活版凸凹フェスタ*レポート12

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遅くなりましたが《活版凸凹フェスタ》レポートを再開します。ご愛読
ください。五月の薫風にのせて、五感を駆使した造形活動、
参加型の活字版印刷の祭典《活版凸凹フェスタ 2012》 は
たくさんのご来場者をお迎えして、終了しました。
ご来場たまわりました皆さま、
ありがとうございました。
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【レポートの中断と、ご報告遅延のお詫び】
《活版凸凹フェスタ2012》は、5月の連休のさなか、5月3日-6日にかけて開催されました。事前準備・途中経過の報告は、朗文堂 タイポグラフィ・ブログロール『花 筏 』に《活版凸凹フェスタ2012*01-11》として掲載されています。
来年こそ《活版凸凹フェスタ》に出展しよう、来年こそ来場しようという関心のあるかたは、ご面倒でも『花 筏 』のアーカイブス・ページを繰ってご覧ください。

また、なにかとイベントがかさなるGW中のことでもあり、ご遠方のかた、家族サービスなど、さまざまなご事情で来場できなかったお客さまから、寸描でもよいから、会場やイベント内容を報告してほしいとのご要望がありました。
ところが、アダナ・プレス倶楽部は、5-6月と、さまざまなゼミナール、イベント、出荷、取材に追われ、 報告が遅滞してご不便をおかけしていました。

また今回の《活版凸凹フェスタ2012》は、スタッフが接客や活版ゼミナールの対応に追われ、撮影担当者を特定していなかったという失敗がありました。そのために写真資料をアダナ・プレス倶楽部会員の皆さんからご提供をもとめ、ようやく準備が整った次第です。
ここに『花筏』から、本来のステージ『アダナ・プレス倶楽部NEWS』に舞台をもどして、なにかと多忙な
大石にかわり、やつがれ(片塩)が《活版凸凹フェスタ2012》レポートを継続します。

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まずは《活版凸凹フェスタ2012》の参加型イベント【活版ゼミナール】のレポートから掲載します。

【活版ゼミナール ──  印刷人掃苔会ツアー2012】
5月3日(木・祝) 13 : 00―15 : 00  雨天決行
定員:15名(予約制)
「掃苔会の栞 ──  改訂・改題 『苔の栞』」つき
事前詳細情報:活版凸凹フェスタ*レポート005 ページ下部にあります。


印刷人掃苔会寸描。ようやく晴れ間がみえると、今度は汗だくになったそうです。
上)写真は活版ユニット「
新潟 山山」の皆さんが中心。
下)新設された条野伝平(條野傳平、戯作者、号:採菊散人・山々亭有人、『東京日日新聞』現毎日新聞創始者)の歌碑。案内役は松尾篤史さん。

雨が降ろうと、蒸し暑かろうと、参観予定コースをすべて完遂して「日展開館」に帰館した参加者は、多くの収穫があったと、満足感、充実感にあふれる、明るい表情でした(撮影:守友 彩さん)。

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レポート再開の最初は、もっとも地味な《印刷人掃苔会ツアー2012》の報告からです。
名称と内容は地味とはいえ、アダナ・プレス倶楽部が提唱しています、「知に溺れず、技に傲らず、美に耽らず」という、活字版印刷術の「知の領域・技の領域・美の領域」のバランスよい取得のためには効果的なイベントです。

掃苔ソウタイとは、もともとは墓石の苔コケを掃くことで、転じて清掃・墓参りを意味します。
《活版凸凹フェスタ2012》の会場「日展会館」のまわりには、印刷人が多く眠る「谷中霊園」をはじめ、お寺、印刷関連の石碑も豊富な「上野公園」などがあります。

【墓標の発見により、先行論文の修正が必要となった内田嘉一】

内田嘉一(1848-99)は1848年10月10日、現千葉県茂原市うまれ。本名:嘉一 ヨシカズ、号:晋齋・白里。1868年(慶応4年)慶應義塾開塾とともに入塾。福澤諭吉の信頼をえて、その著書の版下を依頼される。明治初年より文部省に出仕、中教授。「かな の くわい」結成会員で幹事。1899年(明治32)5月11日逝去。谷中霊園乙12に葬る。法名・白球院殿嘉一日居士。
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やつがれ『秀英体研究』(片塩二朗、大日本印刷、2004年12月12日、p711)の執筆にあたり、上記のように内田嘉一を紹介しました。もちろんこれは先行文献にもとづき、その出典も明示しましたが、相当丹念に探しても、当時から「谷中霊園乙12号」に内田嘉一の墓をみることはなく、すでに棄縁されたものとおもっていました。

