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【かきしるす】タイポグラファ群像*02|国立国会図書館所蔵|東京築地活版製造所第三代社長『曲田成君略伝』|附:東京築地活版製造所第二代社長(心得)本木小太郎|WebSite 改定・増補版

平野富二平 野  富 二
長崎新塾出張東京活版製造所/株式会社東京築地活版製造所 創設者
石川島平野造船所/株式会社石川島造船所(現 I H I) 創設者
明治産業近代化のパイオニア 生誕170年
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
本木 小太郎本木小太郎
本木昌造次男・継嗣  株式会社東京築地活版製造所第二代社長(心得)
安政4年9月18日-明治43年9月13日 1857. 09. 18-1910.  09. 13 享年53

本木小太郎に関する資料は極めて少ない。東京築地活版製造所の役員であり、後見人:平野富二、岳父:品川藤十郎、本木昌造の高弟:谷口黙次、最大の支援者:松田源五郎らも、ついに小太郎に匙をなげるにいたった原因は、断片情報からおおむね解ってはいたものの、ここにようやく公開された『曲田 成略伝』をお読みいただけるとわかるようになった。

しかしながら曲田成以外の役員はすべて長崎出身者であり、たれもが故人となった本木昌造に対する「惻隠の情」のなせるところがあり、本書でも明確には伝えられていない。そのため本書の記述の「行間」を注意ふかく読みとっていただくことになる。
本木小太郎の最後は、現在の銀座松屋近辺の三間 ミツマ 印刷(大阪活版所:谷口黙次次男、三間隆次宅)で、墓地は長崎大光寺本木家塋域、本木昌造墓標の右脇、ひとつだけちいさな石標に、仏画を刻した墓が本木小太郎の墓標である。これは知るひともすくないままにひっそりとある。

曲田成 resized曲田 成(まがた-しげり)
東京築地活版製造所第三代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49
元阿波国蜂須賀藩藩士、徳島本藩と淡路島の稲田家の騒動に巻きこまれて士籍を捨てた。
菩提寺・墓所・親類縁者はいまだに判明していない。なお幼名は岩本壮平とされる

《東京谷中霊園 平野家墓地に石に刻されてのこっていた曲田 成の名前》

IMG_1914IMG_1915谷中霊園甲十一号十四側、平野家墓地の背の高い石柱の門を入った参道の右側に、石の水盤が置かれている。
この水盤は東京石川島造船所の関係者によって捧げられたもので、その左側面に、重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。
これらの名前は東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった(『平野富二伝 考察と補遺』古谷昌二、朗文堂)。

IMG_1885IMG_1888

MG_0689uu[1]その先の参道に左右一対の石灯籠がある〔掃苔会 案内人:松尾篤史氏、撮影:時盛淳氏〕。
上掲写真「掃苔会」のおりの集合写真では、向かって左側の石灯籠をみることができる。
三段重ねの基壇があり、そのうえに台座がしつらえられており、軽やかで瀟洒なものである。
平野富二の墓標と同様に、太平洋戦争に際して上野駅周辺に投下された焼夷弾の油煙をあびているが、火袋を交換修復しただけで創建時の状態をよく保っている。

この一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者によって捧げられたものである。
向って左側の石灯籠の台座裏面に「東京築地活版製造所」と刻し、続いて、曲田 成、松田源五郎、谷口黙次、西川忠亮、野村宗十郎、竹口芳五郎、谷田鍋太郎、松尾篤三、湯浅文平、古橋米吉、高木麟太郎、浅井義秀、太原金朔、仁科 衛など役員・幹部社員とみられる総勢十四名の氏名が列記してある。

向って右側の台座裏面には、左側に続くかのように以下の十六名の氏名が列記してある。
秋山雅長、奥井徹郎、横井清三郎、広瀬己巳郎、上原定次郎、益子芳之介、西成□政、若林由三郎、倉岡寿平次、永井卯三郎、片寄利吉、岡崎 努、栄朝重、伊藤義人、三野又一、岡 洵。
しかしながら、ここには本木昌造次男・継嗣  株式会社東京築地活版製造所第二代社長(心得)にして明治43年9月まで存命していた本木小太郎の名はみられない。
このころの小太郎はおもに関西方面にあって、旧長崎新町私塾の門下生をたずね歩いては、あまり好ましくない足跡を断片記録として残している。

本稿では、おもに平野富二の創設による東京築地活版製造所の第三代社長:曲田 成を取りあげる。
これまで曲田成に関する資料は、業界紙誌の断片的な記録をのぞくと、『日本人名大辞典』(講談社)の以下のようなわずかな紹介をみるだけであった。

【曲田 成 まがた-せい 1846−1894】
明治時代の実業家。弘化三年生まれ。もと阿波徳島藩士。維新後実業界にはいり、明治一六年平野富二の東京築地活版製造所をついで所長となった。明治二七年一〇月一五日死去。四九歳。幼名は岩本壮平。

ほかにもこの献灯台座に名を刻した何人かが登場してくる。そしてなぜか、この献灯台座には、東京築地活版製造所の象徴的な創立者とされ、平野富二が礼を尽くしていた本木昌造の継嗣・本木小太郎(いっとき東京築地活版製造所第二代社長-心得-に就任 一八五七-一九一〇)の名はみられない。(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)。
本木小太郎は一八八九年(明治二二)の暮れも押しつまった一二月三〇日に東京築地活版製造所に社長心得の辞職届けを提出したものとみられるが、年明け早早の一月二日にはほどんどの職員・職工は再任・再雇用されたものの、そこにはすでに本木小太郎の名はなかったのである。
このことに関しては『曲田成君略伝』の編著者も論及には及び腰であり、読者にはその「行間」に込められた真意を読みとっていただくしか無い。
かくいう稿者も惻隠の情はある。したがって「口ごもらざるを得ない」状況にある。

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田 成君略伝』ゟ
当時の曲田君はおおいに計画するところがあって、一八八九年〔明治二二〕一二月三〇日、株主総会最終日、すなわち東京築地活版製造所の存廃を決するという日において、七項の条件を委任〔たれから? どんな条件を? 当時の株主は平野富二・初代谷口黙示・松田源五郎・品川藤十郎と島屋政一は記録する〕せられて社長の任につき、翌三一日事務員一同の辞職を聞き届け、各部の職工を解雇した。年をこえて一八九〇年〔明治二三〕一月二日、再度曲田君が信任するものを挙げて事務を分担させ、職工の雇い入れなどをなさしめた。

およそ社会のことは、盛んにもてはやされたり、敗れたり、また、張りつめることもあれば、弛むこともある〔一興一敗一張一弛〕ことは免れざるところにして、またやむを得ないことである。
そしてその歳月〔年所〕を経るにしたがって、まちまちであり、また私情がからんで処置のしにくい事柄〔区々の情実〕がまとわりついて〔纏綿〕、ついに一種の疾病となることは往往みなそのとおりである。 当時の東京築地活版製造所も、実にこのような疾病を得た状態にあった。しかしながら社会の風潮はようやく実業の前途において、その場のがれや、一時的にとりつくろう〔姑息の緶縫〕ことを許さないという状況にいたっていた。

それに加えて不景気の嘆声は東京築地活版製造所の前途の販路を押しこめてふさぎ〔壅塞〕、閉店の杞憂を抱かしめ、早晩の挽回の方法を講じなければいかんとも〔奈何〕なすことができないという状況に瀕していた。
こうした事情があって、株主が一致して曲田君を挙げて、東京築地活版製造所の挽回を一任したのである。

このような時機に際しては、あたかも名医が快刀一下、病疾の宿瘍を切開するように根本的な改革をおこなわなければ、この危機を救済することはできない。曲田君はおおいにそこに覚悟があって、事務員と職工を解雇するという英断を施すにいたったのである。
そもそも数年にわたる親密な交際〔情交〕がある者に向かって、いきなり〔一朝〕解雇 の厳命を伝えるのは人情において忍びないところがあるが、曲田君のきっぱりとした決心は、幾多の毀誉を顧みずに、改革の企図のもと、その効験を確信しておこなわれた。
こんにちふたたびその基礎を確実にして、社運が隆盛にいたったのは、実にこの曲田君の英断と卓識に因ったものであった。

平野富二──明治産業近代化のパイオニア 古谷昌二ブログ}
東京築地活版製造所歴代社長略歴 第三代社長 曲田 成 ゟ
明治22年(1889)12月30日、曲田 成は、東京築地活版製造所の臨時株主総会において 経営改善 7 ヶ条の条件を委任されて社長に就任した。翌31日、事務員一同に辞職届を提出させ、各部の職工を解雇した。
年明け早々の明治23年(1890)1月2日、経営改革に協力する事務員を再雇用し、その中から信任の度合いに応じて事務を分担させた。また、職工の再雇用などを行わせた。
なお、明治22年と同23年の職工数を見ると、男性214人が5人減、女性30人が21人増となっており、男性に代えて女性を増やしたと見られるが、大幅な変動はない。

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あらかじめお断りしておくが、平野富二の逝去後まもなく一八九三(明治二六)年に商法が実施された。したがって商法の実施以後に、長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所は、株式会社東京築地活版製造所となる。
また石川島平野造船所/有限責任石川島造船所も、株式会社東京石川島造船所となり、幾多の増資・合併と変遷をへて現 I H I につらなっている。
商法の実施後の両社の商号に、ともに「東京」の名前が冠されていることは、ここではひとまず注目しておいていただきたい。


本稿では煩瑣をさけ引用資料紹介などをのぞき、これ以降年代区分をすることなく、両社を一貫して「東京築地活版製造所/東京石川島造船所」と表記させていただく。
平野富二が手がけた多くの事業のうち、残念ながら、活字版製造と印刷関連器機製造を主業務とした東京築地活版製造所は、一九三八(昭和一三)三月に清算解散が決議され、多くの記録がうしなわれ、一部は神話化されて伝承されてきた。

平野富二生誕一七〇年にあたり、平野家墓地の献灯台座に、東京築地活版製造所関連者の筆頭に刻まれていた「曲田 成」に関して、近年国立国会図書館によって 公開紹介された新資料「株式会社東京築地活版製造所社長『曲田 成君略伝』」から見ていきたい。

 曲田成 resized曲田 成(まがた-しげり、一部資料にまがた-せい)
東京築地活版製造所第三代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈陦ィ1譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈2譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈3譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈螂・莉・ダウンロード用 PDF  『曲田 茂 君略伝』 3.62MB

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田 成君略伝』

明治二八年一〇月一六日発行  (非売品)
編輯兼発行者   松尾 篤三         東京市京橋区築地一丁目七番地
印  刷   者    野村宗十郎         東京市京橋区築地一丁目二十番地
印  刷   所    東京築地活版製造所           東京市京橋区築地二丁目十七番地
【 国会図書館資料 請求記号:特29-644 】

《知られざる人物だった 『曲田 成君略伝』について》

東京築地活版製造所の基礎を築いた創業期のふたりの社長をあらためて並べてみた。
◯ 平野 富二

東京築地活版製造所創設者/初代社長  
弘化三年八月一四日-明治二五年一二月 三日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
◯ 曲 田  成
東京築地活版製造所第三代社長
弘化三年一〇月一日-明治二七年一〇月一五日 1846. 11. 19-1894. 10. 15  享年49

このふたりは弘化三年(一八四六)という同年のうまれである。わずかに一ヶ月半ほど平野富二が先に誕生している。
またふたりとも仕事人間で、平野富二は講演中に倒れ、そのまま卒した。曲田 成は出張先の 姫路の旅舎で倒れ、看取るものもなく卒した。
わずかな違いは、曲田成が二年ほど長命だっただけで、それでもふたりとも五〇歳を迎えることなく卒している。

稿者にとっては長らくの疑問があった。
それは、東京築地活版製造所を語るとき、象徴的な創業者である本木昌造ばかりが異様なまでに熱心に語られ、創設者の平野富二はわずかに触れられるだけで、本木昌造の継嗣にして二代社長(心得)/本木小太郎にはほとんど触れられず、三代社長/曲田 成、四代社長/名村泰蔵に関しては 黙殺にちかい状況にありながら、なぜか、ポンと飛んで第五代社長/野村宗十郎だけが喧伝される事実であった。

本書『東京築地活版製造所社長 曲田 成君略伝』は、東京築地活版製造所第三代社長/曲田 成(まがた-しげり)の略伝である。知られる限り唯一本であり、管見ながらこれまで本書から引用された論考をみたことは無い。
序文は校閲〔刪正〕にあたった福地源一郎(櫻痴 三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。
本文は氏名不詳のふたりの人物がしるし、(五号明朝 字間 四分アキ)で組まれている。

本文後半に弔文「曲田成君ヲ弔フ文」(東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一)、「曲田成氏ヲ追弔ス」(密嚴末資榮隆  不詳)がある。
最後に「跋」がおかれ、東京築地活版製造所社長の名で名村泰蔵(三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。

刊記(奥付)には、発行日として「明治二八年一〇月一六日」とあり、おそらく曲田成の一周忌に際して刊行されたものとみられる。
編集兼発行者は松尾篤三(東京市京橋区築地一丁目七番地)である。この松尾篤三に関して知るところは少ないが、谷中霊園の平野富二墓前の対の石灯籠の向かって左側の台座、東京築地活版製造所関連の名前の列挙 八番目にその名をみることができる。 また長崎の宮田和夫氏からは、長崎師範学校に在籍していたとする記録をいただいた。
印刷者として、支配人・野村宗十郎(東京市京橋区築地一丁目二〇番地)がある。
印刷所として、東京築地活版製造所(東京市京橋区築地二丁目一七番地)がある。

『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』によって、今後本木昌造、平野富二関連文書の行間を大幅に補填することが可能となった。
すなわち従来は平野富二・本木小太郎(本木昌造の継嗣)・曲田 成・名村泰蔵に言及するところがきわめて少なく、両者のであい、東京築地活版製造所創設当初の器械設備、活字改良の次第などは暗中模索の状態にあった。

野村宗十郎建立概要_表紙さらにことばをかさねれば、原稿が完成していながら、東京築地活版製造所から『平野富二伝』が発行されるにいたらなかった次第は、本書と、こののちに紹介する「故野村宗十郎翁略伝」『野村宗十郎翁胸像建立概要』(昭和五年八月)の中であきらかになってくる。
ここに(2016年09月23日{活版 à la carte}{文字壹凜})読者諸賢に『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』の存在をお知らせし、ともに本書をタイポグラフィ研究に資することを期待したい。
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このように、ほぼ三年前に諸賢に『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』公開の情報をお知らせした。それ以来多くの方が国立国会図書館のデーターをダウンロードされ、ともに研究をすすめてきた。
したがって本稿はまだ読了されていない諸賢に、再度データーの存在をお知らせするとともに、まず旧漢字片かなまじりで明治文語体の、いささか読みにくい本文を、常用漢字におきかえ、あわせて文意を損なわない程度に現代通行文にした記録である。
原文との参照には、国立国会図書館の PDF データをご覧いただきたい。

この間、古谷昌二氏をはじめ、宮田和夫氏、板倉雅宣氏、桜井孝三氏(故人)、平野正一氏、春田ゆかり氏、松尾篤史氏、日吉洋人氏、大石 薫らとの論考会を何度かもった。そこで解消した疑問も多いが、あらたに発生した疑問も多数ある。

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田成君略伝』

曲田成略伝序
〔福地源一郎 Ⅰ-Ⅳ  四号明朝体 20字詰め 08行 字間二分 行間全角〕
東京築地活版製造所の社長、名村泰蔵君が一小冊子を懐にして来たりて余〔福地源一郎・櫻痴〕に告げて曰く、これはわが社の故社長 : 曲田成の略伝なり。曲田の没後、予〔名村〕はその空席〔乞〕を継いで職を続けています。所務を統纜するのに際して、いつも曲田の、ものごとをきちんとやり遂げる能力と、勉励を追憶して忘れることはありません。

