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相響するふたつの美術館 【碌山美術館/新宿中村屋サロン美術館】, 荻原碌山と相馬黒光 ― その相剋と懊悩

愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山


平成27年度 夏季・秋季特別企画展
荻原碌山 制作の背景-文覚・デスペア・女

会  期 : 2015年08月01日[土]-11月08日[日] 会期中無休
会  場 : 碌山美術館 第二展示棟    399-8303  長野県安曇野市穂高5095-1

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荻原守衛   《 女 》
作者名 : 荻原守衛 制作年 : 1978年
鋳造サイズ : 98.0×70.0×80.0 cm  技法/素材 : ブロンズ

この彫刻作品は、荻原守衛(碌山)の絶作です。
膝立ちのポーズで、両手を後ろに組んでいながらも前へ上へと伸び上がろうとする胴体。
立ち上がろうとしながらも膝から下は地面についたまま立ち上がれない。
つま先から額までが螺旋構造となり、不安定なポーズでありながら全体の動きの中で統一された美しさを放っています。
また内側から迫ってくる緊張感と力強いエネルギーが観るものを圧倒します。

荻原は、1910年(明治43)に 《 女 》 の石膏像を完成させて亡くなりました。 同年、山本安曇によって鋳造され、その半年後の第 4 回文展に出品されています。その作品は現在、東京国立近代美術館に所蔵されています(重要文化財)が、本作品は、のちに制作された石膏複製より鋳造されたものと考えられています。
[ 上掲写真は新宿中村屋サロン美術館 所蔵/引用許可取得済み]
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荻原守衛(おぎわら もりえ 号 : 碌山 ロクザン 1879-1910年)が残した傑作 《女》(1910年)は、相馬黒光への思いが制作の動機となっています。この作品をより深く理解する上で不可欠なのが 《文覚》(1908年)、《デスペア》(1909年)の二つの作品です。

鎌倉の成就院に自刻像として伝わる木像に、文覚モンガク上人(平安末期-鎌倉時代の真言宗の僧。1139-1203)の苦悩を見て取って制作した《文覚》、女性の悲しみに打ちひしがれる姿に文字通り絶望(despair)を表わした《デスペア》には、当時の荻原の胸中が重ねられています。
最後の作品となった《女》には、それらを昇華した高い精神性が感じられます。それはまた人間の尊厳の表象にもつながるものなのです。

個人的な思いを元にして作られた作品が、普遍的な価値あるものとなっていることは、百年前の作品が現代の我々の心に響いていることからも容易にうなずくことができます。
作品に普遍的価値をもたらした荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの当時における新しさとを、多くの方々に感じ取っていただこうと本企画展を開催いたします。

20150724142207024_000120150724142207024_0002  [上掲フライヤー PDF  rokuzan-bijyutukan 4.5MB ]

[ 季節違いで恐縮だが、以下の碌山美術館の写真は、昨晩秋の2014年11月21日撮影 ]
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DSCN9437DSCN9439DSCN9446DSCN9442DSCN9466 [ 参考資料 : 『 碌山 愛と美に生きる 』 碌山美術館 平成19年 第三版 ]
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《 新宿餘談-荻原守衛 碌山 、女 をんな  ………… 》

愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山

菓子匠:新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵 ・ 相馬 良 リョウ(通称:黒光コッコウ)夫妻は、1901年(明治34)本郷でパン屋 「 中村屋 」 を創業した。 そして1909年(明治42)には、新宿の現在地に本店を移転した。
相馬夫妻は芸術に深い造詣を有していたことから、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになり、 それが「中村屋サロン」のはじまりとなって、現在は「 中村屋サロン美術館 」として公開されている。

中村屋サロンの中心人物は荻原守衛 (おぎわら-もりえ 以下 碌山 ろくざん 1879-1910 行年30 )であった。
碌山は、相馬愛蔵と同郷の 長野県 南安曇郡 東穂高村 ( 現 : 安曇野市穂高町 ) の出身で、18歳のとき、相馬 良 ( 以下 黒光 コッコウ ) が嫁入りの際に持参した、長尾杢太郎 の《亀戸風景》 の油絵ではじめて油絵を知り、画家を志したという。

最初はアメリカに、まもなくフランスにわたり、極貧にあえぎながらの海外研修は07年余におよび、画家志望から彫刻家に転向した碌山が帰国したのは1908年(明治41)のことであった。帰国後は中村屋のほどちかく、新宿角筈ツノハズにアトリエを設け、中村屋に足しげく通った。
碌山は帰国からわずか02年余ののち、結核のために1910年(明治43)、30歳の若さで歿した。その最後の作品が「女 をんな」であった。
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愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山

はじめて彫刻作品「女 をんな」をみたとき、おもわず全身に鳥肌がたった。そして、碌山が黒光と出逢ってからの18年ほど、狂おしいまでの懊悩にみちた歳月をおもった。
東北・仙台のひと、黒光が、山里ふかい安曇野で碌山のまえにあらわれたとき、黒光はすでに相馬愛蔵の妻であり、手の届かないところにいた。

こいしいこととは、かなしいことである ―― それからの18年余の碌山の人生とは、ただただ相剋と煩悶と懊悩の日日でしかなかった。

帰国した碌山は、すでに労咳におかされていた。当時の労咳は死の病であった。
そのやせ衰えた碌山のまえに、黒光は輝くばかりの裸身を挺した。碌山はせわしなくおもいびとの裸体のスケッチをかさね、石膏像を刻みだした。
そして銅像としての完成をみないまま、中村家の襖を緋アケにそめて喀血し、そのまま息をひきとった。

