月別アーカイブ: 2019年2月

【ことのは】版画同人誌『月映』|恩地孝四郎 ── 田中恭吉わかくして逝き そののこすところの作、あまた。

『田中恭吉作品集』
(著者:田中恭吉、監修:和歌山県立近代美術館、編者:三木哲夫、1997年、玲風書房)

  上版のことば
一人あり。ここにいのちをこめてつくしたるこの世のわざ、あはれ
漸くその扉を開きしのみにしてその身を失ひたり。 田中恭吉わか
くして逝きそののこすところの作、あまた。 そのいける時心願就
らざりしかば、なげきいくばくぞや。さはれ、そののこせるもの、
未だ彼のすべてを張らざりどいへ既にそののちの姿を潜ましむ。捨
つるに惜し。そをとりあつめて世に遺さむ願、ただに己の私情にあ
らず。彼、世をあいしいのちをあいし、我、世を愛しいのちを愛す
れば、ここに版に上して、心を齊しうする人々のまへに置き、彼を
愛する人とともに、彼世にありしを記銘せむ希ひなり。
一九一六年二月                 恩地孝四郎

【『月映』の三人の同人と田中恭吉を巡って】

◯ 恩地孝四郎(おんち-こうしろう 1891-1955)
大正-昭和時代の版画家、装本家。明治24年7月2日うまれ。東京出身。東京美術学校(現東京藝術大学)中退。抽象木版画の先駆者。竹久夢二と親交をむすび、大正3年同人誌『月映』を創刊する。
愛書家・活字狂を自認していた志茂太郎の委嘱により、愛書誌『書窓』シリーズの著作とデザインにあたった。日本創作版画協会、日本版画協会の創立に参加。萩原朔太郎の『月に吠える』や『北原白秋全集』などの装幀も手がけた。昭和30年6月3日死去。63歳。著作に『本の美術』、『工房雑記』など。

◯ 藤森 静雄(ふじもり-しずお 1891-1943)
大正-昭和時代前期の版画家。明治24年8月1日生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)在学中に恩地孝四郎、田中恭吉と詩と版画の同人誌『月映』を刊行。大正7年日本創作版画協会の創立に参加した。『新東京百景』(恩地孝四郎らとの共同制作)や『大東京十二景』が代表作。昭和18年5月28日死去。53歳。福岡県出身。

◯ 田中 恭吉(たなか-きょうきち 1892-1915)
大正時代の版画家。明治25年4月9日うまれ。白馬会洋画研究所をへて、明治44年東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。その後恩地孝四郎との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森静雄も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯『月映』〔いわゆる私家版『月映』-つくはえ-* 01 〕を刊行した。
しかし恭吉は大正2年(1913年)頃から肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。
その作品はエドヴァルド・ムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。帰郷後は躰に負担のかかる版画ではなく、詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年(1914年)9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。
遺作が萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の挿絵として紹介された。装幀は友人の恩地孝四郎。和歌山県出身。号は未知草。
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『田中恭吉作品集』には「田中恭吉小伝 ── 大槻憲二」(p.79 – 90)が収録されているが、その最終部には以下のようにある。

〔前略〕最後にあたって彼の遺友たる我々十数名の者の彼に対する友愛と、さゝやかな努力の集積とが、変して彼の遺作展覧会となりたる事を、自分は附記しておかねばならぬ。
それは一九一五年(大正四年)十二月三、四、五日の三日間、日比谷美術館で催された。
それは可成りの成功を収めたようであった。一堂の下に集められた彼の生涯の作品は、実によくまとまった立派なものであった。
また恩地の努力と好意とによって、今や彼の遺作集は出版される事になり、自分はその内に収めるために、彼の小伝の筆をとる事になった。

〔追記〕
併しその出版は成功しなかったようで、私の書いた「伝記」も空しく筐底に埋もれることとになって今日に至った。

この大槻憲二による「田中恭吉小伝」がおよそ八十余年ののちに筐底を脱するのには、当時若山県立近代美術館・学芸課長/三木哲夫氏(のち国立国際美術館学芸課長、現兵庫陶芸美術館館長)の常にあらざる努力によった。
『田中恭吉作品集』「あとがき」(p.134 – 5)からみてみたい。

あとがき

田中恭吉は、大正四年十月二十三日、自らの生命を燃焼させ、生と死とのすさまじい緊張を表現した作品を残して、二十三歳の短い人生を閉じた。
数日を経て、和歌山から東京の友人たちに訃報が伝えられると、その死を追悼するに当たって、藤森静雄は遺作展の開催を、恩地孝四郎は遺作集の出版を主張したという。

この二つの計画は、直ちに実行に移され、遺作展は十二月三日-五日の三日間、日比谷美術館で開催されたが、遺作集の方は、恩地の懸命の努力にもかかわらず、大正五年二月、資金難のために出版を断念するに至った。
恩地はこのことを生涯負目として持ち続けていたようで、私が恩地家に保管されていた恭吉の作品を一括して和歌山県立近代美術館に譲っていただくために、昭和五十四年頃から恩地孝四郎の長女三保子さんをお訪ねするようになった時にも、

「父は恭吉さんの遺作集を出版できなかったことを生涯悔やんでいました」
としばしば聞かされた。

またその後、昭和五十九年に恭吉の作品・資料を一括して当館に寄贈することを内諾された折にも、三保子さんが当館に示された条件は、
「一、作品を大切に保管すること。二、展覧会を開催すること。三、きっちりとした画集を出版すること」
の三つであり、三保子さんご自身も父孝四郎の遺作集断念を相当気に掛けられていたようであった。(なお、この寄贈の話は、同年十二月に三保子さんが急逝されたため一時中断したが、六十二年六月に恩地孝四郎の長男邦郎氏から、恭吉の友人であった香山小鳥の作品・資料とともに一括して当館に寄贈された。)

