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【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史

『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年版、486ページ、非売品)
上)書容全貌  下)口絵Ⅰ:銅版画を原版として電気版をおこして印刷したとみられる

『東京築地活版製造所 活版見本』は、当時東洋一の活版製造所を誇り、自他共にそれを許した東京築地活版製造所による、わが国活版印刷史上最大規模を誇る「活版見本」である。
同社では明治中期以降「大見本帖の作成中」としばしば広報していたが、日清戦争(1894-95)、為替変動、経済変動などの影響があって遅延していたものである。

また刊行直後には日露戦争(1904-05)に突入するという国家的な緊張下にありながらも、第四代社長:名村泰蔵(1840-1907)の指揮によって、ようやく明治36年-1903-11月01日に完成をみた大冊の見本帖である。
主要内容 ── 活字:120ページ、花形・オーナメント:174ページ、電気銅版:180ページ ほか。前後のつき物を含めて486ページの威容を誇る。

稿者蔵書には贈呈番号「壱壱貳-112」がしるされ、のちに東京築地活版製造所の役員になった人物への寄贈書であったが、それに続く、口絵Ⅱ、表「本木昌造胸像」図版、裏「第一-第五回 内国勧業博覧会」授賞記録の一丁が脱落していた。
そのため贈呈番号「壹四-14」がしるされた旧帝国図書館に寄贈された同書、現在の国立国会図書館の公開データーからその一丁裏を補って紹介した。

「内国博覧会」受賞記録の口絵は、マイクロフィルムからのデーター変換のため、特色印刷部分がモノクロとなり、やや不鮮明ではあるが、ページ上部の「第一-第五回 内国勧業博覧会」にみる活字は、のちに紹介するいくぶん扁平な一号装飾書体見本「一号三分ノ二 フワンテール形」活字である。

【印刷事典 第二版】(大蔵省印刷局、昭和41年)
* 『印刷事典』では第二版からこの項目が登場し、現行の第五版まで微修正を経て継続紹介がなされている。第五版では「ファンテル → ファンテール」と新かな使いに変更されている。
* 『印刷事典』では「装飾活字」の項目は「ファンシータイプ」へ誘導される。
 
ファンシータイプ fancy type ; Auszeichnungsschrift, Zierschrift
意匠組版に用いられる装飾活字体。本文活字に対していう。アウトライン(outline)・シャドー(shadow)・シェード(shaded)などのように輪郭線だけのもの、影つきのもの、万筋(まんすじ)入りのものなどをはじめ、ローマン体の特に肉太(にくぶと)の書体もこれに含まれ、その他これらの範囲に属さない装飾活字書体も多数ある。(同)装飾活字 →

ファンテルたい ── 体
和文活字の書体名。装飾活字の一種。明朝体とは反対に、縦線が細く横線の太い特殊な書体で、年賀状あるいは広告組版など以外にはあまり使われない。邦文写真植字機〔写植活字〕にもこの書体がある。

口絵Ⅱ「第一-第五回 内国勧業博覧会」受賞賞牌(賞杯)記録の活字(下部)は、いくぶん丸みをおびたゴシック体活字であるが、画線部の肥痩がめだち、重心が揺らぐなどの未整理な形象が気になる。すなわちまだ素朴ではあるが、それだけに味わいのある、初号装飾體見本のうちの「ゴチック書體 ≒ ゴシック体」の興味ぶかい標本である。
この上掲図版とほぼ類似の組み合わせ、すなわちフワンテール FANTAIL と、丸ゴシック系の欧文書体 ROUND GOTHIC が、『東京築地活版製造所 活版見本』 pp 53 に紹介されている。

『東京築地活版製造所 活版見本』活字編 53 ページに紹介された欧文活字に「 FANTAIL.  No.1 」がある。上段は「PICA」で、フォント・スキーム[活版印刷用語集 フォント・スキーム]は 30 A, 60 a, 8 łbs と表示されている。
すなわちこの活字の名称は「 FANTAIL.  No.1 」で、サイズは「PICA=12 pt」、フォント・スキームは 30 本の A, 60本の a のキャラクターで構成されており、重量は 8 łbs = 8 ポンド ≒ 3,628 グラムであることをあらわしている。

