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【講演会】第27回モリサワ文字文化フォーラム|[個 と 群 と 律]組市松紋の仕組み|6月27日

【講演会】第27回モリサワ文字文化フォーラム
[個 と 群 と 律] 組市松紋の仕組み
講  演  者  野 老   朝 雄
日  時  2019年6月27日[木]15:00-17:00(14:30開場)
場  所  モリサワ本社  4 F 大会議室(大阪市浪速区敷津東2-6-25)
参  加  費  無  料
定  員  150 名
主  催  株式会社モリサワ
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美術家・野老 朝雄氏は、9. 11 アメリカ同時多発テロに大きなショックを受け、世界の断絶を「つなげたい」という願いからピースマークを考えはじめました。そのマークをつなげることが、現在の紋様制作の出発点になっています。
紋や紋様の平面作品はコンピューターを使って作図していますが、紋様をかたちづくる[個]と[群]は組体操のように一つ一つパーツを置いて描く手法のため、コンパスと定規さえあれば再現可能です。
野老氏の代表作のひとつである「東京2020エンブレム」は、菱形パーツを組み合わせることがベースになっています。今回の講演では「組市松紋」の仕組みを紐解きながら、野老氏の制作の核になっている「律」について語ります。

[ 詳細・申し込み先: 株式会社モリサワ 文字文化フォーラム事務局
[ 参考:活版 à la carte 【字様・紋様】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

【かきしるす】図書紹介|木口木版のメディア史 近代日本のヴィジュアルコミュニケーション|人間文化研究機構 国文学研究資料館編|勉誠出版

勉誠出版
木口木版のメディア史
近代日本のヴィジュアルコミュニケーション
人間文化研究機構 国文学研究資料館 編

定価 8,640円 (本体8,000円)
ISBN 978-4-585-27048-5
B5判・上製  328頁
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繊細・稠密な線が描き出す〈世界〉
明治20年代から大正初期にかけて、繊細・稠密な線による独特な表現で一世を風靡した複製技術、木口木版。
報道や出版・広告の発展に伴う〈世界〉のひろがりのなか、写真と見紛うほどのそのリアルな描写は、近代的なヴィジュアルイメージを伝えるものとして驚きをもって受け入れられ、雑誌や新聞附録、教科書、チラシや商品パッケージなど、様々なメディアを席巻した。

木口木版の日本への導入と展開に大きな役割を果たした合田清、そして彼の興した生巧館の営みを伝える諸資料から、これまで詳らかに知られることのなかった近代日本の視覚文化の一画期を描き出す。
新出の清刷をはじめ、400点以上の貴重図版を収載!

[ 詳細: 勉誠出版

【展覧会】国立公文書館|令和元年度 第1回企画展「紙に願いを-建白・請願の歴史 -」|5月25日-7月7日

国立公文書館
令和元年度 第1回企画展「紙に願いを -建白・請願の歴史 -」
会  期  令和元年5月25日[土]-7月7日[日]
開館時間  月-日曜日    午前9時15分-午後5時00分
      * 期間中無休 入館は閉館30分前まで
会  場  国立公文書館 本館
入  場  料  無   料
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国立公文書館では、板垣退助・江藤新平らが提出したことで知られる民撰議院設立建白書をはじめとした建白書や、大日本帝国憲法で国民の権利として規定された請願権に基づいて国民から政府に提出された請願書を所蔵しています。
本展では、建白・請願に関する制度の変遷とともに、時代を映し出す建白書や請願書から、当時の人びとが紙にこめた願いをご紹介します。

【主な展示資料】

民撰議院設立建白書
明治7年(1874)1月17日、板垣退助-いたがきたいすけ・後藤象二郎-ごとうしょうじろう・副島種臣-そえじまたねおみ・江藤新平-えとうしんぺい-らが左院に提出した建白書。翌日の新聞「日新真事誌-にっしんしんじし」に建白書の内容が公表されると大きな反響を呼び、政府に対して多くの建白がなされるきっかけとなりました。

足尾銅山鉱毒に関する請願書
栃木県の足尾銅山から排出された有害物質によって引き起こされた農作物などの被害について、明治35年(1902)に群馬県渡瀬-わたらせ-村などの住民から出された請願書。明治34年12月、田中正造-たなかしょうぞう-が明治天皇に直訴した事件が起こったことにより、鉱毒事件に対する世間の関心が高まる中で書かれました。
同資料では、銅山における鉱業の停止、政府の手による被害地の復旧など、事件の根本的解決を求めています。

請 願 令
大日本帝国憲法に定められた請願権(第30条)により、天皇や帝国議会への請願が可能となりました。当初、天皇や行政機関への請願手続きは法令などで明示されていませんでしたが、大正6年(1917)に制定された請願令により、天皇や行政機関に対する請願の具体的な手続きが定められました。