この三保子さんと当館が結んだ公約の三番目、画集出版は経費面からなかなか難しいと思っていたが、幸いにも玲風書房の生井澤幸吉氏からお話をいただき、ここに実現の運びとなった〔後略〕。

【奇遇でした。三木哲夫氏とはほぼ同世代。同じころに荻窪の恩地邸を訪ねていたようです】
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【もん】先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え

Notes on Typography  2019年02月01日
【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺と崇福寺墓地のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
この石の門には、どんな 文、はたまた 字 がつづられ、どんな 意味 があるのでしょう?
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長崎の墓所入口にある甲骨文について判読してみました。
甲骨文は異体(字)が多く確定はできませんが、次のように判読しました。
向かって右側の門柱は、「 先  祠  中 」
向かって左側の門柱は、「 思  父  祖 」
その意味するところは、
「祖先の墓所の中では、父祖のことを思え」
と解釈しました。頭の体操をさせて頂きました。[古谷 昌二]

☆    ☆    ☆    ☆

2019年02月01日、上掲写真を紹介すると共に、その読みと意味を何人かに質問した。早速回答をいただいたのは古谷昌二さんで上部に紹介した。
その間「石の門柱」ではいかにも座りがわるいので、知り合いの石材店に呼称をうかがった。ふつうは単に「門・石門」などと呼んでいるが、「石闕-せっけつ」と呼ぶことがあるとの回答をいただいた。

この「石闕」は長崎大光寺の墓地中腹にあるが、すぐ隣接して長崎「三福寺」のひとつ、唐寺として名高い「崇福寺-そうふくじ」の墓地とも正対している。すなわち唐文化からの影響もおおきいとみられた。そこで大光寺と崇福寺の両寺の歴史をみてみた。

大光寺は浄土真宗本願寺派の寺。慶長一九-1614年僧慶了が創建、万治三-1660年現在地の鍛冶屋町にうつり、一度も火災に合わなかったが、堂宇の一部は大正二-1913年に新しく建てなおされている。墓地には本木家歴代墓、西郷四郎墓、内田九一供養塔などがある。

崇福寺-そうふくじ」は、長崎市にある黄檗禅宗の寺院。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。
寛永六-1629年、長崎で貿易をおこなっていた中国福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や唐寺と称せられた。

第四代住持 隠元隆琦 は、のちに徳川家の庇護をうけて宇治に黄檗山萬福寺を創建し、仏教百科事典ともいうべき萬暦版一切経『嘉興蔵』(下掲図版左)をもたらした。
その萬暦版一切経をもとに、山内の宝蔵院住持:鉄眼禅師が覆刻(かぶせ彫り)したのが「鉄眼一切経」(下掲図版右)で国の重要文化財となっているが …… 。

【闕-けつ 石闕-せっけつ】

闕は古代中国の宮殿、祠廟、陵墓などの門前の両脇に張り出して左右対称に設けられた望楼。中間が闕然として何もないことから、その名がある。闕の名称は西周時代の文献にすでに見える。一般に高い基壇の上に楼閣を立てたが、のちには石造でそのかたちをかたどったものもつくられた。
実物としては高頤闕-こういけつ-などの漢代の石造墓闕や、画像石に描かれたもの、壁画墓の墓道両脇に描かれたもののほか、北京故宮(紫禁城)の午門がこの形式になる。

石闕は本来木造であった闕を石でまねてつくった石造物で、大型墓の神道(神道碑-しんどうひ)や、祠廟の入口を飾った。石闕は必ずしも古代の木造の闕を忠実に模倣したものでなく、かなり簡略化したり誇張されており、個々によってかなり異なった形態をとる。
[参考:『世界大百科事典』平凡社]

【かきしるす】顔真卿自筆の尺牘 ≒ 書簡文『祭姪文稿-さいてつぶんこう』をめぐって

東京国立博物館で開催されている「顔 真卿展」は中国でも関心が高い  Photo : DOL
DIAMOND online  2019年02月04日

「 DIAMOND online  2019年02月04日 」に王 青(おう せい 日中福祉プランニング代表)女史が<顔真卿-王羲之を越えた名筆>展に関して、五ページにわたって興味深い報告をしてる。

それによると、台湾故宮博物院所蔵、顔真卿自筆の尺牘 ≒ 書簡文『祭姪文稿』が東京で展示されることが広報された直後から、書藝の至宝ともいえる『祭姪文稿』が中国ではなく、日本での公開となったことに対して、中国の SNS メディアを中心に、愕き、嘆き、悲しみ、怒りの情報が溢れ、いわゆる炎上状態になったそうである。

ところが、たまたま中国の旧暦の正月「春節休暇」と重なったため、多くの中国人が展観に駆けつけ、東京国立博物館での展示・広報記録の丁寧さをみて、さっそく好意的な報告をしたためたため、炎上は鎮火し、逆に東京展への人気が高まっているという。
【 詳細:  DIAMOND online  2019年02月04日 】

中国陝西省西安市雁塔路の噴水公園に建つ、武将姿の顔 真卿石像

西安城内中央通りの開放路・和平路を縦貫し、玄奘三蔵 ゲンジョウ-サンゾウ ゆかりの慈恩寺大雁塔 ジオンジ-ダイガントウ にいたる広い道幅の縦貫道「雁塔路 ガントウ-ロ」には、唐の太宗(李世民 在位626-649)の盛大な巡幸行列の再現彫刻をはじめ、唐王朝時代の政治家・文人・書法家などの巨大な石像が列をなしている。夜は噴水とともにライトアップされ、古都・長安(西安)のあたらしい観光名所となっている。

