タイポグラフィ あのねのね*019 わが国の新号数制活字の原器 504 pt. , 42 picas

 これはナニ? なんと呼んでいますか?
仮称「活字の原器」 と「活字のステッキ」
わが国新号数制
活字の最小公倍数 504pt., 42 picasとは

活版関連業者からお譲りいただきました。

2012年03月17日 掲出/2012年12月25日 修整版


《この「活字のステッキ」!? 差しあげますよ……。そしてもっともたいせつな「活字原器」》
2011年の暮れ、年内いっぱいでの廃業を告知していた有限会社長瀬欄罫製作所の残務整理を手伝った。その際同社第 2 代社長:長瀬慶雄ナガセ-ヨシオ氏が、自動活字鋳植機(小池式和文モノタイプ)の作業台にあった器具を差し出し、
「コレは大事にしていたものです。名前はわからなくなったけど、いわば《活字の原器》と《活字のステッキ》だけど、必要ですか?」
ときかれた。

「HAKKO」の刻印から、この器具の製造所は、かつて長野県埴科郡ハニシ-グン戸倉町戸倉3055に存在した活字鋳造機器の有力メーカー、株式会社八光活字鋳造機製作所の製造であることが判明した。

2012年4月7日追記:
アダナ・プレス倶楽部恒例の《活版ルネサンス》(2012年3月30-31日)に際して、長瀬欄罫の諸資料を整理したところ、さらにふるいものとみられ、メッキが施されていない、いくぶん錆びの発生がみられる総鉄製の「活字の原器・活字のステッキ」を1セット発見した。
これは持ち手のつけ方からみて、左利きのひとのために製造された「活字のステッキ」だと想像された。

製造年月日はどこにも記載がなかった。
素材はスチールにクロームメッキを施したものとみられたが、ひとつで2キロほどの重量があってひどく重かった。また留め金はふたつのネジできつく締められ、ほとんど固定されていた。
写真奥は右利きのひと用で、手前は左利き用だとする。ずいぶんと親切なものだった。

《ふつうの「ステッキ Composing Stick」と、特殊な「活字のステッキ」》
活字版印刷術の現場でのふつうの「ステッキ  Composing Stick」とは、和文の組版では植字チョクジ(組版)の現場でもちいられる器具である。
欧文組版ではステッキに活字を拾いながら組み並べるが、和文組版では文選を終えた活字をステッキに移動して、活字組版の行長を一定に揃えて組むための道具である。

ふつうは左手にこれを持ち、右手で活字・込め物・罫線などをステッキの上にのせて、左手の親指でクリックしながら組み並べ、いっぱいになったら取りだしてゲラに移すものである。
そのために「ステッキ」は、できるだけ軽量であることが求められ、なおかつ行長によって変化する組幅を固定するための留め金を、しっかり保持するだけの十分な強度を求められる。
そのために素材は、鉄製・アルミ製・ステンレス製などがあるが、ほとんど製造ラインが停止していたものを、アダナ・プレス倶楽部が近年復活させて、製造・販売にあたっている。

ところが長瀬欄罫製作所の「活字のステッキ」は、「の」のひと文字が入っている分だけ「組版ステッキ」とはおおきく異なるものであった。
まず、なによりその重量である。鉄製とおもわれる素材に、クローム・メッキがほどこされ、2キロはたっぷりあって、片手で長時間保持するものではないことは明らかであった。

また「組版ステッキ」の留め金は、行の組み幅によって可変できるようにスライド式になっていて、固定する留め金は、ネジ式・小型レバー式などがある。ところが「活字のステッキ」の留め金は、きわめて頑丈なもので、締めつけもきつく、ほぼ本体にがっちりと固定されていた。

 この「活字のステッキ」のなかに、「組版ステッキ」であれば最初におこなう作業 ── 組みたいとおもう行長に相当する込め物を並べ入れて、留め金を固定する ── における、「行長を固定するための込め物」に相当するのが「鉄製の金属片、活字の原器」である。これを「活字のステッキ」に入れる。
もちろん留め金は、はじめからほとんど固定されているので、1キロほどの重量の金属片は、ぎりぎり「活字のステッキ」に差し込むことができる。すなわち「活字の原器」と「活字のステッキ」は、ふたつが揃ってはじめて意味をなす、活字鋳造現場での検査器具である。
────
ここでひとつお断りがある。ここでいう「活字の原器」「活字のステッキ」とは、あくまでも仮称である。「活字の原器」とは、上図「活字のステッキ」の奥にはめ込まれた金属片である。これは長瀬氏談からとったものである。
その際の状況は、暮れもすっかり押し詰まった2011年12月29日、本品の譲渡作業後にちかくの喫茶店に移動して、筆者にこの器具の名称と役割をくどく聞かれて、苦しそうに、
「ふつうはアテとかアテガネっていってたかな。まぁ活字の原器のようなものですよ」
と述べたことによる。
こうした背景から、ここでは「活字の原器」「活字のステッキ」とも、まだ正式名称ではないが、そのまま借用することにした。

『VIVA!! カッパン』より、活字と活字の大きさ、号数制活字とポイント制活字

この「活字原器」に刻印された数字との関連から、この器具は、活字の大きさや高さに日本工業規格(JIS規格)が適用された1962年(昭和37)以降の活字、いわゆる「新号数制活字、JIS規格活字」に対応するものではなく、現在でも関東近辺で採用されている、いわゆる「旧号数制活字」に対応する測定器具だと推定された。
またもっともふるくから開発された号数制活字ながら、イングリッシュ系とされて、ながらく他の号数制活字となにかと「相性」のわるい、四号と一号活字が「活字の原器」の測定範囲に入っていないことも印象的なものだった。これに関しては後述する。

2012年12月25日追記:
上記のパラグラフには問題がある。どう計算しても、この「活字の原器・活字のステッキ」は「新号数制活字、JIS規格活字」に対応するものであり、むしろ「新号数制活字、JIS規格活字」が導入された1962年以降に、その趣旨を徹底させ、また端境期における混乱を収束させるために製造されたとみられるからである。

「新号数制活字、JIS規格活字」の原案は、札幌・株式会社ふかみやの初代社長・深宮榮太郎の考案によるもので、はやくも昭和4年に「深宮式新活字」として誕生している(「深宮式の新活字」『フカミヤ八十年史 1918-1998』 p37-41)。
すなわち「旧号数」と「新号数制活字、JIS規格活字」の歴史的背景をもうすこし研究・分析・取材しなければならなくなった。
したがってまことに申し訳ないが、もうしばらく、上記1パラグラフは保留にさせていただきたい。

この金属片「活字の原器」は、きわめてたいせつにされていて、使用しないときには中面にラシャを貼った専用の木製ケースにはいっている。木製ケースには「HAKKO」の社名か、マークが、焼き印で刻されている。
購入価格も「活字の原器と活字のステッキ」のセットで、とても高額だったとされる。
「そうだなぁ、見習いの給料と、職人の給料の間くらいの感じだったかな」
「そうすると、いまなら20万円ほどですか?」
「そう、いまなら15-20万円くらいの感じかなぁ。ともかく高かったんだよ」

「活字のステッキ」にはめ込まれた「活字の原器」。
この左右の数値、504pt.と177.135mm に注目していただきたい。

《わが国の金属活字ボディサイズの最小公倍数、504pt.》
わが国の近代活字版印刷術の開始以来、活字ボディサイズには混乱がみられ、「大きさはあっても、寸法のない活字」と酷評されたり、大正期からさまざまな議論が交わされてきた。しかも製造現場での混乱が収束しても、活字ボディサイズに関する議論はやむことはなかった。
しかしながら、これらの議論とは、かくいう筆者をふくめて、活字版印刷術の現業経験に乏しい論者によってなされることが多く、ありていにいえば、活字鋳造現場の実態を熟知しないままの議論が多く、生煮えであり、成果に乏しく、空理空論とされても仕方がない側面がみられた。

すなわち、この「活字の原器、活字のステッキ」の登場によって、タイポグラフィ研究者を自認するほどのひとならば、全面的に議論の再構築を求められることになった。
もちろん活字鋳造に際しては、ノギスやマイクロメーターも使用されている。しかしながらこうした機器での計測だけでは十分とはいえないのが活字でもある。

活字鋳造の現場では、すでに、遅くとも1955-1962年頃から「活字の原器を、活字のステッキに入れて、そこに鋳造活字を指定の個数分組み並び入れて検証する」という、現業者に特有の「きわめて即物的かつ明快な方法」、それだけに議論の余地のない方法によって、活字のボディサイズの測定と検証がなされ、こうした検証を経た活字が印刷現場に供給されていたのである。────
ここで筆者をはじめ、読者諸賢にも「最小公倍数」(Least Common Multiple, L.C.M)を復習していただきたい。最小公倍数とは、ふたつ以上の整数または整式が与えられたとき、それらの公倍数のうち、正で最小または最小次数のものをいう〔広辞苑〕。

すなわちこの「活字の原器」に刻された504pt. , 177.135mm とは、わが国の主要活字の最小公倍数として提示されていることになる。
そして明治最初期からもちいられてきた四号サイズと、その倍角の一号サイズは除外されていた。それは上掲の『VIVA!! カッパン』の「活字の大きさ:号数制」をご覧いただくと、四号と一号は(アングロ・アメリカン)ポイントサイズにおいて、≒オヨソの印つきとはいえ、ほかの号数活字とは異なっており、最初から最小公倍数となるべきポイントの整数ではなかったためではないかとおもわれた。

「活字の原器」の中央部の数字は、G は号数をあらわし、P は(アングロ・アメリカン)ポイントをあらわす。つまり最小公倍数504 pt.の「活字の原器をいれた活字のステッキ」のなかに、さまざまな号数とポイントの活字が、何本はいるのかを、実際の活字をもって検査・検証するためものである。
そしてその際の公差は、右下隅に表示された+0.015mm 以下でないと不合格とされてきたほど厳格なものであった。

製造元の八光活字鋳造機製作所は19461年(昭和21)の設立であるが、その設立者・酒井修一は戦前からの活字鋳造機製造所として著名だった林栄社の工場長経験者であり、この両社ともほとんど記録をのこさず1965-75 年の間に閉鎖された現在、この「活字の原器と活字のステッキ」がいつから発売されたかはわからない。
しかしながら長瀬氏の記憶によれば、おそらく1955年(昭和30)ころから、こうした検査・検証をへて、わが国近代の活字がつくられていたことを示す物的証明のひとつが出現したことになる。

504pt. の意味するところ

七号活字      96本    9ポイント活字   56本
六号活字      84本    五号活字      48本
7ポイント活字   72本    三号活字      32本
六号活字      64本    二号活字      24本
8ポイント活字   63本

これからここに提示された504 pt.の最小公倍数にもとづいて、さまざまな研究がはじまることになる。まことに楽しみなことである。
繰りかえしになるが、筆者がこの「活字の原器をいれた、活字のステッキ」の譲渡をうけたのは、2011年の暮れも押し詰まった12月29日であった。そして正月をはさんで「活字の原器をいれた活字のステッキ」は、しごくちいさなグループの間の、おおおきな話題となっていた。
あきれることに、何人かは正月の屠蘇気分はどこえやら、「活字の原器をいれた、活字のステッキ」で鳩首し、さまざまな検証をかさねていたのである。諸賢の研究の一助になればとご紹介した。

おひとりはアドビシステムズ株式会社の山本太郎さん。もうおひとりは、21世紀の、そして平成の日本で、最初の金属活字鋳造見習工として勇気ある精進をつづけている日吉洋人さん(武蔵野美術大学基礎デザイン学科助手)です。

★     ★     ★

 ◎送信者:山本太郎 2012年01月05日 10:55
片塩二朗様
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

さて、504 ptのステッキの件ですが、504という数を素因数分解すると、2^3 x 3^2 x 7 = 504となります(ここで、x^yは、xのy乗の意味です)。このことから、次の事が言えるでしょう。

45 pt以下で、このステッキの長さが整数のボディサイズの倍数と一致するのは以下のサイズに限られます。
2, 3, 4, 6, 7, 8, 9, 12, 14, 18, 21, 24, 28, 36, 42

整数ではない10.5も、21の1/2なので、割り切れます。

このステッキは、日本におけるポイント制活字の実用的な多くのサイズに対応しているという意味では、よく考えてあり、興味深いものがあります。

ただし、「504 pt」と明記している以上、これはあくまでポイント制を基準にしたものだという点は明らかです。
号数活字との対応についても、JISが行っているのと同様、ポイント単位に換算した対応関係を基にしたものでしかありません。10.5 の整数倍が504に一致するからといって、それは「10.5 pt = 5号」ということを初めから前提にしているから5号と一致するに過ぎません。
他方で、「10.5 pt = 5号」という関係がポイント制成立以前に存在しなかったこともまた自明のことです。もちろん、JISがはっきりと明記してしまったように、「10.5 pt = 5号」という想定を無条件に受け入れた上で、それを慣習として倣って作られた5号活字が10.5 ptと一致することもまた自明なことです。つまり、既製のポイント制および号数とポイント制との慣習的な対応関係を受け入れた上で、後付けで作られたものと考えられます。

JISにおける号数とptとの対応関係のようなものが受容され、普及していたのであれば、このステッキが便利で機能的であったであろうことも、十分予想できます。
ただ、そのこととSmall Picaや5号の歴史的なボディの大きさの議論とは、関連はありますが、少し論点が異なるように思います。
───
◎ 送信者:日吉洋人  2012年01月09日@メール
片塩さま
日吉です。
例の504グリッドを制作していて気づいたのですが、6号=7.875アメリカンポイントだよってことですか?

片塩さま
何度もすいません。日吉です。
先ほどのつづきですが、6号が7.875ポイントで、5号が10.5ポイントだとしますと、名刺を組版する際に使うインテルの長さが、5号24倍なので……、8ポイントだと二分あまりますが、6号だとピッタリおさまりますので気持ちがいいですね。
今後DTPで本文を組版する時には、あえて実験的に本文の文字サイズに7.875ポイントを使ってみたいと思います。

片塩さま
日吉です。これが最後です。
まだ旧号数のすべてで計算したわけではありませんが、例えば、5号24倍(252ポイント)で割り切れないところ(例えば、8ポイント、10ポイント、11ポイントあたり)に突如「号数」が現れるような印象を受けました。
なぜ号数がそのように現れたかと考えますと、単純に複数のサイズの活字を一緒に組んだときに、分物を使わずにすむからだと思います。ならば初号とは何かってなりますが……。
それでは失礼します。お休みなさい。

504pt.と  五号24倍の相関関係の考察表  日吉洋人

2012年12月25日 修整版  



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2012年04月07日追記:
グラフィックデザイナー K 氏。ご来社のうえ談。

わたしはパッケージのデザインが多いのですが、その際、基本尺度としてメートル法だけでなく、曲尺カネジャク単位を考慮します。曲尺の一尺、およそ30.303センチと、この504pt.の表にあらわれる号数制活字は、なにか関連があるようにかんじました。
きょう「活字の原器と活字のステッキ」の実物を拝見しましたので、これから調査に本腰をいれたいとおもいます。

朗文堂-好日録023 気がつけばカレンダーが1枚だけ!

《2012年11月15日 GK デザイングループ  創立60周年祝賀会》
秋晴れの15日[木]、「GK デザイングループ 創立60周年祝賀会」に出かけた。会場は椿山荘。招待客は600名余におよび、グループ各社の社員も加わって、さしもの椿山荘の大ホールも人混みでいぱいだった。

GK デザイングループは 1952年、戦後の荒廃の中から、ふるい工芸にかえ、生活の復元と進展を求めて、インダストリアルデザインを中心に創立された。
代表を  栄久庵憲司氏  として、東京藝術大学出身者を中心とした Group of Koike = GK として出発したのを最初とする。

会場にはGKデザイングループ最初期の作品である、ヤマハ発動機 YA-1 と キッコーマン卓上醤油瓶などが展示され、同社の60年にわたる数数のデザイン製品群が、いまなお鮮度を失わないことにあらためて驚いた。
記念品にお饅頭をいただいた。お祝いの大福かとおもったが、カットすると意外な趣向がかくされていて、鮮やかな紅白の紋様があらわれた。
栄久庵さんもお元気だったし、心のこもった、すばらしい祝賀会だった。

《2012年11月18日[日] 新宿御苑遊歩道を散歩》
すぐ近く、あるいて 2 分とかからないところに新宿御苑正門がある。ところが燈台もと暗しというか、あまりに近きが故に、めったに訪れることがないのが新宿御苑でもある。
イチョウの黄葉が見事なので、外周路ともいえる遊歩道に出かけた。有料の苑内にはいると、なにかと規制(芝生立ち入り禁止、禁酒・禁煙 ! )が煩わしいが、遊歩道には最近、ちいさなせせらぎがもうけられ、また無料で解放されていて、散歩にはとても良い環境になった。

平日の昼間でも、ウォーキングにいそしむ高齢者や、ちいさな犬をつれた近在のひとがゆったりと歩いている。ようやく樹木も成長して、良い環境がもどってきた。これならわざわざ遠出して、人混みにもなれながら「もみじ狩り」になどにいく必要がなさそうである。

遊歩道にはギンナンの実がたくさん落ちていた。
10年ほど前まで、この季節になると、酒好きの某編集者が、袋いっぱいのギンナンの実をひろってきて、帰りがけに来社して自慢していた。左党のかれは晩酌のつまみにギンナンを煎ったものは好適だといっていた。
いまはそうしたひとも減ったとみえて、ギンナンの実は踏まれるままになって、独特の異臭をはなっていた。
そんな小径を歩きながら、最近うわさもきかなくなった、いいささか酒乱の某氏をおもった。

《2012年12月08日[日] 神田神保町の咸亨酒店に行く》
家人が週末に書芸塾に通っているので、神保町三省堂本店で待ち合わせ。
会社のすぐ近くにあった「あおい書店」が閉鎖され、三越百貨店のあとにできた「ジュンク堂書店」も移転したので、気軽に書物を買える書店がちかくに無くて不便である。
だから神保町まででかけた。そこで北原謙三『岳飛伝』ほか数冊の書物を購入し、塾帰りの家人と落ち合って、近くの「咸亨 カンキョウ 酒店」で夕食。

同名の中国料理店「咸亨 カンキョウ 酒店」は紹興酒(黄酒)の提供で知られ、また魯迅が好んだ酒店として著名である。たまたま今年の7月に、本場の中国・紹興の魯迅の旧居近くの「咸亨 カンキョウ 酒店」をたずねたことがあった。
このときは、水にあたって腹具合がわるく、またドライバーの潘 偉飛さんにすすめられて、おそるおそる食した「臭豆腐」にまいったが、すべての料理がいたくおいしかったことは覚えていた。
その店を模した、雰囲気の良さそうな中国料理店が、書芸塾の近くにあるので行ってみようと誘われて、三省堂からは幾分距離があったのでブツクサいいながら歩いた。

イヤァ、チョイとやつがれ驚いた。旨かった。本場の「咸亨酒店」と較べても遜色がなかった。
上掲写真右側の料理は、蘇東坡の考案によるとされ、家人の大好物「杭州名物 東坡肉 トンボーロー」を模し、寧波家庭料理風に仕立てた豚の旨煮料理である。写真を撮るのも忘れて半分食べてからの撮影で、妙なものとなっているが、ともかく旨かった。
若者の掲示板などでも「咸亨酒店」はそこそこの評価を得ているようである。

ただ、神田神保町の「咸亨酒店」は紹興というより、そこからほど近い港町、寧波(ネイハ、ニンボー、波を寧ヤスんずる)料理であった。また本格的な中国料理(値段はさほど高くなかったが)を楽しむには、4-5人で出かけて、いろいろな料理を楽しむのがコツである。ふたりだけでは3皿もとったら満腹になってしまう。

紹興の「咸亨酒店」、そして蘇東坡、王羲之などのことを『花筏 朗文堂-好日録 016』にしるした。当時の写真を探して、さらにこれらの書芸家と料理に迫ってみたい。
なにやら料理がメーンになりつつある『花筏』の昨今。それでも若者にかこまれて、十分タイポグラフィ漬けの毎日ではある。──つまりこの項目は書きかけである。

朗文堂-好日録022 吉田佳広 水彩画展を観覧

《2012年11月05日 吉田佳広 水彩画展 の観覧に出かけた》
11月05日は月曜日だったが、吉田佳広さんの水彩画個展 のオープニングだった。
もとから出不精のせいもあり、会社にきてからスケジュールを確認した。オープニングのことはうっかり忘れていたし、ひどく寒かったので、ひどい身なりで出社していた。
したがってオープニング・パーティーに出かけるのには、およそふさわしくない不格好だったが、久しぶりに吉田佳広さんにお会いできるならと、失礼を顧みず代代木駅前の会場にかけつけた。

さほど広い会場ではなかったが「風景からの手紙」と題されたように、各地をたずね歩き、その風景を、繊細かつ瀟洒に、愛情をもって描いた水彩画で溢れていた。
会場には主催者の吉田佳広さんをはじめ、多くの先輩・知人がいた。中には数年ぶりにお会いできたタイポグラファもいて、うれしくも、なごやかなパーティであった。

やつがれ、この歳ともなれば、たいていの人や物には驚かないし、怖くはないが、この吉田佳広さんというひとには、ともかく〔ヨワイ〕のである。
いや、もうひとかたいらした……。こちらは吉田市郎さんである。
両吉田さんと、やつがれの 3 人は、ふしぎなことに、皆がひとまわりずつ異なる酉トリ年のうまれである。そのせいか波長は合うが、おふたかたとも大先輩だけに、ともかく〔ヨワイ〕のである。
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◎ 吉田市郎 Yoshida Ichiro   1921年(大正10)酉年うまれ
吉田市郎 さんは、欧文活字の雄とされた「晃文堂株式会社」の創業者。
また時代の変化をいちはやく読み切り、大胆に写真植字機と写植文字板製造に踏みきって「リョービ印刷機販売 → リョービイマジクス」を設立されたひとである。

デジタル時代が到来すると、これまた大胆な取り組みをみせ、自社書体をいちはやくデジタル化したばかりでなく、財団法人日本規格協会文字フォント開発普及センターの委嘱をうけ、平成書体シリーズの中核をなす「平成明朝」をリョービグループを叱咤激励して納期内に製作させた。文字どおり戦後日本のタイポグラフィの開拓者のおひとりであった。

社長 ≒ タイプディレクターとして吉田市郎さんがのこされた書体は、膨大な欧文活字書体をはじめ、故杉本幸治氏を起用して製作した「晃文堂明朝・本明朝シリーズ」、血縁の関係で藤田活版から原字資料の提供を受け、社内スタッフを中心に改刻を加えながら製作した「晃文堂ゴシックシリーズ」、水井正氏・味岡伸太郎氏と、タイプバンクの協力で製作した「ナウ・シーズ」・「味岡伸太郎かなファミリー」など、枚挙にいとまがないほどである。

吉田市郎 1921年(大正10)新潟県柏崎市出身。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。戦時召集解除ののち 1947 年神田鍛冶町に欧文活字の専門店「晃文堂有限会社 → 晃文堂株式会社」を創立。のちにリョービ・グループのいち企業「リョービ印刷機販売株式会社 → リョービイマジクス株式会社」社長となり、同社会長職をもって退任して現在にいたる。酉年うまれ。
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◎ 吉田佳広  Yoshida Yoshihiro   1933年(昭和08)酉年うまれ
長崎県長崎市出身。中央大学法学部卒。高橋正人デザイン研究所修了。1966年吉田佳広デザイン研究室設立、1996年有限会社ヨシダデザインオフィスに改組。ACC殿堂入り。ADC賞、電通賞、ACC賞など受賞。著作『ベストレタリング』など多数。日本グラフィックデザイナー協会所属。

吉田佳広さんは、朗文堂からも 2 冊の著作を発表された。
『文字の絵本 風の又三郎』(吉田佳広、1984年01月、品切れ)
『マップ紀行 おくのほそ道』(吉田佳広、1985年03月、品切れ)

吉田佳広さんは、かつては日本タイポグラフィ協会に所属し、同協会内にタイポグラフィのユニット「タイポアイ」を結成し「暮らしの中に文字を」を主張して長年にわたって活動をつづけた。また、ここ数年熱心にとり組んでいる「地球はともだち チャリティー・カレンダー展」の中心メンバーとして出展・活動されるほどの壮健さである。
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そしてやつがれが、1945年(昭和20)酉年うまれとなる次第。
吉田佳広さんにお会いするのはほぼ 2 年ぶりだった。この間に吉田さんは少少体調を崩されたが完全復調された。
「いやぁ~、歳くったら髪がうすくなっちゃってさぁ。だから帽子かぶってんだよ。ガハハ」
いつもの調子で笑いとばした。お得な性格である。
隣にいた「タイポアイ」の同志、中島安貴輝  さんは複雑な表情をされていたけど……。

朗文堂-好日録021 日藝 タイポグラフィ セミナー

       

日本大学藝術学部デザイン学科 特別講義

Typography Seminar
Helmut Schmid
Jiro Katashio
Akiteru Nakajima
2012年10月27日[土] 14:00-17:50
展示/デザイン・プレゼンテーションルーム
講演/日本大学藝術学部 江古田校舎 西棟B1
企画・進行/細谷 誠専任講師

                              [告知ポスター Design : 日大藝術学部デザイン学科 細谷 誠専任講師]

《日本大学藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar 前夜祭?》
爽やかな秋の毎日がつづいた。この時期は、梨、葡萄、柿とおいしい果物がたわわにみのり、食欲も意欲も増進するまいにちであった。まさしく食欲の秋である。
イベントもかさなり、ふだんからとことん出不精をきめこんでいるやつがれも、いやいやながら、なにかとかり出される季節でもある。
2012年10月27日、日本大学藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar が開催された。
第一報として《朗文堂 NEWS》には報告したが、ここでは気軽な内輪ばなしを中心に皆さまにご紹介しよう。

その前日、10月26日[金]には タイポグラフィ学会 月例定例会が夕刻から開催されていた。議題がほぼ終了し、雑談に移りかけていた 22 時ころ、翌日の講演会に備えて、南新宿のホテルに宿泊しているはずのヘルムート・シュミット氏が、突如タイポグラフィ学会定例会の会場に登場した。しかも桑沢デザイン研究所非常勤講師/阿部宏史さんと、その学生さんら数名と一緒の来訪であった。

たちまち狭い部屋は交流・懇親の会場に変貌し、シュミット氏お気に入りの赤ワイン「ラクリマ・クリスティー デル・ヴェスーヴィオ・ロッソ」 は店が閉まっていて買えなかったが、久しぶりの再開を祝して「とりあえずビール」での乾杯!
学生諸君は早めに引きあげたが、部屋の熱気はますばかり。熱いタイポグラフィ議論があちこちで交わされていた。

あ~あ、明日はシュミット氏もやつがれも、日藝講演会での講師だというのになぁ……。
結局皆さんはほぼ終電での帰宅。シュミット氏は酔い覚ましをかねて、新宿南口のホテルまでブラブラ歩きでひきあげられたのは、夜もだいぶ更けてからのことであった。
それにしても、年寄り モトイ 年輩者のほうが元気いっぱいなのはなぜだろう……。ト ふとおもう。


《 2012年10月27日、日大藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar 本番》
この日藝 Typography Seminar の企画・展示・進行は、同大の細谷 誠専任講師。
細谷 誠専任講師 は、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)アートアンド・メディア・ラボ科の学生だったころに、シュミット氏の『バーゼルへの道』(朗文堂、1997年6月初版、品切れ中、増刷予定あり)を購読されて大きな感銘をうけ、デザインの道へ本格的にすすむ決意をされたそうである。

お世辞半分としてもうれしいはなしであるが、その反面、版元としては襟を正さなければという責任をひしひしと感じさせられた。
『バーゼルへの道』は第一刷り、第二刷りと版をかさねたが、現在は残念ながら品切れ中である。いずれ機会をみて第三刷りにとりくみたいところである。

特別講義の講師は、中島安貴輝主任教授と、ゲストとして、中島さんと年代がちかく、長年にわたって親好がふかい(悪友 !?)関係だった、ヘルムート・シュミットさん、片塩二朗の 3 名。各講師30 分の持ち時間で講演のあと、トークセッションにはいる。

      

Typography Seminar は、展示会と特別講義・トークセッションで構成されていた。
展示会は、中島安貴輝主任教授の長年にわたるデザイン活動と、デザイン教育を綴り、それを記録・展示し、次代のデザインを背負う学生の皆さんと、あらたな方向性を模索するという、とても意欲に富んだ、内容の濃いテーマであった。

トークセッションでの招聘講師となった、シュミット氏とやつがれは、さしずめ刺身のツマといったところかな……。

『Picto Graphics 1, 2, 3 』(中島安貴輝、朗文堂、1988年11月刊、品切れ)
まだ IT  環境が未整備な1980年代後半には、おもに紙焼きカメラで図版を拡大・縮小して使用していた。そのため片面刷り裏白で複写に備え、ペラ丁合で一冊一冊 3 分冊の図版集をつくった。中島安貴輝氏畢生の大作であり、使用権つきの意欲的なピクトグラム作品集だった(品切れ)。

中島安貴輝主任教授 は、東京オリンピックの準備期間中には、まだ日藝の学生であった。それでもそのころから、勝美勝先生の門下生として「青年将校」のようなかたちで、東京オリンピックの広報部門に関わったという経験を持つ。まだグラフィックデザインの夜明け前であり、それだけにのどかで可能性の大きな時代であった。

その体験をもとに、のちに沖縄海洋博覧会のデザインディレクターとして活躍された。そのことを、別会場で開催されている展示会の作品をもとに丹念に事例報告され、
「デザインも、アソビも、めいっぱい」
と学生諸君を激励されていた。

《2012年10月27日、日藝デザイン学科 Typography Seminar トークセッション》
ヘルムート・シュミットさんは、いったん入学したスイスのバーゼル工藝学校での体験から、本格的なタイポグラファになろうと決意し、欧州各国での活版印刷所で「Compositor 植字工」として、数年、実地体験としての修行をし、ついにふたたび念願のバーゼルで、エミル・ルーダー氏の特別教育を受けるにいたった経緯を詳細に述べられた。
そして定員 3 名だけのちいさなタイポグラフィ夜間私塾、ルーダー氏のタイポグラフィ教育内容を、大量の写真データとともに紹介された。そして長年とり組んでいる「typographic reflection」シリーズの製作意図と、将来展開までをかたられた。
通訳にあたられたのは愛妻・スミさんであった。

写真上) パソコン映像だけでは物足りなくなり、立ち上がって説明するシュミット氏。
写真中) シュミット氏は愛用の「Composing Stick 組版ステッキ」を携え、各地の活版印刷会社で「Compositor 植字工」としての修行をかさね、そこの「Meister 親方」から技術認定の修了証明書にシグネチュア(サイン)をもらってあるくという、厳しい修行の旅であったという。
写真下) 憧れのルーダー氏のもとで学ぶことができた、充実の日日の若きシュミット氏(左)。

《予告!『japan, japanese』 著者講演会》


ここについでながらしるしておきたい。ヘルムート・シュミット氏の『japan japanese』 の著者講演会を、来春 3 月に、朗文堂主催での開催を予定している。その打ち合わせのために、シュミットデザイン事務所と@メールのやりとりが盛んないまでもある。
詳細はあらためて新春にお知らせしたい。
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「Typography Seminar」は、日大藝術学部の授業の一環であったが、外部からの参加も自由ということで、わずかに朗文堂社内に A3 判告知ポスターを出力して掲示しておいた。
そのために、新宿私塾塾生と、修了生がたくさん押しかけて、講義室は溢れんばかりの盛況となった。中島先生、細谷先生にはもろもろご迷惑をおかけすることとなった。ここにお詫びを申しあげたい。

あらためておどろいたが、新宿私塾の塾生には、日大藝術学部のデザイン科だけでなく、写真科、建築科、それに日大農学部などの学生・卒業生もたくさん在籍していた。そんなかれらが、全面改装がなった母校をみることを口実に、大挙して講演会に押しかけたようである。

トークセッションの終了後、長時間の禁煙強制にたまりかねた愛煙家有志?!  3 名が喫煙所の傍らで、携帯灰皿を片手におおわらわで吸煙開始。そこへシュミット氏が通りがかり、
「ミナサン、ナニヲ  シテイル ノ デスカ ?」
ヤレヤレ、中学生でもあるまいし、みっともない姿をパチリとやられてしまったという次第。
[モノクロ調写真提供:木村雅彦氏]

   

朗文堂ー好日録020 故郷忘じ難く候



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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《唐突に妹から架電 ── 雪の降る前に、ふるさと飯山にいかない …… 》
11月03日は文化の日で土曜日だった。前日に突然妹から架電があり、
「もうすぐ雪が降るから、あした、おばあちゃん(おふくろ)のお見舞いにいかない?」
昨春に兄貴が長逝し、なんとなく疎遠になっていたふるさとであった。ところが信州・長野の郷里には、100 歳を超えたおふくろが老人施設の世話になっていた。そのもろもろの世話を、血脈からいえば他人ともいえる兄嫁に押しつけていることが心苦しかった。

アニキ、やつがれ、妹は、三人兄弟として、千曲川にそった信州の北西のはずれ、豪雪地帯でなる 北信濃 飯山 でうまれそだった。アニキはいやいやオヤジの跡をついで開業医になったが、昨春にスキルス性胃がんでなくなった。次男坊がらすのやつがれと、薬剤師の妹は、気ままに郷里をはなれて東京にでていた。

ここのところ数年、3月と11月は一年のうちで、もっとも多忙な月である。なにかとイベントがかさなり、年度末対応・新年度対策や、年末年始進行を意識し、年賀状やクリスマス・カードの想を練るのも11月のことである。
だから往復 600 キロほどの長距離ドライブとなるが、日帰りの旅として、妹の亭主が運転する車に乗せてもらった。
旅の同行者は、はじめてやつがれの郷里をみることになったノー学部。
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関東平野から山河の邦・信州にはいる道はさまざまにあるが、妹夫婦は、はじめて飯山をたづねるノー学部のために、風景の単調な高速道路一本やりではなく、この時期ならではの、紅葉のきれいな草津・志賀高原ルートを予定してくれていた。

この道は2級国道292号線で、近年にできた高速道路にくらべると、山坂は急峻でカーブ箇所も多いが、群馬県草津温泉から、コバルトブルーで輝く白根山の火口をみて、長野県北部への直行ルートとなる。
群馬県側ののぼりには、伊香保温泉草津温泉などの名だたる名湯がある。また近年建設の続行が話題となった「八ッ場ダム ヤンバ・ダム」の工事現場も経由する。この工事のおかげで、すでに自然はずいぶん破壊されていたが、道路は格段によくなっていた。むずかしいものだ。
また 志賀高原 をへて信州側へのくだり坂には、高原一帯に大小さまざまな山の湖が点在し、そこに照り映えるナナカマドやダケカンバの紅葉は、たとえようもない見事さのはずであった。
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早朝 6 時半、調布駅前で妹夫婦と合流してそのまま出発。関越自動車道から分岐して、北陸自動車道をほんのすこし走って、渋川・伊香保で高速道路をおりて一般道にはいった。道は次第に狭隘となり、急峻な坂道がつづく。やがて道は軽井沢と草津温泉への分岐点となる。そこを草津温泉側に右におれて、国道292号線、いわゆる志賀・草津ルートにはいる。

この道は国道の中では日本一標高の高いところを通る道路でもある。国道最高地点の標高は 2,172メートルであり、上野コウズケ-ノ国・上州/群馬県と、信濃シナノ-ノ国・信州/長野県とをへだてる 渋峠 のちかくにある。その場所には「日本国道最高地点」の碑が建てられている。
かつては有料道路で快適なドライブを楽しめる道であったが、最近は無料で解放されている。だから時節柄「もみじ狩り」とおぼしき家族連れの車輌も、前後にたくさん連なっていた。

ところが……、草津温泉街をすぎてしばらくいくと、突然車止めがあって、係員に制止された。
「ここから先は、昨夜の降雪が凍結していて危険です。すべての車輌が通行止めです」
嫌も応もなかった。すべての車はそこからUターンを余儀なくされた。再確認すると、2012年11月03日、まだ降雪には早すぎる、秋分の日のできごとだった。
残暑のきびしいことしだったが、このときは意外にはやく降雪があったようである。いずれにせよ国道292号線は2012年11月15日-2013年4月25日まで本格的な冬期閉鎖期間となっている。

急遽予定を変更して、嬬恋村 ツマゴイムラ から 菅平高原 をへて、信州・須坂におりる一般国道に変更した。こちらには2,000メートルをこえるような高度はないが、菅平高原から須坂への最後の下り坂は急峻で、かなりのベンチャールートとなる。

草津・志賀高原ルートをあきらめ、群馬県側の嬬恋村 ツマゴイムラ をへて、県境の鳥居峠に辿りつく。そこで小休止して長野県側の菅平高原にはいる。最後の下り坂は、かつては山崩れがたびたびあって難所のひとつだったが、随分と道は整備されていた。
ようやく信濃の国、信州飯山市にたどりついたのは、すでに昼下がりのころであった。

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《 飯山は、日本のふるさと …… 》

ところで、南国の四国や九州出身のひとでも「ふるさと」というと、藁屋根に雪がこんこんと降りつもり、あといくつ寝るとお正月になるのかを、炬燵にあたって、ミカンを食べながらかぞえる情景をおもいうかべるらしい。そして春の小川には、どじょっこや、鮒っこが泳ぎまわるらしい……。
それはまさに、信州信濃の山奥の、ここ飯山の情景であることをおおくのひとは知らないでいる。

飯山市・信州中野市・木島平村の境ににそびえる休火山「たかやしろ 高社山 コウシャサン、別称・高井富士」。右のうしろがわには溶岩流が流れた美しい山裾がみられる。ここから4キロほど上流の旧飯山町内からは、左側の主峰はかくされて、右端の支峰だけが、まるでシルクハットを伏せたようにみられる。たかやしろは、飯山では東を指ししめす絶好のランドマークとなっている。

信州・いいやまは、日本の ふるさと とされる……。つまり典型的な田舎の風情がある。

ノー学部は、こういう阿呆なシロモノをどこにいってもいちはやく発見する。そしてこんな噴飯ものの呆けたおこないが好きである。やつがれはもうやけくそで「ヘソ丸出し、莫迦丸出し」の愚行に加えられる(撮影:鈴木 齊)。

老人施設に100歳超えのおふくろを見舞う。娘時代までの記憶はあるがおおかたの記憶はない。妹(娘)に「お名前は?」と聞かれると「藤巻のり(旧姓)」と応えるおおらかさである。やつがれ同様おふくろの眉毛もぶっといことを再確認した。それでもやつがれより元気なのではないかとおもえる壮健さが救いである。旅の主目的をここに達成。

おぼろ  月  夜

  菜の花畠に 入日薄れ
  見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば、
  夕月かかりて、にほひ淡し

     二
     里わの火影ホカゲも 森の色も
     田中の小路を たどる人も
     蛙カワズのなくねも かねの音も
     さながら霞める 朧月夜

蛇  足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
小学唱歌『朧月夜 オボロ-ヅキヨ』 
作詞:高野 辰之 (明治09年4月13日-昭和22年01月25日)
作曲:岡野  貞一 (明治11年2月16日-昭和16年12月29日)
昭和08年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』
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《高野辰之タツユキさんのこと と 高野辰之記念館 》
高野辰之さんの生家は、旧飯山藩藩領、長野県下水内郡豊田村のかなりゆたかな農家であった。
やつがれの生家は、豊田村から秋津村をはさんで、千曲川にそったもうひとつ下流で、東に千曲川、西には新潟県との県境につらなる山山にはさまれた下水内郡飯山町  → 現  飯山市である。

高野さんは、飯山中学(現飯山北高)、長野師範学校(現信州大学教育学部)卒。飯山町で教員生活をしたのち、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授となり、在京時代は代代木駅前に居住していた。その代代木の木造の旧居には、3年ほど前まで記念柱があって保存されていた。
老境にいたり、郷里にちかい長野県上高井郡野沢温泉村の湯源の麻釜のちかくに陋屋をもとめ、それを「対雲山荘」と名づけて移住して、ここで老境をすごして永眠された。
現在野沢温泉には、遺著や遺作を収蔵する《おぼろ月夜の館 斑山ハンザン文庫》がのこされている。

高野辰之さんと、やつがれの母方の祖父/藤巻 一二 イチジ、その弟で大叔父/藤巻幸造は、旧制飯山中学の同窓で、よほど昵懇だったらしい。
またオヤジの郷里も長野県下高井郡野沢温泉村大字坪山のちいさな農家であり、また、飯山中学の後輩でもあった。だからしばしば大叔父/藤巻幸造や、父母に連れられて、野沢温泉の高野家隠居所「対雲山荘」を訪問した。昨年逝ったアニキは、高野さんに抱かれたことを覚えており、その写真も実家にある。
やつがれも抱かれたらしいが、なにぶん乳児のころとて記憶にない。わずかに「温泉のおばあちゃん」と呼んでいた高野未亡人に、おおきな温泉風呂にいれてもらったり、氷水やマクワウリをご馳走になったことをおぼろに覚えているくらいである。
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猪瀬直樹『唱歌誕生  ふるさとを創った男』(小学館、2008年08月)がある。
主人公は高野辰之さんと、真宗寺 元住職 井上円光氏。この浄土真宗西本願寺派・安養山 真宗寺の元住職は、1902-14(明治35-大正03)の頃、ここ草深い信州から旅だって「大谷探検隊」の一員として、敦煌莫高窟の調査にあたった奇特なひとである。

この真宗寺はふるく、島崎藤村の小説『破戒』の主人公・瀬川丑松の下宿先として描かれた寺でもある。『破戒』のなかでは真宗寺は蓮華寺とされているが、地元では蓮華寺=真宗寺であることは周知のことである。しかしながら島崎藤村の描写の一部に問題があるとして、真宗寺23世住職・井上寂英は激怒して、高野辰之氏までまきこんで、
「島崎藤村は仏法の敵である。藤村には二度と信州の敷居をまたがせない」
とまで怒ったと伝えられていた。
そこで地元の教育委員会が中心となって、真宗寺と島崎家の和解をはかり、1965年にようやく和解がなり、いまではご本堂右手に《破戒の碑》が建立されている。

真宗寺には、このほかにもおもしろい逸話がたくさんのこっている。
1868年(慶応4)幕末の戊辰戦争に際して、徳川幕府派の越後高田藩士/古屋作左兵衛門ら衝鋒隊 ショウホウタイ 隊士600名余が飯山城下に結集し、この上町 カンマチ(現 南町) 真宗寺を本陣としてたてこもったことがあった。

ときの飯山藩は親幕府派ともいえた存在だったようであるが、なにぶん藩兵150名たらずの小藩でもあり、心底困惑し、城をかたく閉ざして模様みをきめこんだらしい。ところが城下の住民は衝鋒隊に物心ともに助力することが盛んで、真宗寺の本陣に駆けつけて気勢をあげたりしたので、藩名をもって沈静を命じていた。

その鎮圧のため新政府軍として松代藩兵ら2,000余名が、千曲川右岸(東岸)の木島平に布陣し、時間的にはほんの少少の抵抗で、武力におとる幕府派衝鋒隊は鎮圧されたとされている。
その際飯山城下はおもに衝鋒隊による放火で炎上し、中町・肴町・愛宕町・神明町など、城下の山側半分を焼失した。俗にいう「幕末 飯山戦争」である。

「幕末 飯山戦争」に際して、飯山藩は局外中立をたもったとはいいながら、その大手門付近でも交戦があり、親幕府派のものか、新政府軍派のものかはわからないが、大手門の柱にはいくつもの刀傷や弾痕をのこしていた。
このかつての飯山城大手門はちいさなものではあるが、現在は長野市の信叟寺(長野市大字金箱 禅宗 万松山信叟寺)の山門としてのこされている。

そもそも 飯山藩 なぞ、北信濃4郡を支配した3-5万石そこそこの小大名にすぎず、城というのも哀れなほど、ささやかな小山を根拠地にしたにすぎない。
それでも飯山の住民は、いまでもひそかに、戊辰の戦争に際して、越後・長岡藩や陸奥・会津藩などの雄藩と同様に、小藩ながら孤軍奮闘、中央権力に抵抗したことを誇りとする異風がある。

変わり者、頑固者が多いのが飯山の特長とされる。「〇〇居士」を名乗るほうもたいがいだが、それを墓石に刻むことを許す寺も随分と鷹揚かも知れない。ふつうは整備されているがこのときはケヤキの大木の落葉が積もっていた。右奥の黒い小さな御影石が、やつがれの生家の墓標。

現在の真宗寺の住職は、26世・井上孝雄コウユウ氏である。このひとはやつがれより4-5歳年上で、かつては「孝雄 タカオ ちゃん」と呼ばれて、弟の「孝栄 コウエイ ちゃん」ともども、やつがれらと、大公孫樹イチョウによじのぼったり、ケヤキの大木に足場をこしらえて隠れ家をつくったりと、なかなかのやんちゃであった。

ところで、浄土真宗では、読経のあとに「お説教」という行事がある。これは文字どおり、読経のあいだの正座で、足がしびれて悲鳴ををあげているのに、さらに念入りに仏教行事として「ありがたいお説教をお垂れあそばされる」(ご法話)困った モトイ ありがたいしきたりである。
ところが、オヤジやアニキの法事などでの真宗寺26世・井上孝雄コウユウ住職の「お説教」は、しみじみとこころに沁みるものがあった。さすがである。

ここ、真宗寺は、1953年(昭和28)5月18日に「飯山大火」という、フェーン現象下でのおおきな火災で、飯山町の南側半分117戸とともに焼失した。当時やつがれは小学2年生であった。このときやつがれの生家は飯山駅前にあったが、3件隣で火は鎮火して焼失は免れた。
徴兵から復員後に借家で開業していたオヤジは、こののち、真宗寺の焼失地の一隅を購入して移転した。そのためにお寺と医者が隣接しているという奇妙な光景がうまれることとなった。
ここ、真宗寺に、やつがれのオヤジとアニキは眠っている。
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『おぼろ月夜 ♫ 菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし~』
『故郷フルサト ♫ 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川~』
『春の小川 ♫ 春の小川は さらさら流る 岸のすみれやれんげの花に~』
『春が来た ♫ 春が来た 春が来た どこにきた~』
『紅葉モミジ ♫ 秋の夕陽に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数あるなかに~』
以上の小学唱歌の作詞は、すべて高野辰之さんである。

猪瀬直樹(実は お~獅子シッシ と呼んでいた、高校の一級後輩)はしるす……。
「ほとんどの日本人は、ふるさとというと、たくまずして、山があり、川が流れ、雪がシンシンと降りつもる、ここ北信州・信濃の飯山周辺の情景をおもう。それは小学唱歌で刷りこまれた幼児時代の記憶であり、その作詞家・高野辰之の心象描写による」
と。お~獅子、エライ!(ここは選挙とは一切関係なし! 為念)。

《やつがれの方向感覚とランドマーク》

たかやしろこの山河の邦・飯山で中学時代までをすごした。ここはまた地勢的には飯山盆地とされる。
高校生になって30キロほど千曲川の上流で、すこし平野部のひろい善光寺平の長野にでた。
そのとき……、体内磁石というか、方向感覚が狂ったおもいがした。すなわち土地の目印というか、陸標というのか、ランドマークを喪失したおもいがした。

やつがれにとっての基準点とは、いまもって、あくまでも飯山町である。
そこでの東とは、まるでシルクハットのようにみえる、たかやしろ(高社山 コウシャサン、別称・高井富士)であった。それがすべてであり、西とは、まだらお(斑尾山 マダラオサン)であり、南とは、千曲川(新潟県では信濃川トモ)の上流で、北とは、千曲川の下流であった。
だから長野でも、その後あちこち移動して、東京にでてからでも40余年になるが、いまもって方向の認識は、いったん飯山の情景に置換してからになる。

山河がとぼしく、平野部が広大な関東平野や北海道出身のかたの体内磁石はどうなっているのだろう。太陽がでている昼間ならともかく、曇天や夜などは、どのように方角や方向を認識しているのか良くわからないままでいる。
関東平野のど真ん中、埼玉県の平野部出身の某氏にそれを聞いた。
「エ~と、駅の北口とか、西口とかあるじゃないですか。それが目印です」
やはり、そうか……、というおもいであった。認識と目印は違うんだけどな、というおもいで聞いていた。息子にも聞いたが、北とか東とかに、そんな興味はないという素っ気ない返答であった。

のっぺらぼうの東京、それも交通が便利なだけに移動圏がひろがり、ビルの乱立している近代東京では、富士山を望遠することも稀になった。したがってただの棒か点でしかない、東京タワーも、スカイツリーも、ランドマーク(地標)とはいいがたいものがある。
娘も息子も東京で生まれ育ったが、おそらくやつがれとは、方角の認識にたいする執着度がことなるのであろうか……。

《平成の大合併のもたらしたもの……》
ところで、北アルプスに源流を発する梓川と、中央アルプスに源流を発する千曲川は、長野市のあたりで合流して、新潟県にはいると信濃川となる。上流からみて、その左岸はふるくから、上水内カミミノチ郡、下水内シモミノチ郡、右岸は、上高井カミタカイ郡、下高井シモタカイ郡と呼ばれてきた。
このように千曲川に沿った地域では、川上・川下にたいする意識がつよく、それをつづめて「カミ、シモ」などともする。

千曲川をはさんだだけというのに、あまり橋もおおくなかったこの時代、これらの各郡はともに競合し、たがいになにかとライバル視する仲でもあった。もちろんそれは、県会議員の選挙区区割りや、通学圏、通婚圏や、ふしぎなことに文化圏や言語圏などにもその影響はおよんでいた。

高野辰之さんの郷里と、やつがれの郷里は、かつてはともに下水内郡であり、道路が整備されたいまでは車なら10分ほどの距離であり、実家の片塩医院の通院・往診範囲内であった。
ところがなんと、豊田村は2005年04月01日、いわゆる平成の大合併で、川向こうの旧下高井郡信州中野市と合併した。
したがって、かつて飯山市が中心となって設立した 高野辰之記念館 は、信州中野市の施設となっている。 

豊田村の合併にやぶれた飯山市は逆襲にでて、これもやはり川向こうの下高井郡にてをだして、野沢温泉村を合併しようとしたが、住民投票の結果合併は否定され、野沢温泉村は勇気ある孤立のみちを選んだ。
すなわちわがふるさと・飯山市は、豊田村を川向こうの中野市にうばわれ、ならば仕返しとばかり、川向こうの野沢温泉村に合併をしかけて袖にされた。豪雪の地、過疎の町・飯山は、あまりにあわれである。

オヤジが元気なころ、盆暮れには子供をつれてそんな飯山にたびたび帰省していた。オヤジが去って、アニキの代になると、次第に足が遠のいた。
まして昨年アニキが逝くと、ひとがいいとはいえ、兄嫁さんと甥・姪の家では、もうふるさととはいいがたいものがある。
てまえ自慢と同様に、いなか自慢はみっともないとされる。
されど、故郷  忘じ難く候!

朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる

《CAD システムを駆使した日星鋳字行の活字母型製造法》
今回の台湾旅行の最大の目的は、台湾・台北市にある活字版製造所/日星鋳字行(代表/張 介冠氏 チョウ-カイカン)をたずね、パンタグラフの比例対応方式を応用した、機械式活字父型・母型彫刻法(以下ベントン彫刻と略称)にかわる、あらたな活字母型の製造法、すなわち  Computer Aided Design(CAD)方式の採用による「あたらしい活字母型製造法」を実地に体験して、それを学習することにあった。

既報のとおり、わが国における近代活字の活字母型製造法とは、なんの疑いもなく、西洋近代の文明開化を象徴する新技術として、明治最初期から「電鋳法(電胎法とも)活字母型 Galvanic matrix」がほとんどであった。
この方法は簡便ではあるが、「既成の活字から、それを複製原型として、あらたな活字母型、活字をつくる ──  Making Matrices from Type」、すなわち活字の不正複写が多発するとされて敬遠され、欧米ではオーナメントや精密画像の複製用などの「電気版 電胎版とも Electrotype」に使用される程度にとどまった技法であった。

ところがわが国では、近代タイポグラフィの導入期から、各地の活字鋳造所でひろくおこなわれていた活字母型製造法は、この不正複写問題が多発するとされ、欧米では敬遠された「電鋳法(電胎法とも)活字母型 Galvanic matrix」であったことは、そろそろ明確に記憶にとどめてもよいだろう(『Practical Typecasting』Theo Rehak, Oak Knoll Books, Delaware, 1993, p.152-163 )。

わが国では、ほかには「弘道軒清朝活字」を製造販売した「弘道軒活版製造所」など、ほんの数社が、欧米とおなじように、複製原型としての活字父型を彫刻して「パンチド・マトリクス方式  Punched Matrix」を採用して活字母型を製造していた。

すなわち世界的な規模において、近代タイポグラフィ界にあっては、ながらく、活字製造の複製原型は活字父型(木製のばあい種字とされることもある)であり、その活字父型(種字)の存在が、原鋳造所のなによりの誇りであり、証明となっていた。
当然活字父型はたいせつに保管されていたので、欧米各国の活字鋳造所、活字博物館、活字記念館などでは枢要な展示物として活字父型をみることができる。

わが国では、前述した弘道軒活版製造所の活字父型のほとんどは、関東大地震の被害をまぬげれて、神崎家 → 岩田百蔵氏 → 日本タイポグラフィ協会の手をへて、まだ未整理な段階にあるものの、現在は印刷博物館が所蔵している。
また岩田百蔵氏の時代、少数ながら弘道軒活版製造所のよく整理された資料が、女婿・平工栄之助の手に継承され、その資料は研究対象として現在朗文堂がお預かりして、公開展示や実際の印刷テストなどにももちいている(平工家蔵)。
【参考資料:「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌 04』(片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日)】

イタリアのタイポグラフィの王者、王者のタイポグラファと称賛される Giovanni Battista BODONI(1740-1913、パルマ)の「ボドニ活字博物館」の収蔵資料。同館ではボドニの活字父型、活字母型、鋳造活字、それで印刷された書物がすべてセットで展示されているのが大きな特徴である。

このパンタグラフの原理を応用した機械彫刻方式は、リン・ボイド・ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」であった。
しかしながらこの方式による機械式活字母型製造法は、安形製作所、協栄製作所などの彫刻技術者が2012年に相次いで逝去されたため、ここに、アメリカでの実用化から128年、国産化から62年という歴史を刻み、2012年をもって事実上幕をおろすこととなった。
【参考資料:花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫】

すなわち、これからのわが国での活字鋳造の継続を考慮したとき、いかに慣れ親しんだ技法とはいえ、残存するわずかな原字パターンの字体にも、常用漢字を中心に時代性と齟齬がみられたり、もはやあまりにふるい「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」という19世紀の活字製造周辺技術にすがることなく、いずれ、あらたな活字母型彫刻法を開発しなければならない状況にあった。
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台湾における活字鋳造会社、日星鋳字行の存在と、そのCAD方式をもちいたあたらしい活字母型製造法の情報は、だいぶ以前から林 昆範 リン-クンファン 氏(台湾中原大学助教授、タイポグラフィ学会会員)からいただいていた。
したがって、そもそもこの台湾旅行は、昨年中におこなわれる予定の企画だったが、2011年3月11日の東日本大震災の影響もあってのびのびになっていた。その間逆に、昨年末に数回、日星鋳字行の張 介冠 チョウ-カイカン 代表と、台湾活版印刷文化保存協会の 柯 志杰 カ-シケツ さんが、日本における活字鋳造の現状調査、台湾のテレビ局の取材の立ち会い、欠損部品の補充などを目的に、わざわざご来社いただくことが数度あった。

さらにふしぎなことに、昨2011年の年末、クリスマスの日も、年末をもって廃業される活字関連業者の設備移動に関して、急遽来日されたおふたりと過ごしていた。
なによりも日星鋳字行さんは《活版凸凹フェスタ2012》に独自スタンドをもうけて出展されており、アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕会員の皆さんとも、すっかり親しい間柄になっていた。
★アダナ・プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ*レポート14 

  
  
  
上左・右)日星鋳字行のコンピューターで、あらかじめ送付しておいた原字データーに、鋳造活字にもとめられる「Bevel 傾斜面」のデーターを付加するなど、CAD彫刻方式に必要な画像処理が加えられていた。

中左)そののち、斬削加工機にデーターが搬送される。この斬削加工機はさして特殊なものではなく、金属加工業界ではふつうにもちいられている程度のものだそうである。
中右)所定の金属材料マテ(Material のなまり。ここでは真鍮の角材)を、定められた位置に正確に置いて固定する。それ以後は操作パネルの操作で、極細のドリルが降下してきて、あとは自動的に彫刻がはじまる。

下左)ドリルの移動は、ベントン彫刻機が手技によって輪郭線をなぞる作業からはじまるのにたいして、本機ではデジタル・スキャナーと同様に、ドリルは上部から下部にかけて、水平運動を繰り返していく。ドリルは作業中交換されることは無く、この1本のみで終了する。これで初号から、現段階では実験的ながら、六号サイズまでの活字母型彫刻に対応しているとのことである。
下右)彫刻を終えた活字母型は、検品・補修のうえ、すぐさま活字鋳造がはじまった。日星鋳字行には活字鋳造機が、台湾製/2台と、日本・八光活字鋳造機製作所(長野県埴科郡戸倉町に旧在した)による「全自動活字鋳造機 セルフデラックス」1台があった。今回の活字鋳造は八光活字鋳造機製作所のものがつかわれた。

日星鋳字行の活字鋳造機は、上掲写真右側の八光活字鋳造機製作所(長野県埴科郡戸倉町に旧在した)の製造による「全自動活字鋳造機 セルフデラックス」とほぼ同型の機種であった。

今回の参加者全員の原字データーは、いったんアダナ・プレス倶楽部に集約されて、かつてのベントン彫刻機のパターン製造のときと同様に、あらかじめ簡便な「文字作成ソフトウェア」をもちいて、2インチ角の枠と、センター・トンボをつけた文字データとして日星鋳字行に送付しておいた。
作成予定の活字母型と活字は、初号活字(42ポイント)であった。形象が複雑で、彫刻時間が長時間になるものは、あらかじめ日星鋳字行で機械彫刻が先行していた。

彫刻時間だけをみると、楷書体初号「朗」のひと文字を彫刻するのに15分ほど、おなじく「文」のひと文字を彫刻するのに10分ほどの時間がかかった。
斬削中はつねに操作面に機械油が注がれて、斬削粉の除去と、ドリルの加熱を防止していた。
なにぶん金属加工や機械関連には知識が乏しい。また、日星鋳字行の独自のノウハウも尊重しなければならない立場であった。そのため参考資料として【平田宏一氏 機械加工の基礎知識】をあげておいた。関心のあるかたは参考にしていただきたい。

《活版凸凹フェスタ2012》会場にて──2012年05月05日

上) 『昔字・惜字・習字』(臺灣活版印刷文化保存協會 2011年 中華民国100年12月
同書の序文に「鉛活字印刷技術之復興 ── 風行一時、日星又新」とある。
日台でのおもいは同じで、どちらも《活版ルネサンス》。柯 志杰さんによると、
いまの台湾では、活字鋳造、活版印刷の崩壊をあやうく防止できたという段階に
あり、これから徐徐に修復作業にとりかかり、将来課題として新刻作業に入る
段階にあるとのこと
である。
左) 日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表

右) 台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

日星鋳字行地階の作業場にて。後列はアダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ修了生の皆さん。

前列右)日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表
前列左)台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

  

  

 上左)日星鋳字行は活字版製造所(活字組版所)を兼ねているため、活字の在庫はふつうの活字鋳造所にくらべるときわめて多い。写真は文選箱を手に、ずらりと並んだ活字ケース架をぬって、台湾ならではの活字の購入に忙しい会員の皆さん。
上右)さまざまな国からの見学者が増え、カバンや手荷物が当たって活字の落下事故が増えているそうである。活字ケース架(ウマ棚)には手荷物の持ち込みはやめていただきたいとのこと。
また財政担当の張夫人がやつがれに、
「長時間見学や撮影だけして、なにも買わないか、せいぜい名前の活字2-3本だけ買って帰る人はねぇ」と、ポツリ……。結構こたえた!

下左)台湾では縦組み、横組みを問わず「句点  、」と「読点 。」も中央におかれる。そのための中付きの句読点の活字。
下右)台湾・日星鋳字行にもありました! 「活字列見」。
「やつがれ-これをナント呼んで、ナニに使っていますか」。「張代表-名前は知らないけど、欧文活字を鋳込むとき、ベースラインを見本活字とあわせるのに必ずつかっています」。「やつがれ-なるほど、日本とほとんど同じですね」。「柯さん-そうか、知らなかったなぁ」。

日本と台湾のタイポグラファの交流はこうして続いていく。

★タイポグラフィ あのねのね*016
これはナニ? なんと呼んでいますか?  活版関連業者からお譲りいただきました。

★タイポグラフィ あのねのね*018
Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具  Type Lining Tester  活字列見

【この項つづく】

タイポグラファ群像*004 安形文夫 ベントン活字母型彫刻士

安 形 文 夫  (写真撮影 : 2008年09月28日)
〔あがた-ふみお 1941年(昭和16)10月26日うまれ-2012年(平成24)01月01日歿〕
機械式彫刻活字母型製造工場「安形製作所」代表
2012年01月01日、膵臓がんのため永眠。行年71
法名 : 誠徳院華岳文光居士

 《最初に山梨市の安形製作所の工房を訪ねたとき》
あれは何年前だったのだろう。
武蔵野美術大学に、まだ短期大学部があったころだから15-20年ほど前のことになる(2003年 平成15年、 武蔵野美術大学短期大学部は廃止。 したがってそれ以前のこと)。

このころすでに、パンタグラフの比例対応方式を応用した、機械式活字父型・母型彫刻法(以下ベントン彫刻と略称)の産業基盤と、その技術継承に不安があるということで、元・岩田活字母型製造所の高内 一 タカウチ-ハジメ 氏のお骨折りで、武蔵野美術大学短期大学部の学生諸君が、ベントン活字母型製造工場 「安形製作所」(代表社員:安形文夫、山梨県山梨市三ヶ所)の作業のすべてを、ビデオ映像に撮影・保存する企画があった。

左写真)
機械式活字父型 ・ 母型彫刻機(ベントン彫刻機、ベントンと略称された)
上写真)
高内 一氏(2012年08月14日撮影) 

武蔵野美術大学の学生諸君の引率・指導は横溝健志さん。 その撮影に便乗して、森 啓さんとやつがれも、一連の活字母型彫刻工程見学のために参加した。

もちろん、横溝氏、森氏、それにやつがれも、ベントン彫刻機はあちこちで目にしていたし、簡略ながら、実際に操作体験くらいはしたこともあった。それでも山梨市在住の安形文夫というベントン彫刻士を知ったのは、このときが最初だった。
安形氏はやつがれよりいくぶん年長だったが、この年齢ともなればもはやほぼ同世代であり、なにかと親しくおつき合いいただいた。

《安形文夫氏の略歴》
安形文夫 〔あがた-ふみお、1941年(昭和16)10月26日、山梨県うまれ〕は、ながらく横浜市の活字母型製造所「横浜精工所」に「活字父型 ・ 活字母型機械彫刻士」 として勤務された。「横浜精工所」の主業務は活字母型彫刻で、東京・飯田橋(のちに千駄ヶ谷に移転)にあった「飯田母型」と「横浜精工所」は、工場主が実の兄弟の間柄だったとされる (高内 一氏談)。

安形文夫はその 「横浜精工所」 で、ベントン彫刻機の彫刻士としてながらく勤務された。
1980年代のはじめ、「横浜精工所」を退職後に、山梨市三ヶ所に「安形製作所」を設立。 ベントン彫刻機を数台設置して、おもに活字母型彫刻の業務にあたった。

1960-70年代前半には、新聞社と大手印刷所を中心に「機械式活字自動鋳植機」(いわゆる日本語モノタイプ)が盛んに稼働していた。
「活版印刷」が後退したいまではすこしわかりにくいが、1970年代の印刷によるページ物書籍や、新聞などのほとんどは、端物印刷所などでみられる、活字の手びろいよる「文選」ではなく、相当機械化と自動化がすすんだ 「日本語モノタイプ」 によって、活字が鋳造 ・ 植字され、校了後に、「紙型取り作業  Matrix molding」から、疑似活字版ともいえた「鉛版 Stereotype,  Stereo」を製造して「凸版印刷  Letterpress printing」された。 これらの一連の作業もふくめて、ふつう 「活版・活版印刷」 と呼んでいる。

実践活字母型彫刻:朗文堂 アダナ・プレス倶楽部 特別企画/感動創造の旅 協力:真映社・安形製作所・築地活字実践活字母型彫刻(イメージ写真)

高速かつ大量に活字を鋳造・植字する「機械式活字自動鋳植機」にあっては、高速で激しく稼働する機械のために、新規購入時はもちろん、鋳造作業によって損傷した活字母型の補充注文も大量に発生して、「安形製作所」 の活字母型製造業務は比較的好調な出足となった。
それでも、活版印刷業と活字鋳造界全体が、1970年代の後半から急速に衰退するなかにあって、設立からの安形製作所の経営は決して楽なものとはいえなかった。それでも設立直後の同所に追い風となったのは、新聞各社の紙面変革にともなう活字書体の大型化であった。
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わが国の近代活字活字版印刷術(タイポグラフィ)は、1873年(明治6)長崎から10人ほどのスタッフを伴って上京した平野富二が、旧伊勢国津 藤堂藩上屋敷の門長屋の一隅(現・千代田区神田和泉町1)に活版製造所(のちの東京築地活版製造所、当初はさまざまな呼称で呼ばれていた)を設けたことで本格始動した。

関東大震災と第二次世界大戦の被害によって、わが国の金属活字と活字母型は壊滅的な打撃をこうむっていた。 また戦禍を免れたとしても、大正期から戦前までの 「電鋳法による活字母型(電胎母型)」 は、すでに耐久性が限界をはるかに越えて、ほとんど実用性をうしなっていた。

戦後の再出発に際して、大手印刷所、大手新聞社のほとんどは、1947-1950年代の初頭から、おおがかりな活字母型の改刻作業に入った。 その先鞭をつけたのは 「毎日新聞社」 と 「大日本印刷」 であった。
毎日新聞社は、大日本印刷とともに、津上製作所製造の、国産による 「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機」(いわゆるベントン彫刻機、ベントンとも)を導入して、文字形象を整備するとともに、それまでの損耗の激しかった電鋳活字母型から、真鍮の地金に直接機械式で彫刻し、それを活字母型にすることで、電鋳活字母型のおよそ5-10倍の活字母型の耐久性の向上を計った。
また活字母型深度の統一( ≒ 活字の高さの統一)によって、いわゆる 「ムラ取り」 時間を大幅に短縮することに成功した。

すなわち1923年(大正12)に、東京築地活版製造所、印刷局、三省堂の注文により、三井物産をつうじて、わずかに米国から03台だけ輸入され、実験的に稼働していた三省堂所有のベントン彫刻機をモデルとして、国産機が製造され、急速な普及をみたのは1950年(昭和25)からのことであった(「ポイント制活字の開発と機械式活字母型彫刻機」『秀英体研究』片塩二朗、大日本印刷、2004年12月11日)。

東京築地活版製造所最後の活字種字彫刻士とされた安藤末松(本名 : 仁一 1935-72年)
印章士のように、文字を裏文字、原寸で種字に彫刻する技術は、急速なベントン彫刻機の普及もあって、安藤の晩年にも、すでにまとまった 「活字種字彫刻」 の仕事はほとんどなく、特殊文字 ・ 図画など、いわゆる 「足し駒」 の種字彫刻や、足し駒木活字の製造がもっぱらだった。
「足し駒木活字」 とは、
金属活字に無い、特殊な文字や図形を、活字とおなじ大きさ ・ 高さの木台に裏文字で彫刻するもので 「木活 ・ 足し駒」 とも呼ばれた。
紙型どりはもちろん、原版刷りでも、
ほんのわずかに活字より低くすることで、3,000枚程度の原版刷りにももちいられた。 この安藤末松の逝去をもって、わが国の活字種字彫刻士の系譜は事実上幕をおろした。

このベントン彫刻機国産化の成功は、おおきな衝撃を印刷 ・ 活字界にもたらした。 国産機メーカーも、先発した津上製作所につづいて、不二越製作所も追随して開発に成功して、朝日新聞社、凸版印刷なども、ベントン型彫刻機を競って大量に導入した。

《技術の変遷にともなう活字原型彫刻技法の変化》
18世紀中葉-19世紀にかけ、イギリスでは人力にかえて、蒸気機関などの動力が開発された。 その結果、機械産業がいちじるしく発展して産業革命をもたらした。 この産業革命は活字製造と活字版印刷術にもおおきな変化をもたらした。

近代活字版印刷術(Typography)の創始のころから、印刷用文字活字複製原型の製造とは、特殊技能者とされた 「パンチカッター (活字父型彫刻士)」 が、手技によって、逆文字(鏡文字 ・ 裏文字)を金属材に彫刻する技法で 「活字父型  Punch」 をつくり、それを簡便な道具で、マテ(マテとは Material が訛ったものとされる。 真鍮、ニッケル、鉄などの角棒材) に打ちこむ(押しこむ)ことで 「活字母型  Matrix」 をつくる 「パンチド ・ マトリクス方式   Punched Matrix」であった。

この技術、なかんずく活字父型彫刻法とは、市販されているふつうの針金程度の鋼材を、焼きなましによって軟鉄とし、そこに逆向きの文字を彫刻し、それを焼き締めて硬化させてから、真鍮などのマテ材に、押圧を加えて活字母型とするものであった。
誤解をおそれずしるせば、これは、象牙 ・ 牛角 ・ 水晶といった硬い素材に、文字を彫刻する「印章士」と、さほどの技術上の違いはない。

ところが欧米では、この技術がながらく秘技・秘伝とされ、家伝ないしは師弟相伝によって技術が継承されてきたために、欧米でも想像以上に書物による紹介は少なかった。
またわが国においては、活字父型彫刻法とは、かたい 「鋼鉄」 「ハガネ」 に文字原型を刻するものとされたために、多くの誤解や神話をうんだ。

「欧州活字鋳造所の説話」 『活版術要』 (原著:American Printer)によれば、1637年、英国国王第Ⅱ世ジュリー王の勅命をもって、英国活字鋳造所のご法度として、活字父型彫刻法が厳しく制限された記録がのこっている。そこには、
「刷印活字鋳造師[原文はパンチ・カッター]ハ四名に限ルヘキモノ」
「英全国ノ刷印師総数ヲ定限シ二〇名トス」
とある。

これは17世紀の英国においては、国王の勅命によって、パンチカッターの技能を有する者は04名に、刷印師(原文は Master-printer であり、親方印刷士としたい)は20名に制限されていたことがわかる資料である(「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌04』片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日、p.60-62)。

この技術が「秘伝」の封印を解かれ、ようやく公開されるようになったのは、19世紀後半から20世紀初頭からで、もはや手技による活字父型彫刻法を秘匿する積極的な根拠がなくなってからのちのことになる(「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌04』片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日、p.57)。

    
    

アメリカ側の記録によると、大正期(1923年 大正12)に、三井物産をつうじて、印刷局(現 独立行政法人 国立印刷局)、東京築地活版製造所(1938年廃業)、三省堂(現 三省堂印刷)などが 「機械式活字父型 ・ 活字母型彫刻機、ベントン彫刻機」 を輸入している。
この輸入に際しては、関東大震災での被害に直面して、輸入品が一時行方不明となり、焼失説がもっぱらだった。 のちに、まだ通関前で、横浜の保税倉庫に保管されていたことが判明したとされる。

また激甚をきわめた関東大震災のなかに関連書類が焼失したのか、アメリカ側への支払いがいまだに済んでいないとする、ふるい文書が存在する(『Practical Typecasting』 Theo Rehak, Oak Knoll, Delaware, 1993,  p.105-110)。
この記録文書は、米人の研究者の手をはなれて、現在は日本の個人が所有している。

このときわが国にもたらされ、考案者の名前から「ベントン、ベントン彫刻機」としてよく知られている 「機械式活字父型 ・ 活字母型彫刻機」 は、米国/ノースウェスタン活字鋳造所(Northwestern Type Foundry) の経営者であった、リン-ボイド-ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)が、1884年に、もともとは活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化し、翌1885(明治18)年に英米両国の特許を得た機械である。
すなわちアメリカでの実用化から40年ほどのはやさで わが国への輸入をみたことになる。

その後ノースウェスタン活字鋳造所は、1892年にアメリカ活字鋳造所 ( ATF,  American Type Founders Inc. )に併合され、リン-ボイド-ベントンも同社に移動し、のちには ATF の代表社員となっている。
前述の印刷局、東京築地活版製造所、三省堂の三企業では、第二次世界大戦の戦禍で、ほとんどの印刷関連機器を焼失した印刷局のほかは、東京築地活版製造所の所蔵機は、さまざまな変転をへて、現在は印刷博物館に収蔵されている。
また三省堂所蔵機は、国産ベントン彫刻機のモデルとなり、いまは同社関連企業の三省堂印刷(八王子市)に保存されている。
このうち、実際にリン-ボイド-ベントン考案による 「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機」 の本格稼働に成功したのは三省堂だけだったとされる。

三省堂では導入からしばらくしてから、輸入機をもちいて、もっぱら 「三省堂常用漢字3000字」 の製作にあたった。それに際して三省堂では、活字父型彫刻というより、もっぱら活字母型を彫刻し、同機を 「ベントン彫刻機」 と呼び、その周辺技術はもとより、操作法のすべてを、敗戦までは社外にかたく秘していた。
この間の情報は、あらかたこのブログロール 『花筏』《タイポグラファ群像*002  杉本幸治》にしるしたので、興味のあるかたはご覧いただきたい。 

《機械式活字母型彫刻機、ベントンのすべてを知るひと――細谷敏治氏のこと》

細谷敏治氏  ──  ほそや としはる
1913年(大正2)山形県西村山郡河北町カホク-マチ谷地ヤチうまれ。谷地町小学校、寒河江サガエ中学校(旧制)をへて、1937年(昭和12)東京高等工芸学校印刷科卒。
戦前の三省堂に1937年に入社し、入社直後からもっぱら 「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機、いわゆるベントン彫刻機」の操作と研究に没頭した。 また、同氏が敗戦後のわが国の金属活字の復興と振興にはたした功績は語りつくせない。

三省堂退社後に日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい自動活字鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型には必須の技術となった。

同氏はまた、実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月01日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年01月20日」を取得している。
この活字父型焼結法による特許・実用新案によった「機械式活字母型製造法」を、欧米での「Punched Matrix」にならって「パンチ母型」としたのは細谷氏の造語である。
したがって欧米での活字製造の伝統技法 「Punched Matrix」 方式は、わが国では弘道軒活版製造所が明治中期に展開して 「打ち込み母型」 とした程度で、ほかにはほとんど類例をみない。
また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
(2011年8月15日撮影、細谷敏治氏98歳。左は筆者)。
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《半工、半農をこころみた安形製作所》
1970年代後半-1980年代になると、金属活字とその活字母型の需要が次第に減退し、1980年代には技術的に成熟期を迎えた写真植字法による版下製作、写真製版、オフセット平版印刷などの業者が擡頭するようになった。その反面、活版印刷業の衰勢は覆いがたいものになっていた。

そんな時代、1980年代の前半に安形文夫氏は横浜をはなれ、郷里の山梨市に工場兼住宅を新築して、そこに横浜精工所と、岩田母型製造所から譲渡されたベントン彫刻機を10台ほど設置して「安形製作所」を創立して、おもに活字母型製造と、箔押し用の金型(金盤 カナバン)製造などに関わった。
活字母型彫刻の発注が途絶えたときは、菜園の作業や花卉づくりにいそしんだ。また晩年には花卉づくりに熱心になって、作業場の一部を温室に改造して育苗につとめたりもした。

このころの活字母型製造とは、すでに技術におおきな変化がみられて、手組み用に活字鋳造機で単字鋳造されるもの(Foundry type)の活字母型製造より、モノタイプ、ルドロータイプ、インタータイプ、ライノタイプなど、いわゆる自動活字鋳植機とされた、日本語 ・ 欧文モノタイプにもちいる、画鋲のような形態の活字母型(Machine type)の製造のほうが多かった。
とりわけ新聞各社が競って本文活字を大きめのサイズに改刻したときには、近在の農家の主婦までが作業に加わって、工場はおおいに繁忙をきわめたこともあった。
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《 こんな時 代だから 金属活字も創っています !  2009年アダナ ・ プレス倶楽部アラタ1209製造 》
こんな時代だから 活版印刷機を創っています!
そんなスローガンをかかげ、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部が発足したのが2005年であった。
先行した各種の小型活字版印刷機を参考に、あらたに設計 ・ 試作機づくり ・ 鋳型製造 ・ 組立と進行して、「21世紀の日本で、はじめて完成した活版印刷機」 のおもいを込めて命名した  Adana-21J  が誕生したのは2007年のことである。 

こんな時代だから 金属活字も創っています!
活版印刷機  Adana-21J  の製造 ・ 販売だけでもたいへんな時期だったのに、こんな無謀なスローガンを掲げて、カタ仮名専用活字を創ろうと試みたのは2008年のことだった。
原字 「アラタC」 の製作者はミキ イサム(1904年-85年)、同家ミキ ・ アラタ氏の了承を得て、ライセンス供与は株式会社モトヤからうけた。 カタ仮名専用書体とはいえ、濁音 ・ 促音 ・ 拗音 ・ 約物をあわせると92キャラクターとなる。
モトヤの担当者からは 「いまから活字で新書体をつくっても、絶対商売にならないから、おやめになったほうが……」 と説得されたが、もうプロジェクトは走りだしていた。

★アダナ・プレス倶楽部 News  No.39
    特別企画/感動創造の旅:実践活字母型彫刻
★アダナ・プレス倶楽部 News  No.40
    実践活字母型彫刻、素晴らしい成果をあげて無事終了!
★アダナ・プレス倶楽部 News  No.43
    実践活字鋳造会 盛況裡に終了!

1. 提供された原字をデジタル・データーにして 2 inch 角の原字パターン原図を作成。
   〔正向き、新宿 ・ 朗文堂〕
2. パターン原図をもとに亜鉛凹版によるパターンを製作。
   「懐かしいなぁ。昔は岩田母型さんも日本活字さんもウチでパターンをつくってい
        たけど、こんなまとまった !?  パターンをつくるのは、20-25年ぶりくらいかなぁ」
       (角田常務)。〔正向き、神田 ・ 真映社〕
3. 亜鉛凹版92枚のパターンを持参して安形製作所へ。12 pt の活字彫刻母型製造
        依頼。 「えっ、まだ亜鉛凹版のパターンをつくれるの。 知らなかったな。 ここんとこ
   「足しコマ」か損傷母型の補充ばっかりだったんで、パターンは板ボールをひと皮
   はがして、紙パターンばっかりだった。 これからは朗文堂にパターン製造を依頼
   しよう」。〔正向き、山梨・安形製作所〕
4. 活字彫刻母型が完成。横浜で鋳造。
   「ひさしぶりで、まっさらな活字母型で鋳造すると、嬉しくなるなぁ」
   〔裏向き、築地活字株式会社〕
5. アダナ・プレス倶楽部で「アラタ1209」の商品名で販売中。乞う! ご発注。
   
★ 朗文堂  Type Cocmique
     こんな時代だから、金属活字も創っています! コレダ!カタ仮名専用活字復興。

多くの企業の協力と、多くのひとの努力で復興したベントン式活字母型とその活字スキーム。

こんな時代だから 金属活字も創っています!
「アラタ1209活字復興プロジェクト」は多くの収穫をもたらした。 すなわちベントン式活字母型製造法は、あちこちでパイプが詰まっていた。 その詰まった部分を、ひとつひとつゆっくり丁寧に解消して、円滑な流れをつくることにつとめた。
また、その成果を『アダナ・プレス倶楽部 会報誌』などに公開することで、その後何人ものひとや企業が、ベントン式活字母型製造から活字鋳造に挑戦するようになったことは望外のよろこびであった。
なによりも、わずかとはいえ、安形製作所の稼働率があがったことがおおきな成果であった。

《創造感動の旅 実践活字母型彫刻》
その後もアダナ ・ プレス倶楽部と「安形製作所」は積極的な交流 ・ 発注をつづけた。
とりわけにぎやかで、若者の参加が多くて、安形文夫氏もよろこばれたイベントが、2008年09月27日開催の「朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 特別企画/感動創造の旅 実践活字母型彫刻」であった。このときはマイクロ ・ バスをチャーターして10数名での参加だった。

そのときの写真をあらためてみると、作業にはきびしく、若者にはやさしい愛情をそそがれた、安形文夫氏のおもかげがしのばれる。
このときは、参加者全員が持ちきれないほどたくさんの椎茸をみやげにいただき、すっかり暗くなった夜道を走って、元従業員だったとされるかたの農場で、山梨名産のブドウを安くわけていただいたのも懐かしい。

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なにぶん正月中の逝去だったために、葬儀は親族だけで密葬された。
2012年08月14日、あらためて友人 ・ 知人 ・ 隣組の皆さんをまじえ、僧侶を招いてのご供養があった。 やつがれはそこで万感のおもいをもってお別れをした。
その後、小社とは直接取引はなかったが、東京 ・ 板橋にあったベントン彫刻所の経営者も2012年09月に逝去されたとの情報があった。

リン-ボイド-ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機、ベントン」による活字父型 ・ 母型製造法は、ここにアメリカでの実用化から128年、わが国での国産化から62年の歴史をもって、事実上幕をおろすこととなった。
朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、生前の安形文夫氏とも相談しながら、次世代の活字母型彫刻法をさまざまに探ってきた。 その成果はいずれ発表したい。

機械式活字母型彫刻士 安形文夫、2012年1月1日、膵臓がんのため逝去。行年71 合掌

朗文堂-好日録016 吃驚仰天 中国西游記Ⅱ宋版図書 復活・再生の地 杭州・紹興

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《 海の日の休日を利用して、ふたたび 杭州 ・ 紹興への旅 》
フトおもいたって、昨年9月に訪れた杭州 ( Hangzhou ) と、紹興 ( Shaoxing ) にいきたくなった。
このまちは宋版図書の主要な製造地であり、その 「 復活 ・ 再生 」 のまちで、宋朝体と呼ばれる字様 ・ 活字書体を産んだまちのひとつでもある。

便利な時代になった。 杭州と紹興の中間地点までは ANA の直行便がフライトしている。
同行者はノー学部。 ノー学部は、なにやら中国史研究に遠大な構想 ( 夢想? ) をいだいているらしい……。 そのせいか最近は、書芸と中国史の学習にことのほか熱心にとり組んでいるのだ。

どうやらノー学部の研究テーマの主要項目に 「 美食 」 があるらしい。 旨いレストラン ( 中国のばあい、ほとんどすべてが 「 中国料理店 」 だが、都市ごとに味わいがことなり、どれもがおいしい ) や、スィーツ専門店を探すのに夢中になったりする。 また旅のスケジュールを、ともかく、めいっぱい、隙間無くうめる癖がある。これは勘弁だ。

やつがれは、そのまち、その場の空気を吸っているだけでいいという、呑気な性癖である。
したがってノー学部による分秒刻みのスケジュールに、真底辟易し、あえぎながら坂道をのぼり、歩き、走りまわることになる。これだけは本当に勘弁してほしい(怒)。
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上掲の彫刻写真は、2009年秋に再開発がなった 「 南宋御街 ギョガイ 」 でたまたまみかけたもの。 しかしこの彫刻は、書芸と詩作と 「 美食 」 にある程度造詣がないと、ほとんど意味をなさない。
やつがれは 「 美食 」 にはまったく関心が無いが、この前夜、前掲 「 書芸 ・ 詩作 ・ 美食 」 三単位初級編を、ホテルのすぐ近くの大衆レストラン ( もちろん中国料理店 ) で学習した ( つまり食した ) ばかりだったので、おもわず笑い転げてしまった。

東坡肉の実際。やつがれの食したのはもっと庶民的かつ素朴なものだった。
杭州では、ひと皿10元 ≒ 125円。 新宿の杭州料理店では 1,200 円だった。
例によって撮影失敗につき、 中国版Websiteより紹介。

このあたりは王城域とされ、杭州が南宋のみやこ ・ 臨安とよばれていたころは、王宮の内宮をでると 「 大廟 ダイビョウ 」 があった。 これに隣接して 「 察院前巷  サツインゼンコウ 」 とされる、おおきな宮殿と広場があった。
「 大廟 」 では、元旦 ・ 白馬 アオウマ ・ 踏歌 トウカ ・ 端午 ・ 相撲 スマイ ・ 重陽 チョウヨウ ・ 豊明 ホウメイ などの祝祭をおこなう 「 節日 セチニチ 」 に、皇帝が文武の百官をここの宮殿と おお広場で謁見した。
「 大廟 」 の左右には 丞相府 ( ジョウショウフ 首相官邸に相当 ) があり、ここから鼓楼へかけてのまっすぐな道が王宮中央通りとされて 「 御街  ギョガイ 」 と呼ばれていた。

ところが南宋末期、衛宗 祥興元年(1279)、臨安は蒙古族元軍の襲来をうけて、王宮はもちろん、大廟や丞相府や察院前巷も焼け落ちて、ながらく地下に埋もれていた。
ようやく近年発掘調査がおこなわれ、また再開発されて公開されるようになった。

いまこの周辺は観光地として拓けつつあるが、たれもがガイド ・ ブックに紹介された杭州にはたくさんある 「 名所 ・ 旧蹟 」 をみるのにせいいっぱいで、ガイド ・ ブックにも掲載が無く、ガイドも案内しない、こうした 「 現代彫刻 」 には、たれも足をとめない。

やつがれはこのあたりを、ほぼ2日間うろついていた。 人通りはそれなりに多いとおもっていたが、あらためて写真をみると閑散としたものでおどろいた。 そのためもあるのか、わが国にたくさんあるブログ版 「 中国旅行記 」 のたぐいの写真でも紹介されたことはないようである。

やつがれ、しばらく彫刻に足をとめ、涼風をもとめて石のベンチに腰をおろしていた。 そこに地元の家族連れがとおりかかり、ひとりの少女がここで立ち止まって、小首をかしげたりしながら熱心に彫刻をみていた。

ふつう女性がこうして腰に手をやってこちらを見据えると、危険信号である。
やつがれのとぼしい経験では、次のフェーズは  当然のように、怒りにまかせて手近の皿やコップがとんでくるものだ。
ところが少女は興味深そうに彫刻をみ、そして先にあるいていった母親のあとをいっさんに追っていった。 皿もコップも飛んでこなかった。 この敏捷で利発そうな少女は、将来、詩人か造形家か、はたまた政治家か料理人にでもなるのだろう。

彫刻左のおおきな像は、蘇  軾 ソ-ショク ( 号 ・ 東坡居士、唐宋八家のひとり。 蘇東坡 ソ-トウバ としても知られる。 官僚 ・ 詩人 ・ 文章家 ・ 書芸家  1036-1101 ) である。
下にあげた 『 食猪肉 』 の詩は蘇軾のもの。 ここでの猪は豚のことである。
すなわちこのまちの名物食品、豚の煮物 「 東坡肉 トン-ボー-ロウ 」 の考案者・蘇軾を、諧謔精神たっぷりに、おおきな彫刻をもって伝えたものである。

東坡肉 : 中国版画像 】
もしこの杭州のまちにいかれたら、ぜひとも 「 東坡肉  トン-ボー-ロウ 」 を食されることをお勧めしたい。
長崎卓袱 シッポク 料理の一部や、鹿児島の郷土料理に、豚肉と大根を煮込んだ類似のものがあるが、蘇東坡考案の杭州 「 東坡肉 」 は、豚の脂がくどくなくて、美味である!  ノー学部なぞ、画像のような 「 東坡肉 」 の大皿を、ふつかの間になんと 3 皿も食していたほどのものである。

   黄州好猪肉
     價賤等糞土
     富者不肯喫
     貧者不解煮
     慢著火少著水
     火候足時他自美
     毎日起来打一碗
     飽得自家君莫管
        ──  蘇  軾 『 食  猪  肉 』 

いずれにしても、近代造形と、歴史的言語性を考えさせられる 「 現代彫刻 」 ではあった。

《 北宋のみやこ 開封における出版事業の隆盛と消滅 》
中国における木版印刷術の創始には諸説あるが、おそらく唐王朝中期、7-8世紀には、枚葉の木版印刷から、木版刊本といわれる、素朴ながらも書物 ( 図書 ) の状態にまで印刷複製術は発展していたとみられる。
つづく五代といわれる混乱期にも、後梁、後晋、後漢、後周などの、現在の開封 ( カイホウ、 Kaifeng ) にみやこをおいた王朝を中心に技術が温存され、10世紀 ・ 北宋 ( 趙氏、9代、960-1127 ) の時代に、宋版図書といわれる中国の古典書物としておおきく開花した。
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北宋のみやこは五代の諸国と同様に、中国河南省中部、黄河の南方平野にある開封(カイホウ、 Kaifeng)であった。いまもなお開封は雄偉な城壁をめぐらす、おおきな城市(まち)である。
この城市がひらけたのは紀元前からとふるく、戦国七雄のひとつ 魏 ( 晋の六卿のひとり 魏斯が建朝。
前403-前225 ) が、安邑からこの地にみやこを移して 「 大梁 タイリョウ 」 と呼んだ。 魏は山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めたが、のちに勢いをました 秦によってほろぼされた。

やがて唐王朝の滅亡後、10世紀の初頭、五代 ・ 後梁のみやこ 「 東都 」 となり、つづいて後晋 ・ 後漢 ・ 後周もここにみやこをおいて 「 東京 」 と称した。
すなわち 「 分裂時代 」 とされる五代十国時代ではあるが、五代にわたる漢民族王朝のうち、洛陽にみやこをおいた 「 後唐  923-936 」 以外の四国は、開封 ( 東都 ・ 東京 ・ 汴 ) をみやことしたのである。

また十国とされたちいさな王朝でも、蜀の国 ( 現在の四川省 ) に建朝された 「 後蜀  934-965 」 では、965年ころには、あきらかに、
「 蜀地の文化の新 展開と、経書の印刷がおこなわれていた 」 ( 『 標準世界史年表 』 亀井高孝ほか、吉川弘文館、1993年4月1日 ) のである。
「 木版印刷の創始は宋代 」 からという説からは、そろそろ卒業したいものである。

そして宋代になってからも、この蜀の地で製造される大判の刊本は 「 蜀大字本 」 とされて、評価がきわめてたかかった。 そのひとつ 『 周礼 シュライ 』 がわが国の 静嘉堂文庫 ( 東京都世田ヶ谷区 ) に伝わり、重要文化財になっている。
それを参考資料として製作されたデジタル ・ タイプが 「 四川宋朝体  龍爪 」 ( 製作 ・ 欣喜堂、販売 ・ 朗文堂 ) である。これがして、やつがれが北宋 ・ 南宋の両方の宋王朝と、宋朝体に膠泥するゆえんのひとつでもある。

60年ほどつづいた五代にかわり、ふたたび統一王朝 ・ 宋を建朝したのは、後周の将軍であった 趙 匡胤 ( チョウ-キョウイン、太祖、在位 960-976 ) である。宋は五代の王朝のみやこを継承して、その名を 「 汴 ベン、東京開封府 トウケイ-カイホウフ
」 とした。
宋は軍閥の蟠踞をふせぐために、重文軽武 ( 文官優位の治世、シビリア ン・ コントロール ) につとめ、文治主義による官僚政治を樹立したが、外には 契丹 キッタン 族の遼、チベット系タングート族の 西夏 セイカ の侵略に悩まされ、内には財政の窮迫に苦しんでいた。

1127年、中国東北部にあって急激に勢力をました満州族の金 ( 女真族 完顔部  ジョシンゾク-カンガンブ、阿骨打 アグダの建てた国 ) が、会寧府 ( 吉林省阿城県 )、燕京 ( エンケイ、北京 ) を占拠して、遼、内モンゴルにつづいて 「 汴 ベン、東京開封府 」 を占拠して、宋 ( 北宋 ) を滅ぼした。
この北宋の滅亡に際しては 「 靖康 セイコウ の変 」 とされる悲劇が伝えられる。

北宋の風流皇帝と呼ばれた 徽宗 キソウ ( 趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 ) の書。
上から、「 穠芳詩巻 」 「 牡丹詩帖 」 「 楷書千字文 」。 徽宗帝 趙佶は書画にすぐれ、みずからの書風を 「 痩金体 」 と名づけた。

趙佶は初唐の書家 ・ 薛曜 ( セツ-ヨウ  生没年不詳 ) から学ぶところがあったとされる。 影印資料ではたしかに両者に類似性もみられるが つまびらかにしない。
「 楷書千字文 」 はいまは上海博物館の所蔵で、ここで真筆をみて、CDR版を含む、できのよい複製版を購入することができる。 『 宗徽宗書法全集 』 ( 王平川、北京 ・ 朝華出版社、2002年1月 )

北宋の靖康2年(1127)、金軍が前年の攻城戦と和睦に続いて、再度南下して大規模な侵攻をおこなって、ついにみやこの 「 汴 ・ 東京開封府 」 を陥れた。これが 「 靖康の変 」 とされる事件である。 ここに宋 ( 北宋 ) は 9 代をもって滅亡した。
その際、風流皇帝と呼ばれた先帝の上皇 ・ 徽宗 キソウ ( 趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 )、皇帝 ・ 欽宗 ( 趙 桓、在位 1125-27 ) をはじめ、廷臣 3,000 余人を虜囚として 北辺の僻地につれさって、主要な虜囚は極寒の地、五国城 ( 現黒竜江省 ) に幽閉した。

風流皇帝ともされ、芸術に惑溺した徽宗の在位は25年におよんだが、為政者としての評価はきわめてひくい。そのため汴の陥落直前に 趙桓 ( 欽宗 ) に帝位を譲って上皇となったが、「 靖康の変 」 に際しては上皇 ・ 皇帝ともに金国の虜囚となって、北辺の地で没した。 遺骸は満州族の風習にしたがって火葬に付されたのち、遺骨が南宋に送還された。
そのために趙佶は追尊されて徽宗帝とされ、その陵墓 「 永祐陵 」 は、旧南宋領内のみやこ  ・ 臨安のちかく、紹興城市の東南18キロほどのところにあるという(未見)。

《 版木ともども消滅した北宋刊本 》
[ 本項は 『 大観  宋版図書特展 』  台北 ・ 故宮博物院、2007年12月を主要資料とした ]
北宋のみやこ、開封でさかんだった刊刻事業 ( 出版 ) であるが、この時代 ( 10-12世紀 ) の木版刊本の書物 「 北宋刊本 ・ 北宋図書 」 は、ほとんど中国や台湾には現存しない。
たとえ刊記がなくても、字様 ( 木版刊本のうえにあらわれた字の形姿 ) や装本状態からみて、北宋時代のものと推定されるものをかぞえても 十指におよばず、ほんのわずかしかない。
その点においては、15世紀欧州の初期活字版印刷物 「 インキュナブラ 」 の稀覯性などとはとても比較の対象とならない。

図書や法帖の製作は、国子監だけでなく宮殿内でもおこなわれていた。
宋王朝第 2 代皇帝 ・ 太宗 ( 976-997 ) が、淳化3年 ( 992 ) に 宮廷の宝物藏 ( 内府 ) 所蔵の歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書 カンリン-ジショ であった王著 ( オウチョ   ?―990 ) に命じて、編輯、摹勒 ( モロク  摸倣によって木石に彫刻 ) させ、拓本とした集法帖10巻がある。
名づけて 『 淳化閣帖   ジュンカ-カクジョウ 』 である。

『 淳化閣帖 』 は、完成後にこれを所蔵した場所にちなんで 『 秘閣帖 』、『 閣帖 』 とも称した。
  同書は左右の近衛府に登進する大臣たちに賜った 「 勅賜の賜本 」 であった。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻 ・ 原拓本による全巻揃いの完本はみられないが、以下の 「 夾雪本 」 ( 東京 ・ 書道博物館 ) と、「 最善本 」 ( 上海 ・ 上海博物館 ) がわずかな残巻として日中に伝承されている。
【 参考資料 : タイポグラフィ あのねのね 001*淳化閣帖 】
【 参考図版 : 無為庵乃書窓  淳化閣帖 】

ところが1127年の靖康の変で、金が東京開封府を陥れたさい、金軍は上皇 ・ 徽宗帝、皇帝 ・ 欽宗はもとより、金銀財宝や人材だけでなく、宮殿の宝物蔵 「 内府 」 や、国子監などにおかれていた、すぐれた漢民族の文化資産も接収した。 この国はのちに女真文字 ( 満州文字 ) をつくるが、おそらくはそのための文化基盤も欲しかったのであろう。

つまり金軍は、『 淳化閣帖 』 などの法帖や、北宋版本はもとより、その複製原版としての、版石 ・ 版木のほとんどすべて、そしてその工匠の一部までも、根こそぎ、燕京、会寧府など、満州族の北のみやこにもちさり、つれさったものとみられている。
したがって、このとき失われたとされる 『 淳化閣帖 』 の複製原版が、石刻だったのか、梓 アズサや 棗 ナツメ材などへの木刻だったのかは、さまざまな議論はあるものの判明しない。

こうして、印刷術をおおきく開花させた宋 ( 北宋 ) の版本のほとんどは 「 汴、東京開封府 」 から消え去った。 わずかにのこった北宋刊本も、後継王朝の南宋で 「 覆刻術のために費消 」され、さらにその後も相次いだ戦禍と、中国歴代王朝、なかんずく清朝における 「 文字獄 」 によってほとんどが失われた。
そしてわずかに十指にあまる程度とはいえ、なぜか、とおい日本に 「 北宋刊本 」 がのこったのである。

すなわち、わが国では 「 文字獄 」 はおこなわれなかったし、その勢いはおよばなかった。
「 文字獄 」 に 花筏 新・文字百景*003  へのリンクを貼ったが、あまりに長文のなかで触れたことなので、以下に該当部を青色表示で引用提示した。
また 「 文字獄 」 が中国歴代王朝、なかんずく
清王朝初期の皇帝によって、いかに苛烈におこなわれ、どれだけ貴重な図書が失われていったのか、このテーマに関心のあるかたは 【 中国版  文字獄 】 をご覧いただきたい。驚愕されるデーターである。 

東漢のひと許慎著 『 説文解字 』 は西暦100年ころの完成とみられるが、中国 「 字学界 」 ではいまだに評価がたかく、必須の字学資料とされ、さまざまな編輯がこらされて、各社から刊行されている。
上写真)  『 説文解字 』 ( 清代の木版刊本からオフセット平版印刷、古装本仕上げ、4巻、合肥市 ・ 黄山書社、2010年8月 )。
下写真)  右下 『 黄侃手批説文解字 』 ( 木版印刷物に批評をしるし、それを版下としてオフセット平版印刷、北京 ・ 中華書局出版、2006年5月 )
左下        『 文白対照  説文解字 』 ( 部首別画引きが可能、北京 ・ 九州出版社 )

【参考資料:新・文字百景*001 爿ショウ と 片ヘン,かた  その《字》の形成過程をみる】

撮影のために、手もとの 『 康煕字典 』 をだしておどろいたが、写真のほかに、台北 ・ 商務印書館版、台北 ・ 大同書院版の 『 康煕字典 』 もあり、やつがれが 『 康煕字典 』 にこだわっていただけかともおもわされた。
右   『 康煕字典 』 ( 明治初期?  日本での木版印刷、19巻、版元名 ・ 刊記無し )}
左   『 康煕字典 』 ( 上海古籍出版社、1996年1月第1版、2011年1月第1版14次印刷 )

 《わが国にファンの多い『康煕字典』をみる》
どういうわけか、わが国においては「漢字字書」として『康煕字典』(清朝康熙55、1716)の「ファン」があまりにも多い。たしかに『康熙字典』は比較的近世の、木版印刷による刊本であり、その字様は楷書の工芸字様ともいうべき明朝体(中国では宋体)である。

明朝体は中国・台湾では、職業人は「宋体」とするが、ふつうの生活人は「印刷体」とすることが多い。すなわちわが国の「明朝体の風景」とは異なり、あまり重くみているわけではなく、生活人は、
「そこに、印刷のために、あたりまえに存在している、実用の字」
とすることが多い。
また『康煕字典』は音韻配列ではなく、部種別画数順配列であることも、「文と字 ≒ 漢字」への親近性においておとるわが国の関係者には、好都合な「字書」だったかもしれない。

しかしながら『康煕字典』の、肝心の帝の名前である「こうき」が、表紙・扉ページなど、いわゆる装幀とされる部分だけでも、「康熙・康煕・康熈」など、三例の使用例があって、「字書」としてはまことに頼りない。
そのためにわが国の文字コードでは、ほとんどこの用例のために、「康熙 シフトJIS EAA4」「康煕 シフトJIS E086」「康熈 シフトJIS E087」の、みっつものキャラクターを用意しているほどである。
これをもってしても、いまだにわが国の一部で「康煕字典体」などと崇め奉っているむきがあるのはいかがであろう。

また中国では古来、字に関して記述した書物は「字書」であり、「字典」というおもい名称をあたえたことはなかった。「典」は「典型」に通じ、書物としては、儒教・道教・仏教などの経典などの書物にはもちいられてきたが、ともかくおもい字義、字の意味をもった「字」が「典」であった。
したがって清王朝第四代皇帝・康煕帝が、勅命によって、「字書」にかえて「字典」としたことに、ときの中国の知識層は震撼し、ある意味では支配民族の増長、ないしは知識・教養不足のなせることとしてとらえた。

またその治世が62年とながかった清朝4代康煕帝(玄燁  1654-1722,在位1661-1722)は、紫金城内武英殿を摺印場(印刷所)として、いわゆる武英殿版ブエイデン-バン、ないしは殿版デンパンとされる、多くの書物をのこした。
そのかたわら、すでに3代成祖・順治帝(福臨 1643-61)からはじまっていた「文字獄」をしばしば発令して書物の弾圧に乗り出していた。「文字獄」では、すこしでも漢民族の優位を説いたり、夷族(非漢民族)をそしった書物は、徹底的に没収・焼却し、その著者と刊行者はもとより、縁族までも重罪としたひとでもあった。

この清王朝前・中期にしばしば発令された「文字獄 モジゴク」は、巷間しばしばかたられる 秦の始皇帝による「焚書坑儒」(前213)より、その規模と頻度といい、全土におよぶ徹底ぶりといい、到底比較にならないほど激甚をきわめたものであった。
そこにはまた「文と字」を産み育ててきたという自負心を内蔵している漢民族と、ときの支配民族としての満州族(女真族)との、微妙な民族感情の軋轢がみられたことを知らねばならない。

《 北宋刊本を 「 覆刻 」 という技法で復活させた、南宋臨安の刊刻事業 》
みやこ東京開封府をおわれた宋の残存勢力は、徽宗帝の第 9 子とされる皇族のひとり、趙 構 ( のちの南宋の高宗、在位1127-62 ) を擁して江南をさすらい、ようやく要害の地 ・ 臨安 ( 現 杭州 ) にみやこをさだめた。

杭州 ( Hangzhou ) は、ふるくは銭塘 ・ 臨安などと呼ばれたこともあったが、いまは中国浙江省の省都で、人口670万余のおおきなまちである。
杭州湾および銭塘江セントウコウを控え、まちの中央西部の 「 西湖 」 にのぞむ景勝地としても、ふるくから栄えたまちである。

わが国では 「 コウシュウ 」 あるいは広東省の副省級市の 「 広州 」 との混同をさけ、湯桶 ユトウ読みで 「 くいしゅう 」 ともされるが 「 ハンゾウ 」 と呼んだほうがなにかと都合が良い。
またふるくからの印刷術発祥地のひとつ 「 浙江刊本 」 の製造地にかぞえられ、北宋時代の大著 『資治通鑑  シジツガン』は、汴 ( 東京開封府 ) ではなく、このまちで刊行 ( 刻刊 ) されたものとされる。

河水(黄河)ぞいの東京開封府が陥ちたあと、南宋のみやこは長江(揚子江)の南、江南の臨安となった。開封をおとした金と南宋の国境線は、屈辱的な交渉をへて、淮河 ワイガによって南北にわかたれた。
それでもあたらしいみやこ、臨安における出版事業の「復活」は、浙江地方という、ふるくから文物がゆたかで、文化度もたかく、製紙や刊刻事業の基盤があったこの地方には好適な産業であった。

臨安や紹興では、多くの工匠が、北宋時代9代のあいだに刊行された書物を収集し、それをばらして原本としてあたらしい版木にはり、それを版下として上から「覆刻 ≒ かぶせぼり」にするという技術をもちいて刊刻事業を再開した。
このおもには覆刻による刊刻は製造効率がよく、編輯・校閲の手間なども大幅に軽減されたため、初代高宗、2代孝宗(趙 伯琮ハクソウ、1162-89)のわずか2代のあいだに、科挙の教科書、参考書などにもちいる主要な書物の刊行をほぼおえている。

この異常ともいえるほどはやかった「覆刻 ≒ かぶせぼり」方式による「官刊本」の復活・再生の刊刻事業がほぼおわると、民間の出版社ともいえる書房が次次と臨安城市に登場して、彫刻工、摺印工、製本工を中心に、すぐれた技芸者の奪いあいがはじまり、技術が一段と向上していった。
こうした民間出版社のほかに、国子監のちかくにあった仏教寺院・道教寺院などでも、失われた経典の刊行が盛んになった。