[ 詳細: 国立公文書館 ]

【朗文堂ブックコスミイク】好評既刊書|『評伝 活字とエリックギル』(河野三男 訳・著)|在庫僅少

産業としての印刷と、文化としての文字活字、すなわち文明と文化の狭間で
もがきくるしんだエリック・ギルの
『AN ESSAY ON TYPOGRAPHY』の全訳を中心に

近代思想と産業主義に、つよい疑念を表明した
エリック・ギルとその活字にせまります。

原著:ERIC GILL   An Essay On Typography(撮影:青葉水竜)
An Essay On Typography は自主製作活字 Joanna の完成をまって、ハンドセットで1931年初版、1936年第二版が刊行された。第二版からはファンドリー・タイプで 12 points, 左右 19 picas, 3 points leading(行間)の活字組版であった。1941年第三版、1954年第四版と刊行され、1988年には第五版が Linotron 202 13 機によって 13 points で組版された。
本書『評伝 活字とエリック・ギル』は第二版と第五版を比較検討しながら翻訳され、第四章「エリック・ギル設計の活字」pp 279-356 には「パペチュア書体/ギル・サン書体/ジョアンナ書体」が詳細に紹介されている。 

主な内容 ── 目次より

  まえがき
Ⅰ エリック・ギルを読むために
Ⅱ エッセイ・オン・タイポラフィ (全訳)
Ⅲ エッセイ・オン・タイポラフィ (解説にかえて)
Ⅳ エリック・ギル設計の活字

『評伝 活字とエリック・ギル』
河野三男 訳・著

四六上製本 360ページ 図版多数
発 行:1999年12月14日

定 価:本体2900円+税
ISBN4-947613-49-1

お近くの大型書店でお求めください。
小社直送のばあいは、送料のご負担をいただきます。
※ 残部僅少となっております。また保存データーが製版フィルム方式(C T F)のため
増刷は事実上不可能となりますのであらかじめご了承たまわりたく存じます。
{関連:朗文堂ブックコスミイク 『詳伝 活字とエリック・ギル』

朗 文 堂

TEL. 03-3352-5070 FAX. 03-3352-5160
E-Mai l: typecosmique@robundo.com

【編著者:まえがきより 部分】
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【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|第五代専務取締役社長 野村 宗十郎


東京築地活版製造所 第五代社長 野村宗十郎

(1)第五代社長として専務取締役社長に選任
(2)東京築地活版製造所に入社までの略歴
(3)東京築地活版製造所への入社とその後の昇進
(4)支配人時代の事績
    1)活字のポイントシステム調査と導入・普及
    2)コロタイプによる写真印刷の実用化
    3)組織改革と営業活動、博覧会出品
      <組織改革> <営業活動> <博覧会出品>
    4)業界活動と社会貢献
      <外部団体の役員就任> <印刷物見本交換会の開催>
(5)専務取締役社長としての事績
      <事業の拡張・縮小> <ポイントシステムの普及> <社外活動><博覧会出品> 
      <エピソード>
    1)内田百閒と築地13号室
    2)新社屋の裏鬼門
      <持病の悪化と死去>
(6)没後の記録
まとめ
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ま と め

野村宗十郎は、長崎に居住する薩摩藩御用商人の服部家に生まれた。親戚の野村家当主が戦死したため、その名跡を継いで長崎製鉄所の第3等機関方となった。しかし、それは短期間で、技術者としての素養を身に着けたとは考えられない。
実父は、維新により家職を失い、明治3年(1870)に本木昌造が開いた長崎の新町活版所に勤務した関係から、野村宗十郎も活版印刷に多少の関わりを持ったと言われている。

その後、病弱の身を押して勉学にはげみ、大学予備門を中退して簿記を学び、大蔵省に入省した。しかし、専ら外回りの勤務に見切りをつけて退省した。その時、すでに数え年33となっていた。
退省した野村宗十郎は、陽其二の推薦を得て、明治22年(1889)7月、東京築地活版製造所に将来の幹部候補として招聘された。野村宗十郎が最初に配属された先は倉庫係だったが、3年後の明治25年(1892)8月には早くも社長曲田成の下で副支配人となり、その翌年8月に支配人となった。

さらに、明治29年(1896)4月に社長名村泰蔵の下で取締役支配人となった。明治40年(1907)9月には、名村泰蔵死去の跡を継いで専務取締役社長に選任され、大正14年(1925)4月23日に数え年69で病没するまで社長職を務めた。
支配人として15年間、取締役として11年間、専務取締役社長として18年間、それぞれ重複する期間はあるが、東京築地活版製造所の経営に関わったことになる。