『東京築地活版製造所 活版見本』活字編 53 ページに紹介された欧文活字に「 FANTAIL.  No.1 」がある。その下段は「2 – LINE SMALL PICA 」で、フォント・スキームは 28 A, 60 a, 8 łbs と表示されている。
すなわちこの活字の名称は「 FANTAIL.  No.1 」で、サイズは「2 – LINE SMALL PICA =21 pt 二号活字格」、フォント・スキームは 30 本の A, 60本の a のキャラクターで構成されており、重量は 8 łbs = 8 ポンド ≒ 3,628 グラムであることをあらわしている。

【 英和辞書にみる  ファンテール fantail 】

1 扇形の尾[端、部分]。
2 クジャクバト:扇形の尾を持つイエバトの一品種。
3 扇形の尾を持つ小鳥の総称;アジア南部、ニューギニア、オーストラリアなどに分布するオウギヒタキ属 Rhipidura の各種のヒタキ(fantail flycatcher)や、米国産のオウギアメリカムシクイ(fantailed warbler)など。〔以下略〕
[参考:ランダムハウス英和大辞典(小学館)図版とも]

【 欧文活字にみる  ファンテール fantail 】

ファンテール Fantail
欧文活字書体 Fantail は、19世紀英国のビクトリア朝を模した書体として知られ、命名の由来となったとみられる孔雀鳩の尾のように、おおきく広がった画線部先端の処理が特徴である。
またふつうの欧文・和文活字に共通してみられる、縦画を太く、横画を細く描くのとは逆に、縦画が細く、横画が太く書かれていることを特徴とする。いわゆる「猫足型」のカーブや尖端には、仏国のアール・ヌーボーの影響もみられる。

「Fantail」の最初は、米国オハイオ州シンシナティのフランクリン活字鋳造所の1889年版活字見本帳『Convenient Book of Specimens』(Franklin Type Foundry)に「Fantail」の名称で、おもに大きなサイズで登場したとされる。

1892年にアメリカ活字鋳造所会社(略称:A T F,   American Type Founders Company)が設立されると、同社もその販売店となったとみられ、稿者所有の A T F 活字見本帳1907年-明治40-には、Franklin Type Foundry の名称はすでに無く、かつての所在地が「Selling Houses-Cincinnati, Ohio  124 East Sixth Street」とされた紹介をみる。
[参考:フワンテル形、またはファンテール書体について  何某亭 WebSite 雑文集積所

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中央の罫線から下、上段は「 ROUND GOTHIC,  No.2 」が紹介されている。
すなわちこの活字の名称は「  ROUND GOTHIC,  No.2 」で、サイズは「ENGLISH ≒ 13.75 pt  旧四号活字格 」、フォント・スキームは 35 本の A, 65 本の a のキャラクターで構成されており、重量は 10 łbs = 10 ポンド ≒ 4,536 グラムであることをあらわしている。

中央の罫線から下段は「 ROUND GOTHIC,  No.2 」が紹介されている。すなわちこの活字の名称は「  ROUND GOTHIC,  No.2 」で、サイズは「3 – LINE PICA=36 pt 」、フォント・スキームは 10 本の A, 15 本の a のキャラクターで構成されており、重量は 20 łbs = 20 ポンド ≒ 9,072 グラムであることをあらわしている。

*    本稿でのポイントとは「アメリカン・ポイント」をあらわしている[サラマ・プレス倶楽部 活版印刷用語集 活字の大きさ]を参照
フォント・スキームは[サラマ・プレス倶楽部 活版印刷用語集 フォント・スキーム]を参照。
なお当時の業務用欧文活字の販売は、フォント・スキームによる字種構成・字数配当にもとづき、その重量で価格が設定されていた。

**  『東京築地活版製造所活版見本』の組版版面は、ほんの一部に異同はあるが、左右 35 PICAS( 12pt × 35 PICAS=420 points ),  五号40倍(10.5pt ×40倍=420 points )、すなわち 左右 420 points に統一されている。
***  五号40倍とは「魔法の小箱=文選箱」の長辺の内のりに等しい。そのため活字組版上における利便性がたかく、小社サラマ・プレス倶楽部が現在も製造・販売している「木インテル」は、五号 40倍・12pt  35倍(420pt)と、五号 24倍・12 pt  21倍(252 pt)が主流である。

[参考:【かきしるす】文字組版の基本|ポイント (points)、パイカ (picas)、ユ ニット (units) |現代の文字組版者にとって基本尺度/スケールは不要なのか?