わが東京築地活版製造所にこんにちある者は、曲田の功績は実に多大であったとしています。福地先生は曲田を識るひとです。願わくば先生がこの略伝を閲覧たまわり、あえてお願いいたしますが、文章・字句などの悪いところをけずり改める〔刪正〕加工をしてくださいと。

余はたしかに曲田君を知る。名村君にいたっては竹馬の同窓であり旧友である。したがって病後の衰労を理由としてこの要請を辞退することは忍びない。そこで要請をうけてこれを閲読し、余分なところを削り、その欠けたるところを補い、事歴をつまびらかにすることに及んで、益〻曲田君がおおいに当時のひととして卓越したひとであったことを知るなり。

そもそも創意をこらしたり、起業をなすことが困難なことはひとの認めるところである。ところがそれを継承し改良することが困難なことは、ときとして創意起業の困難より至難なことを、往々にしてこれを認めることができないのは世間にありがちなことである。
而して曲田君はこの至難な継業に任じて、能く所務の隆盛をはかるひとである。名村君が曲田君を追憶して止まないのはまことにもっともなことである。

まさしくひとが世にあるときは、赫々の功名はいっとき喧伝されるが、その死後となると、ぼんやりとしてしまって、尋ねるための跡も無いものである。滔々と世の流れていくさまとはみなこのようである。

曲田君のような人物は、その生前のときを知らなければ、一見もって中庸のひととする。しかるに歿後にいたり、ひとをして敬慕と哀惜の念を増さしめる斯くのごときものは、実際に本当の功績が存在することに感銘するがゆえにあらずや。

余はここにおいて、曲田君の生前に君を敬い、重くみることが少なかったことを愧じるのみである。
嗚呼余は先に平野富二君を追悼してまだ数年にもならないのに、また曲田君の伝記を校閲した。筆を擱いて涙がはらはらと落ちるばかり〔泫然〕。
明治二八年〔一八九五〕一〇月               福地源一郎 しるす

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曲 田 成 君 略伝
〔氏名無記名の筆者がふたり。五号明朝体 30字詰め 10行 字間四分アキ 行間五号全角と二分  ひとりは二字下げでリード分をしるしたひと。もうひとりは感情を抑制して事実列記につとめたひと p.01-25〕

偉大なる事業とは一世一代にして大成するものではない。まず発明があり、創意工夫があり、継業があり、改良があってのちに、はじめて大成をえるものである。

いにしえより、英雄豪傑の士は時勢の気運に乗じて、その功を一世にしておさめたといえども、やはりふつうは一世一代にして大成するものではない。 いわんや、蒸気機関の開発や電気器機のような、ものごとの大業とされる事業とは、みなこのようである。

わが国の活版事業においても実にこの通則にあるものであった。 まさしく活版事業の創意者は本木昌造君にして、その継業者は平野富二君である。そしてその事業を拡張・改良して、これを大成させたる者は曲田成君であった。これらの三名は皆その年齢が五十歳に達しないまま〔本木昌造は数えて52歳で歿〕はるか遠くにいってしわまわれた〔遠逝〕。

ああ、天はどうしてこの三君にたいして歳をかさねることを惜しんだのだろう。 そして創始者たる本木君の伝は曲田君がこれを世におおやけにした〔 『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編 明治二七年九月〕。継業者たる平野君の伝もまたその稿を脱稿した〔未見〕。ゆえにここに拡張者であり改良者である曲田君の略伝を編輯して、その経営と辛苦の蹟を顕わさんと欲するなり。

君の姓は曲田(はじめ岩木と称す)、名は成(幼名を荘平という)〔まがた-しげり/『日本人名大辞典』(講談社)ほか一部の資料は、まがた-せいとする〕。 弘化三年一〇月一日〔一八四六年一一月一九日〕淡路の国津名郡物部村〔淡路島にある兵庫県洲本市。江戸期は阿波徳島蜂須賀藩領であった〕にうまれた。

父を富太郎と呼ぶ。母は関氏のひと。曲田家は代代徳島〔本藩の〕藩士であった。二歳にして父をうしなって母に養われた。幼くして川端豊吉氏を師として書をまなび俊秀の名があった。やや長ずるにおよび藩学校にはいり漢籍をまなぶ。その進歩の様子は衆を越えていた。

一八六六年〔慶応二年 曲田成数えて二〇歳〕藩主蜂須賀侯〔一三代蜂須賀斉裕-はちすか なりひろ〕が、従来の兵法をあらためて英国式の兵制を布くのにあたって、曲田君は熱心に練兵の法をまなんでおおいに得るところがあった。そのため銃卒一番大隊の小隊司令官に選抜され、刻苦勉励、もっぱら隊伍を訓練することをもって自任していた。

一八七〇年〔明治三〕藩士が稲田家に事件をおこすにあたり〔五月一三日(新暦六月一一日)徳島藩士が、家老稲田氏所管の洲本屋敷(館)を襲撃。稲田騒動、阿波庚午事変とも。別項で紹介〕、曲田君は一方の指揮官となり進退はなはだよろしきをえたが、その挙動〔稲田騒動〕はまったく藩士の私憤に出るのゆえをもって、その職を罷免された。

一八七一年〔明治四〕藩主〔一四代蜂須賀茂韶-はちすか もちあき〕はふたたび兵制をあらため、フランス式練兵法を採用するにあたり、再度その教授役に挙げられた。しかしながら曲田君はおおいに時勢を達観するところがあって、断然その職を辞し、もって自活独立の途をもとめるために、親戚や知人のつよい諫めを聴かず、単身旅したくをととのえて上京の途につけり〔曲田成数えて二五歳の頃〕。

嗚呼たれか安逸を望まざるものがあろうか。嗚呼たれか娯楽を欲せざるものあらんや。そのようなわけで〔然り而して〕、この安逸のために不測の辛酸を嘗め、この娯楽のために惨憺たる悲劇を演じて、ついに失望の域に沈み、落胆の岩に触れ、いまだ彼岸に達せざるに、すでにその身をおくに苦しむものはいずれも〔比比〕皆同様である。
しかるに曲田君が職を辞して、さらにあらたな路に向かって自営の道をもとめ、意を決して東上したことは、ただ気ままに遊び楽しむこと〔目前の逸楽〕は他日の不幸となることを前もって知った〔前知〕ためではなかろうか。

曲田君が征途についたとき、ほんのわずかな資金をふところにし、そまつな笠をかぶり、みずからひと包みの服を背負い、気力をふるいおこして〔慨然〕故郷をさった。道中では幾多の艱苦をなめたが、かろうじて東京に達した。
しかしながら寄るべき朋友は無く、訪問すべき故旧をおとなうこともなく、ひとりぼっちで〔孤影単身〕艱苦は身に迫ってしまった。

江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町resized『江戸名所道尽 外神田佐久間町』歌川広景 安政六年(1860)
平野富二・曲田成の東京での出発点となった藤堂和泉守上屋敷の門長屋の風景。

江戸期以来、町人地とは異なり武家地と社寺地には町名がなく、この絵士:歌川広景も「外神田佐久間町」として庶民の正月風景を描いているが、外神田佐久間町は画面左手にあたり、ほとんど描かれていない。
実際に描かれたのは現・東京都千代田区神田和泉町一にあたる、藤堂藩の藩屏たる門長屋の風景である。この藤堂藩三十二万三千石屋敷(上屋敷)の敷地と門長屋はおおきく、平野富二は画面右側の最奥部あたり(現千代田区和泉公園の南端あたり)に仮工場を設置したものと見られる。

平野富二がここを本拠地とした期間は、一八七二年七月-七三年七月までのほぼ一年間という短い期間であったが、平野と曲田成の膠漆の交わりがはじまったのは、この現・東京都千代田区神田和泉町一の東南あたりの地であったとみてよい。

ここには東京大学医学部の前身「大学東校 だいがく-とうこう」が開設され、森鷗外もこの門長屋での寄宿生活をすごし、小説『雁』にこの風情をのこしている。
 (平野の会:古谷昌二・平野正一氏同日情報提供 『江戸名所道外尽 神田佐久間町』広景画、辻岡屋、国立国会図書館 請求記号:寄1-9-1-7)
現在はこの歌川広景の錦絵を「平野富二の会」も所有するにいたっている。

幸いなことに当時東京築地活版製造所の創始のときに際し、平野富二君が神田佐久間町〔藤堂和泉守屋敷門長屋の一隅・現千代田区神田和泉町一、和泉公園の神田佐久間町三丁目の右斜め向かい側あたり〕に、長崎出張所〔長崎新塾出張活版製造所〕を開設し、ひろく活版業の需要をはかり、将来にむけて有為の士をもとめていた。

曲田君ははからずも平野君の知遇を得て、今後この事業をともにすることを約した。それからの平野君と曲田君の親密なる交際〔情交〕は、骨肉の兄弟のように一挙一動を共にして一体の観をなした〔平野富二:弘化三年八月一四日うまれ、曲田成:弘化三年一〇月一日うまれ。ふたりは同年のうまれである〕。

平野君が佐久間町〔千代田区神田和泉町一〕に斯業を創始したのは明治五年七月〔一八七二年六月〕のことで、まだ世間ではおおむね活版とは何であるかを理解するものは無く、顧客、ユーザー〔需用者〕はまたわずかであった。 しかしながら曲田君はひたすら平野君のさしず〔指顧〕にしたがって日夜事業の進展をもとめ、あえてほかを顧みることはしなかった。
まさしく当時の曲田君の心境は、いわゆる南海の一寒生〔貧しい書生・自分の謙称〕にして、平野君の知遇を得たるをもって、ひたすらつとめはげみ〔孜々黽勉 ししびんべん〕、ただそれでも及ばざることを恐れ、そのはじめはみずから活版配達夫となって奔走した。
累進して鋳造係りとなり、翌明治六年八月〔長崎新塾出張活版製造所が〕築地二丁目に移転するにおよび、ますます平野君とともに斯業に勉励した。

長崎新塾出張活版製造所uu[1]

わが国最古級の冊子型活字見本帳の口絵に描かれた東京築地活版製造所社屋の図版は、
木口木版を印刷版とし活版印刷機で印刷された/笹井祐子(日本大学藝術学部教授)

この図版の版式と印刷方式は不詳だったが、『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)の原本を間近にご覧になった日本大学藝術学部教授(版画コース担当)/笹井祐子氏により、版式は木口木版、印刷方式は活版印刷機使用であると判断された。
従来はわが国における西洋式「木口木版」の開始は、生巧館・合田清のフランス留学からの帰国一八八七(明治二〇)年をもってはじめとするが(『日本印刷技術史』中根  勝、八木書店  pp 246)、その通説をくつがえす報告である。

平野富二が単身で上京し、東京での市場調査と、携行した活字を販売したのち、本格的に首都東京に進出したのは、まだ改暦前で一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。
平野富二がこの上京に際して、上海 → 長崎 → 神戸 → 横浜間の定期貨客船(外国飛脚船)をもちいて、まだ普及していなかった海上損害保険に本木昌造の反対を押しきって加入していたことは記録されている。
このとき活字鋳造器機、活字母型その他の荷物とともに、新妻・こま、品川徳太郎(品川徳多とも、品川藤十郎長男、一八五一-八五)、松野直之助(一八四六-七八 上海にて歿す)、松尾徳太郎、桑原安六(のち東京築地活版製造所支配人)、和田国雄(のち東京築地活版製造所支配人)、相原市兵衛、大塚浅五郎、柘植広蔵らとともに海路上京した。

この旅の詳細は記録されていないが、おそらく横浜で外国船をおりて、小型船を乗り換えながら、品川沖から石川島沖を経由して隅田川に入り、さらに神田川を遡上して和泉橋河岸-かし-あたりで荷物を降ろしたものと想像される。
すなわち、平野富二が当時の呼称、神田佐久間町大学東校表門通り〔和泉藤堂守上屋敷門長屋/現在の千代田区神田和泉町一〕に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげて斯業を創始したのは一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。

ここには「文部省活版所」の名で、本木昌造の命をうけて一年前に先行していた小幡正蔵と営業部員の大坪本左衛門が、どういうわけか「小幡活版所」の看板を掲げていた。
この「文部省活版所」、「小幡活版所」の業容と消長は知るところがすくないが、小幡正蔵は一八七一年(明治三)一〇月本木昌造が「文部省活版御用」を任ぜられ、平野富二が大阪活版製造所の小幡正蔵をともなって上京したと記録されている。
したがって小幡正蔵はもともと大阪活版製造所のひとで、短期間の在京で帰阪したものとみられる。一部の記録には下掲の「大坪活版所」に合流したともされている。
また平野富二一行到着の翌年、大坪本左衛門は平野富二の了解を得て、湯島嬬恋坂下に「大坪活版所」を設けて独立開業して、平野富二の活字取次販売と活版印刷業をはじめた(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)

東京日本橋のたもとに設置されている銀座大火の記録。この大火のために銀座地区の復興に際して耐火性にすぐれた煉瓦がもちいられ、次第にガス灯がともって、一大商業地が登場した。[画像提供:青葉水竜]

この前年、一八七二年四月三日(旧暦では明治五年二月二六日)、「銀座大火」とされる大火災があった。銀座大火は和田倉門内旧会津藩屋敷から出火、折からの強風にあおられ、、東京の中心地、丸の内、銀座、築地一帯が焼失した。こまかくは、銀座の御堀端から築地までの九五万四百平方メートル(四一町、四千八百七九戸)を焼失した。焼死八人、負傷者六〇人、焼失戸数四千八百七四戸という記録がのこる。

京橋の町人地を一通り焼いた火焔は、ふたたび東隣の旧武家地に侵入、伊達宗徳邸(旧宇和島藩伊達家上屋敷)、亀井茲監邸(旧備中松山藩板倉家中屋敷)、西尾忠篤邸(旧横須賀藩西尾家中屋敷)などを焼いて、築地川(現首都高速都心環状線)を越え、開墾会社・牛馬会社など新興会社が拠点としていた現築地一-三丁目を横断、築地本願寺に到達し、築地本願寺の大伽藍はもちろん、周辺の末寺も焼失した。
この「銀座大火」をきっかけに、明治新政府はこの周辺から寺社と墓地の移転をはかり、銀座周辺を耐火構造の煉瓦をもちいて、西洋風の街路へと改造することとなった。

平野富二は教育施設となった「大学東校 文部省活版所」内、あるいは隣接地での仮工場は、活字鋳造には不適であると判断し、また森鷗外と同様になにかと居心地がわるかったとみえる。
そこで平野富二が注目したのは、水運に恵まれ、焼亡地となっていた築地二丁目二〇番地の一画一二〇坪余であった。
上京後一年、はやくも一八七三(明治六)年夏には金三千余円をもって購入手続きをすませ、七月某日「長崎新塾出張活版製造所」を築地の仮工場に移転し、同年一二月二五日、自費で建築した耐火性に富んだ煉瓦家屋の引き渡しをうけた。

この築地の土地は、のちに東京築地活版製造所の本社工場敷地、隣接して平野富二邸敷地として周辺が買い増しされていくが、明治六年〔一八七三〕一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。
東京進出からわずか五年後、アメリカ合衆国独立100周年を記念して開催されたフィラデルフィア万国博覧会(一八七六年五月一〇日-一一月一〇日)への出展に際して製作されたとみられる冊子型活字見本帳、通称『活版様式』(一部欠損本、印刷図書館蔵、明治九)の口絵である。
同展には先行したパリ万博・ウィーン万博での中心展示となった漆器・陶磁器・扇子・屏風・浮世絵などに加えて、文明開化の成果としての近代産業の展示が政府からもとめられた(『米国博覧会報告書 日本出品目録第二』米国博覧会事務局、明治九年、国立国会図書館、請求記号:特28-157)。