野村宗十郎は、入社して間もなく、活版製造事業について学ぶ中で、活字サイズの決め方に疑問を持ち、外国文献にポイント・システムがあることを知った。結果的に、野村宗十郎に一人合点と思い違いがあったと見られるが、このポイントシステムが本木昌造の決めた活字体系に合致することを知り、改めて本木昌造にたいする尊敬の念を強めるとともに、わが国の統一システムとして普及させることを決意したと見られる。

曲田社長の理解と名村社長の積極的後援を得て、野村宗十郎は死去する直前までポイントシステムに焦点を当てて、その普及に努めた。その結果、新聞社がその利便性に着目して採用するものもあったが、読者の受け入れ易さを主に、紙面の構成やバランスなどを試行錯誤する状態が続いた。やがて、全国の新聞界はすべてポイント活字に風靡されるようになり、一般の印刷工場においてもポイント活字を整備することになった。
このようなことから、大正5年(1916)2月15日、野村宗十郎は、ポイント式活字の創造と普及によりわが国の文運隆興を補助したとして、藍綬褒章を下賜された。

会社の経営面から見ても、ポイントシステムへの切替需要により、順調に増収増益を重ね、大正11年(1922)後期の決算では、資本金が30万円であったが、売上高57.7万円余、純利益10.5万円を記録している。
しかし、牧治三郎によると、東京築地活版製造所の全盛期は大正12年(1923)を以って終わった。活字鋳造が次第に自動鋳造機械の普及に従って、大口需要家の新聞社をはじめ、一般印刷業者も自家鋳造へと移行する形勢を示した。
それにも関わらず、関東大震災でほとんど全ての製造設備を失った東京築地活版製造所が採った対応は、旧態依然とした手廻鋳造機を中心とする活字製造事業に注力し、手工業的体質からの脱却、活字需要者の変化に対する対応が見られない。

大正時代になると、一般製造業の発展により女工不足が深刻となった。また、職工組合による賃上げ要求ストライキが発生するようになっていた。
野村宗十郎は、創業者である本木昌造を敬うあまり、実質的に活版製造を事業として完成させ、海外需要にも目を向けた平野富二、時代の局面で同業組合による協調で切り抜けた曲田成、日清・日露の戦争による好況、不況を積極経営で乗り切った名村泰蔵の3人の社長が敷いた布石を発展させることなく、ポイントシステムの成功に酔いしれていたとしか考えられない。

曲田社長が糸口を付けたコロタイプ版や網目版による写真印刷は、新しい印刷事業の方向性を示すものであったが、その後の展開が見られない。また、印刷物蒐集交換会も、社長に就任してから1回開催しただけで、中止してしまった。
明治18年(1885)には、石版技手人名鏡に東京築地活版製造所が国文社と共に勧進元となっているように、活版印刷と石版印刷〔オフセット平版印刷につらなった〕の双方の印刷分野でトップクラスの技術と実績を持っていた。

さらに、名村社長が復活を手掛けた印刷機械製造事業についても、その製造機種は依然として平野富二が製品化した機種ばかりで、急速に普及しつつある輪転印刷機やオフセット印刷機などの国産化には全く関心がなかったようである。
さらに問題なのは、次期社長とするべき後継者を育成することなく死去したことである。

そのため、遠隔地である長崎に居住し、多くの会社の役員を兼任する松田精一が引き継がざるを得なくなった。
それでも、有力な支配人が実質的な経営に取り組んでいれば別であるが、昭和3年(1928)6月の株主総会で取締役に指名された支配人大沢長橘は知名度が低く、それまで、どのように経営に関わっていたかは知られていない。

野村宗十郎は、活版の大業に一大功績を残し、東京築地活版製造所の興隆に尽くしたとされている。しかし、結果的にバランスを欠いた経営が、その後の苦境を乗り切れず、その死去から13年目に会社解散に追い込まれる要因になったと見られる。

【朗文堂ブックコスミイク】『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』|発行:平野富二の会|発売:朗文堂

『平野号』プリント用 PDF

平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録

B 5 判、408 ページ 図版多数
ソフトカバー
定価:本体 3,500 円+税
ISBN978-4-947613-95-0  C1020

発行日 2019年5月30日 初刷
編 集 「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発 行 平野富二の会
発 売 株式会社朗文堂
    www.robundo.com
    typecosmique@robundo.com

