もんじ」カテゴリーアーカイブ

【もんともんじ】ちょっと不気味ながら目出度い瑞兆|蛙と招財進寳|端午の節句と鍾馗様の五毒退治

馴染みとなった中国料理店のレジの脇に、なにやら異様なものが置いてあった。
「小姐-ショウシャ・お嬢さん、これはなんですか」
「それは縁起ものよ、もう片づけるけど」
六月の初旬、小姐はそっけなく答えた。
よくみると丸〻と太った蛙で、足もとには吉語が刻まれた銅貨が積みかさなり、ご丁寧なことに銅貨を咥えており、そこには富貴の吉語「招財進寳」とあった。しかも全体も銅製とみられ、ずっしりと重かった。
小姐は知らんぷりなので、以下はいつもの通り『中国吉祥圖案』を繰ることにした。
[参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月]
『中国吉祥圖案』pp 640 にその資料「天中避邪 ── 鍾馗像上蝙蝠飛舞圖」を発見。
「古老の説話によると、五月五日、その正午の時刻は、天地の陰陽が交接するときにして端午節とされる。五月五日の五と、正午の午は、ともに Wu 3 であり同音同声である …… 」からはじまるその解説は難渋をきわめるが、できるだけ簡略に説明したい。

この五月五日の端午節の頃(旧暦)になると、蛇・蜥蜴 トカゲ・蠍 サソリ・蜈蚣 ムカデ・蛙 など「五毒」される悪魔的害虫がわき出てくるので、庶民は門内にこれらの侵入を防ぐために、門口に霊草として菖蒲 ショウブと艾 ヨモギの葉を掲げる。菖蒲の葉は剣に似て、艾の葉は手のひらに似る。これを合わせて「手のひらで剣を握り、悪魔をはらう。それで一家の一年は平安多福となる」のだそうである。

「鍾馗 ショウキ 伝説」は多々あるが、唐の玄宗皇帝が瘧 オコリ で高熱を発したとき、夢に小鬼が出てきて「我の名は虚耗なり」といって悪戯をしかけた。玄宗皇帝は激怒して、禁軍・近衛の兵士に討伐を命じたがならなっかた。
そこに巨漢の武将があらわれて小鬼を退治したので「汝は魔鬼か」と訊くと、「わが名は鍾馗なり」と答えた。それ以後皇帝は悪魔的鬼神としての鍾馗像を、空中に舞う蝙蝠とともに描かせて、端午節に掲げるならいとなった。
ちなみに「蝙蝠」の蝙が遍く-あまねくに、蝠が福に通じるので、「蝙蝠」は吉兆をもたらす瑞兆とされている。

こうして「鍾馗様」に征伐された五毒は、一転して吉兆図となり、ここに丸〻と肥え太った蛙は「招財進寳」をもたらす縁起の良い存在として描かれ、彫刻されるにいたったという。
わが国でもふた昔ほど前までは、五月の節句には菖蒲湯にはいり、門口には艾(蓬)の葉を括って吊るす習慣があった。また女子が誕生すると、桃の節句にお雛様、男子が誕生すると端午の節句に鍾馗様の兜などを贈る風習もあったが、いまはどうなのだろう。

【 YouTube 李玉萍(萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】

【 YouTube 王興華老師書法教學(疊字春聯)音が出ます 35:33 】


【 YouTube 李玉萍(萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】
【 YouTube 王興華老師書法教學(疊字春聯)35:33 】
台湾からの動画で、楷書筆法による「招財進寳」を再度紹介する。あわせて少し時間はながいが行楷書「疊字=畳字」春聯の金字書法を紹介したい。筆順が異なる部位があり、速度も楷書に比べるとずいぶん早く書かれている。30分以上の長時間で飽きがくるが、やはり興味ふかいのは後半、20分過ぎくらいからわが国の展覧会書道とは趣がことなる時間帯になる。
「春聯-シュンレン」とは中国・台湾で(旧)正月を祝うために門の両側や扉などに、赤い紙にめでたいもんじの書いて貼るもの。
「疊字=畳字」は、わが国では「踊り字・重ね字・畳字-じょうじ」などとされることが多く、上掲動画とはなんら関連のみられないことばになっている。残念ながら手許資料では明快な説明ができない。

もともと「畳-たたみ」はわが国での意読で、漢字音ではジョウ・チョウで、意は、かさなる、かさねる、薄く平らなものをかさねるである。したがって熟語に「畳韻-中国音韻でおなじ母音で終わる二字を連ねること。逍遥・連綿・窈窕など」、「畳重-ものをかさねる、またかさなる」、「重畳・稠畳-びっしりと重なりあうこと」などがある。もうしばらく、これを参考にしていただけたらうれしい。

吉祥如意  順-したがう

【生意興隆通四海】
天 地 順
得心応手
四季皆宜
平歩星雲
一路栄華

【財源茂盛達三江】
人 情 順
吉星高照
広開財源
歩歩高昇
一帆風順

「畳字」を明快に説明できないお詫びに、この店の壁に掛っていた「万事如意-順」を紹介したい。字面を眺めているだけで富貴になりそうな気分になる。ちなみに「歩歩高昇」は成句で「トントン拍子」ほどの意である。

[ 参考:NOTES ON TYPOGRAPHY 【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう

【かきしるす】国指定重要文化財|水海道風土博物館 坂野家住宅|<銅版画> 大生郷 坂野伊左衛門|茨城県常総市デジタルミュージアムⅡ

国指定重要文化財
水海道風土博物館 坂野家住宅
坂野家住宅は「四間取り」を基調に江戸時代後期に母屋を大幅に増築したもので、東側の土間や南面する客間は、入母屋作りの屋根とともに大型農家の特色をよくあらわしています。また、1 ヘクタールに及ぶ広大な屋敷は、従来武家屋敷に設けられた薬医門と土塀に囲まれ、昭和43年に国の重要文化財の指定を受けました。
現在は、周辺の里山風景や便益機能の整備、主屋の保存修理工事を終え、水海道風土博物館として、一般公開しています。
────────────────
開館時間  9:00-18:00(04月-10月)* 受付は17:00まで
      9:00-17:00(11月-03月)* 受付は16:00まで
定  休  日  月曜日(祭日の場合、翌日)、年末年始
料  金  一般300円、児童・生徒100円、65歳以上無料
利用予約  予約不要
所  在  地  茨城県常総市大生郷-おおのごう-町2037

問い合わせ先  水海道風土博物館 坂野家住宅 TEL. 0297-24-2131
ホームページ  http://www.city.joso.lg.jp/shigai/kanko/1420716457308.html

[ 詳細: 常総市 水海道風土博物館 坂野家住宅

常総市 デジタルミュージアム
水海道風土博物館  坂野家住宅

<水海道風土博物館 坂野家住宅>には、既述した『大日本博覧図』のほかに、木製の木箱に収納された同様の資料「坂野家住宅」が保管されている。
箱の表書きは「銅版摺 宅地家屋之図 坂野」、裏書きには「干時 明治二十三年十月」とある。中には『大日本博覧図』に収録されているものとおなじ銅版絵図「坂野伊左衛門」邸宅の鳥瞰図があり、それと同一印刷原版とみられる銅版原版がある。

「干時」は聞きなれないことばだが、購入乃至は収納のときとみられる。それが「干時 明治二十三年十月」とされているので、『大日本博覧図』の刊行時:明治二十五年十二月より二年ほど早いときのことである。また印刷業者は印刷原版、とりわけ銅版原版は傷つきやすいので、厳重に管理していた。また銅版印刷専用印刷機を持たない顧客に渡しても意味をなさないし、ふつうならまずみられないことである。

この「坂野家住宅」資料が『大日本博覧図』に先行して坂野家に伝わったことの意図はわからない。可能性としては、『大日本博覧図』の掲載先が突出して茨城県・千葉県に集中しており、編輯者であり、発行者でもあった精行社・青山豊田郎は、この地域の有力者「坂野伊左衛門」になんらかの支援を受けたか、あるいはこれを見本として、北関東一円の富農・富商・起業者に向けて(有料での)掲載の働きかけをおこなったものとみられる。

この精行社、青山豊太郎は、このころに秀英舎:佐久間貞一、東京築地活版製造所第三代社長:曲田 成ーまがたしげる-らによって結成された、印刷同業組合、東京石版印刷業組合のどちらにも名前が見あたらない。また手許の人名録などでもみあたらなかった。
おおかたの銅版印刷業者は松田禄山(敦朝)玄玄堂の影響力がつよく、活版印刷業界・石版印刷業界とはあまり交流がなかったものとみられる。
ちなみに玄玄堂印刷所の看板には「銅鉛木石諸版製造 並 摺立所松田敦朝」と大書して、いっとき斯業はおおいに栄えた。鉛版 ≒ 活字版は平野富二がひきいた東京築地活版製造所系ではなく、神崎正誼による弘道軒清朝体活字が主であった。
「坂野家住宅」資料の由来、画像と現状との関係などは、すでに守屋 正彦(筑波大学教授)ほかの研究が発表されているので、以下は主に印刷術と銅版に刻された書風を中心にみていきたい。
「坂野家住宅」絵図右上部、枠で囲まれた掲載者名の表示部をみてみたい。
枠内には坂野家家紋とみられる柏紋が十二ヶ所に描かれている。「茨城県」は大きく、若干隷書味をおびた楷書でえがかれ、明治二十年代の住所「岡田郡管原村大字大生郷-おおのごう」が端整な楷書でしるされている。主部をなす「坂野伊左衛門」(埜は野の異体字)はいくぶん扁平で、八分隷書とみられる書風である。この八分隷書とみられる書風に関しては、再度「石川島造船所 平野富二」の項の紹介で触れたい。

ちいさな瑕疵をことあげするのは趣味がわるいが、すこし気になるのは「岡田郡管原村大字大生郷」にみる、タケカンムリの「管原村」である。大生郷-おおのごう-には村社の菅原天満宮(大生郷天満宮)があり、それが村名「菅原村-すがはらむら・すがわらむら」に連なったとみられるからである。
幸いこのアーカイブは筑波大学との連携のもとに展開されている。研究の一助になればとおもい、以下をしるした。

もともと「管 菅」は、字としても、詠みとしても、しばしば混用・誤用されている。元内閣総理大臣は「菅 直人-かん なおと」であり、やっかいなことに現内閣官房長官は「菅 義偉-すが よしひで」である。
わが国には漢字音・和訓音のほかに、「名づけ」とされる(漢)字の慣用的な詠み(便法)があるために、こうした混乱は避けられないが、それにしても最近の「キラキラネーム」とされる宛字(当て字)のなかには、将来禍根をのこさねば良いがとおもわれるものも多い。

[ 参考: ウィキペディア 菅原村 (茨城県)]
菅原村-すがわらむら-は、茨城県の西部、岡田郡・結城郡に属していた村。現在の常総市の中部にあたる。
村名の由来
村社の菅原天満宮(大生郷天満宮)による。
沿   革
1889年(明治22年)04月01日 – 町村制施行により、大生郷村、大生郷新田、伊左衛門新田、笹塚新田、五郎兵衛新田、横曾根新田が合併して岡田郡菅原村が発足。
1896年(明治29年)04月01日 – 岡田郡が結城郡に統合されたため、所属郡が結城郡に変更。

1954年(昭和29年)07月10日 – 水海道町に編入。水海道町は市制施行して水海道市となる。同日菅原村廃止。「坂野家住宅」絵図、左下外枠と内枠の間に「東京精行舎印行」と楷書で彫刻されている。『大日本博覧図』をみると、この行の位置は一定せず、左下にも右下にもしるされていることがわかる。主部の図版とのバランスで配置されたものとみられる。
また青山豊太郎は、自序には「東京精行社」としているが、「坂野家住宅」、『大日本博覧図』ともに、「印行-いんこう-図書を印刷し発行すること」名では、「精行社ではなく精行舎」としている。

簡便な装飾に囲まれた掲載者の欧文表記も興味ふかい。まだヘボン式などの欧文表記のルールが無い時代、また、おそらくローマ字教育なども不十分だったであろうこの時代に、サンセリフ系のローマ字を懸命に彫刻していることがわかる。
NIPPON ,  IBARAKI – KEN,  SHIMŌSANO – KUNI,  OKADA – GŌRI,   SUGAHARA – MURA,   SAKANO. IZAIMON〔 , で改行。一部バケて表示されているのは O の上に横棒を置く〕。

「IBARAKI – KEN ── 茨城県」は、現代でもしばしば「いばらぎけん」と濁音で表記されるが、ここにみる「いばらき」が正しい。
「SHIMŌSANO – KUNI ── 下総国」は、しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくになどとされてきたが、棒引き仮名遣いでの「しもーさのくに」は、口語ではあったとおもわれるが、現代でも慣用的に「下総国 ── しもうさのくに」とされている。
「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」もとても興味ふかい標本である。「IZAIMON ── 伊左衛門」であるから「いさえもん・いざえもん」とおもえるが、この周辺では意外と訛りがあって、いまでも高齢者などは「い  え」が判別しにくい発音をする。そんなことから「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」とあらわされたとおもえる。

