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【恥ずかしながら かきしるす】吾がふるさとは信州信濃の国|豪雪でなる飯山なり|されど故郷忘じがたく候

飯山市・信州中野市・木島平村の境ににそびえる休火山「たかやしろ 高社山、別称・高井富士」。右のうしろがわには溶岩流が流れた美しい山裾がみられる。ここから4キロほど上流の旧飯山町内からは、左側の主峰はかくされて、右端の支峰だけが、まるでシルクハットを伏せたようにみられる。たかやしろは、飯山では東を指ししめす絶好のランドマークとなっている

「手前自慢」と「郷里-いなか-自慢」はとかく格好がわるいとされる。
ところがやつがれ、いつの間にか郷里:信州信濃の国、飯山市の応援団団員になり、「菜の花大使」なる証明書まで支給される惨状とあいなった。読者諸賢にはしばしのご寛恕を願う次第である。
上掲写真は飯山が町制から市制による飯山市になった昭和30年の古写真である。やつがれ時に10歳、この写真でみえる山・川・野面の一帯で悪さのかぎりをして育ち、15歳で郷里をはなれた。
オヤジ・オフクロ・アニキと順次黄泉のひととなったいまでは、帰省はおろか冠婚葬祭でも逃げまわっているのが実情である。

さりながら四月下旬、遅い雪解けのころ、千曲川の河川敷と対岸の田畑では一斉に菜の花が開花し、櫻も桃も杏も何もかもが一斉に開花するのはまさに桃源郷としかいいようがない。
疎林にわけいると濃い紫のカタクリの花が可憐に咲いている。
雪国ならではの歓びと、辛さが同居しているのが吾がふるさと ─── 飯山 ─── である。

たまたま国立公文書館で「諸国城郭絵図 信濃国飯山城絵図」を入手した。15年ほど前に「諸国城郭絵図」の特別展があり、その折りにはモノクロながら原寸のコピーを購入した。現在はデジタルアーカイブでダウンロードもできるようになっていた。あえてご紹介するゆえんなり。
[参考:『飯山町誌』(飯山市公民館、昭和30年11月3日)、飯山市公式 WebSite ]
飯山市は長野県の最北西部にあり、千曲川沖積地に広がる飯山盆地を中心に、西に関田山脈・東に三国山脈が走る南北に長い地形をもっており、南西部には斑尾高原、北西部には鍋倉山、東部には北竜湖などがあり、多くの自然資源に恵まれた地となっている。
近傍都市への距離は、長野市へ36キロメートル、中野市へ15キロメートル、新潟県妙高市へは25キロメートルである。
主要交通網としては、北陸新幹線飯山駅があり、関越・上信越高速自動車道の「豊田・飯山インター」がある。また国道117号・292号・403号が市内を走り、長野市から新潟県十日町方面へ JR 飯山線が走っている。

飯山市の歴史

飯山は、古くから山国信州と日本海を結ぶ交通の要所として栄え、塩、魚などの海産物の集散地、また大和朝廷時代の越後・出羽開拓における重要な駅路としての役割を担ってきた。
戦国時代においては、上杉謙信の川中島出陣の際の前線基地として、戦略的にも重要な地となり、永禄7年(1564年)には千曲川左岸に飯山城が築かれた。飯山の都市形成は、この飯山城を中心になされ、江戸時代には幾度かの城主の変転を重ねる中で、しだいに城下町としての機能を整えてきた。

江戸時代の初期から中期にかけては、千曲川を利用した舟運と、越後に通じる街道を使った物流機能が発達し、また新田開拓とかんがい用水の整備が積極的になされ、農業の基盤が確立された。

明治維新後は、明治4年の廃藩置県によって飯山県となり、さらに長野県に編入され、町制は明治22年に施行された。
戦後の昭和29年8月の町村合併促進法の施行により、飯山町を中心に秋津村・柳原村・外様村・常盤村・瑞穂村・木島村の1町6村が合併して飯山市が誕生した。飯山市はその後、昭和31年に太田村・岡山村を編入し、現在の姿にいたっている。

