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【展覧会】 萩博物館 萩の鉄道ことはじめ ’17年12月16日─’18年4月8日+日本鉄道の父:井上 勝

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萩博物館 企画展

萩の鉄道ことはじめ  ― 待ちに待ったる鉄道いよいよ開通す―
◯ 開 催 日 : 2017年12月16日[土]-2018年4月8日[日]
◯ 時     間 : 09:00-17:00(入館は16:30まで)
◯ 会     場 : 萩博物館 企画展示室
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日本近代化の象徴である鉄道は萩に何をもたらしたのでしょうか。
「鉄道の父」井上勝をはじめ、草創期の「鉄道技術者」飯田俊徳、
「時刻表創刊者」手塚猛昌など、萩ゆかりの人びとが鉄道をつうじて
近代化に貢献していったことに注目し、萩と鉄道のかかわりを
多角的な視点から紹介します。
【 詳細情報 : 萩博物館 
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{ 新塾餘談 }

* 飯田 俊徳(いいだ-としのり、1847-1923)
日本の鉄道の父といわれる井上 勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者。山口県萩市出身。元長州藩士。
萩藩大組飯田家の子として生まれ、幼名吉次郎。藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰の松下村塾にまなび、また大村益次郎らに師事する。高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。

1867年(慶応3)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学。帰国後工部省鉄道局に入局。
1877年(明治10)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された「工技生養成所」で教鞭を執り、多くの技術者を育て上げる。翌年、東海道本線京都・大津間にて逢坂山トンネル建設の総監督を務め、2年後完成させた。これは日本人の手で施工された最初の鉄道トンネルである。
その後も東海道本線をはじめとする東海地方・関西地方の数々の鉄道敷設を主導、1890年(明治23)に鉄道庁部長となるが、3年後鉄道国有化問題で退職。晩年は長男新の住んでいた愛知県豊橋市に隠居し、そこで没した。

* 手塚 猛昌(てづか-たけまさ  1853-1932)
明治-昭和時代前期の実業家。「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。現在の山口県萩市須佐出身。
嘉永6年11月22日生まれ。神職をつとめたのち慶応義塾にまなぶ。明治27年「汽車汽船旅行案内」を発行。星亨(ほし-とおる)らと東京市街鉄道をおこし、39年東洋印刷を設立し社長。明治40年帝国劇場の創設にも参加した。昭和7年3月1日死去。享年80。本姓は岡部。

バーナー井上勝 小学館ライブラリー井 上  勝(いのうえ-まさる 1843-1910)

明治期の鉄道技術者。鉄道庁長官。日本鉄道の父とされる。
長門国(山口県萩市)の長州藩士井上勝行の三男として天保10年(1843)8月1日生まれる。いっとき野村家を継ぎ野村弥吉と名のり、明治維新後実家に復籍して井上勝と称した。
長崎や江戸、そして箱館(函館)の武田斐三郎(たけだ-あやさぶろう)の塾で洋学を修めた。

長州五傑/長州ファイブ在英中の長州五傑 前列右から時計回りに紹介
山尾庸三、井上馨、遠藤謹助、井上勝、伊藤博文

職掌は唯クロカネの道作に候
吾が生涯は鐵道を以てはじまり、すでに鐵道を以て老いたり
まさに鐵道を以て死すべきのみ
井 上   勝

1863年(文久3)いわゆる「長州五傑・長州ファイブ」のひとりとして、伊藤俊輔(伊藤博文 ひろぶみ)、井上聞多(井上馨かおる)、山尾庸三(わが国工学の父 1837-1917)、遠藤謹助(近代貨幣制度の導入者・造幣局長 1836-1893)らとともにイギリスに密航、このとき井上勝は二〇歳、養家の姓から野村弥吉と名乗っていた。

英国滞在中はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大学群)で鉄道、鉱山技術を学び卒業、1868年(明治1)帰国。1871年工部省鉱山頭兼鉄道頭に任ぜられ、翌1872年鉄道頭専任となり、東京-横浜間(新橋駅-桜木町駅)の鉄道敷設に尽力した。
関西で鉄道建設がはじまると鉄道寮の大阪移転を断行した。外国人技師主導からの自立を目ざし、飯田俊徳をはじめとする日本人鉄道技術者を養成し、1871年からの京都-大津間の敷設には、井上自身が技師長となって逢坂山トンネル建設の難工事を乗りこえ、はじめて日本人だけの手で工事を完成した。技監、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任、東海道線ほか幹線の敷設に貢献した。