やつがれは、こうしたほとんどが失われた書物ではあるが、それをつくった書房や寺院の旧在地を調べたい、そしてできれば北宋・南宋時代の刊本を入手したいというのが長年の夢であった。
それでもかつての中国では、外国人が自由に動きまわることができなかったし、昨年は南宋時代の臨安の詳細図が入手できずに成果をみなかった。

今回ようやく現地の友人の協力をえて、杭州図書館で地図資料を入手して、南宋時代の王城域、城門、書房(民間出版社)、寺院などの旧在地を、古地図と照合しながらほぼ確定することができた。
ただし、いわゆる「宋版図書」を入手することは、まずもって刊本そのものがほとんど存在し無いという現状であり、いち個人のちからではとうてい不可能だということを改めて確認させられた旅ともなった。
その報告は、すこし整理の時間をいただきたい。

さりながら、こうした杭州での刊刻事業の動向は、意外に敏速にわが国へも伝わっていたとみられた。当時は公式・非公式を問わずに日宋間での貿易がさかんで、輸入品の主要項目に図書もあげられているほどのものであった。
また、臨済宗・栄西禅師や、曹洞宗・道元禅師ら、平安時代末期から鎌倉時代にわが国に禅宗をもたらした高僧も、この浙江地方の寧波ニンボ、ねいは・紹興・臨安などの各城市に修行にでかけていた時代であった。
したがって、しばらくのちの、わが国の京都五山版、鎌倉五山版など、わが国の刊本事業への影響もあったかもしれないとおもうとたのしいのだ。

杭州観光というと、これまでは風光明媚な西湖を中心とした観光と、文人・詩人の旧蹟をたずねるのが中心であったが、いずれ古都・臨安、杭州の本当の魅力は、おおきく南宋王朝文化の探求へとかたむく様相がみられる。写真は西湖白堤に咲く蓮の花。

白堤は中唐時代に杭州刺史(州の司政官)として赴任した白居易(官僚、詩人 772-846 )が築堤したとされる。
そのたもとには、イタリア、ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロ(1254-1324)の銅製の立像がある。マルコ・ポーロが臨安(杭州)を訪れたのは元軍による破壊と修復のあとであったが、帰国後に『東方見聞録』を口述して、このまちの美しさを絶賛して、欧州人の東洋感におおきな影響をあたえた。
また蘇軾(蘇東坡)が西湖の浚渫をおこない、その土砂をもって築造したとされる、白堤よりよほど大規模な「蘇堤」もあり、休日などは人混みで歩くのも困難なほどの多くの観光客を集めている。

東京開封府を追われて、江南の要害地として臨安をみやこに選んだ南宋は、1127年高宗・趙 構にはじまり、孝宗・光宗・寧宗・理宗・度宗・恭宗・端宗とつづいた。
9代目皇帝は1278-79年に在位した衛宗であるが、1279年、これも北漠の地からおこった蒙古族の元(世祖、フビライ、1279-94)によって臨安は襲撃された。元軍の猛攻によって臨安城市は徹底的に破壊された。

騎馬民族の元軍は、満州族の金軍よりよほど破壊力がつよく、金と南宋のあいだの暗黙の国境線ともいえた淮河ワイガを一気にこえ、さらに長江(揚子江)をこえて臨安に襲いかかった。そして城内のすべての宮殿を焼き、多くの民衆をもまきぞえにして殺戮のかぎりを尽くしたとされる。
蒙古族元軍の猛攻により、衛宗はその生没年も確実には歴史にのこらないまま、1279年9代で南宋王朝は崩壊をみた。
その戦禍のなかに、せっかく覆刻・新刻した南宋刊本と、その版木は、またまたほとんどが失われたのである。

元はその後、このまちの修復につとめ、城壁などは南宋時代よりも頑健なものとした。つづく明王朝も、杭州の運河や町並みの整備に努力した。
────
南宋のみやこ・臨安の王城域は、長らく発掘と再開発事業が進行していたが、杭州・中山路、南宋御街の再開発が2009年9月30日に完成して一般公開された。
前述のように「御街ギョガイ」とは、かつては皇帝専用の道で、800数十年以前の、南宋のみやこを東西につらぬく主軸のうえに御街は復活をみた。
もともとの御街は、地下10メートルほどのところに埋もれているが、近年発掘されて「南宋遺址陳列館」でその遺構の一部をみることができる。

  
左)杭州ではいちばんの古書店と友人に紹介された「杭州沈記古旧書店」沈店主と。
  北宋・南宋時代の刊本は、複製版でも扱ったことはないと筆談したが、やつがれは
店内で一冊
南宋刊本複製版を発見した。あまりに粘ったので沈店主には嫌われたが。
右)臨時ドライバーの王さんと喫煙のひととき。会話はすべて筆談だが、ふしぎに意思
  疎通にはこまらない。杭州でも喫煙者にはなにかときびしいゾ。

《紹興 ── 古代王朝 夏カのまち、そして王羲之と魯迅のこと》

 

「紹興酒ショウコウ-シュ」のことを、このまち紹興では「黄酒オウ-シュ」という。
そもそも「杭州空港」とはいうが、ほぼ杭州と紹興のまちの中間点にある。いまの紹興は人口550万ほどの大都市である。
今回の3泊4日のみじかい旅も、紹興からはじまった。
【昨年秋の旅行記:朗文堂-好日録 011 吃驚仰天 中国西遊游記Ⅰ】

ノー学部が昨秋にはじめて中国を訪れ、まち歩きをはじめたのも紹興で、空港からいきなり紹興の城市(まち)にはいり、五代十国のひとつ・越の宮殿跡(越王台)ちかくの、ちさな民家の立ちならぶ細い路地に降り立った。そこでタクシーを降り、はじめて「ニーハオ・トイレ」も経験した。
そのせいか、なにかと紹興が気がかりのようで、ここにいたく
こだわる。

中国三皇五帝の神話時代につづき、先史時代に、ここ紹興の会稽山カイケイザンあたりに、禹王ウオウが夏カ王朝を建て、夏は17代(禹―启―太康―仲康―相―少康―杼―槐-芒―泄―不降―扃―廑―孔甲―皋―発―癸―桀)430年にわたってつづいたとされる。
そのために初期有史時代(すなわち 文 と 字 が誕生していて、
記録がある)の、夏・商(殷)・周とをあわせて三代とも呼ぶ。

「字 ≒ 文字」がなかったために、記録はすくない夏王朝であるが、現代中国の歴史学者は、三皇五帝の神話時代のあつかいとはことなり、さまざまな「文 ≒≒ 紋、一定の社会集団が共有した意味性をもった記号。徴号トモ」の存在をみとめ、その解読にあたり、またさまざまな発掘の成果により、夏王朝の存在をほぼ史実としてみとめているようである。

《東晋のひと王羲之と、その従兄弟王興之の墓誌》
ここではなしがすこしずれるが、この江南の地から誕生した書風「碑石体」に触れたい。
どうやら現代の文字組版に関わるかたのうち、想像以上に多くの皆さんが、力感のある、やさしい、ヒューマン・サンセリフの登場をお待ちになっていたようである。

これまでもしばしば、十分なインパクトがありながら、視覚にやさしいゴシック体、それもいわゆるディスプレー・タイプでなく、文字の伝統を継承しながらも、使途のひろいサンセリフ――すなわち、わが国の電子活字書体にも「ヒューマン・サンセリフ」が欲しいとの要望が寄せられていた。
確かにわが国のサンセリフ ≒ ゴシック体のほとんどは、もはや自然界に存在しないまでに鋭角的で、水平線・垂直線ばかりが強調されて、鋭利な画線が視覚につよい刺激をあたえている。

2012年4月、欣喜堂と朗文堂が提案したデジタル・タイプ『ヒューマン・サンセリフ  銘石B』の原姿は、ふるく、中国・東晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種で、とくに「碑石体ヒセキ-タイ」と呼ばれる書風をオリジナルとしている。

魏晋南北朝(三国の魏の建朝・220年-南朝陳の滅亡・589年の間、370年ほどをさす。わが国は古墳文化の先史時代)では、西漢・東漢時代にさかんにおこなわれていた、盛大な葬儀や、巨費を要する石碑の建立が禁じられ、葬儀・葬祭を簡略化させる「薄葬」が奨励されていた。

そのために、この紹興のまちに会稽内史として赴任し、楷書・草書において古今に冠絶した書聖とされる王羲之(右軍太守  307?-365?)の作でも、みるべき石碑はなく、知られている作品のほとんどが書簡であり、また真筆は伝承されていない。
現在の王羲之の書とは、さまざまな方法で複製したもの、なかんずくそれを法帖ホウジョウ(先人の筆蹟を模写し、木石に刻み、これを木石摺り・拓本にした折り本)にしたものが伝承されるだけである。

王興之の従兄弟・書聖/王羲之(伝)肖像画。
同時代人で、従兄弟イトコの王興之も、こんな風貌だったのであろうか。

『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土した。王興之(オウ-コウシ 309-40)は、王彬オウ-リンの子で、また書聖とされる王羲之(オウ-ギシ  307-65)の従兄弟イトコにあたる人物である。

この時代にあっては、地上に屹立する壮大な石碑や墓碑にかえて、係累・功績・生没年などを「磚セン」に刻んで墓地にうめる「墓誌」がさかんにおこなわれた。『王興之墓誌』もそんな魏晋南北朝の墓誌のひとつである。『王興之墓誌』の裏面には、のちに埋葬された妻・宋和之の墓誌が、ほぼ同一の書風で刻されている(中国・南京博物館蔵)。

この墓誌は煉瓦の一種で、粘土を硬く焼き締めた「磚 セン、zhuān、かわら」に碑文が彫刻され、遺がいとともに墓地の土中に埋葬されていた。そのために風化や損傷がほとんどなく、全文を読みとることができるほど保存状態が良好である。

『王興之墓誌』の書風には、わずかに波磔ハタクのなごりがみられ、東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれている。遙かなむかし、中国江南の地にのこされた貴重な碑石体が、現代日本のヒューマン・サンセリフ「銘石B Combination 3」として、2012年4月、わが国に力強くよみがえった。


《王羲之の伝承墓のこと》
王羲之の従兄弟、王興之の墓から出土した『王興之墓誌』を紹介した。
ならば一族のひとであり、2歳ほど年長の王羲之の墓、および墓誌を紹介しないと片手落ちになる。

王羲之は4世紀の時代をいきたひとである。わが国でいえば古墳時代であり、まだひとびとは「字」をもたなかった時代のことである。
王羲之の墳墓の地と伝承される場所は紹興(会稽)周辺に4ヶ所ほどあるが、そのうちもっとも著名な浙江省嵊州ジョウシュウ市金庭鎭キンテイチン瀑布山バクフザンをたずねた。嵊州市は紹興から高速道路で2時間ほど、その嵊州市からさらに山間の道を東へ20キロほどいった山中にあった。

山を背に、爽やかな風が吹きぬける、立派な堂宇を連ねた道教の寺院であった。
墓地は山裾の高台にあったが、明代に「重修」したと墓碑の背後にしるされていた。墓地本体は「磚セン」を高くつみあげ、その上に夏の艸艸が密生した円墳がのっていた。

魏晋南北朝にあっては「薄葬」が奨励されたために、おおきな墳墓や石碑はほとんど見られないが、いささか立派すぎる墳丘であった。また墳丘を修理した際にも、この時代の墓地にほとんどみられるような「墓碑銘」出土の報告はない。この王羲之の墳墓とされる墓からは従兄弟や親族の墓地のような「墓碑銘」は出土しなかったのであろうか。
また中国の古代遺跡によくみられる大樹の「古柏」は、伝・蒼頡ソウケツ墓の寺院前の見事な「古柏」はもとより、北京郊外・明の十三陵の「古柏」より、よほど若若しい木だった。

墓地伝承地の周囲には、書芸家が寄進した書碑がたくさんみられたが、そのほとんどは、昭和期日本の書芸家の寄進によるもので、チョイともの哀しいものがあった。
ただ齢ヨワイをかさねた王羲之が、終ツイの栖家としたなら、この嵊州市郊外の山中の空間は、それにふさわしいものとおもえる場所ではあった。すなわち4世紀のひとの墳墓を、21世紀に、異国のひとがフラリとたずねたとしたら、この程度の収穫で我慢をすべきであろうとおもえる場所であった。

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ふたたび紹興で……。
紹興からは、近代になると魯迅(ロジン 1881-1936)がでて、日本に留学し、『阿Q正伝』『狂人日記』などをあらわし、またあまり知られていないが、装幀家としても活躍した。

写真は晩年の魯迅がかよったとされる「咸亨 カンキョウ 酒店」で。
ここでやつがれが腰をおろしたあたりが、かつての魯迅お気に入りの場所だったとされ、壁際には「黄酒」の甕がならぶ。地元客にも観光客にもひとしく人気の店らしい。
魯迅はたそがれどきになるとここにあらわれて、料理写真右端のナントカ豆をつまみながら、黄酒をチビチビやっていたらしい。

いまの「咸亨カンキョウ酒店」は店舗が拡張され、入口で飲み物とプリペイド・カードを買って店内にはいり、あとは調理人と会話しながら料理をオーダーして、セルフサービスでテーブルに運ぶ。精算は店外のカウンターでする。
真ん中は鶏の唐揚げ風? 最奥はその名もビックリ「臭豆腐」。
前からあちこちの看板で眼にしていたが、字(漢字)でこうもはっきり「臭豆腐」と書かれると、食欲も失せて敬遠していた。

いずれも魯迅のお気に入りだったとして、ドライバーから勧められた── というよりドライバーが剽げて鼻をつまみながら「臭豆腐」をどんどん運んできた。臭いを気にせず、美味しいから食べろと勧められた。
「臭豆腐」はききしにまさるすさまじい臭いで辟易するが、食すと好ハオ! ほぼやつがれひとりで食べてしまった。写真の料理はドライバーとの3人分で、日本円で2,000円ほどだったか?

ただし、入口で飲み物を「コーラ」と注文したら、ドライバーとノー学部ともども、ひどい勢いで店のオバハンから罵られたらしい。
「アナタガタ ココハ 紹興ヨ! 黄酒ヲ ノマナイデ ドウスル」
というような具合だったようであるが、やつがれはすでに店内にあって「臭豆腐」に挑戦中で、よくはしらない。
ともかく紹興のまちとひとは、しばらくノー学部に任せておこう。

活版凸凹フェスタ*レポート12

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たいへん遅くなりましたが《活版凸凹フェスタ2012》レポートを再開します。
五月の薫風にのせて、五感を駆使した造形活動、参加型の
活字版印刷の祭典《活版凸凹フェスタ 2012》 は
たくさんの
来場者をお迎えして終了しました。
ご来場たまわりました皆さま、
ありがとうございました。
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【レポートの中断と、報告遅延のお詫び】
《活版凸凹フェスタ2012》は、5月の連休のさなか、5月3日-6日にかけて開催されました。事前・途中経過の報告は、この朗文堂 タイポグラフィ・ブログロール『花 筏 』に《活版凸凹フェスタ2012*01-11》として掲載されています。
来年こそ《活版凸凹フェスタ》に出展しよう、来年こそ来場しようというご関心のあるかたは、ご面倒でも『花 筏 』のアーカイブ・ページを繰ってご覧ください。

また、なにかとイベントがかさなるGWのさなかのことでもあり、ご遠方のかた、家族サービスなど、さまざまなご事情で来場できなかったお客さまから、寸描でもよいから、会場やイベント内容を報告してほしいとのご要望がありました。
ところが、アダナ・プレス倶楽部は、5-6月と、さまざまなゼミナール、イベント、出荷、取材に追われ、 報告が遅滞してご不便をおかけしていました。

また今回はスタッフが、活版ゼミナールや接客に追われ、撮影担当者を特定していなかったという失敗がありました。そのために写真資料をアダナ・プレス倶楽部会員の皆さんからご提供をもとめ、ようやく準備が整った次第です。
ここから『花筏』から、本来のステージ『アダナ・プレス倶楽部NEWS』に舞台をもどして、なにかと多忙な大石にかわり、やつがれ(片塩)が《活版凸凹フェスタ2012》レポートを継続します。

【新・文字百景】004 願真卿生誕1300年祭|真筆が伝承しない王羲之の書

顔 真卿 生誕1300年にちなんで
その人物像に迫る 【Ⅰ】


上下とも伝 顔 真卿肖像 709-85年 中国版Websiteより

《顔 真卿生誕1300年にあたって──王羲之の影響と初唐の三大家》
途中をはしょって、率意 ── 憤怒・激昂のおもむくままにしるした、顔 真卿の行草書による尺牘セキトクの下書き『祭姪文稿-さいてつぶんこう』を紹介しながら、顔 真卿のひととなりを記述しようとあれこれ苦吟していた。それはやはり、無謀な試みであることを痛感させられた1ヶ月ほどだった。

この苦衷の最中、画像処理が苦手なやつがれが救援をもとめたひとで「無為庵乃書窓」主人という得難い先達の知遇を得ることができた。同氏からは「無為庵乃書窓」画像へのリンクの許諾とともに、さまざまなご教示もいただいた。そのことがこの1ヶ月間の最大の成果であり、うれしいできごとであった。
それでも結局、本稿は2分割され、ここにみる顔 真卿像は序論に価することになった。

* 「無為庵乃書窓」主人こと、川崎市のMさんとはしばしばお会いして書藝のおはなしをうかがっていた。Mさんはさる大手通信会社の副社長だった方であるが、書藝は専門外でもあるので匿名を貫かれて記述されていた。2002-平成二年時点で八〇代のかたで、二-三年前からブログは休止状態にあり、最近リンクが外れたのは淋しいかぎりである。復活を祈念してリンク設定はそのままにしてあることをお断りしたい。

顔 真卿『祭姪文稿』部分、台北・故宮博物院蔵

顔 真卿の後半生、なかんずく『祭姪文稿』に集中しての記述をあきらめると、どうしても先行類書 ── 書法書の記述法と似てしまうが、やはり東晋4世紀のひと、王羲之(307?-365?)を経過し、初唐6-7世紀の書法家たちをある程度記述してからでないと、とても8世紀後半のひと、顔 真卿は語れないという結論に達した。すなわち「文と字」は、ひとの営み、歴史とともにある。
また本稿をふくむ「文と字」に関する歴史と将来展望は、いまもさまざまな試行と追加取材をかさねている。いずれまとまった書籍のかたちでご覧いただけるようにしたい。
その序論のひとつとして本稿をご覧いただけたら幸せである。

★     ★     ★

西晋以来ながくつづいた魏晋南北朝(220-589)の混乱した時代を、北周の武将だった揚堅(ヨウ-ケン、581-604)が、みやこを大興(のちの長安)とし、中央集権的帝国「随」を建朝して、ようやく中国の再統一をみた(589年)。
ところが2代皇帝煬帝(ヨウダイ、揚広、604-617)が臣下に弑され、つづく恭帝(617-618)もたおれて、わずかに3世37年をかぞえただけで随朝は滅んだ。
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つづく唐王朝の実質的な建朝者・二代皇帝太宗(李 世明、598-649・在位627-649)が貞観元年(627)に即位し、また賢臣をもちいて、唐王朝とそのみやこ・長安を空前の繁栄に導いた。その治世を「貞観ジョウガンの治」という。
太宗はみずからもすぐれた書芸家であった。その作は、西安 碑林博物館正面入口「碑亭」に置かれている隷書碑『石台孝教』(天寶4年・745、後述)にあきらかなであるが、また王羲之(オウ-ギシ、東晋の書家、307?-365? )の書を愛好し、その書200余を宮中にあつめた。

『蘭亭序』張金界奴本 虞世南臨本部分 北京・故宮博物院蔵 

 

『蘭亭序』褚遂良臨摸、絹本部分、台北・故宮博物院蔵
(『随唐文化』学林出版社、1990年11月)

それでも太宗・李 世明は王羲之の書作のうち、もっとも著名な『蘭亭序』の入手になやんでいた。すなわち漢の時代には陵墓の築造が重んじられ、また嘉功頌徳碑や墓碑など、さまざまな碑の建立がさかんだった。
それが三国時代を迎え、魏の始祖・曹操(あざなは孟徳。衰亡した東漢を支えて魏王となる。155-220年。その子・曹丕ソウヒ220-226年が帝を称して三国のひとつ・魏朝を建てた)が、陵墓や立碑の築造が経済をいちじるしく圧迫しているとして、建碑を禁止し、陵墓の造営と葬礼の簡素化をおしすすめた。

この曹操の命もあって、魏晋南北朝における南朝では碑はあまり建てられなかった。それを反映して、王羲之には、碑のための書は一作も知られていない。
したがって、王羲之の書とは「尺牘セキトク、書簡・てがみの類」などのちいさなものが多く、いかに皇帝であろうと、収集は困難をきわめたのである。

ところが太宗は、『真草千字文』を書したひとで、王羲之七世の孫とされ、越州呉興の永欣寺住持・智永(チエイ、生没年不詳)が、『蘭亭序』の真筆をひそかに所持していることを知った。
太宗は智永が没したのち、後任の住持・弁才から、さまざまな苦心のすえ、待望の真筆『蘭亭序』を入手したとつたえる。太宗の『蘭亭序』(中国版図版集)への執着のさまをよく伝える説話である。
上に中国版『蘭亭序』図版集へのリンクを貼っておいた。現代中国における『蘭亭序』への人気と関心のほどがよくわかる。

浙江省紹興の蘭亭の一隅で、砂の書板に書する少女。

伝・王羲之肖像 あざなは逸少。東晋の書法家。右軍将軍・会稽内史。楷書・草書において古今に冠絶した存在とされる。その子・王献之とともに「二王」と呼ばれる。『蘭亭序』『楽毅論』『十七帖』などの書作がある。307?-365?年。

苦心のすえ『蘭亭序』を入手した太宗は、さっそく、趙模チョウ-モ、韓道成カン-ドウセイ、馮承素フウ-ショウソ、諸葛貞ショカツ-テイらに模本をとらせた。またそれにとどまらず、書法家として「初唐の三大家」とまで讃えられた、欧陽詢、虞世南、褚遂良らにも臨模(見て写しとること)を命じた。

◎欧陽 詢(オウヨウ-ジュン あざなは信本シンホン、557-641年)
『皇甫誕碑』(詳細図版:中国版)、『九成宮冷醴銘』(詳細図版:無為庵乃書窓)、『藝文類聚』。

◎虞 世南(グ-セイナン あざなは伯施ハクシ、557-641年)
『孔子堂碑』(詳細図版:無為庵乃書窓)、『北堂書鈔』。

◎褚 遂良(チョ-スイリョウ あざなは登善トウゼン、596-658年)
宰相(≒首相)の重職にあったが、武氏[則天武后]の皇后冊立に反対して、愛州[いまのベトナム]に左遷され同地で没した。『雁塔聖教序』(詳細図版:無為庵乃書窓

欧陽 詢『皇甫誕碑』拓本、原碑は西安 碑林博物館蔵
『西安碑林銘碑Ⅰ』陝西省博物館、1996年11月 


昨秋訪れた、欧陽詢の書『皇甫誕碑』がかつて置かれていた皇甫誕の墓。いまは広大な農地のまっただなかにひっそりと存在している。地元では幼童もこの小丘が「皇甫誕の墓地」であることをしっていたが、ガイドブックなどには触れられていない。
唐代のこの規模の墓には、ふつう、ここにいたる神道(参道)があって、左右に楼塔や石の門としての「闕ケツ」があり、墓の直前には墓標が屹立して荘厳をきわめていた。
西安郊外にのこるいまの皇甫誕の墓地は、畠にかこまれ、神道・楼塔・闕は消滅して無い。そしてここの墓の直前にあった『皇甫誕碑』(詳細画像:中国版)が、いまは西安 碑林博物館に移築されていることになる。(関連記事:朗文堂-好日録011 吃驚仰天中国西游記

それでも王羲之と『蘭亭序』への愛着さめやらぬ太宗は、ついにみずからの柩に『蘭亭序』はもちろん、生涯をつうじて収集した王羲之の書幅のすべてを副葬させるにいたった。
太宗の陵墓は西安市郊外、九嵕山キュウソウサンにある「昭陵 ショウリョウ」である。
この陵墓は五代、後梁のとき(10世紀初頭)、盗賊あがりの武将・温韜オントウが墓室をあばいたとする説もあるが、真偽のほどは定かでなく、未盗掘とされている。したがっていまなお、この巨大な山塊のいずれかに、太宗の遺がいとともに、『蘭亭序』をはじめとする王羲之の書幅も眠っているとみられている。

太宗・李世明の陵墓。西安市郊外九嵕山にある「昭陵」。近年になって李世明の巨大な立像が建てられ、観光地として整備されつつあるが、ここにいたるためには狭隘な山道(車で走行できるがチョット怖い)がつづき、道中には案内板もなく、訪れるひとは少ないようだ。

昭陵『玄武門』跡地にて。番犬のつもりでいるのか、一匹のちいさな犬がつきまとって離れなかった。やつがれは、ただ[李 世明は、こんな山中に、なぜこれほどまでに巨大な陵墓をきづいたのか……]という感慨にとらわれていた。また太宗・李 世明の墓碑はアメリカにあるともきいた。9月中旬、山稜を吹き抜ける風は爽やかだった。

ちなみに王羲之七世の孫とされる僧・智永は、真書(楷書)と草書をならべて書き分けた『真草千字文』(詳細画像:中国版)を800作書いて、南朝の諸寺に寄進したとされる。
しかしながら中国では『真草千字文』の真筆はすべて失われ、宋代にこれを石刻したものが「関中本」とされて西安 碑林博物館に伝わるだけである。
さいわいなことに、日本には『真草千字文 小川本』とされる真筆の一作が、ほぼ完全な状態で伝わっており、国宝に指定されている。 

《出尽くした感のある顔 真卿の書芸論》
顔 真卿の書に接するものは、たれもがつよい衝撃をうけ、それだけに好悪の感情が明確にわかれるようだ。また中国でも顔 真卿の書に関心がもたれるようになったのは、没後300年ほどをへた北宋の時代からであった。

その最初は宋朝第四代・仁宋皇帝(趙 禎、1022-1063)の信任が厚く、詔勅の起草などを担当する「翰林学士カンリン-ガクシ」であった蔡襄(サイジョウ、あざな・君謨クンボ、1012-1067)が、顔 真卿の書、なかんづく『祭姪文稿』などにみる行書に傾倒して、平正秀逸な風格を継承した書を発表した。代表作に『蔡襄 尺犢 サイジョウ-セキトク 、扈従帖 コジュウジョウ』がある。「尺牘セキトク」とは、てがみ、書状、文書のことである。

蔡襄 尺牘 『扈従帖』

この蔡襄は、欧陽脩(オウヨウ-シュウ 1007-72)の名前とともに記憶にとどめたい。
わが国ではさらに遅れて、ひろくはようやく昭和になってから関心がもたれたようである。

《文治の宋王朝と淳化閣帖 ── 複製術の普及》
ここで足をとめて、なぜ宋代になって蔡襄や欧陽脩らが、顔 真卿の書をたかく評価するにいたったのかを考えてみたい。
唐王朝末期、複製術としての印刷の技法が発生し、それが盛んにおこなわれるようになったのは、小国に分立した五代(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)の時代をへて、ふたたび登場した統一王朝・宋の時代であった。

宋(960-1279)は趙氏の国で、太祖・趙 匡胤(960-976)が建朝した。宋の太祖が帝位につくと、地方に軍閥が蟠踞した唐の失敗にこりて、地方の精鋭軍を中央にあつめ、また軍閥の力をそいで、皇帝が直接軍を統帥することとした。また文官優位を明確にして、その権限を著しくつよめていった。重文軽武(シビリアン・コントール !? )をとなえた太祖の時代は17年間におよんだ。

宋・太祖の没後、弟の趙 匡義が帝位を継承して太宗・匡 義(976-997)となった。太宗は歴史書の編纂や仏典の翻訳などを奨励し、随朝にはじまった科挙の制度を強化した。
すなわち科挙の最終試験に帝みずからが臨席して「殿試デンシ」を実施し、その登第者(及第者)を進士と呼んだ。その進士のうち、首席を状元、次席を榜眼、三席を探花と称した。このあらたな科挙の制度は清朝末期までつづいた。

また太宗は施策の中心に、漢王朝・唐王朝といった漢民族正統王朝への復古主義をうちだした。とりわけ書においては、五代十国の時代に各地に散逸した古今の名跡を、ふたたび宮中にあつめることにつとめた。
さらに太宗は、その集積された名跡を侍書(ジショ、皇帝に侍する文書官)の王著オウチョに命じて審定・編輯させ、これを模刻して拓本に摺り、名跡集の作成を命じた。

歴史上初の書法全集ともいえる名跡集『淳化閣帖 ジュンカ-カクジョウ』全10巻は、王著の没後、淳化3年(992)に完成した。各巻の内容は以下のとおりである。
・第1巻        歴代帝王
・第2-4巻       歴代名臣法帖
・第5巻          諸家古法帖
・第6-8巻       王羲之法帖
・第9-10巻       王献之法帖  

本書は『淳化秘閣法帖』ともいう。法帖ホウジョウとは、書跡を石、煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」、板目木版などに刻した名跡集で、書法の手本の意味をなし、権威の象徴としても理解される。
宋・太宗も王羲之・王献之の二王の書を愛好していたため、『淳化閣帖』(詳細図版:中国版)は全10巻のうち、王羲之・王献之父子の書が半数の5巻を占め、これによって「二王」の書の位置が、国家の書法の基盤として強固なものとなった。

ところが……、宋代初期の『淳化閣帖』には、やはり !  というか、なぜ ?  というか、顔 真卿の書作は「歴代名臣法帖」にも「諸家古法帖」にもまっったく紹介されていない。これがある意味では、顔 真卿の書と、そのひととなりを理解するための、ひとつの起点となるできごとである。

この『淳化閣帖』のもたらした影響はおおきかった。まず模刻が法帖製作の主流となり、法帖をつくるばあいに模刻を用いることが一般的となった。
また『淳化閣帖』の拓本は、宋・太祖から家臣への下賜品として、きわめて少数制作されたとみられ、宋の時代でも『淳化閣帖』自体の模刻が頻繁におこなわれた。また『淳化閣帖』を増補したり一部を修整した法帖も編纂された。

この『淳化閣帖』の原版(原板)は早くに失われた。またこんにち伝存して、原拓として確認されているのは、東京・書道博物館所蔵、宋代の拓本とされる『夾雪本』(詳細画像:書道博物館)と、上海博物館の『最善本』(詳細画像:無為庵乃書窓)のみである。したがって一般にこんにちに伝わるのはみな、後世に複刻されたものばかりである。

そのため『淳化閣帖』の原本の製造技術が、石刻であったか、あるいは巷間よくいわれるように棗ナツメの木をもちいた木刻であったかなど、不明なところが多い。また五代の南唐で、これに先んじた別の法帖が複数存在したとする説もある。
編輯面でも多くの齟齬がみられ、編輯にあたった王著にたいしては厳しい批判がなされている。

いずれにしても、それまでは真筆を鑑賞するか、おおきな碑の拓本でみるだけという限定された書法界に、書を模して、閲覧しやすいおおきさに木石に刻して、その拓本をとるなどの技術によって、「複製術」が敷衍したのは宋の時代であった。
もしかしたら(希望的観測ながら)、これらの技法によって、顔 真卿の書も複製されていたとみなすことも可能な気がするがいかがであろう。

【本稿アップ後に、無為庵乃書窓主人より新情報をいただいた。 顔 真卿の法帖とみられる ── 影印からみるかぎり真跡から碑刻したというより、集字したものとみられるが ── ものが、宋代に存在したことがあきらかになった。ここに紹介したい。2012.07.10追記 】

顔 真卿『忠義堂帖』(詳細画像:無為庵乃書窓)は、宋・嘉定八年(1215年) 劉元剛が顔 真卿の書を集めて石に刻し、顔 真卿の祠堂に設けたもの。原石は現存するといわれるが未見。清代になってから、種種の摸本がみられる。
内容は、もともとは碑や題名なども含まれていたが、現在のものは尺牘セキトク(手紙)が大部分を占めるようになった。無為庵乃書窓主人としては『忠義堂帖』の「裴将軍詩」に惹かれております。
これが本物なのか、否か、また行書なのか草書なのか、また顔 真卿の書の中でどのような位置にあるものなのか、不明のまま現在に至っております。

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また北宋・南宋の時代を通じて、活字版印刷術も登場し、文治主義・宋の文化の普及におおきな貢献をなしたことが推量されるのである。
以下にこのブログロール 花筏 《タイポグラフィ あのねのね*020》に紹介した事柄に、若干の補筆をくわえて、宋からそれにつづいた元代の印刷術の振興をみてみたい。
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現代の中国では、北京印刷学院付属 中国印刷博物館(北京市・内部撮影不可)と、下記に図版紹介した、中国文字博物館(河南省安陽市。同館は開設からまもなく、図録などはきわめて未整備の段階)に、宋代の「膠泥活字・陶活字」「木活字」などを復元したレプリカが展示されている。知る限りでは印刷実験までなされた形跡はない。

 中国/北京市。北京印刷学院に付帯する「中国印刷博物館」。 地上3階・地下1階の大型施設であるが、印刷関連大型機器展示場の地階以外は撮影禁止で、 案内パンフレット、図録集なども無かった。併設の「北京印刷学院」ともどもわが国で知ることが少ないが、展示物は質量とも群をぬくすばらしさである。2011年9月

* 北京にあらたな友人ができ、北京印刷学院副校長を紹介いただき、また中国印刷博物館の内部撮影も許可いただいた。友人の妻は北京印刷学院教授でもある。

 2010年10月に新設された「中国文字博物館」。甲骨文発見の地、河南省安陽市の駅前に巨大な外観を誇る。同館は必ずしも交通至便とはいえず、河南省省都・鄭州(テイシュウ  Zhengzhou)から電車でいく。
さらに、甲骨文出土地として知られる、いわゆる安陽市小屯村 ── 中国商代後期(前1300頃-前1046)の都城「殷墟」までは、さらに駅前のターミナルから、バスかタクシーを乗り継いでいく必要がある。宿泊施設も未整備だとの報告もみる。したがって当面は鄭州からタクシーをチャーターして、日帰りされるほうが無難である。2011年9月

 《チョット寄り道。中国のふるい活字製造法とその消長》


畢昇の膠泥活字(陶活字) レプリカ(『中国文字博物館』文物出版社 2010年10月)
左:右手に「膠泥活字」、左手に「膠泥活字植字盆」(10文字が入っている)を手にする畢昇銅像。右端上部は「膠泥活字の大小のレプリカ」。右端下部はネッキもある金属活字で、どうしてここに近代の活字が紹介されているのか不明。
『中国文字博物館』は、規模は壮大で、甲骨文に代表される収蔵物には目を瞠るものもあるが、まだコンテンツや解説は未整理な段階にあった。

上図:農器図譜集 巻20「造活字印書法」『農書』(元・王楨著、明・嘉靖年間刊)
          (『図解和漢印刷史』長澤規矩也、汲古書院、昭和63年1月) 
下図  :中国安陽市「文字博物館」展示の「活字板韻輪盆」復元品
中国・元の時代の「活字ケース」ともいえる「活字板韻輪盆」の復元品。基本的に中国の音韻順に木活字が収納されているが、助詞などで使用頻度の高いキャラクターは「大出張 オオシュッチョウ」などと同様に、別扱いで中央部に収納されていた。      

 中国宋時代の古典書物『夢渓筆談 ムケイ-ヒツダン』に、北宋・慶暦年間(1041-48頃)に畢昇ヒッショウが「膠泥コウデイ活字」を発明したとする記述がある。
ここにみる「泥」が、わが国では「水気があって、ねちねちとくっつく土 ≒ 土の状態」に重きをおくので、「膠泥活字」の名称をさけて、むしろ「陶活字・陶板活字」などとされることが多い。

ところが「泥」は、その扁が土扁ではなく、氵サンズイであるように、「金泥≒金粉をとかした塗料」「棗泥ソウデイ≒ナツメの実をつぶしたあんこ」「水泥≒現代中国ではコンクリート」など、むしろ「どろどろしたモノ」にあたることが多い。

昨年の秋、中国河南省安陽市に新設された「中国文字博物館」を訪れた。そこでみた畢昇の銅像と、手にしている「畢昇泥活字」は、展示用のレプリカとはいえ、ひと文字が5センチ平方ほどもある大きな「活字」で、あまりに大きくて驚いた。
またガラスケース越しではあったが、素材は溶かした膠ニカワを型取りして固形化させたか、よく中国でつくられる煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」と同様の手法で、粘土を型取りして焼いたものとみられた。詳細な説明はなかった。

 つづいて元の時代の古典書物『農書 造活字印書法』に、元朝大徳2年(1298)王禎オウテイが木活字で『旌徳県志 セイトク-ケンシ』という書物を印刷したことがしるされている。
残念ながら畢昇の「膠泥活字」も、王禎の「木活字」も現存しないし、この木活字をもちいたとする書物『旌徳県志』も現存しないので、レプリカをみても推測の域をでない。

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宋朝第二代太宗と『淳化閣帖』では評価されなかった顔 真卿であるが、第四代仁宋・禎(1022-1063)の礼部尚書で、詩人・書芸家の蘇軾(ソショク、蘇東坡 ソトウバ,トモ、1036-1101)は、以下のように述べている(この項は、おもに『書の宇宙13 顔真卿』石川九楊、二玄社、1998年4月30日によった)。

「顔魯公(真卿)の書は、なみはずれて力強く、古来の法を一変した」
「顔公、法を変じて新意を出し、細筋、骨に入りて秋鷹シュウヨウの如し」
さらに蘇軾はことばをかさねて、こうもしるしている。
「顔 真卿の書を見ると、いつも彼の風采が思い浮かぶ。その人となりが思い浮かぶだけではなくて、盧杞ロキをなじり、李希烈リ-キレツを叱りとばす姿をまざまざと見るような思いがするのは、なぜだろうか」

ところが、蘇軾、黄庭堅(コウ-テイケン 1045-1105)とならぶ北宋時代の三大家のひとり、米芾(ベイフツ、1051-1107)は、顔 真卿の書を以下のようにまで書いたそうである。
「顔 真卿と柳公権の跳踢チョウテキの法は、後世の醜怪悪札の祖となった」
石川九楊氏はさらに筆をついで(同書p.8)、つぎのようにしるしている。

この、顔 真卿の書が、醜悪、俗書であるという評価は、中国書論史上、なんども繰り返されている。「書は人なり」という人口に膾炙した説を思い出させる「風采が思い浮かぶ書」という評価と、一見まったく反するかのような「醜怪悪札の祖」という評が、顔 真卿の書には同居している。これは相反するふたつの評価ではなくて、この両者を含んだ評価が、蘇軾のいう「新意」であると解するべきであろう。

《一碑一面貌、蚕頭燕尾と評される顔 真卿の楷書》
顔 真卿の楷書のほとんどは、石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、「一碑一面貌」とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔 真卿の楷書による石碑の特徴である。

また、顔 真卿の楷書、なかんずく後期の楷書に特徴的な書法は「起筆に筆の穂先をあらわさない≒蔵鋒ゾウホウ」であり、「蚕頭燕尾サントウ-エンビ≒ 起筆が丸く、蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つに分かれているところからそう呼ばれている」とされる。この書法は「顔法」とも呼ばれて、唐代初期の様式化された楷書に、あたらしい地平を開いたとされている。

このようなこまごまとした書芸論や書法論は、余人に任せたい。あるいはもはや語りつくされているかもしれない。
ここではむしろ、のこされたわずかな書から想起して、後世に描かれたであろう、顔 真卿の肖像画ふたつを中心に、わずかな楷書拓本を紹介し、自書・肉筆であることがあきらかな『祭姪文稿』の記載内容を理解し、その激情が紙面いっぱいにほとばしったような書をみながら、いまから1300年余以前の「漢 オトコ」顔 真卿の生きように迫ってみたい。

すなわち蘇軾(蘇東坡)がのこした述懐、
「顔 真卿の書を見ると、いつも彼の風采が思い浮かぶ。その人となりが思い浮かぶだけではなくて、盧杞ロキをなじり、李希烈リ-キレツを叱りとばす姿をまざまざと見るような思いがするのは、なぜだろうか」
という未解決の疑問に、盧杞、李希烈とはなにものか……。なぜ顔 真卿は、かれらをなじり、叱りとばしたのか……からはじめ、顔 真卿の心情の解析に、蟷螂トウロウの斧をふりかざして迫ってみたいのである。 

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《顔 真卿の碑文との再会 ── 西安 碑林博物館》

中国 西安 碑林博物館。展示館入口「碑亭」の前で。2011年09月
かつては来訪者が絶えなかった日本人の団体客はおおきく減少していたが、現在は平日でも中国各地からバスをつらねてやってくる団体の参観者で大混雑を呈していた。
おりしも西安市では「世界花の博覧会」が開催されていて、イメージ・キャラクターの「柘榴 ザクロ」(陝西省名産の果実。花博?)が正面入口を占拠して、ドーンといすわっていた。

このごろの西安 碑林博物館は、平日でも日中はほとんどこの写真のような(あるいはよりいっそう)大混雑をきたしているそうである。まして「顔 真卿生誕1300年祭」とあって、顔 真卿の碑銘の周辺は押すな押すなの混雑であった。そのために早朝の参観でなければ、碑面をゆっくり見ることはできなかった。 


顔 真卿生誕1300年(2009年イベント開始)を期し、早朝から賑わう西安 碑林博物館
顔 真卿関連の石碑が集中する西安 碑林博物館の碑石展示室は、日中は中国人の団体客が押しよせていて、あまりの混雑でほとんど碑面の閲覧もできない状態だった。たまたまホテルが至近距離にあったのを幸い、早朝に再度参観に訪れた。
このとき(2011年09月)もまだ、ご覧のように顔真卿生誕1300年記念の赤い垂れ幕が掲出されていた。

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文化大革命のころの「四旧追放運動」からしばらく、義務教育から書法(書藝とも)の授業が廃されることなどがあった中国書法界だが、改革開放の時代をへて、近年の書法教育の普及には熱が入っており、書法家の意気も軒昂たるものがある。
また顔 真卿生誕1300年を迎え、多くの収蔵物を有する西安 碑林博物館は平日でも多くの参観者で混雑をきわめていた。

西安 碑林博物館第1室『開成石経』とその部分拡大  

《隔世の感、浦島太郎現象の連続 ── 15度目の中国の旅》
いささか旧聞に属するが、昨2011年9月に、中国からの留学生で、すでに中国各地に帰国して活躍している諸君に慫慂されて、ノー学部と同道して久しぶりの中国にでかけた。
9年ほど前に体調を崩したこともあって、しばらく中国に出かけなかった。気がついたらパスポートの有効期限が切れていた。ついでに古いパスポートも引っぱり出してみたら、過去に14回中国に出かけていたことがわかった。

1978年が最初で、ほとんどの旅は1980年代に集中していた。そのころの中国には「竹のカーテン」と揶揄されたバイアスがあって、どこへ行くのにもガイドの同行を求められ、通貨は「兌換券・兌換元」という外国人専用の奇妙な紙片をもたされた。
したがって「兌換元」が通用する、情報・環境が整備された場所にしかいけなかった。この兌換券は1993年まで使用された。
すなわち過去の旅は「観光旅行」にとどまり、過去の中国旅行の経験や知見が、まったく役立たないことを痛感させられる旅となった。
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《開成石経をもとに開設された、西安 碑林博物館》

「西安 碑林博物館」は、明代に(盛唐時代の1/4ほどの規模となって)築造された城壁に囲まれた、西安城の南門(明徳門)から、城壁にそって700メートルほどいった三学街の端にある。
「西安 碑林博物館」のメーンの展示物は、晩唐・開成2年(837)、中央官僚養成のために、長安の「大学タイガク、のちに改組・改称されて国子監コクシカン」に建立された「石の書物」ともいうべき『開成石経 カイセイ-セッケイ』114石、両面あわせて228面、都合65万252字の石碑群が、おもい存在の石碑群として碑林第1室を占めている。
この西安 碑林と『開成石経』に関しては『ヴィネット10号 石の書物 ── 開成石経』(グループ昴、朗文堂、品切れ、2003年6月12日)に詳しい。

展示館のまえに、ちいさな亭があって「碑亭」とされている。ここには唐・玄宗皇帝の豊艶な隷書による『石台孝教』(天寶4年・745)が収容されている。この『石台孝教』の隷書は、漢代の硬質な隷書とことなり、豊潤な八分隷によって、大胆かつあでやかに書丹されている。
この隷書の碑はまこともって艶冶エンヤとするしかことばをもたない。それを四方からみるだけで、時間はどんどん過ぎていく(詳細図版:無為庵乃書窓)。

蛮勇をふるって(『石台孝教』にふけるのをあきらめ)、碑亭から展示第1室にはいると、114石におよぶ巨大な『開成石経』が圧倒的な迫力で迫ってくる。この『開成石経』と『石台孝教』の収蔵と展示をもとに、西安 碑林博物館は 「歴史展示室」「石刻芸術陳列室」と、全国各地からあつめられた巨大な銘碑・石碑が陳列されている「碑林」の三部門からなっている。


盛唐時代のみやこ  長安城復元図(『随唐文化』陝西省博物館、中華書局、1990年11月)
現在の西安の城壁は明代に造築されたもの。上図盛唐時代の長安城の1/4ほどの規模になった。盛唐時代の長安城は、大雁塔のある慈恩寺も城内にあった。慈恩寺の境内は広大で、右から3ブロック目、下から2-3ブロック目の「晋昌街・通善街」を占めていた。

「西安 碑林博物館」は、唐の開成2年(837)に刻された『開成石経』と、碑亭内の『石台孝教』(天寶4年・745)とともに、当時の国立大学ともいえた「国子監」の敷地にあったが、唐代末期に長安城が縮小されて、ほぼいまの西安城の規模となったとき、「国子監」は城外にとりのこされ、『開成石経』などの石碑群は野ざらしの状態になっていたとされる。

それを憂い、開平3年(909)に石碑群は城内に移転され、さらに北宋の元祐2年(1087)「府学の北」の地に移されたとされている。
おおくの資料はこのとき「開平3年(909)」をもって西安 碑林博物館の発祥としている。しかしながら、「北宋の府学」は崇寧2年(1103)に「府城の東南隅」に移されたため、この「崇寧2年(1103)」をもって西安 碑林博物館発祥の年とする説もある。

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 《顔 真卿 生誕1300年祭と、顔家歴代の著名人》
顔 真卿(ガン-シンケイ 709-85)の生誕から1300年を迎え(正確には2009年が生誕1300年)、いまなお中国各地では顔 真卿がおおきな話題となり、顔 真卿関連の書法展と、その巡回展が盛んに開催され、また顔 真卿書法書の刊行もきわめて盛んである。

わが国でも《顔 真卿とその周辺》(東京国立博物館、2009年4月28日-6月7日)が開催されて話題を呼んだ。
また中国における《顔 真卿生誕1300年記念──第1回顔 真卿顕彰書法展、第2回顔 真卿顕彰書法展》には、日本人の書法家の活躍もめだったようで、とてもよろこばしいことである。
  ◎ 矢部澄翔氏
      顔 真卿『自書告身帖』の臨書作品を出品し、「西安碑林館長賞」(最高賞)を受賞。

  ◎ HILOKI 氏
      第2回 顔 真卿 生誕1300年記念書展  グランプリ受賞

西安市雁塔路の噴水公園に建つ、武将姿の顔 真卿石像。西安城内中央通りの開放路・和平路を縦貫し、玄奘三蔵ゲンジョウ-サンゾウゆかりの慈恩寺大雁塔ジオンジ-ダイガントウにいたる広い道幅の縦貫道「雁塔路 ガントウ-ロ」には、唐の太宗(李世民  在位626-649)の盛大な巡幸行列の再現彫刻をはじめ、唐王朝時代の政治家・文人・書法家などの巨大な石像が列をなしている。夜は噴水とともにライトアップされ、古都・長安(西安)のあたらしい観光名所となっている。
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《わが国にもある、顔 真卿関連の諸資料》
根岸の里で著名なJR鶯谷駅から至近の一画に、画家にして書芸家の中村不折(ナカウムラ-フセツ 1866-1943)が蒐集した膨大なコレクションを収蔵する「書道博物館」がある。中村不折は新聞『小日本』の挿絵を担当し、それを通じて正岡子規と親しく、その自邸も路地をはさんだ斜め前と近接していた。

また島崎藤村の『若菜集』『一葉集』『落梅集』の装本・挿絵を担当し、夏目漱石『吾輩は猫である』『漾虚集』、伊藤左千夫『野菊の花』などの挿絵を描き、ブック・デザイナーの先駆けとしても知られるひとである。また森鴎外は遺言で墓標の書家に中村不折を指名し、ただ「森林太郎」とだけしるさせている。

JR鶯谷から書道博物館にいたるあいだのわずかな路地は、残念ながら風俗店がひしめき、少しの辛抱が必要である。そこを経て書道博物館にいたる。同館の斜め前には、正岡子規が居住していた「子規庵」がある。裏庭では四季折折の艸花が美しい。建物は第2次世界大戦で焼失したが、子弟が協力してほぼ当時の姿に復元されている。

書家としての中村不折は、北朝の彫刻風の際だった楷書に惹かれ、コレクションの中心は北朝系の書蹟が多い。当然北魏派の影響がつよかった顔 真卿にもこだわりがあったようである。
その研鑽から得られた書『龍眠帖』は、当時の南朝様式のもとで停滞していたわが国の書芸界に衝撃を与えた。
また、そのデザイン性の高さと親しみやすさから、店名や商品名の揮毫を依頼されることも多く、現在でも「新宿中村屋」の看板文字、清酒「真澄」や「日本盛」のラベル、「神州一味噌」「筆匠平安堂」のブランディングなどに中村不折の作品がのこっている。 

書道博物館はそんな中村不折のコレクションをもとに開設され、現在は台東区が維持・管理にあたっている。
書道博物館はまた、顔 真卿の作品の所蔵が多い。本館ロビー左手の主展示室には、たいてい顔 真卿『多寶塔碑』の巨大な拓本が掲出されている(詳細画像:無為庵乃書窓)。

『多寶塔碑』は天宝11年(752)の建立で、みやこ長安の千福寺に僧・楚金(698-759)が舎利塔を建立するにいたった経過について、勅命をもって、岑勛シンクンが文章をつくり(撰)、当時44歳の若き顔 真卿が筆をとり、史華シカが石刻したものである。
勅命をうけて碑の書写にあたるのは、すでに書法家としての顔 真卿には相当の評価があったとみられるが、顔 真卿後半期の楷書碑とくらべると、おだやかで整正な楷書といってよい。

このような顔 真卿による楷書の石碑は、ほとんどが西安 碑林博物館にある。「一碑一面貌」、いずれも個性に富んだ、魅力ある碑文ばかりである。年代順に整理して紹介しよう。
なお画像は筆者がIT弱者ゆえ、「無為庵乃書窓」主人にお許しをいただいて、おもにはそちらで閲覧していただけるようにした。

◎『多寶塔碑』[タホウ-トウヒ、天宝11年・752、顔 真卿44歳の書]  (詳細画像:無為庵乃書窓)

◎『麻胡仙壇記』
[マコ-センダンキ、暦6年・771、顔 真卿63歳の書](詳細画像:無為庵乃書窓) 

◎『顔勤礼碑』

[ガンキン-レイヒ、乾元2年・759、大暦14年・779の両説ある。顔 真卿70歳のころ、曾祖父・顔礼の墓碑を撰ならびに書したもの](詳細画像:無為庵乃書窓)

◎『顔氏家廟碑』[ガンシ-カビョウヒ、『顔惟貞ガン-イテイ廟碑』とも。顔 真卿が72歳のとき、父・惟貞のために廟をつくり、碑をたてて顔家の由来をみずから述べしるしたもの](詳細画像:無為庵乃書窓)

などがしられる。



顔 真卿『自身告身帖』より部分。書道博物館蔵。
『台東区立書道博物館図録』(平成19年10月1日)より部分紹介

また「書道博物館」の新館2階「特別展示室」は、ほぼ顔 真卿の作品で埋めつくされている。なかでも目を惹くのは『自身告身帖』である。この書巻は、顔 真卿の自筆楷書として唯一現存するものとされている。
『自身告身帖』は顔 真卿の晩年77歳の書である。顔 真卿の高齢化にともなって、名誉職ともいえた皇子の教育係に転任するように命じられた辞令を、自らに宛てて書いたものである。
おそらく顔 真卿はこの「棚上げ」ともみられる任命には不満があったとみえて、送筆にいくぶん遅滞がみられる。それでも77歳にして、これだけの楷書をのこすとは、躰はもとより、精神もそうとう頑健な人物であったとみたい。

