もん」カテゴリーアーカイブ

【もん】先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え

Notes on Typography  2019年02月01日
【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺と崇福寺墓地のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
この石の門には、どんな 文、はたまた 字 がつづられ、どんな 意味 があるのでしょう?
────────────────

長崎の墓所入口にある甲骨文について判読してみました。
甲骨文は異体(字)が多く確定はできませんが、次のように判読しました。
向かって右側の門柱は、「 先  祠  中 」
向かって左側の門柱は、「 思  父  祖 」
その意味するところは、
「祖先の墓所の中では、父祖のことを思え」
と解釈しました。頭の体操をさせて頂きました。[古谷 昌二]

☆    ☆    ☆    ☆

2019年02月01日、上掲写真を紹介すると共に、その読みと意味を何人かに質問した。早速回答をいただいたのは古谷昌二さんで上部に紹介した。
その間「石の門柱」ではいかにも座りがわるいので、知り合いの石材店に呼称をうかがった。ふつうは単に「門・石門」などと呼んでいるが、「石闕-せっけつ」と呼ぶことがあるとの回答をいただいた。

この「石闕」は長崎大光寺の墓地中腹にあるが、すぐ隣接して長崎「三福寺」のひとつ、唐寺として名高い「崇福寺-そうふくじ」の墓地とも正対している。すなわち唐文化からの影響もおおきいとみられた。そこで大光寺と崇福寺の両寺の歴史をみてみた。

大光寺は浄土真宗本願寺派の寺。慶長一九-1614年僧慶了が創建、万治三-1660年現在地の鍛冶屋町にうつり、一度も火災に合わなかったが、堂宇の一部は大正二-1913年に新しく建てなおされている。墓地には本木家歴代墓、西郷四郎墓、内田九一供養塔などがある。

崇福寺-そうふくじ」は、長崎市にある黄檗禅宗の寺院。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。
寛永六-1629年、長崎で貿易をおこなっていた中国福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や唐寺と称せられた。

第四代住持 隠元隆琦 は、のちに徳川家の庇護をうけて宇治に黄檗山萬福寺を創建し、仏教百科事典ともいうべき萬暦版一切経『嘉興蔵』(下掲図版左)をもたらした。
その萬暦版一切経をもとに、山内の宝蔵院住持:鉄眼禅師が覆刻(かぶせ彫り)したのが「鉄眼一切経」(下掲図版右)で国の重要文化財となっているが …… 。

【闕-けつ 石闕-せっけつ】

闕は古代中国の宮殿、祠廟、陵墓などの門前の両脇に張り出して左右対称に設けられた望楼。中間が闕然として何もないことから、その名がある。闕の名称は西周時代の文献にすでに見える。一般に高い基壇の上に楼閣を立てたが、のちには石造でそのかたちをかたどったものもつくられた。
実物としては高頤闕-こういけつ-などの漢代の石造墓闕や、画像石に描かれたもの、壁画墓の墓道両脇に描かれたもののほか、北京故宮(紫禁城)の午門がこの形式になる。

石闕は本来木造であった闕を石でまねてつくった石造物で、大型墓の神道(神道碑-しんどうひ)や、祠廟の入口を飾った。石闕は必ずしも古代の木造の闕を忠実に模倣したものでなく、かなり簡略化したり誇張されており、個々によってかなり異なった形態をとる。
[参考:『世界大百科事典』平凡社]

【国立公文書館】企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」|一筆啓上仕候 …… 私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札|面倒なものです

私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札
一筆啓上仕候 ……

わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ
いっぴつけいじょうつかまつりそうろう ……..

