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【もん】研究社のシンボルマーク|唐 獅 子|杉浦非水 昭和9年(1934)製作

研究社のシンボルマークとなっている「唐獅子」は、徳川家の菩提寺として知られる東京の芝・増上寺の門扉にある彫刻を参考にして、杉浦非水(すぎうら ひすい 1876-1965)が原画を描いたものである。
このマークは「現代英文学叢書」(昭和9年・1934)ではじめて使用され、今日にいたるまで研究社のシンボルマークとなっている。

杉浦非水は、愛媛県出身。明治30 年に上京し、東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科に入学し、在学中に近代洋画の父といわれる黒田清輝の知遇を得、影響を受けた。数〻のポスターなどを製作し、日本の近代商業美術の祖といわれている。昭和10 年には多摩帝国美術大学(現在の多摩美術大学)を創立、初代学長をつとめた。
研究社のシンボルマークの他にも、数多くの作品を手がけ、「光」「桃山」など、たばこのパッケージデザインも世に送りだした。〔研究社公表資料を参考〕

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【展覧会】東京国立近代美術館|イメージコレクター・杉浦非水展| 会場/東京国立近代美術館 2階 ギャラリー 4|前期:2019年2月9日-4月7日 後期:2019年4月10日-5月26日 終了企画参考紹介

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【ちいさな勉強会】研究社・研究社印刷の百余年に及ぶ歴史からまなぶ ── 講師:小酒井英一郎さん

講師/研究社印刷株式会社 社長:小酒井英一郎さん

《朗文堂 ちいさな勉強会 ── 研究社印刷株式会社 社長:小酒井英一郎さん》
去る07月19日[金]、皆さん親しいお仲間ばかりのご参加でしたが、研究社印刷株式会社:小酒井英一郎さんを講師にお招きして、朗文堂/タイポグラフィ学会/サラマ・プレス倶楽部/平野富二の会 ── 合同による「ちいさな勉強会」を開催。
歴史と伝統を誇る研究社/研究社印刷の百余年にわたる歴史をお話しいただきました。

◉ 第一部 研究社百年の歩みを中心に

『 TYPE FACES 』

研究社印刷 1931(昭和6)年版 B 5 判 160 ページ かがり綴じ 上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。高島義雄 → 加藤美方をへて朗文堂に譲渡された。研究社印刷・小酒井英一郎氏によると、研究社の冊子型活字見本帳では、これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。

 

 

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』
研究社印刷 1937(昭和12)年 同社蔵) B 5 判 160ページ かがり綴じ 上製本
前掲見本帳から7年後、同社が活字自動鋳植機モノタイプマシンを本格展開した際に製作されたとみられる活字見本帳。研究社とその関連部所に、都合 2 冊が現存する。
ライノタイプ・マシンが中心の1931年(昭和6)版での欧文活字書体は、Century Expanded, Granjon が中心だったが、モノタイプマシン中心の1937年(昭和12)版では Garamond, Aldine Bembo が中心書体に変わっている。いずれの書体も名書体として、いまなお評価が高いものばかりである。

 

『研究社八十五年の歩み』
1992年(平成4)12月15日発行、編者:研究社社史編集室、発行所:株式会社研究社本社、組版印刷:研究社印刷株式会社、製本:黒田製本所、B 5 判 上製本、312ページ ケース函入り

『研究社百年の歩み』
2007年(平成19)11月3日発行、編者:研究社社史編集室、発行所:株式会社研究社、組版印刷:研究社印刷株式会社、製本:株式会社ブロケード、B 5 判 上製本 520ページ ケース函入り

《研究社と研究社印刷》
◉ 研 究 社 は、
1907(明治40)年、小酒井五一郎(当時26歳)が「英語研究社」の名称で麹町区富士見町6丁目10番地に創業以来、一貫して英語関連の出版事業を展開している。1916(大正5)年、社名を「研究社」と改称した。
創業当初から、つねに世界に拓かれた出版をモットーとしてかかげ、現在、辞書・書籍・電子の領域において 最高水準の出版物を刊行するための努力を継続中の企業。現在の住所表記:東京都千代田区富士見 2ー11ー3

◉ 研究社印刷 は、
1919年(大正08年)研究社の印刷所として英文図書刊行に備え九段中坂に組版工場設立
1920年(大正09年)牛込区神楽坂に印刷工場新設
1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転
1927年(昭和 02年)神楽坂印刷工場完成
1939年(昭和14年)吉祥寺印刷工場設立
1947年(昭和22年)富士整版工場設立
1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立
1984年(昭和59年)富士整版工場、吉祥寺工場を吸収合併し、新座市野火止に新社屋完成