『自身告身帖』にも、後半期の顔 真卿の楷書に独特な「向勢」の書風はのこされており、縦画の送筆部分をもっともふとくすることで迫力と豊満さをあらわしている。向勢で変化しているのはおもに線の外側であり、内側の線を直線にすることで、文字空間の美しさをたもっている。
さすがに特別展でもないかぎり『自身告身帖』の現物は展示されないが、「特別展示室」にはほぼ常時、できのよい原寸複製書が展示されている。またこの複製書はギャラリー・ショップで販売もされているからうれしい。

《顔氏一族における[漢字楷書]字体の標準確立への執念》
ここでふたたび舞台を中国に移そう。顔 真卿という異才をうんだ、顔氏の一族をみよう。

中国で、魏・呉・蜀の三国が分立した220年ころから、南朝の陳が滅亡する589年までのおよそ360年間を「魏晋南北朝」という。この魏晋南北朝の末期から、顔家は「古訓学──字や文章の古典に通じ、故人の訓誡を説く」に通じた名家として歴史に名をのこしている。
また顔氏の遠祖はきわめてふるく、孔子の高弟であった「顔  回」(ガン-カイ、春秋末期の魯の賢人で、孔子門下十哲のひとり。前514-前483)だともされている。

顔家の本貫の地は、いまの中国山東省、ふるくは瑯邪 臨沂ロウヤ-リンギと呼ばれていた地方だが、顔 真卿(ガン-シンケイ 709-785)のうまれは、父の勤務地であった長安だったともされる。あざなは清臣セイシン。
父の名は顔 惟貞ガン-イテイ、母は殷氏のひとであった。13人兄弟の7番目の子供としてうまれた。
また平原太守ヘイゲン-タイシュをつとめたことから「顔 平原」とも呼ばれ、魯郡開国公 ログン-カイコク-コウに封ぜられたことから「顔 魯公ガン-ロコウ」とも呼ばれている。

中唐の玄宗皇帝治世下の734年(開元22)に、26歳で科挙の進士に登第(及第)して中央官僚となり、唐王朝中期の玄宗・肅宗・代宗・徳宗の4人の皇帝に仕えた。
その唐王朝朝廷へのまったき忠勤ぶりは、わが国幕末の思想書に紹介され、尊皇攘夷を掲げて維新をめざした若者に多大な影響をあたえた『靖献遺言』(セイケン-イゲン、浅見絅斎アサミ-ケイサイ、1684-87)によって知られることになった。すなわち顔  真卿は唐王朝を正統とみなして忠義をつくし、その王朝の敵対者には徹底的に抵抗した。

こうした、かたくなまでに儒学的忠義をつらぬき、さらには名書家として名をのこした顔 真卿を理解するために、すこし歴史をさかのぼって顔氏歴代をみてみよう。 
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顔 之推(ガン-シスイ  531-602頃、あざなは介。中国の南北朝時代末期の学者)
顔氏の家は魏晋南北朝(220-589)の末ころから、瑯邪臨沂ロウヤ-リンギ(山東省)をおもな本拠地として、代代「訓詁クンコ学──字や文章の古典に通じ、故人の訓誡を説く」に通じた、文武の名家として名をのこしている。
よく知られる人物では、遠祖とされる顔 回はともかく、顔 之推(ガン-シスイ  531-602頃)がいる。顔 之推は儒学者として、 梁・北斉・北周・隋などの南北朝末期の諸王朝につかえ、また子孫への訓誡をしるした書物『顔氏家訓』(7巻 2巻本も存在)をのこした。この顔 之推は、顔 真卿の五世の祖とされている。

顔 師古 (ガン-シコ 581-645。中国初唐の学者)
初唐の学者にして、顔 之推の孫にあたるのが顔 師古(ガン-シコ 581-645)である。師古はあざなで、名は籀チュウであった。やはり訓詁の学に通じ、唐の高祖(唐王朝初代皇帝、李 淵)のとき中書舎人になったため、高祖の詔書は顔 師古の手によったとされる。
また貞観の治でしられ、自身も能書家であった太宗(唐王朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649、598-649)のとき、中書侍郎(チュウショ-ジロウ 中書・門下両省の実質上の長官。また六部リクブの次官)となり、また勅命をうけて、孔 穎達コウ-エイタツとともに『五経正義  ゴキョウ、ゴケイ-セイギ』(180巻 638年) を撰した。

この『五経正義』は『顔氏字様』にもとづく楷書正体(正書)字体で書かれ、儒教でおもくみられる五種の経典、すなわち『易』『書』『詩』『礼 ライ』『春秋』の経典解釈のうち、ひろく諸家の説から適当と認められる解釈をまとめたもので、科挙(官吏登用試験)の受験者、および五経の訓詁をまなぶものの必読書とされた。
この顔 師古は、後述する顔 玄孫の祖父の兄(大伯父)にあたる人物とされている。顔 師古の手になったとされる『顔氏字様』は、顔 玄孫『干禄字書』のさきがけとなった字書であるが、散逸して現存しない。
しかしながら、顔 玄孫『干禄字書』は、祖先・顔 師古の労作が参考とされており、またその記述内容だけでなく、「字様 ≒ 刊本の上にあらわれた書風」としての「顔氏字様」も、良かれ悪しかれ唐代の知識層におおきな影響をあたえた。

◎ 顔  玄孫 (ガン-ゲンソン 生没年不詳)
 顔 師古の四世の孫であり、顔 真卿の伯父とされるのが顔 元孫(ガン-ゲンソン 生没年不詳)である。顔 元孫は祖先の顔 師古がのこした『顔氏字様』を整理して、『干禄字書』(カンロク-ジショ 1巻)をのこした。
『干禄字書』は800余字(の漢字)を音韻別に配列して、その「楷書字体の正・俗・通」を弁じたものである。顔 元孫の定義によれば、『干禄字書』で正字として分類されている字体が、確実な根拠を持つ由緒正しい字体であり、朝廷の公布文書のような公的な文書や、科挙の答案などにはこれを用いるべきであるとする。

いっぽう、通字は正字に準ずるものとして扱われ、長年習慣的に通用してきた字体であり、通常の業務あるいは私信などで使用する分には差し支えないとした。俗字は、民間で使用されてきた字体で、日常的・私的な使用は良いが、公的な文書では用いるべきではないとした。
『干禄字書』は後世の字体の正訛を論ずる際の典拠にながらくもちいられた。


『干禄字書』(柳心堂リュウシンドウ 明治13年12月 国立国会図書館蔵)

顔 玄孫は名はよくしられるが、生没年に関する記録はない。またその著作の『干禄字書』は、官版(政府刊行書)ではなく、いわば顔家の私家版の書物であるが、わが国にも相当ふるくからもたらされたとみられ、書写本や江戸期刊本などが現存している。また国立国会図書館のデジタル化資料には  『干禄字書』(柳心堂、明治13年12月)が紹介されている。
このように顔氏一族に伝承されてきた『顔氏字様』を『中国の古典書物』(林昆範、朗文堂、2002年03月25日 p.97)では以下のように紹介している。

唐の時代には写本とともに、書法芸術が盛んになって、楷書の形態も定着した。その主要な原因のひとつとしては、太宗皇帝[唐朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649]自身が能書家であり、儒教の国定教科書として『五経正義 ゴキョウ-セイギ』を編集させたことにある。そこで使用する書体を、編集協力者の顔 師古ガン-シコによる正体(正書・楷書)、すなわち「顔氏字様」をもちいたことが挙げられる。
「顔氏字様」はのちに顔 師古の子孫、顔 元孫ガン-ゲンソンが整理して『干禄字書 カンロク-ジショ』にもちいられた。この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。
このように顔家一族から顔 真卿に伝承された「顔氏字様」は、まるで唐王朝における国定書体といってもよい存在で、初期の刊本書体として活躍していた。 

『多宝塔碑』(原碑は西安 碑林博物館蔵)
拓本は東京国立博物館所蔵のもので、北宋時代の精度のたかい拓本とされている。現在は繰り返された採拓による劣化と、風化がすすみ、ここまでの鮮明さで碑面をみることはできない。

繰りかえしになるが、顔 真卿の楷書のほとんどは石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、「一碑一面貌」とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔 真卿の楷書による石碑の特徴である。
『多宝塔碑』は、長安の千福寺に僧・楚金ソキン(698―759)が舎利塔を建てた経緯を勅命によってしるしたもので、もともと千福寺に建てられ、明代に西安の府学に移され、現在は西安 碑林博物館で展示されている。顔 真卿44歳の若い時代の書作で、後世の楷書碑の書風より穏やかな表情をみせている。 
なお、顔 真卿の自筆楷書作品とされるのは、わが国の書道博物館が所蔵する、最晩年(780年、建中元年)の書作『自書告身帖 ジショ-コクシン-ジョウ』だけである。
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まもなく、蘇軾が活躍し、多くの木版刊本「宋版」をうんだ臨安(現・杭州)を訪問する。
蘇軾こと蘇東坡の詩でよく知られるのは、つぎの『春  夜』であろうか。

   『春  夜』    蘇 軾
春 宵 一 刻 直 千 金
花 有 清 香 月 有 陰
花 管 楼 台 声 細 細
鞦 韆 院 落 夜 沈 沈

今回の短い旅では、春の宵を愛で、月光に照り映えるお花畑のブランコ(一説にポルトガル語から。ふるい中国では鞦韆シュウセン)に游ぶ少女の姿をみることはできないだろうが……。

蘇軾はまた、中国史上きってのグルメとしても知られる。
豚のバラ肉をとことん煮詰めた料理「東坡肉 トンポーロウ」は蘇軾が発案したそうである。旅の同行者ノー学部は困ったことに、ここのところもっぱら「東坡肉」の研究に余念がない。
やつがれは衣食住にほとんど興味・関心がない。でも内緒で「東坡肉」を食べてみたいとおもう。
旅を終えたら新資料をもって顔 真卿のその後をしるしたい。
【この項つづく】

花こよみ 018

花こよみ 018 

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

燃えさかる 夏の散歩に
ぼくは採る
  みどりしたたる 木の葉一枚
いつの日か
  ぼくに語ってくれよう
うぐいすが
  高らかに鳴き
森のみどりに
  萌えるこの日を

作詩/テオドール・シュトルム(Hans Theodor Woldsen Storm   1817-1888)
邦訳/藤原  定 訳 

   

通勤路にあるマンションの脇に、トクサ(木賊・砥草)が花をつけていました。ツクシのようですね。

  《空中庭園 ── すこし手入れをさぼったら、悲惨な状況になっている》
どうやら冬のあいだの手入れ、肥料やり、種蒔きなどが奏功したのか、早春の吾が空中庭園は、菜の花、レンゲをはじめ、いろいろな艸の花が一斉に咲きほこって、それはそれは賑やかなものだった。
その花の宴がおわったあと、八百屋で買った人参や長ネギが花をつけた。これらは花や艸というよりむしろ野菜だが、泥つきのものを買ってきた。その大部分は食して、根っこの食べ残しを適当に植えておいたものだった。
人参も長ネギの花も、いささか鑑賞には適さないが、元気いっぱい、愛嬌たっぷりのネギ坊主になったり、モジャモジャした頭髪のようになる人参の花も悪くなかった。

すこし空間がさびしくなったので、気まぐれに花屋でミニトマトの苗と、フリージアの鉢植えを買ってきた。ついでに朝顔の苗も買った。都合450円の出費。ところがこれが失敗だった。ミニトマトの鉢にナメクジがついていて、アッというまにせまい空中庭園いぱいに繁殖した。しかもナメクジだけではなく、ダンゴ虫も付着していたようで、いろいろ播いた艸花の新芽を食い尽くすという暴挙にでた。

ふつう、やつがれは、空中庭園では「ロダンの椅子──100円ショップで買ったゴミ箱を天地逆にし、そこに人工芝を敷いたもの」に腰をおろし、よしなしごとをかんがえている。それがここのところ、つぎつぎと這いでてくるナメクジと、ダンゴ虫の退治で、いそがしいったらない始末に追いこまれた。なによりも紫煙をくゆらしている間に、つぎつぎと這いでてくるのだから嫌になる。

おまけに、いつの間にか灌木化したクチナシのような木(名は忘れた)がたくさん花をつけ、蜂や揚羽蝶が飛来していた。キャツラ、とくに蝶蝶は、あきらかに花蜜を盗んでいたが、秘めやかに産卵もしていたらしい。フト気づいたら、新芽を蝶の幼虫にすっかり蚕食されていた。

かつて昆虫少年だったので、蝶の幼虫、イモムシはなんとはなく生存を許している。それにしてもキャツラの食欲は旺盛で、灌木の葉をすべて食べつくしそうな勢いで、チョイと悩んでいる。はやく成蝶になって飛翔していってほしいのだが……。
────
《花筏 ── すこし更新をさぼったら、非難囂々》
5月の連休のイベント【活版凸凹フェスタ2012】の前後に、ひどい喘息の発作がつづいた。アレルギー源は近所の内装工事のペイントとみなした。いいわけになるが、かなり辛いものだった。
また新年度のさまざまなイベントが重なって多忙でもあった。
【活版凸凹フェスタ2012】の終了後、まもなく2ヶ月になるが、まとまった報告をしていないのが気になっている。そして今年の失敗は撮影担当者をきめていなかったことである。イベントの終了後にアダナ・プレス倶楽部の会員から写真を寄せていただいたが、それが重複しながら2,000枚以上になって、情弱やつがれの手に余っていた。
また、顔真卿生誕1300年を期して、タイポグラファとしてのひとつの見方を工夫をしていた。

そんなことが重なって、このタイポグラフィ・ブログロール『花筏』の更新が滞っていた。それが最近@メールで、
「花筏の更新が止まっていますけど、体調でも悪いのですか?」
といったお便りを頂戴している。もっと直裁に、
「花筏、新情報を楽しみにしています!」
というお便りも頂戴した。いずれも少し年配のかたが中心なのが無念ではあるが……。
ですから、はた迷惑を承知で、このブルグロールの更新に注力いたします。ご愛読をお願いいたします。

タイポグラフィ あのねのね*020|1921(大正10)年創業、 創業90周年を迎えた印刷会社三社|理想社・笹氣出版印刷・小宮山印刷工業

 

 1921(大正10)年創業、
創業90周年を迎えた 印刷会社 三社

株式会社理想社
   1921年(大正10)5月:東京市牛込区柳町において初代田中末吉が「理想社組版所」

  を創業。

笹氣出版印刷株式会社
  1921年(大正10)8月10日:、笹氣幸治の個人経営によって仙台市国分町に笹氣

  印刷所が創立された。

小宮山印刷工業株式会社
1921年(大正10)10月:小宮山幸造個人営業をもって小宮山印刷所を創立し、東京
  都新宿区早稲田鶴巻町371番地において一般印刷事業の経営に着手。
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《なんの因果かしらないが、親しくおつき合いいただいてきた印刷会社が揃って創業90年》
もともと数字には弱いらしい。
たまたま 新宿私塾 フィールド・ワーク で理想社さんにでかけて、うかつなことに同社が1921年(大正10)の創業で、本年が創業90年のめでたい年にあたることを知った。

 
新宿私塾フィールド・ワーク。理想社で書籍製作をまなぶ。2012年5月12日

そこで フト 気づいた。まてよ……、親しくおつき合いいただいている笹氣出版印刷さん、小宮山印刷工業さんも、たしか1921年(大正10)の創業だとおもいあたった。両社のWebsiteをのぞいたら、はたしてこの三社はともに 1921年(大正10)創業で、そろって創業90年を迎えていた。

どうしてこの三社が1921年(大正10)に創業したのかを知ろうと『日本全史』(宇野俊一ほか、講談社、1991年3月20日)をみたが、さして印刷勃興に関連するような記事はなかった。むしろ大正モダニズムと新中間層の登場を紹介していて、「都市の生活」がはじまったことを重点に記録していた。すなわちこの三社が1921年(大正10)に創業したのは奇妙な偶然であり、活字版印刷術が明治初期からの第一世代から、ひろく本格普及をはじめた時代だったためかとみられた。

株式会社理想社、笹氣出版印刷株式会社、小宮山印刷工業株式会社(以下法人格・敬称略)は、いわゆるページ物印刷業者とされる。すなわち商業印刷を主体とする、あわただしい印刷所とはいくぶんことなり、顧客は比較的安定し、かつ固定化している。そのために営業人員よりも、印刷現場の人員が多く、印刷機は四六全判、菊全判などの大型印刷機が多く、多色刷りよりも単色印刷機が主体となっている。

三社に共通する特徴としてあげられるのは、創業まもなくから社内に組版部門を有し、学術書、専門書などに要求される、高度な組版を実施していることである。
理想社などは「理想社組版所」としてのスタートであった。もともと活字版組版にこだわりがつよく、活字版組版を主体とした企業として誕生し、印刷機などの設備はのちに導入しているほどの企業である。その文字活字を中心とする組版重視の伝統はいまなお同社にはのこっている。

つまり三社とも、金属活字組版の時代には、それぞれ戦前から活字母型を購入し、社内に活字鋳造機を所有して活字自家鋳造にあたっていた。また、本格ページ物のためには、欧文・和文の語別活字鋳植機(いわゆる欧文モノタイプ、和文モノタイプ)を設置・稼働させていた企業である。当然活字書体にたいする感度が鋭敏なことも特徴的なことである。

もちろん現在では、金属活字組版にかえて電子組版システムをもちいているが、それでもいまだに汎用機というより、組版専用機が主体で、積分記号や微分演算子など、表記がむずかしい数式や特殊記号をふくむ文書を編集・印刷するために、「TeX テフ」などの「文書整形ソフトウェア」を自在に駆使している。

また組版スキルのレベルは各社とも格段に高く、有力出版社・大学・研究学会・研究機関・官公庁・学術図書出版社などとの長年の取引で蓄積され、顧客それぞれの要求にあわせた、独自のハウス・ルールを所有している。
理想社などは電算写植時代の後期から、いまでいう「合成フォント」に近い技術で、顧客ごとに漢字と和字と欧字の字面率設定をかえているほどのものである。
この取引先各社の字面設定率を何度も田中社長にきいているが、そのつど「ワラ ゴマ」で躱カワされている。しかし同社の主要顧客である、岩波書店と、有斐閣の字面率はあきらかにことなり、そのために版面表情はすこしくことなっているようにみえるのだが。ウ~ン!

メディア産業に大変革の波が襲っているいま、印刷産業も寡占化と全体的な衰退の渦中にあり、1970年(昭和45)に1万2千社近くあった全国の中小印刷業者は、2012年現在は、半分以下の5,600社余りにまで減少しているそうである(全日本印刷工業組合連合会発表、『中日新聞』2012年4月17日)。

そんな悪条件のなか、前述三社の90年におよぶ健闘はひかる。またリーマン・ショックの経済苦境に続き、東日本大震災の影響が、仙台に本社・工場をおく笹氣出版印刷と、おなじく宮城県気仙沼市と仙台市内に主力工場をおく小宮山印刷工業にはきわめておおきかった。
そのため三社ともに、おおがかりな創業記念祭などはおこなってはいないようである。それだけに余計なお節介を承知で、この慶事をブログロール『花筏』読者の皆さまにご報告したかった。
以下創業順に、おもに各社のWebsiteから三社をご紹介したい。

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株式会社理想社
                  1921年(大正10)5月:東京市牛込区柳町において初代田中末吉が「理想社
                                                        組版所」を創業。
        代表取締役/田中宏明
        現所在地/東京都新宿区改代町24番地
        従業員数/46名(2011年6月現在)

【 ごあいさつ 】
代表取締役 田中宏明

代表取締役 田中宏明

理想社は1921(大正10)年に創業以来、より美しく読みやすい書籍印刷を提供することに専心し、わが国文化の向上に大きく貢献してきました。歴史、芸術、学術、文芸など、文化の芽をはぐくみ開花させるのは、言葉であり文字です。その文字の集成が書籍です。

創業者田中末吉は、常に文字品質の向上に傾注し「理想社書体」へのこだわりを追求しながら、先端技術の導入も積極的に行なってまいりました。そしてなによりもお客様に満足していただくために、“誠実に、より良い品質の書籍を提供すること”に情熱を注いできたのです。

現在は、多様化するメディアの中で、印刷業界も大きな変革の時期を迎えております。理想社はトータルな本作りはもちろんのこと、さまざまなご要望にお応えすべく、新技術、新サービスに対する研鑽を怠らず、常にお客様の信頼を得られるよう日々努めてまいります。

創業者が身をもって実践した「温故知新」「低處高思」という教え。その創業精神を堅持しながら、新たな課題へチャレンジする理想を社員一同共有し、社名ともども掲げながら着実に実現していきます。

蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
理想社は秀英舎の「舎弟」であった、初代・田中末吉(1892・明治25年12月4日-1959・昭和34年3月3日 享年67)がその基礎を築いた。田中末吉は「低處高思」の銘を掲げていたとされる。すなわち、身は低い処においているが、想いは常に高く掲げ、懸命の努力と精進をかさねていた。これがして社名を理想社と名づけたゆえんであろう。
この理想は初代・田中末吉の薫陶を受けた、第2代・田中昭三(田中末吉 長女 元子の女婿・昭和31年5月5日結婚)に受け継がれ、そして田中昭三の急逝をうけて急遽代表に就任した、3代目現社長・田中宏明にまで脈脈と継承されている。

理想社90年の歴史には、関東大震災での罹災があり、昭和15年ころからの「変体活字廃棄運動」の影響もおおきかった。また戦時体制下には「企業合同」によって、活字と印刷機の大半を没収され、従業員のおおくが徴兵・徴用された。さらに弱小印刷企業数社と合併されて、理想社の名前を剥奪されて、いかにもこの不幸な時代らしい「大和ダイワ印刷」に改組・改称を命じられ、また世田ヶ谷区大蔵への移転を強制されてもいる。

そんな理想社の記録として、創業50年にあたって刊行された『田中末吉』(理想社、昭和46年12月28日)がある。ついで創業60年にあたっては、『町工場六十年』(理想社、昭和56年10月20日)が刊行されている。
その際に既刊書『田中末吉』も改訂・増補・再刷され、この2冊を併せて『理想社印刷所六十年』と題したスリップケースにいれて関係者に配布した(非売品)。この『理想社印刷所六十年』は、大正期後期から昭和前期の印刷史・活字書体史研究には欠かせぬ貴重な資料といえる。

2011年10月20日、理想社は創業90年を迎えたが、東日本大震災ののちのことでもあり、社内会議室において簡素に創業90周年祝賀会を開催した(らしい)。初代・田中末吉は岩波書店の創業者・岩波茂雄の薫陶をうけ、いまもって理想社は岩波書店を主要顧客としている。
岩波書店出入りの印刷所では精興社も知られる。両社とともに取引があるやつがれからみると、理想社は歴代経営者が技術肌のひとで、歯痒いまでに謙虚で宣伝下手なところがみられる。それでも精興社に負けず劣らぬ実績をあげているのが理想社である。そして同社は創業100年にむけて、堅実な歩みをつづけている。

ところで、理想社・田中宏明社長には筆舌に尽くしがたい様様なご協力をいただいているが、理想社の記録が、創業50年、創業60年にまとめられているのに、今回の創業90年に際して予定されていないのはさびしいことである。
先代・実父の急逝をうけ、30代前半から理想社経営の重責を担ってきた田中宏明社長であり、まだ50代の前半の壮齢でもある。ぜひとも『理想社100年史』の刊行を望み、お手伝いもしたいところである(が、やつがれがそこまで持続するか、いささか不安でもある)。

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笹氣出版印刷株式会社
        1921年(大正10)8月10日、笹氣幸治の個人経営によって仙台市国分町
        に笹氣印刷所が創立された。
        代表取締役社長/笹氣幸緒
        現所在地/宮城県仙台市若林区6丁目西町8番45号
        従業員数/62名(2006年12月)


笹氣出版印刷創業まもなくの時代の社屋入り口・工場・事務所の写真。同社Websiteより。

【 90年目の笹氣 】
当社は創業以来、お客様に支えていただき、おかげさまで創立90周年の節目を迎えることができました。
印刷業界を取り巻く環境はここ数年で劇的に変化しています。
しかし、この変化をチャンスととらえ、今まで培ってきた技術を礎に、新しい情報発信にチャレンジをしています。
100周年企業の仲間入りを果たすべく、次なる10年を挑戦の10年に位置づけ、真にお客様のお役にたてる企業を目指していきます。

【 文字の笹氣 】
当社は創立以来、本づくりの過程において、文字の読みやすさにこだわり続けてきました。
古くは活字の時代から、昨今のDTPによる組版まで、「読みやすさ」に対する挑戦は今も続いています。
もちろんこうした挑戦と、そこから身に付いた技術は、本以外にも様々な当社の制作物に生きています。
これからもお客様の発信するメッセージが、読み手に違いなく届くよう、読みやすさへの挑戦は続きます。

 蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
杜モリの都、仙台発祥の笹氣出版印刷株式会社は、大正10年8月10日、初代・笹氣幸治の個人経営によって創立された。
筆者と親しくおつき合いいただいているのは只野俊裕(取締役)である。笹氣信三(専務取締役・東京営業所長)とも数度お会いしたことがあるが、同社を訪問したことはまだない。

7 年ほど前、小社で只野さんと旧晃文堂社長・吉田市郎さんが出会ったことがある。
「仙台の笹氣出版印刷のかたですか! 昭和30年頃、東北出張というと、真っ先に笹氣出版印刷さんをお訪ねしました。笹氣さんにはランストン・モノタイプの1号機があってねぇ、活字と組版にはとても厳格な企業でした。晃文堂の活字母型も積極的に購入していただきました」
吉田市郎氏は笹氣出版印刷・只野俊裕さんの名刺を手に、感に堪えないという面持ちであった。

笹氣出版印刷には、現社長・笹氣幸緒氏の父、笹氣直三(故人)氏の研究・試作・開発による「陶活字」がある。これは中国のふるい文献にみる「陶活字」を、実際に試作・再現し、印刷まで実施した、わが国では類例をみない貴重な資料である。
────
現代の中国では、印刷学院付属  中国印刷博物館(北京市・撮影不可)と、下記に図版紹介した、中国文字博物館(河南省安陽市、同館は開設からまもなく、図録などはきわめて未整備の段階)に「膠泥活字・陶活字」を復元したレプリカが展示されているが、知る限りでは印刷実験までなされた形跡はない。

中国/北京市 中国印刷博物館 地上3階・地下1階の大型施設であるが、印刷関連大型機器展示場の地階以外は撮影禁止で、 案内パンフレット、図録集などは無かった。併設の印刷学院ともどもわが国で知ることが少ないが、展示物は質量とも群をぬくすばらしさである。2011年9月

2010年10月に新設された「中国文字博物館」。甲骨文発見の地、河南省安陽市の駅前に巨大な外観を誇る。同館は必ずしも交通至便とはいえず、河南省省都・鄭州(テイシュウ  Zhengzhou)から電車でいく。さらに、甲骨文出土地として知られる、いわゆる安陽市小屯村 ── 中国商代後期(前1300頃-前1046)の都城「殷墟」までは、さらに駅前のターミナルから、バスかタクシーを乗り継いでいく必要がある。宿泊施設も未整備だとの報告もみる。したがって当面は鄭州からタクシーをチャーターして日帰りされるほうが無難である。2011年9月

《チョット寄り道。中国のふるい活字製造法とその消長》


畢昇の陶活字 レプリカ(『中国文字博物館』文物出版社 2010年10月)
左:右手に「膠泥活字」、左手に「膠泥活字植字盆」(10文字が入っている)を手にする畢昇銅像。右端上部は「膠泥活字の大小のレプリカ」。右端下部はネッキもある金属活字で、どうしてここに近代の活字が紹介されているのか不明。
『中国文字博物館』は、規模は壮大で、甲骨文に代表される収蔵物には目を瞠るものもあるが、まだコンテンツや解説は未整理な段階にあった。

中国南宋時代の古典書物『夢渓筆談 ムケイ-ヒツダン』に、南宋・慶暦年間(1041-48頃)に畢昇ヒッショウが「膠泥コウデイ活字」を発明したとする記述がある。ここにみる「泥」が、わが国では「水気があって、ねちねちとくっつく土 ≒ 土の状態」に重きをおくので、「膠泥活字」の名称をさけて、むしろ「陶活字・陶板活字」などとされることが多い。
ところが「泥」は、その扁が土扁ではなく、サンズイであるように、「金泥≒金粉をとかした塗料」「棗泥ソウデイ≒ナツメの実をつぶしたあんこ」「水泥≒現代中国ではコンクリート」など、むしろ「どろどろしたモノ」にあたることが多い。

昨年の秋、中国河南省安陽市に新設された「中国文字博物館」を訪れた。そこでみた畢昇の銅像と、手にしている「畢昇泥活字」は、ひと文字が5センチ平方ほどもある大きなもので、あまりに大きくて驚いた。またガラスケース越しではあったが、素材はよく中国でつくられる煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」と同様の手法で、ドロドロに溶かした膠ニカワを型取りして固形化させたか、もしくは粘土を型取りして焼いたものとみられた。詳細な説明はなかった。

つづいて元の時代の古典書物『農書  造活字印書法』に、元朝大徳2年(1298)王禎オウテイが木活字で『旌徳県志  セイトク-ケンシ』という書物を印刷したことがしるされている。残念ながら畢昇の「膠泥活字」も、王禎の「木活字」も現存しないし、この木活字をもちいたとする書物『旌徳県志』も現存しないので、推測の域をでない。
──── 本題にもどろう。

笹氣出版印刷ではこの「陶活字」を中心に、2001年2月1日【美しき文字の調べ──笹っぱ活字館】をオープンさせた。
ここには故・笹氣直三の研究・再現・印刷実験による「陶活字」を中心に、ランストン・モノタイプ(語別活字自動鋳植機)の活字母型盤をふくむフルセットと、機械式活字父型母型彫刻機(いわゆるベントン彫刻機)、見出し用活字母型、活字鋳造機などが陳列されている。どうしても拝見したい貴重な資料である。

只野さんからは、タイポグラフィ現業者独特の、辛口の批評をしばしば頂戴する。
曰く 「パッケ出しが甘いですね」
曰く 「フォロー・バックがうまく機能していない」
いわれた直後はいささか腹がたつときもあるが、ありがたいことである。
そんな只野さんであるが、同社のランストン・モノタイプが、わが国導入1号機であるとされることには半信半疑だった。
「確かに、笹氣出版印刷社内では、このランストン・モノタイプが、わが国での導入1号機とされていますけど、世間では研究社さんが最初の導入社とされていますから……」

『笹氣出版印刷  経歴書』(2012年04月)には、要旨以下のように記録されている。
・大正10年08月
笹氣幸治、仙台市国分町に笹氣印刷所創業。
・大正12年
日本タイプライター社より「活字万能自動鋳造機」を購入。
・昭和02年
当時書籍印刷はほとんど東京に依存していた業界にさきがけて、日本タイプライター株式会社製「邦文モノタイプ鋳植機」を購入し、「常にあたらしい活字による印刷」[活字版の解版・戻しをしないで、いわゆる活字1回限りの使用]をはじめる。
・昭和03年
日本タイプライター社よりふたたび「活字万能鋳造機」を購入。
「ドイツ製二回転式印刷機」を設備。「あたらしい活字による印刷」にあわせ、「美麗なる印刷物」を推進。
・昭和06年03月
米国のモノタイプ・コーポレーション社より、日本でも珍しい「ランストン・モノタイプ」を購入。美しい欧文論文の印刷に「モノ式欧文活字自動鋳造植字機」がおおいに活躍し、業界に貢献した。
・昭和20年07月
仙台大空襲で工場全焼。
・昭和22年10月
東北地方の中心地、仙台市役所ならびに宮城県庁にほど近い上杉の地に本社営業所ならびに工場を落成、移転して業務を開始した。
・昭和25年03月
東北大学文学部の依頼をうけ、5年の歳月を費やし、『西蔵撰述佛典目録』を原本としてチベット文字を創刻し、活字母型をおこし、昭和35年5月これを印刷完了し各国に配布。この事業が学会に貢献した。
・昭和31年06月
インド・ナグプールのインターナショナル・アカデミー・オブ・インディアン・カルチャーの懇請をうけ、チベット語活字を、「河北新報社」を介し、インド大使館を通じて日印友好ならびに文化交流のために寄贈。
・昭和41年08月
全自動モノタイプを設備。邦文組版の文選・鋳造の能率効果をあげる。
・昭和49年03月
文字組版の画期的改革を企図し、電算写植機「サプトンA7262」を当社用に開発導入。
…………
・平成23年03月
3月11日東日本大震災によりオフセット印刷機が大破。およそ2ヶ月間の休業に追い込まれた。

ところが組織とは面白いもので、只野さんも筆者も所属しているタイポグラフィ学会の副会長/小酒井英一郎さん(研究社印刷社長)のお話しでは、
「本邦での欧文モノタイプ導入の最初は、仙台の笹氣出版印刷さんときいていますが……」
となります。

参照データ:タイポグラファ群像*001 加藤美方

高島義雄氏→加藤美方氏をへて譲渡された『TYPE FACES』
研究社印刷 1931年(昭和6)
B5判 160ページ かがり綴じ 上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。
研究社・小酒井英一郎氏によると、管見に入る限り、研究社の冊子型活字見本帳では
これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。
現在、整理がヘタなやつがれは、目下のところこの見本帳をしまい込んでいて
探し出せないでいるが、昭和6年の研究社では、行別活字鋳植機(ライノタイプ)が
主流であったと
記憶している。

また後述する小宮山印刷工業の「ご隠居」小宮山清さんも、
「ランストン・モノタイプの導入の最初は、仙台の笹氣出版印刷さんですよ」
とケロリとして断言されます。
もちろんこの両社は、東京におけるランストン・モノタイプ導入企業として、また本格欧文組版ではきわめて著名な両社である。

また印刷業界に欧文モノタイプと研究社の関連がひろく知られたのは、『欧文植字』(水沼辰夫編、工場必携シリーズA6 印刷学会出版部)だったとされる。筆者所蔵書は刊記ページを欠くが、同じ著者によるシリーズ図書『文選と植字』(水沼辰夫 工場必携シリーズA5 印刷学会出版部 昭和25年10月25日)があり、また『欧文植字』巻頭の「はしがき」附記に、編者しるす──として1949年3月の記載がある。したがって『欧文植字』は昭和24-26年頃の刊行とみたい。そこには、以下のような記述がみられる。

附記──[前略]本書中「モノタイプ」については、研究社印刷所のオペレーター鈴木金藏氏に負うところが多い。また組版・図版その他については研究社印刷所から多大の援助をこうむった。ここにしるして感謝の意を表する。
本文最終 p.196──以上、モノタイプについては概略を述べたが、複雑きわまりない構造と、その機能については、説いて尽くさざるうらみが多い。モノタイプは現在東京牛込の研究社印刷所に2台あるから、志ある人はついて見られたい。作業に妨げのない限り応じられると思う。

このように、戦後まもなくの時代、しかも現業者の水沼辰夫氏は、仙台・笹氣出版印刷のランストン・モノタイプの存在を知ることが無かったのかもしれない。その分だけ研究社印刷所を中心に記述したために、在京の印刷業者には笹氣出版印刷関連の情報が欠けたものとみられるのである。
現在わが国では欧文モノタイプを稼働させている企業は無いが、笹氣出版印刷、研究社印刷所、印刷博物館などでそのシステムを見学することができる。

ですから只野さん、なにも先陣争いをするわけではありませんが、どうやら笹氣出版印刷が、わが国でのランストン・モノタイプの導入の最初だったようですよ。

《2011年3月11日、あの日のこと……》
笹氣出版印刷は仙台市若林区6丁目西町8番45号に広大な本社・工場を置いている。あの日、2011年3月11日、仙台空港に津波が押しよせる影像が繰りかえし流れた。笹氣出版印刷は仙台市内から工場団地ともいえる海よりの敷地に移転したと聞いていたので、「もしかして……」というおもいから数度架電した。電話はまったくつながらず、@メールにも返信はなかった。

2011年3月19日、ようやく只野さんから
「只野  です」
と、いつもの穏やかな口調で電話をいただいた。
地震と津波のはなしは双方ともに避けた。どういうわけかタイポグラフィのはなしをしたことを覚えている。のちに「寒中見舞い」をいただいて、只野家は福島県の出身だということを知った……。
2012年2月17日、池袋サンシャインビルで開催された JAGAT『PAGE1012』の展観に只野さんが上京された。ほぼ1年ぶりの再会であった。タイポグラフィのはなしをするのが楽しかった。

────
小宮山印刷工業株式会社
        1921年(大正10)10月:小宮山幸造個人営業をもって小宮山印刷所を
                      創立し、東京都新宿区早稲田鶴巻町371番地に
                      おいて一般印刷事業の経営に着手
        代表取締役社長/小宮山恒敏
        現所在地/本社:東京都新宿区天神町78番地
                宮城工場:宮城県気仙沼市本吉町猪の鼻169-7
               KOPAS(仙台営業所):宮城県仙台市青葉区木町通2-5-19
        従業員数/251名

いきなりの 蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここまで紹介してきた理想社、笹氣出版印刷は、朗文堂ならびにやつがれにとっては、どちらかというと活字書体・組版・印刷実務が中心であり、タイポグラフィ学会系のおつき合いである。
ここからご紹介する小宮山印刷工業 2代目代表 /小宮山清さんは、朗文堂 活版印刷事業部/アダナ・プレス倶楽部の皆さんとのおつき合いが中心である。

《第11回 活版ルネサンス フェア》にご来場の折の写真。2012年3月30日 御年85歳。 

もしかすると「小宮山印刷のおじいちゃん」(失礼!)と呼んで、親しくおつき合いされているアダナ・プレス倶楽部の皆さんは、この情報と、小宮山印刷工業  のWebsite  の詳細をみて驚かれるかもしれない。
名刺には「小宮山印刷工業株式会社   小宮山  清」とだけしるされている。肩書きに類するものはまったくない。それでも小宮山 清(昭和6年2月26日うまれ  85歳)さんは、ページ物欧文組版、欧文印刷、高度学術書組版・印刷に関しては、わが国有数の知識と経験を有されている。

ランストン・モノタイプ社製 Type Lining Tester 活字列見。欧文のベースラインの揃いなどを確認・調整するための器具。実際の使用に際しては90度回転させて、マイクロ・ゲージが下部になるようにしてもちいる。小宮山清氏蔵。

参照資料:タイポグラフィ あのねのね*018  Inspection Tools 活字鋳造検査器具  活字列見

またその企業 小宮山印刷工業 とは、学術・研究書を中心にきわめて高い評価があり、小宮山清さんがときおり本郷あたりに出没すると、少壮研究者のころから、論文のまとめや執筆・刊行にお世話になったとして、並みいる大学教授が深深とお辞儀をするほどの人物であることはほとんど知られていない。
また小宮山印刷工業の一貫生産システム──  Komiyama Orijinal Printing Automation Systemは「KOPAS」と呼ばれ、同システムによる学術書出版への評価はたかく、スリランカ(旧・セイロン)にも関連企業を有している。
────

小宮山清さんは、アダナ・プレス倶楽部主催のイベントには、しばしば気軽に足を運ばれている。そこで活版印刷実践者の若者たちと、あれこれと活字・印刷・製本などの技術を物語ることが至極楽しそうである。
ご本人はまったく偉ぶることが無いし、質問には懇切丁寧にこたえられ、自分の功績や会社の規模を誇ることはないから、アダナ・プレス倶楽部の会員の皆さんは、ほんとうに親しく「小宮山さん、小宮山印刷のおじいちゃん」として敬愛しているようである。

アダナ・プレス倶楽部 餅プレス大会で、威勢よく杵をふるう小宮山清さん。このとき御年83歳。お元気である。ともかく若者は、つきたてのおいしい餅を食べることと、呑むことに夢中なので、3臼ほどを小宮山さんが率先して搗きあげていた。2011年11月27日。足立区ママースの協力にて。

《2011年3月11日、あの日のこと……》
宮城県気仙沼市本吉町猪の鼻169-7 に主力工場を置き、仙台市に「COPAS  事業部」をおく小宮山印刷工業にも、あの日の被害はおおきかった。

小宮山清さんに、津波が近在の河川をつたって、本当に気仙沼工場の直下まで激しい勢いで押しよせた映像をみせていただいた。
「びっくりしたけどねぇ、それでも高台に工場をつくっていたから助かった。若い社員のみんなが頑張って、もうすっかり復旧させましたよ」
いつもの抑揚せまらぬ口調で、おおきな災害をかたられた。
小宮山印刷工業は、いまは小宮山清さんのご子息や甥の経営陣が主体であり、4代目にあたる孫世代への継承がつづいているそうである。小宮山清さんはそんな現状を、自分はやりきったおもいで心強くみまもるだけで、余計な口出しはしないそうである。ぜひとも小宮山清さんが、同社の創業100年祭にお元気で参加されることを祈ってやまない次第である。

活版凸凹フェスタ*レポート11

五月の薫風にのせて
五感を駆使した造形活動、参加型の活字版印刷の祭典
活版凸凹フェスタ 2012 は
たくさんのご来場者をお迎えして無事終了いたしました。
ご来場たまわりました皆さま、ありがとうございました。
出展者の皆さま、ご苦労さまでした。

来年も、活版凸凹フェスタ 2013 でお会いしましょう。
それまで、できることから 一歩 ずつ。

活版凸凹フェスタ*レポート10

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ここ、タイポグラフィ・ブログロール《花筏》では、肩の力をぬいて、
タイポグラフィのおもしろさ、ダイナミズムなどを綴れたらとおもいます。
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活版印刷の祭典 ですが
活版凸凹フェスタ2012のキーワードは
プライヴェート・プレス・ムーヴメント と
身体性 と 五感を駆使した創造の歓喜、
手引き活版印刷機です。
そして 活字にはじまり 活字におわります。  

 《きっかけになればいい……、それでも全力投球》
19世紀世紀末、
英国における造形運動のひとつに、アーツ&クラフツ・ムーヴメントがあり、プライヴェート・プレス・ムーヴメントがあった。このふたつの運動は、ほぼ表裏一体のものであった。
19世紀世紀末といえば、わが国は明治20年代にあたり、むしろ積極的に産業革命の成果を導入・享受し、富国強兵、殖産興国にひたはしっていた時代であった。当然彼我の環境にはおおきな相異があり、これらの「個人による運動」などは顧慮されるはずもなかった。

20世紀の初頭、アーツ&クラフツ・ムーヴメントは一周おくれで、ようやくわが国に到達した。しかしそれはジョン・ラスキンの唱導した造形運動を、バーナード・リーチ氏などによって「翻案」されたものであり、やがて民芸運動や工芸運動の一環として埋没し、費消されていった。
また武者小路実篤らの「新しき村」にも、調和的な共同体の理想を掲げ、都市をはなれて田園にむかうとする姿勢にも、アーツ&クラフツ・ムーヴメントの影響を看てとることができる。

いっぽう、プライヴェート・プレス・ムーヴメントに関しては、それなりの紹介書もあり、その「作品」もすくなからずわが国にも現存している。ただし、わが国の活字版印刷術≒タイポグラフィとは、産業革命の成果を十二分とりいれたもので、それをなんの疑いもなく受容してきたという経緯がある。
またタイポグラフィが本来内包している、技芸者・工芸者の誇りは持つゆとりもなく、「工業・産業」として経済利得追究の対象・手段になってきた、という不幸な歴史を背負っている。
すなわち、プライヴェート・プレス・ムーヴメントの「人物紹介」「作品紹介」はあっても、その精神はほとんど語られたことはない。

《かなりの粘着力をもって、プライヴェート・プレス・ムーヴメントに集中しました》
上野・日展会館で、来場者は活字版印刷術のいまを、様様な面からご覧になるはずである。そして企画展示の様様な告知物もご覧になるはずである。そこから、なにを読み解き、どう行動するのかは、まったく観覧者の自由意志に任されている。
なにもすべての船舶が、ひとつの港をめざして航海することはないように。それぞれがめざす母港は様様であって良い。

プライヴェート・プレス・ムーヴメントのメンバーは、
・なぜ、最初に活字(私家版活字、ハウス・フォント)をつくったのか。
・なぜ、それらの活字書体はほとんど現存しないのか。
・なぜ、ダヴス・プレスのコブデン-サンダースンと、エマリー・ウォーカーは、工房の閉鎖に際して
     そのハウス・フォント「ダヴス・ローマン」をテムズ河に投棄したのか。
・なぜ、ほとんどのプライヴェート・プレスはエドワード・プリンスに活字父型彫刻を依頼したのか。
・なぜ、ともに15世紀個人印刷所ニコラ・ジェンソンをモデルとしたダヴス・ローマンと、ゴールデ
     ン・タイ
プは、ともにエドワード・プリンスが彫刻したのか。そしてなぜ、かくも異なった表
     情をみせるのか。
・なぜ、プライヴェート・プレス・ムーヴメントのメンバーは、かくまで強く、動力式シリンダー印刷機  
     や、動力式プラテン印刷機ではなく、手引き印刷機の使用にこだわったのか。
・なぜ、かれらは労働の歓びを唱え、手引き印刷機の使用から、五感による造形の歓喜を謳歌し
     たのか。

これらの疑問は、会場にご来場いただけたら、ほとんど氷塊する疑問かもしれません。
そして出展者・出展企業・アダナ・プレス倶楽部がご提供する、活字版印刷術の実体験のチャンスを、ぜひとも有効にご利用ください。

《会場に足をお運びください。そして様様な印刷機と、印刷システムをご体験ください》

【使用活字書体】
アルバータス・タイトリング(Albertus Titling)  60pt.
アルバータスは、ベルトルド・ウォルプ(Berthold Wolpe 1905―1989年 ドイツ)によって設計された活字書体です。1932―40年にイギリスのモノタイプ社から数種類のシリーズ活字として発売されました。
今回使用する活字は、アルバータスの中でもタイトリング用の活字であり、大文字のみの活字書体です。ですから60pt. とはいえ、ディセンダーの部分がほとんど無い(ベースラインが下がっている)活字ですから、ほとんど72pt.もありそうな、迫力十分の活字です。

書体名「アルバータス」は13世紀のドイツの神学者であり哲学者であったアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus 1193頃―180年)に由来します。
ディスプレー・ローマンとして4ウェートが開発され、終筆の分厚いターミナルは、セリフとはまたちがった、とてもつよい力感があります。「M」の中央のストロークは中間より上部で留まり、「U」はスモール・レターの形象を踏襲しています。


Berthold Wolpe 1905―1989    Stefan Wolpe Society

ウォルプは、ドイツ・フランクフルトの近郊都市、オフェンバッハの出身で、前半生はドイツと英国を拠点に活動しました。1932年、ドイツに全体主義勢力の擡頭をみて英国に逃れました。
そこでウォルプは、スタンリー・モリスンの指名によって、金属板の上に文字を浮き彫りにするという画期的な手法で、最初のアルバータスを製作しました。すなわちアルバータスは、最初から彫刻の手法がもちいられて誕生した稀有な活字ともいえます。
活字はモノタイプ社でカットされ、1988年にはロンドン市のサイン用制定書体として、ストリート・ネームを含むひろい範囲でもちいられました。

それでは皆さま、上野・日展会館《活版凸凹フェスタ2012》の会場でお会いしましょう!

