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宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-01

 

商標_聚珍倣宋印書局マークDSCN0899商標_聚珍倣宋印書局
《 稀覯書 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 について 》
2013年6月と11月、2014年01月と 中国 ・ 北京を訪問した。 さまざまなひとにおあいし、さまざまな企業、さまざまな場所にいった。 そのとき、なにかとやつがれらをサポートしていただいたのが 「 シンさん 」 であった。

11月の訪問のおり、「 シンさん 」 が、
「 大切にしている図書です 」
といって鞄から取りだしたのが、『 聚珍倣宋版式各種様張 しゅうちん-ほうそう-はんしき-かくしゅ-ようちょう 』 であった。

そのときは撮影をゆるされ、01月に再会した折には低解像度の複写版をいただいた。 いずれきちんとした研究者の手によって、まとまった形での発表を 「 シンさん 」 は望まれていた。

もともと宋朝体活字にはこだわりがあった。 それ以来やつがれは、この資料と 「 宋朝体活字、聚珍倣宋版、仿宋体活字 」 の様様な資料を、折に触れては取りだして、周辺情報との突き合わせをしていた。
ところで最近、「 シンさん 」 が同書を北京のタイポグラフィ ・ イベントに展示したところ、SNS メ ディアに一斉に画像がながれてしまったという。
「 シンさん 」 は同書を個人所有していることを公表しないとしていたにもかかわらずである。展示会は撮影禁止で、鍵付き硝子ケースのなかに入れてあったのにと嘆いていた。

もちろん SNS メディアのユーザーの一部であろうが、昆虫採集に熱中する少年のように、ともかく目新しいものに飛びつき、あるいは、あたかも脊髄反射のようにメディアに掲載してしまうのは、わが国でもしばしば見られるところである。
こんないきさつがあって、「 シンさん 」 はやつがれに、はやい発表を督促してきた。 ところがやつがれは 「 きちんとまとめる 」 ことを苦手とする。すなわち適任ではない。

《 わが国の基幹書体の明朝体に愛着はあるが、さらなる発展を望むには おのずからなる限界がありそうだ 》
近代明朝体活字が 「 上海租界 ( 外国人居留地 ) 」 からわが国に導入されて、160年ほどの時間が経過した。
明朝体活字は、疑いもなく、わが国、明治の文明開化と近代化をもたらし、国民の読書、情報伝達におおきな役割と貢献をはたしてきた。

さりながら、明朝体活字の初期開発は、近代化という名のもとに、欧米における産業革命の成果をとりいれ、さまざまな機器をもちいて開発された活字書体である。
明朝体活字は、ひろくは中国の楷書のカテゴリーにありながら、開発初期に、すでにモダンスタイル ・ ローマン活字をうんだ西洋合理主義の影響からか、造形としての 「 字 」 をあたかも突きはなすような姿勢がみられた。
すなわち、「 篇 ・ 旁 ・ 冠 」 などを組み合わせてもちいる、いわゆる 「 分合活字 」 開発の歴史にみられるように、「 字  ≒ 漢字」 にたいする徹底した割り切り、すなわち合理化、様式化、分業化された製造態勢がなされている。

そのためか、「 字 ≒ 漢字 」 がもともと内包している、ひととことばの歴史の堆積、手技の痕跡、身体性の発露などは、みごとなまでに消し去られている。
換言すれば、ふつうの生活者はもとより、書芸人、書写人でもこの 「 字 」 の書風を描くことができない。 また、一定の訓練を経ても、道具と機械 ( 現代ではコンピューターとソフトウェア ) の援助なくして、その原字をつくることもできない、いわば一種の工業製品ともいうべき、無機質な存在の 「 字 」 となっている。

