【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 19】 長崎の〝ふううけもん〟安中半三郎『辞世の句』

長崎バーナー

櫻馬場盲聾学校校舎 年代不明 宮川資料 DSC_2488[1]上) 櫻馬場「私立長崎盲聾学校」校舎落成記念 明治41年(1908)[読者のご教授による]
下) 『史跡 盲唖學校跡』 碑-この碑が設置されたのは、それほど昔ではないと思います。高さは1メートルにも満たない大きさで、桜馬場町の住宅街の片隅にひっそりと立っています。 宮田和夫氏提供

長崎県立盲学校」、「長崎県立ろう学校」は、安中半三郎を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」として創立された。同年9月12日開院。
その安中氏に盲唖院設立を相談した、自らも視覚障害者である野村惣四郎氏の居宅(市内興善町)の一部を仮校舎として授業を開始した(以後この日が開校記念日)。

九州初の盲聾教育機関であったため、開院以来九州全域及び愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増え続け、そのため校舎が手狭になり二度の移転を余儀なくされ、最終的には明治41(1908)年市内桜馬場町に新校舎が落成し落ち着くことになった。

校名も明治33(1900)年には「私立長崎盲唖学校」と改称。その後九州各地に相次いで開設された盲唖学校の中核的存在として、明治45(1912)年には第1回西部盲唖教育協議会を開催するなど、九州地区の盲・聾教育の研究、実践に大きな役割を果たしてきた。
大正08(1919)年には「長崎盲唖学校」と改称。大正12(1923)年「盲唖学校及聾学校令」が公布されたのに伴い、翌年7月12日には盲・聾教育の組織分離がなされ、「長崎盲学校」及び「長崎聾唖学校」の両校が開設された。

現在この両校は、大村湾に面した「長崎県立盲学校」(長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873)と、長崎空港からちかい「長崎県立ろう学校」(長崎県大村市植松3-160-2 長崎新幹線の駅舎設置のため同市内に移転予定)のふたつの県立学校となっている。

安中半三郎resized安中 半三郎 (あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

DSCN6175-627x470[1]長崎市本蓮寺脇にある神式の特設墓地「安中家と安中半三郎の墓碑」。
安中半三郎は大正10年(1921)69歳をもって卒した。墓碑は本蓮寺脇の特設墓地にあるが、葬儀は神式として執りおこなわれた。フェンスで囲まれふつうは立ち入りができない。

<安中半三郎 辞世の句>
     酒飲めば 浮世をよそに 捨て小船
     ただようてこそ たのしかりけり