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【もんじ・ことのは】ეწვია, ჩაბარდა. ქართული პერსონაჟების ჭარბი უკმარისობა ── 参った、降参。圧倒的に資料不足のジョージア文字

ეწვია, ჩაბარდა. ქართული პერსონაჟების ჭარბი უკმარისობა
参った、降参。圧倒的に資料不足のジョージア文字

◉ ジョージア語とジョージアもんじの習得 ── ただただ考えが甘かったとしかいえない
W杯東京2019 大会期間中、それもあわよくばプール戦が実施されているおよそ一ヶ月の間に、ジョージア語によるホテル会話程度の習得と、町なかでのスモールトーク ── こんにちは・さようなら・幾らですか・美味しいです・またお会いしましょう ── 程度の会話を学習し、そして最低限のジョージアもんじ(文字)の読解力を獲得しようと考えていた。当然ひそかに将来のジョージア訪問もたくらんでいる …… 。
応援部隊もパリ在住の哲ちゃん・磯田君、英語力なら任せろ-ランス君を用意して万全の準備をしたと思っていた。

ふつう敷居が高いと思われているが、経験上こういうときには、思いのほかわが国の外務省と各国の在日大使館・領事館が協力してくれることを体験してきた。
イタリア大使館にはパレオグラフィ(古書体学)の調査でおおきなご協力をいただいた。またチェコ大使館では、ドイツ/フランクフルト・ブックメッセで親交を結んだプラハの出版社(旧社会主義時代の国営出版社)の消長と現状を調査・探索していただいたことがある。そのためにいまだにチェコ大使館(チェコセンター)とはよい関係を継続している。

ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られている。

[ 参考: ウィキペディア ジョージア(国)
[ 参考: 外務省 ジョージア(Georgia)基礎データ ]
[ 参考: საქართველოს პრეზიდენტის ოფიციალური ვებგვერდი Official web site of the President of Georgia   ジョージア語と英語に切りかえ可能 ]

それでも言語学はともかく、一応タイポグラフィは専門領域でもあり、観光ガイドブックたよりでは物足りない。そこでいつものように蔵書と資料調査に着手した。ところが手許資料にはほとんどジョージアに関する資料がなく、わずかに探しあてたものでも、およそ専門書とはいいがたい物であった。
◉ 『 BUCH DER SHCHRIFT 』(Carl Faulmann  Wien 1880)
◉『 LES CARACTÈRES DE L’IMPRIMERIE NATIONALE 』(フランス国立印刷所 pp 263-4  1990)
◉ 児島康宏「グルジア文字、グルジア語」『図説 世界の文字とことば』(町田和彦編、河出書房新社、2009年12月)
◉ ウィキペディア「グルジア文字

上に掲げたのがそれらの資料であるが、稿者の資料であるから言語学というより「活字見本帖」ともいうべきタイポグラフィ図書であり、ほとんど参考にならなかった。
また和書では「ジョージアではなくグルジア」としているように、すでにふるい資料であった。

ただしウキペディアにおける「ジョージア」に関するいくつかの項目の執筆者はとても厳格で、
『本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする』とすると明確に記述している。

日本では2015年4月以降、それまで使用していたジョージアの外名のグルジア(ロシア語:Грузия, Gruziya)を廃止した。またアメリカの「ジョージア州」とまぎれないように、「ジョージア国」ともしている。稿者はそれに倣うことにしている。

◉ 9月29日[日]熊谷ラグビー場:ジョージア対ウルグアイ戦のあと、残念なできごとが……

【 YouTube ジョージア国歌 「日本語訳」- Anthem of Georgia (Japanese) 01:30 】

写真/N H K WebSite ゟ

ジョージア戦後にロシアの曲、統括団体が謝罪 ── ラグビー W 杯

ジョージアが試合後の記者会見で、会場の熊谷ラグビー場に流れた音楽について憤慨する一幕があった。勝利を祝福するためだったが、ゲーム主将を務めたブレグバゼは「ロシアの音楽が流れた。次はこういう間違いをしないでほしい」と訴えた。
統括団体ワールドラグビーの関係者によると、流れたのはジョージア人が歌ったロシアの音楽。音源を用意した大会組織委員会は、2度と使用しないことをジョージア代表チームに伝えた。
ジョージアとロシアは政治的に緊張関係にある。ヘイグ監督はニュージーランド出身だが、「ロシアはジョージアではない。ジョージアはロシアではない。はっきりさせておく。言語も文化も全てが違う」と強い口調で述べた。 9月29日[日]19:41配信  時事通信

{新宿餘談}
ロシアとジョージアの国家関係にはデリケートな部分が多いことはすでに述べてきた。「ゲーム主将を務めたジャバ・ブレグバゼ」は禿頭のみごとなフッカーで、日頃は日本のプロチーム:サンウルブスでプレーしており馴染みふかい選手である。
ヘッド・コーチ:ミルトン・ヘイグは、ニュージーランドうまれで、現役時代はスクラムハーフで活躍したひとである。また来シーズンからは日本のトップリーグ:サントリーの H C への就任が発表されている。

サッカーとラグビーともども、大会運営者は W 杯に「政治的案件」を持ちこむことには警戒的だが、こんな失敗もたまにはやってしまうようだ。もちろん主催者はジョージアの勝利を祝ってこその放送であり、悪意は無かったとおもう。ここはしっかりお詫びすればジョージア・チームも理解してくれるであろう。
ちなみにジョージア国臨時代理大使はアルチル・マチャヴァリアニ氏で、就任三年目の親日家である。
また、四囲を海に囲まれているわが国では解りにくいが、イングランド以外の、ウェールズ・北アイルランド・スコットランドも、W 杯代表においては、イングランドと一緒にされたり、「イギリス代表」うんぬんとされることには拒否反応を示している。
やはり国際関係とはなかなかセンシティブなものがある。

◉ 9月20日[金]プールA:日本対ロシア戦から、土曜・日曜とラクビー観戦漬けで疲労困憊
なにしろ四年間、鳩首してこの ラグビー W 杯 2019 東京 の開幕を待っていた。その嬉しさと、好カードの連続のためもあって、金曜夜から最初の試合:日本対ロシア戦にはじまり、土曜・日曜で連続七試合、一気にラグビー観戦漬けであった。

◉ 9月20日[金]
        19:45- プール A 東京スタジアム

   日  本ー30  対  ロ シ アー10
◉ 9月21日[土]
        13:45- プール D 札幌ドーム

   オーストラリア-39 対  フィジー-21
        16:15-  プール C 東京スタジアム
   フランス-23  対  アルゼンチン-21
        18:45-  プール B 横浜国際総合競技場
   ニュージーランド-23  対  南アフリカ-13
◉ 9月22日[日]
        14:15- プール B 東大阪市花園ラグビー場

   イタリア-47  対  ナミビア-22
        16:45-  プール A 横浜国際総合競技場
   アイルランド-27  対  スコットランド-03
        19:15-  プール C 札幌ドーム
   イングランド-23  対  トンガ-21

なにしろ吾輩は「新日鉄釜石-平尾・松尾-がんばれ」、神戸製鋼、近鉄がんばれとやってきた、苔がはえ薹がたったラグビーファンであるが、この歳になって遠方のスタジアム往きは辛いし、パブリック・ビューで大騒ぎも恥ずかしい ── 本当はすぐ近くの伊勢丹屋上会場にいきたかったが、ジャージーを買って無かった。
そこでテレビとパソコンの大型ディスプレーの前のドカッとすわり、ひとりで大騒ぎ。家人はあきらめて展覧会めぐりに出かけたのを良いことに、「それいけっ、押しこめ」、「わぉ~、ぎゃ~」とやっていた。

これ以上は恥ずかしいから止めよう。そして思った。
「この調子じゃ血圧があがってぶっ倒れるぞ。日本とジョージア戦だけをライブで観戦しよう」
「仕事もあるし、ジョージア語の学習と習得はどうする」── 反省。
というわけで、暫時ジョージア語の学習と習得はお休みをいただいております。

グルジア文字(グルジア国のもんじ、ქართული დამწერლობა,  kartuli damtserloba)は、南コーカサスにあるジョージアの公用語であるカルトリ語を書き表すために用いられる文字である。
ウィキペディア ゟ

現代のグルジア文字は33文字から構成され、アセンダー(上部突起)や、ディセンダー(下部突起)、あるいはその両方を持つ字(キャラクター)がある。左から右へ横書きで書かれるアルファベットである。
上掲図の「Georgian Extended」は近年アセンダーとディセンダーの突起部を減少させて製作された「見出し用新書体 乃至は 新字体」ともいえる。また追加拡充書体としてあらたにユニコードにも登録されて、見出しや広告を中心に広くもちいられている。

下掲の YouTube は、2016年に日本代表チームがジョージアに遠征、首都トビリシでのテストマッチの記録である。
冒頭部のピッチでのインタビューと中継アナウンスは冗長ながらジョージア語でなされているので耳慣らしにはちょうど良い。ラグビー中継ではどこも自国のチャンスには絶叫調になるのは共通のようでおもしろい。
また1時間18分からハーフタイムになるが、そこには集中的にコマーシャルが流れる。「Georgian Extended」の使用例と形態を見るためには絶好の時間帯となる。
共有リンクの画面はちいさいが、画面右下の YouTube の文字部をクリックすると、別画面で拡大画面がひらく。この試合は最終盤に逆転して、日本 28 - ジョージア 22 で日本代表が勝利した。

【 YouTube რაგბი. საქართველო – იაპონია / Rugby. Georgia vs Japan 2:20:47 】

『 LES CARACTÈRES DE L’IMPRIMERIE NATIONALE 』(フランス国立印刷所 pp 263-4  1990)

【もん】研究社のシンボルマーク|唐 獅 子|杉浦非水 昭和9年(1934)製作

研究社のシンボルマークとなっている「唐獅子」は、徳川家の菩提寺として知られる東京の芝・増上寺の門扉にある彫刻を参考にして、杉浦非水(すぎうら ひすい 1876-1965)が原画を描いたものである。
このマークは「現代英文学叢書」(昭和9年・1934)ではじめて使用され、今日にいたるまで研究社のシンボルマークとなっている。

杉浦非水は、愛媛県出身。明治30 年に上京し、東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科に入学し、在学中に近代洋画の父といわれる黒田清輝の知遇を得、影響を受けた。数〻のポスターなどを製作し、日本の近代商業美術の祖といわれている。昭和10 年には多摩帝国美術大学(現在の多摩美術大学)を創立、初代学長をつとめた。
研究社のシンボルマークの他にも、数多くの作品を手がけ、「光」「桃山」など、たばこのパッケージデザインも世に送りだした。〔研究社公表資料を参考〕

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【展覧会】東京国立近代美術館|イメージコレクター・杉浦非水展| 会場/東京国立近代美術館 2階 ギャラリー 4|前期:2019年2月9日-4月7日 後期:2019年4月10日-5月26日 終了企画参考紹介