唐の太宗・李世明の陵墓。西安市郊外九嵕山-キュウソウザン-にある「昭陵」

近年になって李世明の巨大な立像が建てられ、観光地として整備されつつあるが、ここにいたるには狭隘な山道(車で走行できるがチョット怖い)がつづき、道中には案内板もなく、訪れるひとは少ないようだ。
管理人が十人ほど番小屋のような建物の前でゲームに耽っていた。この山稜のいずこかに太宗・李世民は偏愛した王羲之の書とともにねむっているという。このあたりに墓碑があったとされるが、現在はアメリカにあると聞いた。
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【顔 真卿  がん しんけい  709-785】

中国、唐代中期の政治家、書家。顔氏一族は「琅邪臨沂-ろうやりんぎ 山東省」の人であるが、父:顔 惟貞-いてい-の任地であった陝西長安に生まれた。あざなは清臣。北斉の学者:顔之推-がんしすい-五世の従孫にあたり、代々学者、能書家を輩出した名家の出である。
幼くして父を亡くしたが、伯父や兄から教えを受け、少壮より書をよくし、博学で辞章に巧みであった。734-開元22年、26歳で進士に合格し、のち刑部尚書、吏部尚書、礼儀使などの高位に上った。

唐の中期、玄宗皇帝の755-天宝14年、安禄山-あんろくさん-と、史思明-ししめい-による反乱、いわゆる「安史の乱」に際しては、平原太守として義兵をあげ、唐朝のために気を吐いた。わが国では「安禄山の乱」として知られるが、楊貴妃に溺れて治世を怠りがちだった玄宗皇帝の晩年に、節度使の安禄山と史思明らが起こした反乱をいう。763年、粛宗の代に鎮圧。以後、唐の中央集権型封建体制はおおきく弱体化した。

その後の顔真卿は魯郡開国公を封ぜられ、太子太師-たいしたいし-を授けられたが、生来剛直な性格の彼は人と相いれることすくなく、とかく敬遠されがちで官界を転々とした。
やがて李希烈-りきれつ-謀反のとき、死を覚悟して諭しに出向いたが逆に捕らえられ、拘留三年ののち蔡州(河南省)竜興寺において弑された。

書は顔氏一族歴代の書法を継承し、石碑にのこる書は「一碑一面貌」とも評される。また楷・行・草の各体に多肉多骨の書風を創始した。肉太の線と胴中を張らせた構成、それにどっしりした量感は顔真卿の全人間性を表出したものであり、開元・天宝期の書藝様式を確立した中心人物であるといっても過言ではない。
すなわち初唐のころ盛行した優美な王羲之-おうぎし-風とはまったく異なる、強烈な書風を示している。おもな作品に多宝塔碑、祭姪文稿-さいてつぶんこう、麻姑仙壇記-まこせんだんき、争坐位稿-そうざいこう、顔氏家廟碑-がんしかびょうひ-などがあり、『顔魯公文集』などの著がある。

[ 関連: 花筏 新・文字百景*004 願真卿生誕1300年+王羲之 2012年07月10日 ]

bnr_ganshinkei_3_224_1先行チラシ_A4_表東京国立博物館
特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」
会  期  2019年1月16日[水]-2月24日[日]
会  場  東京国立博物館 平成館(上野公園)
開館時間  9:30-17:00(入館は閉館の30分前まで)
      * 会期中の金曜・土曜は21:00まで開館
休 館 日  月曜日 * 2月11日[月・祝]は開館、翌12[火]は休館
観覧料金  一般1600円、大学生1200円、高校生900円、中学生以下無料
主  催  東京国立博物館、毎日新聞社、日本経済新聞社、NHK
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中国の歴史上、東晋時代(317-420)と唐時代(618-907)は書法が最高潮に到達しました。書聖・王羲之(おうぎし、303-361)が活躍した東晋時代に続いて、唐時代には虞世南、欧陽詢、褚遂良(ぐせいなん、おうようじゅん、ちょすいりょう)ら初唐の三大家が楷書の典型を完成させました。
そして顔真卿(がんしんけい、709-785)は三大家の伝統を継承しながら、顔法と称される特異な筆法を創出します。王羲之や初唐の三大家とは異なる美意識のもとにつちかわれた顔真卿の書は、後世にきわめて大きな影響を与えました。

本展は、書の普遍的な美しさを法則化した唐時代に焦点をあて、顔真卿の人物や書の本質に迫ります。また、後世や日本に与えた影響にも目を向け、唐時代の書の果たした役割を検証します。

* 本展は「祭姪文稿」コーナーを中心に相当な混雑が広報されています。
* 混雑状況は Twitter @ganshinkei2019 にて確認できます。
   また下掲ページ、本館開催の関連展 王羲之書法の残影-唐時代への道程-もお勧めです。

【 詳細: 東京国立博物館 】 { 関連: 活版アラカルト

【ことのは】春節-己亥大吉 旧正月の祝|有朋自遠方来不亦楽乎 ── 朋有り遠方より来たる亦た楽しからずや|

《邢 立 老師、ことしの春節をご夫人とともに日本ですごす》

<上海に営業所を有する知人からの情報>
今年の中国春節の休暇は 2月4日[月]-10日[日]、実質 3 日[日]をあわせて連続 8 日間の休暇となっています。弊社の上海事務所は政府の規定どおりの休暇ですが、生産工場などは 2 週間から 1 ヶ月間を休業としているところが多いようです。

’19年11月末、長崎で開催された<「平野富二生誕の地」碑建立祝賀祭>に北京から参加され、会話翻訳機を駆使して、すっかりサラマ・プレス倶楽部会員とも親しくなられたのが邢 立-シン リツ- さん。
[ 参考: Notes on Typography 【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日 ]

