【かきしるす】顔真卿自筆の尺牘 ≒ 書簡文『祭姪文稿-さいてつぶんこう』をめぐって

東京国立博物館で開催されている「顔 真卿展」は中国でも関心が高い  Photo : DOL
DIAMOND online  2019年02月04日

「 DIAMOND online  2019年02月04日 」に王 青(おう せい 日中福祉プランニング代表)女史が<顔真卿-王羲之を越えた名筆>展に関して、五ページにわたって興味深い報告をしてる。

それによると、台湾故宮博物院所蔵、顔真卿自筆の尺牘 ≒ 書簡文『祭姪文稿』が東京で展示されることが広報された直後から、書藝の至宝ともいえる『祭姪文稿』が中国ではなく、日本での公開となったことに対して、中国の SNS メディアを中心に、愕き、嘆き、悲しみ、怒りの情報が溢れ、いわゆる炎上状態になったそうである。

ところが、たまたま中国の旧暦の正月「春節休暇」と重なったため、多くの中国人が展観に駆けつけ、東京国立博物館での展示・広報記録の丁寧さをみて、さっそく好意的な報告をしたためたため、炎上は鎮火し、逆に東京展への人気が高まっているという。
【 詳細:  DIAMOND online  2019年02月04日 】

中国陝西省西安市雁塔路の噴水公園に建つ、武将姿の顔 真卿石像

西安城内中央通りの開放路・和平路を縦貫し、玄奘三蔵 ゲンジョウ-サンゾウ ゆかりの慈恩寺大雁塔 ジオンジ-ダイガントウ にいたる広い道幅の縦貫道「雁塔路 ガントウ-ロ」には、唐の太宗(李世民 在位626-649)の盛大な巡幸行列の再現彫刻をはじめ、唐王朝時代の政治家・文人・書法家などの巨大な石像が列をなしている。夜は噴水とともにライトアップされ、古都・長安(西安)のあたらしい観光名所となっている。

唐の太宗・李世明の陵墓。西安市郊外九嵕山-キュウソウザン-にある「昭陵」

近年になって李世明の巨大な立像が建てられ、観光地として整備されつつあるが、ここにいたるには狭隘な山道(車で走行できるがチョット怖い)がつづき、道中には案内板もなく、訪れるひとは少ないようだ。
管理人が十人ほど番小屋のような建物の前でゲームに耽っていた。この山稜のいずこかに太宗・李世民は偏愛した王羲之の書とともにねむっているという。このあたりに墓碑があったとされるが、現在はアメリカにあると聞いた。
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【顔 真卿  がん しんけい  709-785】

中国、唐代中期の政治家、書家。顔氏一族は「琅邪臨沂-ろうやりんぎ 山東省」の人であるが、父:顔 惟貞-いてい-の任地であった陝西長安に生まれた。あざなは清臣。北斉の学者:顔之推-がんしすい-五世の従孫にあたり、代々学者、能書家を輩出した名家の出である。
幼くして父を亡くしたが、伯父や兄から教えを受け、少壮より書をよくし、博学で辞章に巧みであった。734-開元22年、26歳で進士に合格し、のち刑部尚書、吏部尚書、礼儀使などの高位に上った。

唐の中期、玄宗皇帝の755-天宝14年、安禄山-あんろくさん-と、史思明-ししめい-による反乱、いわゆる「安史の乱」に際しては、平原太守として義兵をあげ、唐朝のために気を吐いた。わが国では「安禄山の乱」として知られるが、楊貴妃に溺れて治世を怠りがちだった玄宗皇帝の晩年に、節度使の安禄山と史思明らが起こした反乱をいう。763年、粛宗の代に鎮圧。以後、唐の中央集権型封建体制はおおきく弱体化した。

その後の顔真卿は魯郡開国公を封ぜられ、太子太師-たいしたいし-を授けられたが、生来剛直な性格の彼は人と相いれることすくなく、とかく敬遠されがちで官界を転々とした。
やがて李希烈-りきれつ-謀反のとき、死を覚悟して諭しに出向いたが逆に捕らえられ、拘留三年ののち蔡州(河南省)竜興寺において弑された。

書は顔氏一族歴代の書法を継承し、石碑にのこる書は「一碑一面貌」とも評される。また楷・行・草の各体に多肉多骨の書風を創始した。肉太の線と胴中を張らせた構成、それにどっしりした量感は顔真卿の全人間性を表出したものであり、開元・天宝期の書藝様式を確立した中心人物であるといっても過言ではない。
すなわち初唐のころ盛行した優美な王羲之-おうぎし-風とはまったく異なる、強烈な書風を示している。おもな作品に多宝塔碑、祭姪文稿-さいてつぶんこう、麻姑仙壇記-まこせんだんき、争坐位稿-そうざいこう、顔氏家廟碑-がんしかびょうひ-などがあり、『顔魯公文集』などの著がある。

[ 関連: 花筏 新・文字百景*004 願真卿生誕1300年+王羲之 2012年07月10日 ]

bnr_ganshinkei_3_224_1先行チラシ_A4_表東京国立博物館
特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」
会  期  2019年1月16日[水]-2月24日[日]
会  場  東京国立博物館 平成館(上野公園)
開館時間  9:30-17:00(入館は閉館の30分前まで)
      * 会期中の金曜・土曜は21:00まで開館
休 館 日  月曜日 * 2月11日[月・祝]は開館、翌12[火]は休館
観覧料金  一般1600円、大学生1200円、高校生900円、中学生以下無料
主  催  東京国立博物館、毎日新聞社、日本経済新聞社、NHK
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中国の歴史上、東晋時代(317-420)と唐時代(618-907)は書法が最高潮に到達しました。書聖・王羲之(おうぎし、303-361)が活躍した東晋時代に続いて、唐時代には虞世南、欧陽詢、褚遂良(ぐせいなん、おうようじゅん、ちょすいりょう)ら初唐の三大家が楷書の典型を完成させました。
そして顔真卿(がんしんけい、709-785)は三大家の伝統を継承しながら、顔法と称される特異な筆法を創出します。王羲之や初唐の三大家とは異なる美意識のもとにつちかわれた顔真卿の書は、後世にきわめて大きな影響を与えました。

本展は、書の普遍的な美しさを法則化した唐時代に焦点をあて、顔真卿の人物や書の本質に迫ります。また、後世や日本に与えた影響にも目を向け、唐時代の書の果たした役割を検証します。

* 本展は「祭姪文稿」コーナーを中心に相当な混雑が広報されています。
* 混雑状況は Twitter @ganshinkei2019 にて確認できます。
   また下掲ページ、本館開催の関連展 王羲之書法の残影-唐時代への道程-もお勧めです。

【 詳細: 東京国立博物館 】 { 関連: 活版アラカルト

【ことのは】春節-己亥大吉 旧正月の祝|有朋自遠方来不亦楽乎 ── 朋有り遠方より来たる亦た楽しからずや|

《邢 立 老師、ことしの春節をご夫人とともに日本ですごす》

<上海に営業所を有する知人からの情報>
今年の中国春節の休暇は 2月4日[月]-10日[日]、実質 3 日[日]をあわせて連続 8 日間の休暇となっています。弊社の上海事務所は政府の規定どおりの休暇ですが、生産工場などは 2 週間から 1 ヶ月間を休業としているところが多いようです。

’19年11月末、長崎で開催された<「平野富二生誕の地」碑建立祝賀祭>に北京から参加され、会話翻訳機を駆使して、すっかりサラマ・プレス倶楽部会員とも親しくなられたのが邢 立-シン リツ- さん。
[ 参考: Notes on Typography 【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日 ]

さきに愛娘が結婚され、まもなく出産ということで(邢 立 老師はオジイサンになる)、北京印刷大学教授でもあるご夫人は、日本の温泉を楽しみ、またベビー用品のお買い物に忙しいとか。
そこで邢 立さんはひとりで朗文堂に来社して、いつものタイポグラフィ論議。
中国の春節のすごしかたも、少しずつ変わってきているようです。
北京の印刷・出版社の中華書局数字出版中心:李 晨光さんから、『己亥大吉-きがいだいきち』のデスクダイアリーと、『唐詩之美日暦』『宋詞之美日暦』の春節を祝う携行カレンダーが到着した。

中華書局は自社活字書体の「聚珍倣宋版」を有し、中国有数の印刷・出版企業の中核企業である。「中華書局数字出版中心」での数字はデジタルを、中心はセンターをあらわすので、李 晨光さんは同社のデジタル・パブリッシング部門の総括責任者ということになろうか。

李 晨光さんとの最初は2015年04月03日、東京での学会にパネラーとして参加された中華書局と商務印書局のおふたりが、中途で「脱出」して、小社を訪問されたことにはじまった。その後はやつがれが北京を訪問したり、招聘された際にお会いしていた。

政府系企業から招聘をうけて訪中した際に、主催者にお願いして前夜祭のパーティーに李 晨光さんをお招きしていただいた。驚いたのは並みいる有名大学の教授陣が競って李 晨光さんのもとに駆け寄って名刺交換にあたっている光景であった。
宴が終わったのちに、親しい某教授に伺ったところ、
「中華書局は学生の憧れの職場ですから。ねっ」と艶然と微笑まれた。
やつがれも現役時代にはそれなりに学生の就職先を気にしていたが、巨大大国となった中国では、著名企業への求職競争は熾烈なものがあることをのちに知った。

[ 関連: 朗文堂好日録-045 卯月四月がおわり、新緑と薫風の皐月五月のはじまり ]

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【もんじ】花のことのは-誠実・控えめ|字であらわすと厄介なスミレ

【菫 解字】ウエブサイトでは表示できない「槿-キン・むくげ、僅少-キンショウ」の旁、「キン」を含むので、以下「僅」を代用して説明。
会意・形声。艹と僅を合わせた字。僅-キン-が音をも示す。艹は草の意、僅-キン-は僅と似て、わずかとか、ちいさいの意がある。そこで小さな草、すみれをいう。
面倒ではあるが「菫」と、「槿・僅」の旁は別字である。

《春は名のみの …… 寒い毎日がつづきます》
吾が空中庭園では、ここのところ寒風をものともせずスミレがひっそりと開花している。
ここは南面しているので、晴天なら陽だまりになるが、この頃の曇天のなかではさすがに寒そうである。
本格的な春の到来を待ちわびる日々がつづく。

【 スミレ 菫 菫菜-キンサイ 】
春、道ばたや森の中で深い紫の花を咲かせる。自生している場所や、その色から奥ゆかしい花とされ、「花のことのは」は、「誠実」「ひかえめ」。
歳時記では卯月-四月の花とされている。

日本では多くの種類のスミレが自生しているので香りは種類によって異なる。スミレを特定の種の和名として用いるほか、スミレ属各種を総称することも多い。
スミレの名は、下弁の形が、大工が使用する墨壺に似ているからつけられたもので、墨入れの略とされる。漢の字「菫-キン」を与えて「菫-すみれ」とするのは俗用(意読)で、中国では「菫菜-キンサイ」と書かれることが多い。
英語では「violet バイオレット」と書くが、サンシキスミレ( V. tricolor L. ビオラ・トリコロル)系のものは、主として園芸品種の系統を「pansy-パンジー」、また主として野生種のものを「heartsease-ハートシーズ」とよんで区別する。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

【ことのは】30センチのエスプリ|懐紙・短冊-書はかたる| 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫展ゟ

本木昌造自筆短冊五首 ── 釈読:古谷昌二(平野ホール所蔵)

