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春 まだあさき 奥信濃路をゆく

奥信濃路《世のなかは みっか見ぬ間の 櫻かな》
あでやかではあるが、まことにあわただしく、はかないのが春の櫻である。
そんなはかない花と、世のなかのうつろいを、
「世のなかは みっか見ぬ間の 櫻かな」
と詠じたのは、江戸の俳人/大島蓼太 リョウタ であった。類似の句に、
「有為転変ウイテンペンは 世の習い」
がある。ともに浮き世のうつろいと、そのあえかさを嘆じたものであろう。

所用があって、04月の上旬、久しぶりに奥信濃、信州飯山に帰郷した。例年なら豪雪地帯で知られる飯山あたりには、五月の連休になってもまだ積雪がみられるのに、ことしは平野部にはもう残雪のかけらもなかった。こんな年もたまにはあっても良い。

ことしのお江戸の櫻は、年度末の忙しさと、悪天候にたたられて、文字どおり「世のなかは みっか見ぬ間の 櫻かな」となった。ようやく陽が差した昼下がり、ふらりと櫻をみにでかけたが、すでに地面いっぱいに、雨に打たれた紅色の花弁が散り敷いていた。
郷里での所用が早めにすんだので、奥信濃の早春と、艸艸をひさしぶりにたのしんだ。

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便利な世の中になった。東京駅から長野新幹線にのり、一時間とすこしで長野駅に着く。
かつては上野コウヅケの国・群馬県と、信濃の国・長野県をへだてる「碓氷峠 ウスイトウゲ」をこえるのが困難で、旧国有鉄道・信越線は、この横川-軽井沢間の区間だけ機関車を増設して、中央に歯車のようなカムがある アプト式 という特殊なレールの軌道をあえぎながらのぼっていた【リンク:碓氷峠鉄道文化村】。

この国境の峠に、近代の乗り物が登場したのは1888年(明治21)のことで、「碓井馬車鉄道」といって、ドコービル鉄軌の上を、馬が車を牽引していたようである。
ドコービル鉄軌とはフランス人ポール・ドコ-ビル(1846-1922)の考案によるもので、トロッコのレールの前身のようなものであった。その使用権を購入した、平野富二が率いる「石川島造船所」と「平野土木」の貢献が「碓井馬車鉄道」の建造にはおおきかったという。

平野富二は1873年(明治6)に東京築地活版製造所を創立して、わが国の近代印刷術への貢献がおおきかったが、造船・機械製造・運輸・土木工事(現IHIがその一部を継承)への貢献はあまり知られていなかった【ウィキペディア:ドコービル】。

かつての信越線(1997年・平成9年廃線)には、碓氷峠だけで26ヶ所のトンネルがあったが、けわしい山間部にある、その大半のトンネル掘削と、多くの鉄橋工事にあたって、おおいに威力を発揮したのが「ドコービル鉄軌」であった。
それまでの土木工事とは、ほとんどが人手により、土砂の運搬などは「モッコ、バイスケ」などで、もっぱら人足が担いでいた。それを一変したのは、平野富二による「ドコービル鉄軌」であった(『平野富二伝』古谷昌二 p.698)。

平野富二は、当時から造船業だけでなく、足尾銅山の古河市兵衛から鉱山の機械化について相談を受けて、鉱山用機械の製造もしていた。
平野はこのドコービル軽便軌道が将来多くの用途で役立つと考えて、1883年(明治16)日本においての独占販売権を獲得した。ところが買い手がつかず、結局平野自らが土木業をはじめることになった。このひとにはそうした無鉄砲なまでの大胆さがあった。

1886年(明治19年)、平野富治は有限責任東京平野土木組を設立し、各地の鉄道、道路や水道工事等にこのドコービル鉄軌を使用し、モッコやバイスケがふつうだった土木現場に機械力を持ち込み、1888年(明治21年)に開業した 碓氷馬車鉄道 の工事を請負った。
また、これもやはり平野富二がふかく関わった足尾銅山でも、ドコービル鉄軌ほかの「石川島造船所」製の機械がもちいられた。【関連資料: 『足尾暴動の史的分析 第3章』西村一夫 補助説明(11)

長野新幹線は、東京駅を発車し、上野、大宮と停車し、新聞を読みおえるまもなく、上信国境の碓氷峠の地下深く掘られたトンネルをぬけて、軽井沢に停車する。
風は冷たかったが、よく晴れた日で、浅間山が全容をみせていた。この威容に接すると、
 「あぁ、みすずかる 信濃の国に もどったな」
と感慨ぶかいものがある。
DSCN3598 DSCN3605 DSCN3604 DSCN3606長野冬季オリンピックの時に新幹線が長野まで開通した。
この新幹線は延伸されて、やがて東京から長野を経由し、やつがれの郷里の飯山から、信越国境の山並みをこえるトンネルにはいり、一気に越後の国・新潟県上越市にぬけて、日本海にそった、富山・金沢などをむすんだルートで関西圏に達するという。