さきに愛娘が結婚され、まもなく出産ということで(邢 立 老師はオジイサンになる)、北京印刷大学教授でもあるご夫人は、日本の温泉を楽しみ、またベビー用品のお買い物に忙しいとか。
そこで邢 立さんはひとりで朗文堂に来社して、いつものタイポグラフィ論議。
中国の春節のすごしかたも、少しずつ変わってきているようです。
北京の印刷・出版社の中華書局数字出版中心:李 晨光さんから、『己亥大吉-きがいだいきち』のデスクダイアリーと、『唐詩之美日暦』『宋詞之美日暦』の春節を祝う携行カレンダーが到着した。

中華書局は自社活字書体の「聚珍倣宋版」を有し、中国有数の印刷・出版企業の中核企業である。「中華書局数字出版中心」での数字はデジタルを、中心はセンターをあらわすので、李 晨光さんは同社のデジタル・パブリッシング部門の総括責任者ということになろうか。

李 晨光さんとの最初は2015年04月03日、東京での学会にパネラーとして参加された中華書局と商務印書局のおふたりが、中途で「脱出」して、小社を訪問されたことにはじまった。その後はやつがれが北京を訪問したり、招聘された際にお会いしていた。

政府系企業から招聘をうけて訪中した際に、主催者にお願いして前夜祭のパーティーに李 晨光さんをお招きしていただいた。驚いたのは並みいる有名大学の教授陣が競って李 晨光さんのもとに駆け寄って名刺交換にあたっている光景であった。
宴が終わったのちに、親しい某教授に伺ったところ、
「中華書局は学生の憧れの職場ですから。ねっ」と艶然と微笑まれた。
やつがれも現役時代にはそれなりに学生の就職先を気にしていたが、巨大大国となった中国では、著名企業への求職競争は熾烈なものがあることをのちに知った。

[ 関連: 朗文堂好日録-045 卯月四月がおわり、新緑と薫風の皐月五月のはじまり ]

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【もんじ】花のことのは-誠実・控えめ|字であらわすと厄介なスミレ

【菫 解字】ウエブサイトでは表示できない「槿-キン・むくげ、僅少-キンショウ」の旁、「キン」を含むので、以下「僅」を代用して説明。
会意・形声。艹と僅を合わせた字。僅-キン-が音をも示す。艹は草の意、僅-キン-は僅と似て、わずかとか、ちいさいの意がある。そこで小さな草、すみれをいう。
面倒ではあるが「菫」と、「槿・僅」の旁は別字である。

《春は名のみの …… 寒い毎日がつづきます》
吾が空中庭園では、ここのところ寒風をものともせずスミレがひっそりと開花している。
ここは南面しているので、晴天なら陽だまりになるが、この頃の曇天のなかではさすがに寒そうである。
本格的な春の到来を待ちわびる日々がつづく。

【 スミレ 菫 菫菜-キンサイ 】
春、道ばたや森の中で深い紫の花を咲かせる。自生している場所や、その色から奥ゆかしい花とされ、「花のことのは」は、「誠実」「ひかえめ」。
歳時記では卯月-四月の花とされている。

日本では多くの種類のスミレが自生しているので香りは種類によって異なる。スミレを特定の種の和名として用いるほか、スミレ属各種を総称することも多い。
スミレの名は、下弁の形が、大工が使用する墨壺に似ているからつけられたもので、墨入れの略とされる。漢の字「菫-キン」を与えて「菫-すみれ」とするのは俗用(意読)で、中国では「菫菜-キンサイ」と書かれることが多い。
英語では「violet バイオレット」と書くが、サンシキスミレ( V. tricolor L. ビオラ・トリコロル)系のものは、主として園芸品種の系統を「pansy-パンジー」、また主として野生種のものを「heartsease-ハートシーズ」とよんで区別する。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

【ことのは】30センチのエスプリ|懐紙・短冊-書はかたる| 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫展ゟ

本木昌造自筆短冊五首 ── 釈読:古谷昌二(平野ホール所蔵)

本木昌造の平素の自筆稿本『本木昌造活字版の記事』(仮題、長崎歴史文化博物館:参考『活字をつくる』p.100 片塩、朗文堂)などをみると、決して能筆とはいえず、むしろ「金釘流」にちかいものがある。
ところが長崎歌壇同人としてのこした歌の短冊は、流麗な「お家流」の書で、艶冶な歌をしるし、署名はあざな「永久-ながひさ」としてのこした。この短冊は関東大震災、太平洋戦争などの罹災をこえて、こんにちでも平野ホールに継承されている。

【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】

I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版から平野富二の「歌」を紹介した。
この「歌」の出典は『本木昌造 平野富二 詳伝』(発行兼編輯人:三谷幸吉、同書頒布刊行会、p.172  昭和8年4月20日)である。

同書平野富二編には、しばしば「日記」「金銀錢出納帳」が紹介され、不鮮明ながら131ページには「日記」、148ページには「金銀錢出納帳」の写真凸版による影印図版がみられる。

したがって三谷幸吉が調査にあたった昭和7-8年ころには現存した資料であるが、残念ながら現在原資料は発見されていない。また上掲の一首以外の歌は紹介されておらず、短冊の存在も報告されていない。

平野〔富二〕先生は無骨一點張りの裡にも、亦、風流なところがあったと見えて、時々和歌を詠ぜられて居る。左〔下部〕の和歌は、明治二十年五月より七月に到る「日記」(平野家所蔵)に記載しありたるものである。
   世の中を空吹く風に任せ置き
   事を成す身は國と身のため

【補遺 古谷昌二さんはときおりこんな瀟洒なことをひっそりと …… 。「植文字」まさに活字の本質をついた名句です!】

『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二、補遺4 p. 250)
平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、
現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、
 「解かしては
 かためて鋳ぬく
 植文字を
 平野に充つる
 雪の夕景」
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である。

