渋谷区立松濤美術館
111年目の中原淳一 Junichi Nakahara: Year 111
会 期 2024年6月29日[土]- 9月1日[日] ※ 会期中、展示替えあり
前 期:2024年6月29日[土]- 8月4日[日]
後 期:2024年8月 6 日[火]- 9月1日[日]
会 場 渋谷区立松濤美術館
〠 150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14 TEL. 03-3465-9421
開館時間 午前10時 - 午後6時 * 最終入館は閉館30分前まで。
入 館 料 一 般 1000 円、 大学生 800 円、 高校生・60歳以上 500 円、 小中学生 100 円
* 土・日曜日・祝休日及び夏休み期間中は、小中学生無料
* 各種割引、優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照
協力・監修 ひまわりや
企画協力 島根県立石見美術館
主 催 渋谷区立松濤美術館
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イラストレーション、雑誌編集、ファッションデザイン、インテリアデザインなどマルチクリエイターと呼ぶべき多彩な活動で知られる中原淳一(1913-1983)。彼は、戦前に雑誌『少女の友』でデビューをし、挿絵や表紙を手がけ人気を博したほか、編集にも関わっていきました。
1937年に日中戦争が勃発すると、戦時色が強まる中で同誌を去ることを余儀なくされます。しかし、中原の雑誌制作への情熱は絶えることはなく、終戦の翌年の1946年には自身が編集長を務める『それいゆ』を創刊。その後も『ひまわり』、『ジュニアそれいゆ』、『女の部屋』などの雑誌を手がけていきました。
中原の生誕111年目を記念し開催される本展では、こうした数々の雑誌に掲載された挿絵や表紙の原画をはじめ、デザインした衣服、アーティストとして制作した絵画や人形など、中原の仕事の全貌に迫ります。「再び人々が夢と希望を持って、美しい暮らしを志せる本をつくりたい」という想いのもと、中原が生み出したこれらのクリエイションの数々を通じて、今もなお色褪せることのない魅力を紹介します。
※ 多彩な関連イベントが発表されています。
※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 渋谷区立 松濤美術館 ] { 活版アラカルト 過去ログまとめ }
◆展 覧 会 構 成
¶ 1章 新しい少女のために
中原は、1932年から『少女の友』の専属画家として挿絵や表紙絵を描き、やがて編集にも深くかかわった。中原の描く大きな瞳と細長い手足の少女像に、当時の少女たちは自身の理想の姿を見出し、あるいは自分自身を重ねた。また、こうした少女像は、後に少女漫画へと引き継がれていった。
日中戦争の長期化に伴い戦時色が強まると、中原の描く少女は「華美で不健康」とされ、1940年に同誌を去る。好ましい少女のイメージが戦時下の社会では一転して非難の対象となった。
その後、中原は初の著作となるスタイルブック『きものノ絵本』を発売し、爆発的な売上を記録した。1939年には自身がデザインした商品を扱う店「ヒマワリ」を開店。便箋や封筒、アルバムや手帳から洋服まで、一目で中原がデザインしたと分かる「淳一グッズ」を販売した。これは、今日私たちが日常的に目にするキャラクターグッズの先駆けといえるだろう。
¶ 2章 美しい暮らしのために
戦後間もない1946年に、中原は『ソレイユ』(8号以降『それいゆ』と改名)を創刊する。同誌では、「美しい暮らし」を目指す様々な提案が示された。通常の「暮らし」すら困難であった敗戦後の混乱期に中原のいう「美しさ」とは、知性や審美眼を鍛えていくことでこそ得られるものであった。『それいゆ』には、オリジナルの洋服のデザインを載せた連載や、髪型、美容、インテリア、手芸など衣食住を「美しく」整えるよう説く記事とともに、文学、音楽、美術などに関する内面を磨くための記事も多数掲載されている。
同誌は、中原が病に倒れる1960年まで刊行された。それは、戦後復興から高度経済成長期へと向かう社会のなかで、暮らしとその基盤となる価値観や美意識が大きく変化し、様々な流行が生まれた時期であった。しかし中原は,流行を追いかけるだけではなく、読者自身が衣食住を知性によってコントロールして初めて、自分らしい「美しい暮らし」が実現できる、という強い信念を持っていた。
¶ 3章 平和な時代の少女のために
中原は『ソレイユ』を刊行した翌1947年、月刊誌『ひまわり』を創刊した。子どもでも大人でもない「少女」を対象とした同誌において中原は、10代の読者たちが「よき少女時代」を送るため、美しくあることに遠慮する必要はない、ただ、無反省に着飾るのではなくあなたらしくあれ、と呼びかけた。連載「みだしなみせくしょん」では最新スタイルの紹介に加え、着こなしやヘアスタイル、小物選びなど、ファッションに関する事柄を絵と文章で丁寧に解説した。
さらには、川端康成らによる小説のほか、名作文学などの読み物も多く掲載され、中原が、少女たちの「美しさ」のためには文学や教養も重要だと考えていたことがわかる。
1951年から約1年間中原がパリに滞在すると、その間に雑誌の売り上げが減少。翌年に『ひまわり』は廃刊となるが、その後の1954年に『ジュニアそれいゆ』が創刊された。アメリカの雑誌『セブンティーン』を意識し、日本の「新しい型の少女雑誌」を目指した同誌では、写真のページが大幅に増え、中原のデザインした服が仕立て方の解説や型紙とともに多数紹介された。「よき少女時代」を送るという中原の編集方針に沿いながら、その内容と表現方法を時代にあわせて変化させていったことがわかる。
¶ 4章 中原淳一の原点と人形制作
多彩な仕事をした中原だが、そのキャリアは1930年の人形作家としてのデビューに始まる。1920年代後半「手芸」として人形を作ることが都市部に住む中間層の女性の間で流行したが、中原はこの頃に手芸店の店頭に飾られた毛糸人形に触発されて人形を作った。そして、19歳の時に趣味で制作したフランス人形が評判となり、1932年、松屋銀座で人形展が開催された。
中原は雑誌でも、読者たちに人形作りを提案していた。1959年に過労により倒れてからは第一線を退き、1960年代は療養生活を送るが、この時期にも、身近な材料から男性の人形を制作している。
中原は人形制作について「像(かたち)をつくってその像(かたち)の中に感情を入れてゆくことのできる点で、一番、芸術的な手芸」と語っている。彼にとって人形は、作り手の自己や憧れを映し出す媒体として、愛情を注ぐ対象として、さらにはそれが置かれる空間を美しく飾るオブジェとして、生活の場でさまざまに機能する特別なものであった。
※ 多彩な関連イベントが発表されています。
※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
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