[ 関連: 研究社 HOME   研究社会社案内  研究社印刷株式会社 ]
[ 参考: NOTES ON TYPOGRAPHY  【かきしるす】タイポグラファ群像*01|加 藤 美 方|かとう よしかた 1921-2000 ]

◉ 第二部 研究社の辞書の刊記(奥付)をみる ── 武信和英大辞典を中心に

『武信和英大辞典』初版刊記(奥付)
武信由太郎編、研究社発行、印刷:東京築地活版製造所

『武信和英大辞典』昭和2年〔1927〕10月1日訂正第五十九版刊記(奥付)
特製総皮製本 武信由太郎編、研究社発行、印刷:研究社印刷所

創業から20年余ののち、小酒井五一郎率いる研究社は画期的な大型辞書に挑戦した。それは武信由太郎編『武信和英大辞典』の刊行であった。当時はまだ英和辞典ですら稚拙なものが多かった時代にあって、いきなり大型の和英辞典の刊行は無謀ともいえた挑戦であった。ところが『武信和英大辞典』は市場で熱狂的な好評を博し、研究社では増刷につぐ増刷を重ねることとなった。

研究社は創業以来、読み物は秀英舎、辞書・辞典類は東京築地活版製造所に組版・印刷を発注することが中心であった。したがって『武信和英大辞典』の当初の印刷担当は「東京市京橋区築地二丁目十七番地 東京築地活版製造所」であった。
印刷者として記録されている「大久保秀次郎」は東京築地活版製造所印刷部門の有能な責任者であったとみられ、岩波書店『漱石全集』の印刷者としてもこの名をみることができる。

研究社は1920年(大正09年)牛込区神楽坂に印刷工場を新設し、1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転したのち、1927年(昭和 02年)神楽坂印刷工場を完成させている。したがっていつからこれだけの大冊図書を、東京築地活版製造所に代わって組版と印刷をはじめたのかはわからないが、最終図版に紹介した「昭和二年十月一日訂正第五十九版」の印刷所は「東京市麹町区飯田町六丁目一番地 研究社印刷所」となっている。影印からみる限り活字書体は東京築地活版製造所製とみられる。
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昭和15年ころになると、一部に「皇国史観」がみられ、英語は敵性言語とされて排斥される風潮が芽ばえた。また日中戦線が拡大し、太平洋戦争の予感が強まるのにつれて、物資が困窮をきたし、印刷活字界には官制の国民運動「変体活字廃棄運動」が横行した。研究社ももちろんその埒外にあるわけではなく、過酷な移転命令・活字没収・企業合同の荒波に翻弄されることとなった。
残念ながら小酒井英一郎さんによる講演はここで時間切れとなった。戦後の研究社/研究社印刷を中心に、再度の講演を依頼して歓談に移った。

ともあれ、研究社が「英和辞書」にとどまらず、「和英辞書」の刊行に挑んだ功績は大きかった。
また「和英辞書」刊行の功績者として、武信由太郎(たけのぶ よしたろう 1863-1930)の名が知られたことも大きかった。
この辞典は、武信没後の1940年に『新和英大辞典』と改題して刊行され、現在にいたるまで研究社の和英辞典として確固たる名声を得ている。

ここでは同様に、三省堂における「漢和辞書」への挑戦も再度記録しておきたい。
わが国における「漢和辞書」成立の功績者は 三島 毅(みしま-こわし 中洲と号す。文学博士 1830-1919)である。三島は旧幕臣で、老中板倉勝静の家臣だった人物である。
維新後は多くの碑文を撰し、そこには「東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅」と刻されていることが多い。

三島 毅は 重野 安繹(しげの-やすつぐ 通称:厚之丞、薩摩藩士、昌平黌にまなぶ。維新後政府の修史事業にあたる。東大教授として国史科を設置。1827-1910)らとともに、三省堂編『漢和大字典』の編纂・監修にあたった。

研究社における「和英辞典」の刊行(大正7年9月25日)と同様に、「国語辞書」の成立に較べると、近代「漢和辞書」の成立は大きく遅れている。
すなわち三島 毅らは、急速に木版刊本の雕字工匠が姿を消した明治時代後半期にあって、活字版印刷術、とりわけ異体字・俗字など、ふつうはもちいられない特殊な漢字活字の開発と発展をまってから、ようやく「漢語 ⇄ 和語 漢和辞典」をつくることができるようになった。

一九〇三(明治三六)年、重野安繹・三島 毅・服部宇之吉監修、三省堂編『漢和大字典』は、清の康煕帝の勅命によって一七一一年に成った『佩文韻府』系(はいぶんーいんぷ 詩をつくったり、ことばの出典を調べる際の参考書。一〇六巻 佩文は康煕帝の書斎名による)の辞典で、その後のわが国の一連の「漢和字典・漢和辞典」の形式を創出した。