本木昌造の平素の自筆稿本『本木昌造活字版の記事』(仮題、長崎歴史文化博物館:参考『活字をつくる』p.100 片塩、朗文堂)などをみると、決して能筆とはいえず、むしろ「金釘流」にちかいものがある。
ところが長崎歌壇同人としてのこした歌の短冊は、流麗な「お家流」の書で、艶冶な歌をしるし、署名はあざな「永久-ながひさ」としてのこした。この短冊は関東大震災、太平洋戦争などの罹災をこえて、こんにちでも平野ホールに継承されている。

【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】

I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版から平野富二の「歌」を紹介した。
この「歌」の出典は『本木昌造 平野富二 詳伝』(発行兼編輯人:三谷幸吉、同書頒布刊行会、p.172  昭和8年4月20日)である。

同書平野富二編には、しばしば「日記」「金銀錢出納帳」が紹介され、不鮮明ながら131ページには「日記」、148ページには「金銀錢出納帳」の写真凸版による影印図版がみられる。

したがって三谷幸吉が調査にあたった昭和7-8年ころには現存した資料であるが、残念ながら現在原資料は発見されていない。また上掲の一首以外の歌は紹介されておらず、短冊の存在も報告されていない。

平野〔富二〕先生は無骨一點張りの裡にも、亦、風流なところがあったと見えて、時々和歌を詠ぜられて居る。左〔下部〕の和歌は、明治二十年五月より七月に到る「日記」(平野家所蔵)に記載しありたるものである。
   世の中を空吹く風に任せ置き
   事を成す身は國と身のため

【補遺 古谷昌二さんはときおりこんな瀟洒なことをひっそりと …… 。「植文字」まさに活字の本質をついた名句です!】

『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二、補遺4 p. 250)
平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、
現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、
 「解かしては
 かためて鋳ぬく
 植文字を
 平野に充つる
 雪の夕景」
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である。

【展覧会】徳川美術館・名古屋市蓬左文庫|企画展:書 は 語 る ─ 30センチのエスプリ ─|1月4日-2月3日|本展示は終了しています

【 詳細: 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫 】
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【ことのは】印刷業界用語|インキ|いつの間にか「インク」に押されているようですが|国立印刷局と本木昌造・平野富二関連調査の端緒

独立行政法人 国立印刷局お札と切手の博物館
平成30年度第2回特別展 お札の色・切手の色 ~ 偽造を防ぐ技と美 ~
’18年12月18日-’19年3月3日 フライヤー裏面ゟ部分

お札や切手の印刷に使われるインキは、他とは一線を画した特殊なインキです。それは、偽造を防ぐため、門外不出の製法によって開発する特製品であり、また、色と印刷を知り尽くした職人が編み出す特別な色だからです。
印刷局は、創業後間もない明治5-1872年からインキ事業を開始し、日本で初めて洋式の印刷インキを製造しました。その後も、技術の進歩に合わせ、時代の要請に応えながら、インキの技術開発を続けてきました。
本展では、およそ150年にわたる歴史のうち、明治・大正期を中心に、当時編み出したインキや「色」にまつわる資料をご紹介します。激助の時代を乗り越え、連綿と絖く印刷局のインキ開発によって生み出された、伝統あるインキの美をぜひご覧ください。
独立行政法人 国立印刷局 お札と切手の博物館、通称国立印刷局の特別展フライヤーから一部を紹介した。この短い文章の中に「インキ」ということばが八回出てくる。
すなわち国立印刷局では、創立直後には「印肉」とも呼んだようであるが、いつのころからか「インキ」といい、いまもって「インク」とはいわないことがわかる。

当然それは民間にも影響を与えた。
印刷・出版業界、なかんずく印刷用インキの製造・販売業者は、社名の一部にインキを用いている業者が多く、「インク」というと露骨に嫌な顔をするか、丁重にいいなおしてくることが多かったが …… 。それでも近年は「インク」に馴れて、次第に「インキ」派は少数勢力になっているようである。業界用語とはいえ時代の趨勢とともにあり、そんなものかも知れないとおもうことがある。
以下『印刷辞典』からその推移をみたい。

◎『印刷辞典』の第一版『英和 印刷=書誌百科事典』(印刷雑誌社、昭和13年01月15日)
  ink  インキ。書冩、印刷等に用ふる着色料の總稱。
◎『印刷辞典』の第二版『印刷辞典』(昭和33年10月20日初版、昭和41年6月20日第6刷、大蔵省印刷局)
  インキ ink ; Farbe, Tinte 書写・印刷などに用いる着色料の総称。筆記用インキ・印刷インキ、製版に用いる腐食用インキ・転写インキなどがある。
◎『印刷辞典』の第三版『新版 印刷辞典』
(昭和49年9月10日、大蔵省印刷局)

  「インキ」の単独項目は見られない。インキ=アジテーター以下20項目の派生語を紹介。
◎『印刷辞典』の第四版 所有せず
◎『印刷辞典』の第五版『印刷辞典
第五版』(平成14年1月7日、財団法人 印刷朝暘会)
「インキの単独
項目は見られない。インキ=アジテーター以下33項目の派生語を紹介。「インキローラー冷却装置」に続き、はじめて「インクジェット記録・インクジェットプリンタ・インクジェット用紙」の三項目に「インク」が登場するが、単独項目の「インク」は見られない。お札と切手の博物館
平成30年度第2回特別展
お札の色・切手の色 ~ 偽造を防ぐ技と美 ~
開  催  日  平成30年12月18日[火]-平成31年3月3日[日]
開催時間   9:30-17:00
休  館  日  月曜日(祝日の場合は翌平日)、2月10日[日]
開催場所  お札と切手の博物館 2階展示室
入  場  料  無  料

【 詳細: お札と切手の博物館 】
『印刷辞典』は印刷局にあった矢野道也と、その膝下にあった川田久長の貢献によって初版が刊行され、こんにちまで書名・編輯団体名・発行所名を変えながらも継続刊行されている図書である。
矢野道也は大蔵官僚という立場をこえて、ひろく印刷業界人と交際し、印刷学会を創立した。川田久長は秀英舎・大日本印刷の社員であったが、印刷図書館の創立に貢献した。

小社周辺では、タイポグラフィ学会と足並みを揃えながら、幕末の先端地であった長崎から、たれが、どこへ、どのように、当時の最先端技術・産業であった「活字版印刷術  ≒ タイポグラフィ」を江戸・東京にもたらしたのかの調査にあたっている。
その報告は「Viva la 活版  ばってん 長崎」『崎陽探訪・活版さるく』(『タイポグラフィ学会誌』09、2016年11月26日)、「メディア・ルネサンス」『江戸・東京活版さるく』(『タイポグラフィ学会誌』11、2018年11月15日)になされている。

これらの成果をもとに、明治産業近代化のパイオニア:平野富二生誕の地を長崎歴史文化博物館と国立公文書館所蔵「長崎諸役所絵図 引地町町使長屋-ひきじまちちょうじながや」の資料から特定することができた。
次いで「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭を2018年11月23-25日、かつて引地町町使長屋が存在した長崎県勤労福祉会館を主会場として、記念碑の除幕、記念祭をおこなうことができた。

この記念碑は<「平野富二生誕の地」碑建立有志の会>が浄財を募って建立にあたったが、同会ではその記録を仮称:『平野富二生誕の地碑建立の記録』として刊行するために日々努力を継続している。もちろん<「平野富二生誕の地」碑建立有志の会>は、あくまでも民間の任意団体であり、補助金や助成金などは一切受け取っていない。

そんな努力に対して、近年少しずつ国立印刷局の役職員が関心を寄せてくれるようになったことは嬉しいことである。
かつて国立印刷局のお札と切手の博物館では、【 平成26年【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館 】を開催しており、その際の図録には長崎 ── 本木昌造と平野富二のふたりの肖像写真を掲げ、長崎との強い結びつきがかたられていた。同展を含む特別展の記録は、同館の WebSite に PDF データーが公開されていたが、現在は「改修工事中」ということで閲覧いただけないのが残念である。
上掲リンク先に川田久長、矢野道也の両氏を通じて国立印刷局と長崎の先端技術の交流の記録の一端をみていただけたら幸いである。

「印刷産業綜合統制組合屋上にて:矢野道也氏を送る会」(1946年03月25日)

敗戦からまもなく、東京での家屋を戦災で焼失し、子息が居住していた九州へ移転のため、矢野道也が印刷学会会長職の辞任を申し出た日に撮影された。当時の印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也(前列中央)。その背後、後列中央の、白髪で長身のひとが川田久長である。  
前列左より:佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より:馬渡 努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

「この一冊の書物から」『印刷情報』(片塩二朗 2000年07月 p.73 – )
すこしつらい記録ですが、わが国そのものが狂奔していた戦時下の貴重な記録です

【 資  料 】
矢野道也(1876-明治9年-1946-昭和21年)
日本の印刷工業に科学的研究を導入した工学者。東京帝国大学応用化学科卒業。大蔵省印刷局に入り1945年6月退官。この間、紙幣、銀行券などの有価証券類の製造と、官報その他の重要活版印刷物の作成を研究指導し1919-大正8年工学博士。

1928-昭和3年6月「日本印刷学会」の創立を提唱して初代会長に就任。印刷技術者の教育に熱意をもち、官職にありながら東京高等工芸学校(現千葉大学工学部が一部を継承)、東京高等工業学校(現東京工業大学)、東京美術学校(現東京藝術大学)の各学校で、色彩学、印刷術などの講義をおこなった。印刷関連の著書が多い。

川田久長(1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日)
明治23年05月25日  東京牛込区にて、父:麹町区長・川田久喜、母・むめ子の長男として誕生。
大正02年09月    東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。浅沼商会入社。製版材料調査に従事。
大正12年      秀英舎(現大日本印刷)入社。 同社関連企業の活字製造所:製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月    印刷図書館初代館長に就任。のち「文部省認可 財団法人 印刷図書館」(昭和24年設立)となる。
昭和24年03月20日  著作『活版印刷史』(初版・並製本 印刷学会出版部)刊行。
昭和37年07月05日  逝去。享年72。墓は谷中霊園甲3号4側に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作『活版印刷史』(再版・上製本 印刷学会出版部)刊行。 

【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日

肥州長崎図 安永7(1779)年(国立公文書館)

中央部、扇状に円弧を描いて海中に突出しているのが出島。はじめポルトガルが使用し、のちオランダ人が居住した。その下部の長方形の海中の島が新地荷蔵 並 御米蔵。その下部の唐人屋敷とは橋でつながっていた。唐人屋敷では家屋が密集していたため火災が頻発し、開港後に多くの中国人が新地に移動した。
この周辺は埋め立てがすすみ、唐人屋敷はわずかに石垣と濠跡をみるばかりとなり、昔日の光景を偲ぶよすがは少ないが、長崎空港からのアクセスが便利で、観光客が集中する繁華街。

長崎諸役所絵図 唐人屋敷(国立公文書館)

【唐人屋敷-とうじんやしき】
江戸幕府が密貿易やキリスト教の伝播防止の目的で、長崎に来航する中国人を収容した施設。長崎町年寄に命じて、1689年(元禄2)長崎郊外の官有地十善寺村に竣工。工費は銀634貫余。竣工当時の敷地面積8015坪余(2万6449 ㎡ ほど)、居住の建物は2階造りの19棟、部屋数50。市中の中国人はこの唐人屋敷に集められ、そこで暮らしていた。