こうして明朝体活字の 「 字 ≒ 漢字 」 には機能性がむき出しになり、水平 ・ 垂直線ばかりがめだつ、鋭利な線質となり、およそ自然界には存在しない機械製造による造形物、工業生産の産物として、近代明朝体活字は時をかさねてきた。
もちろんこの間、東京築地活版製造所の平野富二、その右腕 : 曲田 茂マガタ-シゲリ、後継者のひとり : 野村宗十郎らの献身的な改刻の努力があった。
さらに秀英舎 (現 : 大日本印刷 ) にあっては、創業者 : 佐久間貞一、第二代 : 保田久成、関連企業 : 製文堂  逸見久五郎らの功績も看過できない。
それだけでなく、たくさんの有名 ・ 無名の活字製造業者が明朝体の改刻に取り組んできた。 その結果、明治の後期ともなると、
「 上海租界 ( 外国人居留地 ) からもたらされた…… 」
というより、見方をかえれば、わが国独自の活字書風としての完成をみるにいたった。

さらに明朝体活字にとって追い風となっったのは、わが国の近代文章語における仮名、なかんずくひら仮名の存在と、その併用をあげたい。
わが国の近代文章語とは 「 字 ≒ 漢字 」 の上だけで形成されたものではない。 やわらかで、書芸や手技の痕跡をいかした柔軟な和字、ひら仮名、カタ仮名に加えて、「 字 ≒ 漢字 」 を併用することよって、無機質で、能面のような、近代明朝体活字 「 字 ≒ 漢字 」 の組み版は、表情豊かな、馥郁とかおりたつような印刷紙面を形成して、近代文章日本語の形成に貢献してきたといえよう。

ここに、わが国の読書人にみられる 「 ひら仮名活字と組み合わされた 」 明朝体活字への愛着と拘泥と、「 字 ≒ 漢字 」 の明朝体活字だけをもちいる 中国の民衆 ・ 読書人にみられる、明朝体活字への無関心、ないしは軽視の姿勢の、彼我の相違を理解することができる
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後述の機会を得たいが、高齢化して病床についた毛沢東 ( Mao Zedong  1893-1976 ) の読書への意欲はいっこうに衰えをみせず、魯迅の著作の全巻を読みたいと希望したという。
このころの毛沢東はさすがに視力が低下していたので、28pt 見当のおおきなサイズの活字を特別鋳造して、「 毛主席特別版 」 として刊行したことがあったと、紫禁城図書館 館長にうかがった。

その任にあたったのは、中国印刷 ・ 出版界で双璧をなす 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 であったが、指示された活字書体は 「 商務印書館 → 仿宋体 」、「 中華書局 → 聚珍仿宋版 」であったという。
なにしろときの最高権力者 : 毛沢東の「希望」であり、両社ともに全力をあげて活字の新鋳造にあたり、印刷したが、病床の毛沢東があまりにはやく読了してしまって、どんどん次巻を督促されて困惑がはげしかったという。
「 商務印書館 」 「 中華書局 」 といえば、わが国の 「 大日本印刷 と 凸版印刷 」 に相当するおおきな企業体である。 ところが両社ともに、印刷 ・ 製本はともかく、活字組版がまったく追いつかず、傘下の企業を総動員して活字組版をおこなって製作にあたったという。

このはなしは、中国紫禁城内紫禁城図書館長 : 翁 連渓氏にうかがった。 そのときは毛沢東が好んで通ったという中国湖南省料理店 「 澤園酒家  タクエン-シュカ」 で、遅い昼食をご一緒したときであった。
「 澤園酒家 」は、中国中央政府が密集している中南海への出入り口にある。 道路をはさんだ向かい側には一般人は立ち入ることができない。

帰国の日、「 シンさん 」 にホテルから空港まで送っていただいた。 高速道路が渋滞して搭乗時間が切迫していたが、最近、版画からタイポグラフィにすっかり関心を移行させた 「 シンさん 」 が、急に車を路肩に寄せて、あわただしく 「 毛主席特別版 」 の数冊の図書をとりだして、撮影をしろ、よく見てくれということだった。

活字スケールを持参しなかったのが悔やまれたが、それはたしかに 「 仿宋体、 聚珍倣宋版、わが国の宋朝体 」 といってよい活字書風であった。
晩年の毛沢東が、わざわざ指示した活字書体が 「 仿宋体、 聚珍倣宋版、わが国の方体宋朝体 ( ほぼ真四角な宋朝体 )」であり、「 宋体活字 わが国の明朝体活字 」 でなかったという事実は、うすうす小耳にしていたとはいえ、実物を眼前にしておおきな衝撃であった。