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【資料紹介】国立国会図書館所蔵|『東京盛閣図録』ゟ|編輯・出版:新井藤次郎|明治18年(1885)9月

国立国会図書館所蔵
『東京盛閣図録』ゟ 部分紹介
著   者  新井藤次郎 編
出 版 者  新井藤次郎(東京府下谷区練塀町四十九番地)
出版年月日  明治18年(1885)9月
請 求  記 号  特52-102
────────────────
篤志者や富商・富農から資金をつのり、「紳士録」のような目的で製造・販売された、いわゆる「魁-さきがけ-もの」のひとつで、銅版印刷による横開きのアルバム状の図書である。表題部を欠く。
ここでは国立国会図書館データーから、見開きページの余白部だけを詰めて紹介した。またこのような「魁もの」の類書には、『大日本博覧図』、『日本博覧図』などがある。
[画像処理協力:青葉水竜]

『日本盛閣図』 刊記

◉ 活版製造所(東京築地活版製造所)
この見開きページの右端に東京築地活版製造所の案内がしるされている。
業務内容「活版及び印刷器械 其の他諸器械製造 幷 舶来各種インキ売り捌き」、住所・社名「東京京橋区築地二丁目十七番地 活版製造所」とある。

東京築地活版製造所というと、現在は活字を中心にかたれれることがほとんどであるが、活字判印刷には、印刷機と活字はもとより、木工製品(のちに活版木工とされた特殊分野)をふくめ、じつにさまざまな機器と資材が必要となる。
近代印刷術の普及にあたった平野富二は、明治05年(1872)の上京直後から、それらの開発・製造を、支援のないままに開始し、しだいに後発企業が登場してくると、その軽工業製造事業の一部を惜しげもなく譲渡していた。

活版印刷資材のうち枢要な資材のひとつが印刷用インキである。官設の印刷局では開設直後から紙幣寮を中心として国産インキの開発にとり組み、紙幣の偽造防止に尽力し、あわせて一部を民間にも販売したとしているが、それをいつから開始したかの記録には乏しい。
また民間業者による国産インキの製造・販売は、明治20年代初頭、西川忠亮(初代、東京築地活版製造所役員、東京印刷株式会社監査役)による西川求林堂が最初とされている。したがってこの明治18年(1885)時点では、まだ「舶来各種インキ売り捌き」と取扱品目にしるしている。

住所地としてしるされた「東京京橋区築地二丁目十七番地」は注意が必要な部分である。
平野富二は神田和泉町から移転してきた直後は「築地二丁目二十番地」、「東京築地二丁目万年橋東角二十番地」の仮工場を住所地として表示し、ついで煉瓦建ての本工場が完成してからは、築地川にそった「築地二丁目十九番地」としていた。それが「東京京橋区築地二丁目十七番地」に変わった経緯は{ 古谷昌二ブログ 2019年06月 }に詳細に説かれている。こちらを参照していただきたい。なお本図上部にみる築地川に架設されている橋は、万年橋ではなく、築地西本願寺に通じる祝橋である。

銅版画『東京盛閣図録』に表示された社名は、あきらかに「活版製造所」とだけある。どういうわけか平野富二は、活版製造業・造船重機械製造業・土木建設業・交通運輸業などのさまざまな事業を展開したが、社名表記にはほとんど無頓着であったようで、とかく研究者を悩ませている。

株式会社東京築地活版製造所は、登記上では明治18年(1885)6月26日に開業したことになっている。このときはじめて同社に社長職が置かれ、株主総会において平野富二が初代社長として選任された。平野富二は数え年40だった。

不惑を迎えたころの平野富二の肖像写真

この時の会社の規模は、資本金8万円、株主20名、社長以下役員19名、職員・工員(男女共)175名で、初年度の営業収入は、活字類売上高23,521円、機械類売上高5,750円であった。
20人の株主には、出資関係の厚薄に応じて株券を配当し、また、これまでの社内での業務貢献の軽重に応じて社員に株券若干を与えたという。株主名簿は未詳。
役員は、取締役社長:平野富二、取締役副社長:谷口黙次、取締役:松田源五郎、取締役:品川藤十郎、支配人:曲田 成、副支配人:藤野守一郎で、その他は未詳。

そのいっぽう、平野富二は「石川島平野造船所」「平野土木組」の事業などでも繁忙を極め、一等砲艦「鳥海」の建造に着手し、それに必要な資金は渋沢栄一の提案により「匿名組合」を組織して不足資金を調達していた。
またドコビール軽便鉄道を駆使して、各所の土木建設にもあたっていた。
この『東京盛閣図録』が刊行された年の8月には、東京と神奈川でコレラが猖獗をきわめ、明治期最大の流行となり、石川島平野造船所 造機技師長:アーチボルド・キング がコレラに罹患して病死した年でもあった。

『実測東京全図』に示されている新地番
<内務省地理局「実測東京全図」(明治17年)の部分図>

上図は区画整理後に新しく付け替えられた新地番が表示されている。築地に移転したときの仮工場と新築煉瓦建て事務所は、築地二丁目(貮町目と表示されている)17番地となり、築地活版製造所の所在地は築地二丁目17番地に変更された。のちに14番地は突出部を分筆して、14-1番地と14-2番地とした〔現コンワビル周辺〕。平野富二は13、14-1、17番地の土地を築地活版製造所に譲渡し、15、16番地の土地を購入して平野邸を新築した〔現築地えとビル周辺〕。

古谷昌二氏講演<中央区区民カレッジ>資料ゟ 2016年10月21日

[ 詳細:平野富二 ── 明治産業近代化のパイオニア 古谷昌二ブログ 2019年06月

◉ 時事新報  日本橋区通三丁目十一番地 時事新報本局 慶應義塾出版社
時事新報は、かつて存在した日本の日刊新聞である。明治15年(1882)3月1日、福沢諭吉の手によって創刊された。その後、慶應義塾およびその出身者が全面協力して運営した。戦前の五大新聞のひとつとされた。
創刊に当たって福沢諭吉は「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。1936年(昭和11年)に廃刊になり『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)に合併された。

『時事新報』の紙面 1889年(明治22)2月1日 ウィキペディアゟ

『時事新報』に関しては、丁寧な解説が ウィキペディア にあるので、それを参照いただきたい。
ここでは福沢諭吉を生涯をかけて支援した「小幡篤次郎」を紹介したい。

【小幡篤次郎 おばたとくじろう 1842-1905】 [参考:国史大辞典 吉川弘文館]
明治時代の学者、教育家。慶応義塾長。その生涯をつうじて福沢諭吉を補佐して慶応義塾の発展に力をつくし、晩年は塾の最長老として重きをなした。
啓蒙期には著述家としても活躍。『学問のすゝめ』初編(明治五年)には、著者として福沢諭吉とともにその名を連ね、明治六年にはトックビル Tocqueville の  De la démocratie en Amérique(『アメリカ民主政治』)の出版の自由を論じた一章を、英訳本から重訳して、『上木自由論』と題して刊行した。これは出版の自由を論じた最初の単行本である。そのほか『博物新編』『英氏経済論』『宗教三論』などがある。

小幡篤次郎は天保十三年(一八四二)六月八日、豊前国中津藩士(現大分県北部の中津市)の子として生まれ、藩地にあって漢籍を学び、十六歳より二十三歳まで藩校進修館で句読、塾頭館務の職に任じまた剣にも長じた。
元治元年(一八六四)、弟甚三郎らとともに、同郷の洋学者福沢諭吉に連れられて江戸へ赴き、福沢のもとで英学を学び、頭角をあらわして、慶応二年(一八六六)より明治元年(一八六八)まで福沢塾の塾頭に任じ、また慶応二年以降、幕府の開成所の助教授をつとめた。

明治四年中津市学校の創立にあたり、初代校長として英学普通教育のモデルを作った。同九年、文部省より招かれて中学師範学科(のちの高等師範学校)の創立のさい教授監督にあたり、翌十年には欧米を巡遊、十二年には東京学士会院の会員に選ばれた(同十四年これを辞す)。
同十三年、交詢社の創立以来、幹事としてその運営にあたり、また十五年の『時事新報』の創立にも福沢を助けて尽力した。
同二十三-三十年慶応義塾長、三十年より同塾副社頭に任じ、三十四年に福沢が死去してのちは、このあとをおそって慶応義塾社頭に推された。この間、二十三年より貴族院議員に勅選され、また貨幣制度調査会委員をつとめた。同三十八年四月十六日、六十四歳で病没。

製紙分社   日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)
王子製紙会社

いずれも渋沢栄一との関連が深い「製紙分社」、「王子製紙」の明治前半期の姿が描かれている。
王子製紙はともかく、「製紙分社」と、その「支配人:陽其二」、さらにその後継企業の「東京印刷株式会社」に関しては、横浜・東京両店ともにきわめて公開資料がすくなかった。
『東京盛閣図』には「製紙分社 日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)」が紹介されている。門柱には「製紙分社 官許 洋紙売捌所」がみえるだけで、なかなかその実態はわからない。
この分野を補完すべく資料収集されていたかたがいたが、本年06月に逝去された。したがってここでは断片資料であることをお断りして、一部の資料をまとめてみた。

[参考:『国史大辞典』吉川弘文館、『日本印刷大観』東京印刷同業組合編、『日本紙業総覧』王子製紙販売部調査課編、『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀、1911)pp 61 東京印刷株式会社]

陽 其二 よう そのじ/みなみ きじ 1838-1906
幕末-明治時代の活版印刷技術者。製紙分社支配人。平版印刷の一種「コンニャク版-Hektograph」の紹介者。『穎才新誌-えいさいしんし』発行人。晩年には中国料理店「偕楽園」を創業して「爆弾料理-詳細不詳」を紹介した。
内国勧業博覧会審査員、長崎での同門として東京築地活版製造所にふかくかかわり、跡見女学校教授等も歴任した。いっぽう書藝と中国料理に造詣がふかく、一部では酔狂人ともされる。
明治39年(1906)9月24日死去。享年69。あざなは大有。通称は子之助。号は天老居士など。墓は義兄弟の加福喜一郎とともに東京谷中霊園にある。

陽  其 二 肖像(故:桜井孝三氏提供)

コンニャク版は平版印刷の一種である。少部数の印刷や、陶器、焼き物の絵付けに使用された。
世界的には一般にヘクトグラフ Hektograph と呼ばれた。本図はキット販売の英文資料

陽其二(1838)は本木昌造(1824)より14歳ほど年少、平野富二(1846)よりは18歳ほど年長であった。ともに肥前長崎出身。曽孫に陽 敏朗氏がいる(故桜井孝三氏と昵懇)。
本木昌造(1824-75)にまなび、文久2年(1862)に幕府海軍長崎丸汽関方となり、元治元年(1864)に江戸に出て、中邦逸郎・鬼塚辰之助の三名で 鉄砲洲時代の 慶應義塾 に学ぶ。慶応元年(1865)長崎製鉄所に勤務、かたわら本木昌造とともに活版印刷技術を研究・開発し、さらに新町活版製造所で活字版印刷を修得。

