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【展示】チェコセンター「変わらぬ原作、変わり続ける翻訳 ─ 日本とカレル・チャペックの文学」3月7日─3月28日 終了企画 & 追加情報

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チェコセンター 東京展示室
変わらぬ原作、変わり続ける翻訳 ― 日本とK・チャペックの文学

会 期:2018年3月7日[水]ー3月28日[水]
    平日10:00-17:00
会場:チェコセンター東京展示室

   〒150-0012 東京都渋谷区広尾2-16-14 チェコ共和国大使館内
   TEL:03-3400-8129
企画:ブルナ・ルカーシュ(実践女子大学)
入場無料
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今年は、チェコを代表する作家カレル・チャペックの没後80年にあたります。チャペックの作品は、戦前から今日にいたるまで盛んに邦訳され、数多くの読者に親しまれてきました。
本展示では、約1世紀にもおよぶ、日本におけるチャペックの翻訳史を回顧し、チャペックの文学を日本の読者に届けた翻訳者にも光を当てます。
開催初日には飯島周氏(日本チェコ協会)、阿部賢一氏(東京大学)、竹内涼子氏(平凡社)によるオープニング記念トークも予定しています。ぜひお越しください。

【詳細情報: チェコセンター 】   情報提供:山崎洋介会員
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{追加情報}
メールレター< チェコセンター ニュース 2018年3月23日 >より転載

皇后陛下 チェコセンターのチャペック展ご鑑賞

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3月23日、チェコセンターの展示「変わらぬ原作、変わり続ける翻訳 ―日本とK・チャペックの文学」を皇后陛下にご鑑賞いただきました。

展示「変わらぬ原作、変わり続ける翻訳 ―日本とK・チャペックの文学」

先月、トマーシュ・ドゥプ駐日チェコ共和国大使が午餐にお招きいただいた際に、幼少期よりカレル・チャペック作品に親しまれてきた皇后陛下に当展示をご紹介し、本日お出ましいただけることとなりました。

日本でこれまで刊行された約70冊の書籍や展示パネルに加え、チャペック自身が撮影した写真を御覧いただきましたあと、トマーシュ・ドゥプ大使、チェコセンター東京 所長高嶺エヴァ、本展の企画者であるルカーシュ・ブルナ氏、『マサリクとの対話―哲人大統領の生涯と思想』などを翻訳された石川達夫氏、チェコのカレル・チャペック記念館館長クリスチナ・ヴァーニョヴァー氏とご歓談いただきました。

展示室では、幼いころにお持ちだった『世界名作選』を御覧になり「懐かしいですね」と仰ったほか、チャペックの愛犬ダーシェンカの写真に微笑まれたり、作品が出版された時代についてご質問をされたりなど、展示をお楽しみいただけたご様子でした。

私どもの展示にお越しいただきましたことを、チェコセンター一同大変光栄に思います。──────────
{新宿餘談}

ボヘミアン《ヨゼフとカレル、チャペック兄弟の住居跡》
チェコのプラハ第10区に「チャペック兄弟通り BRATŘİ ČAPKŮ」と名づけられた小高い丘への通りがある。そこの頂上部に連棟式のおおきな住宅がある。

向かって左が、画家にしてイラストレーター・執筆者の兄 : ヨゼフ・チャペックの住居で、現在は直系の子孫が居住しているという。
向かって右が、ジャーナリストにして戯曲家・作家の弟 : カレル・チャペック の住居跡である。

DSCN0025DSCN0027DSCN0005カレルの家は、現在は無住となっており、すでにプラハ第10区が買収済みだという。
ところがどちらも、いまは非公開の建物であり、庭園である。したがってカレルの庭園跡の写真は相当無理をして、ほんの一画だけを生け垣の隙間から撮影した。

20161027164925_00001[1]この兄弟がここに居住していた頃にのこした一冊の図書、世界中の園芸家に読み継がれている、原題『Zahradníkův rok 』、邦題『園芸家の一年』、『園芸家の12カ月』がある。

《ヨゼフとカレル、チャペック兄弟の墓地をたずねて》
プラハ:ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov はチェコの首都 : プラハの中央部にゆたかな緑につつまれて鎮まっている。
ここには「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」があり、アール ・ ヌーヴォーの華といわれながら、晩年にボヘミアンとしての民族意識にめざめ、無償で描いた超大作絵画 「 スラブ叙事詩 」 をのこしたアルフォンス ・ ミュシャ(現地ではムハ)がねむり、その斜め前にはボヘミアとスラブの魂を歌曲にした作曲家 : スメタナもねむる。