この際、直接の担当者(官僚)は手島精一で、のちに蔵前の東京高等工業学校校長、現東京工業大学の創立者のひとりとされる人物であった。手島精一はその後も東京築地活版製造所に支援をかさね、『花の栞』巻四、五に序文をしるしている。
この手島精一らの要請をうけて、官営の印刷局とならんで、民間企業の東京築地活版製造所も和田国雄を主任として現地フィラデルフィアに派遣し、活字類・手引き式印刷機などを出展した。

その翌一八八七年(明治一〇年)、東京上野公園で第一回内国勧業博覧会(政府主催)が開催された。その際に出展したものとみられる東京築地活版製造所『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)も現存している。
この俗称「平野活版所活字見本 明治九年版・明治一〇年版」の二冊の活字見本帳は、それぞれ孤本(明治九年版はほぼ完本で一九八〇年頃にはイギリスの図書館にあったが、現在は所在不明)とされているが、二冊ともに口絵図版の門柱に「長崎新塾出張活版製造所」の縦長看板があり、一八七三年(明治六)年一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。

この版式と印刷方式は不詳だったが、『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)の原本を間近にご覧になった日本大学藝術学部教授(版画コース担当)/笹井祐子氏により、版式は木口木版、印刷方式は活版印刷機使用であると判断された。
従来はわが国における西洋式「木口木版」の開始は、生巧館・合田清のフランス留学からの帰国一八八七(明治二〇)年をもってはじめとするが(『日本印刷技術史』中根勝、八木書店  p.246)、その通説をくつがえす報告である。

当時の〔活字〕鋳造は、いまのような「カスチング」をもちいず、はじめは「流し込み」たりしものにして、「ハンドポンプ」をもちいるようになったのはひとつの進歩というべきほどのことであった。曲田君は日常の談話でよくこのことに触れ、手足や顔に火傷をすることがたびたびであったとかたっていた〔この部分は稿をあらためて解説したい〕。

一八七六年〔明治九〕六月二六日、曲田成は平野富二の奥書を得て、家禄奉還のことを出願した。家禄を奉還して自力で食い扶持を得ようとすることは、実に常人のできることではない。日本帝国中でこのような断りの意思を示した行為は稀有のことであるとして、知事はこれをよしとして、銀盃一個を賞賜した。
その文に曰く、
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乞 家 禄 奉 還 書 (家禄奉還を乞う書)
士族  曲 田  成 謹言す

名東ミョウドウ県令公閣下 維新以来文明は日に進み、開化は月にあらたに、都市もひなびた地方でも〔都鄙〕様相をかえて〔革面〕、旧習をのぞき、善政がおこなわれ農民も商人も食に満ち足りて、生業を楽しんで〔鼓腹〕います。
このような時に際して、士族はほんのすこし〔繊毫〕も役にたつこと〔裨益〕もなくして、家禄をたまわり、空しく日日の食事にありつくこと〔素飱〕に甘んじています。あるいは〔士族の籍を〕奉還して賜金をもとめ、子孫への遺産となしています。これは実にみずからを省みることが無きこと甚だしいものです。
不肖 曲田成がかんがえるに〔以為〕、彼もひとなり、我もひとなり。我ひとり日日の食事にありつくこと〔素飱〕をしていてよいのでしょうか。ですからみずから活路をもとめ、子孫のために策を設け、早急に自由の美郷に奔走しようとする以外ないと〔駆馳〕鋭意奮起して、ついに世間のつよい諫め〔指謗〕を顧みず、こころざしを奮い起こして〔慨然〕、一八七三年〔明治六〕二月出京して、活版製造所社長平野富二なるものに遇い、活版の用法を熟聞しておおいに感得するところがありました。

説に曰く、ひとがこの世にあるときは、おのれの能力に応じて食していくべきである〔人の世に在る各其力に食せざるに可らず〕。而してひとりのために謀るは衆のためにするのにおよばない〔若かず〕。一己のために謀るはひろく天下の利益〔洪益〕を謀るのと同等ではない〔如かず〕。その説深く肝肺に銘ず。
それ天下のことに労するものは、必ず報酬を得て、労なくして報酬をえるのは、いわゆるただ喰い〔素飱〕である。 これにおいて断然平野氏と将来の盛衰を共にせんと約託し、該社に入社(投員)してこの業に従事し、社員と共に夜も日もなくつとめ励んではたらき〔孜々労作〕、忍耐倦まず。まさに時運に応ずる該社の事業は倍増しこんにちの盛大にいたる。

然り而して既往の事跡を追想するに、社長の常にあらざる勉強と、社員のねばりづよい労働〔労耐〕による。そしてここに前掲のようにますます該社は盛大となり、社則も精設して、拙工といえども給与金の三分の一をもって永途就産の資本に予備するの方法〔失業保険制度のこと〕を設け、これにおいて活路すでに確定す。これは勉励によるといえども、そもそもまた、天皇陛下〔天子〕のすぐれた知徳と恩沢〔聖明徳澤〕がもたらしたところである。

よって今回家禄を奉還して平民の戸籍〔民籍〕にはいり、その身のほど〔分〕をまもり、活路にいささかも安んぜずして、ますます素志を拡伸し、確実な資産〔確産〕を子孫にのこす〔遺設〕ことを希望する。

さきに〔曩に〕家禄奉還許可の政令あり。このときにあたって、同属はつぎつぎと〔陸続〕士籍を奉還して、政府から下賜されるお金〔賜金〕を請求した。
不肖 曲田成がおもうには〔以為〕、ここにおいて家禄を拝受するは無駄喰い〔素飱〕なり。賜金を拝受するのもまた素飱なり。素飱をあまんずることは同一である。

不肖 曲田成が家禄を仰ぐことにはもとより希望のものではない。いわんや賜金を貪ることも同様である。然れども、当時はいまだ家禄を辞退することができなかった。これは小生 曲田成の遺憾として切歯するところなり。ここにおいて眼前の小利に営々とせず、また遠大な志を企て、常に活路の方法に着目し、もし事が成就したならば、家禄を奉還せんと日夜願うところただ此れのみ。
しかるにまた一八七五年〔明治八〕七月家禄奉還を中止するとの政令があった。しかれどもいま、なりわい〔活計〕の方法すでに確定す。いまにして家禄を奉還しなければ〔せざれば〕、これは禄を貪っておのれが儲けをためる〔儲蓄〕を欲しいままにすることになる。これはいさぎよさを傷つけること〔傷廉〕、はなはだしきものというべし。

よってまず家禄を奉還し、民籍に編入せんこと懇願す。伏して乞う、この許可を賜らんことを。かつ賜金拝受のごときは天皇陛下の恩恵が親切で手厚いこと〔徳澤の優渥〕に因るといえども、食のために働かない連中を、いさぎよい態度とはおもえないところである。ゆえに特に辞して免除〔辞免〕を蒙らん。 ここにまたあらかじめお願い申しあげます。右陳述するごときであるので、憐れみ、お察しくだされ〔請禹閣下憐察を垂れ〕、そのそそっかしくてくるっていること〔疎狂〕を許して〔寛〕採用あらんことを請う。

もっか〔方今〕県務多端に属す。こまかくてつまらぬ〔区々〕志願をかえりみず、あえて尊厳を干犯す。恐惶のいたりにたまらず伏して明旨を俟つ。

名東県下淡路国津名郡物部村士族 東京築地二丁目四八番地寄留
明治九年六月二六日                曲 田   成(印)
頓首再拝     

前書願い書のとおり、曲田成儀とは四ヵ年前より居食をともにし、兼ねて同人儀も素飱を悔いて日夜勉励し、こころざしを同じくし、すでに活路の見込みも相定まり候のとき〔場合〕に至り、わたくしにおいてもしかと〔聢〕保証いたしますので(仕り候間)、本人の願いどおりご採用くだされたく奥書つかまつり候なり。

        東京築地二丁目二〇番地        平 野 富 二(印)
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名東県令富岡敬明公閣下

※名東ミョウドウ県は、明治初期に、阿波国・讃岐国・淡路国を範囲とした県。範囲は、当初は現在の徳島県および兵庫県淡路島であったが、長らく香川県の一部も含まれていた。県庁所在地は徳島。一八七一年一二月二六日に設置され、一八七六年八月二一日に廃止された。
※富岡敬明 最後の名東県令。一八七五年(明治八年)九月五日-一八七六年(明治九年)八月二一日:権令・富岡敬明(前山梨県参事、元小城藩士)

一八七九年〔明治一二〕東京築地活版製造所の「四号明朝活字」と、「六号明朝活字」の活版〔活字〕書体の改良のために、曲田君は上海に出張し、翌一三年春に帰朝した。

はじめ東京築地活版製造所が斯業を長崎の地におこすのにあたっては、なにぶん草分け〔草創〕のためもあって、その活字書体・原字書体〔字母書体〕を精選するにいとまがなく、得る〔獲得〕のにしたがって、これを製造し、これを販売してきた。したがってその活字書体は雑駁にして、みやびやかな風情〔雅致〕も、感興をさそうあじわい〔趣味〕も有していなかった。

M7,M37社屋それでも活版印刷の需用者は、平野君およびその他の尽力と、社会の進歩の刺激にともなって、都下はもちろん、ひなびた地方〔隦陬〕にまでおよび、その発達を誘導して、活版の利便であることを知ると同時に、その地金の良し悪し〔精錬〕を論じ、活字書体〔字体〕の良否によって活字を選択する傾向があることを察していた。
平野君は社員のなかで、がまん強く、困難に屈しない〔堅忍不撓〕精神を持ち、かつ熱心に事にあたる事業家を採用して活字書体の改良を計ろうとしていた。

そして遂に平野君はこの大任を曲田君に任せることにした。曲田君はこれに応えて、一層の奮発と励精とをもってその任にあたった。幾多の歳月を積みかさね、ようやくにしてこの活字書体の改良を大成することができた。その間活字原字彫刻〔種版彫刻〕の技術に関して得ることができた経験と知識はわずかなもの〔尠少〕ではなかった。

こんにち活字の良品とするもので、まずわが東京築地活版製造所に指を屈するようになったのは、ひとえに曲田君の刻苦勉励がもたらしたものである。そして逝去の一日前にも、旅先の姫路から書簡を社員に寄せて、ますます精進するように命じていた。

これより先、平野君は造船製鉄事業を東京石川島に開き、〔東京築地活版製造所と石川島平野造船所〕の両方の事業がますます繁盛におもむくのをもって、さらに北海道函館港に造船工場を設置せんとして、一八八〇〔明治一三〕九月曲田君を伴って函館に出かけ、その地の有力家渡辺熊四郎氏ほか数名とともに、同所にある海軍省の造船用の器械類の払い下げを請求するのにあたり、曲田君は終始これの斡旋の労をとり、計画に参加してよい結果を得た。

翌一八八一〔明治一四〕東京築地活版製造所支配人の桑原安六氏の退社に際し、函館より帰京して支配人補助となり、一八八五年〔明治一八〕和田國雄氏にかわって支配人となった。

その後社会の文運はますます進歩し、斯業の発達は愈〻迅速になった。東京築地活版製造所は常にその指導者となり、これら斯業者のよき仲間〔夥伴〕となり、活字の改良も益〻あゆみ〔歩武〕を進め、先進者たることの名声を失墜させることがなかった。これらは実に支配人として、事業家として、曲田君の操縦よろしきに因るものあった。

本木 小太郎本木小太郎
本木昌造次男・継嗣
安政4年9月18日-明治43年9月13日 1857. 09. 18-1910.  09. 13
長崎大光寺本木家墓所、本木昌造(あざな:永久)の墓標のすぐ右側にある「本木小太郎」墓
小ぶりな墓標正面には仏の座像が刻まれ、その下に六字名号:南無阿弥陀仏が刻されている。
向かって左側面には「本木永久次男俗名小太郎行年五十三歳 明治四十三年九月十三日東京卒」とある。 このとき同道した掃苔会会会員:故 桜井孝三氏は「ここには十何回はきているけど、小太郎さんのお墓が、長崎に、しかも本木昌造さんのお墓のこんなすぐ近くにあるこ
とは知らなかった」と感慨深げにかたられていた。

一八九九年〔明治二二〕六月、本木小太郎氏が海外留学七年の星霜を経過して(閲して)帰朝した。そこで平野君は創業者たる本木昌造君の遺志にそって、また自分の日頃からのおもい〔素願 ここでは造船と器械製造〕を遂げるために、東京築地活版製造所社長の職を小太郎氏に譲ることとした〔社長心得〕。
そのとき曲田君は支配人から工務監査の職に転じ、いささかの閑を得たが、止むことなく益〻工事の作業を研究していた。

ところで当時の経済と社会のさわぎ〔波瀾〕はほとんどその極に達し、商工業者はみな衰えて元気をなくして〔萎靡〕振るわなく、沈滞の歎声は国内全体〔海内〕にかまびすしく、朝に起こりて夕に倒れたるもの、指を屈するにいとまがないという惨憺たる状況となった。商工業者は挙げて、まさにおおきな惨禍〔一大旋禍〕のなかにひきこまれようとする危機的状況にあった。

東京築地活版製造所もまたその渦中に巻きこまれようとしたことは数次におよんだ。そのためにしばしば〔屢〻〕株主総会をひらき、将来の営業方針を討議したが、いつも重要な点をつかむ〔要を得ず〕ことができなかった。このときにあたり、このこんがらかった糸のように、まぎれ乱れた〔紛乱せる乱麻〕議論を整理し、こんにちのような盛大な企業にしたるゆえんは、あげて曲田君の力によった。

当時の曲田君はおおいに計画するところがあって、一八八九年〔明治二二〕一二月三〇日、株主総会最終日、すなわち東京築地活版製造所の存廃を決するという日において、七項の条件を委任〔たれから? どんな条件を? 当時の株主は平野富二・初代谷口黙示・松田源五郎・品川藤十郎と島屋政一は記録する〕せられて社長の任につき、翌三一日事務員一同の辞職を聞き届け、各部の職工を解雇した。年をこえて一八九〇年〔明治二三〕一月二日、再度曲田君が信任するものを挙げて事務を分担させ、職工の雇い入れなどをなさしめた。

およそ社会のことは、盛んにもてはやされたり、敗れたり、また、張りつめることもあれば、弛むこともある〔一興一敗一張一弛〕ことは免れざるところにして、またやむを得ないことである。
そしてその歳月〔年所〕を経るにしたがって、まちまちであり、また私情がからんで処置のしにくい事柄〔区々の情実〕がまとわりついて〔纏綿〕、ついに一種の疾病となることは往往みなそのとおりである。 当時の東京築地活版製造所も、実にこのような疾病を得た状態にあった。しかしながら社会の風潮はようやく実業の前途において、その場のがれや、一時的にとりつくろう〔姑息の緶縫〕ことを許さないという状況にいたっていた。

それに加えて不景気の嘆声は東京築地活版製造所の前途の販路を押しこめてふさぎ〔壅塞〕、閉店の杞憂を抱かしめ、早晩の挽回の方法を講じなければいかんとも〔奈何〕なすことができないという状況に瀕していた。
こうした事情があって、株主が一致して曲田君を挙げて、東京築地活版製造所の挽回を一任したのである。

このような時機に際しては、あたかも名医が快刀一下、病疾の宿瘍を切開するように根本的な改革をおこなわなければ、この危機を救済することはできない。曲田君はおおいにそこに覚悟があって、事務員と職工を解雇するという英断を施すにいたったのである。そもそも数年にわたる親密な交際〔情交〕がある者に向かって、いきなり〔一朝〕解雇 の厳命を伝えるのは人情において忍びないところがあるが、曲田君のきっぱりとした決心は、幾多の毀誉を顧みずに、改革の企図のもとその効験を確信しておこなわれた。
こんにちふたたびその基礎を確実にして、社運が隆盛にいたったのは、実にこの曲田君の英断と卓識に因ったものであった。

