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タイポグラファ群像*002 杉本幸治氏 ─ 本明朝・杉明朝原字製作者/ベントン彫刻法の普及者 ─ 三回忌にあたって再掲載

杉  本   幸  治
1927年[昭和02]04月27日-2011年[平成23]03月13日

◉ 杉本幸弘氏・細谷敏治氏から写真掲載許可をいただき、あらたなデーターで再掲出します。
◉ 講演会会場撮影:木村雅彦氏。 2012年01月13日
◉ 杉本幸治氏三回忌にあたり、2013年03月13日、再掲載いたしました。 

1927年(昭和02)04月27日、東京都台東区下谷うまれ。
東京府立工芸学校(5年履修制の特殊な実業学校。現東京都立工芸学校に一部が継承された)印刷科卒。

終戦直後の1946年( 昭和21)印刷・出版企業の株式会社三省堂に入社。今井直一専務(ナオイチ 1896-1963年05月15日 のち社長)の膝下にあって、本文用明朝体、ゴシック体、辞書用の特殊書体などの設計開発と、米国直輸入の機械式活字父型・母型彫刻システム(俗称:ベントン、ベントン彫刻機)の管理に従事し、書体研究室、技術課長代理、植字製版課長を歴任した。

またその間、今井専務の「暗黙の指示と黙認」のもとに、株式会社晃文堂(のち株式会社リョービ印刷機販売、リョービイマジクス株式会社。2011年11月から、株式会社モリサワに移譲されてモリサワMR事業部 → 株式会社タイプバンク → モリサワとなった)の「晃文堂明朝体」の開発と、「晃文堂ゴシック体」の改刻に際して援助を重ねた。

1975年三省堂が苦境におちいり、会社更生法による再建を機として、48歳をもって三省堂を勇退。その直後から細谷敏治氏(1914年うまれ)に請われて、日本マトリックス株式会社に籍をおいたが2年あまりで退社。
そののち「タイポデザインアーツ」を主宰するとともに、謡曲・宝生流の師範としても多方面で活躍した。
金属活字「晃文堂明朝体」を継承・発展させた、リョービ基幹書体「本明朝体」写植活字の制作を本格的に開始。以来30数年余にわたって「本明朝ファミリー」の開発と監修に従事した。

2000年から硬筆風細明朝体の必要性を痛感して「杉明朝体」の開発に従事。2009年09月株式会社朗文堂より、TTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。同年11月、OTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。

特発性肺線維症のため2011年03月13日(日)午前11時26分逝去。享年83
浄念寺(台東区蔵前4-18-10)杉本家墓地にねむる。法名:幸覚照西治道善士 コウガク-ショウサイ-ジドウ-ゼンジ。

◎        ◎        ◎        ◎

東日本大震災の襲来の翌翌日、特発性肺線維症 のため入退院を繰りかえしていた杉本幸治氏が永眠した。
杉本氏は、わが国戦後活字書体史に燦然と輝く、リョービ基幹書体「本明朝体」をのこした。また畢生ヒッセイの大作「硬筆風細明朝 杉明朝体」を朗文堂にのこした。
わたしどもとしては、東日本大震災の混乱の最中に逝去の報に接し、万感のおもいであった。
これからは30年余におよぶ杉本氏の薫陶を忘れず、お預かりした「杉明朝体」を大切に守り育ててまいりたい。

在りし日の杉本幸治氏を偲んで

杉明朝体はね、構想を得てから随分考え、悩みましたよ。
その間に土台がしっかり固まったのかな。
設計がはじまってからは、揺らぎは一切無かった。
構造と構成がしっかりしているから、
小さく使っても、思い切り大きく使っても
酷使に耐える強靱さを杉明朝はもっているはずです。
若い人に大胆に使ってほしいなぁ。

-杉本幸治 83歳の述懐-


上左)晃文堂明朝体の原字と同サイズの杉明朝体のデジタル・データー
上右)晃文堂が和文活字用の母型製作にはじめて取り組んだ金属活字「晃文堂明朝」の原字。
(1955年杉本幸治設計 当時28歳。 原寸はともに2インチ/協力・リョービイマジクス)