各棟を来航船の出航地別に区分して入居させ、階上は商人用、階下は船員用とした。家賃は年額銀160貫、借地料3貫970匁余で、ともに唐人側の負担。
1701年の記録によれば、館内常置の役人は乙名(おとな-諸事の総支配管理役)3名、組頭(乙名の助役)4名、唐人番19名、探-さぐり-番(探偵)4名で、ほかに医師が内科10名、外科3名、眼科2名、牢屋医師が8名置かれていた。
一般日本人で出入りできる者は遊女、禿-かむろ-のほかは指定された商人のみ。1689年の入居唐人数4888名。1738年(元文3)の遊女入館数は延べ1万6913名で、同年の来航唐船は5艘である。

1859(安政6)年の開国によって唐人屋敷は廃屋化し、1870(明治3)年に焼失。
その後、長崎に住む中国人は隣接の長崎市新地町に中華街を形成し、現在の長崎新地中華街につながっている。
福建会館は唐人屋敷時代の孔子を祭る聖人堂の跡といわれ、福建省泉州出身者により創設された八会所がその起源。孫文は1913(大正2)年3月22日、華僑主催の歓迎午餐会で、福建会館に足を運んでいる。前庭には上海市より寄贈された孫文の銅像が建っている。
[参考:『世界大百科辞典』平凡社]

長崎諸役所絵図 新地荷蔵 並 御米蔵(国立公文書館)

【長崎貿易・長﨑会所・長崎新地】
長崎港の対外取引において代表的な明治以前の貿易をいい、
(1)ポルトガル船に対する1571年(元亀2)の開港から鎖国までのいわゆる南蛮貿易時代
(2)1633年(寛永10)に最初の鎖国令が出てから幕末開港までの対外貿易独占時代

(3)1859年(安政6)3港開港後のいわゆる自由主義貿易時代に区分される。

(1)南蛮貿易期
開港後まもなく、長崎は一時イエズス会領になったので(1580)、それまで九州各地に渡来したマカオからのポルトガル船や、マニラ発のスペイン船は長崎に集中するようになり、江戸時代に入ると唐船(江戸時代には明、ついで清朝船だけでなく、東南アジア各地からのジャンクもそうよばれた)の入港も急増し、さらに朱印船の中心的な発着港として栄えた。

これに対し後発のオランダ、イギリスは、それぞれ1609年(慶長14)、13年に平戸に商館を建てて日本貿易を開始した。平戸は中世以来の唐船貿易の一大根拠地でもあったが、直轄地長崎での糸割符制、キリシタン禁制を柱とする内外商人規制は、しだいに平戸へも拡大された。

(2)鎖国貿易期
1633-41年の間に、日本人の出入国禁止、唐船貿易の長崎限定、対ポルトガル断交と、空屋になった出島へのオランダ商館移転がおこなわれ、長崎は唐、オランダ船に限る外国貿易の唯一の開港場となった。もっとも、鎖国期には取引額は少ないが対馬藩による釜山の倭館での朝鮮貿易、実質は薩摩藩経営の琉球国による福州琉球館での中国貿易、松前藩による蝦夷地貿易があり、江戸中期には朝鮮貿易、末期には薩摩藩の交易が長崎貿易に大きな影響を与えた。

唐、オランダ船が長崎に入港すると、奉行所役人や唐通事、オランダ通詞が乗船して海外の情報を聴取し、人別改めや唐人は踏絵をして、上陸や荷揚げとなる。
唐人ははじめ市内に分宿したが、元禄以降になると身柄は唐人屋敷、貨物は新地蔵に収容され、出島とともに日本側の厳重な管理下におかれた。

取引方法は、糸割符、相対-あいたい-貿易法、市法貿易法、糸割符復活、代物替-しろものがえ-併用などと変化し、海舶互市新例(正徳新例)で確立したが、要は主要輸出品である銀や金の流出抑制のための買手市場化、年間取引額(定高)の設定であり(定高貿易法)、元禄期からは長崎会所を通じて貿易利潤の幕府財源化と銅輸出、後期には海産物(俵物、諸色)の輸出強化が注目される。
しかし輸出銅の不足を理由に1742年(寛保2)、90年(寛政2)の〈半減令〉をはじめ、漸次取引を縮減し、和糸や砂糖などの競合国産品の台頭、海外の戦乱などにより衰退した。

(3)開港後
唐船貿易は引き続き長崎会所が管掌したが、長崎の独占は崩れ、武器・雑貨の輸入と茶・石炭の輸出を特徴として、イギリスを主体とする欧米諸国貿易が活発化した。しかし、関税は輸入2割、輸出5分が平均的で、開港前の総平均18.5割にははるかに及ばず、横浜・箱館などの取引に抑えられて、地位の低下は否めなかった。
[参考:『世界大百科辞典』平凡社]

【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!
2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

中国最大のお祭り、春節-シュンセツ-旧正月のお祝い
出島のエキゾチズム、異国趣味で賑わう長崎も

旧唐人町と、新地地区を中心に、いつもとは異なる風情をみせています

【 詳細: 長崎市公式観光サイト:あっと!ながさき 】
[ 関連: 【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日 ]  初掲載:2018年11月29日

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【国立公文書館】企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」|一筆啓上仕候 …… 私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札|面倒なものです

私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札
一筆啓上仕候 ……

わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ
いっぴつけいじょうつかまつりそうろう ……..

上野国伊勢崎藩の前藩主酒井忠恒(寸升)は、元治元年(1864)に幕府へ湯治願を提出しました。本資料は、酒井寸升が幕府老中宛に差し出した湯治願が許可されたことに対する御礼の書状です。

{新宿餘談}
国立公文書館本館で、平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」が開催されている。展示資料のなかに上掲「私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札-わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ」があった。
本資料は、伊勢崎藩[前橋藩の支藩。維新時には二万石]の前藩主:酒井忠恒(寸升)が、幕府閣老・老中に湯治願を提出し、255年ほど前の元治元年(1864)にその湯治願が許可されたことに対する御礼の書状と解説されていた。

本文は文語、いわゆる候文で、仮名の使用はみられない。文末に署名し、さらに花押(かおう-署名の下に書く判、書き判ともいう。草書で書いた名をさらに様式化したもの)があり、その上部にちいさく忠恒としるしてある。さらに老中の姓と官職名を列記する大仰さであった。

隠居した大名でも、江戸・任地を離れる際にはこんな願い書を出し、許可が出れば礼状をしたため、戻れば報告するのが決まりであったようである。
町人も旅に出るのにはしかるべき町方の許可を得て、旅手形が発行され、それがない者は各地に設けられた関所を通過できず、宿にも泊まれなかったとされる。
明治維新後、大名は藩知事などの変遷を経て華族となったが、民衆の移動の自由が保障されたのは明治憲法の発布を待ってからのことになる。温泉にいくのにも容易ではなかったことがわかる。

国立公文書館
平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」
会  期  平成31年1月26日[土]-3月9日[土]
開館日時  毎週月曜日-土曜日 午前9時15分-午後00分
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
      千代田区北の丸公園3-2 1階展示場
入  場  料  無  料
────────────────
日本人が古くから親しんできた温泉。江戸時代には、名所図会、紀行文などを通して情報が広く流布し、多くの人々が温泉地に訪れました。本展示では、江戸時代の資料を中心に、人々と温泉の関わりをご紹介します。

【 詳細: 国立公文書館 】 {関連:活版アラカルト

【 伊勢崎藩-いせさきはん 】
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【かきしるす】平野富二 31歳のころの写真Ⅱ|三谷幸吉の記録ゟ+石川島平野造船所の集合写真との関係は如何に

横浜石川口製鉄所職員 ── 前列中央が平野富二 1876年(明治9)31歳のころ
『本木昌造 平野富二 詳伝』ゟ
(発行兼編輯人:三谷幸吉、昭和8年4月20日、同書頒布刊行会 154ページ)

上掲写真を公開したところ、周辺でおもわぬ波紋が拡がっている。
① 横浜製鉄所の共同経営者で同郷の、杉山徳三郎はこの写真のどこにいる?
② 平野富二が手にしているのと類似する、帽子を被った巨躰の人物が「東京石川島造船所」関連の職員集合写真のなかでみたことがある。
あまりに豆粒のように小さく紹介されていて、平野富二とは断定できなかったが、この横浜製鉄所の写真との類似性からいって、平野富二とみてよいとおもわれるが?

① の疑問にこたえて
この写真は、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』p.155に記載されているように、「横浜石川口製鉄所」時代のものです。拙著『平野富二伝 考察と補遺』図8-16に掲載し、解説を述べてありますが、「横浜石川口製鉄所」は明治13年1月に平野富二が単独で借用したものです。
杉山徳三郎は、明治10年の西南戦争の特需で利益を得てから横浜製鉄所の経営から手を引いて、明治12年に九州に戻り、明治13年から炭坑経営に身を転じています。したがってここには杉山徳三郎はおりません。[古谷昌二]

────────────────
古谷昌二氏のご指摘を受けて
本図は『東京日日新聞』(明治14年2月19日)に掲載されたもので、東京と横浜とが一体運営であることを示している。

大小蒸気船及び帆走船
大小蒸気船幷陸用蒸気機械製造
このほか諸機械汽罐お好みに応じ製造仕りべく候
   東京  石川島造船所
   横浜  石川口製鉄所

横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所
「横浜製鉄所」は横須賀海軍工廠の前身をなす官営造船所であった。江戸幕府が海防に備えて、フランスの全面的な援助を得て、江戸近辺に艦船建造修理工場の創設を計画したことからはじまる。
幕府は慶応元年(一八六五)八月横浜本村(横浜市中区吉浜町)に「横浜製鉄所」を建設し、佐賀藩から献上されたオランダ製蒸汽船用機械を活用し、さらに咸臨丸遣米使節が購入した工作機械を追加据え付けし、小型艦船の修理のほか西洋技術の伝習を兼ねる工場とした。

ひきつづき地中海のツーロン軍港をモデルにして地形の類似する横須賀湾に立地し、同年九月「横須賀製鉄所」の起工式を挙行、翌二年工場建設、三年第一ドック開削に着手した。
フランスの海軍技師ベルニ François L.Verny が首長に任命され工事を指揮監督し、江戸幕府崩壊後も滞在。明治新政府はこれを継承し明治四年(一八七一)二月ドックを完成、製鋼・錬鉄・鋳造・製罐各工場も落成した。

横須賀製鉄所は明治三年十月から工部省の管轄に入り、雇用フランス人の技術力と据付け輸入機械の高い水準を生かし、造船にとどまらず一般産業分野にも活用され、政府の殖産興業政策を実施する日本最大の総合工場となった。採鉱機械を製作し生野鉱山で使用したり、富岡製糸場の建築に技師を派遣して協力したりしたのはその一例である。

明治四年四月「横須賀造船所」と改称され、五年十月海軍省の強い意向で同省の管轄に移され軍艦建造を目的とし、八年末ベルニらを解雇して邦人のみで艦船の造修を主体的に行う体制に切り替えた。その結果、フランス人技師や労務者も十年中に全員帰国した。
この間九年六月最初の木製軍艦清輝(八九七トン)、十三年七月木製砲艦磐城(七八〇トン)、十四年八月日本最大の木製二本マスト艦迅鯨(一四六四トン)を竣工した。十六年イギリスから技師を招き甲鉄艦の建造を学び、以後木製艦船の建造を中止した。