一八九〇年〔明治二三〕一一月東京活版印刷業組合創立に際し、同業の諸氏とともに運動してこれを成立させた。ついで翌一八九一年〔明治二四〕六月東京石版印刷業組合の創立にも曲田君は創立に尽力し、同組合でも事務委員となり、爾後重任を重ねて晩年にいたった。

一八九一〔明治二四〕二月『印刷雑誌』発刊の挙があって、故本木昌造君の偉大なる事業〔鴻業〕の伝記が掲載された。これを全国の同業者知らしめんと欲して、特に数百部を購入して各同業者に配布した。

一八九三年〔明治二六〕製版協会の設立を斡旋し、翌年同会が解散して東京彫工会に合併するのにあたり、その交渉委員に挙げられた。

同年七月印刷物見本交換〔同会発行冊子『花の栞』〕を創定した。これはわが国におけるこの種の〔印刷物交換の〕嚆矢にして、斯業者を益すること尠少ではなかった。翌年第二回を挙行し、その結果をみずして歿す。当初のその一冊を帝国博物館〔館長/手嶋精一 のち『花の栞』四号・五号に序文をしるす。のち現東京工業大学学長に就任〕に納めたところ、官はこれを嘉して木盃を賜った。

一八九三年〔明治二六〕八月東京彫工会製版部長に挙げられ、同二七年東京活版印刷業組合副頭取に挙げられた〔頭取/秀英舎・佐久間貞一〕。

またこれより先、曲田君は播但鉄道株式会社の創立に従事した。曲田君の名望卓識は遂に同社株主をして君を監査役としたため、しばしば〔屢〻〕山陰山陽一帯を遍歴〔跋渉〕していた。

一八九四年〔明治二七〕一〇月もまた、播但鉄道株式会社のために兵庫県姫路に出張していたが、一〇月一五日午後、突然脳充血症をもって姫路の旅宿に歿した。ときに数えて四九歳であった。

急ぎの電報が自邸に達し、驚愕、悲傷のさまはたとえようもなかった。遺族はただちに西下し、遺骸を護って帰ってきた。一〇月二一日東京府白金大崎村に葬った。当日東京活版印刷業組合頭取/秀英舎・佐久間貞一ほか一名が左の弔文を朗読せり。

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曲田成君ヲ弔フ文

これ、明治二七年十月二一日、築地活版製造所長曲田成君の葬儀を挙行する。東京活版印刷業組合委員等が棺の前に参会し、謹んで〔寅テ〕君の霊に告げる。

即ち、君は本木・平野両氏の後を承けて、ますます活版製造の事業を拡大し、諸種の活字が精確で、花形・片画〔ママ 罫画か装飾罫の可能性〕が斬新なことは、すべて君が熱心に企画した所に関係している。これによって、築地活版製造所の名声は国内・国外に鳴りひびき、欧米の印刷雑誌もこぞって〔嘖嘖〕賞賛するようになった。

感心することには〔嗚呼〕、君のようなひとは、よく草創の事業を継ぎ、先輩の偉業を衰えさせない者ということができる。

今や欧米の印刷術は一変して、精妙で巧緻を競うようになった。君はこれに対して、この風潮に伴って美術的観念を活版製造上にうまく傾注するばかりでなく、また、うまく活版印刷上に用いて、見本交換を発起し、同業者と提携してこの技術の改良・進歩を計画すること、至れり尽くせりであった。ああ、嘆くしかないが〔嗟々〕君が同業社会に功労あるのは、このようにまったく多大である。仮にも君の後継者が十分に君の意思を体してその規模を倍々に拡張したとして、それは君がすでに死んだというけれども、生きていると同じことである。心から希望するに〔庶幾クハ〕君の霊が、また少しく慰め労わるところがあるであろう。

活版印刷業組合を組織されてから、われわれ仲間は君と手を一堂に握り、この技術の進歩を企画すること数回であるが、君は、或る日、われわれ仲間をそのままにして、遠くに逝ってしまった。今後は相談仲間が一人少なくなってしまった。これを思うと涙が止まらない。これ以上ことばがおもいつかない。
東京活版印刷業組合頭取
明治二七年一〇月二一日                  佐久間貞一再拝
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曲田成氏を追弔する

人の世に暮らしてゆくには、必ず艱難なしにはできない。艱難がなければ、目的を達する気持ちが堅固で確実なものにはなり難い。したがって、艱難に遭遇することがますます多ければ、ますます奮励して不撓不屈の精神により、これを克服することができる。そうでなくても、もしも、途中でその艱難辛苦のために、むなしく目的達成の気持ちが折れ曲がることがあれば、はたして、その年来の志望を達成して美しい花を咲かせることができるだろうか。

昔から洋の東西を問わず、英雄豪傑と称されてその勲功を永く伝え、その名声を百代まで伝える人は、皆、この定められた道を踏まない者はないであろう。

考えてみれば、あのアメリカを発見して世界に他の人のない勇敢者と言われたコロンブスは、自分の身をはるかに巨大な浪に直面させ、技量を茫漠とした海洋で練り、何日も生死の目に遭い、数多くの風雨にさらされて、ついに念願の志望を達成し、絶大な大業を樹立して、世界に冠たる者となったのではないだろうか。

あれこれ多くの人がいうには、人間が人間として大業・偉功によって人を驚かすようになるには、不撓不屈の精神で艱難に立ち向かって全力を尽くし励む力があって、ここに至るというより他に道はない。

いま、曲田氏の来歴のようなものも、また、同様である。活版事業の羅針盤となり、鉄道事業家の指導者と仰がれ、内では多くの人に尊敬され、外では多くの人が従う地位を授けられたのも、これまでになったのは偶然ではない。

もの悲しい風が寂しく吹き、悲しみの涙が雨のように落ち、堅固な精神と断ち切る断腸の思いで、身を置くところもなく、温かい着物もなくて飢えに苦しむという年月も、あるいは、幾星霜のことか。

公〔曲田茂氏〕は、よくこれを実践し、これを耐え忍んだことで、今日、世間の人が尊敬し、功名が朝日のように昇るに伴って、死んでも名前が残る者であるということができる。感心することに、これは尋常で平凡な人ではないと、われ等は声を大きくして憚らない。

そうとはいっても、不老不死の薬を得る者が誰かあるだろうか。生きる者は必ず死し、会う者は必ず別れの時が来る。川はながれ流れて昼夜の別なく変転すること速く、昔の人は今は居ないという格言を免れることはできない。

曲田成君にても、本月一五日、播州姫路の旅館で、錦風蕭颯の声のように突然、
病魔に襲われ、年令四十余りを一期として、急にあの世へと帰らぬ人となった。
これにより肉親・知己の者達は、悲しみの涙が胸中にあふれ、哀悼の情につつまれた。
喪に服すよりも、むしろ、涙してかなしみなさい。嘆き悲しむに情けある人ならばこの人に対して誰か追悼し、惜別の涙を流さない者はあるだろうか。

悲しみに涙することで、人をいきかえらすことができるだろうか。嘆いても声のない帰らざる旅路は、いっそのこと、縁ある導師を招いて、およそ即身成仏の印契を受けるほかないであろう。

よって、導師は、仏号を得芳院慈運明成居士と与え、堂の柱上にある飾り受木は雲上の荘厳をよそおい、読経の梵唄は粛々として内院に導き、焼香の芳薫は馥郁として霊魂を慰める。

行きたまえ、行きたまえ、奥深く荘厳な密厳の園へ。

名園の赤く色づいた樹木は、霜枯れた枝をより良いとは思わない。ひらひらと舞い落ちる木の葉は、落葉の時にその奇妙さを競う。これらを快く思うことに疑いがあるだろうか。

 よって、もし、人が仏の慈悲を求めるならば、菩提心に通達する。

     父母が生む所の身体は、速やかに大いなる悟りの境地を保証する。

時に明治二七年一〇月二一日    密厳の末に資する 栄隆 謹んで申す
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※上記の後半六行ほどは意味不明のところもありますが、ひとまずこの程度でご容赦を〔弔文釈読/古谷昌二〕。

曲田君の資性は篤実で人情にあつく〔敦厚〕、穏やかで慎み深い〔穆乎〕温容は、ひとをして心服させる。その凛乎たる決心は、ひとをして感動せしむ。君の先見は着々と企図にあたり、君の熱心はいちいちそのおこないにみられる。君の統率は寛厳その良きを得て、君の心のひろさ〔襟度〕は児女もなおこれを慕う。
早くから〔夙に〕本木君の小伝〔『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編 明治二七年九月〕を著してこれを世上に紹介し、『実用印刷術袖珍版』を著して同業者の進歩をはかり、近日また平野君の小伝の稿あり〔未見〕。
惜しいかな、天は命を君に仮さず、この有為のひとをして有為の年に遠逝せしめたり。
君に二女あり。伊藤氏の子を以て長女に配す。 

『印刷雑誌』(明治27年10月号)に掲載された追悼記事「曲田成君を弔う文」
明治27年10月21日 東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一
同号雑篇には「本誌に挿入せる曲田成君の肖像は写真半色版製造〔ママ〕を以て有名なる小川一真氏の寄送せらるたるものなり」とある。小川一真の渡米費用の一部は曲田成が拠出していた。

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跋 〔あとがき〕
〔名村泰蔵 Ⅰ-Ⅱ  四号明朝体 20字詰め 08行 字間二分 行間全角〕

噫、胸がつまってため息がでるが、本書は故曲田成君の略伝なり。君の歿後に予〔名村泰蔵〕は推薦せられて東京築地活版製造所社長の重任を承けた。 君の計画していたところを挙行し、君の企図したところを実施し、地下にある君をして遺憾の意をいだくことがないように希望するのにほかならない。

ここに社員に委嘱して君の略伝を作製し、福地先生に閲読、刪正〔文章・字句などをけずり改める〕をお願いした。こうして原稿が完成し、これを印刷し、社友および曲田君を知る諸君に贈呈する。これは社員一同のこころざしなり。
明治二八年一〇月
東京築地活版製造所社長  名村泰蔵しるす

【資料紹介】国立国会図書館所蔵|『東京盛閣図録』ゟ|編輯・出版:新井藤次郎|明治18年(1885)9月

国立国会図書館所蔵
『東京盛閣図録』ゟ 部分紹介
著   者  新井藤次郎 編
出 版 者  新井藤次郎(東京府下谷区練塀町四十九番地)
出版年月日  明治18年(1885)9月
請 求  記 号  特52-102
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篤志者や富商・富農から資金をつのり、「紳士録」のような目的で製造・販売された、いわゆる「魁-さきがけ-もの」のひとつで、銅版印刷による横開きのアルバム状の図書である。表題部を欠く。
ここでは国立国会図書館データーから、見開きページの余白部だけを詰めて紹介した。またこのような「魁もの」の類書には、『大日本博覧図』、『日本博覧図』などがある。
[画像処理協力:青葉水竜]

『日本盛閣図』 刊記

◉ 活版製造所(東京築地活版製造所)
この見開きページの右端に東京築地活版製造所の案内がしるされている。
業務内容「活版及び印刷器械 其の他諸器械製造 幷 舶来各種インキ売り捌き」、住所・社名「東京京橋区築地二丁目十七番地 活版製造所」とある。

東京築地活版製造所というと、現在は活字を中心にかたれれることがほとんどであるが、活字判印刷には、印刷機と活字はもとより、木工製品(のちに活版木工とされた特殊分野)をふくめ、じつにさまざまな機器と資材が必要となる。
近代印刷術の普及にあたった平野富二は、明治05年(1872)の上京直後から、それらの開発・製造を、支援のないままに開始し、しだいに後発企業が登場してくると、その軽工業製造事業の一部を惜しげもなく譲渡していた。

活版印刷資材のうち枢要な資材のひとつが印刷用インキである。官設の印刷局では開設直後から紙幣寮を中心として国産インキの開発にとり組み、紙幣の偽造防止に尽力し、あわせて一部を民間にも販売したとしているが、それをいつから開始したかの記録には乏しい。
また民間業者による国産インキの製造・販売は、明治20年代初頭、西川忠亮(初代、東京築地活版製造所役員、東京印刷株式会社監査役)による西川求林堂が最初とされている。したがってこの明治18年(1885)時点では、まだ「舶来各種インキ売り捌き」と取扱品目にしるしている。

住所地としてしるされた「東京京橋区築地二丁目十七番地」は注意が必要な部分である。
平野富二は神田和泉町から移転してきた直後は「築地二丁目二十番地」、「東京築地二丁目万年橋東角二十番地」の仮工場を住所地として表示し、ついで煉瓦建ての本工場が完成してからは、築地川にそった「築地二丁目十九番地」としていた。それが「東京京橋区築地二丁目十七番地」に変わった経緯は{ 古谷昌二ブログ 2019年06月 }に詳細に説かれている。こちらを参照していただきたい。なお本図上部にみる築地川に架設されている橋は、万年橋ではなく、築地西本願寺に通じる祝橋である。

銅版画『東京盛閣図録』に表示された社名は、あきらかに「活版製造所」とだけある。どういうわけか平野富二は、活版製造業・造船重機械製造業・土木建設業・交通運輸業などのさまざまな事業を展開したが、社名表記にはほとんど無頓着であったようで、とかく研究者を悩ませている。

株式会社東京築地活版製造所は、登記上では明治18年(1885)6月26日に開業したことになっている。このときはじめて同社に社長職が置かれ、株主総会において平野富二が初代社長として選任された。平野富二は数え年40だった。

不惑を迎えたころの平野富二の肖像写真

この時の会社の規模は、資本金8万円、株主20名、社長以下役員19名、職員・工員(男女共)175名で、初年度の営業収入は、活字類売上高23,521円、機械類売上高5,750円であった。
20人の株主には、出資関係の厚薄に応じて株券を配当し、また、これまでの社内での業務貢献の軽重に応じて社員に株券若干を与えたという。株主名簿は未詳。
役員は、取締役社長:平野富二、取締役副社長:谷口黙次、取締役:松田源五郎、取締役:品川藤十郎、支配人:曲田 成、副支配人:藤野守一郎で、その他は未詳。

そのいっぽう、平野富二は「石川島平野造船所」「平野土木組」の事業などでも繁忙を極め、一等砲艦「鳥海」の建造に着手し、それに必要な資金は渋沢栄一の提案により「匿名組合」を組織して不足資金を調達していた。
またドコビール軽便鉄道を駆使して、各所の土木建設にもあたっていた。
この『東京盛閣図録』が刊行された年の8月には、東京と神奈川でコレラが猖獗をきわめ、明治期最大の流行となり、石川島平野造船所 造機技師長:アーチボルド・キング がコレラに罹患して病死した年でもあった。

『実測東京全図』に示されている新地番
<内務省地理局「実測東京全図」(明治17年)の部分図>

上図は区画整理後に新しく付け替えられた新地番が表示されている。築地に移転したときの仮工場と新築煉瓦建て事務所は、築地二丁目(貮町目と表示されている)17番地となり、築地活版製造所の所在地は築地二丁目17番地に変更された。のちに14番地は突出部を分筆して、14-1番地と14-2番地とした〔現コンワビル周辺〕。平野富二は13、14-1、17番地の土地を築地活版製造所に譲渡し、15、16番地の土地を購入して平野邸を新築した〔現築地えとビル周辺〕。

