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はじめての京劇鑑賞*そのⅢ-A 老北京 中国印刷博物館と紫金城を展望する

《2011年09月 北京爽秋のもと、ノー学部学部がはじめての北京訪問》
09月下旬-10月中旬ころの北京の気候を、「北京爽秋」という。
喉がひりつくような猛暑がさり、寒風が吹きすさぶながい冬までのあいだ、わずかに、みじかい、北京の爽やかな秋のことである。

杭州 ・ 紹興 ・ 寧波 (ねいは ・ ニンボウ) など、江南の浙江省と、黄河上流から中流域の、西安 ・ 洛陽 ・ 鄭州 ( ていしゅう ・ Zhengzhou、古代王朝商〈殷〉の前半期のみやことされる) ・ 安陽 (甲骨文出土地、文字博物館がある。 古代王朝商〈殷〉後半期のみやこ) など、陝西省と河南省あたりを訪問していたノー学部が、ようやく首都 : 北京を訪問した。

折りしも 「 北京爽秋 」 とされるとき。 大空がはろばろと澄みわたり、涼風がここちよい、もっとも麗しい北京がみれる佳いときであった。
北京爽秋 北海公園DSCN2711DSCN2719DSCN2713DSCN2806 DSCN2805北京印刷学院と併設の印刷博物館。 下部は紙型 ( ステレオタイプ ) 型どり製造装置

《観光名所をひとめぐり。そして北京印刷学院と併設の印刷博物館を訪問》
北京がはじめてというノー学部のために、とりあえず、景山公園、故宮博物院(旧紫金城)、北海公園、明の十三陵、万里の長城などの観光名所をひととおりまわった。
やつがれは北京訪問は 5-6 度目になるが、以前のような観光ガイドつきの旅とちがって、それなりの新鮮さがあった。
それでもそんな観光写真をここにご紹介しても退屈であろう。

このとき北京訪問を決意したきっかけのひとつは、「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 への訪問だった。
この施設は1970年代に、写真植字機の開発と導入などで、わが国の関連業界とも接触がみられたが、その後、なぜか情報がほとんど途絶えていた。 その理由を知りたかったし、施設もみたかった。

結果だけをいえば、2011年09月に訪問した 「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 での収穫はすくなかった。
博物館の規模は宏大で、展示品もとてもすばらしかったが、地下の印刷機器の陳列場をのぞいて撮影禁止であり、図録などは 「 未製作 」 ということで入手できなかった。

また交換プレゼントに小社の図書を相当数用意して、現役の教育者との面会をもとめたが、それも2011年09月の最初の訪問のときは実現しなかった。
【 リンク : 花筏 新 ・ 文字百景*04 】

さらになさけなかったのは、上掲写真のうち、地下展示場の 「 紙型製作機 」 にもちいる巨大なブラシ ( 手づくり ) の未使用品を小社が保有しており、4-5年にわたって壁にぶら下げていた。
もちろん販売だけを目的としたものではなかったが、残念ながらタイポグラファを自称する皆さんでも、ほとんどこれに関心をしめさなかった。 それも当然で、名前を知らず、用途も知らなかったのだから、簡単な説明だけではただのおおきなブラシとおもわれても仕方なかった。

 ところがこのブラシをみて、奪いさるように強奪 !?  していったのは、パリにアトリエをもつ版画家の某氏であった。 このかたは版画家ではあるが、個人で 「 スタンホープ型手引き活版印刷機 」 を所有されている……、つまりタイポグラファでもある。 当然このブラシの名称と用途もご存知だった。 その上で、現在の使用環境にあわせての利用を目的とされた。