神奈川県令:井関盛艮-いせきもりとめ-が企画した『官許横浜新聞』を発行するために、本木の抜擢をうけて横浜活版舎を設立、『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の初期の印刷を担った。
編集者は横浜税関の翻訳官:子安 峻-こやす たかし。この時に出資・創刊にあたった島田豊寛-しまだ とよひろ-が社長に就任。明治三年(一八七〇)十二月十二日これを創刊した。
明治六年(一八七三)には妻木頼矩が編集長となり、その後島田三郎(豊寛の養子)、仮名垣魯文(野崎文蔵)が文章方(記者)となった。

この新聞は当時は高価な洋紙を用いた、タブロイド判両面刷の日刊紙で、当初は木活字、のち長崎の新町活版製造所、さらに東京築地活版製造所製の三号楷書体活字をおもに用いた。同紙は明治四年(一八七一)四月『官許横浜毎日新聞』と改題、同十二年十一月東京に移り『東京横浜毎日新聞』となった。

陽其二は『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の創刊からまもなく、明治五年(一八七二)になるとはやくも横浜活版舎をはなれ、竹谷半次郎・加福喜一郎らとともに印刷業の景諦社を設立した。この三名は長崎出身の同郷であり、伴侶が姉妹だったために、義兄弟ということで、漢字音が共通する「兄弟・景諦-ケイテイ」をとって社名としたとされる。
景諦社は証券印刷などの需要を見込んで、翌七年三月二十五日に渋沢栄一創設の東京抄紙会社(のちの王子製紙会社)にこれを譲渡し、同年四月一日抄紙会社横浜分社(のち王子製紙横浜製紙分社)となった。陽其二はその後も引き続き東京・横浜の両製紙分社の支配人として、印刷業と洋紙販売に従事した。

後年東京印刷株式会社の社長となった 星野 錫(ほしの しゃく 1855-1938)は景諦社に明治6年(1873)に職工として入社しており、景諦社の出身である。星野 錫は東京印刷株式会社(もと製紙分社)の社長兼任のまま、昭和初期の東京築地活版製造所の役員(のち監査役)となって、苦境におちいった同社の再建に尽力している。

【穎才新誌 えいさいしんし】

明治十年(一八七七)三月創刊、三十二年十月『中学文園』を合併、三十四年六月以降『穎才-えいさい ≒ 英才』と改題。廃刊年月・発行部数などは不詳。
当初は(東京)製紙分社、のち穎才新誌社発行。菊倍判八頁で週刊、定価は二銭。設立時は陽其二が主宰、のち堀越修一郎なども編集に参加、スタッフはしばしば交替した。
学才による立身出世主義の風潮を下地とし、さらに文学的教養と人間的修養をめざす作文教育を志向した。わが国最初の青少年向き投稿専門雑誌となり、彼らの文芸熱の受け皿となった。その趣は田山花袋の『東京の三十年』にも描かれている。
毎号投稿中から選んで作文・和歌・漢詩・新体詩・俳句・図画などを載せ、啓蒙的な教導の文も掲げられた。山田美妙・尾崎紅葉・田山花袋・内田魯庵その他も、少年時代この雑誌に投稿していた。

【東京印刷株式会社】
[出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会1911)pp 61 東京印刷株式会社]

一 所在地 東京市日本橋区兜町二番地
一 目的事業 諸製版印刷製本写真書籍出版及発売
一 創立年月 明治二十九年六月
一 資本金 五拾万円(内払込高弐拾参万七千五百円)
一 積立金 拾弐万六千円
一 壱箇年利益金 四万七千円
一 配当率 年壱割弐分
一 支店所在
深川分社 東京市深川区東大工町四十七八番地
横浜分社 横浜市太田町六丁目九十四番地
一 沿  革
東京印刷株式会社は、もと王子製紙会社の分社として、明治七年(一八七四)横浜に、同八年(一八七五)東京に、王子製紙会社の製紙販売を兼ねて印刷機関を創設したもので、いわゆる横浜製紙分社、東京製紙分社の両製紙分社の後身にあたる。当時印刷製本の事業は政府の紙幣寮を除き、民間にあってはわずか数社にすぎなかった。とりわけ洋式簿冊の製作を経営するものは同社だけであった。

このときにあたり、大蔵省をはじめ各府県において使用する帳簿を洋式に改正したが、その洋式帳簿の製作はほとんど東京印刷の提供によるものであった。こうした時運の進展によって同社は泰西諸国の斯業を調査研究する必要に迫られるにいたった。
そのため現在専務取締役たる 星野 錫 が明治二十年(1887)春、選ばれて渡米し、前後三年米国にあって研鑽をかさね、帰朝後おおいにその成果を応用して規模面目を改めることになった。これは実に青淵先生(渋沢栄一)の指導にもとづいたものであった。

当時の王子製紙会社の取締役であった岩下清周は、製紙事業と印刷事業の分離経営を計画し、明治二九年(1896)青淵先生らの発議によってこれを株主総会に諮り、その可決を経て横浜・東京の両製紙分社の財産を挙げて星野氏に一任し、あらたに資本金拾五万円をもって同年六月東京印刷株式会社の成立を見るにいたった。

これを受けて、あらたに東京府深川区東大工町に工場を設立し、印刷機械を増設した。また横浜分社はそれまでの規模を一新して、着々と経営の歩武を進めている。その専務の椅子を星野氏に与へしもまた青淵先生らの推輓によるものにして、先生は相談役に就任した。
爾来数年間、青淵先生は提撕(テイセイ 教え導く)誘掖(ユウエキ 輔佐)の労を取られたため、社運益々隆昌の域に向かった。四十一年(1908)七月さらに参拾五万円を増額して資本金五拾万円とし、工場を増築し機械を増加し時世の進運に伴はんことを企図しつつありという。

一 東京印刷株式会社と青淵先生との関係
青淵先生はいまも当東京印刷株式会社の重要なる株主にして、常に業務の経営に関し指導誘掖の労を執られつつありという。

一 現任役員
専務取締役 星野 錫
取締役   藤山雷太  取締役  中井三郎兵衛
監査役   鹿島岩蔵  監査役  西川 忠亮

東京印刷株式会社は、のちに主力工場だった深川工場が火災のために全焼した。また1937年(昭和12)廬溝橋事件以降、日本・中国での緊張(日支事変)が高まりをみせていたため、1938年(昭和13)5-6月、ダイヤモンド社系の「美術印刷株式会社」とともに、共同印刷の傘下にはいって、事実上その歴史の幕をおろした。
[参考:『印刷雑誌』1938年2月号 pp 59 ]

【王子製紙株式会社】  [参考:『世界大百科事典』小学館]

日本最大の製紙会社。1873年(明治6)渋沢栄一が三井組・小野組・島田組を勧誘して共同経営の製紙会社を設立したことにはじまる。
最初は社名を〈抄紙会社〉と称し、資本金15万円。機械類を輸入し、またイギリス人技師を雇い入れたのち、1875年(明治8)東京府下王子村の工場が綿ボロを主要素材にして運転を開始した。翌76年社名を〈製紙会社〉に変更。

しばらく経営不振が続いたが、西南戦争を契機とする新聞・雑誌の発展によって、洋紙市場が形成されるにおよび経営基盤が確立した。欧米のパルプ製造技術を学んだ大川平三郎(渋沢栄一の娘婿)の努力で1888年(明治21)天竜川上流の気田に日本最初のパルプ工場(気田工場)建設に着手、1890年完成した。1893年(明治26)に王子製紙株式会社と社名を改めたが、このころには日本最大の製紙会社に成長していた。

1896年(明治29)中部工場建設にともない、三井銀行の援助を受けることになって 藤山雷太 が役員として送り込まれて経営の実権を握った。これに対して労働者の不満が爆発し大ストライキが起こったが、三井から藤原銀次郎が支配人として入りストを収拾、それ以後王子製紙は完全に三井の勢力下に入った。
1910年(明治43)苫小牧に当時としては最新鋭の新聞用紙工場を建設し、1915年以降工場の買収建設で樺太・朝鮮への進出を果たした。

1916年(大正5)には大阪で都島工場を買収、また大蔵省十条分工場の払下げを受け、1924年に小倉製紙所と有恒社、1925年に東洋製紙などをつぎつぎと併合した。
その後も金解禁およびアメリカの恐慌の影響で苦境におちいった樺太工業株式会社(1913年大川平三郎が樺太を拠点に設立)、富士製紙株式会社(1923設立。一時大川が実権を握ったが1929年以降は王子が実権をもつ)を合併し、1933年(昭和8)資本金1億5000万円の王子製紙が誕生、全国洋紙生産の80%余(新聞用紙は95%)を占め世界有数の大製紙会社となった。

このような王子製紙の発展を主導したのは藤原銀次郎(1920年社長38年会長就任)で、彼は関連産業につぎつぎと手をのばし、王子は30余の会社を支配する一つの財閥を形成した。
しかしこうした独占も、第二次大戦後の過度経済力集中排除法によって終止符が打たれ、1949年(昭和24)苫小牧製紙株式会社、十条製紙株式会社、本州製紙株式会社の三社に分割された。
1952年(昭和27)財閥商号使用禁止が解かれたのを機に、苫小牧製紙は王子製紙工業株式会に、さらに1960年王子製紙株式会社に改称した。1989年東洋パルプを合併、また1993年神崎製紙を合併し、新王子製紙と改称したが、1996年(平成8)本州製紙と合併して、旧称:王子製紙株式会社に復した。

現在も王子製紙は業界最大手であり、新聞用紙のシェアは第一位、また膨大な社有林を有する日本最大の土地保有企業である。
資本金1039億円(2005年9月)、売上高1兆1851億円(2005年3月期)。

【王子製紙とウィキペディア】

  • 1873年-1949年に存在した王子製紙(初代)については「王子製紙-初代」を参照。
  • 1960年-1993年および1996年-2012年9月に存在した王子製紙(2-3代目)については「王子ホールディングス」を参照。
  • 2012年10月以降の王子製紙(4代目)については「王子製紙」を参照。

王子製紙豊原工場-樺太(1917年-1945年)
『日本盛閣図』 刊記

【もんともんじ】ちょっと不気味ながら目出度い瑞兆|蛙と招財進寳|端午の節句と鍾馗様の五毒退治

馴染みとなった中国料理店のレジの脇に、なにやら異様なものが置いてあった。
「小姐-ショウシャ・お嬢さん、これはなんですか」
「それは縁起ものよ、もう片づけるけど」
六月の初旬、小姐はそっけなく答えた。