これも徐徐に紹介したいが、『 珍倣宋版式各種様張 』 の巻首に置かれた 「 縁起 ≒ はじめに 」 は、丁 善之の筆になるとおもわれるが、浙江省杭州のひと丁 善之は、明朝体 ( 縁起では宋体 ) 活字を日本の字としている。 どうやら丁 善之は、明朝体活字が 「 上海租界地 ( 外国人居留地 )」 から日本にもたらされた事実を知らないようにみられるのである。

したがって、ここ「花筏」では、近代明朝体活字に代表される活版印刷機器と、活字版製造におおきな功績をのこした東京築地活版製造所の歴史を、もう一度整理する作業と平行して、「 聚珍倣宋版、仿宋体 」 活字と、わが国の 「 宋朝体 」 活字を紹介していきたい。

正直なところ、『 秀英体研究 』 (片塩二朗 大日本印刷 2004年12月12日 )をまとめ、「秀英体平成の大改刻 」 プロジェクトを終えて、ようやく東京築地活版製造所のまとめに着手したばかりのいまである。

したがって 「 聚珍倣宋版 ・ 仿宋体と、宋朝体 」 に言及するのはいささか荷が重いのである。
本稿シリーズと、やつがれの既刊書 「 津田伊三郎と宋朝体 ・ 正楷書体活字の導入 」 「 それでも活字はのこった 森川龍文堂と森川健市 」 『活字に憑かれた男たち』 (片塩二朗 朗文堂 1999年11月02日 )をお読みいただき、有意の皆さんのご参集をお待ちする次第である。

聚珍倣宋版表紙DSCN0892 DSCN0895 《 活字組版印刷見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 と、創成者 : 丁 輔之 と 丁 善之 》
『 聚珍倣宋版式各種様張 』 は、現存する中国有数の印刷 ・ 出版企業 「 中華書局 」 が発行したもので、図書 ・ 書籍というより、杭州の 「 聚珍倣宋印書局 」 から譲渡をうけて、あらたに 「 中華書局 」 に導入された活字書体、名づけて 「 中華書局聚珍倣宋版 」 による、活字組版と活版印刷の見本帳である。

この活字組版見本帳は、かつて長澤規矩也氏が所蔵していたとおもわれ、わが国にも紹介されたことがある。
『 図解和漢印刷史 』 (長澤規矩也 汲古書院 昭和51年2月 ) の「図版集 縁起 論語巻之一  p.77-79 」 と、 「別冊 《 解説 》 図版77-79 」 である。まずこれを紹介したい。

図版77-79 聚珍倣宋版各種様張 民國刊( 聚珍倣宋版 ) 縁起及一頁
錢塘の丁氏が創成し、丁仁が倣宋印書局を興し、後、中華書局が使用権を獲得した。 倣宋聚珍版、見本帖から抽印した。縁起は漢字活字の歴史にも及ぶので、全文を収録し、見本組の一ページをも示す。

これ以降、宋朝体に言及した文献のほとんどは、この長澤規矩也氏の解説を引用している。 筆者も前掲 『 活字に憑かれた男たち 』 で、この箇所を引用させていただいた。
これから順次 『 聚珍倣宋版各種様張 』 を考察するのにあたって、あらためてタイポグラフィの見地から、まず表紙から再考察に着手したい。

《 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 の構成 》
1.  表紙の考察
聚珍倣宋版表紙

題簽の様式を模したとみられる表紙は、本文用紙とは別紙で、六号無双罫によって四囲をかこまれ ( 単辺匡郭 キョウカク )、そこにタイトル 「 聚珍倣宋版式各種樣張 しゅうちん-ほうそう-はんしき-かくしゅ-ようちょう」 が二行にわかれて置かれている。

