【字学】 佐久間貞一遺墨 『送 太田温郷之帰省』、『法の序』 をみる

Print極めつけの悪筆ゆえ「書は以て姓名を記するに足るのみ」といっている。もちろん負け惜しみの減らず口である。
ところが「書は体を表す」ともいう。
たしかに肉筆からは、
それをしるしたひとの人柄を、ある程度推しはかることができる。

佐久間02佐久間貞一肖像画 木口木版 生巧館 : 合田 清(1862-1938)
『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 明治37年11月3日)

秀英舎の創業者 : 佐久間貞一(1848-98)の遺墨とされるものは少ない。
わずかに見るのは、その七回忌に際して発行された『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 印刷所・秀英舎 明治三七年一一月三日)の口絵である。
しかしながら石版印刷によるとみられる複写図版は、あまりに不鮮明で解読に難航して紹介をえなかった。

佐久間01佐久間貞一肖像写真
『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 明治43年12月15日) 

もうひとつは一三回忌に際して発行された『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 印刷所・秀英舎第一工場 明治四二年一二月一五日)の口絵にみる、佐久間貞一の遺墨二点である。こちらを紹介させていただく。

そのひとつは静岡で読まれた七言絶句である。韻を踏んでまことに堂々としたものである。
静岡時代の佐久間貞一は、戊申の役に際し、彰義隊隊士として無残なまでの敗北を喫し、追捕の身となって流浪を重ねていた時代のことであった。
佐久間貞一、ときに数えて二一歳、血気と侠気盛んな青春のときでもあった。

佐久間貞一筆書01この書をみると、まさに痩勁である。裂帛の気合いのこもった、まさに痩勁な書である。
友人「太田温郷」との別れに際してのこしたものであろう。詩もほれぼれするほど良い。
その読み下しを古谷昌二氏の助力をえて試みた。もとよりこの分野は専門ではない。賢者の叱正を待ちたい。

送 太田温郷之帰省
杜鵤啼度客樓遣  祝席傷心首夏天
男子常慙児女態  如今臨別転凄然
    静岡
貞一   再拝

ほととぎす啼きて客楼にわたらしむ
祝席にあって傷心、夏のはじめの天

男子はつねに慙ハジる 児女の態タイ
別れに臨みて淒然とすること今の如し

もうひとつは、宿痾の病としていた肺結核が進行し、死期を悟ったときのもの、あるいは辞世の句とも読める悲壮なものでもある。
弱〻しい筆で入って、それでも気力を振り絞ってしるしたような、これまた痩勁な書である。おそらく宿願であった「工場法」の制定をみないままに果てる無念さをうたったものか。

佐久間貞一筆書02
ありし日に 逢見し老いの おはりにと
法の 序 の かなしかりける

「対づ  ついづ」とは(順序よく)定めるの意である。つまり労働法の成立をみなかった無念をあらわす。
佐久間貞一がのこしたこのふたつの書に、筆者は秀英体活字書風の遠い源流をみる。

BsyueiPH2[1]【 参考 : 『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷株式会社  発売 : トランスアート 2004年12月12日) 9-1 佐久間貞一の墨書の源流  p.652-660 】