古谷昌二氏講演<中央区区民カレッジ>資料ゟ 2016年10月21日

[ 詳細:平野富二 ── 明治産業近代化のパイオニア 古谷昌二ブログ 2019年06月

◉ 時事新報  日本橋区通三丁目十一番地 時事新報本局 慶應義塾出版社
時事新報は、かつて存在した日本の日刊新聞である。明治15年(1882)3月1日、福沢諭吉の手によって創刊された。その後、慶應義塾およびその出身者が全面協力して運営した。戦前の五大新聞のひとつとされた。
創刊に当たって福沢諭吉は「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。1936年(昭和11年)に廃刊になり『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)に合併された。

『時事新報』の紙面 1889年(明治22)2月1日 ウィキペディアゟ

『時事新報』に関しては、丁寧な解説が ウィキペディア にあるので、それを参照いただきたい。
ここでは福沢諭吉を生涯をかけて支援した「小幡篤次郎」を紹介したい。

【小幡篤次郎 おばたとくじろう 1842-1905】 [参考:国史大辞典 吉川弘文館]
明治時代の学者、教育家。慶応義塾長。その生涯をつうじて福沢諭吉を補佐して慶応義塾の発展に力をつくし、晩年は塾の最長老として重きをなした。
啓蒙期には著述家としても活躍。『学問のすゝめ』初編(明治五年)には、著者として福沢諭吉とともにその名を連ね、明治六年にはトックビル Tocqueville の  De la démocratie en Amérique(『アメリカ民主政治』)の出版の自由を論じた一章を、英訳本から重訳して、『上木自由論』と題して刊行した。これは出版の自由を論じた最初の単行本である。そのほか『博物新編』『英氏経済論』『宗教三論』などがある。

小幡篤次郎は天保十三年(一八四二)六月八日、豊前国中津藩士(現大分県北部の中津市)の子として生まれ、藩地にあって漢籍を学び、十六歳より二十三歳まで藩校進修館で句読、塾頭館務の職に任じまた剣にも長じた。
元治元年(一八六四)、弟甚三郎らとともに、同郷の洋学者福沢諭吉に連れられて江戸へ赴き、福沢のもとで英学を学び、頭角をあらわして、慶応二年(一八六六)より明治元年(一八六八)まで福沢塾の塾頭に任じ、また慶応二年以降、幕府の開成所の助教授をつとめた。

明治四年中津市学校の創立にあたり、初代校長として英学普通教育のモデルを作った。同九年、文部省より招かれて中学師範学科(のちの高等師範学校)の創立のさい教授監督にあたり、翌十年には欧米を巡遊、十二年には東京学士会院の会員に選ばれた(同十四年これを辞す)。
同十三年、交詢社の創立以来、幹事としてその運営にあたり、また十五年の『時事新報』の創立にも福沢を助けて尽力した。
同二十三-三十年慶応義塾長、三十年より同塾副社頭に任じ、三十四年に福沢が死去してのちは、このあとをおそって慶応義塾社頭に推された。この間、二十三年より貴族院議員に勅選され、また貨幣制度調査会委員をつとめた。同三十八年四月十六日、六十四歳で病没。

製紙分社   日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)
王子製紙会社

いずれも渋沢栄一との関連が深い「製紙分社」、「王子製紙」の明治前半期の姿が描かれている。
王子製紙はともかく、「製紙分社」と、その「支配人:陽其二」、さらにその後継企業の「東京印刷株式会社」に関しては、横浜・東京両店ともにきわめて公開資料がすくなかった。
『東京盛閣図』には「製紙分社 日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)」が紹介されている。門柱には「製紙分社 官許 洋紙売捌所」がみえるだけで、なかなかその実態はわからない。
この分野を補完すべく資料収集されていたかたがいたが、本年06月に逝去された。したがってここでは断片資料であることをお断りして、一部の資料をまとめてみた。

[参考:『国史大辞典』吉川弘文館、『日本印刷大観』東京印刷同業組合編、『日本紙業総覧』王子製紙販売部調査課編、『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀、1911)pp 61 東京印刷株式会社]

陽 其二 よう そのじ/みなみ きじ 1838-1906
幕末-明治時代の活版印刷技術者。製紙分社支配人。平版印刷の一種「コンニャク版-Hektograph」の紹介者。『穎才新誌-えいさいしんし』発行人。晩年には中国料理店「偕楽園」を創業して「爆弾料理-詳細不詳」を紹介した。
内国勧業博覧会審査員、長崎での同門として東京築地活版製造所にふかくかかわり、跡見女学校教授等も歴任した。いっぽう書藝と中国料理に造詣がふかく、一部では酔狂人ともされる。
明治39年(1906)9月24日死去。享年69。あざなは大有。通称は子之助。号は天老居士など。墓は義兄弟の加福喜一郎とともに東京谷中霊園にある。

陽  其 二 肖像(故:桜井孝三氏提供)

コンニャク版は平版印刷の一種である。少部数の印刷や、陶器、焼き物の絵付けに使用された。
世界的には一般にヘクトグラフ Hektograph と呼ばれた。本図はキット販売の英文資料

陽其二(1838)は本木昌造(1824)より14歳ほど年少、平野富二(1846)よりは18歳ほど年長であった。ともに肥前長崎出身。曽孫に陽 敏朗氏がいる(故桜井孝三氏と昵懇)。
本木昌造(1824-75)にまなび、文久2年(1862)に幕府海軍長崎丸汽関方となり、元治元年(1864)に江戸に出て、中邦逸郎・鬼塚辰之助の三名で 鉄砲洲時代の 慶應義塾 に学ぶ。慶応元年(1865)長崎製鉄所に勤務、かたわら本木昌造とともに活版印刷技術を研究・開発し、さらに新町活版製造所で活字版印刷を修得。

神奈川県令:井関盛艮-いせきもりとめ-が企画した『官許横浜新聞』を発行するために、本木の抜擢をうけて横浜活版舎を設立、『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の初期の印刷を担った。
編集者は横浜税関の翻訳官:子安 峻-こやす たかし。この時に出資・創刊にあたった島田豊寛-しまだ とよひろ-が社長に就任。明治三年(一八七〇)十二月十二日これを創刊した。
明治六年(一八七三)には妻木頼矩が編集長となり、その後島田三郎(豊寛の養子)、仮名垣魯文(野崎文蔵)が文章方(記者)となった。

この新聞は当時は高価な洋紙を用いた、タブロイド判両面刷の日刊紙で、当初は木活字、のち長崎の新町活版製造所、さらに東京築地活版製造所製の三号楷書体活字をおもに用いた。同紙は明治四年(一八七一)四月『官許横浜毎日新聞』と改題、同十二年十一月東京に移り『東京横浜毎日新聞』となった。

陽其二は『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の創刊からまもなく、明治五年(一八七二)になるとはやくも横浜活版舎をはなれ、竹谷半次郎・加福喜一郎らとともに印刷業の景諦社を設立した。この三名は長崎出身の同郷であり、伴侶が姉妹だったために、義兄弟ということで、漢字音が共通する「兄弟・景諦-ケイテイ」をとって社名としたとされる。
景諦社は証券印刷などの需要を見込んで、翌七年三月二十五日に渋沢栄一創設の東京抄紙会社(のちの王子製紙会社)にこれを譲渡し、同年四月一日抄紙会社横浜分社(のち王子製紙横浜製紙分社)となった。陽其二はその後も引き続き東京・横浜の両製紙分社の支配人として、印刷業と洋紙販売に従事した。

後年東京印刷株式会社の社長となった 星野 錫(ほしの しゃく 1855-1938)は景諦社に明治6年(1873)に職工として入社しており、景諦社の出身である。星野 錫は東京印刷株式会社(もと製紙分社)の社長兼任のまま、昭和初期の東京築地活版製造所の役員(のち監査役)となって、苦境におちいった同社の再建に尽力している。

【穎才新誌 えいさいしんし】

明治十年(一八七七)三月創刊、三十二年十月『中学文園』を合併、三十四年六月以降『穎才-えいさい ≒ 英才』と改題。廃刊年月・発行部数などは不詳。
当初は(東京)製紙分社、のち穎才新誌社発行。菊倍判八頁で週刊、定価は二銭。設立時は陽其二が主宰、のち堀越修一郎なども編集に参加、スタッフはしばしば交替した。
学才による立身出世主義の風潮を下地とし、さらに文学的教養と人間的修養をめざす作文教育を志向した。わが国最初の青少年向き投稿専門雑誌となり、彼らの文芸熱の受け皿となった。その趣は田山花袋の『東京の三十年』にも描かれている。
毎号投稿中から選んで作文・和歌・漢詩・新体詩・俳句・図画などを載せ、啓蒙的な教導の文も掲げられた。山田美妙・尾崎紅葉・田山花袋・内田魯庵その他も、少年時代この雑誌に投稿していた。

【東京印刷株式会社】
[出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会1911)pp 61 東京印刷株式会社]

一 所在地 東京市日本橋区兜町二番地
一 目的事業 諸製版印刷製本写真書籍出版及発売
一 創立年月 明治二十九年六月
一 資本金 五拾万円(内払込高弐拾参万七千五百円)
一 積立金 拾弐万六千円
一 壱箇年利益金 四万七千円
一 配当率 年壱割弐分
一 支店所在
深川分社 東京市深川区東大工町四十七八番地
横浜分社 横浜市太田町六丁目九十四番地
一 沿  革
東京印刷株式会社は、もと王子製紙会社の分社として、明治七年(一八七四)横浜に、同八年(一八七五)東京に、王子製紙会社の製紙販売を兼ねて印刷機関を創設したもので、いわゆる横浜製紙分社、東京製紙分社の両製紙分社の後身にあたる。当時印刷製本の事業は政府の紙幣寮を除き、民間にあってはわずか数社にすぎなかった。とりわけ洋式簿冊の製作を経営するものは同社だけであった。

このときにあたり、大蔵省をはじめ各府県において使用する帳簿を洋式に改正したが、その洋式帳簿の製作はほとんど東京印刷の提供によるものであった。こうした時運の進展によって同社は泰西諸国の斯業を調査研究する必要に迫られるにいたった。
そのため現在専務取締役たる 星野 錫 が明治二十年(1887)春、選ばれて渡米し、前後三年米国にあって研鑽をかさね、帰朝後おおいにその成果を応用して規模面目を改めることになった。これは実に青淵先生(渋沢栄一)の指導にもとづいたものであった。

当時の王子製紙会社の取締役であった岩下清周は、製紙事業と印刷事業の分離経営を計画し、明治二九年(1896)青淵先生らの発議によってこれを株主総会に諮り、その可決を経て横浜・東京の両製紙分社の財産を挙げて星野氏に一任し、あらたに資本金拾五万円をもって同年六月東京印刷株式会社の成立を見るにいたった。

これを受けて、あらたに東京府深川区東大工町に工場を設立し、印刷機械を増設した。また横浜分社はそれまでの規模を一新して、着々と経営の歩武を進めている。その専務の椅子を星野氏に与へしもまた青淵先生らの推輓によるものにして、先生は相談役に就任した。
爾来数年間、青淵先生は提撕(テイセイ 教え導く)誘掖(ユウエキ 輔佐)の労を取られたため、社運益々隆昌の域に向かった。四十一年(1908)七月さらに参拾五万円を増額して資本金五拾万円とし、工場を増築し機械を増加し時世の進運に伴はんことを企図しつつありという。

一 東京印刷株式会社と青淵先生との関係
青淵先生はいまも当東京印刷株式会社の重要なる株主にして、常に業務の経営に関し指導誘掖の労を執られつつありという。

一 現任役員
専務取締役 星野 錫
取締役   藤山雷太  取締役  中井三郎兵衛
監査役   鹿島岩蔵  監査役  西川 忠亮

東京印刷株式会社は、のちに主力工場だった深川工場が火災のために全焼した。また1937年(昭和12)廬溝橋事件以降、日本・中国での緊張(日支事変)が高まりをみせていたため、1938年(昭和13)5-6月、ダイヤモンド社系の「美術印刷株式会社」とともに、共同印刷の傘下にはいって、事実上その歴史の幕をおろした。
[参考:『印刷雑誌』1938年2月号 pp 59 ]

【王子製紙株式会社】  [参考:『世界大百科事典』小学館]

日本最大の製紙会社。1873年(明治6)渋沢栄一が三井組・小野組・島田組を勧誘して共同経営の製紙会社を設立したことにはじまる。
最初は社名を〈抄紙会社〉と称し、資本金15万円。機械類を輸入し、またイギリス人技師を雇い入れたのち、1875年(明治8)東京府下王子村の工場が綿ボロを主要素材にして運転を開始した。翌76年社名を〈製紙会社〉に変更。

しばらく経営不振が続いたが、西南戦争を契機とする新聞・雑誌の発展によって、洋紙市場が形成されるにおよび経営基盤が確立した。欧米のパルプ製造技術を学んだ大川平三郎(渋沢栄一の娘婿)の努力で1888年(明治21)天竜川上流の気田に日本最初のパルプ工場(気田工場)建設に着手、1890年完成した。1893年(明治26)に王子製紙株式会社と社名を改めたが、このころには日本最大の製紙会社に成長していた。

1896年(明治29)中部工場建設にともない、三井銀行の援助を受けることになって 藤山雷太 が役員として送り込まれて経営の実権を握った。これに対して労働者の不満が爆発し大ストライキが起こったが、三井から藤原銀次郎が支配人として入りストを収拾、それ以後王子製紙は完全に三井の勢力下に入った。
1910年(明治43)苫小牧に当時としては最新鋭の新聞用紙工場を建設し、1915年以降工場の買収建設で樺太・朝鮮への進出を果たした。

1916年(大正5)には大阪で都島工場を買収、また大蔵省十条分工場の払下げを受け、1924年に小倉製紙所と有恒社、1925年に東洋製紙などをつぎつぎと併合した。
その後も金解禁およびアメリカの恐慌の影響で苦境におちいった樺太工業株式会社(1913年大川平三郎が樺太を拠点に設立)、富士製紙株式会社(1923設立。一時大川が実権を握ったが1929年以降は王子が実権をもつ)を合併し、1933年(昭和8)資本金1億5000万円の王子製紙が誕生、全国洋紙生産の80%余(新聞用紙は95%)を占め世界有数の大製紙会社となった。

このような王子製紙の発展を主導したのは藤原銀次郎(1920年社長38年会長就任)で、彼は関連産業につぎつぎと手をのばし、王子は30余の会社を支配する一つの財閥を形成した。
しかしこうした独占も、第二次大戦後の過度経済力集中排除法によって終止符が打たれ、1949年(昭和24)苫小牧製紙株式会社、十条製紙株式会社、本州製紙株式会社の三社に分割された。
1952年(昭和27)財閥商号使用禁止が解かれたのを機に、苫小牧製紙は王子製紙工業株式会に、さらに1960年王子製紙株式会社に改称した。1989年東洋パルプを合併、また1993年神崎製紙を合併し、新王子製紙と改称したが、1996年(平成8)本州製紙と合併して、旧称:王子製紙株式会社に復した。

現在も王子製紙は業界最大手であり、新聞用紙のシェアは第一位、また膨大な社有林を有する日本最大の土地保有企業である。
資本金1039億円(2005年9月)、売上高1兆1851億円(2005年3月期)。

【王子製紙とウィキペディア】

  • 1873年-1949年に存在した王子製紙(初代)については「王子製紙-初代」を参照。
  • 1960年-1993年および1996年-2012年9月に存在した王子製紙(2-3代目)については「王子ホールディングス」を参照。
  • 2012年10月以降の王子製紙(4代目)については「王子製紙」を参照。

