・丸の内には クリスマス・メニューで 1 杯 5 万円の「佛跳牆」もあるという。
もちろん『花筏』は観光ガイドではないし、ましてやグルメガイドでもない。公式にはタイポグラフィ・ブログロール『花筏』と称しているのである。
また本稿は二部構成となっており、その前半はグルメ記録というより、林昆範氏とやつがれとの、まことに真摯なタイポグラフィ研究の学徒たる!? 一面を記録したものである。
★朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で

したがって、すこし煩瑣ではあるが、まず上掲の第一部の記録をご覧いただき、そののちに「佛跳牆 ブッチョウショウ、fótiàoqiáng、別名;ぶっとびスープ」を、すこしくタイポグラフィカルに、個個の「字」から紹介しよう。

【 佛 跳 牆 】

◎ 佛
佛は「仏」の異体字であり、もちろん「仏跳牆」でもかまわない。しかし台湾では繁字体 ≒ 旧漢字の使用が中心なので、ここでは「佛跳牆」でとおしたい。なお、大陸中国では、簡体字の使用によって「佛跳墻」とあらわされるが、その理由は後述する。ここでの「佛」は戯画化してえがかれたもので、単独ではさしたる意味はない。

一部にこの「佛」にひかれたのか「佛跳牆」を精進料理とする解説をみる。精進料理とは、肉や魚介類をもちいないで、穀類・野菜類・海草類・豆類・果実類などの精進ものを食材とする料理である。したがってこの解説にはチト疑問がある。
「佛跳牆」は、もともと中国広東省から福建省あたりの祝膳料理として発祥し、山海の珍味をベースとして、肉や魚介類を豊富にもちいて、滋養に富んでおり、医食同源とする漢族のあいだでは、むしろ「薬膳料理、祝膳料理」とされる。

◎ 跳
「跳」は常読で「チョウ」であり、意読では「とぶ、はねる、おどる」などとされる。「ぱっととびはねて、足が地からはなれる → 跳躍」であり、「はねあがっておどる → 跳舞」となる。
すなわち「佛跳」となると
「佛さまが  はねあがって  舞い踊る」の意となる。
したがって、たれが名づけたのか知らぬが、台湾ガイドが常用する「ぶっとび」とは、字音と字義をうまくとらえた、できのよい愛称といってよい。
ただし類語の「ぶっとぶ」は「飛ぶ」の意をつよめていう語であり、漢の字と併用すると「打っ飛ぶ」とあらわされるので、注意が必要である。
それでは「佛が、どこで、なぜ、舞い踊ったのか」を調べてみよう。

◎ 牆
「佛」「跳」にくらべると、「牆」はチト厄介である。
すなわち「牆」の漢字音には「ショウ(シャウ)、ゾウ(ザウ)、qiáng 」などがあるが、和訓音はなく、習慣的に意読として「かき、へい」とよんでいる。
そもそも漢字部首「爿ショウ部・片ヘン部」の漢の字が意外と厄介なことは、すでにこの『花筏』にも何度かしるした。



 
★  新・文字百景*001 爿・片 許愼『説文解字』
★  新・文字百景*003 いろいろ困っています「片」の字

そもそも漢字部首「爿」と、その「爿」を意符や音符として字画の一部に含む漢の字は「將軍 → 将軍、莊園 → 荘園、裝束 → 装束」のように、常用漢字ではほとんど「丬」に置きかえられている。
しかも漢の字「牆  部首爿部  シフトJIS E0AD」には、異体字「墻  部首土部  シフトJIS 9AD4」がある。「墻」は「牆」の異体字とはいいながら、もちろん同音同義の字である。それでなお「牆・墻」は、漢字部首まで「爿ショウ部、土ツチ部」とおおきく異なるのである。

ついでながら、繁体字をもちいる台湾では「佛跳牆」であり、大陸中国では簡体字(わが国では異体字)とされる「墻」をもちいて「佛跳墙」とあらわされる。
もちろん大陸中国では、メニューにも「佛跳墙」とあらわされるので注意が必要である。

余談をかさねると、「ラチもない」をおもいだした。地方によっては「らっちもない」とする。
「ラチもない」とは、仕事の糸口がつかめない、乱雑である、つまらない、仕事がはかどらないの意となるが、漢の字をもちいると「埒が無い」となる。

類語に「埒を明ける(開ける)」がある。これはものごとのきまりをつけること、はかどらせることである。また立派に申し開きをするの意にももちいられる。
「埒」(JIS第2水準、シフトJIS 9ABD)とは、低い垣、かこいのことであり、わが国ではふるく、馬場の周囲のかこいのことをいった。
かこいの無い馬場では、馬丁などの仕事がはかどらないことは当然であろう。

「牆・墻」は、ともに「石や土で築いた細長い へい」の意であり、「牆垣 ショウエン」「囲牆 イショウ」のように、いずれも「周囲をとりまいた へい」のことである。もちろん「埒」よりも壮大なものをいう。また「無 喩 我 牆 → 我ガ牆ヲ 喩ユル無ケレ」(詩経)のような使用例もある。
中国では古来、堤防・城壁・土塁・家屋・寺院・墳墓・道路など、巨大構造物をの多くを、板を積みかさね、その間に粘土質の土を入れて、堅く突き固める工法  版築 法が用いられた。そしてそれらの構造物を「牆・墻」などと称したのである。

中国河南省省都・鄭州にみる「鄭州商代牆(墻)曝露地」。古来からの版築法によって修復・再現作業が展開していた。版築法における工具の木材に注目すると「牆」となり、素材の土に注目すると「墻」となる。漢の字における同音同義の異体字とは、このようにして誕生する。

この漢の字「牆・墻」は、わが国では「石や土で築いた(巨大で)細長い へい」より、生け垣や竹垣のように、より軽便なものをもちいるために ── つまり「牆・墻」に匹敵するような巨大な「石や土で築いた細長い へい」自体があまり無いために、ほとんど使われることがない。

むしろ童謡「たきび」(作詞 ; 巽 聖火、作曲 ; 渡辺 茂)の、
♫ かきねの かきねの まがりかど たき火だ たき火だ おちばたき ♫ 
のように、垣根とか、塀、屏、あるいはせいぜい石垣ないしは土塁などをもちいることが多い。

《中国 河南省省都 鄭州に「牆」をみる》
かつて中国 河南省省都 鄭州「テイシュウ Zheng Zhou」のことをこの『花筏』で紹介した。その際、「このまちは、わかりにくい」としるした。
★ 朗文堂好日録011 吃驚仰天 中国西游記Ⅰ  2011.10.04 

すなわち、土中から発掘されるふるい商代(前商、前殷とも)の鄭州の文物には「文はあるが、字はない」からである。中国ではわが国でいう「文字」はあまり使われず、「文」と「字」は、それぞれの発祥と意味をもつ。
ここでは「牆・墻」の実物、遺構がたくさんみられる鄭州のことを、あたらしい写真とともに再録したい。

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《文 ≒ 紋様学、字 ≒ 文字学、あわせて 文字 の研究の旅》
やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。われわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。したがって甲骨文・金文・石鼓文は、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としてのまっとうな扱いはうけずに「文」と表記される。

つまり鄭州の遺跡で発掘される、商(殷)・周時代初期の土器や銅器などにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などは、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。

 

 

まして中国では甲骨文 ── くどいようだが甲骨文字ではない ── を大量にのこしたことでしられる《殷》は、本来は《商》と自称した古代国家であった。司馬遷『史記』の殷本紀によれば、湯王が《夏カ》を滅ぼして、紀元前16世紀ころに商王朝を創始し、30代にわたる王をもった。

商は巨大かつ大量な武器や青銅器を製造し、本来錆びに弱いはずの青銅器が3000年余も腐食しないほどの、高度な防錆術(メッキ法。クローム・メッキの一種か?)をもっていた。
また安陽を都とした商代の後半(後商、後殷)となると、甲骨で占いをなし、その占いの結果を「甲骨文」としてのこした。また数頭の馬が牽引する大型戦車も所有していた。ところが紀元前11世紀ころ、殷王・紂(チュウ、辛シンとも)にいたって、周の武王に滅ぼされた。
《殷》とはこの国を滅ぼした《周》が、《商》にかえて意図的に名づけた悪相の字である。また甲骨(甲 ≒ 海亀の腹部、骨 ≒ おもに牛の大腿骨)にのこされた記録は「甲骨文」であって、甲骨文字とはいわない。

殳 ──── シュ、ほこづくり・ほこ・るまた
許慎『説文解字』によれば、「殷」は会意で、字の左の部分(扁とはいわない)は「身」の字の逆形(躰を反対にねじる)である。また「殷」の旁ツクリには「殳シュ」がみられる。

殳とはもともと武器を持つ形を象どったもので、『部首がわかる字源字典』(新井重良、2007、木耳社)をみても、この殳を旁にもつ字には、「殺・殴・殻」など、あまり良相とはいえない字がならぶ。殷もそのひとつの例としてあげられる。

 

 
やつがれ、2011年09月の中旬、ひさしぶりの中国旅行とは、結局のところ「文+字の旅」となったが、いままで報告されなかったり、ほとんど報告がなかった各地の碑林・碑坊、字発祥の地、墓所、博物館などを訪ねることができた。

河南省の省都「鄭州 Zheng Zhou」は、中原を東流する黄河の南岸に位置し、東は開封市、西は洛陽市、北は新郷市、南は許昌市と接する。人口はおよそ750万人。
この鄭州では、前期の商(前商、前殷)の遺跡を訪ねあるいた。やつがれはこの鄭州城市訪問は3度目だが、ともかくこのまちはわかりにくいとしかいえない。なによりもこのまちでは、つくづく「文」と「字」の違いをおもいしらされるのである。

すなわちこの城市は黄河の南岸にあり、あいついだ黄河の氾濫のために分厚い土中に埋もれているが、城市自体が紀元前3500年ころの遺蹟のうえにあり、前期の商(殷)もここを都とした。
すなわち鄭州城市の地上のあちこちに、いまでもかつての城壁の牆(現代中国では簡体字によって「墻」とする。高い土塁といったらおわかりいただけるだろうか……)がみられるが、それは全体の1/3-1/4ほどの高さでしかなく、ふつうのビルの6-8階分に相当する、峨峨として巨大な「牆」のほとんどは地中ふかくに埋もれている。
そしてこのまちのあちこちから、饕餮文トウテツ-モンを中心とする、「文」をともなった青銅器や陶器が発掘されている。しかしながら「字」は、この前商時代の鄭州の遺蹟からは発見されたという報告はない。

河南省北部の「安陽市 Anyang」は、前述の鄭州から近く、列車かタクシーで日帰りできる。その安陽市北西郊外(俗にいう小屯村)に、紀元前14-11世紀に商(後商・後殷)が鄭州から移動して都をおいた。ここでは甲骨文発見地たる王城域、歴代の王の墓域-王陵域、そして安陽駅に隣接して新設成った《文字博物館》を訪ねた。
繰りかえすが、ここは《文 ≒ 紋学、字 ≒ 字学、あわせて、文字の博物館》である。
活字キッズやモジモジ狂は、はじき飛ばされること必定の施設であった。


上掲の写真は、すべて鄭州市内のものである。このまちのあちこちで商代の「牆」や、あるいはのちに興亡をくりかえした各王朝も、ここを都としたり、主要都市として「將・墻」を築いたために、幾重にもかさなった「牆」がある。その一部は石積やコンクリートで補強されているが、ほとんどは地中に没し、わずかに地上にでている原型のままの「牆」がみられる。

「牆」の一部は公園化されている。昇ってみると遊歩道のように整備されていて、わが国の「スーパー堤防」ほどの広さがあるが、高さはかなり高い。
また一部の「牆」は、景観保存のために、古代からの版築法によって復元されていたりする。こういう情景を考古学者は「鄭州商代牆(墻)曝露地」とよんでいる。

後半に紹介した「河南省文物考古研究所」(所長・王 潤杰 オウ ジュンケツ)は、まさしくそうした「鄭州商代牆曝露地」の一画をおおい占めた建物のなかにある。
所内の展示場には王 潤杰氏が多年にわたって発掘してきた石器・土器・青銅器などがならぶが、そこにはさまざまな意味を内包した「文 ≒ 紋様」はみられるが、後代のものをのぞいて「字」をみることはない。

河南省文物考古研究所の扁額や図録の題字は 郭沫惹(カクマツジャク 1892-1978)氏の筆になるものである。郭沫惹氏は中国の文学者・政治家で、毛沢東の信任があつく、ながらく中日友好協会会長をつとめた人物である。
その業績と評価は、文化大革命時代の行蔵もあって多様にわたるが、「甲骨学」の研究者としての評価はゆるがないものがある。

甲骨文を研究する学問を、中国では「甲骨学」とし、その著名な開拓者の4名を「四堂一宣」シドウイッセン とよんで尊敬している。四堂とは、羅 振玉/雪堂、王 国維/観堂、董作賓/彦堂、郭沫惹/鼎堂であり、一宣とは、胡厚宣のことである。
わが国ではあまり知られていないが、「甲骨学 四堂一宣」の大家、郭沫惹が書した「殷虚」は、悪相とされる漢の字の形象・字画を巧妙にさけて、ご覧のような「好字、好相の字」におきかえている。ところがこれらの「好字、好相の字」は、残念ながらあたらしいメディア上では表示できない。