【展覧会】徳川美術館・名古屋市蓬左文庫|企画展:書 は 語 る ─ 30センチのエスプリ ─|1月4日-2月3日|本展示は終了しています

【 詳細: 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫 】
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【ことのは】印刷業界用語|インキ|いつの間にか「インク」に押されているようですが|国立印刷局と本木昌造・平野富二関連調査の端緒

独立行政法人 国立印刷局お札と切手の博物館
平成30年度第2回特別展 お札の色・切手の色 ~ 偽造を防ぐ技と美 ~
’18年12月18日-’19年3月3日 フライヤー裏面ゟ部分

お札や切手の印刷に使われるインキは、他とは一線を画した特殊なインキです。それは、偽造を防ぐため、門外不出の製法によって開発する特製品であり、また、色と印刷を知り尽くした職人が編み出す特別な色だからです。
印刷局は、創業後間もない明治5-1872年からインキ事業を開始し、日本で初めて洋式の印刷インキを製造しました。その後も、技術の進歩に合わせ、時代の要請に応えながら、インキの技術開発を続けてきました。
本展では、およそ150年にわたる歴史のうち、明治・大正期を中心に、当時編み出したインキや「色」にまつわる資料をご紹介します。激助の時代を乗り越え、連綿と絖く印刷局のインキ開発によって生み出された、伝統あるインキの美をぜひご覧ください。
独立行政法人 国立印刷局 お札と切手の博物館、通称国立印刷局の特別展フライヤーから一部を紹介した。この短い文章の中に「インキ」ということばが八回出てくる。
すなわち国立印刷局では、創立直後には「印肉」とも呼んだようであるが、いつのころからか「インキ」といい、いまもって「インク」とはいわないことがわかる。

当然それは民間にも影響を与えた。
印刷・出版業界、なかんずく印刷用インキの製造・販売業者は、社名の一部にインキを用いている業者が多く、「インク」というと露骨に嫌な顔をするか、丁重にいいなおしてくることが多かったが …… 。それでも近年は「インク」に馴れて、次第に「インキ」派は少数勢力になっているようである。業界用語とはいえ時代の趨勢とともにあり、そんなものかも知れないとおもうことがある。
以下『印刷辞典』からその推移をみたい。

◎『印刷辞典』の第一版『英和 印刷=書誌百科事典』(印刷雑誌社、昭和13年01月15日)
  ink  インキ。書冩、印刷等に用ふる着色料の總稱。
◎『印刷辞典』の第二版『印刷辞典』(昭和33年10月20日初版、昭和41年6月20日第6刷、大蔵省印刷局)
  インキ ink ; Farbe, Tinte 書写・印刷などに用いる着色料の総称。筆記用インキ・印刷インキ、製版に用いる腐食用インキ・転写インキなどがある。
◎『印刷辞典』の第三版『新版 印刷辞典』
(昭和49年9月10日、大蔵省印刷局)

  「インキ」の単独項目は見られない。インキ=アジテーター以下20項目の派生語を紹介。
◎『印刷辞典』の第四版 所有せず
◎『印刷辞典』の第五版『印刷辞典
第五版』(平成14年1月7日、財団法人 印刷朝暘会)
「インキの単独
項目は見られない。インキ=アジテーター以下33項目の派生語を紹介。「インキローラー冷却装置」に続き、はじめて「インクジェット記録・インクジェットプリンタ・インクジェット用紙」の三項目に「インク」が登場するが、単独項目の「インク」は見られない。お札と切手の博物館
平成30年度第2回特別展
お札の色・切手の色 ~ 偽造を防ぐ技と美 ~
開  催  日  平成30年12月18日[火]-平成31年3月3日[日]
開催時間   9:30-17:00
休  館  日  月曜日(祝日の場合は翌平日)、2月10日[日]
開催場所  お札と切手の博物館 2階展示室
入  場  料  無  料

【 詳細: お札と切手の博物館 】
『印刷辞典』は印刷局にあった矢野道也と、その膝下にあった川田久長の貢献によって初版が刊行され、こんにちまで書名・編輯団体名・発行所名を変えながらも継続刊行されている図書である。
矢野道也は大蔵官僚という立場をこえて、ひろく印刷業界人と交際し、印刷学会を創立した。川田久長は秀英舎・大日本印刷の社員であったが、印刷図書館の創立に貢献した。

小社周辺では、タイポグラフィ学会と足並みを揃えながら、幕末の先端地であった長崎から、たれが、どこへ、どのように、当時の最先端技術・産業であった「活字版印刷術  ≒ タイポグラフィ」を江戸・東京にもたらしたのかの調査にあたっている。
その報告は「Viva la 活版  ばってん 長崎」『崎陽探訪・活版さるく』(『タイポグラフィ学会誌』09、2016年11月26日)、「メディア・ルネサンス」『江戸・東京活版さるく』(『タイポグラフィ学会誌』11、2018年11月15日)になされている。

これらの成果をもとに、明治産業近代化のパイオニア:平野富二生誕の地を長崎歴史文化博物館と国立公文書館所蔵「長崎諸役所絵図 引地町町使長屋-ひきじまちちょうじながや」の資料から特定することができた。
次いで「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭を2018年11月23-25日、かつて引地町町使長屋が存在した長崎県勤労福祉会館を主会場として、記念碑の除幕、記念祭をおこなうことができた。

この記念碑は<「平野富二生誕の地」碑建立有志の会>が浄財を募って建立にあたったが、同会ではその記録を仮称:『平野富二生誕の地碑建立の記録』として刊行するために日々努力を継続している。もちろん<「平野富二生誕の地」碑建立有志の会>は、あくまでも民間の任意団体であり、補助金や助成金などは一切受け取っていない。