王子製紙豊原工場-樺太(1917年-1945年)
『日本盛閣図』 刊記

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ26}|活版製造所の築地への移転

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
明治6年(1873)7月、平野富二は築地2丁目に土地を求めて工場を新設し、神田和泉町から移転した。その頃になると、活字の需要も急速に拡大し、各地からの活版印刷機引合にも応じる必要が増大していた。
当初は約150坪の土地であったが、需要の拡大に応じて次〻と隣接地を買増して工場を拡大すると共に、事務所や倉庫も設けた結果、わずか2年後の明治8年(1875)には敷地850坪余りの東京でも有数の大工場となった。

神田和泉町における約1年間の活字販売高は50万個程度であったが、築地に移転後は、年々増加し、明治11年(1878)9月に活版製造事業を本木家に返還する頃には、年間7百万個以上の販売高に達するようになっていた。
事業主の本木昌造は、明治7年(1874)夏と翌年の春に上京して、平野富二に委託した活版製造事業の現状を確認し、五代友厚からの多額の融資金返済の目途もたったことを悦び、長崎に戻ったが、明治8年(1875)9月、長崎で病没した。
しかし、この時点では、平野富二が本木昌造と約束した経営の安定化の達成と、本木昌造の嫡子小太郎を後継者として育成するまでには至っていなかった。

明治11年(1878)9月に本木昌造没後3年祭を行うのに際して、東京で後継者教育を行っていた本木小太郎を伴って長崎を訪れた平野富二は、活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京で行った事業成果を報告し、その事業すべてを本木家に返還することを申し出た。その中には活版製造事業の成果を流用して進出した造船事業も含まれていた。
思いもよらない申出を受けた長崎の出資者たちは、即座には平野富二の申し出を受け入れることはできなかった。

翌12年(1879)1月、平野富二は本木小太郎を伴って再び長崎を訪れ、長崎本店で出資者たち立ち合いの下で資産区分を行った。その結果、資本金4万円相当の石川島造船所と3千円相当の築地の工場用地は平野富二の所有とし、資本金10万円相当の築地活版製造所は出資者を含めた本木家に返還することとなった。また、本木家と平野家とで双方の資本金1万円を持ち合い、永く関係を維持することとなった。

以後、東京の築地活版製造所の所長は本木小太郎となり、平野富二は後見人として身を引いた。しかし、平野富二の出番はこれで終わることはなかった。その後については追い追い紹介する。

古谷昌二ブログ ── 活版製造所の築地への移転

はじめに
(1)築地への移転
(2)営業活動の再開
(3)隣接地の買増しと事務所・工場の増設
(4)急速に伸びた活字の需要と販売高
(5)本木昌造の東京視察
(6)築地に於ける設備増強
(7)活字類の品揃えと改刻
(8)本木家に活版製造事業を返還
ま と め

【ことのは】明治十年ころ|瓦版「当世名人八景」にみる句と平野富二の活版製造事業

『平野富二と活版製造事業 ── 東京築地活版製造所』 製作:青葉水竜

『平野富二伝  考察と補遺』(古谷昌二、朗文堂 pp 250)
第七章 石川島造船所の操業開始
補遺4 平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、

   解かしては
   かためて鋳ぬく
   植文字を
   平野に充つる
   雪の夕景
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である[古谷昌二]。

平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録
B 5 判 408 ページ ソフトカバー 図版多数
定  価  本体 3,500 円+税
発  行  日  2019年5月30日 初刷
編  集  「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発  行  平野富二の会
発  売  株式会社朗文堂
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明治産業近代化のパイオニアとして著名な平野富二は、長崎にうまれたひとと伝わってきた。長崎では東京に進出したひととだけ伝わった。
富二の生家は長崎の地役人たる町司で、身分は平民ながら、世襲の家禄をうけ、苗字帯刀をゆるされた矢次家の次男であった。幼名矢次富次郎は明治五(一八七二)年に妻帯し、戸籍編成に際して平野富二と改名して長崎外浦町に一家を構えた。中島川右岸、飽の浦の長崎製鉄所、立神ドック、対岸の小菅修船場などにわずかな足跡をのこして、東京に新天地をもとめ、数えて二六のとき、総勢一〇名で長崎をあとにして東京(現 千代田区神田和泉町一)に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげた。のちに同社は「東京築地活版製造所」と改組改称、「東洋一の活字鋳造所」として自他ともにゆるす存在となった。

素志である重機械製造と造船事業も明治九(一八七六)年から本格的に開始した。平野富二は石川島平野造船所(現IHI)を設立して数百トンもある巨大な船舶をつくり、橋梁をつくり、蒸気機関をもちいて海上輸送と陸上輸送の進展に貢献した。
平野富二はこうしたおおきな成果をあげつつ、在京わずか二〇年、四六歳にして病にたおれた。それでもその功績は、金属活字製造、印刷機器・資材製造、活字版印刷、重機械製造、造船、橋梁架設、航海、海運、運輸、交通、土木、鉱山開発……と、枚挙にいとまのない事業展開をはかって近代日本の創建に貢献した。

今般「平野富二生誕の地」碑の建立を期して直近二〇年ほどの東京と長崎の交流を本書『平野号』に記録した。あわせて、長崎にもうけられた海軍伝習所、医学伝習所、活字判摺立所、活版伝習所、英語学校などの施設の設備と伝習の成果が、江戸・東京の、どこに・いつ・どのように・たれが伝え移動させたのか、そしてこんにちの状況も記録して、今後の研究の手がかりとした。

本書はいたずらな個人崇拝や、明治の偉人として平野富二をとらえることなく、等身大の平野富二像を描きだすことに尽力した。すなわち平野富二の精神と功績は、明治の偉人という範疇にとどまらず、印刷術という平面設計から、重機械製造という立体造形物にいたるまで、現在のわれわれの日常にも脈々と受け継がれている。
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【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】


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I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開

嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

[ 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/ ]
[ 参考: 平野富二の会

【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|第五代専務取締役社長 野村 宗十郎


東京築地活版製造所 第五代社長 野村宗十郎

(1)第五代社長として専務取締役社長に選任
(2)東京築地活版製造所に入社までの略歴
(3)東京築地活版製造所への入社とその後の昇進
(4)支配人時代の事績
    1)活字のポイントシステム調査と導入・普及
    2)コロタイプによる写真印刷の実用化
    3)組織改革と営業活動、博覧会出品
      <組織改革> <営業活動> <博覧会出品>
    4)業界活動と社会貢献
      <外部団体の役員就任> <印刷物見本交換会の開催>
(5)専務取締役社長としての事績
      <事業の拡張・縮小> <ポイントシステムの普及> <社外活動><博覧会出品> 
      <エピソード>
    1)内田百閒と築地13号室
    2)新社屋の裏鬼門
      <持病の悪化と死去>
(6)没後の記録
まとめ
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ま と め

野村宗十郎は、長崎に居住する薩摩藩御用商人の服部家に生まれた。親戚の野村家当主が戦死したため、その名跡を継いで長崎製鉄所の第3等機関方となった。しかし、それは短期間で、技術者としての素養を身に着けたとは考えられない。
実父は、維新により家職を失い、明治3年(1870)に本木昌造が開いた長崎の新町活版所に勤務した関係から、野村宗十郎も活版印刷に多少の関わりを持ったと言われている。

その後、病弱の身を押して勉学にはげみ、大学予備門を中退して簿記を学び、大蔵省に入省した。しかし、専ら外回りの勤務に見切りをつけて退省した。その時、すでに数え年33となっていた。
退省した野村宗十郎は、陽其二の推薦を得て、明治22年(1889)7月、東京築地活版製造所に将来の幹部候補として招聘された。野村宗十郎が最初に配属された先は倉庫係だったが、3年後の明治25年(1892)8月には早くも社長曲田成の下で副支配人となり、その翌年8月に支配人となった。

さらに、明治29年(1896)4月に社長名村泰蔵の下で取締役支配人となった。明治40年(1907)9月には、名村泰蔵死去の跡を継いで専務取締役社長に選任され、大正14年(1925)4月23日に数え年69で病没するまで社長職を務めた。
支配人として15年間、取締役として11年間、専務取締役社長として18年間、それぞれ重複する期間はあるが、東京築地活版製造所の経営に関わったことになる。

野村宗十郎は、入社して間もなく、活版製造事業について学ぶ中で、活字サイズの決め方に疑問を持ち、外国文献にポイント・システムがあることを知った。結果的に、野村宗十郎に一人合点と思い違いがあったと見られるが、このポイントシステムが本木昌造の決めた活字体系に合致することを知り、改めて本木昌造にたいする尊敬の念を強めるとともに、わが国の統一システムとして普及させることを決意したと見られる。

曲田社長の理解と名村社長の積極的後援を得て、野村宗十郎は死去する直前までポイントシステムに焦点を当てて、その普及に努めた。その結果、新聞社がその利便性に着目して採用するものもあったが、読者の受け入れ易さを主に、紙面の構成やバランスなどを試行錯誤する状態が続いた。やがて、全国の新聞界はすべてポイント活字に風靡されるようになり、一般の印刷工場においてもポイント活字を整備することになった。
このようなことから、大正5年(1916)2月15日、野村宗十郎は、ポイント式活字の創造と普及によりわが国の文運隆興を補助したとして、藍綬褒章を下賜された。

会社の経営面から見ても、ポイントシステムへの切替需要により、順調に増収増益を重ね、大正11年(1922)後期の決算では、資本金が30万円であったが、売上高57.7万円余、純利益10.5万円を記録している。
しかし、牧治三郎によると、東京築地活版製造所の全盛期は大正12年(1923)を以って終わった。活字鋳造が次第に自動鋳造機械の普及に従って、大口需要家の新聞社をはじめ、一般印刷業者も自家鋳造へと移行する形勢を示した。
それにも関わらず、関東大震災でほとんど全ての製造設備を失った東京築地活版製造所が採った対応は、旧態依然とした手廻鋳造機を中心とする活字製造事業に注力し、手工業的体質からの脱却、活字需要者の変化に対する対応が見られない。

大正時代になると、一般製造業の発展により女工不足が深刻となった。また、職工組合による賃上げ要求ストライキが発生するようになっていた。
野村宗十郎は、創業者である本木昌造を敬うあまり、実質的に活版製造を事業として完成させ、海外需要にも目を向けた平野富二、時代の局面で同業組合による協調で切り抜けた曲田成、日清・日露の戦争による好況、不況を積極経営で乗り切った名村泰蔵の3人の社長が敷いた布石を発展させることなく、ポイントシステムの成功に酔いしれていたとしか考えられない。

曲田社長が糸口を付けたコロタイプ版や網目版による写真印刷は、新しい印刷事業の方向性を示すものであったが、その後の展開が見られない。また、印刷物蒐集交換会も、社長に就任してから1回開催しただけで、中止してしまった。
明治18年(1885)には、石版技手人名鏡に東京築地活版製造所が国文社と共に勧進元となっているように、活版印刷と石版印刷〔オフセット平版印刷につらなった〕の双方の印刷分野でトップクラスの技術と実績を持っていた。

さらに、名村社長が復活を手掛けた印刷機械製造事業についても、その製造機種は依然として平野富二が製品化した機種ばかりで、急速に普及しつつある輪転印刷機やオフセット印刷機などの国産化には全く関心がなかったようである。
さらに問題なのは、次期社長とするべき後継者を育成することなく死去したことである。

そのため、遠隔地である長崎に居住し、多くの会社の役員を兼任する松田精一が引き継がざるを得なくなった。
それでも、有力な支配人が実質的な経営に取り組んでいれば別であるが、昭和3年(1928)6月の株主総会で取締役に指名された支配人大沢長橘は知名度が低く、それまで、どのように経営に関わっていたかは知られていない。

野村宗十郎は、活版の大業に一大功績を残し、東京築地活版製造所の興隆に尽くしたとされている。しかし、結果的にバランスを欠いた経営が、その後の苦境を乗り切れず、その死去から13年目に会社解散に追い込まれる要因になったと見られる。

【朗文堂ブックコスミイク】『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』|発行:平野富二の会|発売:朗文堂

『平野号』プリント用 PDF

平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録

B 5 判、408 ページ 図版多数
ソフトカバー
定価:本体 3,500 円+税
ISBN978-4-947613-95-0  C1020

発行日 2019年5月30日 初刷
編 集 「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発 行 平野富二の会
発 売 株式会社朗文堂
    www.robundo.com
    typecosmique@robundo.com

<おもな内容 ── 目次より>
記念式典
平野富二 略伝/平野富二 略伝 英文
平野富二 年譜
明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑建立趣意書
 平野富二生誕の地 確定根拠
長崎 ミニ・活版さるく
平野富二ゆかりの地 長崎と東京
 長崎編
出島、旧長崎県庁周辺、西浜町、興善町、桜町周辺、新地、銅座町、思案橋、油屋町周辺、寺町(男風頭山)近辺、諏訪神社・長崎公園、長崎歴史文化博物館周辺、長崎造船所近辺
 東京編
  平野富二の足跡
  各種教育機関
  官営の活字版印刷技術の伝承と近代化
洋学系/医学系(講義録の印刷)/工部省・
太政官・大蔵省系(布告類・紙幣の印刷)
  平野富二による活字・活版機器製造と印刷事業
  その他、民間の活版関連事業
  勃興期のメディア
 「谷中霊園」近辺、平野富二の墓所および関連の地
「平野富二生誕の地」建碑関連事項詳細
「平野富二生誕の地」碑建立
募金者ならびに支援者・協力者 ご芳名
あとがき

跋にかえて ── ちいさな活字、おおきな船 
『平野号』出発進行、ようそろ!

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【ことのは】東京築地活版製造所 新社屋紹介「郵便はかき」|コロタイプ印刷術|関東大震災直後の貴重資料


《牧治三郎 なにかの えにし であろうか、はたまたなんらかの 因果 であろうか》
2016年「メディアルネサンス-平野富二生誕170年祭」を機に、長崎での平野富二の生誕地が判明し、さっそく「平野富二生誕の地-碑建立有志の会」が結成され、多くの会員の協力をいただき、2018年11月「平野富二生誕の地碑」が建立され、除幕式と祝賀会をへて、長崎市に寄贈された。


平野富二が1872年(明治05)上京後、およそ20年にわたって展開した多様な事業のうち、最初の事業であった、活字製造・印刷機器製造の拠点、長崎新塾出張活版製造所 → 東京築地活版製造所は、明治後期ともなると「東洋一」を自他ともに許す企業に成長していた。ところがどういうわけか東京築地活版製造所には自社の記録が少なく、近年つぎつぎと新資料が発掘されているとはいえ、研究者の悩みの種になっていた。

そのひとつが、竣工直後でちょうど段階的に移転作業が進んでいたさなか、1923年(大正12)09月01日午前11時58分に襲来した関東大震災によって紅蓮の炎につつまれたとされる、新本社工場ビル(地下一階、地上四階)のアールヌーヴォー風の趣のあるビルの記録である。
施工業者は 清水組 ≒ 清水建設 であったことは判明している。しかしながら関東大震災の影響があまりに激甚で、おそらく竣工落成披露などの「慶祝行事」はできなかったのではないかとみられている。そのため比較的近年の建物の割りに、肝心の画像資料がほとんどなく、拡大すると網点が現出する不鮮明な写真にたよるばかりであった。

ところで …… 、牧治三郎は「鮮明な写真資料を所有しているはずだが、現在所在がわからない …… 」と、活字業界誌『活字界』、パンフレット『活字発祥の碑』などにしばしばしるしているが、どうやらその資料らしき「郵便はかき」が、回り回って稿者の手許に転がりこんできた。
そのゆえんを報告したい。

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
牧 治三郎『活字界 21号』(全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

《活字発祥の〔舞台、〕歴史〔の幕を〕閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビル〔現コンワビル〕に改築のため、去る〔昭和46年〕3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年〔1922〕野村宗十郎〔専務〕社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後〔順次移転作業が進みつつあるなか〕、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、〔東京築地活版製造所〕大阪出張所の字母〔活字母型〕が健在だったので、1週間後には活字販売を開始〔した〕。 いまの東京活字〔協同〕組合の前身、東京活字製造組合の罹災〔した〕組合員も、種字〔活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?〕の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。