また鉄道庁長官として東北線を敷設する際に、広大な荒地を農場に変えようと念願し、岩手県におよそ900万坪の宏大な敷地に「小岩井農場」(現小岩井農牧株式会社 岩手県岩手郡雫石町)を創設した。
この農場の名称は共同創立者三名、日本鉄道会社副社長:小野義眞(おの-ぎしん)、三菱社社長:岩崎彌之助、鉄道庁長官:井上勝の姓の頭文字をとって「小岩井」農場と名づけられた。すなわち小岩井の「井」は井上勝の頭文字の「井」である。
なお「小岩井農場」は宮澤賢治の詩文集『春と修羅』にも「小岩井農場 パート一-九」にかけて印象深く描かれている。

1893年、幹線国有化論を主張したことがもとで鉄道庁長官を辞任した。
1896年汽車製造合資会社(のちに株式会社となったが、1972年川崎重工業に吸収)を設立、社長となった。欧州での鉄道視察中に病に倒れ、若き日を過ごしたロンドンで1910年8月12日息をひきとる。享年68。
遺言によって、現地で荼毘に付されたのち、東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)に埋葬された。ここはJR東海道本線・JR山の手線・京浜急行・東海道新幹線の鉄道線路に近接した場所である。井上 勝、愛称 : オサルの得意やいかにとおもわせる地でもある。
東京駅(丸の内北口付近)に彫刻家:朝倉文夫による銅像があったが、同地区再開発工事中のため撤去されており、現在はみられない。

(追記 : 初掲載{活版 à la carte}2017年12月08日。本稿アップロード寸前、2017年12月07日丸の内広場北西端、オアゾビルと新丸ビルの近くに、井上勝像が10年ぶり再建されたことを夕刊で各紙が報じていた)

【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展{日本工学の父 山尾庸三}

山尾庸三フライヤー(表)[1] 山尾庸三フライヤー(裏)[1]
日本工学の父・山本庸三の人物像に迫る

幕末に伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助らとともに、「長州ファイブ」のひとりとしてイギリスへ密航留学、帰国後は日本工学教育の分野で活躍し、工部大学校(後の東京大学工学部)創設に尽力するなど、日本の工学教育形成に尽力した山尾庸三を紹介。
本展は、2017年が山尾庸三没後100年という節目の年にあたることから、これを記念し開催されたもので、2016年3月に山尾家から萩市に寄贈された約1000点の資料の中から一部を展示。大部分が初公開となる貴重な資料を観覧できる。

【詳細情報 : 萩博物館 】 
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バーナー {新塾餘談}

Yozo_Yamao_01[1]山尾庸三 (やまお-ようぞう 一八三七-一九一七)

明治時代の旧長州藩出身の官僚。天保八年(一八三七)十月八日、萩藩士山尾忠治郎の次男として出生。
文久元年(一八六一)、幕府が江戸その他の開市開港の延期を諸外国と交渉するため、勘定奉行竹内保徳をヨーロッパに派遣した際、庸三は同使節に随行し、シベリアに渡る。
翌年、帰国後、高杉晋作らの攘夷運動に加盟して、品川御殿山のイギリス公使館の焼打ちに参加したこともある。その後、英国商人のT・グラバーの助力を得て、四人の同志とともにイギリスにおもむき(密航)、その産業や文化を視察した。この時の同行者のなかに、のちの伊藤博文や井上馨らがいた。

明治三年(一八七〇)に帰国後、庸三は民部権大丞兼大蔵権大丞を経て工部大丞へ昇進、同十三年には工部卿に就任。この間長崎製鉄所の責任者であった平野富次郎(富二)との接触が多かった。
その後、宮中顧問官・法制局長官などを歴任し、また同二十一年、東京日比谷官庁街の建設事業を担当する臨時建築局総裁を兼ねたこともある。同二十年、子爵を叙爵。
また岸田吟香らとともに楽善会訓盲院(現筑波大学附属視覚特別支援学校 東京都文京区目白台3-27-6)の創立につくした。
大正六年(一九一七)十二月二十一日没。八十一歳。
[参考文献] 古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』、井関九郎編『現代防長人物史』三、『国史大辞典』(吉川弘文館)
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山尾庸三は現下の<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>でも注目される存在であるが、古谷昌二氏は『平野富二伝―考察と補遺』の「二-六 長崎製鉄所の経営責任者就任と退職」(.p.96-109)のなかで、すでに相当詳しく論述されている。 

