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【ことのは】〝サクラウェーブ〟|活躍が期待される女子ラグビー|’20 東京五輪 7人制/’21 NZ W杯15人制

’19年11月24日〝サクラフィフティーン〟日本女子ラグビーチームとスコットランド戦
WORLD RUGBY ORG. ゟ Photo : Scottish Rugby / S N S

ラグビーが一躍注目されるようになったのは、2015年ラグビー W杯 イングランド大会 で強豪南アフリカを打倒して3勝1敗という成績を残せたから。それでも「ボーナスポイント」の加算がなくて予選リーグで敗退した。
そしてラグビー W杯2019 東京 を迎え、プール戦を四戦全勝で突破、ベストエイトに初進出して、満天下にラグビーの面白さが知られ、ラグビーを語りあえる友人が増えた。

ラグビー7人制 ── あまり知られていないが 男女とも活躍がめだつ7人制ラグビー
ラグビーは2016年のリオデジャネイロ五輪から男女7人制が採用された。わが国は7人制への習熟がなく、手探り状態での参加だったが、フィジカルの劣勢を俊敏さで補って好成績を残した。
’ 20 東京五輪 男子7人制ラグビーでは、すでに参加を表明している福岡堅樹とあわせ、松島幸太朗の快足コンビが揃ったら、メダル獲得も夢では無さそうである。
すでにラグビーシーズン花盛りのいまであるが、今回は女子のラグビーを動画中心で紹介したい。
NOTES ON TYPOGRAPHY  ラグビーまとめ
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Watch LIVE from 1pm on Sun 24 Nov as Scotland face Japan at Scotstoun Stadium in their second Autumn Test.

2019年11月24日[日]、〝サクラフィフティーン〟こと、日本女子15人制ラグビーチームとスコットランドが対戦。緊迫のテストマッチは最終盤に日本が逆転に成功して、24 対 20 で勝利。
その結果、日本女子チームの世界ランキングは、試合前の15位から過去最高の12位となった。

詳細はスポーツライターに任せるが、日本女子チームはタックルで勝り、スクラムは互角なのに、ラインアウトからのモール展開に、もうひと工夫が欲しいというのが新宿餘談。
YouTube は 長時間のプログラムであり、観客も少ないが、冒頭部と前後半の中間にスコットランドチームの練習風景がある。なによりも逆転にいたる後半、日本チーム・スクラムハーフの No 9 の球さばきと、相手 No 8 への潰しがみもの。
拡大画面で閲覧希望のかたは、YouTube の文字部をクリックすると別ウインドウが開く。

【 YouTube LIVE | Scotland Women  v  Japan Women 音が出〼 2:04:31 】

 ラグビー女子15人制日本代表 マッケンジー 新 HC〝サクラウェーブ〟で 2021 WRWC へWORLD RUGBY ORG. ゟ
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【かきしるす・ことのは】ポストカード Postcard と クリスマス Christmas の欧文表記に関する注意点 ー もう Post Card(二単語), X’mas の誤用は卒業、Xmas は慎重に


左)寒くなるとむしろ元気になるアカンサスの群落(ギリシャ、アテネのゼウス神殿脇)
右)紅く染まった新宿御苑のかえで(槭樹・楓)。かえでの名称は、葉のかたちがカエルデ(蛙の手)に似ていることからいう。

カレンダーの残りもあと二枚だけ。
はやくも11月初旬となり、まもなく郵便局から<郵便はがき>の年賀状が発売され、まちかどには<年賀状印刷たまわります>ののぼりがはためく候となった。
例年この時期になると、造形者は「ことしのクリスマスカード、年賀状は、どんなアイデアと印刷にしよう」と、楽しくもあり、悩ましくもなるかたが多い。
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例年のことながら、そろそろクリスマスカードや年賀状の準備にとりかかっているかたも多いこのとき、フト ふるい記事をおもいだした。
どういうわけか造形者の一部、なかんずく「デザイナー」と称するすひとは、横文字(ふるくは蟹行もんじといった)に親近感をもつようで、郵便局の<郵便はがき>ではなく、欧文表記による私製の<Card>を印刷されることが多くみられる。
そこでの注意点を ソッと …… 。
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【ことしもまたまた再掲載】
ポストカード Postcard とクリスマス Christmas
  DSCN3921

 本項元記事の掲載は<2014年12月03日 花筏>であった。 テーマと問題点に進展があまりがみられないこともあり、ここにまたまた掲載した。3935DSCN3937

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本コーナーを訪問していただいたゲストの皆さまに、しばしばあやまって使われている英語表記をご紹介したい。
ひとつは 「 郵便はがき ポストカード 」 で、ひとつは 「 クリスマス 」 である。

使用する資料は、英和辞書としてたかい評価がある 『 研究社 新英和大辞典 』 で、これは画像紹介の許可をいただいてある。
もうひとつは、『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 ( Oxford University Press, 1981,  p.318) である。
同書は、オックスフォード大学出版局の刊行書で、執筆者と編集者にむけて、あまりに日常化していて、ついうっかり、あぁ知らなかった、というたぐいの表記、間違えやすい英単語を中心に、簡潔に紹介したものである。
同書には意外な記述がみられる。

DSCN3937 ここには 「 post  郵便 」 から派生した英単語を列挙して、「 abbr.  省略語、短縮語 」、「 しばしばスペースを入れて二単語にされていますが、一単語ですよ 」、「 語間にハイフンを入れて表記してください 」 などと説明されている。

すなわち 『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、 「 郵便はがき ポストカードは  postcard  と一単語にしてください。 post card のように二単語では無いのでご注意を。 省略語は p.c. です 」 と、簡略かつ明確にしるされている。DSCN3943DSCN39583949いっぽう 『 研究社 新英和大辞典 』 では、とても丁寧に 「 postcard 」 を説明している。
ここでの標題語 「 post ・ card 」 の中黒点は、音節 ( syllable ) をあらわすものであり、ここに中黒やダッシュやスペースは不要。
さらに 『 研究社 新英和大辞典 』 では、「 郵便はがき -含む : 年賀はがき」 にたいする日英の比較とともに、わざわざ強調の裏罫をもちいて、「 SYN  synonym  同義語、類義語 」 として、「 絵はがき  と はがき 」、「 postal card,  postcard 」 の使いわけと、英国と米国での相違まで説いている。
ご参考になったであろうか。

この問題は、わが国でもふるくから一部の識者から指摘されており、朗文堂 WebSite では 〈  タイポグラフィ実践用語集 は行 葉書・端書・はがき・ハガキ 〉 で、ずいぶん以前 ( まだ郵政省があって、専用ワープロを使っていた時代 ) から触れられている。

ところが、いまだに展覧会シーズンともなると、各種の造形者、とりわけ印刷メディアに関わることがおおい 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 から、「 Post  Card 」 と、堂堂と二単語で印刷された 「 Postcard 」 をたくさん頂戴しているかなしい状態がつづいている。
ふつうの生活人は、ほとんど 「官製はがき」 [このことばは、現代でも有効なのであろうか] にしるされた「郵便はがき」を、そのままもちいるので、あまりこのミスは犯さなくて済む。

この 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 が犯しがちなミスは 意外とやっかいで、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と 『広辞苑』 は説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としている。そして郵便局が販売しているカードには<郵便はがき>としるされている。  

いかがでしょう、  「 postcard , Postcard, P O S T C A R D 」 。
「 過ちて改めざるを是を過ちと謂う 」、「 過ちては改むるに憚ることなかれ 」 という。 この名詞語は、名にし負う天下のオックスフォード大学の 執筆者や編集者でも 「 ついうっかり 」 なのであるから、なにも臆することはない。
かくいうやつがれも、しばしばこうした誤用や誤謬をおかしては反省しきりの日日である。 そしてこの記事をみたあとは、「 そんなことは、昔から知ってたさ 」 、「 そんなの常識だろう 」 と、どっしり構えて欲しい。

それでもおひとりでも、正しく 「 postcard,  Postcard, POSTCARD, P O S T C A R D 」 をもちいれば、まずは大切なクライアントに迷惑をかけることが無くなり、やがてちいさな波紋がどんどん拡大して、わが国の造形者が恥をかかなくなる日が近からんことを念願している
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《 すこし気がはやいですか。 暮れになったら X’mas はやめて、口語の Xmas も慎重に 》
いっぽう 「 クリスマス 」 は少しやっかいである。
それは国語辞書 『 広辞苑 』 が、どこか意地になって、クリスマスの項目で 「 Christmas,  Xmas 」 を説明しているからである。

それに牽かれたのであろうか、わが国の一部に 「 X’mas 」 と表記する向きがあるが、これはギリシャ語の「キリスト Xristós」の省略を重複したもので完全に間違いである。

『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、「 Christmas  クリスマス 」 は執筆者や編集者にとってはあまりに平易であり、関心が乏しいようで、わずかに「 Cristmas (cap.)」 として、文頭を大文字にすること (p.70) 〈 参照/タイポグラフィ実践用語集 き行 キャピタライゼーション : capitalization 〉 として簡略に触れている。

またギリシャ語の「キリスト Xristós」由来の 「 Xmas 」 には、キリスト教徒の一部に抵抗を感ずる向きがあって、やつがれも20年ほど前に来社したアメリカの知人から、
「 ここに来るまでに X’mas,  X’mas Sale のディスプレイがたくさんあった。 あれはクレイジーだ。  Xmas ( エクスマス ) にも、発音からわたしには抵抗がある。 それよりどうして日本では、11月のはじめから Christmas をはじめるのだ 」
と責められたことがあった。

宗教や宗派、そして発音までがからむと、やつがれの手にあまる。 まして某国語辞典の存在もあって困惑していたが、『 研究社 新英和大辞典 』 に、わかりやすく 「 クリスマス 」 の解説があった。該当部を抜粋すると以下のようになる。辞書らしい慎みがみられるがズシリと重い。

「クリスマスを日本では Xmas と書くことも多いが、この形は英米ではポスターなど以外では避けられる傾向がある。また X’mas は誤り」

長文にわたるので、その紹介にあたって、画像紹介の許可を研究社からいただくことができた。 そしてことしの暮れは、せめて 「 X’mas,  X’mas Sale 」 を見なくてすむように念願したい。
そしてあくまでも口語で、文章語ではない 「 Xmas,  Xmas Sale 」 を、大量配布される広告や印刷物などへの使用に際しては、おおいに慎重でありたいものである。DSCN3943DSCN4098DSCN4086

【ことのは】文化庁 国語世論調査|「憮然」は「腹を立てている様子」、5割超が〝誤 用〟|産経新聞デジタルゟ

文化庁「国語に関する世論調査」
「憮然」は「腹を立てている様子」、5割超が “ 誤 用 ” 
2019年10月29日[火] 17:46配信 産経新聞デジタルゟ

◉ どちらの意味だと思うか
「憮然-ぶぜん」の意味を本来の「失望してぼんやりとしている様子」ではなく、「腹を立てている様子」だと思っている人の割合が56・7%に上ることが29日、文化庁が実施した平成30年度の「国語に関する世論調査」で分かった。
「砂をかむよう」や「御の字」も、5割前後が本来の意味とは異なる使い方をしていた。
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調査は国語への理解や意識を深めるため文化庁が平成7年度から毎年実施しており、今回は16歳以上の男女3590人に面接し、1960人から回答を得た。
それによると、「憮然」の本来の意味を理解しているのは28・1%で、同じ質問をした15年度と19年度の調査に比べると10ポイント以上増えたが、依然として誤用が多い実態が浮き彫りになった。

また、「砂をかむよう」の意味を「悔しくてたまらない様子」だと思う割合は56・9%、「御の字」を「一応、納得できる」と思う割合も49・9%に上った。
いずれも本来の意味ではなく、担当者は「『砂をかむよう』については漫画などで悔しいときに登場人物がハンカチをかむ描写が出てくるので、『かむ』となると『悔しい』と解釈したのでは」と推測する。
このほか「天地神明に誓って」を「天地天命に誓って」と、「論陣を張る」を「論戦を張る」と誤用している割合も、それぞれ5割前後に上った。

今回の調査では、常用漢字に追加するかどうかの審議材料とするため、常用外漢字の印象についても尋ねた。使用について肯定的に捉えられていたのは「絆」で、9割が「この漢字を使うのがいい」と回答。担当者は「東日本大震災で広く使われ、認知度が上がった」と分析している。

{新宿餘談}
ことのは ── 言の葉 ── やはり面倒なようです。まぁいずれも安易に漢語(中国語)にもたれかかっていることからおこった事例ですね。
気になったのは常用漢字に「絆」を取り入れそうな雲行きがみられること。「絆」は漢字音では「ハン・バン」、拼音-ピンインでは「bàn」。「意読-意味読み・和訓読み」で「ほだし・きずな・つなぐ・ほだす」があり、「名付け-わが国で名前につけるときの読み方」では「きずな」となる。

音符に「半-ハン・バン」をもつ常用漢字は「伴侶・判例・畔 あぜ」などがあり、非常用漢字では「冸ーとける・攪拌ーかきまぜる・柈-ハン・泮-とける・絆-きずな」などがある。
これらの非常用漢字の音符「半」では、常用漢字での「半」の上部とは違って、下方に向かって開くかたち、いわゆる「八屋根-はちやね」型になっている。過去の事例から学ぶと、常用漢字になった瞬間から、現実的に、「八屋根」型の「絆」にも字体変更を迫られる可能性が大きいとみて良いであろう。

デジタルタイプ全盛のいま、フォントセットは必要以上に大がかりな「製品・商品」が増えている。したがって、あまりちょくちょく常用漢字をいじり回すのはもうご勘弁をというおもいが強いいまである。

ところで皆さん、上掲図五問のうち、正解率は何パーセントでしたか?

【もんじ・ことのは】ეწვია, ჩაბარდა. ქართული პერსონაჟების ჭარბი უკმარისობა ── 参った、降参。圧倒的に資料不足のジョージア文字

ეწვია, ჩაბარდა. ქართული პერსონაჟების ჭარბი უკმარისობა
参った、降参。圧倒的に資料不足のジョージア文字

◉ ジョージア語とジョージアもんじの習得 ── ただただ考えが甘かったとしかいえない
W杯東京2019 大会期間中、それもあわよくばプール戦が実施されているおよそ一ヶ月の間に、ジョージア語によるホテル会話程度の習得と、町なかでのスモールトーク ── こんにちは・さようなら・幾らですか・美味しいです・またお会いしましょう ── 程度の会話を学習し、そして最低限のジョージアもんじ(文字)の読解力を獲得しようと考えていた。当然ひそかに将来のジョージア訪問もたくらんでいる …… 。
応援部隊もパリ在住の哲ちゃん・磯田君、英語力なら任せろ-ランス君を用意して万全の準備をしたと思っていた。

ふつう敷居が高いと思われているが、経験上こういうときには、思いのほかわが国の外務省と各国の在日大使館・領事館が協力してくれることを体験してきた。
イタリア大使館にはパレオグラフィ(古書体学)の調査でおおきなご協力をいただいた。またチェコ大使館では、ドイツ/フランクフルト・ブックメッセで親交を結んだプラハの出版社(旧社会主義時代の国営出版社)の消長と現状を調査・探索していただいたことがある。そのためにいまだにチェコ大使館(チェコセンター)とはよい関係を継続している。

ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られている。

[ 参考: ウィキペディア ジョージア(国)
[ 参考: 外務省 ジョージア(Georgia)基礎データ ]
[ 参考: საქართველოს პრეზიდენტის ოფიციალური ვებგვერდი Official web site of the President of Georgia   ジョージア語と英語に切りかえ可能 ]

それでも言語学はともかく、一応タイポグラフィは専門領域でもあり、観光ガイドブックたよりでは物足りない。そこでいつものように蔵書と資料調査に着手した。ところが手許資料にはほとんどジョージアに関する資料がなく、わずかに探しあてたものでも、およそ専門書とはいいがたい物であった。
◉ 『 BUCH DER SHCHRIFT 』(Carl Faulmann  Wien 1880)
◉『 LES CARACTÈRES DE L’IMPRIMERIE NATIONALE 』(フランス国立印刷所 pp 263-4  1990)
◉ 児島康宏「グルジア文字、グルジア語」『図説 世界の文字とことば』(町田和彦編、河出書房新社、2009年12月)
◉ ウィキペディア「グルジア文字