そんな努力に対して、近年少しずつ国立印刷局の役職員が関心を寄せてくれるようになったことは嬉しいことである。
かつて国立印刷局のお札と切手の博物館では、【 平成26年【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館 】を開催しており、その際の図録には長崎 ── 本木昌造と平野富二のふたりの肖像写真を掲げ、長崎との強い結びつきがかたられていた。同展を含む特別展の記録は、同館の WebSite に PDF データーが公開されていたが、現在は「改修工事中」ということで閲覧いただけないのが残念である。
上掲リンク先に川田久長、矢野道也の両氏を通じて国立印刷局と長崎の先端技術の交流の記録の一端をみていただけたら幸いである。

「印刷産業綜合統制組合屋上にて:矢野道也氏を送る会」(1946年03月25日)

敗戦からまもなく、東京での家屋を戦災で焼失し、子息が居住していた九州へ移転のため、矢野道也が印刷学会会長職の辞任を申し出た日に撮影された。当時の印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也(前列中央)。その背後、後列中央の、白髪で長身のひとが川田久長である。  
前列左より:佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より:馬渡 努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

「この一冊の書物から」『印刷情報』(片塩二朗 2000年07月 p.73 – )
すこしつらい記録ですが、わが国そのものが狂奔していた戦時下の貴重な記録です

【 資  料 】
矢野道也(1876-明治9年-1946-昭和21年)
日本の印刷工業に科学的研究を導入した工学者。東京帝国大学応用化学科卒業。大蔵省印刷局に入り1945年6月退官。この間、紙幣、銀行券などの有価証券類の製造と、官報その他の重要活版印刷物の作成を研究指導し1919-大正8年工学博士。

1928-昭和3年6月「日本印刷学会」の創立を提唱して初代会長に就任。印刷技術者の教育に熱意をもち、官職にありながら東京高等工芸学校(現千葉大学工学部が一部を継承)、東京高等工業学校(現東京工業大学)、東京美術学校(現東京藝術大学)の各学校で、色彩学、印刷術などの講義をおこなった。印刷関連の著書が多い。

川田久長(1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日)
明治23年05月25日  東京牛込区にて、父:麹町区長・川田久喜、母・むめ子の長男として誕生。
大正02年09月    東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。浅沼商会入社。製版材料調査に従事。
大正12年      秀英舎(現大日本印刷)入社。 同社関連企業の活字製造所:製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月    印刷図書館初代館長に就任。のち「文部省認可 財団法人 印刷図書館」(昭和24年設立)となる。
昭和24年03月20日  著作『活版印刷史』(初版・並製本 印刷学会出版部)刊行。
昭和37年07月05日  逝去。享年72。墓は谷中霊園甲3号4側に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作『活版印刷史』(再版・上製本 印刷学会出版部)刊行。 

【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日

肥州長崎図 安永7(1779)年(国立公文書館)

中央部、扇状に円弧を描いて海中に突出しているのが出島。はじめポルトガルが使用し、のちオランダ人が居住した。その下部の長方形の海中の島が新地荷蔵 並 御米蔵。その下部の唐人屋敷とは橋でつながっていた。唐人屋敷では家屋が密集していたため火災が頻発し、開港後に多くの中国人が新地に移動した。
この周辺は埋め立てがすすみ、唐人屋敷はわずかに石垣と濠跡をみるばかりとなり、昔日の光景を偲ぶよすがは少ないが、長崎空港からのアクセスが便利で、観光客が集中する繁華街。

長崎諸役所絵図 唐人屋敷(国立公文書館)

【唐人屋敷-とうじんやしき】
江戸幕府が密貿易やキリスト教の伝播防止の目的で、長崎に来航する中国人を収容した施設。長崎町年寄に命じて、1689年(元禄2)長崎郊外の官有地十善寺村に竣工。工費は銀634貫余。竣工当時の敷地面積8015坪余(2万6449 ㎡ ほど)、居住の建物は2階造りの19棟、部屋数50。市中の中国人はこの唐人屋敷に集められ、そこで暮らしていた。

各棟を来航船の出航地別に区分して入居させ、階上は商人用、階下は船員用とした。家賃は年額銀160貫、借地料3貫970匁余で、ともに唐人側の負担。
1701年の記録によれば、館内常置の役人は乙名(おとな-諸事の総支配管理役)3名、組頭(乙名の助役)4名、唐人番19名、探-さぐり-番(探偵)4名で、ほかに医師が内科10名、外科3名、眼科2名、牢屋医師が8名置かれていた。
一般日本人で出入りできる者は遊女、禿-かむろ-のほかは指定された商人のみ。1689年の入居唐人数4888名。1738年(元文3)の遊女入館数は延べ1万6913名で、同年の来航唐船は5艘である。

1859(安政6)年の開国によって唐人屋敷は廃屋化し、1870(明治3)年に焼失。
その後、長崎に住む中国人は隣接の長崎市新地町に中華街を形成し、現在の長崎新地中華街につながっている。
福建会館は唐人屋敷時代の孔子を祭る聖人堂の跡といわれ、福建省泉州出身者により創設された八会所がその起源。孫文は1913(大正2)年3月22日、華僑主催の歓迎午餐会で、福建会館に足を運んでいる。前庭には上海市より寄贈された孫文の銅像が建っている。
[参考:『世界大百科辞典』平凡社]

長崎諸役所絵図 新地荷蔵 並 御米蔵(国立公文書館)

【長崎貿易・長﨑会所・長崎新地】
長崎港の対外取引において代表的な明治以前の貿易をいい、
(1)ポルトガル船に対する1571年(元亀2)の開港から鎖国までのいわゆる南蛮貿易時代
(2)1633年(寛永10)に最初の鎖国令が出てから幕末開港までの対外貿易独占時代

(3)1859年(安政6)3港開港後のいわゆる自由主義貿易時代に区分される。

(1)南蛮貿易期
開港後まもなく、長崎は一時イエズス会領になったので(1580)、それまで九州各地に渡来したマカオからのポルトガル船や、マニラ発のスペイン船は長崎に集中するようになり、江戸時代に入ると唐船(江戸時代には明、ついで清朝船だけでなく、東南アジア各地からのジャンクもそうよばれた)の入港も急増し、さらに朱印船の中心的な発着港として栄えた。

