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【資料紹介】 東京大学文書館 重要文化財『文部省往復』 明治期分137簿冊PDF公開開始

東京大学文書館は、東京大学にとって重要な法人文書及び同学の歴史に関する資料等の適正な管理、保存及び利用等を行うことにより、同学の教育研究に寄与することを目的として2014年4月に設置されました。
東京大学文書館は、東京大学百年史編集室および東京大学史史料室で収集した資料及び成果を引き継ぎつつ、新たな役割を担って活動しています。

■ 特定歴史公文書等 文部省往復

『文部省往復』は、東京大学と文部省との間でやりとりされた公文書綴です。
文部省が所蔵した資料は関東大震災などの影響によって失われており、東京大学文書館が所蔵している『文部省往復』は、日本近代高等教育の成立期の稀少な歴史資料です。
これは2013年2月に重要文化財指定を受けており、学術的に重要な資料として評価を得ています。

『文部省往復』は、これまで東京大学文書館の前身である東京大学史史料室で保存・公開されてきましたが、劣化の進行により頻繁な閲覧提供が難しくなっていました。
そのために同館では、旧文部省側には存在しない歴史資料を保存し、広く活用を促進するために、デジタル画像化・メタデータ作成を進めてきました。

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先般同館所蔵資料のデジタル画像の公開が開始されました。その第一弾は、『文部省往復』(S0001)です。

『文部省往復』は重要文化財に指定されており、その中の明治期の簿冊〔書類などを綴じて冊子としたもの〕137冊を、科研費プロジェクト「文部省往復を基幹とした近代日本大学史データベース」(代表 : 東京大学大学院 情報学環  教授 吉見俊哉)でデジタル化されました。画像は同館HP上に掲載されている
資料目録 http://www.u-tokyo.ac.jp/history/S0001.html  よりアクセスすることができます。
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{ 新 宿 餘 談 }
先般デジタル公開された『文部省往復』は、『東京大学百年史』(東京大学百年史編集委員会編、全10巻、1984-1987年)をはじめ、『年譜 東京大学1887-1977-1997』(東京大学史史料室編集・構成。創立120周年記念で作成された写真入り年譜、1997年10月)など、多くの記録にもちいられてきた貴重な資料である。
しかも、同館が述べているように<『文部省往復』は、日本近代高等教育の成立期の稀少な歴史資料>にとどまらず、成立期の近代印刷 ≒ タイポグラフィの稀少な歴史資料である。
まずその明治期分137簿冊がデータ化され、公開されたことをおおいに欣快としたい。

東京大学の 沿革 をたどると、明治10年(1868)4月12日、東京大学創設とある。これは同大の主要な前身たる東京開成学校と東京医学校を合併し、旧東京開成学校を改組して、法・理・文の三学部とした。また旧東京医学校を改組し医学部を設置した。また東京大学予備門を付属していた。
さらに上記の施設の淵源をたどると、貞享元年(1684)の徳川幕府の「天文方」をはじめ、昌平坂学問所(昌平黌)、種痘所(西洋医学所)などのさまざまな教育施設が、業容と名称をさまざまにかえながら、漏斗にあつまる液体のように、「第一次東京大学、帝国大学、東京帝国大学、東京大学」へと収斂されてきたことがわかる( 沿革略図 )。
!cid_24E9F9FC-FB87-48D6-B903-1EA9AA128284 !cid_A8095C08-3F5F-40C3-A674-CCDD92543E22 !cid_8A4D6963-3481-4BF9-B05D-34212F3202F7《 『文部省往復』 その一端をみる 》
『文部省往復』明治4年背文字特定歴史公文書等 文部省往復
ID S0001/Mo001  『文部省及諸向往復 附 校内雑記』〔明治四年(甲)東京帝国大学〕
『文部省往復』明治4年版目次p.12 『文部省往復』四〇七丁 『文部省往復』四〇八丁特定歴史公文書等 文部省往復は、草創期の明治4年でも甲乙の二分冊よりなる。
巻頭の目次に表記されているのは丁記であり、データーのファイル番号とはことなる。
◯ S0001/Mo001 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)
明治4年1月-明治5年1月、 達之部、准允之部、伺之部、上申之部、届之部、校内雑記を収録 614丁
◯ S0001/Mo002 『文部省及諸向往復』 明治四年 (乙)
明治4年1月- 明治4年12月、 本省往復之部、太政官及諸寮局往復之部、駅逓寮往復、東京府往復之部、諸県往復之部、諸学校往復之部を収録 610丁
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『文部省往復』明治4年版甲・乙二分冊をようやく読みおえた。あいまいだったところが明確になり、脈絡がつかなかった部分が道筋がついてきた。いまはオリジナル資料の威力と凄みをしみじみと味わっている。
あらためてデータ作製と公開にあたられた東京大学文書館とスタッフの皆さんに深甚なる敬意を表したい。

◯ S0001/Mo001 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)の巻頭、目次ページ四〇七丁に意外な記録をみつけた。

四〇七丁  長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件

昨2016年05月朗文堂サラマ・プレス倶楽部主催<Viva la 活版 ばってん 長崎>が開催された。その際地元長崎での研究と、東京での研究がつきあわせられ、平野富二の生家の地が特定されるなどのおおきな成果があった。
その後「「平野富二生誕の地」碑建立有志会」(代表:古谷昌二)が結成され、全国規模の会員の運動となって、生誕地に記念碑を建立すべく活動がはじまっている。