ふたつの 「書」 の図版を掲げた。かたや1955年、杉本幸治28歳の春秋に富んだ時期のもの。こなたは70歳代後半から挑戦した新書体「杉明朝体」の原字である。

2003年、骨格の強固な明朝体の設計を意図して試作を重ねた。杉本が青春期を過ごした、三省堂の辞書に用いられたような、本文用本格書体の製作が狙いであった。
現代の多様化した印刷用紙と印刷方式を勘案しながら、紙面を明るくし、判別性を優先し、可読性を確保しようとする困難な途への挑戦となった。制作に着手してからは、既成書体における字体の矛盾と混乱に苦慮しながらの作業となった。名づけて「杉明朝体」の誕生である。

制作期間は6年に及び、厳格な字体検証を重ね、ここに豊富な字種を完成させた。
痩勁ながらも力感ゆたかな画線が、縦横に文字空間に閃光を放つ。
爽風が吹き抜けるような明るい紙面には、濃い緑の若葉をつけた杉の若木が整然と林立し、ときとして、大樹のような巨木が、重いことばを柔軟に受けとめる。

《杉明朝体の設計意図――杉 本  幸 治――絶 筆》

2000年の頃であったと記憶している。昔の三省堂明朝体が懐かしくなって、何とかこれを蘇らせることができないだろうかと思うようになった。 ちょうど 「本明朝ファミリー」 の制作と若干の補整などの作業は一段落していた。 しかしながら、そのよりどころとなる三省堂明朝体の資料としては、原図は先の大戦で消失して、まったく皆無の状態であった。

わずかな資料は、戦前の三省堂版の教科書や印刷物などであったが、それらは全字種を網羅しているわけではない。 したがって当時のパターン原版や、活字母型をベントン彫刻する際に、実際に観察していた私の記憶にかろうじて留めているのに過ぎなかった。

以下3点の写真は、機械式活字父型・母型彫刻システムを理解するための参考として掲載した。2008年09月28日、山梨市・安形製作所における《アダナ・プレス倶楽部  活字製造体験会》活字母型製造試作作業の模様。
同体験会は、活字原字製作を参加者が独自におこない、活字パターン(亜鉛凹版・2インチ)製造をアダナ・プレス倶楽部が担当した。活字母型彫刻は山梨市の安形文夫氏の指導のもとで、12ポイントの活字母型を彫刻体験し、それをもって、のちに活字鋳造所、横浜の築地活字に出向き、12ポイント活字の鋳造を実体験するというものであった。
なお、このとき活字母型彫刻の指導にあたられ、アダナ・プレス倶楽部に支援を惜しまなかった同社所長:安形文夫氏は膵臓癌のため2012年元旦早朝2時に逝去された。
【タイポグラファ群像*004 安形文夫】。

戦前の三省堂明朝体は、世上から注目されていた「ベントン活字母型彫刻機」によるもので、最新鋭の活字母型制作法として高い評価を得ていた。この技法は精密な機械彫刻法であったから、母型の深さ[母型深度]、即ち活字の高低差が揃っていて印刷ムラが無かった。加えて文字の画線部の字配りには均整がとれていて、電胎母型[電鋳母型トモ]の明朝体とは比較にならなかった。

しかしながら、戦後になって活字母型や活字書体の話題が取り上げられるようになると、「三省堂明朝体は、ベントンで彫られた書体だから、幾何学的で堅い表情をしている」とか、「 理科学系の書籍向きで、文学的な書籍には向かない」 とする評価もあった。

確かに三省堂明朝体は堅くて鋭利な印象を与えていた。しかし、それはベントンで彫られたからではなく、昭和初期の三省堂における文字設計者、桑田福太郎と、その助手となった松橋勝二の発想と手法に基づく原図設計図によるものであったことはいうまでもない。

世評の一部には厳しいものもあったが、私は他社の書体と比べて、三省堂明朝体の文字の骨格、すなわち字配りや太さのバランスが優れていて、格調のある書体が好きだった。そんなこともあって、将来なんらかの形でこの愛着を活用できればよいが、という構想を温めていた。

三省堂在職時代の晩期に、別なテーマで、辞書組版と和欧混植における明朝活字の書体を、様様な角度から考察した時、三省堂明朝でも太いし、字面もやや大きすぎる、いうなれば、三省堂明朝の堅い表情、すなわち硬筆調の雰囲気を活かし、縦横の画線の比率差を少なくした「極細明朝体」をつくる構想が湧いた。