<おもな内容 ── 目次より>
記念式典
平野富二 略伝/平野富二 略伝 英文
平野富二 年譜
明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑建立趣意書
 平野富二生誕の地 確定根拠
長崎 ミニ・活版さるく
平野富二ゆかりの地 長崎と東京
 長崎編
出島、旧長崎県庁周辺、西浜町、興善町、桜町周辺、新地、銅座町、思案橋、油屋町周辺、寺町(男風頭山)近辺、諏訪神社・長崎公園、長崎歴史文化博物館周辺、長崎造船所近辺
 東京編
  平野富二の足跡
  各種教育機関
  官営の活字版印刷技術の伝承と近代化
洋学系/医学系(講義録の印刷)/工部省・
太政官・大蔵省系(布告類・紙幣の印刷)
  平野富二による活字・活版機器製造と印刷事業
  その他、民間の活版関連事業
  勃興期のメディア
 「谷中霊園」近辺、平野富二の墓所および関連の地
「平野富二生誕の地」建碑関連事項詳細
「平野富二生誕の地」碑建立
募金者ならびに支援者・協力者 ご芳名
あとがき

跋にかえて ── ちいさな活字、おおきな船 
『平野号』出発進行、ようそろ!

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【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ25}|平野富二による活版印刷機の国産化

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]

平野富二による活版印刷機の国産化は、明治5年(1872)7月に上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設したときから、準備が進められたと見られる。
その目的は、あくまでも活字・活版の販売を促進するためであったと見られ、開設から3ヶ月後には、早くも印刷機の販売について新聞広告を出している。
取りあえずの対応は、本木昌造が自社で使用するために設計し、長崎製鉄所に依頼して製作した木鉄混用の手引印刷機を複製して販売することからはじめられた。しかし、これは販売を目的として開発されたものではなく、間つなぎ的なものであった。

神田和泉町では、幸い身近に外国製の小型手引印刷機とロール印刷機があったことから、これを分解して型を取り、模造することによって国産化を果たすことができた。それにより、活版印刷の普及と事業の拡大に大きく寄与することになった。
しかし、ロール印刷機の国産化を果たして販売できるようになるのは、築地二丁目に新工場を建設して移転してからであった。
活版印刷の需要が急速に拡大する中で、多くの引合が寄せられるようになり、より大型で高性能の活版印刷機が要求されるようになったことに対応するため、築地二丁目に移転後、各種印刷機の本格的製造体制を整えることになる。
本格的な生産体制の整備と機種の品揃えは、明治6年(1873)7月に築地に新工場を建設してからであり、今後の動向と発展についての紹介は後日に譲ることとする。

古谷昌二ブログ ── 平野富二による活版印刷機の国産化

はじめに
(1)活版印刷機の国産化に着手
<最初の活版印刷機の販売広告>
<当時、新塾出張活版製造所で所有の活版印刷機>
<平野富二の明治6年の「記録」>
(2)最初の自社製印刷機
(3)当初の印刷機製造態勢
(4)ロール印刷機の国産化
(5)その後に国産化された足踏印刷機
(6)わが国における活版印刷機の渡来の歴史
まとめ

【展覧会】宇都宮美術館 企画展|視覚の共振・勝井三雄 visionary ∞ resonance : mitsuo katsui|4月14日ー 6月2日 好評開催中

宇都宮美術館 企画展
視覚の共振・勝井三雄
visionary ∞ resonance : mitsuo katsui
2019年4月14日[日] ー 6月2日[日]
開館時間  午前9時30分-午後5時   *入館は午後4時30分まで
休  館  日  毎週月曜日
観  覧  料  一般 800円、大学生・高校生 600円、中学生・小学生 400円 
主  催  宇都宮美術館

【 詳細: 宇都宮美術館 】 
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[ 写真提供: 日吉洋人   参考:日吉洋人 Facebook

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【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ24}|地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

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平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接していた「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。

鳥山棄三は、のちに文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜壽紀念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。

この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版印刷所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。
現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。
〔資料:
『喜壽紀念』宇田川翁喜壽紀念会、大正14年、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵〕

古谷昌二ブログ ──── 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業
⑲ 五代友厚と大阪活版所
 活字製造事業の経営受託
 文部省御用活版所の開設
㉒ 東京進出最初の拠点:神田和泉町
㉓ 神田和泉町での平野富二の事績
㉔ 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 主要内容 >

まえがき
1) 茂中貞次と鳥山棄三について
2) 宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
3) 鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
4) 茂中貞次による地方への活版印刷普及
ま と め

わが国最初期の新聞のひとつ『遐邇-かじ-新聞』、第一号(明治7年2月2日)表紙

題号の「遐邇-かじ」は遠近をあらわす。平野富二による長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三(のち宇田川文海)が編輯者となり、秋田県の聚珍社から発行された。長崎新塾出張活版製造所製の活字が用いられ、漢字は楷書風活字、ルビは片仮名。「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」と記されている。

