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【字学】 『株式会社秀英舎 創業五十年誌』より 秀英舎は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海・保田久成らにはじまり、こんにちの大日本印刷につらなった

Print創業50年誌 創立者
『 株式会社秀英舎 創業五十年誌 』
B五判 上製本 120ページ 基本 : 活字版印刷 図版 : コロタイプ、オフセット平版印刷

[奥付刊記]
昭和二年三月十五日 印刷
昭和二年三月二十日 発行         非売品
発行者  株式会社 秀 英 舎
       右代表  杉山 義雄
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
印刷者  佐久間衡治
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
印刷所  株式会社 秀 英 舎
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
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由来

 

       社名及商標ノ由来

吾カ秀英舎ノ名称ハ幕末ノ偉人勝安房伯ノ命名セル所ニシ

テ創業当時伯ハ舎長佐久間貞一ニ対シ将来英国ノ右ニ秀ツ

ル意気ヲ以テ事業ノ発展ヲ期セヨト激励シ毫ヲ揮ヒ秀英舎

ノ三文字ヲ題シテ与ヘラレタルニ由来シ其ノ商標ノ生字ハ

秀英ノ反切ニシテ創業発起人安田久成ノ起案ニ係ル所ナリ

【 意読 一部を常用漢字にした p.4 】  基本組版 10pt. 明朝体 26字 字間四分
秀英舎の社名および商標の由来
わが秀英舎の名称は、幕末の偉人 勝 安房伯爵(かつ-やすよし 海舟とも 1823-99)が命名したものです。創業にあたって勝伯爵は、舎長の佐久間貞一(1848-98)に対して、当時強勢を誇っていた英国より将来は上位になり、さらに秀でた存在となるの意気をもって事業の発展を期すように激励し、筆を揮って「秀英舎」の三文字を題して与えられたのに由来します。
秀英舎の商標「生」の字は、「秀英」の 反切 で、創業発起人の保田久成(佐久間貞一の義兄 1836-1904)の起案にかかれるところです。

[ 付記  反切 ハンセツ について ]
わが国で漢和辞書が本格登場したのは明治後期であり、それまでは漢字音を示すのにほかの漢字を借りてする法があり、それを「反切」と呼んだ。
ここでは「秀」の字の声(頭の子音)と、「英」の字の韻を組み合わせた発音が「生」の字となるとしている。ところが現代中国音では「秀」はxiu 、「英」はying 、「生」はsheng であるから、かならずしも当てはまらないことになる。
したがって現代では「反切」はほとんどもちいられず、やや「死語」と化しているともいえる。詳しくはリンク先でご覧いただきたい。

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口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」

創立者

       沿  革  略  誌

明治九年十月九日佐久間貞一大内青巒宏佛海保田久成ノ四名金壹千円ヲ共同出資シテ高橋活版所ノ事業及設備ヲ買収シ今ノ京橋区当時ノ東京府第一大区八小区弥左衛門町十三番地ニ活版印刷ノ業ヲ創ム是即チ株式会社秀英舎ノ濫觴ナリ当時社名ヲ単ニ秀英舎ト称シ四六判八頁掛手引印刷機半紙倍判掛手引印刷機械及半紙判掛手引印刷機械各一台竝ニ四号五号ノ活字若干ノ設備ヲ有スルノミニシテ従業員亦二十余名ノ少数ニ過キサリキ

【 意読 一部を常用漢字にした 口絵 p. 1 】  基本組版 14pt. 明朝体 34字 字間四分
沿  革  略  誌
明治09(1876)年10月09日、佐久間貞一(口絵上右 さくまーていいち 元幕臣・彰義隊隊士、初代舎長・社長 1848-98)、大内青巒(口絵上左 おおうち-せいらん 1845-1918)、 宏 仏海(口絵下右 ひろし-ぶっかい 曹洞宗僧侶 『明教新誌』社主兼印刷人 1838-1901)、保田久成(口絵下左 やすだーひさなり 元幕臣・学問所教授 佐久間貞一夫人 て津 の実兄 秀英舎第二代社長 1836-1904)の四名が発起人となり、金壹千円を共同出資(おもに保田久成が資金提供)して、東京府第一大区八小区山城町(いまの泰明小学校のあたり)の高橋活版所の事業および設備を買収し、それをもっていまの京橋区西紺屋町角(数寄屋河岸御門外弥左衛門町)、当時の東京府第一大区八小区弥左衛門町十三番地(現東京都中央区の晴海通りに面し、数寄屋橋交番の前にあたる)に活版印刷の業をはじめた。これがすなわち株式会社秀英舎、現大日本印刷株式会社のおこりとなった。
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創立当時の社名は単に秀英舎と称し、そのトップを舎長と呼んでいたが、明治27(1894)年01月15日から株式組織となり、初代社長に佐久間貞一が就き、明治31(1898)年11月28日第二代社長に保田久成が就任して、こんにちにいたる基盤を構築した。