ちなみに既存の細明朝体をみると、確かに横線は細いが、その横線やはらいの始筆や終筆部に「切れ字」の現象があり、文字画線としては不明瞭な形象が多く、不安定さがあることに気づいた。
そのような観点を踏まえて、まったく新規の書体開発に取り組んだのが、約10年前からの新書体製作で「杉本幸治の硬筆風極細新明朝」、即ち今回の 「杉明朝体」という書体が誕生する結果となった。

ひら仮名とカタ仮名の「両仮名」については、敢えて漢字と同じような硬筆風にはしなかった。仮名文字の形象は、流麗な日本独自の歴史を背景としている。したがって無理に漢字とあわせて硬筆調にすると、可読性に劣る結果を招く。 既存の一般的な明朝体でも、仮名については毛筆調を採用するのと同様に、「杉明朝体」でも仮名の書風は軟調な雰囲気として、漢字と仮名のバランスに配慮した。

「杉明朝体」は極細明朝体の制作コンセプトをベースとして設計したところに主眼がある。したがってウェイト[ふとさ]によるファミリー化[シリーズ化]の必要性は無いものとしている。一般的な風潮ではファミリー化を求めるが、太い書体の「勘亭流・寄席文字・相撲文字」には細いファミリー[シリーズ]を持たないのと同様に考えている。

「杉明朝体」には多様な用途が考えられる。例えば金融市場の約款や、アクセントが無くて判別性に劣る細ゴシック体に代わる用途などがあるだろう。また、思いきって大きく使ってみたら、意外な紙面効果も期待できそうだ。

杉本幸治氏を偲ぶ  しごく内輪の会

杉本幸弘・吉田俊一・米田 隆・片塩二朗・根岸修次(記録担当)
2011年05月19日[木] 朗文堂 PM05:00-

◎ 片塩:早いもので杉本幸治先生の四十九日忌の法要も終えられました。
そこで本日は、ご長男の杉本幸弘ユキヒロさんをお迎えして、晩年の先生を手こずらせた!? この5人で、ご供養半分、こぼし半分で、杉本先生(以下 先生とも)のおもいでばなしをしよう……、ということでご参集いただきました。
ともかくここにいるメンバーは、先生にはお叱りを受けることが多かったんです。
◎ 杉本幸弘(杉本幸治氏長男/以下 幸弘):オヤジはなにぶん東京の下町うまれでしたから、江戸っ子気質カタギというか、叱るときはポンポン容赦なかったですね。
それでも、いうだけいわせておけば静かになるし、いってしまったことは忘れるので、母も妹も、もちろんわたしも、だまっていわせておきました。お叱りが、こう頭の上を滑っていくのを待つわけですね(笑)。
◎ 吉田:われわれはそうはいかないから、ハイ、ハイってね。まぁなんやかやと、よく叱られたなぁ(笑)。

◎ 米田:パソコンでも、車でも、先生はけっこうわがままをいったでしょう?
◎ 幸弘:オヤジがパソコン(Mac)を購入して、使用をはじめたのは1980年代、60代前半のころでした。
◎ 吉田:NEC 98型の全盛期からじゃなかったんだ?
◎ 米田:時代のせいでしょうけど、パソコン開始年齢としては比較的ご高齢になってからですね。
それでも先生は難しいソフトウェアでも完ぺきに使いこなしていらっしゃった。
◎ 片塩:そうそう、あきらかに、わたしより数段マックの扱いにはくわしかったですね。ほとんどE-メールはなさらなかったようですけど。
でも1980年代からパソコンをはじめたというのは、年齢は別として、遅くはないでしょう。
◎ 吉田:たれかと違って、携帯電話を愛用されたし、ケイタイメールはよくいただきましたよ。
◎ 片塩:どうせわたしはデジタル・オンチで、ケイタイも使いませんからね(笑)。
それを笑って、先生はいつも「オレは技術者 エンジニア だからな」と自慢されていた。