誤解をおそれずにしるせば、わが国のタイポグラファの多くは、単なる 「 活字キッズ 」 がほとんどで、実技と実戦がなく、またシステムとしての印刷と技芸という、本来のタイポグラフィへの関心が乏しいのは物足りないものがある。
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それでもあきらめずにいると運は拓けるもので、下掲写真は翌翌年の2013年11月、友人の紹介をえて、中国印刷博物館に副館長/張 連章 ( Zhang Lian Zhang ) 老師を訪問したときのものである。
ノー学部にとっては二度目の北京訪問となった。 このとき北京ではすでに「北京爽秋」とはいえず、
11月初旬でも朝夕などはコートが欲しくなるほど冷え込んでいた。
中国印刷博物館正面ロビー中央の銅像は、中国のタイポグラファが 「 活字版印刷術発明者 」 としてきわめておもくみる 「 畢昇 ヒッショウ 像 」 (990-1052) で、下掲写真はその銘板である。
畢昇像畢昇銘板〔 畢昇の発明による活字版 —— 意訳紹介 〕
畢昇像 —— 畢昇(ヒッショウ 990-1052)は 北宋 淮南ワイナン ( 現在の湖北省黄岡市英山県 ) のひと。
ながらく浙江省杭州にあって木版印刷に従事した。 宋王朝仁宗 (趙 禎) の 慶歴5年 (1044)、膠泥コウデイ製の活字による組版をなして、活字版印刷にあたらしい紀元をもたらした。 畢昇は印刷史上 偉大なる発明家である。

〔 筆者補遺 〕
中国印刷博物館では、畢昇の功績はきわめてたかく、500年ほど遅れて開発に成功したグーテンベルクよりも、畢昇のほうを数等たかく評価していた。
したがって畢昇に関する研究も相当すすんでいて、館内には大きなスペースをもちいて、畢昇の膠泥活字の製造作業を、ていねいなジオラマ ( 復元模型 ) によって展示 ・ 解説していた。

1990年 ( 平成2 ) 畢昇の墓誌が発見され、没年が1052年であることがあきらかになったが、生年は970年説、990年説などと異同がある。
わが国では活字創始者/畢昇のことは、ほとんどおなじ時代の北宋のひと、沈 括 (シン-カツ 1030-94) の 『 夢渓筆談 』 のわずかな記述を出典とするが、そろそろ新資料にまなぶときかもしれない。

ここでいう「泥」は、わが国の土の軟らかいものとはすこし異なる。 現代中国では 「 水泥 」 としるすとコンクリートになる。 したがって 膠泥 コウデイ とは 膠 ニカワ が溶解してドロドロしたものと理解したい。
この膠泥は、なににもちいるのかは知らないが、現代中国でも容易に入手できるので、一部の好事家は 「 膠泥活字 」 の再現をこころみることがある。 もちろん成形後は乾燥だけでなく、焼成していた。
リンク : 中国版百度百科 畢昇膠泥活字 図版集 】 【 リンク : 中国版百度百科 畢昇(活字版印刷術発明者) 】

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《美華書館と、後継企業としての華美書館 ・ 商務印書館の消長》
このときは印刷博物館副館長 ( 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 。 館長は共産党幹部で、実質的な責任者 ) との同道だったので、館内の撮影もゆるされたが、300枚を優にこえる膨大な数量の写真となった。 しかも広い館内を駆けまわってのシロウト撮影だったから、整理にもう少し時間をいただきたい。

中国では1937-1945年までの日中間の微妙な紛争を 「 抗日戦争 」 と呼ぶ。 わが国ではその前半部分を 「 北支事変 」、「 上海事変 」 などとし、後半部分を 「 大東亜戦争 」 することが多い 【 ウィキペディア : 日中戦争 】。

併設の 「 北京印刷学院 」 は、こうした 「 抗日戦争 」 を主要研究テーマのひとつとした 「 愛国教育 」 の拠点校である。
それを受けて 「 中国印刷博物館 」 では、中国各地の印刷所と図書館を標的とした、旧日本軍による砲撃のなまなましい惨禍を、文書 ( 印刷物 ) や写真として記録 ・ 所有 ・ 展示していた。 これらの資料の閲覧にはかなりつらいものがあった。

その一例として —— 温厚な張 連章氏が、このときばかりは表情もけわしく、詳細に説き、みせてくれた資料がある。
それは 「 上海商務印書館と 付属図書館 」 にたいして、旧日本軍が至近距離から照準をあわせ、砲弾をあびせて、印刷機器、活字鋳造設備、活字在庫などを焼失させた数枚の写真であり新聞であった。
また付属図書館では、稀覯書をふくむ、蔵書数十万冊が焼失したという詳細な資料だった。