DSCN6084DSCN6082DSCN6045DSCN6048そのかたわらにヨゼフとカレル、ふたりのチャペックの墓がある。
ノー学部はおもに原題『Válka s mloky』、邦題『山椒魚戦争』を好み、タバコの臭いが移るからとしてめったに見せないが、欧州各国の異なった版の図書を相当数所有している。この『山椒魚戦争』に関しては、最下部のリンク先 をご覧いただきたい。
やつがれはもっぱら、原題『Zahradníkův rok 』、邦題『園芸家の一年』、『園芸家の12カ月』の軽装図書である。またこのふたりは戯曲などを多数共同で制作し、中でも 1920 年発表の戯曲『R.U.R.』で「ロボット」ということばを生み出したことでも知られている。

兄 : ヨゼフはゲシュタポに捉えられ、強制収容所に歿したために、歿時の月日記載がないのが胸をうつ。
弟 : カレルの墓は、1938年の没年ではあるが、現代のロケットともあまり相違ない形象のロケット型の墓標である。
ふたりとも第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざまという、過酷な時代をいき、そして誇り高きボヘミアンであった。
最後にチャペック兄弟の最後をしるした一文を、来栖 継氏の「 解 説 」 から紹介したい。
『 山椒魚戦争 』(カレル ・ チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫)「解説」p.453-4

〔前略〕 一九三九年三月十五日、ナチス ・ ドイツ軍はチェコに侵入し、全土を占領した。〔弟カレル〕チャペックも生きていたら、逮捕 ・ 投獄されたにちがいない。事実、ゲシュタポ(ナチス-ドイツの秘密警察)は、それからまもなく〔カレル〕チャペックの家へやって来たのだった。やはり作家で、同時に女優でもあるチャペック未亡人のオルガ ・ シャインプルゴヴーは、ゲシュタポに向かって、「残念ながらチャペックは昨年のクリスマス〔1938年12月25日歿〕に亡くなりました 」 と皮肉をこめて告げた、とのことである。
チャペックの兄のヨゼフ ・ チヤぺックも、「 独裁者の長靴 」 と題する痛烈な反戦 ・ 反ファッショの連作政治マンガを描きつづけた。そのために彼は、ゲシュタポに逮捕され、一九四五年四月、すなわちチェコスロバキア解放のわずか一ヵ月前、ドイツのベルゲン=ペルゼン強制収容所で、栄養失調のため死んだ。彼が収容所でひそかに書いた詩は、戦後『 強制収容所詩集 』という題名で出版された。〔後略〕

{参考資料:【ボヘミアン、プラハをいく】 04 パリ在住ボヘミアンの磯田俊雄さん、フランス版『山椒魚戦争』(カレル・チャペック作)と、フランソワⅠ世にちなむシャンボール城のメダルを持参して来社 | 活版 à la carte|2016年11月05日}

【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層

プラハ[1]

5317183b8e979c2d28ba03fb44bf5b30[1] Kafkasd2[1] DSCN0428 DSCN0430 DSCN0436 DSCN0439チェコの首都プラハは「モザイクのまち」「文明の十字路」「塔と黄金と革命の都市」「建築様式の宝庫」とも評される。わが国の京都と姉妹都市でもあり、まちの規模や歴史の重厚な蓄積には共通点が多い。
このプラハに2014年09月、2016年08月と二度にわたる旅行をこころみた。いずれもモスクワ経由で三泊五日のあわただしい弾丸旅行であった。

《 プラハ城場内 : 黄金の小径 22番 フランツ・カフカ作品執筆地のひとつ 》
やつがれは、いなかの高校生のころ、ユダヤ系プラハのひと、フランツ・カフカの作品にはまったことがある。当時はまさかその生家をたずね、その執筆場所のひとつを訪問し、墓参ができるなどとは考えたこともなかった。

《 アールヌーヴォーの旗手の変貌 Alphonse Mucha アルフォンス・ムハ or ムシャ 》
旅の同行者 : 大石は、いなかの高校生のころにアルフォンス・ムハの絵画に衝撃をうけたという。1989年(平成元)北海道立近代美術館を中心に「没後50年 アール・ヌーヴォーの華 アルフォンス・ムシャ展」が開催され、髙島屋を中心に全国巡回展が催された。福岡の美術館でも開催され、その四半世紀余も前の展覧会図録はいまだに本人の宝物らしい。