◎ 幸弘:オヤジがもっとも愛用したのは一体型の i Mac で、OS-9と OS-X を選択併用できる機種でした。オヤジはおもに OS-9 を使用していましたね。
また車の運転免許証をとったのもほぼ同時期で、わたしが免許を取得したのをみて「オレもとる」ということではじまりました。これも60代の前半でしたね。
それ以来すっかり運転マニアになって、どこにいくのにも車。それも事前に路線図をじつに詳細に、隅隅まで確認して、ここで右折、ここで左折と決めて、渋滞していてもほとんど変更しない。ともかく地図のとおりにまっすぐに(笑)。
なにせ頑固でしたからね、自分で車を運転して2009年まではでかけていました。

◎ 米田:2009年10月ころに、医者から外出を禁止されたでしょう。あのころから先生は弱られたのかもしれませんね。
◎ 幸弘:いや、その前から体調は十分とはいえませんでした。
2006年04月22日《杉本幸治 本明朝を語る》(リョービイマジクス主催)の講演会があったでしょう。その前夜まで、オヤジはひどく熱があって。
ともかく体調が悪くて、セーターやパジャマやら、いっぱい着込んで、その上にドテラまで羽織って寝込んでいたんですよ。ですから明日はとても無理だろうとおもっていたら、早朝からたれにも告げず、ひとりで出かけてしまって驚きました。
◎ 吉田:そうでしたか! 講演ではお元気だったけどなぁ。熱があるようにはみえなかったけど、咳き込みがあって、ちょっと心配はしました。
それに「特発性肺線維症」なんて持病はたれにもおっしゃらなかったし。
◎ 片塩:そうそう、ひどい咳をしていた。それでもわたしも、チョットした喘息程度かなとおもっていましたね。
でも講演はいやだ、いやだって逃げまわっていたのに、あの日の先生の講演は熱演で、たくさんご来場いただいた聴講者も随分刺激を受けていたようですよ。
◎ 幸弘:ともかくあの日のオヤジは、そおっと出ていったんですよ。家のものはたれも知らなかった。わかっていれば止めたでしょうね。
◎ 米田:そうだったんだ。知らなかったですね。でも先生はお元気で、夢中になって話しておられたなぁ。

◎ 片塩:あの少し前から先生は、勤労動員に追いまくられた戦時中の東京府立工芸時代のはなしや、三省堂時代のはなしをよくされるようになっていました。そして大切にされていた「石原忍とあたらしい文字の会」の一括資料などをお譲りいただきました。それと、『太平洋戦争下の工芸生活』(東京都立工芸学校23-26期編集委員会 平成09年03月27日 私家版)などを嬉しそうにおみせになるんですね。
このタイトルの題字製作は先生ですが、おもしろいことに、骨格はほとんど「本明朝」そのものですね。先生にはこの骨格が染みついていたのかなぁ。
先生は同校の本科印刷科25期生で、2期先輩に野村保惠さんが、3期後輩の金属工芸科に澤田善彦さんがいらっしゃった。この本は面白いですよ。印刷と工芸、あるいは工芸と美術・芸術・デザインの関係と相違がとてもよくわかります。

『太平洋戦争下の工芸生活』 表紙の題字は杉本幸治氏による。
(東京都立工芸学校23-26期編集委員会、私家版、平成09年03月27日)

『杉本幸治 本明朝を語る』 表紙デザイン:白井敬尚氏
(編集・製作/組版工学研究会 リョービイマジクス 2008年01月25日)

◎ 吉田:講演会のあとが、またひと騒ぎあったなぁ。
◎ 米田:あの黄色い表紙の講演録『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス発行)にまとめたのは、結局先生が再出演されたわけですか?
◎ 片塩:そうなんですよ。リョービイマジクスさんが撮影した DVD 画像をみて、先生は講演内容が断片的で、まとまりがないとお気に召さなかった。
これじゃあ説明になってないなぁ、と何度も首を振られてね。
そこで再度資料を取り揃えて、歴史的視点を中心にかたろうとなって……。この部屋(朗文堂)で3時間ほど対談しました。そのころはまだ酸素タンクは使っておられなかったですね。