横浜石川口製鉄所の写真
本図は『幕末・明治のおもしろ写真』に掲載されている写真の一部である。明治15年頃の撮影とみられる。
本図は神奈川県立横浜博物館編『横浜銅版画』に掲載されている横浜石川口製鉄所の絵図である。上掲図とは方位が逆で、やや変形して描かれているが、工場の細部にわたって描かれているのが興味ぶかい。表門の門柱に「石川口製鉄所」の表札が掲げられ、その傍らに人力車が待機している。構内では組み立て手動式レールを用いてボイラーを人力で移動させている。

このように横須賀造船所の整備に伴い、補助的な役割を果たすにすぎなくなった横浜製鉄所は不要となり、明治十二年末平野富二に貸し下げられた。
平野はみずから経営する東京石川島造船所の分工場とし「横浜石川口製鉄所」と改称した。これは横浜製鉄所の位置が石川町の入口にあたることから「石川口製鉄所」と命名し、石川の文字を石川島と共有させることを狙ったものとみられる。

同所では翌年一月から舶用機関や一般諸機械を製作したが、本社工場と合併することを得策と考え、十七年末分工場を取り壊して石川島へ移築合併したため、横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所は消滅した。
[参考:『国史大辞典』(吉川弘文館)、『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二)]

② の疑問にこたえて
この写真は『石川島技報』の「石川島物語」に開催されている集合写真(部分)である。
写真の右手に洋服を着た役員・職員が並んでいるが、その前列中央のやや背の低い肥って丸顔のひとが平野富二、その右となり(画面)が稲木嘉助とされている。その背後に背の高い髭面のひとは技師長:アーチボルト・キングとみられる。
対する左手には職長や棒心らしき人々が法被-はっぴ-を着て立っており、中央には職工たちが四列に並んでいる。総勢七、八十人を数えることができる。
[引用:『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二 p.248)]

【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)
うしろ山(風頭山-かざがしらやま)の大光寺と崇福寺墓地の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
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【かきしるす】平野富二 34歳のころの写真Ⅰ|三谷幸吉の記録ゟ

横浜石川口製鉄所職員 ── 前列中央が平野富二 1880年(明治13)34歳のころ
『本木昌造 平野富二 詳伝』ゟ
(発行兼編輯人:三谷幸吉、昭和8年4月20日、同書頒布刊行会 154ページ)

巨躯であったと記録される平野富二の数少ない写真資料のひとつ。写真撮影が苦手だったようで、どの写真も視線はカメラ目線ではありません。また洋装の社員と和装の社員が混在し、この時代の風潮をあらわしている。
横浜石川口製鉄所は明治13年01月から平野富二が経営にあたり、舶用機関や一般諸機械を製作したが、本社工場(東京石川島造船所)と合併することを得策と考え、17年末横浜石川口製鉄所を取り壊して石川島へ移築合併したため、横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所は消滅した。

天地53×左右75ミリ、ちいさな写真凸版図像から補整紹介[日吉洋人]

【ことのは】ゆっくり、急げ!── FESTINA LENTE

朗文堂 サラマ・プレス倶楽部の時候のご挨拶。今回のテーマは
「ゆっくり、急げ!」

[参考:朗文堂ブックコスミイク『普及版 欧文書体百花事典』
[参考:花筏 タイポグラフィ あのねのね*014 アルダス工房、ドベルニ & ペイニョ活字鋳造所、アーツ&クラフツ運動]
現存するアルダス工房跡

【ことのは】烏 兎 匆 匆 ── う と そうそう

烏 兎 匆 匆 ウト-ソウソウ
うかうか三十、キョロキョロ四十、烏 兎 匆 匆

先達の資料に惹かれ、あれこれの図書を渉猟し、おちこちの旅を重ねた。しかし 吾ながらあきれるほど喰い囓っただけのテーマが多い。文字どおり、
「うかうか三十、キョロキョロ四十」はあっという間に過ぎ去り、いたずらに馬齢を重ねた。

歳月-サイゲツ・としつき-とは、中華の国では、烏  カラス が棲む 太陽 と、 兎 ウサギ がいる 月 とが、 あわただしく行きかうことから「烏 兎 匆 匆 ── うとそうそう」 という。
そろそろ残余のテーマを絞るときがきた。 つまり中締め(大締め?)のときである。後事を俊秀に託すべきときでもある。
おあとはよろしいようで …… なのか、 おあとはよろしく …… なのかは知らぬ。

【ことのは】水仙-スイセン-Narcissus 花のことのは egotism-自己中心

空中花壇に咲く「日本水仙」。背景の赤い花は四季咲きのゼラニウム
水仙-スイセン-Narcissus 花言葉 egotism-自己中心

アマリリス科スイセン属の球根植物の総称;黄または白色の花をつける。
[1548.<ラテン語<ギリシャ語 nárkissos(球根に麻酔作用があるため nárkē「麻痺-まひ」と結びついた植物名)→ NARCOTIC]
〔ギリシャ神話〕 ナルキッソス:美しくてうぬぼれの強い青年が、泉に映った自分の姿に恋をして、満たされない望みにやつれ果ててスイセンに化したという。
[参考:『ランダムハウス英和大辞典』小学館]

正月三が日の間に、突如茎が仔鹿の脚のようにスクッと伸びてきて、フラワーポットの中央を占拠して咲きつづけているのが水仙。たしかにワガママだし、自己中心ともいえそうで納得。

【ことのは】森鷗外|少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす

文京区立 森鷗外記念館|コレクション展
「少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす」
1月19日-3月31日

文京区立 森鷗外記念館
コレクション展「少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす」
会  期  2019年1月19日[土]-3月31日[日]
      * 2月25日[月]、26日[火]、3月26日[火]は休館
開館時間  10時-18時(最終入館は17時30分まで)
会  場  文京区立森鷗外記念館 展示室 2
料  金  一般 300円
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東京で近衛師団軍医部長を務めていた森鷗外は、明治32(1899)年6月、小倉(現・福岡県北九州市)の第十二師団軍医部長として赴任を命ぜられます。
東京での鷗外は家族とともに暮らし、職務や文業に専念してきましたが、小倉では自ら家政をとる新たな生活が始まります。東京を離れて小倉にあることによって、軍医部等の動静や文学界を、距離を置いて眺めます。そのことが、自分と他者との関係を考える機会となりました。

一方、鷗外は土地の人々と交流し、勉強会を行い、外国語の学習をはじめ、史跡を巡るなど、新たな学びの機会を得ました。明治33(1900)年12月、親友・賀古鶴所に宛てた手紙には「公私種々ノ事業ノ為メニ(中略)少シモ退屈ト云コトヲ知ラズ」と記されており、小倉での充実した日々がうかがえます。鷗外は、明治35(1902)年3月までの2年10ヶ月を小倉に暮らしました。

本展では、鷗外の小倉での生活、職務、関心事を日記『小倉日記』『小倉日記附録』、友人や家族へ宛てた手紙などの資料から紹介します。また、作家・松本清張が鷗外の『小倉日記』から着想を得た小説『或る『小倉日記』伝』などを併せて展覧します。

【 詳細: 文京区立森鷗外記念館 】

【もん】三升紋-みますもん|歌舞伎界の宗家市川家の定紋|市川團十郎と成田屋一門

三升-みます-紋

市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門〔成田屋〕の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。

その市川團十郎家の定紋は「三升-みます-紋」とされる。「三升紋」は大中小の三つの升形-ますがた-が、入れ籠-いれこ-になったもので、世間によく知られた図柄だが、その誕生のヒントは初代市川團十郎(1660-1704)が、不破伴左衛門の衣裳にある稲妻からとったとか、その役に添え柄としたとか、諸々の説がある。
しかし、その初代の父:堀越重蔵と親友だった侠客:唐犬十右衛門(初代の幼名海老蔵の名付親)から初舞台に贈られた三つの升にちなむという話をとりたい。役者と侠客、義理と人情、ありそうな事だ。
宗家以外の一門は、三升の中に頭字を入れる。市川左團次は「左」を、市川段四郎は「段」を。市川團蔵はどうすると聞かれ、これは困った。縦長-たてなが-三升か、丸に結柏-むすびがしわ-がその答。
[ 参考:成田屋 市川團十郎市川海老蔵公式 Web サイト  成田屋早わかりゟ補整

  

歌舞伎美人ニュース 2019年01月14日

2020年5月、十三代目市川團十郎白猿の襲名披露を発表

2020年、5月、6月、7月の歌舞伎座で、市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を襲名することが発表されました。
同時に、海老蔵長男の堀越勸玄-かんげん-が八代目市川新之助として初舞台を行います。

「この度、私、十三代目市川團十郎白猿を襲名させていただく運びと相成りましてございます。歌舞伎界におきまして市川團十郎は大きな名跡でございます。このうえは己の命の限り、懸命に歌舞伎に生きてまいりたい所存でございます」。
歌舞伎座の緞帳が上がり、緋毛氈に勸玄とともに並んだ海老蔵は、しっかりと前を見据えて襲名への決意を語りました。

團十郎という名跡の大きさ
十二代目が平成25(2013)年2月3日に亡くなってから7年となる来年、再び團十郎の名跡が十三代目としてよみがえります。俳名として二代目團十郎から栢莚-はくえん-を名のり、その俳名を五代目が、人間に及ばない猿という俗信をふまえ、名人に及ばないという意で白猿に変えました。
「私も父や祖父にまだまだ足もとにも及ばぬ、これからもっと精進していこうという気持ちも含め、白猿を俳名として名のることにしました」。

團十郎という名跡について海老蔵は、
「歌舞伎界にとりまして、たいへん重い名跡と理解しております。初代から父の十二代目まで、歌舞伎十八番、新歌舞伎十八番、荒事を中心にやっている家でございまして、いろいろなものを背負い、抱え、その時代に責任をもっていくことが必須になる。そのなかで自分が今できることを、少しずつやっていこうと思います」。
父を見てはいたけれど、
「なってみないとわからない、計り知れない重みがあるんだと思う」
と、その名前の大きさに自ら気を引き締めていました。〔中略〕

新團十郎とともに八代目新之助の初舞台
海老蔵が35歳で父を失った翌月に生まれた勸玄-かんげん-が、十三代目團十郎襲名と同時に、八代目新之助を名のって初舞台を踏みます。
この4月から小学生となる勸玄は、平成27(2015)年11月歌舞伎座『江戸花成田面影』で初お目見得以来、今月の新橋演舞場まですでに4度、本興行に出演、7歳での初舞台となります。團十郎襲名の公演で初舞台を踏むのは父と同じです。

「この度、父も名のっておりました市川新之助の名跡を、八代目として相続いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします」。
はっきりと通る大きな声で挨拶した勸玄。
「襲名を決める以前から彼は(自分を)新之助と思っているところがあり、本当は海老蔵を継ぎたかったみたい」
との紹介にちょっと照れ笑い、子どもらしい可愛らしさがのぞきました。
『玉兎』『幡随長兵衛』がやってみたいと、すでに父の背中を追って歩み出しています。

海老蔵は、「歌舞伎の家に生まれたということでやっていますが、あとは、本人がどのような気持ちで歌舞伎というものに向き合っていくのか。これからさまざまなことがございまして、未熟な私がどの程度支えられるかわかりませんけれど、彼がどういうふうに逃げずに受け止めていくのか」。
堂々と挨拶する姿に目を細め、遊ぶより稽古が好きという頼もしい息子に、
「お稽古が好きというのは舞台が楽しいのかなと。舞台が好きなのは歌舞伎の家に生まれてよかったのではないかと感じます」。