《 ネットショップに東京築地活版製造所のビル写真が…… 》
「平野富二生誕の地」碑建立有志の会の会員からこんな連絡があった。
「ネットショップに東京築地活版製造所のビルの写真が …… 安いですよ」
WebSite に紹介されていた図像は、たしかに 周囲に建物がみられずビル全体をみることができるもので、東京築地活版製造所の震災後まもなく撮影され製作されたとおもえる写真だった。
支払いは前金で、入金確認後に郵送するとあった。即座に注文したが、振込手数料・送料の合計のほうが高くつきそうな価格だった。
千葉県の古書店からの送付であったが、厚ボールに挟みこんでとても丁寧に送っていただいた。

上掲写真がそれであるが、写真ではなく、宛名面に「郵便はかき」とあり、つい先日、本欄{【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史 2019年05月05日}で紹介した、販促用パンフレット『新年用見本』(二つ折り中綴じ、東京築地活版製造所、大正15年10月、牧治三郎旧蔵)と極めて関連性のつよい資料だった。
唸ったのは、ここにもベッタリと「禁  出門  治三郎文庫」の蔵書印があったことである。幸い宛名面だけの押印であったが、牧治三郎は蔵書のどこにでも、所構わず、この特異な蔵書印を赤いスタンプインキでベタベタと押していた。

これらの牧治三郎旧蔵資料は神田 S 堂が一括して引き取ったと聞いていた。S 堂は神保町に店舗をかまえる本格的な古書店で、年に数度「古書目録」を発行しているが、そこに一葉だけの「はがき」をみた記憶はない。したがって古書店仲間の市にでも出して、それを「はがき」の扱いを得意としている業者が入手してネットショップで販売したものらしい。あるいはすでに三次循環として稿者が落手した可能性もある。

宛名面には、下部に再紹介したが『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月)中面右ページ下部にある「電気版」で、「 Np. 7  貳拾銭」として紹介されているもので、右起こし横組み「郵便はかき」である。ここには濁点は無い。
切手貼りつけ欄は、罫線で組みたてたのではなく、名刺・はがき・封筒などの印刷をもっぱらとする「端物印刷所」では、かつては必須のもので、これも電気版をもちいたものであろう。
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絵柄面は「コロタイプ印刷」で、1923年(大正12)に竣工した東京築地活版製造所本社工場の全景写真である。
なにしろ死者・行方不明10万5000人余、住宅全半壊21万余、焼失21万余とされる大災害のあとだけに、東京築地活版製造所ではいちはやく復興をみたとされるが、やはり世情をおもんぱかって、このような簡素な「写真はかき」として記録をのこしたものとおもわれた。
したがって資料の山に埋もれていた牧治三郎老人にとっては、このたった一葉の「郵便はかき」を見つけだすことはほぼ不可能であったと想像された。
それでも正門には「株式会社東京築地活版製造所」の社名が掲示され、「◯も H 」の社旗がはためくこの貴重な資料は、廃棄や破却をまぬがれ、二次循環・三次循環にまわっているのがうれしく、興味ふかいところであった。

この「コロタイプ印刷」は、オフセット平版印刷法がまだ未熟だった1970年ころまでは写真印刷(写真複製)に威力を発揮した技法で、年輩の読者なら卒業アルバムなどで、倍率の高いルーペでみても網点のみられないこの技法独特のなごりをみることができる。
しかしながらこのコロタイプ印刷法は現代ではすっかり衰退して、現業の業者は京都に三社を数えるのみとなっている。
ウィキペディアに要領よく説明があったので、一段下にその抜粋を紹介する。

下部の右起こし横組みの「株式会社東京築地活版製造所」の社名は、既述のパントグラフをもちいて製作された「平形書体見本」にみるものである。
同社ではこれをしばしば「社名制定書体 ≠ ロゴタイプ」として、縦組み・横組みを問わずにもちいていた。字画形象からみて「二号平形」とみられるが、写真技法を経たせいか原寸を欠いている。

【 コロタイプ 】ウィキペディアゟ
コロタイプ(英語 :  collotype)は製版方法の一種で、平版の一種である。実用化された写真製版としては最も古いもので、かつては絵葉書やアルバム、複製などに広く使われたが、現在では特殊な目的以外では使われていない。

技    法
ガラス板にゼラチンと感光液を塗布して加熱することによって版面に小じわ(レチキュレーション)を作る。それに写真ネガを密着して露光すると、光のあたった部分のゼラチンが硬化して水をはじくようになる。
版面を湿らせると水を受けつける部分が膨張してインクがつかなくなるため、硬化した部分にだけインクが付着する。インク付着量の大小によって連続階調が表現され、オフセット印刷のような網点を持たないことを特徴とする。

欠点は印刷速度が遅いこと、耐刷力がないこと、複版する手段がないこと、多色刷りが難しいことなどで、このために現在ではほとんど行われていない。

歴    史
コロタイプはフランスで生まれ、1876年にドイツのヨーゼフ・アルバートによって実用化された。
日本では  小川一真  が1883年にボストンで習得し、帰国後の1889年に新橋で最初のコロタイプ工場を開いた。日露戦争時にコロタイプと石版を組みあわせた絵葉書が大ブームになった。
1897年には横浜のドイツ商館アーレンス商会出身の上田義三が欧米留学ののち、コロタイプ印刷業「横浜写真版印刷所(のち上田写真版合資会社)」を開業した。

便利堂(1887年創業、1905年からコロタイプ印刷を行う)の佐藤濱次郎は法隆寺金堂壁画の原寸撮影を1935年に行い、それを元にコロタイプによる複製を1938年に作った。1949年に壁画は焼失したが、のちにこのコロタイプ複製をもとにして再現された。

効率の悪さから現在はほとんど消えた技術になっている(社名に「コロタイプ」のつく印刷会社は各地にあるが、実際にはオフセット印刷しか行っていない)。しかし文化財の複製のためには重要であり、便利堂はカラーのコロタイプ印刷も行い、また2003年に「コロタイプの保存と印刷文化を考える会」を発足した。

小 川   一 眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま)
万延元年8月15日(1860年9月29日)-
昭和4年(1929年)9月6日)
日本の写真家(写真師)、写真出版者。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。
東京築地活版製造所第五代社長:野村宗十郎は、自伝のなかで、小川一眞の渡米費用の一部を負担するなどして、同社でもコロタイプ印刷法を獲得しようとしていたことを記録している。しかしながら同社の大勢は積極的ではなかったとみられ、事業化に成功した形跡はみられない。

『コロタイプ印刷史』(編著・発行:全日本コロタイプ印刷組合、昭和56年5月8日)
ときおり産業史研究者や、社史編纂者のかたが借りにみえるほど残存部数の少ない資料らしい。コロタイプの歴史・技法が丁寧に紹介され、コロタイプ印刷の製作実例と作品見本が綴じこみ付録として豊富に紹介されている(撮影:青葉水龍 稿者蔵書)。

《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》

『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)
<画像修整協力:青葉水龍>

東京築地活版製造所支配人時代の野村宗十郎
東京築地活版製造所専務取締役:第五代社長時代の野村宗十郎

野村宗十郎 のむら-そうじゅうろう 1857-1925

安政四年(一八五七)五月四日長崎に服部東十郎の長男として長崎築地町に生まれる。のち野村家の養子となる。本木昌造の新街私塾に学ぶ。明治二十二年(一八八九)七月陽其二の推薦で東京築地活版製造所に入社。
同二十四年六月『印刷雑誌』に欧米のポイント活字システムを説明したわが国で初の論文を発表。〔ここでの論考はアメリカンポイントの説明としては不十分かつ不適当であり、むしろ現行の DTP ポイントシステムを説いたものだとして、近年では批判もみられる〕。同二十六年米国シカゴで開催の万国博覧会の視察に赴く小川一真に写真製版法の研究を依頼、持ち帰った網版の試験刷に成功し初期の写真製版印刷分野に寄与した。
同二十七年より和文ポイント活字の製造を試み、三十六年大阪で開催の第五回内国勧業博覧会に十数種の見本を出陳した。大阪毎日新聞社は記者菊池幽芳の調査結果を紙上に載せるなどこれに多大な関心を示し、率先して新聞印刷に採用。爾後新聞各社が採用する端緒となった。
出版印刷では四十三年『有朋堂文庫』が九ポイント活字を用いたのが最初である。三十九年社長に就任。大正七年(一九一八)後藤朝太郎に活字の字画整理を、同八年桑田芳蔵に活字の可読性の調査を依嘱するなど活字の改良普及に貢献した。同十四年四月二十三日東京で没した。六十九歳。正七位に叙せられた。
[参考:『日本印刷大観』(東京印刷同業組合編、昭和13年、この項は牧治三郎執筆)]

<タイポグラファ群像*003 牧治三郎 2011年08月11日 花筏 初出

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【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ25}|平野富二による活版印刷機の国産化

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]

平野富二による活版印刷機の国産化は、明治5年(1872)7月に上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設したときから、準備が進められたと見られる。
その目的は、あくまでも活字・活版の販売を促進するためであったと見られ、開設から3ヶ月後には、早くも印刷機の販売について新聞広告を出している。
取りあえずの対応は、本木昌造が自社で使用するために設計し、長崎製鉄所に依頼して製作した木鉄混用の手引印刷機を複製して販売することからはじめられた。しかし、これは販売を目的として開発されたものではなく、間つなぎ的なものであった。

神田和泉町では、幸い身近に外国製の小型手引印刷機とロール印刷機があったことから、これを分解して型を取り、模造することによって国産化を果たすことができた。それにより、活版印刷の普及と事業の拡大に大きく寄与することになった。
しかし、ロール印刷機の国産化を果たして販売できるようになるのは、築地二丁目に新工場を建設して移転してからであった。
活版印刷の需要が急速に拡大する中で、多くの引合が寄せられるようになり、より大型で高性能の活版印刷機が要求されるようになったことに対応するため、築地二丁目に移転後、各種印刷機の本格的製造体制を整えることになる。
本格的な生産体制の整備と機種の品揃えは、明治6年(1873)7月に築地に新工場を建設してからであり、今後の動向と発展についての紹介は後日に譲ることとする。

古谷昌二ブログ ── 平野富二による活版印刷機の国産化

はじめに
(1)活版印刷機の国産化に着手
<最初の活版印刷機の販売広告>
<当時、新塾出張活版製造所で所有の活版印刷機>
<平野富二の明治6年の「記録」>
(2)最初の自社製印刷機
(3)当初の印刷機製造態勢
(4)ロール印刷機の国産化
(5)その後に国産化された足踏印刷機
(6)わが国における活版印刷機の渡来の歴史
まとめ

【平野富二の会】『通運丸開業広告』から|石川島平野造船所が最初に建造した「通運丸」シリーズ|東京築地活版製造所五号かな活字に影響をあたえた「宮城梅素-玄魚」

本項は、近日発行『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』(編集:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、発行:平野富二の会、B 5 版、ソフトカバー、384頁)より。
その抜粋紹介の記事として「平野富二の会」のウエブサイトに掲載されたものを転載した。
表紙出力『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』表紙Ⅰ

表紙の画像は以下より採取した。
◉ 右上:最初期の通運丸 ──『郵便報知新聞』(明治10年5月26日)掲載広告ゟ
◉ 右下・左上:『東京築地活版製造所 活版見本』(明治36年 株式会社東京築地活版製造所)電気版図版から採録

◉ 左下:『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(明治10年 長崎新塾出張活版製造所 平野富二)アルビオン型手引き活版印刷機ゟ
◉ 中心部の図案:『本木號』(大阪印刷界 明治45年6月17日発行)を参考とした。

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【 石川島平野造船所 ── 現:石川島資料館 】

石川島資料館入口石 川 島 資 料 館
[ 所在地:中央区佃1丁目11─8 ピアウエストスクエア1階 ── もと佃島54番地 ]
digidepo_847164_PDF-6東京石川島造船所工場鳥瞰図『東京石川島造船所製品図集』
(東京石川島造船所、明治36年12月、国立国会図書館蔵)

石川島資料館の地は、平野富二が明治9(1876)年10月に石川島平野造船所を開設したところで、昭和54(1979)年に閉鎖されるまでの103年間のながきにわたって、船舶・機械・鉄鋼物の製造工場であった。この地は嘉永6(1853)年、水戸藩が幕府のために大型洋式帆走軍艦「旭丸」を建造するための造船所を開設した所で、これをもって石川島造船所(現:I H I )開設の起点としている。

石川島資料館は、このような長い歴史を持つ石川島造船所の歴史を紹介するとともに、それと深い関わりを持つ石川島・佃島の歴史と文化を紹介する場として開設された。

web用_200090 300dpi 通運丸開業広告 印刷調整 軽量化-1『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年
山崎年信 画 宮城梅素-玄魚 傭書 物流博物館所蔵

『通運丸開業広告引札』(物流博物館所蔵)には、平野富二が石川島平野造船所を開いて最初期に建造した「通運丸」が描かれている。
平野富二が石川島平野造船所を開いて最初に建造した船は、内国通運会社(明治5年に設立された陸運元会社が、明治8年に内国通運会社と改称。現:日本通運株式会社)から請け負った「通運丸」シリーズだった。

内国通運会社は、政府指導で組織化された陸運会社であったが、内陸部に通じる河川利用の汽船業にも進出した。
隅田川筋から小名木川・中川・江戸川を経由して利根川筋を小型蒸気船で運行する計画を立て、明治9(1876)年10月末に開設したばかりの石川島平野造船所に、蒸気船新造4隻と改造1隻を依頼した。

明治10(1877)年1月から4月にかけて、相次いで5隻の蒸気船が完成した。新造船は第二通運丸から第五通運丸まで順次命名された。第一通運丸と命名された改造船は、前年に横浜製鉄所で建造された船艇であったが、船体のバランスが悪く、石川島平野造船所で大改造を行ったものである。
同年5月1日から第一、第二通運丸により東京と栃木県を結ぶ航路の毎日往復運航が開始され、もっぱら川蒸気と呼ばれて話題をあつめ、盛況を呈した。

これらの「通運丸」と命名された小型蒸気船は第五六号まで記録されており、昭和23年代まで運行されていた。

この絵図に描かれた通運丸が第何番船かを特定することはできない。しかし宣伝文から推察すると、利根川下流の木下や銚子まで運行していることから、すでに第五通運丸までが就航していると考えられる。
したがって、石川島平野造船所で納入した五隻の通運丸のいずれかが対象になる。後年、船体の外輪側面に大きく「通運丸」の船名が表示されるが、初期には、この航路は内国通運会社の独占だったため標示されていない。

帆柱のある通運丸を描いた「内国通運会社」新聞広告。当初は一本の帆柱を備えていた。
『郵便報知新聞』明治10年5月26日に掲載。(『平野富二伝』古谷昌二 著から引用)

web用_200097 300dpi 東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図 野沢定吉画-1 軽量化船体の外輪側面に大きく船名が表示された通運丸
『東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図』明治10年代
野沢定吉 画 物流博物館所蔵

上掲の『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年は、画は山崎年信、傭書は宮城梅素ー玄魚の筆になる。以下に詳細を掲載した。

【山崎年信 ── 初代】(1857─1886)
明治時代の日本画家。安政四年うまれ。歌川派の月岡芳年(1839─92)に浮世絵をまなび、稲野年恒、水野年方、右田年英とともに芳年門下の四天王といわれた。新聞の挿絵、錦絵などをえがいた。明治19年没、享年30。江戸出身。通称は信次郎。別号に仙斎、扶桑園など。

