もんじ」カテゴリーアーカイブ

【もんじ】そこにも徳本・ここにも徳本|徳本行者六字名号碑|広島県福山市から発見報告

昨年から職場も住居も岡山に移転して、子育てに専念しているマッチャンこと松尾さんです。
順調に第二子も誕生して元気なようですが、アレですアレ、あの ── どこか飄逸な『徳本行者名号碑-南無阿弥陀仏』をみると心が騒ぐようです。
今回は稿者にとっては最西端の地、広島県からの『徳本行者名号碑』発見報告です。
[松尾さんからのお便り]
先週の日曜日(2019年04月07日)に、子どもの寝かしつけもかねて
広島県の鞆の浦までドライブに出かけました。

なんの下調べもなく出かけたのですが、鞆の浦グリーンラインという道路の路肩の
展望ポイントで、久しぶりにあの字 ── 徳本行者名号碑 ── に出会いました。
碑は 鞆の浦 (広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域)に
向かって建っています。背後は尾道方面。
じつに見晴らしのよいところに建っていました。

『徳本行者名号碑』
碑正 面  徳本行者六字名号 南無阿弥陀仏
碑右側面  文政十一戌子年五月建立〔1828年〕
碑左側面  発願主藤江村 岡本内松兵衛

[ 参考: NOTES ON TYPOGRAPHY  【もんじ かきしるす】明治の写真士:内田九一| 医学伝習所・幕府医学所頭取:松本良順|牛痘接種法の普及者:吉雄圭斎と八丈島漂着を共にした本木昌造・平野富二|開港地長崎が〝えにし〟となった紐帯|其の壹

《徳本行者》
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【ことのは/もんじ】新元号・令和|なにかと煩瑣なことが多くて……|まぁそのうち馴れるでしょうが

使いますか ? 「元号合字」  ㍾ ㍽  ㍼  ㍻  . .

《 令和 …… 「U+32FF」が既に予約  ヤレヤレ 疲れます 》

2019年05月から使用される元号が「令和」に決まった。発表はエイプリル・フールの四月一日、なにかと想像力が欠如していると感じたが、あまり関心はなかった。こんなことで騒ぐより、もっと肝心なテーマはあるはずだ …… 。
ようやくオンボロパソコンに「令和」を単語登録。その際、無意識にかな変換の「読み」に「りょうわ」としてやりなおし、再登録。「へいせい」のときもそうだったが、この歳になると「れいわ」に馴れるのには時間がかかりそうだ。上掲図版は Windows – OS7、変換ソフトは ATOK の文字パレットである。

ところが、発表以来、印刷業者を中心に「新元号 令和」の活字書体とその字画処理(字体)に関して、悲鳴にも似た@メールや、電話をいただいている。それには誠意をもって対応させていただいている。
また個人的には「令和」、とりわけわが国の一部の活字書体「令」における字体と字画処理の混迷に意見はあるが、「字形」などという意味領域のあいまいなことばが流布した現在、「令」だけで済むわけもなく、基本的にノーコメントとさせていただいている。

金属活字の時代は、活字製造業者が多く、競争が熾烈で、「合字」「連結活字 logotype」と称して、全角の枠の中に明治・大正・昭和などの元号を合わせて鋳込んだ活字を製造販売していた。
それは写植活字にも継承されて、明朝体、まれにゴシック体などの基本書体の「記号」として扱われ、官公庁の文書需要を中心にもちいられた。ただしこれらの時代の「元号合字」は、ほとんどの筆書系活字や、装飾系活字に及ぶものではなかった。

現在の電子活字は、当初は様〻な文字集合コードが存在したが、現在は Unicode(ユニコード)に集約されつつあるようだ。ユニコードは、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの業界規格である。文字集合(文字セット)が単一の大規模文字セットであること- Uni という名はそれに由来する-などが特徴である。

パソコンという軽便なツールが開発され、書体製作ソフトウェアが低廉化・普及して、電子活字は急速に、膨大な書体数と、そのファミリー、ウェイトの拡大、キャラクター数の増大をみるようになった。
そしていつのまにか筆書系活字や、装飾系活字といったジャンルの書体も、同業他社との横並び意識がめだって、キャラクター数の多寡を問われ、良き抑制が効かない時代になっている。
こんな時代 ── 換言すると、およそ官公庁での文書処理での使用が予測されないディスプレー書体(装飾系書体)の、ウルトラボールド/極太書体にまで「元号合字」をつくらなければならなくなった時代 ── 友人知人の書体製作者がかわいそうになる事態である。

しかも上掲図のユニコード「U+32FF」の文字パレットをみると、予約された場所は「◯入りカタ仮名 ㋻ ㋼ ㋽ ㋾」と「合字 ㌀ ㌁ ㌂ アパート・アルファ・アンペアなど」との間(隙間・空き地)であり、やはり もんじ(文字)というより記号の部であることがわかる。
ATOK ではより明瞭で、これらは「単位記号」として、「℃・%・$」などとおなじ場所に配置している。

株式会社モトヤは、金属・写植・電子活字の三世代を生きぬいてきた優良企業である。そこからのメールニュースを紹介したい。
すでにユニコ-ドには上掲図に青で表示した「U+32FF」という領域(陣地)が「令和」のために確保されている。多くの友人・知人は、その予約された領域を埋める作業に追われることになる。
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株式会社モトヤ

モトショップ メールニュース 20190402
弊社書体の新元号「令和」への対応について

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【もんじ かきしるす】明治の写真士:内田九一| 医学伝習所・幕府医学所頭取:松本良順|牛痘接種法の普及者:吉雄圭斎と八丈島漂着を共にした本木昌造・平野富二|開港地長崎が〝えにし〟となった紐帯|其の壹

内田九一奥城 長崎大光寺内田家墓地 吉雄圭斎建立
【もんじ】長崎大光寺上段墓地にある内田家・間淵家墓地と内田九一奥城
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831  長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

【内田九一 うちだ-くいち 1844-1875】
幕末-明治初期の写真家。
弘化元年肥前長崎うまれ。蘭法医:吉雄圭斎の甥。圭斎の妻が九一の従姉であったため、九一が4歳のおり、妹菊とともに吉雄圭斎によって種痘(牛痘)の施術をうけた。13歳のおり父を亡くし、九一は松本良順が、菊は八歳で伯父の吉雄圭斎が引き取って養育した。松本良順(順)と吉雄圭斎に関してはのちに触れる。