上に掲げたのがそれらの資料であるが、稿者の資料であるから言語学というより「活字見本帖」ともいうべきタイポグラフィ図書であり、ほとんど参考にならなかった。
また和書では「ジョージアではなくグルジア」としているように、すでにふるい資料であった。

ただしウキペディアにおける「ジョージア」に関するいくつかの項目の執筆者はとても厳格で、
『本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする』とすると明確に記述している。

日本では2015年4月以降、それまで使用していたジョージアの外名のグルジア(ロシア語:Грузия, Gruziya)を廃止した。またアメリカの「ジョージア州」とまぎれないように、「ジョージア国」ともしている。稿者はそれに倣うことにしている。

◉ 9月29日[日]熊谷ラグビー場:ジョージア対ウルグアイ戦のあと、残念なできごとが……

【 YouTube ジョージア国歌 「日本語訳」- Anthem of Georgia (Japanese) 01:30 】

写真/N H K WebSite ゟ

ジョージア戦後にロシアの曲、統括団体が謝罪 ── ラグビー W 杯

ジョージアが試合後の記者会見で、会場の熊谷ラグビー場に流れた音楽について憤慨する一幕があった。勝利を祝福するためだったが、ゲーム主将を務めたブレグバゼは「ロシアの音楽が流れた。次はこういう間違いをしないでほしい」と訴えた。
統括団体ワールドラグビーの関係者によると、流れたのはジョージア人が歌ったロシアの音楽。音源を用意した大会組織委員会は、2度と使用しないことをジョージア代表チームに伝えた。
ジョージアとロシアは政治的に緊張関係にある。ヘイグ監督はニュージーランド出身だが、「ロシアはジョージアではない。ジョージアはロシアではない。はっきりさせておく。言語も文化も全てが違う」と強い口調で述べた。 9月29日[日]19:41配信  時事通信

{新宿餘談}
ロシアとジョージアの国家関係にはデリケートな部分が多いことはすでに述べてきた。「ゲーム主将を務めたジャバ・ブレグバゼ」は禿頭のみごとなフッカーで、日頃は日本のプロチーム:サンウルブスでプレーしており馴染みふかい選手である。
ヘッド・コーチ:ミルトン・ヘイグは、ニュージーランドうまれで、現役時代はスクラムハーフで活躍したひとである。また来シーズンからは日本のトップリーグ:サントリーの H C への就任が発表されている。

サッカーとラグビーともども、大会運営者は W 杯に「政治的案件」を持ちこむことには警戒的だが、こんな失敗もたまにはやってしまうようだ。もちろん主催者はジョージアの勝利を祝ってこその放送であり、悪意は無かったとおもう。ここはしっかりお詫びすればジョージア・チームも理解してくれるであろう。
ちなみにジョージア国臨時代理大使はアルチル・マチャヴァリアニ氏で、就任三年目の親日家である。
また、四囲を海に囲まれているわが国では解りにくいが、イングランド以外の、ウェールズ・北アイルランド・スコットランドも、W 杯代表においては、イングランドと一緒にされたり、「イギリス代表」うんぬんとされることには拒否反応を示している。
やはり国際関係とはなかなかセンシティブなものがある。

◉ 9月20日[金]プールA:日本対ロシア戦から、土曜・日曜とラクビー観戦漬けで疲労困憊
なにしろ四年間、鳩首してこの ラグビー W 杯 2019 東京 の開幕を待っていた。その嬉しさと、好カードの連続のためもあって、金曜夜から最初の試合:日本対ロシア戦にはじまり、土曜・日曜で連続七試合、一気にラグビー観戦漬けであった。

◉ 9月20日[金]
        19:45- プール A 東京スタジアム

   日  本ー30  対  ロ シ アー10
◉ 9月21日[土]
        13:45- プール D 札幌ドーム

   オーストラリア-39 対  フィジー-21
        16:15-  プール C 東京スタジアム
   フランス-23  対  アルゼンチン-21
        18:45-  プール B 横浜国際総合競技場
   ニュージーランド-23  対  南アフリカ-13
◉ 9月22日[日]
        14:15- プール B 東大阪市花園ラグビー場

   イタリア-47  対  ナミビア-22
        16:45-  プール A 横浜国際総合競技場
   アイルランド-27  対  スコットランド-03
        19:15-  プール C 札幌ドーム
   イングランド-23  対  トンガ-21

なにしろ吾輩は「新日鉄釜石-平尾・松尾-がんばれ」、神戸製鋼、近鉄がんばれとやってきた、苔がはえ薹がたったラグビーファンであるが、この歳になって遠方のスタジアム往きは辛いし、パブリック・ビューで大騒ぎも恥ずかしい ── 本当はすぐ近くの伊勢丹屋上会場にいきたかったが、ジャージーを買って無かった。
そこでテレビとパソコンの大型ディスプレーの前のドカッとすわり、ひとりで大騒ぎ。家人はあきらめて展覧会めぐりに出かけたのを良いことに、「それいけっ、押しこめ」、「わぉ~、ぎゃ~」とやっていた。

これ以上は恥ずかしいから止めよう。そして思った。
「この調子じゃ血圧があがってぶっ倒れるぞ。日本とジョージア戦だけをライブで観戦しよう」
「仕事もあるし、ジョージア語の学習と習得はどうする」── 反省。
というわけで、暫時ジョージア語の学習と習得はお休みをいただいております。

グルジア文字(グルジア国のもんじ、ქართული დამწერლობა,  kartuli damtserloba)は、南コーカサスにあるジョージアの公用語であるカルトリ語を書き表すために用いられる文字である。
ウィキペディア ゟ

現代のグルジア文字は33文字から構成され、アセンダー(上部突起)や、ディセンダー(下部突起)、あるいはその両方を持つ字(キャラクター)がある。左から右へ横書きで書かれるアルファベットである。
上掲図の「Georgian Extended」は近年アセンダーとディセンダーの突起部を減少させて製作された「見出し用新書体 乃至は 新字体」ともいえる。また追加拡充書体としてあらたにユニコードにも登録されて、見出しや広告を中心に広くもちいられている。

下掲の YouTube は、2016年に日本代表チームがジョージアに遠征、首都トビリシでのテストマッチの記録である。
冒頭部のピッチでのインタビューと中継アナウンスは冗長ながらジョージア語でなされているので耳慣らしにはちょうど良い。ラグビー中継ではどこも自国のチャンスには絶叫調になるのは共通のようでおもしろい。
また1時間18分からハーフタイムになるが、そこには集中的にコマーシャルが流れる。「Georgian Extended」の使用例と形態を見るためには絶好の時間帯となる。
共有リンクの画面はちいさいが、画面右下の YouTube の文字部をクリックすると、別画面で拡大画面がひらく。この試合は最終盤に逆転して、日本 28 - ジョージア 22 で日本代表が勝利した。

【 YouTube რაგბი. საქართველო – იაპონია / Rugby. Georgia vs Japan 2:20:47 】

『 LES CARACTÈRES DE L’IMPRIMERIE NATIONALE 』(フランス国立印刷所 pp 263-4  1990)

【もんじ・ことのは】 დაიწყო რაგბის მე -9 მსოფლიო თასის ტოკიო ! ── ენთუზიაზმი მხარდაჭერა იაპონიასა და საქართველოსთვის 第9回 ラグビーW杯 東京 がはじまったよ~!─ 日本 と ジョージア を熱烈応援

დაიწყო რაგბის მე -9 მსოფლიო თასის ტოკიო ! ── ენთუზიაზმი მხარდაჭერა იაპონიასა და საქართველოსთვის
第9回 ラグビーW杯 東京 がはじまったよ~!── 日本ジョージア を熱烈応援


◉ 2019年 9月 20日[金] 東京スタジアム、調布 プールA 日本代表 30-ロシア代表 10
いやぁ~、吾が日本チームはすっかり浮き足だっていた。地元開催の巨大イベントでの重圧とは、相当のものがあるのかとおもわせた一戦だった。

いかつい大男、それも歴戦の勇士でも、地元開催、4万5千余のギッシリ満員の熱狂的な観客をまえに、すっかり選手の表情が凍りついて、あきらかにあがっているとおもわせた一戦。
それでもフォワードはがっしりスクラムを組んでいたが、バックスはコミュニケーションがとれないまま、孤立してバッタバタ。前半は格下のロシアに互角の戦いを強いられた。

前半40分はハラハラさせられたが、後半になるとロシアチームのタックルは強烈でも、ラックへの集散が遅れ、またラックからの起き上がりが遅く、あきらかに疲労がみられ、膝に手を置く選手が目立った。
フォワードのNo 2 フッカー:堀江翔太は前半から右足を引きずっていたが、それでもフォワード第一列のNo. 1プロップ:稲垣啓太とともに鬼の形相になって、ここぞとばかりスクラムを押し込み、 No 8 の姫野和樹が予想外に踏んばっていた。

バックスではウイングの No 14 松島幸太朗の獅子奮迅の活躍が目立って、ピッチの右端で難しいパスをキャッチして、センターポール付近まで回りこんでのトライ3連発。まさに殊勲金なり。
吾輩はこれを「上越新幹線 → 長野廻り金澤ゆき」と名づけて嬉しくみた。ただし映像時代の現代では、右からだけの(松島)の攻撃は、すぐさま相手チームの映像解析チームによって対策がとられる厄介な時代でもある。三つのトライはほぼ同じコースに軌跡を刻んだが、次戦の強敵:アイルランド戦以降は対策がとられることは必至である。
故障あがりながら、おもに左から攻めるNo 11 ウイング:福岡堅樹は次戦は温存?

No 13 センターのピーター・ラズスカフが、混戦状態(アンストラクチャー)のなかで、ロシアチーム選手の手からボールをむしりとり、そのままゴールまで激走、これで日本は都合 4 トライを奪って、予想外のボーナス・ポイントまで獲得できた。
後半に投入されたスクラムハーフ のオッサン田中史朗、センターのスコット・ルークの両ベテランも踏んばり、少少苦い初戦ロシア戦での勝利となった。

それでもおなじプール A で、ティア1(伝統的強豪国)同士の闘いとなった強豪のスコットランドが、アイルランドに27対03とノートライのままに粉砕され、中核選手が二名故障してすでに帰国をやむなくされた。
いっぽう西の横綱ともいうべきアイルランドは、早〻と4トライをあげてボーナスポイントを獲得。勝利を確信すると、中五日とスケジュールがタイトな次の対日本戦に向けて、主力選手を前半から次〻と交代させていた。長丁場のプール戦ではベンチワークも需要で、ピッチ外でも熾烈な駆け引きが繰りひろげられていた。

前大会の開催国であり、やはりティア1のイングランドが、重圧と故障者の連続でプール戦で敗退したことをおもうと、目立った故障者もなく第一節を勝利できたわが国は大健闘というべきであろう。そのスコットランドとの対戦は、対アイルランド戦、対サモア戦ののち、プール戦最終節で、10月23日[日]19:45 横浜国際総合競技場での大一番を迎える。

[ 参考: 公式 WebSite|Extended Highlights: Japan v Russia 24:09
【 YouTube|ラグビーW杯2019|ロングハイライト / 日本代表 v ロシア代表|プール A 第1節 24:08

◉ 2019年 9月 23日[月] 豊田スタジアム、豊田 ウェールズ代表 43-ジョージア代表 14
ジョージアはかつて旧ソ連邦の一部だったため ラグビー W杯 代表としての歴史は浅く、2003年・2007年・2011年・2015年と連続五大会出場も、いずれも予選プールで敗退している。

世界と渡り合えるようになったのもここ20年ほどのこと。だが近年は目覚ましい進化を遂げて、前回の2015年イングランド W 杯では 2 勝をあげた。
レスリング(特にグレコローマンスタイル)・柔道・相撲(栃ノ心・臥牙丸)といった格闘技の大国だけに、スクラムの強さでは世界屈指。チームの愛称の「レロス」は、古くからあるラグビーに似た民族スポーツの「レロ」に由来する。

「プールD」は強豪がひしめき「死の組」とも評される。グループ五ヵ国のうちジョージアは世界ランクでは最下位をあらそう。フィージーとウルグアイには勝利の可能性はあるとはいえ、そこは魔物が棲むとされるラグビー、全敗の危機も抱えている。
今回の初戦の相手は「ティア 1」のウェールズだった。2007年から指揮を執り続ける名将ガットランド H C のもと、今年のヨーロッパ最強を決める「シックス・ネーションズ」で全勝優勝し、一躍 W 杯の優勝候補に名乗りをあげた。ボールを動かす巧みなランニングラグビーが持ち味で、熱狂的なファンが多く、本拠地の試合では観客が一体となって「アンセム」を歌い上げる。

ジョージアは前半はウェールズにやりたい放題やられていたが、あきらめることなく、終盤にモールを押し込んで 1トライ、最終盤に自慢のスクラムからの展開で 1トライをあげた。
ジョージアのひとは、髪は黒く、胴長短足で、瞳も黒いひとが多いようで親近感を持っている。
吾輩の勝手な想像では、ふるく中国北西部にいて「匈奴」とひとくくりにされていた遊牧民の一部族か、蒙古族の一部が西進して、この地に定住した可能性はないかとおもっている。だから新生児の臀部に「蒙古斑」があってもふしぎでは無さそうである。

ラグビー W杯2019 東京 では、プール A の日本と並んで、プール D のジョージアを応援している。

【 YouTube ジョージア国歌 「日本語訳」- Anthem of Georgia (Japanese) 01:30 】

ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたり、西アジアとも東ヨーロッパともされ、北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。
国土は 69,700 ㎢ で、北海道 83,424 ㎢ よりいくぶん狭いが、富士山よりよほど高い 5,000 m 級の高山がふたつもある。人口は 3,720,000 余人で、静岡県の人口 3,675,000 余人より少し多い程度の、ちいさな国である。

地政学的に古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教(グルジア正教)信仰をはじめとして、独自の言語と文字(もんじ グルジア語・カルトリ語ともする)と、独自の通貨「ラリ」を持ち、伝統文化を守り通してきた。
また辛党には、温暖な気候を利用して、甕に入れて地中で熟成させる高級ワイン生産の盛んな国としても知られる。
[ 参考: ウィキペディア ジョージア(国)

[ 参考: 公式 WebSite|ハイライト:ウェールズ V ジョージア 01:57 ]
【 YouTube|ラグビーW杯2019|ウェールズ代表 v ジョージア代表|プール D 第1節 24:08

【もんじ・ことのは】 რაგბის მსოფლიო თასი დაიწყება ! ── ენთუზიაზმი მხარდაჭერა იაპონიასა და საქართველოსთვის 第9回 ラグビーW杯 東京 がはじまるよ~!─ 日本 と ジョージア を熱烈応援

იწყება რაგბის მე – 9 მსოფლიო თასი ! ── ენთუზიაზმი მხარდაჭერა იაპონიასა და საქართველოსთვის

第9回 ラグビーW杯 東京 がはじまるよ~!── 日本 ジョージア を熱烈応援

《ラグビー W杯2019 東京  20ヵ国参加、12都市で開催、全48試合の熱戦》
ラグビー W杯2019 東京は、日本の12都市で2019年9月20日から11月2日にわたり、アジアではじめての、第9回ラグビーW杯東京2019が開催される。
世界各国から観戦に訪れ、各地を巡回して観戦するラグビーファンはおよそ10万人余と予想されている。
参加20ヵ国は「プールA-D」の四つのグループにわかれてリーグ戦を戦い、その成績上位8チームはトーナメント方式によって、準々決勝、準決勝、決勝と、およそ1ヶ月半ほどにわたり、全48試合の熱戦を展開する。

[ 詳細:【公式】ラグビーワールドカップ2019日本大会

前回のラグビーW杯2015イングランド大会では、日本は初戦で強豪南アフリカに終盤の猛攻で勝利し、また五郎丸選手のプレース・キックのルーティン「アーメンポーズ」などで話題は沸騰した。
ところがリーグ戦で三勝はしたものの、試合スケジュールが厳しく、僅差の勝利が続き、またトライ数が少なかったこと、スコットランドに大敗したことなどがたたって、わずかの差で決勝トーナメント、ベスト8(準々決勝)への進出はならなかった。

