【ことのは】明治十年ころ|瓦版「当世名人八景」にみる句と平野富二の活版製造事業

『平野富二と活版製造事業 ── 東京築地活版製造所』 製作:青葉水竜

『平野富二伝  考察と補遺』(古谷昌二、朗文堂 pp 250)
第七章 石川島造船所の操業開始
補遺4 平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、

   解かしては
   かためて鋳ぬく
   植文字を
   平野に充つる
   雪の夕景
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である[古谷昌二]。

平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録
B 5 判 408 ページ ソフトカバー 図版多数
定  価  本体 3,500 円+税
発  行  日  2019年5月30日 初刷
編  集  「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発  行  平野富二の会
発  売  株式会社朗文堂
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明治産業近代化のパイオニアとして著名な平野富二は、長崎にうまれたひとと伝わってきた。長崎では東京に進出したひととだけ伝わった。
富二の生家は長崎の地役人たる町司で、身分は平民ながら、世襲の家禄をうけ、苗字帯刀をゆるされた矢次家の次男であった。幼名矢次富次郎は明治五(一八七二)年に妻帯し、戸籍編成に際して平野富二と改名して長崎外浦町に一家を構えた。中島川右岸、飽の浦の長崎製鉄所、立神ドック、対岸の小菅修船場などにわずかな足跡をのこして、東京に新天地をもとめ、数えて二六のとき、総勢一〇名で長崎をあとにして東京(現 千代田区神田和泉町一)に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげた。のちに同社は「東京築地活版製造所」と改組改称、「東洋一の活字鋳造所」として自他ともにゆるす存在となった。

素志である重機械製造と造船事業も明治九(一八七六)年から本格的に開始した。平野富二は石川島平野造船所(現IHI)を設立して数百トンもある巨大な船舶をつくり、橋梁をつくり、蒸気機関をもちいて海上輸送と陸上輸送の進展に貢献した。
平野富二はこうしたおおきな成果をあげつつ、在京わずか二〇年、四六歳にして病にたおれた。それでもその功績は、金属活字製造、印刷機器・資材製造、活字版印刷、重機械製造、造船、橋梁架設、航海、海運、運輸、交通、土木、鉱山開発……と、枚挙にいとまのない事業展開をはかって近代日本の創建に貢献した。

今般「平野富二生誕の地」碑の建立を期して直近二〇年ほどの東京と長崎の交流を本書『平野号』に記録した。あわせて、長崎にもうけられた海軍伝習所、医学伝習所、活字判摺立所、活版伝習所、英語学校などの施設の設備と伝習の成果が、江戸・東京の、どこに・いつ・どのように・たれが伝え移動させたのか、そしてこんにちの状況も記録して、今後の研究の手がかりとした。

本書はいたずらな個人崇拝や、明治の偉人として平野富二をとらえることなく、等身大の平野富二像を描きだすことに尽力した。すなわち平野富二の精神と功績は、明治の偉人という範疇にとどまらず、印刷術という平面設計から、重機械製造という立体造形物にいたるまで、現在のわれわれの日常にも脈々と受け継がれている。
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【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】


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I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開

嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

[ 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/ ]
[ 参考: 平野富二の会