【展覧会】前田土佐守家資料館 「城下町金沢のなかの前田土佐守家」 4月21日-7月1日 終了企画

tirashi64前田土佐守家資料館
「城下町金沢のなかの前田土佐守家」
開催期間  平成30年4月21日[土]-7月1日[日]
開館時間  午前9時30分-午後5時  * 入館は閉館30分前まで
観覧料金  一般 300円 高校生以下無料
主  催  前田土佐守家資料館、公益財団法人金沢文化振興財団
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城下町は江戸時代の代表的な都市です。17世紀の徳川政権による幕藩体制の確立以降、全国各地で城下町が造られ、各藩の政治や経済の中心地となっていきました。また、城下町は住人の過半が武士とその家族であり、空間的にみても武士の居住地である武家屋敷が町の大半を占めることから、「武士の町」であったともいえましょう。

江戸時代の金沢は、江戸・大坂・京都の三都に次ぐ日本屈指の大規模な城下町でした。城下町金沢は、藩主の居城である金沢城を中心とし、城の周りに前田土佐守家をはじめとする八家・人持といった上層藩士の武家屋敷地、その外側に上層藩士の家臣(陪臣)が居住する下屋敷や平士たちの武家屋敷地および与力・足軽などが集住する組地などを配した放射線状に広がる街として構成され現在もその姿をとどめているところが多くあります。
本展では、城下町金沢の成立と変遷、城下町金沢のなかの前田土佐守家の上屋敷や下屋敷、そしてそこでの生活について絵図や古文書から紹介します。

【詳細: 前田土佐守家資料館 

前田土佐守家資料館と前田土佐守家(八家) 同館 URL ゟ

前田土佐守家資料館
前田土佐守家資料館は、加賀藩祖前田利家の次男前田利政を家祖とする前田土佐守家所蔵の資料、約9,000点(石川県指定文化財)を保管、その一部を展示する施設です。
同館所蔵の資料は、土佐守家歴代当主が文書の保存・整理に努めてきたため、散逸や損傷等が少なく、膨大な歴史資料が良好な状態で保存されております。 また、土佐守家は加賀藩の重臣として、常に藩政の中枢に位置する家であったことから、土佐守家の草創期(天正期)から明治にいたる間の様々な分野にわたる史料がみられ、加賀藩政、文化史研究を進めてゆく上でも、その重要性が広く知られています。

前田土佐守家とは
前田土佐守家すなわち「直之系前田家」は、藩政期においては利政から直信までの10代を数え、初め1万50石、4代直堅以降は1万1000石の禄を世襲した。同家の家祖となる前田利政は、加賀藩祖前田利家・その夫人まつの次男である。したがって同家は加賀藩主前田家の分家筋にあたる(→系図参照)。
家祖利政は七尾城にあって能登国22万石余りを領有していたが、関ヶ原の戦いで徳川家康の出兵要請に応じなかったことにより領知を没収された。その後京都に隠棲し、かの地では多くの文化人や豪商たちと交流を重ね、寛永10年(1633)京都で没した。

利政の嫡男である2代当主直之は、幼少時に祖母芳春院(前田利家夫人まつ)にひきとられて養育された。祖母芳春院の尽力があって、元和元年(1615)12歳の時、3代藩主前田利常に召し抱えられた。これ以後、前田土佐守家は藩政期を通じ1万余石の禄高をもって代々「八家」の一つとして藩の要職を歴任し、10代当主直信の時に明治維新を迎えた。

「八家」とは、加賀藩行政組織の最高職である年寄役の職に就く門閥のことである。いずれも万石以上の禄高を有する大身の家臣で、全部で八家あったことからこう呼ばれた。他藩でいうところの(門閥)家老にあたる。
八家の制度は元禄期(17世紀末)に5代加賀藩主前田綱紀によって定められ、本多家(5万石)・長家(3万3000石)・横山家(3万石)・前田家(直之系1万1000石)・前田家(長種系1万8000石)・奥村家(宗家1万7000石)・奥村家(支家1万2000石)・村井家(1万6569石)であった(禄高は幕末時の石高)。

藩政期の当主10人のうち、利政を除く6人が従五位下土佐守または近江守に叙爵されている。 このうち5代直躬・6代直方・7代直時・10代直信が土佐守を通称としたことから、同家は一般に「前田土佐守家」と称されたのである。4代直堅・8代直良は近江守を通称とした。ちなみに、家祖利政は従四位下侍従に叙任されている。
なお、明治以降も同家は継続し、現在の当主は利政から数えて14代目にあたる。