[ 参考: 花筏 【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-05 明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域に吉田晩稼の書、三島 毅・石黒忠悳の撰文をみる ]

【かきしるす】タイポグラファ群像*01|加 藤 美 方|かとう よしかた 1921-2000

タイポグラファ群像*001 加藤美方氏

加 藤  美 方 (かとう-よしかた 1921-2000)

印刷人、タイポグラファ。1921年(大正10)うまれ。東京府立工芸学校卒業後、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業。株式会社研究社に入社し、第二次世界大戦中は海軍技術将校として召集された。
終戦ののち大日本印刷株式会社に転じて役員などを歴任。同社を退任後に、吉田市郎(旧晃文堂株式会社社長/当時リョービ印刷機販売株式会社社長、のちリョービイマジクス株式会社社長・会長 1921-2014)に請われて常務取締役に就任。各種の写植活字と写真植字機器開発の指揮にあたるとともに、タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』1-9号の編集にあたった。胃がんとの闘病の末、2000年(平成12)12月29日逝去。法名・遇光院釋淨美居士。享年79
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《研究社と研究社印刷》
研究社 は、1907(明治40)年の創立以来、一貫して英語関連の出版事業を展開している。創業当初から、つねに世界に拓かれた出版をモットーとしてかかげ、現在、辞書・書籍・電子の領域において 最高水準の出版物を刊行するための努力を継続中の企業。

研究社印刷 は、
1919年(大正08年)研究社の印刷所として英文図書刊行に備え九段中坂に組版工場設立
1920年(大正09年)牛込区神楽坂に印刷工場新設
1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転
1927年(昭和 02年)神楽坂印刷工場完成
1939年(昭和14年)吉祥寺印刷工場設立
1947年(昭和22年)富士整版工場設立
1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立
1984年(昭和59年)富士整版工場、吉祥寺工場を吸収合併し、新座市野火止に新社屋完成

加藤美方(1987年 アステ No. 5 より)本稿の初出は{花筏 2011年6月7日}であった。当時の(小社の)WebSite の容量はきわめて少なくて、スキャン画像などは圧縮して、ちいさく掲載されていた。データーを開いてみたところ、さいわい画像の元データーも保存されていたので、ここに{花筏}の掲載分はそのままのこし、一部を補整、補遺し、また図版を大きくして再度本欄に紹介した。

《加藤役員と、最後まで親しく呼ばせていただきました》
しばしば電話を頂戴した。どちらかというと加藤美方は電話魔ともいえた。
「加藤です」というご挨拶のとき、最初の カ にアクセントがある、いくぶんかん高い声が特徴のかただった。

また圭角のないひとがらで、いつも笑顔でひとと接していた。

筆者と加藤との最初の出会いは、某印刷企業の部長 兼 室長であり、面接担当者(雲の上のひと)加藤と、ただ生意気なだけの(汗)タイポグラフィ研究者?  としての筆者の就職面接だった。
加藤の骨折りもあって入社をはたしたが、すぐさま直属上司と大げんかの末、そこを三ヶ月もたたずに退社して加藤の失望をかった。
それでもその後も随分いろいろな分野の先輩を紹介していただいたし、叱声も頂戴した。したがって最初の出会いからしばらくして(お怒りが溶けてから)は、筆者は加藤を最後まで「加藤役員」と呼んでお付き合いをさせていただくことになった。

1998年7月7日、忘れもしない七夕の日、加藤は胃がんの手術をした。小康を得て牛込矢来町の自宅にもどったとき、見舞いに訪れた筆者に加藤はこうかたった。
「タイポグラフィの研究を本気でやろうとしたら、コピー複写資料に頼ってはいけません。それをやっているひとが一部にいますが、所詮はアマチュアですし、いつか大怪我をします。タイポグラフィとは、活字の判定や調査とは、そんなコピーでわかるほど簡単なものではありませんから」。


高島義雄 → 加藤美方をへて筆者に譲渡された
『 TYPE FACES 』

研究社印刷 1931(昭和6)年版
B 5 判    160 ページ かがり綴じ  上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。
研究社印刷・小酒井英一郎氏によると、研究社の冊子型活字見本帳では、これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。

加藤が在職した当時の研究社の本社工場。昭和02年完成。同書口絵ゟ
同社の印刷部門は1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立して現在に至る

研究社は1907(明治40)年の創業以来、一貫して、英語教育・理科学書・辞書関連の印刷・出版事業を展開している。
現在は印刷部門と出版部門は分離したが、千代田区富士見2-11-3に自社ビルを所有し、辞書・書籍・雑誌の領域における出版企業として著名である。
いっぽうグループ企業の研究社印刷は、創業:大正9年4月、設立:昭和26年2月1日で、現在は埼玉県新座市野火止7-14-8で事業展開を継続中である。

