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【展覧会 予告】萩博物館|明治維新150年記念特別展 第 1 弾|手塚治虫が描いた明治維新|9月15日-10月14日

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明治維新150年記念 特別展 第 1 弾  終了企画

手塚治虫が描いた明治維新
開催期間  2018年9月15日[土]-10月14日[日] 会期中無休
開館時間  午前9:00-午後5:00   * 入館は午後4:30まで
観  覧  料  大人510円、高校・大学生310円、小・中学生100円
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深海魚ファンでの大盛況の「萩博物館夏期特別展 深海魚大行進」(9月2日まで開催)。その萩博物館が、次回展の予告をアップ。
なんと「明治維新150年記念特別展 第 1 弾 手塚治虫が描いた明治維新」とあった。

手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治-読み同じ、1928-1989)は、日本の漫画家、アニメーター、アニメーション監督。 大阪帝国大学附属医学専門部を卒業、医師免許取得、のち医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画の草分け存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身(出生は 大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)。

この手塚治虫の曾祖父にあたる人物に、幕末から明治初期に活躍した西洋医学者:手塚良仙がいた。[『日本人名大辞典』講談社]から紹介する。

【手塚良仙 てづか-りょうせん 1801−1877】
幕末-明治時代の医師。
享和元年生まれ。手塚治虫の曾祖父。大坂の適塾でまなび、安政5年「江戸お玉ケ池種痘所」設立に協力。文久3年歩兵屯所医師。
明治10年陸軍軍医として西南戦争に従軍。赤痢にかかり同年10月10日死去。77歳。
その生涯は手塚治虫によって「陽だまりの樹」にえがかれた。江戸出身。

20180811201014_00001 20180811202300_00003 20180811202300_00001『陽だまりの樹』全7巻 著者:手塚治虫 1988-1989年 小学館

最終巻の第7巻のカバー写真は、刊記に「カバー写真提供:手塚治虫(手塚良仙肖像画)」とある。
またその対抗ページの最終コマには以下のようにしるされている(手塚良仙の生没年には若干疑問がのこる。萩博物館の研究を待ちたい)。
「その年〔明治10年〕、手塚良仙は九州の地で赤痢に罹り、大坂の病院へ送られて死んだ。行年五十一歳であった。私、手塚治虫は彼の三代目の子孫にあたる」
DSCN2784-768x1024江戸・東京 活版さるく 訪問先
27 お玉ヶ池種痘所 跡
所  在  地  千代田区岩本町2丁目 (もと勘定奉行川路聖謨旧私邸内)
標  示  物  「お玉ヶ池と種痘所跡」標柱(東京大学医学部建立)、記念プレート、解説板
概  要  安政5(1858)年5月に江戸の蘭方医83人が出資して、神田お玉が池に「種痘所」を設置した。この土地はのちに累進して幕府勘定奉行筆頭となった川路聖謨(かわじ としあきら 1801―68)が、かつて所有していた私有地を提供したと伝えられている。
しかしこの地での「種痘所」は、同年11月、開設からわずか半年にして火災により類焼したため、大槻俊斎(おおつき しゅんさい 1806―58)と、伊東玄朴(いとう げんぼく 1801―71)の家を臨時の種痘所とし、その後神田和泉町へ移った。→ ●43、●42
[参考: 活版アラカルト〔イベント〕メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-06 <江戸・東京 活版さるく>訪問地:お玉が池種痘所

手塚治虫『陽だまりの樹』は、<江戸・東京 活版さるく>でも話題となり、「活版カレッジ」修了生のあいだで広く読みつづけられている。そして<江戸・東京 活版さるく>の報告が、近〻印刷物となってまとめられる段階まで進行している。

萩博物館は、「日本工学の父:山尾庸三展」、「日本鉄道の父:井上 勝展」のころから熱く注目してきた博物館である。こんどは手塚治虫をつうじてどんな切り口で維新史を綴ってくれるのか、おおいに期待して見守っていきたい。

【詳細: 萩博物館