十三代目市川團十郎白猿襲名披露の興行は、歌舞伎座、2020年5月、6月、7月のほか、11月博多座、2021年2月大阪松竹座、4月名古屋御園座、11月京都南座と続きます。
また、2021年3月と9月は全国各地での巡演も行われます。八代目新之助の初舞台は、歌舞伎座の3カ月興行のなかで行われる予定です。

「十三代目團十郎白猿襲名披露 八代目市川新之助初舞台」記者会見の模様は、ニコニコ動画「歌舞伎チャンネル」で、ダイジェスト版をご覧いただけます。

【 詳細: 歌舞伎座 歌舞伎美人
[ 参考:成田屋 市川團十郎 市川海老蔵 公式 Web サイト

【もんじ】歌舞伎と勘亭流の書芸|歌舞伎座|壽 初春大歌舞伎|平成31年1月2日-26日

歌舞伎美人 ニュース 2019年01月03日

歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」初日開幕

2019年1月2日[水]、歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」の初日が幕を開けました。
平成最後の正月、縁起物の三番叟で幕を開けた歌舞伎座。中村魁春の千歳、中村芝翫の三番叟が舞台に現れ、『舌出三番叟-しただし さんばそう』がはじまりました。

三番叟の大地を力強く踏みしめる音が響き渡り、千歳はゆったりと祝祭の舞を見せます。五穀豊穣を祈る厳かで儀礼的な踊りのなかにも、婚礼の支度の様子を面白く当て振りで踊ったり、松竹梅を描いた衣裳を見せたりして楽しませます。
「千穐万歳、万々歳の末までも、賑わう御代とぞ舞い納む」
と二人がきっちりきめると、歌舞伎座にすがすがしい空気が満ち満ちました。[後略]
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{ 新 宿 餘 談 }

いまなお脈々と生きつづける「勘亭流」の書芸

歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」公演パンフレット 巻頭番組表
歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」公演パンフレット 表紙
歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」公演パンフレット 巻末刊記

2018年は松本白鸚、松本幸四郎、市川染五郎の高麗屋三代同時襲名披露で賑わった歌舞伎界であった。
また1月14日には、2020年5月、6月、7月、歌舞伎座で、市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を襲名することが発表された。同時に、海老蔵長男の堀越勸玄-ほりこし かんげん -が八代目市川新之助として初舞台を行うという。
歌舞伎美人ニュース 2019年1月14日

慶事がつづく歌舞伎界であるが、家人が1月2日、木挽町歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」を観劇した。実にけしからんというか、羨ましい限りである。やつがれは風邪が抜けきらず寝正月をきめこんでいたが、家人の報告によると、友人の松本金吾も昼の部「一條大蔵譚-いちじょう おおくら ものがたり」に 八剣勘解由役 で元気に舞台を務めていたそうである。

manekigaki_c20181011-300x225歌舞伎を象徴するのはやはり勘亭流の書である。歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」では何枚もの懸垂幕に力強く書かれた勘亭流の書をみることができた。岡崎屋勘六による「勘亭流」の創始から240年、この書風をみただけで歌舞伎であることがわかるからすごい。
それも WebSite やフライヤーでは味わえない魅力が、本物の劇場と舞台には横溢している。

さきに京都南座「當る亥歳 吉例顔見世興行」のまねき看板と口上の勘亭流の揮毫現場を紹介した。京都の書芸家は井上 優氏であった。
家人が「壽 初春大歌舞伎」の観劇パンフレットを購入してきてくれた。巻頭の番組表はすべて勘亭流の書を版下としている。東京での書芸家は山中福壽氏であった。
こうした書芸家を傘下においている座主の松竹もすごいものがある。復習のためにあらためて勘亭流を紹介した。

【勘亭流-かんていりゅう】
歌舞伎の看板、絵本番付(プログラム)などに用いる独特の書体。筆太で、隙間なく、内へ丸く曲げるように書く。寄席、相撲などで使う書体とは違う。内へ丸く曲げるのは、観客が入るという縁起をかついだものである。
安永八(1779)年、江戸堺町の書藝指南:岡崎屋勘六(1746-1805)が中村座のために創始したのがはじまり。勘六は号を勘亭といい、そこから勘亭流という書芸の流派がうまれた。

【詳細: 歌舞伎座 歌舞伎美人 】
[関連: NOTES ON TYPOGRAPHY ]

【かきしるす】平野富二|世の中を空吹く風に任せ置き 事を成す身は国と身のため|I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~|I H I Corporation


【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】


* 拡大画面ご希望の際は、画面右下  YouTube の文字部 をクリックすると別枠が開きます。

I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開
嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

【 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/ 】
────────────────
株式会社 I H I の公開展示施設 i – muse の全面リニューアルに際して、拙著『富二奔る 近代日本を創ったひと・平野富二』(片塩二朗、朗文堂、2002年2月3日)74ページに紹介した「平野富二の歌」の出典確認の依頼が担当者からあった。

この二首の出典は、いずれも『本木昌造 平野富二 詳伝』(発行兼編輯人:三谷幸吉、同書頒布刊行会、昭和8年4月20日)である。
同書平野富二編には、しばしば「日記」「金銀錢出納帳」が紹介され、不鮮明ながら131ページには「日記」、148ページには「金銀錢出納帳」の写真凸版による影印図版がみられる。

したがって三谷幸吉が調査にあたった昭和7-8年ころには現存した資料であるが、残念ながら現在原資料は発見されていない。

平野〔富二〕先生は無骨一點張りの裡にも、亦、風流なところがあったと見えて、時々和歌を詠ぜられて居る。左〔下部〕の和歌は、明治二十年五月より七月に到る「日記」(平野家所蔵)に記載しありたるものである。
  世の中を空吹く風に任せ置き
        事を成す身は國と身のため
172ページ

遺 族 挨 拶
平野〔富二〕先生二女津類〔つる〕女史は感激に滿ちて。
  吹きながす五色のはたも雲にさえ
        なき魂まつる人の眞心
256ページ

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i – muse の全面リニューアルが完成し、それからしばらくして同館の大型ディスプレーで「I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~」をみた。
拙著『富二奔る 近代日本を創ったひと・平野富二』では、僭越かつ無礼な紹介をしていたことを恥じいることになったが、平素は比較的地味な広報展開をしている I H I が、本編では高揚した動画となっていることがうれしかった。
そのお礼とお詫びの意味をふくめて、巨大化し多様化した株式会社 I H I をすこしでも理解できるように、同社公開動画「 I H I 会社案内映像  日本語版 」を紹介したい。

【 YouTube I H I 会社案内映像(日本語)  音が出ます  04:07 】

【 詳細: 株式会社 I H I   i – muse     石川島資料館 】
[関連:【会員情報】I H I Corporation|I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~|YouTube 動画を共有紹介 

【もん】歌舞伎は伝統芸能|そこには様〻な もん がみられます|櫓-やぐら 梵天-ぼんてん

  ニュース   歌舞伎座で櫓揚げ 2013年06月06日
歌舞伎座で、櫓揚げ-やぐらあげ-がおこなわれました。

歌舞伎座櫓揚げ

歌舞伎座正面玄関で朝から本格的に始まった櫓揚げの作業は、昼過ぎには無事終了、2年10カ月ぶりに歌舞伎座に櫓が揚がりました。
江戸時代、幕府公認の証として芝居小屋の正面に揚げられていた櫓は、現代では、歌舞伎の殿堂である歌舞伎座に欠くことのできないものの一つとなっています。

櫓は幅3.3m、高さ2.7m。5本の槍を横たえ、2本の梵天-ぼんてん-が組まれており、また、正面に歌舞伎座の座紋である「鳳凰丸-ほうおうまる」、左右の側面には「木挽町 きゃうげんづくし 歌舞伎座」の文を染め抜いた三方の幕で囲われています。

作業を行った鳶頭の石津弘之さんは、
「この作業は、これから〝新しく始まる〟という大変喜ばしいものです。非常に名誉なことで、うまく揚げることができてよかった」
と胸をなでおろし、はじめておこなった歌舞伎座の櫓揚げを順調に終えた満足感を表しました。

 

 ニュース  京都四條南座に櫓-やぐら-が上がりました 2018年09月25日

京都四條南座に櫓-やぐら-が上がりました。
かなり高い位置なので、道路をはさんで向かい側からご覧ください。

南座の正面には新調された「櫓」が上がり、その両側には白い御幣「梵天-ぼんてん」も立ちました。八百万-やおよろず-の神と見なした数である 800 枚の美濃紙を使い、2 週間かけてつくられた梵天は、神の依代-よりしろ-としての役目も担います。

大提灯が四条通のランドマークの一つとして帰ってきました!

そして、南座のシンボルともなっている赤い大提灯も新調され、劇場正面玄関の左右に掲げられました。手すきの越前和紙でつくられた大提灯がいつもの位置に収まると、光を放つような輝きを得て四条通によみがえりました。

{新宿餘談}

櫓 - やぐら 梵天 - ぼんてん

劇場用語。芝居や相撲の興行場に付属している高い構築物のこと。やぐらとはもともと弓矢などの武器を入れる倉、つまり矢倉・矢座から出たものとおもわれる。城郭建築で敵に対して弓矢・礫などによる防戦や物見のために建造された高楼から転じて、歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場において、正面出入口の上にのせた構造物をいう。
炬燵櫓のような形で、屋根はなく、大きさは江戸中期には九尺四方(歌舞伎)と、七尺四方(人形浄瑠璃)とほぼ定まっていた。

櫓には座元の紋を染め出した〈櫓幕〉が引きめぐらされており、江戸初期の形式には、上に梵天-ぼんてん(幣束-へいそく ≒ 御幣)をたて、毛槍を五本並べたものが多い。梵天をたてることは、櫓が元来神を勧請するために天へ向けて高く構築されたものであったことを示しているといえる。

櫓の中では〈櫓太鼓-やぐらたいこ〉を打って興行のあることを知らせた。そのことから〈太鼓櫓〉ともいった。江戸の歌舞伎の櫓太鼓は文化期(1804-18)以後ほとんど廃されたが、相撲興行では今日なおおこなわれている。

また、櫓は官許の興行権所有のしるしとして重要な意味をもっていた。そこで、興行権を与えることを〈櫓を許す〉、興行を開始することを〈櫓を上げる〉といい、興行権を〈櫓権〉、興行権の所有者の座元のことを〈櫓主〉と呼んだ。江戸の歌舞伎の興行権は、正徳四(1714)年以後、中村座・市村座・森田座の〈江戸三座〉の座元に限って与えられる世襲の特権であった。
この三座が興行不能に陥った場合には、代わって興行する〈控櫓〉の制度が設けられていた。享保一九(1734)年に森田座が借財のため休座するに至ったため、その休座中に限り河原崎座に興行代行の許可がおりたのがはじまりで、中村座には都座・玉川座、市村座には桐座、森田座には河原崎座が控櫓と定まったのである。
この控櫓(〈仮櫓〉ともいう)に対して、江戸三座を〈本櫓〉(〈元櫓〉ともいう)と呼んだ。官許の常設劇場以外の宮地芝居を〈笹櫓〉と呼んだ。櫓の下に掲げた看板は〈櫓下看板〉といい、人形浄瑠璃でもここに一座を代表する芸人の名を記した〈櫓下看板〉を掲げた。
[参考資料:『新版 歌舞伎事典』(平凡社)]

【ことのは】明治150年祭|日本工学の父|山尾庸三| 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシー|

