【かきしるす】図書紹介|新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018|武蔵野美術大学 美術館・図書館

新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018
展覧会情報  https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/12169/
発    行   年  2018年

判   型  縦 26 ㎝ × 横 19.8 ㎝、上製本、223ページ
価   格  一般:2,000円

発   行  武蔵野美術大学 美術館・図書館
────────────────
米国イェール大学大学院でいち早くポール・ランド(Paul Rand, 1914-96)のデザイン理論を学んだ新島実は、帰国後グラフィックデザインを中心に、日本においてランドの視覚意味論を先駆的に実践してきた。
また1999年に武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に着任して以降はデザイン教育にも尽力し、第一線で活躍する人材を多岐にわたって輩出し続けている。

本書では、ポスター、造本、C I などの代表的な新島作品を収録し、考察を重ねながら挑戦し続けてきたグラフィックデザインの足跡をたどる。


新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018:卒業生編

展覧会情報  https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/12169/
発    行    年  2018年
判   型  縦 26 cm × 横 19.6 cm、159ページ
価   格  一般:1,200円 [完売]
発   行  武蔵野美術大学 美術館・図書館

────────────────
本書は『新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018』と対をなすもので、多彩な新島ゼミ卒業生の作品を一堂に集め、新島イズムがどのように受け継がれ、あるいはそれを越えて展開しているのか、視覚伝達デザイン学科の一端を紹介する。

和語表記による和様刊本の源流
展覧会情報  https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/12166/
発    行    年  2018年
判   型  縦 36.4 cm × 横 25.7 cm 二分冊
ペ ー ジ 数  図版編:224ページ、論考編:352ページ
価   格  一般:5,000円
発   行  武蔵野美術大学 美術館・図書館

[ 詳細: 武蔵野美術大学 美術館・図書館

{ 新 宿 餘 談 }

ここに紹介した三冊の図書は、2018年に実施された「新島実教授退任記念展」にあわせて刊行されたものである。冒頭の『新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018』は、ともかく「凄い。──」、このひとことである。
また、こちらは私事ながら、『和語表記による和様刊本の源流』論考編には、稿者も「漢字文化の受容と刊本字様・活字書体の変遷」と題して46ページほどの論考をしるしている。ご笑覧たまわれば幸甚である。

映画監督:黒澤明は晩年、自分は映画予告編の撮影・製作には携わらなかったとかたっていた。それは一時間半余のフィルムを、わずか三分に切り刻み、圧縮することは辛すぎるし、自分は照れ性で、自分の映画の宣伝などはできなかったからだとも述べていた。
同様に、稿者は印刷物の製作者 ── グラフィックデザイナーの自著・自装本による「作品集」は懐疑的であった。そのほとんどが、照れのなすところなのか、読者におもねり、顧客を軽んじること甚だしいものがみられた。また不安感のあまり、ありとあらゆる「作品」と称する工場製品群を並べるばかりで、その刊行意図がわからないことがほとんどだからである。

そんなつまらない稿者の拘泥を、本書はものの見事に打ち砕いた。マットの黒の表紙をひらくと、湧きあがる色彩が意味論をともなって語られ、形をともなった造形論が現出する。有機的な造形と無機的な造形が、巧みな構築によって、衝突することなく融合する。まさにこの人ならではの造形空間に揺蕩うおもいを惹起させる。

このひと ── ここからは失礼ながらミノルさんと呼ばせていただく ── 渡米前のミノルさんは、コニカの広告にキンちゃんこと萩本欣一を起用して「広告界の鬼才」とされていたことを知る人はいまは少ない。そんなミノルさんは広告にある種の限界をみたのかもしれない。そこで一念発起して高収入の広告デザイナーの職を放擲、渡米した。
しばらくして、イェール大学大学院の在学中に稿者が同校を訪問したことがあった。驚いたことに、米国デザイン界の重鎮:ポール・ランドが、ミノルさんの肩を親しみをこめてだき寄せ「ミノルは、オレの後任だ」と嬉しそうに述べた。

それからキャンパスを巡っていたとき、米国図書デザイン界の第一人者:ブラッドバリー・トンプソンに出会った。トンプソンも「ミノ~ルは、わたしの後任の教授です」と重重しくかたった。ミノルさんは苦笑するばかりであった。
ところが帯同していた奥さんが、当時荒廃がみられたアメリカでの生活をひどく嫌い、修了後まもなくヨーロッパを周遊して帰国した。

ミノルさんの紹介を得て、稿者はボストンで和文のデジタルタイプ(現MS明朝体のあらまし・まとめは澤田善彦氏)の開発に携わるようになっていた。二年ほどのち、イェール大学大学院をマッシュ・カーターと共に訪れたとき、行きかう院生の何人もから「ミノルは元気か?」「ミノルはなにをしている」と聞かれて困惑した。
ところが帰国後のミノルさんは、広告の仕事をすべて謝絶し、赤貧に沈みながらも雌伏のときを過ごしていた。したがって「ミノ~ルは元気だよ」とだけ答えていた。

これ以上の昔ばなしや多言はよそう。
読者諸賢は、なんとしても『新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018』をご覧いただきたいとのみ強く念願する[片塩二朗 しるす]。