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【Rebuilding】 朗文堂WebSite〝タイポグラフィつれづれ艸〟あまりにふるく気恥ずかしくはあるが若者に背をおされて再構築

kill-time-typography白頭を悲しむ翁に代わりて
唐  劉 希夷

   古人復た洛城の東に無く
   今人還た対す落花の風
   年年歳歳花相似たり
   歳歳年年人同じからず
   言を寄す全盛の紅顔の子
   応に憐れむべし 半死の白頭翁
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{新宿餘談}
当朗文堂の WebSite は、デジタル時代の時計では太古の時代の発足である。
したがってメーンページの左下片隅にちいさく案内がある〝タイポグラフィつれづれ艸〟などは、いつの間にか存在が希薄となっていた。
それでもずいぶん前から、何人もの社員や、外部の管理者がすこしずつ手を入れて細細ながら維持がなされてきた。
そんなコーナーにも若者には新鮮な発見があるという。
ならば公開をためらってきたコンテンツを序序に掲載して〝タイポグラフィつれづれ艸〟を再構築し、内容をゆっくり増補すべく、肩のこらない程度の改造に着手した次第。
朗文堂 WebSite の休息所として、ときおり訪問していただけたらうれしい。

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*01 考察のはじめに

《 活字における尺貫法と ヤード ・ ポンド法、 基本尺度の相違 ―― どこかで見た風景 》
本項の初出は、そのまま掲載してあるが、<花筏 平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編 一、二 にみる活字見本(価格付き) 2013年12月05日>であった。

平野富二伝 考察と補遺初出では 『 平野富二伝 考察と補遺 』 ( 古谷昌二、朗文堂、2013年11月22日 ) での指摘をうけ、文例を <天下泰平國家安全> とした 口上 ( 活字ボディサイズ、価格付き ) が、たれの発案と要請によってなされたのかをさぐった。
その結果は古谷氏の指摘どおり、すでに1872年 ( 明治04年 ) 07月に、
ふたまわりほど年下の平野富二 ( 当時26歳 ) に、「 新塾活字製造所 」 の事業の一切を委任していた本木昌造 ( 当時48歳 ) の発案ではなく、後継者として活字をひろく公開し、販売しようとした、平野富二の発意によるものであることを検証した。

20150423111842098_0001ここに本稿を再登場させたゆえんは、金属活字のアメリカン ・ ポイントシステムだけでなく、現在のコンピューター上の DTP ポイント とされるデジタルタイプのサイズと、『 新塾餘談 初編一 』 巻末口上 ( 活字ボディサイズ見本ならびに価格表  壬申二月 〔 明治05年02月、1872 〕 刊、印刷博物館蔵 )にみる <天下泰平國家安全> とは、一部の活字のボディサイズがきわめて酷似しているためである。
20150421193950685_0003『 エディトリアルデザイン事始 』 ( 松本八郎、朗文堂、1989年09月08日) p.40 挿図

すなわち金属活字号数制のうち、五号活字を中心として、その倍数関係にある 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、なにゆえ、この 「 口上 」 の発表から14年ほどのちの1886年 ( 明治19 ) に、アメリカン ・ ポイントシステムとして制定された活字と、ボディサイズが極似し、それは現在のデジタルタイプのシステムとも極似しているのかを実証的に検証するためである。
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《 金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムと、コンピュータ上の DTP ポイントシステムの相違 》
タイポグラフィにおける現今の話題は、コンピューター一色であり、おおかたは、そこにおける DTP ソフトウェアなどへの対応と、デジタル書籍への対処が中心のようである。
デジタル書籍への対処はひとまず措いて、金属活字組版が写真植字法をへて、コンピューター上のデジタルタイプになって、なにが変わったのかをみると、相変わらずヤード・ポンド法の長さの単位、インチ ( Inch ) と パイカ ( Pica ) と ポイントサイズ ( Pointsize ) を基本としており、大きくはなにも変わっていないことがわかる。