明治天皇の束帯姿(明治5年4月、内田九一撮影)
明治天皇肖像写真(明治6年10月、撮影:内田九一 神奈川県立歴史博物館蔵)
明治帝御真影として官公庁・学校などに下賜されたもの(明治21年1月)。
お雇い外国人エドアルド・キヨッソーネが描いたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの。

長崎でポンペに化学を、上野彦馬から写真術をまなぶ。慶応元年大阪に滞在していた松本良順をたずね、大坂で写真館をひらき、のち横浜・東京で開業。明治5年宮内省御用掛として明治天皇の肖像写真を撮影、西国九州巡幸にも写真士として供奉してその名を知られた。
内田九一はその九州巡幸の折とみられるが、父祖のねむる大光寺本堂の写真ものこしている(長崎大学中央図書館蔵)。

ここで大光寺住職夫人に紹介いただいた、同寺所蔵:イタリアにうまれ英国に帰化したベアト(Felice Beato  1825-1903)による「大光寺本堂の前に立つ上野彦馬」(フェリーチェ・ベアト撮影、鶏卵紙、慶応年間ころ 長崎大学中央図書館蔵)の複製写真を紹介する。
おりしも2018年3月-5月「東京都写真美術館 ── 写真発祥地の原風景 長崎」が開催され、長崎歴史文化博物館にも巡回展示されていた。この撮影は同年11月下旬になしたものである。

上掲写真部分拡大:中央で棕櫚の幹に手をかけているのが上野彦馬とされるベアト撮影、上野彦馬とほぼ同じ位置に立った日吉洋人氏。2018年11月

この取材の同行者は、日吉洋人・大石 薫の両名であった。大光寺の複製写真はガラス付きの額に入った写真だったが、蘇鉄-ソテツ-に右手をかけた上野彦馬と同じ場所に立った日吉洋人氏を紹介する。蘇鉄の枝ぶりがかわり、慶応年間には無かった松があるが、百五十年余のこんにちでもほとんど大光寺本堂前の景観に変化がないことに驚いた。

これとほぼ同様のアングルからは、「慶応年間」のベアトに続き、上野彦馬が「明治初期」に撮影し、内田九一も「明治5年ころ」に撮影している。いずれも長崎大学中央図書館蔵であるが、「東京都写真美術館 ── 写真発祥地の原風景 長崎」の市販図録 pp 127-128 に見開きページで紹介されている。

本木昌造肖像 撮影:内田九一 推定明治7年

また小社周辺でもちいている本木昌造のおもな写真は、撮影日時は不明ながら、白髪と眼くぼの落ちこみ具合からみて、本木昌造最後の上京となった明治7年(1874)夏ごろの撮影とみられている。また台紙の記載から内田九一が東京で撮影したものとされている。

この写真はだいぶ前のことになるが、上杉千郷氏(当時:鎮西大社諏訪神社宮司)のご好意で、諏訪神社「文学の杜」で複製撮影をしたもので、簡便なカメラで稿者が撮影したものを、小社スタッフが階調補整したものをもちいている。
額入りで裏面は撮影できなかったが、『贈従五位本木昌造先生略傳』(古賀十二郎、昭和9年5月、印刷図書館・長崎歴史文化博物館蔵)には、いくぶん不鮮明ながら同一原版からとみられる写真とともに、台紙の影印も紹介されている。
羽織の家紋は本木家歴代の「◯ に 本」の家紋 ではなく、草体の仮名「も」に丸をあわせたもので、印刷・活字界で俗に「◯ も」とされる、本木昌造の創作による替え紋のようにみられる。

本木家塋域 大型墓前列右端 本木昌造墓
本木家塋域に数ヶ所みられる「◯ 本」の家紋
本木昌造の墓標には家紋・替え紋ともみられない

正面)故林堂釋永久梧窓善士 最勝院釋全託貞操大姉 右端にちいさく 贈 従 五 位 が追刻
右側面) 諱永久通稱昌造久美之義子也以文政十年甲申六月九日乙亥九月三日病歿千家享年五十二 追刻:明治四十五年二月二十一日宣下
左側面) 天保九年戊戌閏四月十二日生安政五年戌年七月十二日卒行年廿一歳本木久美實女永久妻俗号縫

本木昌造は明治8年春、東京での撮影の翌年関西に出向いたがそこで躰調をくずし、大阪活版製造所:谷口黙次(初代)、京都點林堂:山鹿善兵衛(号:栢年-はくねん)をはじめ、東京から駆けつけた平野富二らの介護をうけて、洛外の「落柿舎」で静養し、ようやく帰崎することができた。しかしその後も病床にあることが多く、明治8年(1875)9月3日に長崎で病没した。享年52。
内田九一は本木昌造の撮影後からまもなく持病の肺病が悪化し、本木昌造に先立って明治8年(1875)2月17日肺結核によって東京で逝去した。享年32。
ふたりはともに肥前長崎出身。長崎大光寺山内、本木家墓地に「本木昌造墓」、内田家墓地に吉雄圭斎建立による供養塔「内田九一奥城」がある。

[参考:『日本人名大辞典』(講談社)]

明治最初期の写真家:内田九一を偲ぶよすがは生誕地長崎ではすくない。わずかに「内田九一奥城」(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑乃至は供養塔をいう)が、長崎寺町のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の傾斜地、大音寺と崇福寺の墓地にはさまれた大光寺墓地にある。
寺の山内ではあるがこの奥城は神式で、戒名や墓誌めいたものはなく、内田家塋域の向かって右端に、「内田九一奥城」とのみきざまれて建立されている。建立者は長崎の蘭法医:吉雄恵斎によった。森重和雄氏の報告によると以下のようにしるされている。

この墓は『フォトタイムス』(昭和8年10月号)掲載の、松尾矗明「写真秘史古老達の話と諸方の記録(三)内田九一寫眞記(四)」によれば、長崎の吉雄圭斎が、内田九一が亡くなったことを悼みこの墓域内に供養墓を建立したものである。
[参考:幕末明治の写真師列伝 第六十一回 内田九一 その二十六 森重和雄

東京で歿した九一の墓は、はじめ東京王子に設けられ、松本順とその遺族が世話をしていたが、のちに妻:おうたが遺骨のはいった骨壺と「内田九一墓誌銅板」とともに大阪に移設したとされる。