明治日本の産業革命遺産 紹介映像
萩美術館 掲載日:2016年1月28日
日本政府がユネスコへ提出した「明治日本の産業革命遺産」の推薦書に附属した、概要や資産などを紹介したビデオ(DVD)のホームページ版です。

* ナレーションは英語ですが、日本語がテロップ(文字)で紹介されています。
* 拡大画面で閲覧希望のばあいは、画面右下の YouTube の文字部 をクリックすると、YouTube com の別画面でご覧いただけます。

【 YouTube 明治日本の産業革命遺産  製鉄・製鋼、造船、石炭産業  音が出ます  36:22 】

Yozo_Yamao_011山 尾  庸 三(やまお-ようぞう 1837-1917)

― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―

たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ
山 尾  庸 三
01-03.長州ファイブ(後列段左より:遠藤謹助、野村弥吉(井上 勝)、伊藤俊輔(博文)、前列左より:井上聞多(馨)、山尾庸三)長州ファイブ/長州五傑
前列右より時計回り、山尾庸三(工学の父)、井上聞多(通称:ぶんた 馨。政治家・実業家)、遠藤謹助(造幣局長)、野村弥吉(井上 勝/鉄道の父)、伊藤俊輔(博文。政治家)
Kobu_Daigakko工学尞 ⇨ 工部大学校・工部美術学校 → 東京大学工学部の前身のひとつ
所在地/千代田区霞が関ビル周辺(もと日向国〔宮崎県〕延岡藩 内藤能登守上屋敷)
01-01.工部大学校阯碑01-02.工部大学校阯碑解説板「工部大学校阯碑」および解説板(千代田区霞が関三丁目2-1)
旧校舎の避雷針と煉瓦をもちいて卒業生有志によって建造された〔撮影:時盛 淳〕
e761bbdd02ec5f6ee4c276186b64ce9e萩博物館フライヤー <日本工学の父 山尾庸三展> 2018年9月16日ー10月01日
{活版アラカルト関連:【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展「日本工学の父 山尾庸三」
tetukoto_omotephoto02井 上  勝(幼名:野村弥吉 いのうえ-まさる 1843-1910)
{活版アラカルト関連:【展覧会】萩博物館 萩の鉄道ことはじめ「日本鉄道の父:井上 勝」

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工部大学校 と 山尾庸三
日本最初の工学教育機関。東京大学工学部の前身のひとつ。
伊藤博文・山尾庸三の建議に基づいて設置され、1873年(明治04)専門教育はイギリス人の教頭・機械工学者 H. ダイアー ほか 8 人のイギリス人教師を招いて「工部省工学寮」が開校。工学頭-こうがくのかみ-は山尾庸三、教頭はダイアーであった。工部省工学寮は1877年(明治10)「工部大学校」と改称した。のち工作局長:大鳥圭介が総理となった。

土木、機械、造家、電信、化学、冶金-やきん、鉱山の 7 学科をもつ 6 年制の官費の専門学校で、学理面と実地面とを融合した、当時世界でも進歩的な工学教育機関であった。
工部大学校は1879年(明治12)に最初の卒業生19人を出し、1882年に造船科を増設、1885年(明治12)工部省廃止に伴い文部省に移管され、翌年東京大学工芸学部と合併し、帝国大学工科大学、現東京大学工学部となった。辰野金吾、高峰譲吉、藤岡市助、井口在屋-いのくちありや-ら明治の工学界・産業界の指導者・技術者を輩出した。

山尾庸三(やまお-ようぞう 1837−1917)
幕末-明治時代の武士,官僚。
天保8年10月8日生まれ。長門(ながと-山口県-萩藩士。1863年(文久3)伊藤博文らと密航渡海してイギリスで工業をまなぶ。1870年(明治3)帰国し、工部省、工学寮の設立にかかわり、13年工部卿。のち宮中顧問官、法制局長官。また楽善会訓盲院(現筑波大付属盲学校)の創立につくした。大正6年12月21日死去。81歳。
[参考資料:『日本大百科全書』(小学館)]

【ことのは】真名-漢字 真仮名-万葉仮名とひら仮名 カタ仮名|かぎろひ-の【陽炎の】枕詞-まくらことば

奈良県北東部 ── 山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア  ⓒ Yahoo  Japan  ⓒ ZENRIN
『古事記』『日本書紀』『万葉集』ロマンのさととされる奈良県宇陀市大宇陀地区を中心に

真名と仮名
奈良県:宇陀郡>安騎野-あきの

『日本書紀』天武天皇元年六月二四日条に「菟田の吾城-うだのあき」がみえる。
『万葉集』巻一に「軽皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌」として長歌とともに、

阿騎-あき-の野に宿る旅人打ち靡き寐-い-も寝-ぬ-らめやも古思ふに

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

の短歌を載せる。
『大和志』には「吾城野」として「在迫間本郷二村間」とあり、現大宇陀町大字迫間-はさま・本郷-ほんごう-に比定[およそ定める]する。
また本郷村東南の拾生-ひろお-村(現大宇陀町)に「旧名明城野-あきの」とある。
なお迫間には式内社[しきないしゃ 延喜式神名帳に記載された3132座の神社]に比定される阿紀-あき-神社がある。

歌学書『八雲御抄』には「あきのおほ野」とある。

こうした歴史を背景として、この地域には神社の名称として「阿紀-あき-神社」がのこり、公園施設の名称として「阿騎野・人麻呂公園」がのこり、ひろくは「安騎野」と呼ばれ、しるされるようになった。
[参考資料:『日本歴史地名大系』平凡社]
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奈良県北東部 ── 山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリアは、こんにち『古事記』『日本書紀』『万葉集』ロマンのさととされるが、ここにみるように「万葉仮名」の残渣ないしは残り香があちこちにのこっている。

「万葉仮名」は、漢字の音・訓を仮借-かしゃーして、日本語の音韻表記に用いた表音文字である。漢字の音を仮借した「安-あ、加-か」などの音仮名と、訓を仮借した「三-み、女-め」などの訓仮名とに大きく分類される。
漢字の表音的用法は古く中国にみえ、固有の字がなかった日本でもこの方法を用いたもので、『万葉集』に豊富にみえることから万葉仮名とよぶ。ひら仮名、カタ仮名はこれから成立した。漢字(真名)と形が同じであることから真仮名-まがな-ともいう。

枕詞-まくらことば

かぎろひ-の【陽炎の】〔カギロイ-ノ〕

〔枕 詞〕 「春」「心燃ゆ」などにかかる。
〔  例  〕 「味さはふ夜昼知らずかぎろひの心燃えつつ悲しび別れぬ」〈万葉・9・1804長歌〉
〔  訳  〕    夜昼の区別もなく心は燃え続けて、悲しみ別れたことだ。
〔  注  〕       田辺福麻呂(タナベノサキマロ)ガ弟ノ死去ヲ悲シンデ作ッタ歌。
「味さはふ」ハ「夜」ノ枕詞。

[参考資料:『全文全訳古語辞典』小学館]
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枕 詞-まくらことば

おもに和歌に用いられる古代的な修辞のひとつ。
和歌においては五音一句に相当する句(四音や六音もある)をなし、独自の文脈によって一つの単語や熟語にかかり、その語を修飾し、これに生気を送り込む。一首全体に対しても、気分的・象徴的に、または声調上・構成上に微妙な表現効果をもたらす。

枕詞の起源は古代の口誦詞章のきまり文句で、そのうち最も重要なのは神名や地名にかぶせる呪術的なほめことばである。記紀歌謡において枕詞を受ける単語や熟語の半数以上が固有名詞であるのは、その辺の消息を示すものにほかならない。のちのちまで枕詞のかかり方が、固定的、習慣的、伝承的でありつづけながら、なお有機的に働くのもそのためである。枕詞は平安朝に入ってからは使われることが少なくなっていく。

枕詞のかかり方は、同音・類音のくり返しや懸詞-かけことば-によるものと、意味の上で説明したり、形容したり、比喩したり、連想を働かせたりするものとさまざまであるが、すでにかかり方の不明となった慣用句も多い。これらはすべて神託などの呪術的な古代的発想法から展開してきたものとみられている。

枕詞と似た和歌の修辞に序詞-じょし-があって、両者はその長さの違いや、文脈の性格の違いによって区別されているが、個々の例では区別のつきにくいものもある。
本質を異にする両者が混雑を生じたものか、本質を同じくする両者が別々に発達したものか両説があるが、古代人が枕詞と序詞とを明確に区別した形跡はない。

柿本人麻呂は、古い枕詞を新しく解釈し直して用いたり、新しい枕詞を作ったり、用言を修飾する枕詞を多用したりして、枕詞の発達に大きく貢献した万葉歌人である。その作品
〈玉藻刈る敏馬-みぬめ-を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ〉(《万葉集》巻三)
の〈玉藻刈る〉〈夏草の〉という枕詞は、実景を描いたかと思わせるほど一首全体に対して大きな表現効果をもっている。
なお、老・病・死をおもにうたった山上憶良は、枕詞をほとんど使っていない。
[参考資料:『世界大百科事典』平凡社]

例年の「かぎろひを観る会」の様子

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

なら旅ネット ── 奈良観光公式サイト
第47回かぎろひを観る会
開催施設  自然公園かぎろひの丘万葉公園
開催日時  2018年12月23日[日・祝] 04:00-07:00
所 在 地  〒633-2166 宇陀市大宇陀迫間25番地
      入園無料  事前申し込み不要 
問い合せ  0745-82-3674(宇陀市役所 公園課)
アクセス  最寄り駅からの交通
      近鉄 榛原駅より 大宇陀行きバス「大宇陀高校前」下車 徒歩3分 
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「かぎろひを観る会」は今年で47回目を数える歴史ある催し。
柿本人麻呂が詠んだ秀歌、

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

にちなみ、かがり火を囲みながらかぎろひの出現を待ちます。
かぎろひとは厳寒の晴れた早朝、夜明けの一時間前に空を染め上げる陽光のことと、宇陀市観光協会では考えています。
時を越えて記紀万葉のロマンに浸ることができるひと時をお楽しみください。

【 詳細: なら旅ネット ── 奈良観光公式サイト 特設コーナー 】

【しるす】 ぢゃむ 杉本昭生|活版小本51冊目の新作 ── 宇野千代『 夜 』ゟ + α

次の本が出来るまで その112

『活版小本』数えたら50冊

50冊になりました。覚えとしてリストを掲載します。感慨にふけることも、分析することもありません。そんな値打ちの無いことは本人が一番分かっていますから。
ニ、三人の友人と自分のために、飽きるまでこっそりと続けようと思っています。
[杉本昭生]

右) 杉本昭生氏。2015.12.05 京都太秦 広隆寺仁王門前。左) やつがれ

おもえば、京都市吉田山のちかくにオフィスをかまえる『活版小本』製作者/じゃむ・杉本昭生氏との交際もながくなった。
いつの間にか『活版小本』も50冊の刊行をみた。なんらの報酬も評価も期待せず、ただ黙々と製作をつづけるその姿勢にはただただ畏敬の念をいだくばかりである。
2018年12月13日、師走もなにも関係なく、いつものようにさりげなく『活版小本』51冊目の新作 ── 宇野千代『夜』が届いた。

【 詳細  ぢゃむ 杉本昭生 活版小本 】 { 活版アラカルト 活版小本 既出まとめ 

【ことのは】明治四年 HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた ──[展覧会]国立公文書館|平成30年度 第3回企画展|「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」 11月20日-12月22日ゟ