これに対し後発のオランダ、イギリスは、それぞれ1609年(慶長14)、13年に平戸に商館を建てて日本貿易を開始した。平戸は中世以来の唐船貿易の一大根拠地でもあったが、直轄地長崎での糸割符制、キリシタン禁制を柱とする内外商人規制は、しだいに平戸へも拡大された。

(2)鎖国貿易期
1633-41年の間に、日本人の出入国禁止、唐船貿易の長崎限定、対ポルトガル断交と、空屋になった出島へのオランダ商館移転がおこなわれ、長崎は唐、オランダ船に限る外国貿易の唯一の開港場となった。もっとも、鎖国期には取引額は少ないが対馬藩による釜山の倭館での朝鮮貿易、実質は薩摩藩経営の琉球国による福州琉球館での中国貿易、松前藩による蝦夷地貿易があり、江戸中期には朝鮮貿易、末期には薩摩藩の交易が長崎貿易に大きな影響を与えた。

唐、オランダ船が長崎に入港すると、奉行所役人や唐通事、オランダ通詞が乗船して海外の情報を聴取し、人別改めや唐人は踏絵をして、上陸や荷揚げとなる。
唐人ははじめ市内に分宿したが、元禄以降になると身柄は唐人屋敷、貨物は新地蔵に収容され、出島とともに日本側の厳重な管理下におかれた。

取引方法は、糸割符、相対-あいたい-貿易法、市法貿易法、糸割符復活、代物替-しろものがえ-併用などと変化し、海舶互市新例(正徳新例)で確立したが、要は主要輸出品である銀や金の流出抑制のための買手市場化、年間取引額(定高)の設定であり(定高貿易法)、元禄期からは長崎会所を通じて貿易利潤の幕府財源化と銅輸出、後期には海産物(俵物、諸色)の輸出強化が注目される。
しかし輸出銅の不足を理由に1742年(寛保2)、90年(寛政2)の〈半減令〉をはじめ、漸次取引を縮減し、和糸や砂糖などの競合国産品の台頭、海外の戦乱などにより衰退した。

(3)開港後
唐船貿易は引き続き長崎会所が管掌したが、長崎の独占は崩れ、武器・雑貨の輸入と茶・石炭の輸出を特徴として、イギリスを主体とする欧米諸国貿易が活発化した。しかし、関税は輸入2割、輸出5分が平均的で、開港前の総平均18.5割にははるかに及ばず、横浜・箱館などの取引に抑えられて、地位の低下は否めなかった。
[参考:『世界大百科辞典』平凡社]

【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!
2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

中国最大のお祭り、春節-シュンセツ-旧正月のお祝い
出島のエキゾチズム、異国趣味で賑わう長崎も

旧唐人町と、新地地区を中心に、いつもとは異なる風情をみせています

【 詳細: 長崎市公式観光サイト:あっと!ながさき 】
[ 関連: 【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日 ]  初掲載:2018年11月29日

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【国立公文書館】企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」|一筆啓上仕候 …… 私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札|面倒なものです

私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札
一筆啓上仕候 ……

わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ
いっぴつけいじょうつかまつりそうろう ……..

上野国伊勢崎藩の前藩主酒井忠恒(寸升)は、元治元年(1864)に幕府へ湯治願を提出しました。本資料は、酒井寸升が幕府老中宛に差し出した湯治願が許可されたことに対する御礼の書状です。

{新宿餘談}
国立公文書館本館で、平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」が開催されている。展示資料のなかに上掲「私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札-わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ」があった。
本資料は、伊勢崎藩[前橋藩の支藩。維新時には二万石]の前藩主:酒井忠恒(寸升)が、幕府閣老・老中に湯治願を提出し、255年ほど前の元治元年(1864)にその湯治願が許可されたことに対する御礼の書状と解説されていた。

本文は文語、いわゆる候文で、仮名の使用はみられない。文末に署名し、さらに花押(かおう-署名の下に書く判、書き判ともいう。草書で書いた名をさらに様式化したもの)があり、その上部にちいさく忠恒としるしてある。さらに老中の姓と官職名を列記する大仰さであった。

隠居した大名でも、江戸・任地を離れる際にはこんな願い書を出し、許可が出れば礼状をしたため、戻れば報告するのが決まりであったようである。
町人も旅に出るのにはしかるべき町方の許可を得て、旅手形が発行され、それがない者は各地に設けられた関所を通過できず、宿にも泊まれなかったとされる。
明治維新後、大名は藩知事などの変遷を経て華族となったが、民衆の移動の自由が保障されたのは明治憲法の発布を待ってからのことになる。温泉にいくのにも容易ではなかったことがわかる。

国立公文書館
平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」
会  期  平成31年1月26日[土]-3月9日[土]
開館日時  毎週月曜日-土曜日 午前9時15分-午後00分
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
      千代田区北の丸公園3-2 1階展示場
入  場  料  無  料
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日本人が古くから親しんできた温泉。江戸時代には、名所図会、紀行文などを通して情報が広く流布し、多くの人々が温泉地に訪れました。本展示では、江戸時代の資料を中心に、人々と温泉の関わりをご紹介します。

【 詳細: 国立公文書館 】 {関連:活版アラカルト

【 伊勢崎藩-いせさきはん 】
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【かきしるす】平野富二 31歳のころの写真Ⅱ|三谷幸吉の記録ゟ+石川島平野造船所の集合写真との関係は如何に

横浜石川口製鉄所職員 ── 前列中央が平野富二 1876年(明治9)31歳のころ
『本木昌造 平野富二 詳伝』ゟ
(発行兼編輯人:三谷幸吉、昭和8年4月20日、同書頒布刊行会 154ページ)

上掲写真を公開したところ、周辺でおもわぬ波紋が拡がっている。
① 横浜製鉄所の共同経営者で同郷の、杉山徳三郎はこの写真のどこにいる?
② 平野富二が手にしているのと類似する、帽子を被った巨躰の人物が「東京石川島造船所」関連の職員集合写真のなかでみたことがある。
あまりに豆粒のように小さく紹介されていて、平野富二とは断定できなかったが、この横浜製鉄所の写真との類似性からいって、平野富二とみてよいとおもわれるが?