わが国では、英米系の宗教印刷所 「 美華書館  The American Presbyterian Mission Press 」 が喧伝されるわりに、この 「 商務印書館と 付属図書館 」 と、これと双璧をなす 「 中華書局 」 に関しては知るところがすくない。
既述したように、上海の 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 の施設の大半は、わが国の砲撃によって焼失したが、北京の施設が健在で ( いずれ紹介したい )、それを基盤として発展し、現在もなお両社ともに、中国最大級の印刷会社であり、出版社でもある。

1915年(大正4年)美華書館は中国系資本の 「 華美書館 」 と合併した。 この 「 華美書館 」 は1928年(昭和3)に清算されて、美華書館に発し、華美書館に継承された設備は、すべて商務印書館に譲り渡され、人員の多くもここに移動したという歴史を有する企業である。

すなわち……、まことにつらいことではあるが、わが国は、「 明朝体活字のふるさと 美華書館 」 の上海での後継企業を、目標を眼前に置き、至近弾をもって砲撃して、ほとんど壊滅に追いこんでいたのである。
それを言い逃れのゆるされない、大量の資料を眼前にして知ったとき、1990年ころ、上海での印刷人の取材に際して、かれらが一様に示した、つよい反発の因ってきたるところを熟慮しなかったおのれが恥ずかしかった。
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その際 「 宣戦布告無き、激しい戦闘 」 が上海で二度にわたって展開した。
そのためにこの戦闘は 「 上海事変 」 とされるが、実態は、砲爆撃をともなった、まぎれもない中華民国軍と日本軍との戦闘であった。

「 第一次上海事変 」 (1932年 昭和07年 1-3 月 )【 ウィキペディア : 第一次上海事変 】、「 第二次上海事変 」 (1937年 昭和12年8月13日-)【 ウィキペディア : 第二次上海事変 】、この二度にわたって、中華民国軍と日本軍は上海を舞台にはげしく衝突した。

そのときの 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 への砲撃による 痛痛しい焼損印刷機器が 「 北京印刷博物館 」 に展示されていた。
また砲撃で焼失した図書館の蔵書のなかには、宋版 ・ 元版などの稀覯書はもとより、孤本( 唯一図書 ) も多かったとする写真と文書記録がのこされていた。 言いのがれのできない蛮行であり、文化的損失であった。

かつて、「 失われし、ふるき、よき印刷所-明朝体活字のふるさと 」 として、「 美華書館 」 を称揚し、その現地探訪記として 『 逍遙 本明朝物語 』 ( 1994年03月16日 ) までしるした責任がやつがれにはある。

ふりかえれば取材をかさねていた1980-90年のころ、当時は 「 失われた歴史のロマン 」 として 「 美華書館 」 をとらえ、まことに呑気なことに、「 破壊してしまった 」 その跡地をたずね、さらにノー天気なことに、資料のすくないことを慨嘆していた自分が恥ずかしくもあり、その消長への問題意識にかけていたことをおおいに反省せざるを得ないいまなのである。

写真とはこわいもので、「 中国印刷博物館 」 二度目の訪問でのやつがれの表情は硬い。
【 ウィキペディア : 美華書館】。 【 ウィキペディア : 美華書館画像集 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館図像集 】

しかしながら、上海事変による美華書館の後継企業たる、「 商務印書館 」 へのはげしい砲撃のことは、やつがれはこのときはじめて知った。 もちろん看過はできないが、いまのところやつがれの手にあまることがらである。
さりながら、小論での提示とはいいながら、その後 「 美華書館 」 をめぐって、広範な影響をあたえ、さまざまな歴史発掘にいたった小論 『 逍遙 本明朝物語 』 のときと同様に、これから 「 商務印書館 」、「 中華書局 」 などを紹介し、こころざしある有識者とともに、タイポグラフィの進化と深化にむけた努力をなすことが、「美華書館」へのあまりに過剰な称揚の先がけをなしたひとりとして、やつがれがわずかながらも責任をとることのひとつとしたいとおもうこの頃である。
2013 11再訪時 畢昇像 印刷博物館再訪写真右より  邢 立 氏 Xing Li 、 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang

《中国 印刷博物館に展示されている、中国における活字原型の製造法の概略史》
DSCN1314 DSCN1315 DSCN1326 DSCN2810[書きかけ項目]
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《北京紫禁城(故宮博物院)を、裏山の景山公園からみる》
紫金城の裏手に、風水をおもくみる中国明王朝が、邪気の流入をきらって、城の真北に築いたとされる人工の山が景山である。高さは90メートルほどで、さほど高くはないが、山頂からは瑠璃色ルリイロの甍イラカが照り輝く、宏大な紫禁城と、北海公園を一望できる。

ついでながらノー学部がはじめて中国浙江省、紹興・寧波・杭州などに旅したときのことである。
「杭州・紹興空港」からタクシーに乗り、いきなり紹興にある、戦国春秋時代の越王の城跡とされる「府山公園」にいった。
タクシーを降り、ドライバーともども、路地の「ニーハオ・トイレ」に飛びこんだが、「府山公園」は三度目となるやつがれでも、女子トイレのことは無知である。詳細はあえてしるさないが、どうやらノー学部はトイレで逆向きに座ったらしい。したがって、近在のおばさんと仲よく「ニイハオ」とはいかなかったようである。

今回も北京について、旅装もとかず、はじめて、しかもいきなり訪れたのが、この景山(公園)であった。やつがれは、もともとこんな登山路のような坂道は苦手とするので、景山に登ったのははじめだった。
断っておくが、これらのスケジュールは、みんな、勝手に、ノー学部が策定して、一行の空きもないエクセルプリントを押しつけたものであるからして、やつがれには他意はない。

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南京を都としていた明王朝第三代皇帝永楽帝(朱 棣シュテイ 1402-24)は、当時は燕京エンケイや大都ダイトといっていたこの地に都をうつして「北京」と称した。
永楽14年(1416)、紫禁城の築城にあたり、元王朝が築いてあった城跡を撤去した残滓と、城をとりまく護城河(水壕)の開削ででた残土を堆積したものが景山のはじまりだという。

この景山の槐カイの木に帯をかけて縊死した悲劇の皇帝がいた。
明王朝16代永暦帝(朱 由校 1620-44)は、崇禎17年(1644)3月19日の払暁、宦官カンガンの王承恩と共にひっそりと紫禁城を抜け出し、裏の景山に登り、槐の樹に帯を吊るして縊死した。
縊死の前夜、周皇后はすでに自死していた。永暦帝は永王と定王のふたりの皇子に、平民の服を着せて紫禁城から逃れさせた。そして娘の長平公主と昭仁公主は崇禎帝自らの手で刺殺した。観念して手を合わすふたりの愛娘に、崇禎帝は目を閉じて剣を突きだしたという。

このとき、国内は凶作と官僚の腐敗によって麻のようにみだれ、西方からは荷物運搬の駅卒だった李 自成(リ-ジセイ 1606-45)が、陝西省・河南省を中心とする農民兵50万余をひきいて北京を取り囲んだ。
また東北部で勃興した女真族(満州族)は、武将ヌルハチ(愛心覚羅弩爾哈赤 アイシンカクラ-ヌルハチ 1559-1626)と、その子ドルゴン(睿親王 1612-50)らに率いられ、大挙して長城の東端「山海関」に押しよせ、関をはさんで明帝国軍の武将:呉 三桂(ゴ-サンケイ 1612-78)と対峙していた。

これらの東西からの「賊軍」の襲来にたいして、崇禎帝は重臣を集めて方策を問うたが、たれもが黙して語らなかった。そこで崇禎帝は、
「朕は亡国の君にあらざれど、汝ら臣は、ことごとく亡国の臣なり」
と、吐き棄てるようにいうと、宮殿内の自室にとじこもってしまった。

結局万策尽きて景山で自死した崇禎帝に殉じたのは、たったひとりの宦官にすぎず、ここに明王朝は事実上滅亡した。崇禎帝の縊死した場所には「壽皇亭」が創建され、そこには何代目かになる槐の樹が植えられていた。遺書には、
「賊が朕チンの屍を八裂きにしようとも、それは朕の厭うところではない。ただ願わくは百姓[民衆]の一人たりとも傷つくること勿れ」
と書いてあったとつたえる。