20150424155225361_0001すなわち基本尺度の 1 pt ≒  1/72 in ( 0.3514 mm ) から、 およそ( ≒ )が、正確な( = ) になっており、あいまいさが回避された功績はおおきいが、金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムの概念を DTP システムも継承し、組版寸法と計測単位だけをみると、相変わらずインチ、パイカ、ポイントとしており、大差のないものとなっている。
◯ アメリカン ・ ポイント制  1 pt  ≒   1/72 in  ( 0.3514 mm )
◯ DTP ポイント制          1 pt  =   1/72 in  ( 0.352777……. mm ) 20150423164159195_0002<本木家文書>より 本木昌造自筆稿本。 俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 第一葉。
この稿本は関東大震災で焼失されたとされていたものである。 実際には、長崎県立図書館 → 長崎市立博物館 → 長崎歴史博物館と所蔵先が変わったが、<本木家文書>のひとつとして現存している。
『 ヴィネット 04   活字をつくる 』 ( 片塩二朗/河野三男、朗文堂、2002年06月06日)  p.102に、巻首部の原寸紹介と、全ページにわたる縮小紹介、ならびに平易な読みくだしがある。

わが国では近代活字版印刷の創始のころから、 <号数制金属活字とは本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > とされ、号数制活字が親しまれてきた。
わずかに大正期から、大手印刷所、新聞社などではポイント制活字の採用がみられたが、わが国の基本尺度が、前半期は尺貫法のもとにあり、後半期はメートル法のもとにあったために、寸法基準があいまいなままに普及した。
したがって明治最初期から、ヤード ・ ポンド法にもとづくポイント制金属活字への習熟がすくないままに、メートル法を基本尺度とした写真植字法が普及したという側面は看過できない。

「 あいまいなままに 」 としたのは、版面寸法を表す基本単位として 「パイカ pica 」 、すなわち12 pt の大きさに相当する基本尺度をもちいていた、わずかな欧文印刷専門業者をのぞくと、おおかたの印刷 ・ 活字界では、号数制活字のころから 一本一本の活字そのものの寸法ないしは活字ボディサイズは、すでに自明の理として、寸法を問うことにとぼしく、「 四号 ◯◯倍 」、「 五号 ◯◯倍 」 のように、使用活字の倍数を基本尺度としてきた歴史があった。

そのために号数制活字の 「 活字倍数尺 」( 多くは金属製 ) などがのこされているが、そこに基本尺度を明示した資料は、すくなくとも号数制活字では管見に入らないのである。
その反面、(  アメリカン ) ポイント制のスケールは、メーカー製のものばかりでなく、ポイントシステムとパイカルールをわかりやすく説き、顧客に配布した、小宮山印刷、萩原印刷、笹木出版印刷などによる自社製のスケール ( 多くはフィルム製 ) はいまでもたくさんのこっている。

わが国における <号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > とする 本木昌造活字版印刷術創始のことは、140年余にわたってかたられつづけてきた。
そしてオリジナル資料の本木昌造自筆稿本、俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 が焼失したと訛伝されたまま、「故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 から、さらにその一部だけの引用、引抄、ときには潤色までがかさねられてきた。

すなわち幾度も、幾重にもわたって、上書きにつぐ上書きが重ねられてきて、いまや 「 神話 」 と化したものが、<わが国における号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > とする説である。
この強固な壁に立ちむかうのには相応の慎重さと覚悟が必要なようである。

もとより筆者は、精緻な検証作業には向いていないことを十分に自覚している。 できたらほかのかたにお任せしたいテーマであるし、多くのかたにこのテーマの解明に向けて参画していただきたいとおもっている。
なにぶん140年余にわたって語られつづけてきたテーマである。 こころからご支援をお願いしたいと念願する次第である。

こんにち組版システムの主流の座を獲得したコンピューター上のデジタルタイプも、 DTP ポイントシステムが一般的である。
これはヤード ・ ポンド法の長さの単位であり、本来メートル法に換算するものではない。 したがって 1 pt = 1/72 in ( 0.352777……. mm ) とされる。
この DTP  ポイントシステムは、1981年にゼロックス社が発売した世界初のビットマップ ディスプレイを実装した製品である Xerox Star ( ゼロックス ・ スター ) で採用され、以後 DTP アプリケーションなどにおいても標準となったものである。