またラグビー発祥の地で、開催国でもあったイングランドも、グループリーグ(プール戦)で敗退の屈辱を舐めるという波瀾もあった。
ラグビーはかつて「闘球」とされ、偉丈夫が肉躰(肉弾)だけで撃突する。その試合には魔物が棲むともされる。ラグビーはまさに波瀾万丈の肉弾戦であり、なにがおこるか解らないのが面白いところである。
──────────────
今回、日本が入った「プールA」は、アイルランド(世界ランキング3位)、スコットランド(世界ランキング7位)、日本(世界ランキング10位)、ロシア(世界ランキング20位)、サモア(世界ランキング16位)の四ヵ国で総当たりのリーグ戦を戦う。

9月20日[金]東京都調布市東京スタジアム(収容人数:49,970人)で、18:30からの開会式に続き、19:45から日本対ロシア戦が開始される。

どの対戦も楽観はできないが、わが国にとっての最大の山場は、やはり10月13日[日]19:45から横浜国際総合競技場(収容人員:72,327人)で開催されるスコットランド戦であろう。
ここのところのテスト・マッチでも、スコットランドの スクラム・ハーフ:グレイグ・レイドローは老獪で、その高精度のキックは、一定間隔で音を刻むメトロノームにちなんで「メトロミックキック」と評される。したがって自陣で反則をおかすと「必殺メトロミックキック」で三点の失点を覚悟しなくてはならない。

また攻撃の起点となるスタンドオフ:フィン・ラッセルは、昨年の欧州六ヵ国対抗戦で、ランク上位のイングランド戦での勝利に司令塔として貢献するなど活躍がめざましい。スコットランド(世界ランク7位)、日本(世界ランク10位)まさに強敵との対戦である。
このスコットランド戦をなんとしても撃破すれば、グループリーグを突破し、本大会の目標としているベスト8に進出し、わが国のラグビーにも新天地を拓くことができそうである。

《 にわか ── それにしては 苔のはえた ラグビーファンのひとりとして 》
ところで吾輩は、運動という神経細胞のすべてを兄貴と妹に奪われてしまったようで、幼少時代から鉄棒の逆上がりができないというまったくの運動音痴である。
その分『観るだけ』と兄妹からは揶揄されたが、ほとんどの「スポーツ観戦」は好きである。つまり芝居や映画はできるだけライブで観たいとするほうので、テレビはもっぱら、ニュースとスポーツ観戦となる。

なかでも冬期の駅伝、マラソンとならんでラグビーは好きなスポーツで、全国高校対抗戦、大学選手権、社会人(実業団)ラクビーもよく観ている。秩父宮ラグビー場には観戦に出かけていたが、改修後は観客席の傾斜がきつくて避けるようになった。もちろん観るだけで実践はしない ……。

ラグビー W杯2019 東京 の正式メンバー31人が発表された。
スクラムハーフに茂野海人-しげのかいと、田中史朗、流 大-ながれゆたか-の三人が選出されたのは意外だったが、それには日本代表 HC ジェミー・ジョセフになにか秘策があるものと期待したい。
ジェミー・ジョセフは、今大会の最終選手選考基準として「ユーティリティー性」、すなわちポジションの固定されがちなラグビーに、複数のポジションを担当できる能力を期待したと述べていた。もちろん対象は、かの憎っきスコットランドの No 9 スクラム・ハーフ:グレイグ・レイドローであって欲しい。

選考メンバーでは、No 2 フッカー:堀江翔太、No. 1プロップ:稲垣啓太、No 9:スクラムハーフ のオッサン田中史朗、No 11 ウイング:福岡堅樹、No 14 or 15 センター/フルバック:松島幸太朗らが吾輩の贔屓の選手。
これに No 10 スタンドオフ:田村 優のプレース・キック ── とりわけ右45度からのキックが安定し、暴れ者 No 8 :アナマキ・マフィと姫野和樹に怪我が無く、No 15 フルバックには体軀は小柄ながら俊敏な松島幸太朗が入って、獅子奮迅の頑張りをみたいところである。

《 気になる国、気になるもんじがあった ── ジョージア国とジョージアもんじ 》

かつてラグビー観戦をしていたところ、試合前の国歌斉唱でソプラノの女性歌手が朗朗と「自由」を歌い上げ、選手も観客も滂沱の涙を流しながら熱唱している試合を観たことがあった。それが「グルジア」から「ジョージア」となったばかりの人口420万人余の国であることを知った。
ジョージアは、アジアの西端とも、東ヨーロッパともいえる国で、その地のひとは、髪は黒く、胴長短足で、瞳も黒いひとが多いようでなんとなく親近感を持った。

【 YouTube ジョージア国歌 「日本語訳」- Anthem of Georgia (Japanese) 01:30 】

大相撲には栃ノ心、臥牙丸、引退した黒海らがおり、レスリング(グレコローマン・スタイル)と柔道も盛んで、先月の武道館で開催された2019柔道世界選手権でもいくつかのメダルを獲得している。それでなんとなく気になって関心を寄せるようになった。
[ 参考: 外務省 ジョージア(Georgia)基礎データ
[ 参考: საქართველოს პრეზიდენტის ოფიციალური ვებგვერდი Official web site of the President of Georgia   ジョージア語と英語に切りかえ可能 ]

ジョージア(グルジア語: საქართველო, ラテン文字転写: sakartvelo, 英語: Georgia)は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパ、もしくは西アジアに区分される。
首都はトビリシ。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名のグルジア(ロシア語: Грузия, Gruziya)としても知られている。

かつてはソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシア連邦など一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。
ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じて、アゼルバイジャンやモルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (C I S)を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。

コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。
[ 参考: ウィキペディア ジョージア(国)

【 YouTube რაგბი. საქართველო – იაპონია / Rugby. Georgia vs Japan 2:20:47 】

『 LES CARACTÈRES  DE  L’IMPRIMERIE NATIONALE 』(フランス国立印刷所 pp 263  1990)

[ジョージアもんじ  書きかけ項目]

【ことのは】キリスト教イエズス会宣教師|フランシスコ・ザビエル(1506-52)来日470年|

1549年8月15日(和旧暦 天文18年7月22日)、フランシスコ・ザビエルが来日した。
1534年のモンマルトルの誓いにより、イエズス会が創立。同会は当初から世界宣教をテーマとしていて、ザビエルはポルトガル領であったインドの西海岸ゴアへ派遣され、ここを拠点としてインド各地へ布教。のちにマラッカ海峡を通り、モルッカ諸島(スパイス諸島)へ、その帰り道、鹿児島出身のヤジロウと出会い、日本布教の重要性を悟ったとのこと。

ザビエル一行は1549年8月15日(和旧暦 天文18年7月22日)、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。その三年ほどのち、1552年12月2日に中国の広東省にて布教中に病死。1622年に列聖され、遺骸はインド、ゴアのボム・ジーザス教会に安置。今でも10年に一度公開されているとのことである。
[ 参考:「日本の古本屋」メールマガジン ]

鹿児島市祇園之洲町に現存する、明治時代に建造され、戦災で焼失した聖堂を記念する遺構
Viva la 活版  薩摩 dé GOANDO 2014年11月1-3日 写真:サラマ・プレス倶楽部の皆さん

左)ヤジロウ Angero  中)ザヴィエル st Xavier    右)ベルナルド Bernardo

ヤジロウは人をあやめて海外に逃れていたとも、また難破漂流した鹿児島出身の漁民ともされている。そんなヤジロウ像は意外なことに「図書」を手にしている。ヤジロウは何語による、どんな複製方法による「図書」を手にしていたのだろう。
ザビエルの来日から30年後、おなじイエズス会の宣教師:アレッサンドロ・ヴァリニャーノらによって近世初期(16世紀末-17世紀初め)に日本を中心に刊行されたローマ字、あるいは漢字・仮名による印刷物「キリシタン版」は盛んに話題となるが、大航海時代にあって、イエズス会の創立者のひとりであったザビエルが、インド、日本、中国でなした伝道の詳細は詳らかにされていない。
[ 参考: 活版アラカルト Viva la 活版  薩摩 dé GOANDO まとめ

イエズス会とフランシスコ・ザビエル

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【ことのは】明治十年ころ|瓦版「当世名人八景」にみる句と平野富二の活版製造事業

『平野富二と活版製造事業 ── 東京築地活版製造所』 製作:青葉水竜

『平野富二伝  考察と補遺』(古谷昌二、朗文堂 pp 250)
第七章 石川島造船所の操業開始
補遺4 平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、

   解かしては
   かためて鋳ぬく
   植文字を
   平野に充つる
   雪の夕景
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である[古谷昌二]。

平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録
B 5 判 408 ページ ソフトカバー 図版多数
定  価  本体 3,500 円+税
発  行  日  2019年5月30日 初刷
編  集  「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発  行  平野富二の会
発  売  株式会社朗文堂
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明治産業近代化のパイオニアとして著名な平野富二は、長崎にうまれたひとと伝わってきた。長崎では東京に進出したひととだけ伝わった。
富二の生家は長崎の地役人たる町司で、身分は平民ながら、世襲の家禄をうけ、苗字帯刀をゆるされた矢次家の次男であった。幼名矢次富次郎は明治五(一八七二)年に妻帯し、戸籍編成に際して平野富二と改名して長崎外浦町に一家を構えた。中島川右岸、飽の浦の長崎製鉄所、立神ドック、対岸の小菅修船場などにわずかな足跡をのこして、東京に新天地をもとめ、数えて二六のとき、総勢一〇名で長崎をあとにして東京(現 千代田区神田和泉町一)に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげた。のちに同社は「東京築地活版製造所」と改組改称、「東洋一の活字鋳造所」として自他ともにゆるす存在となった。

素志である重機械製造と造船事業も明治九(一八七六)年から本格的に開始した。平野富二は石川島平野造船所(現IHI)を設立して数百トンもある巨大な船舶をつくり、橋梁をつくり、蒸気機関をもちいて海上輸送と陸上輸送の進展に貢献した。
平野富二はこうしたおおきな成果をあげつつ、在京わずか二〇年、四六歳にして病にたおれた。それでもその功績は、金属活字製造、印刷機器・資材製造、活字版印刷、重機械製造、造船、橋梁架設、航海、海運、運輸、交通、土木、鉱山開発……と、枚挙にいとまのない事業展開をはかって近代日本の創建に貢献した。

今般「平野富二生誕の地」碑の建立を期して直近二〇年ほどの東京と長崎の交流を本書『平野号』に記録した。あわせて、長崎にもうけられた海軍伝習所、医学伝習所、活字判摺立所、活版伝習所、英語学校などの施設の設備と伝習の成果が、江戸・東京の、どこに・いつ・どのように・たれが伝え移動させたのか、そしてこんにちの状況も記録して、今後の研究の手がかりとした。

本書はいたずらな個人崇拝や、明治の偉人として平野富二をとらえることなく、等身大の平野富二像を描きだすことに尽力した。すなわち平野富二の精神と功績は、明治の偉人という範疇にとどまらず、印刷術という平面設計から、重機械製造という立体造形物にいたるまで、現在のわれわれの日常にも脈々と受け継がれている。
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【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】


* 拡大画面ご希望の際は、画面右下  YouTube の文字部 をクリックすると別枠が開きます。

I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開

嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

[ 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/ ]
[ 参考: 平野富二の会

【展覧会】国立公文書館|令和元年度 第1回企画展「紙に願いを-建白・請願の歴史 -」|5月25日-7月7日

国立公文書館
令和元年度 第1回企画展「紙に願いを -建白・請願の歴史 -」
会  期  令和元年5月25日[土]-7月7日[日]
開館時間  月-日曜日    午前9時15分-午後5時00分
      * 期間中無休 入館は閉館30分前まで
会  場  国立公文書館 本館
入  場  料  無   料
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国立公文書館では、板垣退助・江藤新平らが提出したことで知られる民撰議院設立建白書をはじめとした建白書や、大日本帝国憲法で国民の権利として規定された請願権に基づいて国民から政府に提出された請願書を所蔵しています。
本展では、建白・請願に関する制度の変遷とともに、時代を映し出す建白書や請願書から、当時の人びとが紙にこめた願いをご紹介します。

【主な展示資料】

民撰議院設立建白書
明治7年(1874)1月17日、板垣退助-いたがきたいすけ・後藤象二郎-ごとうしょうじろう・副島種臣-そえじまたねおみ・江藤新平-えとうしんぺい-らが左院に提出した建白書。翌日の新聞「日新真事誌-にっしんしんじし」に建白書の内容が公表されると大きな反響を呼び、政府に対して多くの建白がなされるきっかけとなりました。

足尾銅山鉱毒に関する請願書
栃木県の足尾銅山から排出された有害物質によって引き起こされた農作物などの被害について、明治35年(1902)に群馬県渡瀬-わたらせ-村などの住民から出された請願書。明治34年12月、田中正造-たなかしょうぞう-が明治天皇に直訴した事件が起こったことにより、鉱毒事件に対する世間の関心が高まる中で書かれました。
同資料では、銅山における鉱業の停止、政府の手による被害地の復旧など、事件の根本的解決を求めています。

請 願 令
大日本帝国憲法に定められた請願権(第30条)により、天皇や帝国議会への請願が可能となりました。当初、天皇や行政機関への請願手続きは法令などで明示されていませんでしたが、大正6年(1917)に制定された請願令により、天皇や行政機関に対する請願の具体的な手続きが定められました。

[ 詳細: 国立公文書館 ]

【ことのは】THIS IS A PRINTING OFFICE|ここは印刷所なり|Beatrice Warde (Paul Beaujon)|

THIS IS A PRINTING OFFICE

Beatrice Warde (Paul Beaujon)

ここは印刷所なり

文明の十字街頭にして

芸術のこもれるところ

時の浸食にめげず

真実の剣が安置されるところ

風聞や浮説にくみせず

機械はうねりをあげる

ここよりひろくことばは飛翔して

電波のように浪費されることもなく

物書きの気ままに左右されることもなく

刷りをかさねて明瞭となり

時空を超えてとどまる

友よ! 君は聖地に足をふみいれた

ここは印刷所なり

Beatrice L. Warde

  • THIS IS A PRINTING OFFICE ── この銘板はワシントン D C のアメリカ合衆国政府印刷所のエントランスに設置されている。
  • Beatrice Warde (ビアトリス・ウォード アメリカうまれの女性 1900-69 Paul Beaujon-ポール・ビュージョン は、当時女性の進出が少なかった印刷界に向けてもちいた男性名前のペンネーム ウィキペディア )。
  • タイポグラファ、印刷史研究家、編集者・評論家。タイポグラフィ・ジャーナル『The Fleuron』,『The Monotype Recorder』誌などで活躍。16編からなるエッセイ集のうち『The Crystal Goblet ── 印刷は不可視である』でも知られる。
  • 16世紀の活字父型彫刻士 Claude Garamont 製作とされてきた活字の多くが、90年ほどのちのジャン・ジャノン-Jean Jannon 作であり、当時では標準的な図書本文用活字であった …… とした論考はおおきな話題を呼び、英国 Lanston Monotype Corporation では『The Monotype Recorder』の非常勤の編集ポストを提供したところ、若い女性の登場で驚愕したという逸話がのこる。彼女の「設定」では、ポール・ビュージョンはながい灰色の髭をはやし、四人の孫をもつ高齢の男性としていたが、実際はまだ20代の女性だった。

{参考:「Garamond Types  大陸を横断したフランス活字 ── ギャラモン活字の行方」『欧文書体百花事典』白井敬尚、朗文堂}
{ 参考: Thoughts On Typography    タイポグラフィ格言集

【ことのは】台湾の縁起物|柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ|諸事大吉|文と寓意

台湾みやげ《開運臻寶 諸事大吉》
柿+ミカン+豚の組み合わせは、
なぜ 縁起がよいのか?