内田家塋域は大光寺本堂左手から「登坂」をはじめ、本木家墓地を経てさらに上部、右手に岡部家の広大な墓地の先を左に折れる。
境界の目印が無いから解りづらいが、岡部家の墓地は隣の崇福寺墓地にあたり「元崇福寺末庵廣徳院」の跡とされる。崇福寺は禅宗のひとつ黄檗宗の寺で、唐寺とも呼ばれ中国との関係が深い古刹である。
その角、大光寺側にある「中島家塋域」 石闕の甲骨文の釈読 {先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え}は、古谷昌二氏の協力を得て既に紹介した。

内田家の塋域入口には石塀があり、蔓草がからんでいるが「間淵 内田」と もんじ があり、上部に半円形の「図形」乃至は もんじ が彫りこまれている。この「図形」はひとまず措いて、もんじからみてみよう。
「間淵」はのちに刻されたもので、大光寺住職夫人によると、現在は間淵家がこの塋域の使用者であるとされる。また内田家縁者が関西方面から毎年訪崎して供養にあたっているという。
塋域中央部に間淵家の墓があり、石灯籠をはさんで右手に二基の石塔、内田家の墓と内田九一奥城がある。間淵家と内田家の関係は不詳である。

また内田家の来歴はつまびらかにしないが、もっともふるいとみられる中央の「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の戒名をもつ墓標に刻された もんじ は興味ふかいものがある。

浄土真宗の寺なので、墓石正面の六字名号「南無阿弥陀仏」はあたりまえだが、二字目が「無 → 无」になっている。これは「无 U+5B83   字音:ム・ブ 意読:ない」であり、易経・乾に「无咎-咎なし」をみる。
したがってここでは「無 → 无」と同音同義の異字に置きかえられたとみられる。これはどこかの墓標か経文で類似のものをみた記憶があったので手許資料を探したが見つからなかった。

最終の「佛」はいわゆる旧字体だが、四字目の「彌 → 弥」は新字体にちかく、よくみると旁の屈曲にみるように、いまも俗字とされる結構になっている。
最大の難関は五字目の「陀」である。阜偏-こざとへん-に、旁・色をあてたような字である。本来「陀」は梵語 ダ を中国音に訳すときに当てられた字で「佛陀 ブッダ」とされた。「解字」によれば「陀 会意兼形声。阜〈こざとへん〉+音符 它 タ ── 長くのびる」の意である。

そこで「它」をみると、「它 U+5B83  字音:タ  tā 意読:へび・ほか」となる。意味は名詞:へび → 蛇 ダ・ジャの原字で「竜它 → 竜蛇」の使用例をみる。
「解字」によれば「象形。毒へびを描いたもの。古代には毒へびが多かったので、{它〈タ〉無キヤ}ときいた。転じて「別状ないか」の意となり、そこから 它 は別のこと、ほかの、などの意となった」とあり、必ずしも吉字とはいえないようである。

したがってここでの六字名号「陀」は、阜偏-こざとへん-はのこして、旁を「般若心経 ── 色即是空・空即是色」、あるいは難読語とされるが「色陀-しこだ」などにより、吉字とみなされた「色」に置きかえたが、やはり憚るところがあったのか、減筆によって一画を減じて書きあらわしたのではないかと解釈した。先行事例ほか、ご意見をたまわれば幸甚である。

餘談になるが…… 、庶民藝能として誕生した歌舞伎は、役者も観客も庶民信仰が篤かった浄土宗・浄土真宗の信徒がおおく、「南無阿弥陀仏」の六字名号を敬し、歌舞伎の演目に六字からなる題名を避けるならわしがある。

また、かつて稿者は東京文京区千石の一行院に 徳本行者 の足跡をたずね、慶応四年刊・お家流書風による木版刊本『徳本行者傳』の活字による現代語訳を試みた経験がある。
徳本は紀州和歌山出身の浄土宗の僧侶で、徳川十一代:家斉の庇護をうけて一行院(文京区千石1丁目14)をもうけて念仏三昧の日々をおくり、また各地に行脚して、そこの浄土の寺には、独特の書風による「徳本名号碑」が建立された。それをどこかの雑誌に書いたが、いまとなるとチト恥ずかしいものがある。

「徳本名号碑」はおよそ能筆とはいえず、六字を単体でばらしたら判読に悩みそうな字であるが、そこは六字名号のありがたさ、たれもが「南無阿弥陀仏」と唱え、その遊行行脚の地には多数の信者からの寄進がよせられた。それらのすべてを滞在先の浄土の寺にのこして去った徳本行者を慕って、文京区小石川:傳通院、長野:善光寺、伊豆や近江、都内の各地をはじめ、東日本を中心に浄財をもとにした「徳本名号碑」がのこされた。

琵琶湖畔彦根にある簡素な浄土宗の寺、宗安寺山門脇の「徳本行者名号碑」
彦根市本町2丁目3-7に宗安寺はある。この通称赤門とされる「山門」は
石田三成の居城、佐和山城の表門を移築したものとされる。

長崎大光寺墓地にある内田家塋域にある六字名号「南無阿弥陀仏」が刻された墓標
徳本名号碑をみたあと、改めて長崎の墓標をみた。やはり特異な もんじ である。

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

[参考:花筏 朗文堂好日録-028 がんばれ! ひこにゃん !! 彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種

《 内 の金文 内 の角字 》

ここで保留にしていた内田家塋域入口の石塀と、「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の戒名をもつ墓標の献花台・燭台にみる奇妙な「記号」に戻りたい。

『書体大百科字典』(長坂一雄、雄山閣出版、平成8年4月 pp 108)
本書「内」の三段目「51. 西周金文」の標本「内」にきわめてよく似ている。

長崎異国情緒というと、近年はオランダ出島観光を中心にかたられることが多いが、江戸期長崎はまた、中国福建省出身者を中心とする「唐人屋敷」があり、清国との貿易も盛んであった。したがってこんにちでも長崎では、春節 ── 旧正月の祝いが「ランタンフェスティバル」とされて、盛大に催されている。また大光寺は隣接して唐寺とも呼ばれている崇福寺があり、漢学・儒学・字学の素養にたけた人材がいたことは忘れられがちである。
[関連:活版アラカルト 【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の墓標では、『書体大百科字典』にみる「金文-きんぶん- 内」を実に精妙に図形化して献花台・燭台・石塀などに刻されている。この墓の建立者・被葬者は明確でないが、おそらく内田九一の両親の墓とみて良いとおもわれる。建立者も未詳だが、成人になった折りの内田九一による可能性があり、そうすると「字」では無く、瀟洒な「文 ≒ 紋に見立てた「金文 内」の使用も首肯できる。