「 倣 」 の字は、本書のなかでもしばしば 「 仿 」 とされている。本稿では差し支えのないかぎり、これ以降はわが国の常用漢字の 「 倣 」 をもちいる。
「 樣 」 はわが国の常用漢字 「 様 」の異体字である。 これ以降は 「 様 」 をもちいる。
その大きさは初号倍角 (中国では初号を頭号とする。 ともに84pt 相当 ) に一致するが、ここまでのおおきなサイズの鋳造活字を製造したとは考えにくく、なんらかの凸版 ( 木活字、木版、電気版 ・ いわゆる電胎版 ) をもちいたとみられる。
また、後述するが、中華書局にはこの時代、わが国にさきがけて、すでにパンタグラフ理論を応用した 「 批字模雕刻機。 機械式活字父型 ・ 母型彫刻機 」 ( わが国の俗称 : ベントン彫刻機 ) が導入されていた ( 中国印刷博物館資料 )。 したがって金属素材に直に凸状に機械彫刻していた可能性も否定できない。

中央には製作時期と、製作者名 「 癸亥初夏錢塘輔之丁仁題 」 が一号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝体 ) で、字間にわずかなスペースをいれてしるされている。
「 癸亥 キガイ、みずのと い、みずのと いのしし 」 は、中国 (わが国) の十干十二支で、ここでは1923年 ( 大正12 ) となる。
「 錢塘 銭塘 」は、近代中国では浙江省の中心都市のひとつ 「 杭州 ハンジュ」 である。
「 輔之 丁 仁」は、わが国でいうならさしずめ 「 源九郎 義経 」 のような標記であって、「あざな(字) : 輔之、姓 : 丁、名(元名) : 仁 」 (以下、 丁 輔之 テイ-ホシ) である。
整理すると、以下のようになる。
「 1923年 ( 大正12 ) の初夏、銭塘のひと、姓は丁、あざなは輔之、名を仁の、丁 輔之が、これを題した 」。

匡郭にかえて設けられた無双罫の枠外右側に、この見本帳の体裁がしるされている。
「 仿宋元版槧本封面式 」
最初の字 「 仿 」 は、「 仿 ・ 倣 ホウ、ならう ・ まねる ≒ 模倣 」 の意である。
この表紙でも、タイトル部分では 〈 聚珍 「 倣 」 宋版 〉 とされたように、「 仿 ・ 倣 」 は同音同意の字であり、置き換えが可能な字である。 しかしながら、現在の中国では簡体字の採用によって、「 仿 」 が中心となっている。

 「 槧本 さんぽん 」 は古文書の意。
「 封面式 」 の 「 封面 ほうめん 」 とは、表紙裏の扉ページをさすことが多いが、ここでは片面印刷で、中央に版心をあらわす 「 魚尾 」 をおき、それをセンターの目印として二つ折りにしてつづったものとした。

見開きにすると、版心には、右側に 「 中華書局聚 」 が置かれ、左側に 「 珍倣宋版印 」としたものがおおい。 また杭州時代の活字組版を流用したものか、一部に 「 聚珍倣宋 版印書局 」 とするものがある。
製本様式は専門外であり、また 「 和綴じ 」 といういささか困惑する名称があるの で詳細に及ばないが、簡便な綴じ本になっている。
これを整理すると、以下のようになる。
「 宋王朝と元王朝時代の木版刊本にならい、古文書を活版印刷にし、二つ折りにしてつづったもの 」

《 聚珍倣宋版 ≒ 宋朝体活字の創成者-丁 輔之 と 丁 善之の肖像写真 》
2. 創成者の肖像写真

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活字組版見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 には、別紙の表紙のあとに、「 縁起 ≒ はじめに 」 が二丁04ページあり、そのうしろに一丁02ページで 「 創辧人 丁 輔之」と、「創辧人 丁 善之遺像」の肖像写真がある。
画像は写真凸版印刷とみられるが、幾分鮮明度を欠く。

写真キャプション 「 創辧人 」 の 「 辧 」 は、弁の異体字で、ここでは創成者とした。
写真キャプションは右起こし横組みで、「 創辧人 丁 輔之」 では、二号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝 ) にスペースがはいっている。
「 創辧人 丁 善之遺像 」 では三号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝 ) にスペースがはいっている。

このふたりはどちらが年長かわからないが兄弟とみられている。 若いころは、杭州西湖の白堤 ( 白居易の築造とされるおおきな堤 ) にある 「 西泠印社 」 と関係が深かったようで、杭州にはこのふたりによる 「 聚珍倣宋印書局 」 がのこした、木活字本、金属活字本など、おおくの関連資料がのこっている。
その清朝最末期 ( 明治末期-大正初期)の製造と みられる木活字本の一冊を、最近都内の大学図書館が購入した。研究の進捗をまちたい。