《明治36年 和文活字書体に展開された装飾書体フワンテール形とゴチック形》

『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年版、28-29ページ)

『東京築地活版製造所 活版見本』の 28-29 ページに、「装飾体活字見本」として、初号(42 pt)、一号( ≒ 27.5 pt)、二号(21  pt)、三号( ≒ 16 pt)の比較的おおきなサイズの活字に「フアンテール形」活字の紹介をみる。文例は「 奉 祝 敬 恭 謹 」の六字種である。
管見ながら、東京築地活版製造所の活字見本帖に「フワンテール形活字」が発表されたのはこれが初出であるが、おそらく先行して、業界紙誌への広告と、需要家(ユーザー)への告知 ── チラシ・パンフレットなどの配布がなされていたとおもえる。

欧文活字「Fantail」と同様に、孔雀鳩の尾のような末広がり状の形象を特長とするので、おそらく欧文活字に倣って和文活字を製造し、名称も「フアンテール形、新かな使い → ファンテール」と名づけたとおもわれる。
明治中期に東京築地活版製造所で精力的につくられた「装飾書体」のひとつであるが、年賀状などの端物印刷に好んでもちいられ、ひろく普及した。
また写植活字の最初期に「字幕体」とならんで「ファンテール」として登場した書体ともなっている。
写植活字「字幕体・ファンテール」に関しては、いずれ志茂太郎による『書窓 11ー印刷研究特輯』(アオイ書房、1936年02月)とあわせて紹介したい。

「初号装飾書体見本」には八種類の活字書体が紹介されている。
「フアンテール形」のほかに、「ゴチックシャデッド形」「ゴチック形(シャデッド色版)」「蔓形」「矢ノ根形」「ゴチック霞形」「唐草形」「色刷見本」などがある。
これらの書体はおもに慶弔用・年賀状用などの使途を意識していたとみられ、多分に実験的に製造されたものであり、どこまでの字種を備えていたかは不明である。

「一号装飾書体見本」には、「ゴチック形(シャデッド色版)」「ゴチックシャデッド」「色刷見本」「フワンテール形」「ビジョー形」のほかに、後述するが、扁平書体を製作するための道具・器具-パントグラフ-をもちいたとみられる「三分ノ二 フワンテール形」がある。
同社ではこの技巧を加えた活字がよほど自慢だったのか、上掲の本書口絵Ⅰ「内国博覧会」受賞記録のページ「第一-第五回 内国勧業博覧会」にもちいられている扁平活字は、この「一号装飾書体 三分ノ二 フワンテール形」活字である。

「二号装飾書体見本」と「三号装飾書体見本」には、ともに「ゴチック形」「フワンテール形」活字がある。

ここまでくどくどと説明をしてきたが、読者諸賢にあっては、わが国における「ゴチック形 → ゴシック体」とは、「フワンテール形」とほぼ同様の歴史をもち、「装飾書体」「ファンシータイプ」、いまならさしずめ「ディスプレータイプ」とされていたということを記憶していただきたい。
さらに言をかさねれば、1930年代に小規模な活字鋳造所「藤田活版製造所」が、意欲的にゴチック形の改刻にあたっていたという歴史も見逃せない。残念ながらそこからは「フワンテール形」は洩れていた。

また昭和15年ころからの時局下で展開された官制の国民運動「変体活字廃棄運動」においては、フワンテール形・ゴチック形双方の活字は、不要・不急の活字とされたこともあわせて記憶して、これ以降を読み進めていただけたら嬉しい。
[参考:「変体活字廃棄運動と志茂太郎」『活字に憑かれた男たち』片塩二朗、朗文堂、1999]

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『東京築地活版製造所 活版見本』の 80  ページに、「二号ゴチック書体見本」「三号ゴチック書体見本」「四号ゴチック書体見本」「五号ゴチック書体見本」が紹介されている。
さすがにここまでの小ぶりなサイズになると、初号サイズ・一号サイズにもちいられていた「装飾書体」の字句は姿を消しているが、明朝活字へ向けたような強いこだわりはみられず、カウンター(字の内部空間)がつまり気味で、偏と旁のバランスに欠け、全体の結構もまとまりが無く、必ずしも自慢できるレベルには到達していないとみられる。

なによりもここにはひら仮名・カタ仮名の展開はみられないことに注目して欲しい。
この時代には、まだ書体ごとに随伴する仮名活字を製造するならいはないが、pp 26 に「六号仮名書体見本」が四種類紹介されている。ここにゴチック形との併用を意図したとみられる、イロハを文例としたカタ仮名活字をみるが、ここにはひら仮名活字はみられない。
同様に pp 33 に五号サイズのかな活字が七種紹介されているが、ここにもひら仮名はなく、わずかに「五号ゴチック片仮名」がイロハを文例として紹介されている。