しかしながらほとんどの高官は、李自成が建朝した「順帝国」につかえ、ついで、呉三桂が建朝した「後周王朝」にもつかえた。
このふたつの王朝は一年余でそれぞれ崩壊したが、その跡をおそった異民族(満州族)による王朝「清王朝」にも、かれら漢族官僚のほとんどは平然としてつかえた。 
官僚とは為政者に尽くすものであり、百姓/民衆に尽くすものでは無いらしい。このわずか4-5年のあいだ、明末清初と呼ばれる時代の中国史はきわめて興味深いものがある。

景山からは、真下に紫金城の北門にあたる「神武門」がみおろせる。その先には内廷と外朝が一直線につらなり、その左右には無数の楼閣がならぶ。
その手前左側の一画が、おもに清王朝乾隆帝(愛心覚羅弘暦 1735-95)が居住した地域で、ここに京劇の舞台と観劇場「樂寿堂」がある。
DSCN2857 DSCN2859景山からは「北海」(公園)も一望できる。この北海のほとりに蒙古族の王朝:元の宮殿があったとされる。
またこの池沼は「北海」「中海」「南海」と細長くつらなっており、かつては池のほとりに皇族や高官の邸宅がならんでいた。現在は「中南海」地区には中国政庁がたちならび、一般人は立ちいることはできない。 
北海のほとりには、乾隆帝の創建による「世界最古のギャラリー」とされる「閲古楼エッコロウ」がある。
白くておおきな塔は、清王朝の実質的な初代皇帝:世祖順治帝(愛心覚羅福臨 1643-61)がラマ教(チベット教)の信者であって、その発願によって1651年に建立された「白塔」である。数度の修復を経ているが、いまだにラマ教寺院として信仰をあつめている。

《やはり天安門を中心に、天安門広場、前門、瑠璃庁ルリチャンなどの紹介》
北京を紹介するとなると、やはり天安門を避けては紹介できない。
景山を降りて、タクシーにのり、天安門一帯をぐるりとめぐる。このときのホテルは天安門から徒歩10分ほど、老北京のおもかげを色濃くのこす「胡堂 フートン」を改装した、ペンションのような、ちいさなホテルであった。
「胡堂 フートン」とは、わが国の長屋に似て、庶民の住居であるが、長屋とはことなり、「ロの字型」に民家が密集し、中庭にあたる部分には井戸があり、その脇に棗ナツメや槐カイの古木がそびえている。やつがれはここの棗の木陰のベンチで紫煙をくゆらすのを無上のよろこびとした。

ホテル到着までのあいだ、タクシーに天安門広場をぐるりとまわってもらった。毛沢東の遺影でしられる天安門ではあるが、天安門は紫金城にあった多くの門のひとつであり、紫金城にはいるには、天安門から端門をくぐり、ようやく正面正門ともいえる、堅固で威圧感のある午門にいたる。ここで入場券を買い、セキュリティー・チェックをうけてからようやく紫金城にはいることになる。
現在は東の入口「東華門」、西の入口「西華門」は一般人は出入りできず、一般人は南の「午門」からはいり、北の「神武門」から出るという「一方通行」になっている。

なにしろ経済成長著しい中国である。もちろんいまなお困難な問題をたくさんかかえ、それでも歴史上まれな、人口十二億以上の民草が飢えないで いる、おおきな、そしておおきすぎる国である。
北京はじめて —— 新鮮かつ率直なノー学部の驚きの写真をもって今回をおえたい。
次回は「紫金城/故宮博物院」内部、楽寿堂と三希堂を中心に、乾隆帝の治世と、武英殿を中心に康熙帝の治世を紹介したい。 