【 参考:金文 きんぶん 周 しゅう Zhōu 
中国古代の王朝名、またこの王朝が存立した時代・文化の名にも使用する。紀元前1050?-前256年。司馬遷『史記』によると、尭帝の農官であった后稷-こうしよく-が始祖とされる。后稷の15世のちの子孫の武王が、前1050年ころ商と自称していた国家、商王帝辛を牧野(河南省淇県)で破り、ここに商を倒して殷とし、帝辛を紂王(蔑称)として、あらたな王朝「周」を鎬京-こうけい-(陝西省西安近郊)に創設した。
この王朝は前771年に一度滅び、前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され、前256年第37代赧王-たんおう-のとき戦国七雄のひとつ秦によって完全に滅ぼされた。
そのため前771年を界として、それ以前は都が西の西安西郊にあったので西周時代、以後は都が東にうつったので東周時代(春秋戦国時代ともいう)とよぶ。近年の研究では周も商と同様にふるくから甲骨文-こうこつぶん-をもちい、金文(きんぶん-青銅器などにのこされたもんじ)をのこしている。周が王朝としての実力を保持していたのはおもに西周時代である。

ちなみに戒名にみる「嵒」は「嵒 U+5D52  字音:ガン・ゲン 意読:いわお・いわ」で、同音同義の異体字「嵓」をもつ。「解字」では「会意 口印三つでゴロゴロした石+山」で、山中にころがる岩石をあらわす。
[参考:活版アラカルト【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

最後に「内田九一奥城」は本名(俗名)だけがしるされた簡素なものだが、仔細にみると台座と水盤に「◯ 内」ともみられる同一の紋様がみられる。前述の半円形の金文「内」とは異なり、軽やかさが無く重厚である。

『伊呂波引定紋大全』(盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地]明治30年頃 雅春文庫蔵)
「伊呂波寄名頭字儘 ── 此の字尽くしの中に出がたき時は、ヘンあるいはツクリに依って作るべし」[釈読:この字種見本に無い字のときは、偏と旁によって作字すべし]

いわゆる文様帳『伊呂波引定紋大全  いろは-びき-じょうもん-たいぜん』を紹介した。こ のような書物は、かつて「紺屋 コウヤ、染め屋」 などと呼ばれていた 「染色士」にむけて、おもに家紋のほとんどを詳細に紹介していたために、俗に 「定紋帳・紋帳・家紋帳」などとされていた実用書であった。

その一部には 「技芸家 ・ 工芸家」 に向けた 「文字の構成と書法」が説かれたいた。類書としては印判士に向けたより豊富な字種と書体による実用書もあるが、こうした書物は文字の紹介書として、魅力と示唆に富む好著が多い。
同書「う」の項目に「内」はなかったが、『伊呂波引定紋大全』などの実用書によれば、10×10の格子目にあわせて、左右対称形の「内」は容易に描くことができる。これは「 内 の角字-かくじ」に丸を冠したもので、ほかにも類例がありそうな「家紋・紋様」であろう。

[関連:花筏 タイポグラフィ あのねのね 002|タイポグラフィ あのねのね 002|【角字 かく-じ】 10×10の格子で構成された工芸のもんじ

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長崎にあまりにも内田九一の資料がすくないので、ついムキになって資料漁りをした。本稿はまだ松本良順(維新後は松本順)、吉雄圭斎に関しては保留したままになっている。
ここまでの間、岩永正人(本木昌造顕彰会前会長)、宮田和夫(日本二十六聖人記念館)、春田ゆかり、日吉洋人各氏の支援をいただいた。特にしるして謝意を表したい。[この項つづく]

【符号 ≢ もんじ】本木良永|長音符号(音引き)を、漢の字「引」の旁 ツクリ からとって「ー」と制定|『太陽窮理了解説』和解 ワゲ草稿

『太陽窮理了解説』和解 ワゲ草稿 ── 本木良永
長音符号(音引き)を、漢の字「引」の旁 ツクリ からとって、「ー」と制定した

【本木良永 もとぎよしなが 1735-1794】
江戸中期の蘭学者。通称栄之進、のち仁太夫-にだゆう、あざなは士清、蘭皐-らんこう-と号した。長崎の医師:西 松仙-にし しょうせん-の次子として生まれる。伯父本木良固-りょうこ-の嗣子-しし-となり、本木家第三代の通詞となる。オランダ商館長の江戸参府にも随行した。

わが国にはじめて「地動説」を『天地二球用法』(1662年刊のオランダのブラウ Willem J. Blaeu(1571-1638)の著書の抄訳本)から訳出して1774年(安永3)に紹介した。
さらに1791年(寛政3)、長崎奉行の命を受けて、『星術本原太陽窮理了解新制天地二球用法記』7巻325章附録1巻(イギリスのアダムスGeorge Adams(?-1773)の1769年刊のものの蘭訳本が原著とされる)を1793年に訳了、幕府天文方に献上した。
これらの書物は公刊されなかったが、当時長崎に留学してきた蘭学者らによって広まり、とくに司馬江漢-しばこうかん-の『刻白爾-コッペル-天文図解』(1808年刊)などは有名である。ニュートン力学を紹介した志筑忠雄-しづき ただお-は彼の弟子である。
[参考:『日本大百科全書』小学館、『日本人名大辞典』(講談社)]

本木良永肖像 肩衣と羽織に本木家歴代の正紋「本」を図形化したものがみられる
『医家先哲肖像集』(藤浪剛一、刀江書院、1936年)国会図書館デジタルコレクションゟ
長崎大光寺にある本木家塋域:本木良永墓標 燭台に家紋「本」をみることができる
『太陽究理了解説 和解草稿』第二巻冒頭  凡例に相当するページ
(「本木家文書」長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 稿者立ち会い)

