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【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|第六代専務取締役社長 松田精一

東京築地活版製造所 第六代社長 松田精一

(1)第六代社長として松田精一が就任
(2)松田精一の前歴
(3)東京築地活版製造所との関わり
(4)第6代社長松田精一による経営
      1.増資・借入金と各期の決算結果
      2.役員の改選
      3.博覧会への出品
      4.活字鋳造設備の縮小
      5.月島分工場の廃止と九州出張所の閉鎖
      6.その他
(5)東京築地活版製造所の社長辞任とその後
ま と め
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ま と め ゟ

松田精一は、明治34年(1901)4月から大正14年(1925)4月までの24年間、東京築地活版製造所の取締役として第4代社長名村泰蔵と第5代野村宗十郎の下で取締役をつとめた。
野村社長の病死により、大正14年(1925)4月に第6代社長に就任してから昭和10年(1935)4月に病気で退任するまで10年間社長職をつとめた。その後も相談役をつとめたが、2ヶ月後の同年6月に辞任した。
このように34年余りの長い年月にわたって、松田精一は東京築地活版製造所の経営に関わって来たことになる。

この間、わが国の経済情勢は、明治34年(1901)の銀行恐慌、大正12年(1923)の関東大震災による震災恐慌、そして昭和2年(1927)の金融恐慌、さらには昭和4年(1929)にはじまる世界大恐慌下の昭和恐慌にいたる、まさに、わが国の経済情勢は「恐慌から恐慌へ」と揺れ動く動乱の時代だった。

前々代の名村社長による積極経営と、前代の野村社長によるポイント活字販売によって、東京築地活版製造所は順調に経営の拡大がなされてきた。しかし、大正12年(1923)9月に発生した関東大震災で罹災し、新築したばかりの本社ビルは鉄筋コンクリートの建物が焼け残っただけで、月島分工場を含めてほとんど壊滅状態になった。

前代野村社長の陣頭指揮の下で震災復興がおこなわれ、翌13年7月には本社ビルの補修と増築工事が完成して活字製造を開始した。それに続いて月島分工場も復旧工事が完成した。
復興事業はその後も続いたが、本社ビルの完成から1年後の大正14年(1925)4月23日になって、野村社長は復興計画未完成のまま入院して間もなく病死した。

あとを引き継いで社長となった松田精一は、野村前社長の未完成の計画を引き継ぎ、震災から3年後に活字製造設備を中心とした製造諸設備を完成させた。
その復興資金は、日本勧業銀行からの融資と資本金の増資によってまかなわれた。日本勧業銀行からは大正13年度に30万円、大正15年度と昭和2年度にそれぞれ10万円、合計50万円の融資をうけた。大正14年(1925)に30万円の倍額増資を行い、資本金60万円となった。

しかし、震災後の復興需要が一巡すると、活字の需要は減退し、月島分工場で製造する従来型の活版印刷機もその需要は低迷した。そのため、銀行融資の利払いが負担となり、株主への配当ができない状態に陥ってしまった。
原因は、野村社長の復興計画が、印刷業界の趨勢を無視して、復興の重点を活字製造事業に置き過ぎたこと、自動化、省力化の最新型製造設備への転換が疎かにされたことであったと見られる。
明治初期からの中小企業的な体質をそのままの形で大企業化をはかったため、もはや、後戻りして体質改善をおこなう余裕すらない状態に追い込まれていた。

この間、社長として経営を任された松田精一は、前社長の野村宗十郎の復興投資の後始末に追われて、活字鋳造設備を半減処分し、月島分工場を閉鎖するなどで経営上の負担を軽減させたが、時代に適合した方向への軌道修正ができないまま、病気により退陣を余儀なくされた。
また、社長に代わって強力なジーダ―シップを発揮し、社内を新しい方向へ引っ張って行く人材が育成されていなかったことも苦境からの離脱ができない要因の一つであった。

松田精一は、父の松田源五郎が本事業の開祖本木昌造と業祖平野富二に、終始側面から協力した結果として設立された東京築地活版製造所の第6代社長として経営を任されたが、長崎の十八銀行頭取などの本務がある制約から、経営改善の筋道をつけることができないまま、激務による病気で引退することになった。

その後は、長男の松田一郎が取締役として経営に参画することになるが、時代の趨勢は厳しくなる一方であった。
伝統ある東京築地活版製造所の最後の幕引きは、松田一郎が倒産でなく、解散という形で締めくくる役目を負った。そのことについては次回のブログで紹介する。