{新宿餘談}

このたび古谷昌二氏によって紹介されたふたり、兄の茂中貞次はわずかに印刷史にも記録をみますが、弟の鳥山棄三(のち宇田川文海)に関してはほとんど知るところがありませんでした。
当時としては長寿を保った宇田川文海『喜壽紀念』* には、これも記録に乏しい平野富二の生きよう、人柄が鮮明に描かれています。また平野富二一行により、創設直後の神田和泉町と築地二丁目の活版製造所「長崎新塾出張活版製造所」から、想像以上に極めて迅速に、全国各地に、活版印刷関連機器と相当量の活字が、素朴ながらもシステムとして供給されていたことを知ることができます。

読者諸賢は、ぜひともリンク先の古谷昌二ブログ< 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 >をご覧いただき、その後さらにご関心のあるかたは、本稿{続きを読む}に、吉川弘文館『国史大辞典』から引用したふたりの記録をご覧たまわりますようお願い申しあげます。

[古谷昌二ぶろぐ まえがきゟ]

平野富二は、東京神田和泉町に「長崎新塾出張活版製造所」を開いて、活字・活版の製造・販売を開始した。
「文部省御用活版所」(のちに「小幡活版所」)で支配人兼技師となっていた茂中貞次と、その下で見習工として働いていた弟鳥山棄三の二人は、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、平野富二の経営する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった。
鳥山棄三は、後に大阪における代表的新聞記者となると共に、筆名を宇田川文海と名乗って新聞連載小説家となった。大正14年(1925)8月に『喜壽紀念』として纏めた自伝を残している。その中に、平野富二の下で働いていた頃の事柄が記録されている。

この兄弟二人は、平野富二の指示で、それぞれ鳥取と秋田に派遣され、地方の活版印刷普及の一端を担った。その後、神戸と大阪における初期の新聞発行に貢献している。
本稿では、宇田川文海によって伝えられた平野富二の人柄を示す記録と、鳥取と秋田、更には神戸と大阪における新聞発行とその関連について紹介する。

*  本稿では宇田川文海七十七歳喜寿の祝として開催された「祝壽會」と、東京大学明治新聞雑誌文庫での文献目録にならって『喜壽紀念』とした。そののち国立国会図書館でも館内閲覧が可能であることがわかったので、そこの書誌情報を紹介したい。
◉『喜寿記念』(宇田川文海著、大阪、大正14年、宇田川翁喜寿記念会)

標題/目次/緒言/喜壽紀念/私が新聞記者になるまで/朝日新聞創刊以前の大阪の新聞/阿闍梨契冲/狂雲子〔赤裸々の一休和尚〕/豐太閤と千利休/宇田川文海翁祝壽會の顛末/室谷鐡膓氏/跋

『国史大辞典』(吉川弘文館 ゟ)宇田川文海/茂中貞次 関連資料紹介
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【ことのは/もんじ】新元号・令和|なにかと煩瑣なことが多くて……|まぁそのうち馴れるでしょうが

使いますか ? 「元号合字」  ㍾ ㍽  ㍼  ㍻  . .

《 令和 …… 「U+32FF」が既に予約  ヤレヤレ 疲れます 》

2019年05月から使用される元号が「令和」に決まった。発表はエイプリル・フールの四月一日、なにかと想像力が欠如していると感じたが、あまり関心はなかった。こんなことで騒ぐより、もっと肝心なテーマはあるはずだ …… 。
ようやくオンボロパソコンに「令和」を単語登録。その際、無意識にかな変換の「読み」に「りょうわ」としてやりなおし、再登録。「へいせい」のときもそうだったが、この歳になると「れいわ」に馴れるのには時間がかかりそうだ。上掲図版は Windows – OS7、変換ソフトは ATOK の文字パレットである。

ところが、発表以来、印刷業者を中心に「新元号 令和」の活字書体とその字画処理(字体)に関して、悲鳴にも似た@メールや、電話をいただいている。それには誠意をもって対応させていただいている。
また個人的には「令和」、とりわけわが国の一部の活字書体「令」における字体と字画処理の混迷に意見はあるが、「字形」などという意味領域のあいまいなことばが流布した現在、「令」だけで済むわけもなく、基本的にノーコメントとさせていただいている。

金属活字の時代は、活字製造業者が多く、競争が熾烈で、「合字」「連結活字 logotype」と称して、全角の枠の中に明治・大正・昭和などの元号を合わせて鋳込んだ活字を製造販売していた。
それは写植活字にも継承されて、明朝体、まれにゴシック体などの基本書体の「記号」として扱われ、官公庁の文書需要を中心にもちいられた。ただしこれらの時代の「元号合字」は、ほとんどの筆書系活字や、装飾系活字に及ぶものではなかった。