「ゴチック/呉竹」などとあらわされていた金属活字の時代、こうした状況は東京築地活版製造所だけではなく、どこの活字鋳造所でも大同小異の状況にあった。
すなわち産業革命下の英国で誕生し、米国経由でもたらされた「サンセリフ ≒ ゴシック」は、直線を主体として、硬質で均等な線巾で描かれていることを特長として登場した。
そんな造形性が背後にあったため、筆写のなごりをとどめて、柔軟で、抑揚と脈絡をともない、起筆と終筆に特長をおき、肥瘦や曲折部を描くことの多かった「わが国の仮名書体製作者」── 多くは木版彫刻士・印判士・書芸家から転じた活字原字製作者 ── にとってはかなり手強い対象だったようである。

すなわち漢字のゴシック体は容易に習得できたとおもえるが、漢字と同様に直線部の多いカタ仮名活字はともかく、ゴシックのウエイトに相当するひら仮名活字の開発は容易には進まなかった。
この現象はこんにちなお尾を引いており、マンガ図書の吹き出しに「ゴシック体漢字+アンチック体仮名」の採用をみる。周知のようにアンチック体は肥瘦と屈曲部に特長があり、かつては大きくて太い明朝体と併用されることが多かったかな活字書体である。
[参考:きみは富士山をみたか-判別性・可読性・誘目性三要素を重視するマンガ組版(
『文字百景 72』片塩二朗、1999年9月]

わずかに昭和初期に、東京神田連雀町:藤田茂一郎による「藤田活版製造所」が、遅れていたひら仮名・カタ仮名の開発をふくめ、初号-六号におよぶゴシック体活字の全面改刻にあたり、あわせて改良型ゴシック、細形ゴシックなどを意欲的に開発した。
なお神田連雀町-れんじゃくちょう-は関東大震災によってほとんどが焼失したが、東京大空襲の被害は軽微だった。それでもその後の区画整理で神田須田町・神田淡路町に名称がかわって、旧在地などは判明し難くなっている。

それだけでなく、「藤田活版製造所」は昭和中期の時局下において、ゴシック体活字は不要不急の活字書体とされたため「変体活字廃棄運動」の影響がおおきく、活字製造設備のほとんどを没収されるという悲劇をみるにいたった。
したがって戦後になると、時局下にあって
四散した「藤田活版製造所」の資料を各社がもちいるところとなり、また機械式活字母型彫刻機の国産化などもあって、現存する電子活字の一部をふくめて、旧金属活字時代からの歴史を有するベンダーのライブラリーのうち、「硬い線質」と評されるゴシック体のほとんどは、四散した「藤田活版製造所」製のゴシック活字の影響下にあることがわかる。

ちなみに藤田茂一郎の子女:よし子は、1946年-昭和21年-神田鍛冶町に創業した晃文堂:吉田市郎(1921-2014)に嫁したが、結婚後いくばくもなく結核のために子をなさずに逝去した。それでも晃文堂ゴシック、後継企業のリョービゴシックは「硬い線質」といわれ続けた。
活字の玄妙さはこんなところにも潜んでいる。
[参考:花筏 タイポグラファ群像007*【訃報】 戦後タイポグラフィ界の巨星:吉田市郎氏が逝去されました

活字編 pp 81 には「各号竪平形書体見本」が12種類紹介されている。
これはのちの写植活字の時代になると、かまぼこ形の光学レンズをもちいて字画を変形させて、「平形 → 平体」「竪形 → 長体」とあらわされたものであるが、ここでは下掲図にみるような簡便な道具「パントグラフ」をもちいて図形を拡大・縮小させていた。あわせてアーム設定によって縦横比を変え、それぞれ50%ずつ扁平・長体にしたものである。
[参考:「印刷局と工部美術学校の狭間で」『印刷と美術のあいだ』(森 登、印刷博物館、2014年10月18日)]

東京築地活版製造所では本ページの頭頂部「柱」の使用にもみるように、さっそく同社のロゴタイプのようにしてもちいたりしたが、販売は限定的であったとされる。
それでもこの簡便で、ひと目を惹きやすい-誘目性-にすぐれた技法は、大正期の半ばともなると他社の知るところとなり、中京と京阪神の活字鋳造所を中心に、扁平明朝や長体明朝が相次いで製造されるようになった。
大阪の新聞社用に「扁平明朝体・新聞明朝体」を製造販売した森川龍文堂、ハワイの都新聞用にむけて「長体明朝」を製造販売した津田三省堂などが積極的であった。