活版凸凹フェスタ*レポート09

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やつがれ、風邪をひき、喘息の発作が……。
ようやく戦線復帰をしてみれば、
なんとまぁ、こんなことを、ノンビリと !?
手引き印刷機のインキング、インキボール製作
 

《チョイと頑張りすぎたかもしれない。咳と鼻水が垂れていたぞ!》
9日からの週、すこし無理をしたのかもしれない。11日[水]に長野県白馬村に日帰り取材。
春眠暁を覚えずというのに、ナント早朝6時起きで長距離バスに乗った。この早起きがつらく、ましてこの日の東京は氷雨が降りそそぎ、白馬村の残雪にはもっとふるえあがった。お訪ねした冨澤ミドリさんに、
「カタシオさんは、白馬よりもっと雪がふかい、飯山のご出身でしょう?」
と呆れられたが、ともかくやつがれ、雪よりも寒いのが
苦手なのだ。

ちなみに白馬村の冨澤ミドリさんのペンション「ブラン・エ・ヴェール」(白と緑。里見弴命名)は、1998年に開催された長野オリンピックのスキー・ジャンプ台のすぐ近くに立地している。だからスキーヤーにはいいだろうが、郷里をでて数十年、次男坊ガラスにとって信州信濃は寒いのだ。

《関西地区、まとめて出張》
週末14日[土]関西出張。大石は3年前に西宮の大型幼児教育施設に納入したAdana-21Jの定期点検に出張。以下、アダナ・プレス倶楽部 大石  薫の出張報告です。 

今春もはるばるやってきました。
「Adana-21J のイチバンのヘビー・ユーザーさん」での定期点検。
活版凸凹フェスタの準備の合い間をぬって、兵庫県まで出張です。
ここは子供の王国なので、日ごろは一般の大人は入れません。
広報管理もきびしい施設なので、内部の写真影像も割愛させていただきます。
この日は向かいの野球場でデーゲーム。往き帰りは阪神ファンで鮨詰め電車に乗ります。 

 この施設は、一年365日まったく休み無し、朝9時から夜9時までともかくフル稼働。
お子様たちは Adana-21J に興味シンシンです。ただなにぶんご幼少のこととて
力加減は情け容赦もなく、ガシャン、ガシャンと、きわめて楽しそうですが、正直ハラハラ。
稼働時間といい、操作状況といい、かなりハードな使用状況下ですが
オープンから3年経ったこんにちまで、たいした故障もなく、手前ミソながら、
あらためて小社の Adana-21J の頑丈さをひそかに自負するばかりです。

やつがれは、大阪府吹田市に『japan japanese』の著者ヘルムート・シュミット氏のアトリエを訪ねて、増刷と次作の打ち合わせをした。いつのまにか話題はデザイン全般におよび、時間はアッというまにすぎる。

夕刻6:30、アダナ・プレス倶楽部 Adana-21J の「シリアルナンバー0001番」のたいせつなユーザー、大阪・江戸堀印刷所の取材で、全員江戸堀印刷所で合流。

江戸堀印刷所は「アサヒ高速印刷」(代表:岡 達也 )さんが事業主体で、2007年4月、Adana-21J の発売と同時に購入のお申込みをいただきました。ですから江戸堀印刷所の Adana-21J は、栄光のシリアル・ナンバー「0001」が納入されています。
岡社長は「江戸堀印刷所」の構想を胸に、まず先駆けとしてAdana-21J を導入され、 次第に電動プラテン活版印刷機、半自動足踏み活版印刷機、電動箔押し機、小型断裁機、バーコ熱加工機などを設置した印刷工房「江戸堀印刷所」として、2011年秋に開設をみました。

江戸堀印刷所は、岡  達也社長、小野香織店長のご意向で、おおがかりな工房開設披露会などはしないで、いまも活字などの設備の充実に尽力されています。
やつがれは候補地としての「江戸堀印刷所」はみていましたが、夜でも一燈だけともされたあわい電燈のもとで、内部空間と設備概略が通行人からもみられるという、開放型の店舗設計には感動しました。

この工房は、昼も夜も、その姿を、通りがかるすべてのひとに解放しています。
その夜は大阪のあたらしい流行発信地・靫ウツボ公園脇のレストランで、小野店長のお心くばりの中国料理に満腹。

《忙中に閑あり、大阪府池田市での散歩》
15日[日]はひさしぶりのホリデイとした。
キタのターミナル梅田から阪急電鉄に乗って、およそ20分、大阪府池田市にある「阪急・東宝グループ」の創立者/小林一三(イチゾウ 1873-1957)の旧宅を開放した「小林一三記念館」と、収集品を展示する「逸翁イツオウ美術館」をみた。
逸翁美術館は「継色紙 あまつかぜ」(伝・小野道風筆)、「古筆手鑑 谷水帖 二十四葉」などを収蔵する(いずれも重要文化財)。ところがなにか熱っぽく、
もうひとつのりきれなかった。
そこで通りをはさんで向かいにある、旧宅を改装した「小林一三記念館」に集中した。

それにしても、私営鉄道の創業者たちは、どうしてかくも巨万の富をのこしたのだろう……。
東急電鉄の五島慶太(1882-1959)は「五島美術館」をのこし、東武鉄道の根津嘉一郎(1860-1940)は「根津美術館」をのこし、阪急鉄道の小林一三は「逸翁美術館」をのこした。
ただひとり「ピストル堤」の異名をもつ堤康次郎(1889-1964)は、政治の世界にはいり、また妻妾10人ともされる艶福家で、みるべきものはのこしていない。

《おもしろい らしい! ラーメンの記念館》
ノー学部はコトお散歩というか、町あるきとなると熱中するたちらしい。あちこちから資料をかき集めて、ともかく駈けまわることになる。
ノー学部、池田駅からすぐ近くの「インスタント・ラーメン発明記念館」でひどくごきげん。団体バスが次次とやってきて、館内はチビッコを中心に大盛況。
不滅の「チキンラーメン」を発明し、軽便食品で世界を制覇したカップ・ヌードルの発明者とは安藤百福翁だそうな。そしてカップ麺の極意とは、麺が宙づり状態になっていることにあるらしい。どうでもよいことではあるが為念。
以下、入場無料、製造参加費300円の「マイ・カップヌードル・ファクトリー」での情景。
やつがれは館内滞在5分ほど、ほかはもちろん外で休養 兼 喫煙をばなす。

《劇旨! おやじカレー 》
ノー学部、これもロード・マップからひろって評判の良いカレー店があると、テクテクと。
この時期、珍しいことに鹿肉の燻製、鹿肉のタタキが食べられるという。タタキは生肉提供がむずかしく、軽く熱をとおしていたが、旨し。ウメ~。やつがれ「邸宅レストラン 雅俗山荘」の仏蘭西料理で妥協して、プチ贅沢するか、ココノトコ忙しかったしな……、とおもったことをいたく反省。

ところで、ここのところ北方謙三(ケンゾー、ケンゾ~)につかまっている。『揚家将』『水滸伝』『揚令伝』と続いた、中国宋代の物語りのなかで、北方メ、いったい何千頭の鹿を射ころし、罠に嵌め、それをナマで食し、焼いて食する場面を活写してきたことか。梁山泊の兵士などは、骨つきの鹿肉を手づかみでむしゃぶりつくことが最高のご馳走だったらしい。
この関西への出張に際しても、鞄のなかには『揚令伝 八』(上製本・文庫本ともにあるが、旅には文庫本)を入れていた。ここでは梁山泊(叛乱軍)の若頭領・揚令が、棗強ソウキョウの戦場に、禁軍(近衛軍)元帥・童貫を伐つ場面が登場する。

童貫。間近だ。雷光が、全力を出した。
自分がどう動いたのか。まだ、雷光の上にいた。雷光は、命じてもいないまま、自ら棹立ちになり、反転した。
童貫の馬。馬だけだ。
戦場が無人のように静まり返った。揚令に、なにも聞こえなくなっただけなのか。
黒騎兵が、馬を降り、倒れている人の躰に近づいた。ゆっくりと、抱き起こす。
「宋禁軍、童貫元帥です」
しんとしていた。黒騎兵も青騎兵も赤騎兵も、声ひとつださない。
揚令は、吹毛剣を鞘に収め、雷光を降りた。
…………
具足ごと、首から胸まで、揚令は斬り降ろしていた。
「下馬」
史進の声がした。
全員が直立していた。揚令も、立ちあがり、直立した。
「宋禁軍、童貫元帥に、敬礼」
史進の声は、かすかに嗄シワガれていた。
戦場には、風が吹き抜けている。

この場面、漢オトコ かくあるべしと、啼けるのである。何度読んでも、泣くのである。
そして、ともかく北方謙三の中国史ジャンルとされる小説には、鹿を旨そうに喰うはなしが頻出するのである。

やつがれ、はじめて鹿肉を食し、ケンゾーの鹿肉へのこだわりをまったき理解するにいたった。ただし、やつがれケンゾ~のようには喧伝しない。旨いところは荒らされるからな。
「おやじカレー」だ。おぼえておこう。ノー学部に連れていかれただけだから、池田市のどこかもわからん。考えてみたら、阪急の池田駅で降りてから、一度も乗り物に乗らず、ただ歩いていた。

またそれにしてもである。
……それにしても吾がタイポグラフィの先達のなんと清貧であることか。
東京築地活版製造所の創業者/平野富二は、ほとんど造船に資金を投じて、さしたる資産をのこさずに急逝した。
秀英舎の創業者/佐久間貞一は「裸で産まれてきたから、裸で死ぬさ」と実に恬淡としていた。仮名垣魯文にいたっては「遺言 人間本来空 財産無一物」として長逝した。

こんなことどもを、たった一代で巨万の富をなした「インスタントラーメン発明王」自宅の前、喫煙所でボンヤリかんがえて紫煙をくゆらしていた。めずらしくケンゾ~に集中できなかった。
煙草がまずかった。やつがれの健康のバロメーターは煙草である。すこし熱があったようだ。

《16日からの週、風邪が引き金となって喘息ひどし》
この週内に、一本依頼原稿を仕上げなければならなかった。すでに約束の期限はすぎ、ギリギリ引っ張っての約束だった。ところが咳込みがひどく、もはや莫迦というしかないが、咳をしながら煙草を吸うので、吸気は煙草だけ、あとは咳の呼気ばかりで、ついに呼吸困難、酸素不足となってめまいがしてきた。約束破りはついに三跪九拝でご容赦願うしかないところまできた。
ゴホン、ゴホン、すう~、ゲホォ、ゲホォ、ゴホン、ゴホン、すう~、ゲ~ッ、ゲホォ、ゲフォ……。

ホント、莫迦なのです。
たまらずに廣岡奴のところに駆けこんで、風邪薬4日分処方。薬のせいか睡魔がおそう。21日[土]、22日[日]の両日、アダナ・プレス倶楽部会員、活版カレッジ修了生の皆さんが集まって製作に余念がなかったが、やつがれ完全にダウン。ダウンついでに空中庭園でパチリ。

《23日からの週、余喘はあるものの、体調戻る》
いよいよ《活版凸凹フェスタ012》最終コーナーの雰囲気。問い合わせが切れ間無く続く。後手後手になっていた企画展、すなわち朗文堂 アダナ・プレス倶楽部の展示とゼミナールのツメがようやく手についた。
江川活版製造所と手引き印刷機と、ハワイにわたった印刷機の担当はやつがれだったが、大石が一部ピンチヒッターに。結局しばらく始発電車で帰宅のはめになったが、なんとかメドがついた。最大の企画だけに、これが終わればあとは一気呵成、なだれ込み作戦だ。

────
24日[火]、イヤー、驚きました。真底あきれかえりました。やつがれなんぞ、依頼原稿ドタキャンのためもあって、なにかと焦り気味なのに、夕方からアダナ・プレス倶楽部会員の田中智子さんと大石とで、なにやらガサガサ、ゴソゴソ。

猫の手も借りたい慌ただしさというのに、ふたりはときおりお菓子などをほお張りながら、のんびり、ポワァ~と、なにやら皮革工芸に励んでおりました。隣室では新宿私塾が開講中でしたが、手のつけようもないほど雑然とした仕事場で、ここだけは15世紀、ドイツ・マインツのグーテンベルク工房さながらの世界が現出していました。

ふたりがつくっているのは「インキボール」といいます。せっかく250キロもある手引き印刷機を《活版凸凹フェスタ2012》の会場に運ぶのなら、インキング(活字に活字版インキを付着させること)も、簡便かつ安全なインキ・ローラーをもちいるのではなく、手引き印刷機考案の時代と同様に、「インキボール」をもちいて来場者にご披露しようということ。

かくて「活版ゼミナール」の集計もでてきました。ほとんどの講座がほぼ定員となっています。またずいぶん遠方からのお申込みが多くおどろいています。ここは風邪になど負けていられません。
キリッ!!
 

 

上図) インキ・ボールを造るの図。
下図)万力の操作。手引き印刷機も同様な仕組みとなっている。
『Mechanichs Exercises』 Herbert Davis, Harry Carter  1958, London  

《本情報のアップ後に、またまた仰天!》
4月25日[水]、夜10時、江川次之進と江川活版製造所、ハワイ・Mānoa Press に関してのデーターを揃えて、この特別展示企画ビジュアル担当の松尾篤史さんと打ち合わせ。
「江川次之進の新資料公開だけでもいっぱいなのに、手引き印刷機のこと、ハワイにわたった江川活版製造所の印刷機のことまでいっしょじゃ、どんなにスペースがあってもたりません」
とすっかり開き直られた。しかしそれはいつものこと。バッカス松尾、なんとかするでしょう。

それからなにやかにやと雑事に追われ、本情報は4月26日[木]01時03分にアップした(こんなこともわかるんですね、新発見。でもきっと、ほかのひとでもわかるんでしょうけど)。帰宅前に一服しながら@メールのチェックをした。友人から妙な@メール。

「新聞広告に見る文昌堂と江川活版」というブログがあり、書き出しが、「片塩二朗様  前略」になっています。面白い内容ですのでアドレスを添付。

やつがれ、ほとんどネット・サーフはしないので、最初は、いつもいつも出所はおなじ、横丁の与太ばなしのたぐいかとおもった。
ところがまったく違った。ブログ名は『日本語練習中』、執筆者は以前数度@メールの交換があった内田明さんであった。
内田明さん、情報のご提供ありがとうございました。こころより感謝しております。一部印刷機の図版が入っている新聞は、別のかたから情報提供をいただいておりましたが、江川活版製造所の営業展開の時間軸がわかるうれしい資料でした。あらためて@メールをしたためます。
それよりなにより、すこしご遠方ですが《活版凸凹フェスタ2012》ご来場いただきたいものです。そしてよろしければ、活版印刷実践者の皆さんと交流していただければ、ご成果はおおきなものとおもいます。ともかく、驚きましたし、ありがとうございました。擱筆

活版凸凹フェスタ*レポート08

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5月の連休は活版三昧
作家展示:25コーナー
学校法人:5大学
企業団体展示:11企業・団体
特別企画展示 

5月3日[木・祝]-6日[日]まで全力投球 !
ご来場日が決まったら 活版ゼミナールへのご予約を !!

★毎日開催 

◆特別企画展示◆
活字版印刷術の知と技と美をご紹介いたします。
    活字版印刷術の知と技と美をご紹介いたします。
  ◎ 江川活版製造所、ハワイ MānoaPress:江川次之進関連資料の展示。
  ◎ アルビオン型手引き印刷機とアーツ&クラフツ運動
                     ──身体性をともなった造形の歓びとは
  ◎ 朗文堂 ブック・コスミイク──話題の新刊書、活版印刷実践者の定番書籍
  ◎ 朗文堂 タイプ・コスミイク──欣喜堂シリーズ、杉明朝体のデジタルタイプも                         
              樹脂凸版印刷を使用すると ─アレッ  思わぬ効果が!   

★毎日開催 

◆活版ゼミナール◆
会期中は、毎日、各種の楽しい活版ゼミナールを開催いたします。
一部に予約が必要なゼミナールもございます。ご予約のうえ、ご来場ください。
また「日展会館」は時間管理に厳格な施設ですので、定刻終了にご協力ください。

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【アルビオン型手引き活版印刷機による印刷実演】
会期中連日 適宜開催
事前予約不要 
参加費:印刷体験希望者は  1回1,800円(税込)。
見学はご自由にどうぞ。

19世紀に、英国で製造された鉄製の「アルビオン型手引き印刷機」を会場に搬入し、
写真の印刷機をもちいて、欧文大型活字(Albertus を予定)による印刷実演をおこないます。
印刷された作品はお持ち帰りいただきます。


英国/フィギンズ社、1875年製造「アルビオン型手引き印刷機」
「手引き印刷機 Hand press 」は手動で操作する印刷機の総称で、一般にはグーテンベルクらがもちいた印刷機のかたちを継承して、水平に置いた印刷版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機です。

アルビオン型印刷機は、重い圧盤を引き上げるための、バネを内蔵した突起を頭頂部に有することが特徴で、すでに動力機が主流となった19世紀世紀末にも、ウィリアム・モリス工房や、エリック・ギルらのプライベート・プレス運動家が、五感を駆使した造形にこだわりがあって、この「アルビオン型手引き印刷機」をもちいたことが知られます。

わが国でも、東京築地活版製造所・平野富二らが、明治7年頃からこのタイプの国産印刷機を製造していたことが明らかなっています。秀英舎(現:大日本印刷)創業時の印刷機も、残存写真資料から「アルビオン型印刷機」であったことがわかります。
また、明治中期に江川活版製造所が製造した類似機を、ハワイ/Mānoa Press が所有していて、今回の《活版凸凹フェスタ》に図版参加が決まっています。

 ★ 5月3日[木・祝]開催──要予約!

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 【印刷人掃苔会(そうたいかい)ツアー2012】 
5月3日(木・祝) 13 : 00(展示会場に10分前に集合)―
15 : 00  雨天決行
定員:15名(予約制) 参加費:2,000円(税込)
「掃苔会の栞」付き


谷中霊園、通称碑文通りにある巨碑。現在もおこなわれている「左起こしの横書き」のはじまりが、大蔵官僚だった渡部欽一郎によって洋式帳簿のなかではじめれらたことを、時の大蔵大臣が碑文に撰しています。
ご案内は、タイポグラフィ学会事務局長/松尾篤史さんです。

 

 テクテク歩いて、よ~く見て、ハイ ご苦労さま!
印刷人掃苔会 参加証。熊さん活字はアメリカ製。

掃苔ソウタイとは、墓石の苔コケを掃くことで、転じて清掃・墓参りを意味します。《活版凸凹フェスタ2012》の会場「日展会館」のまわりには、印刷人が多く眠る「谷中霊園」や、お寺、印刷関連の石碑も豊富な「上野公園」などがあります。
本来の掃苔会は、勝手にどんどん不定期開催ですが、外部の皆さんをお誘いするかたちでの開催には、あまりにマニアックだとして異論がありました。ところが前回は満員御礼の盛況でした。そこで今回も「5人くらいお集まりいただければ……」と気軽にかまえています。
タイポグラフィ学会事務局長の松尾篤史さんの解説とともに、「日展会館」周辺の印刷人ゆかりの地をめぐる、とてもマニアックで、充実したツアーです。
皆さんもごいっしょに、わが国の印刷の発展に尽力した先達を偲び、石碑に刻まれた書体の秘密を解明してみませんか。

お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 掃苔会(そうたいかい) 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

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【花型活字を使ってオリジナルレターセットをつくろう!】
5月3日(木・祝) 
① 10 : 00―12 : 00 
② 14 : 00―16 : 00
定員:各回4名(予約制) 参加費:3,000円(税込)


花型活字と欧文活字を使って、お名前入りの素敵なオリジナルレターセットをつくりましょう。
お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 花型活字レターセット 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

★ 5月4日(金・祝)開催──要予約!

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 【2種類のハンドモールドで活字をつくろう!】
5月4日(金・祝)
① 13 : 00―14 : 30
② 15 : 00―16 : 30
定員:各回6名(予約制) 参加費:5,000円(税込) テキスト2種付

ハンドモールド(手鋳込みの活字鋳造器)を用いて活字鋳造の体験をおこないます。今回は、初期の活字鋳型の研究をされている元三省堂印刷の伊藤伸一さんと、タイポグラフィ学会会員の渡辺 優スグルさんのご協力のもと、2種類のハンドモールドをもちいて、活字鋳造体験を予定しています。
ひとつは、15世紀半ばに西洋式活字版印刷術を開発した、ドイツのグーテンベルクがもちいたとされる「手鋳込み式活字鋳造器」の想定図をもとに、渡辺優さんが復元したものです。

もうひとつは、伊藤進一さん所有のハンドモールドで、スミソニアン・国立アメリカ歴史博物館の学芸員で、初期活字鋳型の世界的な研究者である、スタン・ネルソンさんによって復元されたものです。できあがった活字を使って、小型活版印刷機 Adana-21J で記念カードの印刷もおこないます。

お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ ハンドモールド 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

★ 5月5日(土・祝)開催──要予約!

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【印刷の四大版式の違いを学ぼう!】
5月5日(土・祝) 13 : 00―16 : 00
定員:8名(予約制) 参加費:5,000円(税込)
★定員に達しましたので応募締め切りとなりました。

凸版印刷の一種である「活版印刷」をより深く理解していただくためには、ほかの版式や技法に接することも重要です。
「版画工房  フジグラフィックス」の楚山俊雄さんのご協力のもと、印刷の四大版式「凸版・凹版・平版・孔版」すべての印刷体験を通して、その違いや特性を学ぶゼミナールです。

             
株式会社フジグラフィックスWebsiteより。リトグラフの作業風景。写真は楚山俊雄さん。

お申し込みしめきり日:4 月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 印刷の四大版式 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

★ 5月6日(日)──予約不要 

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【記念カードを印刷しよう!】
5月6日(日)11 : 00―12 : 00、13 : 00―14 : 00 内の随時
事前予約不要 参加費:無料
活字版印刷機 Adana-21J を使って記念カードの印刷を体験していただきます。
この日は最終日につき、15:00で閉場となります。ご注意ください。

活版凸凹フェスタ*レポート07

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本情報のオフィシャルサイトは アダナ・プレス倶楽部ニュース です。
ここ、タイポグラフィ・ブログロール《花筏》では、肩の力をぬいて、
タイポグラフィのおもしろさ、ダイナミズムなどを綴れたらとおもいます。
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アダナ・プレス倶楽部が使用している活字たち
活字と 活字組版・活版印刷がお好きな あなたにむけて

《 Adana-21J の制定書体 》
上掲の写真にみるように、小型活版印刷機 Adana-21J には、格別にはカログラム(ロゴタイプ)や、モノグラム(シンボル・マーク)はもうけていません。むしろできるだけ原鋳造所による、正規の活字をもちいて、
活版印刷によって得られた印刷物を優先しています。
そして、機番銘板、
カタログ、広報物などの正式な印刷物にもちいる Adana-21J には、できるだけ欧文活字の「ギル・サン  GILL SANS」をもちいるように心がけています。

ところが厄介なことに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部は[活版ルネサンス]を標榜しているちいさな事業部ですから、できるだけ金属活字による「ギル・サン」をもちいますが、状況によっては柔軟に、電子活字の「ギル・サン」も使用しています。

「ギル・サン」は、エリック・ギル(Arthur Eric Rowton Gill  1882-1940)の設計によって、英国・モノタイプ社が1928-30年にかけて製造した活字書体です。そのベースとなったのは、エドワード・ジョンストン(Edward Johnston 1872-1944) との共同で製作にあたった、いわゆる「ロンドン地下鉄道用書体」(Type Faces for the London Underground Railwais 1918年、木活字による特注サイン用書体として完成)にあります。

最上部Adana-21Jは、活字清刷りから「1, J」の形象と、レター・スペースに加工をくわえたもの。
ほかは「ギル・サン」の電子活字書体です。

エリック・ギルは、彫刻家であり、石彫り職人でもあったひとで、また『エッセイ・オン・タイポグラフィ』をはじめとする、多くの著述ものこしています。また、アルビオン型手引き印刷機を縦横に駆使して、多くの私家版書籍ものこしています。
ギルが製作した活字書体には、以下のものが知られています。
「Gill Sans  1927-30」「Golden Cokerel Press Type  1929」「Perpetua  1929-30」「Solus  1929」「Joanna  1930-31」「Aries  1932」「Floriated Capitals  1932」「Bunyan/Pilgrim  1934」「Cunard/Jubilee  1933/4」。

   小型活版印刷機 Adana-21J、栄光の一号機の機械銘板(大阪・江戸堀印刷所)

「ギル・サン」のおもな特徴は、サン・セリフ ≒  ゴシック体でありながら、「a」「g」などのフォルムに、色濃くオールド・ローマン体の伝統を継承していることにあります。
その形象をみますと、
まず画線の切り口が水平と垂直になっています。つぎにビッグ・レターの字幅がやや広めに設計されています。そしてアセンダーとキャップ・ハイト、すなわちスモール・レターの上に突きでた部分と、ビッグ・レターの高さが等しいことです。
また「V,v」「W,w」の下端が一点のみでベース・ラインと接しています。それでもこのふたつのキャラクターが、文字列のなかで浮きあがってみえないのは、巧まざる角度調整をほどこしてあるためです。

数字「1」の上端は、ロンドン地下鉄道書体では斜めにカットされ、「ギル・サン」金属活字の初期は、水平にカットされていました。小社には電子活字書体「ギル・サン」を、ふたつのベンダーが製造した製品を所有していますが、そのいずれも「1」の上端は水平にカットされています。
しかしいつのころからか、原鋳造所のモノタイプ社の金属活字では、「1」の上部にアペクスのような突起をもつようになりました。この原因は、おそらく「I アイ、l エル」と混同されやすかったためで、「判別性 Legibility」 に配慮した結果だったとみられます。
アダナ・プレス倶楽部が所有している「ギル・サン」金属活字の活字母型も、モノタイプ社の製造によりますが、やはりオールド・ローマン体の「i,j」などと同様のアペクスを有しています。

この「ギル・サン」の簡素なたたづまいと、おおきな屋根に押しつぶされそうになりながらも、けなげに頑張っている、ふるいフォルムをもった「a」がかわいくみえます。
Adana-21J は、このタイプの小型活版印刷機を製作した創始者/Donald A. Aspinall へのオマージュと、21世紀の日本で、あらたに製造された印刷機であることを示しています。ですから利便性に考慮して、ディセンダーに突きでたビッグ・レター「J」にデジタル加工を加えて、ベースラインと揃えました。

また Donald A. Aspinall がこのタイプの小型印刷機の原型を製造したのは1922年のことでした。 それから6年後、1928年に、ところも同じイギリスで誕生した活字書体が「ギル・サン」です。そんな時代的な共通背景も参考にしながら、Adana-21Jには、レター・スペースを相当慎重に調整して、もっぱら「ギル・サン」をもちいています。 

《朗文堂  アダナ・プレス倶楽部 によく使用している書体》
株式会社 朗文堂の活字版印刷事業部(そんなに大袈裟なものではありません)が、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部です。単なるいち事業部としないで「倶楽部」の名称をもちいているのは、ゆるやかな会員制のクラブ「アダナ・プレス倶楽部会員」の皆さんと、双方向の情報交換と、活版印刷復興に向けた連帯をもとめたからです。

「朗文堂 アダナ・プレス倶楽部」には、いわゆる「合成フォント」をもちいています。すなわち、漢字書体は旧晃文堂、リョービイマジクス製の「MRゴシック-M Ⅱ」をもちい、「アダナ・プレス」のカタ仮名の部分には、欣喜堂・今田欣一氏製の「くろふね」をもちいています。

「MRゴシック-M Ⅱ」のとおい原姿は藤田活版製造所にあります。同社が紹介されることはほとんどありませんが、1920-30年代の東京にあって、きわめて積極的にゴシック体の整備・拡張にあたった中堅の活字鋳造企業です。
目下わずかな残存資料をあつめ、また同社の関係者からも取材をつづけていますが、なにぶんゴシック体は昭和15-20年にかけて猖獗ショウケツをきわめた「変体活字廃棄運動」の大敵とされてきましたので、調査は難航しています。

スパッとしるせればきらくなのですが、すこしキーボードが重くなっています。戦後すぐの創業期、晃文堂と藤田活版とは縁戚関係にありました。海軍主計将校から活字界に転進した吉田市郎氏にとっては、岳父が率いる藤田活版製造所は心強い後ろ盾でした。
また後継者に恵まれなかった藤田活版製造所にとっても、子女が嫁し、将来を嘱望された名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)卒の、新知識人としての吉田市郎と、そのグループに期待するところがおおきかったはずです。

しかしながら、この縁戚関係は不幸なことに、避けがたがった結核による病死がもととなって、長続きしませんでした。また藤田活版製造所も「変体活字廃棄運動」の傷跡がおおきく、再建に手間取って、昭和30-40年代に事実上活動を停止しています。

いっぽう、欧文活字を中心に展開していた晃文堂は、次第に和文活字の開発と製造に軸足を移していました。明朝活字の開発には、しばしば触れているように、三省堂整版部の杉本幸治氏が協力しました。そしてゴシック体の原姿とは……、まだしるしにくいところがありますが、藤田活版製造所の「四号ゴシックだったか、12ポイントゴシック……」が原姿となっています。

昭和の70年代にはいると、写真植字書体が盛んに登場し、おもにレタリング系のデザ-ナーによる、骨格の脆弱なゴシック体がシェアを占めるようになりました。そうなると藤田活版製造所から継承して、晃文堂/リョービが製造していた古拙感と力感のあるゴシック体は、ふるいフォルムだとされ、またレタリングに独特な柔軟な線質に較べると、彫刻刀の冴えがほとばしるリョービ・ゴシック体は「硬い線質」だとされて忌避されるかたむきもみられました。

すなわちこのゴシック体は、藤田活版製造所の「四号ゴシック」に源流を発し、晃文堂でまず電鋳法による活字母型を製造し、続いて、三省堂・杉本幸治氏の指導をうけながら、機械式彫刻法による活字彫刻母型が製造されました。
晃文堂がリョービ・グループに参入した1970年代にはいると、パターン原図をもととして、リョービ社内デザインチームによって、仮名書体を中心に文字形象が検討され、また、字画の整理など、数次の改刻が繰りかえされて、こんにちにいたっています。

このいかにも「彫った文字」という表情をもった、機械工業にふさわしいゴシック体が好みです。また広めにとったカウンターや、フォルムの処理が、いかにも技術者の手になったものといえる整合性に富み、その硬めの線質が、かえって古拙感と統一感のある活字書風として魅力となっています。

和字(ひら仮名・カタ仮名)は、数次におよぶ改刻の結果、柔軟性を帯びた「MRゴシック-M Ⅱ」の随伴仮名書体にも捨てがたい味がありますが、あえて「和字  Succession 9」から、「くろふね」を採用して、組み合わせて使用しています。

和字書体「くろふね」は、欣喜堂・今田欣一氏の製作によります。この和字は草間京平(1902-71)『沿溝書体スタイルブック』から想を採ったもので、謄写版の「ガリ版切り」に適した書体として提案されたものを、ゴシック体の仮名書体としてあらたに提案したものでした。

ガリ版切りは鉄片に刻まれた溝に沿って書かれていきますから、そこから「沿溝書体」と草間京平は名づけたのでしょう。ある意味では現在のビットという、ちいさな素片にふりまわされる電子活字の現状とも似た面がみられます。
それだけに和字「くろふね」は、素朴な文字形象で、いかにも鉄製の印刷機にはもってこいの、硬質感と、なんともいえない飄逸感、ユーモアのある表情がありました。
その詳細は「和字──限りなき前進」『タイポグラフィ-ジャーナル ヴィネット14 』(今田欣一、朗文堂、2005年9月)に紹介をみます。

《通称  活版おじさんのポスター使用活字について》

この「活版オジサンのポスター」は、会場の広さや、目的にあわせて、B全判、A全判、A半裁判、A3判などの各種のサイズがつくられてきました。たいていのばあい、印刷はしないで、プリンター出力によって間に合わせていますが、皆さんもどこかの会場でご覧になったことがあるかもしれません。

このポスターの背景色は「黄色から赤にかけての無限の階調色」とされる、朗文堂コーポレート・カラーによります。
真ん中で「諸君!」と語りかけている出っ腹・短足おじさんは、『活版見本』(東京築地活版製造所 明治36年11月)の「電気銅版 p.B98」から採ったものです。
この出っ腹・短足おじさんは、国産電気銅版(電胎版ともする)か、外国製のものか、同一ページの日本的な絵柄と較べてもにわかに判断できません。それでも明治20年代の東京築地活版製造所でも気に入っていたとみえて、『印刷雑誌』『花の栞』などにもしばしば登場して「諸君!」とかたりかけていたものです。

また周囲を囲む櫻花の花形活字は、同書「花形活字 p.A68 」からいくつかのピースをとりだして、デジタル処理を加えて採ったものです。
いずれも単なる複写ではなく、慎重な画線補整を加えながらもちいています。
飾り枠内部の書体は、イベントの都度かわりますが、ここに図示しているのはDNP「秀英体初号明朝体」です。
また最下部に「MRゴシック-M Ⅱ」と「くろふね」の合成フォントによる「アダナ・プレス倶楽部」の制定書体がみられます。

 

《活版凸凹フェスタ2012 告知 はがき/ポスター》
イベント告知はがき、絵柄面2色、宛名面1色の印刷は画期的でした。とりわけ絵柄面の人名や団体名が列挙された部分には  5pt. という極小サイズの「杉明朝体」が使用されました。
ふつうのビジネス用パソコンには 8pt.-72pt. が設定され、それ以下、それ以上のポイントサイズの出力には、ちょっとした操作が必要です。すなわち、あまり日常業務にはもちいられない極小ポイントサイズということになります。

もし、ご関心のあるかたは、すこし長文のテキストを用意して、お手許の書体の 5pt. での出力を試みられと面白い(ゾッとする)かもしれません。
筆者も開発に関わった書体もあり、軽軽にはかたれませんが、大半の書体(細明朝・細ゴシックとされているものを含めて)が  5pt. のサイズになると、漢字の画数が混んだものは潰れ、細い画線や、起筆・終筆に「切れ字」の現象がみられることに慄然とするかもしれません。

畢生の名書体「杉明朝」を小社にのこされて、杉本幸治氏は昨年の関東大地震の翌翌日に長逝されました。今回の告知はがきは、印刷条件、用紙条件など、厳しい面もみられましたが、「杉明朝体」はそんな難関を平然としてのりこえていました。
タイポグラファ群像*002「杉本幸治」

杉  本   幸  治
1927年[昭和2]4月27日ー2011年[平成23]3月13日

1927年(昭和2)4月27日東京都台東区下谷うまれ。
東京府立工芸学校印刷科卒(5年履修制の特殊な実業学校。現東京都立工芸学校に一部が継承された)。
終戦直後の1946年( 昭和21)印刷・出版企業の株式会社三省堂に入社。今井直一専務(ナオ-イチ 1896-1963.5.15 のち社長)の膝下にあって、本文用明朝体、ゴシック体、辞書用の特殊書体などの設計開発と、米国直輸入の機械式活字父型・母型彫刻システム(俗称:ベントン、ベントン彫刻機)の管理に従事し、書体研究室、技術課長代理、植字製版課長を歴任した。
またその間、晃文堂株式会社(現・リョービイマジクス株式会社、2011年11月から株式会社モリサワに移乗されモリサワMR事業部となった)の「晃文堂明朝体」「晃文堂ゴシック体」の開発に際して援助を重ねた。

1975年三省堂が苦境におちいり、会社更生法による再建を機として、48歳をもって三省堂を勇退。その直後から細谷敏治氏(1914年うまれ)に請われて、日本マトリックス株式会社に籍をおいたが、2年あまりで退社。
そののち「タイポデザインアーツ」を主宰するとともに、謡曲・宝生流の師範としても多方面で活躍。
「晃文堂明朝体」を継承・発展させた、リョービ基幹書体「本明朝体」の制作を本格的に開始。以来30数年余にわたって「本明朝ファミリー」の開発と監修に従事した。

2000年から硬筆風細明朝体の必要性を痛感して「杉明朝体」の開発に従事。2009年9月株式会社朗文堂より、TTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。同年11月、OTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。
特発性肺線維症のため2011年3月13日(日)午前11時26分逝去。享年83。
浄念寺(台東区蔵前4-18-10)杉本家墓地にねむる。法名:幸覚照西治道善士 コウ-ガク-ショウ-サイ-ジ-ドウ-ゼン-ジ。

◎        ◎        ◎        ◎

東日本大震災の襲来からまもなく、特発性肺線維症 のため入退院を繰りかえしていた杉本幸治氏が永眠した。杉本氏は、わが国戦後活字書体史に燦然と輝く、リョービ基幹書体「本明朝体」をのこした。また畢生ヒッセイの大作「硬筆風細明朝 杉明朝体」を朗文堂にのこした。
わたしどもとしては、東日本大震災の混乱の最中に逝去の報に接し、万感のおもいであった。これからは30年余におよぶ杉本氏の薫陶を忘れず、お預かりした「杉明朝体」を大切に守り育ててまいりたい。

在りし日の杉本幸治氏を偲んで

杉明朝体はね、構想を得てから随分考え、悩みましたよ。
その間に土台がしっかり固まったのかな。
設計がはじまってからは、揺らぎは一切無かった。
構造と構成がしっかりしているから、
小さく使っても、思い切り大きく使っても
酷使に耐える強靱さを杉明朝はもっているはずです。
若い人に大胆に使ってほしいなぁ。

-杉本幸治 83歳の述懐-


上左)晃文堂明朝体の原字と同サイズの杉明朝体のデジタル・データー
上右)晃文堂が和文活字用の母型製作にはじめて取り組んだ「晃文堂明朝」の原字。
(1955年杉本幸治設計 当時28歳。 原寸は2インチ/協力・リョービイマジクス)

2つの図版を掲げた。かたや1955年杉本幸治28歳の春秋に富んだ時期のもの。
こなたは70代後半から挑戦した新書体「杉明朝体」の原字である。

2003年、骨格の強固な明朝体の設計を意図して試作を重ねた。杉本が青春期を過ごした、三省堂の辞書に用いられたような、本文用本格書体の製作が狙いであった。現代の多様化した印刷用紙と印刷方式を勘案しながら、紙面を明るくし、判別性を優先し、可読性を確保しようとする困難な途への挑戦となった。制作に着手してからは、既成書体における字体の矛盾と混乱に苦慮しながらの作業となった。名づけて「杉明朝体」の誕生である。

制作期間は6年に及び、厳格な字体検証を重ね、ここに豊富な字種を完成させた。痩勁ながらも力感に富んだ画線が、縦横に文字空間に閃光を放つ。爽風が吹き抜けるような明るい紙面には、濃い緑の若葉をつけた杉の若木が整然と林立し、ときとして、大樹のような巨木が、重いことばを柔軟に受けとめる。

《杉明朝体の設計意図――杉 本  幸 治――絶 筆》

2000年の頃であったと記憶している。昔の三省堂明朝体が懐かしくなって、何とかこれを蘇らせることができないだろうかと思うようになった。 ちょうど 「本明朝ファミリー」 の制作と若干の補整などの作業は一段落していた。 しかしながら、そのよりどころとなる三省堂明朝体の資料としては、原図は先の大戦で消失して、まったく皆無の状態であった。

わずかな資料は、戦前の三省堂版の教科書や印刷物などであったが、それらは全字種を網羅しているわけではない。 したがって当時のパターン原版や、活字母型を彫刻する際に、実際に観察していた私の記憶にかろうじて留めているのに過ぎなかった。

戦前の三省堂明朝体は、世上から注目されていた「ベントン活字母型彫刻機」による、最新鋭の活字母型制作法として高い評価を得ていた。この技法は精密な機械彫刻法であったから、母型の深さ[母型深度]、即ち活字の高低差が揃っていて印刷ムラが無かった。加えて文字の画線部の字配りには均整がとれていて、電胎母型[電鋳母型トモ]の明朝体とは比較にならなかった。

しかしながら、戦後になって活字母型や活字書体の話題が取り上げられるようになると、「三省堂明朝体は、ベントンで彫られた書体だから、幾何学的で堅い表情をしている」とか、「 理科学系の書籍向きで、文学的な書籍には向かない」 とする評価もあった。

確かに三省堂明朝体は堅くて鋭利な印象を与えていた。しかし、それはベントンで彫られたからではなく、昭和初期の三省堂における文字設計者、桑田福太郎と、その助手となった松橋勝二の発想と手法に基づく原図設計図によるものであったことはいうまでもない。

世評の一部には厳しいものもあったが、私は他社の書体と比べて、三省堂明朝体の文字の骨格、すなわち字配りや太さのバランスが優れていて、格調のある書体が好きだった。そんなこともあって、将来なんらかの形でこの愛着を活用できればよいが、という構想を温めていた。

三省堂在職時代の晩期に、別なテーマで、辞書組版と和欧混植における明朝活字の書体を、様様な角度から考察した時、三省堂明朝でも太いし、字面もやや大きすぎる、いうなれば、三省堂明朝の堅い表情、すなわち硬筆調の雰囲気を活かし、縦横の画線の比率差を少なくした「極細明朝体」をつくる構想が湧いた。

ちなみに既存の細明朝体をみると、確かに横線は細いが、その横線やはらいの始筆や終筆部に切れ字の現象があり、文字画線としては不明瞭な形象が多く、不安定さがあることに気づいた。そのような観点を踏まえて、まったく新規の書体開発に取り組んだのが約10年前からの新書体製作で「杉本幸治の硬筆風極細新明朝」、即ち今回の 「杉明朝体」という書体が誕生する結果となった。

ひら仮名とカタ仮名の「両仮名」については、敢えて漢字と同じような硬筆風にはしなかった。仮名文字の形象は、流麗な日本独自の歴史を背景としている。したがって無理に漢字とあわせて硬筆調にすると、可読性に劣る結果を招く。 既存の一般的な明朝体でも、仮名については毛筆調を採用するのと同様に、「杉明朝体」でも仮名の書風は軟調な雰囲気として、漢字と仮名のバランスに配慮した。

「杉明朝体」は極細明朝体の制作コンセプトをベースとして設計したところに主眼がある。したがってウェート[ふとさ]によるファミリー化[シリーズ化]の必要性は無いものとしている。一般的な風潮ではファミリー化を求めるが、太い書体の「勘亭流・寄席文字・相撲文字」には細いファミリー[シリーズ]を持たないのと同様に考えている。

「杉明朝体」には多様な用途が考えられる。例えば金融市場の約款や、アクセントが無くて判別性に劣る細ゴシック体に代わる用途などがあるだろう。また、思いきって大きく使ってみたら、意外な紙面効果も期待できそうだ。

《活版凸凹フェスタ012 告知ポスター 裏面の書体 》
ここにもちいた書体は、「ヒューマン・サンセリフ 黒船B」です。シースルー・レイヤードとされた印刷方式にもよく耐えてくれました。目下販売注力中電子活字書体なので、リンクではなく、ここにも同一ページをご紹介いたいします。

『 ヒューマン・サンセリフ 銘石B Combination 3 』
 好評発売中です!
お申込み、ご購入は、朗文堂 タイプ・コスミイク までお願いいたします。
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『 ヒューマン・サンセリフ 銘石B Combination 3 』
くれたけ銘石B、くろふね銘石B、くらもち銘石B

 《ついにわが国でもヒューマン・サンセリフが誕生!── 銘石B》
どうやら想像以上に多くの皆さんが、力感のある、やさしい、ヒューマン・サンセリフの登場をお待ちいただいていたようです。
これまでもしばしば、十分なインパクトがありながら、視覚にやさしいゴシック体、それもいわゆるディスプレー・タイプでなく、文字の伝統を継承しながらも、使途のひろいサンセリフ――すなわち、わが国の電子活字書体にも「ヒューマン・サンセリフ」が欲しいとされる要望が寄せられていました。
確かにわが国のサンセリフ、≒ゴシック体のほとんどは、もはや自然界に存在しないまでに鋭角的で、水平線・垂直線ばかりが強調されて、鋭利な画線が視覚につよい刺激をあたえます。

今回欣喜堂・朗文堂がご提案した「銘石B」の原姿は、ふるく、中国・晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種で、とくに「碑石体ヒセキ-タイ」と呼ばれる書風をオリジナルとしています。

『王興之墓誌』。この裏面には、のちに埋葬された
妻・宋和之の墓誌が、ほぼ同一の書風で刻されています(中国・南京博物館蔵)。

『王興之墓誌』拓本。右払いの先端に、隷書に独特の
波磔のなごりがみられ、多くの異体字もみられます。

『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土しました。王興之(オウ-コウシ 309-40)は王彬オウ-リンの子で、また書聖とされる王羲之(オウ-ギシ  307-65)の従兄弟イトコにあたります。


この墓誌は煉瓦の一種で、粘土を硬く焼き締めた「磚 セン、zhuān、かわら」に碑文が彫刻され、遺がいとともに墓地の土中に埋葬されていました。そのために風化や損傷がほとんどなく、全文を読みとることができるほど保存状態が良好です。

王興之の従兄弟・書聖/王羲之(伝)肖像画。
同時代人でイトコの王興之も、こんな風貌だったのでしょうか。

魏晋南北朝(三国の魏の建朝・220年-南朝陳の滅亡・589年の間、370年ほどをさす。わが国は古墳文化の先史時代)では、西漢・東漢時代にさかんにおこなわれていた、盛大な葬儀や、巨費を要する立碑が禁じられ、葬儀・葬祭を簡略化させる「薄葬」が奨励されていました。
そのために、書聖とされる王羲之の作でも、みるべき石碑はなく、知られている作品のほとんどが書簡で、それを法帖ホウジョウ(先人の筆蹟を模写し、石に刻み、これを石摺り・拓本にした折り本)にしたものが伝承されるだけです。

この時代にあっては、地上に屹立する壮大な石碑や墓碑にかえて、係累・功績・生没年などを「磚セン」に刻んで墓地にうめる「墓誌」がさかんにおこなわれました。『王興之墓誌』もそんな魏晋南北朝の墓誌のひとつです。

『王興之墓誌』の書風には、わずかに波磔ハタクのなごりがみられ、東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれています。遙かなむかし、中国江南の地にのこされた貴重な碑石体が、現代日本のヒューマン・サンセリフ「 銘石B Combination 3」として、わが国に力強くよみがえりました。

《レポート07 を執筆していたら、暇人扱いされて……》
チョイと風邪気味が、どうやらやばくなってきた。持病の喘息の発作がはじまってきた。それでもここまで懸命に《活版凸凹フェスタ*07》をしるしていたら、スタッフが通りかかって、
「暇そうですね……」
と突き放された。確かにアダナ・プレス倶楽部会員も、スタッフも、顔つきが変わってきた。いよいよ追い込みである。

されど、皆が皆、波長をあわせて駈けまわっていてもしかたない。ここはひとりぐらい、ゆったりノンビリ構えていたほうがよかろうとおもう。
ホラ、ミロ、肝心のキャラクター紹介を忘れていたではないか。

ここに見る2012の数字は「ユニバース・ボールド」。下の行の欧文は1929年 A. M. Cassandre(ロシア系フランス人。1901-68)がパリのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所から発表した、エレガントで、好もしくおもっている書体「ビフィール Initiales Bifur,  1929」である。
「ビフィール」にはビッグ・レターしかない。それもきわめて大胆なフォルムである。
「K」にはステムが無い。「A」にはバーが無い。「N」にいたっては中心線のストローク一本しか無い。ただ万線で半分隠された形象と組み合わされると、見慣れた全体のキャラクターが現出する。そのために「ビフィール」は「Stencil Letter  刷り込み型書体」ともいわれている。

活版凸凹フェスタ*レポート06

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ここ、タイポグラフィ・ブログロール《花筏》では、肩の力をぬいて、
タイポグラフィのおもしろさ、ダイナミズムなどを綴れたらとおもいます。
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出展企業と出展団体のご紹介

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《江戸堀印刷所》
小型活版印刷機 Adana-21J 第一号機ユーザーの初登場です。
昨2011年の秋11月、大阪・中之島と、靫ウツボ公園に囲まれた人気のエリア“江戸堀”(大阪市西区江戸堀1-26-18-104)に、印刷工房「江戸堀印刷所」がオープンしました。
この工房は、なにわ筋に面した一階店舗、およそ 50m2 のスペースに、 印刷工房、打ち合わせスペース、小さなギャラリー・スペースなどがあります。


名刺・ポストカード・リトルプレス・ZINE・絵本などのカスタマイズ製品、オリジナル・ステーショナリーなど、活版印刷・オフセット印刷・デジタル印刷を自在に駆使し、それらの印刷方式を、目的と用途にあわせて採用・併用した印刷と、製本がお得意です。

「江戸堀印刷所」の事業本体は、すぐ近くの「あさひ高速印刷株式会社」(代表・岡 達也氏 )です。同社は従業員数100余名を数え、大型オフセット平版印刷機などを何台も設置している有力印刷会社です。
2007年4月、Adana-21J の発売と同時に購入のお申込みをいただきましたので、江戸堀印刷所の Adana-21J は、栄光のシリアル・ナンバー「0001」が納入されています。

  

  

当時から岡  達也社長と、ご担当の小野香織さんは、ともども、
「当社には、オフセット印刷をはじめ、オンデマンド印刷など、さまざまな印刷方法がありますが、活版印刷は、なにより印刷の原点です。それを、誰にでも、一番わかりやすい形で伝えられる印刷機として、まずは手許にこの小型活版印刷機を置いておきたい」
とされてご購入いただきました。
「この  Adana-21J  を中心に、徐徐に活版印刷関連機器などの設備を導入して、いつの日か、皆さんの目に見えるところに展示して、たくさんの人に、印刷の原点、おもしろさを知っていただきたい」
ともされていました。

こんな経緯があって、納入から4年ばかりの年月が過ぎた2011年秋に、Adana-21J だけでなく、自動プラテン活版印刷機、半自動足踏み活版印刷機、電動箔押し機、小型断裁機、バーコ熱加工機などを設置した、印刷工房「江戸堀印刷所」が完成しました。

目下のスタッフは、元企画部におられた小野香織さん、ベテラン印刷職人/長岡さん、それに活版印刷が大好きな岡  達也社長ご自身が奮闘されています。
あいにく岡社長は出張中でしたが、土曜日の夕方の取材に、小野香織さんが休日出勤で対応していただきました。
印刷物の仕上がりは、どれもセンシブルで、美しいものでした。ありがとうございました。 今回は、プライベート・プリンターの皆さまとの交流と親睦を目的に、初参加いただきました。

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《版画工房 フジグラフィックス》
株式会社フジグラフィックス(代表者・楚山俊雄氏)の版画工房フジグラフィックスは、1983年台東区入谷に、リトグラフ、シルクスクリーン、銅版画の版画工房を開いて以来、多くの作家、ギャラリー、出版社などと共に版画作品を制作している、知るひとぞ知る、きわめてすぐれた版画工房です。

代表の楚山俊雄さんは、版画制作はデリケートな手仕事で、メカニズムではできないものだ、とかたられます。そして平版(リトグラフ)、凹版(銅版画)、孔版(シルクスクリーン)印刷の達人で、温厚なお人柄ですが、そこにさらに凸版(活字版印刷術)を加えようと、アダナ・プレス倶楽部の「活版カレッジ」を受講された、意欲的なかたでもあります。

すでにアダナ・プレス倶楽部の会員のなかには、フジグラフィックスさんをお訪ねして「版画印刷体験講座」を受講されたかたもいらっしゃいます。また、版画の魅力を楽しんでいただけるように、初心者にも体験講座・工房見学も開催されています。 

      
同社Websiteより。リトグラフの印刷風景。

《活版凸凹フェスタ2012》では、ご出展とあわせて、5月5日[土]、活版ゼミナール【印刷の四大版式を学ぼう】のご担当をお願いしました。
凸版印刷の一種である「活版印刷」をより深く理解していただくためには、ほかの版式や技法に接することも重要です。「版画工房  フジグラフィックス」の楚山俊雄さんのご協力のもと、印刷の四大版式「凸版・凹版・平版・孔版」すべての印刷体験を通して、その違いや特性を学ぶ、アダナ・プレス倶楽部ならではのゼミナールが開催されます。

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《株式会社エスアールジー》
株式会社エスアールジー(SRG CO., LTD.  代表取締役・呉藤伸二氏)は、イギリスと日本と
のインターフェースに尽力されている企業です。大分と東京に本拠をおき、代表の呉藤さんを陣頭に、東奔西走の間に、イギリスへの仕入れ交渉に出かけるなど、とても多方面で活躍されています。
大分の直営店の
店内では、輸入雑貨、アンティーク・グッズ、ポスター、ステーショナリー、ポストカードなどを販売されています。また、常設のフレーミング工房では額装もおこなっていますし、各種のワークショップも展開されています。

同社Websiteより POP-UP LONDON

呉藤さんは、デパートや画材店をはじめ、高感度ショップなどの催事に積極的に出展・進出されています。昨年からは、そこに容易に運搬・搬送できる、小型活字版印刷機 Adana-21J という、あたらしい集客パワーが加えられました。
《活版凸凹フェスタ》には、はじめてのご出展ですが、できるだけ「木活字」をたくさん出品していただけるようにお願いしています。 

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《タイポグラフィ学会》
タイポグラフィ学会(会長・山本太郎氏)は、
「タイポグラフィという技芸に学問的な基盤を与え、その成果を実技・実践に生かし、有効で豊かな展開を通して社会に貢献することにあります」。
という趣旨に賛同した、タイポグラフィをおもくみる会員によって組織された任意団体です。

研究のための学会というと、なにか厳めしい感がありますが、山本太郎会長をはじめ、松尾篤史事務局長、春田ゆかりさん、小酒井英一郎さん、木村雅彦さん、渡辺優さん、板倉雅宣さん、笈川道義さん、田中宏明さん、中村将大さん、川崎孝志さん、押手恒さんなど、多くの会員の皆さんが、これまでの《活版凸凹フェスタ》にも、さまざまなご協力をいただいてまいりました。
そして今回の《活版凸凹フェスタ2012》にも、最大限の協力をいただいています。

タイポグラフィとは、狭義に解釈しますと「活字版印刷術」となります。そしてこの「術」の部分に重きをおいている技芸がタイポグラフィですから、活字版印刷術、活版印刷、活版、カッパン、そして《活版凸凹フェスタ》ともきわめてつよい関連があります。
ここに【タイポグラフィ学会 概要】の全文をご紹介します。

【タイポグラフィ学会 概要】
2005年8月に「タイポグラフィ学会」が設立されました。学会設立の目的は、タイポグラフィという技芸に学問的な基盤を与え、その成果を実技・実践に生かし、有効で豊かな展開を通して社会に貢献することにあります。
当学会の活動は、上の目的の達成のためにタイポグラフィを専門的に研究発表する場または真摯な議論と考察の結果を表明する場を設けて、広く深い認識を共有することに主眼があります。
タイポグラフィは複製手段である印刷術の現場から生まれたことばであり、印刷術の実践の歴史とともにあります。西洋では550年、わが国では130年の歴史を有しています。タイポグラフィは活字の設計・製造からその有効で的確な使用法を模索し実践する技芸であり、人々の知的生活を支える書籍・雑誌・新聞の普及に貢献し、報道・文芸・学術・教育・商業・娯楽などの分野で不可欠な要素となっています。

21世紀に至り、技術革新は実験と試用の時代を経て実用の時代に入り、それに伴いタイポグラフィは時代の抱える新しい課題への対応が求められています。将来の活字文化と文字情報社会の充実に積極的に参加するために、先人による蓄積を尊重し学びつつ、そこに再検討を加える研究や新しい視点からの研究さらには批評的なまなざしを忘れずに、関連する他の分野との学際的な交流を通して、人々の暮しと文化的な活動を支える必要があると考えます。

以上の観点に立って、タイポグラフィに関する課題やテーマに専門家諸氏の英知を結集して研究の光を当て考察を加え、洋の東西にとらわれない学術研究を体系的に推し進める機関を設けるべく、ここに意を決して集まりました。

活版凸凹フェスタ*レポート05

今年の五月の連休も活版三昧!!

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未来のカッパン技師です!

前回の会場風景。天候に恵まれ3,000人を超えるお客さまにご来場いただきました。

和紙系極薄手A3判用紙に、樹脂版による凸版印刷。オモテ・スミ1色、ウラ・紅赤、特金2色
手差し菊四裁活版印刷機を使用し、See-through Leyerd 印刷方式による。
詳細は、活版凸凹フェスタ*レポート01 をご覧ください。

 
前回の出展作家ブース。作品談義が交わされ、ひとの輪ができ、歓声があがっていました。

前回の出展企業・団体ブース。熱心な来場者に業界人も疲労気味の場面もみられました。

ことしも、このサイン・ボードが活躍します。
そして アダナ・プレス倶楽部名物【出っ腹 活版オジサン ボード】も出没予定!