上野国伊勢崎藩の前藩主酒井忠恒(寸升)は、元治元年(1864)に幕府へ湯治願を提出しました。本資料は、酒井寸升が幕府老中宛に差し出した湯治願が許可されたことに対する御礼の書状です。

{新宿餘談}
国立公文書館本館で、平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」が開催されている。展示資料のなかに上掲「私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札-わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ」があった。
本資料は、伊勢崎藩[前橋藩の支藩。維新時には二万石]の前藩主:酒井忠恒(寸升)が、幕府閣老・老中に湯治願を提出し、255年ほど前の元治元年(1864)にその湯治願が許可されたことに対する御礼の書状と解説されていた。

本文は文語、いわゆる候文で、仮名の使用はみられない。文末に署名し、さらに花押(かおう-署名の下に書く判、書き判ともいう。草書で書いた名をさらに様式化したもの)があり、その上部にちいさく忠恒としるしてある。さらに老中の姓と官職名を列記する大仰さであった。

隠居した大名でも、江戸・任地を離れる際にはこんな願い書を出し、許可が出れば礼状をしたため、戻れば報告するのが決まりであったようである。
町人も旅に出るのにはしかるべき町方の許可を得て、旅手形が発行され、それがない者は各地に設けられた関所を通過できず、宿にも泊まれなかったとされる。
明治維新後、大名は藩知事などの変遷を経て華族となったが、民衆の移動の自由が保障されたのは明治憲法の発布を待ってからのことになる。温泉にいくのにも容易ではなかったことがわかる。

国立公文書館
平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」
会  期  平成31年1月26日[土]-3月9日[土]
開館日時  毎週月曜日-土曜日 午前9時15分-午後00分
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
      千代田区北の丸公園3-2 1階展示場
入  場  料  無  料
────────────────
日本人が古くから親しんできた温泉。江戸時代には、名所図会、紀行文などを通して情報が広く流布し、多くの人々が温泉地に訪れました。本展示では、江戸時代の資料を中心に、人々と温泉の関わりをご紹介します。

【 詳細: 国立公文書館 】 {関連:活版アラカルト

【 伊勢崎藩-いせさきはん 】
続きを読む

【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺うしろ山(風頭山-かざがしらやま)の大光寺と崇福寺墓地の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
どんな文、はたまた、どんな字がつづられ、どんな意味があるのでしょう?

続きを読む

【もん】三升紋-みますもん|歌舞伎界の宗家市川家の定紋|市川團十郎と成田屋一門

三升-みます-紋

市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門〔成田屋〕の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。

その市川團十郎家の定紋は「三升-みます-紋」とされる。「三升紋」は大中小の三つの升形-ますがた-が、入れ籠-いれこ-になったもので、世間によく知られた図柄だが、その誕生のヒントは初代市川團十郎(1660-1704)が、不破伴左衛門の衣裳にある稲妻からとったとか、その役に添え柄としたとか、諸々の説がある。
しかし、その初代の父:堀越重蔵と親友だった侠客:唐犬十右衛門(初代の幼名海老蔵の名付親)から初舞台に贈られた三つの升にちなむという話をとりたい。役者と侠客、義理と人情、ありそうな事だ。
宗家以外の一門は、三升の中に頭字を入れる。市川左團次は「左」を、市川段四郎は「段」を。市川團蔵はどうすると聞かれ、これは困った。縦長-たてなが-三升か、丸に結柏-むすびがしわ-がその答。
[ 参考:成田屋 市川團十郎市川海老蔵公式 Web サイト  成田屋早わかりゟ補整

  

歌舞伎美人ニュース 2019年01月14日

2020年5月、十三代目市川團十郎白猿の襲名披露を発表

2020年、5月、6月、7月の歌舞伎座で、市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を襲名することが発表されました。
同時に、海老蔵長男の堀越勸玄-かんげん-が八代目市川新之助として初舞台を行います。

「この度、私、十三代目市川團十郎白猿を襲名させていただく運びと相成りましてございます。歌舞伎界におきまして市川團十郎は大きな名跡でございます。このうえは己の命の限り、懸命に歌舞伎に生きてまいりたい所存でございます」。
歌舞伎座の緞帳が上がり、緋毛氈に勸玄とともに並んだ海老蔵は、しっかりと前を見据えて襲名への決意を語りました。