なにを隠そう、亡妻の母方の実家がこの水海道で、ときおり従妹が遊びにくると「英語の先生いい先生」っていってみて …… とからかっていた。従妹は切りかえして「日比谷で潮干狩り」っていってみて …… と笑いあっていた。従妹は「い・え」が曖昧であった。また亡妻は東京下町、葛飾柴又の育ちで「ひ・し」の発音が苦手で、地下鉄日比谷線などは乗るのも嫌がったほどであった。

「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」の最後は「N」である。最後に彫工の緊張がゆるんだのか、ちょっとしたへまをやってしまったようでおもわず苦笑。
一部にこうした「タイポ ≒ タイポグラフィカル・エラー」を事事しくとりあげる向きがある。これがして、冒頭で「ちいさな瑕疵をことあげするのは趣味がわるい」としたゆえんであり、稿者はこうしたエラーを犯しがちな自分を畏れるばかりである。
「坂野家住宅」銅版絵図右下に、画工とみられる名称「土方雪外」と花押風の印影がある。
右下外枠と内枠の間には、彫工とみられる名称「村上楳山刻」が刻まれている。
このふたりは職人乃至は工人とみられ、こういう職種の常ながら、手許資料を繰ってみたがなにも手がかりは得られなかった。
「坂野家住宅」絵図、『大日本博覧図』が刊行されて百二十五年ほど、もしご子孫がおられたらご一報をたまえると嬉しい。

【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう|

《馴染みのお店がどんどん消える昨今》
衣食住にはこだわりが無い …… と公言してきた。それはいまも変わらないが、さいきん馴染みの飲食店の廃業が続いてなさけない思いをしている。
酒は呑まないので和食の店はおおきく制限される。中国料理も大型店だとひと皿五人分ほどの料理が提供されるので、退勤途中に少人数で、ちょっと何品かで食事というのには料が多すぎるし、定食では飽きて物足りないこともある。

お気に入りだった中国料理店は「臺灣 ≒ 台湾小皿料理店」で、ママさんは中国瀋陽(中国東北部・旧奉天)出身であるが、コックさんとスタッフは台湾の出身。したがって少量で安いので、フラリと寄っても四-五皿の料理を楽しめるし、南部のお米料理・北部の万頭料理も過不足無くたのしめた。店がすいていれば 莨 も遠慮しながらではあるが吸うことができた。馴染みの店とはそんなものである。

この店が人手にわたったらしい。看板はそのままだったが、すっかり料理もふんいきも変わり、即座に逃げだしたものの代わりの店が無かった。
ようやく「新宿御苑共和会通り」に気に入りの店をみつけた。ホールは小姐-シャオジェとオバサンの中間ほどの姉妹で、キッチンはふたり。旨くて安いから30-40名ほどの団体も相当はいるが、このふたりは平然と消化しているからかなりのものである。

団体席との仕切りに「吉祥もんじ ── 合体字」があった。手許の辞書に熟語「合体字」はなかったが、「合体-ふたつ以上のものがあわさって、ひとつになること」で十分だろう。
月例会でこの写真が話題になり、中国大連近郊出身の張さんが、中国陝西省(日本でも)で流行っている「ビャンビャンメン」も例にあげて「合体字」の解説にあたってくれた。

【 YouTube 李玉萍 (萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】


《招財進寳の字画構成と意味》
「招財進寳ーzhaocai-jinbaoーしょうざいしんぽう」は金運を招き寄せる吉祥紋ーもんじである。
まず「たから-の異体字のひとつ、寳」を選び、ウカンムリから上部を書き進める。下部の「貝」は何役も兼ねるのでいくぶん細身に書く。ついで右側に「才」を置くと「財」になる。「才」をテヘンにみなして右に「召」を書くと「招」が完成し、左側に「隹ーふるとり」を書き、「辶-シンニュウ」を勢いよく蚕頭燕尾にまとめると、アラふしぎ ── 招財進寶のできあがりである。
紹介動画は台湾の書芸家。YouTube の文字部をクリックすると別ウインドウがひらき、拡大画面でみることができる。

ほとんどの中国人はお金へのこだわりを隠そうとしない。それでも安くて旨い中国料理をたのしんで、お店もお客も大判小判がザックザクとなればいうことなしである。
上掲写真は張さんが陝西省西安で撮影した「ビャンビャンメン」。この合体字も麺もあまりうまくなかったとは張さんの言。なぜかこの「もんじ」は日本の一部ではやっていると聞いた。稿者はこの麺を西安・北京と葛飾区亀有でも食べたことがあるが、やはり流行り物で格別の意見はない。
中国と台湾には、ほかにも吉祥もんじとして「集字」「畳字」があるが、わが国では別の意味でもちられているので、すこし整理していずれ紹介したい。

[協力:青葉水竜さん、張 文一さん]
{関連:花筏 台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ 諸事大吉 文と寓意

【ことのは】東京築地活版製造所 新社屋紹介「郵便はかき」|コロタイプ印刷術|関東大震災直後の貴重資料


《牧治三郎 なにかの えにし であろうか、はたまたなんらかの 因果 であろうか》
2016年「メディアルネサンス-平野富二生誕170年祭」を機に、長崎での平野富二の生誕地が判明し、さっそく「平野富二生誕の地-碑建立有志の会」が結成され、多くの会員の協力をいただき、2018年11月「平野富二生誕の地碑」が建立され、除幕式と祝賀会をへて、長崎市に寄贈された。


平野富二が1872年(明治05)上京後、およそ20年にわたって展開した多様な事業のうち、最初の事業であった、活字製造・印刷機器製造の拠点、長崎新塾出張活版製造所 → 東京築地活版製造所は、明治後期ともなると「東洋一」を自他ともに許す企業に成長していた。ところがどういうわけか東京築地活版製造所には自社の記録が少なく、近年つぎつぎと新資料が発掘されているとはいえ、研究者の悩みの種になっていた。

そのひとつが、竣工直後でちょうど段階的に移転作業が進んでいたさなか、1923年(大正12)09月01日午前11時58分に襲来した関東大震災によって紅蓮の炎につつまれたとされる、新本社工場ビル(地下一階、地上四階)のアールヌーヴォー風の趣のあるビルの記録である。
施工業者は 清水組 ≒ 清水建設 であったことは判明している。しかしながら関東大震災の影響があまりに激甚で、おそらく竣工落成披露などの「慶祝行事」はできなかったのではないかとみられている。そのため比較的近年の建物の割りに、肝心の画像資料がほとんどなく、拡大すると網点が現出する不鮮明な写真にたよるばかりであった。

ところで …… 、牧治三郎は「鮮明な写真資料を所有しているはずだが、現在所在がわからない …… 」と、活字業界誌『活字界』、パンフレット『活字発祥の碑』などにしばしばしるしているが、どうやらその資料らしき「郵便はかき」が、回り回って稿者の手許に転がりこんできた。
そのゆえんを報告したい。

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
牧 治三郎『活字界 21号』(全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

《活字発祥の〔舞台、〕歴史〔の幕を〕閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビル〔現コンワビル〕に改築のため、去る〔昭和46年〕3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年〔1922〕野村宗十郎〔専務〕社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後〔順次移転作業が進みつつあるなか〕、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、〔東京築地活版製造所〕大阪出張所の字母〔活字母型〕が健在だったので、1週間後には活字販売を開始〔した〕。 いまの東京活字〔協同〕組合の前身、東京活字製造組合の罹災〔した〕組合員も、種字〔活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?〕の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。

《 ネットショップに東京築地活版製造所のビル写真が…… 》
「平野富二生誕の地」碑建立有志の会の会員からこんな連絡があった。
「ネットショップに東京築地活版製造所のビルの写真が …… 安いですよ」
WebSite に紹介されていた図像は、たしかに 周囲に建物がみられずビル全体をみることができるもので、東京築地活版製造所の震災後まもなく撮影され製作されたとおもえる写真だった。
支払いは前金で、入金確認後に郵送するとあった。即座に注文したが、振込手数料・送料の合計のほうが高くつきそうな価格だった。
千葉県の古書店からの送付であったが、厚ボールに挟みこんでとても丁寧に送っていただいた。

上掲写真がそれであるが、写真ではなく、宛名面に「郵便はかき」とあり、つい先日、本欄{【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史 2019年05月05日}で紹介した、販促用パンフレット『新年用見本』(二つ折り中綴じ、東京築地活版製造所、大正15年10月、牧治三郎旧蔵)と極めて関連性のつよい資料だった。
唸ったのは、ここにもベッタリと「禁  出門  治三郎文庫」の蔵書印があったことである。幸い宛名面だけの押印であったが、牧治三郎は蔵書のどこにでも、所構わず、この特異な蔵書印を赤いスタンプインキでベタベタと押していた。

これらの牧治三郎旧蔵資料は神田 S 堂が一括して引き取ったと聞いていた。S 堂は神保町に店舗をかまえる本格的な古書店で、年に数度「古書目録」を発行しているが、そこに一葉だけの「はがき」をみた記憶はない。したがって古書店仲間の市にでも出して、それを「はがき」の扱いを得意としている業者が入手してネットショップで販売したものらしい。あるいはすでに三次循環として稿者が落手した可能性もある。

宛名面には、下部に再紹介したが『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月)中面右ページ下部にある「電気版」で、「 Np. 7  貳拾銭」として紹介されているもので、右起こし横組み「郵便はかき」である。ここには濁点は無い。
切手貼りつけ欄は、罫線で組みたてたのではなく、名刺・はがき・封筒などの印刷をもっぱらとする「端物印刷所」では、かつては必須のもので、これも電気版をもちいたものであろう。
────────────────
絵柄面は「コロタイプ印刷」で、1923年(大正12)に竣工した東京築地活版製造所本社工場の全景写真である。
なにしろ死者・行方不明10万5000人余、住宅全半壊21万余、焼失21万余とされる大災害のあとだけに、東京築地活版製造所ではいちはやく復興をみたとされるが、やはり世情をおもんぱかって、このような簡素な「写真はかき」として記録をのこしたものとおもわれた。
したがって資料の山に埋もれていた牧治三郎老人にとっては、このたった一葉の「郵便はかき」を見つけだすことはほぼ不可能であったと想像された。
それでも正門には「株式会社東京築地活版製造所」の社名が掲示され、「◯も H 」の社旗がはためくこの貴重な資料は、廃棄や破却をまぬがれ、二次循環・三次循環にまわっているのがうれしく、興味ふかいところであった。

この「コロタイプ印刷」は、オフセット平版印刷法がまだ未熟だった1970年ころまでは写真印刷(写真複製)に威力を発揮した技法で、年輩の読者なら卒業アルバムなどで、倍率の高いルーペでみても網点のみられないこの技法独特のなごりをみることができる。
しかしながらこのコロタイプ印刷法は現代ではすっかり衰退して、現業の業者は京都に三社を数えるのみとなっている。
ウィキペディアに要領よく説明があったので、一段下にその抜粋を紹介する。

下部の右起こし横組みの「株式会社東京築地活版製造所」の社名は、既述のパントグラフをもちいて製作された「平形書体見本」にみるものである。
同社ではこれをしばしば「社名制定書体 ≠ ロゴタイプ」として、縦組み・横組みを問わずにもちいていた。字画形象からみて「二号平形」とみられるが、写真技法を経たせいか原寸を欠いている。

【 コロタイプ 】ウィキペディアゟ
コロタイプ(英語 :  collotype)は製版方法の一種で、平版の一種である。実用化された写真製版としては最も古いもので、かつては絵葉書やアルバム、複製などに広く使われたが、現在では特殊な目的以外では使われていない。

技    法
ガラス板にゼラチンと感光液を塗布して加熱することによって版面に小じわ(レチキュレーション)を作る。それに写真ネガを密着して露光すると、光のあたった部分のゼラチンが硬化して水をはじくようになる。
版面を湿らせると水を受けつける部分が膨張してインクがつかなくなるため、硬化した部分にだけインクが付着する。インク付着量の大小によって連続階調が表現され、オフセット印刷のような網点を持たないことを特徴とする。

欠点は印刷速度が遅いこと、耐刷力がないこと、複版する手段がないこと、多色刷りが難しいことなどで、このために現在ではほとんど行われていない。

歴    史
コロタイプはフランスで生まれ、1876年にドイツのヨーゼフ・アルバートによって実用化された。
日本では  小川一真  が1883年にボストンで習得し、帰国後の1889年に新橋で最初のコロタイプ工場を開いた。日露戦争時にコロタイプと石版を組みあわせた絵葉書が大ブームになった。
1897年には横浜のドイツ商館アーレンス商会出身の上田義三が欧米留学ののち、コロタイプ印刷業「横浜写真版印刷所(のち上田写真版合資会社)」を開業した。

便利堂(1887年創業、1905年からコロタイプ印刷を行う)の佐藤濱次郎は法隆寺金堂壁画の原寸撮影を1935年に行い、それを元にコロタイプによる複製を1938年に作った。1949年に壁画は焼失したが、のちにこのコロタイプ複製をもとにして再現された。

効率の悪さから現在はほとんど消えた技術になっている(社名に「コロタイプ」のつく印刷会社は各地にあるが、実際にはオフセット印刷しか行っていない)。しかし文化財の複製のためには重要であり、便利堂はカラーのコロタイプ印刷も行い、また2003年に「コロタイプの保存と印刷文化を考える会」を発足した。