活版印刷のビギナーはもとより、中級程度の技倆のかたでもおおいに有効な、朗文堂  アダナ・プレス倶楽部・大石  薫著《活版印刷の専門書》が『VIVA!! カッパン♥』です。
アダナ・プレス倶楽部では、初心者に向け、6ヶ月コースの「活版カレッジ」、一日速習コースの「Adana-21J 操作指導教室 」の講座を開設しています。そこでの必須のテキストが『VIVA!! カッパン♥』です。
詳細 : 朗文堂ブック・コスミイク

 ★      ★      ★      ★

◆特別企画展示◆
活字版印刷術の知と技と美をご紹介いたします。
     ・詳細は、このページに、順次掲載いたします。

 

◆活版ゼミナール◆
会期中は、毎日、楽しい活版ゼミナールを開催いたします。
詳細は順次発表いたします。
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【アルビオン型手引き活版印刷機による印刷実演】
会期中連日 適宜開催
事前予約不要 
参加費:印刷体験希望者は  1回1,800円(税込)。
ご見学はご自由にどうぞ。

19世紀に、英国で製造された鉄製の「アルビオン型手引き印刷機」を会場に搬入し、写真の印刷機をもちいて、欧文大型活字による印刷実演をおこないます。
印刷された作品はお持ち帰りいただきます。


英国/フィギンズ社、1875年製造「アルビオン型手引き印刷機」
「手引き印刷機 Hand press 」は手動で操作する印刷機の総称で、一般にはグーテンベルクらがもちいた印刷機のかたちを継承して、水平に置いた印刷版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機です。
アルビオン型印刷機は、重い圧盤を引き上げるための、バネを内蔵した突起を頭頂部に有することが特徴で、すでに動力機が主流となった19世紀世紀末にも、ウィリアム・モリス工房や、エリック・ギルらのプライベート・プレス運動家が、五感を駆使した造形にこだわりがあって、この「アルビオン型手引き印刷機」をもちいたことが知られます。
わが国でも、東京築地活版製造所・平野富二らが、明治7年頃から製造していたことが明らかになっています。秀英舎(現:大日本印刷)の創業時の印刷機も、残存写真資料から「アルビオン型印刷機」であったことがわかります。
また、明治中期に江川活版製造所が製造した類似機を、ハワイ/Mānoa Press が所有していて、今回の《活版凸凹フェスタ》に図版参加が決まっています。


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 【印刷人掃苔会(そうたいかい)ツアー2012】 
5月3日(木・祝) 13 : 00(展示会場に10分前に集合)―
15 : 00  雨天決行
定員:15(予約制) 参加費:2,000円(税込)
「掃苔会の栞」付き


谷中霊園、通称碑文通りにある巨碑。現在もおこなわれている「左起こしの横書き」のはじまりが、大蔵官僚だった渡部欽一郎によって洋式帳簿のなかではじめれらたことを、時の大蔵大臣が碑文に撰しています。
ご案内は、タイポグラフィ学会事務局長/松尾篤史さんです。

テクテク歩いて、よ~く見て、ハイ ご苦労さま!
印刷人掃苔会 参加証。熊さん活字はアメリカ製。

 【ご紹介者予定 順不同】
岸田 吟香  新聞人・ヘボン博士助手・点眼薬製造者・慈善事業家・『東京日日新聞』主筆
内田 嘉一  福澤諭吉門下、文部官僚、「かな の くわい」幹事、秀英体に影響を与えたか
平野 富二  東京築地活版製造所、IHI創設者、日本近代産業の開拓者
平野義太郎  法学者・平和運動家・平野富二長男
井関 盛艮  初代長崎県令として本邦初の日刊新聞『横浜毎日新聞』発行
鏑木 清方  画家・條野傳平の子息
陽  其二   『横浜毎日新聞』編集兼発行にあたる。『穎才新誌』発行
田口 卯吉  経済学者、『東京経済新聞』創刊者
重野 安繹  歴史学者、政治家、内閣修史局編輯長
條野 傳平  粋人、戯作者、新聞人。『江湖新聞』『東京日日新聞』(現・毎日新聞)創刊者
渡部欽一郎  大蔵省書記官。知られざる左起こし横書きの創始者。
高橋 お伝
藤野 景響  西南戦争の電信技師。池原香穉の撰幷書の墓碑が美しい。
宮城 玄魚  粋人。書家。初期かな活字の形成に影響がおおきかった。
福地 櫻痴  本名:源一郎。粋人。新聞人、政治家。小屋芝居を常設の歌舞伎座とした
中村 正直  啓蒙思想家、教育者。お茶の水女子大創設者
沼間 守一  政治家、新聞人
小室 樵山  書芸家。弘道軒清朝活字の原字製作者
巻  菱湖   書家。幕末の三筆。門人一万と号す
仮名垣魯文  粋人。新聞人。文筆家。少し離れています。余力があったらいきましょう! 

掃苔ソウタイとは、墓石の苔コケを掃くことで、転じて清掃・墓参りを意味します。《活版凸凹フェスタ2012》の会場「日展会館」のまわりには、印刷人が多く眠る「谷中霊園」や、お寺、印刷関連の石碑も豊富な「上野公園」などがあります。
本来の掃苔会は、勝手にどんどん不定期開催ですが、外部の皆さんをお誘いするかたちでの開催には、あまりにマニアックだとして異論がありました。ところが前回は満員御礼の盛況でした。そこで今回も「5人くらいお集まりいただければ……」と気軽にかまえています。
タイポグラフィ学会事務局長の松尾篤史さんの解説とともに、「日展会館」周辺の印刷人ゆかりの地をめぐる、とてもマニアックで、充実したツアーです。
皆さんもごいっしょに、わが国の印刷の発展に尽力した先達を偲び、石碑に刻まれた書体の秘密を解明してみませんか。

お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 掃苔会(そうたいかい) 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

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【花型活字を使ってオリジナルレターセットをつくろう!】
5月3日(木・祝) 
① 10 : 00―12 : 00 
② 14 : 00―16 : 00
定員:各回4名(予約制) 参加費:3,000円(税込)


花型活字と欧文活字を使って、お名前入りの素敵なオリジナルレターセットをつくりましょう。
お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 花型活字レターセット 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

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 【2種類のハンドモールドで活字をつくろう!】
5月4日(金・祝)
① 13 : 00―14 : 30
② 15 : 00―16 : 30
定員:各回6名(予約制) 参加費:5,000円(税込) テキスト2種付

ハンドモールド(手鋳込みの活字鋳造器)を用いて活字鋳造の体験をおこないます。今回は、初期の活字鋳型の研究をされている元三省堂印刷の伊藤伸一さんと、タイポグラフィ学会会員の渡辺 優スグルさんのご協力のもと、2種類のハンドモールドをもちいて、活字鋳造体験を予定しています。
ひとつは、15世紀半ばに西洋式活字版印刷術を開発した、ドイツのグーテンベルクがもちいたとされる「手鋳込み式活字鋳造器」の想定図をもとに、渡辺優さんが復元したものです。

『グーテンベルクのハンドモールドをつくる』 PDFデータ

もうひとつは、伊藤進一さん所有のハンドモールドで、スミソニアン・国立アメリカ歴史博物館の学芸員で、初期活字鋳型の世界的な研究者である、スタン・ネルソンさんによって復元されたものです。できあがった活字を使って、小型活版印刷機 Adana-21J で記念カードの印刷もおこないます。

お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ ハンドモールド 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

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【印刷の四大版式の違いを学ぼう!】
5月5日(土・祝) 13 : 00―16 : 00
定員:8名(予約制) 参加費:5,000円(税込)

凸版印刷の一種である「活版印刷」をより深く理解していただくためには、ほかの版式や技法に接することも重要です。
「版画工房  フジグラフィックス」の楚山俊雄さんのご協力のもと、印刷の四大版式「凸版・凹版・平版・孔版」すべての印刷体験を通して、その違いや特性を学ぶゼミナールです。

             
株式会社フジグラフィックスWebsiteより。リトグラフの作業風景。写真は楚山俊雄さん。

お申し込みしめきり日:4 月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 印刷の四大版式 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

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【記念カードを印刷しよう!】
5月6日(日)11 : 00―12 : 00、13 : 00―14 : 00 内の随時
事前予約不要 参加費:無料
活字版印刷機 Adana-21J を使って記念カードの印刷を体験していただきます。

  

◆カッパン・ルネサンス・フェア 12th Times◆
カッパン実践家のための、新旧の活版印刷関連資材・関連機材の展示即売会です。どんな新開発機器、関連資材、また掘り出し物があるのか、ご来場のうえお楽しみください。
小型活版印刷機をお持ちのかたは、インテル、ファニチュアなどの選択の目安として、ご自分の活版印刷機のチェース内枠の大きさを、紙に筆記具で型取りしたものを持参ください。

活版凸凹フェスタ*レポート04

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「江川次之進活字行商の図」を拝見してお預かりした。 左:冨澤ミドリさん、右:片塩二朗

《ご退屈でしたか? 活版凸凹フェスタ*03》
もしかすると、4月11日にアップした「活版凸凹フェスタ*03」は、一部の読者さまには退屈だったかもしれません。しかしながら江川次之進と江川活版製造所、その機械「手引き式活版印刷機」と、その活字製造は、今回の《活版凸凹フェスタ1012》の枢要な企画展示となっています。
ご来場いただいて、会場でとまどう
ことができるだけ少ないように、これまであまり紹介されたことのない、江川次之進と江川活版製造所のあらましをご紹介しました。

これまで江川次之進に関しては、ほとんど『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉、津田三省堂、昭和9年11月25日)に紹介をみるばかりで、その余の資料は、ほとんどすべてが三谷幸吉からの引用にとどまっていました。
今般、ご親族からの資料提供をうけ、またさまざまなお話しをうかがうなかから、江川次之進の紹介に際して、どうして三谷幸吉は、その出身地、生年月日をしるしたあと、なぜかおおきく飛んで、にわかに31歳になった江川次之進を紹介したのかがぼんやりとみえてきました。

この時代にはまだ結核という宿痾のやまいもあり「人生50年」とされていました。ですから31歳とは、もはや中年といえ、あらたな職業に就くことは少なかった時代です。その厄介で難解な理由がようやく理解できる手がかりが発見できたようです。
すなわち三谷幸吉の記述の行間に、今回の資料のご提供と、ご親族からの聞き書きによって、わずかに資料を補足することができましたが、まだまだ現地調査や精査が必要な事項がたくさんのこされています。

江川次之進氏[1851-1912]は、福井県坂井郡東十郷村の人、由右衛門氏の次男として、嘉永四年[1851]四月二十五日に生れる。
> > > > > > > > > > > > > > > > > > > >
明治十四年[1881]、三十一歳と云う中年で俄かに志を樹てゝ上京、某医師の書生を勤め、又は横浜に出て、運送店の書記に住込む等、此間容易ならぬ難行苦行を重ねたのである。

すなわち、江川次之進は1851年(嘉永4)、福井県坂井郡河和田村(現福井県坂井市坂井町河和田)の庄屋、江川家の次男として誕生しました。当時の風習で、次男のことですから、家格のつり合いがよい、福井県坂井郡本荘ホンジョウ村藤沢(現福井県坂井市三国町藤沢)の庄屋、旦丘アサオカ家の養子となって、おそらく31歳になって上京するまでは、養家の旦丘アサオカ姓を冒していたものとおもわれます。上京時にはふたたび江川姓をもちいて別家・江川家をたてています。

旦丘家には男子の誕生が少なく、何代にもわたって江川家から養子を迎えたことがあり、また旦丘家の戸主は、代代旦丘治良右衛門アサオカ-ジロウエモンと名乗るのが習慣でした。
その逆に、江川家でも必ずしも男子の誕生にめぐまれず、旦丘家から養子を迎えたこともあったとされます。

旦丘アサオカ家における次之進の妻女の名は現時点の調査では不詳ですが、ここで長男・旦丘督三郎(のちに江川活版製造所朝鮮・京城支店長に就任)、次男・旦丘貫三郎(のちに別家・江川姓となり江川貫三郎。次之進とともに江川姓にもどって上京した。江川活版製造所第二代代表。三谷幸吉は終始この貫三郎をもって長男とし、旦丘督三郎をもって異兄としている)のふたりの男子をあげています。この江川貫三郎につらなるご親族がいまも東京におられて、江川家墓地には香華が絶えません。

『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉、津田三省堂、昭和9年11月25日)の執筆に際して、三谷幸吉は「明治四十五年[1912]二月八日」に逝去した江川次之進との面識はなく、次男江川貫三郎(旧姓・旦丘)からの取材ができたとも考えにくいところがあります。
詳細は江川貫三郎の生没年調査を待ちたいところですが、おそらく当時の江川活版製造所の代表・深町貞治郎からの聞き書きと、三谷独自の関係者からの取材で構成したものとみられます。しかしながら、その記述は比較的精度のたかい取材であったことが、さまざまな記録からあきらかになりました。
また、江川活版製造所は現在は存続しませんが、藤井活版製造所の藤井三太夫にその一部が継承され、そのお孫さんが現在も都内新宿で活字商を営んでいます。

福井の江川家(本家)はいまも存在していますが、そこでは江川次之進は上昇意欲のつよいひとで、福井に逼塞するのに耐えられずに上京したひとだったと伝承されています。
藤沢村(現三国町)の庄屋、旦丘アサオカ家の養子となって、おそらく世襲名の旦丘治良右衛門を名乗っていた「旦丘次之進」は、31歳とき養家を出て別家「江川家」をたてて江川姓にもどりましたが、妻女と長男・督三郎を旦丘家にのこし、次男・貫三郎をともなって上京しました。

このあたりの状況は、矢次ヤツグ家の次男であった矢次富次郎(のちの平野富二)が、吉村家に養子に行き、「故あって養家をでて、とおい先祖の名をとって平野家をたてた」とする記録と共通するものがあって、興味深いものがあります。
また「旦丘次之進」は、長男に「督三郎」とし、次男にも「貫三郎」としていますが、その次第は「変わったひとだった」程度にしか伝わっていないようです。

以上が今回の調査であきらかになりました。また、菩提寺の所在地も判明しましたので、これから、ゆっくり、あわてず、江川次之進と江川活版製造所の事蹟を調査したいと考えています。

また、『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)の主要活字書体は、新鋳造の「江川行書」活字ですが、後半部にみる、
●  改良型手引きハンド印刷機(八ページ、四ページ)製造発売
とある印刷機は、アルビオン型手引き印刷機を指し、その4ページ掛け(およそB4判)の印刷機を、とおくハワイのジェームス・ランフォード氏主宰の印刷工房「Mānoa Press マノア・プレス 」が所蔵しており、《活版凸凹フェスタ1012》に画像出展が実現しました。

ハワイのジェームス・ランフォード氏が主宰するMānoa Press 所有のアルビオン型印刷機の正面図。 上部銘板に鋳込まれた「丸にT」のプリンターズ・マークがみられ、まぎれもなく 江川活版製造所製造の「手引き式ハンド・プレス」です。
江川活版製造所が活版印刷機を製造していたとする記録はポツポツみられますが、実機の存在報告はなく、これがはじめての紹介となります。
《活版凸凹フェスタ2012》にはジェームス・ランフォード氏の絵本、それに本機の画像などが出展されます。



1875年、イギリス/フィギンズ社製造〈アルビオン型手引き印刷機〉

《活版凸凹フェスタ012》には、江川次之進の製造した手引き式活版印刷機と同様なアルビオン型手引き印刷機を搬入し、ご来場者の有志には大型欧文活字を使用して、印刷体験もしていただけます。

 

上図:軸装された「江川次之進活字行商の図」。
下図:「江川次之進活字行商の図」部分拡大。端正な顔立ちの人物であったことがわかります。また、肖像写真とも、とてもよく似た顔立ちで描かれています。背景の右うしろ、暖簾に「たばこ」が「ひら仮名異体字」で描かれてます。三谷幸吉は江川次之進がもっぱらたばこ店に行商にまわったことをしるしていますので、その記述が正鵠を得たものであることがわかります。

『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉、津田三省堂、昭和9年11月25日)より
当時は煙草が民営であったから、其の袋に販売店の住所番地が一々筆書されてある。それを今日のゴム印の様に、活字をスタンプに入れて押すと、頗スコぶる便利だと云うことに気付いて、毎日小さな行李コウリに活字とスタンプを入れて、各店舗を廻ったものである。
それに又質屋を訪問して、質札や帳簿に年号なり家名なりを押すことを勧誘したので、何れも其の便利なのに調法がられて、急に流行の寵児となったのだから、氏の慧眼ケイガンには生き馬の眼を抜くと云う江戸ッ子の活字屋も推服したものだそうな。

一昨年の最初のお便りでは、家伝の資料に「江川次之進の活字行商図」とされているお軸があるのですが、左手に洋傘を握り、右手に床屋のバリカンのような奇妙なものをもっているのですが、これは何なのでしょうか?」というものでした。当時は「活字ホルダー」の名称も、役割も、活版実践者のあいだでもほとんど知られていなかったのが実情です。

《江川次之進活字行商の図の作者に関して》
「江川次之進活字行商の図」の画幅には、「興宗」とみられる署名と落款がありました。書画はまったく専門外ですが、「興宗」とした日本画家は今村興宗(1873-1918)、草彅興宗(1904-1936)のふたりがいて、画風と年齢からいって今村興宗ではないかとおもわれました。
今村興宗、今村紫光の兄弟には研究者もいらっしゃるようです。ご関心があるかたは、しばらく小社がお預かりしていますのでご連絡ください。また神奈川県立図書館のWebsiteにはPDF版で  飯田九一文庫の百人 今村興宗   にきわめてよく似た図版紹介もあります。



冨澤ミドリさんに曾祖父・江川次之進にならって、活字ホルダーを手にして立っていただきました。

昭和8年のおうまれですが、とてもお元気で、姿勢が良く、相当の読書家でいらっしゃいました。

《江川次之進活字行商の図》
2012年04月11日[水]、長野県北安曇郡白馬村みそら野のペンション「ブラン・エ・ヴェール」に冨澤ミドリさんをお訪ねしました。
冨澤さんは明治の有力活字商、江川活版製造所の江川次之進の係累(玄孫・ヤシャゴ)にあたるかたで、「江川次之進肖像写真」、「江川次之進活字行商の図」などの貴重な資料を所有されていらっしゃいました。
ここにいたる次第は「活版凸凹フェスタ*レポート03」にしるしてあります。

 
江川次之進(1851-1912)

江川次之進の画幅は2点存在したようですが、1点はあまりに損傷がひどいので破棄し、もう一点の軸装された「江川次之進活字行商の図」は、あらたに業者に依頼して軸装しなおしたものだとされました。
また江川次之進の肖像写真は、上図右のものがオリジナルとして冨澤家に存在しますが、ご覧のように損傷が激しいものでした。これをご親族にカメラマンがおられ、その方に依頼して丁寧な修整を加え、紙焼き出力とデジタルデーターを保存されていました。

冨澤ミドリさんとは、お手紙のやりとりや、お電話をしばしば頂戴していましたので、はじめてお会いするかたというより、親しいお仲間とのかたらいのような、素晴らしくも貴重なひとときを、白馬村で持つことができました。
またこのペンション特製のロール・ケーキをご馳走になりました。これは絶品! スキーに、森の散策に、北アルプス登山の基地に、ぜひとも「ブラン・エ・ヴェール」のご利用をお勧めします。

雪の白馬村をご紹介する前に、まず東京の爛漫の櫻をご紹介しましょう。バスで3時間ほど、白馬村にはまだまだたくさん残雪がのこるというのに、東京では春うらら、爛漫の櫻です。日本列島、それなりにひろいものだと実感させられました。



昨秋、友人・バッカス松尾さんににいただいた櫻の鉢植えが一輪ほころんでいます。バラ科の櫻には品種がおおく、どんな品種だったのか松尾さんもわすれたそうです。
遠くにみえるのは染井吉野櫻の満開の様子。
「櫻切る莫迦、梅切らぬ莫迦」と俚諺にいうので、こんなに枝を切り刻んだ鉢植えの櫻が咲くのだろうかと半信半疑、疑問におもって見守っていました。うれしいことに4月12日早朝、こんなにあでやかな花をつけてました。
この前日の11日は、東京も白馬村も終日つめたい氷雨がふりそそぐ、とても寒い日でした。

吾が空中庭園は、いま、まさに花盛りで、名も知らぬ草花が絢爛と咲きほこっています。やつがれは雑草という名の草はないとしていますから、水と肥料はやりますが、草抜きはほとんでしません。ですからある意味では吾が空中庭園は雑草園ともいえます。

 《残雪のこる白馬村に、冨澤ミドリさんを訪問》
4月11日[水]、早朝8時半の長距離直行バスで、長野県北安曇郡白馬村まででかけました。東京では櫻開花宣言がなされ、あちこちの櫻が満開を迎えているのに、この日は折悪しく氷雨のようなつめたい雨が降りそそいでいました。

このペンションは、おふたりとも東京うまれの冨澤夫妻が、30年ほど前に、おおきな夢をいだいて白馬村に開設されたものです。
その名「Blanc et Vert ブラン・ェ・ヴェール」は里見弴氏(小説家・文化勲章受章者。「善心悪心」「多情仏心」「極楽とんぼ」など。1888-1983)の命名で、白馬村の真っ白い雪景色と、そこに住むことになった冨澤ミドリさんへのプレゼントとして、フランス語で「Blanc  白」 et, &  「Vert 緑」、すなわち「白と緑」と名づけられています。
またお父上・旦丘俊治郎氏が英文学者だったために、里見弴を慕う関係者や、英文学関係者が、しばしばこの可憐なペンションを利用されているようです。

冨澤ミドリさんは、どちらかというと江川家というより旦丘アサオカ家の係累のかたで、江川次之進(当時は旦丘次之進)を曾祖父とし、その長男・旦丘督三郎を祖父、その長男、旦丘俊治郎(英文学者)を父とされます。
また冨澤ミドリさんの叔父、旦丘政次氏がまた逆に、福井の江川家の養子となっておられます。ですからこの両家の家系略図をつくりますと、少少混乱するほど、江川家・旦丘家は密接な関係にあり、また東京・江川家に係累がすくなく、そんないきさつから、冨澤ミドリさんが貴重な資料を保存されていたことになります。


作家・里見弴による「Blanc et Vert ブラン・ェ・ヴェール」命名由来記。
これも貴重な里見弴の自筆原稿である。

《余談ながら……狩人 あずさ2号のこと》
今回の白馬村行きは、往きは長距離バスであったが、戻りのバスが夕方4時台しかないということで、それでは白馬村での滞在時間があまりに短すぎるので電車でもどることになった。18:05発、JR大糸線白馬駅から信濃大町へ、そこで松本行きに乗りついて新宿にもどることにした。
冨澤ミドリさんと名残惜しいままお別れして、タクシーを呼んだ。車中ドライバーに、
「電車でお帰りですか? この便だと、松本から  8時ちょうどのあずさに  なりますね」
といわれた。おもわず狩人の「あずさ2号」(作詞:竜真智子、作曲:戸倉俊一)のせつない歌詞と、メロディーをおもいだした。

♫ さよならは いつまでたっても
とても言えそうにありません
……
8時ちょうどの あずさ2号で
私は 私は あなたから旅立ちます。♫

松本駅から、本当に8時ちょうどのあずさに乗った。すでに2号ではなく「スーパーあずさ36号」であった。車中は平日のこととて空いていた。やつがれ情緒に耽るいとまもなく爆睡におちいった。

活版凸凹フェスタ*レポート03

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直系子孫により発掘された
江川活版製造所:江川次之進関連資料

本項はタイポグラフィ・ブログロール《花筏》
タイポグラフィ あのねのね*008(2011年04月08日)に加筆・修整したものである。 
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《きっかけは活字ホルダーの紹介からはじまった》
朗文堂とアダナ・プレス倶楽部のWebsiteでは、数度にわたって《活字ホルダー》を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。
その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている《活字ホルダー》の図版を紹介し、その名称と使用法は広く知られるようになった。
またアダナ・プレス倶楽部では、故・志茂太郎氏の遺品から《活字ホルダー》を復元して、あらたな活版ユーザーに向けて製造販売にあたっている人気アイテムのひとつである。


『VIVA!! カッパン♥ 』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月21日 P.64)
に紹介された「活字ホルダー」

《ご先祖様の遺影と肖像画があるのですが……》
ある日、アダナ・プレス倶楽部のWebsiteをご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。どういう情景を描いたものかが分からなかったのですが、これが[活字ホルダー]なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたという、わが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、先日、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいたのでご紹介しよう。


江川次之進(1851-1912)

《新紹介資料/江川次之進 活字行商の肖像画》 

軸装された江川次之進の活字行商時代の肖像画。

肖像画の部分拡大。当時としてはハイカラな洋傘を左手に、右手には活字ホルダーを握りしめている。重い活字を背負っているせいか、小腰をかがめているが、晩年の江川次之進の肖像写真とにた、端正な顔立ちである。

《圧倒的に資料不足な、江川次之進と江川活版製造所の業績》
「江川行書活字」「江川隷書活字」と、活版印刷関連機器の開発でしられる江川活版製造所は、いっときは東京築地活版製造所、秀英舎に次ぐ、業界第3位の売上げを誇った活字鋳造所とされる。
そうした歴史のある江川次之進と江川活版製造所であるが、その業績をかたる資料や活字見本帳のたぐいは極めて少ない。人物伝としては、わずかに三谷幸吉の『本邦開拓者の苦心』にその紹介をみる程度である。
すこし読みにくい文章だが、これをお読みいただくと、「活字行商」からはじめ、「江川活版製造所」を日本有数の活字鋳造所に発展させた、江川次之進の背景がおわかりいただけるはずである。これは句読点を整える程度の修整をして、全文を後半で紹介したい。

また印刷関連の業界誌では、明治24年(1875)『印刷雑誌』に、江川活版製造所ご自慢の新書体「江川行書」による1ページ広告が3号連続で掲載されている。
また、江川家一族が経営権を深町貞次郎に譲渡したのち、昭和13年[1938]『日本印刷大観』の差し込み広告として、これも1ページ大の広告が掲載されている。こちらの社長名は深町貞次郎になっている。

この深町貞次郎時代の江川活版製造所が、いつ廃業したかの資料は目下の所見あたらない。いずれにしても深町貞次郎の晩年か、逝去ののち、良き後継者の無いまま、戦前のある時点において廃業を迎え、戸田活版製造所、藤井活版製造所、辻活版製造所などに継承されたものとみられる。
ただし、江川活版製造所仙台支店は、やはりそのころに分離・独立したものとみられるが、同社は「江川活字製造所」として2003年-5年ころまで、仙台市内(仙台市青葉区一番町1-15-7)で営業を継続しており、東北方面一円への活字供給にあたっていた。


『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)
主要書体は、新鋳造の「江川行書」活字である。

『日本印刷大観』(東京印刷同業組合 昭和13年8月20日)差し込み広告。
社長名は深町貞次郎になっている。
事業内容は平凡で、なんら特色のないものになっている。

さて、肖像画において、江川次之進が右手に持っている《活字ホルダー》であるが、わが国でも相当古くから製造販売されていたとおもわれる。
『活字と機械』(東京築地活版製造所 大正3年6月)の扉ページ「印刷機械及器具」の、外周イラストの下右隅に、あきらかに《活字ホルダー》が存在している。
江川次之進はこうした簡便な器具と、重い活字を携行して、煙草屋や質店などに活字販売をして資金を蓄積し、本格的な活字鋳造所を起業したことになる。
三谷幸吉が『開拓者の苦心 本邦 活版 』にのこした伝承が、今回の肖像画の発掘によって証明されたことになった。  

       
「印刷機械及器具」『活字と機械』扉ページ。右下隅に《活字ホルダー》が紹介されている。
ここにみるイラスト図版の器具類は、ほとんど現在も使われている。(右図は部分拡大図)

★    ★    ★

行書体活字の創製者 江川次之進氏
―敏捷奇抜の商才で成功す―

『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日)
p.173-180 より全文紹介。
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江川次之進氏[1851-1912]は、福井県坂井郡東十郷村の人、由右衛門氏の次男として、嘉永四年[1851]四月二十五日に生れる。

明治十四年[1881]、三十一歳と云う中年で俄かに志を樹てゝ上京、某医師の書生を勤め、又は横浜に出て、運送店の書記に住込む等、此間容易ならぬ難行苦行を重ねたのである。

一日碇泊の汽船に乗組んで作業中、過って船底に墜落して既に一命を抛ナゲウったかと思ったが、幸いにして命拾いをしたので、再び上京、古帽子の色揚げなどで其日を糊して、眞ん底から憂き世の辛酸を嘗めつくしていた。然るに其頃、[銀座]文昌堂におった山口定雄氏の奨めによって、活字の販売に従事することゝなったが、店舗を開く迄の資金が無かったので、活字行商と云う珍思考を案出したのである。氏がこれに着眼した動機が如何にも面白い。

当時は煙草が民営であったから、其の袋に販売店の住所番地が一々筆書されてある。それを今日のゴム印の様に、活字をスタンプに入れて押すと、頗スコぶる便利だと云うことに気付いて、毎日小さな行李コウリに活字とスタンプを入れて、各店舗を廻ったものである。
それに又質屋を訪問して、質札や帳簿に年号なり家名なりを押すことを勧誘したので、何れも其の便利なのに調法がられて、急に流行の寵児となったのだから、氏の慧眼ケイガンには生き馬の眼を抜くと云う江戸ッ子の活字屋も推服したものだそうな。

此時氏の受売りをした活字は、築地活版所と印刷局と文昌堂[東京築地活版製造所・昭和13年廃業、印刷局・現独立行政法人国立印刷局、文昌堂・銀座に旧在した活字商]の三ヶ所の製品であった。

斯カくて一年足らずの間に意外に儲け出して、相当の資本も出来た。従って印刷局や築地活版所も、氏を信用すると云う極めて良い條件に恵まれたので、在来の行商式を廃し、両国広小路、上野広小路、浅草広小路、新橋附近などの、人通りの多く、且つ交通便利な場所へ、さゝやかながら店舗を張ることにした。
当時既に欧米の文化が急速度に消化され、印刷物の需要が多々益々増大されたので、活版所も勿論これに伴って続設、濫設されて、活字の供給迅速を要求することになった。そこで勢い買入れに便利な活字屋へ顧客が集中したのだから、江川氏の策戦は見事にあたって、店勢日に日に旺盛を極むるにいたったのである。

而して動ヤヤともすれば、印刷局なり、築地活版なりの受け売りだけでは、間に合わぬ場合が生じたり、其他何かと不便を感じたので、将来身を活字販売に委ねる以上、寧ムシろ自家鋳造[活字母型を購入し、自社内で活字鋳造をする]を断行するに如かずと決意することゝなった。

其頃の印刷局の活字は大きさも高さも不統一であったから、大きいのは一々鑢ヤスリで削り、高いのは尻を鉋カンナで削って、築地製品に合わせて販売すると云う、中々面倒な手数が掛かったとのことである。
これは築地製は明治十四年[1881]米国から買入れたカスチング[ブルース型手廻し活字鋳造機]で機械的に造ったから、規格が揃っていたのに反し、印刷局製は手鋳込み[手鋳込み式ハンドモールドのこと。ただし東京築地活版製造所と印刷局は創立以来ポンプ式ハンドモールドをもちいたとみられる。またブルース型手廻し式活字鋳造機を東京築地活版製造所が先行して1台は輸入した記録はあるが、本格導入は、両社とも大川光次らによる国産機の開発を待った。その導入はほぼ同時期とされる]で造った関係からではないかと云われている。

明治十六年[1883]、総べての準備が整ったので、愈々イヨイヨ活字の自家製造を開始すべく、日本橋区境町四番地に江川活版製造所を創設したのである。工場主任として母型師字母駒ボケイシ-ジボ-コマ(有名な字母吉ジボ-キチの弟)を招聘ショウヘイし、これに当時東京印刷関係職工中の最高級の五拾銭を支給したと云うから、江川氏の意図が奈辺にあったかゞ判るではないか。
其頃はアリ(ガラハニーの這入るボテの凹部)切り[電鋳法による活字母型をマテ材に嵌入させる凹部をつくる器具]もなく、皆鑢ヤスリで削り、十本宛仕上げしたとのことである。

明治十八年[1885]、弘道軒で楷書活字を販売[神崎正誼創設の弘道軒活版製造所。清朝活字の開発で著名]しているのに対抗して、行書活字の創製に着手したが、さてこれが完成する迄の苦慮は狭隘キョウアイの紙面では記述し尽せぬものがある。
当初書体の下書を中村正直[洋学者・教育家。号して敬宇。1866年幕命により渡英。明六社を組織して啓蒙思想の普及に努力。東大教授・貴族院議員。訳書『西国立志篇』『自由之理』など。1832-91]先生に依嘱して種字を造ったが、書体が細いのやら、太いのやら、丸いのやら角なのやらが出来て、使用に堪えぬので、遂に中止してしまった。

これが為に多大の損害を蒙むったとのことである。而かも行書体の種字は筆法が太いために、黄楊ツゲに彫っては木目が出て面白くないところから、鉛の彫口を微かい砥石で砥ぎ、それに種字を彫付けてガラハニーとした[いわゆる地金彫り。活字地金などの柔らかい金属に、種字を直刻して種字として、電鋳法により活字母型をつくった]と云うから、其苦心の並々でなかった一端を知ることが出来よう。

翌十九年[1886]、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏[久長其頴ヒサナガ-キエイ 書家 詳細不詳 乞う情報提供]に、改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝わっている様な行書々体が出現することゝなったのである。

斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年[1881]秋頃から、「江川の行書」として市販し出したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年[1892 ]十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。

然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ、前途益々有望であることを観取した一派は、窃ヒソカにこれが複刻[いわゆる種字盗り。活字そのものを種字代わりとして、電鋳法によって活字母型を複製して活字鋳造をした]を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となして遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。
即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

これより前、明治二十二年[1889]に横浜伊勢崎町で、四海辰三外二名のものをして活字販売店を開かしめ、同二十四年[1891]、大阪本町二丁目にも、淺岡光をして活字販売店を開設せしめ、地方進出に多大の関心を持つことゝなった。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。商売に放胆な江川氏は、売行の如何を考うるまでもなくこれを快諾したそうである。

同二十六年[1893]、長男貫三郎氏の異兄をして福井県三国町に支店を開かしめ、続いて廿七年[1894]山田朝太郎氏に仙台支店を開設せしめた[江川活版製造所仙台支店は江川活字製造所と改組・改称されて、仙台市青葉区一番町1-15-7で2003-5年頃まで営業を持続して、東北地区一円の需要を担った]。


東京築地活版製造所が製造した「乙菊判四頁掛け足踏み印刷機械」≒B3寸伸び。
江川次之進が製造した活版印刷機も、これに類似したものだったとおもわれる。
『活字と機械』(東京築地活版製造所 大正3年6月)

PS:掲載後に読者より江川活版製造所による印刷機の写真画像提供を受けた。続編に紹介したい。

尚二十九年[1896]には、隷書活字の創製所たる佐柄木町の文昌堂(元印書局の鋳造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年[1880]に設立したもの)を買収したる外、松山氏に勇文堂、柴田氏に勇寿堂を開店せしむる等、巨弾又巨弾を放って販路の拡大に努力する有様、他の同業者の心胆を寒からしめた由である。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

此頃は江川活版製造所の全盛時代で、すること為すこと成功せざるはなしと云う盛運を負っていたのである。然しながら月満つれば欠くの譬タトエの通り、同氏の才気に誤算を生ずるようになってからは、事、志と異う場面が逐次展開されて来た。

明治四十年[1907]この数年以前から、東京の新聞社は、活字を小さくして記事を多く詰める傾向となり、「萬朝報ヨロズ-チョウホウ」の如きは、秀英舎に註文して、既に三十七年二月[1904]から、五号横二分四分の活字(平型)[いわゆる扁平活字]を使用して好評を博したので、氏も亦五号竪二分四分活字[いわゆる江川長体明朝活字]を創製するにいたった。

然し此活字は一般の趣向に合致しなかったものか売行が思わしくなく、加うるに二三の地方新聞に納入した代金が回収不能となったので、断然製造を中止することになった。[江川長体明朝は、国内での販売がおもわしくなく、都活字などの手を経て、当時邦人が進出していたハワイやサンフランシスコの邦字紙などで主にもちいられたとされる。『開拓者の苦心 本邦 活版 』津田伊三郎の章にその記録がのこる。また、後年津田伊三郎はあらたに長体明朝の開発をおこなっている]。斯くして此年、営業権を長男貫三郎氏に譲り、悠々自適の境遇に入ったのである。

明治四十二年[1909]、創立当時より在店する某が、隠居江川氏に向い、時の支那公使李慶均の証明書を提出し、当時茗荷谷ミョウガ-ダニにあった支那人経営の新荘街と云う印刷所を弐拾万円の株式会社に組織変更するに就き、運動費の提供を求めた。依って十二月二十八日に壱万円、翌年二月に壱万五千円、同四月に壱万円、五月末に壱万円都合半年間に四万五千円を出資したが、其後有耶無耶になってしまったので、これらが原因となり営業上に一大支障を生ずることゝなった。そこで親族会議の結果、江川の家名を穢したくないとの理由で、江川活版製造所閉鎖の議が出たが、結局親族宇野三郎氏、加藤喜三郎氏等が経営の任にあたった。然しこうなっては、隠居の恩顧に預った人達も、何んとなく腰が落ち着かず、心平らでないまゝに、誰れ彼れとなくこゝを却シリぞいて、各々自活の道を講ずることになったから、折角の復興策も思うように行かなかった。

ところが、多年扶殖した努力と信用の惰力により、兎に角江川の名は引続き業界に喧伝されていたのである。尤もこれには明治二十六年(九歳)から奉公している甲州出身の深町貞次郎氏が、温厚実直で且つ経営の才があったから、先輩の退散にも滅げず、江川をこゝまで頑張らしめて来たのである。茲ココに於いてか、大正十一年[1922]、親戚一統協議の結果、江川当主を差しおいて、深町氏に一切の営業権を譲渡し、氏をして自由に商才をふるわしむるにいたった。

それはさておき、隠居次之進氏は、明治四十五年[1912]二月八日、淀橋拍木[新宿駅西口近く]で、六十二歳を一期として黄泉の客と化せられたのである。

法名 繹乗誓信士

── 挿  話 ──

足踏ロールを東京で初めて販売した人は江川氏であるそうな。当時四六判四頁が一台百六拾円であったが、取扱った当初は不振で殆んど売れなかった。
然るに、其後二、三年経過してからは、トントン拍子に売れたのだから、そうなると中島氏が高くとまって註文品を送って来ないと云う始末。尤 も其頃中島では発動機に手を出し、其方に資金が膠着したらしいので、江川氏は屡々シバシバ前金を渡して製品を急がせたことがあったそうな。

而して中島氏の曰くには「印刷機械は十貫目拾五円にしかならないが、発動機の方は十貫目四拾五円だから三倍になるからネ」と意味深長な言葉を洩らした由である。これに依って見ると、印刷機械が他の機械に比して廉価であることは、昔からの伝統とも見えるのである。

江川次之進氏は組合役員や其他の名誉職を各方面から持ち込まれたが、無口の方であった為か、一切顔を出さなかった。宗教には深い関心を持ち、本願寺へは毎年千五百円宛寄附され、同寺では中々良い顔立をしていられたとのことである。

現在の江川活版製造所は深町氏によって隆運を続けている。又、戸田活版製造所、藤井活版製造所、辻活版製造所等は何づれも江川の出身である。

活版凸凹フェスタ*レポート02

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《活版印刷の車の両輪、活版印刷機械製造と活字製造》
活版印刷の中核は、なんといっても活版印刷機と活字です。小型活字版印刷機 Adana-21J を製造・販売しているアダナ・プレス倶楽部では、つねに、もっとも心強いパートナーとして、活字鋳造所の存在をおもくみています。
うれしいことに《活版凸凹フェスタ012》では、活字鋳造所として、これまでの2社に加えて、あたらしい有力活字鋳造者2社をお迎えすることができました。

◎ 有限会社佐々木活字店
1917年(大正6)創業の 佐々木活字 さんは、東京都心部、新宿区榎町75に本社工場を構えています。佐々木社長、塚田さんの、ベテラン・コンビによる、該博な知識と、悠揚迫らぬ円熟したご対応は、活版実践者の皆さんはよくご存知ですし、活版初心者からもおおきな信頼をあつめています。
また、こころ強いことに、近年佐々木社長のご子息が、次世代の佐々木活字店の継承にむけて入社されました。現在はまず Facebook を開設され、デジタル通信環境も急速に整備されています。

佐々木活字店の活字鋳造機の一部。『VIVA♥!! カッパン』の撮影にもご協力いただきました。
左:トムソン型全自動活字鋳造機、右:ブルース型手回し式活字鋳造機

以下3点の写真は、同社FACE BOOK より。

佐々木活字店の前身、佐々木活版製造所は、日清印刷(現在の大日本印刷榎町工場)鋳造部の責任者であった佐々木巳之八氏が、1917年(大正6)に独立して設立されました。
いまや活字販売店は都内でも数えるほどとなりましたが、佐々木活字店では、活字鋳造・販売はもとより、植字(組版)から印刷・製本にまでいたる、活版印刷の全工程をおこなっている、貴重な存在の企業です。
佐々木活字店さんとアダナ・プレス倶楽部とは、おつきあいがながく、初回の《活版凸凹フェスタ》から出展をお願いしてきましたが、今回ようやくご参加が実現しました。

◎ 日星鋳字行+台湾活版印刷文化保存協会(台湾)
台湾で唯一の活字鋳造所であり、活字販売店が日星鋳字行ニッセイ-チュウジ-コウさんです。「鋳字」は活字鋳造で、「行」はお店の意です。すなわち日本風にいいますと「日星活字鋳造店」ということになります。
日本との違いは、台湾ではいつのころからか、活字店が活字鋳造だけでなく、文選・植字までの作業をおこない、まだ10数軒あるという活字版印刷所では、印刷・製本作業担当と役割分担が分かれています。

すなわち、これが本来の活字版製造所、略して活版製造所だということになります。わが国では「活字鋳造」と、それを文選・植字(組版)してつくりあげる「活字版製造」が早期から分離し、また「活字版」を「カッパン」と略称してきましたので「活版製造所」と「活字鋳造所」の文意、相違がわかりにくくなっています。

すなわち台湾では、明治最初期のわが国の「活版製造所」と同様のワークフローがのこっていると考えたほうが、適切かつわかりやすいかもしれません。
あるいはカッパン印刷に不馴れなかたは、オフセット平版印刷における、印刷版の元・版下をつくる版下業者と、印刷版をつくる写真製版所と、ロール印刷所の役割分担にちかいワークフローができているとお考えになると、わかりやすいかもしれません。

同社Websiteより:左は鉛字(活字)・右は銅模(電鋳法活字母型)

日星鋳字行の存在は、数年前にタイポグラフィ学会会員・林昆範(台湾在住)さんからご報告があり、一部では良く知られた存在でした。その後雑誌での報道などもあって、多くの日本の活版愛好家の皆さんが同社を訪問されているようです。
同社には併設して 台湾活版印刷文化保存協会 がおかれています。

台湾活版印刷文化保存協会は、台湾の活版印刷産業を保存するための民間団体です。新しいアイデアを次次と提案し、活版印刷文化に新たな生命力を注入し、将来目標として「台湾活版印刷工芸館」の設立を目指しています。

当面は、電鋳法(電胎法)による繁字体(わが国の旧漢字に近い)の、ふるい活字母型の損傷の修復と、一部台湾政府の援助をうけて、活版印刷関連機器と関連資料の収集に注力されています。
現在の日星鋳字行さんの活字母型製造技術は、いわゆるベントン彫刻法によるものではなく、コンピュータ3Dソフトを駆使した斬新な手法によっています。日本と台湾、とても近くて親しい間柄です。多くの皆さんとの交流をもとめてご参加されました。

◎ 株式会社築地活字 平工希一さん
築地活字は1919 (大正 8)年の創業から、まもなく 90 周年を迎える老舗活字鋳造所が、横浜の 築地活字 さんです。アダナ・プレス倶楽部とも創設以来親しくおつきあいいただき、《活版凸凹フェスタ》には初回からのご参加をいただいています。

築地活字さんの90年余の歴史の間には、関東大震災による罹災があり、太平洋戦争の空爆による被害も甚大なものがありました。そのほかにも、活字鋳造と活版印刷には、いうにいえない栄枯盛衰のときがありました。それでも平工希一さんを陣頭に、家業としての活字鋳造と印刷材料販売を粘り強く展開されています。

築地活字には豊富な活字書体と、各種のサイズがあり、その見本帳も充実しています。また今回は、企画商品「新 活字ホルダー」も展示されます。

◎ 株式会社中村活字/中村明久さん
京橋区木挽町1丁目に1910年(明治43)に創業され、すでに100年余のながい歴史を刻んできた活字鋳造所が 中村活字 さんです。代表の中村明久さんは、あかるく屈託のないお人柄で、多くの若者に取りかこまれていると嬉しいそうです。
「最近、活版印刷の仕事が忙しすぎて、若いひととゆっくりはなしができなくて、つまらない」
とも語られます。よいお人柄です。

今回は銀座夏祭りの役員としてご多忙のため、差し入れはしてくださるようですが!? 「活版工房」の一員としてのご参加です。
同様に真映社さんも神田祭りの役員で、こちらは兄弟で役割分担を。ご長兄が夏祭り担当、ジョームが活版祭り《活版凸凹フェスタ》のご担当となりました。
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あす4月11日[水]に、急遽長野県松本市のちかく、白馬村までバスで日帰り往復することになりました。今回の企画展示の資料譲渡をうけるためです。
したがって、この《花筏》の更新は、あすはおそらく不可能かとおもわれます。
その間の時間を利用して、《活版凸凹フェスタ2012》の企画展示と密接に関係する、江川活版製造所、江川次之進、江川行書、江川隷書、活字ホルダー、深町貞一郎などのキーワードにご興味がおありのかたは、次ページにふるい資料に補筆したものをアップしました、お時間が許せばご覧いただきたいとぞんじます。

花こよみ 017

花こよみ 017 

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

おぼろ  月  夜

  菜の花畠に 入日薄れ
  見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば、
  夕月かかりて、にほひ淡し


  里わの火影ホカゲも 森の色も
  田中の小路を たどる人も
  蛙カワズのなくねも かねの音も
  さながら霞める 朧月夜

蛇  足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
小学唱歌『朧月夜 オボロ-ヅキヨ』 
作詞:高野 辰之 (明治9年4月13日-昭和22年1月25日)
昭和8年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』
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高野辰之さんのこと [  高野辰之記念館  ]
高野辰之さんの生家は長野県下水内郡豊田村であった。やつがれの生家は、豊田村から秋津村をはさんで、もうひとつ千曲川にそった下流、新潟県との県境につらなる下水内郡飯山町  →  飯山市である。
高野さんは長野師範学校(現信州大学教育学部)卒、飯山町で教員生活をしたのち、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授となり、在京時代は代々木駅前に居住していた。その東京での旧居は3年ほど前まで保存されていた。
老境にいたり、郷里にちかい長野県上高井郡野沢温泉村の「温泉旅館住吉屋」の離れに移住して、ここでご夫妻とも逝去した。

高野辰之さんと、やつがれの母方の祖父はよほど昵懇だったらしい。またオヤジの郷里も野沢温泉村である。だからしばしば父母に連れられて高野家を訪問した。昨年逝ったアニキは、高野さんに抱かれたことを覚えており、その写真も実家にある。やつがれも抱かれたらしいが、乳児のころとて記憶にない。むしろ「温泉のおばあちゃん」と呼んでいた高野未亡人に、おおきな温泉風呂にいれてもらったり、氷水やマクワウリをご馳走になったことをわずかに覚えているくらいである。

猪瀬直樹『唱歌誕生  ふるさとを創った男』(小学館、2008年8月)がある。主人公は高野辰之さんと、真宗寺先先代住職井上某氏。浄土真宗西本願寺派・真宗寺の元住職は、明治の頃、ここ草深い信州から旅だって「大谷探検隊」の一員として、敦煌莫高窟の調査にあたった奇特なひとである。この真宗寺はふるく、飯山女学校(現飯山南高等学校)の教師時代に、島崎藤村が下宿として住んだ寺であり、ここにやつがれのオヤジとアニキも眠っている。

『おぼろ月夜 ♫ 菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし~』
『故郷フルサト ♫ 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川~』
『春の小川 ♫ 春の小川は さらさら流る 岸のすみれやれんげの花に~』
『春が来た ♫ 春が来た 春が来た どこにきた~』
『紅葉モミジ ♫ 秋の夕陽に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数あるなかに~』
以上の小学唱歌の作詞は、すべて高野辰之さんである。

猪瀬直樹氏(実は お~獅子シッシ と呼ばれていた一級後輩)はしるす……。
「ほとんどの日本人は、ふるさとというと、たくまずして、山があり、川が流れ、雪がシンシンと降りつもる、ここ北信州・信濃の飯山周辺の情景をおもう。それは小学唱歌で刷りこまれた幼児時代の記憶であり、その作詞家・高野辰之の心象描写による」と。
お~獅子、エライ!

ところで、北アルプスに源流を発する梓川と、南アルプスに源流を発する千曲川は、長野市のあたりで合流して正式には信濃川となる。上流からみて、その左岸はふるくから上水内カミミノチ郡、下水内シモミノチ郡、右岸は上高井カミタカイ郡、下高井シモタカイ郡と呼ばれてきた。信濃川をはさんだだけというのに、これらの各郡はともに競合し、ライバル視する仲であった。

高野辰之さんの郷里とやつがれの郷里は、道路が整備されたいま、車なら15分ほどであり、実家の片塩医院の通院・往診範囲であり、ともに下水内郡にあった。ところがなんと、豊田村は2005年4月1日、いわゆる平成の大合併で、川向こうの旧下高井郡信州中野市と合併した。
したがって、かつて飯山市が中心となって設立した  高野辰之記念館 は、信州中野市の施設となっている。 

豊田村の合併にやぶれた飯山市は逆襲にでて、やはり川向こうの、下高井郡野沢温泉村を合併しようとしたが、住民投票の結果合併は拒否され、勇気ある孤立のみちを野沢温泉村は選んだ。すなわちわがふる里・飯山市は、豊田村を川向こうの中野市にうばわれ、仕返しとばかり、川向こうの野沢温泉村に合併をしかけて袖にされた。豪雪の地、過疎の町・飯山は、あまりにあわれである。

オヤジが元気なころ、盆暮れには子供を引きつれてそんな飯山に帰省していた。オヤジが去って、アニキの代になると、次第に足が遠のいた。まして昨年アニキが逝くと、ひとがいいとはいえ、兄嫁さんと甥・姪の家では、もうふる里とはいいがたい。
てまえ自慢と同様に、いなか自慢はみっともないとされる。
されど、故郷  忘じがたくそうろう!