◎本稿は2012年10月18日 サラマ・プレス倶楽部ニュースに
    掲載されたものの再録である。いささか旧聞に属するが
  招財進寳ーショウザイシンポウにおもわぬ反応があったので
ここに一部を修整して再掲載した。

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台湾旅行にでかけて、おみやげに「諸事大吉」とあった縁起物を買ったものの、もうひとつその縁起がわからないから、わかりやすく説明せよ …… との要望が参加者からあった。

そもそも中国・台湾では、まま  文+字 をもちいて、あるいは、ほかのものごとにかこつけて、それとなくある意味をほのめかせる「寓意」を駆使するから困るのだ。
そしてそれをくわしく説明すると「シッタカ」と揶揄される。ナラバと、おもいきり平易に説明すると「ウザイ」とされるから嫌になるのだが…… 。

これは一見ハロウィンのカボチャのようにもみえるが、柿 + ミカン(だいだい、橘)+ 豚(猪)を組み合わせたもので、正確には「開運臻寶シンポウ ── 諸事大吉」と呼ばれ、幸運をもたらす縁起物とされる。
すなわち「運勢がひらけ、宝物がどんどんやってくる。すべてのものごとが、このうえもなく良くなる」という、きわめておめでたいものである。 

「諸事大吉」の販促カタログをみると、ふんだんに商品解説が加えられている。その解説がおもしろい。原文の字面をながめるだけでも(むしろ原文のままのほうが)この縁起物の、寓意と諧謔 ユーモア がつたわりそうなのでここに紹介しよう。

  • 創新的思維加上古老的吉祥語意再融合藝術大師的手藝便造就了令人驚奇不已的逗趣可愛吉祥外型。
  • 橘子象徵吉祥,笑開懷的圓滾滾【諸事大吉】更象徵著凡事皆歡喜,諸事皆圓滿,大吉又大利,諸事皆順利。
  • 逗趣可愛外型,象徵極好之諸事大吉。
  • 笑顏常開諸事皆歡喜,諸事皆圓滿。

これだけでは不満そうなので、チョイと面倒でいつも嫌われるだが、もうすこしくわしく、写真の子豚ちゃんが寓意するところを解いてみた。
[参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月]

 【 柿 】
漢字音(中国読み)では、柿(Shih4)と、事(Shih4)は同音同声である。
したがって、ふたつ並んだ柿は「柿 柿」となって、多くのものごと「事 事 ≒ 諸事・百事・万事」をあらわす。
また唐の段成式は『酉陽雑俎』のなかで、柿には以下のような ななつの徳があるとのべている。
   1.壽がある
   2.多陰 → 夏に葉が茂り日陰を提供する
   3.鳥が巣をかけない
   4.蟲が寄りつかない 
   5.秋の霜に負けない(翫) 
   6.嘉実 ≒ 縁起のよい果物
   7.落葉肥大 → 落ち葉が大量で、よい肥料となる
このように柿とはもともと、雅ミヤビであり、俗でもあるが、まことに賞賛すべき果物である。

また、「獅」(Shih1)と、「柿・事」(Shih4)とは同音異声である。
すなわち「柿 柿」は、ここに「百獣の王たる 獅 子」をも寓意する。
これすなわち「諸事如意 ≒ すべてが意のごとくになる」のである。

 【ミカン → 橘】
中国・台湾では、ミカン、だいだいのことを、ふつう 橘 とあらわす。
ところで、おおきな橘 = 大橘(Ta4 Chu2)と、大吉(Ta4 Chi2)は音が相似ている。
すなわち、おおきなミカン=大橘は、幸福をもたらす大吉に相通じ、きわめて吉祥をあらわす。

 【豚 ≒ 猪】
中国・台湾では、ふつう豚は猪とあらわされる。その猪がなぜ珍重されるのかは、中国的形而上学がふんだんに織り込まれていて興味ふかい。
すなわち中国高級官僚登用試験「科挙」の成績上位者 3 名を「解元・会元・状元」の 大三元 と呼び、唐代には玄奘三蔵(ゲンジョウ-サンゾウ 三蔵法師 600?, 602?-664)ゆかりの西安・大慈恩寺の雁塔ガントウにその名を刻し、ひろく天下に公表された。それを「雁塔題名、金榜題名」と呼び、きわめて名誉なこととされた。

ところで豚の「蹄 ヒヅメ」と、「雁塔題名、金榜題名」の「題」とは、中国音ではともに「Ti2」とされ、同音同声である。
こうして猪=豚は、秀才・天才をあらわすこととなり、名誉なこととされる。
────────────────────
このようにして「開運臻寶シンポウ ── 諸事大吉」、すなわち「柿 + ミカン + 豚の組み合わせ」は、「可愛吉祥型であり、諸事に大吉をもたらし、諸事皆円満」となるのである。

さて …… 、これでご納得いただけたであろうか。
あれっ、どこからか、こんな蘊蓄ウンチクを聞かされるより、この愛らしい置物をみてるだけで幸せになれる、という声がきこえたような?

《もうひとつ、おまけ ── ホテルのキーホルダーの寓意》
今回の台湾旅行でのホテルは、皆さんとプチ贅沢して「圓山エンザン大飯店 Grand Hotel Taipei」に宿泊した。見た目は巨大な中国式の宮殿のようだが、街中の近代的なホテルとくらべても、ほとんど料金は変わらない。
かつて「圓山大飯店」は行政府の迎賓館としてつかわれ、台北第一の格式を誇ったホテルだった。それだけに近代ホテルでは味わえない、漢民族の歴史と伝統の重みを感じさせる重厚さがある。
それでも「圓山大飯店」は郊外の山の中腹にあって、交通はすこしく不便である。したがってこのホテルが選ばれたのは、いまの台湾は喫煙にとてもうるさく、かろうじてベランダでの喫煙が許される(黙認)のが、ここが選ばれた最大の理由だった。

ホテルのルームキーは、古風で、重量もかなりあるシロモノだった。これでは外出時にもちあるくのは辛いので、フロントにキー・ドロップすることになり、紛失も少なくなる効果もありそうだ。
このルームキーの形態は、中国春秋戦国時代(前 770-前 221)のころの貨幣「布貨 フカ」を模したものである。「布貨」は農機具のスキやクワに似せ、次次と勃興した春秋戦国時代の各国で、それぞれ意匠をこらしてつくられた。

古来農業国であった中国では、農具はたいせつな財産であり、その農具を模した青銅の貨幣を「布貨」と呼んでいた。その由来は、やはり貴重な商品であった「布帛 フハク ── 織物・絹」とどこでも交換されたので、その名がうまれたとされる。

こうした縁起をもった「布貨」を模したカギの表面には、このホテルの名称「圓山」を巧妙にデザインした意匠がみられる。
また「布貨」の裏面には、篆書風の字による「財」が配され、富貴をねがう国民性をすなおにあらわしている。
これがして台湾を<文+字 の国>とするゆえんである。

{ 新 塾 餘 談 }

2019年03月12日、台湾台北市「日星鋳字行」の張 介冠父子が来社。通訳は劉 慶さん。
台湾でも活字母型にさまざまな問題が発生しており、その解決策のご相談。はなしは複雑多岐にわたり、長時間におよんだ。張 介冠さんは根っからの技術者で、活字鋳造に熱中するだけで十分幸せだというひとであるが、母親から経営・経理を引き継ぎつつあるご子息は真剣だった。

その話し合いのなかで、最近日本からの見学者が多くあって、それは嬉しいことではあるが、
「ちょっと見学だけさせてください …….」という困った訪問客のはなしがでた。わが国ではふつうにみられる光景だが、どこの国でもこうした「Just looking」の訪問者は歓迎されないもの。
「日星鋳字行」は活字鋳造工場であり、活字販売所でもあるが、決して無料の博物館施設ではない。こころして訪問していただきたいところではある。

{初出:花筏 台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ 諸事大吉 文と寓意
[関連:Notes on Typography 【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう

【ことのは】東京築地活版製造所 新社屋紹介「郵便はかき」|コロタイプ印刷術|関東大震災直後の貴重資料


《牧治三郎 なにかの えにし であろうか、はたまたなんらかの 因果 であろうか》
2016年「メディアルネサンス-平野富二生誕170年祭」を機に、長崎での平野富二の生誕地が判明し、さっそく「平野富二生誕の地-碑建立有志の会」が結成され、多くの会員の協力をいただき、2018年11月「平野富二生誕の地碑」が建立され、除幕式と祝賀会をへて、長崎市に寄贈された。


平野富二が1872年(明治05)上京後、およそ20年にわたって展開した多様な事業のうち、最初の事業であった、活字製造・印刷機器製造の拠点、長崎新塾出張活版製造所 → 東京築地活版製造所は、明治後期ともなると「東洋一」を自他ともに許す企業に成長していた。ところがどういうわけか東京築地活版製造所には自社の記録が少なく、近年つぎつぎと新資料が発掘されているとはいえ、研究者の悩みの種になっていた。

そのひとつが、竣工直後でちょうど段階的に移転作業が進んでいたさなか、1923年(大正12)09月01日午前11時58分に襲来した関東大震災によって紅蓮の炎につつまれたとされる、新本社工場ビル(地下一階、地上四階)のアールヌーヴォー風の趣のあるビルの記録である。
施工業者は 清水組 ≒ 清水建設 であったことは判明している。しかしながら関東大震災の影響があまりに激甚で、おそらく竣工落成披露などの「慶祝行事」はできなかったのではないかとみられている。そのため比較的近年の建物の割りに、肝心の画像資料がほとんどなく、拡大すると網点が現出する不鮮明な写真にたよるばかりであった。

ところで …… 、牧治三郎は「鮮明な写真資料を所有しているはずだが、現在所在がわからない …… 」と、活字業界誌『活字界』、パンフレット『活字発祥の碑』などにしばしばしるしているが、どうやらその資料らしき「郵便はかき」が、回り回って稿者の手許に転がりこんできた。
そのゆえんを報告したい。

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
牧 治三郎『活字界 21号』(全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

《活字発祥の〔舞台、〕歴史〔の幕を〕閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビル〔現コンワビル〕に改築のため、去る〔昭和46年〕3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年〔1922〕野村宗十郎〔専務〕社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後〔順次移転作業が進みつつあるなか〕、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、〔東京築地活版製造所〕大阪出張所の字母〔活字母型〕が健在だったので、1週間後には活字販売を開始〔した〕。 いまの東京活字〔協同〕組合の前身、東京活字製造組合の罹災〔した〕組合員も、種字〔活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?〕の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。

《 ネットショップに東京築地活版製造所のビル写真が…… 》
「平野富二生誕の地」碑建立有志の会の会員からこんな連絡があった。
「ネットショップに東京築地活版製造所のビルの写真が …… 安いですよ」
WebSite に紹介されていた図像は、たしかに 周囲に建物がみられずビル全体をみることができるもので、東京築地活版製造所の震災後まもなく撮影され製作されたとおもえる写真だった。
支払いは前金で、入金確認後に郵送するとあった。即座に注文したが、振込手数料・送料の合計のほうが高くつきそうな価格だった。
千葉県の古書店からの送付であったが、厚ボールに挟みこんでとても丁寧に送っていただいた。

上掲写真がそれであるが、写真ではなく、宛名面に「郵便はかき」とあり、つい先日、本欄{【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史 2019年05月05日}で紹介した、販促用パンフレット『新年用見本』(二つ折り中綴じ、東京築地活版製造所、大正15年10月、牧治三郎旧蔵)と極めて関連性のつよい資料だった。
唸ったのは、ここにもベッタリと「禁  出門  治三郎文庫」の蔵書印があったことである。幸い宛名面だけの押印であったが、牧治三郎は蔵書のどこにでも、所構わず、この特異な蔵書印を赤いスタンプインキでベタベタと押していた。

これらの牧治三郎旧蔵資料は神田 S 堂が一括して引き取ったと聞いていた。S 堂は神保町に店舗をかまえる本格的な古書店で、年に数度「古書目録」を発行しているが、そこに一葉だけの「はがき」をみた記憶はない。したがって古書店仲間の市にでも出して、それを「はがき」の扱いを得意としている業者が入手してネットショップで販売したものらしい。あるいはすでに三次循環として稿者が落手した可能性もある。

宛名面には、下部に再紹介したが『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月)中面右ページ下部にある「電気版」で、「 Np. 7  貳拾銭」として紹介されているもので、右起こし横組み「郵便はかき」である。ここには濁点は無い。
切手貼りつけ欄は、罫線で組みたてたのではなく、名刺・はがき・封筒などの印刷をもっぱらとする「端物印刷所」では、かつては必須のもので、これも電気版をもちいたものであろう。
────────────────
絵柄面は「コロタイプ印刷」で、1923年(大正12)に竣工した東京築地活版製造所本社工場の全景写真である。
なにしろ死者・行方不明10万5000人余、住宅全半壊21万余、焼失21万余とされる大災害のあとだけに、東京築地活版製造所ではいちはやく復興をみたとされるが、やはり世情をおもんぱかって、このような簡素な「写真はかき」として記録をのこしたものとおもわれた。
したがって資料の山に埋もれていた牧治三郎老人にとっては、このたった一葉の「郵便はかき」を見つけだすことはほぼ不可能であったと想像された。
それでも正門には「株式会社東京築地活版製造所」の社名が掲示され、「◯も H 」の社旗がはためくこの貴重な資料は、廃棄や破却をまぬがれ、二次循環・三次循環にまわっているのがうれしく、興味ふかいところであった。

この「コロタイプ印刷」は、オフセット平版印刷法がまだ未熟だった1970年ころまでは写真印刷(写真複製)に威力を発揮した技法で、年輩の読者なら卒業アルバムなどで、倍率の高いルーペでみても網点のみられないこの技法独特のなごりをみることができる。
しかしながらこのコロタイプ印刷法は現代ではすっかり衰退して、現業の業者は京都に三社を数えるのみとなっている。
ウィキペディアに要領よく説明があったので、一段下にその抜粋を紹介する。

下部の右起こし横組みの「株式会社東京築地活版製造所」の社名は、既述のパントグラフをもちいて製作された「平形書体見本」にみるものである。
同社ではこれをしばしば「社名制定書体 ≠ ロゴタイプ」として、縦組み・横組みを問わずにもちいていた。字画形象からみて「二号平形」とみられるが、写真技法を経たせいか原寸を欠いている。

【 コロタイプ 】ウィキペディアゟ
コロタイプ(英語 :  collotype)は製版方法の一種で、平版の一種である。実用化された写真製版としては最も古いもので、かつては絵葉書やアルバム、複製などに広く使われたが、現在では特殊な目的以外では使われていない。

技    法
ガラス板にゼラチンと感光液を塗布して加熱することによって版面に小じわ(レチキュレーション)を作る。それに写真ネガを密着して露光すると、光のあたった部分のゼラチンが硬化して水をはじくようになる。
版面を湿らせると水を受けつける部分が膨張してインクがつかなくなるため、硬化した部分にだけインクが付着する。インク付着量の大小によって連続階調が表現され、オフセット印刷のような網点を持たないことを特徴とする。

欠点は印刷速度が遅いこと、耐刷力がないこと、複版する手段がないこと、多色刷りが難しいことなどで、このために現在ではほとんど行われていない。

歴    史
コロタイプはフランスで生まれ、1876年にドイツのヨーゼフ・アルバートによって実用化された。
日本では  小川一真  が1883年にボストンで習得し、帰国後の1889年に新橋で最初のコロタイプ工場を開いた。日露戦争時にコロタイプと石版を組みあわせた絵葉書が大ブームになった。
1897年には横浜のドイツ商館アーレンス商会出身の上田義三が欧米留学ののち、コロタイプ印刷業「横浜写真版印刷所(のち上田写真版合資会社)」を開業した。

便利堂(1887年創業、1905年からコロタイプ印刷を行う)の佐藤濱次郎は法隆寺金堂壁画の原寸撮影を1935年に行い、それを元にコロタイプによる複製を1938年に作った。1949年に壁画は焼失したが、のちにこのコロタイプ複製をもとにして再現された。

効率の悪さから現在はほとんど消えた技術になっている(社名に「コロタイプ」のつく印刷会社は各地にあるが、実際にはオフセット印刷しか行っていない)。しかし文化財の複製のためには重要であり、便利堂はカラーのコロタイプ印刷も行い、また2003年に「コロタイプの保存と印刷文化を考える会」を発足した。