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はじめての京劇鑑賞*そのⅡ 老北京 梨園劇場

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《2014年01月16日[木]、商用にて北京を訪問》
羽田発09:25 全日空NH1255便でのフライトだった。だから早朝から目をこすりながら羽田にかけつけた。
チケットはネットで安いチケットをとったため、ルックJTBの団体チケットだという。団体旅行は苦手なので抵抗したが、空港からホテルまで送ってくれるし、ともかく安いのだという。
むかしはこの団体送迎バスがくせ者で、お土産物やなどに連れていかれて閉口した。

羽田-北京までのフライト時間は、羽田-北京がおよそ4時間、北京-羽田がおよそ3時間半となる。重度喫煙依存症のやつがれにとって、この4時間の禁煙強制は限界にちかい。近いようで遠いのが中国である。往復に差があるのは偏西風の影響によるらしい。
機内ははやくも春節(旧正月)で帰省する中国のひとで満員。機内いっぱい賑やかに中国語が飛びかっていた。
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JTBの団体ときいていたが、同行は吾吾ふたりだけで、出向かえてくれたガイドと、運転手つきの10人乗り、おおきなマイクロバスがおもはゆい。道中心配していた土産屋に寄ることもなく、無事北京城地内の日航ホテルこと、「京倫飯店 JINGLUN HOTEL」に直行。
ここ数回、北京のホテルは「胡堂 フートン」を改造した、あたらしいペンションのようなところに宿泊していたので、大型ホテルはかえって落ち着かない。

ホテルで荷物をとき、ホッとしたのは夕方の04時ころだが、日本と中国には1時間の時差があるので、現地時間ではまだ午後3時ということになる。そこで部屋に備え付けの、おめでたい蝙蝠コウモリ模様でいっぱいの茶器で、午後のお茶を一服。
DSCN2775 DSCN2777 DSCN2782《午後の散策 「中国国際貿易中心センター」、「国貿飯店ホテル」。クリスマスとお正月がいっしょに 》
日航ホテルこと、ホテル「京倫飯店 JINGLUN HOTEL」では、さすがにBSテレビでNHKがみれたが、せっかくの中国でテレビを、ましてNHKをみてもつまらない。そこで晩ご飯のレストランを探しながら、ホテルの周辺を散策することにした。
「京倫飯店 JINGLUN HOTEL」は地下鉄01号線、永安里駅と国貿駅の中間で、どちらからも徒歩で5分ほど。国貿駅は「中国国際貿易中心センンター」と直結している。

なにぶん昇竜の勢いの中国だから、地下商店街には世界の有名ブランドが競って出店していた。かつてわが国の銀座や新宿の繁華街を占拠していたこれらの店舗は、こんなところに移動していたのかと驚いた。
そんな一画に、紀伊国屋のような高級食材店があって、そこには日本の食材、それも生鮮食材がたくさん列んでいた。育児用粉ミルクなどは日本製が多いとはきいていたが、お菓子はもとより、日本製をうたった野菜や果物が豊富にならんでいた。

「中国国際貿易中心センンター」は、東京ビッグサイトというか、幕張メッセのように広大な敷地であり、しかも地下街を中心に歩いたので、地上にでたら方向を見失って、併設の「国貿飯店ホテル」に入ってしまった。
脚が棒になってくたぶれていたので、ホテルのロビーでしばし休憩。
なかなかにして豪華なホテルだったが、ロビーに燦然と黄金色に輝く、一対の「金の成る木」がデンと鎮座していた。あまりに正直というか、いかにも現世利益を重くみる中国ならではの風景だった。
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 《梨園劇場でふたたび京劇をみる》
北京城区前門の近く、梨園劇場(宣武区永安路175号前門建国飯店1階 公演時間:19:00-20:40)にいった。ここは前回の湖廣會館とはちがって、近代ホテル「建国飯店」の一階にある劇場である。
こちらも客席は閑散としていた。開演前に役者のメイク実演などもあり、わかりやすいといえばそれまでだが、なにか違うなという感じ。やつがれは、役者は舞台でこそ勝負して欲しいし、楽屋や楽屋裏なぞはみたくもないほうであるから……。
ただしわが国の「京劇 口コミ」では、楽屋までいって役者と写真まで撮れた……など、湖廣會館より好評だった。