その変更に際して、わが国では20世紀後半のメートル法にもとづく写真植字法、「 Q 数体系 」 をもちいていた造形者は混乱をみせ、その混乱はいまだに収束していないようである。
昭和うまれの造形者の多くは、メートル法のもとで育ち、メートル法によった写真植字に馴れていた。

1 Q  =  1 歯  = 0.25 mm

そこではタイプの大きさとして 「 Q 数 」( Quarter 四分の一 の略。 1 Q = 0.25mm 角 ) を、タイプや版面の寸法として、これまたメートル法にももとづく 「 歯数 」 ( 写真植字機のラチェット ・ インディケーターの歯車のひと刻みから。 1 歯= 0.25 mm ) をもちいていた。

つまり写真植字法のユーザーは、インチやパイカのスケールを持たないままに ( メートル法を採用しているわが国では、インチスケールの製造 ・ 輸入 ・ 販売が、おおやけには規制されていると仄聞するが…… )、相変わらず 30 cm の定規を手にして、その利便性によって急速に普及した、ヤード ・ ポンド法の長さの単位、インチ ( Inch ) と ポイントサイズ ( Pointsize ) と パイカルール ( pica ) を基本とするほとんどのコンピューターと、 DTP アプリケーションと対峙することを強いられることになった。
もとより多くのアプリケーションはメートル法に対応しているとはいえ、基本的には ヤード ・ ポンド法を、無理矢理メートル法に換算して、ないしは置換させて、アプリケーションを操作していると指摘することも可能であろう。

この奇妙な状況を風景としてとらえると、幕末から明治最初期の金属活字のおかれた風景に似ていることに気づく。
つまりその開発者のひとり、本木昌造は、尺貫法のもとにうまれ、鯨尺や曲尺しかもたないまま、欧米諸国からもたらされた、この時代の最先端技術であった金属活字製造と、活字版印刷術の開発に対峙したはずである。
それをもたらした欧米諸国には、鯨尺も曲尺も存在しなかったことは自明の理である。また、本木昌造らがその最初期にもちいた活字鋳造器機は、当時の工業技術の水準からみても、諸外国からの輸入品とみられ、当然ながら活字鋳型や活字ボディサイズは、鯨尺や曲尺に準拠したものではないこともまた自明の理であろう。

わが国の最初期の近代活字開発者はほとんど文書記録をのこさなかった。
そのなかでひとり、本木昌造だけが、教育施設としての 「 新街私塾 」 をひきい、その門人への教育資料の一環として、俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 をのこし、その一部が 『 崎陽 新塾餘談 初編一、二 』 ( 壬申二月  明治05年02月) にも掲載されたものであろう。
したがって俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 が尺貫法でとかれ、今日的な視点で齟齬がみられるとしても、それを責めることはできないであろう。

むしろ本木昌造とその一門がのこしたその活字と組版をしっかりと検証 ・ 計測し、本来の数値に置きかえることなく、 <わが国の号数制金属活字とは本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > として、
ただその一部だけを、引抄につぐ引抄をつづけた、後続の印刷 ・ 活字ひとこそその責務を問われてしかるべきかもしれない。
その最末尾に筆者もわずかに存在している。

スケール写真上) 中国北京で購入した cm,  INCH 併用の金属製スケール。上部がメートル法で、下部が INCH スケール。 1 feet は 12 inch,  30.48 cm。   1 inch は 1/12 feet 。 新宿の画材店では見かけないが、おおくの百円均一ショップでは同種のものを販売しているという。
写真下) 1980年代の末に米国の画材店で購入した INCH スケール。 デザイン用に特化したもので、最下部に DTP Point スケールがある。
かつてある画材店の国際部が輸入をはかったが、所轄官庁から輸入 ・ 販売の許可がおりなかったとされた。 そのため数セットを米国で購入して、周辺のタイポグラフィに厳格なデザイナーに配布したこともあった。