このころの研究社の活字自動鋳植機はライノタイプマシンが主力だったが、こののち、辞書などの高度組版への対応のため、凸版印刷株式会社が所有していたモノタイプマシンと、研究社が所有していたライノタイプマシンと交換という形で、順次モノタイプマシンに設備を変更した。

欧文書体(マシンセット)は、Century Expanded,  Granjon がおもで、Century Expanded は 6 points - 14 points のシリーズ、Granjon は 8 points - 11 points のシリーズが紹介されている。ほかには New Style No.21 が 9 points の 1 サイズだけ、アップライト・ローマンとイタリックの双方を所有している。
マシンタイプの紹介は、すべて左右組幅 27 picas ,  外枠の子持罫は 左右 31.5 picas,  天地 45.5 picas である。
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上掲図のうち、pp 59 の上部を拡大表示した。見落とされがちで、またわが国の活字のほとんどが正方形であるために解りにくいが、これは重要な情報で、中央部にちいさく「 Set 12 Point Body 」とある。
欧文活字の大きさとは A ,  B ,  a ,  b ,  i ,  l ,  M ,  W のように、活字鋳型をスライドさせることによって、左右(字幅)は可変型である。したがって欧文活字の大きさとは、活字ボディの天地のサイズを表すことになる。

上掲図では、「10 points の Granjon 書体の活字母型(文字面の型)をもちいて、天地 12 points ボディの鋳型で鋳込んだもの 」をあらわす。すなわち行間が適度にあくため、インテルの挿入が不要乃至は簡略化することができ、組版効率を向上させることができる。

[参考:NOTES ON TYPOGRAPHY  【かきしるす】文字組版の基本|ポイント (points)、パイカ (picas)、ユ ニット (units) |現代の文字組版者にとって基本尺度/スケールは不要なのか?

研究社の和文活字は昭和6年版ではここに紹介した一ページだけが紹介されている。
明朝体は東京築地活版製造所系とみられるが、ゴシック体の供給元はまったく不詳である。
同社ではすでに本文用サイズの活字は、自動活字鋳植機による自家鋳造体制となっており、また欧文組版が主流の企業だけに、初号 42 points,  二号 21 points,  五号 10.5 points,  七号 5.25 points の倍数関係であることを知悉したうえで、和文活字を展開し、もちいていることがわかる。したがってこのページも、左右の組幅は、欧文書体と同様に 27 picas になっている。
後述するが、当然ながらここに見る「明朝体 初号」は、図書の標本を計測しても 初号 = 42 points になっている。 

研究社は好運なことに、関東大震災、第二次世界大戦での被害は比較的軽微であった。また空襲が激化する前に設備の大半を疎開させていたため、この本社ビルとともに、活字と活字母型は戦後も継続使用が可能となった。

それでも1938年(昭和13)以降の研究社は、東京築地活版製造所からの供給が清算解散によって途絶えていたため、戦後は、吉田市郎によって創立間もない晃文堂から「晃文堂明朝体」「晃文堂ゴシック体」を、印刷局朝暘会、明和印刷、厚徳社、技報堂、清和印刷など、大手ページ物印刷を得意としていた企業とともに率先して導入し、順次和文自動活字鋳植機用の活字母型を購入して、ふたたび活字自家鋳造にあたった。

そのため現在の研究社の自社和文専用書体、とりわけ明朝体は、いまなお60年余以前に導入した「晃文堂明朝」を、自社内でカスタマイズしたものをデジタル化して、ハウス・フォントとしている。
[ 参考:『逍遙 本明朝物語』片塩二朗、朗文堂 pp 42 ]


ところで、このとき「印刷局朝暘会」名義で晃文堂から購入した明朝体の活字母型の動向に関心が持たれることは稀である。もともと「印刷局」は秘密のベールの彼方の存在とされるが、近年は意外に大胆かつ率直に情報公開がなされている。

印刷局「お札と切手の博物館」2014年の展示に際しては、稿者も驚くほど(かつては関与者には秘密厳守がつよく要求された)率直に、官報の書体 ── 明朝体の由来が展示・解説されていた。
すなわち、活字自家鋳造の企業のほとんどと同様に、ひら仮名・カタ仮名を中心に、若干のカスタマイズはされている。とりわけ印刷局では両仮名とも、大正期からの形象に近いものに全面的に変更されている。さらに偽造防止のためもあって、さまざまな工夫が随所にされているが、現在の官報書体の源流を含めて丁寧な展示解説がされていた。

そしてそのデジタル化に際し、最初の TrueType フォーマットでの作製は、晃文堂の後身企業であったリョービイマジクスがあたり、O T F フォーマット変換に際してはモリサワが担当したことが展示解説でなされていた。

[ 参考:活版 à la carte よき日がいつも-日日之好日*03【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』
(1937〔昭和12〕年  研究社印刷 同社蔵)