現在の電子活字は、当初は様〻な文字集合コードが存在したが、現在は Unicode(ユニコード)に集約されつつあるようだ。ユニコードは、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの業界規格である。文字集合(文字セット)が単一の大規模文字セットであること- Uni という名はそれに由来する-などが特徴である。

パソコンという軽便なツールが開発され、書体製作ソフトウェアが低廉化・普及して、電子活字は急速に、膨大な書体数と、そのファミリー、ウェイトの拡大、キャラクター数の増大をみるようになった。
そしていつのまにか筆書系活字や、装飾系活字といったジャンルの書体も、同業他社との横並び意識がめだって、キャラクター数の多寡を問われ、良き抑制が効かない時代になっている。
こんな時代 ── 換言すると、およそ官公庁での文書処理での使用が予測されないディスプレー書体(装飾系書体)の、ウルトラボールド/極太書体にまで「元号合字」をつくらなければならなくなった時代 ── 友人知人の書体製作者がかわいそうになる事態である。

しかも上掲図のユニコード「U+32FF」の文字パレットをみると、予約された場所は「◯入りカタ仮名 ㋻ ㋼ ㋽ ㋾」と「合字 ㌀ ㌁ ㌂ アパート・アルファ・アンペアなど」との間(隙間・空き地)であり、やはり もんじ(文字)というより記号の部であることがわかる。
ATOK ではより明瞭で、これらは「単位記号」として、「℃・%・$」などとおなじ場所に配置している。

株式会社モトヤは、金属・写植・電子活字の三世代を生きぬいてきた優良企業である。そこからのメールニュースを紹介したい。
すでにユニコ-ドには上掲図に青で表示した「U+32FF」という領域(陣地)が「令和」のために確保されている。多くの友人・知人は、その予約された領域を埋める作業に追われることになる。
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株式会社モトヤ

モトショップ メールニュース 20190402
弊社書体の新元号「令和」への対応について

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【展覧会】五文庫連携展示|東京・神奈川の五つの特殊文庫で東洋の叡智に触れる千年の旅 ──知の宝庫をめぐり、珠玉の名品と出会う|特殊文庫の古典籍

五文庫連携展示
東京・神奈川の五つの特殊文庫で東洋の叡智に触れる千年の旅
──知の宝庫をめぐり、珠玉の名品と出会う

特殊文庫の古典籍

大東急記念文庫(五島美術館)・慶應義塾大学三田キャンパス(斯道文庫)・東洋文庫・静嘉堂文庫・金沢文庫と「五文庫連携展示 特殊文庫の古典籍」と題して、同時期に書物に関する展覧会を連携して開催します。
詳しくは こちら(リンク先:https://www.gotoh-museum.or.jp/classic.html)をご覧下さい。

【展覧会】宇都宮美術館 企画展|視覚の共振・勝井三雄 visionary ∞ resonance : mitsuo katsui|4月14日ー 6月2日

宇都宮美術館 企画展
視覚の共振・勝井三雄
visionary ∞ resonance : mitsuo katsui
2019年4月14日[日] ー 6月2日[日]
開館時間  午前9時30分-午後5時   *入館は午後4時30分まで
休  館  日  毎週月曜日 * 4月29日[月]・5月6日[月]は開館
観  覧  料  一般 800円、大学生・高校生 600円、中学生・小学生 400円 
主  催  宇都宮美術館 
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人が人へ情報を伝える、それを不特定多数で共有する、そして世界共通の命題を解決するために役立つコミュニケーション・デザインの歴史は、19世紀に遡ります。人々の生活をより良くし、未来を拓く道具、空間や都市をテーマとする他の領域も同様です。モダニズム(近代主義)の確立、二つの世界大戦、地球環境に対する意識の高まりなど、私たちの暮らし・生き方を変貌させる出来事が次々と起こった20世紀は、デザインがいっそう身近になりました。デザイナーの活躍の場も広がり、その役割が重要となったのはいうまでもありません。

こうした背景を踏まえ、激動の時代を経験してきた勝井三雄-かついみつお-は、常に世の中とデザインの動き、現在の有り様に鋭い視線を注ぎ、明日を見据える創造的な挑戦を60年余にわたって続けています。グラフィック、エディトリアル、C I を中心に、サイン、ディスプレイ、空間構成ほか、多様な媒体のアート・ディレクターを務めるなかで、領域の枠組みにとらわれることなく、デザインの理論・表現について、その可能性と普遍性を模索してきたのです。
すなわち、状況にふさわしい視覚伝達を介して、物事の本質に触れるスムーズなコミュニケーションがどれほど人々の相互理解を促し、生活、文化、社会、環境を充実させることができるか、その優れた手段・取り組みの提案こそが、勝井三雄の仕事の根幹にあります。