團十郎という名跡の大きさ
十二代目が平成25(2013)年2月3日に亡くなってから7年となる来年、再び團十郎の名跡が十三代目としてよみがえります。俳名として二代目團十郎から栢莚-はくえん-を名のり、その俳名を五代目が、人間に及ばない猿という俗信をふまえ、名人に及ばないという意で白猿に変えました。
「私も父や祖父にまだまだ足もとにも及ばぬ、これからもっと精進していこうという気持ちも含め、白猿を俳名として名のることにしました」。

團十郎という名跡について海老蔵は、
「歌舞伎界にとりまして、たいへん重い名跡と理解しております。初代から父の十二代目まで、歌舞伎十八番、新歌舞伎十八番、荒事を中心にやっている家でございまして、いろいろなものを背負い、抱え、その時代に責任をもっていくことが必須になる。そのなかで自分が今できることを、少しずつやっていこうと思います」。
父を見てはいたけれど、
「なってみないとわからない、計り知れない重みがあるんだと思う」
と、その名前の大きさに自ら気を引き締めていました。〔中略〕

新團十郎とともに八代目新之助の初舞台
海老蔵が35歳で父を失った翌月に生まれた勸玄-かんげん-が、十三代目團十郎襲名と同時に、八代目新之助を名のって初舞台を踏みます。
この4月から小学生となる勸玄は、平成27(2015)年11月歌舞伎座『江戸花成田面影』で初お目見得以来、今月の新橋演舞場まですでに4度、本興行に出演、7歳での初舞台となります。團十郎襲名の公演で初舞台を踏むのは父と同じです。

「この度、父も名のっておりました市川新之助の名跡を、八代目として相続いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします」。
はっきりと通る大きな声で挨拶した勸玄。
「襲名を決める以前から彼は(自分を)新之助と思っているところがあり、本当は海老蔵を継ぎたかったみたい」
との紹介にちょっと照れ笑い、子どもらしい可愛らしさがのぞきました。
『玉兎』『幡随長兵衛』がやってみたいと、すでに父の背中を追って歩み出しています。

海老蔵は、「歌舞伎の家に生まれたということでやっていますが、あとは、本人がどのような気持ちで歌舞伎というものに向き合っていくのか。これからさまざまなことがございまして、未熟な私がどの程度支えられるかわかりませんけれど、彼がどういうふうに逃げずに受け止めていくのか」。
堂々と挨拶する姿に目を細め、遊ぶより稽古が好きという頼もしい息子に、
「お稽古が好きというのは舞台が楽しいのかなと。舞台が好きなのは歌舞伎の家に生まれてよかったのではないかと感じます」。

十三代目市川團十郎白猿襲名披露の興行は、歌舞伎座、2020年5月、6月、7月のほか、11月博多座、2021年2月大阪松竹座、4月名古屋御園座、11月京都南座と続きます。
また、2021年3月と9月は全国各地での巡演も行われます。八代目新之助の初舞台は、歌舞伎座の3カ月興行のなかで行われる予定です。

「十三代目團十郎白猿襲名披露 八代目市川新之助初舞台」記者会見の模様は、ニコニコ動画「歌舞伎チャンネル」で、ダイジェスト版をご覧いただけます。

【 詳細: 歌舞伎座 歌舞伎美人
[ 参考:成田屋 市川團十郎 市川海老蔵 公式 Web サイト

【もん】歌舞伎は伝統芸能|そこには様〻な もん がみられます|櫓-やぐら 梵天-ぼんてん

  ニュース   歌舞伎座で櫓揚げ 2013年06月06日
歌舞伎座で、櫓揚げ-やぐらあげ-がおこなわれました。

歌舞伎座櫓揚げ

歌舞伎座正面玄関で朝から本格的に始まった櫓揚げの作業は、昼過ぎには無事終了、2年10カ月ぶりに歌舞伎座に櫓が揚がりました。
江戸時代、幕府公認の証として芝居小屋の正面に揚げられていた櫓は、現代では、歌舞伎の殿堂である歌舞伎座に欠くことのできないものの一つとなっています。