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平成30年度 第3回企画展 
「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」
会  期  平成30年11月20日[火]-12月22日[土]
開館時間  月-土曜日 午前9時15分-午後5時00
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
入  場  料  無 料
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遠く離れただれかに情報を伝えたい。そんな時みなさんはどうしますか? 今では電話や電子メール、S N S などで手軽に素早くつながることができます。しかし、郵便や電信、電話など現在に通じる情報通信の制度や技術が導入された明治初期には、試行錯誤が重ねられ、相当な努力が払われたことは想像に難くありません。

本展では、郵便、電信、電話、無線通信の制度やこれらと関わりの深い人物の資料を展示し、明治期に進められた情報通信の近代化を描きます。また明治期の情報通信網が、日本と海外の諸国をつないでいく過程もご紹介します。

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郵便切手の発行
明治4年(1871)から明治15年までに発行された切手、はがき、封筒の見本を貼り付けた資料です。画像は明治4年と明治5年に発行された切手を添付した箇所。  これらは日本で最初の切手になります。額面の両側に龍をあしらったことから、「龍文-りゅうもん-切手」と呼ばれています。

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逓信省の設置
明治18年(1885)12月22日、内閣制度の創設に伴い、逓信省(ていしんしょう)が新設されました。  逓信省は、農商務省から郵便・管船を、工部省から電信・灯台を引継ぎ、通信運輸行政を一手に担う中央行政機関として誕生しました。画像は『公文類聚-こうぶんるいしゅう』に収録された太政官達第70号です。

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外波内蔵吉の叙勲
無線通信の有用性に着目した海軍は、明治33年(1900)、無線研究の必要性を訴えていた海軍中佐の外波内蔵吉(となみくらきち)を中心とした無線電信調査委員会を組織し、 無線電信機の開発を目指しました。外波らは苦心の末に、明治36年に無線電信機を完成させます。この無線電信機は、翌年に始まる日露戦争で利用されました。

☆     ☆      ☆

「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」ゟ
{新宿餘談}

20181205172548_0000120181205172548_00002HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた
『広辞苑』 は、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としている。そして郵便局が販売しているカードには<郵便はがき>としるされている。  すなわち整理が付かないままに「端書・葉書・ハガキ・はがき」がもちいられている。
今回の国立公文書館展には、『郵便切手端書-はがき-封皮-ふうひ見本』が展示され、明治4年(1871)から明治15年までに発行された、切手、端書(解説表記は はがき)、封筒 の見本を貼りつけた見本が展示されている。
すなわち ── HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた ──

【 詳細: 国立公文書館 】

【ことのは】アンチモンの原料鉱石、輝安鉱

アンチモンの原料鉱石/輝安鉱の原石とその産出地
アンチモン【独:Antimon, 英:Antimony, 羅:Stibium】

本木昌造が谷口黙次に依頼して採掘したとされる「肥後国西彼杵郡高原村」の鉱山から産出したアンチモンの原料鉱石/輝安鉱-きあんこう

き-あん-こう【輝安鉱】── 広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《ともかく鉱物 イシ が好きなもんで …… 》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の幹部社員であるが、ご本人のご要望で和田さんとだけ紹介したい。
和田さんは小社刊『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 p106)をお求めになられた。そこに紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目され、ときおり来社され、また情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の原石イシに関心がおありだそうである。全国規模で、同好の士も多いともかたられる。そのため、あちこちの鉱山をたずね歩き、すでに廃鉱となった鉱山ヤマでも現地調査をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石程度は入手できるのだそうである。

「蛇ジャの道は 蛇ヘビですからね」[蛇足 ── 蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
お譲りいただいた輝安鉱の原石はわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産になっているそうである。

¶  和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。
そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料にかんしても、その後ほとんど調査もなされていないことがむしろふしぎだと述べられた。

¶  このような異業種のかたからのご指摘は、筆者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査を終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい。目下の調査では、本木昌造が採掘させたとするアンチモニーの鉱山、
「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村-ひごのくににしそのぎぐんたかはまむら」
の記述は、福地櫻痴の記述では探鉱のことや産出地の地名などはみられず、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

  • 〔福地〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月 1891 p6)
  • 〔三谷1〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日 1933 p61-2)
  • 〔三谷2〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日 1934 p21-22)
  • 〔島屋〕『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年8月20日 脱稿は1949年10月 p102-6、p175)

〔福地〕 原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。[中略]従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷1〕 若干の句読点を設けた。
明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の伊豫白目イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは悉コトゴトく皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶タマタマ天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
編者曰く
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844―1900 初代]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷2〕 若干の句読点を設けた。
(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。

而シかも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等悉コトゴトく売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次タニグチ-モクジ[1844―1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉コトゴトく舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島屋〕
本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。[中略]

上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が平タイラで、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。

そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目イヨシロメと称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。[後略]

明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村》
「輝安鉱」の標本を「これは差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」だそうである。
そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であった場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられる。
また、現在の市政下ではどこの県、どこの市かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しないし、迷いがあって熊本県東京出張所から紹介されて、熊本県天草市役所観光課に架電した。
その結果、たしかに同市には高浜地区があり、その周辺では「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山、もしくはその廃鉱に関しては「存じません」という回答であった。

彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。
彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようだ。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。
タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて楽しむだけではなく、やはり現地調査のために長崎行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇ジャの道は 蛇ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという誤解を生じさせたような気もする昨今でもある。

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《活字地金とアンチモン》

活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増す働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛70-80%、錫1-10%、アンチモン12-20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途によってそれぞれ異なる。また活字地金は業界内では循環して利用されている。
摩耗したり、損傷した活字は「滅メツ活字箱、地獄箱 Hell-Box」と呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状の活字地金にもどして利用されている。

【もん】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

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「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた
江戸中期の歌舞伎役者・佐 野 川  市 松-さのがわ いちまつ

日本の紋様〔紋のありさま〕の定番であり、着物や帯だけでなく、千代紙や小物などあらゆるところで目にするものに「市松紋様」がある。おなじみのこの市松紋様、実はさほどふるいものではなく、ひとりの歌舞伎俳優と深い関係があった。

色違いの正方形を、碁盤の目のように組み合わせた紋様が生まれたのは、古墳時代の埴輪の服装や、法隆寺・正倉院の染織品にも見られ、古代より織紋様として存在していた。また公家や武家の礼式・典故・官職などに関する古来のきまり『有職故実-ゆうそくこじつ』では、こうした格子紋様は「石畳・霰-あられ」などと呼ばれ、おもに着物の地紋(織り柄)として使われていたことがわかる。

これが歌舞伎の舞台で鮮やかに観客の前に出現し、一気に注目されることとなったのは、寛保年間(江戸中期 1741-44)のことである。当時の歌舞伎役者が身にまとう紋様は、その役者の感覚や心意気を人〻に伝えるツールであった。
江戸の中村座で、ある俳優が「心中万年草-高野山心中」の小姓・粂之助-くめのすけ-に扮した際、白と紺の正方形を交互に配した袴をはいて登場したことからおおいに人気を博した。折しも庶民が紋様を施した着物を楽しむようになった時代でもあり、霰の紋様をあしらった鮮やかな袴は観る人〻の目に衝撃とともに焼きついた。

この衣装を身につけて登場した俳優の名こそ「初代 佐野川市松」であった。ここであまり紹介されてこなかった「初代 佐野川市松」をみてみたい。

佐野川市松(初代 さのがわ-いちまつ 1722-1762)
江戸時代中期の歌舞伎役者。享保7年生まれ。佐野川万菊の門人。若衆方、若女方をかね、荒事にもすぐれた。宝暦12年11月12日死去。41歳。山城(京都府)出身。俳名は盛府。屋号は新万屋・芳屋。

佐野川市松はその後もこの紋様を愛用して、また浮世絵絵士:奥村正信・鳥居清重(1751-77ころ活動 生没年不詳)・石川豊信(1711-85)などがその姿を好んで描いたことから、着物の柄として流行をみた。
市松の愛用したこの紋様は、当初はふるくからの慣わしにしたがって「石畳」と称されたが、のちに「市松紋様」「市松格子」「元禄紋様」などと呼ばれるようになった。
ひとりの歌舞伎役者の美意識によって、古来の呼称「石畳・霰」が、「市松紋様」という名に置きかわったのである。この「佐野川市松」の伝承によって、当時のインパクトがどれほどのものだったのかを偲ぶことができる。

Tokyo_2020_Olympics_logo.svg2020年 夏期オリンピック エンブレム

さらに佐野川市松の時代から175年ほどのち、2020年夏季オリンピック・パラリンピックのエンブレムが若干の紆余曲折をへて決定した。デザインは野老朝雄(ところ-あさお 1969-)で、このデザインは「組市松紋」だと自ら発表している。歌舞伎役者「佐野川市松」好みの紋様が、世界のアスリートが結集する舞台に「組市松紋」として再登場したことになる。

〔参考資料〕
WebSite 歌舞伎美人-かぶきびと-歌舞伎いろは「装い」
WebSite 市松模様 ウィキペディア
「市松模様」『国史大辞典』(吉川弘文館)/「市松模様」『日本史大事典』(平凡社)
「佐野川市松(初代)」『日本人名大辞典』(講談社)

【もんじ】京都四條南座|南座発祥四百年・南座新開場記念|京の年中行事 當る亥歳 吉例顔見世興行|東西合同大歌舞伎|まねき書き

bn_2歌舞伎公式総合サイト ── 歌舞伎美人-かぶきびと
ニュース 10月12日号ゟ


南座新開場に向け準備万端、「まねき書き」

2018年10月11日[木]、京都南座「當る亥歳 吉例顔見世興行」で、劇場正面に掲げられるまねき看板を書く「まねき書き」*01 がおこなわれました。
耐震補強工事を終えて、新開場の南座に初めて上がるまねき看板が、まねき書きを引き継いで5年目の 井上 優 さんによって書き上げられました。今年は顔見世興行が11月と12月の2ヶ月にわたっておこなわれますが、今回書かれたのは11月のまねきです。

耐震補強工事中、昨年は顔見世興行の会場が移されたのに伴い、まねき看板も顔見世興行の会場となった「ロームシアター京都」に上げられました。2年ぶりに南座に上がる「役者まねき」は約40枚で、襲名する松本白鸚のまねきが南座に上がるのは初めてです。
このほか、「當る亥歳 吉例顔見世興行」と書く「興行まねき」、「邦楽連中まねき」や、入口に置かれる「口上まねき」の合計53枚が用意されます。

南座新開場に向け準備万端 ──「まねき書き」
伝統にならい、大入りを願って隙間の少ない勘亭流の文字を書く井上 優さん

大入りと興行の成功を祈って揮毫したという井上さんが、
「2年ぶりに南座に上がるまねきですので、華やかになればと思って書きました」
と語るのを聞くと、その思いのこもった一字一字が、いっそう輝いて見えました。
例年どおり京都市内の妙傳寺でのまねき書きでしたが、11月の顔見世興行に合わせ、いつもよりひと月早いため、
「暑かったので、墨のにかわが早く乾いてしまうんじゃないかと心配だった」
と明かした井上さん。しかし、それも杞憂となる出来栄えで、ひと安心と笑顔を見せました。

