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【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 18】 『東来和歌之碑』 全文釈読紹介 長崎諏訪公園噴水広場 

長崎バーナー

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安中半三郎  ◎ 長崎公園噴水広場(上西山町1-1他) 『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)

長崎公園は、明治6年の太政官布告により制定された長崎で最も古い公園である。
秋には「長崎くんち」で著名な諏訪神社と合わせ、「諏訪の杜」として、中心市街地でありながら、樟を中心とした常緑照葉樹の巨木がしげり、自然に囲まれた閑静な雰囲気のある憩いの場として市民に親しまれている。
その一画に日本最古といわれる装飾噴水があり、石灯籠とならんで、いくつかの碑が建立されている。

噴水広場の中心をしめるのは、『池原翁元日櫻長歌幷短歌碑』(大正3年7月建立)である。
この碑に関しては春田ゆかり氏が「書と活字のはざまにいた池原香穉」『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代活字文化保存会編 2003年9月30日)をあらわし詳述している。

噴水のかたわら、山際にふたつの碑が寄りそうように建立されている。
ひとつは『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)で、ほとんどの資料には「長崎文庫や盲唖学校の創始者である、安中東来(半三郎)の和歌35句が刻まれている 」程度の解説をみる。
ひとつは『月の句碑』(長崎俳画協会 昭和63年10月16日建碑)で、「俳人向井去来と山本健吉を讃える碑」とされている。

安中半三郎(あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい  1853年12月29日[嘉永6年11月29日]-1921年(大正10)4月19日 享年69)は、たしかに長崎文庫の創立により、現長崎県立図書館の創立者のひとりとされる。
また安中半三郎氏を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」が創立され、それは現在の長崎県立盲学校、長崎県立ろう学校につらなっている。
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このように事業家・慈善家・篤志家といった一面のほかに、安中半三郎は
明治期長崎がうんだ稀代の奇妙人・酔狂人であり〝ふうけもん〟ともされた。
とりわけ「安中書店・虎與號 トラヨゴウ 」での出版活動、大阪に谷口黙示らが下阪し、平野富二らが東京に上京したのちの長崎活版製造所において、西道仙・松田源五郎らと編集・刊行にあたった第一次『長崎新聞』など、出版・印刷人としての側面も順次紹介したい。

今回は「長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN」から、まず、「故本木昌造翁の功績を追懐して贈位報告祭に活句をよみて奉る 長崎素平連」。筆蹟 テ は安中半三郎のものかどうか判明しない。

活字版 櫻木よりも 世に薫り   東  来
統合安中半三郎狂歌◎ 長崎公園噴水広場(上西山町1-1) 『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)
!cid_6AC995D2-53A7-4D09-A25B-A6F4E50A4BEF !cid_EC83C279-446A-47AC-BA75-5D024AF4F963 !cid_1140D8C2-683C-4C9D-9A63-BA89FF00FE4D歌碑『東来和歌碑』は、碑面の損傷がおおく、またいわゆるお家流風の流麗な筆致で書されているため、これまで35句におよぶ碑文の紹介がなされることがすくなかった。
歌の製作者としては、末尾にわずかに安中半三郎の号「東来」があるが、碑文の建立者、年度などはみられない。
これは安中半三郎独特のテレもあったろうし、『類代 酔狂句集 初編』(編輯兼出版人:安中半三郎 長崎市酒屋町四十四番戸住居 明治17年4月出版)をあらわし、事業家・篤志家としても著名だった半三郎にとっては、明治中期-大正初期にかけては、「東来」の号だけで長崎市民には十分だったのかもしれない。

さいわい、資料:『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)に長崎の金石文の多くを活字文章におきかえた記録がのこっていた。また本稿には春田ゆかり氏のご協力もいただいた。
この釈読はおもに同書によったが、もとよりこの分野は専門ではない。誤謬にはご叱正をたまわれば幸甚である。

【 関連 : 花筏 【字学】 『安中翁紀念碑』より 明治長崎がうんだ出版人・印刷人・慈善家・篤志家にして〝ふうけもん〟安中半三郎  】
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