小 川   一 眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま)
万延元年8月15日(1860年9月29日)-
昭和4年(1929年)9月6日)
日本の写真家(写真師)、写真出版者。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。
東京築地活版製造所第五代社長:野村宗十郎は、自伝のなかで、小川一眞の渡米費用の一部を負担するなどして、同社でもコロタイプ印刷法を獲得しようとしていたことを記録している。しかしながら同社の大勢は積極的ではなかったとみられ、事業化に成功した形跡はみられない。

『コロタイプ印刷史』(編著・発行:全日本コロタイプ印刷組合、昭和56年5月8日)
ときおり産業史研究者や、社史編纂者のかたが借りにみえるほど残存部数の少ない資料らしい。コロタイプの歴史・技法が丁寧に紹介され、コロタイプ印刷の製作実例と作品見本が綴じこみ付録として豊富に紹介されている(撮影:青葉水龍 稿者蔵書)。

《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》

『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)
<画像修整協力:青葉水龍>

東京築地活版製造所支配人時代の野村宗十郎
東京築地活版製造所専務取締役:第五代社長時代の野村宗十郎

野村宗十郎 のむら-そうじゅうろう 1857-1925

安政四年(一八五七)五月四日長崎に服部東十郎の長男として長崎築地町に生まれる。のち野村家の養子となる。本木昌造の新街私塾に学ぶ。明治二十二年(一八八九)七月陽其二の推薦で東京築地活版製造所に入社。
同二十四年六月『印刷雑誌』に欧米のポイント活字システムを説明したわが国で初の論文を発表。〔ここでの論考はアメリカンポイントの説明としては不十分かつ不適当であり、むしろ現行の DTP ポイントシステムを説いたものだとして、近年では批判もみられる〕。同二十六年米国シカゴで開催の万国博覧会の視察に赴く小川一真に写真製版法の研究を依頼、持ち帰った網版の試験刷に成功し初期の写真製版印刷分野に寄与した。
同二十七年より和文ポイント活字の製造を試み、三十六年大阪で開催の第五回内国勧業博覧会に十数種の見本を出陳した。大阪毎日新聞社は記者菊池幽芳の調査結果を紙上に載せるなどこれに多大な関心を示し、率先して新聞印刷に採用。爾後新聞各社が採用する端緒となった。
出版印刷では四十三年『有朋堂文庫』が九ポイント活字を用いたのが最初である。三十九年社長に就任。大正七年(一九一八)後藤朝太郎に活字の字画整理を、同八年桑田芳蔵に活字の可読性の調査を依嘱するなど活字の改良普及に貢献した。同十四年四月二十三日東京で没した。六十九歳。正七位に叙せられた。
[参考:『日本印刷大観』(東京印刷同業組合編、昭和13年、この項は牧治三郎執筆)]

<タイポグラファ群像*003 牧治三郎 2011年08月11日 花筏 初出

続きを読む

【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史

『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年版、486ページ、非売品)
上)書容全貌  下)口絵Ⅰ:銅版画を原版として電気版をおこして印刷したとみられる

『東京築地活版製造所 活版見本』は、当時東洋一の活版製造所を誇り、自他共にそれを許した東京築地活版製造所による、わが国活版印刷史上最大規模を誇る「活版見本」である。
同社では明治中期以降「大見本帖の作成中」としばしば広報していたが、日清戦争(1894-95)、為替変動、経済変動などの影響があって遅延していたものである。

また刊行直後には日露戦争(1904-05)に突入するという国家的な緊張下にありながらも、第四代社長:名村泰蔵(1840-1907)の指揮によって、ようやく明治36年-1903-11月01日に完成をみた大冊の見本帖である。
主要内容 ── 活字:120ページ、花形・オーナメント:174ページ、電気銅版:180ページ ほか。前後のつき物を含めて486ページの威容を誇る。

稿者蔵書には贈呈番号「壱壱貳-112」がしるされ、のちに東京築地活版製造所の役員になった人物への寄贈書であったが、それに続く、口絵Ⅱ、表「本木昌造胸像」図版、裏「第一-第五回 内国勧業博覧会」授賞記録の一丁が脱落していた。
そのため贈呈番号「壹四-14」がしるされた旧帝国図書館に寄贈された同書、現在の国立国会図書館の公開データーからその一丁裏を補って紹介した。

「内国博覧会」受賞記録の口絵は、マイクロフィルムからのデーター変換のため、特色印刷部分がモノクロとなり、やや不鮮明ではあるが、ページ上部の「第一-第五回 内国勧業博覧会」にみる活字は、のちに紹介するいくぶん扁平な一号装飾書体見本「一号三分ノ二 フワンテール形」活字である。

【印刷事典 第二版】(大蔵省印刷局、昭和41年)
* 『印刷事典』では第二版からこの項目が登場し、現行の第五版まで微修正を経て継続紹介がなされている。第五版では「ファンテル → ファンテール」と新かな使いに変更されている。
* 『印刷事典』では「装飾活字」の項目は「ファンシータイプ」へ誘導される。
 
ファンシータイプ fancy type ; Auszeichnungsschrift, Zierschrift
意匠組版に用いられる装飾活字体。本文活字に対していう。アウトライン(outline)・シャドー(shadow)・シェード(shaded)などのように輪郭線だけのもの、影つきのもの、万筋(まんすじ)入りのものなどをはじめ、ローマン体の特に肉太(にくぶと)の書体もこれに含まれ、その他これらの範囲に属さない装飾活字書体も多数ある。(同)装飾活字 →

ファンテルたい ── 体
和文活字の書体名。装飾活字の一種。明朝体とは反対に、縦線が細く横線の太い特殊な書体で、年賀状あるいは広告組版など以外にはあまり使われない。邦文写真植字機〔写植活字〕にもこの書体がある。

口絵Ⅱ「第一-第五回 内国勧業博覧会」受賞賞牌(賞杯)記録の活字(下部)は、いくぶん丸みをおびたゴシック体活字であるが、画線部の肥痩がめだち、重心が揺らぐなどの未整理な形象が気になる。すなわちまだ素朴ではあるが、それだけに味わいのある、初号装飾體見本のうちの「ゴチック書體 ≒ ゴシック体」の興味ぶかい標本である。
この上掲図版とほぼ類似の組み合わせ、すなわちフワンテール FANTAIL と、丸ゴシック系の欧文書体 ROUND GOTHIC が、『東京築地活版製造所 活版見本』 pp 53 に紹介されている。

『東京築地活版製造所 活版見本』活字編 53 ページに紹介された欧文活字に「 FANTAIL.  No.1 」がある。上段は「PICA」で、フォント・スキーム[活版印刷用語集 フォント・スキーム]は 30 A, 60 a, 8 łbs と表示されている。
すなわちこの活字の名称は「 FANTAIL.  No.1 」で、サイズは「PICA=12 pt」、フォント・スキームは 30 本の A, 60本の a のキャラクターで構成されており、重量は 8 łbs = 8 ポンド ≒ 3,628 グラムであることをあらわしている。

『東京築地活版製造所 活版見本』活字編 53 ページに紹介された欧文活字に「 FANTAIL.  No.1 」がある。その下段は「2 – LINE SMALL PICA 」で、フォント・スキームは 28 A, 60 a, 8 łbs と表示されている。
すなわちこの活字の名称は「 FANTAIL.  No.1 」で、サイズは「2 – LINE SMALL PICA =21 pt 二号活字格」、フォント・スキームは 30 本の A, 60本の a のキャラクターで構成されており、重量は 8 łbs = 8 ポンド ≒ 3,628 グラムであることをあらわしている。

【 英和辞書にみる  ファンテール fantail 】

1 扇形の尾[端、部分]。
2 クジャクバト:扇形の尾を持つイエバトの一品種。
3 扇形の尾を持つ小鳥の総称;アジア南部、ニューギニア、オーストラリアなどに分布するオウギヒタキ属 Rhipidura の各種のヒタキ(fantail flycatcher)や、米国産のオウギアメリカムシクイ(fantailed warbler)など。〔以下略〕
[参考:ランダムハウス英和大辞典(小学館)図版とも]

【 欧文活字にみる  ファンテール fantail 】

ファンテール Fantail
欧文活字書体 Fantail は、19世紀英国のビクトリア朝を模した書体として知られ、命名の由来となったとみられる孔雀鳩の尾のように、おおきく広がった画線部先端の処理が特徴である。
またふつうの欧文・和文活字に共通してみられる、縦画を太く、横画を細く描くのとは逆に、縦画が細く、横画が太く書かれていることを特徴とする。いわゆる「猫足型」のカーブや尖端には、仏国のアール・ヌーボーの影響もみられる。

「Fantail」の最初は、米国オハイオ州シンシナティのフランクリン活字鋳造所の1889年版活字見本帳『Convenient Book of Specimens』(Franklin Type Foundry)に「Fantail」の名称で、おもに大きなサイズで登場したとされる。

1892年にアメリカ活字鋳造所会社(略称:A T F,   American Type Founders Company)が設立されると、同社もその販売店となったとみられ、稿者所有の A T F 活字見本帳1907年-明治40-には、Franklin Type Foundry の名称はすでに無く、かつての所在地が「Selling Houses-Cincinnati, Ohio  124 East Sixth Street」とされた紹介をみる。
[参考:フワンテル形、またはファンテール書体について  何某亭 WebSite 雑文集積所

────────────────
中央の罫線から下、上段は「 ROUND GOTHIC,  No.2 」が紹介されている。
すなわちこの活字の名称は「  ROUND GOTHIC,  No.2 」で、サイズは「ENGLISH ≒ 13.75 pt  旧四号活字格 」、フォント・スキームは 35 本の A, 65 本の a のキャラクターで構成されており、重量は 10 łbs = 10 ポンド ≒ 4,536 グラムであることをあらわしている。

中央の罫線から下段は「 ROUND GOTHIC,  No.2 」が紹介されている。すなわちこの活字の名称は「  ROUND GOTHIC,  No.2 」で、サイズは「3 – LINE PICA=36 pt 」、フォント・スキームは 10 本の A, 15 本の a のキャラクターで構成されており、重量は 20 łbs = 20 ポンド ≒ 9,072 グラムであることをあらわしている。

*    本稿でのポイントとは「アメリカン・ポイント」をあらわしている[サラマ・プレス倶楽部 活版印刷用語集 活字の大きさ]を参照
フォント・スキームは[サラマ・プレス倶楽部 活版印刷用語集 フォント・スキーム]を参照。
なお当時の業務用欧文活字の販売は、フォント・スキームによる字種構成・字数配当にもとづき、その重量で価格が設定されていた。

**  『東京築地活版製造所活版見本』の組版版面は、ほんの一部に異同はあるが、左右 35 PICAS( 12pt × 35 PICAS=420 points ),  五号40倍(10.5pt ×40倍=420 points )、すなわち 左右 420 points に統一されている。
***  五号40倍とは「魔法の小箱=文選箱」の長辺の内のりに等しい。そのため活字組版上における利便性がたかく、小社サラマ・プレス倶楽部が現在も製造・販売している「木インテル」は、五号 40倍・12pt  35倍(420pt)と、五号 24倍・12 pt  21倍(252 pt)が主流である。

[参考:【かきしるす】文字組版の基本|ポイント (points)、パイカ (picas)、ユ ニット (units) |現代の文字組版者にとって基本尺度/スケールは不要なのか?