算数文字別形
1  一  2   二    3  三   4   四  5  五   6  六  7   七   8   八   9  九  0  十
一 オランダ語の音声をあらわすとき、日本のカタ仮名文字を用いる。
濁音[ガギグゲゴなど]には、カタ仮名の傍らに〝 のようなふたつの点を加える。
その余の異なる音声[半濁音、パピプペポ]には、やはりカタ仮名の傍らにこのように ° 小圏[小丸]をしるす。
また促呼する音声[促音]には、ツノ字[角書きツノ-ガキのこと・菓子や書物の題名などの上に複数行にわけて副次的に書く文字]を接し、
長く引く音には、引の字のツクリを取りて『ー』のごとくしるす。
かつカタ仮名の[以下数文字判読不能)新字を為し、このように記し、かつカタ仮名の傍らにこのような字をつけてしるしても、まだオランダ語の語音をあらわしがたい。
そこで唐通事[中国語の通訳]石崎次郎左衛門に唐音をまなんで、オランダ文字と漢字[当て字]をあわせてしるすなり。

いずれにしても、本木良永訳『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊には、今回紹介したようなおどろくべき事実がしるされている。もちろんこうしたあたらしい表記方法は、個人の創意工夫だけによるものではなく、同時発生的に、各地、各個人も実施していた可能性は否定できない。
またここではあくまで印刷術研究の一環としてふれたものであり、記号論・音声学・音韻学的な分析までは及ばないことをお断りしたい。だからこそ『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開が待たれるいまなのである。

[関連:花筏 タイポグラフィあのねのね*005 長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』
[参考:国立天文台 暦計算室 貴重資料展示室 江戸時代後期書物に見る「宇宙のはて」

【かきしるす】国立公文書館 ── 館名と「新元号 平成」を書したひとはたれか

国立公文書館 ── 館名と「新元号 平成」を書したひとはたれか

新元号〝 平  成 〟を発表する小渕恵三官房長官(当時)

【 平 成 】
昭和64年(1989)1月7日、昭和天皇の崩御に伴って、政府は新元号を「平成」と制定。

1月8日午前0時から平成元年がはじまった。
政府によって発表された首相談話では、「平成」の出典として、『史記』五帝本紀の「内平外成ー内平かに外成る」、『書経-偽古文尚書』大禹謨の「地平天成-地平かに天成る」が示され、「『平成』には国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味が込められている」とされた。

国立公文書館 ニュース
Vol . 17  3月-5月  
A 4 判 8ページ 中綴じ フルカラー 表紙四ゟ紹介

左)元総理府辞令専門官:河東純一氏  右)元内閣官房長官秘書官:石附  弘氏

平成への改元に際しては、ときの小渕官房長官が、額入りの書「平成」をかかげて国民に新元号を披露しました。
披露にあたって額入りとするアイデアは、元内閣官房長官秘書官:石附  弘氏とされます。
この「平成」の揮毫者と、国立公文書館 館名の書藝者は同一人物で、元総理府辞令専門官:河東純一氏(1946-)によりました。
[参考:人事院総裁賞 第18回(平成17年)「人事院総裁賞」個人部門受賞者]加藤純一氏

昭和から平成の改元とはことなり、今回は生前退位によりますから、すでに新元号発表の準備はなされているはずです。それでもこうした裏方ともいえるひとの貢献が公開されるのには時間が必要なようです。

【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

紫禁城-故宮博物院を北側の神武門の裏山、景山山頂からみる

景山は中国の首都・北京のほぼ中央、紫禁城の北の一郭を占める景勝地。標高43メートルの人工の丘であるが、かなり急峻な坂道をのぼる。
金代(前金)に離宮を造営した際、現在の北海を掘った土を堆積してつくられた。
元代には宮廷の庭園とされ、明の永楽年間に紫禁城を囲む筒子河-とうしが-をさらって五つの峰をつくり、清朝(後金)乾隆帝がその峰の上に万春亭をはじめ、壽皇-じゅこう-殿、観徳-かんとく-殿などの山亭や宮殿、花園を設けた。

紫禁城にはさらに周囲をおおきくかこむ堅固な外壁があったが、現在では楼閣の一部を除いて撤去されて幹線道路となっている。この外壁の内側(旧内城地区。旧市街)では景観保存のために、紫禁城の正殿、外朝の「大和殿」より高い建造物は禁止されており、上掲写真では靄っているが、高層ビル群の建築はかなり遠方の旧外城地区(新市街)でなされている。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

上掲写真とは異なり、南側から紫禁城を概観した。よく知られる天安門・端門はこの図版よりもっと南(下側)に位置する。
紫禁城は中国、明・清(後金)時代の北京の宮城であった。紫禁とは、天帝の宮城とみなされていた星座の紫微垣-しびえん-からでた語で、皇帝の居所を意味する。

はじめ明の永楽帝-えいらくてい-が国都を南京から北京に移すのに際し、元の大都の宮城址付近を利用して造営し、十数年を費やして1420年に完成した。
その後、明・清時代を通じて宮殿や門はたびたび改築修補され、それらの名称も変更されている。現在の建物は、ほとんどが明代の様式をおおむね継承して、清(後金)時代に建てられたものである。

紫禁城は北京の旧内城の中央南部寄りに位置する、東西約750メートル、南北約960メートルの城壁に囲まれた約72万平方メートルの区画で、その外側に濠(筒子河-とうしが)を巡らしている。
城壁の四周にそれぞれ一門があり、南から天安門・端門を経ていたる午門-ごもん-が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼-かくろう-がある。
現在は混雑防止の見地から、南の午門から入場し、北の神武門から退場する一方通行とされていて逆行はできない。また東華門、西華門は関係者のみが使用している。

城内は南と北の二区画に大別され、南は公的な場所の「外朝」で、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並び、その東西に文華殿、武英殿などの殿閣が配置されている。なかでも中和殿、保和殿とともに、三層の白色大理石の基壇上に建つ太和殿は、東西約60メートル、南北約33メートルの堂々たる建物で、紫禁城の正殿として重要な儀式に使用された。

外朝の北は皇帝の私的生活の場所の「内廷」で、保和殿の北の乾清-けんせい-門から、乾清宮、交泰殿、坤寧-こんねい-宮などが中軸線上に一列に並び、その左右に后妃らが住んだ東西の六宮をはじめ多くの建物がある。
皇帝の日常の起居はもっぱら内廷の「養心殿」でなされ、その南西の隅には、しばしば温室とあらわされる「三希堂」があり、皇帝の学問所であった。内廷と外朝を連結するのは、外朝の北端で、養心殿と隣接する「軍機処」でほとんどがなされた。