よくみると丸〻と太った蛙で、足もとには吉語が刻まれた銅貨が積みかさなり、ご丁寧なことに銅貨を咥えており、そこには富貴の吉語「招財進寳」とあった。しかも全体も銅製とみられ、ずっしりと重かった。
小姐は知らんぷりなので、以下はいつもの通り『中国吉祥圖案』を繰ることにした。
[参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月]
『中国吉祥圖案』pp 640 にその資料「天中避邪 ── 鍾馗像上蝙蝠飛舞圖」を発見。
「古老の説話によると、五月五日、その正午の時刻は、天地の陰陽が交接するときにして端午節とされる。五月五日の五と、正午の午は、ともに Wu 3 であり同音同声である …… 」からはじまるその解説は難渋をきわめるが、できるだけ簡略に説明したい。

この五月五日の端午節の頃(旧暦)になると、蛇・蜥蜴 トカゲ・蠍 サソリ・蜈蚣 ムカデ・蛙 など「五毒」とされる「悪魔的害虫」がわき出てくるので、庶民は門内にこれらの侵入を防ぐために、門口に霊草とされる 菖蒲 ショウブと艾 ヨモギの葉を掲げる。菖蒲の葉は剣に似て、艾の葉は手のひらに似る。
これを合わせて「手のひらで剣を握り、悪魔をはらう。それで一家の一年は平安多福となる」そうである。

わが国の記紀神話、「八岐大蛇-やまたのおろち」を退治した素戔嗚尊-すさのおのみこと-伝承と似て、「鍾馗 ショウキ 伝説」も多々あるが、そのひとつ。
唐の玄宗皇帝が瘧 オコリ で高熱を発したとき、夢に「五毒」の小鬼が出てきて「われの名は虚耗なり」といって悪戯をしかけた。玄宗皇帝は激怒して、禁軍・近衛の兵士に「五毒」討伐を命じたがならなかった。
そこに巨漢の武将があらわれて快刀乱麻の勢いで小鬼をすっかり退治したので「汝は魔鬼か」と訊くと、「わが名は鍾馗なり」と答えた。それ以後皇帝は悪魔的鬼神としての鍾馗像を、空中に舞う吉祥図、蝙蝠-こうもり-とともに描かせて、端午節に掲げるならいとなった。
ちなみに中国で「蝙蝠-ヘンプク」が瑞兆とされるのは、蝙が遍く-あまねく-に、蝠が福に通じるので、「蝙蝠」は吉兆をもたらすめでたい吉祥図とされている。

こうして「鍾馗様」に征伐された五毒は、一転して瑞兆となり、とりわけ丸〻と肥え太った蛙は「招財進寳」をもたらす縁起の良い存在として描かれ、彫刻されるにいたったという。
わが国でもふた昔ほど前までは、五月の節句に菖蒲湯にはいり、門口には艾(蓬)の葉を括って吊るす習慣があった。また女子が誕生すると、桃の節句にお雛様、男子が誕生すると端午の節句に鍾馗様の兜などを贈る風習もあったが、いまはどうなのだろう。

【 YouTube 李玉萍(萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】

【 YouTube 王興華老師書法教學(疊字春聯)音が出ます 35:33 】


【 YouTube 李玉萍(萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】
【 YouTube 王興華老師書法教學(疊字春聯)35:33 】

台湾からの動画で、楷書筆法による「招財進寳」を再度紹介する。あわせて少し時間はながいが、行楷書による「疊字=畳字」、春聯の金字書法を紹介したい。最初に書かれるのは記号や絵ではなく、吉祥字の上位におかれる「如」である。「如意-ものごとが意のままになるふしぎな力」を含意している。楷書とは筆順が異なる字画があり、速度もずいぶん早く書かれている。
30分以上の長時間なので途中に飽きがくるが、興味ふかいのは後半、20分過ぎくらいからで、わが国の展覧会書道とはおよそ趣がことなる「畳字」のおもしろさを理解できる時間帯になる。

「春聯-シュンレン」とは、中国・台湾で(旧)正月を祝うために、門の両側や扉などに、赤い紙にめでたいもんじを書いて貼るもの。
「疊字=畳字」は、わが国では「踊り字・重ね字・畳字-じょうじ」などとされることが多く、上掲動画とはなんら関連のみられないことばになっている。残念ながら手許資料では明快な説明ができない。

もともと「畳-たたみ」はわが国での意読で、漢字音ではジョウ・チョウで、意は、かさなる、かさねる、薄く平らなものをかさねるである。したがって熟語に「畳韻-中国音韻でおなじ母音で終わる二字を連ねること。逍遥・連綿・窈窕など」、「畳重-ものをかさねる、またかさなる」、「重畳・稠畳-びっしりと重なりあうこと」などがある。もうしばらく、これを参考にしていただき、「畳字とは字をどんどん積みかさねること」と理解いただけたらうれしい。


吉 祥 如 意  順-したがう

【生意興隆通四海】
天 地 順
得心応手
四季皆宜
平歩星雲
一路栄華

【財源茂盛達三江】
人 情 順
吉星高照
広開財源
歩歩高昇
一帆風順

「畳字」を明快に説明できないお詫びに、この香港飲茶の店の壁に掛っていた「万事如意-順」を紹介したい。字面を眺めているだけで富貴になりそうな気分になる。ちなみに「歩歩高昇」は成句で「トントン拍子」ほどの意である。

[ 参考:NOTES ON TYPOGRAPHY【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう

【講演会】第27回モリサワ文字文化フォーラム|[個 と 群 と 律]組市松紋の仕組み|6月27日

【講演会】第27回モリサワ文字文化フォーラム
[個 と 群 と 律] 組市松紋の仕組み
講  演  者  野 老   朝 雄
日  時  2019年6月27日[木]15:00-17:00(14:30開場)
場  所  モリサワ本社  4 F 大会議室(大阪市浪速区敷津東2-6-25)
参  加  費  無  料
定  員  150 名
主  催  株式会社モリサワ
────────────────
美術家・野老 朝雄氏は、9. 11 アメリカ同時多発テロに大きなショックを受け、世界の断絶を「つなげたい」という願いからピースマークを考えはじめました。そのマークをつなげることが、現在の紋様制作の出発点になっています。
紋や紋様の平面作品はコンピューターを使って作図していますが、紋様をかたちづくる[個]と[群]は組体操のように一つ一つパーツを置いて描く手法のため、コンパスと定規さえあれば再現可能です。
野老氏の代表作のひとつである「東京2020エンブレム」は、菱形パーツを組み合わせることがベースになっています。今回の講演では「組市松紋」の仕組みを紐解きながら、野老氏の制作の核になっている「律」について語ります。

[ 詳細・申し込み先: 株式会社モリサワ 文字文化フォーラム事務局
[ 参考:活版 à la carte 【字様・紋様】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう|

《馴染みのお店がどんどん消える昨今》
衣食住にはこだわりが無い …… と公言してきた。それはいまも変わらないが、さいきん馴染みの飲食店の廃業が続いてなさけない思いをしている。
酒は呑まないので和食の店はおおきく制限される。中国料理も大型店だとひと皿五人分ほどの料理が提供されるので、退勤途中に少人数で、ちょっと何品かで食事というのには料が多すぎるし、定食では飽きて物足りないこともある。

お気に入りだった中国料理店は「臺灣 ≒ 台湾小皿料理店」で、ママさんは中国瀋陽(中国東北部・旧奉天)出身であるが、コックさんとスタッフは台湾の出身。したがって少量で安いので、フラリと寄っても四-五皿の料理を楽しめるし、南部のお米料理・北部の万頭料理も過不足無くたのしめた。店がすいていれば 莨 も遠慮しながらではあるが吸うことができた。馴染みの店とはそんなものである。

この店が人手にわたったらしい。看板はそのままだったが、すっかり料理もふんいきも変わり、即座に逃げだしたものの代わりの店が無かった。
ようやく「新宿御苑共和会通り」に気に入りの店をみつけた。ホールは小姐-シャオジェとオバサンの中間ほどの姉妹で、キッチンはふたり。旨くて安いから30-40名ほどの団体も相当はいるが、このふたりは平然と消化しているからかなりのものである。

団体席との仕切りに「吉祥もんじ ── 合体字」があった。手許の辞書に熟語「合体字」はなかったが、「合体-ふたつ以上のものがあわさって、ひとつになること」で十分だろう。
月例会でこの写真が話題になり、中国大連近郊出身の張さんが、中国陝西省(日本でも)で流行っている「ビャンビャンメン」も例にあげて「合体字」の解説にあたってくれた。

【 YouTube 李玉萍 (萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】


《招財進寳の字画構成と意味》
「招財進寳ーzhaocai-jinbaoーしょうざいしんぽう」は金運を招き寄せる吉祥紋ーもんじである。
まず「たから-の異体字のひとつ、寳」を選び、ウカンムリから上部を書き進める。下部の「貝」は何役も兼ねるのでいくぶん細身に書く。ついで右側に「才」を置くと「財」になる。「才」をテヘンにみなして右に「召」を書くと「招」が完成し、左側に「隹ーふるとり」を書き、「辶-シンニュウ」を勢いよく蚕頭燕尾にまとめると、アラふしぎ ── 招財進寶のできあがりである。
紹介動画は台湾の書芸家。YouTube の文字部をクリックすると別ウインドウがひらき、拡大画面でみることができる。

ほとんどの中国人はお金へのこだわりを隠そうとしない。それでも安くて旨い中国料理をたのしんで、お店もお客も大判小判がザックザクとなればいうことなしである。
上掲写真は張さんが陝西省西安で撮影した「ビャンビャンメン」。この合体字も麺もあまりうまくなかったとは張さんの言。なぜかこの「もんじ」は日本の一部ではやっていると聞いた。稿者はこの麺を西安・北京と葛飾区亀有でも食べたことがあるが、やはり流行り物で格別の意見はない。
中国と台湾には、ほかにも吉祥もんじとして「集字」「畳字」があるが、わが国では別の意味でもちられているので、すこし整理していずれ紹介したい。

[協力:青葉水竜さん、張 文一さん]
{関連:花筏 台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ 諸事大吉 文と寓意

【ことのは】台湾の縁起物|柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ|諸事大吉|文と寓意

台湾みやげ《開運臻寶 諸事大吉》
柿+ミカン+豚の組み合わせは、
なぜ 縁起がよいのか?