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「傭書家: 宮 城 梅 素-玄 魚 」

通運丸開業広告引札』の撰並びに傭書は、宮城梅素・玄魚(みやぎ・ばいそーげんぎょ)によるものである。以下は錦絵に書かれた文章の釈読である。[釈読:古谷昌二]

廣 告

明治の美代日に開け。月に進みて
盛んなれば。實に民種の幸をやいはん。
國を冨すも亦。國産の増殖に在て。
物貨運輸。人民往復。自在の策を起
にしかず。されど時間の緩急は。交際
上の損益に關する事。今更論をま
たざるなり。爰に當社の開業は。郵
便御用を専務とし。物貨衆庶の乗
客に。弁利を兼て良製迅速。蒸気
数艘を製造なし。武總の大河と聞たる。
利根川筋を逆登り。東は銚子木下
や。西は栗橋上州路。日夜わかたず
往復は。上等下等の室をわけ。
發着の時間は別紙に表し。少も
遲〻なく。飛行輕便第一に。三千
余万の諸兄たち。御便利よろしと
思したまはゞ 皇國に報ふ九牛
の一毛社中の素志を憐み給ひて。
數の宝に入船は。出船もつきぬ
濱町。一新に出張を設けたる。内國
通運會社の開業より試み旁〻
御乗船を。江湖の諸君に伏て希ふ

      傭書の 序  梅素記

梅素_画像合成_02『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年の錦絵の広告文を釈読に置き換えたもの

宮城梅素-玄魚(1817─1880)は、幕末から明治時代の経師・戯作者・傭書家・図案家である。
文化14年江戸うまれ。浅草の骨董商ではたらき、のち父の経師職を手つだう。模様のひな形、看板の意匠が好評で意匠を専門とした。
條野傳平・仮名垣魯文・落合芳幾らの粋人仲間の中核として活動。清水卯三郎がパリ万博に随行したおり玄魚の版下によってパリで活字を鋳造して名刺を製作したとされる。

明治一三年二月七日没。享年六四。姓は宮城。名は喜三郎。号:梅素(ばいそ)玄魚・田キサ・呂成・水仙子・小井居・蝌蚪子-おたまじゃくし-など。
江戸刊本の伝統を継承した玄魚の書風は東京築地活版製造所の五号かな活字に昇華されて、こんにちの活字かな書体にも影響を及ぼしている。

東京築地活版製造所五号かな活字_03

東京築地活版製造所 五号かな活字(平野ホール所蔵)
『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(明治10年 長崎新塾出張活版製造所)

2013平野富二伝記念苔掃会-10一恵斎芳幾(落合芳幾)が書いた晩年の宮城梅素-玄魚
『芳潭雑誌』より

【 詳細: 平野富二の会 】

【 内国通運会社 】 & 【 日本通運 WebSiteゟ 沿革と歴史 】

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【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ24}|地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接していた「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。

鳥山棄三は、のちに文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜壽紀念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。

この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版印刷所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。
現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。
〔資料:
『喜壽紀念』宇田川翁喜壽紀念会、大正14年、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵〕

古谷昌二ブログ ──── 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業
⑲ 五代友厚と大阪活版所
 活字製造事業の経営受託
 文部省御用活版所の開設
㉒ 東京進出最初の拠点:神田和泉町
㉓ 神田和泉町での平野富二の事績
㉔ 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 主要内容 >

まえがき
1) 茂中貞次と鳥山棄三について
2) 宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
3) 鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
4) 茂中貞次による地方への活版印刷普及
ま と め

わが国最初期の新聞のひとつ『遐邇-かじ-新聞』、第一号(明治7年2月2日)表紙

題号の「遐邇-かじ」は遠近をあらわす。平野富二による長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三(のち宇田川文海)が編輯者となり、秋田県の聚珍社から発行された。長崎新塾出張活版製造所製の活字が用いられ、漢字は楷書風活字、ルビは片仮名。「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」と記されている。

{新宿餘談}

このたび古谷昌二氏によって紹介されたふたり、兄の茂中貞次はわずかに印刷史にも記録をみますが、弟の鳥山棄三(のち宇田川文海)に関してはほとんど知るところがありませんでした。
当時としては長寿を保った宇田川文海『喜壽紀念』* には、これも記録に乏しい平野富二の生きよう、人柄が鮮明に描かれています。また平野富二一行により、創設直後の神田和泉町と築地二丁目の活版製造所「長崎新塾出張活版製造所」から、想像以上に極めて迅速に、全国各地に、活版印刷関連機器と相当量の活字が、素朴ながらもシステムとして供給されていたことを知ることができます。

読者諸賢は、ぜひともリンク先の古谷昌二ブログ< 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 >をご覧いただき、その後さらにご関心のあるかたは、本稿{続きを読む}に、吉川弘文館『国史大辞典』から引用したふたりの記録をご覧たまわりますようお願い申しあげます。

[古谷昌二ぶろぐ まえがきゟ]

平野富二は、東京神田和泉町に「長崎新塾出張活版製造所」を開いて、活字・活版の製造・販売を開始した。
「文部省御用活版所」(のちに「小幡活版所」)で支配人兼技師となっていた茂中貞次と、その下で見習工として働いていた弟鳥山棄三の二人は、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、平野富二の経営する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった。
鳥山棄三は、後に大阪における代表的新聞記者となると共に、筆名を宇田川文海と名乗って新聞連載小説家となった。大正14年(1925)8月に『喜壽紀念』として纏めた自伝を残している。その中に、平野富二の下で働いていた頃の事柄が記録されている。

この兄弟二人は、平野富二の指示で、それぞれ鳥取と秋田に派遣され、地方の活版印刷普及の一端を担った。その後、神戸と大阪における初期の新聞発行に貢献している。
本稿では、宇田川文海によって伝えられた平野富二の人柄を示す記録と、鳥取と秋田、更には神戸と大阪における新聞発行とその関連について紹介する。

*  本稿では宇田川文海七十七歳喜寿の祝として開催された「祝壽會」と、東京大学明治新聞雑誌文庫での文献目録にならって『喜壽紀念』とした。そののち国立国会図書館でも館内閲覧が可能であることがわかったので、そこの書誌情報を紹介したい。
◉『喜寿記念』(宇田川文海著、大阪、大正14年、宇田川翁喜寿記念会)

標題/目次/緒言/喜壽紀念/私が新聞記者になるまで/朝日新聞創刊以前の大阪の新聞/阿闍梨契冲/狂雲子〔赤裸々の一休和尚〕/豐太閤と千利休/宇田川文海翁祝壽會の顛末/室谷鐡膓氏/跋

『国史大辞典』(吉川弘文館 ゟ)宇田川文海/茂中貞次 関連資料紹介
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【かきしるす】平野富二 31歳のころの写真Ⅱ|三谷幸吉の記録ゟ+石川島平野造船所の集合写真との関係は如何に

横浜石川口製鉄所職員 ── 前列中央が平野富二 1876年(明治9)31歳のころ
『本木昌造 平野富二 詳伝』ゟ
(発行兼編輯人:三谷幸吉、昭和8年4月20日、同書頒布刊行会 154ページ)

上掲写真を公開したところ、周辺でおもわぬ波紋が拡がっている。
① 横浜製鉄所の共同経営者で同郷の、杉山徳三郎はこの写真のどこにいる?
② 平野富二が手にしているのと類似する、帽子を被った巨躰の人物が「東京石川島造船所」関連の職員集合写真のなかでみたことがある。
あまりに豆粒のように小さく紹介されていて、平野富二とは断定できなかったが、この横浜製鉄所の写真との類似性からいって、平野富二とみてよいとおもわれるが?

① の疑問にこたえて
この写真は、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』p.155に記載されているように、「横浜石川口製鉄所」時代のものです。拙著『平野富二伝 考察と補遺』図8-16に掲載し、解説を述べてありますが、「横浜石川口製鉄所」は明治13年1月に平野富二が単独で借用したものです。
杉山徳三郎は、明治10年の西南戦争の特需で利益を得てから横浜製鉄所の経営から手を引いて、明治12年に九州に戻り、明治13年から炭坑経営に身を転じています。したがってここには杉山徳三郎はおりません。[古谷昌二]

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古谷昌二氏のご指摘を受けて
本図は『東京日日新聞』(明治14年2月19日)に掲載されたもので、東京と横浜とが一体運営であることを示している。

大小蒸気船及び帆走船
大小蒸気船幷陸用蒸気機械製造
このほか諸機械汽罐お好みに応じ製造仕りべく候
   東京  石川島造船所
   横浜  石川口製鉄所

横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所
「横浜製鉄所」は横須賀海軍工廠の前身をなす官営造船所であった。江戸幕府が海防に備えて、フランスの全面的な援助を得て、江戸近辺に艦船建造修理工場の創設を計画したことからはじまる。
幕府は慶応元年(一八六五)八月横浜本村(横浜市中区吉浜町)に「横浜製鉄所」を建設し、佐賀藩から献上されたオランダ製蒸汽船用機械を活用し、さらに咸臨丸遣米使節が購入した工作機械を追加据え付けし、小型艦船の修理のほか西洋技術の伝習を兼ねる工場とした。

ひきつづき地中海のツーロン軍港をモデルにして地形の類似する横須賀湾に立地し、同年九月「横須賀製鉄所」の起工式を挙行、翌二年工場建設、三年第一ドック開削に着手した。
フランスの海軍技師ベルニ François L.Verny が首長に任命され工事を指揮監督し、江戸幕府崩壊後も滞在。明治新政府はこれを継承し明治四年(一八七一)二月ドックを完成、製鋼・錬鉄・鋳造・製罐各工場も落成した。

横須賀製鉄所は明治三年十月から工部省の管轄に入り、雇用フランス人の技術力と据付け輸入機械の高い水準を生かし、造船にとどまらず一般産業分野にも活用され、政府の殖産興業政策を実施する日本最大の総合工場となった。採鉱機械を製作し生野鉱山で使用したり、富岡製糸場の建築に技師を派遣して協力したりしたのはその一例である。

明治四年四月「横須賀造船所」と改称され、五年十月海軍省の強い意向で同省の管轄に移され軍艦建造を目的とし、八年末ベルニらを解雇して邦人のみで艦船の造修を主体的に行う体制に切り替えた。その結果、フランス人技師や労務者も十年中に全員帰国した。
この間九年六月最初の木製軍艦清輝(八九七トン)、十三年七月木製砲艦磐城(七八〇トン)、十四年八月日本最大の木製二本マスト艦迅鯨(一四六四トン)を竣工した。十六年イギリスから技師を招き甲鉄艦の建造を学び、以後木製艦船の建造を中止した。

横浜石川口製鉄所の写真
本図は『幕末・明治のおもしろ写真』に掲載されている写真の一部である。明治15年頃の撮影とみられる。
本図は神奈川県立横浜博物館編『横浜銅版画』に掲載されている横浜石川口製鉄所の絵図である。上掲図とは方位が逆で、やや変形して描かれているが、工場の細部にわたって描かれているのが興味ぶかい。表門の門柱に「石川口製鉄所」の表札が掲げられ、その傍らに人力車が待機している。構内では組み立て手動式レールを用いてボイラーを人力で移動させている。

このように横須賀造船所の整備に伴い、補助的な役割を果たすにすぎなくなった横浜製鉄所は不要となり、明治十二年末平野富二に貸し下げられた。
平野はみずから経営する東京石川島造船所の分工場とし「横浜石川口製鉄所」と改称した。これは横浜製鉄所の位置が石川町の入口にあたることから「石川口製鉄所」と命名し、石川の文字を石川島と共有させることを狙ったものとみられる。

同所では翌年一月から舶用機関や一般諸機械を製作したが、本社工場と合併することを得策と考え、十七年末分工場を取り壊して石川島へ移築合併したため、横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所は消滅した。
[参考:『国史大辞典』(吉川弘文館)、『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二)]

② の疑問にこたえて
この写真は『石川島技報』の「石川島物語」に開催されている集合写真(部分)である。
写真の右手に洋服を着た役員・職員が並んでいるが、その前列中央のやや背の低い肥って丸顔のひとが平野富二、その右となり(画面)が稲木嘉助とされている。その背後に背の高い髭面のひとは技師長:アーチボルト・キングとみられる。
対する左手には職長や棒心らしき人々が法被-はっぴ-を着て立っており、中央には職工たちが四列に並んでいる。総勢七、八十人を数えることができる。
[引用:『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二 p.248)]

【かきしるす】平野富二 34歳のころの写真Ⅰ|三谷幸吉の記録ゟ

横浜石川口製鉄所職員 ── 前列中央が平野富二 1880年(明治13)34歳のころ
『本木昌造 平野富二 詳伝』ゟ
(発行兼編輯人:三谷幸吉、昭和8年4月20日、同書頒布刊行会 154ページ)

巨躯であったと記録される平野富二の数少ない写真資料のひとつ。写真撮影が苦手だったようで、どの写真も視線はカメラ目線ではありません。また洋装の社員と和装の社員が混在し、この時代の風潮をあらわしている。
横浜石川口製鉄所は明治13年01月から平野富二が経営にあたり、舶用機関や一般諸機械を製作したが、本社工場(東京石川島造船所)と合併することを得策と考え、17年末横浜石川口製鉄所を取り壊して石川島へ移築合併したため、横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所は消滅した。

天地53×左右75ミリ、ちいさな写真凸版図像から補整紹介[日吉洋人]

【かきしるす】平野富二|世の中を空吹く風に任せ置き 事を成す身は国と身のため|I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~|I H I Corporation


【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】


* 拡大画面ご希望の際は、画面右下  YouTube の文字部 をクリックすると別枠が開きます。

I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開
嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

【 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/ 】
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株式会社 I H I の公開展示施設 i – muse の全面リニューアルに際して、拙著『富二奔る 近代日本を創ったひと・平野富二』(片塩二朗、朗文堂、2002年2月3日)74ページに紹介した「平野富二の歌」の出典確認の依頼が担当者からあった。

この二首の出典は、いずれも『本木昌造 平野富二 詳伝』(発行兼編輯人:三谷幸吉、同書頒布刊行会、昭和8年4月20日)である。
同書平野富二編には、しばしば「日記」「金銀錢出納帳」が紹介され、不鮮明ながら131ページには「日記」、148ページには「金銀錢出納帳」の写真凸版による影印図版がみられる。

したがって三谷幸吉が調査にあたった昭和7-8年ころには現存した資料であるが、残念ながら現在原資料は発見されていない。

平野〔富二〕先生は無骨一點張りの裡にも、亦、風流なところがあったと見えて、時々和歌を詠ぜられて居る。左〔下部〕の和歌は、明治二十年五月より七月に到る「日記」(平野家所蔵)に記載しありたるものである。
  世の中を空吹く風に任せ置き
        事を成す身は國と身のため
172ページ

遺 族 挨 拶
平野〔富二〕先生二女津類〔つる〕女史は感激に滿ちて。
  吹きながす五色のはたも雲にさえ
        なき魂まつる人の眞心
256ページ

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i – muse の全面リニューアルが完成し、それからしばらくして同館の大型ディスプレーで「I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~」をみた。
拙著『富二奔る 近代日本を創ったひと・平野富二』では、僭越かつ無礼な紹介をしていたことを恥じいることになったが、平素は比較的地味な広報展開をしている I H I が、本編では高揚した動画となっていることがうれしかった。
そのお礼とお詫びの意味をふくめて、巨大化し多様化した株式会社 I H I をすこしでも理解できるように、同社公開動画「 I H I 会社案内映像  日本語版 」を紹介したい。

【 YouTube I H I 会社案内映像(日本語)  音が出ます  04:07 】

【 詳細: 株式会社 I H I   i – muse     石川島資料館 】
[関連:【会員情報】I H I Corporation|I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~|YouTube 動画を共有紹介