《明治36年 和文活字書体に展開された装飾書体フワンテール形とゴチック形》

『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年版、28-29ページ)

『東京築地活版製造所 活版見本』の 28-29 ページに、「装飾体活字見本」として、初号(42 pt)、一号( ≒ 27.5 pt)、二号(21  pt)、三号( ≒ 16 pt)の比較的おおきなサイズの活字に「フアンテール形」活字の紹介をみる。文例は「 奉 祝 敬 恭 謹 」の六字種である。
管見ながら、東京築地活版製造所の活字見本帖に「フワンテール形活字」が発表されたのはこれが初出であるが、おそらく先行して、業界紙誌への広告と、需要家(ユーザー)への告知 ── チラシ・パンフレットなどの配布がなされていたとおもえる。

欧文活字「Fantail」と同様に、孔雀鳩の尾のような末広がり状の形象を特長とするので、おそらく欧文活字に倣って和文活字を製造し、名称も「フアンテール形、新かな使い → ファンテール」と名づけたとおもわれる。
明治中期に東京築地活版製造所で精力的につくられた「装飾書体」のひとつであるが、年賀状などの端物印刷に好んでもちいられ、ひろく普及した。
また写植活字の最初期に「字幕体」とならんで「ファンテール」として登場した書体ともなっている。
写植活字「字幕体・ファンテール」に関しては、いずれ志茂太郎による『書窓 11ー印刷研究特輯』(アオイ書房、1936年02月)とあわせて紹介したい。

「初号装飾書体見本」には八種類の活字書体が紹介されている。
「フアンテール形」のほかに、「ゴチックシャデッド形」「ゴチック形(シャデッド色版)」「蔓形」「矢ノ根形」「ゴチック霞形」「唐草形」「色刷見本」などがある。
これらの書体はおもに慶弔用・年賀状用などの使途を意識していたとみられ、多分に実験的に製造されたものであり、どこまでの字種を備えていたかは不明である。

「一号装飾書体見本」には、「ゴチック形(シャデッド色版)」「ゴチックシャデッド」「色刷見本」「フワンテール形」「ビジョー形」のほかに、後述するが、扁平書体を製作するための道具・器具-パントグラフ-をもちいたとみられる「三分ノ二 フワンテール形」がある。
同社ではこの技巧を加えた活字がよほど自慢だったのか、上掲の本書口絵Ⅰ「内国博覧会」受賞記録のページ「第一-第五回 内国勧業博覧会」にもちいられている扁平活字は、この「一号装飾書体 三分ノ二 フワンテール形」活字である。

「二号装飾書体見本」と「三号装飾書体見本」には、ともに「ゴチック形」「フワンテール形」活字がある。

ここまでくどくどと説明をしてきたが、読者諸賢にあっては、わが国における「ゴチック形 → ゴシック体」とは、「フワンテール形」とほぼ同様の歴史をもち、「装飾書体」「ファンシータイプ」、いまならさしずめ「ディスプレータイプ」とされていたということを記憶していただきたい。
さらに言をかさねれば、1930年代に小規模な活字鋳造所「藤田活版製造所」が、意欲的にゴチック形の改刻にあたっていたという歴史も見逃せない。残念ながらそこからは「フワンテール形」は洩れていた。

また昭和15年ころからの時局下で展開された官制の国民運動「変体活字廃棄運動」においては、フワンテール形・ゴチック形双方の活字は、不要・不急の活字とされたこともあわせて記憶して、これ以降を読み進めていただけたら嬉しい。
[参考:「変体活字廃棄運動と志茂太郎」『活字に憑かれた男たち』片塩二朗、朗文堂、1999]

────────────────
『東京築地活版製造所 活版見本』の 80  ページに、「二号ゴチック書体見本」「三号ゴチック書体見本」「四号ゴチック書体見本」「五号ゴチック書体見本」が紹介されている。
さすがにここまでの小ぶりなサイズになると、初号サイズ・一号サイズにもちいられていた「装飾書体」の字句は姿を消しているが、明朝活字へ向けたような強いこだわりはみられず、カウンター(字の内部空間)がつまり気味で、偏と旁のバランスに欠け、全体の結構もまとまりが無く、必ずしも自慢できるレベルには到達していないとみられる。

なによりもここにはひら仮名・カタ仮名の展開はみられないことに注目して欲しい。
この時代には、まだ書体ごとに随伴する仮名活字を製造するならいはないが、pp 26 に「六号仮名書体見本」が四種類紹介されている。ここにゴチック形との併用を意図したとみられる、イロハを文例としたカタ仮名活字をみるが、ここにはひら仮名活字はみられない。
同様に pp 33 に五号サイズのかな活字が七種紹介されているが、ここにもひら仮名はなく、わずかに「五号ゴチック片仮名」がイロハを文例として紹介されている。

「ゴチック/呉竹」などとあらわされていた金属活字の時代、こうした状況は東京築地活版製造所だけではなく、どこの活字鋳造所でも大同小異の状況にあった。
すなわち産業革命下の英国で誕生し、米国経由でもたらされた「サンセリフ ≒ ゴシック」は、直線を主体として、硬質で均等な線巾で描かれていることを特長として登場した。
そんな造形性が背後にあったため、筆写のなごりをとどめて、柔軟で、抑揚と脈絡をともない、起筆と終筆に特長をおき、肥瘦や曲折部を描くことの多かった「わが国の仮名書体製作者」── 多くは木版彫刻士・印判士・書芸家から転じた活字原字製作者 ── にとってはかなり手強い対象だったようである。

すなわち漢字のゴシック体は容易に習得できたとおもえるが、漢字と同様に直線部の多いカタ仮名活字はともかく、ゴシックのウエイトに相当するひら仮名活字の開発は容易には進まなかった。
この現象はこんにちなお尾を引いており、マンガ図書の吹き出しに「ゴシック体漢字+アンチック体仮名」の採用をみる。周知のようにアンチック体は肥瘦と屈曲部に特長があり、かつては大きくて太い明朝体と併用されることが多かったかな活字書体である。
[参考:きみは富士山をみたか-判別性・可読性・誘目性三要素を重視するマンガ組版(
『文字百景 72』片塩二朗、1999年9月]

わずかに昭和初期に、東京神田連雀町:藤田茂一郎による「藤田活版製造所」が、遅れていたひら仮名・カタ仮名の開発をふくめ、初号-六号におよぶゴシック体活字の全面改刻にあたり、あわせて改良型ゴシック、細形ゴシックなどを意欲的に開発した。
なお神田連雀町-れんじゃくちょう-は関東大震災によってほとんどが焼失したが、東京大空襲の被害は軽微だった。それでもその後の区画整理で神田須田町・神田淡路町に名称がかわって、旧在地などは判明し難くなっている。

それだけでなく、「藤田活版製造所」は昭和中期の時局下において、ゴシック体活字は不要不急の活字書体とされたため「変体活字廃棄運動」の影響がおおきく、活字製造設備のほとんどを没収されるという悲劇をみるにいたった。
したがって戦後になると、時局下にあって
四散した「藤田活版製造所」の資料を各社がもちいるところとなり、また機械式活字母型彫刻機の国産化などもあって、現存する電子活字の一部をふくめて、旧金属活字時代からの歴史を有するベンダーのライブラリーのうち、「硬い線質」と評されるゴシック体のほとんどは、四散した「藤田活版製造所」製のゴシック活字の影響下にあることがわかる。

ちなみに藤田茂一郎の子女:よし子は、1946年-昭和21年-神田鍛冶町に創業した晃文堂:吉田市郎(1921-2014)に嫁したが、結婚後いくばくもなく結核のために子をなさずに逝去した。それでも晃文堂ゴシック、後継企業のリョービゴシックは「硬い線質」といわれ続けた。
活字の玄妙さはこんなところにも潜んでいる。
[参考:花筏 タイポグラファ群像007*【訃報】 戦後タイポグラフィ界の巨星:吉田市郎氏が逝去されました

活字編 pp 81 には「各号竪平形書体見本」が12種類紹介されている。
これはのちの写植活字の時代になると、かまぼこ形の光学レンズをもちいて字画を変形させて、「平形 → 平体」「竪形 → 長体」とあらわされたものであるが、ここでは下掲図にみるような簡便な道具「パントグラフ」をもちいて図形を拡大・縮小させていた。あわせてアーム設定によって縦横比を変え、それぞれ50%ずつ扁平・長体にしたものである。
[参考:「印刷局と工部美術学校の狭間で」『印刷と美術のあいだ』(森 登、印刷博物館、2014年10月18日)]

東京築地活版製造所では本ページの頭頂部「柱」の使用にもみるように、さっそく同社のロゴタイプのようにしてもちいたりしたが、販売は限定的であったとされる。
それでもこの簡便で、ひと目を惹きやすい-誘目性-にすぐれた技法は、大正期の半ばともなると他社の知るところとなり、中京と京阪神の活字鋳造所を中心に、扁平明朝や長体明朝が相次いで製造されるようになった。
大阪の新聞社用に「扁平明朝体・新聞明朝体」を製造販売した森川龍文堂、ハワイの都新聞用にむけて「長体明朝」を製造販売した津田三省堂などが積極的であった。

パントグラグラフの原理をわかりやすく説いた図版。1867年 ウィキペディアゟ

米国 A T F 社のリン・ベントン(Benton, Linn Boyd 1844年-1932年)が1885年-明治18年-に考案した「機械式活字父型・母型彫刻機-俗称ベントン彫刻機」は、上掲図のパントグラフの概念と基本構造はおなじであり、そこに電動モーターによる精密彫刻機を付加したものである。

東京築地活版製造所は印刷局とともに、大正期に「俗称:ベントン彫刻機」を導入したが、その使途は限定的であったとされる。「機械式活字父型・母型彫刻機」は戦後の復興期に国産化され、もっぱら俗称:ベントン彫刻機とされて普及をみた。
[参考:「工芸者の時代から技術者の時代へ」『秀英体研究』(片塩二朗、大日本印刷、2004)]

《『本木号』にみる明治最末期-大正初期に展開したフワンテール形》

『本木号』(大阪印刷界第32号、明治45年06月17日 印刷図書館蔵)

明治帝の晩年に、その治世下における位階贈与に遺漏の詮議があり、故本木昌造への位階進呈が長崎県を通じて申請され、「従五位」が追贈された。
大阪の印刷業界誌「大阪印刷界」は一号につき10銭の月刊誌であったが、この贈位を祝して特別企画『本木号』の刊行をはかり、おもに大阪:谷口活版所(大阪活版製造所の後継企業-二代目谷口黙次)、東京築地活版製造所が、それぞれ「金三百円也」、その他の企業からの資金提供をうけて製作された特別号である。
巻末に取材先、資料提供者の一覧があるが、そこにはすでに病没していた本木昌造の継嗣:本木小太郎はもとより、既知の本木家親類縁者の名前はいっさいみられない。いずれにせよ本誌発行からまもなく明治帝が薨じて、明治45年-1912-7月30日に大正に改元された。

『本木号』は全200ページほどの雑誌であるが、ページ番号がふられた80ページほどをのぞくと、ほかは大小のスペースの慶祝広告によって占められている。
表紙デザインはアール・ヌーボー調で、題字はファンテール形のレタリングによって描かれている。広告の多くにも活字フアンテール形と、レタリングによるフアンテール体、そして装飾活字のゴチック形活字があふれている。

《東京築地活版製造所衰退の予兆となった『活字と機械』》

『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)

B 5 版、132ページ、和装仕立ての図書である。ページ番号は付与されていない。
活版印刷用の機器と資材を詳細に紹介し、その側面からみると資料性はたかいが、こと活字製造に関しては既述の明治36年版『活版見本』から、花形・オーナメント、電気銅版の都合354ページ分が脱落しており、 活字:120ページも大幅に縮小されて、その活字内容にもおおきな進展はみられない。
その結果、活字版印刷術 ≒ タイポグラフィにおける総合技藝としての側面が減少して、活版印刷=活字という、視野狭窄と視座の幼児性と矮小化を招く一因となったことは指弾せざるをえない。

本書の編輯兼発行者としるされているのは、同社第五代社長:野村宗十郎(1857-1925)であるが、活版印刷用の機器と資材の紹介内容は、先述した名村泰蔵(1840-1907)が10年がかりで計画・実現させた「東京築地活版製造所月島分工場」による製品群であり、野村宗十郎の功績とはいいがたい。

冒頭の活字編には、支配人時代から野村宗十郎が提唱した、号数制からポイント制活字への移行を急ぐあまり、基本書体の明朝体においても、移植が主体であることが目立ちすぎ、開発が場当たり的であり、拙速と欠陥が際立つ結果となっているのは残念である。

五号ゴチック、六号ゴチックには、はじめてひら仮名活字が登場するが、濁点・半濁点の処理にとまどうばかりで、どう評すれば良いのか戸惑うほどの形姿となっている。

いずれにせよ、東京築地活版製造所「中興の祖」とされるのは野村宗十郎であり、昭和13年-1938-に同社が清算解散にいたったのは、関東大震災による被害のためとされるが、ここに稿者は、いくぶん異なった視点から野村宗十郎をみていることだけをしるしておきたい。

《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》

『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)

   
牧  治 三 郎 67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)-2003年(平成15)歿。行年103。
[参考:花筏 平野富二と活字*03 『活字界』牧治三郎二回の連載記事に戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

大正12年-1923ー9月13日午前11時58分に関東大震災が発生した。東京築地活版製造所は新社屋(下部左)の落成がなり、月島分工場などに一時移動させていた設備を、新社屋にむけての搬入作業がつづいていたさなかのことである。
汗みずくになって搬入作業にあたっていた従業員に、昼食がつげられた直後に激震が襲ったとされる。ほとんどの家庭では、裸火での昼食の準備中だったためもあって、地震にくわえて火災の影響も大きく、この震災の被害は死者・行方不明者10万5000人余、住家全半壊21万余におよび、京浜一帯は壊滅的打撃をうけた。

幸い重量物の取扱を前提として建築された新社屋は、軽微な被害で済んだが、隣接していた創業家:平野家は、敷地内にあった東京築地活版製造所社員尞ともども土蔵をのぞいて全焼し、第四代社長:名村泰蔵が心血をそそいで建造した月島分工場も全焼した。
それでも復旧作業が全社員をあげて展開され、まもなくビルの一画に「◯も」の社旗が翻って、築地地区の話題となるほどだったとされる。

そんな無理がたったのか、大正14年4月23日、野村宗十郎は逝去した。行年69であった。
この資料の旧蔵者であった牧治三郎は、資料複写を許諾した際にこんなことを漏らしていた。
「野村〔宗十郎〕先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」

野村宗十郎の逝去によって東京築地活版製造所第六代社長に就任したのは、平野富二と長いつき合いのあった松田源五郎の長男:松田精一(長崎十八銀行頭取・衆議院議員を兼任)であった。
[参考:花筏 [良書紹介]渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営+〝ふうけもん〟か十八銀行:松田源五郎

ちなみに東京築地活版製造所歴代の代表専務取締役社長は、第三代:曲田 成(まがた しげり 元阿波藩藩士)をのぞくと、ほとんどすべてが長崎県出身者によって占められていた。
[参考:花筏 平野富二と活字*02 東京築地活版製造所の本社工場と、鋳物士の習俗