◎本稿は2012年10月18日 サラマ・プレス倶楽部ニュースに
    掲載されたものの再録である。いささか旧聞に属するが
  招財進寳ーショウザイシンポウにおもわぬ反応があったので
ここに一部を修整して再掲載した。

────────────────────
台湾旅行にでかけて、おみやげに「諸事大吉」とあった縁起物を買ったものの、もうひとつその縁起がわからないから、わかりやすく説明せよ …… との要望が参加者からあった。

そもそも中国・台湾では、まま  文+字 をもちいて、あるいは、ほかのものごとにかこつけて、それとなくある意味をほのめかせる「寓意」を駆使するから困るのだ。
そしてそれをくわしく説明すると「シッタカ」と揶揄される。ナラバと、おもいきり平易に説明すると「ウザイ」とされるから嫌になるのだが…… 。

これは一見ハロウィンのカボチャのようにもみえるが、柿 + ミカン(だいだい、橘)+ 豚(猪)を組み合わせたもので、正確には「開運臻寶シンポウ ── 諸事大吉」と呼ばれ、幸運をもたらす縁起物とされる。
すなわち「運勢がひらけ、宝物がどんどんやってくる。すべてのものごとが、このうえもなく良くなる」という、きわめておめでたいものである。 

「諸事大吉」の販促カタログをみると、ふんだんに商品解説が加えられている。その解説がおもしろい。原文の字面をながめるだけでも(むしろ原文のままのほうが)この縁起物の、寓意と諧謔 ユーモア がつたわりそうなのでここに紹介しよう。

  • 創新的思維加上古老的吉祥語意再融合藝術大師的手藝便造就了令人驚奇不已的逗趣可愛吉祥外型。
  • 橘子象徵吉祥,笑開懷的圓滾滾【諸事大吉】更象徵著凡事皆歡喜,諸事皆圓滿,大吉又大利,諸事皆順利。
  • 逗趣可愛外型,象徵極好之諸事大吉。
  • 笑顏常開諸事皆歡喜,諸事皆圓滿。

これだけでは不満そうなので、チョイと面倒でいつも嫌われるだが、もうすこしくわしく、写真の子豚ちゃんが寓意するところを解いてみた。
[参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月]

 【 柿 】
漢字音(中国読み)では、柿(Shih4)と、事(Shih4)は同音同声である。
したがって、ふたつ並んだ柿は「柿 柿」となって、多くのものごと「事 事 ≒ 諸事・百事・万事」をあらわす。
また唐の段成式は『酉陽雑俎』のなかで、柿には以下のような ななつの徳があるとのべている。
   1.壽がある
   2.多陰 → 夏に葉が茂り日陰を提供する
   3.鳥が巣をかけない
   4.蟲が寄りつかない 
   5.秋の霜に負けない(翫) 
   6.嘉実 ≒ 縁起のよい果物
   7.落葉肥大 → 落ち葉が大量で、よい肥料となる
このように柿とはもともと、雅ミヤビであり、俗でもあるが、まことに賞賛すべき果物である。

また、「獅」(Shih1)と、「柿・事」(Shih4)とは同音異声である。
すなわち「柿 柿」は、ここに「百獣の王たる 獅 子」をも寓意する。
これすなわち「諸事如意 ≒ すべてが意のごとくになる」のである。

 【ミカン → 橘】
中国・台湾では、ミカン、だいだいのことを、ふつう 橘 とあらわす。
ところで、おおきな橘 = 大橘(Ta4 Chu2)と、大吉(Ta4 Chi2)は音が相似ている。
すなわち、おおきなミカン=大橘は、幸福をもたらす大吉に相通じ、きわめて吉祥をあらわす。

 【豚 ≒ 猪】
中国・台湾では、ふつう豚は猪とあらわされる。その猪がなぜ珍重されるのかは、中国的形而上学がふんだんに織り込まれていて興味ふかい。
すなわち中国高級官僚登用試験「科挙」の成績上位者 3 名を「解元・会元・状元」の 大三元 と呼び、唐代には玄奘三蔵(ゲンジョウ-サンゾウ 三蔵法師 600?, 602?-664)ゆかりの西安・大慈恩寺の雁塔ガントウにその名を刻し、ひろく天下に公表された。それを「雁塔題名、金榜題名」と呼び、きわめて名誉なこととされた。

ところで豚の「蹄 ヒヅメ」と、「雁塔題名、金榜題名」の「題」とは、中国音ではともに「Ti2」とされ、同音同声である。
こうして猪=豚は、秀才・天才をあらわすこととなり、名誉なこととされる。
────────────────────
このようにして「開運臻寶シンポウ ── 諸事大吉」、すなわち「柿 + ミカン + 豚の組み合わせ」は、「可愛吉祥型であり、諸事に大吉をもたらし、諸事皆円満」となるのである。

さて …… 、これでご納得いただけたであろうか。
あれっ、どこからか、こんな蘊蓄ウンチクを聞かされるより、この愛らしい置物をみてるだけで幸せになれる、という声がきこえたような?

《もうひとつ、おまけ ── ホテルのキーホルダーの寓意》
今回の台湾旅行でのホテルは、皆さんとプチ贅沢して「圓山エンザン大飯店 Grand Hotel Taipei」に宿泊した。見た目は巨大な中国式の宮殿のようだが、街中の近代的なホテルとくらべても、ほとんど料金は変わらない。
かつて「圓山大飯店」は行政府の迎賓館としてつかわれ、台北第一の格式を誇ったホテルだった。それだけに近代ホテルでは味わえない、漢民族の歴史と伝統の重みを感じさせる重厚さがある。
それでも「圓山大飯店」は郊外の山の中腹にあって、交通はすこしく不便である。したがってこのホテルが選ばれたのは、いまの台湾は喫煙にとてもうるさく、かろうじてベランダでの喫煙が許される(黙認)のが、ここが選ばれた最大の理由だった。

ホテルのルームキーは、古風で、重量もかなりあるシロモノだった。これでは外出時にもちあるくのは辛いので、フロントにキー・ドロップすることになり、紛失も少なくなる効果もありそうだ。
このルームキーの形態は、中国春秋戦国時代(前 770-前 221)のころの貨幣「布貨 フカ」を模したものである。「布貨」は農機具のスキやクワに似せ、次次と勃興した春秋戦国時代の各国で、それぞれ意匠をこらしてつくられた。

古来農業国であった中国では、農具はたいせつな財産であり、その農具を模した青銅の貨幣を「布貨」と呼んでいた。その由来は、やはり貴重な商品であった「布帛 フハク ── 織物・絹」とどこでも交換されたので、その名がうまれたとされる。

こうした縁起をもった「布貨」を模したカギの表面には、このホテルの名称「圓山」を巧妙にデザインした意匠がみられる。
また「布貨」の裏面には、篆書風の字による「財」が配され、富貴をねがう国民性をすなおにあらわしている。
これがして台湾を<文+字 の国>とするゆえんである。

{ 新 塾 餘 談 }

2019年03月12日、台湾台北市「日星鋳字行」の張 介冠父子が来社。通訳は劉 慶さん。
台湾でも活字母型にさまざまな問題が発生しており、その解決策のご相談。はなしは複雑多岐にわたり、長時間におよんだ。張 介冠さんは根っからの技術者で、活字鋳造に熱中するだけで十分幸せだというひとであるが、母親から経営・経理を引き継ぎつつあるご子息は真剣だった。

その話し合いのなかで、最近日本からの見学者が多くあって、それは嬉しいことではあるが、
「ちょっと見学だけさせてください …….」という困った訪問客のはなしがでた。わが国ではふつうにみられる光景だが、どこの国でもこうした「Just looking」の訪問者は歓迎されないもの。
「日星鋳字行」は活字鋳造工場であり、活字販売所でもあるが、決して無料の博物館施設ではない。こころして訪問していただきたいところではある。

{初出:花筏 台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ 諸事大吉 文と寓意
[関連:Notes on Typography 【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう

【もんじ かきしるす】明治の写真士:内田九一| 医学伝習所・幕府医学所頭取:松本良順|牛痘接種法の普及者:吉雄圭斎と八丈島漂着を共にした本木昌造・平野富二|開港地長崎が〝えにし〟となった紐帯|其の壹

内田九一奥城 長崎大光寺内田家墓地 吉雄圭斎建立
【もんじ】長崎大光寺上段墓地にある内田家・間淵家墓地と内田九一奥城
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831  長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

【内田九一 うちだ-くいち 1844-1875】
幕末-明治初期の写真家。
弘化元年肥前長崎うまれ。蘭法医:吉雄圭斎の甥。圭斎の妻が九一の従姉であったため、九一が4歳のおり、妹菊とともに吉雄圭斎によって種痘(牛痘)の施術をうけた。13歳のおり父を亡くし、九一は松本良順が、菊は八歳で伯父の吉雄圭斎が引き取って養育した。松本良順(順)と吉雄圭斎に関してはのちに触れる。

明治天皇の束帯姿(明治5年4月、内田九一撮影)
明治天皇肖像写真(明治6年10月、撮影:内田九一 神奈川県立歴史博物館蔵)
明治帝御真影として官公庁・学校などに下賜されたもの(明治21年1月)。
お雇い外国人エドアルド・キヨッソーネが描いたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの。

長崎でポンペに化学を、上野彦馬から写真術をまなぶ。慶応元年大阪に滞在していた松本良順をたずね、大坂で写真館をひらき、のち横浜・東京で開業。明治5年宮内省御用掛として明治天皇の肖像写真を撮影、西国九州巡幸にも写真士として供奉してその名を知られた。
内田九一はその九州巡幸の折とみられるが、父祖のねむる大光寺本堂の写真ものこしている(長崎大学中央図書館蔵)。

ここで大光寺住職夫人に紹介いただいた、同寺所蔵:イタリアにうまれ英国に帰化したベアト(Felice Beato  1825-1903)による「大光寺本堂の前に立つ上野彦馬」(フェリーチェ・ベアト撮影、鶏卵紙、慶応年間ころ 長崎大学中央図書館蔵)の複製写真を紹介する。
おりしも2018年3月-5月「東京都写真美術館 ── 写真発祥地の原風景 長崎」が開催され、長崎歴史文化博物館にも巡回展示されていた。この撮影は同年11月下旬になしたものである。

上掲写真部分拡大:中央で棕櫚の幹に手をかけているのが上野彦馬とされるベアト撮影、上野彦馬とほぼ同じ位置に立った日吉洋人氏。2018年11月

この取材の同行者は、日吉洋人・大石 薫の両名であった。大光寺の複製写真はガラス付きの額に入った写真だったが、蘇鉄-ソテツ-に右手をかけた上野彦馬と同じ場所に立った日吉洋人氏を紹介する。蘇鉄の枝ぶりがかわり、慶応年間には無かった松があるが、百五十年余のこんにちでもほとんど大光寺本堂前の景観に変化がないことに驚いた。

これとほぼ同様のアングルからは、「慶応年間」のベアトに続き、上野彦馬が「明治初期」に撮影し、内田九一も「明治5年ころ」に撮影している。いずれも長崎大学中央図書館蔵であるが、「東京都写真美術館 ── 写真発祥地の原風景 長崎」の市販図録 pp 127-128 に見開きページで紹介されている。

本木昌造肖像 撮影:内田九一 推定明治7年

また小社周辺でもちいている本木昌造のおもな写真は、撮影日時は不明ながら、白髪と眼くぼの落ちこみ具合からみて、本木昌造最後の上京となった明治7年(1874)夏ごろの撮影とみられている。また台紙の記載から内田九一が東京で撮影したものとされている。