うんちくが長くなった。整理しよう。  

【 佛 跳 牆 】

あまりの香りのよさに誘われて、佛さまや修行僧が、寺院の石や土で築いた細長いへいの「牆」に跳びあがって、舞い踊りながらやってくるほどおいしい料理です。

 《佛跳牆の味自慢が、ノー学部にはよほど羨ましかったらしい》
佛跳牆 ブッチョウショウ をはじめて食したのは、10年ほどまえに 林 昆範 リン クンファンさんの兄弟と、台北の湖南省料理のレストランで、忘れられない味の料理をご馳走になったのが最初である。
林さんの一家は優秀で、父親は「中醫學博士」で、弟さんはアメリカで近代医学の「医学博士」号を取得していて、当時はそのレストランからほど近い病院の勤務医だった。当時の林昆範さんは、まだ日本大学藝術学部大学院で、博士号取得のために研鑽中であった。

「佛跳牆」はスープの部の順番にでてきた。
「この料理は、もともとは福建省や広東省や湖南省あたりのお祝いの料理で、1月1日の中華民国開国記念日、2月10日頃の春節(旧正月)、清明節、端午節、中秋節などに、一族が寄り集まってたべるものでした。佛跳牆には、あわび、フカヒレ、乾燥ナマコ、マツタケなどの乾燥食材のほかに、高級漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などもはいっていて、喘息や気管支炎に有効です。またコラーゲンがたくさん含まれていますから、老化防止や、女性の美肌効果がおおいにあります」

漢族には古来医食同源とするならいがある。いわゆる漢方医薬師、中醫學博士の家にうまれた林さんの弟、近代医学博士のありがたい解説のあとで食した「佛跳牆」は、蓋つきのスープ皿で、上品に(少量が)供されたが、それはそれは、芳ばしく、美味しく、忘れがたいものだった。
 それでもその湖南省料理店は相当の格式で、ご馳走になったとはいえ、メニューでチラッと「佛跳牆」などの価格を見てしまった。つまりかなり高額の支払いが予測された。
「このレストランの予約も支払いも弟がしましたから。弟は医者で、収入も多いから気にしないで」
林さんの兄は最初にそういった。林さんの弟はうなずいていた。そういうものらしい ? ……。
ついでながら、中国でも台湾でも、ほとんど「割り勘」という習慣はない。

そんな「佛跳牆」の忘れがたい味を、しばしばグルメ大好きのノー学部にはなしたおぼえがある。
いまにしておもえば迂闊であり、無警戒だったが、急遽今回の台湾再訪が決まったとき、いつのまにか呆れるほど、徹底的に調査してあった「佛跳牆関連資料」のコピーをもちだして、台北市中山北路二段137巷18號の「明福餐廳 メイフクサンチョウ」にどうしてもいきたいといいはった。
しかもあちこちに@メールを送りつけて、強引に予約を取りつけていた。だからこうして、林昆範さんともどもここにいる。
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「明福餐廳」の外観は、まったくどうということなない、ふつうの大衆中国料理店にみえた。
しかしここには、台北では著名で頑固な店主 兼 調理人、阿 明 師(阿は名の前につける尊敬と親愛をこめていう愛称、師はここではシェフ。阿 明 師は台湾では一流シェフとして著名だという)がいて、店舗の改装や拡張はほとんどしないが、政官財の著名人がひそかに通う店とされる。
なかでも 元 中華民国総統・陳水扁氏 のお気に入りの店としてしられ、昼間の時間帯は地元客が多いと聞いたし、店内にも陳水扁 チン スイヘン 氏の写真と書額が飾られていた。

また日本の美食家、とりわけ女性のあいだでは「明福餐廳」の名前はつとに知られていたらしい。もちろん狙いは「美肌効果 !!」。
ともかく女性の美にたいするあくなき執着には、男どもは畏れいるしかなし、触らぬ神にたたり無しとおもったほうがよい。
また口のおごった日本のタレントなども相当押しかけているようだった。だから 渡辺満里奈志村けんお笑いトリオ・ネプチューン研ナオコ ら、日本の芸能人の写真がさりげなく置いてあったりする。
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まだ夕方もはやいというのに、「明福餐廳」の店内は、香港からの団体客30名余と、テーブル席に12名の団体、そしてわれらが一行、林昆範さん、ノー学部、やつがれの3名でいっぱい。

別にコース料理を取ったわけではないが、ノー学部情報で次次と(勝手に)料理を注文した。
前菜ででたのが、台湾の高山地帯 花蓮 で採れるという 山菜「山蘇 サンソ」をサッと油通ししたもの。「山蘇」の見ためはワラビのような山菜だが、ぬるぬるしていながら、シャキシャキした歯ごたえがたまらない。これもはもうひと皿追加注文した。

 

一の皿という感じて供されたのが「とこぶしとマヨネーズ あぶり焼き」。
台湾マヨネーズと、とこぶしの取り合わせの旨さがグッとくる。焼き加減も、店頭の水槽で活きているとこぶしの鮮度をいかしたもので、その癖のない味つけに、やつがれ、いつのまにか「これは、すこし違うぞ !!」と、椅子に深深と座りなおして身構えることになった。

悪い癖で、料理の合間にときおり店外にでてベンチで喫煙していたが、その折りにみかけた光景は、最低でも四組30名ほどの団体客が「明福餐廳」押しかけ、いずれも予約外ということで、すげなく門前払いを喰らっていた。これには呆れるというか、おそれいってしまった。

二の皿。「紅蟳 コウジン 炒飯」── コレハ コレハ。おもわずホッコリした。
あまりひとにかたりたくない味だ。つまりひとには秘密にしておきたい、癖になる味だ。
ひごろ衣食住に関心が無いとうそぶくやつがれは、海底を徘徊する、エビ、カニのたぐいは苦手とするが、これには一本とられた気分。もちろん美食できこえた清朝の西太后でさえ、おそらくびっくりの旨さ(チト大仰かな?)。

ともかく、これでもかというまでに、ご飯にたっぷりまぶされたカニのたまごと、ほんの少量の油で炒めたこの炒飯は、はるかに炒飯のカテゴリーを超越していた。
なにぶん店頭の水槽で活かされているカニをたっぷり使うので、荒天がつづいて出漁できなかったあとや、注文が集中したら、すぐにオーダーストップだそうである。だから値段は「時価」。
もっとも「明福餐廳」の「時価」はリーズナブルな価格で、さほど驚くようなものでは無い。むしろどこぞの国の鮨屋の「時価」のほうがよほどおそろしい。
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ここまでしるしてきたら、もはや「佛跳牆」のことをかたる勇気が失せてきた。ここまで繊細で芳香に満ちており、上等な料理をかたる資格はやつがれにはない。
やつがれは、料理とは、ただの料理であり、命をつなぐためにあるものだとおもっている。つまり敗戦の直後にうまれたやつがれは、飢餓のこわさをおぼろに記憶している。だから料理とは腹が減ったら食べるものだというくらいにおもっている。
いちおうそれが満たされたら、旨いにこしたことはない。つまり料理とは、ただの料理で、せいぜい愉しむくらいでよいとおもっている。それ以上料理に拘泥するのは卑しいことだとおもっていた。

ところがノー学部はもはや陶然としているし、日ごろ冷静沈着な林昆範さんまでが、
「これはおいしいですねぇ~」
と、何杯もおかわりしながら食していた。
こうなると、衣食住にさほどの関心はないなどと、日ごろからうそぶいているやつがれは顔色をうしなう。

しいていえば「明福餐廳」の「佛跳牆」は、ホテルのレストランで供される「佛跳牆」などのように、排骨(豚のリブ)やタロイモを入れて煮込んだ、とろ味のあるスープとは異なり、おもには乾物の、干しあわび、乾したフカヒレ、干しなまこ、ホタテの乾燥貝柱、干し貝各種、干しマツタケ、漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などの高級食材を10数種類ももちいて、これらの乾燥食材をまず水にもどしてから、トロ火でたっぷり時間をかけて煮込んで、旨み成分を十分にとりだしたものらしい。もちろん、価格はリーズナブルであった。
したがってコラーゲン独特の粘りはあるが、ゆたかな香りと、清よらかに澄んだスープは、あっさりとして、筆舌につくせぬうまみがあった。

提供された「佛跳牆」はもちろん事前にノー学部が予約しておいたものだったが、料理の最後のほうに、ド~ンと大きな壺に入ってでてきた。
最少のサイズで注文したというが、どうみても5-6人用で、それまでにさんざん料理を食べまくってきた3人で食すにはいかにも多かった。それでも何杯もおかわりして、あらかた壺の底がみえるまで食べまくった。

そうこうしているうちに、いつのまにか隣席の香港チャイニーズの皆さんともうち解けて「ドゥ ── 日本のVサインにかえて、親指を突きだして ドゥ という」のエール交換。
こうして台湾の夜を「明福餐廳」で、こころゆくまで満喫したのであった。

《ホテルは近代的だったが、窓があかないことと、禁煙強制で、すっかりまいった》
今回のホテルは「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」。前回宿泊した「圓山大飯店」とちがって、市民大道三段83號と、まちなかの高層近代ホテルだった。ところが近代高層建築にありがちの、窓がすべてはめ殺しになっていて開けることができなかった。
当然ながら、ロビー、カフェはもとより、全館全室全面禁煙。たばこ税高額納税者の愛煙家を、かくまで虐めて、なにがおもしろいのかとおもうのだが……。

それでもホテルの外に、お情けのように灰皿をひとつだけポツンとおいてあって、そこで喫煙が可能だった。みんなが寝静まってからも、ここだけは深夜まで賑わっていた。もちろんやつがれもしばしばここを訪れた。というより、ここの常連だった。
ちょいとまいったのは窓がまったく開かないこと。別に閉所恐怖症ではないが、近ごろの高層オフィスビルでは会議中に酸欠状態を感ずることもある。こういう高層ビルの、空気が循環するだけのエアコンで馴致されていたら、おそらく長寿は望めないとおもうほどである。
だから部屋はそこそこ広かったが、ともかく息苦しくて寝付きが悪かった。やはり次回の台北行きは「圓山大飯店」がいいとおもう。窓とは、ひろびろと開けはなってこそ窓であるから。 
★ 朗文堂好日録-025
  台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶

   

台湾大学、台湾工業大学、日星鋳字行、それに前回は資金不足で買えなかった図書をもとめて「古今書廊二手書店」などにもいったが、ここでは仕事の報告を含めてすべて割愛。
食の繊細さに、この歳になってようやくめざめたやつがれである。ここはともかく意地でもグルメ紹介に徹したい。

ふつう、旅先での朝食は、ホテルで摂るほうがなにかと無難だが、なにせノー学部は、スケジュールのエクセル・プリントに空白部があると気に入らないらしい。そこですこしホテルの近くを散策してから、まちの中心部の「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」の軽食をとることになっていた。

  

ホテルを出ると、すぐ隣がひろい空き地になっていたが、そこにパパイヤの木がたくさん実をつけていた。やはり台湾は南国だなぁ、と感心しながら歩いていたら(内心は、ここは空き地だし、採って喰いたいとおもういじましさ)、チョット面白い看板「日式鍋料理 涮涮鍋」を発見した。

台湾では「日式」というと日本風ということになるが、台北のまちに写真のような「日式鍋料理 涮涮鍋」のお店があった。 林 昆範 さんの解説によると、
「涮涮鍋はシュワンシュワン-グヮ といいます。みんなが涮涮鍋は日本の料理だと知っていますし、ここは人気のある、しゃぶしゃぶ料理のチェーン店です。意味からいうと 涮鍋 でもでいいのですが、涮涮 シュワン シュワン と繰りかえすことで、スープのなかで、サッサ、サッサと肉をゆする行為をうまくあらわしていますね。
台湾には似たような鍋料理に、涮羊肉 サンヨウニク, シュワン-ヤン-ロウ, shuàn yáng ròu という、蒙古族の民族料理、羊の肉の火鍋料理もありますから、蒙古族や女真(満州)族の料理が日本にわたって変化したものかもしれません」

どうやらあまりみかけない字「涮」がキーワードのようなので、帰国後に調べてみた。
涮  JIS 第4水準 画区点 2-78-66、U+6DAE
漢字音読み:サン、セン、セツ、セチ。 和訓読み:なし

[説文解字風にまとめてみた]
許慎六書の法でいう会意を3回繰りかえした字。
「氵」は水(ここではスープ、だし汁)をあらわす。
「刷」はサッとこすり取るが原義。はく、清める、サッとなでてゴミを取りさる。する「印刷」
左側は「尸シリ+布ヌノ」の会意の字で、人が布でお尻の汚れを拭きとる意をしめす。
刷はそれに刀をくわえた字で、刀のような細長いもので、サッと汚れをこすりとる意。
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ところでわが国の肉の鍋料理「しゃぶしゃぶ」の起源は意外にあたらしく、1952年(昭和27年)に大阪のスエヒロが、自店の料理に「しゃぶしゃぶ」と命名したものがはじまりとされている。
同店では1955年(昭和30)に「しゃぶしゃぶ」ではなく「肉のしゃぶしゃぶ」の名で商標登録をしているが、ここでも「しゃぶしゃぶ」はひら仮名であらわされている。
もし「涮涮」の名前で商法登録したら、ここまでの定着をみなかったかもしれない。それよりなにより、役所が「涮涮」の漢字登録を受けつけてくれなかったかもしれない。

《ついでに……、スキヤキの漢字表記》
2012年12月22日[土]新宿私塾第21期生 懇親忘年会が開催された。
例年12月の声をきくと、あちこちで新宿私塾修了生が、同期ごとに懇親会を兼ねた忘年会を開催しているようだ。それぞれの期ごとに幹事が工夫して、安く、楽しく、お酒もたくさん呑める会場をさがしての開催である。
★ 新宿私塾忘年会 +涮涮ってなに? スキヤキの漢字は?     