このある意味では混乱期ともいうべき時代に、奇妙な逆転現象がおこった。
すなわちパーソナルコンピューターの能力と精度が向上し、1 pt  = 1/72 in (逆にいえば、1 in = 72 pt ) と正確に表示 ・ 再現できるようになったいま、わが国の号数制活字のうち、中核を占める五号活字を中心とした 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 は、「 ほぼ ・ およそ 」 こそいまだにつくものの、いくら検証をくりかえしても、そっくりそのまま DTP ポイントに移行できたのである。

換言すると 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、それと知らぬまま、のちにアメリカン ・ ポイントとして採用 ・ 制定されたサイズとおなじ大きさの活字を、鋳造し、使用していたことになる。 
これは故松本八郎ともよく議論をしたことだが、そもそも活字のボディサイズを  72 のグリッドで分割する考えかたはふるくからあり、フランスの ピエール ・ シモン ・ フールニエ、ファルミン ・ アンブロア ・ ディドなどの名が知られる。
この 1 pt  = 1/72 in (逆にいえば、1 in = 72 pt )という考えのなかには、おもわぬ精緻な合理性がひめられている。

72 = 23 × 32

上掲の式によって、72 という数は、多くの数値 ( 素因数 ) に分解できる。 すなわち、二、三、四、六、八、九、一二、一八、二四、三六などの数でいずれも割り切れるのである。
またこの数値を活字組版にもちいれば、大きさのことなった文字活字を組みあわせても、組版の揃った、整然とした文字組版を獲得できるわけである。

これから <号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である >  という 「 神話 」 の解明にむけて考察を開始したい。
まずは、故松本八郎が問題提起した、

◯ <なぜ、 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか> の紹介をつうじて、
◯ <なぜ、明治最初期からスタートしたわが国の号数制活字のうち、 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、のちの1886年(明治19)に制定された、アメリカン ・ ポイントシステムとボディサイズが極似ないしは合致しているのか>
◯ <なぜ、わが国の号数制活字は三つのグループに大別され、そのグループ間に共用性がとぼしいのか>
◯ <なぜ、長崎由来とことなる号数制活字を採用していた、神崎正誼マサヨシの弘道軒の活字ボディサイズは、いまだに曲尺準拠説のもとにあるのか>
◯ <なぜ、長崎製鉄所新聞局の活字製造部門を吸収して、1971年(明治04)発足した勧工寮活字局の活字ボディサイズは問われぬまま放置されているのか>

これらの諸問題の解明を 蟷螂の斧を振りかざしてはかりたい。  江湖のご支援を期待するゆえんである。

《 本格考察にはいる前の予備知識として、予習ないしはおさらいをかねてお読みいただきたい 》

基本 CMYK20150423111842098_0001『 新塾餘談 初編一 』 巻末口上 ( 活字ボディサイズ見本ならびに価格表 )
壬申二月 ( 明治05年02月 ) 刊、印刷博物館蔵

9784947613547
上掲図版は 『 本木昌造伝 』 ( 島谷政一 2001年08月20日 ) より。 同書p.134-5 ページには組版原寸で紹介されている。
このうち 初号活字、二号活字、五号活字は、アメリカンポイント制活字と極似し、それぞれ 42 pt,  21 pt,  10.5 pt の値となる。

その追試検証にさいしては以下の数値をもちいれば、容易に検証作業がパソコンでもできる。 作業にさいしてはできたらメートル法に置換することなく、Inch 方式を採用し、字間に 適度のトラッキング ( 見本が二分、四分アキ、字割りなどのため ) をもうけて欲しい。
◯ アメリカンポイント制  1 pt ≒  1/72 in = 0.3514 mm
◯ DTP ポイント制     1 pt = 1/72 in = 0.352777 …….. mm
長崎港のいま
長崎港のいま。本木昌造、平野富二関連資料にしばしば登場する 「 崎陽 キヨウ」 とは、長崎の美称ないしは中国風の雅称である。 ふるい市街地は写真右手奥にひろがる。

新塾餘談 初編一新塾餘談 初編一 口上 新塾餘談 初編一 活字見本 新塾餘談 初編一 売弘所 新塾餘談 初編二 新塾餘談 初編二 口上 新塾餘談 初編二 活字見本 新塾餘談 初編二 売弘所『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』  ともに壬申二月 ( 明治05年02月) 牧治三郎旧蔵