この写真はだいぶ前のことになるが、上杉千郷氏(当時:鎮西大社諏訪神社宮司)のご好意で、諏訪神社「文学の杜」で複製撮影をしたもので、簡便なカメラで稿者が撮影したものを、小社スタッフが階調補整したものをもちいている。
額入りで裏面は撮影できなかったが、『贈従五位本木昌造先生略傳』(古賀十二郎、昭和9年5月、印刷図書館・長崎歴史文化博物館蔵)には、いくぶん不鮮明ながら同一原版からとみられる写真とともに、台紙の影印も紹介されている。
羽織の家紋は本木家歴代の「◯ に 本」の家紋 ではなく、草体の仮名「も」に丸をあわせたもので、印刷・活字界で俗に「◯ も」とされる、本木昌造の創作による替え紋のようにみられる。

本木家塋域 大型墓前列右端 本木昌造墓
本木家塋域に数ヶ所みられる「◯ 本」の家紋
本木昌造の墓標には家紋・替え紋ともみられない

正面)故林堂釋永久梧窓善士 最勝院釋全託貞操大姉 右端にちいさく 贈 従 五 位 が追刻
右側面) 諱永久通稱昌造久美之義子也以文政十年甲申六月九日乙亥九月三日病歿千家享年五十二 追刻:明治四十五年二月二十一日宣下
左側面) 天保九年戊戌閏四月十二日生安政五年戌年七月十二日卒行年廿一歳本木久美實女永久妻俗号縫

本木昌造は明治8年春、東京での撮影の翌年関西に出向いたがそこで躰調をくずし、大阪活版製造所:谷口黙次(初代)、京都點林堂:山鹿善兵衛(号:栢年-はくねん)をはじめ、東京から駆けつけた平野富二らの介護をうけて、洛外の「落柿舎」で静養し、ようやく帰崎することができた。しかしその後も病床にあることが多く、明治8年(1875)9月3日に長崎で病没した。享年52。
内田九一は本木昌造の撮影後からまもなく持病の肺病が悪化し、本木昌造に先立って明治8年(1875)2月17日肺結核によって東京で逝去した。享年32。
ふたりはともに肥前長崎出身。長崎大光寺山内、本木家墓地に「本木昌造墓」、内田家墓地に吉雄圭斎建立による供養塔「内田九一奥城」がある。

[参考:『日本人名大辞典』(講談社)]

明治最初期の写真家:内田九一を偲ぶよすがは生誕地長崎ではすくない。わずかに「内田九一奥城」(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑乃至は供養塔をいう)が、長崎寺町のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の傾斜地、大音寺と崇福寺の墓地にはさまれた大光寺墓地にある。
寺の山内ではあるがこの奥城は神式で、戒名や墓誌めいたものはなく、内田家塋域の向かって右端に、「内田九一奥城」とのみきざまれて建立されている。建立者は長崎の蘭法医:吉雄恵斎によった。森重和雄氏の報告によると以下のようにしるされている。

この墓は『フォトタイムス』(昭和8年10月号)掲載の、松尾矗明「写真秘史古老達の話と諸方の記録(三)内田九一寫眞記(四)」によれば、長崎の吉雄圭斎が、内田九一が亡くなったことを悼みこの墓域内に供養墓を建立したものである。
[参考:幕末明治の写真師列伝 第六十一回 内田九一 その二十六 森重和雄

東京で歿した九一の墓は、はじめ東京王子に設けられ、松本順とその遺族が世話をしていたが、のちに妻:おうたが遺骨のはいった骨壺と「内田九一墓誌銅板」とともに大阪に移設したとされる。

内田家塋域は大光寺本堂左手から「登坂」をはじめ、本木家墓地を経てさらに上部、右手に岡部家の広大な墓地の先を左に折れる。
境界の目印が無いから解りづらいが、岡部家の墓地は隣の崇福寺墓地にあたり「元崇福寺末庵廣徳院」の跡とされる。崇福寺は禅宗のひとつ黄檗宗の寺で、唐寺とも呼ばれ中国との関係が深い古刹である。
その角、大光寺側にある「中島家塋域」 石闕の甲骨文の釈読 {先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え}は、古谷昌二氏の協力を得て既に紹介した。

内田家の塋域入口には石塀があり、蔓草がからんでいるが「間淵 内田」と もんじ があり、上部に半円形の「図形」乃至は もんじ が彫りこまれている。この「図形」はひとまず措いて、もんじからみてみよう。
「間淵」はのちに刻されたもので、大光寺住職夫人によると、現在は間淵家がこの塋域の使用者であるとされる。また内田家縁者が関西方面から毎年訪崎して供養にあたっているという。
塋域中央部に間淵家の墓があり、石灯籠をはさんで右手に二基の石塔、内田家の墓と内田九一奥城がある。間淵家と内田家の関係は不詳である。

また内田家の来歴はつまびらかにしないが、もっともふるいとみられる中央の「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の戒名をもつ墓標に刻された もんじ は興味ふかいものがある。

浄土真宗の寺なので、墓石正面の六字名号「南無阿弥陀仏」はあたりまえだが、二字目が「無 → 无」になっている。これは「无 U+5B83   字音:ム・ブ 意読:ない」であり、易経・乾に「无咎-咎なし」をみる。
したがってここでは「無 → 无」と同音同義の異字に置きかえられたとみられる。これはどこかの墓標か経文で類似のものをみた記憶があったので手許資料を探したが見つからなかった。

最終の「佛」はいわゆる旧字体だが、四字目の「彌 → 弥」は新字体にちかく、よくみると旁の屈曲にみるように、いまも俗字とされる結構になっている。
最大の難関は五字目の「陀」である。阜偏-こざとへん-に、旁・色をあてたような字である。本来「陀」は梵語 ダ を中国音に訳すときに当てられた字で「佛陀 ブッダ」とされた。「解字」によれば「陀 会意兼形声。阜〈こざとへん〉+音符 它 タ ── 長くのびる」の意である。

そこで「它」をみると、「它 U+5B83  字音:タ  tā 意読:へび・ほか」となる。意味は名詞:へび → 蛇 ダ・ジャの原字で「竜它 → 竜蛇」の使用例をみる。
「解字」によれば「象形。毒へびを描いたもの。古代には毒へびが多かったので、{它〈タ〉無キヤ}ときいた。転じて「別状ないか」の意となり、そこから 它 は別のこと、ほかの、などの意となった」とあり、必ずしも吉字とはいえないようである。

したがってここでの六字名号「陀」は、阜偏-こざとへん-はのこして、旁を「般若心経 ── 色即是空・空即是色」、あるいは難読語とされるが「色陀-しこだ」などにより、吉字とみなされた「色」に置きかえたが、やはり憚るところがあったのか、減筆によって一画を減じて書きあらわしたのではないかと解釈した。先行事例ほか、ご意見をたまわれば幸甚である。

餘談になるが…… 、庶民藝能として誕生した歌舞伎は、役者も観客も庶民信仰が篤かった浄土宗・浄土真宗の信徒がおおく、「南無阿弥陀仏」の六字名号を敬し、歌舞伎の演目に六字からなる題名を避けるならわしがある。

また、かつて稿者は東京文京区千石の一行院に 徳本行者 の足跡をたずね、慶応四年刊・お家流書風による木版刊本『徳本行者傳』の活字による現代語訳を試みた経験がある。
徳本は紀州和歌山出身の浄土宗の僧侶で、徳川十一代:家斉の庇護をうけて一行院(文京区千石1丁目14)をもうけて念仏三昧の日々をおくり、また各地に行脚して、そこの浄土の寺には、独特の書風による「徳本名号碑」が建立された。それをどこかの雑誌に書いたが、いまとなるとチト恥ずかしいものがある。

「徳本名号碑」はおよそ能筆とはいえず、六字を単体でばらしたら判読に悩みそうな字であるが、そこは六字名号のありがたさ、たれもが「南無阿弥陀仏」と唱え、その遊行行脚の地には多数の信者からの寄進がよせられた。それらのすべてを滞在先の浄土の寺にのこして去った徳本行者を慕って、文京区小石川:傳通院、長野:善光寺、伊豆や近江、都内の各地をはじめ、東日本を中心に浄財をもとにした「徳本名号碑」がのこされた。

琵琶湖畔彦根にある簡素な浄土宗の寺、宗安寺山門脇の「徳本行者名号碑」
彦根市本町2丁目3-7に宗安寺はある。この通称赤門とされる「山門」は
石田三成の居城、佐和山城の表門を移築したものとされる。

長崎大光寺墓地にある内田家塋域にある六字名号「南無阿弥陀仏」が刻された墓標
徳本名号碑をみたあと、改めて長崎の墓標をみた。やはり特異な もんじ である。

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

[参考:花筏 朗文堂好日録-028 がんばれ! ひこにゃん !! 彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種

《 内 の金文 内 の角字 》

ここで保留にしていた内田家塋域入口の石塀と、「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の戒名をもつ墓標の献花台・燭台にみる奇妙な「記号」に戻りたい。

『書体大百科字典』(長坂一雄、雄山閣出版、平成8年4月 pp 108)
本書「内」の三段目「51. 西周金文」の標本「内」にきわめてよく似ている。

長崎異国情緒というと、近年はオランダ出島観光を中心にかたられることが多いが、江戸期長崎はまた、中国福建省出身者を中心とする「唐人屋敷」があり、清国との貿易も盛んであった。したがってこんにちでも長崎では、春節 ── 旧正月の祝いが「ランタンフェスティバル」とされて、盛大に催されている。また大光寺は隣接して唐寺とも呼ばれている崇福寺があり、漢学・儒学・字学の素養にたけた人材がいたことは忘れられがちである。
[関連:活版アラカルト 【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の墓標では、『書体大百科字典』にみる「金文-きんぶん- 内」を実に精妙に図形化して献花台・燭台・石塀などに刻されている。この墓の建立者・被葬者は明確でないが、おそらく内田九一の両親の墓とみて良いとおもわれる。建立者も未詳だが、成人になった折りの内田九一による可能性があり、そうすると「字」では無く、瀟洒な「文 ≒ 紋に見立てた「金文 内」の使用も首肯できる。

【 参考:金文 きんぶん 周 しゅう Zhōu 
中国古代の王朝名、またこの王朝が存立した時代・文化の名にも使用する。紀元前1050?-前256年。司馬遷『史記』によると、尭帝の農官であった后稷-こうしよく-が始祖とされる。后稷の15世のちの子孫の武王が、前1050年ころ商と自称していた国家、商王帝辛を牧野(河南省淇県)で破り、ここに商を倒して殷とし、帝辛を紂王(蔑称)として、あらたな王朝「周」を鎬京-こうけい-(陝西省西安近郊)に創設した。
この王朝は前771年に一度滅び、前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され、前256年第37代赧王-たんおう-のとき戦国七雄のひとつ秦によって完全に滅ぼされた。
そのため前771年を界として、それ以前は都が西の西安西郊にあったので西周時代、以後は都が東にうつったので東周時代(春秋戦国時代ともいう)とよぶ。近年の研究では周も商と同様にふるくから甲骨文-こうこつぶん-をもちい、金文(きんぶん-青銅器などにのこされたもんじ)をのこしている。周が王朝としての実力を保持していたのはおもに西周時代である。