画数の多い松本白鸚の「鸚」も、井上さんの手にかかれば、ほかと変わらぬ堂々とした仕上がりで、看板を見上げるのが今から楽しみです。まねき看板の大きさは、これまでと同じ長さ1間(約1.8メートル)、幅1尺(約30.3センチメートル)、厚さ1寸(約3センチメートル)で、書き上げられたまねきの上部につける庵形-いおりがた-も同じ。*01
南座の伝統行事がこうして新しい南座へと受け継がれ、今月の25日[木]には南座の正面に「まねき上げ」が行われて、初日を待つばかりとなります。
南座の新開場は、「南座発祥四百年 南座新開場記念 京の年中行事 當る亥歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」が初日を迎える11月1日[木]。公演は11月25日[日]までで、チケットは、チケット Web 松竹、チケット Web 松竹スマートフォンサイト、チケットホン松竹で発売予定です。2018年10月12日
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【まねき看板】*01
京都市にある劇場、南座で、毎年年末に行なわれる「吉例顔見世興行」の際、劇場正面に掲げられる役者の名をいれた看板。縦1.8m、横30cmほどの大きさのヒノキ板でできた看板。上部には庵形(いおりがた)がついており、文字は「勘亭流」*03 という江戸時代から伝わる書体で書かれる。単に「まねき」ともいう。

【まねき上げ】*02
京都市にある劇場、南座で毎年年末に行なわれる歌舞伎の顔見世興行の際に、出演する役者の名を入れたまねき看板を劇場正面に掲げる行事。京都の冬の風物詩として知られる。

【勘亭流-かんていりゅう】*03
歌舞伎の看板、絵本番付(プログラム)などに用いる独特の書体。筆太で、隙間なく、内へ丸く曲げるように書く。寄席、相撲などで使う書体とは違う。内へ丸く曲げるのは、観客が入るという縁起をかついだものである。
安永八(1779)年、江戸堺町の書道指南岡崎屋勘六(1746-1805)が中村座のために創始したのがはじまり。勘六は号を勘亭といい、そこから勘亭流という書芸の流派がうまれた。

京都四条南座「當る亥歳 吉例顔見世興行」襲名披露特別ポスター『勧進帳』

 耐震工事を中心にしばらく大幅改修工事が進行していた京都四條南座が
2018年11月 愈〻オープン ── 新会場記念公演を迎えます。

【 YouTube 松竹チャンネル / SHOCHIKUch  南座新開場ご紹介 音が出ます 5:57 】
平成30年11月、いよいよ南座が新開場いたします。400年の歴史を新たな時代へ


【 詳細: 歌舞伎美人-かぶきびと 】

【ことのは】新開場の京都四条南座で初の「吉例顔見世興行」まねき上げ|歌舞伎美人-かぶきびと


歌舞伎公式総合サイト ── 歌舞伎美人-かぶきびと ニュース 10月25日号 ゟ

新開場の京都四条南座で初の「吉例顔見世興行」まねき上げ

2018年10月25日[木]、南座で11月「當る亥歳 吉例顔見世興行」のまねき上げが行われました。

「吉例顔見世興行」恒例のまねき上げ。
最後の一枚、坂田藤十郎のまねきが上がり、計53枚の看板がずらりと並ぶと、2年ぶりとなる南座の「まねき看板」を見ようと集まった、多くの歌舞伎ファンから拍手が起こりました。今年の顔見世興行は、新開場を祝う11月と12月の2ヶ月にわたる大興行となります。

また11月は、新開場の幕開けにふさわしく高麗屋三代襲名を兼ねた公演。式典に参加した松本幸四郎は南座が休館している間、真っ暗な南座の前を通っては寂しく思っていたと明かし、
「歌舞伎発祥の地におきまして、襲名披露興行が執り行われるということ、また新開場の舞台に立つことができるということを、本当に幸せに思っています」
と、顔見世興行にかける熱い思いを語りました。同じくこの日を待ちわびていた皆さんからも、「高麗屋!」と声がかかり、大きな拍手でまねき上げを祝福しました。
2018年11月1日[木]に初日を迎える「當る亥歳 吉例顔見世興行」は、東西の俳優たちが顔をそろえる、歴史ある歌舞伎の祭典です。豪華な出演者、演目とともに盛大に祝う新開場の南座へ、ぜひお越しください。

【 詳細: 歌舞伎美人-かぶきびと

【かきしるす】ポストカード Postcard と クリスマス Christmas の欧文表記に関する注意点 ー もう Post Card(二単語), X’mas の誤用は卒業、Xmas は慎重に


左)寒くなるとむしろ元気になるアカンサスの群落(ギリシャ、アテネのゼウス神殿脇)
右)紅く染まった新宿御苑のかえで(槭樹・楓)。かえでの名称は、葉のかたちがカエルデ(蛙手)に似ていることからいう。

カレンダーの残りもあと二枚だけ。
11月も、はやくも中旬となり、すでに郵便局から<郵便はがき>の年賀状が発売され、まちかどには<年賀状印刷たまわります>ののぼりがはためく候となった。
例年この時期になると、造形者は「ことしのクリスマスカード、年賀状は、どんなアイデアと印刷にしよう」と、楽しくもあり、悩ましくもなるかたが多い。
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例年のことながら、そろそろクリスマスカードや年賀状の準備にとりかかっているかたも多いこのとき、フト ふるい記事をおもいだした。
どういうわけか造形者の一部、なかんずく「デザイナー」と称するすひとは横文字に親近感をもつようで、郵便局の<郵便はがき>ではなく、欧文表記による私製の<Card>を印刷されることが多くみられる。
そこでの注意点を ソッと …… 。
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【再掲載】 ポストカード Postcard と クリスマス Christmas  DSCN3921

 本項元記事の掲載は<2014年12月03日 花筏>であった。 テーマと問題点に進展があまりがみられないこともあり、ここに再掲載した。3935DSCN3937

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本コーナーを訪問していただいたゲストの皆さまに、しばしばあやまって使われている英語表記をご紹介したい。
ひとつは 「 郵便はがき ポストカード 」 で、ひとつは 「 クリスマス 」 である。

使用する資料は、英和辞書としてたかい評価がある 『 研究社 新英和大辞典 』 で、これは画像紹介の許可をいただいてある。
もうひとつは、『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 ( Oxford University Press, 1981,  p.318) である。
同書は、オックスフォード大学出版局の刊行書で、執筆者と編集者にむけて、あまりに日常化していて、ついうっかり、あぁ知らなかった、というたぐいの表記、間違えやすい英単語を中心に、簡潔に紹介したものである。
同書には意外な記述がみられる。

DSCN3937 ここには 「 post  郵便 」 から派生した英単語を列挙して、「 abbr.  省略語、短縮語 」、「 しばしばスペースを入れて二単語にされていますが、一単語ですよ 」、「 語間にハイフンを入れて表記してください 」 などと説明されている。

すなわち 『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、 「 郵便はがき ポストカードは  postcard  と一単語にしてください。 post card のように二単語では無いのでご注意を。 省略語は p.c. です 」 と、簡略かつ明確にしるされている。DSCN3943DSCN39583949いっぽう 『 研究社 新英和大辞典 』 では、とても丁寧に 「 postcard 」 を説明している。
ここでの標題語 「 post ・ card 」 の中黒点は、音節 ( syllable ) をあらわすものであり、ここに中黒やダッシュやスペースは不要。
さらに 『 研究社 新英和大辞典 』 では、「 郵便はがき -含む : 年賀はがき」 にたいする日英の比較とともに、わざわざ強調の裏罫をもちいて、「 SYN  synonym  同義語、類義語 」 として、「 絵はがき  と はがき 」、「 postal card,  postcard 」 の使いわけと、英国と米国での相違まで説いている。
ご参考になったであろうか。

この問題は、わが国でもふるくから一部の識者から指摘されており、朗文堂 WebSite では 〈  タイポグラフィ実践用語集 は行 葉書・端書・はがき・ハガキ 〉 で、ずいぶん以前 ( まだ郵政省があって、専用ワープロを使っていた時代 ) から触れられている。

ところが、いまだに展覧会シーズンともなると、各種の造形者、とりわけ印刷メディアに関わることがおおい 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 から、「 Post  Card 」 と、堂堂と二単語で印刷された 「 Postcard 」 をたくさん頂戴しているかなしい状態がつづいている。
ふつうの生活人は、ほとんど 「官製はがき」 [このことばは、現代でも有効なのであろうか] にしるされた「郵便はがき」を、そのままもちいるので、あまりこのミスは犯さなくて済む。

この 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 が犯しがちなミスは 意外とやっかいで、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と 『広辞苑』 は説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としている。そして郵便局が販売しているカードには<郵便はがき>としるされている。  

いかがでしょう、  「 postcard , Postcard, P O S T C A R D 」 。
「 過ちて改めざるを是を過ちと謂う 」、「 過ちては改むるに憚ることなかれ 」 という。 この名詞語は、名にし負う天下のオックスフォード大学の 執筆者や編集者でも 「 ついうっかり 」 なのであるから、なにも臆することはない。
かくいうやつがれも、しばしばこうした誤用や誤謬をおかしては反省しきりの日日である。 そしてこの記事をみたあとは、「 そんなことは、昔から知ってたさ 」 、「 そんなの常識だろう 」 と、どっしり構えて欲しい。

それでもおひとりでも、正しく 「 postcard,  Postcard, POSTCARD, P O S T C A R D 」 をもちいれば、まずは大切なクライアントに迷惑をかけることが無くなり、やがてちいさな波紋がどんどん拡大して、わが国の造形者が恥をかかなくなる日が近からんことを念願している
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《 すこし気がはやいですか。 暮れになったら X’mas はやめて、口語の Xmas も慎重に 》
いっぽう 「 クリスマス 」 は少しやっかいである。
それは国語辞書 『 広辞苑 』 が、どこか意地になって、クリスマスの項目で 「 Christmas,  Xmas 」 を説明しているからである。

それに牽かれたのであろうか、わが国の一部に 「 X’mas 」 と表記する向きがあるが、これはギリシャ語の「キリスト Xristós」の省略を重複したもので完全に間違いである。

『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、「 Christmas  クリスマス 」 は執筆者や編集者にとってはあまりに平易であり、関心が乏しいようで、わずかに「 Cristmas (cap.)」 として、文頭を大文字にすること (p.70) 〈 参照/タイポグラフィ実践用語集 き行 キャピタライゼーション : capitalization 〉 として簡略に触れている。

またギリシャ語の「キリスト Xristós」由来の 「 Xmas 」 には、キリスト教徒の一部に抵抗を感ずる向きがあって、やつがれも20年ほど前に来社したアメリカの知人から、
「 ここに来るまでに X’mas,  X’mas Sale のディスプレイがたくさんあった。 あれはクレイジーだ。  Xmas ( エクスマス ) にも、発音からわたしには抵抗がある。 それよりどうして日本では、11月のはじめから Christmas をはじめるのだ 」
と責められたことがあった。

宗教や宗派、そして発音までがからむと、やつがれの手にあまる。 まして某国語辞典の存在もあって困惑していたが、『 研究社 新英和大辞典 』 に、わかりやすく 「 クリスマス 」 の解説があった。該当部を抜粋すると以下のようになる。辞書らしい慎みがみられるがズシリと重い。

「クリスマスを日本では Xmas と書くことも多いが、この形は英米ではポスターなど以外では避けられる傾向がある。また X’mas は誤り」

長文にわたるので、その紹介にあたって、画像紹介の許可を研究社からいただくことができた。 そしてことしの暮れは、せめて 「 X’mas,  X’mas Sale 」 を見なくてすむように念願したい。
そしてあくまでも口語で、文章語ではない 「 Xmas,  Xmas Sale 」 を、大量配布される広告や印刷物などへの使用に際しては、おおいに慎重でありたいものである。DSCN3943DSCN4098DSCN4086