丁 輔之 ( てい-ほし 1879-1949 清朝末期-中華民国時代 明治12-昭和24 ) は、70年ほどの人生をいきたひとで、篆刻家、書画家としてしられる。
丁 輔之は 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 を刊行した1923年(大正12)には44歳ほどの年齢であったはずだし、清朝は1911年 ( 明治44 ) に崩壊して、中華民国の時代となって 十余年が経過しているが、頭髪はいまだに清朝時代の風習の 「 辮髪 ・ 弁髪 」 のようにもみられる。 あるいは単にひたいがはげ上がっていただけかもしれない。

いっぽう丁 善之は生没年ともにあきらかではなく、1923年 ( 大正12 ) のとき、すでに歿していたとみられ、写真は 「 遺像 」 として、相当修整の痕跡がのこる画像がしるされている。
したがって、実際に活字 「 聚珍倣宋版 」 の元字版下を製作したのは、このふたりのうちいずれが中心だったのかはつまびらかではない。

しかしながら、丁 輔之の遺作のほとんどは、篆刻と画文であり、活字紹介はきわめてすくない。
また、丁善之の没後まもなくとみられるが、丁 輔之が杭州の聚珍倣宋版印書局とその活字資料を、上海の中華書局に売却したこと。
また中華書局では 「 聚珍倣宋版 」 のサイズの拡張 ( シリーズ化 ) と、新聞扁平活字と同様に、「 批字模雕刻機。 機械式活字父型 ・ 母型彫刻機」( わが国の俗称 : ベントン彫刻機 ) の縦横比を調整すれば、比較的容易に製作することができ、「 割り注 」 などにもちいられた 「 夾註字 ・ 双行字 」 ( わが国では長体宋朝活字とする。 わが国では方体宋朝活字より、本来は 「 割り注 」 などのために開発された長体宋朝活字が好まれた ) の開発に終始し、あらたな、めぼしい活字書体を発表していないことをあわせて考察すると、あくまで現状では、活字開発の中心人物は丁 善之であったとおもいたい。

《 聚珍倣宋印書局の登録商標に関して 》
3.   聚珍倣宋印書局の登録商標

DSCN0899商標_聚珍倣宋印書局マーク

丁 輔之、丁 善之による 「 聚珍倣宋印書局 」 は杭州におかれたが、その早期から類似活字の登場になやまされ、「 北京文嵐社 」 などとは、相当深刻な法廷闘争を展開していた記録ものこされている (シンさん蔵)。
このころの中国では、活字書体の権利関係の法規が十分ではなく、それにかえて、せめてものおもいから 「 商標登録 」 を申請していたものとみられる。
画像の一部の登録商標を取りだし、その一部に修整を加えたものを拡大紹介し、オリジナルデータはちいさく紹介した。

デザインは、中央に 「 宋 」 の字をおき、外周部両端中央にシンプルな形態の 「 魚尾 」 をおいている。 この魚の尾を模した文様は、刊本時代に版心 ( 折り目 ) の役割をはたしたもので、目的と機能があった。 現在では市販の 「 四百字詰め原稿用紙 」 の中央におかれることがある。
上部には企業名 「 聚珍倣宋印書局 」 をおき、下部には 「 股份有限公司 」 をおく。
股份グーフィン有限公司は株式会社の意ととらえたい。

表記された 「 民国紀元 ・ 中華民国暦 」 中華民国09年とは、1920年 ( 大正9 ) のことで、活字組版見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 刊行のわずか三年前のことであった。 [この項つづく]

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-02 縁起 ものごとのはじめ 釈読

わが国の近代印刷活字の 「 明朝体 ・ 宋朝体 ・ (正)楷書体 」 は、それぞれ19-20世紀初頭、中国の近代活字に源流を発するものであるが、かの国ではちがう名前でよばれている。
いくぶんくどくなるが、ここでは混乱をさけるために、できるだけ双方の呼び名を併記していきたい。