DSCN2643 DSCN2639 DSCN2660 DSCN2632 DSCN2624 DSCN2646 DSCN2685 DSCN2701 DSCN2706 DSCN2699 DSCN2695 DSCN2699 DSCN2693湖廣會館とおなじく、やつがれ、シモテ最前列で観劇した。残念だったのは弦楽器はこれみよがしに前面にでてきていたが、京劇の最大の魅力、煩いまでに鳴り響き、役者とともに演技を盛りあげる打楽器はテープで流れていた。したがって役者は、テープのリズムに無理やり合わせて躍っていた。
歌舞伎でいう「荒事」のように、動きが激しいうちはまだよかったが、後半の「世話物」のような、ゆったりとした芝居となると、テンポも、リズムも崩れており、メリハリにも欠けて、もういけなかった。
ありていにいうと、やつがれ後半はいつのまにか眠っていた。

《友人に前夜の芝居をこぼしたら、こんど本当の京劇をみせてくれるという……》
翌日[金曜日]は早朝から夜まで仕事だった、その合間に昨夜の京劇鑑賞のことをはなしたら、
「北京には、湖廣會館、長安大戯院、正乙祠戯楼、梨園劇場などで京劇をやっていますが、これらは観光客向けです。こんど、民衆の、本当の京劇にご案内しましょう」
といってくれた。友人は最初は版画印刷や石版印刷の専門家だったが、いつのまにかすっかり活版印刷術 ≒ タイポグラフィに方向を転じてきている。嬉しくもあり、困ったものでもある。

結局友人は翌日の休暇、土曜日一日を、やつがれらといっしょに「老北京 —— ふるき よき 北京」をたずねて、ガイドブックには載らない各所をいっしょにあるいた。
別れ際に、ちいさな本『毛首席最新指示』を手渡してニヤリとした。
「あのころはいささか暴走したけど、面白いことが書いてある。しかもこの図書のおもしろいところは、毛首席が好きだった活字書体で組んであることです」
毛沢東が好きだったという活字書体……。これはいずれ詳しく紹介したいが、ここにはとりあえず、『毛首席最新指示』を紹介しよう。
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はじめての京劇鑑賞*そのⅠ 老北京 湖廣會館

中国北京の京劇劇場、湖廣會館(湖广会館、Huguang Huiguan 中国北京市宣武区虎坊路3号 日本語予約:85892526 公演時間:19:30-20:40)は、1807年の開設というから、わが国では江戸中期、文化4年の開設ということになり、世界でももっともふるい劇場のひとつとされている。
また京劇の名役者として名をのこした 梅 蘭芳 (メイ・ランファン、1894-1961)もこの舞台にたっていたという。DSCN0457 DSCN0456 DSCN0354 DSCN0369 DSCN0363 DSCN0360 DSCN0355外観からはわかりづらいが、湖廣會館は中国によくみられる様式で、奥にいくほど、ひろく、おおきくなる。
劇場は三層、観客定員一千人ほど。
かつてこの建物で、1912年(明治45年・大正元年)に、ラストエンペラー、清朝宣統帝・溥儀にかわり、辛亥革命に成功した孫文らが北京に乗り込んで、「国民党決議会議」をひらいた場所としても知られている【リンク:中華民国の歴史】。

もともと、芝居、コンサート、バレエなどを、ナマで、劇場でみるのが好きである。歌舞伎の世界には、松本錦吾(三代目 1942-)という悪友がいて、何人かの役者とも親しかったので、しばしば改築前の歌舞伎座にかよった。それがやつがれ、数年前に破傷風での高熱がもとで特発性難聴(原因不明とされる難聴)となり、ほとんどのライブ公演や演奏会から遠ざかっていた。
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商用のためにときおり北京を訪問している。午前10時に相手先の会社を訪問するためには、前日の出発となり、その夜は現地宿泊となる。なにか中途半端な気分で時間をすごす。
老北京 —— ふるき よき 北京の風情をたずねて、ホテルの近くを散策したり、旨いレストランをたずねるのも一策だが、ひさしぶりにライブ好きの蟲が騒いだ。
「そうだ、まだ京劇をみたことが無いなぁ。時間もちょうどいいし、きょうは京劇をみよう」
DSCN0397 DSCN0402 DSCN0398 DSCN0399tori DSCN0414案内された席はシモテ(舞台向かって左側)の最前列。料金はお通し? つきでJP¥3,000位から。観劇はなにも最前列でなくてもよいが、シモテ側が好きである。歌舞伎でもそうだった。
役者はカミテに向かって大半の見栄をきるが、その際カミテ袖にひかえた楽隊と視線を合わせながら、絶妙のタイミングでカミテにむかって見栄をきる。その呼吸の見合いを見られるのはシモテの観客の特権である。