このように紫禁城には大小無数の建物と、紅殻色の牆壁-しょうへき-や門が整然と配置され、黄瑠璃瓦-こうるりがわら-や朱塗りの柱とあいまって集団美をなしている。
そしてこの豪華な大宮殿は、明・清時代の皇帝権力の強大さをよく表すものである。1925年以来、故宮博物院として一般に公開され、中国文化財の一大殿堂となっている。
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中国での改革開放政策が滲透し、またわが国からは中国へビザ無し渡航ができるようになったこともあり、多くの友人・知人が訪中するようになった。ところが造形者の一部のかたが訪中して、

「長年の念願だった武英殿をぜひともみたい」
とされて、紫禁城-故宮博物院を訪問したところ、門(武英門)とその扉が固く閉ざされ、武英殿の写真は一枚も撮れなかったと嘆かれるかたが増えてきた。

武英殿は午門を入ってすぐ左側にあるが、地図では見えない障壁が幾重にも通路に立ちはだかる。かくいう稿者も1970年代の末からこの門扉の前に空しく五度ほど立った。
その折り、なんとかのぞくだけでもと思ったが、名刺一枚も挟めぬ(悔しいが実際にやった)ほど固く閉ざされた門扉に撃退された。
その扉がようやく開いたのは、長年にわたった武英殿の改修がなって、しかも北京オリンピックが終わってから暫くしてからのことである。

現在の武英殿の本殿は「書画館」と名づけられて美術館・博物館として利用されているが、一度の会期が半年から一年と長く、次回展までの間の閉鎖が数か月に及ぶことも珍しくない。したがって上掲の造形者は、休館中に訪問されたことになり、運が悪かったとしかいいようがない。
のちに知ることになったが、人口一億二千万ほどのわが国では、国立博物館などでも三ヶ月ほどの会期が設定されている。ところが人口十四億余の中国では、

「一部の民衆に展観していただくだけでも、最低半年、ほとんど一年間の会期設定が必要です。それに紫禁城内外の各所に埋もれている展示品を整理し、清拭し、修理・修繕し、資料整備などを考慮すると、次回展の準備にも数ヶ月の時間が必要です」
とのことであった。

修理と蔵書の再収集が続く 皇帝図書館の文華殿・文淵閣

武英殿と中心軸をはさんで正対する御殿が文華殿である。ここは中華皇帝が臨席する図書館(閲覧室)であり、その背後にある文淵閣は宮廷の蔵書蔵である。既述のように紫禁城の屋根は黄瑠璃瓦であるが、文華門・文華殿・文淵閣などの一画だけは、図書の保護のためとされる深い緑色の瓦が葺かれている。

武英殿は長年の修理ののちようやく公開されたが、文華殿一円はおおきくフェンスで囲われ、いまだに非公開の一画となっている。2013年の訪中の折り、紫禁城図書館のご好意でこの宮殿にはいることができた。
文華殿は皇帝の臨席に備えた豪勢なつくりで、建物の各所に図書にまつわる絵画や彫刻がほどこされていた。その背後の文淵閣にはいったときに、おもわず息を呑んだ。文淵閣にあったはずの『四庫全書』をはじめとする万巻の図書はまったくなく、そこには広大な空間だけが拡がっていた。
「ここの蔵書は、すべて台湾に持ちさられました」

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【もん】先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え

Notes on Typography  2019年02月01日
【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺と崇福寺墓地のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
この石の門には、どんな 文、はたまた 字 がつづられ、どんな 意味 があるのでしょう?
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長崎の墓所入口にある甲骨文について判読してみました。
甲骨文は異体(字)が多く確定はできませんが、次のように判読しました。
向かって右側の門柱は、「 先  祠  中 」
向かって左側の門柱は、「 思  父  祖 」
その意味するところは、
「祖先の墓所の中では、父祖のことを思え」
と解釈しました。頭の体操をさせて頂きました。[古谷 昌二]

☆    ☆    ☆    ☆

2019年02月01日、上掲写真を紹介すると共に、その読みと意味を何人かに質問した。早速回答をいただいたのは古谷昌二さんで上部に紹介した。
その間「石の門柱」ではいかにも座りがわるいので、知り合いの石材店に呼称をうかがった。ふつうは単に「門・石門」などと呼んでいるが、「石闕-せっけつ」と呼ぶことがあるとの回答をいただいた。

この「石闕」は長崎大光寺の墓地中腹にあるが、すぐ隣接して長崎「三福寺」のひとつ、唐寺として名高い「崇福寺-そうふくじ」の墓地とも正対している。すなわち唐文化からの影響もおおきいとみられた。そこで大光寺と崇福寺の両寺の歴史をみてみた。

大光寺は浄土真宗本願寺派の寺。慶長一九-1614年僧慶了が創建、万治三-1660年現在地の鍛冶屋町にうつり、一度も火災に合わなかったが、堂宇の一部は大正二-1913年に新しく建てなおされている。墓地には本木家歴代墓、西郷四郎墓、内田九一供養塔などがある。

崇福寺-そうふくじ」は、長崎市にある黄檗禅宗の寺院。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。
寛永六-1629年、長崎で貿易をおこなっていた中国福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や唐寺と称せられた。

第四代住持 隠元隆琦 は、のちに徳川家の庇護をうけて宇治に黄檗山萬福寺を創建し、仏教百科事典ともいうべき萬暦版一切経『嘉興蔵』(下掲図版左)をもたらした。
その萬暦版一切経をもとに、山内の宝蔵院住持:鉄眼禅師が覆刻(かぶせ彫り)したのが「鉄眼一切経」(下掲図版右)で国の重要文化財となっているが …… 。

【闕-けつ 石闕-せっけつ】

闕は古代中国の宮殿、祠廟、陵墓などの門前の両脇に張り出して左右対称に設けられた望楼。中間が闕然として何もないことから、その名がある。闕の名称は西周時代の文献にすでに見える。一般に高い基壇の上に楼閣を立てたが、のちには石造でそのかたちをかたどったものもつくられた。
実物としては高頤闕-こういけつ-などの漢代の石造墓闕や、画像石に描かれたもの、壁画墓の墓道両脇に描かれたもののほか、北京故宮(紫禁城)の午門がこの形式になる。

石闕は本来木造であった闕を石でまねてつくった石造物で、大型墓の神道(神道碑-しんどうひ)や、祠廟の入口を飾った。石闕は必ずしも古代の木造の闕を忠実に模倣したものでなく、かなり簡略化したり誇張されており、個々によってかなり異なった形態をとる。
[参考:『世界大百科事典』平凡社]