◯ 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
同書は、「 緒言-明治壬申二月 本木笑三ママ 」、「 燈火の強弱を試る法 図版01点 」、「 燈油を精製する法 」、「 雷除の法  図版02点 」、「 假漆油を製する法 」、「 亜鉛を鍍する法 」、「 琥珀を以て假漆油を製する法 」、「 口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」が収録されている。
また図版として計03点が銅メッキ法による 「 電気版 」 としてもちいられている。

『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は第 1 丁-10丁までが丁記 ( ページナンバー ) を付せられてあるが、11丁からは急遽追加したためか、あるいは売り広め ( 広告 ) という意識があったのかはわからないが、丁記が無く、そこに 「 口上 」 がしるされている。
製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 の名がある。

◯ 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
同書は、筆者手許資料は第01- 9 丁までを欠く。 10-20丁からの記述内容は、もっぱら電気鍍金法メッキの解説書である。  「口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」 は 21丁にあるが、ここからは丁記は無い。

「 口上 」 の記載内容は 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 と同一で、発行もおなじ壬申二月 ( 明治05年02月 ) であるが、製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 のふたつの名が追加されている。
銅メッキ法による 「 電気版 」 は19丁に、電解槽とおぼしき図版が印刷されている。

また最終丁には、長丸印判によって 「 定價永三十六文 」 と捺印されている。
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新町活版所跡碑部分上掲図版は、長崎の新街私塾 ( 新町活版所 ) から刊行された 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( ともに壬申二月  明治05年02月 平野富二このとき27歳 ) の巻末に掲載された 「 崎陽 新塾活字製造所 」 の「口上」のある活字見本 ( 価格付き ) である。
この図版は、これまではしばしば本木昌造の企画として紹介され、文例から 「 天下泰平國家安全 」 の、本木昌造による活字見本として知られてきたものである ( 筆者もそのように紹介してきた。 ここに不明をお詫び申しあげたい )。

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。平野富二 ( 富次郎 ) が、市場調査と、携行した若干の活字販売のために大阪経由で上京した1871年 ( 明治04 ) 秋、26歳のときの撮影と推定される。 知られる限りもっともふるい平野富二像。
旅姿で、月代 サカヤキ をそらない丁髷に、大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。 撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は 「 A. Morikawa TOKYO 」 である。

廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されたが、早早に士籍を捨て、平然と 「 平民 」 と名乗っていた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である。
平野富二の眉はふとくて長い。 目元はすずやかに切れ長で、明眸でもある。 唇はあつく、きりりと引き締まっている ( オリジナル写真は平野ホール蔵 )。

本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治04)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二 ( 富次郎 ) に、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 への入所を再再懇請して、ついに同年07月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年 ( 明治04) 07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「 新街私塾 」 一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。
そのことは、『 大阪印刷界 第32号  本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 )、 『 本木昌造伝 』( 島屋政一 朗文堂 2001年 ) などの諸記録にみるところである。

長崎活版製造会社之印長崎港新町活版所印新街私塾

『 本木昌造伝 』 ( 島屋政一 朗文堂 2001年08月20日 ) 口絵より。 元出典資料は 『 大阪印刷界 第32号 本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 ) であり、『 本木昌造伝 』 刊行時に画像修整を加えてある。 上から 「 長崎活版製造会社之印 」、「 長崎港新町活版所印 」、「 新街私塾 」 の印章である。
長崎の産学共同教育施設は、会社登記法などの諸法令が未整備の時代のものが多く、「 新街私塾 」 「 新町私塾 」 「 長崎新塾 」 としたり、その活字製造所、印刷所なども様様な名前で呼ばれ、みずからも名乗っていたことが、明治後期までのこされたこれらの印章からもわかる。

苦難にあえでいた 「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治04)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが 「 活字見本 ( 価格付き )」 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( 壬申二月  明治05年02月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで 『 平野富二伝 』 で古谷昌二氏よりなされた。

長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による 「 活字を一手に占有 」 することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。