当時の設備は高橋活版所から譲渡を受けたもので、四六判八頁掛手引き印刷機(おおむねB三判)、半紙倍判掛手引き印刷機(おおむねA三判)、半紙判掛手引印刷機(おおむねA四判)印刷機がそれぞれ一台ずつと、四号、五号サイズの活字が若干あるのみであった。また従業員も20余名の少人数であった。

{新宿餘談}
平野富二の事績調査にあたっていた際、わが国近代産業の開発者にして、現 IHI につらなる巨大企業の創始者:平野富二と同様に、秀英舎創業者:佐久間貞一らに関する公開資料もきわめて少ないことにおどろかされた。

佐久間01佐久間貞一肖像写真
『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 明治43年12月15日)

佐久間02佐久間貞一肖像画 木口木版 生巧館 : 合田 清(1862-1938)
『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 明治37年11月3日)

やつがれは『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷株式会社  発売 : トランスアート 2004年12月12日)を著し、上掲のことどものあらかたをしるしたつもりだった。
爾来10年余が経過し、二次循環でも『秀英体研究』が入手難だとも聞くこのごろである。
BsyueiPH2[1]さりながら依然として、東京築地活版製造所の創立者にして、現 IHI につらなる巨大企業の創立者 : 平野富二と同様に、秀英舎創業者 : 佐久間貞一に関する公開資料がきわめて少ない現状がある。これがしてここに再びデーターを開いた次第である。

『株式会社秀英舎 創業五十年誌』の本文用紙はきわめて上等な、いくぶん厚手で生成りの非塗工紙であるが、筆者旧蔵書は、口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」に関しては、どういうわけかひどく「アカヤケ・紙ヤケ」して、劣化がめだっていた。
たまたま古書カタログで「極美麗書」とされた『株式会社秀英舎 創業五十年誌』が紹介されていたので、重複を承知で購入した。

新『株式会社秀英舎 創業五十年誌』は某団体への寄贈書で、収蔵印はあったが、ほとんど手にとられたことがないとおもわれるほどの「極美麗書」であった。
案の定というか、「アカヤケ・紙ヤケ」がめだった、口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」のページの前に、「いわゆるウス、グラシン紙」がそのまま挿入されており、おそらくそれが酸性紙であって、本文用紙の劣化を招いたとおもわれた。
すなわち劣化の原因は判明したが、残念ながら良い状態での紹介はできなかった。

佐久間貞一は真言宗円明山西蔵院(台東区根岸3-12-38)にねむる。
ここには佐久間家歴代の墓、そして焼夷弾の焼損によるとおもわれる損傷がいたいたしい、秀英舎の創業者/佐久間貞一の墓があり、境内には榎本武揚による巨大な顕彰碑がある。
黄泉にあそぶひととなった偉人は、塋域がもっとも雄弁にその人物像をかたりかけてくることがある。

dc66f84aa4d9497c09d1fe6d07666210[1]また、幕末の敗者となった、彰義隊士や新撰組を、官許をえてまつることで知られる、曹洞宗補陀山円通寺 (荒川区南千住1-59-11)には『佐久間貞一君記念之松』碑(明治33年5月13日建立)がひと知られずにある。

佐久間貞一は彰義隊士ではあったが、水戸に蟄居した徳川慶喜に同行したために上野戦争には参加しなかった。それでもいっときは追補される身となり、その後企業人として成功しても、没年の二年ほど前に彰義隊士の寺院に記念植樹を寄進したこころ根には熱いものがあったとしかおもえない。
しばらく 佐久間貞一にこだわってみたいゆえんである。