さらに本資料『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)には、もうひとつのドラマが秘められている。
「このビラは、もしかすると回収されていたかもしれない代物だ。満天下でオレしかこんなものはもってないだろうよ」
すなわち『新年用見本』として用意された、この中綴じ8ページのパンフレットはもちろん、ここに紹介された「初号ゴチック形・初号フアンテール形 壹個定価拾五銭 奉 祝 敬 恭 謹 賀 新 年 春 正 迎 候」の活字も、「大正16年の年賀状」に使われることはなかったのかもしれない。

すなわち大正15年10月-1926-に本パンフレットが配布されたとしても、それからまもなく大正15年-1926-12月25日に改元となって昭和になった。すなわち 大正時代 とは、大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日-1926年(大正15年)12月25日までであった。

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、同日、皇太子(摂政宮)裕仁親王(昭和天皇)の践祚を受け、ただちに改元の詔書を公布して 昭和 に即日改元し、1926年の最後の7日間だけが昭和元年となった。
すなわち西暦の1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある。

平成-令和への生前贈位とことなり、わずか7日間だけの昭和元年は、当然国をあげての服喪の期間となり、年があけても賀詞を交わすような祝賀気分になれたかどうかは疑問がのこる。
そんなこともあって、牧治三郎はこの「ビラ」をひどく自慢にしていた。

平野富二という漢-おとこ-がいた。
二十六歳で長崎から上京し、在京わずか二十年、まるで村夫子のような風貌からは想像もつかないさまざまな事業をてがけ、四十六歳の若さで逝去した。
わが国が近代国家になるために、幕末の長崎にもうけられた海軍伝習所・医学伝習所・活版伝習所などに結集し、全国各地に羽ばたいた重厚な人脈にたすけられ、なによりも本人の勤勉努力によって、平野富二が興した造船・重機械製造・運輸・交通などの事業は、こんにちなお継続している企業は多くを数える。

「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」を契機として、その生誕地に記念碑が建立され、記念誌の刊行もちかい。
平野富二の東京での最初の事業、活字版製造は後継者に恵まれずに昭和13年に清算解散を迎えた。
その遠因を「フワンテール形・ゴチック形」というふたつの活字書体の消長から探ってみた。まだ「口ごもっている」部分も多いが、読者諸賢は稿者の意のあるところをお汲みとりいただけたら嬉しい。

図書のタイトル『平野号』は、もちろん『本木號』にちなむ。タイトル書体は東京築地活版製造所による「フアンテール形」活字を参照し、「平野富二の会」の若い造形者が選択し、みずからの手によって描いたものである。

【もんじ】そこにも徳本・ここにも徳本|徳本行者六字名号碑|広島県福山市から発見報告

昨年から職場も住居も岡山に移転して、子育てに専念しているマッチャンこと松尾さんです。
順調に第二子も誕生して元気なようですが、アレですアレ、あの ── どこか飄逸な『徳本行者名号碑-南無阿弥陀仏』をみると心が騒ぐようです。
今回は稿者にとっては最西端の地、広島県からの『徳本行者名号碑』発見報告です。
[松尾さんからのお便り]
先週の日曜日(2019年04月07日)に、子どもの寝かしつけもかねて
広島県の鞆の浦までドライブに出かけました。

なんの下調べもなく出かけたのですが、鞆の浦グリーンラインという道路の路肩の
展望ポイントで、久しぶりにあの字 ── 徳本行者名号碑 ── に出会いました。
碑は 鞆の浦 (広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域)に
向かって建っています。背後は尾道方面。
じつに見晴らしのよいところに建っていました。

『徳本行者名号碑』
碑正 面  徳本行者六字名号 南無阿弥陀仏
碑右側面  文政十一戌子年五月建立〔1828年〕
碑左側面  発願主藤江村 岡本内松兵衛

[ 参考: NOTES ON TYPOGRAPHY  【もんじ かきしるす】明治の写真士:内田九一| 医学伝習所・幕府医学所頭取:松本良順|牛痘接種法の普及者:吉雄圭斎と八丈島漂着を共にした本木昌造・平野富二|開港地長崎が〝えにし〟となった紐帯|其の壹

《徳本行者》
続きを読む

【ことのは/もんじ】新元号・令和|なにかと煩瑣なことが多くて……|まぁそのうち馴れるでしょうが

使いますか ? 「元号合字」  ㍾ ㍽  ㍼  ㍻  . .

《 令和 …… 「U+32FF」が既に予約  ヤレヤレ 疲れます 》

2019年05月から使用される元号が「令和」に決まった。発表はエイプリル・フールの四月一日、なにかと想像力が欠如していると感じたが、あまり関心はなかった。こんなことで騒ぐより、もっと肝心なテーマはあるはずだ …… 。
ようやくオンボロパソコンに「令和」を単語登録。その際、無意識にかな変換の「読み」に「りょうわ」としてやりなおし、再登録。「へいせい」のときもそうだったが、この歳になると「れいわ」に馴れるのには時間がかかりそうだ。上掲図版は Windows – OS7、変換ソフトは ATOK の文字パレットである。

ところが、発表以来、印刷業者を中心に「新元号 令和」の活字書体とその字画処理(字体)に関して、悲鳴にも似た@メールや、電話をいただいている。それには誠意をもって対応させていただいている。
また個人的には「令和」、とりわけわが国の一部の活字書体「令」における字体と字画処理の混迷に意見はあるが、「字形」などという意味領域のあいまいなことばが流布した現在、「令」だけで済むわけもなく、基本的にノーコメントとさせていただいている。

金属活字の時代は、活字製造業者が多く、競争が熾烈で、「合字」「連結活字 logotype」と称して、全角の枠の中に明治・大正・昭和などの元号を合わせて鋳込んだ活字を製造販売していた。
それは写植活字にも継承されて、明朝体、まれにゴシック体などの基本書体の「記号」として扱われ、官公庁の文書需要を中心にもちいられた。ただしこれらの時代の「元号合字」は、ほとんどの筆書系活字や、装飾系活字に及ぶものではなかった。

現在の電子活字は、当初は様〻な文字集合コードが存在したが、現在は Unicode(ユニコード)に集約されつつあるようだ。ユニコードは、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの業界規格である。文字集合(文字セット)が単一の大規模文字セットであること- Uni という名はそれに由来する-などが特徴である。

パソコンという軽便なツールが開発され、書体製作ソフトウェアが低廉化・普及して、電子活字は急速に、膨大な書体数と、そのファミリー、ウェイトの拡大、キャラクター数の増大をみるようになった。
そしていつのまにか筆書系活字や、装飾系活字といったジャンルの書体も、同業他社との横並び意識がめだって、キャラクター数の多寡を問われ、良き抑制が効かない時代になっている。
こんな時代 ── 換言すると、およそ官公庁での文書処理での使用が予測されないディスプレー書体(装飾系書体)の、ウルトラボールド/極太書体にまで「元号合字」をつくらなければならなくなった時代 ── 友人知人の書体製作者がかわいそうになる事態である。

しかも上掲図のユニコード「U+32FF」の文字パレットをみると、予約された場所は「◯入りカタ仮名 ㋻ ㋼ ㋽ ㋾」と「合字 ㌀ ㌁ ㌂ アパート・アルファ・アンペアなど」との間(隙間・空き地)であり、やはり もんじ(文字)というより記号の部であることがわかる。
ATOK ではより明瞭で、これらは「単位記号」として、「℃・%・$」などとおなじ場所に配置している。

株式会社モトヤは、金属・写植・電子活字の三世代を生きぬいてきた優良企業である。そこからのメールニュースを紹介したい。
すでにユニコ-ドには上掲図に青で表示した「U+32FF」という領域(陣地)が「令和」のために確保されている。多くの友人・知人は、その予約された領域を埋める作業に追われることになる。
────────────────
株式会社モトヤ

モトショップ メールニュース 20190402
弊社書体の新元号「令和」への対応について

続きを読む

【もんじ かきしるす】明治の写真士:内田九一| 医学伝習所・幕府医学所頭取:松本良順|牛痘接種法の普及者:吉雄圭斎と八丈島漂着を共にした本木昌造・平野富二|開港地長崎が〝えにし〟となった紐帯|其の壹

内田九一奥城 長崎大光寺内田家墓地 吉雄圭斎建立
【もんじ】長崎大光寺上段墓地にある内田家・間淵家墓地と内田九一奥城
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831  長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

【内田九一 うちだ-くいち 1844-1875】
幕末-明治初期の写真家。
弘化元年肥前長崎うまれ。蘭法医:吉雄圭斎の甥。圭斎の妻が九一の従姉であったため、九一が4歳のおり、妹菊とともに吉雄圭斎によって種痘(牛痘)の施術をうけた。13歳のおり父を亡くし、九一は松本良順が、菊は八歳で伯父の吉雄圭斎が引き取って養育した。松本良順(順)と吉雄圭斎に関してはのちに触れる。

明治天皇の束帯姿(明治5年4月、内田九一撮影)
明治天皇肖像写真(明治6年10月、撮影:内田九一 神奈川県立歴史博物館蔵)
明治帝御真影として官公庁・学校などに下賜されたもの(明治21年1月)。
お雇い外国人エドアルド・キヨッソーネが描いたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの。

長崎でポンペに化学を、上野彦馬から写真術をまなぶ。慶応元年大阪に滞在していた松本良順をたずね、大坂で写真館をひらき、のち横浜・東京で開業。明治5年宮内省御用掛として明治天皇の肖像写真を撮影、西国九州巡幸にも写真士として供奉してその名を知られた。
内田九一はその九州巡幸の折とみられるが、父祖のねむる大光寺本堂の写真ものこしている(長崎大学中央図書館蔵)。

ここで大光寺住職夫人に紹介いただいた、同寺所蔵:イタリアにうまれ英国に帰化したベアト(Felice Beato  1825-1903)による「大光寺本堂の前に立つ上野彦馬」(フェリーチェ・ベアト撮影、鶏卵紙、慶応年間ころ 長崎大学中央図書館蔵)の複製写真を紹介する。
おりしも2018年3月-5月「東京都写真美術館 ── 写真発祥地の原風景 長崎」が開催され、長崎歴史文化博物館にも巡回展示されていた。この撮影は同年11月下旬になしたものである。

上掲写真部分拡大:中央で棕櫚の幹に手をかけているのが上野彦馬とされるベアト撮影、上野彦馬とほぼ同じ位置に立った日吉洋人氏。2018年11月

この取材の同行者は、日吉洋人・大石 薫の両名であった。大光寺の複製写真はガラス付きの額に入った写真だったが、蘇鉄-ソテツ-に右手をかけた上野彦馬と同じ場所に立った日吉洋人氏を紹介する。蘇鉄の枝ぶりがかわり、慶応年間には無かった松があるが、百五十年余のこんにちでもほとんど大光寺本堂前の景観に変化がないことに驚いた。

これとほぼ同様のアングルからは、「慶応年間」のベアトに続き、上野彦馬が「明治初期」に撮影し、内田九一も「明治5年ころ」に撮影している。いずれも長崎大学中央図書館蔵であるが、「東京都写真美術館 ── 写真発祥地の原風景 長崎」の市販図録 pp 127-128 に見開きページで紹介されている。

本木昌造肖像 撮影:内田九一 推定明治7年

また小社周辺でもちいている本木昌造のおもな写真は、撮影日時は不明ながら、白髪と眼くぼの落ちこみ具合からみて、本木昌造最後の上京となった明治7年(1874)夏ごろの撮影とみられている。また台紙の記載から内田九一が東京で撮影したものとされている。

この写真はだいぶ前のことになるが、上杉千郷氏(当時:鎮西大社諏訪神社宮司)のご好意で、諏訪神社「文学の杜」で複製撮影をしたもので、簡便なカメラで稿者が撮影したものを、小社スタッフが階調補整したものをもちいている。
額入りで裏面は撮影できなかったが、『贈従五位本木昌造先生略傳』(古賀十二郎、昭和9年5月、印刷図書館・長崎歴史文化博物館蔵)には、いくぶん不鮮明ながら同一原版からとみられる写真とともに、台紙の影印も紹介されている。
羽織の家紋は本木家歴代の「◯ に 本」の家紋 ではなく、草体の仮名「も」に丸をあわせたもので、印刷・活字界で俗に「◯ も」とされる、本木昌造の創作による替え紋のようにみられる。

本木家塋域 大型墓前列右端 本木昌造墓
本木家塋域に数ヶ所みられる「◯ 本」の家紋
本木昌造の墓標には家紋・替え紋ともみられない

正面)故林堂釋永久梧窓善士 最勝院釋全託貞操大姉 右端にちいさく 贈 従 五 位 が追刻
右側面) 諱永久通稱昌造久美之義子也以文政十年甲申六月九日乙亥九月三日病歿千家享年五十二 追刻:明治四十五年二月二十一日宣下
左側面) 天保九年戊戌閏四月十二日生安政五年戌年七月十二日卒行年廿一歳本木久美實女永久妻俗号縫