1871年 ( 明治04 ) 07月10日ころ、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 へ入所し、事業の一切を継承したた平野は、早速市場調査と、活字の販売をかねて09-10月に上京した。 この旅から平野が長崎にもどったのは11月01日 ( 旧暦 ) とみられている。
そのとき、長崎ではまだのんびりと 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 の活字組版が進行していたとおもわれる。  また 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 の緒言に、本木は 「 本木笑三 」 という戯号をもちいて、なんらの緊張感もない序文をしるしていた。

長崎にもどった平野は、本木とその協力者 ( 既存の出資者 ) に 「 活字見本 ( 価格表付き )」、すなわち活字販売用のカタログを緊急に製作する必要性を説き、その承諾をえて、『 崎陽新塾餘談 初編一 』  『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 (壬申 二月  明治05年02月)の両冊子の巻末に、急遽 「 販売を目的とする価格付きの活字見本 」 を印刷させ、まずは活字を、ついで活版印刷機器を、ひろく需用者に販売することにしたものとみられる。
長崎港のいま 新町活版所跡の碑 活版伝習所跡碑 本木昌造塋域 大光寺 本木昌造銅像 長崎諏訪公園このような活字を製造し、販売するという平野富二の最初の行動が、この活字見本 ( 価格付き ) であったことの指摘が、『 平野富二伝 』 ( 古谷昌二編著 朗文堂 p.136-7 ) でなされた。  これはタイポグラファとしてはまことに刮目すべき指摘といえよう。

掲載誌が、新街私塾の 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』、『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 であり、販売所として、初編一では長崎 ( 崎陽 ) の 「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 であり、初編二には前記二社のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 の名が追加されている。
これらの販売所はすべて本木昌造とその一門が関係していた企業であり、当然その効果は限定的だったとみられるが、これが平野のその後の事業展開の最大のモデルとなったとみられ、貴重な資料であることの再評価がもとめられるにいたった。

補遺4 活字の販売 
明治5年(1892)2月に新街私塾から刊行された小冊子 『 新塾餘談 初編一 』 の巻末に、
「  口上
此節雛形の通活字成就いたし片仮名平仮名とも大小數種有之候間  御望の御方へハ相拂可申右の外字體大小等御好の通製造出申候
   壬申 二月          崎陽 新塾活字製造所 」
という記事があり、続いて、初号から五号までの明朝体と楷書体活字を用いた印刷見本と、その代価が掲載されている。

この広告文は、活字を一手占有するという本木昌造の従来の方針を改め、世間一般に販売することにした平野富次郎による経営改革活動の一環と見ることができる。 東京で活字販売の成功と事業化の見通しを得たことが、本木昌造と協力者の方針を変更させ、このような活字販売の広告を出すに至ったものと見られる。              ( 『 平野富二伝 』 古谷昌二 p.136-7 )

壬申、1872年(明治05)、平野富二はたかだかと口上をのべた。このとき平野数えて27歳。
「 口上  ――  [ 意訳 ] このたび見本のとおり活字ができました。 カタ仮名活字、ひら仮名活字も、活字サイズも大小数種類あります。 ご希望のお客さまには販売いたします。 そのほかにも外字やサイズなど、お好みに合わせて製造いたします。
明治五年二月  崎陽 新塾活字製造所 」
以上をのべて、本格的な活字製造販売事業を開始し、あいついで活版印刷関連機器の製造販売事業をはじめた。

この 「 口上 」 という一種のご挨拶は、本木の高踏的な姿勢からは発せられるとは考えにくく、おそらく平野によってしるされた 「 口上 」 であろう。
同時に平野は、東京への進出に備えて、あらかじめ1872年(明治05)8月14日付け 『 横浜毎日新聞 』 に、陽其二 ヨウ-ソノジ、ミナミ-ソノジ らによる、長崎系同根企業の 「 横浜活版社 」 を通じて、同種の広告を出していた。

同年10月、平野は既述した 「 平野富二首證文 」 を担保として、上京のための資金 「 正金壱千円 」 余を調達した。 その調達先には、長崎六海商社と、元薩摩藩士で関西経済界の雄とされる五代友厚の名前があがっているが後述したい。
そして、退路を断った東京進出への決意を胸に秘めて、新妻 ・ 古ま ほか社員08名 ( のち02名が合流 ) をともなって上京した。