小 川   一 眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま)
万延元年8月15日(1860年9月29日)-
昭和4年(1929年)9月6日)
日本の写真家(写真師)、写真出版者。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。
東京築地活版製造所第五代社長:野村宗十郎は、自伝のなかで、小川一眞の渡米費用の一部を負担するなどして、同社でもコロタイプ印刷法を獲得しようとしていたことを記録している。しかしながら同社の大勢は積極的ではなかったとみられ、事業化に成功した形跡はみられない。

『コロタイプ印刷史』(編著・発行:全日本コロタイプ印刷組合、昭和56年5月8日)
ときおり産業史研究者や、社史編纂者のかたが借りにみえるほど残存部数の少ない資料らしい。コロタイプの歴史・技法が丁寧に紹介され、コロタイプ印刷の製作実例と作品見本が綴じこみ付録として豊富に紹介されている(撮影:青葉水龍 稿者蔵書)。

《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》

『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)
<画像修整協力:青葉水龍>

東京築地活版製造所支配人時代の野村宗十郎
東京築地活版製造所専務取締役:第五代社長時代の野村宗十郎

野村宗十郎 のむら-そうじゅうろう 1857-1925

安政四年(一八五七)五月四日長崎に服部東十郎の長男として長崎築地町に生まれる。のち野村家の養子となる。本木昌造の新街私塾に学ぶ。明治二十二年(一八八九)七月陽其二の推薦で東京築地活版製造所に入社。
同二十四年六月『印刷雑誌』に欧米のポイント活字システムを説明したわが国で初の論文を発表。〔ここでの論考はアメリカンポイントの説明としては不十分かつ不適当であり、むしろ現行の DTP ポイントシステムを説いたものだとして、近年では批判もみられる〕。同二十六年米国シカゴで開催の万国博覧会の視察に赴く小川一真に写真製版法の研究を依頼、持ち帰った網版の試験刷に成功し初期の写真製版印刷分野に寄与した。
同二十七年より和文ポイント活字の製造を試み、三十六年大阪で開催の第五回内国勧業博覧会に十数種の見本を出陳した。大阪毎日新聞社は記者菊池幽芳の調査結果を紙上に載せるなどこれに多大な関心を示し、率先して新聞印刷に採用。爾後新聞各社が採用する端緒となった。
出版印刷では四十三年『有朋堂文庫』が九ポイント活字を用いたのが最初である。三十九年社長に就任。大正七年(一九一八)後藤朝太郎に活字の字画整理を、同八年桑田芳蔵に活字の可読性の調査を依嘱するなど活字の改良普及に貢献した。同十四年四月二十三日東京で没した。六十九歳。正七位に叙せられた。
[参考:『日本印刷大観』(東京印刷同業組合編、昭和13年、この項は牧治三郎執筆)]

<タイポグラファ群像*003 牧治三郎 2011年08月11日 花筏 初出

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【ことのは/もんじ】新元号・令和|なにかと煩瑣なことが多くて……|まぁそのうち馴れるでしょうが

使いますか ? 「元号合字」  ㍾ ㍽  ㍼  ㍻  . .

《 令和 …… 「U+32FF」が既に予約  ヤレヤレ 疲れます 》

2019年05月から使用される元号が「令和」に決まった。発表はエイプリル・フールの四月一日、なにかと想像力が欠如していると感じたが、あまり関心はなかった。こんなことで騒ぐより、もっと肝心なテーマはあるはずだ …… 。
ようやくオンボロパソコンに「令和」を単語登録。その際、無意識にかな変換の「読み」に「りょうわ」としてやりなおし、再登録。「へいせい」のときもそうだったが、この歳になると「れいわ」に馴れるのには時間がかかりそうだ。上掲図版は Windows – OS7、変換ソフトは ATOK の文字パレットである。

ところが、発表以来、印刷業者を中心に「新元号 令和」の活字書体とその字画処理(字体)に関して、悲鳴にも似た@メールや、電話をいただいている。それには誠意をもって対応させていただいている。
また個人的には「令和」、とりわけわが国の一部の活字書体「令」における字体と字画処理の混迷に意見はあるが、「字形」などという意味領域のあいまいなことばが流布した現在、「令」だけで済むわけもなく、基本的にノーコメントとさせていただいている。

金属活字の時代は、活字製造業者が多く、競争が熾烈で、「合字」「連結活字 logotype」と称して、全角の枠の中に明治・大正・昭和などの元号を合わせて鋳込んだ活字を製造販売していた。
それは写植活字にも継承されて、明朝体、まれにゴシック体などの基本書体の「記号」として扱われ、官公庁の文書需要を中心にもちいられた。ただしこれらの時代の「元号合字」は、ほとんどの筆書系活字や、装飾系活字に及ぶものではなかった。

現在の電子活字は、当初は様〻な文字集合コードが存在したが、現在は Unicode(ユニコード)に集約されつつあるようだ。ユニコードは、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの業界規格である。文字集合(文字セット)が単一の大規模文字セットであること- Uni という名はそれに由来する-などが特徴である。

パソコンという軽便なツールが開発され、書体製作ソフトウェアが低廉化・普及して、電子活字は急速に、膨大な書体数と、そのファミリー、ウェイトの拡大、キャラクター数の増大をみるようになった。
そしていつのまにか筆書系活字や、装飾系活字といったジャンルの書体も、同業他社との横並び意識がめだって、キャラクター数の多寡を問われ、良き抑制が効かない時代になっている。
こんな時代 ── 換言すると、およそ官公庁での文書処理での使用が予測されないディスプレー書体(装飾系書体)の、ウルトラボールド/極太書体にまで「元号合字」をつくらなければならなくなった時代 ── 友人知人の書体製作者がかわいそうになる事態である。

しかも上掲図のユニコード「U+32FF」の文字パレットをみると、予約された場所は「◯入りカタ仮名 ㋻ ㋼ ㋽ ㋾」と「合字 ㌀ ㌁ ㌂ アパート・アルファ・アンペアなど」との間(隙間・空き地)であり、やはり もんじ(文字)というより記号の部であることがわかる。
ATOK ではより明瞭で、これらは「単位記号」として、「℃・%・$」などとおなじ場所に配置している。

株式会社モトヤは、金属・写植・電子活字の三世代を生きぬいてきた優良企業である。そこからのメールニュースを紹介したい。
すでにユニコ-ドには上掲図に青で表示した「U+32FF」という領域(陣地)が「令和」のために確保されている。多くの友人・知人は、その予約された領域を埋める作業に追われることになる。
────────────────
株式会社モトヤ

モトショップ メールニュース 20190402
弊社書体の新元号「令和」への対応について

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【ことのは】国立公文書館|あの日の公文書|暦年-1月1日ゟ12月31日迄と会計年度-4月1日ゟ3月31日迄のはじまり

国立公文書館 ニュース
Vol . 17  3月-5月  
A 4 判 8ページ 中綴じ フルカラー 表紙四ゟ紹介

会計年度はなぜ四月はじまりなのか

4月は新しい年度を迎え心弾む時期。このように私たちの生活に密接な「年度」は、明治時代の会計年度が元になりました。当初から4月はじまりだったわけでなく、明治政府により会計年度がはじめて制度化された明治2年(1869)は、10月はじまり。続いて西暦を採用した明治6年からは1月はじまりになりました。つまり、暦年と年度のはじまりが同じ時代があったのです。
明治8年からは、地租の納期にあわせるという目的で、7月はじまりになりました。

次に会計年度を変更したのは、明治17年(1884)。その頃の日本は国権強化策から軍事費が激増し、収支の悪化が顕著になっていました。当時の大蔵卿である松方正義は、任期中の赤字を削減するために、次年度の予算の一部を今年度の収入に繰り上げる施策を実施。この施策は珍しくなく、当時はよくおこなわれていました。
そして予算繰り上げによるやりくりの破綻を防ぐため、松方は一策を講じました。明治19年度の会計年度のスタートを7月はじまりから4月はじまりに法改正したのです。この改正により、明治18年度は7月から翌年3月までの9ヶ月に短縮され、予算の辻褄をあわせると同時に赤字も削減されました。

こうして会計年度は4月はじまりになりましたが、この会計年度にあわせる形で学校などの新年度も4月開始になっていきました。その後、現在まで4月はじまりの年度は続いています。

「会計法制定弁会計検査院職制章程更定ノ件」。会計年度を7月から翌年6月とする旨が記され、はじめて会計年度が法制化された。
公文類聚-こうぶんるいしゅう-に収録された「会計年度ヲ改定ス」。明治19年から会計年度を4月はじまりに変更するなどの改定内容と、改定により予算繰り上げの問題が解決する旨が記されている。

【 詳細: 国立公文書館 】 { 活版アラカルト まとめ }

【ことのは】クリスマスローズ Christmas rose|花ことのは-わたしの不安を救い給え

【クリスマスローズ Christmas rose】  [学]Helleborus niger L.

吾が「空中庭園」ではクリスマスローズが花をつけた。例年着花状況がおもわしくなかったが、鉢植えにかえ、施肥を十分に施したら、スミレに続いて寒風のなかで元気に花をつけた。
実際には花弁はうつむき加減で咲いているが、撮影者のノー学部が強引に上向きにしたらしい。キンポウゲ科の常緑多年草。ヨーロッパの原産で明治のはじめに渡来した。根茎は太く短い。葉は根生し、15-30センチメートル、掌状複葉で革質、暗緑色。小葉は7-9片で先端部に鋸歯がある。花茎はよく分岐して1-3花をつける。花の大きさは径5-6センチメートルであるが、花弁は小さく、筒状で、雄しべより短く目だたない。萼-がく-の5片が大きく花弁状をなして美しく、咲き始めは白色で、のちに紫色を帯びる。

根にはサポニンが含まれていて強心剤、利尿剤として用いられる。
変種も多いが、オリエンタリス H. orientalis Lam. は西南アジアの原産で、花茎が分岐して3-6花をつける。緑色または黄緑色で縁辺は紫色。花期は4、5月で、栽培されるものの多くは本種の系統が主体になる。寒さに強く、排水のよい半日陰地を好む。繁殖は11月ころの株分けが普通で、実生-みしょう-もできる。

<民間伝承>
クリスマスローズはその黒い根に魔力があると信じられ、古代ギリシア時代には狂気をなおす霊薬の一つに数えられていた。また、頭を良くする薬として当時の劇作家や哲学者が服用したともいわれ、イギリスではこの根を取るための魔術的な方法が定められていた。それは、花のまわりに剣で円を描き、呪文を唱えて引くというものである。
また、引き抜いている姿をワシに見られると、採取者は死ぬともいわれた。《セルボーンの博物誌》には、イギリスの婦人が子どもの虫下しにこの葉の粉末を飲ませるとある。

俗説によれば、アダムとイブが楽園を追われたとき、きたるべき罪の浄化の象徴として持ち出したのが、この花であったとされ、以来、この花を〈楽園の思い出〉の象徴とする美意識も生まれ、コールリジや H.G.ウェルズ らがそれを文学化した。花のことのは〈私の不安を救いたまえ〉。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科事典』(平凡社)]

【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

紫禁城-故宮博物院を北側の神武門の裏山、景山山頂からみる

景山は中国の首都・北京のほぼ中央、紫禁城の北の一郭を占める景勝地。標高43メートルの人工の丘であるが、かなり急峻な坂道をのぼる。
金代(前金)に離宮を造営した際、現在の北海を掘った土を堆積してつくられた。
元代には宮廷の庭園とされ、明の永楽年間に紫禁城を囲む筒子河-とうしが-をさらって五つの峰をつくり、清朝(後金)乾隆帝がその峰の上に万春亭をはじめ、壽皇-じゅこう-殿、観徳-かんとく-殿などの山亭や宮殿、花園を設けた。

紫禁城にはさらに周囲をおおきくかこむ堅固な外壁があったが、現在では楼閣の一部を除いて撤去されて幹線道路となっている。この外壁の内側(旧内城地区。旧市街)では景観保存のために、紫禁城の正殿、外朝の「大和殿」より高い建造物は禁止されており、上掲写真では靄っているが、高層ビル群の建築はかなり遠方の旧外城地区(新市街)でなされている。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

上掲写真とは異なり、南側から紫禁城を概観した。よく知られる天安門・端門はこの図版よりもっと南(下側)に位置する。
紫禁城は中国、明・清(後金)時代の北京の宮城であった。紫禁とは、天帝の宮城とみなされていた星座の紫微垣-しびえん-からでた語で、皇帝の居所を意味する。

はじめ明の永楽帝-えいらくてい-が国都を南京から北京に移すのに際し、元の大都の宮城址付近を利用して造営し、十数年を費やして1420年に完成した。
その後、明・清時代を通じて宮殿や門はたびたび改築修補され、それらの名称も変更されている。現在の建物は、ほとんどが明代の様式をおおむね継承して、清(後金)時代に建てられたものである。

紫禁城は北京の旧内城の中央南部寄りに位置する、東西約750メートル、南北約960メートルの城壁に囲まれた約72万平方メートルの区画で、その外側に濠(筒子河-とうしが)を巡らしている。
城壁の四周にそれぞれ一門があり、南から天安門・端門を経ていたる午門-ごもん-が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼-かくろう-がある。
現在は混雑防止の見地から、南の午門から入場し、北の神武門から退場する一方通行とされていて逆行はできない。また東華門、西華門は関係者のみが使用している。

城内は南と北の二区画に大別され、南は公的な場所の「外朝」で、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並び、その東西に文華殿、武英殿などの殿閣が配置されている。なかでも中和殿、保和殿とともに、三層の白色大理石の基壇上に建つ太和殿は、東西約60メートル、南北約33メートルの堂々たる建物で、紫禁城の正殿として重要な儀式に使用された。

外朝の北は皇帝の私的生活の場所の「内廷」で、保和殿の北の乾清-けんせい-門から、乾清宮、交泰殿、坤寧-こんねい-宮などが中軸線上に一列に並び、その左右に后妃らが住んだ東西の六宮をはじめ多くの建物がある。
皇帝の日常の起居はもっぱら内廷の「養心殿」でなされ、その南西の隅には、しばしば温室とあらわされる「三希堂」があり、皇帝の学問所であった。内廷と外朝を連結するのは、外朝の北端で、養心殿と隣接する「軍機処」でほとんどがなされた。

このように紫禁城には大小無数の建物と、紅殻色の牆壁-しょうへき-や門が整然と配置され、黄瑠璃瓦-こうるりがわら-や朱塗りの柱とあいまって集団美をなしている。
そしてこの豪華な大宮殿は、明・清時代の皇帝権力の強大さをよく表すものである。1925年以来、故宮博物院として一般に公開され、中国文化財の一大殿堂となっている。
────────────────
中国での改革開放政策が滲透し、またわが国からは中国へビザ無し渡航ができるようになったこともあり、多くの友人・知人が訪中するようになった。ところが造形者の一部のかたが訪中して、

「長年の念願だった武英殿をぜひともみたい」
とされて、紫禁城-故宮博物院を訪問したところ、門(武英門)とその扉が固く閉ざされ、武英殿の写真は一枚も撮れなかったと嘆かれるかたが増えてきた。

武英殿は午門を入ってすぐ左側にあるが、地図では見えない障壁が幾重にも通路に立ちはだかる。かくいう稿者も1970年代の末からこの門扉の前に空しく五度ほど立った。
その折り、なんとかのぞくだけでもと思ったが、名刺一枚も挟めぬ(悔しいが実際にやった)ほど固く閉ざされた門扉に撃退された。
その扉がようやく開いたのは、長年にわたった武英殿の改修がなって、しかも北京オリンピックが終わってから暫くしてからのことである。

現在の武英殿の本殿は「書画館」と名づけられて美術館・博物館として利用されているが、一度の会期が半年から一年と長く、次回展までの間の閉鎖が数か月に及ぶことも珍しくない。したがって上掲の造形者は、休館中に訪問されたことになり、運が悪かったとしかいいようがない。
のちに知ることになったが、人口一億二千万ほどのわが国では、国立博物館などでも三ヶ月ほどの会期が設定されている。ところが人口十四億余の中国では、