活版凸凹フェスタ*レポート01

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本情報のオフィシャルサイトは アダナ・プレス倶楽部ニュース です。
ここ、タイポグラフィ・ブログロール《花筏》では、肩の力をぬいて、
タイポグラフィのおもしろさ、ダイナミズムなどを綴れたらとおもいます。
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《さぁ、活版凸凹フェスタ2012準備の開始》
ことしの冬は、ことのほか寒さがきびしく、雪国からは大量積雪のたよりがしばしば寄せられていました。そんななか、年明け早早から《活版凸凹フェスタ2012》の準備がはじまりました。
《活版凸凹フェスタ》は活字版印刷術(以下カッパン、活版とも)にまつわるさまざまを集めた、楽しいお祭りです。

活字をもちいて印刷をおこなう「活字版印刷術 Typographic Printing」と、各種の凸版類をもちいて印刷をおこなう「凸版印刷 Letterpress Printing」を中心に、凸版・凹版・平版・孔版といった、さまざまな印刷版式の紹介と、版画や製本といった関連技術も含めた作品と、製品を展示し、一部は販売もおこないます。

《五月の連休は活版三昧ザンマイ》をスローガンとして開催された《活版凸凹フェスタ》は、2008-9年に四谷・ランプ坂ギャラリーを会場として開催し、2010年には上野・日展会館に会場を移して開催されました。昨2011年は東日本大震災のために、申込者の集計もおわっていた段階で、被災地の皆さまと、出展者のお気持ちに配慮して、残念ながら中止といたしましたが、ようやく満を持してふたたび日展会館で再開の運びとなりました。

2012年2月16日、アダナ・プレス倶楽部のニュースに《活版凸凹フェスタ2012 出展者募集》が告知されました。お申込みの締め切りは2月29日。
このころはまだ東日本大震災から一年を経過していなくて、震災被害の爪痕がおおきく、景気は足踏み状態でした。また昨年の中止のあとだけに、どれだけの皆さんがご出展されるか不安がありました。ところが嬉しいことに、初回の2008年から参加されている皆さんを中心に、あたらしいメンバーからもたくさんのお申込みをいただきました。

3月の初旬から、広報・告知態勢が話しあわれました。活版印刷の祭典として位置づけられる《活版凸凹フェスタ》では、従来どおり紙媒体を中心に訴求し、それに加えて、あたらしいメディアも有効に活用することを確認し、デザインの確定、印刷用紙の手配、印刷担当企業との交渉と、作業は徐徐に進行しました。

《活版印刷なら任しとけ! 強力メンバー、そろい踏み》
なにぶん、活版印刷の祭典ですから、紙情報による広報態勢に困惑するわけはありません。すべてがお仲間、出展者との話し合いで円滑に進むはずでした。あくまで予定では、です……。
つまり、やはり、例年どおり、いよいよ《活版凸凹フェスタ2012》協奏曲(狂想曲?狂夢曲?)のはじまり、はじまり~、となっただけのことでした。

  ・アートディレクター   松尾篤史さん(バッカス松尾)
  ・印刷用紙提供     アワガミファクトリー/中島茂之さん
  ・ポスター印刷協力   弘陽/三木弘志さん
  ・はがき印刷協力    大伸/大澤伸明さん(若旦那)
  ・写真製版協力     真映社/角田光正さん(ジョーム)
  ・ムササビ・ベイシズ  日吉洋人・玉井一平   
  ・広報(後方)支援    朗文堂/鈴木 孝・片塩二朗(やつがれ)
  ・コンダクター       アダナ・プレス倶楽部/大石 薫

《アートディレクター/松尾篤史さんのこと》
アダナ・プレス倶楽部創設のときから、アートディレクションを松尾篤史さんにお願いしています。図書『VIVA♥!! カッパン』(大石薫、朗文堂)も松尾さんのディレクションによるものです。
かつての松尾さんは、クリエーターズ・ネームとして「バッカス松尾」(ともに酒の神とされる)を名乗るほどの酒豪でした。ですから、飲み屋の階段からころがり落ち、高額の壺を割って弁償させらりたり(ついでに怪我もしたが、たれも同情せず)、バイク(自転車)でフラフラ走って生け垣に突っこんで、これも高額な愛車を駄目にした(このときも顔中アザだらけ、仝前)こともありました。
気の毒なことに、アダナ・プレス倶楽部の会員は、壺やバイクといったモノの被害には、
「ワァー、たいへんだぁ。それっていくらかかったの」
と心配しても、バッカス松尾の怪我や躰のことは、またか! と洟にもかけません。独身時代の酒席での失敗談には事欠きません。

こんなこともありました。和民ワタミでかなり盛りあがって帰ろうとしたとき、バイクの脇でなにやらゴソゴソ、モゾモゾ。
「カラシロさ~ん、ヘボ、いや~、ヒボナッチは~、いくつーでしたっ  ケ?」
「いくつったって、黄金律のことだろう」(こっちは しらふ)
「そうじゃなく~って、カ~ズ、カズですよ~」
「ヒトヨ-ヒトヨニ-ヒトミゴロか、1.618のどっちかだろぅ」(こっちも いいかげん)
「そうれす、1618でした~」
こうしてバッカス松尾は、バイクをガードレールにつないでいたワイヤーのロック(キーナンバー/1618 すでに廃車)を外して、フラ~リ、フラッフララと帰っていったのでした。

このように松尾さんの独身時代の酒席での失敗談をあげればきりがありません。ところが前回の《活版凸凹フェスタ2010》の直後、福島由美子さんと結婚され、アダナ・プレス倶楽部では 松尾夫妻の結婚を祝う会 を開催しておふたりを祝福しました。そしていまでは由美子夫人の管理よろしきをへて、毎日愛妻弁当持参で出社され、お酒も煙草もほどほど──というところです。  

閑話休題トコロデ、本談にもどって……、 松尾篤史さんは、日ごろは知的でスタティックなデザインを展開されています。ところがアダナ・プレス倶楽部では、
「なにがスタティック(静的)よ。う~んと大胆に、もっともっとダイナミック(動的)にやって欲しい」
という、コンダクター/オーイシが待ち構えています。それでもそこはプロフェッショナル松尾。一見やんわりオーイシの意見を取りいれ、ダイナミックにみせながらも、実はきわめて周到な、こだわりの強いデザインを展開しています。

すなわちA3判レタープレス、オモテ1色/ウラ2色のポスター《活版凸凹フェスタ2012》においても、裏面紅赤色の、色ベタ内枠の天地は「わが国の活字の原器 504pt. の2倍 」、すなわち1,008pt. になっています。
当然内枠の左右は、1,008pt. から導きだされたルート比をもちいていますので、A3判という、ルート比例にもとづいたこのポスターサイズのなかで、内枠の色ベタは、とても座りがよい感じにみえてきます。このようなみえない仕掛けが随所にこらされているのが、松尾デザインの特徴です。

このタイポグラフィ・ブログロール《花筏》をよく閲覧いただいている読者ならご存知のように、わが国の活字の最小公倍数は504pt. である……、という紹介が年末年始にあって、ちいさな世界の、おおきな話題となりました。その報告は タイポグラフィあのねのね*019 【活字の原器と活字のステッキ 活字の最小公倍数504pt. とは】で、つい先ごろ本欄でなされました。

こうした金属活字の最小公倍数を駆使し、そのグリッド(格子)から導きだされた数値は、現代のDTP組版においても多いに有効なものだということが、この報告以後、各方面で急速に、追試・実証・実用されています。
この《活版凸凹フェスタ2012》ポスターは、504pt. の倍角=1,008pt. においても、デザイン・メソッドとしてきわめて有効な数値であることを、巧まずして実際のポスターとして証明しています。

《アワガミファクトリー/中島茂之さんのこと》
出展者の確定と、デザインラフ案の完成をまって、3月6日  アワガミファクトリー  の中島茂之さんと打ち合わせ。A3判ポスター用紙小数500枚+予備紙、A5判はがき用紙小数5,000枚+予備紙のご提供をお願いしました。

中島さんは体育系大学のご出身で、快活なご性格と、フットワークの良さが身上です。
申込みを快諾していただき、はがき用紙はアワガミファクトリー積極展開中の、竹の繊維を素材とした「竹和紙」にすんなり決定。
あわせてアワガミファクトリーが、活版印刷適性を検証するためと、販売促進をかねた、はがき大の作品提供の依頼を受けました。
これは直前で中止となった《活版凸凹フェスタ2011》で予定されていたプロジェクトでしたから、樹脂凸版によるレター・プレスを条件に、アダナ・プレス倶楽部会員、亀井純子さん、玉井玉文堂さん、成田長男さん、バッカス松尾さん、春田ゆかりさん、横島大地さんに製作担当をお願いしました。

活版印刷 弘陽さんの愛用機、菊四裁判(A3伸び)手差し活版印刷機 

ここまではなんの問題もなかったのです。本当に。ここから協議は次第に妙な方向に向かい、危険ゾーンに踏みこんでいきました。
ディレクター/松尾篤史さんと、コンダクター/大石薫は、ほぼ同世代ですが、アワガミファクトリーの「和紙見本帳」を繰っているうちに、ごくごく薄手の和紙、ふつう印刷・出版業界では「ウス」と呼んで、しばしば肖像写真の前に挟みこむ用紙に目をつけたのでした。

大石:「これにシー・スルー・レイヤード See-through Leyerd で印刷してみたら、面白い効果があるんじゃないかなぁ」
片塩:「なに、そのシー・スルー・レイヤードってのは。そんな印刷方式があるの?」
大石:「透けるようで、透けない。透ける効果と、透けない効果が面白いとおもうけど」
片塩:「なんだ造語か! 今回は失敗は許されんぞ。時間も無いし、予算も無い。しかもこんなウスは、手引き活版印刷機か、手差しの活版機でなけりゃ、エア抜けして印刷できないんだからな」
大石:「でも、和紙に印刷っていうと、いわゆる和風になることが多いけど、シー・スルー・レイヤードでやったら、この薄い和紙がおもしろい効果を発揮しそう。もしかしたら岩か岩盤のような、強靱な感じになりそう。松尾さんそんなデザインに変えられるでしょう?」
松尾:「いい書体があるから、きっとうまくいくと思うけど」

アワガミファクトリーの中島さんまですっかり乗り気になって、
中島:「3月19-21日に徳島本社に出かけますので、そこでわたしが断裁して、発送します」
ヤレヤレ。アラフォー3人組みの盛り上がりをよそに、やつがれはひとり、手差し活版印刷機と口走ってしまっとことを悔いていた。これがオフセット平版印刷なら、昼寝をしていても良いが、ウスに印刷となると、ハラハラ、ドキドキ、心配の種は尽きない。
実は前回《活版凸凹フェスタ2010》のポスター印刷に際して大失敗を演じた。いいわけができない、やつがれの管理ミスであった。それだけに今回は危ない橋は渡りたくなかったのだが……。

かつて四谷舟町だったか坂町に、三松堂という活版所があって、そこには手差しの活版印刷機があった。近在の最大手をふくめた印刷会社からの仲間仕事が中心で、用紙自動搬送装置つきの印刷機がエア抜けがあって不得手とする、ウスや和紙系用紙への印刷をウリにしていた。
三松堂では、チョウの羽のように、ヒラヒラと舞いあがりそうなウスに、同寸のアテ紙を添えて、一枚一枚手差しで印刷している風景をしばしばみたし、3度ばかり発注もしたことがある。
自伝・遺稿集・叙勲記念誌・受賞記念誌などの巻頭には、肖像写真が掲載されることが多い。その写真の前にウスは挿入される。印刷は名前だけのものが多かったが、写真のぬしが生存者ならスミインキ、物故者なら薄ネズインキで印刷することがならいであった。

ところがまずいことに、手差し印刷機と口走った瞬間に、これとまったく同じ、菊判四裁手差し活版印刷機が身近にあることをおもいだしたのである。それもアダナ・プレス倶楽部とはきわめて親しい、しかも《活版凸凹フェスタ》には初回からずっと参加されている企業に……。
キタッ!!
大石:「今回のポスターは弘陽の三木さんにお願いするつもりですけど、弘陽さんの手差しは菊四裁も刷れましたよ  ネ?」

《弘陽/三木弘志さんと活版工房》
活版印刷  弘陽 の代表、三木弘志さんは、手差し活版印刷機を所有され、身体性をともなった活版印刷をたいせつにされているかたです。また  ワークショップ 活版工房 も主宰され、多くの活版愛好者があつまる場の提供もされています。
《活版凸凹フェスタ》には、銀座・中村活字さんともども、初回から積極的にご参加いただいている企業です。

前述のようないきさつがあって、《活版凸凹フェスタ2012》のポスターは弘陽の三木さんにお願いしました。三木さんは困難で繁多な作業をいとわず、快くお引き受けいただき、無理な注文に名人技を発揮していただきました。また、排紙のスノコ取りのため、乾燥・定着をまちながら3回予定される印刷のたびに、大石が立ち会い兼お手伝いに参上することになりました。
以下立会場所、弘陽さんからの大石携帯報告と、帰社してからの協議をあわせて記録します。

・3月26日[月]────裏面 特色紅赤  ベタ版印刷
    大石:「水蜜桃の皮肌みたいないい感じ。おもしろくあがっている」
        「シースルー効果は、ドライダウンを確認するまで分からない」        
        「これだけ紅赤がオモテに透けると、逆にオモテ墨版文字のウラ抜けが心配」
        「オモテ墨版の色替えを検討しませんか?」
    松尾:「このままでいけるとおもいます。オモテの墨版も初志貫徹でいきましょう」
・3月28日[木]────表面 スミ版印刷
    大石:「墨版のウラ抜けは、おもったより少ない」
        「ウラ面のマニフェストと、出展者名簿の刷り色を十分考慮したい」
・4月 3日[火]────裏面 特色銀版印刷(この日爆弾低気圧襲来。猛烈な風と雨)
    大石:暴風雨のなか、特色銀、特色金、オペーク白などの1キロ缶インキを携帯して出発
        「刷り色は全色テストの結果銀に! 両面とも干渉しながらなんとか読めます」
    中島:見学兼立ち会いで弘陽さんを訪問。即刻スノコ取りの助手に変身。
    大石:夕刻タクシーで刷り本を抱え、ずぶ濡れで帰社。即刻松尾氏@メール、即来社。
    松尾:「ヤッタ-、いいじゃないですか、ネ!」

大石「ネ?」にはじまり、松尾「ネ!」に終わった、印刷新方式「シー・スルー・レイヤード See-through Leyerd」による、ハラハラ、ドキドキの10日間ほどのポスター製作の点描でした。

 
弘陽さんでの印刷の状況。左:弘陽 三木弘志さん、右:中島茂之さん 

 《写真製版所  真映社さんと、角田光正さん》
活版印刷に必要な、亜鉛凸版・樹脂凸版などを提供されている 写真製版 真映社 さんは、神田の印刷関連機器の老舗企業です。現在は写真製版が主業務で、ご兄弟で経営にあたられていますが、弟さんの角田光正さん(ジョーム)ご自身が、ふるくからの活版実践者でもあり、活版初心者にも親切に対応されています。
今回の《活版凸凹フェスタ2012》のポスターと、はがきの写真製版も真映社さんにお願いしました。また、出展者の多くが真映社さんを利用されていますから、活版愛好家の動向を真映社さんは意外なほど正確に把握されています。

ポスター印刷担当の弘陽さん、はがき印刷担当の大伸さんともに、ご昵懇ですので、真映社さんにデーターを送付すると、弘陽さんにも大伸さんにも凸版(ハンコ)が直送されて便利です。
前回の《活版凸凹フェスタ2010》の出展に際して、キャッチフレーズに【春のハン祭り】と謳って喝采をあびていました(山崎さんではなくて角田さんですけど)。あのジョームのことですから、ことしの《活版凸凹フェスタ》でも、なんとか皆さんをアッといわせようと秘策(オヤジ-ギャグかも?)を練っているようです……。

《通称 活版印刷屋 大伸/大澤伸明さん》
イベント告知はがき、絵柄面2色、宛名面1色の印刷は大伸さんにお願いしました。大伸さんは、「通称 活版印刷屋 大伸」ですが、さらに正確にしるすと「通称 活版印刷屋 大伸 三代目 若旦那 大澤伸明」さんとなります。

大澤さんは、一見豪放磊落にみえます(みせています)が、とてもこころの襞が繊細なかたです。またともかく照れ屋さんでもあります。また「ガツンと食い込んだ活版印刷」がキャッチ・フレーズですが、勢いあまって印圧をあげすぎて、まだまだ現役の大澤親分(二代目・お父さん)にお目玉を食らうことがあるそうですし、なにより愛妻家兼恐妻家でもあります。そんなわけで、今回のはがきの印圧は、適度に、軽めにとお願いしました。

大伸さんは、もともとはがき印刷は得意のジャンル。ですからすっかりお任せしていました。4月4日[水]、三代目若旦那みずからバイクでお届けいただきました。写真のような自身ありげなお顔(通称 ドヤガオ)を拝見すれば、もう安心でした。5ポイントという、出展者・出展企業のちいさなお名前も、潰れなく、丁寧に印刷していただきました。

4月6日[金]、出展者の皆さまを中心に、宅配便にてあらかたの発送を終えました。このブログロールをご覧いただく頃には、皆さまも、ご友人やお仲間と《活版凸凹フェスタ2012》のポスターやはがきをご覧になっているかもしれません。拙いものですし、簡素なものですが、こんな背景をもって懸命に製作しました。お楽しみいただけましたら嬉しくぞんじます。

《今回はイベント告知広報物製作の背景を紹介。次回は個人印刷者をご紹介》
今回のご出展者には、ハワイ、台湾、イギリスといった海外からの参加もあります。その関連の郵便物や@メールが盛んに交換されています。また個人の印刷者が懸命に作品製作のピッチをあげています。会期中の活版ゼミナールや、企画展のご紹介もいたします。そんなご報告を次回から順次いたしたくぞんじます。

タイポグラフィ あのねのね*018 活字列見

タイポグラフィ あのねのね*018

Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具 

Type Lining Tester  活字列見

《これはナニ? なんと呼んでいますか?  タイポグラフィ あのねのね*016での問題提起》
2012年2月23日、タイポグラフィ あのねのね*016 において、下掲の写真を紹介するとともに、その呼称、役割、使途などを調査する一環として、金属活字鋳造、活字版印刷関連業者からのアンケートをしるした。 
その問題提起とアンケート結果は、上記アドレスにリンクを貼ってあるので、まだ前回資料を未見のかたは、ご面倒でも事前にご覧いただきたい。

簡略なアンケートながら、このちいさな器具の呼称は「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」などと、活字版印刷業者のあいだではじつに様様に呼ばれていたことがわかった。
140年余の歴史を有するわが国の近代活字版印刷術 タイポグラフィ と、活字鋳造業界には、じつに多様な業界用語があり、それがしばしば訛ってもちいられたり、省略されることが多い。まして金属活字鋳造業界はながい衰退期にあるため、情報の断絶がしばしばみられるのがつねである。

またその使途・用途は、アンケート結果をみると大同小異で、ほとんどが、
「活字の高さを調べる器具」
「活字のライン、とりわけ欧文のベースラインの揃いを確認する器具」
との回答をえた。

現在の電子活字、とりわけその主流を占めるアドビ社の「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」においては、ベース・ラインの設定は、全角 em を1000としたとき、120/1000の位置に設定される。欧文活字設計、欧文組版設計において、もっとも重視される基準線がベース・ラインであることは、昔も今もなんら変化がない。
そしていまや、和文電子活字、和文電子組版でさえ「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」が主流となったため、ベース・ラインはより一層その重要性をたかめている。

わが国の金属活字の時代も、当然ベース・ラインの揃いは重視され、すくなくとも『活字と機械』に紹介された図版をみると、1914年(大正3)には使用されていたことがあきらかになった。
しかしながら、拡大鏡をもちいるとはいえ、この簡便な器具での視覚検査だけではおのずと限界がある。したがって相当以前から、このほかにも「顕微鏡型」とされるような各種の活字鋳造検査器具が開発され、また鋳造現場での創意・工夫がなされ、随所にもちいられていたとみることが可能である。

《文献にみる、この器具の資料》
まだ精査を終えたとはいえないが、この器具はいまのところ外国文献には紹介を見ていない。しかし過去の例からいって、本格的に写真図版を紹介すると、やがて資料の提供があちこちからあるものと楽観している。
またのちほど紹介する、インチ目盛りのついた類似器具が、かつて学術書組版のために、欧文自動活字鋳植機(いわゆるモノタイプ)を使用していた、新宿区内の企業から発見されている。いずれ外国文献の報告はあるものと期待をこめてみていたい。

わが国の資料では、『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)の各章の扉ページ(本書にページ番号は無い。電気銅版とみられる同一図版が6ヶ所にもちいられている)にもちいられたカット(イラスト)の左上部、上から二番目に類似の器具が図版紹介されている。
今回の調査をもって、この図版にみる12点の器具すべての呼称と役割が判明した。それだけでなく、ここにある12点の器具は、すべて朗文堂アダナ・プレス倶楽部が所有し、いまもほとんどの道具や器具を使用している。すなわちわが国の活字印刷術とは、おおむね明治末期から大正初期に完成期を迎えていたとみなすことが可能である。
 
       

上左:『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)表紙には損傷が多く、若干補修した。本書にはページナンバーの記載は無い。
上右:『活字と機械』扉ページ。外周のイラストは電気銅版(電胎版とも)とみられ、同一の絵柄が都合6ヶ所にもちいられている。

『活字と機械』扉ページより、左上部2番目の器具を拡大紹介した。この時点ではまだ正式呼称はわからなかった。主要素材は銅製で、下のネジを回すと、手前の鉄片が上下する仕組みになっている。取っ手にみえる円形の輪は、この鉄片を固定する役割を担っている。
右最下部:「活字ハンドモールド──同社では活字台・活字スタンプ」と呼び、1902年(明治35)12月27日特許を取得している。また江川活版製造所創業者、江川次之進が、この簡便な器具を「活字行商」に際してもちいたことが、直系子孫が保存していた掛け軸の絵柄から判明している。2012年5月《活版凸凹フェスタ》にて詳細発表の予定。

《ついに発見! 晃文堂資料から──LININNG TESTER  列見》
これまでも筆者は、吉田市郎ひきいる晃文堂に関してしばしばふれてきた。ここでふたたび『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』(株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1959)を紹介したい。

わが国の近代活字は、幕末の導入からわずかに50年ほど、明治40年代のなかばになると、はやくもおおきな壁にぶつかっていた。その理由のひとつに、導入直後から東京築地活版製造所、秀英舎、大手新聞各社など、ほんの一部をのぞくと、もっぱら徒弟修行にもとづく、経験則の伝承にたよったために、情報収集・分析と解析能力、技術革新の意欲に欠けていたことを指摘せざるをえない。

またわが国への近代活字版印刷術、タイポグラフィの導入が、18-19世紀の産業革命の成果をともなった、高度量産型産業として導入されたために、タイポグラフィが本来内包していた「工芸」としての役割をみることが少なかった。工芸であれば、クラフトマン・シップであり、そこには身体性をともなった創造の喜び、無償の創作欲の発露の場にもなりえたであろう。
ところが、幸か不幸か近代活字版印刷術は、文明開化の時代の「近代産業」、すなわち工業として招来されたために、あたらしい技術に目を奪われ、ふるいとされた技術を弊履のごとく捨て去ることがこの業種のならいともなっていた。このことは、一面からみると不幸なことであった。

皮肉なことではあるが、高学歴で、情報収集とその応用能力にたけた人材と企業は、営利追究に敏であり、ながい衰退期というトンネルを経過しつつある活字版印刷術業界から、ほとんどが去っている。かれらの多くは、新技術としてのオフセット平版印刷業者に転じ、一部はより新鮮な電子情報処理への道をひたはしっている。

晃文堂は、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒の吉田市郎と、その軍隊仲間(おもに経理担当の主計将校であった)を中心として、戦後に創立した活字鋳造所であった。そのため海外情報に敏速に接することができ、他社が手をこまねいていた欧文活字の復元と新開発に意欲的に進出し、やがて欧文書体の権利関係が複雑になるにおよんで、和文活字の開発に転じている。もともと晃文堂は活字版印刷術の多彩な情報提供をおこない、また総合商社のような役割もはたしており、その一部が現在のリョービイマジクスのひとつの源流をなしている。

わが国戦後の活字見本帳の製作は、西では、かつての森川龍文堂経営者、森川健市が、岩田母型製造所大阪支店の名において、精力的に活字見本帳を製造していた。東では、やはり吉田市郎ひきいる晃文堂が、もっとも意欲的に活字と機械に関する見本帳を製造していた。
晃文堂は社歴があさかったために、研究社人脈、三省堂人脈、印刷局朝陽会人脈、科学技術試験所人脈などを積極的に取りこんで、知・技・美の三側面の充実を意識した活動がめだった。

『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』は、たんなる活字見本帳ではない。活字版印刷術 タイポグラフィを見据えた、総合技芸をサポートする豊富な内容となっている。そのp.67に問題の器具の写真が紹介されている。
左半分は〈INSPECTION TOOLS〉すなわち〈活字鋳造検査器具〉の各種である。
その(A
)に LININNG TESTER  列見 と紹介されている。 

中央部に(A)LINING TESTER  列見が紹介されている。
ここにみる機器は製造ラインが破綻したものもあるが、小社をふくめ、いまも活字版印刷所、活字鋳造所などでは現役でつかわれている。アダナ・プレス倶楽部では《活版ルネサンス》などのイベントに際し、陳列・展示、一部は水面下にあった製造ラインを復活 ルネサンスさせて、製造・販売にあたっているものである。

ようやく晃文堂が提示したこの器具の呼称があきらかにされた。いまならば和製英語としても「ベースライン・テスター」でも良かろうとおもわれるが、前述のように活字版印刷術の職人たちは、欧文を毛嫌いするかたむきがあり、あえて「欧文のベースラインの行の列をみる → 列見」としたようである。
そしてこれが訛って「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」などと呼ばれるようになったものとおもわれた。

《そろそろ脱却したい、「母型」の呼称》
『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』の裏表紙、〈営業品目〉のなかに、和文・欧文対訳で活字母型が3種類紹介されている。どういうわけか、相当の専門書であっても、こと活字に関しては単に「母型」としるされることが多い。
また『広辞苑』にも、
「母型」を「活字の字面を形成する金属製の型」との紹介をみる。ところが後半には「打込母型(パンチ母型)」とある。
すなわち以下のパラグラフで説明されるように、この記述は戦後、ある特定できる人物の記述による。いまや『広辞苑』第4版からのタイポグラフィ関連項目のこの執筆者をふくめて、そろそろ「母型」を特殊業界用語とすることは、一考を要する時代となっているとおもわれるがいかがであろうか。

すなわち様様な鋳物(金属活字も鋳物の一種である)、陶磁器、プラスチック製品などの量産製造のためには、複製原型としての父型(雄型)と、その複製の母型(雌型)があるからである。
ふるくは鋳型であり、雄型・雌型、オス・メスであった。また鋳型素材の多くが粘土であったために、砂型とも呼ばれた。また陶磁器業界・プラスチック業界などでは「成形型」と呼び、石膏製・素焼き製・金属製の三種類がある。

活字における「母型」の呼称は、おそらく明治初期の「MATRIX」からの訳語が印刷・活字界にひろがり、業界用語とされたものであろう。このとき隣接業界、なかんずく鋳物業者を調査したとはおもえない。
つまり、アダナ・プレス倶楽部にとっても、Adana-21J製造のための各種鋳型が山をなす。そこには当然、設計図と試作機があり、また数十点におよぶAdana-21J用父型と、Adana-21J用母型がある。

これが単に活字界での「母型」の独占では困るとするゆえんである。また、こうした業界特殊用語? をもちいてきたために、活字「母型」の製造は特殊化し、孤立・停滞し、 彫金業界などの他業界はもとより、鋳造業界など隣接業界との交流の妨げにもなってきたという不幸な歴史も指摘したい。
端的にいえば、彫金・鋳物業界にも文字活字を重くみる人士は多い。すでに台湾の日星鋳字行などでは、コンピューターの3Dソフトを駆使して、パソコン直結によって活字「母型」を製造している現状も報告したい。
ところがわが国では、戦後に普及した「機械式活字母型彫刻機、ベントンと俗称」にあまりにこだわりがつよかった。その
活字「母型」製造ラインがほとんど破綻した現在、隣接の彫金業界などと提携し、活字母型の製造を円滑化させ、より活発なものとする余地は十分にある。このテーマは検討に値するとおもうがいかがであろう。

晃文堂は、活字鋳造とその販売だけでなく、自家鋳造の大手業者にむけて積極的に活字母型の販売も実施していた。
◎PUNCHED MATRIX
和欧文パンチ母型。ここでの「パンチ母型」とは、欧米式の活字父型 Punch から、簡便な押圧式手法で活字母型 Matrix を製造するパンチド・マトリクス技法とは異なる。晃文堂は後述する国際マトリックス社・細谷敏治氏の特許・造語の技法による「パンチ母型」を積極的に販売していた。
◎ENGRAVED MATRIX
ベントン機械式活字彫刻母型(パントグラフ理論にもとづく機械式直刻活字母型)。これから焼結法によって活字父型をつくり、それをマテ材に打ちこんだのが細谷氏特許の「パンチ母型」である。すなわち「パンチ母型」は細谷氏の造語である。
価格面からみると、直刻母型は高額で、複製父型から製造される細谷式「パンチ母型」のほうが低廉であり、活字母型の不具合に際して、交換・補充が容易であった。おもに自動式活字鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)や、大手印刷所、新聞社などの自家鋳造に採用された。当時の品質評価は直刻式のほうが高かった。
◎GALVANIZED MATRIX
電胎母型(電鋳法による活字母型)。熱変化に弱く、耐用性の側面からみると、全国規模の活字鋳造所で限界にいたっていることが危惧される。

 LINING TESTER  列見の素朴なバージョン。付属のルーペでは拡大率が足りず、10-20倍のルーペで検品することがほとんどだったとされる。欧文活字の鋳造の際には必ずベースラインを検証したし、活字鋳型の交換に際しても検品するのが常だったと長瀬欄罫ではかたる。

 
リング状の輪を「固定ハンドル」と呼んでいたと長瀬欄罫ではかたる。同社では10ポイント活字の鋳造が多く、この「固定ハンドル」を10ポイント専用として、ベースラインの位置に固定させていたとする。

 東京都新宿区榎町のK印刷にのこされた「ベースライン・ゲージ」。モノタイプ社製で、柄の先端にインチ尺によるマイクロ・ゲージが付属している。撮影アングルは天地が逆向きといえ、「LINING TESTER  列見」と同様に、活字ベース・ラインを目視とあわせて、マイクロ・ゲージで検証するためのものだった。

  

タイポグラフィ あのねのね*016 これはナニ? 活字列見

 タイポグラフィ あのねのね*016

これはナニ? なんと呼んでいますか? 
活版関連業者からお譲りいただきました。

 

◎  元・岩田母型製造所、高内  一ハジメ氏より電話録取。(2012年01月04日)
《版見》と書いて《はんみ》と呼んでいました。
◎ 築地活字 平工希一氏談。(2012年01月10日)
ふつうは「はんめ」と呼んでいます。漢字はわかりません。ひとに聞かれると「活字の高さを見る道具」だと説明しています。
◎  匿名希望 ある活字店談。(2012年02月02日)
うちでは「はんめんみ」と呼んでいます。
漢字は不確かながら「版面見」ではないかとおもいます。
◎ 精興社 小山成一氏より@メール(2012年02月15日)
小社では《ハンミ》と呼んでいたようですが、元鋳造課長の75歳男に訊いたところ、判面(はんめん)と呼んでいたとのことでした。

★      ★      ★

活版愛好者の人気アイテムのひとつに《活字ホルダー》という簡便な器具があります。いまや《活字ホルダー》の名称とその役割は、ひろく知られるところとなりました。ところがこのちいさな器具は、5年ほど前までは使途も名称もわからなかったものでした。
会員の皆さまからの情報提供をいただきながら、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部が中心となって、ようやく、その歴史・名称・役割があきらかになって、いまでは活版実践者はもとより、製本・皮革などの工芸者全般がひろく利用する便利な器具として復興 ルネサンスをみました。

ところで上掲の写真です。この器具の主要部は銅製で、高さは100円ライターとほぼ同じ、ちいさなものです。
中央下部、脚部の中央にある円形のネジをまわすと、中央手前の鉄製の金属片が上下する仕組みになっています。
取っ手のようにみえるループ状の金属片は、取っ手ではなくて、おもに固定の役割をします。
またルーペが付属したものもありますが、実際の使用に際しては、もっと倍率の高いルーペをもちいることが多いようです。
現在でも活字鋳造所ではしばしば使用されています。また、かつて活字の自家鋳造を実施していた大手印刷所などの企業では、名称も使途もわからないまま、なんとなく捨てがたい、愛らしい形状をしているために保存してあるものです。

この写真の器具を、2011年いっぱいをもって廃業された「有限会社長瀬欄罫」様からお譲りいただきました。最後まで日常業務に使用されていたために、銅製品に特有の錆びはほとんどみられませんが、長年の酷使のためか、脚部が曲がっているものもあります。脚部の素材は銅ですから容易に修整できますが、機能に障害はないためにそのまま使用していたようです。
またこの写真のほかに、「ウ~ン、最低でも30年は前だったかなぁ」とされる、木製箱入りの未使用のものもひとつあります。これは供給の途絶を危惧して購入したものだそうですが、愛用の器具が酷使に耐えたので、しまい込んだまま(忘れて)こんにちにいたったものでした。

ついで、周囲の活字鋳造所や、かつて活版印刷に関係していた皆さんにアンケート。
「これはナニに使用しますか(しましたか)? ナント呼んでいますか(いましたか)?」
アンケートの結果はご覧のようになりました。業界用語とは面白いもので、各社それぞれ独自の呼称をもって「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、判面ハンメン」などと呼んでいますし、呼ばれていました。
使用目的・使用用途は、どの回答者も、いいかたは様様でしたが、まったく同じでした。

現在までの調査では、この器具を紹介した資料は、東京築地活版製造所の見本帳の電気版イラストによる紹介を、1914年(大正3)にみます。また1965年(昭和40)の晃文堂のカタログに、欧文表記と製品写真の紹介をみています。外国文献には、いまのところ紹介をみていません。
ところがきょう2月23日、数台の欧文モノタイプを稼働させていた、ふるい活版印刷業者(現在はオフセット平版印刷に転業)を訪問したところ、偶然ながら、まったく同じ用途にもちいられていた外国製の器具を、「クワタ箱」を転用した「活版印刷の忘れがたいお道具箱」のなかから発見しました。これらの報告は改めてということで……。
どうしても知らなきゃガマンがならぬ、というお気の短いかたは、『VIVA!! カッパン♥』p.114に簡略な報告がありますので、そちらをどうぞ。

花こよみ 016

花こよみ 016  

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。
 

小学唱歌 春よ来い 

春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが 
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている 

春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

蛇  足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
作詞/相馬  御風 (豪雪地帯・新潟県糸魚川市出身 1883-1950)
作曲/弘田龍太郎(1892-1952)
あまりに寒いので、春をまつせつない気持ちを、小学唱歌に
たくしました。皆さま風邪など召しませぬように!

新・文字百景*003 いろいろ困っています「片」の字

 「文と字」はおもしろい……、けれど

いろいろ困っています「片」の字で!
その実例を紹介 

《爿と片を『部首がわかる字源事典』からみたい》
新・文字百景では、「字と文」の入門編としての学習が、「爿ショウ と 片ヘン」をめぐってつづいている。
このブログロール『花筏 ハナイカダ』は、無料配信ソフトのためか、はたまた筆者の技倆不足のせいか(おそらく後者)、どうもアーカイブへの収納がうまく機能しない。そしてひと囓り
リンゴ型のパソコンでは、やたらに重く、動作がのろいし、データが壊れたりもする。読者諸賢にあっては、なにとぞご海容を。

それでも本コーナーをはじめてご覧になるかたは、ご面倒でも、アーカイブからデータを引きだして、「新・文字百景*001-002 」をひととおりご覧になってから本章をお読みいただきたい。
そうでないと、筆者が我田引水、自らの姓をもって苦情を申したてているようにとられかねない。
筆者は、大勲位・中曽根康弘氏をはじめ、曽根さん、小曽根さん、中曽根さん、大曽根さん、曽根山さん、曽根崎さん、曽根川さん、曽山さん、曽川、曽田さん、小曽田さん、中曽田さん、大曽田さんらのご一統さまにも、こころからご同
情もうしあげているのである。

  ◎新・文字百景*001  後漢のひと許愼胸像と、その編著『説文解字』を紹介し、
                   「文と字」のなり立ちを「爿・片」を通じて紹介。
  ◎新・文字百景*002  中曽根・曾根崎の「そ」は、「曾か曽か」を実例をもって検証。
                   
意外に頼りないゾ、わが国の「漢和字書」。
  ◎新・文字百景*003  いろいろ困っています「片」の字で!
                   その「片」のさまざまな実例を紹介。 

最初に掲げた図版はすべてが参考図といった位置づけで、『部首がわかる字源事典』(新井重良、木耳社)に紹介された「版築法」の図版と、『康煕字典』の「爿ショウ部の 爿」にみる、『六書略』から、
「爿は同書註詳上にみるように、ふるくは古文(中国古代の文 ≒ 中国古代の字、図版紹介)があった」
から、「爿の古文」をふたつ、それぞれあらたに書きおこして紹介した。
そして、「爿の古文」から「片の古文」を想定して描いてみた。

もとより「片」は、許愼『説文解字』でも部首としており、「片の古文」が上図ような字体であったとするものではない。どんな字書にもしるされるように、
「小篆などの木の字を半分にして、爿と片をつくった」
とする説にしたがうと、こういう字画の「片の古文」があってもよいかな、という実験である。

『部首がわかる字源事典』(新井重良、木耳社)では、中国におけるふるくからの土壁や土壇の築造法で、板で枠をつくり、その中に土を盛り、一層ずつ杵でつきかためる「版築法」を紹介し、その左側の杭と板の形象から「爿」がつくられ、右側の杭と板の形象から「片」がつくられたとする。すなわち「爿」「片」とも象形であるとする。
ここであらためて、新・文字百景*001に紹介した「木 → 爿・片」の図版を紹介しよう。
新井氏の版築法にもとづく象形という説と、許愼『説文解字』との違いが明確になりそうだ。

ところがここに掲げたふたつの図版をみただけでも、また、圧倒的に右利きのひとが多い現状に鑑みても、爿の形象は、運筆上、きわめて書きにくい形象であったことがわかる。そこであらためて下図にしめしたような「古文 爿」が別に存在していたか、あるいは(むしろ)「爿」の「文 ≒ 字」が成立したのちにつくられたとおもわれたので、片の古文も「爿」の古文から想定でつくってみた次第。
これが、なかなか好ハオ! ではないか。 

字源が木の半分とされ、どこかグラグラと安定感がなく、頼りない「爿・片」よりも、古文「爿と、想定古文 片」の造形にみる、頑固一徹、有無をいわさぬ剛健さがおもしろい。
特製デジタルタイプのデータをつくって私的な場などでつかったら……、やはり顰蹙ヒンシュクをかうだろうなぁ。

蛇  足  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

◎ 予  告  編 ◎

 臼  □(キョク,キク) 鼠  鼡     

   この「新 文字百景*003」は元旦の2時間ほど前にアップした。それにか
        ねて気になっていた上記の4字を、正月のあいだに「蛇足ながら」として追
       
記したところ、本稿のデータがすべてクラッシュして仰天。幸いHTMLデー
        ターから復元できたが、数度のトライのあいだに、どうやらクラッシュの原
   因が「□  部首:臼部、漢字音:キョク、和訓音:無し、文字コード:U+26951」
   の使用にあることが判明。

   1983年JIS漢字表の改訂にともなう混乱は、それはひどいものだった。
   この1980年代中葉の、俗に「83JIS問題」とされた大混乱をしる年齢層
   は、いつのまにか50代後半以上のかたになってしまったようだ。その混
   乱のひとつの原因が「臼部」とされたいくつかの字であった。
   ちなみに「興味」の「興」も臼部である。上図「② キョク、キク」は「古文」として
   紹介される。それを「臼の部首の字」としたためにおきた混乱であった。

   本稿では、できるだけ「文字」の使用をさけている。その理由を軽軽に記
   述することは困難であるが、「文」にはわが国の「紋、記号」に近い字義で
   もちいられることが多く、人口に膾炙したとはいえ、「文と字をあわせる →
   文字」をもちいると、ここでは混乱をまねくことが予想されるからである。
    
   
前述の□(キョク、キク  文字ソースは入っていません)は、現在では「手扁」を
   つけて
「掬う、すくう」の(中国では同音・同義の)別字、あるいは「菊 キク」
   から「艹冠」を取りさった字画である。
   すなわち、
   「手扁の無い掬」の古文「□ 部首:臼部、漢字音:キョク、和訓音:無し、文
   字コード:U+26951」を、わが国のかつての漢和辞典のほとんどが臼
   部の字としために起こった混乱でもあった。
   換言すると、「古文 爿」は無視したが、「古文 □キョク、キク」を本字扱いにし
   たことによった。そこで、問題のユニコードのキャラクターをアウトライン
   化して、おもに「臼」に関して、そして「中曽根」さんと同様の悩みをかか
   える「ネズミ」に関しても近日アップ予定! 乞う、ご期待。

   それにしてもWebsiteってユニコード・キャラクターを拒否するのかな?
   それともITオンチの筆者の技倆のせい?  冗談ではなく、正月まっ盛
   りに、いっとき、《ダズゲデグレー !!! 》状態におちいった。

   
ITにくわしいかたで、ご関心のあるかたは、□キョク、キク  文字コード:U
        +26951、□ キョク、キク  文字コー
ド:U+26951で実験し、ぜひともご
   指導願いたい。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

このような不自然な運筆をしいられることがして、常用漢字などでは「爿」の部首の形象をかえて「爿→ 丬」とした一因ともおもえるが、それでもいまなお「爿」は、部首のようなかたちでも、音符(声符)のようなかたちでも、しぶとくいきのこっていることも「新・文字百景*001」で紹介した。
しかしながら、「爿」は新部首「丬」をつくったもらえただけ幸せなのかもしれない。おかげで「武將 → 武将」として、チョイといかめしさは無くなったが、字義も字音もかわることなく、字画だけがかわっていきのこることができた。
だから篆書の「木」からつくられ、同根とされる「片」にも、新部首をつくって欲しいときがある。 

 《台湾の國字としての爿と片をみる》
わが国の文部科学省にあたる、台湾教育部が発行した『國字標準字體宋體母稿』(教育部編印、民国87年2月・1998)は、中華民国(台湾)独自の字種規定、「大五碼(BIG-5と通称)」、あるいはわが国のJIS規格文字コード表と同様に、電子機器搭載の字に関するコード表「CNS 11643」とも連関する基礎資料で、わが国における「漢字」、すなわち台湾における「國字」を明瞭に定めた書物である。

台湾では、まず楷書が母稿として定められ、ついで宋体(ほぼわが国の明朝体)、方体(ほぼわが国のゴシック体)、隷書などが規定されている。
『國字標準字體宋體母稿』には以下の分類にもとづいて、18,369キャラクターが例示されている。
  ◎ 常用字                4,808字
  ◎ 次常用字               6,343字
  ◎ 罕用字(罕カンは まれに の意)  3,986字
  ◎ 異體字                2,820字
  ◎ 附録字                  412字
               合 計      18,369字 

『國字標準字體宋體母稿』が、わが国の類書と決定的に異なるのは、明確な文言が存在していることである。わが国のそれは、「既成書体による例示」はあるが、その制定の経緯、根拠に関してはほとんど説明が無い。
『國字標準字體宋體母稿』では、50 ページにわたって、詳細をきわめた論述の存在がある。
それは、制定までの経緯、制定にあたって検討した項目と資料書目一覧、その資料利用頻度表、そして字體構成の原則と細則が規定され、最後に実例の字(キャラクター)の明示が続く。  
  ◎ 標準字體的研訂簡史
  ◎ 標準字體的研訂宗旨
  ◎ 標準字體的研訂原則與實例
         甲 : 通則  乙 : 分則    

上にかかげた図版は、その「標準字體的研訂 原則與實例 乙:分則(p27)に掲載されている、「片」「爿」の規則である。
この分則では、篆文としるされた記述は許愼『説文解字』によることなどがあらかじめ明示されている。
そして基本的な字體構成の説明、画数とその筆順が簡潔に説かれている。
すなわち現代台湾においても、字の規格制定にあたって、もっとも重視される文献は、西暦100年ころに許愼によってしるされた『説文解字』であることに、あらためて驚かされる。

ここに拙訳ながら、この上記2項目の記述を紹介したい。
33  「片」は『説文解字』によると「木を半分にしたもの」。第 2 画と第 3 画は相接するが頭はでない。末筆(終画)は一本の線を横に折る(転折・転筆)。宋体の画数は 4 画である。「片」「版」などの字がある。
34  「爿」は『説文解字』によると「片を反対にしたもの」。最終画の左払いと 3 画目の横線は相接する。「爿」と「片」は相対する。「壯」「牆」などの字がある。

《わが国にファンの多い『康煕字典』をみる》
どういうわけか、わが国においては「漢字字書」として『康煕字典』(康熙55, 1716 年)の「ファン」があまりにも多い。たしかに『康熙字典』は比較的近世の木版印刷による刊本であり、その字様は楷書の工芸字様ともいうべき明朝体である。
また部種別配列であることも、「文と字 ≒ 漢字」への親近性においておとるわが国の関係者には、好都合な「字書」だったかもしれない。
明朝体は中国・台湾では職業人は「宋体」とするが、ふつうの生活人は「印刷体」とすることが多い。すなわちわが国の「明朝体の風景」とは異なり、あまり重くみているわけではなく、生活人は「そこに、印刷のために、あたりまえに存在している字」とすることが多い。

しかしながら『康煕字典』の肝心の帝の名前である「こうき」が、表紙・扉ページなど、いわゆる装丁とされる部分だけでも、「康熙・康煕・康熈」など、三例の使用例があって、「字書」としてはまことに頼りない。
そのためにわが国の文字コードでは、ほとんどこの用例のためだけに、「康熙 シフトJIS EAA4」「康煕 シフトJIS E086」「康熈 シフトJIS E087」の、みっつものキャラクターを用意しているほどである。これをもってしても、いまだにわが国の一部で「康熙字典体」などと崇め奉っているむきがあるのはいかがであろう。

また中国では古来、字に関して記述した書物は「字書」であり、「字典」というおもい名称をあたえたことはなかった。「典」は「典型」に通じ、書物としては、儒教・道教・仏教などの経典などの書物にはもちいられてきたが、ともかくおもい字義、字の意味をもった「字」であった。
したがって清王朝第四代皇帝・康熙帝が、勅命によって、「字書」にかえて「字典」としたことに、ときの中国の知識層は震撼し、ある意味では支配民族の増長、ないしは知識・教養不足のなせることしてとらえた。

またその治世が62年とながかった康熙帝(1654-1722, 在位1661-1722)は、紫金城内武英殿を摺印場(印刷所)として、いわゆる武英殿版ブエイデン-バン ないしは殿版デンパンとされる、多くの書物をのこした。
そのかたわら、康熙帝は文書弾圧として、いわゆる「文字獄 モジゴク」をしばしば発令して、すこしでも漢族の優位を説いたり、夷族(非漢族)をそしった書物を没収・焼却し、その著者と刊行者はもとより、縁族までも重罪としたひとでもあった。
この清王朝前・中期にしばしば発令された「文字獄 モジゴク」は、巷間しばしばかたられる 秦の始皇帝による「焚書坑儒」(前213)より、その規模と頻度といい、全土におよぶ徹底ぶりといい、到底比較にならないほど激甚をきわめたものであった。
そこにはまた「文と字」を産み育ててきたという自負心を内蔵している漢族と、ときの支配民族としての満州族(女真族)との、微妙な民族感情の軋轢の痕跡がみられたことを知らねばならない。

ちなみに、上掲『國字標準字體宋體母稿』(教育部編印、民国87年2月・1998 p.03-08)に「標準字體的研訂宗旨」があり、そこには制定にあたって参考にした書目、49種が列挙されている。上位から10位までを順に挙げよう。
   1.中文大辭典         2.中華大辭典          3.辭海
   4.辭源              5.辭通              6.康熙字典
   7.説文解字詁林         8.正中形音義綜合大字典   9.佩文ハイブン韻符
   10.駢文ヘンブン類編

ついで、「選字歩驟 センジ-ホシュウ  如下 シタノ-ゴトシ」があって、「総字表」の制定にあたって使用した15種の書目が列挙されている。ここで別格にあつかわれ、主要参考書目とされたのは『中文大辭典』(中國文化研究所、49,905字)である。
おどろくことに、ここには第2位に『日本基本漢字』(三省堂、3000字)、第6位に『角川常用漢字字源』(角川書店、1967字)といった、わが国の書目が上位にあげられている。
そして、かの『康熙字典』は、「標準字體的研訂宗旨」では第6位に挙げられていたが、「選字歩驟如下」15種にはまったく無い。
また「標準字體的研訂宗旨」、「選字歩驟如下」の双方に、わが国で最近刊行された漢字字書と類字の名前があるが、それに関して筆者は触れたくない。     

『康熙字典』の「巳集中」に、「爿部」と「片部」がおかれている。
「爿」の説文解字の項をみると、「牀」を例としてあげて、
「牀从木爿聲 ≒ 牀は木の部首にしたがう。爿は聲」
としている。
ここでいう聲・声は漢字音のことである。すなわち『康熙字典』では部首として「爿部」を設けているが、許愼『説文解字』では部首としての「爿部」はないために、「牀」は「木部」になるとしている。
新・文字百景*001で、「爿 ショウ」は音符・声符の性格がつよいとしたのはこのためである。

また新・文字百景*001で「从・從・従」は同音・同義の字であり、現代中国ではもっぱら「从」をもちいていることを紹介し、「したがうの意」として紹介した。
これが間違いだったわけではないが、わが国ではむしろ「従属」とするか、むしろおもいきって「属する」としたほうが理解しやすいようなので、これからの記述にあたり「从 → 属する」ともすることをお断りしたい。

或  体 ワクタイの代表例
牀 と 床 は「同字」とされる 

『康熙字典』での「爿部」最初の実例としてあげられた「牀」を、藤堂明保・電子辞書『漢字源』からみたい。
【牀】  (楷書)総画8画、シフトJIS E0AC、部首 爿部
     字音:ショウ/ソウ/ジョウ  chuáng 
     意読:ゆか
     解字:会意兼形声。
         爿は、ほそ長い寝台を縦に描いた象形。
         牀は「木+音符爿」で、木を加えて爿の原義を明示した字。
         ⊿床は、もと、その俗字。

【床】  常用漢字
     (楷書)総画7画、シフトJIS 8FB0、部首 广 マダレ部
     字音: ショウ/ソウ/ジョウ  chuáng 
     常読:ショウ/とこ/ゆか
     意読:とこ/ゆか/ゆかしい(ゆかし) 
     解字:会意。
         「广(いえ、部首:まだれ)+木」で、木製の家の台や家具をあらわす。
         もと細長い板を並べて張ったベッドや細長い板の台のこと。
         牀(ショウ)とまったく同じ。

ここで明確になったのは、「爿」の原義を明示する重要な字が「牀」であることである。
こうした字を或体ワクタイという。熟語としての或体の説明はほとんどの「漢和字書」に紹介されているが、「国語辞書」にみることは少ない。
「或体は、許愼『説文解字』で、見出しとした小篆と、同音・同義の字として示されている字体」
と藤堂明保・電子辞書『漢字源』では説明しているが、いささか文意がとおらず心許ない。

おそらく許愼は、小篆から「爿」の字を発見できなく、その原義を説明することがなかったが、それにかえて「牀」を掲げて、
牀は「木+音符爿」で、木を加えて爿の原義を明示した字。
としている。このような部首にはならなかったが、「或る字画を精細に説いた」例が『説文解字』にはたくさんみられる。これらの一連の字を「或体 ワクタイ」としたものである。

ついでながら、「或」は、國や地域の「域」の原字となった字であり、そうとう重い字義を有する。
楷書字画:8画、部首:戈ホコ部、シフトJIS 88BD
漢字音:ワク、コク、huò、意読:ある、あるいは、あるひと、まどう(まどふ)。
《漢字源 解字》
六書の会意。「戈ホコ+囗印の地区」から成る。また囗印を四方から線で区切って囲んだ形を含む。それで、ある領域を区切り、それを武器(戈)で守ることを示し、域や國(コク)(=国)の原字である。
ただし、[わが国の]一般では「有」にあて、ある者、ある場合などの意にもちいる。或の原義は、のちに域の字であらわすようになった。

また、常用漢字「床」は、「牀」と字義、字音がおなじであるので、藤堂明保は「牀」の項で、
「床は、もと、その(牀の)俗字」
とし、「床」の項では、
床と牀(ショウ)とまったく同じ」
としている。
このように、字義 ≒ 字の意味、字音 ≒ 字の発音がおなじ字が、ながい歴史のなかで変化し、かつて俗字・略字とされた字が、わが国の常用漢字になったり、中国の簡化体になったりする事例もみられるのである。

それにしても、「爿」のあわれさはかくのごとくである。
牀は「木+音符爿」で、木を加えて爿の原義を明示した字。
とされながら、いつのまにか「牀」は
「床は、もと、その(牀の)俗字」
「床と牀(ショウ)とまったく同じ」
とされ、「床」が生きのこって、「爿」の原義をあらわす「牀」は見捨てられつつあるようだ。
それは「牀」の書きにくさのゆえか、はたまた許愼の呪いか……ともおもわぬでもない。

 《悲喜劇もろもろ、現代の「片」の字のいま》
オヤジは字画にうるさかった。日中戦争さなかに医学部を卒業し、陸軍軍医として召集されて都合14年間をすごした。とはいえ、
一応モダンを気取る、開明派の多い慶應義塾の出身だったから、保守的なひとではなかったが、字画にはなにかとうるさかった。
筆者が「明朝体のお稽古」をしていたころ、
「この釘がポキポキ曲がったような書体が明朝体か。この書体の〈片〉の字はイヤだな。とくに2画目の点が、壊れた釘の頭みたいで品が無い。こうやって、ドンと点をうつと、よい字になる……」

ことの善し悪しは別として、オヤジは終生下図のような、2画目がドンとした点で、最終画を「曲げ撥ね」とした「片」を書いていた。
もちろん字画は5画である。
こんな字画をもとにして、オヤジは召集解除となってから田舎で開業医となり、ちいさな「片塩醫院」の看板を掲げていた。
兄貴もずぼらなせいか、オヤジが残した看板をそのまま使って、2011年夏に没した。甥がいやいや三代目を継いで、診療科目が増えたので看板を作りかえたらしいが、まだみていない。

許愼『説文解字』も、『康熙字典』も、楷書字画は4画とされていることは紹介してきた。
下図の認め印は、その昔、はじめてハンコやさんで筆者が「認め印」をつくったときのものである。
あまりほかにない姓なので、いわゆる既製品の三文判はなくて特製だったが、ハンコをもつことがなにかひとり前になったような気がして、嬉しかった記憶がある。
ツゲ材らしいが、だいぶ傷んできたのでもうつかっていない。これも最終画はオヤジの筆法を真似て「曲げ撥ね」で依頼したが、「曲げ止め」になっていた。改めてみると、よくできた認め印だったなとおもった。 

最後の図版は、目下使用中の筆者の運転免許証である。「片」の最終画は「曲げ止め」で、5画である。
これがしばしば問題をひき起こす。
筆者は錦糸町の運転免許試験場で更新手続きをしたが、支給された免許証の「片」は、ご覧のように5画の「最終画を曲げ止めとした 片」である。
息子はゴールド免許で、地元の警察署で更新したという。みせてもらったら地元警察署の「片」は4画。図版提供をもとめたら、
「やだよ、そんなの、みっともない」
ト 断られた。
たしかに運転免許証の写真とは、ほとんどたれもが、凶悪犯人そのもののようにみえるからイヤになる。筆者もこの写真ほど悪相ではないとおもっているのだが……。

新・文字百景*002で、「大阪の曽根崎警察署は、曾根崎二丁目にある」とする例を紹介した。
どうやら警察署は漢字の字画に鷹揚なようだが、駐車違反の罰金など、国庫収納金となる書類の作成や、まして税務署ではまったく違う。ここでは異常としかおもえないほど字画に厳格である。

官公庁専用書体として「電子政府書体」なるものが存在していることは、意外と知られていないようだ。「電子政府書体」はリョービイマジクス(現:モリサワMR事業部)が主体となって受注製作したもので、味も素っ気もない、いかにも役所好みの明朝体の一種である。だから、中国における「印刷体」と同様に、たれも興味関心をいだかないようだ。

ところが、いっとき賛否両論で大騒ぎになった「住民基本台帳 略して住基カード」が導入されて、かつての手書き式の戸籍にかえ、デジタル化された戸籍が作成されている。このときもちいられたのが「電子政府書体」である。

電子政府書体には、「片」の字には4画と5画があるが、筆者の「住基カード」の「片」は5画になっていた。たれが手書きからデジタル文書としたか、たれがデジタル書体の5画「片」としたかは知らない。
大勲位・中曽根康弘氏も、住基カードの姓は「中曽根なのか、はたまた中曾根なのか」、ぜひともうかがいたいものである。
────
年になんどか「消費税」の納付を銀行振り込みでおこなってきた。それを数年前から「電子納税システム」に変更した。この「電子納税システム」に切りかえた際のことであった。納付を済ませてヤレヤレと安堵していたところ、所轄の四谷税務署から電話があった。

警察と税務署からの電話など(別に悪いことなどしていなくとも)なんとなく薄気味わるいものだ。
ところがやたら詳細かつ丁寧に、
「昨日、株式会社朗文堂、代表取締役・片塩二朗さまから納付いただいた消費税は、現在受領されておりません。片塩二朗さまというかたが、世田谷区の戸籍にみあたらず、納付手続きが完了しておりませんので」

おもわず絶句した。オイオイ、筆者の本籍地は東京都世田谷区。その世田谷区の戸籍に見あたらないということは……、無国籍になるではないか!
「片という字が5画になっていまして、お名前を機械(OCRのこと?)で読みとれない状況です。至急戸籍管理者に所用の手続きをして、4画の片に直してください」

税吏は決して威圧的だったわけではないが、筆者の抗弁もむなしく、「5画の片を、4画の片へ、すみやかなる変更」を繰りかえした。そして最後に、きっぱりと、
「恐縮ですが、納付期限が明後日××日ですので、それまでに手続きを完了しないと、延滞料として年利14%の延滞金の加算となりますのでよろしくお願いいたします」

よろしくもなにもない。延滞料の年利14%とは、悪評高かったころの「サラ金」なみの暴利である。
しかも支払いは完了しているが、受領していないという。それでは手許の「領収書」とはなんなのだ!

