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平野富二と活字*16 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅲ 明治初期の偉人たち-2

『VIVA!! カッパン』活字ホルダー紹介 活字ホルダーをもって立つ冨澤ミドリさん 江川次之進活字行商の図 部分拡大s 江川次之進活字行商の図 全体図s 江川次之進活字行商図 江川次之進肖像写真

《すべてのきっかけは活字ホルダーと、一本のお電話からはじまった》
朗文堂 アダナ・プレス倶楽部のWebsiteでは、数度にわたって〈活字ホルダー〉を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。
その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている〈活字ホルダー〉の図版を紹介し、いまではふたたびその名称と使用法は広く知られるようになった。

『VIVA!! カッパン♥ 』 (アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月21日 p.64)
〈活字ホルダーの紹介。下部は〈活字狂を自他共にゆるした故志茂太郎の愛蔵品〉

《ご先祖様、江川活版製造所の江川次之進の遺影と肖像画があるのですが……》
ある日、アダナ・プレス倶楽部のWebsiteをご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。この絵がどういう情景を描いたものかが分からなかったのですが、これが〈活字ホルダー〉なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたというわが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいた。
また掛け軸は江川家側で修復されたものをお預かりした。この貴重な資料は研究レポートの刊行後に、しかるべき施設に寄託の予定となっている。

【タイポグラフィ・ブログロール 花筏 ──── 関連情報】
◎ タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料
◎ タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機
◎ タイポグラフィ あのねのね*018 活字列見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート02
◎ タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート09

《江川活版製造所と江川次之進の研究は一瀉千里で進行した》
その後、江川活版製造所とその創業者:江川次之進の研究は、やはりWebSiteをご覧になったハワイの造形家から、江川活版製造所が製造したアルビオン型手引き印刷機の画像が紹介されるなどして、一瀉千里の勢いで進行した。
その研究成果は、まもなく公表されると仄聞している。楽しみにまちたいものである。
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この間も苔掃会は、地道に基礎資料の発掘にあたっていた。とりわけ苔掃会肝煎り/松尾篤史氏は、既存の資料にたよらず、谷中霊園周辺の墓地を丁寧な観察をつづけていた。
今回はこうしてあらたに発掘された資料を中心に紹介したい。

谷中霊園とその周辺の寺からは、江川次之進があたらしい活字書体の開発のために、最初に着目した、書家にして教育者:中村正直マサナオが撰ならびに書をのこした碑文が発見された。
また江川活版製造所の特徴ある「隷書活字」の版下をのこした久永其頴ヒサナガキエイと、印刷史研究家:川田久長の墓所もみつかった。

今回は平野富二そのものというより、その周辺にいた人物を中心に紹介したい。

B江川次之進肖像 B人物 B全体原寸サイズ B広告-第九号 B器具-扉 B扉-ホルダー 印刷大観広告  Egawa egawa    Egawa sun Egawa side egawa base VIVA62 B江川広告

《久永其頴 ヒサナガ-キエイ の墓所の発見》
知るところがまことに少ないのが久永其頴 ヒサナガ-キエイ である。
久永其頴は書芸家というより、むしろ実用の書、版下の書を多くのこした。また本名は久永多三郎であり、雅号として久永其頴をもちいていたことが墓地の発見からも明確になったが、墓誌は損耗がはげしく、また剥落が多くて、生没年などの読み取りは困難を極める。

久永其頴には、文字標本というか、著作というのか、『楷書千字文』、『行書千字文』、『帝国作文大全』などの書物がのこされている。そのうち発行部数が多かったとみられる『楷書千字文』はやつがれも所有しているが、本来入手を望んだのは久永其頴『行書千字文』であったこともあり、現在は探し出せないでいる。

幸い現在では〈国立国会図書館デジタルコレクション 久永其頴『行書千字文』〉は、デジタルデータで公開されているので、その特異な書風の一部を知ることができる。
また朗文堂タイプコスミイクでは、久永其頴の個性ある仮名書風をデジタルタイプとして再現した、欣喜堂:今田欣一氏の設計による、『和字 Ambition 9  ひさなが』 の販売もおこなっている。


ひさなが
久永其頴の墓所は、東京都台東区谷中6-2-8 自性院墓地にあることが今回松尾篤史氏によって報告された。自性院は川口松太郎『愛染かつら』ゆかりの寺であり、参拝客も多い。
また久永家の墓地は独特の書風の墓標で、現在も香煙がたえない。墓誌は損耗が著しくてよみとれないでいるが、いずれご家族から取材ができたら、さまざまな資料が発掘される可能性もありそうである。