① の疑問にこたえて
この写真は、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』p.155に記載されているように、「横浜石川口製鉄所」時代のものです。拙著『平野富二伝 考察と補遺』図8-16に掲載し、解説を述べてありますが、「横浜石川口製鉄所」は明治13年1月に平野富二が単独で借用したものです。
杉山徳三郎は、明治10年の西南戦争の特需で利益を得てから横浜製鉄所の経営から手を引いて、明治12年に九州に戻り、明治13年から炭坑経営に身を転じています。したがってここには杉山徳三郎はおりません。[古谷昌二]

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古谷昌二氏のご指摘を受けて
本図は『東京日日新聞』(明治14年2月19日)に掲載されたもので、東京と横浜とが一体運営であることを示している。

大小蒸気船及び帆走船
大小蒸気船幷陸用蒸気機械製造
このほか諸機械汽罐お好みに応じ製造仕りべく候
   東京  石川島造船所
   横浜  石川口製鉄所

横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所
「横浜製鉄所」は横須賀海軍工廠の前身をなす官営造船所であった。江戸幕府が海防に備えて、フランスの全面的な援助を得て、江戸近辺に艦船建造修理工場の創設を計画したことからはじまる。
幕府は慶応元年(一八六五)八月横浜本村(横浜市中区吉浜町)に「横浜製鉄所」を建設し、佐賀藩から献上されたオランダ製蒸汽船用機械を活用し、さらに咸臨丸遣米使節が購入した工作機械を追加据え付けし、小型艦船の修理のほか西洋技術の伝習を兼ねる工場とした。

ひきつづき地中海のツーロン軍港をモデルにして地形の類似する横須賀湾に立地し、同年九月「横須賀製鉄所」の起工式を挙行、翌二年工場建設、三年第一ドック開削に着手した。
フランスの海軍技師ベルニ François L.Verny が首長に任命され工事を指揮監督し、江戸幕府崩壊後も滞在。明治新政府はこれを継承し明治四年(一八七一)二月ドックを完成、製鋼・錬鉄・鋳造・製罐各工場も落成した。

横須賀製鉄所は明治三年十月から工部省の管轄に入り、雇用フランス人の技術力と据付け輸入機械の高い水準を生かし、造船にとどまらず一般産業分野にも活用され、政府の殖産興業政策を実施する日本最大の総合工場となった。採鉱機械を製作し生野鉱山で使用したり、富岡製糸場の建築に技師を派遣して協力したりしたのはその一例である。

明治四年四月「横須賀造船所」と改称され、五年十月海軍省の強い意向で同省の管轄に移され軍艦建造を目的とし、八年末ベルニらを解雇して邦人のみで艦船の造修を主体的に行う体制に切り替えた。その結果、フランス人技師や労務者も十年中に全員帰国した。
この間九年六月最初の木製軍艦清輝(八九七トン)、十三年七月木製砲艦磐城(七八〇トン)、十四年八月日本最大の木製二本マスト艦迅鯨(一四六四トン)を竣工した。十六年イギリスから技師を招き甲鉄艦の建造を学び、以後木製艦船の建造を中止した。

横浜石川口製鉄所の写真
本図は『幕末・明治のおもしろ写真』に掲載されている写真の一部である。明治15年頃の撮影とみられる。
本図は神奈川県立横浜博物館編『横浜銅版画』に掲載されている横浜石川口製鉄所の絵図である。上掲図とは方位が逆で、やや変形して描かれているが、工場の細部にわたって描かれているのが興味ぶかい。表門の門柱に「石川口製鉄所」の表札が掲げられ、その傍らに人力車が待機している。構内では組み立て手動式レールを用いてボイラーを人力で移動させている。

このように横須賀造船所の整備に伴い、補助的な役割を果たすにすぎなくなった横浜製鉄所は不要となり、明治十二年末平野富二に貸し下げられた。
平野はみずから経営する東京石川島造船所の分工場とし「横浜石川口製鉄所」と改称した。これは横浜製鉄所の位置が石川町の入口にあたることから「石川口製鉄所」と命名し、石川の文字を石川島と共有させることを狙ったものとみられる。

同所では翌年一月から舶用機関や一般諸機械を製作したが、本社工場と合併することを得策と考え、十七年末分工場を取り壊して石川島へ移築合併したため、横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所は消滅した。
[参考:『国史大辞典』(吉川弘文館)、『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二)]

② の疑問にこたえて
この写真は『石川島技報』の「石川島物語」に開催されている集合写真(部分)である。
写真の右手に洋服を着た役員・職員が並んでいるが、その前列中央のやや背の低い肥って丸顔のひとが平野富二、その右となり(画面)が稲木嘉助とされている。その背後に背の高い髭面のひとは技師長:アーチボルト・キングとみられる。
対する左手には職長や棒心らしき人々が法被-はっぴ-を着て立っており、中央には職工たちが四列に並んでいる。総勢七、八十人を数えることができる。
[引用:『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二 p.248)]

【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺うしろ山(風頭山-かざがしらやま)の大光寺と崇福寺墓地の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
どんな文、はたまた、どんな字がつづられ、どんな意味があるのでしょう?

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