なぜ内田嘉一が活字版印刷術研究にとって重要な人物かというと、文部官僚として、教科書の制定にあたり、また明治中期に国語改良に努力した「かな の くわい」の中心人物のひとりであるほかに、『啓蒙 手習文 上』(福澤諭吉著・内田晋齋書、慶應義塾出版、明治4年初夏)にみる「かな」の例が、秀英舎(現・大日本印刷)のかな活字「秀英体A型仮名書風」におおきな影響を与えたとみられるからです(『秀英体研究』p702-712に図版とも紹介)。

秀英舎の活字のうち、おもに明朝体と混用された仮名書体には、大別するとふたつのグループがあった。

ひとつのグループは彫刻風の特徴がみられるものである。すなわち書写よりも、漢籍などの木版刊本の伝統をふまえ、線質に鋭利な彫刻刀の痕跡をみせており、「書写系彫刻風活字書体」に分類されるものである。これを「秀英体A型仮名書風」と呼ぶ。

「秀英体A型仮名書風」の視覚上の特徴は、カウンタが横に広がりをもつ傾向があり、「あ・や」などの曲線部では、扁平な楕円のカウンタがみられること。線の太細のコントラストがつよくて、うねりが少なく、すっきりと痩勁ソウケイな線質であることなどがあげられる。号数体系の活字では、五号をのぞくすべて、初号・一号・二号・三号・四号・六号の仮名書体がある。

もうひとつのグループは、書写系の特徴がみられるものである。すなわちわが国の平安時代から連綿と継承されてきた伝統の仮名書風と、お家流の漢字書風とともに、民間刊本の版木彫刻のなかで醸成されたひら仮名の伝統を活字に取りこんだものである。すなわち書写の伝統をふまえ、脈絡を多くのこした仮名書体であり、「書写系書写風活字書体」に分類されるものである。これを「秀英体B型仮名書風」と呼ぶ(『秀英体研究』p300)。

ところが先般、八木孝枝さんと松尾篤史さんが「探索範囲をひろげて、そうとうの苦心のすえ」、隣接する「谷中霊園乙13号3側」からこの内田晋齋の墓標を探し出されました。その結果、墓所所在地と、法名の一部に訂正が必要となりました。ここにお詫びして、下記のように訂正いたします。
中国では碑石学が発達しており、こうした考証はつねにおこなわれています。掃苔会のメンバーは「ハカ・マイラー」などと称して、単にぶらついているわけではないのです。
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訂正──『秀英体研究』(片塩二朗、大日本印刷、2004年12月12日、p711脚注)
内田嘉一(1848-99)は1848年10月10日、現千葉県茂原市うまれ。本名:嘉一ヨシカズ、号:晋齋・白里。1868年(慶応4年)慶應義塾開塾とともに入塾。福澤諭吉の信頼をえて、その著書の版下を依頼される。明治初年より文部省に出仕、中教授。「かな の くわい」結成会員で幹事。1899年(明治32)5月12日逝去。谷中霊園乙13号3側に葬る。法名:白蓮院殿嘉一日満居士。



「秀英体A型仮名書風」の版下の書き手が内田嘉一ともくされるのに対して、東京築地活版製造所前半期のおおくの仮名書体の版下書き手ともくされ、また秀英舎が東京築地活版製造所から導入したまま温存したとみられる、五号の仮名、すなわち「秀英体B型仮名書風」の版下書き手ともくされるのが、宮城玄魚です。案内役の松尾篤史さんは、宮城玄魚の研究をながらく進行しています。

【ようやく発見された東京築地活版製造所第4代社長・野村宗十郎の墓地 ──  待たれるこれからの検証】


本来の掃苔会は、勝手にどんどん、不定期開催ですが、外部の皆さまをお誘いするかたちでの開催には、あまりにマニアックだとして異論がありました。ところが前回は満員御礼の盛況でした。そこで今回は「5人くらいでもお集まりいただければ……」と気軽に構えての開催でした。