そこで早速、『 聚珍倣宋版式各種樣張 』( 中華書局 1923年 ・ 大正12 ) の巻頭におかれた 「 縁起-ものごとのはじめ 」 から、中華民国時代の中国の、聚珍倣宋版 ( 中華書局の宋朝体活字 ) の原字制作者ともくされる、善之丁三在(丁 善之テイ-ゼンシ。姓 : 丁、あざな : 善之、名(元名) : 三在。 生没年不詳)が、明朝体や宋朝体 ( 宋体字 ・ 明朝字、聚珍倣宋版 ) をどうみていたのか、興味ある資料があるので、拙訳ながら紹介したい。

なおこの 「 縁起 」 と組版例一例の 「 図版 」 の部分は、『 図解和漢印刷史 』 (長澤規矩也 汲古書院 昭和51年2月 ) の 「 図版集 縁起 論語巻之一  p.77-79 」 と、 「 別冊 《 解説 》 図版 77-79  」 に図版として紹介されたことがある。
長澤規矩也はこの紹介を 「 別冊 《 解説 》 」 で次のようにだけ簡略に紹介している。

図版 77-79   聚珍倣宋版各種様張 民國刊( 聚珍倣宋版 ) 縁起及一頁
錢塘の丁氏が創成し、丁仁が倣宋印書局を興し、後、中華書局が使用権を獲得した。 倣宋聚珍版、見本帖から抽印した。縁起は漢字活字の歴史にも及ぶので、全文を収録し、見本組の一ページをも示す。
聚珍倣宋版表紙 DSCN0895 DSCN0892

 

聚珍倣宋版01 聚珍倣宋版02聚珍倣宋版03『 聚珍倣宋版式各種様張 』 に紹介された活字組版例/縁起/
一号聚珍倣宋版 ( 一号方体宋朝活字 )。 縦組み、ベタ組。 一行23字。 10行。 行間四分。

『 聚珍倣宋版式各種樣張 』( 中華書局 1923年 ・ 大正12 )
縁 起 ―― ものごとの はじめ ―― 釈 読

中国上古には、糸の結びかたで物事を記録した。 文と字が発明されてからは、物事の記録が容易になったが、木簡と竹簡が用意されるまでにはまだ多くの苦労があった。
春秋戦国時代の大国にして、中国史上最初の中央集権国家となった秦王朝時代 ( BC 221-BC 206 ) の蒙恬モウテン将軍が筆を発明 ( モウテン。 秦の武将。 始皇帝のとき匈奴を討ち万里の長城を築いたが 丞相李斯リシらに投獄され 二世皇帝のとき自死。 蒙恬の筆の発明説には異論もある。 ?-BC210 ) してから書がはじまった。
つづく漢王朝時代の蔡倫(サイリン。 東漢の宦官カンガン、あざなは敬仲。 生没年不詳 ) が、105年に樹皮 ・ ぼろ布 ・ 魚網などから紙を製して、和帝 ( 穆宗。 劉 肇。在位88-105)に献上したとされる ( 蔡倫の紙の創始説には異論もある )。  紙が発明されてから巻物が登場した。

隋王朝 ( 581-619 ) のはじめ、宮廷で書物の作製がさかんになり、「 鋟版  シンパン 」 という彫刻版が登場して、唐王朝 ( 618-907 ) と、五代の諸王朝 [ 唐から宋への過渡期に華北に興亡した、後梁 ・ 後唐 ・ 後晋 ・ 後漢 ・ 後周の五王朝。 907-60 ] がこれを踏襲した。
この技術はその後、北宋 ( みやこは黄河中流の汴 ベン、開封 Kaifeng。960-1127 ) の時代にはおおいに整備されて盛んなものがあった

北宋までの時代の印刷版は、能書家の文字を版に彫ったので、書風はその都度ちがっていた。 したがって北宋時代の図書をみると、唐代の欧陽詢 ( オウヨウ-ジュン 557-641 ) の書風をまねた 「 欧体字 」 がおおく、その字画の構造は力強く、端麗適切で充実して、歪みや、崩れもなく立派なものであった。