本木昌造は明治8年春、東京での撮影の翌年関西に出向いたがそこで躰調をくずし、大阪活版製造所:谷口黙次(初代)、京都點林堂:山鹿善兵衛(号:栢年-はくねん)をはじめ、東京から駆けつけた平野富二らの介護をうけて、洛外の「落柿舎」で静養し、ようやく帰崎することができた。しかしその後も病床にあることが多く、明治8年(1875)9月3日に長崎で病没した。享年52。
内田九一は本木昌造の撮影後からまもなく持病の肺病が悪化し、本木昌造に先立って明治8年(1875)2月17日肺結核によって東京で逝去した。享年32。
ふたりはともに肥前長崎出身。長崎大光寺山内、本木家墓地に「本木昌造墓」、内田家墓地に吉雄圭斎建立による供養塔「内田九一奥城」がある。

[参考:『日本人名大辞典』(講談社)]

明治最初期の写真家:内田九一を偲ぶよすがは生誕地長崎ではすくない。わずかに「内田九一奥城」(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑乃至は供養塔をいう)が、長崎寺町のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の傾斜地、大音寺と崇福寺の墓地にはさまれた大光寺墓地にある。
寺の山内ではあるがこの奥城は神式で、戒名や墓誌めいたものはなく、内田家塋域の向かって右端に、「内田九一奥城」とのみきざまれて建立されている。建立者は長崎の蘭法医:吉雄恵斎によった。森重和雄氏の報告によると以下のようにしるされている。

この墓は『フォトタイムス』(昭和8年10月号)掲載の、松尾矗明「写真秘史古老達の話と諸方の記録(三)内田九一寫眞記(四)」によれば、長崎の吉雄圭斎が、内田九一が亡くなったことを悼みこの墓域内に供養墓を建立したものである。
[参考:幕末明治の写真師列伝 第六十一回 内田九一 その二十六 森重和雄

東京で歿した九一の墓は、はじめ東京王子に設けられ、松本順とその遺族が世話をしていたが、のちに妻:おうたが遺骨のはいった骨壺と「内田九一墓誌銅板」とともに大阪に移設したとされる。

内田家塋域は大光寺本堂左手から「登坂」をはじめ、本木家墓地を経てさらに上部、右手に岡部家の広大な墓地の先を左に折れる。
境界の目印が無いから解りづらいが、岡部家の墓地は隣の崇福寺墓地にあたり「元崇福寺末庵廣徳院」の跡とされる。崇福寺は禅宗のひとつ黄檗宗の寺で、唐寺とも呼ばれ中国との関係が深い古刹である。
その角、大光寺側にある「中島家塋域」 石闕の甲骨文の釈読 {先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え}は、古谷昌二氏の協力を得て既に紹介した。

内田家の塋域入口には石塀があり、蔓草がからんでいるが「間淵 内田」と もんじ があり、上部に半円形の「図形」乃至は もんじ が彫りこまれている。この「図形」はひとまず措いて、もんじからみてみよう。
「間淵」はのちに刻されたもので、大光寺住職夫人によると、現在は間淵家がこの塋域の使用者であるとされる。また内田家縁者が関西方面から毎年訪崎して供養にあたっているという。
塋域中央部に間淵家の墓があり、石灯籠をはさんで右手に二基の石塔、内田家の墓と内田九一奥城がある。間淵家と内田家の関係は不詳である。

また内田家の来歴はつまびらかにしないが、もっともふるいとみられる中央の「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の戒名をもつ墓標に刻された もんじ は興味ふかいものがある。

浄土真宗の寺なので、墓石正面の六字名号「南無阿弥陀仏」はあたりまえだが、二字目が「無 → 无」になっている。これは「无 U+5B83   字音:ム・ブ 意読:ない」であり、易経・乾に「无咎-咎なし」をみる。
したがってここでは「無 → 无」と同音同義の異字に置きかえられたとみられる。これはどこかの墓標か経文で類似のものをみた記憶があったので手許資料を探したが見つからなかった。

最終の「佛」はいわゆる旧字体だが、四字目の「彌 → 弥」は新字体にちかく、よくみると旁の屈曲にみるように、いまも俗字とされる結構になっている。
最大の難関は五字目の「陀」である。阜偏-こざとへん-に、旁・色をあてたような字である。本来「陀」は梵語 ダ を中国音に訳すときに当てられた字で「佛陀 ブッダ」とされた。「解字」によれば「陀 会意兼形声。阜〈こざとへん〉+音符 它 タ ── 長くのびる」の意である。

そこで「它」をみると、「它 U+5B83  字音:タ  tā 意読:へび・ほか」となる。意味は名詞:へび → 蛇 ダ・ジャの原字で「竜它 → 竜蛇」の使用例をみる。
「解字」によれば「象形。毒へびを描いたもの。古代には毒へびが多かったので、{它〈タ〉無キヤ}ときいた。転じて「別状ないか」の意となり、そこから 它 は別のこと、ほかの、などの意となった」とあり、必ずしも吉字とはいえないようである。

したがってここでの六字名号「陀」は、阜偏-こざとへん-はのこして、旁を「般若心経 ── 色即是空・空即是色」、あるいは難読語とされるが「色陀-しこだ」などにより、吉字とみなされた「色」に置きかえたが、やはり憚るところがあったのか、減筆によって一画を減じて書きあらわしたのではないかと解釈した。先行事例ほか、ご意見をたまわれば幸甚である。

餘談になるが…… 、庶民藝能として誕生した歌舞伎は、役者も観客も庶民信仰が篤かった浄土宗・浄土真宗の信徒がおおく、「南無阿弥陀仏」の六字名号を敬し、歌舞伎の演目に六字からなる題名を避けるならわしがある。

また、かつて稿者は東京文京区千石の一行院に 徳本行者 の足跡をたずね、慶応四年刊・お家流書風による木版刊本『徳本行者傳』の活字による現代語訳を試みた経験がある。
徳本は紀州和歌山出身の浄土宗の僧侶で、徳川十一代:家斉の庇護をうけて一行院(文京区千石1丁目14)をもうけて念仏三昧の日々をおくり、また各地に行脚して、そこの浄土の寺には、独特の書風による「徳本名号碑」が建立された。それをどこかの雑誌に書いたが、いまとなるとチト恥ずかしいものがある。

「徳本名号碑」はおよそ能筆とはいえず、六字を単体でばらしたら判読に悩みそうな字であるが、そこは六字名号のありがたさ、たれもが「南無阿弥陀仏」と唱え、その遊行行脚の地には多数の信者からの寄進がよせられた。それらのすべてを滞在先の浄土の寺にのこして去った徳本行者を慕って、文京区小石川:傳通院、長野:善光寺、伊豆や近江、都内の各地をはじめ、東日本を中心に浄財をもとにした「徳本名号碑」がのこされた。

琵琶湖畔彦根にある簡素な浄土宗の寺、宗安寺山門脇の「徳本行者名号碑」
彦根市本町2丁目3-7に宗安寺はある。この通称赤門とされる「山門」は
石田三成の居城、佐和山城の表門を移築したものとされる。

長崎大光寺墓地にある内田家塋域にある六字名号「南無阿弥陀仏」が刻された墓標
徳本名号碑をみたあと、改めて長崎の墓標をみた。やはり特異な もんじ である。

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

[参考:花筏 朗文堂好日録-028 がんばれ! ひこにゃん !! 彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種

《 内 の金文 内 の角字 》

ここで保留にしていた内田家塋域入口の石塀と、「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の戒名をもつ墓標の献花台・燭台にみる奇妙な「記号」に戻りたい。

『書体大百科字典』(長坂一雄、雄山閣出版、平成8年4月 pp 108)
本書「内」の三段目「51. 西周金文」の標本「内」にきわめてよく似ている。

長崎異国情緒というと、近年はオランダ出島観光を中心にかたられることが多いが、江戸期長崎はまた、中国福建省出身者を中心とする「唐人屋敷」があり、清国との貿易も盛んであった。したがってこんにちでも長崎では、春節 ── 旧正月の祝いが「ランタンフェスティバル」とされて、盛大に催されている。また大光寺は隣接して唐寺とも呼ばれている崇福寺があり、漢学・儒学・字学の素養にたけた人材がいたことは忘れられがちである。
[関連:活版アラカルト 【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の墓標では、『書体大百科字典』にみる「金文-きんぶん- 内」を実に精妙に図形化して献花台・燭台・石塀などに刻されている。この墓の建立者・被葬者は明確でないが、おそらく内田九一の両親の墓とみて良いとおもわれる。建立者も未詳だが、成人になった折りの内田九一による可能性があり、そうすると「字」では無く、瀟洒な「文 ≒ 紋に見立てた「金文 内」の使用も首肯できる。

【 参考:金文 きんぶん 周 しゅう Zhōu 
中国古代の王朝名、またこの王朝が存立した時代・文化の名にも使用する。紀元前1050?-前256年。司馬遷『史記』によると、尭帝の農官であった后稷-こうしよく-が始祖とされる。后稷の15世のちの子孫の武王が、前1050年ころ商と自称していた国家、商王帝辛を牧野(河南省淇県)で破り、ここに商を倒して殷とし、帝辛を紂王(蔑称)として、あらたな王朝「周」を鎬京-こうけい-(陝西省西安近郊)に創設した。
この王朝は前771年に一度滅び、前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され、前256年第37代赧王-たんおう-のとき戦国七雄のひとつ秦によって完全に滅ぼされた。
そのため前771年を界として、それ以前は都が西の西安西郊にあったので西周時代、以後は都が東にうつったので東周時代(春秋戦国時代ともいう)とよぶ。近年の研究では周も商と同様にふるくから甲骨文-こうこつぶん-をもちい、金文(きんぶん-青銅器などにのこされたもんじ)をのこしている。周が王朝としての実力を保持していたのはおもに西周時代である。

ちなみに戒名にみる「嵒」は「嵒 U+5D52  字音:ガン・ゲン 意読:いわお・いわ」で、同音同義の異体字「嵓」をもつ。「解字」では「会意 口印三つでゴロゴロした石+山」で、山中にころがる岩石をあらわす。
[参考:活版アラカルト【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

最後に「内田九一奥城」は本名(俗名)だけがしるされた簡素なものだが、仔細にみると台座と水盤に「◯ 内」ともみられる同一の紋様がみられる。前述の半円形の金文「内」とは異なり、軽やかさが無く重厚である。

『伊呂波引定紋大全』(盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地]明治30年頃 雅春文庫蔵)
「伊呂波寄名頭字儘 ── 此の字尽くしの中に出がたき時は、ヘンあるいはツクリに依って作るべし」[釈読:この字種見本に無い字のときは、偏と旁によって作字すべし]

いわゆる文様帳『伊呂波引定紋大全  いろは-びき-じょうもん-たいぜん』を紹介した。こ のような書物は、かつて「紺屋 コウヤ、染め屋」 などと呼ばれていた 「染色士」にむけて、おもに家紋のほとんどを詳細に紹介していたために、俗に 「定紋帳・紋帳・家紋帳」などとされていた実用書であった。

その一部には 「技芸家 ・ 工芸家」 に向けた 「文字の構成と書法」が説かれたいた。類書としては印判士に向けたより豊富な字種と書体による実用書もあるが、こうした書物は文字の紹介書として、魅力と示唆に富む好著が多い。
同書「う」の項目に「内」はなかったが、『伊呂波引定紋大全』などの実用書によれば、10×10の格子目にあわせて、左右対称形の「内」は容易に描くことができる。これは「 内 の角字-かくじ」に丸を冠したもので、ほかにも類例がありそうな「家紋・紋様」であろう。

[関連:花筏 タイポグラフィ あのねのね 002|タイポグラフィ あのねのね 002|【角字 かく-じ】 10×10の格子で構成された工芸のもんじ

────────────────
長崎にあまりにも内田九一の資料がすくないので、ついムキになって資料漁りをした。本稿はまだ松本良順(維新後は松本順)、吉雄圭斎に関しては保留したままになっている。
ここまでの間、岩永正人(本木昌造顕彰会前会長)、宮田和夫(日本二十六聖人記念館)、春田ゆかり、日吉洋人各氏の支援をいただいた。特にしるして謝意を表したい。[この項つづく]

【符号 ≢ もんじ】本木良永|長音符号(音引き)を、漢の字「引」の旁 ツクリ からとって「ー」と制定|『太陽窮理了解説』和解 ワゲ草稿

『太陽窮理了解説』和解 ワゲ草稿 ── 本木良永
長音符号(音引き)を、漢の字「引」の旁 ツクリ からとって、「ー」と制定した

【本木良永 もとぎよしなが 1735-1794】
江戸中期の蘭学者。通称栄之進、のち仁太夫-にだゆう、あざなは士清、蘭皐-らんこう-と号した。長崎の医師:西 松仙-にし しょうせん-の次子として生まれる。伯父本木良固-りょうこ-の嗣子-しし-となり、本木家第三代の通詞となる。オランダ商館長の江戸参府にも随行した。