「一部の民衆に展観していただくだけでも、最低半年、ほとんど一年間の会期設定が必要です。それに紫禁城内外の各所に埋もれている展示品を整理し、清拭し、修理・修繕し、資料整備などを考慮すると、次回展の準備にも数ヶ月の時間が必要です」
とのことであった。

修理と蔵書の再収集が続く 皇帝図書館の文華殿・文淵閣

武英殿と中心軸をはさんで正対する御殿が文華殿である。ここは中華皇帝が臨席する図書館(閲覧室)であり、その背後にある文淵閣は宮廷の蔵書蔵である。既述のように紫禁城の屋根は黄瑠璃瓦であるが、文華門・文華殿・文淵閣などの一画だけは、図書の保護のためとされる深い緑色の瓦が葺かれている。

武英殿は長年の修理ののちようやく公開されたが、文華殿一円はおおきくフェンスで囲われ、いまだに非公開の一画となっている。2013年の訪中の折り、紫禁城図書館のご好意でこの宮殿にはいることができた。
文華殿は皇帝の臨席に備えた豪勢なつくりで、建物の各所に図書にまつわる絵画や彫刻がほどこされていた。その背後の文淵閣にはいったときに、おもわず息を呑んだ。文淵閣にあったはずの『四庫全書』をはじめとする万巻の図書はまったくなく、そこには広大な空間だけが拡がっていた。
「ここの蔵書は、すべて台湾に持ちさられました」

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【ことのは】版画同人誌『月映』|恩地孝四郎 ── 田中恭吉わかくして逝き そののこすところの作、あまた。

『田中恭吉作品集』
(著者:田中恭吉、編者:三木哲夫、1997年、玲風書房)

  上版のことば
一人あり。ここにいのちをこめてつくしたるこの世のわざ、あはれ
漸くその扉を開きしのみにしてその身を失ひたり。 田中恭吉わか
くして逝きそののこすところの作、あまた。 そのいける時心願就
らざりしかば、なげきいくばくぞや。さはれ、そののこせるもの、
未だ彼のすべてを張らざりといへ既にそののちの姿を潜ましむ。捨
つるに惜し。そをとりあつめて世に遺さむ願、ただに己の私情にあ
らず。彼、世をあいしいのちをあいし、我、世を愛しいのちを愛す
れば、ここに版に上して、心を齊しうする人々のまへに置き、彼を
愛する人とともに、彼世にありしを記銘せむ希ひなり。
一九一六年二月                 恩地孝四郎

【『月映』の三人の同人と田中恭吉を巡って】

◯ 恩地孝四郎(おんち-こうしろう 1891-1955)
大正-昭和時代の版画家、装本家。明治24年7月2日うまれ。東京出身。東京美術学校(現東京藝術大学)中退。抽象木版画の先駆者。竹久夢二と親交をむすび、大正3年同人誌『月映』を創刊する。
愛書家・活字狂を自認していた志茂太郎の委嘱により、愛書誌『書窓』シリーズの著作とデザインにあたった。日本創作版画協会、日本版画協会の創立に参加。萩原朔太郎の『月に吠える』や『北原白秋全集』などの装幀も手がけた。昭和30年6月3日死去。63歳。著作に『本の美術』、『工房雑記』など。

◯ 藤森 静雄(ふじもり-しずお 1891-1943)
大正-昭和時代前期の版画家。明治24年8月1日生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)在学中に恩地孝四郎、田中恭吉と詩と版画の同人誌『月映』を刊行。大正7年日本創作版画協会の創立に参加した。『新東京百景』(恩地孝四郎らとの共同制作)や『大東京十二景』が代表作。昭和18年5月28日死去。53歳。福岡県出身。

◯ 田中 恭吉(たなか-きょうきち 1892-1915)
大正時代の版画家。明治25年4月9日うまれ。白馬会洋画研究所をへて、明治44年東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。その後恩地孝四郎との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森静雄も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯『月映』〔いわゆる私家版『月映』-つくはえ-* 01 〕を刊行した。
しかし恭吉は大正2年(1913年)頃から肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。
その作品はエドヴァルド・ムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。帰郷後は躰に負担のかかる版画ではなく、詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年(1914年)9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。
遺作が萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の挿絵として紹介された。装幀は友人の恩地孝四郎。和歌山県出身。号は未知草。
────────────────
『田中恭吉作品集』には「田中恭吉小伝 ── 大槻憲二」(p.79 – 90)が収録されているが、その最終部には以下のようにある。

〔前略〕最後にあたって彼の遺友たる我々十数名の者の彼に対する友愛と、さゝやかな努力の集積とが、変して彼の遺作展覧会となりたる事を、自分は附記しておかねばならぬ。
それは一九一五年(大正四年)十二月三、四、五日の三日間、日比谷美術館で催された。
それは可成りの成功を収めたようであった。一堂の下に集められた彼の生涯の作品は、実によくまとまった立派なものであった。
また恩地の努力と好意とによって、今や彼の遺作集は出版される事になり、自分はその内に収めるために、彼の小伝の筆をとる事になった。

[追 記]
併しその出版は成功しなかったようで、私の書いた「伝記」も空しく筐底に埋もれることとになって今日に至った。

この大槻憲二による「田中恭吉小伝」がおよそ八十余年ののちに筐底を脱するのには、当時和歌山県立近代美術館・学芸課長/三木哲夫氏(のち国立国際美術館学芸課長、現兵庫陶芸美術館館長)の常にあらざる努力によった。
『田中恭吉作品集』「あとがき」(p.134 – 5)からみてみたい。

あとがき

田中恭吉は、大正四年十月二十三日、自らの生命を燃焼させ、生と死とのすさまじい緊張を表現した作品を残して、二十三歳の短い人生を閉じた。
数日を経て、和歌山から東京の友人たちに訃報が伝えられると、その死を追悼するに当たって、藤森静雄は遺作展の開催を、恩地孝四郎は遺作集の出版を主張したという。

この二つの計画は、直ちに実行に移され、遺作展は十二月三日-五日の三日間、日比谷美術館で開催されたが、遺作集の方は、恩地の懸命の努力にもかかわらず、大正五年二月、資金難のために出版を断念するに至った。
恩地はこのことを生涯負目として持ち続けていたようで、私が恩地家に保管されていた恭吉の作品を一括して和歌山県立近代美術館に譲っていただくために、昭和五十四年頃から恩地孝四郎の長女三保子さんをお訪ねするようになった時にも、

「父は恭吉さんの遺作集を出版できなかったことを生涯悔やんでいました」
としばしば聞かされた。

またその後、昭和五十九年に恭吉の作品・資料を一括して当館に寄贈することを内諾された折にも、三保子さんが当館に示された条件は、
「一、作品を大切に保管すること。二、展覧会を開催すること。三、きっちりとした画集を出版すること」
の三つであり、三保子さんご自身も父孝四郎の遺作集断念を相当気に掛けられていたようであった。(なお、この寄贈の話は、同年十二月に三保子さんが急逝されたため一時中断したが、六十二年六月に恩地孝四郎の長男邦郎氏から、恭吉の友人であった香山小鳥の作品・資料とともに一括して当館に寄贈された。)

この三保子さんと当館が結んだ公約の三番目、画集出版は経費面からなかなか難しいと思っていたが、幸いにも玲風書房の生井澤幸吉氏からお話をいただき、ここに実現の運びとなった〔後略〕。

【奇遇でした。三木哲夫氏とはほぼ同世代。
       1980年代の初頭、ほぼ同じころに荻窪の恩地邸を訪ねていたようです】
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【ことのは】春節-己亥大吉 旧正月の祝|有朋自遠方来不亦楽乎 ── 朋有り遠方より来たる亦た楽しからずや|

《邢 立 老師、ことしの春節をご夫人とともに日本ですごす》

<上海に営業所を有する知人からの情報>
今年の中国春節の休暇は 2月4日[月]-10日[日]、実質 3 日[日]をあわせて連続 8 日間の休暇となっています。弊社の上海事務所は政府の規定どおりの休暇ですが、生産工場などは 2 週間から 1 ヶ月間を休業としているところが多いようです。

’19年11月末、長崎で開催された<「平野富二生誕の地」碑建立祝賀祭>に北京から参加され、会話翻訳機を駆使して、すっかりサラマ・プレス倶楽部会員とも親しくなられたのが邢 立-シン リツ- さん。
[ 参考: Notes on Typography 【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日 ]

さきに愛娘が結婚され、まもなく出産ということで(邢 立 老師はオジイサンになる)、北京印刷大学教授でもあるご夫人は、日本の温泉を楽しみ、またベビー用品のお買い物に忙しいとか。
そこで邢 立さんはひとりで朗文堂に来社して、いつものタイポグラフィ論議。
中国の春節のすごしかたも、少しずつ変わってきているようです。
北京の印刷・出版社の中華書局数字出版中心:李 晨光さんから、『己亥大吉-きがいだいきち』のデスクダイアリーと、『唐詩之美日暦』『宋詞之美日暦』の春節を祝う携行カレンダーが到着した。

中華書局は自社活字書体の「聚珍倣宋版」を有し、中国有数の印刷・出版企業の中核企業である。「中華書局数字出版中心」での数字はデジタルを、中心はセンターをあらわすので、李 晨光さんは同社のデジタル・パブリッシング部門の総括責任者ということになろうか。

李 晨光さんとの最初は2015年04月03日、東京での学会にパネラーとして参加された中華書局と商務印書局のおふたりが、中途で「脱出」して、小社を訪問されたことにはじまった。その後はやつがれが北京を訪問したり、招聘された際にお会いしていた。

政府系企業から招聘をうけて訪中した際に、主催者にお願いして前夜祭のパーティーに李 晨光さんをお招きしていただいた。驚いたのは並みいる有名大学の教授陣が競って李 晨光さんのもとに駆け寄って名刺交換にあたっている光景であった。
宴が終わったのちに、親しい某教授に伺ったところ、
「中華書局は学生の憧れの職場ですから。ねっ」と艶然と微笑まれた。
やつがれも現役時代にはそれなりに学生の就職先を気にしていたが、巨大大国となった中国では、著名企業への求職競争は熾烈なものがあることをのちに知った。

[ 関連: 朗文堂好日録-045 卯月四月がおわり、新緑と薫風の皐月五月のはじまり ]

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【もんじ】花のことのは-誠実・控えめ|字であらわすと厄介なスミレ

【菫 解字】ウエブサイトでは表示できない「槿-キン・むくげ、僅少-キンショウ」の旁、「キン」を含むので、以下「僅」を代用して説明。
会意・形声。艹と僅を合わせた字。僅-キン-が音をも示す。艹は草の意、僅-キン-は僅と似て、わずかとか、ちいさいの意がある。そこで小さな草、すみれをいう。
面倒ではあるが「菫」と、「槿・僅」の旁は別字である。

《春は名のみの …… 寒い毎日がつづきます》
吾が空中庭園では、ここのところ寒風をものともせずスミレがひっそりと開花している。
ここは南面しているので、晴天なら陽だまりになるが、この頃の曇天のなかではさすがに寒そうである。
本格的な春の到来を待ちわびる日々がつづく。

【 スミレ 菫 菫菜-キンサイ 】
春、道ばたや森の中で深い紫の花を咲かせる。自生している場所や、その色から奥ゆかしい花とされ、「花のことのは」は、「誠実」「ひかえめ」。
歳時記では卯月-四月の花とされている。

日本では多くの種類のスミレが自生しているので香りは種類によって異なる。スミレを特定の種の和名として用いるほか、スミレ属各種を総称することも多い。
スミレの名は、下弁の形が、大工が使用する墨壺に似ているからつけられたもので、墨入れの略とされる。漢の字「菫-キン」を与えて「菫-すみれ」とするのは俗用(意読)で、中国では「菫菜-キンサイ」と書かれることが多い。
英語では「violet バイオレット」と書くが、サンシキスミレ( V. tricolor L. ビオラ・トリコロル)系のものは、主として園芸品種の系統を「pansy-パンジー」、また主として野生種のものを「heartsease-ハートシーズ」とよんで区別する。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

【ことのは】30センチのエスプリ|懐紙・短冊-書はかたる| 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫展ゟ

本木昌造自筆短冊五首 ── 釈読:古谷昌二(平野ホール所蔵)

本木昌造の平素の自筆稿本『本木昌造活字版の記事』(仮題、長崎歴史文化博物館:参考『活字をつくる』p.100 片塩、朗文堂)などをみると、決して能筆とはいえず、むしろ「金釘流」にちかいものがある。
ところが長崎歌壇同人としてのこした歌の短冊は、流麗な「お家流」の書で、艶冶な歌をしるし、署名はあざな「永久-ながひさ」としてのこした。この短冊は関東大震災、太平洋戦争などの罹災をこえて、こんにちでも平野ホールに継承されている。

【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】

I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版から平野富二の「歌」を紹介した。
この「歌」の出典は『本木昌造 平野富二 詳伝』(発行兼編輯人:三谷幸吉、同書頒布刊行会、p.172  昭和8年4月20日)である。

同書平野富二編には、しばしば「日記」「金銀錢出納帳」が紹介され、不鮮明ながら131ページには「日記」、148ページには「金銀錢出納帳」の写真凸版による影印図版がみられる。

したがって三谷幸吉が調査にあたった昭和7-8年ころには現存した資料であるが、残念ながら現在原資料は発見されていない。また上掲の一首以外の歌は紹介されておらず、短冊の存在も報告されていない。

平野〔富二〕先生は無骨一點張りの裡にも、亦、風流なところがあったと見えて、時々和歌を詠ぜられて居る。左〔下部〕の和歌は、明治二十年五月より七月に到る「日記」(平野家所蔵)に記載しありたるものである。
   世の中を空吹く風に任せ置き
   事を成す身は國と身のため

【補遺 古谷昌二さんはときおりこんな瀟洒なことをひっそりと …… 。「植文字」まさに活字の本質をついた名句です!】

『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二、補遺4 p. 250)
平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、
現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、
 「解かしては
 かためて鋳ぬく
 植文字を
 平野に充つる
 雪の夕景」
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である。

【展覧会】徳川美術館・名古屋市蓬左文庫|企画展:書 は 語 る ─ 30センチのエスプリ ─|1月4日-2月3日|本展示は終了しています

【 詳細: 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫 】
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【ことのは】印刷業界用語|インキ|いつの間にか「インク」に押されているようですが|国立印刷局と本木昌造・平野富二関連調査の端緒

独立行政法人 国立印刷局お札と切手の博物館
平成30年度第2回特別展 お札の色・切手の色 ~ 偽造を防ぐ技と美 ~
’18年12月18日-’19年3月3日 フライヤー裏面ゟ部分

お札や切手の印刷に使われるインキは、他とは一線を画した特殊なインキです。それは、偽造を防ぐため、門外不出の製法によって開発する特製品であり、また、色と印刷を知り尽くした職人が編み出す特別な色だからです。
印刷局は、創業後間もない明治5-1872年からインキ事業を開始し、日本で初めて洋式の印刷インキを製造しました。その後も、技術の進歩に合わせ、時代の要請に応えながら、インキの技術開発を続けてきました。
本展では、およそ150年にわたる歴史のうち、明治・大正期を中心に、当時編み出したインキや「色」にまつわる資料をご紹介します。激助の時代を乗り越え、連綿と絖く印刷局のインキ開発によって生み出された、伝統あるインキの美をぜひご覧ください。
独立行政法人 国立印刷局 お札と切手の博物館、通称国立印刷局の特別展フライヤーから一部を紹介した。この短い文章の中に「インキ」ということばが八回出てくる。
すなわち国立印刷局では、創立直後には「印肉」とも呼んだようであるが、いつのころからか「インキ」といい、いまもって「インク」とはいわないことがわかる。

当然それは民間にも影響を与えた。
印刷・出版業界、なかんずく印刷用インキの製造・販売業者は、社名の一部にインキを用いている業者が多く、「インク」というと露骨に嫌な顔をするか、丁重にいいなおしてくることが多かったが …… 。それでも近年は「インク」に馴れて、次第に「インキ」派は少数勢力になっているようである。業界用語とはいえ時代の趨勢とともにあり、そんなものかも知れないとおもうことがある。
以下『印刷辞典』からその推移をみたい。