近代のいわゆる宋体字 [ 明朝体活字 ] はこの書風に由来している。 しかしながいときのなかで、宋王朝の字様は失われ、とりわけ北宋の木版刊本にみられた、端麗適切で充実した、欧陽詢の書風は徐徐にうしなわれて、ただ漠然と、その刻字の外周をなぞり、形を真似る ( 膚郭之字 ) だけとなっている。

北宋から臨安 ( 杭州 ) にみやこをおいた 南宋 ( 1127-1279 ) を経て、元王朝 ( 蒙古族王朝。 みやこは大都 ・ 現北京。 1271-1368 ) の時代になると、木版の書風には 「 趙松雪チョウーショウセツ の書風 」 [ 趙子昂 チョウースゴウ。 姓は趙、あざなは子昂、名は孟頫 モウフ、号は松雪、松雪道人。 宋の皇族の末、元の文人。 1254-1322 ] を用いるものがふえて、明の隆萬年間 ( 1566一1620 ) には、木版専門に「方体書」の書き手、すなわち能書家にかわり、版下の書き手を職業とするものもあらわれた。

すでに宋の時代に、木版による刊本印刷だけではなくて、よりコストが安い、活字による印刷がおこなわれていた。 そこでは泥字 [ 膠泥活字。 ニカワを焼結した活字 ]、瓦字 [ 磚 ・ 練り瓦。土 ( 粘土 ) を扁平に焼き、方形 ・ 長方形の活字としたもの ]、錫字 [ スズを主要素材とした金属活字 ]、銅字 [ 銅を主要素材とした金属活字 ]、木字 [ 木製の駒に字を裏字にして直刻した活字。 木活字 ] といった各種の素材が試みられていた。

清王朝(1616-1912)のはじめのころは、満洲王朝だったにもかかわらず、むしろ漢民族の文化が推奨されていた。 清の乾隆年間 ( 1735一95 )、北京の有名な刻書処、紫金城内の武英殿では、『 大清一統史 』、『 明史 』、『 四庫全書 』 などの数おおくの古今の図書を刊行し、その木活字は25万個を超え、活字かえて、縁起のよい 「 聚珍版 」 [しゅうちん-ばん]とよばれ、北宋についで活字版印刷の中興の時代となった。

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清朝末期のわが国 [ 中国 ] は、海禁 [ 鎖国 ] をおこなっていたが、わずかに外国にむけて開放されていた香港には、キリスト教の宣教師たちが、鉛製の活字と印刷機械をもちこんで、漢字の活字一セットをつくった。 これはいわば 「 香港字 」 というもので、現在の四号活字にちかい寸法であった。

日本では書籍印刷のために、明朝字 [ 明朝体活字 ] という鉛製の活字を、大小のサイズで七種類もつくり [ 明治後期のわが国では、初号、一号 ― 八号、都合九種類の活字サイズが存在していた ]、活字印書の業 [ 活版印刷業 ] が大繁盛して、この明朝字なる活字書体を便利なものとしていた。
そこである中国人が、印刷のために日本から明朝字 ( 明朝活字 ) の七種類をわざわざ輸入した。 それをみると、書風としては 「 膚郭宋体 ≒ 字の魂魄がぬけて、輪郭をなぞっただけの宋体 」 であり、しかもひとつの書風しかなかったのである。

べつにふるさだけにこだわるつもりはないが、日本の明朝字 [ 明朝体活字 ] は、北宋刊本の刻字にみるような、端正な彫刻風の味わいがなかった。
そこでここに、北宋時代の木版刊本の字様 [ 木版上の書風 ] と、紫金城武英殿の木活字 「 聚珍版 」 からまなび直して、方体と長体の、大小のサイズの活字をつくり、ここに 「 聚珍倣宋版 」 と名づけた。 印刷業者の利用を待つゆえんである。
銭塘善之丁三在記於春江寓齋
──銭塘のひと。姓 : 丁、あざな : 善之、名(元名) : 三在 ( 丁 善之 ) 春江寓齋においてしるす
[翻訳協力 : 林 昆範老師]