散るとみれば また咲く花の にほひにも 後れ先立つ ためしありけり
―― 西 行

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《 新宿餘談-碌山美術館門前の蕎麦は絶品だった 》

昨年の晩秋に所用があって長野県白馬村にでかけた。そのかえりに碌山美術館をおとづれた。北アルプスの高嶺にはすでに冠雪がみられ、木木もすっかり落葉して、館の庭にはカリンが拾うひともないままに実をたくさんつけていた。
碌山美術館のギャラリーショップ「グズベリーハウス」では、すでに薪ストーブが赤くもえ、そのぬくもりがうれしかった。

「かた 型」のあるものが好きである。「カタ TYPE」とは「定まったカタチ TYPE」を有するものである。だからタイポグラフィ Typography にこだわりがあるし、彫刻にもかなりのこだわりをもっている。
ほんとうはここで荻原碌山と相馬黒光のことを書きたかった。労咳に仆れた碌山がのこした「女 をんな」像は、銅像ではなく、その原型「かた Type」でもあった。
ところが、非才にしてそれに迫ることはならなかった。そこでありきたりの蕎麦談義と、つまらんお国自慢になってしまった。
読者諸賢のご海容を願う次第である。
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信州信濃、田舎うまれやつがれは、蕎麦にはこだわりがある。
なにもない、蕎麦だけの「盛り蕎麦」がこのみである。せっかくの香りをとばしてしまう、絆創膏を貼りつけたような海苔や、いかに地元の特産とはいえ、とってつけたようなワサビもいらない。
信州蕎麦には、古来、信州善光寺大門町/八幡屋磯五郎の「七味唐がらし」ときめている(勝手に)。ちなみに「七味」が「ヒチミ」になって発音がつらい東京者(亡妻がそうだった。日比谷はシビヤ)は「七色唐辛子 ナナイロ トンガラシ」である。つまり、ただ蕎麦だけがあればよい。

碌山美術館の正門の前にちいさな蕎麦屋があった。蕎麦処信州でも、いまやなかなか旨い蕎麦にありつくことが少なくなった。はじめて入った店でもあるし、さして期待もせずに、
「大盛りの、盛り蕎麦一枚」
と注文した。そこで一瞬の間があって、店員いわく、
「あの~、ウチの盛りはいくぶん多めなのですが、よろしいですか」
「ああ、結構ですよ。大盛りの蕎麦をください」
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出てきた「大盛り蕎麦」のボリュームにのけぞった。東京ならふつうの「盛り蕎麦」五枚分はたっぷりありそうなたいそうな量の蕎麦だった。
最下部写真の手前が、家人が注文したふつうの「盛り蕎麦」。これだけで東京の「大盛り蕎麦」より分量はありそうだった。その倍量がこの店の「大盛り蕎麦」だった。

食べはじめたら、これが絶品。これぞ、まさしく蕎麦という、腰と香味のある旨い蕎麦だった。
おもへらく、かまで旨い蕎麦を食したのは、子供のころにオヤジの実家で、あるいは戸隠山の山中で、あるいは長野善光寺のちかく、地元客しかいかない蕎麦屋くらいであろうか。
これらの蕎麦で共通していたのは、いずれも水道水をもちいないことのようだった。そもそもオヤジの実家以外の蕎麦屋の蕎麦粉は、いまや蕎麦畑をみることもほとんどなくなった信州でも、おそらくは輸入品であろうし、東京でも信州でもおなじものであるとおもわれた。

その食感がはなはだしくことなるのは、蕎麦は、蕎麦うちからはじまって、茹で、水洗いと、大量の水をもちいる。そして付け汁の煮出しにも水がもちいられている。しろうとかんがえだが、この水が水道水だと、どうしてもカルキ臭くなって蕎麦の食味にも影響がありそうである。
たしか碌山美術館正門前、駐車場脇の蕎麦屋は「寿々喜/すゞき」といったとおもう。このあたりは、北アルプスの湧水が随所にわく。安曇野の銘水はひろく知られるところである。碌山美術館参観の折にはおすすめしたい。
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ところで、新宿朗文堂のちかくにも、なかなか旨い蕎麦屋がある。屋台のような、素朴でちいさな店だが、寡黙なオヤジと、その娘らしきふたりのおばさんが店を切り盛りしている。
なぜここの蕎麦が旨いのかと、画材の世界堂にいった帰りに店の裏をのぞいてみた。そこにはちいさな店には不似合いの、おおきな浄水器が鎮座していた。

この店は冷暖房もほどんどない、吹きさらしにちかい店なので、客の大半は蕎麦と酒好きの中年オヤジとみた。オヤジに連れられて若者も来店するが、かれらは軽薄に掲示板型の「食べ◯◯」などに情報をながさない。そんなことをしたら、多忙のあまりオヤジは過労死し、おばさんふたりは腰痛か疲労骨折かなにかで閉店するに違いないとおもっている。
だから常連客は、店がたて込んでいれば、冷や酒一本と、盛り蕎麦一枚ですますし、すいていれば、山菜の天ぷら、自家製の漬けものなどをとって、たのしく談笑しているのである。
新宿邨もなかなかすてたものではない。

【 既出情報 : 朗文堂ニュース 新宿中村屋サロン美術館開館と、相馬黒光、荻原碌山のこと。2014.11.28 】
【 詳細情報 : 碌山美術館 /  関連情報(姉妹館) : 新宿中村屋サロン美術館