B 5 判  160ページ   かがり綴じ   上製本
前掲見本帳から7年後、同社が活字自動鋳植機モノタイプマシンを本格展開した際に製作されたとみられる活字見本帳。
研究社とその関連部所に、都合 2 冊が現存する。
ライノタイプ・マシンが中心の1931年(昭和6)版での欧文活字書体は、Century Expanded,  Granjon が中心だったが、モノタイプマシン中心の1937年(昭和12)版では Garamond,  Aldine Bembo が中心書体に変わっている。いずれの書体も名書体として、いまなお評価が高いものばかりである。
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はなしが若干脇道にそれるが、東京築地活版製造所第四代社長:名村泰蔵の社長時代に「東洋一の活版製造所」を自他ともに許す存在であった東京築地活版製造所は、そののち後継者にめぐまれず、この研究社(印刷所)の見本帳が発行された翌年、1938年(昭和13)3月17日、臨時株主総会の決議によって清算解散を迎えた。

その理由としては、関東大震災の影響をあげることが多いが、同社は震災後もポイントシステムの活字の販売に熱中するばかりで、辛いことではあるが、活字自家鋳造業者への適切な対応、和欧文の活字自動鋳植機への高度な対応、なによりも印刷術の進歩を見据えた国際化に向けた関心と対応に欠けていたことは指摘せざるを得ない。
すなわち研究社も比較的軽微であったとはいいながら、関東大震災の被害がありながら、ここまでにみてきた、昭和 6 年版、昭和12年版の冊子型活字見本帳をのこしている事実が厳然としてあるからである。

『SPECIMENS OF TYPE FACES』(1937〔昭和12〕年  研究社印刷)扉ページ

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』(1937年[昭和12]   研究社印刷) 本文ページ 

《加藤美方の慨嘆 ── 秀英体初号明朝活字=42 points が、ポイント制活字に切りかえ作業以降 40 points に鋳込まれていた件》
大日本印刷(旧秀英舎)のフラッグ・シップともいうべき代表書体は、四号明朝体活字 ≒ 13.75 points と、初号明朝体活字=42 points である。

秀英舎は明治最末期のころから、順次号数制活字からポイント制活字に切りかえていた。四号明朝体活字は、増刷などに備えて近年まで少量温存されていたが、主体は 14 points に切りかえられていった。その差はわずかに  0.25 poits  ≒ 0.03385 mm であったが、戦後の機械式パントグラフ(いわゆるベントン)の導入に際しては、全面的に手を加える必要に迫られる結果となった。
[参考:「大日本印刷の文字原図となり現在につらなった秀英体明朝四号」『秀英体研究』片塩二朗、大日本印刷、pp 606-649]

『 和文活字  DAINIPPON PRINTING SPECIMEN BOOK 』(大日本印刷  1978年)
製作:大日本印刷CDC事業部、組版:市谷第一工場和文課、表紙デザイン:清原悦志

「いつ、たれがやったかわからない。おおきな組織だから …… 」と加藤美方は述べていた。
すなわち、いつのころからか「秀英体初号明朝活字」は、活字字面はそのままで、42 points から 40 points の活字ボディに鋳込まれるようになっていた。
すなわち活字のボディサイズが 0.7028 mm 四方ちいさくなった。換言すると 95.238 . . ..%ちいさな 40 points の活字ボディの上に 42 points の「秀英体初号明朝活字」は存在することになった。

その差わずか 2 points, 0.7028 mm とはいえ、これは視覚印象には決定的な相違ともいえる、おおきな変化を与えることになった。先に紹介した研究社の「明朝 初号」の資料や、上掲図の 36 points のゆったりと風通しのよい組版表情は、ここでの 40 points になると一変し、まさに湯こぼれ寸前、隣の字画と接触するかという危惧をいだかせるほどまでに字間が窮屈になった。これはもはや誇り高い「秀英体初号明朝活字」とは呼べないものとなっていたのである。

「あれは、わたしにも責任があります」と加藤は明言していた。
この「秀英体初号明朝活字」のデーター(活字清刷り)が株式会社写研に提供された。当時の大日本印刷の担当役員は加藤美方であった。 写研には字面率が本来のものとは異なることを十分説明したそうであるが、この時代、写植組版では「ツメ組み」と称して、広告業界を中心に字間をタイトにして組版することが流行していた。

加藤の忠告をよそに、写研では字枠(仮想ボディ)にたいする字面率を最大限にまで拡張して ── ある意味では提供されたデーター通りに ── 写植活字として販売した。しかもその名称は「秀英明朝体 S H M」という誤解を招きかねないものであった。
すなわちオプティカル・スケーリング(個別対応方式)の鋳造活字の「秀英明朝体」は、サイズごとにさまざまな表情があった。「秀英明朝体四号」と「秀英明朝体初号」では、おおきさ、太さの違いだけでなく、字画形象にもおおきな差異があるのは当然であった。