◎ 吉田:あとから、随分先生が原稿を添削したようですね。
◎ 片塩:あれは添削ではなくて、テープから起こした原稿をみて、ここはオレが死ぬまで発表しちゃ駄目。ここはオレと細谷敏治さんが亡くなるまで駄目っていうのがほとんどですね。
だいたい三分の二ほどの原稿がカットされました。
◎ 吉田:戦後の活字の復興に発揮した、三省堂・今井さんの使命感とその功績、細谷さんと先生の、おふたりのおおきなご努力は、まだ発表できないんですか?
◎ 片塩:それは杉本先生の厳命ですから。小社のO社員も立ち会って、厳重に約束させられましたから。
ただ、わたしがお話しをもとに少し書き込んだ部分は、
「どうしてこの事実がわかったんだ?」
と、原稿からお顔をあげてふしぎそうでした。
「あのお話しと、このお話しを連結すると、このように帰納されますけど、違いますか?」
と伺うと、
「いや、この通りなんだ。間違いなくこの通りなんだ。そうなんだけど……、たれもこうした事実に目をむけなかったからな。この辺の事情がよくわかったなぁ」
とおっしゃるんですね。もちろん自分がおはなしになったことですよ。
それでもまた原稿に視線をさげて、赤ペンで大きくバツ印をつけて、「これはオレが死ぬまで駄目」となるわけです。

◎ 幸弘:ともかくオヤジは、戦後すぐから、あちこちの活字鋳造所や印刷所にいかされたといっていましたね。
◎ 片塩:そうなんです。本当は各社の明朝体の活字書風をみれば、「三省堂明朝体」、あるいはそのとおい原型となった、昭和初期の秀英体、とりわけ秀英四号明朝体との関係がわかることですが、おおかたの「活字ファン」は、漢字にはほとんど関心がなく、活字を仮名書風を中心にみて、印象をのべたり、評価するんですね。
やはり全体、もっともキャラクター数とさまざまな特徴のある漢字をみないで、仮名活字だけで活字書体をかたってもねぇ……。おのずと限界はありますよ。
各社とも復興にあたって、仮名書風くらいは、独自に、あるいはむしろ意図的に独自書風で開発していますし、その後も仮名活字は各社とも改刻が繰りかえされていますから、戦後のあわただしい活字復興の実態が、おおかたにはいまでもわからないようですね。

◎ 幸弘:オヤジがT印刷にいっていたことも、意外に知られていないようですね。
◎ 片塩:もちろんです。意外にではなく、まったく「秘密」だったんでしょうね。
もちろん例外はありますが、おおまかにいってD社系は津上製作所製の彫刻機で、細谷さんが基本操作指導にあたり、K社系とT社系は不二越製作所製の彫刻機で、基本操作指導は杉本先生のご担当だったようです。これは今井専務の指示だったと先生はおっしゃっていました。
そういう意味で晃文堂は、戦後に、なんのしがらみもなくスタートした活字鋳造所でしたし、社長の吉田市郎さんとも波長があって、晃文堂での原字製作からはじめ、まったく最初からつくる活字製作作業が楽しかったんでしょうか。それが「晃文堂明朝」、「晃文堂ゴシック」の製作につながり、のちの「本明朝体シリーズ」の展開につながったんでしょうね。

◎ 吉田:先生の「本明朝」へのこだわりは、ふつうじゃ考えられないほどだった。ちょっとでもスタッフが手を入れても激怒するほどのこだわりで……。
◎ 片塩:ですからわたしも「本明朝-L, M, B, E」と、「杉明朝体」にこだわるのは、そのすべてが杉本幸治さんという、いち個人が、26-7歳からはじめて、お亡くなりになる寸前の83歳まで、半世紀はおろか、57年余のながきにわたって、コツコツと、たったおひとりで製作されたということにあります。
もちろん明朝体の最大の特徴は、分業化できることにあります。ですから晃文堂やリョービイマジクスのスタッフの支援・協力はあったにせよ、「本明朝」の根幹部分には、たれにも手も触れさせなかったでしょう?
◎ 吉田:外字の隅隅まで、それはもう厳格でしたね。
写真植字書体開発も後期になると、コンピューターの支援、いわゆるインター・ポーレーションで、シリーズやファミリーを拡張していました。それが「本明朝-L, M, B, E」だけは、インター・ポーレーションを一切もちいず、金属活字時代のオプティカル・スケーリング(個別対応方式)のように、ひとつひとつのウェイトを、コツコツとおひとりでお書きになった。
幸彦さん、お父さん ── 杉本幸治さんというかたは、そういうひとだったんですよ。
◎ 幸彦:そうでしたか……。なにせウチでは、かみなりオヤジの面ばかりみていましたから。
◎ 米田:先生はシャイなひとだったし、家ではなにもおっしゃらなかったでしょうけど、ともかく、凄い! のひとことでした。たれにもできることじゃなかった。 