ちなみに戒名にみる「嵒」は「嵒 U+5D52  字音:ガン・ゲン 意読:いわお・いわ」で、同音同義の異体字「嵓」をもつ。「解字」では「会意 口印三つでゴロゴロした石+山」で、山中にころがる岩石をあらわす。
[参考:活版アラカルト【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

最後に「内田九一奥城」は本名(俗名)だけがしるされた簡素なものだが、仔細にみると台座と水盤に「◯ 内」ともみられる同一の紋様がみられる。前述の半円形の金文「内」とは異なり、軽やかさが無く重厚である。

『伊呂波引定紋大全』(盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地]明治30年頃 雅春文庫蔵)
「伊呂波寄名頭字儘 ── 此の字尽くしの中に出がたき時は、ヘンあるいはツクリに依って作るべし」[釈読:この字種見本に無い字のときは、偏と旁によって作字すべし]

いわゆる文様帳『伊呂波引定紋大全  いろは-びき-じょうもん-たいぜん』を紹介した。こ のような書物は、かつて「紺屋 コウヤ、染め屋」 などと呼ばれていた 「染色士」にむけて、おもに家紋のほとんどを詳細に紹介していたために、俗に 「定紋帳・紋帳・家紋帳」などとされていた実用書であった。

その一部には 「技芸家 ・ 工芸家」 に向けた 「文字の構成と書法」が説かれたいた。類書としては印判士に向けたより豊富な字種と書体による実用書もあるが、こうした書物は文字の紹介書として、魅力と示唆に富む好著が多い。
同書「う」の項目に「内」はなかったが、『伊呂波引定紋大全』などの実用書によれば、10×10の格子目にあわせて、左右対称形の「内」は容易に描くことができる。これは「 内 の角字-かくじ」に丸を冠したもので、ほかにも類例がありそうな「家紋・紋様」であろう。

[関連:花筏 タイポグラフィ あのねのね 002|タイポグラフィ あのねのね 002|【角字 かく-じ】 10×10の格子で構成された工芸のもんじ

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長崎にあまりにも内田九一の資料がすくないので、ついムキになって資料漁りをした。本稿はまだ松本良順(維新後は松本順)、吉雄圭斎に関しては保留したままになっている。
ここまでの間、岩永正人(本木昌造顕彰会前会長)、宮田和夫(日本二十六聖人記念館)、春田ゆかり、日吉洋人各氏の支援をいただいた。特にしるして謝意を表したい。[この項つづく]

【符号 ≢ もんじ】本木良永|長音符号(音引き)を、漢の字「引」の旁 ツクリ からとって「ー」と制定|『太陽窮理了解説』和解 ワゲ草稿

『太陽窮理了解説』和解 ワゲ草稿 ── 本木良永
長音符号(音引き)を、漢の字「引」の旁 ツクリ からとって、「ー」と制定した

【本木良永 もとぎよしなが 1735-1794】
江戸中期の蘭学者。通称栄之進、のち仁太夫-にだゆう、あざなは士清、蘭皐-らんこう-と号した。長崎の医師:西 松仙-にし しょうせん-の次子として生まれる。伯父本木良固-りょうこ-の嗣子-しし-となり、本木家第三代の通詞となる。オランダ商館長の江戸参府にも随行した。

わが国にはじめて「地動説」を『天地二球用法』(1662年刊のオランダのブラウ Willem J. Blaeu(1571-1638)の著書の抄訳本)から訳出して1774年(安永3)に紹介した。
さらに1791年(寛政3)、長崎奉行の命を受けて、『星術本原太陽窮理了解新制天地二球用法記』7巻325章附録1巻(イギリスのアダムスGeorge Adams(?-1773)の1769年刊のものの蘭訳本が原著とされる)を1793年に訳了、幕府天文方に献上した。
これらの書物は公刊されなかったが、当時長崎に留学してきた蘭学者らによって広まり、とくに司馬江漢-しばこうかん-の『刻白爾-コッペル-天文図解』(1808年刊)などは有名である。ニュートン力学を紹介した志筑忠雄-しづき ただお-は彼の弟子である。
[参考:『日本大百科全書』小学館、『日本人名大辞典』(講談社)]

本木良永肖像 肩衣と羽織に本木家歴代の正紋「本」を図形化したものがみられる
『医家先哲肖像集』(藤浪剛一、刀江書院、1936年)国会図書館デジタルコレクションゟ
長崎大光寺にある本木家塋域:本木良永墓標 燭台に家紋「本」をみることができる
『太陽究理了解説 和解草稿』第二巻冒頭  凡例に相当するページ
(「本木家文書」長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 稿者立ち会い)

算数文字別形
1  一  2   二    3  三   4   四  5  五   6  六  7   七   8   八   9  九  0  十
一 オランダ語の音声をあらわすとき、日本のカタ仮名文字を用いる。
濁音[ガギグゲゴなど]には、カタ仮名の傍らに〝 のようなふたつの点を加える。
その余の異なる音声[半濁音、パピプペポ]には、やはりカタ仮名の傍らにこのように ° 小圏[小丸]をしるす。
また促呼する音声[促音]には、ツノ字[角書きツノ-ガキのこと・菓子や書物の題名などの上に複数行にわけて副次的に書く文字]を接し、
長く引く音には、引の字のツクリを取りて『ー』のごとくしるす。
かつカタ仮名の[以下数文字判読不能)新字を為し、このように記し、かつカタ仮名の傍らにこのような字をつけてしるしても、まだオランダ語の語音をあらわしがたい。
そこで唐通事[中国語の通訳]石崎次郎左衛門に唐音をまなんで、オランダ文字と漢字[当て字]をあわせてしるすなり。

いずれにしても、本木良永訳『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊には、今回紹介したようなおどろくべき事実がしるされている。もちろんこうしたあたらしい表記方法は、個人の創意工夫だけによるものではなく、同時発生的に、各地、各個人も実施していた可能性は否定できない。
またここではあくまで印刷術研究の一環としてふれたものであり、記号論・音声学・音韻学的な分析までは及ばないことをお断りしたい。だからこそ『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開が待たれるいまなのである。

[関連:花筏 タイポグラフィあのねのね*005 長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』
[参考:国立天文台 暦計算室 貴重資料展示室 江戸時代後期書物に見る「宇宙のはて」

【もん】先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え

Notes on Typography  2019年02月01日
【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺と崇福寺墓地のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
この石の門には、どんな 文、はたまた 字 がつづられ、どんな 意味 があるのでしょう?
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長崎の墓所入口にある甲骨文について判読してみました。
甲骨文は異体(字)が多く確定はできませんが、次のように判読しました。
向かって右側の門柱は、「 先  祠  中 」
向かって左側の門柱は、「 思  父  祖 」
その意味するところは、
「祖先の墓所の中では、父祖のことを思え」
と解釈しました。頭の体操をさせて頂きました。[古谷 昌二]

☆    ☆    ☆    ☆

2019年02月01日、上掲写真を紹介すると共に、その読みと意味を何人かに質問した。早速回答をいただいたのは古谷昌二さんで上部に紹介した。
その間「石の門柱」ではいかにも座りがわるいので、知り合いの石材店に呼称をうかがった。ふつうは単に「門・石門」などと呼んでいるが、「石闕-せっけつ」と呼ぶことがあるとの回答をいただいた。

この「石闕」は長崎大光寺の墓地中腹にあるが、すぐ隣接して長崎「三福寺」のひとつ、唐寺として名高い「崇福寺-そうふくじ」の墓地とも正対している。すなわち唐文化からの影響もおおきいとみられた。そこで大光寺と崇福寺の両寺の歴史をみてみた。

大光寺は浄土真宗本願寺派の寺。慶長一九-1614年僧慶了が創建、万治三-1660年現在地の鍛冶屋町にうつり、一度も火災に合わなかったが、堂宇の一部は大正二-1913年に新しく建てなおされている。墓地には本木家歴代墓、西郷四郎墓、内田九一供養塔などがある。

崇福寺-そうふくじ」は、長崎市にある黄檗禅宗の寺院。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。
寛永六-1629年、長崎で貿易をおこなっていた中国福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や唐寺と称せられた。

第四代住持 隠元隆琦 は、のちに徳川家の庇護をうけて宇治に黄檗山萬福寺を創建し、仏教百科事典ともいうべき萬暦版一切経『嘉興蔵』(下掲図版左)をもたらした。
その萬暦版一切経をもとに、山内の宝蔵院住持:鉄眼禅師が覆刻(かぶせ彫り)したのが「鉄眼一切経」(下掲図版右)で国の重要文化財となっているが …… 。

【闕-けつ 石闕-せっけつ】

闕は古代中国の宮殿、祠廟、陵墓などの門前の両脇に張り出して左右対称に設けられた望楼。中間が闕然として何もないことから、その名がある。闕の名称は西周時代の文献にすでに見える。一般に高い基壇の上に楼閣を立てたが、のちには石造でそのかたちをかたどったものもつくられた。
実物としては高頤闕-こういけつ-などの漢代の石造墓闕や、画像石に描かれたもの、壁画墓の墓道両脇に描かれたもののほか、北京故宮(紫禁城)の午門がこの形式になる。

石闕は本来木造であった闕を石でまねてつくった石造物で、大型墓の神道(神道碑-しんどうひ)や、祠廟の入口を飾った。石闕は必ずしも古代の木造の闕を忠実に模倣したものでなく、かなり簡略化したり誇張されており、個々によってかなり異なった形態をとる。
[参考:『世界大百科事典』平凡社]

【国立公文書館】企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」|一筆啓上仕候 …… 私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札|面倒なものです

私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札
一筆啓上仕候 ……

わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ
いっぴつけいじょうつかまつりそうろう ……..

上野国伊勢崎藩の前藩主酒井忠恒(寸升)は、元治元年(1864)に幕府へ湯治願を提出しました。本資料は、酒井寸升が幕府老中宛に差し出した湯治願が許可されたことに対する御礼の書状です。

{新宿餘談}
国立公文書館本館で、平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」が開催されている。展示資料のなかに上掲「私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札-わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ」があった。
本資料は、伊勢崎藩[前橋藩の支藩。維新時には二万石]の前藩主:酒井忠恒(寸升)が、幕府閣老・老中に湯治願を提出し、255年ほど前の元治元年(1864)にその湯治願が許可されたことに対する御礼の書状と解説されていた。

本文は文語、いわゆる候文で、仮名の使用はみられない。文末に署名し、さらに花押(かおう-署名の下に書く判、書き判ともいう。草書で書いた名をさらに様式化したもの)があり、その上部にちいさく忠恒としるしてある。さらに老中の姓と官職名を列記する大仰さであった。

隠居した大名でも、江戸・任地を離れる際にはこんな願い書を出し、許可が出れば礼状をしたため、戻れば報告するのが決まりであったようである。
町人も旅に出るのにはしかるべき町方の許可を得て、旅手形が発行され、それがない者は各地に設けられた関所を通過できず、宿にも泊まれなかったとされる。
明治維新後、大名は藩知事などの変遷を経て華族となったが、民衆の移動の自由が保障されたのは明治憲法の発布を待ってからのことになる。温泉にいくのにも容易ではなかったことがわかる。

国立公文書館
平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」
会  期  平成31年1月26日[土]-3月9日[土]
開館日時  毎週月曜日-土曜日 午前9時15分-午後00分
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
      千代田区北の丸公園3-2 1階展示場
入  場  料  無  料
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日本人が古くから親しんできた温泉。江戸時代には、名所図会、紀行文などを通して情報が広く流布し、多くの人々が温泉地に訪れました。本展示では、江戸時代の資料を中心に、人々と温泉の関わりをご紹介します。

【 詳細: 国立公文書館 】 {関連:活版アラカルト

【 伊勢崎藩-いせさきはん 】
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【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺うしろ山(風頭山-かざがしらやま)の大光寺と崇福寺墓地の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
どんな文、はたまた、どんな字がつづられ、どんな意味があるのでしょう?