上京後の平野は、ただちに同年10月発行の 『 新聞雑誌 』 ( 第66號 本体は木版印刷 ) に、同種の 「 天下泰平國家安全 」 の活字目録を、活字版印刷による附録とし、活字の販売拡大に努めている。
このときの 『 新聞雑誌 』 の発行部数は不明だが、購読者たる明治の教養ひとにとっては、木版印刷の本紙の付録として添付された、活字版による印刷広告の鮮明な影印は、新鮮な驚きがあったであろうし、まさしく文明開化が具現化したおもいがしたのではなかろうか。

この 「 壬申 二月 」、1872年(明治05)02月とは、わが国の活字と活版印刷術が、平野富二の手によって、はじめて、おおらかに、あかるく、ひろく公開され、製造販売が開始された記念すべき年であったことが、本資料の再評価からあきらかになった。
これからは時間軸を整理し、視点を変えて、再検討と再評価をすべき貴重な資料といえる。

【字学】 1925年のタイポグラフィ動画・貴重な産業史の記録/Oxford University Press and the Making of a Book

Oxford University Press and the Making of a Book

 

この無声動画は、英国産業同盟 ( Federation of British Industry  略称 : FBI ) によって、19世紀初頭の工業化社会を例示するシリーズのひとつとして1925年 ( 大正14 ) に製作された(17:51)。
本篇はおもに、オックスフォード大学出版部の印刷工房、クラレンドン ・ プレスにおける、タイポグラフィ  ≒ 図書製造、すなわち、活字鋳造、印刷、製本のすべての工程を記録したもので、だいぶ以前からオックスフォード大学出版部アーカイブによって YouTube に公開されていたものであるが、いつまでも閲覧数が500件をこえることなく、貴重な資料がおおかたには知られないままでいた。

ちょうど90年ほど前の英国タイポグラフィの姿である。 すでに活字製造はページもの組版などでは自動活字鋳植機の時代にはいっていたが、すでに失われた技術としてわかりにくくなっていたのか、冒頭部でパンチ ( 活字父型 ) と マトリクス  ( 活字母型、複数 Matrices )を紹介し、ふるくからの活字鋳造法-活字ハンドモールドの操作の実際を詳細に紹介している。

わが国の近代活字鋳造もこの方法によってスタートした。 また活字ハンドモールドをはげしく上下動するさまからは、活字鋳造のことを、なにゆえ < Typecasting > としたのかもわかるようになる。
ちなみに 「 Casting 」 の原義は「(ほうり) 投げること」 であり、投げ釣りをも Casting とする。
また研究社 『 新英和大辞典 』 によれば、印刷用語として 「 Typecasting 活字鋳造 」 の初出をみるのは19世紀中葉、1864年のこととする。  まさに活字ハンドモールドの全盛期であった。
画面では < ある鋳造工は活字ハンドモールドで、一時間に500-600本の活字を鋳造した > としている。

また紙型鉛版 ( mat matrix,  stereotype ) 製造の実際がみられ、製本に挑戦されておられるかたには、ギルディング手法、三方化粧断裁など、機械化されすぎてわかりにくくなったさまざまな貴重な記録をふくむ。
この90年前の動画をみると、この間に、印刷と出版、タイポグラフィがあらたに獲得したもののわずかさと、失ったもののおおきさをおもわずにはいられない。

http://www.oup.com/uk/archives/
オックスフォード大学出版部アーカイブ動画集 : Oxford Academic (Oxford University Press) 】

──────────  < 花 筏 > 既出関連情報

DSCN2713DSCN2806 DSCN2805北京印刷学院と併設の印刷博物館。 下部は紙型 ( ステレオタイプ ) 型どり製造装置
【 関連資料 : 宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-04 再度中国印刷博物館資料に立ちもどる


<長瀬欄罫製作所 日本語モノタイプ & インテル鋳造機の稼動の記録>
小池製作所製造/ KMT自動活字鋳植機、金属インテル鋳造機などの記録。現在ではなかなか見ることがで­きない。長瀬欄罫製作所は2011年12月30日をもって廃業した。
【関連URL :http://www.robundo.com/robundo/column…