舞台におけるカミテとシモテは、演者と観客では逆になるのでわかりづらいが、俗にピアノ演奏会にたとえて「ピアニッシモ」とされる。ピアノの演奏者が座るのはシモテで、グランドピアノはカミテに向かって設置されるからであろう。
音を聴くだけならカミテがよいが、ピアニッシモで演奏者が繊細に鍵盤を操作するのをみれるのはシモテ側である【リンク:上手と下手】。かつて松本錦吾氏は、ときおり桟敷席の切符をゆずってくれた。
「カミテの桟敷と、シモテの桟敷、どっちにする?」
「シモテがいいな」
「オッ、ツウぶっているな」
そんな会話が懐かしい。ただしシモテ桟敷に座ると、花道での役者の演技のほとんどを、お尻だけをみることになるのは残念だが……。
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京劇は18世紀中国での発祥とされる。にぎやかに酒を呑み、食事をしながら、かけ声も盛大に飛びかって、舞台と観客が一体となって盛りあがったそうである。それがご多分にもれず、文化大革命のときに京劇も批判にさらされ、まだ本格恢復にはいたっていないようであった。
湖廣會館には、レストランをはじめ諸施設があって、ひとは多かったが、劇場は写真でご覧のように、やつがれらのほかには日本人の姿は無く、隣席にイタリア人のグループ、ドイツ人の老カップル、後部席に10名ほどの中国人程度の観客で、役者と楽隊の人数のほうが観客より多いほど閑散としていた。

舞台袖には電光掲示板があり、中国語と英語で粗筋が表示されていた。演目もわかりやすい、平易なものを選んでいるようだった。それでもそんな掲示板の表示をみるまでもなく、ともかく熱演で、文字どおり汗が飛びちるのがありありと見てとれた。
帰国後にネット上の「京劇 口コミ」をみたが、意外なほど辛口の批評が多かった。こういうところに投稿するひとは、わが国の歌舞伎や文楽を見たうえで投稿しているのだろうかとおもえた。
もし読者の皆さんが京劇を鑑賞されるのなら、あらかじめ加藤 徹トオル 《はじめての京劇鑑賞》 【リンク:加藤徹/はじめての京劇鑑賞】のご一読をおすすめしたい。とてもわかりやすく説いてある。
やつがれは、ともかく何度も鳥肌がたつような感動におそわれた。

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観劇のあと、隣接している大衆レストランに飛びこんだ。中国の長江(揚子江)、淮河ワイガより北では、米はほとんど収穫できず、おもに麦を育てている。したがって北京では、お米より饅頭 マントー が主食となる。これがまた旨いのである。DSCN0453 DSCN0448 DSCN0450小籠包、野菜炒め、お茶をオーダーした。野菜炒めは旨かった。
ところが……、メインディシュ ? として出てきた小籠包がこれ! 小籠包というよりも、肉饅頭ニクマントーではないか!? しかも最少量を注文したはずであるが……30個もあるではないか !? 
唖然としたが、食べたら旨かったので4ヶを食した。のこりはパックに入れてもらってテイクアウト。

アメリカと中国、ともにレストランでのボリュームにはおどろかされる。もちろん一部ではあるが、アメリカ人はそれをあたりまえのようにペロリと平らげ、そして「命がけのダイエット」として、朝な夕なにランニングをしたり、投薬にまで頼っている。
ところが中国人は(もちろん一部ではあるが……)、それを平然としてのこす風がある。
どちらもよくわからない……。 こうして北京の第一夜は更けていった。あすは早朝から仕事がまっている。