櫓は幅3.3m、高さ2.7m。5本の槍を横たえ、2本の梵天-ぼんてん-が組まれており、また、正面に歌舞伎座の座紋である「鳳凰丸-ほうおうまる」、左右の側面には「木挽町 きゃうげんづくし 歌舞伎座」の文を染め抜いた三方の幕で囲われています。

作業を行った鳶頭の石津弘之さんは、
「この作業は、これから〝新しく始まる〟という大変喜ばしいものです。非常に名誉なことで、うまく揚げることができてよかった」
と胸をなでおろし、はじめておこなった歌舞伎座の櫓揚げを順調に終えた満足感を表しました。

 

 ニュース  京都四條南座に櫓-やぐら-が上がりました 2018年09月25日

京都四條南座に櫓-やぐら-が上がりました。
かなり高い位置なので、道路をはさんで向かい側からご覧ください。

南座の正面には新調された「櫓」が上がり、その両側には白い御幣「梵天-ぼんてん」も立ちました。八百万-やおよろず-の神と見なした数である 800 枚の美濃紙を使い、2 週間かけてつくられた梵天は、神の依代-よりしろ-としての役目も担います。

大提灯が四条通のランドマークの一つとして帰ってきました!

そして、南座のシンボルともなっている赤い大提灯も新調され、劇場正面玄関の左右に掲げられました。手すきの越前和紙でつくられた大提灯がいつもの位置に収まると、光を放つような輝きを得て四条通によみがえりました。

{新宿餘談}

櫓 - やぐら 梵天 - ぼんてん

劇場用語。芝居や相撲の興行場に付属している高い構築物のこと。やぐらとはもともと弓矢などの武器を入れる倉、つまり矢倉・矢座から出たものとおもわれる。城郭建築で敵に対して弓矢・礫などによる防戦や物見のために建造された高楼から転じて、歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場において、正面出入口の上にのせた構造物をいう。
炬燵櫓のような形で、屋根はなく、大きさは江戸中期には九尺四方(歌舞伎)と、七尺四方(人形浄瑠璃)とほぼ定まっていた。

櫓には座元の紋を染め出した〈櫓幕〉が引きめぐらされており、江戸初期の形式には、上に梵天-ぼんてん(幣束-へいそく ≒ 御幣)をたて、毛槍を五本並べたものが多い。梵天をたてることは、櫓が元来神を勧請するために天へ向けて高く構築されたものであったことを示しているといえる。

櫓の中では〈櫓太鼓-やぐらたいこ〉を打って興行のあることを知らせた。そのことから〈太鼓櫓〉ともいった。江戸の歌舞伎の櫓太鼓は文化期(1804-18)以後ほとんど廃されたが、相撲興行では今日なおおこなわれている。

また、櫓は官許の興行権所有のしるしとして重要な意味をもっていた。そこで、興行権を与えることを〈櫓を許す〉、興行を開始することを〈櫓を上げる〉といい、興行権を〈櫓権〉、興行権の所有者の座元のことを〈櫓主〉と呼んだ。江戸の歌舞伎の興行権は、正徳四(1714)年以後、中村座・市村座・森田座の〈江戸三座〉の座元に限って与えられる世襲の特権であった。
この三座が興行不能に陥った場合には、代わって興行する〈控櫓〉の制度が設けられていた。享保一九(1734)年に森田座が借財のため休座するに至ったため、その休座中に限り河原崎座に興行代行の許可がおりたのがはじまりで、中村座には都座・玉川座、市村座には桐座、森田座には河原崎座が控櫓と定まったのである。
この控櫓(〈仮櫓〉ともいう)に対して、江戸三座を〈本櫓〉(〈元櫓〉ともいう)と呼んだ。官許の常設劇場以外の宮地芝居を〈笹櫓〉と呼んだ。櫓の下に掲げた看板は〈櫓下看板〉といい、人形浄瑠璃でもここに一座を代表する芸人の名を記した〈櫓下看板〉を掲げた。
[参考資料:『新版 歌舞伎事典』(平凡社)]