今回もタイポグラフィ学会事務局長の松尾篤史さん ── アダナ・プレス倶楽部では「バッカス 松尾」(ともに酒の神)さんの解説とともに、「日展会館」周辺の印刷人ゆかりの地をめぐり、わが国の印刷の発展に尽力した先達を偲び、石碑に刻まれた書体の秘密を解明する、充実したツアーとなりました。

参加者限定で配布される『掃苔会パンフレット』も、『苔の雫』と増補・改編され、新発見の事象もたくさん盛り込んだ、充実した内容となりました。
ところが……松尾篤史さんは別称「雨男 松尾」ともされるほど、雨に縁のつよいひとです。前回は「アッパレ晴男」を自認するやつがれが参加して、雨雲を追い払いましたが、今回は喘息のため不参加。

そのため? 「5月3日(木・祝) 13 : 00―15 : 00  雨天決行」は、文字どおり驟雨のなか、6名ほどでの開催となりました。そのため翌5月4日(この日も小雨模様)にも、お申込みいただいていた数名の皆さんとともに、「雨男・松尾」さんは再度《印刷人掃苔会ツアー》を開催されておりました。

上掲書は『本木昌造伝』(島屋政一、2001年8月20日、p383)から、東京築地活版製造所第4代社長・野村宗十郎の胸像を紹介したページです。
本書の編集にあたっては、著者の生没すらわからない状況でした(1950-60年頃逝去?)。ただ名古屋の活字商で発見した、著者・島屋政一の手書き原稿と、そこに貼られた附箋に、図版指示がびっしりとあっただけでした。

上図の拓本は「野村宗十郎胸像造像碑文資料」として添付されていましたが、写真は白井敬尚さんをわずらわせて、目黒不動尊(泰叡山瀧泉寺)山門脇にある、野村宗十郎胸像の撮影に出かけました。

『本木昌造伝』刊行に際しては、著作権確認のため、著者:島屋政一氏、あるいはその関係者の探索にてまどりました。Websiteでは事前に「尋ね人──島屋政一さん」として3年間告知し、刊行後も同書のなかを含めて、関係者からのお申し出を呼びかけていますが、わずかに愛媛県の出身であること、出身小学校が判明したことだけで、いまだにご遺族やご親戚からのお申し出はありません。その調査をまちながら、編集・取材期間も相当長期にわたりました。

その待機中ともいえたあいだに、野村宗十郎の墓地も探そうと、印刷史研究では著名で、野村宗十郎の薫陶を受けたと、なにかと自慢していた牧治三郎(1900年5月-2003年)[詳細:タイポグラファ群像*003]氏に所在地をうかがったところ、
「野村先生の銅像のある、目黒不動の墓地に、野村先生のお墓もある」
と断言されました。そのため、胸像の撮影後に白井敬尚さんとともに、同寺の墓地を日が暮れるまで探しましたが徒労におわりました。

それをまぁ、なんともアッサリと、松尾篤史氏は、
「野村宗十郎をはじめとする『野村家之墓地』は、谷中霊園内 寛永寺墓地の、門から入って左手すぐにある。墓碑銘には野村宗十郎の名前もある」
とされました。すなわちこれは野村宗十郎の墓地に関する新報告ということになります。

内田嘉一の墓地発見で、新事実がいくつかあきらかになったように、墓碑はまた雄弁にそのひとをかたります。
これから長崎・新町私塾出身で、大蔵省主計官から転じて、なぜか東京築地活版製造所の倉庫掛を命じられ、それでも社長へと累進した、野村宗十郎に関する研究が進捗することが期待されます。

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さて、『本木昌造伝』野村宗十郎の胸像の撮影のときですが、折から櫻の季節で、その枝がどうしても胸像のまえに垂れさがって邪魔になっていました。
撮影担当某氏曰く、

「あの枝をどけないと、どんなに角度をふっても、よい写真は撮れませんよ」
そこで何者かが境内のあちこちを駈けまわって、ようやく竹箒を探し出し、フェンスによじのぼって、撮影のあいだ櫻の枝を持ちあげていたらしい……。
間違っても1995年ころのやつがれではないはずだ !?