わが国にはじめて「地動説」を『天地二球用法』(1662年刊のオランダのブラウ Willem J. Blaeu(1571-1638)の著書の抄訳本)から訳出して1774年(安永3)に紹介した。
さらに1791年(寛政3)、長崎奉行の命を受けて、『星術本原太陽窮理了解新制天地二球用法記』7巻325章附録1巻(イギリスのアダムスGeorge Adams(?-1773)の1769年刊のものの蘭訳本が原著とされる)を1793年に訳了、幕府天文方に献上した。
これらの書物は公刊されなかったが、当時長崎に留学してきた蘭学者らによって広まり、とくに司馬江漢-しばこうかん-の『刻白爾-コッペル-天文図解』(1808年刊)などは有名である。ニュートン力学を紹介した志筑忠雄-しづき ただお-は彼の弟子である。
[参考:『日本大百科全書』小学館、『日本人名大辞典』(講談社)]

本木良永肖像 肩衣と羽織に本木家歴代の正紋「本」を図形化したものがみられる
『医家先哲肖像集』(藤浪剛一、刀江書院、1936年)国会図書館デジタルコレクションゟ
長崎大光寺にある本木家塋域:本木良永墓標 燭台に家紋「本」をみることができる
『太陽究理了解説 和解草稿』第二巻冒頭  凡例に相当するページ
(「本木家文書」長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 稿者立ち会い)

算数文字別形
1  一  2   二    3  三   4   四  5  五   6  六  7   七   8   八   9  九  0  十
一 オランダ語の音声をあらわすとき、日本のカタ仮名文字を用いる。
濁音[ガギグゲゴなど]には、カタ仮名の傍らに〝 のようなふたつの点を加える。
その余の異なる音声[半濁音、パピプペポ]には、やはりカタ仮名の傍らにこのように ° 小圏[小丸]をしるす。
また促呼する音声[促音]には、ツノ字[角書きツノ-ガキのこと・菓子や書物の題名などの上に複数行にわけて副次的に書く文字]を接し、
長く引く音には、引の字のツクリを取りて『ー』のごとくしるす。
かつカタ仮名の[以下数文字判読不能)新字を為し、このように記し、かつカタ仮名の傍らにこのような字をつけてしるしても、まだオランダ語の語音をあらわしがたい。
そこで唐通事[中国語の通訳]石崎次郎左衛門に唐音をまなんで、オランダ文字と漢字[当て字]をあわせてしるすなり。

いずれにしても、本木良永訳『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊には、今回紹介したようなおどろくべき事実がしるされている。もちろんこうしたあたらしい表記方法は、個人の創意工夫だけによるものではなく、同時発生的に、各地、各個人も実施していた可能性は否定できない。
またここではあくまで印刷術研究の一環としてふれたものであり、記号論・音声学・音韻学的な分析までは及ばないことをお断りしたい。だからこそ『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開が待たれるいまなのである。

[関連:花筏 タイポグラフィあのねのね*005 長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』
[参考:国立天文台 暦計算室 貴重資料展示室 江戸時代後期書物に見る「宇宙のはて」

【かきしるす】国立公文書館 ── 館名と「新元号 平成」を書したひとはたれか

国立公文書館 ── 館名と「新元号 平成」を書したひとはたれか

新元号〝 平  成 〟を発表する小渕恵三官房長官(当時)

【 平 成 】
昭和64年(1989)1月7日、昭和天皇の崩御に伴って、政府は新元号を「平成」と制定。

1月8日午前0時から平成元年がはじまった。
政府によって発表された首相談話では、「平成」の出典として、『史記』五帝本紀の「内平外成ー内平かに外成る」、『書経-偽古文尚書』大禹謨の「地平天成-地平かに天成る」が示され、「『平成』には国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味が込められている」とされた。

国立公文書館 ニュース
Vol . 17  3月-5月  
A 4 判 8ページ 中綴じ フルカラー 表紙四ゟ紹介

左)元総理府辞令専門官:河東純一氏  右)元内閣官房長官秘書官:石附  弘氏

平成への改元に際しては、ときの小渕官房長官が、額入りの書「平成」をかかげて国民に新元号を披露しました。
披露にあたって額入りとするアイデアは、元内閣官房長官秘書官:石附  弘氏とされます。
この「平成」の揮毫者と、国立公文書館 館名の書藝者は同一人物で、元総理府辞令専門官:河東純一氏(1946-)によりました。
[参考:人事院総裁賞 第18回(平成17年)「人事院総裁賞」個人部門受賞者]加藤純一氏

昭和から平成の改元とはことなり、今回は生前退位によりますから、すでに新元号発表の準備はなされているはずです。それでもこうした裏方ともいえるひとの貢献が公開されるのには時間が必要なようです。

【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

紫禁城-故宮博物院を北側の神武門の裏山、景山山頂からみる

景山は中国の首都・北京のほぼ中央、紫禁城の北の一郭を占める景勝地。標高43メートルの人工の丘であるが、かなり急峻な坂道をのぼる。
金代(前金)に離宮を造営した際、現在の北海を掘った土を堆積してつくられた。
元代には宮廷の庭園とされ、明の永楽年間に紫禁城を囲む筒子河-とうしが-をさらって五つの峰をつくり、清朝(後金)乾隆帝がその峰の上に万春亭をはじめ、壽皇-じゅこう-殿、観徳-かんとく-殿などの山亭や宮殿、花園を設けた。

紫禁城にはさらに周囲をおおきくかこむ堅固な外壁があったが、現在では楼閣の一部を除いて撤去されて幹線道路となっている。この外壁の内側(旧内城地区。旧市街)では景観保存のために、紫禁城の正殿、外朝の「大和殿」より高い建造物は禁止されており、上掲写真では靄っているが、高層ビル群の建築はかなり遠方の旧外城地区(新市街)でなされている。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

上掲写真とは異なり、南側から紫禁城を概観した。よく知られる天安門・端門はこの図版よりもっと南(下側)に位置する。
紫禁城は中国、明・清(後金)時代の北京の宮城であった。紫禁とは、天帝の宮城とみなされていた星座の紫微垣-しびえん-からでた語で、皇帝の居所を意味する。

はじめ明の永楽帝-えいらくてい-が国都を南京から北京に移すのに際し、元の大都の宮城址付近を利用して造営し、十数年を費やして1420年に完成した。
その後、明・清時代を通じて宮殿や門はたびたび改築修補され、それらの名称も変更されている。現在の建物は、ほとんどが明代の様式をおおむね継承して、清(後金)時代に建てられたものである。

紫禁城は北京の旧内城の中央南部寄りに位置する、東西約750メートル、南北約960メートルの城壁に囲まれた約72万平方メートルの区画で、その外側に濠(筒子河-とうしが)を巡らしている。
城壁の四周にそれぞれ一門があり、南から天安門・端門を経ていたる午門-ごもん-が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼-かくろう-がある。
現在は混雑防止の見地から、南の午門から入場し、北の神武門から退場する一方通行とされていて逆行はできない。また東華門、西華門は関係者のみが使用している。

城内は南と北の二区画に大別され、南は公的な場所の「外朝」で、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並び、その東西に文華殿、武英殿などの殿閣が配置されている。なかでも中和殿、保和殿とともに、三層の白色大理石の基壇上に建つ太和殿は、東西約60メートル、南北約33メートルの堂々たる建物で、紫禁城の正殿として重要な儀式に使用された。

外朝の北は皇帝の私的生活の場所の「内廷」で、保和殿の北の乾清-けんせい-門から、乾清宮、交泰殿、坤寧-こんねい-宮などが中軸線上に一列に並び、その左右に后妃らが住んだ東西の六宮をはじめ多くの建物がある。
皇帝の日常の起居はもっぱら内廷の「養心殿」でなされ、その南西の隅には、しばしば温室とあらわされる「三希堂」があり、皇帝の学問所であった。内廷と外朝を連結するのは、外朝の北端で、養心殿と隣接する「軍機処」でほとんどがなされた。

このように紫禁城には大小無数の建物と、紅殻色の牆壁-しょうへき-や門が整然と配置され、黄瑠璃瓦-こうるりがわら-や朱塗りの柱とあいまって集団美をなしている。
そしてこの豪華な大宮殿は、明・清時代の皇帝権力の強大さをよく表すものである。1925年以来、故宮博物院として一般に公開され、中国文化財の一大殿堂となっている。
────────────────
中国での改革開放政策が滲透し、またわが国からは中国へビザ無し渡航ができるようになったこともあり、多くの友人・知人が訪中するようになった。ところが造形者の一部のかたが訪中して、

「長年の念願だった武英殿をぜひともみたい」
とされて、紫禁城-故宮博物院を訪問したところ、門(武英門)とその扉が固く閉ざされ、武英殿の写真は一枚も撮れなかったと嘆かれるかたが増えてきた。

武英殿は午門を入ってすぐ左側にあるが、地図では見えない障壁が幾重にも通路に立ちはだかる。かくいう稿者も1970年代の末からこの門扉の前に空しく五度ほど立った。
その折り、なんとかのぞくだけでもと思ったが、名刺一枚も挟めぬ(悔しいが実際にやった)ほど固く閉ざされた門扉に撃退された。
その扉がようやく開いたのは、長年にわたった武英殿の改修がなって、しかも北京オリンピックが終わってから暫くしてからのことである。

現在の武英殿の本殿は「書画館」と名づけられて美術館・博物館として利用されているが、一度の会期が半年から一年と長く、次回展までの間の閉鎖が数か月に及ぶことも珍しくない。したがって上掲の造形者は、休館中に訪問されたことになり、運が悪かったとしかいいようがない。
のちに知ることになったが、人口一億二千万ほどのわが国では、国立博物館などでも三ヶ月ほどの会期が設定されている。ところが人口十四億余の中国では、

「一部の民衆に展観していただくだけでも、最低半年、ほとんど一年間の会期設定が必要です。それに紫禁城内外の各所に埋もれている展示品を整理し、清拭し、修理・修繕し、資料整備などを考慮すると、次回展の準備にも数ヶ月の時間が必要です」
とのことであった。

修理と蔵書の再収集が続く 皇帝図書館の文華殿・文淵閣

武英殿と中心軸をはさんで正対する御殿が文華殿である。ここは中華皇帝が臨席する図書館(閲覧室)であり、その背後にある文淵閣は宮廷の蔵書蔵である。既述のように紫禁城の屋根は黄瑠璃瓦であるが、文華門・文華殿・文淵閣などの一画だけは、図書の保護のためとされる深い緑色の瓦が葺かれている。

武英殿は長年の修理ののちようやく公開されたが、文華殿一円はおおきくフェンスで囲われ、いまだに非公開の一画となっている。2013年の訪中の折り、紫禁城図書館のご好意でこの宮殿にはいることができた。
文華殿は皇帝の臨席に備えた豪勢なつくりで、建物の各所に図書にまつわる絵画や彫刻がほどこされていた。その背後の文淵閣にはいったときに、おもわず息を呑んだ。文淵閣にあったはずの『四庫全書』をはじめとする万巻の図書はまったくなく、そこには広大な空間だけが拡がっていた。
「ここの蔵書は、すべて台湾に持ちさられました」

続きを読む

【もん】先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え

Notes on Typography  2019年02月01日
【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺と崇福寺墓地のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
この石の門には、どんな 文、はたまた 字 がつづられ、どんな 意味 があるのでしょう?
────────────────

長崎の墓所入口にある甲骨文について判読してみました。
甲骨文は異体(字)が多く確定はできませんが、次のように判読しました。
向かって右側の門柱は、「 先  祠  中 」
向かって左側の門柱は、「 思  父  祖 」
その意味するところは、
「祖先の墓所の中では、父祖のことを思え」
と解釈しました。頭の体操をさせて頂きました。[古谷 昌二]

☆    ☆    ☆    ☆

2019年02月01日、上掲写真を紹介すると共に、その読みと意味を何人かに質問した。早速回答をいただいたのは古谷昌二さんで上部に紹介した。
その間「石の門柱」ではいかにも座りがわるいので、知り合いの石材店に呼称をうかがった。ふつうは単に「門・石門」などと呼んでいるが、「石闕-せっけつ」と呼ぶことがあるとの回答をいただいた。

この「石闕」は長崎大光寺の墓地中腹にあるが、すぐ隣接して長崎「三福寺」のひとつ、唐寺として名高い「崇福寺-そうふくじ」の墓地とも正対している。すなわち唐文化からの影響もおおきいとみられた。そこで大光寺と崇福寺の両寺の歴史をみてみた。

大光寺は浄土真宗本願寺派の寺。慶長一九-1614年僧慶了が創建、万治三-1660年現在地の鍛冶屋町にうつり、一度も火災に合わなかったが、堂宇の一部は大正二-1913年に新しく建てなおされている。墓地には本木家歴代墓、西郷四郎墓、内田九一供養塔などがある。

崇福寺-そうふくじ」は、長崎市にある黄檗禅宗の寺院。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。
寛永六-1629年、長崎で貿易をおこなっていた中国福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や唐寺と称せられた。

第四代住持 隠元隆琦 は、のちに徳川家の庇護をうけて宇治に黄檗山萬福寺を創建し、仏教百科事典ともいうべき萬暦版一切経『嘉興蔵』(下掲図版左)をもたらした。
その萬暦版一切経をもとに、山内の宝蔵院住持:鉄眼禅師が覆刻(かぶせ彫り)したのが「鉄眼一切経」(下掲図版右)で国の重要文化財となっているが …… 。