◎『印刷辞典』の第一版『英和 印刷=書誌百科事典』(印刷雑誌社、昭和13年01月15日)
  ink  インキ。書冩、印刷等に用ふる着色料の總稱。
◎『印刷辞典』の第二版『印刷辞典』(昭和33年10月20日初版、昭和41年6月20日第6刷、大蔵省印刷局)
  インキ ink ; Farbe, Tinte 書写・印刷などに用いる着色料の総称。筆記用インキ・印刷インキ、製版に用いる腐食用インキ・転写インキなどがある。
◎『印刷辞典』の第三版『新版 印刷辞典』
(昭和49年9月10日、大蔵省印刷局)

  「インキ」の単独項目は見られない。インキ=アジテーター以下20項目の派生語を紹介。
◎『印刷辞典』の第四版 所有せず
◎『印刷辞典』の第五版『印刷辞典
第五版』(平成14年1月7日、財団法人 印刷朝暘会)
「インキの単独
項目は見られない。インキ=アジテーター以下33項目の派生語を紹介。「インキローラー冷却装置」に続き、はじめて「インクジェット記録・インクジェットプリンタ・インクジェット用紙」の三項目に「インク」が登場するが、単独項目の「インク」は見られない。お札と切手の博物館
平成30年度第2回特別展
お札の色・切手の色 ~ 偽造を防ぐ技と美 ~
開  催  日  平成30年12月18日[火]-平成31年3月3日[日]
開催時間   9:30-17:00
休  館  日  月曜日(祝日の場合は翌平日)、2月10日[日]
開催場所  お札と切手の博物館 2階展示室
入  場  料  無  料

【 詳細: お札と切手の博物館 】
『印刷辞典』は印刷局にあった矢野道也と、その膝下にあった川田久長の貢献によって初版が刊行され、こんにちまで書名・編輯団体名・発行所名を変えながらも継続刊行されている図書である。
矢野道也は大蔵官僚という立場をこえて、ひろく印刷業界人と交際し、印刷学会を創立した。川田久長は秀英舎・大日本印刷の社員であったが、印刷図書館の創立に貢献した。

小社周辺では、タイポグラフィ学会と足並みを揃えながら、幕末の先端地であった長崎から、たれが、どこへ、どのように、当時の最先端技術・産業であった「活字版印刷術  ≒ タイポグラフィ」を江戸・東京にもたらしたのかの調査にあたっている。
その報告は「Viva la 活版  ばってん 長崎」『崎陽探訪・活版さるく』(『タイポグラフィ学会誌』09、2016年11月26日)、「メディア・ルネサンス」『江戸・東京活版さるく』(『タイポグラフィ学会誌』11、2018年11月15日)になされている。

これらの成果をもとに、明治産業近代化のパイオニア:平野富二生誕の地を長崎歴史文化博物館と国立公文書館所蔵「長崎諸役所絵図 引地町町使長屋-ひきじまちちょうじながや」の資料から特定することができた。
次いで「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭を2018年11月23-25日、かつて引地町町使長屋が存在した長崎県勤労福祉会館を主会場として、記念碑の除幕、記念祭をおこなうことができた。

この記念碑は<「平野富二生誕の地」碑建立有志の会>が浄財を募って建立にあたったが、同会ではその記録を仮称:『平野富二生誕の地碑建立の記録』として刊行するために日々努力を継続している。もちろん<「平野富二生誕の地」碑建立有志の会>は、あくまでも民間の任意団体であり、補助金や助成金などは一切受け取っていない。

そんな努力に対して、近年少しずつ国立印刷局の役職員が関心を寄せてくれるようになったことは嬉しいことである。
かつて国立印刷局のお札と切手の博物館では、【 平成26年【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館 】を開催しており、その際の図録には長崎 ── 本木昌造と平野富二のふたりの肖像写真を掲げ、長崎との強い結びつきがかたられていた。同展を含む特別展の記録は、同館の WebSite に PDF データーが公開されていたが、現在は「改修工事中」ということで閲覧いただけないのが残念である。
上掲リンク先に川田久長、矢野道也の両氏を通じて国立印刷局と長崎の先端技術の交流の記録の一端をみていただけたら幸いである。

「印刷産業綜合統制組合屋上にて:矢野道也氏を送る会」(1946年03月25日)

敗戦からまもなく、東京での家屋を戦災で焼失し、子息が居住していた九州へ移転のため、矢野道也が印刷学会会長職の辞任を申し出た日に撮影された。当時の印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也(前列中央)。その背後、後列中央の、白髪で長身のひとが川田久長である。  
前列左より:佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より:馬渡 努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

「この一冊の書物から」『印刷情報』(片塩二朗 2000年07月 p.73 – )
すこしつらい記録ですが、わが国そのものが狂奔していた戦時下の貴重な記録です

【 資  料 】
矢野道也(1876-明治9年-1946-昭和21年)
日本の印刷工業に科学的研究を導入した工学者。東京帝国大学応用化学科卒業。大蔵省印刷局に入り1945年6月退官。この間、紙幣、銀行券などの有価証券類の製造と、官報その他の重要活版印刷物の作成を研究指導し1919-大正8年工学博士。

1928-昭和3年6月「日本印刷学会」の創立を提唱して初代会長に就任。印刷技術者の教育に熱意をもち、官職にありながら東京高等工芸学校(現千葉大学工学部が一部を継承)、東京高等工業学校(現東京工業大学)、東京美術学校(現東京藝術大学)の各学校で、色彩学、印刷術などの講義をおこなった。印刷関連の著書が多い。

川田久長(1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日)
明治23年05月25日  東京牛込区にて、父:麹町区長・川田久喜、母・むめ子の長男として誕生。
大正02年09月    東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。浅沼商会入社。製版材料調査に従事。
大正12年      秀英舎(現大日本印刷)入社。 同社関連企業の活字製造所:製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月    印刷図書館初代館長に就任。のち「文部省認可 財団法人 印刷図書館」(昭和24年設立)となる。
昭和24年03月20日  著作『活版印刷史』(初版・並製本 印刷学会出版部)刊行。
昭和37年07月05日  逝去。享年72。墓は谷中霊園甲3号4側に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作『活版印刷史』(再版・上製本 印刷学会出版部)刊行。 

【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日

肥州長崎図 安永7(1779)年(国立公文書館)

中央部、扇状に円弧を描いて海中に突出しているのが出島。はじめポルトガルが使用し、のちオランダ人が居住した。その下部の長方形の海中の島が新地荷蔵 並 御米蔵。その下部の唐人屋敷とは橋でつながっていた。唐人屋敷では家屋が密集していたため火災が頻発し、開港後に多くの中国人が新地に移動した。
この周辺は埋め立てがすすみ、唐人屋敷はわずかに石垣と濠跡をみるばかりとなり、昔日の光景を偲ぶよすがは少ないが、長崎空港からのアクセスが便利で、観光客が集中する繁華街。

長崎諸役所絵図 唐人屋敷(国立公文書館)

【唐人屋敷-とうじんやしき】
江戸幕府が密貿易やキリスト教の伝播防止の目的で、長崎に来航する中国人を収容した施設。長崎町年寄に命じて、1689年(元禄2)長崎郊外の官有地十善寺村に竣工。工費は銀634貫余。竣工当時の敷地面積8015坪余(2万6449 ㎡ ほど)、居住の建物は2階造りの19棟、部屋数50。市中の中国人はこの唐人屋敷に集められ、そこで暮らしていた。

各棟を来航船の出航地別に区分して入居させ、階上は商人用、階下は船員用とした。家賃は年額銀160貫、借地料3貫970匁余で、ともに唐人側の負担。
1701年の記録によれば、館内常置の役人は乙名(おとな-諸事の総支配管理役)3名、組頭(乙名の助役)4名、唐人番19名、探-さぐり-番(探偵)4名で、ほかに医師が内科10名、外科3名、眼科2名、牢屋医師が8名置かれていた。
一般日本人で出入りできる者は遊女、禿-かむろ-のほかは指定された商人のみ。1689年の入居唐人数4888名。1738年(元文3)の遊女入館数は延べ1万6913名で、同年の来航唐船は5艘である。

1859(安政6)年の開国によって唐人屋敷は廃屋化し、1870(明治3)年に焼失。
その後、長崎に住む中国人は隣接の長崎市新地町に中華街を形成し、現在の長崎新地中華街につながっている。
福建会館は唐人屋敷時代の孔子を祭る聖人堂の跡といわれ、福建省泉州出身者により創設された八会所がその起源。孫文は1913(大正2)年3月22日、華僑主催の歓迎午餐会で、福建会館に足を運んでいる。前庭には上海市より寄贈された孫文の銅像が建っている。
[参考:『世界大百科辞典』平凡社]

長崎諸役所絵図 新地荷蔵 並 御米蔵(国立公文書館)

【長崎貿易・長﨑会所・長崎新地】
長崎港の対外取引において代表的な明治以前の貿易をいい、
(1)ポルトガル船に対する1571年(元亀2)の開港から鎖国までのいわゆる南蛮貿易時代
(2)1633年(寛永10)に最初の鎖国令が出てから幕末開港までの対外貿易独占時代

(3)1859年(安政6)3港開港後のいわゆる自由主義貿易時代に区分される。

(1)南蛮貿易期
開港後まもなく、長崎は一時イエズス会領になったので(1580)、それまで九州各地に渡来したマカオからのポルトガル船や、マニラ発のスペイン船は長崎に集中するようになり、江戸時代に入ると唐船(江戸時代には明、ついで清朝船だけでなく、東南アジア各地からのジャンクもそうよばれた)の入港も急増し、さらに朱印船の中心的な発着港として栄えた。

これに対し後発のオランダ、イギリスは、それぞれ1609年(慶長14)、13年に平戸に商館を建てて日本貿易を開始した。平戸は中世以来の唐船貿易の一大根拠地でもあったが、直轄地長崎での糸割符制、キリシタン禁制を柱とする内外商人規制は、しだいに平戸へも拡大された。

(2)鎖国貿易期
1633-41年の間に、日本人の出入国禁止、唐船貿易の長崎限定、対ポルトガル断交と、空屋になった出島へのオランダ商館移転がおこなわれ、長崎は唐、オランダ船に限る外国貿易の唯一の開港場となった。もっとも、鎖国期には取引額は少ないが対馬藩による釜山の倭館での朝鮮貿易、実質は薩摩藩経営の琉球国による福州琉球館での中国貿易、松前藩による蝦夷地貿易があり、江戸中期には朝鮮貿易、末期には薩摩藩の交易が長崎貿易に大きな影響を与えた。

唐、オランダ船が長崎に入港すると、奉行所役人や唐通事、オランダ通詞が乗船して海外の情報を聴取し、人別改めや唐人は踏絵をして、上陸や荷揚げとなる。
唐人ははじめ市内に分宿したが、元禄以降になると身柄は唐人屋敷、貨物は新地蔵に収容され、出島とともに日本側の厳重な管理下におかれた。

取引方法は、糸割符、相対-あいたい-貿易法、市法貿易法、糸割符復活、代物替-しろものがえ-併用などと変化し、海舶互市新例(正徳新例)で確立したが、要は主要輸出品である銀や金の流出抑制のための買手市場化、年間取引額(定高)の設定であり(定高貿易法)、元禄期からは長崎会所を通じて貿易利潤の幕府財源化と銅輸出、後期には海産物(俵物、諸色)の輸出強化が注目される。
しかし輸出銅の不足を理由に1742年(寛保2)、90年(寛政2)の〈半減令〉をはじめ、漸次取引を縮減し、和糸や砂糖などの競合国産品の台頭、海外の戦乱などにより衰退した。

(3)開港後
唐船貿易は引き続き長崎会所が管掌したが、長崎の独占は崩れ、武器・雑貨の輸入と茶・石炭の輸出を特徴として、イギリスを主体とする欧米諸国貿易が活発化した。しかし、関税は輸入2割、輸出5分が平均的で、開港前の総平均18.5割にははるかに及ばず、横浜・箱館などの取引に抑えられて、地位の低下は否めなかった。
[参考:『世界大百科辞典』平凡社]

【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!
2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

中国最大のお祭り、春節-シュンセツ-旧正月のお祝い
出島のエキゾチズム、異国趣味で賑わう長崎も

旧唐人町と、新地地区を中心に、いつもとは異なる風情をみせています

【 詳細: 長崎市公式観光サイト:あっと!ながさき 】
[ 関連: 【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日 ]  初掲載:2018年11月29日

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【ことのは】ゆっくり、急げ!── FESTINA LENTE

朗文堂 サラマ・プレス倶楽部の時候のご挨拶。今回のテーマは
「ゆっくり、急げ!」

[参考:朗文堂ブックコスミイク『普及版 欧文書体百花事典』
[参考:花筏 タイポグラフィ あのねのね*014 アルダス工房、ドベルニ & ペイニョ活字鋳造所、アーツ&クラフツ運動]
現存するアルダス工房跡

【ことのは】烏 兎 匆 匆 ── う と そうそう

烏 兎 匆 匆 ウト-ソウソウ
うかうか三十、キョロキョロ四十、烏 兎 匆 匆

先達の資料に惹かれ、あれこれの図書を渉猟し、おちこちの旅を重ねた。しかし 吾ながらあきれるほど喰い囓っただけのテーマが多い。文字どおり、
「うかうか三十、キョロキョロ四十」はあっという間に過ぎ去り、いたずらに馬齢を重ねた。

歳月-サイゲツ・としつき-とは、中華の国では、烏  カラス が棲む 太陽 と、 兎 ウサギ がいる 月 とが、 あわただしく行きかうことから「烏 兎 匆 匆 ── うとそうそう」 という。
そろそろ残余のテーマを絞るときがきた。 つまり中締め(大締め?)のときである。後事を俊秀に託すべきときでもある。
おあとはよろしいようで …… なのか、 おあとはよろしく …… なのかは知らぬ。

【ことのは】水仙-スイセン-Narcissus 花のことのは egotism-自己中心

空中花壇に咲く「日本水仙」。背景の赤い花は四季咲きのゼラニウム
水仙-スイセン-Narcissus 花言葉 egotism-自己中心

アマリリス科スイセン属の球根植物の総称;黄または白色の花をつける。
[1548.<ラテン語<ギリシャ語 nárkissos(球根に麻酔作用があるため nárkē「麻痺-まひ」と結びついた植物名)→ NARCOTIC]
〔ギリシャ神話〕 ナルキッソス:美しくてうぬぼれの強い青年が、泉に映った自分の姿に恋をして、満たされない望みにやつれ果ててスイセンに化したという。
[参考:『ランダムハウス英和大辞典』小学館]

正月三が日の間に、突如茎が仔鹿の脚のようにスクッと伸びてきて、フラワーポットの中央を占拠して咲きつづけているのが水仙。たしかにワガママだし、自己中心ともいえそうで納得。

【ことのは】明治150年祭|日本工学の父|山尾庸三| 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシー|

明治日本の産業革命遺産 紹介映像
萩美術館 掲載日:2016年1月28日
日本政府がユネスコへ提出した「明治日本の産業革命遺産」の推薦書に附属した、概要や資産などを紹介したビデオ(DVD)のホームページ版です。

* ナレーションは英語ですが、日本語がテロップ(文字)で紹介されています。
* 拡大画面で閲覧希望のばあいは、画面右下の YouTube の文字部 をクリックすると、YouTube com の別画面でご覧いただけます。

【 YouTube 明治日本の産業革命遺産  製鉄・製鋼、造船、石炭産業  音が出ます  36:22 】

Yozo_Yamao_011山 尾  庸 三(やまお-ようぞう 1837-1917)

― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―

たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ
山 尾  庸 三
01-03.長州ファイブ(後列段左より:遠藤謹助、野村弥吉(井上 勝)、伊藤俊輔(博文)、前列左より:井上聞多(馨)、山尾庸三)長州ファイブ/長州五傑
前列右より時計回り、山尾庸三(工学の父)、井上聞多(通称:ぶんた 馨。政治家・実業家)、遠藤謹助(造幣局長)、野村弥吉(井上 勝/鉄道の父)、伊藤俊輔(博文。政治家)
Kobu_Daigakko工学尞 ⇨ 工部大学校・工部美術学校 → 東京大学工学部の前身のひとつ
所在地/千代田区霞が関ビル周辺(もと日向国〔宮崎県〕延岡藩 内藤能登守上屋敷)
01-01.工部大学校阯碑01-02.工部大学校阯碑解説板「工部大学校阯碑」および解説板(千代田区霞が関三丁目2-1)
旧校舎の避雷針と煉瓦をもちいて卒業生有志によって建造された〔撮影:時盛 淳〕
e761bbdd02ec5f6ee4c276186b64ce9e萩博物館フライヤー <日本工学の父 山尾庸三展> 2018年9月16日ー10月01日
{活版アラカルト関連:【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展「日本工学の父 山尾庸三」
tetukoto_omotephoto02井 上  勝(幼名:野村弥吉 いのうえ-まさる 1843-1910)
{活版アラカルト関連:【展覧会】萩博物館 萩の鉄道ことはじめ「日本鉄道の父:井上 勝」

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工部大学校 と 山尾庸三
日本最初の工学教育機関。東京大学工学部の前身のひとつ。
伊藤博文・山尾庸三の建議に基づいて設置され、1873年(明治04)専門教育はイギリス人の教頭・機械工学者 H. ダイアー ほか 8 人のイギリス人教師を招いて「工部省工学寮」が開校。工学頭-こうがくのかみ-は山尾庸三、教頭はダイアーであった。工部省工学寮は1877年(明治10)「工部大学校」と改称した。のち工作局長:大鳥圭介が総理となった。

土木、機械、造家、電信、化学、冶金-やきん、鉱山の 7 学科をもつ 6 年制の官費の専門学校で、学理面と実地面とを融合した、当時世界でも進歩的な工学教育機関であった。
工部大学校は1879年(明治12)に最初の卒業生19人を出し、1882年に造船科を増設、1885年(明治12)工部省廃止に伴い文部省に移管され、翌年東京大学工芸学部と合併し、帝国大学工科大学、現東京大学工学部となった。辰野金吾、高峰譲吉、藤岡市助、井口在屋-いのくちありや-ら明治の工学界・産業界の指導者・技術者を輩出した。

山尾庸三(やまお-ようぞう 1837−1917)
幕末-明治時代の武士,官僚。
天保8年10月8日生まれ。長門(ながと-山口県-萩藩士。1863年(文久3)伊藤博文らと密航渡海してイギリスで工業をまなぶ。1870年(明治3)帰国し、工部省、工学寮の設立にかかわり、13年工部卿。のち宮中顧問官、法制局長官。また楽善会訓盲院(現筑波大付属盲学校)の創立につくした。大正6年12月21日死去。81歳。
[参考資料:『日本大百科全書』(小学館)]

【ことのは】真名-漢字 真仮名-万葉仮名とひら仮名 カタ仮名|かぎろひ-の【陽炎の】枕詞-まくらことば

奈良県北東部 ── 山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア  ⓒ Yahoo  Japan  ⓒ ZENRIN
『古事記』『日本書紀』『万葉集』ロマンのさととされる奈良県宇陀市大宇陀地区を中心に

真名と仮名
奈良県:宇陀郡>安騎野-あきの

『日本書紀』天武天皇元年六月二四日条に「菟田の吾城-うだのあき」がみえる。
『万葉集』巻一に「軽皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌」として長歌とともに、

阿騎-あき-の野に宿る旅人打ち靡き寐-い-も寝-ぬ-らめやも古思ふに

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

の短歌を載せる。
『大和志』には「吾城野」として「在迫間本郷二村間」とあり、現大宇陀町大字迫間-はさま・本郷-ほんごう-に比定[およそ定める]する。
また本郷村東南の拾生-ひろお-村(現大宇陀町)に「旧名明城野-あきの」とある。
なお迫間には式内社[しきないしゃ 延喜式神名帳に記載された3132座の神社]に比定される阿紀-あき-神社がある。

歌学書『八雲御抄』には「あきのおほ野」とある。

こうした歴史を背景として、この地域には神社の名称として「阿紀-あき-神社」がのこり、公園施設の名称として「阿騎野・人麻呂公園」がのこり、ひろくは「安騎野」と呼ばれ、しるされるようになった。
[参考資料:『日本歴史地名大系』平凡社]
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奈良県北東部 ── 山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリアは、こんにち『古事記』『日本書紀』『万葉集』ロマンのさととされるが、ここにみるように「万葉仮名」の残渣ないしは残り香があちこちにのこっている。

「万葉仮名」は、漢字の音・訓を仮借-かしゃーして、日本語の音韻表記に用いた表音文字である。漢字の音を仮借した「安-あ、加-か」などの音仮名と、訓を仮借した「三-み、女-め」などの訓仮名とに大きく分類される。
漢字の表音的用法は古く中国にみえ、固有の字がなかった日本でもこの方法を用いたもので、『万葉集』に豊富にみえることから万葉仮名とよぶ。ひら仮名、カタ仮名はこれから成立した。漢字(真名)と形が同じであることから真仮名-まがな-ともいう。

枕詞-まくらことば

かぎろひ-の【陽炎の】〔カギロイ-ノ〕

〔枕 詞〕 「春」「心燃ゆ」などにかかる。
〔  例  〕 「味さはふ夜昼知らずかぎろひの心燃えつつ悲しび別れぬ」〈万葉・9・1804長歌〉
〔  訳  〕    夜昼の区別もなく心は燃え続けて、悲しみ別れたことだ。
〔  注  〕       田辺福麻呂(タナベノサキマロ)ガ弟ノ死去ヲ悲シンデ作ッタ歌。
「味さはふ」ハ「夜」ノ枕詞。

[参考資料:『全文全訳古語辞典』小学館]
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枕 詞-まくらことば

おもに和歌に用いられる古代的な修辞のひとつ。
和歌においては五音一句に相当する句(四音や六音もある)をなし、独自の文脈によって一つの単語や熟語にかかり、その語を修飾し、これに生気を送り込む。一首全体に対しても、気分的・象徴的に、または声調上・構成上に微妙な表現効果をもたらす。

枕詞の起源は古代の口誦詞章のきまり文句で、そのうち最も重要なのは神名や地名にかぶせる呪術的なほめことばである。記紀歌謡において枕詞を受ける単語や熟語の半数以上が固有名詞であるのは、その辺の消息を示すものにほかならない。のちのちまで枕詞のかかり方が、固定的、習慣的、伝承的でありつづけながら、なお有機的に働くのもそのためである。枕詞は平安朝に入ってからは使われることが少なくなっていく。

枕詞のかかり方は、同音・類音のくり返しや懸詞-かけことば-によるものと、意味の上で説明したり、形容したり、比喩したり、連想を働かせたりするものとさまざまであるが、すでにかかり方の不明となった慣用句も多い。これらはすべて神託などの呪術的な古代的発想法から展開してきたものとみられている。

枕詞と似た和歌の修辞に序詞-じょし-があって、両者はその長さの違いや、文脈の性格の違いによって区別されているが、個々の例では区別のつきにくいものもある。
本質を異にする両者が混雑を生じたものか、本質を同じくする両者が別々に発達したものか両説があるが、古代人が枕詞と序詞とを明確に区別した形跡はない。

柿本人麻呂は、古い枕詞を新しく解釈し直して用いたり、新しい枕詞を作ったり、用言を修飾する枕詞を多用したりして、枕詞の発達に大きく貢献した万葉歌人である。その作品
〈玉藻刈る敏馬-みぬめ-を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ〉(《万葉集》巻三)
の〈玉藻刈る〉〈夏草の〉という枕詞は、実景を描いたかと思わせるほど一首全体に対して大きな表現効果をもっている。
なお、老・病・死をおもにうたった山上憶良は、枕詞をほとんど使っていない。
[参考資料:『世界大百科事典』平凡社]

例年の「かぎろひを観る会」の様子

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

なら旅ネット ── 奈良観光公式サイト
第47回かぎろひを観る会
開催施設  自然公園かぎろひの丘万葉公園
開催日時  2018年12月23日[日・祝] 04:00-07:00
所 在 地  〒633-2166 宇陀市大宇陀迫間25番地
      入園無料  事前申し込み不要 
問い合せ  0745-82-3674(宇陀市役所 公園課)
アクセス  最寄り駅からの交通
      近鉄 榛原駅より 大宇陀行きバス「大宇陀高校前」下車 徒歩3分 
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「かぎろひを観る会」は今年で47回目を数える歴史ある催し。
柿本人麻呂が詠んだ秀歌、

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

にちなみ、かがり火を囲みながらかぎろひの出現を待ちます。
かぎろひとは厳寒の晴れた早朝、夜明けの一時間前に空を染め上げる陽光のことと、宇陀市観光協会では考えています。
時を越えて記紀万葉のロマンに浸ることができるひと時をお楽しみください。

【 詳細: なら旅ネット ── 奈良観光公式サイト 特設コーナー 】

【ことのは】明治四年 HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた ──[展覧会]国立公文書館|平成30年度 第3回企画展|「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」 11月20日-12月22日ゟ

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平成30年度 第3回企画展 
「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」
会  期  平成30年11月20日[火]-12月22日[土]
開館時間  月-土曜日 午前9時15分-午後5時00
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
入  場  料  無 料
────────────────
遠く離れただれかに情報を伝えたい。そんな時みなさんはどうしますか? 今では電話や電子メール、S N S などで手軽に素早くつながることができます。しかし、郵便や電信、電話など現在に通じる情報通信の制度や技術が導入された明治初期には、試行錯誤が重ねられ、相当な努力が払われたことは想像に難くありません。

本展では、郵便、電信、電話、無線通信の制度やこれらと関わりの深い人物の資料を展示し、明治期に進められた情報通信の近代化を描きます。また明治期の情報通信網が、日本と海外の諸国をつないでいく過程もご紹介します。

3011_01

郵便切手の発行
明治4年(1871)から明治15年までに発行された切手、はがき、封筒の見本を貼り付けた資料です。画像は明治4年と明治5年に発行された切手を添付した箇所。  これらは日本で最初の切手になります。額面の両側に龍をあしらったことから、「龍文-りゅうもん-切手」と呼ばれています。

3011_02

逓信省の設置
明治18年(1885)12月22日、内閣制度の創設に伴い、逓信省(ていしんしょう)が新設されました。  逓信省は、農商務省から郵便・管船を、工部省から電信・灯台を引継ぎ、通信運輸行政を一手に担う中央行政機関として誕生しました。画像は『公文類聚-こうぶんるいしゅう』に収録された太政官達第70号です。

3011_03

外波内蔵吉の叙勲
無線通信の有用性に着目した海軍は、明治33年(1900)、無線研究の必要性を訴えていた海軍中佐の外波内蔵吉(となみくらきち)を中心とした無線電信調査委員会を組織し、 無線電信機の開発を目指しました。外波らは苦心の末に、明治36年に無線電信機を完成させます。この無線電信機は、翌年に始まる日露戦争で利用されました。

☆     ☆      ☆

「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」ゟ
{新宿餘談}

20181205172548_0000120181205172548_00002HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた
『広辞苑』 は、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としている。そして郵便局が販売しているカードには<郵便はがき>としるされている。  すなわち整理が付かないままに「端書・葉書・ハガキ・はがき」がもちいられている。
今回の国立公文書館展には、『郵便切手端書-はがき-封皮-ふうひ見本』が展示され、明治4年(1871)から明治15年までに発行された、切手、端書(解説表記は はがき)、封筒 の見本を貼りつけた見本が展示されている。
すなわち ── HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた ──

【 詳細: 国立公文書館 】

【ことのは】アンチモンの原料鉱石、輝安鉱

アンチモンの原料鉱石/輝安鉱の原石とその産出地
アンチモン【独:Antimon, 英:Antimony, 羅:Stibium】

本木昌造が谷口黙次に依頼して採掘したとされる「肥後国西彼杵郡高原村」の鉱山から産出したアンチモンの原料鉱石/輝安鉱-きあんこう

き-あん-こう【輝安鉱】── 広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《ともかく鉱物 イシ が好きなもんで …… 》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の幹部社員であるが、ご本人のご要望で和田さんとだけ紹介したい。
和田さんは小社刊『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 p106)をお求めになられた。そこに紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目され、ときおり来社され、また情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の原石イシに関心がおありだそうである。全国規模で、同好の士も多いともかたられる。そのため、あちこちの鉱山をたずね歩き、すでに廃鉱となった鉱山ヤマでも現地調査をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石程度は入手できるのだそうである。

「蛇ジャの道は 蛇ヘビですからね」[蛇足 ── 蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
お譲りいただいた輝安鉱の原石はわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産になっているそうである。

¶  和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。
そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料にかんしても、その後ほとんど調査もなされていないことがむしろふしぎだと述べられた。

¶  このような異業種のかたからのご指摘は、筆者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査を終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい。目下の調査では、本木昌造が採掘させたとするアンチモニーの鉱山、
「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村-ひごのくににしそのぎぐんたかはまむら」
の記述は、福地櫻痴の記述では探鉱のことや産出地の地名などはみられず、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

  • 〔福地〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月 1891 p6)
  • 〔三谷1〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日 1933 p61-2)
  • 〔三谷2〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日 1934 p21-22)
  • 〔島屋〕『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年8月20日 脱稿は1949年10月 p102-6、p175)

〔福地〕 原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。[中略]従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷1〕 若干の句読点を設けた。
明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の伊豫白目イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは悉コトゴトく皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶タマタマ天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
編者曰く
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844―1900 初代]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷2〕 若干の句読点を設けた。
(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。

而シかも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等悉コトゴトく売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次タニグチ-モクジ[1844―1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉コトゴトく舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島屋〕
本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。[中略]

上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が平タイラで、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。

そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目イヨシロメと称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。[後略]

明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

❖  ❖  ❖  ❖

《肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村》
「輝安鉱」の標本を「これは差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」だそうである。
そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であった場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられる。
また、現在の市政下ではどこの県、どこの市かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しないし、迷いがあって熊本県東京出張所から紹介されて、熊本県天草市役所観光課に架電した。
その結果、たしかに同市には高浜地区があり、その周辺では「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山、もしくはその廃鉱に関しては「存じません」という回答であった。

彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。
彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようだ。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。
タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて楽しむだけではなく、やはり現地調査のために長崎行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇ジャの道は 蛇ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという誤解を生じさせたような気もする昨今でもある。

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《活字地金とアンチモン》

活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増す働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛70-80%、錫1-10%、アンチモン12-20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途によってそれぞれ異なる。また活字地金は業界内では循環して利用されている。
摩耗したり、損傷した活字は「滅メツ活字箱、地獄箱 Hell-Box」と呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状の活字地金にもどして利用されている。

【ことのは】新開場の京都四条南座で初の「吉例顔見世興行」まねき上げ|歌舞伎美人-かぶきびと


歌舞伎公式総合サイト ── 歌舞伎美人-かぶきびと ニュース 10月25日号 ゟ

新開場の京都四条南座で初の「吉例顔見世興行」まねき上げ

2018年10月25日[木]、南座で11月「當る亥歳 吉例顔見世興行」のまねき上げが行われました。

「吉例顔見世興行」恒例のまねき上げ。
最後の一枚、坂田藤十郎のまねきが上がり、計53枚の看板がずらりと並ぶと、2年ぶりとなる南座の「まねき看板」を見ようと集まった、多くの歌舞伎ファンから拍手が起こりました。今年の顔見世興行は、新開場を祝う11月と12月の2ヶ月にわたる大興行となります。

また11月は、新開場の幕開けにふさわしく高麗屋三代襲名を兼ねた公演。式典に参加した松本幸四郎は南座が休館している間、真っ暗な南座の前を通っては寂しく思っていたと明かし、
「歌舞伎発祥の地におきまして、襲名披露興行が執り行われるということ、また新開場の舞台に立つことができるということを、本当に幸せに思っています」
と、顔見世興行にかける熱い思いを語りました。同じくこの日を待ちわびていた皆さんからも、「高麗屋!」と声がかかり、大きな拍手でまねき上げを祝福しました。
2018年11月1日[木]に初日を迎える「當る亥歳 吉例顔見世興行」は、東西の俳優たちが顔をそろえる、歴史ある歌舞伎の祭典です。豪華な出演者、演目とともに盛大に祝う新開場の南座へ、ぜひお越しください。

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