おおむね女性が幹事だと、しゃれた、グルメ調の洋風の店になり、男性が幹事だと、大衆居酒屋のようなところになるようである。
新宿私塾第21期生の「懇親忘年会」は、ビルのなかにある、清潔でおしゃれなお店であったが、やつがれも招かれて参加した。料理の中心は「スキヤキ風しゃぶしゃぶ」(写真:町田さん提供)。

宴たけなわ、お酒もだいぶまわってきたころに、チョイと意地悪な質問をした。
「このコースターの裏に、スキヤキ を漢字で書いてください!」
「え~ぇ、スキヤキに漢字なんてあるんですか~?」
とワイワイガヤガヤやって、できたのが下の図版である。残念ながら全員アウト! 


牛・鶏肉などに、ネギ・焼き豆腐などを添えて、鉄鍋で煮焼きしたもの。
明治維新の前、まだ獣肉食が敬遠されていたころ、屋外で鋤スキの上に獣肉をのせ、焼いて食べたからとされる。また肉をすき身(薄切り)にしたからともいう。〔広辞苑〕 
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《行列をし、開店をまって飛びこんだが、すぐに満員となるほどの人気店だった》
「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」は飲茶ヤムチャが中心の店で、そんなに早くから開店するお店ではない。それでも遅い朝食を摂ろうと、大安区信義路二段194號の本店前についたとき、すでに客の行列がはじまっており、店舗の脇では多くの支店へ食材を配送するための軽トラックが次次と横着けされていた。ノー学部にいわせると、
「ここは支店がいくつかあるけど、やはり本店がいちばん美味しいらしい」
とのことである。ちなみに、このお店はなんと、新宿髙島屋にも支店があるそうだ。

ところでノー学部。写真の小籠包ショウロンポウのような「ゆるキャラ」が大好きときている。だから行列にならぶのをやつがれに押しつけて、こんな妙なゆるキャラの撮影に夢中なのだから、まったくもって嫌になる。
かつて滋賀県の彦根城にいったときも、やつがれはわけもわからず「ひこにゃん」なるものの、ながい列にならばされた。

ところが彦根市の「ひこにゃん」ですっかりゆるキャラに目覚めてしまったやつがれ、
「この小籠包の、ぽっちゃり旨そうなキャラクターもいいなぁ」
と、アホ面をさらして眺めていたのだから、なにもいえない。

だいぶ歩いてくたぶれていたし、おまけに行列にまでならばされて不機嫌になっていたが「鼎泰豊 ディンタイフォン」に入って、まず前菜ででてきた料理 ── クラゲとなにかの食材をいためたものか ── が出たとたん、すっかり機嫌がなおった。さっぱりしていて旨かったのだ。

やがて「鼎泰豊」自慢の小籠包がでてきた。アチチ、アチチといいながら、ジューシーな味わいの小籠包のとりこになる。ともかく皮が薄く、それでいて破れず、とろけるような味といったら「鼎泰豊」の人気のほどがおわかりいただけようか。
そしてエビ焼売シュウマイ。もともとやつがれは焼売が好きだが、ここの焼売は小籠包に似てジューシーな味わい。
ウ~ン、真っ昼間から飲茶でこんなに食べまくっていては確実に太るなぁ。でも旨いんだから、まぁしょうがないか……。

《林東芳牛肉麺を食し、遼寧夜市を散策》
あまり詮索することが得意でないやつがれも、この頃になると、ノー学部はどうして今回のホテルを、さしたる特徴もない「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」に決めたのか察しがついてきた。すなわち、このホテルはどこのグルメ拠点からも近いのである。
このように呆れるしかないが、ノー学部は5,000年におよぶ中華文化の深淵をさぐるために、あえていえば食文化 !? からの視点でみることが中心となっているようである。

ホテルから徒歩圏内、500メートルほどのところに「林東芳牛肉麺 リンドウハン ニュウロウメン」がある。「牛肉麺」とは、わが国のラーメンにも似て、台湾のひとが好んで食する大衆食品である。
ラーメンに豚肉をトッピングに加えたチャ-シュウ麺があるが、あれをたっぷりの牛すじ肉の煮込みでつくったとおもえば近いかもしれない。

 

「林東芳牛肉麺」の店舗はとても狭く、しかも一軒だけほかの店を夾んで、ちいさな二店舗が並んでいる。だから客は店頭にたっている小娘シャオジェの指示で、左右どちらかの空いた店に入るが、タクシードライバーなども立ち寄る、安くて、早くて、おいしい人気店である。

つまり大衆食堂だが、最近は日本人観光客にも人気があって、なかなか店内には入れないほどの活況を呈していた。
ここはチト狭くて慌ただしかったが、ディッシュ ? の牛肉麺の前菜としてとった「小皿」が、どれも質・量・味の三拍子がそろっておいしかった。
おもうに、近ごろのわが国の奇妙な「ラーメン文化」をかたり、行列に連なるやからなぞは赤面してしまうかもしれない。つまりラーメン一杯だけで1,000円余も支払い、咥え楊枝でのれんからでてくる、オヤジやオヤジギャルの姿なぞはあまりみたくない。

ちょっとスパイシーな牛肉麺を楽しんだあとは、腹ごなしのために「遼寧リョウネイ夜市」をブラブラあるいてホテルまで戻った。
きょうもよく食べた。まぁ食欲は健康の印、食もまた文化なりということにして、タバコも我慢して寝てしまおう。

 

《とどめとして、帰国前の朝の朝食に、台湾おかゆの人気店にいった》
明日は帰国という前夜に、ノー学部がのたもうた。
「明日の朝は6時に起きてください。朝ご飯を忠孝東路一段108號の 阜杭豆漿 フーハン ドゥジャンのおかゆを食べにいきます。朝5時半からの開店だそうで、ものすごく混むようですから早くにいきます。ホテルから近いので、歩いていけます」

   

中国や台湾では、朝食に外食、それもおかゆ料理を摂ることが多い。「阜杭豆漿」は華山市場ビルの2階にある地元客相手の店だったが、最近では評判店として観光客も押しかけて、えらい人気になっている店だそうである。
地図でみるとさほどの距離にみえなかったが、「阜杭豆漿」までは徒歩だと30分以上かかり、店に着いたときは、それこそ階段から店外にまで行列が伸びていた。店内はひろくて清潔で、オープンキッチンでは観光客が撮影に夢中になっていた。

地元客は自宅に持ち帰って食べるひとのほうが多い。観光客は1-2割弱かとおもえたが、おおかた写真のような品をオーダーしていた(ここまで多くはないが……)。
やつがれは、これが最後とばかり、豆乳粥にパンとごま団子まで摂って朝から大満足。
このあと荷物をまとめて、あわただしく空港に駆けつけて帰国した次第である。
明日からはまた、東京でのあわただしい毎日がまっている。

朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で  

 

《ようやく活版カレッジ台湾訪問記を『花筏』にアップ完了後なるも……》
いずれも昨年のこととて、いささか旧聞に属して恐縮だが、2012 年10月06日-08日にかけて「アダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ  Upper Class」の皆さんが台湾旅行にでかけた。

まさかその翌月に台湾再訪となるとはおもわなかったが、所用があって  2012年11月23-25日、2泊3日の慌ただしい日程でまた台湾にでかけた。
その所用は1日で済んだので、その後は旧友の林昆範との再会を楽しみ、さらにおいしいものに目が無く、グルメ大好きであり、前月の旅ですっかり台湾グルメに惚れ込んだらしいノー学部とも合流して、台北のまち歩きを楽しんだのち、結局のところやつがれの苦手とする「グルメ三昧」となった。
その報告は「朗文堂 NEWS」12月08日に前半部分だけを掲載した。それをここ『花筏』に移動して掲載し、あわせて後半部分もつづいて掲載することとした。

ここしばらく、台湾と中国もの、それもグルメに関する話題が続きそうな『花筏』の怪しい気配ではあるが、ご用とお急ぎでないかたは、まぁ一服でもしながら、ごいっしょに 文+字  文字談義などはいかがでしょう。

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《2012年11月23-25日、台北の茶館で林昆範氏と歓談》
関与先の台湾企業から、急遽訪台の要請があり、11月22日の最終航空便の手配をされた。翌 23 日[金]は早朝からその用件に追われたが、ここで報告するような内容ではないので割愛。

24日[土]からは解放され、また運良く連休の週末だったので、久しぶりに 林昆範 さんとお会いすることにした。
夕方からはノー学部も台北で合流することになっていた。ノー学部は台湾再訪が決定して、こんなみじかい期間に、よくもまぁ……、とおもうしかない強行日程を、それもグルメ中心のスケジュールを勝手に組んでいた。このノー学部と合流後の阿鼻叫喚は後編にゆずりたい。
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林昆範 リン-クンファン さんは、日大藝術学部大学院の修士課程・博士課程の履修期間中と、その後しばらくの6年半ほどのあいだ、当時の指導教授・松永先生のご指示で、実に律儀に、誠実に、夏休みもなく朗文堂に毎週1回かよわれたかたである。

博士課程履修期間の後半は「グループ 昴スバル」の一員としても活躍され、その成果を朗文堂 タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネットに、『中国の古典書物』『元朝体と明朝体の形成』『楷書体の源流をさぐる』『石の書物-開成石経』などにまとめられた。
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林さんは博士号取得後に帰国され、現在は台湾中原大学助教授として、しばしば学生を引率して大陸中国で「中国少数民族の文化」の調査・研究にあたっており、今回は中国南西部での調査から、前日に帰国されたばかりであった。
それでも長旅の疲れもみせず、ホテルのロビーまでピック・アップにきていただいた。
★朗文堂ニュース:林昆範関連図書のおすすめ 2010年03月11日

久しぶりの再会のあと、この日の午後の日程管理は林さんにお任せ。夕方の18:00からはノー学部と合流して、林さんと3人での食事会を予定していた。
「きょうは 大藝埕 ダイゲイテイ にいきましょう。もともと日本統治時代に開発され、銀行や商事会社がたくさんあったまちですが、いまは東京の代官山のように再開発がすすんで、若者に人気のお店がたくさんあります」
「大藝埕は、日本のガイドブックには、美食街とされていたまちですね」
「美食はカタシオさんは苦手でしょう。ご案内したいのは道教の施設、隍廟(コウビョウ 道教)の隣の、ちょっとオシャレな茶館です。ここは日本統治時代のビルを改装して、現代台湾のデザインショップや、ギャラリーもありますし、なによりも、ふるい臺灣と、あたらしい台湾がみられますから……」

しばらくふたりで大藝埕 ダイゲイテイのまちをぶらついて、隍廟 コウビョウの隣のふるいビル・民藝埕 ミンゲイテイにはいることにした。
このあたりは日本統治時代の築70年余のふるいビルを丁寧に改装した建物が多いが、さりとて日本風というわけではなく、コロニアル・スタイルというか、大正ロマンというか、アールデコというか、つまり無国籍な、ふしぎな感じをうける。
漢方薬や書画骨董品などの、日本人観光客めあてのお店もあるが生彩はない。いまはガイドブックの紹介も減って、日本人の姿はあまりみかけないまちになっている。

ブック・カフェやデザイン小物の店がならぶ、まちあるきのあいだに、林さんの教え子や現役の学生たちとしばしば出会った。なかにはかつて林さんに引率されて、朗文堂まで研修にこられたもと学生もいて、うれしい再会となった。
そのなかの、日本へも留学されたおひとりに、道教の廟「台北霞海城 隍廟」で、道教式の礼拝の作法を教わった。

道教は漢民族の伝統宗教で、黄帝や老子を教祖として仰ぐ。さらに古来の巫術(フジュツ、シャマニズム)や老荘思想の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想までを加味したものであって、やつがれにとってはきわめてわかりにくいものであった。
理解できる範囲でいうと、現世利益 ── 不老長寿、富貴、子孫繁栄、商売繁盛などをねがい、符呪や祈祷などをおこなうものである。

道教は東漢末の社会不安のなかから、漢中あたりで勃興した五斗米道 ──  ゴトベイドウ、張陵 チョウリョウ が老子から呪法を授かったとして創始した。五斗米道の名は、入門の際に五斗の米を納めさせたからいう。天師道とも ── にはじまり、北魏の寇 謙志之 コウケンシ によって改革され、さらにインドからもたらされた仏教の教理などをとりいれて次第に成長した。
唐代には宮廷の格別の保護をうけて全盛となり、現在でも漢民族のあいだの民間宗教としてひろくおこなわれている。