そのためにあたらしい長野駅舎が旧東口(新幹線口)に設けられて、全国どこでもみられる、平板で機能むき出しの、じつに無味乾燥な風景となった。
いっぽう旧駅舎の西口は、善光寺を模した建物で、とても独自性と風情があった。ところがさすがに老朽化したようで、全面的に取り壊され、あたらしい駅舎の工事中であった。

《長野から花と栗の里・小布施町へ ── 旧国道をのんびりと》
長野駅の西口で下車したが、車中心の社会になったためか、駅前には人通りがすくなく、善光寺参詣の善男善女にむけて、アンズ、桃、ブドウ、リンゴなど、折折の名産品をならべて軒をつらねていた土産物屋は、ほとんどすがたを消し、駅前の景観はすっかり変わっていた。

かんがえてみれば、やつがれがこの長野を出てから半世紀ほどのときが経っている。
わずかに特産の信州味噌の老舗が、かわらぬ姿で駅前の末広町の交差点にのこっていた。ここを右にまがると、善光寺までまっすぐな参道となる。長野市は県庁所在地でもあるが、もともと善光寺の門前町として栄えたまちであった。
末広町の脇でレンタカーを借りて、小布施町にむかった。この間には高速道路があるが、わずか15kmほどの距離でもあり、旧道をのんびりと走った。

小布施町はふるいまちで、戦国時代からの遺跡、遺物、文書がのこる。また、ものなりがゆたかであって、どこかおだやかで、しっとりとしたまちでもある。
また、小布施町は千曲川に流入する松川にそったまちで、名産は栗である。
その栗からつくった「栗羊羹」「栗鹿の子」は絶品で、小布施堂、櫻井甘精堂、竹風堂の三社がふるい街道にそって軒をならべ、それぞれ特徴ある味わいで覇をきそっている。

DSCN3613 DSCN3620 DSCN3600十数年ぶりで小布施の町にいった。千曲川と松川の川面をわたる早春の風はまだつめたかったが、雪国の春をつげる蕗の薹(ふきのとう)が芽をだし、馬酔木(あしび)も純白の花房を垂れていた。
やつがれ、小布施堂、櫻井甘精堂、竹風堂の三店舗をのんびりまわり、「栗おこわ」と「栗ぜんざい」を食した。しみじみと旨かった。(自分への)みやげに、栗羊羹を一本だけ購入した。

小布施では、ともかく内外の観光客の多さにおどろいた。のちに訪ねた善光寺が閑散としていたのにたいして、この町ではおおくの西洋人が、三三五五散策をたのしんでいたし、中国などアジアの国からの観光客も多かった。
外国人向けの情報や、観光ガイドブックなどには、どのように小布施町は紹介されているのだろう、とおもえるほどだった。

小布施町には、ふるく戦国時代、加藤清正らとともに秀吉の麾下にあって、「賤ヶ岳七本槍」としてしられる、武将・福島正則の墓所がある。
福島政則は豊臣家の滅亡後、徳川幕府によって広島藩50万石から、一気に川中島藩(高井野藩)2万石に減封されて、この僻遠の地で憤死ともいえる終焉をむかえた。その墓は小布施のちいさな寺に葬られている【ウィキペディア:福島政則】。

また小布施は、江戸時代には天領(幕府直轄領)であり、ものなりがよい割に、地方大名からの搾取がなかったために、実入りがよくて文化度はたかい。すなわち小布施は幕末の豪商・高井鴻山(タカイ-コウザン 1806-1883)が招いた、葛飾北斎、佐久間象山、小林一茶ら、一流文人の交流の地でもあった。

高井鴻山は江戸での遊学時代に葛飾北斎の門を叩いた。そして1842年(天保13)年の秋、北斎83歳が、はじめて小布施の鴻山(時に37歳)のもとを訪れた。このとき鴻山は自宅に「碧漪軒」というアトリエ(画房)を建てて厚遇し、北斎に正式に入門した。
北斎はこの時、一年余りも鴻山邸に滞在したという。鴻山は北斎を「先生」と呼び、北斎は、鴻山のことを「旦那様」と呼び合った。そして1848年(弘化5)、北斎(89歳)は四度目の小布施来訪のとき、このまちの岩松院の天井絵を完成させている。

それにしても、「人生五十年」とされたこの時代、80翁の葛飾北斎は、急峻な碓氷峠を越えて、よくもまぁこの僻遠の地、小布施町まで何度も来訪したものだと感心する。
高井鴻山は明治期にはいってもいきたひとだが、その後高井家は没落して、その跡地の多くを小布施堂が取得して、一部を公開している【ウィキペディア:高井鴻山】。

