【かきしるす】国指定重要文化財|水海道風土博物館 坂野家住宅|<銅版画> 大生郷 坂野伊左衛門|茨城県常総市デジタルミュージアムⅡ

国指定重要文化財
水海道風土博物館 坂野家住宅
坂野家住宅は「四間取り」を基調に江戸時代後期に母屋を大幅に増築したもので、東側の土間や南面する客間は、入母屋作りの屋根とともに大型農家の特色をよくあらわしています。また、1 ヘクタールに及ぶ広大な屋敷は、従来武家屋敷に設けられた薬医門と土塀に囲まれ、昭和43年に国の重要文化財の指定を受けました。
現在は、周辺の里山風景や便益機能の整備、主屋の保存修理工事を終え、水海道-みつかいどう-風土博物館として、一般公開しています。
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開館時間  9:00-18:00(04月-10月)* 受付は17:00まで
      9:00-17:00(11月-03月)* 受付は16:00まで
定  休  日  月曜日(祭日の場合、翌日)、年末年始
料  金  一般300円、児童・生徒100円、65歳以上無料
利用予約  予約不要
所  在  地  茨城県常総市大生郷-おおのごう-町2037

問い合わせ先  水海道風土博物館 坂野家住宅 TEL. 0297-24-2131
ホームページ  http://www.city.joso.lg.jp/shigai/kanko/1420716457308.html

[ 詳細: 常総市 水海道風土博物館 坂野家住宅

常総市 デジタルミュージアム
水海道風土博物館  坂野家住宅

<水海道風土博物館 坂野家住宅>には、既述した『大日本博覧図』のほかに、木製の木箱に収納された同様の資料「坂野家住宅」が保管されている。
箱の表書きは「銅版摺 宅地家屋之図 坂野」、裏書きには「干時 明治二十三年十月」とある。中には『大日本博覧図』に収録されているものとおなじ銅版絵図「坂野伊左衛門」邸宅の鳥瞰図があり、それと同一印刷原版とみられる銅版原版がある。

「干時」は聞きなれないことばだが、慣用的に「ときに、とき まさに」と読まれ、購入 乃至は 収納のときとみられる。それが「干時 明治二十三年十月」とされているので、『大日本博覧図』の刊行時:明治二十五年十二月より二年ほど早いときのことである。また印刷業者は印刷原版、とりわけ銅版原版は傷つきやすいので、厳重に管理していた。また銅版印刷専用印刷機を持たない顧客に渡しても意味をなさないし、ふつうならまずみられないことである。

この「坂野家住宅」資料が『大日本博覧図』に先行して坂野家に伝わったことの意図はわからない。可能性としては、『大日本博覧図』の掲載先が突出して茨城県・埼玉県・千葉県に集中していることである。
編輯者であり、発行者でもあった精行社・青山豊田郎は、この地域の有力者「坂野伊左衛門」になんらかの支援を受けたか、あるいはこれを見本として、北関東一円の富農・富商・起業者に向けて(有料での)掲載の働きかけをおこなったものとみられる。

この精行社、青山豊太郎は、このころに秀英舎:佐久間貞一、東京築地活版製造所第三代社長:曲田 成ーまがたしげる-らによって結成された、印刷同業組合、東京石版印刷業組合のどちらにも名前が見あたらない。また手許の人名録などでもみあたらなかった。
おおかたの銅版印刷業者は松田禄山(敦朝)玄玄堂の影響力がつよく、活版印刷業界・石版印刷業界とはあまり交流がなかったものとみられる。
ちなみに玄玄堂印刷所の看板には「銅鉛木石諸版製造 並 摺立所松田敦朝」と大書して、いっとき斯業はおおいに栄えた。鉛版 ≒ 活字版は平野富二がひきいた東京築地活版製造所系ではなく、神崎正誼による弘道軒清朝体活字が主であった。
「坂野家住宅」資料の由来、画像と現状との関係などは、すでに守屋 正彦(筑波大学教授)ほかの研究が発表されているので、以下は主に印刷術と銅版に刻された書風を中心にみていきたい。
「坂野家住宅」絵図右上部、枠で囲まれた掲載者名の表示部をみてみたい。
枠内には坂野家家紋とみられる柏紋が十二ヶ所に描かれている。「茨城県」は大きく、若干隷書味をおびた楷書でえがかれ、明治二十年代の住所「岡田郡管原村大字大生郷-おおのごう」が端整な楷書でしるされている。主部をなす「坂野伊左衛門」(埜は野の異体字)はいくぶん扁平で、八分隷書とみられる書風である。この八分隷書とみられる書風に関しては、再度「石川島造船所 平野富二」の項の紹介で触れたい。