20160830172215_00001 20160830172215_00002「Alphonse Mucha」はチェコでうまれ、パリでデビューし、米国で美術教育にたずさわった人物である。わが国ではフランス音で「ミュシャ」とされることが多いが、明2017年に『スラヴ叙事詩』を中心として東京でおおきな展覧会が予定されている。

『スラヴ叙事詩』は、人気画家、アール・ヌーヴォーの旗手として官能的な女性を描いていたムハを想像するとおどろくことになる。この大作はちいさなものでも4メートル四方、おおきなものでは8×6メートルもある巨大な作品である。
パリとアメリカを往復して活躍していたムハが、1908年(明治41)ボストン交響楽団によるスメタナの『わが祖国』をきいてひどく感動し、余生を祖国チェコ国民とプラハ市に捧げるべく無償で描いた20枚の連作である。
ムシャ大作製作中 DSCN0262 DSCN0100 DSCN0101《 兄・造形家:ヨゼフ・チャペック Josef Čapek 弟・作家:カレル・チャペックKarel Čapek 》
さきごろ報告したが、かねて『園芸家12カ月』(カレル・チャペック 小松太郎訳 中公文庫)を読んでいた。
2014年晩夏、三泊五日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいった。
そのとき、画家にして装本家:兄 ヨゼフ・チャペック と、作家・戯曲家:弟 カレル・チャペック の墓をチェコプラハの民族墓地にたずねた。
カレルの墓標は、まさに現代の多段式ロケットの形態そのものであり、ヨゼフの墓はその背後にひっそりと佇んでいた。
891ebad257c3d67fdff8b3805a300815[1]仔細に読むとわかるが、この日本語訳の『園芸家12カ月』の表紙の写真はカレルが本書を執筆した場所とはことなり、結婚して晩年に居住していた場所である。
ヨゼフとカレルの兄弟が居住していた住居は、それぞれ門を構えたおおきな二世帯住宅で、プラハ10区に現存している。
DSCN0027 DSCN0005 DSCN0017 DSCN0018 DSCN0025 上掲写真の向かって右側が弟・カレルの住居、養蜂箱がおかれている左側の玄関が兄・ヨゼフの住居であった。
ふたりはこの建物にともに住んでいた。そしてカレルは結婚後に郊外に住居を求めて移転し、兄・ヨゼフはゲシュタポにとらわれ収容所で歿したが、子孫が現在もここに居住しており、プラハ市10区は、とりあえずカレルの住居跡を購入・管理しているが、まだ一般公開はされていない。

ヨゼフとカレルの共作ともいうべき『山椒魚戦争』がのこされた。同書はどんな名訳を得てもその魅力の半分も伝わらないおもしろい書物である。
今回のプラハ行きは、たまたま国費留学でプラハのカレル大学に留学されていたサラマ・プレス倶楽部会員:博士山崎氏と、プラハ在住10年余という友人:平松さんの支援をいただくことができた。事前のメールの交換で『山椒魚戦争』のチェコ語版のいくつかを購入できた。
近近撮影データとともにご紹介したい。
DSCN9934(25%縮小) DSCN0702(25%縮小) DSCN6316(25%縮小) DSCN6327(25%縮小) DSCN6331『プラハ迷宮の散歩道 ―― 百塔の都をさまよう愉しみ』(沖島博美 ダイヤモンド社)の冒頭ではプラハの魅力をこのようにしるしている。

プラハは奇跡だ、と人は言う。
何百年もの間に多くの戦争が起こった
それでも町は破壊されなかった
中世の町並みがそのまま残った

神聖ローマ帝国の偉大な皇帝カール四世は
プラハが最大の帝都になることをめざした
14世紀、プラハは神聖ローマ帝国一の大都市となった
その栄華がこんにちのプラハの基礎になっている

重厚なゴシック建築の間に輝くアール・ヌーヴォーの館
時代を超えて美しく調和する様ざまな建築様式
この美しい町は奇跡ではない
プラハ市民が命をかけて守ってきたものなのだ

以下はやつがれの備忘録であり、ご紹介予定の項目である。
◎ ムハ関連:ムハ美術館、ホテルパリ、プラハ市民会館、民族墓地、スラヴ叙事詩
◎ チェコの魅力:キュービズム建築、石畳、市電、技術博物館、アドルフ・ロース、ビールと煙草