そんな歴史を背景として、小布施町は隣接の市との合併を拒み、いまでも長野県下高井郡小布施町として独立不羈の精神を発揮している。
そのぶん、景観保存には鋭敏で、だいぶ以前から、消費者金融の店舗、チェーン店レストラン、スーパー・ショップ、コンビニエンス・ストアなどの、彩度のたかい色彩展開や、全国共通の店舗設計にたいして、町の条例をもって、無理のない規制をもうけているようである。
【URL:小布施町公式サイト ようこそ小布施 ウィキペディア:小布施町

《郷里での所用を終えて、長野に善光寺とカタクリの群生地をたずねた》
郷里での所用がおもいのほかはやくすんだ。みやげに義姉から山盛りの蕗の薹をもらった。
これはうれしかった。やつがれ、蕗の薹を信州味噌とあえて、直火焼きする「蕗味噌」のかおりが、早春の信濃をおもうよすがとして大好物だから。


たかやしろ【URL:朗文堂好日録-020 故郷 忘じ難く候

旅の同行者のノー学部は、はるか以前、九州の高校時代に修学旅行で長野の善光寺にきたという。懐かしいのでまた善光寺にいきたいという。そしてどう調べたのか「カタクリの群生地」にいきたいという。
長野までの30kmほどを高速道路で長野市にもどった。
DSCN3746 DSCN3748 DSCN3750 DSCN3751善光寺に着いたとき、チラホラと淡雪がまった。すぐに雪は止んだがひどく寒かった。そのせいか参詣者はすくなく、また参道に軒を張り出して、ずらりとならんでいた土産物屋も整理され、すっきりした分、どこかわびしかった。
〈牛に牽かれて善光寺参り、信濃では 月と佛と おらが蕎麦(うろ覚え)というな……〉
などとかんがえながらあるく。
善光寺では、朝の八時から、夕刻の六時まで、正時ごとに寺男が力いっぱい鐘を撞く。
野鳩だけがあいかわらずおおくて、餌が欲しくて近寄ってくる。
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ご本堂の手前脇にあったはずの「徳本上人トクホン-ショウニン 六字名号碑 南無阿弥陀仏」が、いつの間にか本堂向かって左脇に移築されていた。
はじめてこの独特な書風の碑をみたとき、おおきな衝撃をうけた。それからは僧・徳本トクホンが住持した小石川/一行院をたずね、当時のご住職にはすっかりお世話になった。
当時は徳本上人に関する図書はほとんどなく、いつか徳本上人に関する図書をまとめようとおもいつづけ、いくつかの小論をしるしてきた。ところが近年すばらしい研究書が刊行され、もはややつがれの出番はなくなった。それはむしろうれしいことだった。

それでも30年ぶりになろうか、善光寺のこの碑に接して、血がたぎるおもいがしたことも事実である。【URL:花筏 朗文堂好日録-028 徳本上人六字名号碑 徳本上人画像集

《信州蕎麦を食し、はや咲の櫻をたのしむ》
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長野の櫻-染井吉野が開花期をむかえるころ、このあたりでは、土筆ツクシが顔をだし、菫スミレがひっそりと花をつける。そして櫻だけでなく、杏アンズ、林檎リンゴと、艸花と樹木が妍を競うように咲き誇り、まさに百花繚乱の春をむかえる。
中央通りに味噌蔵でも改造したものか、ちょっとおしゃれな店がならんでいた。その陽だまりに、なんの種類かしらないが、早咲きの櫻が赤みのつよい花をつけていた。先ほど淡雪が舞っただけに、ほんわり幸せな気分になった。
手打ち蕎麦、更級信州蕎麦を食す。やはり旨いなぁ。

《長野市郊外、カタクリの群生地》
どこで、どうやってしらべたのか、九州うまれのノー学部が、長野市郊外に「カタクリの群生地」があるという。やつがれは半信半疑で車をはしらせたが、ほんとうに市内中央から車で10分ほどのところに、「カタクリ」は群れをなして、可憐な紫の花をつけていた【ウィキペディア:カタクリ】。

裾花川の変電所のちかく、カタクリはまったく〈みすずかる〉場所にあった。
信濃の国の枕詞マクラコトバ 〈みすず〉 と 〈みすずかる〉 の紹介には別項を得たいが、ともあれブナの疎林のなかに、落ち葉と枯れ草をかき分けるようにして、カタクリは顔をだし、薄紫の花をうつむき加減にして咲いていた。

変電所からのわずかなあいだにも、菜の花、菫のほかに、マンサクに似た黄色い花をつけた灌木や、地衣類が岩肌をおおっていた。このあたりは川沿いでもあり、適度な湿度があって、風通しのよい場所でもあった。
まだ樹木の若葉は萌えることなく、堅いつぼみのままだったが、このカタクリの群生地は薄紫の花がじつにみごとだった。
いうこと無しの、春 まだあさい 奥信濃路を あわたしく駆けめぐった。

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