山尾庸三は明治三年(一八七〇)に英国から帰国後、当時、工部権大丞で、新設されて間もない工部省の実質的な責任者であった。『文書科時務簿』(長崎県立図書館所蔵)の年表によって全体の流れを見ると、次のことが分かる。

  • 製鉄所御用掛となった井上聞多(井上馨)の示達に基づき、製鉄所頭取助役の青木休七郎は、長崎府からの食禄を辞退し、製鉄所の経営を独立採算制とし、その収益の中から職員の給料を支払うことにより、職員の改革努力で給料が上がる仕組みを作った。
  • しかし、青木休七郎は、職員の給料を捻出するため、部下の経理担当者と共謀して二重帳簿により製鉄所の収益を計上させた。
  • 頭取役本木昌造はそれに気付いて、内々で調査をしたが、井上聞多に直結する青木一派の勢力が強く、限界を感じて頭取職を辞職した。
  • 代わって頭取となった青木休七郎は、部下の経理担当者を昇格させ、本木一派と目される品川藤十郎と平野富次郎を小菅諸務専任として本局の経営から分離した。
  • 明治二年(一八六九)末、製鉄所職員の給料が無視できない程高くなっていることから、長崎県当局から県職員のレベルに合わせるように指示が出された。
  • 明治三年(一八七〇)五月、民部省の山尾庸三が製鉄所事務総管となった。青木休七郎は、それまで製鉄所兼務で、部下の経理担当者に任せ切りであったため、製鉄所専任を命じられた。
  • 同年六月、青木休七郎は大阪出張大蔵省から呼び出しを受け上阪することになった。これは製鉄所の経理不正を疑われた結果と見られる。
  • 青木頭取不在中の対応として、平野富次郎等が諸事合議して運営することを申し入れ、次いで頭取職として県当局から兼務の形で少属の者二名が派遣された。
  • 同年七月、小菅分局に勤務していた品川藤十郎と平野富次郎が本局に呼び戻され、他の機関方六名と共に兼務頭取との合議制による製鉄所の経営が行われた。
  • 明治三年(一八七〇)秋(九月頃)になって、経理担当の責任者二名が逼塞を命じられ、製鉄所経営陣の刷新が行われた。このとき品川藤十郎は頭取心得、平野富次郎は元締役となった。
  • 同年閏一〇月になって、品川藤十郎が退職すると共に、平野富次郎が長崎県権大属に昇格した。(このとき、頭取にはならず、県職員の頭取兼任者との合議によって製鉄所の運営が行われたらしい。)
  • 明治三年(一八七〇)三月に長崎製鉄所の工部省移管準備として山尾庸三が事務総管となって以来、青木一派の経理不正が疑われるようになり、遂に悪事が露見して製鉄所経理不正の首謀者たちは免職させられ、東京に連行された。
  • 明治四年(一八七一)三月、県営製鉄所の最後の責任者となっていた平野富次郎は責任を取って辞任した。

このように、慶応四年から明治四年にかけて、製鉄所の経営改善を名目にして経理上の不正が行われ、これが工部省移管の過程で発覚し、その渦中に巻き込まれた平野富次郎の様子を窺がい知ることができる。

長崎製鉄所の工部省移管のために、山尾庸三が長崎に出向き、平野富二と対面したとき、山尾庸三は算えて三四歳、すでに新政府の高官であり能吏であった。
いっぽう長崎製鉄所の事実上の責任者として中央官僚と対峙することになった平野富二は算えて二六歳、長崎の地下役人の立場でありながら、前任者たちの乱脈経営をきびしく指摘され、つらい立場となった。それでも富二は終止誠実に対応し、山尾庸三は好感をもったようである。富二も明治一七年(一八八四)一二月三日「工学会への寄付により同会の賛助会委員として登録される」などの記録をのこしている。

また先般開催された<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>の「江戸・東京 活版さるく」でも山尾庸三の設立にかかる工部大学校(後の東京大学工学部)跡地を訪問した。
工部大学校時代の山尾庸三はこんなことばをのこしている。
おそらく山尾庸三は若き平野富次郎/平野富二にも、おおきな可能性を見いだしていたのではなかろうか。平野富二は翌年上京し、多くの近代産業を興している。

― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―
たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