上掲写真の「隍廟」は、台北でも有数の道教の拠点の「廟」であり、見た目よりは奥行きがあって内部はひろい。そこには、それこそ善男善女、老若男女が、たくさん列んだ神像の前で祈祷を繰りかえしていた。それでもいくらひろいとはいえ、廟内は香華と人混みで、むせかえるほどの盛況であった。

     

台北の街角には、大小さまざまな道教の施設がある。
写真上)は、高速道路下の「八徳市場」の入り口にあった施設。こうした少し大きめな施設は「廟」といい、線香・供え物・おみくじなどを販売する道士なのか管理人 ? のようなひともいる。写真のように供物と香華が絶えることはない。
ちいさなものは、無人で「祠」とされるが、この規模でも香華は絶えない。この「祠」は、クリスマスツリーを飾られておおらかなもので、さしずめわが国のまち角の「お地蔵さん」か「お稲荷さん」のような感じだった。

また商店などにも、わが国の神棚のような位置に道教の神像が祀られていることもおおい。

「林さん、このあたりの 埕 テイ とはどういう意味ですか ?」
「商店街とか、マーケットということでしょうか」
帰国後に調べてみた。「埕」とは本来口が細長い素焼きの酒瓶であり、海水を細長い水路で砂浜に導き入れてつくる、ふるい製法の塩田の名称にももちいられている。この「細長い」の意から、細長くつづく商店街やマーケットのことになるようであった。

民藝埕 ミンゲイテイにはいくつもの商店やギャラリーが入っていた。ちょうど土曜日だったためか、ギャラリーから若者が溢れていた。なにかとおもったら、台湾で著名な若手造形家のギャラリー・トークが開催されていた。
ところが、どの施設も、あまりにむき出しで、素朴な、バウハウス・スタイル、1925 年代国際様式、あるいは「白の時代」で溢れていて、こちらが照れてしまうほどであった。

なによりも、この店のとなりには、先に紹介した、強い色彩と、インパクトのある装飾に充ち満ちた「台北霞海城 隍廟」があるのである。
それでも茶館「陶一進民藝埕 トウイッシン-ミンゲイテイ」に入って、しばらくして「なるほどなぁ」と納得させられることになった。

ちなみに、茶館「陶一進民藝埕」で、80 種類ほどもある「お茶」のメニューのなかからオーダーしたのは、写真手前が林さんのもので、インド北東部ヒマラヤ山脈南麓産の「ダージリン紅茶」であった。
写真奥がやつがれのもので、中国江蘇省蘇州産の緑茶「璧羅春 ヘキラシュン」である。なかなか国際色ゆたかであった。
茶館「陶一進民藝埕」のパンフレットを簡略に紹介すると以下のようになる

当店は台湾民藝 100 年の伝統と、現代日本のデザインを弁証法的に融合させた茶館です。
日本の民藝と美学の大家である 柳 宗悦氏、工藝デザインの大家の 柳 宗理氏の父子両代にわたる理論と作品の数数と、喫茶を通じて対話していただけます。

つまりこの茶店「民藝埕」に関与したとされる、民藝と美学の大家である 柳 宗悦、工藝デザインの大家 柳 宗理の父子を理解しないと、この「陶一進民藝埕」、ひいては大藝埕のまちなみのことを理解しがたいことになる。

柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889 年 3 月 21 日-1961 年 5 月 3 日)は、旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。
のちに香港うまれの英国人で、画家・デザイナー・陶芸家として知られる バーナード・リーチ の知遇をえて、その縁から英国 19 世紀世紀末の「アーツ&クラフツ運動」に触発されて、手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合って「民藝運動」を起こし、生活に即した民藝品に注目して「用の美」を唱えた。また 1936 年(昭和 11 )東京都目黒区に「日本民藝館」を設立して、1957 年(昭和 32 )文化功労者となった。

またその子息、柳 宗理 (やなぎ そうり、本名 : 宗理 むねみち、1915 年 6 月 29 日- 2011 年12 月 25  日)は、惜しいことに一昨年の暮れに亡くなったが、日本の著名なプロダクトデザイナーであった。
柳宗理は 1934 年東京美術学校洋画科入学。バウハウスまなんだ水谷武彦の講義によってル・コルビジェの存在を知り、工業デザインに関心を持つようになり、プロダクトデザイナーとして活躍したひとである。

柳宗理の師となった 水谷武彦 (みつたに たけひこ、1898 年-1969 年)は、日本の美術教育、建築の教育者である。また日本人として最初にバウハウス(Bauhaus)へ留学した人物としても知られる。帰国後には様様な活動をつうじて、日本にバウハウスを紹介し、その教育を実践した人物である。

これらの19 世紀世紀末「アーツ&クラフツ運動」や、1925 年代「バウハウス国際様式」にまなんだ人物が、どのようなかたちで、どこまで「大藝埕」の景観づくりと、「民藝埕」ビルと、茶館「陶一進民藝埕」などの再開発に関わったかは不詳である。
それでも「国際様式」とは、たれが名づけたものか知らないが、全体に激しい色彩と、インパクトの強い形象が目立つ台湾のまちのなかで、この大藝埕あたりのランドスケープは、かなり異なった風合いがあった。

茶館「陶一進民藝埕」の食器(テーブルウェア)は、すべて柳宗理のデザインによるものであった。その純白の器のなかに、お茶の淡い色彩が幻想的に浮かびあがる。
おおきな急須に、従業員がときおりお湯を注いでくれるので、ほどよく蒸れたころ、それをガラスの器にうつして、ちいさな茶碗で喫茶する。
「陶一進民藝埕」では 3時間余も、写真のお茶をおかわりするだけで長居したが、べつに嫌がられもせず、つぎつぎとお湯を注いでくれた。料金はそこそこの値段で、お菓子もついて日本円でひとり500円ほどだったであろうか。
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林さんとのはなしに夢中になっているうちに、いつの間にか、かつての新宿邑の、雑然とした朗文堂にいるころとおなじように、たがいにあつくなって、タイポグラフィ論議を展開した。
テーマのほとんどは 文 + 字 = 文字 であった。蒼頡 ソウケツ 神話をかたり、そして許愼 キョシン『説文解字』をかたりあった。
「糸 繪  文 糸 紋 宀 子 字」そして「文 + 字、文字」であった。

先述したように林昆範さんは、中国大陸における観光産業との共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されていたが、その途中経過をモバイルメディアの画面に提示しながら、中間報告をしていただいた。
中国にはいまでも54ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということである。そしてその民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたる……。すなわち伝統紋様とは守護神が視覚化されたものだという報告は新鮮であった。
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帰国からしばらくして、写真が添付された@メールに、以下のようなうれしい報告があった。

久しぶりにゆっくりおはなしができて、刺激的でしたし、発奮しました。
近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心でしたが、このままでは研究とはいえなくて悩み、まして論文発表までは考えてもいませんでした。
ところが、片塩さんのご指摘により、伝統紋様は原始の〔ことば〕であることを理解しました。即ち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということです。
来年の夏までに、先日のご指摘と、これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。 林  昆範
(この項の写真は、すべて林昆範氏撮影) 

朗文堂好日録-025 台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶

《 活版カレッジ Upper Class 有志旅行 台 湾 探 訪 》
わが国の活字鋳造法、なかでも活字母型製造法は、再再触れているように幕末・明治最初期から昭和 25 年ほどまでは「電鋳式活字母型製造法」(電胎法ともいう)であった。
その状況がおおきく変化したのは、1949-50 年(昭和 24-25 )に、三省堂が所有していた「機械式活字父型・母型彫刻機 いわゆるベントン彫刻機」の国産化に、津上製作所、ついで不二越製作所の両社が成功し、それが急速に普及したためである。

このパンタグラフの原理を応用した機械彫刻方式は、リン・ボイド・ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884 年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型・母型彫刻機、いわゆるベントン彫刻機」であった。
しかしながらこの方式による活字母型製造法は、安形製作所、協栄製作所などの彫刻技術者が2012 年に相次いで逝去されたため、ここに、アメリカでの実用化から 128 年、国産化から 62 年という歴史を刻み、2012 年をもって専業者レベルにおいては事実上幕をおろすこととなった。
【参考資料:花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫】

すなわち、これからのわが国での活字鋳造の継続を考慮したとき、いかに慣れ親しんだ技法とはいえ、もはや専業者がいなくなり、また残存するわずかな原字パターンの字体にも、いわゆる「常用漢字字体表」などの字体資料と、あきらかな字体の齟齬が相当数にみられるようになった。
すなわち、いまやあまりにふるい「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」という 19 世紀の技術にすがることなく、いずれ、あらたな活字母型彫刻法を開発しなければならない状況にあった。
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台湾における活字鋳造、活字組版会社、日星鋳字行(行 ≒ 店)の存在と、その CAD 方式をもちいたあたらしい活字母型製造法の情報は、だいぶ以前から林 昆範 リン クンファン 氏(台湾中原大学助教授、タイポグラフィ学会会員)からいただいていた。
台湾における活版印刷と、活字鋳造の現状は、臺灣活版印刷文化保存協會の柯 志杰 カ シケツ さんによると、
   いまの台湾では、活字鋳造、活字版製造、活版印刷の崩壊を、あやうく
   防止できたという段階にあり、これから徐徐に活字母型の修復作業に
   とりかかりたい。
   将来課題としては、新刻作業に入りたいという希望をとおくに見据えている
   段階にある。
ということであった。

したがって、この活字母型 CAD 式製造法をまなぶことを主目的とした台湾旅行は、一昨年中におこなわれる予定の企画だったが、2011 年 3 月 11 日の東日本大震災の影響もあってのびのびになっていた。
その間逆に、2011 年の年末に、数回、日星鋳字行の張 介冠 チョウ カイカン 代表と、台湾活版印刷文化保存協会の 柯 志杰 カ シケツ さんが、日本における活字鋳造の現状調査、台湾のテレビ局の取材立ち会い、欠損部品の補充などを目的に、わざわざご来社いただくことが数度あった。

さらにふしぎなことに、2011 年の年末、クリスマスの日も、年末をもって廃業される活字関連業者の設備移動に関して、急遽来日されたおふたりと過ごしていた。
そしてなによりも、日星鋳字行は、震災で中断しながらも、翌年 5 月に再開した《活版凸凹フェスタ 2012 》に独自スタンドをもうけて出展されており、アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕会員の皆さんとも、すっかり親しい間柄になっていた。
それらの研究と交流の成果は、以下のページに収録されている。
★アダナ・プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ*レポート 14 
★朗文堂-好日録 019 活版カレッジ台湾旅行

今回は「台湾探訪」『アダナ・プレス倶楽部 会報誌  Vol.19 』(文責・大石 薫)をもとに、ときおりやつがれが介入するかたちで、すこしふるい情報ながら、活版実践者の皆さんが 2012 年 10 月06-08日、 2 泊 3 日の短い日程のあいだに、いかに台湾にまなび、いかに台湾を満喫したのか、その姿をご紹介したい。

なお写真にはやつがれがしばしば登場するが、それはデジカメをもたず(ひとによっては「使えず」とも評す。まっこともって けしからん発言である。事実だけど。)、撮影どきに暇そうにしているから被写体となったに過ぎず、けっして出たがりではない。ここに為念強調しておきたいのだ。 〔ここまでカタシオ wrote〕

★     ★     ★     ★

「台湾探訪」『サラマ・プレス倶楽部 会報誌  Vol.19 』(文責・大石 薫より転載)

「活版カレッジ」(3ヶ月間 全9回)を修了された活版カレッジ Upper Class」の皆さん恒例の有志旅行も、今回で3回目となりました。
2012年10月06-08日の3連休を利用して、今回は「活版カレッジ Upper Class」はじめての海外旅行、台湾の台北 タイペイ 市に行ってまいりました。その際の訪問先のいくつかをご紹介いたします

《台北  松山空港》
東京と台北間の直行便での空の旅は、成田空港 ⇔ 台湾桃園トウエン国際空港(旧・中正チュウセイ国際空港)の便と、羽田空港 ⇔ 台北松山 ショウザン 空港 の便があります。今回は台北市内へのアクセスが便利な、羽田空港 ⇔ 松山空港便を利用しました。
参加者の中には、松山空港が台北の空港の名前とは知らず、
「羽田空港から国内線で、愛媛県(四国)の松山 マツヤマ 空港を経由し、そこで国際線に乗り換えて台湾に入るものだ」
と出発間際まで勘違いしていた人もいて、最初から笑いの絶えない旅となりました。

航空会社は、創立から現在まで、死者や航空機全損事故は皆無だとして、世界で最も安全な航空会社として知られる「エバー航空」を選択しました。
台湾の航空会社ですが、機内でも日本語が通じますのでなにかと便利です。

搭乗した便は「ハロー・キティ号」だったため、機体はもとより、座席も食事も、エチケット袋からトイレットペーパーに至るまで「キティちゃん」づくし。空飛ぶアミューズメントパークといった感じでした。写真は松山空港到着時のもの。

飛行時間は〔東京 → 台北〕約4時間、〔台北→ 東京〕約3時間です。なお日本と台湾との時差は1時間です。

台北松山空港に着くと、そこの時計の広告に「労力士 = ローレックス」の文字がありました。さぁ、いよいよ漢の字の国へ来たなという実感がわきます。

《初日・昼 ──── 日星鋳字行 台北市大同区太原路97巷13號》
松山空港からタクシーに分乗して、ホテルのチェックインに先だって、荷物を抱えたまま、現在台湾で唯一営業を続けている活字店「日星鋳字行」さんをまっ先に訪問しました。
ここの取材が今回の旅の主目的でした。