本展は、まず「時代」に焦点を当て、今日に至るデザインの社会史と、国内外のデザイナー、写真家、美術家、建築家、音楽家、評論家、編集者、小説家、科学者、民族学者ら、勝井三雄が影響を受け、協働した人々とのつながりを示すところから展示が始まります。続いて、ポスターや映像など「色と光」の分析・実験・展開に基づく作品群、小冊子のエディトリアルから国家的規模の博覧会ディスプレイまで、あるいは企業・学校・文化施設の存在意義を体現するCI、地球を俯瞰するインスタレーションなど「情報の編集」に係る業績の集大成を紹介します。

未発表の資料、最新作も含む今回の展示は、空間構成そのものが勝井三雄の総合的なディレクションにより、「なぜ人間はヴィジュアル・コミュニケーションを必要とするのか」を体感的に考えるための場となります。
長年にわたり宇都宮美術館の C I を推進してきた勝井三雄の活動を通じて、当館が主眼とする「20世紀のアートとデザイン」を視覚伝達の観点からひもとく手がかりにもなるでしょう。
── デザインは、単なる色とかたちの描出、その成果物ではありません。時代・人々・空間と共振する思想であり、これを実践的に構築し、質の高い可視化を担うのがデザイナーの役割です。
勝井三雄のすべての仕事には、そのことが凝縮されています。

【 詳細: 宇都宮美術館 】

【展覧会】国立西洋美術館 本館|ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ── ピュリスムの時代|2019年2月19日-5月19日

国立西洋美術館 本館
国立西洋美術館開館60周年記念
ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ── ピュリスムの時代
会  期  2019年2月19日[火]-5月19日[日]
開館時間  9:30-17:30
      毎週金・土曜日 9:30-20:00 * 入館は閉館の30分前まで
休  館  日  月曜日(3月25日、4月29日、5月6日は開館)、5月7日[火]
主  催  国立西洋美術館/ル・コルビュジエ財団/東京新聞/N H K
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20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエ(1887-1965)が設計した国立西洋美術館本館は、2016年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。開館60周年を記念して開催される本展は、若きシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエの本名)が故郷のスイスを離れ、芸術の中心地パリで「ピュリスム(純粋主義)」の運動を推進した時代に焦点をあて、絵画、建築、都市計画、出版、インテリア・デザインなど多方面にわたった約10年間の活動を振り返ります。

第一次大戦の終結直後の1918年末、ジャンヌレと画家アメデ・オザンファンは、機械文明の進歩に対応した「構築と総合」の芸術を唱えるピュリスムの運動を始めました。そして、絵画制作に取り組みながら新しい建築の創造をめざしたジャンヌレは、1920年代パリの美術界の先端を行く芸術家たちとの交流から大きな糧を得て、近代建築の旗手「ル・コルビュジエ」へと生まれ変わります。

本展はル・コルビュジエと彼の友人たちの美術作品約100点に、建築模型、出版物、映像など多数の資料を加えて構成されます。ル・コルビュジエが世に出た時代の精神を、彼自身が作り出した世界遺産建築の中で体感できる、またとない機会となるでしょう。

【 詳細: 国立西洋美術館   特設サイト

【かきしるす】宮川雅一著『高島秋帆』長崎文献社|東京板橋区の「高島平」は長崎町年寄・砲術師:高島秋帆にちなむ

シリーズ 長崎偉人伝
高島秋帆     
宮川雅一著
定 価 1600円+税
体 裁 四六判 並製
ISBN978-4-88851-282-4 C0023
長崎文献社

東京「高島平」に名をのこす。
砲術師の生涯をひもとく。
門弟たちの業績が「明治産業革命遺産」に輝く。
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著 者 宮 川 雅 一 氏 紹 介

宮川先生2018年11月24日「平野富二生誕の地」碑建立記念祭「祝賀会」にて
ご祝辞をいただき、乾杯の音頭をとっていただきました

宮川雅一〔みやがわ まさかず〕 続きを読む

【ことのは】森鷗外|少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす

文京区立 森鷗外記念館|コレクション展
「少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす」
1月19日-3月31日

文京区立 森鷗外記念館
コレクション展「少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす」
会  期  2019年1月19日[土]-3月31日[日]
      * 2月25日[月]、26日[火]、3月26日[火]は休館
開館時間  10時-18時(最終入館は17時30分まで)
会  場  文京区立森鷗外記念館 展示室 2
料  金  一般 300円
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東京で近衛師団軍医部長を務めていた森鷗外は、明治32(1899)年6月、小倉(現・福岡県北九州市)の第十二師団軍医部長として赴任を命ぜられます。
東京での鷗外は家族とともに暮らし、職務や文業に専念してきましたが、小倉では自ら家政をとる新たな生活が始まります。東京を離れて小倉にあることによって、軍医部等の動静や文学界を、距離を置いて眺めます。そのことが、自分と他者との関係を考える機会となりました。