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【もん】三升紋-みますもん|歌舞伎界の宗家市川家の定紋|市川團十郎と成田屋一門

三升-みます-紋

市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門〔成田屋〕の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。

その市川團十郎家の定紋は「三升-みます-紋」とされる。「三升紋」は大中小の三つの升形-ますがた-が、入れ籠-いれこ-になったもので、世間によく知られた図柄だが、その誕生のヒントは初代市川團十郎(1660-1704)が、不破伴左衛門の衣裳にある稲妻からとったとか、その役に添え柄としたとか、諸々の説がある。
しかし、その初代の父:堀越重蔵と親友だった侠客:唐犬十右衛門(初代の幼名海老蔵の名付親)から初舞台に贈られた三つの升にちなむという話をとりたい。役者と侠客、義理と人情、ありそうな事だ。
宗家以外の一門は、三升の中に頭字を入れる。市川左團次は「左」を、市川段四郎は「段」を。市川團蔵はどうすると聞かれ、これは困った。縦長-たてなが-三升か、丸に結柏-むすびがしわ-がその答。
[ 参考:成田屋 市川團十郎市川海老蔵公式 Web サイト  成田屋早わかりゟ補整

  

歌舞伎美人ニュース 2019年01月14日

2020年5月、十三代目市川團十郎白猿の襲名披露を発表

2020年、5月、6月、7月の歌舞伎座で、市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を襲名することが発表されました。
同時に、海老蔵長男の堀越勸玄-かんげん-が八代目市川新之助として初舞台を行います。

「この度、私、十三代目市川團十郎白猿を襲名させていただく運びと相成りましてございます。歌舞伎界におきまして市川團十郎は大きな名跡でございます。このうえは己の命の限り、懸命に歌舞伎に生きてまいりたい所存でございます」。
歌舞伎座の緞帳が上がり、緋毛氈に勸玄とともに並んだ海老蔵は、しっかりと前を見据えて襲名への決意を語りました。

團十郎という名跡の大きさ
十二代目が平成25(2013)年2月3日に亡くなってから7年となる来年、再び團十郎の名跡が十三代目としてよみがえります。俳名として二代目團十郎から栢莚-はくえん-を名のり、その俳名を五代目が、人間に及ばない猿という俗信をふまえ、名人に及ばないという意で白猿に変えました。
「私も父や祖父にまだまだ足もとにも及ばぬ、これからもっと精進していこうという気持ちも含め、白猿を俳名として名のることにしました」。

團十郎という名跡について海老蔵は、
「歌舞伎界にとりまして、たいへん重い名跡と理解しております。初代から父の十二代目まで、歌舞伎十八番、新歌舞伎十八番、荒事を中心にやっている家でございまして、いろいろなものを背負い、抱え、その時代に責任をもっていくことが必須になる。そのなかで自分が今できることを、少しずつやっていこうと思います」。
父を見てはいたけれど、
「なってみないとわからない、計り知れない重みがあるんだと思う」
と、その名前の大きさに自ら気を引き締めていました。〔中略〕

新團十郎とともに八代目新之助の初舞台
海老蔵が35歳で父を失った翌月に生まれた勸玄-かんげん-が、十三代目團十郎襲名と同時に、八代目新之助を名のって初舞台を踏みます。
この4月から小学生となる勸玄は、平成27(2015)年11月歌舞伎座『江戸花成田面影』で初お目見得以来、今月の新橋演舞場まですでに4度、本興行に出演、7歳での初舞台となります。團十郎襲名の公演で初舞台を踏むのは父と同じです。

「この度、父も名のっておりました市川新之助の名跡を、八代目として相続いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします」。
はっきりと通る大きな声で挨拶した勸玄。
「襲名を決める以前から彼は(自分を)新之助と思っているところがあり、本当は海老蔵を継ぎたかったみたい」
との紹介にちょっと照れ笑い、子どもらしい可愛らしさがのぞきました。
『玉兎』『幡随長兵衛』がやってみたいと、すでに父の背中を追って歩み出しています。

海老蔵は、「歌舞伎の家に生まれたということでやっていますが、あとは、本人がどのような気持ちで歌舞伎というものに向き合っていくのか。これからさまざまなことがございまして、未熟な私がどの程度支えられるかわかりませんけれど、彼がどういうふうに逃げずに受け止めていくのか」。
堂々と挨拶する姿に目を細め、遊ぶより稽古が好きという頼もしい息子に、
「お稽古が好きというのは舞台が楽しいのかなと。舞台が好きなのは歌舞伎の家に生まれてよかったのではないかと感じます」。

十三代目市川團十郎白猿襲名披露の興行は、歌舞伎座、2020年5月、6月、7月のほか、11月博多座、2021年2月大阪松竹座、4月名古屋御園座、11月京都南座と続きます。
また、2021年3月と9月は全国各地での巡演も行われます。八代目新之助の初舞台は、歌舞伎座の3カ月興行のなかで行われる予定です。

「十三代目團十郎白猿襲名披露 八代目市川新之助初舞台」記者会見の模様は、ニコニコ動画「歌舞伎チャンネル」で、ダイジェスト版をご覧いただけます。

【 詳細: 歌舞伎座 歌舞伎美人
[ 参考:成田屋 市川團十郎 市川海老蔵 公式 Web サイト

【もん】歌舞伎は伝統芸能|そこには様〻な もん がみられます|櫓-やぐら 梵天-ぼんてん

  ニュース   歌舞伎座で櫓揚げ 2013年06月06日
歌舞伎座で、櫓揚げ-やぐらあげ-がおこなわれました。

歌舞伎座櫓揚げ

歌舞伎座正面玄関で朝から本格的に始まった櫓揚げの作業は、昼過ぎには無事終了、2年10カ月ぶりに歌舞伎座に櫓が揚がりました。
江戸時代、幕府公認の証として芝居小屋の正面に揚げられていた櫓は、現代では、歌舞伎の殿堂である歌舞伎座に欠くことのできないものの一つとなっています。

櫓は幅3.3m、高さ2.7m。5本の槍を横たえ、2本の梵天-ぼんてん-が組まれており、また、正面に歌舞伎座の座紋である「鳳凰丸-ほうおうまる」、左右の側面には「木挽町 きゃうげんづくし 歌舞伎座」の文を染め抜いた三方の幕で囲われています。

作業を行った鳶頭の石津弘之さんは、
「この作業は、これから〝新しく始まる〟という大変喜ばしいものです。非常に名誉なことで、うまく揚げることができてよかった」
と胸をなでおろし、はじめておこなった歌舞伎座の櫓揚げを順調に終えた満足感を表しました。

 

 ニュース  京都四條南座に櫓-やぐら-が上がりました 2018年09月25日

京都四條南座に櫓-やぐら-が上がりました。
かなり高い位置なので、道路をはさんで向かい側からご覧ください。

南座の正面には新調された「櫓」が上がり、その両側には白い御幣「梵天-ぼんてん」も立ちました。八百万-やおよろず-の神と見なした数である 800 枚の美濃紙を使い、2 週間かけてつくられた梵天は、神の依代-よりしろ-としての役目も担います。

大提灯が四条通のランドマークの一つとして帰ってきました!

そして、南座のシンボルともなっている赤い大提灯も新調され、劇場正面玄関の左右に掲げられました。手すきの越前和紙でつくられた大提灯がいつもの位置に収まると、光を放つような輝きを得て四条通によみがえりました。

{新宿餘談}

櫓 - やぐら 梵天 - ぼんてん

劇場用語。芝居や相撲の興行場に付属している高い構築物のこと。やぐらとはもともと弓矢などの武器を入れる倉、つまり矢倉・矢座から出たものとおもわれる。城郭建築で敵に対して弓矢・礫などによる防戦や物見のために建造された高楼から転じて、歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場において、正面出入口の上にのせた構造物をいう。
炬燵櫓のような形で、屋根はなく、大きさは江戸中期には九尺四方(歌舞伎)と、七尺四方(人形浄瑠璃)とほぼ定まっていた。

櫓には座元の紋を染め出した〈櫓幕〉が引きめぐらされており、江戸初期の形式には、上に梵天-ぼんてん(幣束-へいそく ≒ 御幣)をたて、毛槍を五本並べたものが多い。梵天をたてることは、櫓が元来神を勧請するために天へ向けて高く構築されたものであったことを示しているといえる。

櫓の中では〈櫓太鼓-やぐらたいこ〉を打って興行のあることを知らせた。そのことから〈太鼓櫓〉ともいった。江戸の歌舞伎の櫓太鼓は文化期(1804-18)以後ほとんど廃されたが、相撲興行では今日なおおこなわれている。

また、櫓は官許の興行権所有のしるしとして重要な意味をもっていた。そこで、興行権を与えることを〈櫓を許す〉、興行を開始することを〈櫓を上げる〉といい、興行権を〈櫓権〉、興行権の所有者の座元のことを〈櫓主〉と呼んだ。江戸の歌舞伎の興行権は、正徳四(1714)年以後、中村座・市村座・森田座の〈江戸三座〉の座元に限って与えられる世襲の特権であった。
この三座が興行不能に陥った場合には、代わって興行する〈控櫓〉の制度が設けられていた。享保一九(1734)年に森田座が借財のため休座するに至ったため、その休座中に限り河原崎座に興行代行の許可がおりたのがはじまりで、中村座には都座・玉川座、市村座には桐座、森田座には河原崎座が控櫓と定まったのである。
この控櫓(〈仮櫓〉ともいう)に対して、江戸三座を〈本櫓〉(〈元櫓〉ともいう)と呼んだ。官許の常設劇場以外の宮地芝居を〈笹櫓〉と呼んだ。櫓の下に掲げた看板は〈櫓下看板〉といい、人形浄瑠璃でもここに一座を代表する芸人の名を記した〈櫓下看板〉を掲げた。
[参考資料:『新版 歌舞伎事典』(平凡社)]