日星鋳字行代表の張介冠 チョウ-カイカン さんと、台湾活版印刷文化保存協会の柯志杰 カ-シケツ さんは、今まで何度も朗文堂を訪ねてくださり、2012年には< 活版凸凹フェスタ> にも出展されて、同じく活版印刷を愛し、その存続を願う活版カレッジの皆さんともすっかり打ち解け、交流を重ねてきました。なお、中国語で「行」は「お金を扱うお店=銀行」と同様に「お店」という意味です。「銀行」は現代中国でももちいられていますが、意外なことにわが国での翻訳語が元で、明治の奇妙人・福地櫻痴が Bank から翻訳したとされています。

日本の活字店では活字の鋳造と販売が中心であり、活字組版はおもに活版印刷所で行うことがもっぱらですが、台湾では活字鋳造と活字組版を行うところまでが活字屋さんの役割です。
すなわちもともとの活字印刷版製造所、略して活版製造所の業務であり、活版印刷所へは活字組版の状態で納品となります。

そのため、日星鋳字行では、日本の活字店のような差し込み式の収納棚に、部首順の活字ケースを仕舞い込むのではなく、ふつうの活版印刷所と同じく、文選がしやすいように、対面式の活字馬棚ケースに、部首別かつ使用頻度順に配置された活字ケースがずらりと並んでいました。

簡体字政策が進んだ中国大陸とは異なり、台湾では繁体字が広く使用されています。そのため日星鋳字行には、大陸の簡体字にくらべて日本人にも馴染みが深い、旧字体を含む繁体字の漢字活字が豊富に揃っていました。

今回の旅の一番の目的は、日星鋳字行代表の張介冠さんが取り組んでいる、現代のテクノロジー CAD(Computer Aided Design) を採用したあたらしい活字母型の製造方法の見学と、その新しい技術を使ったオリジナルの活字母型と、鋳造活字の製造でした。

今回は、あらかじめ原字のデジタルデーターを送付しておき、日本ではすでに鋳造が難しくなってしまった「初号  42 pt 」の大きさの活字を作ることにしました。
まだ台湾に着いてから数時間にも関わらず、参加者それぞれのオリジナル初号活字ができあがったとたん、喜びのあまり、

「早く家に帰って、自分の活版印刷機で、この MY 活字を印刷してみたい!」
と言い出す面〻です。ともかく台湾初日の最初の訪問先にて、すでに大満足の活版カレッジ Upper Class のメンバーでした。



【 新塾餘談 ──── なぜか好きなもの 文選箱とゲラ 】
文選箱大好きという、龍爪堂コレクションに、あらたに加えられた 日星鋳字行による新製造の文選箱。台湾でもすでに文選箱が不足がちで、あらたな企画で文選箱の製造・販売をはじめていた。
張社長によると、売れゆきは期待値の半分もないとのことだった。わがサラマ・プレス倶楽部では教育機関などには新品を供給しているが、まだ中古品の在庫が若干あり、個人ユーザーでは、新品と中古品の要望が半半といったところか。

写真左 : 台北・日星鋳字行が新製造した文選箱。材料 : アメリカ杉。9pt.活字 25×20 本 2 段。工業用糊+釘打ち。頒価 : NT$  400元(税別)
写真右 : サラマ・プレス倶楽部が新製造している文選箱。材料 : ホオの木。五号活字 40×20 =800 本収納。一部入れ子細工。定価 :1,000円(税別)

《版画工房 美好一日工作室 One Fine Day Studio  台北市大同区太原路 97 巷 16 號》
日星鋳字行のすぐ向かいにある版画工房が「美好一日工作室  One Fine Day Studio」です。
代表の楊 忠銘 ヨウ チュウメイ さんは若手の版画作家ですが「台南藝術大学」や「MOCA 台北當代藝術館」で後進の版画指導もされています。

楊忠銘さんは、学生に活版印刷について教える際には、サラマ・プレス倶楽部編『 VIVA !! カッパン♥』を積極的に参考資料として活用しているとの嬉しい報告もありました。また揚忠銘さんは日星鋳字行とのコラボレーションによる、新しい絵柄の活字デザインも意欲的に行なっています。

《初日・夜 ──── 寧夏夜市、鬍鬚張(ひげ張)  台北市大同区寧夏路62號》
外食が日常化している台湾では、夜市が連日連夜開催されています。そのなかでも、寧夏夜市は歴史が一番古い夜市で、日星鋳字行さんからは徒歩で10分程度の近距離にあります。
今回は寧夏夜市内にある「鬍鬚張-ひげ張」さん本店で、張さんご一家と、台湾活版印刷文化保存協会ならびに台湾大学大学院の皆さんを交えての、楽しくにぎやかな夕食会となりました。




  

「鬍鬚張」さんは日星鋳字行代表の張 介冠のご紹介でした。「鬍鬚張」は本来「魯肉飯 ルーローファン」の老舗ですが、鬍鬚張二代目社長の張 永昌さんと、寧夏夜市観光協会の張 永賢さんの粋なはからいによって、一店舗に居ながらにして、寧夏夜市の人気屋台料理のすべてを調達してくださる「寧夏夜市  ミニ満漢全席」なるサービスを受けました。

なおここに登場する 3 人の張さんは、親しいご友人ですが、縁族ではないそうです。
今や台湾全土に支店がある「鬍鬚張」さん。日本にも石川県に支店が2店舗あるそうです。
こうして台湾到着から数時間の、収穫と刺激の多かった長い一日が終わりました。

《 2 日目・午前中 ──── 公館駅・台湾大学周辺》
皆さん強行日程だった1日目の疲れもみせず、早朝から各自で朝食をすませて、ロビーに集合。タクシーに分乗して公館駅周辺の古書店街にでかけました。
台湾では古書のことを「旧書(舊書)」あるいは「二手書」(まさに「Second Hand」ですね)と呼びます。以前は、中正区の高架道路の下の旧光華商場に、古書や骨董の市場街がありましたが、現在は新しいビルが完成して、秋葉原のような電気街へと変貌しているため、今回は台湾大学周辺の学生街で、古書店も多い「公館駅」の周辺を散策しました。

  
この周辺は台湾大学、台北大学も近いために、神田神保町というと大袈裟ですが、昔ながらの古書店である「公館舊書城」(台北市中正區汀州路三段130號)や、「古近書廊二手書店」台北市中正區羅斯福路三段244巷23號、17號)、ブックカフェ風の小奇麗な古書店など、たくさんの古書店があります。棚には日本の本や、中国大陸から来た本もたくさん並んでいました。

  学生街のため、安くて美味しい飲食店がたくさんあるのもこの地区の魅力です。
人気の台湾スイーツのひとつに「タピオカ・ミルクティー」があります。台湾では「タピオカ」のことを「青蛙」と表記し、お店のトレードマークに蛙を採用しているお店も少なくありません。
タピオカがカエの卵のようにみえることからその名称がうまれたと聞きました。人気店の長い行列にならんで、ようやく購入した「タピオカ・ミルクティー」は絶品で、ほとんど飲んでしまってからの写真となりました。

《 2 日目・昼から ──── 台湾故宮博物院 台北市士林区》
この日の皆さんは、公館駅のちかくでいくつかのグループにわかれて、古書店やスィーツを楽しみ、公館駅周辺のお店で軽食をとってから「故宮博物院」にかけつけました。

「故宮博物院」といえば、中華人民共和国北京市の「故宮博物院(紫禁城)」と、中華人民共和国遼寧省省都:瀋陽市(旧満州奉天)の「瀋陽故宮博物院」、中華民国台湾台北市の「国立故宮博物院(台湾故宮博物院)」があります。なかでも台湾の故宮博物院は、その貴重かつ膨大な収蔵品の数から、大陸中国の故宮博物院を差し置いて、世界四大博物館 のひとつに数えられています。


故宮博物院は、ラストエンペラーで知られる溥儀 フギらの清王朝の一団が紫金城を退去したのち、1925年に紫禁城の宝物を一般に公開したのがはじまりです。その後、日中戦争や中国大陸での内戦の激化により、蒋介石率いる国民党軍(のちの中華民国政府)によって、紫禁城にあった宝物の一部は、北京から南京などに避難の旅を続けました。

のちに形勢が不利となった国民党軍(中華民国政府)とともに、宝物は台湾に渡り、台湾故宮博物院 の開設となりますが、その際台北に運び込まれた宝物は3,000箱近くに及んだとされています。
この中国大陸から台湾への宝物の移動は、結果的にのちの文化大革命時代の中国大陸の美術品破壊から宝物を保護することへもつながりました。
混乱期の長旅を経て台湾に辿りついた宝物は、紫禁城に残った宝物にくらべて小振りのものが中心ですが、選りすぐりの逸品揃いであるといわれています。

なお、台湾故宮ではスタッフのほとんどが、国語(北京官話)、台湾語(もともと福建省寄りの言葉が台湾独特の方言に発展したもの)、英語、日本語をあやつるマルチリンガルです。そのため無理をして英語を使うより、むしろ日本語のほうが通じます。また、ミュージアムショップでは日本語版の図録や DVD も多数販売されています。
展観の途中から消えた松尾篤史さんと「やつがれ」さんは、古書店に続いて、ここのミュージアム・ショップでも図書をどっさり買いこみ、ひとりでは身動きもできないという始末でした。

《 2 日目・夜 ──── 士林夜市》
士林夜市は台湾で一番大きな夜市で、故宮博物院と同じ士林区にあります。2011年の年末に新しいビルの地下に美食街がつくられ、そこに多くの屋台が移転したばかりでした。いまはビルの地下ですから昔のような風情は無くなりましたが、衛生面や安全面も向上し、屋外屋台のような雨の心配もいりません。

  

  

士林名物の巨大フライドチキンに、特大台湾ソーセージ、牡蠣オムレツ、青蛙下蛋(直訳は「蛙の卵」ですが前出のタピオカのことです)、マンゴーかき氷などの人気店が立ち並んでいます。

ところで、旅の途中 Upper Class メンバーがたびたび「マンゴージュース」を注文しましたが、口頭で注文すると、どういうわけかいつも「オレンジジュース」が出てきていました。
欧米のカフェで「珈琲」を頼むと「コーラ」が出てしまうことがありますが、それと同様に「マンゴー」が「マンダリン-マンダリンオレンジ」に聞こえてしまったのでしょうか。ちなみに、台湾語でマンゴーは「ソワァンヤァ」と呼ぶそうです。

《ホテル  ──── 圓山大飯店 台北市中山区中山北路四段1號》
台北松山空港に飛行機が到着する直前、飛行機の窓から竜宮城のような、巨大で絢爛豪華な建物が見えました。
「あれが台湾故宮博物院かな」
と思っていた Upper Class の面々は、空港からもみえるその威容に、
「あれが、今回皆さんが泊まるホテルですよ」
と聞かされても冗談だと思っている様子でした。

圓山大飯店の豪華絢爛なロビーに案内され、さらに呆気にとられた面々は、チェックインの手続きをはじめても、まだ半信半疑の様子で、
「予約のときにホテル代はそんなに高くなかったけど、本当にここに泊まるの? 追加料金取られない?」
と心配の様子でした。

台湾にはもっと安くて、最新設備を整えた小奇麗なホテルや、もっと高額なラグジュアリーホテルもたくさんありますが、そのような現代的な西洋風ホテルよりも、内容の割にはリーズナブルな価格でありながら、台湾らしさを存分に満喫でき、贅沢な気分に浸れるのが圓山大飯店です。

その昔、台湾政府の迎賓館として使用されていた建物の壮大さと、中国の宮廷建築の特徴が盛り込まれた装飾は圧巻です。客室も広々としていて、各客室占有のベランダだけでも一部屋分くらいの広さがあります。


《 3 日目・最終日 ──── 圓山大飯店内の飲茶の店・圓苑での昼食会 兼 ハプニング》
短い滞在だった3日目、最終日の午前中は、皆さん地図を片手に町歩き・お買い物を楽しまれました。昼食は圓山大飯店の中にある飲茶のレストラン「圓苑」です。
ホテルの中のレストランにしては、手頃な価格帯で美味しい飲茶が頂けます。

   

今回はたまたま、お誕生日が近いメンバーが3名もいましたので、圓苑名物の「紅豆鬆糕(豆入りライスケーキ)」をホールのままひとつ注文し、バースデー・ケーキ代わりにしました。

大皿で提供される中国料理は、少ない人数では2-3品程度ですぐにお腹がいっぱいになってしまうため、いろいろな料理を楽しむことができませんが、今回は適度な人数で食卓を囲むことができたため、品数も豊かに、台湾での最後の楽しいひとときを過ごすことができました。

そして、山ほど買いこんだ「台湾特製活字」をはじめ、柿+ミカン+子豚ちゃんの縁起物「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」、実家がお茶屋さんだという某会員は、なんども下見を繰りかえし、比較検討の末、みずからの美意識に合致したという  ン万円の急須を買いこんだりと、楽しく収穫の多い台湾での旅を終えて、松山空港から羽田への帰国便に搭乗しました。
「勉強になったし、ともかく面白かったし、なんでも美味しかったねぇ。また台湾に来ましょうね」。
──── 皆さんのお声でした。