ところが写植活字では原字はひとつで、さまざまなサイズに対応するリニア・スケーリング(比例対応方式)である。そのため金属活字の初号= 42 points  ≒ 14.7588 mm 角だけでない、15.5 mm 角の 62 Q,  4 mm 角の 16 Q,  5 mm 角の 20 Q でも用いられたし、適性を欠くかとおもえる 2 mm 角の 8  Q でさえ、広告デザイナーは使用に遠慮も容赦もしなかった。
こうして、写植活字を愛用した広告デザイナーには、「秀英明朝体 S H M は、字間がタイトで緊張感がある?」という誤った認識がすり込まれるにいたったのである。

ふしぎなえにしで稿者ものちに、大日本印刷の「秀英体平成の大改刻」に携わることになった。スタッフの獅子奮迅の頑張りで無事プロジェクトを終了できた。この間さまざまな問題が起こるたびに、加藤美方のことを想起した。
「加藤役員なら、笑ってすますだろうな …… 」とおもうことにしていた。


《加藤美方からの資料の譲渡 ── 図書の有効利用に向けて》

手術からしばらくして、加藤夫妻は娘さんの嫁ぎ先の近く、多摩市関戸に移転して病後の療養にあたることになった。そこへの移転を控えたある日、ちいさな段ボール箱にいっぱいのタイポグラフィ資料が宅配便で届いた。おもには加藤が研究社に在籍していた時代の、貴重な印刷関連機器と活字の文書資料であった。

加藤はすでに胃がんの再発を自覚していた。そしてそこには自筆で、
「息子が印刷とは無縁の職場にいますので、このタイポグラフィ関連資料と、活字見本帖類を片塩さんにあげます。書誌関係のものは M 八郎〔故人〕 さんにあげました。
わたしの印刷人としての人生は幸せでした。わたしは二廻り年下の片塩さんを発見することができました。ぜひこれを役立ててください。わたしの研究社時代の先輩・高島義雄さんから譲られた資料も入っています。そしてあなたもいつか、二廻りほど年下の若者を発見して、この資料を譲ってあげてください」

とあった。
不覚ながら、おもわず涙がにじんだ。加藤美方は ── そして奇妙なことに晃文堂:吉田市郎も ── 1921年(大正10)辛酉-カノト -トリ-のうまれで、筆者はちょうどふた廻り下の1945年(昭和20)乙酉-キノト -トリ-のうまれであった。

{追記 2019年06月12日}
加藤美方に関する{花筏}掲載データーが古くなりすぎていたので、その補整をはじめたおりもおり、故吉田市郎の家人からひと抱えの資料を届けていただいた。この授受はこれで三度目ほどになるが、今回はふるい写真が多く、筆者がはじめて吉田市郎と出会ったころの資料も含まれていた。

なにぶん晃文堂・リョービ印刷機販売・リョービイマジクス時代の吉田市郎関連資料は膨大である。なんとか稿者がボケないうちに整理だけでもしたいものである。
それよりなによりも、吉田市郎に関しては「訃報」を伝えただけになっっていることを、迂闊なことに今回はじめて気づいた。これはとてつもなく反省すべきことである。

《タイポグラファとしての加藤美方の軌跡》
タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』は、樹立社から『活字の歴史と技術  1 – 2 』(樹立社   2005年3月10日)と改題されてデジタルプリントでの復刻をみた。その『アステ』をのぞくと、加藤には意外に公刊書は少なかった。

それでも研究社に在職中に、『 The Printing of Mathematics   数学組版規定』(The T.W. Chaundy,  P.R. Barrett and Charles Batey,  Oxford University Press)を1959年(昭和34)3月1日に訳出して、高度な組版技術を要する数式を活字組版するための指導書として、研究社の技術基盤を築くのに功績が大きかった。

同書の初版は社内文書ともいえる扱いで、造本は A5判   本文32ページ、くるみ表紙、全活字版スミ1色印刷   中綴じのつくりで、簡素ではあったが、後続の類書に与えた影響は大きかった。
またのちに晃文堂・吉田市郎が研究社の承諾をうけて、同じタイトルでひろく印刷業者にむけて1,000部ほど(加藤談)を公刊した。同書の巻頭の「はしがき」に加藤は以下のようにしるしている。

は し が き

世は正に「科学万能時代」である。出版物にもいわゆる《科学もの》が多くなり、数学ぐらいは必ずでてくるようになった。ところが、現行の理工医学書及び《数学もの》を見るとはなはだ寒心に堪えない。知らぬが仏とはいえ、編集者もコンポジターもあまりにひどすぎる。なにか拠り所があったら……と思っていたら、The Printing of Mathematics が手に入った。