パントグラグラフの原理をわかりやすく説いた図版。1867年 ウィキペディアゟ

米国 A T F 社のリン・ベントン(Benton, Linn Boyd 1844年-1932年)が1885年-明治18年-に考案した「機械式活字父型・母型彫刻機-俗称ベントン彫刻機」は、上掲図のパントグラフの概念と基本構造はおなじであり、そこに電動モーターによる精密彫刻機を付加したものである。

東京築地活版製造所は印刷局とともに、大正期に「俗称:ベントン彫刻機」を導入したが、その使途は限定的であったとされる。「機械式活字父型・母型彫刻機」は戦後の復興期に国産化され、もっぱら俗称:ベントン彫刻機とされて普及をみた。
[参考:「工芸者の時代から技術者の時代へ」『秀英体研究』(片塩二朗、大日本印刷、2004)]

《『本木号』にみる明治最末期-大正初期に展開したフワンテール形》

『本木号』(大阪印刷界第32号、明治45年06月17日 印刷図書館蔵)

明治帝の晩年に、その治世下における位階贈与に遺漏の詮議があり、故本木昌造への位階進呈が長崎県を通じて申請され、「従五位」が追贈された。
大阪の印刷業界誌「大阪印刷界」は一号につき10銭の月刊誌であったが、この贈位を祝して特別企画『本木号』の刊行をはかり、おもに大阪:谷口活版所(大阪活版製造所の後継企業-二代目谷口黙次)、東京築地活版製造所が、それぞれ「金三百円也」、その他の企業からの資金提供をうけて製作された特別号である。
巻末に取材先、資料提供者の一覧があるが、そこにはすでに病没していた本木昌造の継嗣:本木小太郎はもとより、既知の本木家親類縁者の名前はいっさいみられない。いずれにせよ本誌発行からまもなく明治帝が薨じて、明治45年-1912-7月30日に大正に改元された。

『本木号』は全200ページほどの雑誌であるが、ページ番号がふられた80ページほどをのぞくと、ほかは大小のスペースの慶祝広告によって占められている。
表紙デザインはアール・ヌーボー調で、題字はファンテール形のレタリングによって描かれている。広告の多くにも活字フアンテール形と、レタリングによるフアンテール体、そして装飾活字のゴチック形活字があふれている。

《東京築地活版製造所衰退の予兆となった『活字と機械』》

『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)

B 5 版、132ページ、和装仕立ての図書である。ページ番号は付与されていない。
活版印刷用の機器と資材を詳細に紹介し、その側面からみると資料性はたかいが、こと活字製造に関しては既述の明治36年版『活版見本』から、花形・オーナメント、電気銅版の都合354ページ分が脱落しており、 活字:120ページも大幅に縮小されて、その活字内容にもおおきな進展はみられない。
その結果、活字版印刷術 ≒ タイポグラフィにおける総合技藝としての側面が減少して、活版印刷=活字という、視野狭窄と視座の幼児性と矮小化を招く一因となったことは指弾せざるをえない。

本書の編輯兼発行者としるされているのは、同社第五代社長:野村宗十郎(1857-1925)であるが、活版印刷用の機器と資材の紹介内容は、先述した名村泰蔵(1840-1907)が10年がかりで計画・実現させた「東京築地活版製造所月島分工場」による製品群であり、野村宗十郎の功績とはいいがたい。

冒頭の活字編には、支配人時代から野村宗十郎が提唱した、号数制からポイント制活字への移行を急ぐあまり、基本書体の明朝体においても、移植が主体であることが目立ちすぎ、開発が場当たり的であり、拙速と欠陥が際立つ結果となっているのは残念である。

五号ゴチック、六号ゴチックには、はじめてひら仮名活字が登場するが、濁点・半濁点の処理にとまどうばかりで、どう評すれば良いのか戸惑うほどの形姿となっている。

いずれにせよ、東京築地活版製造所「中興の祖」とされるのは野村宗十郎であり、昭和13年-1938-に同社が清算解散にいたったのは、関東大震災による被害のためとされるが、ここに稿者は、いくぶん異なった視点から野村宗十郎をみていることだけをしるしておきたい。

《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》

『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)

   
牧  治 三 郎 67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)-2003年(平成15)歿。行年103。
[参考:花筏 平野富二と活字*03 『活字界』牧治三郎二回の連載記事に戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