朗文堂-好日録024 禹王、王羲之、魯迅、孔乙己、咸亨酒店、茴香豆、臭豆腐

中国 ・ 紹興 「 咸亨酒店 」 と、東京 ・ 神保町 「 咸亨酒店 」 のふたつの 「 咸亨酒店 」 のことは、このタイポグラフィ ・ ブログロール 『 花筏 』 ですでに紹介した。
両篇とも相当量の長文だが、それぞれその終末部に掲載してある。
★朗文堂-好日録016──吃驚仰天!中国西游記 2012年08月01日
★朗文堂-好日録023──気がつけばカレンダーが1枚だけ! 2012年12月06日

《 東京 ・ 神田神保町/咸亨酒店 カンキョウシュテン 》
この中国料理店に関してはつい先日 ★朗文堂-好日録023 で触れた。
神田神保町の「咸亨酒店」は、紹興の「咸亨酒店」を模してはいるが、料理そのものは 紹興  というより、そこからほど近い港町、寧波 ( ネイハ、ニンボー、波を寧ヤスんずる ) の家庭料理風の調理の店であった。
したがって味つけやメニュー構成は、相当日本人客を意識して、上海ガニやフカヒレのスープなどを前面に押し出している。

しかしながら、神保町「咸亨酒店」の中心料理は、数種類のお粥 ( 中国ではオカユはほとんど朝食として摂るが…… ) であり、なによりも紹興名産 ・ 紹興酒 ( 黄酒 オウシュ、ホワンチュウ ・ 老酒 ラオチュウ ) の5-15年といった年代物がずらりと列んでおり、左党にはたまらない店のようである。

「 酒店 」 とあると、やつがれのような酒が苦手な不調法者は入店をためらうが、「 咸亨酒店 」 では中国茶をたのむと格段いやな顔をせずに、大きな急須いっぱいの中国茶が出て、料理はどれも本場の 「 咸亨酒店 」 と較べても遜色がなかった。
なによりも 好ハォ !  なのは、天井が高いために、嫌煙家にもさまで嫌われずにタバコが吸咽できることだ。 愛煙家とてはいろいろ気にする昨今である。

上掲写真 右側の料理は、蘇東坡ソトウハ ゙( 中国北宋代の政治家 ・ 詩人 ・ 書家、蘇軾ソショク トモ ) の考案によるとされ、家人の大好物 「 杭州名物 東坡肉 トンポーロー」 を模し、寧波家庭料理風に仕立てた豚の旨煮料理である。
写真を撮るのも忘れて半分ほど食べてから慌てて撮った写真で、妙なものになっているが、ともかく旨かった。

とかくわが国では気軽に 「 中華料理 」 という名称で呼んで、中国各地の料理をひとくくりにしているが、ロシアをのぞいて、50ヵ国ほどの国と地域ががひしめく  ヨーロッパ 諸国  が、そのまま中国一国の国土にスッポリはいるほどの広大さがあるのが中国である。

それなのにわが国では、ヨーロッパの、フランス料理、イタリア料理、スペイン料理などの違いはつよく意識するが、あまりに付きあいのふるい 「 中華料理 」 となると、地域性、食材、調理法、味つけの違いなどには意外と無頓着になっている。

はやいはなしが 「 ラーメン、餃子、チャーハン 」 は、どこの中国料理店でもあると考えているひとが多い。
したがって 「 中国料理店 」 の多くは、出身地や、その調理や食材の特徴を、「 陝西料理 」 「 四川料理 」 「 北京料理 」 「 湖南料理 」 「 浙江料理 」 「 福建料理 」 「 広東料理 」 などとあらわして、さりげなく主張している。

内陸部の「 陝西料理 」 「 四川料理 」 は、比較的味が辛く、羊や豚肉と小麦粉料理が中心である。
海岸部の 「 浙江料理 」 「 広東料理 」 は、比較的味が淡泊で、鶏や魚貝料理と米飯が中心である。

だいぶ以前のはなしだが、米国 ・ シアトルの 「 日本料理店 」 につれられていった。 そのさほど大きくない店には、寿司、ソバ、焼き鳥、すき焼きなど、なんでもござれのメニューがあって、おどろいたことがある。
それと同じで、「 ラーメン、餃子、チャーハン 」 の豪華三点セット !?  は、日本式の 「 中華料理 」 だと心得たほうが間違いがすくないようだ。

それはさておき、若者の掲示板などでも 「 神保町 咸亨酒店 」 はそこそこの評価 を得ているようである。
神保町 「 咸亨酒店 」 は皆さんも一度お試しいただくとして、紹興の 「 咸亨酒店 」 を理解していただくために、同店の屋外看板の解説をテキストで紹介しておこう。

咸 亨 酒 店   かんきょうしゅてん/シャン ヘン ジュー デェン
「 咸亨酒店 」 は、紹興酒のふるさと、中国浙江省紹興に、清朝時代(1894-96)に実在したお店です。
魯迅 ロジン をはじめ、多くの文化人に愛されたこの店は、彼らの憩いの場ともいえる由緒ある名店でした。( 現在のお店と建物は、1981年に魯迅の生誕百周年を記念して復興されたものです )。
魯迅は、故郷の紹興酒とともに、生家の近くにあったこの店をこよなく愛し、名著 『 孔乙己  コウイッキ 』 の舞台として描き、この店名を世界に広く知らしめました。
当店は、日本で紹興酒の専門店を開業するにあたり、紹興の多くの関係者から賛同と幾多の協力をいただき、この神保町に咸亨酒店を創りました。
石造りの建物と、柳の木は、古都紹興の街並みを連想させるもので、看板の文字は、書聖と称される王羲之を奉る紹興の名所 「 蘭亭 」 の胡 雄氏の直筆によるものです。
1992年3月16日

《 紹興のまち、簡略紹介 》
紹興 シャオシン Shaoxing (中国版 : 紹興) は、浙江省省都の杭州、あるいは杭州空港から、電車でも高速道路でも30-40分ほどの距離にあり、人口は500万人、浙江省の副都ともされる。
ふるくから拓けたまちで、会稽、山陰(阴)、大越、上都、仙都 などの異称もある。

このまちの名産品に ご存知の 紹興酒(シャオシンチュウ  黄酒 ・ 老酒) がある。
紹興酒は このまちではおもに 「 黄酒 ホアンチュウ、huáng jiŭ 」 と呼ばれ、糯米モチゴメを主原料として発酵させた醸造酒であるが、そのなかでも長期間熟成させたものを 「 老酒  ラオチュウ」 と呼んで珍重する。

いずれにしても下戸のやつがれには 「 猫に小判 」 であるが、日本の 「 中華料理店 」 とされる店でだされるものは、ほとんどが台湾産の 「 紹興酒 」 であることぐらいは知っている。

写真01) 禹王廟にあった紹興酒の献上品。わが国でも神社仏閣などに、薦被りの清酒がならぶ光景をみるが、伝説の王朝 ・ 夏カの創始者/禹王ウオウ廟に献上された紹興酒は、緋毛氈の上に太鼓とならんで、うやうやしく置かれていた。
写真02) 杭州から紹興への高速道路のドライブインの売店でも、さまざまな紹興酒を販売していた。ブランドと製造年代も、大小各種のものがならんでいた。
写真03) ドライブインに 「 紹興特産  臭豆腐 しゅうどうふ、チョウドウフ」 の売店があった。 これに関心をしめしたことが、2時間ほどのちに、たいへんな悲劇 ?  喜劇 ?  をもたらした。
写真04) 紹興のまちのあちこちにも、紹興酒の銘柄の懸垂幕と酒家の名前がみられる。「 会稽山 」 「 紹興古城 」 はいずれも紹興酒のブランド名。 背景の 「 咸豊 カンポウ 酒家 」 は、中国清代末期の元号 「 咸豊 」(1851-61)で、ふるい創業を誇っている。

ふるくから、それも有史以前からひらけたまちなので、名所 ・ 旧跡は数えきれないほどある。
◎  大禹ダイウ陵-伝説の王朝・夏カ王朝の創始者/禹王の陵 (伝BC2070頃)。 〔中国版 : 禹王
◎  府山公園-春秋時代  の王城跡。越王殿(BC600頃-BC334)。〔中国版 : 越王勾践〕
◎  蘭亭-王羲之(推定303-361) 蘭亭序 の碑と、「 中興中路 」 にある書聖故里
   ( 『 蘭亭序 』 は中国歴 ・ 永和9年3月、西暦353年、わが国は古墳文化の、まだ無文字の時代の作 )
◎  魯迅故里-魯迅(1891-1936)の生家と記念館。
◎  周恩来故居-周恩来(1898-1976)元首相の生家と記念館。 未訪問。
◎  会稽山—中国九大名山のひとつ。会稽刻石 ( 始皇帝の宰相 李斯 碑 ) がある。
  山頂までは未訪問。〔中国版 : 会稽山〕
◎  宋六陵—南宋皇帝の墓陵。 江南では最大の皇陵区。〔中国版 : 宋六陵〕 未訪問。

《 紹興と魯迅、魯迅と版画、魯迅の図書装幀 》

禹王廟から会稽山山系をのぞむ。かつてこのあたりが会稽と呼ばれていたように、紹興のあちこちからこの山容と、山頂に設けられた伝説の夏カ王朝 ・ 禹ウ王の巨大な立像をみることができる。

禹ウ王殿境内の土産物店で、おおきな紫紺の扇に、金泥で 『 蘭亭序 』 を老人が書いていた。 2012年07月15日だったが 猛暑の日で、老人は半裸になってブツブツと 『 蘭亭序 』 を唱えながら、相当の力量の行楷書で鮮やかに書いていた。
片隅に、もうたれも買わなくなった1970-80年代のふるいパンフレットを売っていたので、懐かしくなって購入した。 扇子は寶物のひとつとなった。

下に、その扇子の写真と、昨年秋に杭州の土産物屋で購入したもので、竹簡を模した 『 蘭亭序 』 ともども紹介する。現代中国でも、いかに 「 書聖 ・ 王羲之」 と、『 蘭亭序 』 が愛されているかわかる。


写真上) 魯迅の肖像写真とそのシグネチュア(署名)。
      〔『 魯迅与書籍装幀 』  上海魯迅記念館、新華書店上海、1981年08月 〕
写真下) 紹興の大通りに面した 「 魯迅故里 」 の入口広場。 中央の座像 2 体がなんなのかは、あまりに暑く、またこの直後から団体客が押しよせて取材できなかった。 このあたりは人口500万の大都市 ・ 紹興の中央通り 「 中興中路 」 に面しており、すっかり近代化されていて、ちかくには ESPRIT や、マック、ケンタッキーなど、国際資本の店舗もたくさんあった。

魯迅の旧居にむかう道中で、フト「 老年活動室 」 の看板が目についた。 扉が開けっぱなしだったので、
「 ン !   これはオレのための施設かナ 」
とおもって、断りもなく、勝手にはいった。
奥でトランプゲームと、麻雀をやっていて 「 老年活動室 」 はにぎやかだった。麻雀のメンツ ・ ターター(人数あまり)で暇をもてあましていた(ここでは)若け~のが、
「 日本からきたの、アッソ~。 暑いねぇ~ 」
といった (らしい、多分。 早口の中国語で詳細不明だったけど )。
ここ 「 老年活動室 」 で、暫時休憩、暫時一服。 ここにすっかり馴染んで、くつろいでしまっているやつがれが、チョイと口惜しいではないか!