【もんじ】花のことのは-誠実・控えめ|字であらわすと厄介なスミレ

【菫 解字】ウエブサイトでは表示できない「槿-キン・むくげ、僅少-キンショウ」の旁、「キン」を含むので、以下「僅」を代用して説明。
会意・形声。艹と僅を合わせた字。僅-キン-が音をも示す。艹は草の意、僅-キン-は僅と似て、わずかとか、ちいさいの意がある。そこで小さな草、すみれをいう。
面倒ではあるが「菫」と、「槿・僅」の旁は別字である。

《春は名のみの …… 寒い毎日がつづきます》
吾が空中庭園では、ここのところ寒風をものともせずスミレがひっそりと開花している。
ここは南面しているので、晴天なら陽だまりになるが、この頃の曇天のなかではさすがに寒そうである。
本格的な春の到来を待ちわびる日々がつづく。

【 スミレ 菫 菫菜-キンサイ 】
春、道ばたや森の中で深い紫の花を咲かせる。自生している場所や、その色から奥ゆかしい花とされ、「花のことのは」は、「誠実」「ひかえめ」。
歳時記では卯月-四月の花とされている。

日本では多くの種類のスミレが自生しているので香りは種類によって異なる。スミレを特定の種の和名として用いるほか、スミレ属各種を総称することも多い。
スミレの名は、下弁の形が、大工が使用する墨壺に似ているからつけられたもので、墨入れの略とされる。漢の字「菫-キン」を与えて「菫-すみれ」とするのは俗用(意読)で、中国では「菫菜-キンサイ」と書かれることが多い。
英語では「violet バイオレット」と書くが、サンシキスミレ( V. tricolor L. ビオラ・トリコロル)系のものは、主として園芸品種の系統を「pansy-パンジー」、また主として野生種のものを「heartsease-ハートシーズ」とよんで区別する。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

【国立公文書館】企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」|一筆啓上仕候 …… 私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札|面倒なものです

私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札
一筆啓上仕候 ……

わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ
いっぴつけいじょうつかまつりそうろう ……..

上野国伊勢崎藩の前藩主酒井忠恒(寸升)は、元治元年(1864)に幕府へ湯治願を提出しました。本資料は、酒井寸升が幕府老中宛に差し出した湯治願が許可されたことに対する御礼の書状です。

{新宿餘談}
国立公文書館本館で、平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」が開催されている。展示資料のなかに上掲「私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札-わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ」があった。
本資料は、伊勢崎藩[前橋藩の支藩。維新時には二万石]の前藩主:酒井忠恒(寸升)が、幕府閣老・老中に湯治願を提出し、255年ほど前の元治元年(1864)にその湯治願が許可されたことに対する御礼の書状と解説されていた。

本文は文語、いわゆる候文で、仮名の使用はみられない。文末に署名し、さらに花押(かおう-署名の下に書く判、書き判ともいう。草書で書いた名をさらに様式化したもの)があり、その上部にちいさく忠恒としるしてある。さらに老中の姓と官職名を列記する大仰さであった。

隠居した大名でも、江戸・任地を離れる際にはこんな願い書を出し、許可が出れば礼状をしたため、戻れば報告するのが決まりであったようである。
町人も旅に出るのにはしかるべき町方の許可を得て、旅手形が発行され、それがない者は各地に設けられた関所を通過できず、宿にも泊まれなかったとされる。
明治維新後、大名は藩知事などの変遷を経て華族となったが、民衆の移動の自由が保障されたのは明治憲法の発布を待ってからのことになる。温泉にいくのにも容易ではなかったことがわかる。

国立公文書館
平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」
会  期  平成31年1月26日[土]-3月9日[土]
開館日時  毎週月曜日-土曜日 午前9時15分-午後00分
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
      千代田区北の丸公園3-2 1階展示場
入  場  料  無  料
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日本人が古くから親しんできた温泉。江戸時代には、名所図会、紀行文などを通して情報が広く流布し、多くの人々が温泉地に訪れました。本展示では、江戸時代の資料を中心に、人々と温泉の関わりをご紹介します。

【 詳細: 国立公文書館 】 {関連:活版アラカルト

【 伊勢崎藩-いせさきはん 】
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【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺うしろ山(風頭山-かざがしらやま)の大光寺と崇福寺墓地の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
どんな文、はたまた、どんな字がつづられ、どんな意味があるのでしょう?

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【もん】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

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「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた
江戸中期の歌舞伎役者・佐 野 川  市 松-さのがわ いちまつ

日本の紋様〔紋のありさま〕の定番であり、着物や帯だけでなく、千代紙や小物などあらゆるところで目にするものに「市松紋様」がある。おなじみのこの市松紋様、実はさほどふるいものではなく、ひとりの歌舞伎俳優と深い関係があった。

色違いの正方形を、碁盤の目のように組み合わせた紋様が生まれたのは、古墳時代の埴輪の服装や、法隆寺・正倉院の染織品にも見られ、古代より織紋様として存在していた。また公家や武家の礼式・典故・官職などに関する古来のきまり『有職故実-ゆうそくこじつ』では、こうした格子紋様は「石畳・霰-あられ」などと呼ばれ、おもに着物の地紋(織り柄)として使われていたことがわかる。

これが歌舞伎の舞台で鮮やかに観客の前に出現し、一気に注目されることとなったのは、寛保年間(江戸中期 1741-44)のことである。当時の歌舞伎役者が身にまとう紋様は、その役者の感覚や心意気を人〻に伝えるツールであった。
江戸の中村座で、ある俳優が「心中万年草-高野山心中」の小姓・粂之助-くめのすけ-に扮した際、白と紺の正方形を交互に配した袴をはいて登場したことからおおいに人気を博した。折しも庶民が紋様を施した着物を楽しむようになった時代でもあり、霰の紋様をあしらった鮮やかな袴は観る人〻の目に衝撃とともに焼きついた。

この衣装を身につけて登場した俳優の名こそ「初代 佐野川市松」であった。ここであまり紹介されてこなかった「初代 佐野川市松」をみてみたい。

佐野川市松(初代 さのがわ-いちまつ 1722-1762)
江戸時代中期の歌舞伎役者。享保7年生まれ。佐野川万菊の門人。若衆方、若女方をかね、荒事にもすぐれた。宝暦12年11月12日死去。41歳。山城(京都府)出身。俳名は盛府。屋号は新万屋・芳屋。