ちいさな瑕疵をことあげするのは趣味がわるいが、すこし気になるのは「岡田郡管原村大字大生郷」にみる、タケカンムリの「管原村」である。大生郷-おおのごう-には村社の菅原天満宮(大生郷天満宮)があり、それが村名「菅原村-すがはらむら・すがわらむら」に連なったとみられるからである。
幸いこのアーカイブは筑波大学との連携のもとに展開されている。研究の一助になればとおもい、以下をしるした。

もともと「管 菅」は、字としても、詠みとしても、しばしば混用・誤用されている。元内閣総理大臣は「菅 直人-かん なおと」であり、やっかいなことに現内閣官房長官は「菅 義偉-すが よしひで」である。
わが国には漢字音・和訓音のほかに、「名づけ」とされる(漢)字の慣用的な詠み(便法)があるために、こうした混乱は避けられないが、それにしても最近の「キラキラネーム」とされる宛字(当て字)のなかには、将来禍根をのこさねば良いがとおもわれるものも多い。

[ 参考: ウィキペディア 菅原村 (茨城県)]
菅原村-すがわらむら-は、茨城県の西部、岡田郡・結城郡に属していた村。現在の常総市の中部にあたる。
村名の由来
村社の菅原天満宮(大生郷天満宮)による。
沿   革
1889年(明治22年)04月01日 – 町村制施行により、大生郷村、大生郷新田、伊左衛門新田、笹塚新田、五郎兵衛新田、横曾根新田が合併して岡田郡菅原村が発足。
1896年(明治29年)04月01日 – 岡田郡が結城郡に統合されたため、所属郡が結城郡に変更。

1954年(昭和29年)07月10日 – 水海道町-みつかいどうまち-に編入。水海道町は市制施行して水海道市となる。同日菅原村廃止。「坂野家住宅」絵図、左下外枠と内枠の間に「東京精行舎印行」と楷書で彫刻されている。『大日本博覧図』をみると、この行の位置は一定せず、左下にも右下にもしるされていることがわかる。主部の図版とのバランスで配置されたものとみられる。
また青山豊太郎は、自序には「東京精行社」としているが、「坂野家住宅」、『大日本博覧図』ともに、「印行-いんこう-図書を印刷し発行すること」名では、「精行社ではなく精行舎」としている。

簡便な装飾に囲まれた掲載者の欧文表記も興味ふかい。まだヘボン式などの欧文表記のルールが無い時代、また、おそらくローマ字教育なども不十分だったであろうこの時代に、サンセリフ系のローマ字を懸命に彫刻していることがわかる。
NIPPON ,  IBARAKI – KEN,  SHIMŌSANO – KUNI,  OKADA – GŌRI,   SUGAHARA – MURA,   SAKANO. IZAIMON〔 , で改行。一部バケて表示されているのは O の上に横棒を置く〕。

「IBARAKI – KEN ── 茨城県」は、現代でもしばしば「いばらぎけん」と濁音で表記されるが、ここにみる「いばらき」が正しい。
「SHIMŌSANO – KUNI ── 下総国」は、しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくになどとされてきたが、棒引き仮名遣いでの「しもーさのくに」は、口語ではあったとおもわれるが、現代でも慣用的に「下総国 ── しもうさのくに」とされている。
「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」もとても興味ふかい標本である。「IZAIMON ── 伊左衛門」であるから「いさえもん・いざえもん」とおもえるが、この周辺では意外と訛りがあって、いまでも高齢者などは「い  え」が判別しにくい発音をする。そんなことから「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」とあらわされたとおもえる。

なにを隠そう、亡妻の母方の実家がこの水海道ーみつかいどうーで、ときおり従妹が遊びにくると「英語の先生いい先生」っていってみて …… とからかっていた。従妹は切りかえして「日比谷で潮干狩り」っていってみて …… と笑いあっていた。
従妹は「い・え」が曖昧であった。また亡妻は東京下町、葛飾柴又の育ちで「ひ・し」の発音が苦手で、地下鉄日比谷線などは乗るのも嫌がったほどであった。

「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」の最後は「N」である。最後に彫工の緊張がゆるんだのか、ちょっとしたへまをやってしまったようでおもわず苦笑。
一部にこうした「タイポ ≒ タイポグラフィカル・エラー」を事事しくとりあげる向きがある。これがして、冒頭で「ちいさな瑕疵をことあげするのは趣味がわるい」としたゆえんであり、稿者はこうしたエラーを犯しがちな自分を畏れるばかりである。
「坂野家住宅」銅版絵図右下に、画工とみられる名称「土方雲外」と花押風の印影がある。
右下外枠と内枠の間には、彫工とみられる名称「村上楳山刻」が刻まれている。
このふたりは職人乃至は工人とみられ、こういう職種の常ながら、手許資料を繰ってみたがなにも手がかりは得られなかった。
「坂野家住宅」絵図、『大日本博覧図』が刊行されて百二十五年ほど、もし関係者のご子孫がおられたらご一報をたまえると嬉しい。