あわせて、工部権大丞山尾庸三の命により、長崎から東京への移動を命ぜられた活字版印刷器機と、活字と活字鋳造機が、どこへ、どのように持ち去られ、そしていまはどのようになっているのか・・・・・・というテーマで積極的な調査がはじまっている。

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「平野富二生誕の地」碑建立有志会 URL より
明治4年から明治5年の平野富二の動向[古谷昌二執筆]

新政府直轄の長崎府による経営となった長崎製鉄所の新組織で、頭取本木昌造の下、機関方として製鉄所職員に登用され、1869年1月(明治元年12月)、第一等機関方となる。
同年4月(明治2年3月)、イギリス商人トーマス・グラバーから買取った小菅修船場の技術担当所長に任命される。その結果、船舶の新造・修理設備がなく経営に行き詰まっていた長崎製鉄所に大きな収益をもたらす。
さらに、立神ドックの築造を建言してドック取建掛に任命され、大規模土木工事を推進、多くの人夫を雇うことによって長崎市中に溢れる失業者の救済にも貢献。

その間、元締役助、元締役へと長崎製鉄所の役職昇進を果たし、1870年12月(明治3年閏10月)、長崎県の官位である権大属に任命され、長崎製鉄所の事実上の経営責任者となる。その時、数えで25歳。
折しも長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管されることになり、工部権大丞山尾庸三が経営移管準備として長崎を訪れ、帳簿調査などで誠実な対応振りを高く評価される。

長崎製鉄所の工部省移管により、1871年5月(明治4年3月)、長崎製鉄所を退職。造船事業こそ自分の進むべき道と心に決めていたことから、工事途中の立神ドック完成とその後の運営を願い出るが果たせなかった。
1871年8月(明治4年7月)、活版事業で窮地に追い込まれていた本木昌造から活版製造部門の経営を委嘱され、経営方針の見直しと生産体制の抜本改革を断行、短期間で成果を出す。需要調査のため上京、活字販売の見通しを得る。

1872年2月(明治5年)になって、安田古まと結婚し、新居を長崎外浦町に求める。近代戸籍の編成に際して平野富二と改名して届出。
同年8月(和暦7月)、新妻と従業員8人を引き連れ、東京神田和泉町に活版製造所を開設、長崎新塾出張とする。活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たし、木版印刷が大勢を占める中、苦労しならが活版印刷の普及に努める。

政府、府県の布告類や新聞の活版印刷採用によって活字の需要が急速に伸張したため、1873(明治6)年7月、東京築地に移転。翌年、鉄工部を設けて活版印刷機の本格的製造を開始。平野活版製造所または築地活版製造所と称する。

 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)の目次「四〇七丁 長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件」から、本文四〇七丁をみた。
長崎にあった活字版印刷器機と活字鋳造機は、当時の最先端設備であった。そのため断片的な記録ながら、これらの設備の獲得のために、「工部省と文部省(大学)とのあいだで紛争があった」という記録は印刷史の記録にもわずかにのこっていた。

四〇七丁の記事は、大学南校(のちに東京開成学校から東大へ)の用箋にしるされ、湯島にあった大学にむけて、
<長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件――大意:長崎県にあった活字版印刷設備は当校〔大学南校〕がうけとる約束だったのに、長崎県から工部省に渡された件>と題して、「当校には断りもなく工部省に横取りされた。約定違反であり、不条理である」と憤懣やるかたないといった勢いでしるされている。

この記録からみても、大学南校、大学東校には長崎県活版伝習所関連の設備の大半は到着しなかったとみられる。また両校の最初期の教科書類を瞥見した限りでは、長崎由来の活字を使用した形跡はみられない。

ただし大学南校においてはオランダ政府から徳川幕府に献上された「スタンホープ手引き式乾板印刷機」をもちいていたとする記録はのこっている。
そして長崎から移管を命じられた活字版印刷器機・活字鋳造器械・活字などは大半が工部省勧工寮に到着したが、それにかえて新進気鋭の平野富二が、新妻とスタッフを連れて、再購入した新鋭機とともに東京に乗りこんできたのである。

1872年2月(明治5年)になって、富次郎は安田古まと結婚し、新居を長崎外浦町に求める。近代戸籍の編成に際して平野富二と改名して届出。
同年8月(和暦7月)、新妻と従業員8人を引き連れ、東京神田和泉町に活版製造所を開設、長崎新塾出張とする。活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たし、木版印刷が大勢を占める中、苦労しならが活版印刷の普及に努める。

すなわち、『文部省往復』と、「平野富二生誕の地」碑建立有志会での研究成果を照らしあわせると、平野富二の東京への初進出の場所「神田和泉町」とは、大学東校(のちに東京医学校から東大医学部へ)の敷地内そのものであった。
これらのことどもは、先行した印刷史研究関連資料からは容易に引き出せなかったが、東大医学部の前身・大学東校の記録も『文部省往復』には満載されている。

そしてこの神田和泉町時代の大学東校内のおなじ建物に、時期こそ違ったが寄宿し、ここでまなんだ、医師・軍医・文学者/森鷗外と、やはりここで寄宿し、それを指導した石黒忠悳らの記録も次〻と精査されはじめている。

本年は明治産業近代化のパイオニア-平野富二生誕一七〇周年である。

その研究成果の展示・発表と、平野富二の東京での足跡をたどるバスツアーが企画されていると仄聞する。当然神田和泉町も築地二丁目と同様に、重要な訪問地として設定されている。ここから近代医学教育と治療が本格的にはじまり、本格的な近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィも、ここで呱呱の産声を揚げたことになる。

【 詳細 : 東京大学 東京大学文書館 特定歴史公文書等 文部省往復 】