ところが筆者は、中途半端に「電子政府書体」の存在と、OCRとの関連をしっていたのがまずかった。
「住民基本台帳 略して住基カード」の導入には、個人情報管理の面から反対がつよかった。そこでときの政府はデータ流出防止とその悪用防止のために、全面的にOCR(Optical Character Recognition, 光学式文字読みとり装置トモ)の採用を決めた。
すなわちいくら税務署といえども、OCRをつうじてでなければ、筆者の戸籍にアクセスできない仕組みになっているはずである。その読みとりに際して、もっとも重視されるのが「漢字字画」である。詳細は知らぬが電話番号や住所からは入れない仕組みらしい。

翌朝、住基カードの手続きをおこなった「世田谷区北沢総合支所」をたずねたら、変更は「世田谷区役所」でなければできないといわれ、タクシーで逆戻りして、国士館大学のとなりの区役所戸籍課にかけつけた。
ところが、先客がいた! それがまた、すっかりぶちぎれていた……。
「テメエラじゃ駄目だ、区長を呼んでこい! 区長をだせ! だれだ! 勝手にこんな戸籍をつくったのは」
カウンターを叩くは、そこらの椅子を蹴飛ばすは、飲食店の店主らしい先客は完全にブチギレ状態。

仕方なく遠巻きにしてしばらく観察していたが、このひと「片桐」さんというらしい。つまり筆者とおなじ状況で、戸籍原簿の訂正手続きを強いられて、その対応になんらかの手違いがあってブチギレのようだった。
「片桐」さんが、上席者らしき初老の職員に連れられて「個室」にはいったあと、ようやく筆者の手続き開始。

「あぁ、お客さまも片がらみですか。5画片を4画片に変更ですね」
ト、戸籍課の職員はうんざりした顔になった。
「そうです。急いでおねがいします」
「誠に恐縮ですが、原簿の変更には2-3時間ほどかかりますので、よろしくお願いいたします」
結局10時に下北沢に動きはじめて、区役所で手続きが終わったのは午後2時。その間、ひとのよさそうな職員は、ペットボトルのお茶までだしてくれた。

「あの片桐さん以外にも、変更はあるんですか?」
「片桐さん、片山さん、片岡さん、片倉さんなど大勢いらっしゃいます。でも片塩さんは珍しいですね」
「これは入力ミスということですか?」
「電子戸籍にしたときは慎重を期しましたが、ともかく大勢で手分けして取り組みましたので、《片》のように意外とあたりまえの字で、入力者によってバラバラになるという事故があります。会社員のかたなどは、ふつう[住基カード]や戸籍謄本をあまりお取りになられないので、ご家族が亡くなられ、火葬許可願いではじめて問題になったりもします」
片桐さん、片山さん、片岡さん、片倉さんなど、ご一統さまは、くれぐれもご注意あれかし。
そして、《曽・曾》や「4画片・5画片」だけでなく、意外なほど
この「住基カード字画問題」は深刻なのだ。

唖唖! そしてついに警察署まできたぞ !!》
「電子納税騒動」とほぼ同時期のことである。会社の前にチョット置いた車が駐車違反でレッカー移動された。
近くの交番にいき、四谷三丁目の四谷警察にいくことを命じられる。そこでいわゆる「チュウキン青切符」をきられて、署名と拇印による捺印。別に頼んだわけではないが、ご丁寧にも保管のためのレッカー移動費を署内で支払い、保管場所の委託駐車場の地図と、「反則金納付書 ≒ 罰金支払い命令書」をわたされてようやく解放。ぶっきらぼうであったが、むかしのようにお説教などはなく、事務的で淡々としたものだ。

ところが翌日、外出中に制服の巡査がきたという。そして××時に再訪するという。社員一同 なにかやらかしたのか? と不安そう。なにも心当たりはないが、正直なところあまり警察官に真っ昼間から来社して欲しくはない。
それでも約束の時間ピッタリに警官襲来?! 
昨日のチュウキン処理にあたったお巡りさんだった。それも、てのひらをかえしたように、腰が低いこと、低いこと。

「きのうのチュウキンの切符ですが、申しわけありませんが、署名が具合悪くて。もう一度、きのうの書類に署名・捺印願いませんでしょうか」
「はぁ。結構ですけど……」
「必要事項は書いてきましたので、確認して頂き、《片》という字をこのように4画で書いてください」

もうお分かりかとおもうが、筆者はいつもの癖で、署名は5画で書いた。それでレッカー移動費も、駐車場代の支払いにも問題はなかった。ところが、国庫納付金となる反則金はおそらくOCRによる読みとりだから、「電子政府書体」の画数にあわせて4画でないと台帳に入れないということであろう。
もちろん筆者は、はじめて警察官とジョークを交えながら談笑、そして4画の〈片〉で署名・捺印。
そしておもった。
「中曽根だけじゃないぞ。この《片》の字の混乱は、水面下では当分つづくな……」

《2011年 最後の與談!》
警察署で署名しろというから、筆者はいつものとおり5画〈片〉で署名した。
「署名」は本来中国語であり、「文書に、自分の姓名を書きしるすこと」。
これをなした。もちろん悪意はなかったが、チョイとした騒動をまねいた。

「署名」にかえて「サイン」ともいう。これはチト問題がある。
著名人や芸人に「サイン」をねだる向きもあるが、これは間違い。
サインは英米語の略称で sig. 正式には Signature である。むしろ「調印」とおもったらいい。
だから有名人の著作に「調印」をもとめたり、芸人が色紙に「調印」をしたら、まことにヘンなことになる。

May I have your autograph. → 自筆・肉筆でお名前を書いていただけますか?
こうした場面ではサインとはいわず、オートグラフとするのが好ましいこと。
著名人や芸人に「サインをください」はやめたほうがよい トおもうが 。

というわけで、わが国は、かつては漢語 ≒ 中国語を借り、このごろは米語を借りることが多い。
つまりどちらも、所詮は借り物だから、ときどきこうした齟齬ソゴ,イキチガイを生ずることになる。
正しく、美しい、母語を育てる努力をしたいものだ。
2011年、いろいろつらいことがあった年である。
あと2時間ほどで2012年になる。まぁ、いつものように、来年の正月までポチポチやりますかネ。

新・文字百景*002 中曽根とは失敬千万!? 曽・曾

新・文字百景*002

中曽根などとは失敬千万 ?! 

── 位階は従六位、勲等は大勲位であらせらるるぞ ── 

このひとの画像は  こちら  から 

《大勲位・中曽根康弘か、はたまた中曾根康弘か》
自民党が野党に転落し、またご本人の高齢化のためか、最近はいくぶんメディアへの登場が減ったようだが、とかく政局がきなくさくなると、もぞもぞと蠢動するのが、この、
── 位階は従六位、勲等は最高位の大勲位 ──
なる人物 ── なかそね やすひろ氏 ── である。
かつては「政局の風見鶏」などと揶揄ヤユされたこともあった。どうにもぬるぬると粘着性がつよそうで、筆者は好感をもてない人物である。ここでは好悪コウオの感情はともかく、「字&文」をかたるのには格好の対象であり、また、あまりにあわれでもある。このひとから紹介しよう。

   なかそね-やすひろ
       1918年(大正7)5月27日、群馬県高崎市うまれ
       戦前は内務省官僚。敗戦時は海軍主計少佐、戦後は政治家。
       衆議院議員20期。運輸大臣などを歴任して、内閣総理大臣を重任。
       位階は従六位。勲等は大勲位。      

位階や勲等には縁もなければ興味もない。勝手に最高位の大勲位をご自慢あれというところ。
その従六位の位階に関していえば、わがタイポグラフィ界の先駆者、本木昌造は従五位下。平野富二はそれよりひとつ上位の従五位であった。吾が先達は、かの大勲位の従六位より、位階ではだいぶ上位だった。
律令制のもとでは、五位以上のものは殿上人テンジョウビトとして、昇殿がゆるされるなど格別の優遇があった。どんなに権勢をほころうとも、このひとのように、位階が従六位では……ネ。
天網恢恢 疎にして洩らさずというところか。 それでも平野家では、ご先祖様の位階などには、ほとんど関心はないからおもしろい。

ところでこのひと、メディアのなかではほとんど《中曽根康弘》と紹介されている。すこし気になったので、校閲部などがあって、用字・文言にうるさい モトイ 厳格?! とされている、新聞・雑誌などの大きなメディアをしばらく注目していたが、ほとんどが《中曽根康弘》と表記してあった。 

だから文&字学はおもしろいぞ!

中  曾  根  と 中  曽  根

   曾             曾            曾

電子辞書『漢字源』         『新漢和辞典』                  『新明解漢和辞典』
主編纂者/藤堂明保   主編纂者/諸橋轍次  主編纂者/長澤規矩也
(楷書)総画:12               (楷書)総画:12              (楷書)総画:12
部首:曰ヒラビ部                  部首:日・曰ヒラビ部            部首:八部(もと曰)
《曽》は異体字                  《曽》は俗字                      《曽》は略字 

《ここはやはり、許愼『説文解字』をみたい》
わが国には、ふるくから『玉扁』、『正字通』、『康熙字典』など、中国語による「字書」が移入されていたが、それを和訳することはすくなく、いわば「漢漢字書」として、原本のままでもちいてきた。そして、それで当時のわが国にあっては十分だった。
中国語の字書が和訳されるようになったのは、わが国において、字の素養とたしなみや、「漢学」がおとろえ、漢語を理解するものがいちじるしく減少した、昭和期にはいってから本格化している。

上記の3冊の「漢和字書」は、藤堂明保 トウドウ-アキヤス、諸橋轍次 モロハシ-テツジ、長澤規矩也 ナガサワ-キクヤといった、著名な中国学者によってしるされている。
ここでは三者ともに「曾」を本字もしくは正体とし、「曽」を「異体字・俗字・略字」としている。
すなわち、教育漢字でも常用漢字でもなく、いちおう人名漢字ではあるが、「ふつうにもちいられている(漢)字──曾のような字」には定まった名称がなく、それ以外の「ふつではない(漢)字──曽のような字」を、「異体字・俗字・略字」とそれぞれが別途に呼んでいる。
換言すれば、前述の碩学三者においては、「異体字・俗字・略字」は同義語であり、さして差異がないことばということになる。アレッ……!?

もちろん、藤堂明保 、諸橋轍次、長澤規矩也の諸氏は碩学であり、またそれぞれ個性のつよい人物であったようだが、この「新・文字百景」では、やはり原点にもどって、後漢のひと・許愼『説文解字』にあたってみたい。
許愼『説文解字』では、「曾」は第二上、部首は「八部」に掲載されている。

 

『黄侃コウカン手批 説文解字』(黄侃コウカン批校、中華書局出版、2006年5月)には、5行目最上部に「曾」が紹介されている。黄侃は「八」のかたちの上部を連結して、いわゆる「八屋根 ハチ-ヤネ」とした朱記をいれている。

『文白対照  説文解字』(李翰文訳注、北京・九州出版社、2006年3月)には、現代中国の国字(簡化体)によって「曾」がとかれている。ここでは見出し語としての「曾」も、現代中国国字で表記されているため、わが国の「漢字の曾・曽」はもとより、下部の図版に紹介された、いずれの「曾」とも形象は微妙に異なる。すなわち形象と字画がことなるので、いわゆる「画引き」だと利用しにくくなる。
「文と字」とはこのように変化をかさねてきたし、当然、これからも変化をつづけることが予想される。

『漢字源』(電子辞書、藤堂明保ほか、学研、CASIO EX-word) の「曾」には、《単語家族》の項目があり、
「曾」は、層(幾重にも重なる)・増(重なってふえる)と同系 ── としている。なおこの単語家族という考え方は藤堂明保氏に独特のものである。
また、
《解字》の項目があり、以下のように説明している。
「曾」は象形。「八印(ゆげ)+蒸籠セイロウ+こんろ」をあわせてあり、こんろの上に蒸籠セイロウを置き、穀物をふかす甑コシキの姿を描いたもので、層をなして重ねるの意をふくむ。
甑 jìng, zèng(漢字音:ソウ/ショウ、意読:こしき、シフトJIS 8D99)の原字。
また、曾は、前にその経験が重なっているとの意から、かつて……したことがあるとの意をしめす副詞となった。

《曽 は 曾の 異体字・俗字・略字ときたか! だから字書はおもしろい》
手もとの簡便な「字書」によって、「曾・曽」を調べてみた。
もしかすると一部の読者はおどろかれたかもしれないが、「なかそね」の「そ」の、本字乃至ナイシは正字、印刷標準字体は「曾」である。
すなわち「曾」は、旧字でも、旧漢字でも、旧字体でもない。
いっぽう「曽」は、「字書」によってことなるが、いずれも「異体字・俗字・略字、簡易慣用字体」とされている。
つまり第一義的には「曾」をもちいるようになっている。

また部首も、許愼『説文解字』には「八部」に掲載されたが、わが国の字書では、それぞれ、曰ヒラビ部、日ニチ部、八ハチ部と異なっている。
このシリーズ《新・文字百景*001》にもしるしたが、ここでおもにもちいている「字書」とは簡便なものである。再度掲げておく。
【参考資料】 
『漢字源』(電子辞書、藤堂明保ほか、学研、CASIO EX-word) 
『新漢和辞典』(諸橋轍次ほか、大修館書店、昭和59年3月1日) 
『新明快漢和辞典』(長澤規矩也、三省堂、1982年11月1日) 
『漢語大詞典』(羅竹風ほか、上海辞書出版社、1993) 

パソコンに組み込んだATOKによると、以下のように規定していた。もしかするとATOK──ふるいはなしだが、阿波の国・徳島で製造されたソフトウェア、AWA の TOKUSHIMA をつづめて欧字とし ATOK エイ-トック と名づけられた──のほうが著名な字書より適切かつ明快かもしれない。
   曾 → 印刷標準字体  シフトJIS:915C
   曽 → 簡易慣用字体  シフトJIS:915D 

「曾・曽」は教育漢字でも常用漢字でもない。ただし2004年10月、人名漢字488字が追加された際、「曾」とともに「曽」の字が人名漢字となっている。すなわちわが国の人名にもちいることができる漢字は、常用漢字表に掲げられた1,945字と、人名漢字983字をふくめて、合計2,928字であり、「人名」用としては「曾・曽」のいずれもが2004年10月から使用できることとなっている。

ところが文部科学省は、教育漢字と常用漢字には相応なこだわりをみせるが、どういうわけか(もしかすると戸籍管理にあたる法務省、総務省などの管轄とみなしているのかもしれないが)人名漢字には関心が低いようである。したがって、表現がむずかしいが、いわば文部科学省の管轄においては「曾・曽」の字体の相違の是非などはその埒外にある。

そのわりに、ふるくからわが国でももちいられており、また一国の総理大臣の姓でもあったから少少やっかいなことになった。こうした位置づけがあいまいな字は、まま、曾雲→層雲、曾益→増益のように、ほかの字に置きかえられることもある。

わが国でも、金属活字時代には「曾」が圧倒的であった。もちろん「曾」は旧字でも旧漢字でもなかった。「曽」もあるにはあったが略字とされていた。この状態はいまの活字鋳造所でもなんら変わりない。
ワープロなどの情報処理の機器に字も登載されるようになると、各社は独自に文字コードを作成して、電子機器に字を登載しはじめた。なにぶん電子機器の開発と普及速度ははやかったので、各社によって異なった字種と字体と字画形象(デザイン処理)が展開して、一部では互換性などに混乱がみられた。

そこで、経済産業省系の日本規格協会では、文と字にたいして、いわゆる「JIS規格」を制定して、独自の文字コードを作成するとともに、ある写真植字機製造会社の明朝体をもって「例示書体」として業界に提示した。
電子機器製造メーカーは経済産業省の管轄下にあったために、唐突ながら「JIS例示書体」として「例示」された、「ある写真植字機製造会社の明朝体」に倣ナラって、大急ぎで自社の書体の字種と字体と字画形象(デザイン処理)の改変をおこなった。
その折りに、もし、「ある写真植字機製造会社の明朝体」が完璧なものであれば問題はなかったかもしれない。ところが悲しいかな、それが完璧はおろか、おおいに問題を内包したものであったことは不幸だった。
そもそも「完璧な書体」などありうべきものではないという認識にたてば、いくぶん衰勢をみせていたとはいえ、新聞社、印刷企業、金属活字開発メーカーなどとも、叩き台としては「ある写真植字機製造会社の明朝体」でもよいから、それを「あくまでもひとつの参考事例」として、十分に協議・検討してから、「JIS例示書体」を提示しても遅くはなかった。
次回に台湾での同種の制定の経緯を紹介するので、関心のあるかたはそちらも見ていただきたい。

この間の混乱と混迷は激しいものがあった。またこの結果として、文部科学省と経済産業省といった、ふたつの中央官庁が「わが国の文と字」に、行政官庁として関与することとなった。こうした縦割り行政のもとでのさまざまな弊害は、こんにちなお解消されたとはいいにくい。
わずか30年ほど前のはなしだが、あわただしいデジタル環境時計のなかにあっては、遠い過去のはなしにおもえるからふしぎだ。

つまり、大勲位・中曾根康弘氏は、本字・正字、印刷標準字体で「中曾根」とされることは少なく、まったくもって大勲位には失礼なことに!?、「異体字・俗字・略字、簡易慣用字体」といった、要するに俗っぽい略字によって「中曽根」としるされることが多いのである。
この頃では「大沢 → 大澤」、「高崎 → 髙﨑」を主張する向きも多いというのに、もっぱら「異体字・俗字・略字、簡易慣用字体」で表記されるとは、大勲位としてはまことにあわれなことで、同情に値する。
筆者は、大勲位・中曽根康弘氏をはじめ、曽根さん、小曽根さん、中曽根さん、大曽根さん、曽根山さん、曽根崎さん、曽根川さん、曽山さん、曽川、曽田さん、小曽田さん、中曽田さん、大曽田さんら、ご一統さまに、こころからご同情もうしあげているのである。

『漢字源』(電子辞書、藤堂明保ほか、学研、CASIO EX-word) の「曾」で
「曾」は、層(幾重にも重なる)・増(重なってふえる)と同系」としている。
曽根さん、小曽根さん、中曽根さん、大曽根さんといった皆さまの近在には、かつて
このような「幾重にも重なりあった根」をもつ巨木があったことが想像される。
上)新潟市・北方博物館の藤の古木。中)新潟市・坂口安吾記念館の松の巨木。
下)滋賀県彦根市、井伊直弼が藩主就任前、鬱勃と居住していた彦根城玄宮園とその庭木。

ただし、かりそめにも大勲位の威権をもって、「中曽根にかえて中曾根」の使用を強制などしてほしくない。どうやらご本人も、かつての選挙活動の折には、(一票がほしくて?)書きやすい字をえらんだのか、はたまた「曾」の字の存在と、その正俗をご存知なかった シツレイ のかしらないが、「中曽根康弘」と表記していたようである……。わが国の文&字は、この程度の寛容さがあってちょうどよい。 

《曾根崎心中か、曽根崎警察か……、大阪はやっぱりおもしろい!》
大阪の駅舎は、地元では「キタのターミナル」とひとくくりにしているようだが、よそ者にとっては「ここは大阪駅か、はたまた梅田駅か、さっぱりわからん」といった具合で、まことに混乱をまねく地区である。
なにしろJR西日本旅客鉄道の「大阪駅」と、阪急電鉄の「梅田駅」、阪神電鉄の「梅田駅」がほぼ同居しており、それに地下鉄道の東梅田駅と西梅田駅が複雑にからみあい、まして私鉄企業のデパートの位置と駅舎がはなれていたりするので、地下通路、地下商店街などは、まるで迷路の様相を呈している。
 

キタのターミナルには、阪急ビル梅田店の地下に 「紀伊国屋書店梅田店」があり、いっときは大阪一の売り場面積を誇っていた。このターミナルの一角に  旭屋書店本店 もあり、なんどか新刊案内の営業にうかがったことがある。住所は、大阪府大阪市北区曽根崎2-12-6と表記されている。

そのすぐ脇に  曽根崎警察署  がある。同署のWebsiteによると、住所は、大阪府大阪市北区曽根崎2丁目16番14号と表記されている。ところで同じページにこの警察署の管轄区域が紹介されているが、そこには 曾根崎一丁目、曾根崎二丁目がある。
すなわち「曽根崎警察署は、曾根崎二丁目にある」。
グーグル・マップを確認したら、厳格に「曽根崎警察署と、曾根崎一丁目・曾根崎二丁目」をつかいわけていた。偉い! なにが? 
もちろん警察署も官庁であるから、文言や表記には厳格さを要求するとおもえるのだが、いったいどうなっているのだろう。

大型2書店の訪問を終え、このあたりに、近松門左衛門『曾根崎心中』の舞台となった 露天神社 ツユノテン-ジンシャ ──通称・お初天神があったなとおもい、それをみてから昼食でもと脇道にはいった。
探すほどでも無く露天神社 ツユノテン-ジンシャ はみつかったが、その地名板表示の住所は、大阪市北区曾根崎二丁目5-4であった。

空腹をかんじ、ちかくのふるびた喫茶店に飛びこんで珈琲とカレーを注文した。店主らしきオカミさんが暇そうにしていたので、
「このあたりは、曾根崎ですか、曽根崎ですか」
ト、ペーパーナプキンに字を書いて聞いてみた。 オカミさん、得たり賢しとばかり、
「まったくねぇ、警察署はコッチの曽なのに、住所はコッチの曾。おかげでね、市役所や保健所など、役所の書類なんかは面倒ったらないの」
ト、訛りのつよい大阪弁でまくしたてた。

《木曾路の旅籠は旧漢字?!》
ある年の早春、白い辛夷コブシの花が咲くところをみたくて、堀辰雄『大和路・信濃路』(1943)を鞄にしのばせて中央線に乗り、木曾路経由で大和ヤマトをめざした。その気軽な旅をつづった文章をある雑誌に発表した。「木曾・木曾路・木曾路の旅籠ハタゴ」などをしるした原稿をわたしたら、すべて「木曽・木曽路・木曽路の旅篭」に置きかえられていた。

ゲラ(校正紙)を持参した某編集嬢いわく、
「この木曾の部分が旧漢字?! になっていたので、新漢字に直しておきました」
ト、きっぱり。
唖然とするだけだったが、「字書」のコピーを添付して原稿どおりになおしてもらった。
唖唖!ついに「曾」を旧漢字・旧字体にされてしまった。かりそめにも編集者にしてこれだから、「曾と曽」で困惑しているのは大勲位・中曾根康弘氏だけではないということか。

次回に、中国唐代の字の「正体・俗体・通体」をさだめた、顔元孫撰・顔真卿書『干禄字書 カンロク-ジショ』の紹介と、日中における「異体字・俗字・略字」の解釈の相違点を紹介したい。そしてわが国ではほとんど無視されている、字における「或体 ワクタイ」の存在も紹介もしたい。

また、わが国の近代漢字の字書をつくった、藤堂明保 トウドウ-アキヤス、諸橋轍次 モロハシ-テツジ、長澤規矩也 ナガサワ-キクヤといった、個性豊かな人物を紹介したい。
つまり、一見、堅牢かつ威厳をもって存在するかのごとき「字書」も、ひとかわ剥けば、文&字と同様に、ひとがつくったもの。だから「曾」の部首がそれぞれ異なっていたり、「曽」をそれぞれが「異体字・俗字・略字」として別途の名称をもって紹介したりもする。
 
そこでいたずらに批判をすることなく、その製作者の人物像にせまったら、「字書」にたいするあらたな愛着がわいてくるというものだ。──年越しの宿題をみずからかかえ込んでしまったかな。

朗文堂-好日録015 五日市ランドスケープ、佐々木承周老師

朗文堂─好日録015

ふしぎなエートスの存する町
五 日 市 イツカイチ
そして、佐佐木承周老師のことども

『風景資本論』刊行にちなんで

《『風景資本論』を鞄にしのばせて、ちいさな旅にでた》
『風景資本論』(廣瀬俊介著、朗文堂)が刊行された。著者の廣瀬俊介氏はこうかたっている。
「地域の資本となりうる風景ランドスケープとは、どのようなものか。風景の読み方、風景のデザインを、本質と事例から考察する」
この新刊書を鞄にしのばせ、やつがれ、つめたい雨のふるいちにち、晩秋の五日市にでかけた。行き帰りの車中で『風景資本論』をあらためて読み、さまざまなことどもを考えさせられた。

そしていま、それぞれの風景をあらためてこころに描き刻みつつ、震災におそわれ、原子力発電所の大事故におかされ、悩み苦しむこの国のこしかた、これからをおもった。
というわけで、今回は東京の西端の町、「五日市の風景」を紹介したい。

《山川の町に育ったせいか、近郊の五日市が好きになった》
雪ふるちいさな町、千曲川に沿った奥信濃の田舎町で育った。そのせいか、山と川のある風景がここちよい。
関東平野の東京に住んではや40年ほどになろうというのに、どうにもこうにも、こんなのっぺらぼうとした風景や風土に馴染めないでいる。東京のどこに立っても、東西南北が明確にわからない。要するに田舎もの。

やつがれの郷里、信州信濃の飯山では、千曲川の上流が南、下流が北、高社山タカヤシロが東、斑尾山マダラオが西と、山川による陸標、ランド・マークがはっきりしていた。
そして冬にはあたり一面丈余の雪にうもれ、春には野面をうめて香りたつ野の花が咲き、夏には灼けるような烈日が地をあつくし、秋には全山燃えたつがごとき紅葉と、四季折折の風情があり、季節にあわせた花卉や農作物がもたらされていた。

ところがやつがれ、格段には地理オンチとおもわないが、神田神保町ジンボウ-チョウの地下鉄道で下車して、迷路のような地下道をめぐりめぐって地上にでると、似たようなビルが立ちならんでいるばかり。こうしたユークリッド幾何的形態? の空間はまったく苦手である。だからいまもって、九段方向がどちらか、一ッ橋方向がどちらかがわからなくてこまる。

地理案内板、サインボードもあるにはあるが、林立するどぎつい色彩の広告看板に押しのけられて頼りない。かといって、東京タワーやスカイツリーのみえる範囲などたかがしれているし、そんなものを陸標ランド・マークとするのもなさけない。
そんなわけで田舎もの、遠出の旅はしんどくなったが、なぜか週末になると、関東平野を脱して、山川サンセンのある風土に身をおくと落ち着くのだ。

エートス Ethos はギリシア語で、エトスとも音される。ご存知のパトス Pathos 感情・激情の対語である。
すなわち簡略に述べると性格・心性であり、ある社会集団にゆきわたっている恒常的な感性・情念であり、ときとして色彩感覚や宗教観や死生観であろうか。

どうやらやつがれ、田舎育ちのゆえに、地霊・山霊・岩霊・艸霊・木霊・水霊のふところに身をゆだねると安堵するエートス──性癖ないしは心性があるらしい。こうした山川の地では、一木一艸がいとおしく、小川のせせらぎ、かすかな瀬音、どうということのない路傍の小石までがこころをなごませる。

      

東京都心から40-50キロほど、東京の西の端に「東京都 あきる野市 五日市」がある。JR五日市線の終点で、新宿から直通電車で800円ほどの電車賃でいける。駅から檜原ヒノハラ街道をたどると、すぐに杣山ソマヤマをぬうように急峻な坂道となり、奥多摩の切り込みのふかい山襞がせまってくる。
このあたりが、樹木を植えつけ材木をとるための「杣山ソマヤマ」として拓けたのはふるかった。また後背地の奥多摩のひろい林や森から伐採された木材・木炭が、五日市にあつめられ、そこから関東平野一円に出荷されたという。

寺社もおどろくほど多い。ふるく、源頼朝の命によって1191年に建立されたとされる真言宗「大悲願寺」は、鎌倉幕府開設──1192 イイクニ つくろう 鎌倉幕府──の前年のことである。この古刹にたつと、この寺に込められた源頼朝の「大悲願」とはなんであったのかを考えさせる寺でもある。

また五日市には、室町幕府の祖・足利尊氏(1305-58)がひらいたとされる臨済宗「光源寺」があり、ともに臨済宗の寺で、江戸初期の創建らしき、清楚なおもむきの「広徳寺」もある。

《五日市町からあきる野市へ──平成の大合併》
ゆたかな秋川渓谷の清流を水運として、ふるくから木材や木炭が五日市にあつめられたという。江戸時代には檜原ヒノハラ街道にそった五日市の町並みに、木材商と木炭商が軒を連ねて殷賑をきわめたそうである。したがって町制を敷いたのはふるく、1889年(明治22)町村制施行と同時に、神奈川県西多摩郡五日市村と、小中野村が合併して「五日市町」が誕生した。

この時代、いまこそ繁華なまちとしてしられる渋谷も八王子もまだ鄙びた村でしかなく、五日市が町として誕生したのはおどろくほどはやかったことになる。
またこのころは、多摩地区一帯は神奈川県に属していたが、上水道用水の大量確保をもくろんだ東京府が、1893年(明治26)、神奈川県から、西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡とともに、五日市町も東京府に編入せしめたものである。
林業の衰退とともに、往時の殷賑のおもかげはうすれたが、それだけに、落ち着いた、古き良きものが、さりげなく存在する町でもある。

五日市駅までは新宿から直通電車もあるが、東京駅からだと中央線の立川で乗り換えて拝島線に、さらに拝島で五日市線に乗り換えて終点までのちいさな旅となる。
この五日市鉄道(現在のJR五日市線)の敷設もはやかった。すでに1925年(大正14)には、五日市の木炭商らの出資によって、私鉄五日市鉄道(その後国有鉄道を経てJR)の敷設をみている。すなわち大量の木炭や木材の物資輸送に欠かせなかったのがこの傾斜のある鉄道路線であった。

1995年(平成7)いわゆる平成の大合併のさきがけとして、五日市町は隣接する秋川市と合併して「あきる野市」となった。このあらたな市名の由来は、このあたりがふるくは、「秋留アキル、阿伎留アキル」と呼ばれていたことに発したが、秋川市が主張した「秋留市」と、五日市町が主張した「阿伎留市」で議論が二分して、ひら仮名混じりの「東京都あきる野市」とすることで決着をみたそうである。

《茶房 むべと、高橋敏彦氏》
あきる野市一帯では、ある種のおだやかなデザインの統一がみられて、それがふしぎな「景観」をかもしだしている。たとえば、秋川谷口にある料理屋「黒茶屋」、併設されている「茶房糸屋」の看板や各種の印刷物、あきる野市と第三セクターが開発した「瀬音の湯」のカログラムなど数えきれない。
そこにもちいられている、てらいのない飄逸な書と、ほのぼのとした絵とが、CI とも町おこしともバナキュラともいわず、たくまずしてこのあたりの「景観」を形成していることに驚かされる。

これらの書藝や絵画を精力的に製作しているのは高橋敏彦氏という。1942年(昭和17)うまれ、御年69歳。ごま塩まじりの白髪で、美鬚のデザイナーである。
高橋氏はかつて都心部にデザイン事務所を構えたこともあったが、30年ほど前から、檜原村との境にちかい、見晴らしの良い高台の地に住まい、地元密着のデザインをねばり強く展開してきた。さらに自宅離れを改築して、自作の「ミニ・ギャラリー」と、「茶房 むべ」を開設した。

「むべ」とはこのあたりでは「アケビ、木通、通艸」のことである。むべは蔓状をなして山地に自生する。春たけなわのころ、あわい紅紫のちいさな花をつける。晩秋のころ、果実が紫に熟して縦に割れる。果肉は厚く、半透明の白色で、たくさんの黒色の種子を含んでおり、とろりとした甘味で食用になる。蔓は強靱で各種の細工にもちいられる。

やつがれ、五日市に出かける楽しみのひとつが、「茶房 むべ」の香味のつよい珈琲を味わい、高橋翁とのくさぐさのかたらいのひとときである。こんかいは庭先に「むべ アケビ」がブラリとさがっていた。それがなんともいえずよかった。
店内は禁煙なので、いつも(たとえ少少寒くとも)庭先の四阿アズマヤに腰をおろし、清澄な川面をわたる薫風や、山颪ヤマオロシの木の香を愉しむ。そして鳥や蟲の聲、かそけき渓谷の瀬音に耳をかたむけながら、一杯の珈琲を味わい、紫煙をくゆらすのを無上のよろこびとする。

2011年11月19日[土]折からの雨だったが、フトおもいたって五日市にでかけた。雨はきらいではない。むしろ人混みがすくなく、景観が落ちつき、しっとりしていてよいとおもう。町のあちこちに、映画『五日市物語』のポスターが貼られていた。タイトルの書はあきらかに高橋氏の手になるもの。サブタイトルに、
「五日市、それは時が止まったような、東京のふしぎなまち」
とあった。
そのフライヤーを四阿アズマヤでよくみたら、「プロデューサー:高橋敏彦」とあった。もちろん「茶房 むべ」のあるじ、高橋氏のことである。

高橋氏は字も書くし(書藝をまったく誇らないが良い字だ!)、ほっこりした絵も描く。そして陶芸もこなすらしい。つまりひと世代前の、図案屋さんとよんでいたような本物のデザイナーであり、なんでもかんでも造形家であり、技芸家でもある。すなわち誇り高きアルチザンである。
そして、その技倆と、知性が卓越していることが、このひとを特徴づけ、地元・地域の信頼をあつめている。今回は映画『五日市物語』のプロデューサーをつとめている。

主演女優は遠藤久美子であるが、ポスターにもちいた写真では、マグカップを両の手で抱えていた。この写真におもわず視線が釘づけ! これは高橋氏の製作に違いないとおもった。
やつがれ、10年ほど愛用していたお気に入りのマグカップ──軽井沢の車屋で買ったもので、立原道造モデルとして愛着があった──をわってしまって、さびしいおもいをしていた。

遠藤久美子はいかにもいとおしいという手つきで、木肌色のマグカップを両のてのひらに抱えていた。大きさといい、色味といい、質感といい、これは好みだ! もちろん遠藤久美子ではなく、マグカップ。
リンクを貼っておいたので『五日市物語』の公式サイトをぜひみていただきたい。
おもわず奪いとりたくなる逸品ではないか。
ウ~ン、映画鑑賞の前に、まずは高橋氏にこのマグカップをねだらなくてはならないようだ。

《西のほうの古都の名刹におとらない清楚な寺 広徳寺──そうだ! 五日市にいこう!》
晩秋のつめたい雨に濡れながら「広徳寺」をめざす。これまで五日市は何度か訪れたが、いわゆる観光や寺社巡りははじめてだった。
〔どうせ、山寺。たいしたことはなかろう〕
とおもいながら急峻な坂をのぼった。
傾斜がいくぶんなだらかになったとき、いきなり広徳寺の茅葺きの総門があらわれた。いかにも禅寺らしい簡素なたたずまいがよい。おもわず扁額に目を奪われる。コバルト・グリーンのような大胆な色彩で「穐留禅窟」とあった。

 

この扁額を書したのは、江戸後期の出雲松江の藩主・松平不眛公だと傍らの解説板にあった。
調べてみたら松平不昧フマイこと、松平治郷ハルサト(1751-1818)は、茶人としてしられ、号して不眛。茶道につうじて石州流不昧派をおこし、また禅道・書画・和歌にもつうじたひと。不昧公は江戸期の凡庸な譜代大名のなかにあって、傑出したひとであったそうな。

扁額にみる「穐留禅窟」の「穐」は、「秋・穐・龝」と同音同義の字で、いまは市名となったこのあたりの古名「あきる → 穐留」をあらわす。したがって「穐留禅窟」は、「あきる の 禅の 岩屋」ほどの意になろうか。
おおぶりな骨格といい、大胆な色遣いといい、この山の寺にふさわしいよい書であった。

ただし出雲の国の不昧公が、なぜこの山深い五日市の禅寺の扁額を書したのか、解説板にはなにも記述はなかった。それがいかにも自彊ジキョウをおもくみる禅寺らしく、
〔興味があるなら自分で調べよ〕(ムカッ)
といっているようでかえってよかった。だからやつがれ意地になって、不昧公や、「穐留禅窟」を調べたということ。

   
総門をぬけると、つぎに現れたのが、茅葺の屋根を持つ重厚な二層の山門。こぢんまりとしているが、これが江戸期の構築物かと疑いたくなるようなおだやかさがある。遠目にはそれと気づかない二層の屋根のわずかな反り具合と、それを支える肘木ヒヂキの文様が軽やかである。こまやかな肘木の組みあげも、この茅葺きの屋根をかろやかにみせている。

また上層にある唐様のふたつの窓と、そこに貼られた真っ白な手抄き紙が、この古風な山門に、明暗、印影、めりはりをあたえている。

山門からは右手に、鐘撞き堂、左手に経蔵をへだてて本堂が望めるが、そのひろびろとひらけた前庭に、まるで塔宇のように、公孫樹イチョウの大樹がふたつ並んでいる。かなりの雨降りだというのに、この一画では写生会でもあるのか、10数名のご隠居連が雨をさけながらスケッチブックをひろげていた。

 

すっかり色づいた公孫樹がハラハラと葉を舞い落とす。その黄色くくすんだ落ち葉を踏みしめながら本堂に達する。大屋根は苔むしてはいるが檜皮葺きヒワダ-ブキ。贅沢なものだ。
本堂をぐるりとまわりながら、裏手のお廊下と濡れ縁をさりげなくこする。

そして、佐佐木承周老師のことども

佐佐木承周老師(アメリカ版Websiteより)

上)  ロスアンジェルス「臨済寺」にて。1989年12月23日、老師82歳ころ。
下) ご本堂前、老師と当時45歳ほどの筆者。小型カメラに日付表示機能があった20年ほど前。
このとき老師は開口一番「ジロウちゃん、おねしょは治ったかね?」で辟易ヘキエキした。
12月23日にロスにいき翌日のクリスマスイヴ、先方の指定日時にサンフランシスコにいって、
「パソコンの奇才」 と会見した。懐かしい写真が偶然見つかったので、ここにアップした。
この翌日 「パソコンの奇才」と会見写真は撮影のふんいきもなかったので、無い。

実はやつがれ、ゴ幼少のみぎり、短期間とはいえ禅寺に押し込められたことがある。そのときいちばん辛かったのが、禅寺では東司トウスとよぶ便所の掃除と、ご本堂や庫裏の板敷きのお廊下と濡れ縁の清拭だった。
これらの苦役・雑役モトイ禅寺での作業は「作務サム」とよばれる。ご存知の「作務衣サム-エ」を身につけて、清掃はもとより、東司の汲み取りから農作業までを、仏道修行としておもくみる。

これが禅の修行の最初だと、クソ坊主 モトイ、モトイ! テイセイ-イタシマス 佐佐木承周ジョウ-シュウ老師にいわれた。もとより、あまりにわんぱくで、悪戯がすぎて、オヤジと旧知の佐佐木老師の禅寺に放りこまれただけで、禅僧になろうとは露ともおもわぬやつがれだった。
だから読経や座禅は逃げまくったが、鼻水をたらしながら、修行の最初とされる、拭き掃除、掃き掃除、すなわち作務ばかりをさせられた。その修行の甲斐はご存知のとおり、まったくなかった……が。

この佐佐木承周ジョウ-シュウ老師というひと、お化けだ。いや怪僧というべきか、名僧はたまた傑僧というべきか……。
死んだオヤジと同年の1907年(明治40)うまれだから、もう105歳になるはずだが、いまはアメリカ西海岸の、ボーイ・スカウトのキャンプ地の一部を改装したという、どうひいき目にみてもキリスト教会としかみえない、まことにもって奇妙な白堊の禅寺「臨済寺」の住職として居住している。

かつて、この「臨済寺」に老師をたずねたことがある。その折り、紅毛碧眼コウモウ-ヘキガンひとが、まるめたあたまに菅笠をかぶり、墨染めの衣をつけ、素足に草鞋ワラジをはき、ゾロゾロ連れだって托鉢タクハツにでかけたのでおどろいた。
ロスアンゼルスの町のたれが喜捨に応ずるのかわからなかったし、丈が足りないのか、衣の裾から毛ずねをむきだしにして歩みだした、紅毛碧眼ひとや、アフリカ系アメリカひとの雲水どもを唖然としてみおくった。
鐘楼は軒先にブラリとさがったふしぎなシロモノで、どこかの耶蘇ヤソの寺(教会かな?)からもってきたような珍妙な梵鐘を、大まじめで叩いて モトイ 撞いていた。

佐佐木老師は、やり手モトイ非凡なひとだから、ほかにも西海岸一帯に禅寺をいくつもひらき、105歳のいまもってきわめて壮健らしい。しかも4月1日のうまれだから? 悟りすましたようなことも平然といってのける。
また真偽のほどは保証のかぎりでない(つい先ほどノー学部に教えられたWebsite情報だ)が、映画『スターウォーズ』のヨーダのモデルは、この佐佐木老師だとされている!

書店に「赤いひと囓りのリンゴ」関連書が山積みなので、しばらくは避けたい。それでもいまの高揚期が落ちついたら、「赤いひと囓りのリンゴ」創業者のこととあわせて、本欄でも紹介したい、一代の化けもの モトイ 傑物が佐佐木老師であることだけは間違いない。
アメリカの一部では佐佐木老師をすっかり神格化し、ダライ・ラマ、ローマ法王、Sasaki Roshi  とならべて紹介している  Website  もあった。いくら幼少のときとはいえ、老師のさまざまな行蔵を間近でみてきたやつがれ、いささかウ~ンとうなるしかないアメリカでの過熱ぶりであった。

やつがれこのクソ坊主 モトイ 佐佐木老師には、さんざんゴツンとなぐられ、説教をくったが、寒さとさびしさ? のあまり、ついつい粗相した寝ションベン布団を、なんども干していただいたことがある。ともかく大恩のあるかたであることは間違いない。
もし、こんなことにご興味・関心のある、かわったかた?は、佐々木老師、佐々木承周 で検索してほしい。
やつがれ、五日市で雨宿りのおり、ノー学部に〈禅宗における、臨済宗と曹洞宗の違い〉を述べさせられた。かつて「赤いひと囓りリンゴ」の創業者も、佐佐木老師に関心を寄せたときがあり、おなじような質問を浴びせられたことがあった。
「門前の小僧、経を詠む」というが、禅宗臨済の寺では『観音経』ぐらいしか詠まなかった。そんなやつがれに、深遠な禅のこころなどわかるはずもなく、いずれもしどろもどろで答えた。

ところがそれにものたりず、また、つねづねやつがれが口にしていたクソ坊主、モトイ 佐佐木老師のことをふくめて、ノー学部があれこれと検索して、つい先ほど教えられたこと。ともかく佐佐木老師に関して、Websiteがひどいことモトイあつくなっていた。
やつがれはまったく知らなかった。まさか、かの佐佐木老師さまが、こんな話題のひとになっているとは!
英語版 Sasaki Roushi Joshu Sasaki だと、おどろくほどの数にヒットする!

禅寺、なかんずく戒律がきびしかった臨済宗妙心寺派の寺院では、雲水ウンスイはもとより稚児僧チゴ-ソウなぞは、足袋の着用などもってのほか。早朝の寒い北風のなか、サイズの合う作務衣がなく、ましてフリースなどという便利なものはなかった。だから、薄っぺらな「体育用トレパン」(古)を身につけ、シモヤケとアカギレの手で雑巾を固く絞り、駆けるようにすばやく、広い濡れ縁を駆け巡って清拭する修行はつらいおもいでとしてある。
この「修行」のおかげで、やつがれ、もっとも苦手な作業、モトイ修行乃至ナイシは作務サムが「掃除」となってしまったほどのものである。

ところが雨のせいもあったのか、「広徳寺」では、格別には雲水の姿はみかけなかった。それでも住持がなされているのか、ご本堂裏手の濡れ縁は清拭がゆきとどき、指先にはまったく埃がつかなかった。
これだけでやつがれいたく感嘆。西のかなたの観光寺院では、こんな簡単なテストでいつも失望させられているだけに、ただただ単純に、
〔すげえなぁ〕
とおもってしまう。

《大悲願寺でノー学部 異なもの発見!再訪確実となる》

    

いつのまにかやつがれ、撮影担当から追放された? そもそも写真を撮るつもりが動画画像になっていたり、ときおり撮影データをそっくり消去してしまうので、はたの信頼を失った。決定的だったのは、集合写真を撮った際。
「はい、チーズ!」
ト、責任と緊張に打ち震えながらも、自信満萬をよそおいつつ、至極にこやかに撮ったが、不幸なことにみんなの首から上が、フレームからはみでて、ちょん切れていた。別に悪意はない。至極真面目だった。

もとから極めつきの機械オンチであるから、臨場感のあるファインダーを覘くのならともかく、あのいろいろな情報が涌いてくる薄気味わるいガラス板を避け、被写体の皆さんをみつめながら、
「はい、チーズ!」 ── パチリ!
とやっただけ。

以前なら現像しないとわからなかった〔バレなかった〕ことだ。ときどき〔まれにかな?〕素晴らしい写真をとったこともあるほどだ。ところがどんな操作をするのかしらないが、最近のカメラは現像・停止・定着もしないで、直後に撮影結果がみれるようになっている。
そこで〔どうも吾輩の腕前を疑っていたらしい〕みんなが、やつがれからカメラをとりあげて、
「どれ ドレ?」
とのぞき込んだところ、(案の定)みんなの首から上がギロチンでサッパリと、斬首の刑のあとのように無かったという次第。やつがれまったく他意は無いのに、一斉につめたい視線をあび、侮蔑されるにいたった。
たかがスナップ写真の巧拙だけで、人格を云云ウンヌンするほどでもあるまいに……、ト、やつがれ悔しまぎれにおもうのだが、いつのまにか、さして使用していない新品同様のデジタル式ナイコンカメラを、《使う資格無し》としてとりあげられた。そして撮影担当から放逐された。

閑話休題 トコロデ── 撮影係のノー学部。やつがれの指示する撮影箇所を無視して、そこらの野艸ばかりを撮っている。はるか昔は昆虫少年だったから、トンボやチョウにはいささか詳しいが、艸木には疎い。だから「山茶花サザンカ と 枸橘カラタチ と 椿ツバキ」などを取り違えることもある。
そうするとノー学部出身をかさにきて、
「あれは山茶花です。椿じゃありません!」
ト、居丈高になるのは感心しないなぁ。
スミレもタンポポも、花をつければ、なべて、やつがれの大好きな「艸花」だ。

「大悲願寺」は、「広徳寺」とは秋川をはさんで対岸にある。真言宗の古刹である。寺伝によると、源頼朝の命によって1191年に建立されたとされる。
また、江戸時代初期、仙台藩主・伊達政宗(1567-1636)が鮎漁に秋川をおとずれ、庶弟が住持をつとめていたこの寺を訪れ、いっぷくの茶を服したという。その折り、庭に咲いていた白萩があまりに見事だったので、仙台にもどったのちに、この寺の白萩を所望したと伝える。その伊達政宗の書状も寺に保存されている。

その白萩は花のときを終え、こうべを垂れてつめたい雨にぬれていた。だから参拝者も観光客もたれひとり「大悲願寺」にはいなかった。それでもやつがれ、真言の寺は、その荘厳の大仰さと、さまざまないわくありげな象形のゆえに、いささか苦手とする。だから雨足がつよまったのを口実に、早早に「大悲願寺」を退散して雨宿り。

《そこでやつがれ、紫煙をくゆらせ夢想した……。》
五日市から檜原ヒノハラ村にかけては、ふるくは山塞だったとされる場所が多い。ちいさな石積みのうえに、山塁跡とおもえる平坦地があったりする。檜原村のひとなど、いまも「杣人 ソマウド」とよんだほうがよいほど、荒ぶる形相のひともいる。

かつて源頼朝が天下取りのいくさをはじめたとき、その呼びかけに応え、このあたりの屈強な杣うどどもが、一所懸命とばかり、鍬クワと鎌カマをなげだし、鉞マサカリと斧オノをほおり捨て、鎌倉街道をいっさんに頼朝のもとに駈け参じたのではないか……。

杣うどどもは、野馬にあわただしく鞍をのせ、野鍛冶がうった頑丈な大刀を帯び、むき身の大鎗をひっさげて、
「いざ、いざ、いかなむ、鎌倉へ!」
と、頼朝の陣へ、形相もすさましく、押し合いへし合いしながらはせ参じたのではないかと……。
そのために幕府開設前年の1191年、頼朝は屈強な兵士団をもたらすこの山間の地に、「おおきな悲願」をこめて真言の寺を設けたのではないのかと……。

とすると──、映画『五日市物語』のサブタイトル、
「五日市、それは時が止まったような、東京のふしぎなまち」
には、僭越ながら少少異論がある。

ここ五日市の時は決してとまっていない。耳を澄ませばとおいときの聲が、なんのまどいもなく聞こえる──。
いななく野馬の鳴き声。喚オめくがごときもののふの野太い雄叫び。くびきを接し、地響きたててひたはしる駒のひづめの音。そして空中に高鳴る鞭の音……。
大木をうち倒す斧の硬い金属音。白煙をあげる炭焼き小屋からは、薪にするノコギリの規則正しい往復音。野面にわく童ワラベどもの歓声……。

やつがれにとっての五日市とは、そんなふしぎなエートスが、大地の深くにまで刻みこまれた町である。源平の昔からの、心性や感性が刻みこまれた風土があり、それがいまの五日市の景観をなしている。すなわち五日市とは、古い時代の、いきざま、情念のごときエートスをふところふかく秘めた、時代とともにいきる町である。

そしてこの地のエートスは、一朝一夕に浸蝕され、消滅するはずはない。それはいまもこの地の山川に、そこにいきるひとびとのあいだに、脈脈と鼓動し、浸出し、おりにふれて噴出するはずのものである。
その刻みこまれたエートスのほんの少しを、さりげなく掘りおこしているのが、「茶房 むべ」のあるじにして、アルチザン、「高橋敏彦氏」ということになろうか。
五日市は、これからもいきつづける、ふしぎの町、あやかしの町、エートスを実感させる町として存在している。

ところでノー学部。まだ雨の降りしきる「大悲願寺」の庭をウロウロ。煙草をふかし、すっかり夢想にふけっていたやつがれをふいに呼び、庭の片隅にほとんどうち捨てられている、ふるぼけた掲示板をみろという。
驚いた。正直驚いた!──。まさしく新発見だった。
その報告はもうすこし調査を重ねてからにしたい。すなわち、五日市再訪は近いということになった。

◎ 本日11月23日 勤労感謝の日で休業。六白 先勝 みずのえ うま。
ET展 Embed Technogy がらみで来客多し。 おもしろき話題少なし。