写真上) 魯迅故里にある魯迅の故居。 扁額には 「 魯迅祖居 」 とされている。 簡素で好感がもてる建物だったが、夕方で閉館されていて内部には入れなかった。
写真下) 魯迅の故居前の記念碑。 よく整備されていて、涼風を感ずる、あかるい空間だった。

魯  迅  ── Lu Xun  本名 : 周 樹人。中国 ・ 浙江紹興のひと。 1881-1936年。
〔中国版 : 魯迅〕
 〔魯迅関連 画像集〕

中国の近現代文学を代表する存在。 はじめ医学をこころざし、東京 ・ 牛込の日本語学校・ 弘文学院の松本亀次郎に日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校 ( 現在の東北大学医学部 ) に留学した。
しかし日露戦争の記録映画などをみて、医学にかえて文学による漢民族の民族性の改造をこころざし、帰国後に発表した処女作 『 狂人日記 』 〔青空文庫 : 狂人日記 〕 で評価をうけた。

そののち、自著自装本 『 吶喊 』(トッカン、鬨トキの声 )に 「 狂人日記 」、「 孔乙己 コウイッキ」〔 青空文庫版 : 孔乙己 コウイッキ〕 〔 孔乙己 コウイッキ 画像検索 〕、 「 故郷 」〔 青空文庫 : 故郷 〕、「 阿Q正伝 」〔 青空文庫 : 阿Q正伝 〕 などの著名な短編作品を収める。
──────────────
以上がおおかたの魯迅の略歴紹介である。 邦訳 ・ 公開されている短編小説にはリンクを設けたので、できたらお読みいただきたい。 やつがれが好きなものをあげておいた。

ところで……、ここで意外に見落とされている事実を紹介したい。
魯迅は中国近現代を代表する文学者であり、創作 ・ 社会批評 ・ 海外文学の紹介者とされている。

ところが魯迅は、相当の力量をもった装幀家であり、ブックデザイナーであり、木版版画の実践者であり、推奨者でもあったことである。

魯迅の代表作 『 吶喊 』(トッカン、鬨の声。魯迅著、北新書局、1926)を、自著自装本であるとして紹介した。 この資料 『 魯迅与(ト)書籍装幀 』 ( 上海魯迅記念館、新華書店上海、1981年08月)は、「 咸亨酒店 」 の復元とおなじ年、魯迅生誕100年を期して刊行されたデザイン書である。

同書によると、魯迅は自著を含め64冊の書籍や雑誌の装幀にあたっている。
デザイン傾向は様様で、アールヌーボー、ロシア構成主義、アールデコ、日本大正ロマン、1925年代国際主義 ( いわゆるバウハウス ・ スタイル ) などの影響が、それぞれ顕著にあらわれている。
以下に魯迅の装幀による書物のいくつかを紹介する。

             

     

     

     

     

興味ぶかいのは、魯迅は相当印刷術に精通していたとみられ、石版印刷、木版と活字版を併用した凸版印刷の技術を縦横に駆使した格調のたかい書籍がみられる。 とりわけ木版画の使用に長けており、しばしば表紙や装画にもちいただけでなく、『 木刻紀程 壹 』( 魯迅編、鉄木藝術社、1934年) という、木版画彫刻の技法書まで刊行している。
同書のなかで魯迅はつぎのように述べた。

中国の木版画は、唐から明まで、かつて見事な歴史があった。 だが、現在のあたらしい木版は、その歴史とは無関係である。 あたらしい木版は、ヨーロッパの創作木版の影響を受けたものである。
創作木版の歴史は朝花社にはじまる。 その出版した 『 藝苑朝華 』 四冊は、選択と印刷製本が精巧ではなく、芸術界の有名人には黙殺されたが、若い学徒の関心をひきおこした。 1932年になって、上海に中国最初の「木版画講習会」が成立した。

ここにしるされた創作木版の 「 朝花社 」 は、魯迅と 作家 ・ 柔 石が組織した文芸団体であり、1928年11月成立、1930年春に終結した。
また 『 藝苑朝華 』 は魯迅の朝花社が編集出版したもので、下記の5冊の版画集を刊行した。
   1.『近代木刻選集』(1)、 2. 『蕗谷虹児画選』、 3. 『近代木刻画集』(2)
   4. 『ビアズリー画選』、    5. 『新ロシア画選』

また、竹久夢二とともに抒情画家として知られる 蕗谷虹児 (フキヤ-コウジ  童謡 ・ 花嫁人形の作詞者、挿絵画家、1898-1979)〔 蕗谷虹児画像集 〕 の影響も見られるだけでなく、『 蕗谷虹児画選 』 ( 芸苑朝花第一期第二輯、朝花社出版、1929) まで装幀・刊行している。
「 童謡  花嫁人形 ♪  金 襴 緞 子 の  帯 し め な が ら 花 嫁 御 寮 は   な ぜ 泣 く の だ ろ 」
の作詞者、新潟県新発田シバタ市出身の蕗谷虹児と、その新発田市の記念館のことは  ★朗文堂-好日録012 に 紹介したことがある。

郵便切手にもちいられた、蕗谷虹児画の「花嫁」。2013年の正月、新宿の郵便局でも積極的に販売されていた。 無粋ではあるが不正使用が無いように一部に画像処理を加えて紹介した。 いずれにしても蕗谷虹児と魯迅とは  ──  なんとも考えさせるテーマである。

どちらかというと、葉巻をくわえ、髭を蓄え、いかつい風貌の魯迅が、少女向けのロマンチックな絵画をのこした蕗谷虹児の、どこに惹かれたたのかとかんがえると、ほほえましいものがある。

以下に、たまたま気になって保存していた 「 町田市民文学館ことばらんど-蕗谷虹児展 」 のパンフレットを紹介しよう。 裏面右下に、魯迅 『 蕗谷虹児画選 』 の表紙が図版紹介されている。

すなわち魯迅(1881-1936)は、わが国の恩地孝四郎(1891-1955)よりはやくから、版画の近代運動に尽力していたこととなる。
恩地孝四郎は、最近作品集が翻刻出版され、評伝も刊行されたので、一部で注目されている。 恩地は東京うまれ、東京美術学校中退。 『 月映 ツクハエ 』 同人として抽象的版画を製作し、創作版画運動にも尽力した。 また 「 アオイ書房 」 志茂 太郎の物心共の援助をえて、愛書誌 『 書窓 』 を編集 ・ 装幀した人物である。

昨秋に、そのときが 「 中秋節 」 と知らずに杭州を訪れたことがあった。 ひどい混雑だったが、西湖白堤にある 「 浙江美術館 」 で、大大的に 「 魯迅と木版画展 」 をやっていた。
そこには魯迅が愛用していた彫刻刀も、何本も陳列されていた。 文豪 ・ 魯迅は、また版画家でもあったのである。

また20年ほど前の1994年に、町田市立国際版画美術館が 『 1930年代 上海 魯迅 』 と題して、魯迅の版画運動を紹介したことがあった。 あれからはや20年、日中交流もだいぶ容易になったいま、もういちどどこかの文学館なり美術館が 《 文豪魯迅の図書装幀 》 とでも名づけて展覧会を企画してもらえるとうれしいのだ。

《 魯迅著 『 孔乙己  コウイッキ 』 と  茴香豆 ウイキョウマメ  ──  咸亨酒店 カンキョウシュテン 》
ここからの紹介は、団塊世代の皆さんが、実に熱心に歩きまわって取材し、丁寧に写真を撮って、ブログなどに紹介されていることばかりである。
そもそも日ごろから 「 衣食住にはさほど関心がない 」 とうそぶいて、出歩くのをいるやつがれなぞは、およそグルメ紹介などには適さない。 おおかたは旅に同行したノー学部のなすところである。

「 咸亨酒店 」 は清代に実存した店で、魯迅の短編小説 『 孔乙己 』 に紹介され、主人公の孔乙己の名とともに知られることとなった。 現在の店舗は1981年に魯迅生誕100周年をもって、外装は旧店舗にできるだけ忠実に再建されたものである。

店のシンボル孔乙己 コウイッキ は、官僚登用試験 ・ 科挙の落第生とおぼしき人物として設定されているが、小説のなかの人物で、実在したわけではない。
また、この短編小説 『 孔乙己 』 の邦訳(井上紅梅訳)のなかでは、「 咸亨酒店 カンキョウシュテン」 ではなく、振り仮名つきで 「 咸享酒店  かんこうしゅてん 」 とされている。

中国の 「 百度百科 」 には、図版をまとめたものがおおくあり、それも下記にリンクで紹介した。 おなじキーワードで検索すると、驚くほどたくさんのブロガーの記述にでくわす。
中国版 : 魯迅 孔乙己図版 〕 〔 中国版 : 孔乙己 茴香豆 〕

写真上) 「 咸亨酒店 」 正面入口。 店の前には孔乙己コウイッキが、酒の碗をテーブルにおいて、茴香豆ウイキョウマメをつまんでいる立像がある。 観光客だけでなく、地元の客も多かった。 いまの 「 咸亨酒店 」 は、1981年に魯迅生誕100周年を期して再建されたものだという。
写真中) 外のテラスでやつがれが腰をおろしたあたりが、かつての魯迅お気に入りの場所だったとされ、壁際には 「 黄酒 」 の甕がならぶ。 地元客にも観光客にもひとしく人気の店らしい。
写真下) 魯迅はたそがれどきになると、ここにあらわれて、葉巻の紫煙をくゆらせ、茴香豆をつまみながら老酒をチビチビやっていたらしい。 やつがれもそれを真似て、チョイと一服。 ともかくこの日は暑かったのだ。

いまの 「 咸亨カンキョウ酒店 」 は店舗が近代化、拡張され、入口で飲み物とプリペイド ・ カードを買って店内にはいり、あとは調理人と会話しながら料理をオーダーして、セルフサービスでテーブルに運ぶ。 精算は出口のカウンターでする。
それが面倒なら、2 階席はテーブルクロスのかかった、本格的な酒店だという。 もちろんやつがれは庶民的な 1 階席でテーブルについた。

上掲料理写真の真ん中は、鶏の丸焼き料理。 右側が茴香豆。 最奥はその名もビックリ 「 臭豆腐  チョウドウフ」。
前からあちこちの看板で眼にしていたが、字(漢字)でこうもはっきり 「 臭豆腐 」 と書かれると、食欲が失せて敬遠していた。
キッチンは清潔で、どこもオープンキッチンになっていたが、「 臭豆腐 」 売り場だけはガラス張り。

「 臭豆腐 」 は、中国各地の屋台店などでみかける大衆食品であるが、紹興のまちでも名産とされている。 いずれも魯迅のお気に入りだったとして、ドライバーから勧められた ──  というよりドライバーが剽げて鼻をつまみながら 「 臭豆腐 」 をどんどん運んできた。
「 茴香豆 」 〔 茴香豆画像 〕 は空豆を八角という香辛料でゆでたものらしいが、 旨かった。

つまり 「 臭豆腐 」 を避けて 「 茴香豆 」 ばかりを食べていたら、臭いを気にせず、美味しいから 「 臭豆腐 」 も食べろと勧められた。
真ん中の写真は 「 臭豆腐 」 をほお張って、吐きだすにだせず、ウップしたまま絶句しているやつがれと、それを、
「 いいか、必ず、絶対に、喰えよな!」
といわんばかりに、つめたく ?  みつめるドライバーの潘 偉飛 さん。

このひと、日本語はできないが、身振り手振りと筆談で、ほぼ意思の疎通には困らない、 いい人なのだが……。
「 臭豆腐 」 はききしにまさる、すさまじい臭いで辟易するが、ふたくち目からは臭いも気にならず、食すと好ハオ!  ほぼやつがれが食べてしまった。 写真の料理はドライバーとの3人分で、日本円で2,000円ほどだったか?

ただし、入口で飲み物を 「 コーラ 」 と注文したら、ドライバーとノー学部ともども、ひどい勢いで店のオバハンから罵られたらしい。
「 アナタガタ   ココハ  紹興ヨ!  黄酒ヲ ノマナイデ  ドウスル 」
こんな具合だったようであるが、やつがれはすでにテーブルについて 「 茴香豆 」 と 「 臭豆腐 」 に挑戦中で、くわしくは知らない。 それでも自慢の黄酒より コーラのほうが高かった……。
────────
『 孔 乙 己 』 ( 魯迅著、井上紅梅訳、改造社、1932年11月18日) 〔参考 : 青空文庫版 孔乙己 〕

魯鎮ロチンの酒場の構えは他所ヨソと違っていずれも皆、曲尺形カネジャクガタの大櫃台オオ-テーブルを往来へ向けて据え、櫃台テーブルの内側には絶えず湯を沸かしておき、燗酒がすぐでも間に合うようになっている。仕事をする人達は正午ヒルの休みや、夕方の手終テジマいに、いちいち四文銭を出しては茶碗酒を一杯買い、櫃台テーブルに靠モタれて熱燗の立飲みをする。──これは二十年前のことで、今では値段が上って一碗十文になった。──もしモウ一文出しても差支えなければ、筍タケノコの塩漬や、茴香豆ウイキョウマメの皿盛を取ることが出来る。もし果して十何文かを足し前すれば、葷ナマグさの方の皿盛りが取れるんだが、こういうお客様は大抵袢天著ハンテンギの方だからなかなかそんな贅沢はしない。中には身装ミナリのぞろりとした者などあって、店に入るとすぐに隣接した別席に著き、酒を命じ菜を命じ、ちびりちびりと飲んでる者もある。
わたしは十二の歳から村の入口の咸享酒店カンコウシュテンの小僧になった。
〔中略〕
孔乙己コウイッキが一度わたしに話しかけたことがあった。
「お前は本が読めるかえ」
「…………」
「本が読めるなら乃公ダイコウ、オレが試験してやろう。茴香豆ウイキョウマメの茴の字は、どう書くんだか知ってるかえ」
わたしはこんな乞食同様の人から試験を受けるのがいやさに、顔を素向ソムけていると、孔乙己はわたしの返辞をしばらく待った後、はなはだ親切に説き始めた。
「書くことが出来ないのだろう、な、では教えてやろう、よく覚えておけ。この字を覚えていると、今に番頭さんになった時、帳附けが出来るよ」
わたしが番頭さんになるのはいつのことやら、ずいぶん先きの先きの話で、その上、内の番頭さんは茴香豆という字を記入したことがない。そう思うと馬鹿々々しくなって
「そんなことを誰がお前に教えてくれと言ったえ。草冠の下に囘数の囘の字だ」
孔乙己コウイッキは俄ニワカに元気づき、爪先きで櫃台テーブルを弾ハジきながら大きくうなずいて
「上出来、上出来。じゃ茴の字に四つの書き方があるのを知っているか」
彼は指先を酒に浸しながら櫃台の上に字を書き始めたが、わたしが冷淡に口を結んで遠のくと真から残念そうに溜息を吐(つ)いた。
〔中略〕
中秋節が過ぎてから、風は日増しに涼しくなり、みるみるうちに初冬も近づいた。わたしは棉入ワタイレを著て丸一日火の側ソバにいて、午後からたった一人の客ぐらいでは眶マブタがだらりとせざるを得ない。するとたちまちどこやらで
「一杯燗けてくれ」
という声がした。よく聞き慣れた声だが眼の前には誰もいない。伸び上って見ると櫃台テーブルの下の閾シキイの上に孔乙己コウ-イッキが坐っている。顔が瘠せて黒くなり何とも言われぬ見窄ミスボらしい風体で、破れ袷一枚著て両膝を曲げ、腰にアンペラ ムシロノコト を敷いて、肩から縄で吊りかけてある。
「酒を一杯燗けてくれ」
番頭さんも延び上って見て
「おお孔乙己コウイッキか、お前にまだ十九銭貸しがあるよ」
孔乙己はとても見惨ミジメな様子で仰向いて答えた。
「それはこの次ぎ返すから、今度だけは現金で、いい酒をくれ」
番頭さんは例のひやかし口調で
「孔乙己、またやったな」
今度は彼もいつもと違って余り弁解もせずにただ一言イチゴン、
「ひやかしちゃいけない」
というのみであった。
「ひやかす? 物を盗らないで腿を折られる奴があるもんか」
孔乙己は低い声で
「高い所から落ちたんだ。落ちたから折れたんだ」
この時彼の眼付はこの話を二度と持出さないように番頭さんに向って頼むようにも見えたが、いつもの四五人はもう集っていたので、番頭さんと一緒になって笑った。
わたしは燗した酒を運び出し、閾シキイの上に置くと、彼は破れたポケットの中から四文銭を掴み出した。その手を見ると泥だらけで、足で歩いて来たとは思われないが、果してその通りで、彼は衆ミナの笑い声の中に酒を飲み干してしまうと、たちまち手を支えて這い出した。
それからずっと長い間孔乙己を見たことがない。年末になると、番頭さんは黒板を卸して言った。
「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」
次の年の端午の節句にも言った。
「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」
中秋節にはもうなんにも言わなくなった。
それからまた年末が来たが、彼の姿を見出すことが出来なかった。そして今になったが、とうとう見ずじまいだ。
たぶん孔乙己コウ-イッキは死んだに違いない。(1919年3月  魯迅記)