明治26年、飯山を経由しない信越本線の開通により、徐々にその物流拠点としての機能を失い、その後は農業を中心として、飯山仏壇、内山紙などの伝統工芸をはじめとする地場産業により発展。しかしながら昭和30年代後半からの高度経済成長期において、産業が立地する条件をもたなかったこと、さらに豪雪地帯であるというハンディもあって経済成長が停滞し、若年層を中心とした人口の流出を生じた。現在の飯山市の人口は過疎化がすすんでおよそ二万人まで減少している。

飯山市の気象

飯山市の特徴として、四季の変化とその折々の景観の豊かさがあげられている。飯山の気候は、春から秋にかけては内陸盆地型気候となっているが、冬季は日本海からの季節風が、南西の斑尾山から北西の鍋倉山にかけて連なる関田山脈の影響によって上昇気流を生じるため、日本でも有数の豪雪地帯となっている。最深積雪平均は平地で176センチ、山間部では350センチを上回り、一年のうち12月下旬から3月下旬まで、およそ3分の1の期間が雪におおわれている。

諸国城郭絵図 信濃国飯山城絵図(国立公文書館蔵 請求記号:169-0335)

【飯山藩-いいやまはん】

信濃国飯山(現長野県飯山市)を藩庁とした藩。関ヶ原の戦後、飯山城には関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山・本多の諸氏が交替して藩政を行なった。
関一政は慶長六年(一六〇一)二月より同八年二月まで高井郡・水内郡の両郡のうち四万石を領し、ついで松平忠輝(譜代・城持)が信濃国川中島を領するや、彼の傅役を勤めた皆川広照が飯山城代となって四万石を支配したが、同十四年二月松代城代花井吉成の悪政を非難したために領知を没収された。その後堀直寄が同十五年閏二月入部して四万石を知行し、千曲川の氾濫をおさめ、置目を定めて広大な新田の開発を行なった。

越後高田城主となった松平忠輝が大坂の陣の失態で改易となり元和二年(一六一六)七月移封され、飯山城には佐久間安政が入部して三万石を領し、佐久間安長についで佐久間安次にいたったが、同家には嗣子がなく寛永十五年(一六三八)除封された。

寛永十六年(一六三九)三月松平忠倶(譜代・城持)が遠江掛川より入部し、四万石を知行、孫の松平忠喬が旧領掛川に移封されるまで治世六十八年間におよんだ。慶安より延宝年間(一六四八-八一)にかけ、領内総検地、千曲川の治水、野田喜左衛門を起用しての新田開発など民政に尽くし、大坂城加番たることも四度におよび、また慧端禅師(正受老人)に深く帰依して城下西郊に「正受庵」を与えた。
宝永三年(一七〇六)正月永井直敬(外様・城持)が三万三千石を領して在城五年、青山幸侶(譜代・城持)は正徳元年(一七一一)二月より四万八千石を領したが七ヵ年の在城で転封された。

これについで越後糸魚川(一万石)より入部したのが本多助芳(譜代・城持)で、領知二万石と領高一万五千石を支配し、九代助寵-すけたか-まで百五十余年間にわたって藩政をおこない維新を迎えた。
元来本多氏はその祖広孝より譜代の家臣として勲功があったが、利長は故あって遠江横須賀城(五万石)を召し上げられた。のちに殊遇により飯山城主となった甥の助芳は家門の復興を祖先に謝し、旧臣を招致して治政にあたった。
しかし千曲川沿岸の所領は連年の水害を被り、増封の喜びもつかの間、水災との戦いに財政は窮乏し、やむなく領地替えの嘆願を重ね、享保九年(一七二四)その目的を達した。今まで高井郡と水内郡の二郡にまたがっていた所領は、水内郡の山手にまとめられ、領内は城下・外様・山ノ内・川辺の地区に分け、代官をして支配し、藩政に治績をあげた。

たまたま明治元年(一八六八)四月、旧幕府の古屋作左衛門らの浪人軍が越後の諸藩を説き、親藩の高田藩を説得しようとして500余人の軍勢で飯山城下に迫った〔浪人の役・飯山戦争〕。この際200名ほどの藩士からなる飯山藩の藩論は官軍に傾いたので、浪人は家中屋敷および町方に放火しして甚大な被害を与えて去った。
同四年七月廃藩置県により、一時飯山県が設けられたが、やがて同年北信濃の諸県とともに長野県に統合せられ、九年、南信濃の筑摩県と合併して現在の長野県となった。

[参考:『国史大辞典』吉川弘文書館ゟ抜粋]

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