この本は、活字のこと、ランストン・モノタイプのこと、組版のことなどを、印刷需要家[印刷ユーザー]に説明することと、数学書を書こうとし、これを出版しようとする人に対する諸注意で大半のページがさかれていて、最後にオックスフォード大学出版局の「数学組版規定」Rules for Composition of Mathematics at the University Press, Oxford が収録してある。この小冊子はこの規定を訳出し、注釈を加えたものである。

規定の中には重複と思われる項目もあったが、原著に忠実に羅列しておいた。なお、付録には関連資料を添えて参考に供した。
外国での数学書の組版規定がそのまま日本の《数学もの》にあてはまるとは思わないが、参考になると考えたので印刷物にしてみた。日本数学会の意見も加え、このキーストーンの上に、完ぺきな《数学組版規定》が築きあげられる日の一日も早からんことを願ってやまない。

東京大学教授・河田敬義博士、山本建二氏(培風館)にはいろいろご教授を受けた。心から謝意を表明する。
数学の ス の字も知らない私が敢えて訳出したのも  ’ メクラ蛇におじず ’ のたとえ。おおかたのご批判をまつ次第である。

組版ステッキのイラストがあるほうが、研究社版:発行昭和34年3月1日。
本文活字書体は「晃文堂明朝  9 points,  8 points 」が主体である。
欧文書体は「センチュリー・ファミリー」と「バルマー・ローマン」が主体である。

タイトルがセンター合わせになっているほうが晃文堂版(発行日記載無し)。
『 The Printing of Mathematics   数学組版規定 』 本文ページ

ところで、ほとんどのかたはご存知ないようだが、いわゆる『オックスフォード大学組版ルール』も加藤美方が初訳している。稿者所蔵版はあまりに損傷がひどいので、研究社に依頼して保存版を近々紹介したい。したがってこの『NOTES ON TYPOGRAPHY』ブログロールは、ご面倒でも時〻更新操作を加えて閲覧いただけたらうれしい。

また加藤美方は、『日本印刷技術史年表 1945-1980』(日本印刷技術史年表編纂委員会編 印刷図書館 昭和59年3月30日)の編集委員として「文字組版」の部を執筆担当した。この巻末に《編集委員の略歴》があるので、余剰をおそれず、「タイポグラファ群像」のスタートとして紹介しよう。
すなわち、筆者はここにみる諸先輩とは、わずかにその謦咳に接したことはあるが、その詳細はもとより、没年はほとんど知らない。これを機として、読者諸賢からのご教示をまつゆえんである。

『日本印刷技術史年表』 表紙

《編集委員の略歴》
※2011年6月16日、板倉雅宣氏の資料提供を受けて、一部を補整した。

◎ 飯坂義治(いいざか よしはる)
富山県滑川市で1907(明治40年)4月28日うまれ。昭和5年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。共同印刷株式会社専務取締役を経て顧問。1982年(昭和57)以降の消息はみられない。

◎ 板倉孝宣(いたくら たかのぶ)
東京市下谷区西町(現東上野)で1915年(大正4)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社、株式会社細川活版所取締役を経て日電製版株式会社取締役。1992年(平成4)6月21日卒。法名・泰光院孝道宣真居士。台東区谷中1-2-14天眼禅寺にねむる。行年77 〔板倉雅宣氏の実兄〕

◎ 市川家康(いちかわ いえやす)
1922年(大正11年)うまれ。昭和21年東京大学工学部応用化学科卒業。大蔵省印刷局製造部長を経て小森印刷機械株式会社常務取締役。

◎ 加藤美方(かとう よしかた)
1921年(大正10)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社研究社、大日本印刷株式会社取締役を経てリョービ印刷機販売株式会社常務取締役。2000年(平成12)12月29日卒。法名・遇光院釋淨美居士。行年79

◎ 川俣正一(かわまた まさかず)
1922年(大正11)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。昭和29年東京理科大学理学部化学科卒業。共同印刷株式会社を経て千葉大学工学部画像工学科助教授。工学博士。2007年(平成11)以降の消息はみられない。

◎小柏又三郎(こがしわ またさぶろう)
東京麻布で1924(大正13)うまれ。昭和20年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。凸版印刷株式会社アイデアセンター部長。1989年(平成元)5月1日卒。行年65

◎ 佐藤富士達(さとう ふじたつ)
1911年(明治44)うまれ。昭和11年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。海軍省水路部印刷所長を経て東京工芸大学短期大学部教授。1985年(昭和60)6月卒。行年74

◎ 坪井滋憲(つぼい しげのり)
1914年(大正3)うまれ。昭和10年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社光村原色版印刷所専務取締役、株式会社スキャナ光村取締役社長。2000年(平成12)10月15日卒。行年86