【闕-けつ 石闕-せっけつ】

闕は古代中国の宮殿、祠廟、陵墓などの門前の両脇に張り出して左右対称に設けられた望楼。中間が闕然として何もないことから、その名がある。闕の名称は西周時代の文献にすでに見える。一般に高い基壇の上に楼閣を立てたが、のちには石造でそのかたちをかたどったものもつくられた。
実物としては高頤闕-こういけつ-などの漢代の石造墓闕や、画像石に描かれたもの、壁画墓の墓道両脇に描かれたもののほか、北京故宮(紫禁城)の午門がこの形式になる。

石闕は本来木造であった闕を石でまねてつくった石造物で、大型墓の神道(神道碑-しんどうひ)や、祠廟の入口を飾った。石闕は必ずしも古代の木造の闕を忠実に模倣したものでなく、かなり簡略化したり誇張されており、個々によってかなり異なった形態をとる。
[参考:『世界大百科事典』平凡社]

【もんじ】花のことのは-誠実・控えめ|字であらわすと厄介なスミレ

【菫 解字】ウエブサイトでは表示できない「槿-キン・むくげ、僅少-キンショウ」の旁、「キン」を含むので、以下「僅」を代用して説明。
会意・形声。艹と僅を合わせた字。僅-キン-が音をも示す。艹は草の意、僅-キン-は僅と似て、わずかとか、ちいさいの意がある。そこで小さな草、すみれをいう。
面倒ではあるが「菫」と、「槿・僅」の旁は別字である。

《春は名のみの …… 寒い毎日がつづきます》
吾が空中庭園では、ここのところ寒風をものともせずスミレがひっそりと開花している。
ここは南面しているので、晴天なら陽だまりになるが、この頃の曇天のなかではさすがに寒そうである。
本格的な春の到来を待ちわびる日々がつづく。

【 スミレ 菫 菫菜-キンサイ 】
春、道ばたや森の中で深い紫の花を咲かせる。自生している場所や、その色から奥ゆかしい花とされ、「花のことのは」は、「誠実」「ひかえめ」。
歳時記では卯月-四月の花とされている。

日本では多くの種類のスミレが自生しているので香りは種類によって異なる。スミレを特定の種の和名として用いるほか、スミレ属各種を総称することも多い。
スミレの名は、下弁の形が、大工が使用する墨壺に似ているからつけられたもので、墨入れの略とされる。漢の字「菫-キン」を与えて「菫-すみれ」とするのは俗用(意読)で、中国では「菫菜-キンサイ」と書かれることが多い。
英語では「violet バイオレット」と書くが、サンシキスミレ( V. tricolor L. ビオラ・トリコロル)系のものは、主として園芸品種の系統を「pansy-パンジー」、また主として野生種のものを「heartsease-ハートシーズ」とよんで区別する。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

【国立公文書館】企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」|一筆啓上仕候 …… 私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札|面倒なものです

私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札
一筆啓上仕候 ……

わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ
いっぴつけいじょうつかまつりそうろう ……..

上野国伊勢崎藩の前藩主酒井忠恒(寸升)は、元治元年(1864)に幕府へ湯治願を提出しました。本資料は、酒井寸升が幕府老中宛に差し出した湯治願が許可されたことに対する御礼の書状です。

{新宿餘談}
国立公文書館本館で、平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」が開催されている。展示資料のなかに上掲「私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札-わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ」があった。
本資料は、伊勢崎藩[前橋藩の支藩。維新時には二万石]の前藩主:酒井忠恒(寸升)が、幕府閣老・老中に湯治願を提出し、255年ほど前の元治元年(1864)にその湯治願が許可されたことに対する御礼の書状と解説されていた。

本文は文語、いわゆる候文で、仮名の使用はみられない。文末に署名し、さらに花押(かおう-署名の下に書く判、書き判ともいう。草書で書いた名をさらに様式化したもの)があり、その上部にちいさく忠恒としるしてある。さらに老中の姓と官職名を列記する大仰さであった。

隠居した大名でも、江戸・任地を離れる際にはこんな願い書を出し、許可が出れば礼状をしたため、戻れば報告するのが決まりであったようである。
町人も旅に出るのにはしかるべき町方の許可を得て、旅手形が発行され、それがない者は各地に設けられた関所を通過できず、宿にも泊まれなかったとされる。
明治維新後、大名は藩知事などの変遷を経て華族となったが、民衆の移動の自由が保障されたのは明治憲法の発布を待ってからのことになる。温泉にいくのにも容易ではなかったことがわかる。

国立公文書館
平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」
会  期  平成31年1月26日[土]-3月9日[土]
開館日時  毎週月曜日-土曜日 午前9時15分-午後00分
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
      千代田区北の丸公園3-2 1階展示場
入  場  料  無  料
────────────────
日本人が古くから親しんできた温泉。江戸時代には、名所図会、紀行文などを通して情報が広く流布し、多くの人々が温泉地に訪れました。本展示では、江戸時代の資料を中心に、人々と温泉の関わりをご紹介します。

【 詳細: 国立公文書館 】 {関連:活版アラカルト

【 伊勢崎藩-いせさきはん 】
続きを読む

【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺うしろ山(風頭山-かざがしらやま)の大光寺と崇福寺墓地の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
どんな文、はたまた、どんな字がつづられ、どんな意味があるのでしょう?

続きを読む

【もん】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

Itimatu_moyou

「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた
江戸中期の歌舞伎役者・佐 野 川  市 松-さのがわ いちまつ

日本の紋様〔紋のありさま〕の定番であり、着物や帯だけでなく、千代紙や小物などあらゆるところで目にするものに「市松紋様」がある。おなじみのこの市松紋様、実はさほどふるいものではなく、ひとりの歌舞伎俳優と深い関係があった。

色違いの正方形を、碁盤の目のように組み合わせた紋様が生まれたのは、古墳時代の埴輪の服装や、法隆寺・正倉院の染織品にも見られ、古代より織紋様として存在していた。また公家や武家の礼式・典故・官職などに関する古来のきまり『有職故実-ゆうそくこじつ』では、こうした格子紋様は「石畳・霰-あられ」などと呼ばれ、おもに着物の地紋(織り柄)として使われていたことがわかる。

これが歌舞伎の舞台で鮮やかに観客の前に出現し、一気に注目されることとなったのは、寛保年間(江戸中期 1741-44)のことである。当時の歌舞伎役者が身にまとう紋様は、その役者の感覚や心意気を人〻に伝えるツールであった。
江戸の中村座で、ある俳優が「心中万年草-高野山心中」の小姓・粂之助-くめのすけ-に扮した際、白と紺の正方形を交互に配した袴をはいて登場したことからおおいに人気を博した。折しも庶民が紋様を施した着物を楽しむようになった時代でもあり、霰の紋様をあしらった鮮やかな袴は観る人〻の目に衝撃とともに焼きついた。

この衣装を身につけて登場した俳優の名こそ「初代 佐野川市松」であった。ここであまり紹介されてこなかった「初代 佐野川市松」をみてみたい。

佐野川市松(初代 さのがわ-いちまつ 1722-1762)
江戸時代中期の歌舞伎役者。享保7年生まれ。佐野川万菊の門人。若衆方、若女方をかね、荒事にもすぐれた。宝暦12年11月12日死去。41歳。山城(京都府)出身。俳名は盛府。屋号は新万屋・芳屋。

佐野川市松はその後もこの紋様を愛用して、また浮世絵絵士:奥村正信・鳥居清重(1751-77ころ活動 生没年不詳)・石川豊信(1711-85)などがその姿を好んで描いたことから、着物の柄として流行をみた。
市松の愛用したこの紋様は、当初はふるくからの慣わしにしたがって「石畳」と称されたが、のちに「市松紋様」「市松格子」「元禄紋様」などと呼ばれるようになった。
ひとりの歌舞伎役者の美意識によって、古来の呼称「石畳・霰」が、「市松紋様」という名に置きかわったのである。この「佐野川市松」の伝承によって、当時のインパクトがどれほどのものだったのかを偲ぶことができる。

Tokyo_2020_Olympics_logo.svg2020年 夏期オリンピック エンブレム

さらに佐野川市松の時代から175年ほどのち、2020年夏季オリンピック・パラリンピックのエンブレムが若干の紆余曲折をへて決定した。デザインは野老朝雄(ところ-あさお 1969-)で、このデザインは「組市松紋」だと自ら発表している。歌舞伎役者「佐野川市松」好みの紋様が、世界のアスリートが結集する舞台に「組市松紋」として再登場したことになる。

〔参考資料〕
WebSite 歌舞伎美人-かぶきびと-歌舞伎いろは「装い」
WebSite 市松模様 ウィキペディア
「市松模様」『国史大辞典』(吉川弘文館)/「市松模様」『日本史大事典』(平凡社)
「佐野川市松(初代)」『日本人名大辞典』(講談社)

【もんじ】京都四條南座|南座発祥四百年・南座新開場記念|京の年中行事 當る亥歳 吉例顔見世興行|東西合同大歌舞伎|まねき書き

bn_2歌舞伎公式総合サイト ── 歌舞伎美人-かぶきびと
ニュース 10月12日号ゟ


南座新開場に向け準備万端、「まねき書き」

2018年10月11日[木]、京都南座「當る亥歳 吉例顔見世興行」で、劇場正面に掲げられるまねき看板を書く「まねき書き」*01 がおこなわれました。
耐震補強工事を終えて、新開場の南座に初めて上がるまねき看板が、まねき書きを引き継いで5年目の 井上 優 さんによって書き上げられました。今年は顔見世興行が11月と12月の2ヶ月にわたっておこなわれますが、今回書かれたのは11月のまねきです。

耐震補強工事中、昨年は顔見世興行の会場が移されたのに伴い、まねき看板も顔見世興行の会場となった「ロームシアター京都」に上げられました。2年ぶりに南座に上がる「役者まねき」は約40枚で、襲名する松本白鸚のまねきが南座に上がるのは初めてです。
このほか、「當る亥歳 吉例顔見世興行」と書く「興行まねき」、「邦楽連中まねき」や、入口に置かれる「口上まねき」の合計53枚が用意されます。

南座新開場に向け準備万端 ──「まねき書き」
伝統にならい、大入りを願って隙間の少ない勘亭流の文字を書く井上 優さん

大入りと興行の成功を祈って揮毫したという井上さんが、
「2年ぶりに南座に上がるまねきですので、華やかになればと思って書きました」
と語るのを聞くと、その思いのこもった一字一字が、いっそう輝いて見えました。
例年どおり京都市内の妙傳寺でのまねき書きでしたが、11月の顔見世興行に合わせ、いつもよりひと月早いため、
「暑かったので、墨のにかわが早く乾いてしまうんじゃないかと心配だった」
と明かした井上さん。しかし、それも杞憂となる出来栄えで、ひと安心と笑顔を見せました。

画数の多い松本白鸚の「鸚」も、井上さんの手にかかれば、ほかと変わらぬ堂々とした仕上がりで、看板を見上げるのが今から楽しみです。まねき看板の大きさは、これまでと同じ長さ1間(約1.8メートル)、幅1尺(約30.3センチメートル)、厚さ1寸(約3センチメートル)で、書き上げられたまねきの上部につける庵形-いおりがた-も同じ。*01
南座の伝統行事がこうして新しい南座へと受け継がれ、今月の25日[木]には南座の正面に「まねき上げ」が行われて、初日を待つばかりとなります。
南座の新開場は、「南座発祥四百年 南座新開場記念 京の年中行事 當る亥歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」が初日を迎える11月1日[木]。公演は11月25日[日]までで、チケットは、チケット Web 松竹、チケット Web 松竹スマートフォンサイト、チケットホン松竹で発売予定です。2018年10月12日
────────────────
【まねき看板】*01
京都市にある劇場、南座で、毎年年末に行なわれる「吉例顔見世興行」の際、劇場正面に掲げられる役者の名をいれた看板。縦1.8m、横30cmほどの大きさのヒノキ板でできた看板。上部には庵形(いおりがた)がついており、文字は「勘亭流」*03 という江戸時代から伝わる書体で書かれる。単に「まねき」ともいう。

【まねき上げ】*02
京都市にある劇場、南座で毎年年末に行なわれる歌舞伎の顔見世興行の際に、出演する役者の名を入れたまねき看板を劇場正面に掲げる行事。京都の冬の風物詩として知られる。

【勘亭流-かんていりゅう】*03
歌舞伎の看板、絵本番付(プログラム)などに用いる独特の書体。筆太で、隙間なく、内へ丸く曲げるように書く。寄席、相撲などで使う書体とは違う。内へ丸く曲げるのは、観客が入るという縁起をかついだものである。
安永八(1779)年、江戸堺町の書道指南岡崎屋勘六(1746-1805)が中村座のために創始したのがはじまり。勘六は号を勘亭といい、そこから勘亭流という書芸の流派がうまれた。

京都四条南座「當る亥歳 吉例顔見世興行」襲名披露特別ポスター『勧進帳』

 耐震工事を中心にしばらく大幅改修工事が進行していた京都四條南座が
2018年11月 愈〻オープン ── 新会場記念公演を迎えます。

【 YouTube 松竹チャンネル / SHOCHIKUch  南座新開場ご紹介 音が出ます 5:57 】
平成30年11月、いよいよ南座が新開場いたします。400年の歴史を新たな時代へ


【 詳細: 歌舞伎美人-かぶきびと 】