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《初期印刷人が多く眠る谷中霊園  印刷史研究に独自の視点で臨んだ川田久長の墓》
川田久永『活版印刷史』初版20140523121747341_0001川田久長『活版印刷史』初版本  組版データー
大日本印刷、印刷学会出版部発行 昭和24年03月20日
B6版 並製本

本文 : 9pt 明朝体活字 一行45字、16行、行間7.5pt
DSCN3964DSCN3967DSCN3970川田久永『活版印刷史』増刷20140523121747341_0002川田久長『活版印刷史』再版本  組版データー
杜陵印刷、印刷学会出版部発行 昭和56年10月05日
B6版 上製本 スリップケース付き

本文: 9pt 明朝体活字 一行45字、21行、行間4.5pt
参考: 杜陵印刷と小社とはながい取引関係にある。この時代の杜陵印刷にはA全判、A半裁版活版印刷機が数台あり、本文活字は自家鋳造であり、ムラ取り時間短縮のために、紙型鉛版方式(ステロ版)での活版印刷が多かった。
DSCN4054DSCN4045 DSCN4051  20140508172450578_0001 20140508172450578_0002 集合写真「印刷産業綜合統制組合屋上にて:矢野道也氏を送る会」(1946年03月25日)
写真) 印刷学会会長職の辞任を申し出た日に。印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也。
前列左より : 佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より : 馬渡努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

著作や著述が多い割に、川田久長の人物像は知るところがすくなかった。痩身で大柄なひとであったようである。集合写真:「この一冊の書物から 05 ──── 印刷所は金属鉱山-変体活字廃棄運動の禁句」『印刷情報』(片塩二朗 2007年07月号)より部分拡大。
以下に略歴をしるす。

川田久長 かわだ-ひさなが
1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日

明治23年05月25日  東京牛込区にて、父:麹町区長・川田久喜、母・むめ子の長男として誕生。
大正02年09月      東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。浅沼商会入社。製版材料調査に従事。
大正12年          秀英舎入社。製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月      印刷図書館初代館長に就任。のち「文部省認可 財団法人 印刷図書館」(昭和24年設立)となる。
昭和24年03月20日   著作『活版印刷史』(初版・並製本 印刷学会出版部)刊行。
昭和37年07月05日  逝去。享年72。墓は谷中霊園 甲3号4側に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作『活版印刷史』(再版・上製本 印刷学会出版部)刊行。

《啓蒙思想家、教育者/中村正直の撰並びに書の碑文》
江川活版製造所、江川次之進が、東京築地活版製造所を追随するために新書体開発をめざし、そのはじめに、原字版下を中村正直(なかむら-まさなお  中邨ともする 1832-91)に依頼したことは既述した。【ウィキペディア:中村正直
中村正直は、江戸で幕府同心の家に生まれた。徳川幕府の昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となった。幕府のイギリス留学生の監督として渡英して帰国後は静岡学問所の教授となる。

江戸徳川家が転封を命じられた静岡藩時代、静岡学問所教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を翻訳刊行した。すなわち『西国立志篇』(別訳名『自助論』)で、最初は木版刊本11巻として、のち佐久間貞一の懇請をいれて近代活字本一巻として出版した。同書は100万部以上を売り上げ、秀英舎(現大日本印刷)の基盤確立に寄与するとともに、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。
またジョン・スチュアート・ミルの『On Liberty』を訳した『自由之理』(現在では同書を『自由論』と称するのが一般的)は、「最大多数の最大幸福」という功利主義思想を主張し、一躍「自由」は明治のはやりことばとなった。同書では個人の人格の尊厳や、個性と自由の重要性を強調した。

1872年(明治5年)、大蔵省に出仕。女子教育・盲唖教育にも尽力。1873年(明治6年)、同人社を開設。また、福澤諭吉、森有礼、西周、加藤弘之らとともに設立した明六社の主要メンバーとして啓蒙思想の普及に努め、明治六年創立の「明六社」の機関誌、「明六雑誌」の主要な執筆者でもあった。
自助論の序文にある ‘Heaven helps those who help themselves’ を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも中村正直である。

中村正直は能筆であったことは下掲の碑文からもあきらかだが、活字の原字を書すという作業は、能筆家であることがかえって妨げになることがある。
そうした背景があって、江川次之進は中村正直の原字を中途で断念して、「版下の書」を書いていた久永其頴ヒサナガ-キエイに依頼して、江川活版製造所の代表的な活字書体「江川行書体」を製造した。

この石碑は谷中霊園にあるが、まだ研究の手はおよんでいない。参考までにご紹介する。
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