◎ 吉田:ですから「本明朝-U」には、先生はすこしご機嫌斜めだったな。
◎ 米田:あれは吉田さんのアイデアでしたか?
◎ 吉田:いや、ユーザーのご希望と、リョービとリョービイマジクスの総意ということで……(笑)。
◎ 米田:あのウェイトだと、インター・ポーレーションといってもたいへんだったでしょう?
◎ 片塩:まぁ、いろいろあっても、先生からみると──「本明朝-U」は、吉田俊一が勝手にやったこと。「本明朝-Book」は、片塩がリョービを焚きつけてやったこということで……。なんやかや、ともかくいろいろありましたねぇ(笑)。



毎日新聞社に津上製作所製造のベントン彫刻機第1ロット、2台が導入された折の写真。
1949年。後列左から3人目が小塚昌彦氏。写真は同氏提供。

◎片塩:またベントン彫刻機のはなしにもどりますが、先生は K,T 印刷系の企業は不二越製作所製のベントンが多く、どうにも具合が悪くて難儀した、とこぼされていました。
なにしろおおきな企業とそのグループ各社は、お互いにメンツがあるから、互いに協力することなく、張りあって開発したんでしょうか……。
機械式活字父型・母型彫刻機(ベントン)は、三省堂の今井直一ナオイチ専務(当時、のち社長)が、活字に一家言おありになって、金属活字はすでに明治末期から開発が停滞し、既成書体の電鋳活字母型(電胎活字母型トモ)はすでに疲弊していて、使用に耐えないとされました。
そしてたとえ戦禍を免れたとしても、電鋳法の活字母型は耐久性においてすでに限界であり、また活字母型深度にバラツキがあるため、活字の高低差がもたらす印刷ムラに問題があるとされ、各社に根本的な改刻か、廃棄をうながされたんですね。

今井さんは当時の印刷界では数少ない大学(現・東京藝術大学)出身者で、アメリカにも留学され、最新の技術情報にも詳しく、印刷連合会や印刷学会の重鎮でもありました。そんな今井さんでしたから、第二次世界大戦の壊滅的な被害から、活字と活字版印刷の敏速な復興を、タイポグラファのリーダーとして、一種の使命感をもって願っておられた。
そのために、大正時代の末に米国から輸入して、関東大震災と第二次世界大戦の被害をのがれた、自社の機械式活字母型彫刻機を公開して、それをもとに両社がそれぞれ独自に設計図をおこして、津上製作所と、のちに不二越製作所による国産機が誕生しました。
またベントン彫刻機を導入したほとんどの企業に、ともかく敏速な復興のために、ほぼ実費だけで活字パターンまで提供されました。

この機械式活字母型彫刻機の採寸のときの記録が大日本印刷にのこっていますが、それによると、三省堂側の立会人は入社直後、23歳当時の杉本先生です。
大日本印刷機械部と津上製作所の技術陣が、三省堂に出向いて採寸したわけですが、その際先生は、機械式活字母型彫刻機をばらして分解・採寸することを、頑として許さなかったんですね。
23歳ですよ、まだ先生は。このころから一度口にするとひかなかったようですね。

それでも多数の部材を、大日本印刷機械部と津上製作所の技術者たちは、解体することなく採寸・スケッチして、そこから模倣国産機をつくったわけですから、日本の工業技術力は、敗戦直後とはいえ高かったわけですね。
ところが、大日本印刷、毎日新聞社、三省堂などが、最初から津上製作所に発注していましたから、細谷さんの会社を含めて、あちこちの企業に、いまでも「国産ベントン彫刻機 第一号機」があります。まぁ第1ロットという意味でしょうか。

ところが、それに続いてあらそって導入した各社は、どこでも英文の機械操作説明書だけでは困ってしまった。それだけでなく、活字原字が無い、活字パターンが無い、基本操作がわからない、彫刻刀の刃先の研磨法がわからない、粗仕上げから精密仕上げへの切りかえ段階と、その方法がわからない……、ともかくわからないことだらけだったんですね。
そこで三省堂社員のおふたりが在籍のまま、あちこちの企業に、今井専務の「暗黙の指示と了承・黙認」のもとに、ときとして活字パターンとともに「派遣」されたのが実態だったようです。

◎ 米田:先生は、今年にはいって細谷敏治さんに会われたんですって?