大正12年-1923ー9月13日午前11時58分に関東大震災が発生した。東京築地活版製造所は新社屋(下部左)の落成がなり、月島分工場などに一時移動させていた設備を、新社屋にむけての搬入作業がつづいていたさなかのことである。
汗みずくになって搬入作業にあたっていた従業員に、昼食がつげられた直後に激震が襲ったとされる。ほとんどの家庭では、裸火での昼食の準備中だったためもあって、地震にくわえて火災の影響も大きく、この震災の被害は死者・行方不明者10万5000人余、住家全半壊21万余におよび、京浜一帯は壊滅的打撃をうけた。

幸い重量物の取扱を前提として建築された新社屋は、軽微な被害で済んだが、隣接していた創業家:平野家は、敷地内にあった東京築地活版製造所社員尞ともども土蔵をのぞいて全焼し、第四代社長:名村泰蔵が心血をそそいで建造した月島分工場も全焼した。
それでも復旧作業が全社員をあげて展開され、まもなくビルの一画に「◯も」の社旗が翻って、築地地区の話題となるほどだったとされる。

そんな無理がたったのか、大正14年4月23日、野村宗十郎は逝去した。行年69であった。
この資料の旧蔵者であった牧治三郎は、資料複写を許諾した際にこんなことを漏らしていた。
「野村〔宗十郎〕先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」

野村宗十郎の逝去によって東京築地活版製造所第六代社長に就任したのは、平野富二と長いつき合いのあった松田源五郎の長男:松田精一(長崎十八銀行頭取・衆議院議員を兼任)であった。
[参考:花筏 [良書紹介]渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営+〝ふうけもん〟か十八銀行:松田源五郎

ちなみに東京築地活版製造所歴代の代表専務取締役社長は、第三代:曲田 成(まがた しげり 元阿波藩藩士)をのぞくと、ほとんどすべてが長崎県出身者によって占められていた。
[参考:花筏 平野富二と活字*02 東京築地活版製造所の本社工場と、鋳物士の習俗

さらに本資料『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)には、もうひとつのドラマが秘められている。
「このビラは、もしかすると回収されていたかもしれない代物だ。満天下でオレしかこんなものはもってないだろうよ」
すなわち『新年用見本』として用意された、この中綴じ8ページのパンフレットはもちろん、ここに紹介された「初号ゴチック形・初号フアンテール形 壹個定価拾五銭 奉 祝 敬 恭 謹 賀 新 年 春 正 迎 候」の活字も、「大正16年の年賀状」に使われることはなかったのかもしれない。

すなわち大正15年10月-1926-に本パンフレットが配布されたとしても、それからまもなく大正15年-1926-12月25日に改元となって昭和になった。すなわち 大正時代 とは、大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日-1926年(大正15年)12月25日までであった。

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、同日、皇太子(摂政宮)裕仁親王(昭和天皇)の践祚を受け、ただちに改元の詔書を公布して 昭和 に即日改元し、1926年の最後の7日間だけが昭和元年となった。
すなわち西暦の1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある。

平成-令和への生前贈位とことなり、わずか7日間だけの昭和元年は、当然国をあげての服喪の期間となり、年があけても賀詞を交わすような祝賀気分になれたかどうかは疑問がのこる。
そんなこともあって、牧治三郎はこの「ビラ」をひどく自慢にしていた。

平野富二という漢-おとこ-がいた。
二十六歳で長崎から上京し、在京わずか二十年、まるで村夫子のような風貌からは想像もつかないさまざまな事業をてがけ、四十六歳の若さで逝去した。
わが国が近代国家になるために、幕末の長崎にもうけられた海軍伝習所・医学伝習所・活版伝習所などに結集し、全国各地に羽ばたいた重厚な人脈にたすけられ、なによりも本人の勤勉努力によって、平野富二が興した造船・重機械製造・運輸・交通などの事業は、こんにちなお継続している企業は多くを数える。

「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」を契機として、その生誕地に記念碑が建立され、記念誌の刊行もちかい。
平野富二の東京での最初の事業、活字版製造は後継者に恵まれずに昭和13年に清算解散を迎えた。
その遠因を「フワンテール形・ゴチック形」というふたつの活字書体の消長から探ってみた。まだ「口ごもっている」部分も多いが、読者諸賢は稿者の意のあるところをお汲みとりいただけたら嬉しい。

図書のタイトル『平野号』は、もちろん『本木號』にちなむ。タイトル書体は東京築地活版製造所による「フアンテール形」活字を参照し、「平野富二の会」の若い造形者が選択し、みずからの手によって描いたものである。