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ながい引用になったが、この文章は 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 ( 中華書局 1923年 ・ 大正12 ) という、一種の活字組版見本帳の 「 縁起 ( ものごとのはじめ )」として、浙江省銭塘 ( 杭州 ) ・ 善之 丁 三在 ( 以下、丁善之 テイ-ゼンシ 生没年不詳 ) の記録としてのこされたものである。

『 聚珍倣宋版式各種様張 』 が発行された1923年 ( 大正12 ) には丁 善之は物故していたとみられ、巻頭に 「 丁 善之 遺像 」 として写真が紹介されていることは前回報告した。
またその兄弟とみなされている 丁 補之 ( テイ-ホシ 1879-1949 清朝末期-中華民国時代 明治12-昭和24 ) が同書の表紙を題している。 

丁善之は 「 縁起 ( ものごとのはじめ )」 のなかで、奇妙なことに、わが国ではよく知られている、また浙江省銭塘 ( 現 杭州 ) からはさほど遠くない、上海にあった美華書館の動向についてはひとことも触れておらず、日本の明朝体活字 ( 宋体字 ・ 明朝字 ) とは、その最初期には、美華書館のもののほとんど模作であったことを知らないようある。
そしてなにより驚くのは、中国における近代活字 「 金属活字の宋体字 ( 明朝体活字 )」は、明治末期-大正初期にかけて、どうやら日本から中国への逆輸出されたものであったと想像できることである……。

近代明朝体活字が 「 上海租界 ( 外国人居留地 ) の美華書館 」 からわが国に導入されて、160年ほどの時間が経過した。 明朝体活字は、疑いもなく、わが国、明治の文明開化と近代化をもたらし、国民の読書、情報伝達におおきな役割と貢献をはたしてきた。

たしかに長崎に伝来した美華書館版活字は、平野富二 ( 1846-92 ) が東京に進出して、東京築地活版製造所を設立して活字製造と印刷機器製造を開始し、曲田成 ( マガタ-シゲリ  1846-94 )、野村宗十郎 ( 1857-1925 ) ら歴代の経営陣の意欲的な取り組みや、名はのこらなかったが、曲田茂が招聘した数名の中国人工匠や、竹口芳五郎 ( 1840-1908 ) らの東京築地活版製造所の職人の改刻をへていた。
さらに秀英舎 ( 現 : 大日本印刷 ) にあっては、創業者 : 佐久間貞一 ( 1848-98 )、第二代 : 保田久成 ( 1836-1904 )、関連企業 : 製文堂  逸見久五郎 ( 生没年不詳 ) らの功績も看過できない。

それだけでなく、わが国にあってはたくさんの有名 ・ 無名の活字製造業者が明朝体の改刻に取り組んできた。 その結果、明治の後期ともなると、
「 上海租界 ( 外国人居留地 ) 美華書館からもたらされた…… 」
というより、見方をかえれば、わが国独自の活字書風としての完成をみるにいたったものである。

その結実は明治20年代の末ころ、ほぼ明朝体活字は完成の域にたっしたとみられるので、中華民国時代 ( 大正時代 - 戦後まもなくの1949年まで。 現在は台湾政府となっている ) の 丁 善之からみたら、まったく美筆書館のものとは異質の書風にみえたかもしれない。
それよりも、「 上海租界 ( 外国人居留地 )」とは、換言すれば 「 治外法権の外国占領地 」 ともいえたきわめて特殊な場所であり、キリスト教の広報宣伝機関でもあった美華書館の存在などは、ほとんど一般市民は知らなかったとみたほうがよいであろう。
聚珍倣宋版04 『聚珍倣宋版式各種様張』に紹介された活字組版例/論語巻之一 朱熹批註本を例として
半葉(01ページ)ごとに

基本組版 : 一行20字。10行。
単辺匡郭枠 : 六号無双罫、天地55倍、左右39倍。
界線 : 五号 1/8 罫線(中国呼称不明。わが国の通称 トタン罫。1.3125pt)
本文 : 二号聚珍倣宋版(二号方体宋朝)、字の脇に圏点(けんてん 小丸)を加えている。
双行註(割り注) : 三号長体聚珍倣宋版(三号長体宋朝)。

聚珍倣宋版05

 『 唐確慎公集 』( 中華書局刊 1920年代 )/筆者所蔵。 近近詳細紹介。