《 書聖 ・ 王 羲之  簡略紹介 》
王 羲之(オウ-ギシ 307?-365)。 あざなは逸少。 東晋の書家である。 また官僚でもあり、右軍将軍、会稽内史でもあった。
楷書と草書において古今に冠絶した存在で、その子 ・ 王  献之とともに 「 二王 」 とよばれる。
書に関しては、ある事情があって 「 真筆 」 とされるものは現存しない。

唐王朝の実質的な建朝者 ・ 二代皇帝 太宗 ( 李 世明、598-649 ・ 在位627-649 ) が貞観元年 ( 627 ) に即位し、また賢臣をもちいて、唐王朝とそのみやこ ・ 長安を空前の繁栄に導いた。 その治世を 「 貞観 ジョウガンの治 」 という。
太宗はみずからもすぐれた書芸家であった。 その作は、西安 碑林博物館正面入口 「 碑亭 」 に置かれている 隷書碑 『 石台孝教 』 ( 天寶4年 ・ 745、後述 ) にあきらかであるが、また王羲之の書を愛好し、その書200余を宮中にあつめた。
そして、書簡を中心に 王 羲之がのこした 『 蘭亭序 』 をはじめとする真筆の書は、その書を溺愛した唐の太宗 ・ 李世明が、すべてをみずからの陵墓 ・ 昭陵にともなったとされている。

写真上) 王 羲之と 『 蘭亭序 』 への愛着さめやらぬ太宗は、ついにみずからの柩に 『 蘭亭序 』 はもちろん、生涯をつうじて収集した王 羲之の書幅のすべてを副葬させるにいたった。
太宗の陵墓は 西安市郊外、九嵕山 キュウソウサンにある 「 昭陵  ショウリョウ」 である。

この陵墓は五代、後梁のとき(10世紀初頭)、盗賊あがりの武将 ・ 温韜 オントウが墓室をあばいたとする説もあるが、真偽のほどは定かでなく、いまだ未盗掘とされている。
昭陵は近年整備されて、巨大な石像もできた。 この巨大な皇帝陵のいずこかに 『 蘭亭序 』 をはじめとする王 羲之の真筆作品は、李 世明の遺骸のかたわらに置かれているとされる。

写真下)  昭陵 『 玄武門 』 跡地にて。
番犬のつもりでいるのか、一匹のちいさな犬がつきまとって離れなかった。 やつがれは、ただ [ 李 世明は、こんな山中に、なぜこれほどまでに巨大な陵墓をきづいたのか…… ] という感慨にとらわれていた。 また太宗 ・ 李 世明の墓碑はアメリカにあるともきいた。
初秋の山稜を吹き抜ける風は爽やかだった。 いずれ詳細紹介の機会を得たい。
2011年09月。

★参考:新・文字百景*004  顔 真卿生誕1300年+王羲之

また、三国のころ、魏国の曹操によって薄葬がすすめられ、立碑が禁じられていたので、東晋のこのころの王羲之には碑文も現存しない。ただし臨模による 『 蘭亭序 』 『 楽毅論 』 『 十七帖 』 などの模作がある。

伝 ・ 王  羲 之  肖像画

王 羲之と顔 真卿に関しては、いずれ詳細報告の機会を得たい。 今回は王羲之の旧居跡とされるまちの風景の紹介にとどめたい。
魯迅故里から紹興の大通り 「 中興中路 」 を車ですこし走ると、東晋の時代、王 羲之の別業 ( 別荘 ) であったとされる 「 戒珠寺 」 がある。
このあたりは風致地区として、ふるい中国のまちなみがのこされている。 またすぐ近くには、墨池、題扇橋などの、王 羲之ゆかりの場所ものこされている。

台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寶シンポウ 諸事大吉 文と寓意

台湾みやげ《開運臻寶 諸事大吉》
柿+ミカン+豚の組み合わせは、
なぜ 縁起がよいのか?

◎本稿は2012年10月18日 アダナ・プレス倶楽部ニュースに
    掲載されたものの再録である。いささか旧聞に属するが
  お正月をことほぎ、ここに一部を修整して再掲載した。
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台湾旅行にでかけて、おみやげに「諸事大吉」とあった縁起物を買ったものの、もうひとつその縁起がわからないから、わかりやすく説明せよ……との要望が参加者からあった。
そもそも中国・台湾では、まま  文+字 をもちいて、あるいは、ほかのものごとにかこつけて、それとなくある意味をほのめかせる「寓意」を駆使するから困るのだ。
そしてそれをくわしく説明すると「シッタカ」と揶揄される。ナラバと、おもいきり平易に説明すると「ウザイ」とされるから嫌になるのだが……。

これは一見ハロウィンのカボチャのようにもみえるが、柿+ミカン(だいだい、橘)+豚(猪)を組み合わせたもので、正確には「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」と呼ばれ、幸運をもたらす縁起物とされる。
すなわち「運勢がひらけ、宝物がどんどんやってくる。すべてのものごとが、このうえもなく良くなる」という、きわめておめでたいものである。 

「諸事大吉」の販促カタログをみると、ふんだんに商品解説が加えられている。その解説がおもしろい。原文の字面をながめるだけでも(むしろ原文のままのほうが)この縁起物の、寓意と諧謔 ユーモア がつたわりそうなのでここに紹介しよう。

◎ 創新的思維加上古老的吉祥語意再融合藝術大師的手藝便造就了令人驚奇不已的逗趣可愛吉祥外型。
◎ 橘子象徵吉祥,笑開懷的圓滾滾【諸事大吉】更象徵著凡事皆歡喜,諸事皆圓滿,大吉又大利,諸事皆順利。
◎ 逗趣可愛外型,象徵極好之諸事大吉。
◎ 笑顏常開諸事皆歡喜,諸事皆圓滿。


    
   

これだけでは不満そうなので、チョイと面倒でいつも嫌われるだが、もうすこしくわしく、写真の子豚ちゃんが寓意するところを解いてみた。
参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月)

 【 柿 】
漢字音(中国読み)では、柿(Shih4)と、事(Shih4)は同音同声である。
したがって、ふたつ並んだ柿は「柿 柿」となって、多くのものごと「事 事 ≒ 諸事・百事・万事」をあらわす。
また唐の段成式は『酉陽雑俎』のなかで、柿には以下のような ななつの徳があるとのべている。
   1.壽がある
   2.多陰→夏に葉が茂り日陰を提供する
   3.鳥が巣をかけない
   4.蟲が寄りつかない 
   5.秋の霜に負けない(翫) 
   6.嘉実≒縁起のよい果物
   7.落葉肥大→落ち葉が大量で、よい肥料となる
このように柿とはもともと、雅ミヤビであり、俗でもあるが、まことに賞賛すべき果物である。

また、「獅」(Shih1)と、「柿・事」(Shih4)とは同音異声である。
すなわち「柿 柿」は、ここに「百獣の王たる 獅 子」をも寓意する。
これすなわち「諸事如意 ≒ すべてが意のごとくになる」のである。

 【ミカン → 橘】
中国・台湾では、ミカン、だいだいのことを、ふつう 橘 とあらわす。
ところで、おおきな橘 = 大橘(Ta4 Chu2)と、大吉(Ta4 Chi2)は音が相似ている。
すなわち、おおきなミカン=大橘は、幸福をもたらす大吉に相通じ、きわめて吉祥をあらわす。

 【豚 ≒ 猪】
中国・台湾では、ふつう豚は猪とあらわされる。その猪がなぜ珍重されるのかは、中国的形而上学がふんだんに織り込まれていて興味深い。
すなわち中国高級官僚登用試験「科挙」の成績上位者 3 名を「解元・会元・状元」の 大三元 と呼び、唐代には玄奘三蔵(ゲンジョウ-サンゾウ 三蔵法師 600?, 602?-664)ゆかりの西安・大慈恩寺の雁塔ガントウにその名を刻し、ひろく天下に公表された。それを「雁塔題名、金榜題名」と呼び、きわめて名誉なこととされた。

ところで豚の「蹄 ヒヅメ」と、「雁塔題名、金榜題名」の「題」とは、中国音ではともに「Ti2」とされ、同音同声である。
こうして猪=豚は、秀才・天才をあらわすこととなり、名誉なこととされる。
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このようにして「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」、すなわち「柿+ミカン+豚の組み合わせ」は、「可愛吉祥型であり、諸事に大吉をもたらし、諸事皆円満」となるのである。

さて……、これでご納得いただけたであろうか。
あれっ、どこからか、こんな蘊蓄ウンチクを聞かされるより、この愛らしい置物をみてるだけで幸せになれる、という声がきこえたような?

《もうひとつ、おまけ ── ホテルのキーホルダーの寓意》
今回の台湾旅行でのホテルは、皆さんとプチ贅沢して「圓山エンザン大飯店 Grand Hotel Taipei」に宿泊した。見た目は巨大な中国式の宮殿のようだが、街中の近代的なホテルとくらべても、ほとんど料金は変わらない。
かつて「圓山大飯店」は迎賓館としてつかわれ、台北第一の格式を誇ったホテルだった。それだけに近代ホテルでは味わえない、漢民族の歴史と伝統の重みを感じさせる重厚さがある。
それでも「圓山大飯店」は郊外の山の中腹にあって、交通はすこしく不便である。したがってこのホテルが選ばれたのは、いまの台湾は喫煙にとてもうるさく、かろうじてベランダでの喫煙が許される(黙認)のが、ここが選ばれた最大の理由だった。

ホテルのルームキーは、古風で、重量もかなりあるシロモノだった。これでは外出時にもちあるくのは辛いので、フロントにキー・ドロップすることになり、紛失も少なくなる効果もありそうだ。
このルームキーの形態は、中国春秋戦国時代(前 770-前 221)のころの貨幣「布貨 フカ」を模したものである。「布貨」は農機具のスキやクワに似せ、次次と勃興した春秋戦国時代の各国で、それぞれ意匠をこらしてつくられた。

古来農業国であった中国では、農具はたいせつな財産であり、その農具を模した青銅の貨幣を「布貨」と呼んでいた。その由来はやはり貴重な商品であった「布帛  フハク 織物・絹」とどこでも交換されたので、その名がうまれたとされる。

こうした縁起をもった「布貨」を模したカギの表面には、このホテルの名称「圓山」を巧妙にデザインした意匠がみられる。
また「布貨」の裏面には、篆書風の字による「財」が配され、富貴をねがう国民性をすなおにあらわしている。
文+字 の国とするゆえんである。
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アダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ修了生有志の皆さんが、2012年10月6-8日、体育の日の連休を利用して、2泊3日の強行軍で台湾旅行に出かけた。
台湾での初日、活版製造所「日星鋳字行」での真摯なタイポグラフィ学徒の皆さんの紹介と、翌日からの休暇を、故宮博物院観覧と、まち歩きをめいっぱい楽しまれたときの詳細記録は、朗文堂の『タイポグラフィ・ブログロール  花筏』において順次紹介の予定である。こちらも合わせてご覧いただきたい。
★タイポグラフィブログロール 花筏 朗文堂好日録-019