細谷敏治氏  ──  ほそや としはる
1913年(大正2)山形県西村山郡河北町カホク-マチ谷地ヤチうまれ。谷地町小学校、寒河江サガエ中学校をへて、1937年(昭和12)東京高等工芸学校印刷科卒。
戦前の三省堂に入社し、導入直後から機械式活字父型・母型彫刻機の研究に没頭し、敗戦後のわが国の金属活字の復興にはたした功績は語りつくせない。

三省堂退社後に、日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい活字自動鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型製造には必須の技術となった。
実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月01日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年1月20日」を取得している。

この活字父型焼結法による特許・実用新案によった「機械式活字母型製造法」を、欧米での「Punched Matrix」にならって「パンチ母型」と名づけたのは細谷氏の造語である。
したがって欧米での活字製造の伝統技法「Punched Matrix」方式は、わが国では弘道軒活版製造所が明治中期に展開して「打ち込み母型」とした程度で、ほかにはほとんど類例をみない。
また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
(2011年08月15日撮影、細谷氏98歳。左は筆者)。

◎ 幸弘:最後の検査入院の2日前でした。2011年02月06日に、どうしても細谷さんに会いたいからって、私と妹のふたりがかりで車にのせて、多摩の老人施設におられる細谷さんをお訪ねしました。
◎ 吉田:細谷さんはご高齢だけど、ともかくお元気だからなぁ。先生よりだいぶ年長でしょう。
◎ 片塩:1913年(大正2)のおうまれですから、98歳におなりです。先生より15歳ほど年長になられますね。
でも、お病気になってから細谷さんとお会いになったなんて泣けるなぁ。
あのおふたりが、戦後わが国のほとんど全社の活字復興に果たした役割は、筆舌に尽くしがたいけど、対談でも先生は細谷さんにたいして「愛憎こもごも」といった感じではなされていましたから……。特に新聞活字母型の量産体制には、先生は少少ご不満があったようでした。
◎ 幸弘:あのときは、とても嬉しそうにふたりで話しこんでいましたね。オヤジはもっぱら「杉明朝体」の自慢。そのときの写真もここに撮ってありますよ。
◎ 吉田:先生、肌の色つやはまったく変わっていませんね。お元気そうだ。

左)細谷敏治氏98歳。 右)杉本幸治氏83歳。 2011年02月06日。杉本幸弘氏撮影。
細谷敏治氏と、杉本幸弘氏のご了解をいただいてこの写真を公開した(2012/01/06)。

◎ 片塩:これは、わが国の戦後明朝活字を構築された両巨頭の記念すべき写真ですよ、幸弘さん。この写真では先生は酸素マスクをつけてすこし痛痛しいけど、細谷さんのご了解をいただけたら公開してもよろしいですか?
◎ 幸弘:細谷さんのご了承があれば、わたしは結構ですよ。
オヤジはしばらく入院・退院を繰りかえしましたが、結局2011年02月08日に再入院(検査入院)となって、あの大地震の2日後、2011年03月13日(日)午前11時26分「特発性肺線維症」で亡くなりました。

◎ 吉田:最後の入院から6日後にお亡くなりになられた。みんな、また検査入院かとおもって油断していました。
あのときは救急車で入院でしたか?
◎ 幸弘:いえ、グズグズってなったので、私の車で病院まで急いでいきましたが、即刻集中治療室に入って。結構衰弱していましたね。

◎ 片塩:わたしも先生の「検査入院だから……」、に安心というか、無警戒でしたね。
この入院前か、入院中かに、先生からどこか妙なお電話をいただきました。お加減はいかがですか? と聞いて、お見舞いにいくと伝えたら、
「格好悪いとこを見られたくないから、来なくていい」
そしてこぼすんです。
「米田クンが来てくれないから、プリンターが動かない」
そこで、
「米田さんへの、杉明朝改刻への免許皆伝の件はどうなっていますか」
と伺うと、
「もう米田クンは免許皆伝だよ」
とおっしゃるんですね。そして、
「片塩さんが前から欲しがっていた雲形定規を差しあげる」
というんですね。なにかいつもと違って、おはなしが妙でしたから、
「先生、そんなことをおっしゃらず、はやくお元気になってください」
とお伝えするだけで精一杯でした。