佐野川市松はその後もこの紋様を愛用して、また浮世絵絵士:奥村正信・鳥居清重(1751-77ころ活動 生没年不詳)・石川豊信(1711-85)などがその姿を好んで描いたことから、着物の柄として流行をみた。
市松の愛用したこの紋様は、当初はふるくからの慣わしにしたがって「石畳」と称されたが、のちに「市松紋様」「市松格子」「元禄紋様」などと呼ばれるようになった。
ひとりの歌舞伎役者の美意識によって、古来の呼称「石畳・霰」が、「市松紋様」という名に置きかわったのである。この「佐野川市松」の伝承によって、当時のインパクトがどれほどのものだったのかを偲ぶことができる。

Tokyo_2020_Olympics_logo.svg2020年 夏期オリンピック エンブレム

さらに佐野川市松の時代から175年ほどのち、2020年夏季オリンピック・パラリンピックのエンブレムが若干の紆余曲折をへて決定した。デザインは野老朝雄(ところ-あさお 1969-)で、このデザインは「組市松紋」だと自ら発表している。歌舞伎役者「佐野川市松」好みの紋様が、世界のアスリートが結集する舞台に「組市松紋」として再登場したことになる。

〔参考資料〕
WebSite 歌舞伎美人-かぶきびと-歌舞伎いろは「装い」
WebSite 市松模様 ウィキペディア
「市松模様」『国史大辞典』(吉川弘文館)/「市松模様」『日本史大事典』(平凡社)
「佐野川市松(初代)」『日本人名大辞典』(講談社)

【もんじ】京都四條南座|南座発祥四百年・南座新開場記念|京の年中行事 當る亥歳 吉例顔見世興行|東西合同大歌舞伎|まねき書き

bn_2歌舞伎公式総合サイト ── 歌舞伎美人-かぶきびと
ニュース 10月12日号ゟ


南座新開場に向け準備万端、「まねき書き」

2018年10月11日[木]、京都南座「當る亥歳 吉例顔見世興行」で、劇場正面に掲げられるまねき看板を書く「まねき書き」*01 がおこなわれました。
耐震補強工事を終えて、新開場の南座に初めて上がるまねき看板が、まねき書きを引き継いで5年目の 井上 優 さんによって書き上げられました。今年は顔見世興行が11月と12月の2ヶ月にわたっておこなわれますが、今回書かれたのは11月のまねきです。

耐震補強工事中、昨年は顔見世興行の会場が移されたのに伴い、まねき看板も顔見世興行の会場となった「ロームシアター京都」に上げられました。2年ぶりに南座に上がる「役者まねき」は約40枚で、襲名する松本白鸚のまねきが南座に上がるのは初めてです。
このほか、「當る亥歳 吉例顔見世興行」と書く「興行まねき」、「邦楽連中まねき」や、入口に置かれる「口上まねき」の合計53枚が用意されます。

南座新開場に向け準備万端 ──「まねき書き」
伝統にならい、大入りを願って隙間の少ない勘亭流の文字を書く井上 優さん

大入りと興行の成功を祈って揮毫したという井上さんが、
「2年ぶりに南座に上がるまねきですので、華やかになればと思って書きました」
と語るのを聞くと、その思いのこもった一字一字が、いっそう輝いて見えました。
例年どおり京都市内の妙傳寺でのまねき書きでしたが、11月の顔見世興行に合わせ、いつもよりひと月早いため、
「暑かったので、墨のにかわが早く乾いてしまうんじゃないかと心配だった」
と明かした井上さん。しかし、それも杞憂となる出来栄えで、ひと安心と笑顔を見せました。

画数の多い松本白鸚の「鸚」も、井上さんの手にかかれば、ほかと変わらぬ堂々とした仕上がりで、看板を見上げるのが今から楽しみです。まねき看板の大きさは、これまでと同じ長さ1間(約1.8メートル)、幅1尺(約30.3センチメートル)、厚さ1寸(約3センチメートル)で、書き上げられたまねきの上部につける庵形-いおりがた-も同じ。*01
南座の伝統行事がこうして新しい南座へと受け継がれ、今月の25日[木]には南座の正面に「まねき上げ」が行われて、初日を待つばかりとなります。
南座の新開場は、「南座発祥四百年 南座新開場記念 京の年中行事 當る亥歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」が初日を迎える11月1日[木]。公演は11月25日[日]までで、チケットは、チケット Web 松竹、チケット Web 松竹スマートフォンサイト、チケットホン松竹で発売予定です。2018年10月12日
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【まねき看板】*01
京都市にある劇場、南座で、毎年年末に行なわれる「吉例顔見世興行」の際、劇場正面に掲げられる役者の名をいれた看板。縦1.8m、横30cmほどの大きさのヒノキ板でできた看板。上部には庵形(いおりがた)がついており、文字は「勘亭流」*03 という江戸時代から伝わる書体で書かれる。単に「まねき」ともいう。

【まねき上げ】*02
京都市にある劇場、南座で毎年年末に行なわれる歌舞伎の顔見世興行の際に、出演する役者の名を入れたまねき看板を劇場正面に掲げる行事。京都の冬の風物詩として知られる。

【勘亭流-かんていりゅう】*03
歌舞伎の看板、絵本番付(プログラム)などに用いる独特の書体。筆太で、隙間なく、内へ丸く曲げるように書く。寄席、相撲などで使う書体とは違う。内へ丸く曲げるのは、観客が入るという縁起をかついだものである。
安永八(1779)年、江戸堺町の書道指南岡崎屋勘六(1746-1805)が中村座のために創始したのがはじまり。勘六は号を勘亭といい、そこから勘亭流という書芸の流派がうまれた。

京都四条南座「當る亥歳 吉例顔見世興行」襲名披露特別ポスター『勧進帳』

 耐震工事を中心にしばらく大幅改修工事が進行していた京都四條南座が
2018年11月 愈〻オープン ── 新会場記念公演を迎えます。

【 YouTube 松竹チャンネル / SHOCHIKUch  南座新開場ご紹介 音が出ます 5:57 】
平成30年11月、いよいよ南座が新開場いたします。400年の歴史を新たな時代へ


【 詳細: 歌舞伎美人-かぶきびと 】