一方、鷗外は土地の人々と交流し、勉強会を行い、外国語の学習をはじめ、史跡を巡るなど、新たな学びの機会を得ました。明治33(1900)年12月、親友・賀古鶴所に宛てた手紙には「公私種々ノ事業ノ為メニ(中略)少シモ退屈ト云コトヲ知ラズ」と記されており、小倉での充実した日々がうかがえます。鷗外は、明治35(1902)年3月までの2年10ヶ月を小倉に暮らしました。

本展では、鷗外の小倉での生活、職務、関心事を日記『小倉日記』『小倉日記附録』、友人や家族へ宛てた手紙などの資料から紹介します。また、作家・松本清張が鷗外の『小倉日記』から着想を得た小説『或る『小倉日記』伝』などを併せて展覧します。

【 詳細: 文京区立森鷗外記念館 】

【もんじ】歌舞伎と勘亭流の書芸|歌舞伎座|壽 初春大歌舞伎|平成31年1月2日-26日

歌舞伎美人 ニュース 2019年01月03日

歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」初日開幕

2019年1月2日[水]、歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」の初日が幕を開けました。
平成最後の正月、縁起物の三番叟で幕を開けた歌舞伎座。中村魁春の千歳、中村芝翫の三番叟が舞台に現れ、『舌出三番叟-しただし さんばそう』がはじまりました。

三番叟の大地を力強く踏みしめる音が響き渡り、千歳はゆったりと祝祭の舞を見せます。五穀豊穣を祈る厳かで儀礼的な踊りのなかにも、婚礼の支度の様子を面白く当て振りで踊ったり、松竹梅を描いた衣裳を見せたりして楽しませます。
「千穐万歳、万々歳の末までも、賑わう御代とぞ舞い納む」
と二人がきっちりきめると、歌舞伎座にすがすがしい空気が満ち満ちました。[後略]
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{ 新 宿 餘 談 }

いまなお脈々と生きつづける「勘亭流」の書芸

歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」公演パンフレット 巻頭番組表
歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」公演パンフレット 表紙
歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」公演パンフレット 巻末刊記

2018年は松本白鸚、松本幸四郎、市川染五郎の高麗屋三代同時襲名披露で賑わった歌舞伎界であった。
また1月14日には、2020年5月、6月、7月、歌舞伎座で、市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を襲名することが発表された。同時に、海老蔵長男の堀越勸玄-ほりこし かんげん -が八代目市川新之助として初舞台を行うという。
歌舞伎美人ニュース 2019年1月14日

慶事がつづく歌舞伎界であるが、家人が1月2日、木挽町歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」を観劇した。実にけしからんというか、羨ましい限りである。やつがれは風邪が抜けきらず寝正月をきめこんでいたが、家人の報告によると、友人の松本金吾も昼の部「一條大蔵譚-いちじょう おおくら ものがたり」に 八剣勘解由役 で元気に舞台を務めていたそうである。

manekigaki_c20181011-300x225歌舞伎を象徴するのはやはり勘亭流の書である。歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」では何枚もの懸垂幕に力強く書かれた勘亭流の書をみることができた。岡崎屋勘六による「勘亭流」の創始から240年、この書風をみただけで歌舞伎であることがわかるからすごい。
それも WebSite やフライヤーでは味わえない魅力が、本物の劇場と舞台には横溢している。

さきに京都南座「當る亥歳 吉例顔見世興行」のまねき看板と口上の勘亭流の揮毫現場を紹介した。京都の書芸家は井上 優氏であった。
家人が「壽 初春大歌舞伎」の観劇パンフレットを購入してきてくれた。巻頭の番組表はすべて勘亭流の書を版下としている。東京での書芸家は山中福壽氏であった。
こうした書芸家を傘下においている座主の松竹もすごいものがある。復習のためにあらためて勘亭流を紹介した。

【勘亭流-かんていりゅう】
歌舞伎の看板、絵本番付(プログラム)などに用いる独特の書体。筆太で、隙間なく、内へ丸く曲げるように書く。寄席、相撲などで使う書体とは違う。内へ丸く曲げるのは、観客が入るという縁起をかついだものである。
安永八(1779)年、江戸堺町の書藝指南:岡崎屋勘六(1746-1805)が中村座のために創始したのがはじまり。勘六は号を勘亭といい、そこから勘亭流という書芸の流派がうまれた。

【詳細: 歌舞伎座 歌舞伎美人 】
[関連: NOTES ON TYPOGRAPHY ]