◎ 幸弘:去年の夏、「杉明朝体」がおむね終わって、体調の良いときに川崎まででかけて、MAC-PROと、書体製作ソフトやアドビのCS-4を購入しました。それは去年の春(2010 年04月)の入院のときに、ベッドの横でノート・パソコンで書体がつくれたらいいな……、といっていたんです。
ところが退院したところ、それまでの i Mac が故障して駄目になったんですね。
ですから08月15 日に買って、18日に届いたんですけど、2階に置いたので階段がきつくて……。
そしてすぐ、また08月20日に再入院になりましたから、結局2回くらいしかあたらしいマックは使っていなかったようです。
◎ 米田:ケーブルだって、ふるいスカジー・タイプだったし、切り替えはたいへんでした。
◎ 片塩:今度のマックは、「下からフニャーって画像が沸いてきて、なんか気持ち悪いんだよなぁ」なんておっしゃっていましたね。

◎ 吉田:先生はことしになってから、「杉明朝体・ボールド」をつくるって急にいいだしたし、最後まで新書体の製作にこだわっていたね。
◎ 米田:あれはですね、先生は「杉明朝体」は 6 pt.-9 pt.くらいの小さなサイズでの使用を見込んでいたんです。ところが、朗文堂さんからの組版資料として、どんどん小さいのから大きなサイズまでの組版サンプルが届くから、
「大きなサイズ、太い杉明朝体もいいなぁ」
となって、
「それなら先生、杉明朝体 ボールドを書いてください。わたしが中間ウェイトを製作しますから……」
こんないきさつがあって、先生は意欲を燃やされたんですね。

◎ 吉田:それで米田さんへの免許皆伝というはなしだったのか。
「杉明朝体」は最初の企画では「超極細硬筆風明朝体」だったんでしょう。
◎ 片塩:いや、先生の命名は「超極細硬筆風明朝体 八千代」でした。それをわたしが、
「八千代なんて、どこかの芸者みたいですな」
とやっちゃって……(笑)。
口にしてから、しまったとおもったけどもう遅い。またきついお叱りで。
それと、わたしは最後まで「杉明朝体」は R 社さんから発売していただきたいとおもっていました。小社はその任にあらずと。それでも先様にもいろいろご都合があって……。

『杉明朝体』 フライヤー(朗文堂 2009年9月)

杉明朝OTFフライヤー 詳細画像

◎ 幸弘:細谷さんとの面会でも、この写真のように「杉明朝体」のカタログをふたりでみながら、熱心に書体談義をしていましたよ。
◎ 片塩:それは嬉しいことですけどね。でもですよ、わたしは先生がのこされた「杉明朝体」とともに、いまでも「本明朝-L, M, B, E」は、戦後活字史の名作中の名作だとおもっていますから。
◎ 吉田:これでいいんじゃないですか。先生も得心されておられたしね……。
ところで、03月11日、東日本大震災の日に、米田さんは病院にお見舞いにいっていたんですね。亡くなる2日前だけど。

◎ 米田:03月11日は金曜日でしたが、電車で武蔵小杉の病院にお見舞いに出かけました。
先生はときどき酸素マスクをはずしてお元気で、そろそろ帰ろうかなというときに、まずドカンときて、つづいてユッサユッサときました。医者も看護師もバタバタと避難するし、ほかの患者さんもそうとう動揺されていましたね。
それで携帯電話は通じないし、夕方になって失礼しましたが、バスがこない。そこで駅まで歩いたら、電車はまったく動いていない。結局武蔵小杉から千葉県白石市の自宅まで、20時間ほどかけて徒歩でかえりました。
◎ 一同:それはたいへんだぁ! 米田さんは真面目だからなぁ。……その辺の漫画喫茶とか、カプセル・ホテルとかにもぐりこもうと考えなかったんですか?
◎ 米田:いや、もうどこもいっぱいでしたよ。半分ムキになって歩きました。
◎ 一同:杉本先生のはなしはつきないね。ここでは先生に献杯もできないから、このへんでちょっと席を変えましょうか……(合掌)。