◎ 松島義昭(まつしま よしあき)
1918年(大正7)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。同校助教授を経て写真印刷株式会社社長。全日本印刷工業組合連合会会長。1999年(平成11)4月6日卒。行年81

◎ 山口洋一(やまぐち よういち)
1923年(大正12)うまれ。昭和20年東京大学工学部機械工学科卒業。大日本印刷株式会社常務取締役を経て、海外通商株式会社専務取締役。

◎ 山本隆太郎(やまもと りゅうたろう)
1924年(大正13)うまれ。昭和18年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社を経て株式会社印刷学会出版部代表取締役。2010年(平成22)2月19日卒。行年86
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加藤が卒業し、上記編集委員にも大勢が名を連ねた、東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校印刷工芸科の存在にも簡単に触れておきたい。
東京府立工芸学校は 3-5 年間の履修制の特殊な実業学校で、水道橋のほど近くに設立され、「府立工芸」と通称された。

現在はおなじ場所で3年制の東京都立工芸高等学校になっている。加藤は「府立工芸」を卒業後に、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業している。

東京高等工芸学校は、正式には新制大学にならなかったほぼ唯一の旧制高等学校とされるが、1949年(昭和24)5 月、戦後の学制改革にともなう新制大学として、千葉医科大学、同附属医学専門部、同附属薬学専門部、千葉師範学校、千葉青年師範学校、千葉農業専門学校を包括した「千葉大学」が設立された。そこに旧東京高等工芸学校の教授のおおくが移動して「千葉大学工芸学部」の誕生をみた。そのために、卒業生の多くは「東京高等工芸学校 現 千葉大学出身」としるすことが多い。

しかしながら「千葉大学工芸学部」は、1951年(昭和26)4月1日に改組・改称されて「千葉大学工学部」となった。この改組・改称が一部の教授によって「工芸と工業は根本的に異なる存在である」として反発をかった。また、同校を離れた鎌田弥寿治教授らは、東京写真短期大学に移動した。同校は改組・改称をかさねて現在の「東京工芸大学」となった。

すなわち、工芸と工業と美術といった教育分野が、その目的と定義を巡って激しい論争をかさねた時代であり、この命題はこんにちも完全に消化されたとはいえないようである。
この間の記録はあらかた散逸していたが、近年松浦広氏が「印刷教育のはじまりを考える 前編・後編」『印刷雑誌』(Vol.94  2011. 4 – 5 印刷学会出版部)に詳しく論述されているのでぜひともみてほしい。

ともあれ加藤美方は東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校の両校を卒業し、印刷業界のエリートとして重きをなし、終生その中核を歩んだ。そして、さすがに旧制学校出身者の高齢化は避けられないものの、いまもって関東一円の印刷業界では、この両校の出身者の人脈が隠然たる双璧をなしている。
加藤の一生はまさにタイポグラファであり、なかんずく文字活字であった。その軌跡は、株式会社研究社、研究社印刷株式会社、大日本印刷株式会社、リョービイマジクス株式会社のなど、加藤が歩んだ企業の、金属活字、写植活字、電子活字のなかにみることができる。

《新カテゴリー、タイポグラファ群像開設にあたって》
タイポグラフィ関連の記述に際して、先達の略歴はもちろん、生没年の調査にすら手間取ることが増えた。かつて、著名人なら紳士録があり、業界人でも『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社)、『印刷人』(印刷同友会)など、業界団体や、業界紙誌があらそって名簿を刊行していたので、それらの資料にたすけられることが多かった。
ところが近年は個人情報管理などが過度にかまびすしくなって、肝心の基礎資料すら入手しがたくなった。そこで稿者がお世話になった先輩・先達の肉声を記録しておくのも意味のあることか、とおもうようになった。

加藤美方氏の奥さまからは、昨年〔2010〕までは年賀状をいただいていた。それが今年は来信がなくて気になっていた。また稿者が所有している加藤役員の写真が、パーティでのスナップや、集合写真が多く、御遺影をゆずっていただこうとおもって架電した。ところが矢来町の旧宅も、関戸のマンションの電話も、いずれも「この電話は、現在使われておりません」という機械音声が返るだけだった。

振りかえると、ご逝去の際もあわただしかった。なにしろ師走の 29 日に逝去されたため、ご親族・ご親戚はお別れができたが、携帯電話の普及以前とあって、「仕事納め」を終えた企業の連絡通信網はまったく機能しなかった。
葬儀は四谷にある日蓮宗の古刹寺院でおこなわれたが、かろうじてリョービイマジクスの皆さんと、府立工芸系の学友の皆さんが参集できたのみであった。その末席にあって稿者は、

「加藤役員は、最後まで企業人だったな」
という一抹の寂寥感のなかに沈んだ。