新・文字百景*004 願真卿生誕1300年+王羲之

顔 真卿 生誕1300年にちなんで 

その人物像に迫る 【Ⅰ】


上下とも伝 顔 真卿肖像 709-85年 中国版Websiteより

《顔 真卿生誕1300年にあたって──王羲之の影響と初唐の三大家》
途中をはしょって、率意 ── 憤怒・激昂
のおもむくままにしるした、顔 真卿の行草書による尺牘セキトクの下書き『祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ』を紹介しながら、顔 真卿のひととなりを記述しようとあれこれ苦吟していた。それはやはり、無謀な試みであることを痛感させられた1ヶ月ほどだった。

この苦衷の最中、画像処理が苦手なやつがれが救援をもとめたひとで、「無為庵乃書窓」主人という得難い先達の知遇を得ることができた。同氏からは「無為庵乃書窓」画像へのリンクの許諾とともに、さまざまなご教示もいただいた。そのことがこの1ヶ月間の最大の成果であり、うれしいできごとであった。
それでも結局、本稿は2分割され、ここにみる顔 真卿像は序論に価することになった。

顔 真卿『祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ 』部分、台北・故宮博物院蔵

顔 真卿の後半生、なかんずく『祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ』に集中しての記述をあきらめると、どうしても先行類書 ── 書法書の記述法と似てしまうが、やはり東晋4世紀のひと、王羲之(307?-365?)を経過し、初唐6-7世紀の書法家たちをある程度記述してからでないと、とても8世紀後半のひと、顔 真卿は語れないという結論に達した。すなわち「文と字」は、ひとの営み、歴史とともにある。
また本稿をふくむ「文と字」に関する歴史と将来展望は、いまもさまざまな試行と追加取材をかさねている。いずれまとまった書籍のかたちでご覧いただけるようにしたい。
その序論のひとつとして本稿をご覧いただけたら幸せである。

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西晋以来ながくつづいた魏晋南北朝(220-589)の混乱した時代を、北周の武将だった揚堅(ヨウ-ケン、581-604)が、みやこを大興(のちの長安)とし、中央集権的帝国「随」を建朝して、ようやく中国の再統一をみた(589年)。
ところが2代皇帝煬帝(ヨウダイ、揚広、604-617)が臣下に弑され、つづく恭帝(617-618)もたおれて、わずかに3世37年をかぞえただけで随朝は滅んだ。
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つづく唐王朝の実質的な建朝者・2代皇帝太宗(李 世明、598-649・在位627-649)が貞観元年(627)に即位し、また賢臣をもちいて、唐王朝とそのみやこ・長安を空前の繁栄に導いた。その治世を「貞観ジョウガンの治」という。
太宗はみずからもすぐれた書芸家であった。その作は、西安 碑林博物館正面入口「碑亭」に置かれている隷書碑『石台孝教』(天寶4年・745、後述)にあきらかなであるが、また王羲之(オウ-ギシ、東晋の書家、307?-365? )の書を愛好し、その書200余を宮中にあつめた。

『蘭亭序』張金界奴本 虞世南臨本部分 北京・故宮博物院蔵 

 

『蘭亭序』褚遂良臨摸、絹本部分、台北・故宮博物院蔵
(『随唐文化』学林出版社、1990年11月)

それでも太宗・李 世明は王羲之の書作のうち、もっとも著名な『蘭亭序』の入手になやんでいた。すなわち漢の時代には陵墓の築造が重んじられ、また嘉功頌徳碑や墓碑など、さまざまな碑の建立がさかんだった。
それが三国時代を迎え、魏の始祖・曹操(あざなは孟徳。衰亡した東漢を支えて魏王となる。155-220年。その子・曹丕ソウヒ220-226年が帝を称して三国のひとつ・魏朝を建てた)が、陵墓や立碑の築造が経済をいちじるしく
圧迫しているとして、建碑を禁止し、陵墓の造営と葬礼の簡素化をおしすすめた。

この曹操の命もあって、魏晋南北朝における南朝では碑はあまり建てられなかった。それを反映して、王羲之は、碑のための書を一作も書いていない。
したがって、王羲之の書とは「尺牘セキトク、書簡・てがみの類」などのちいさなものが多く、いかに皇帝であろうと、収集は困難をきわめたのである。

ところが太宗は、『真草千字文』を書したひとで、王羲之7世の孫とされ、越州呉興の永欣寺住持・智永(チエイ、生没年不詳)が、『蘭亭序』の真筆をひそかに所持していることを知った。
太宗は智永が没したのち、後任の住持・弁才から、さまざまな苦心のすえ、待望の真筆『蘭亭序』を入手したとつたえる。太宗の『蘭亭序』(中国版図版集)への執着のさまをよく伝える説話である。
上に中国版『蘭亭序』図版集へのリンクを貼っておいた。現代中国における『蘭亭序』への人気と関心のほどがよくわかる。

浙江省紹興の蘭亭の一隅で、砂の書板に書する少女。いずれ詳細な報告の機会を得たい。


伝・王羲之肖像 あざなは逸少。東晋の書法家。右軍将軍・会稽内史。楷書・草書において古今に冠絶した存在とされる。その子・王献之とともに「二王」と呼ばれる。『蘭亭序』『楽毅論』『十七帖』などの書作がある。307?-365?年。

苦心のすえ『蘭亭序』を入手した太宗は、さっそく、趙模チョウ-モ、韓道成カン-ドウセイ、馮承素フウ-ショウソ、諸葛貞ショカツ-テイらに模本をとらせた。またそれにとどまらず、書法家として「初唐の三大家」とまで讃えられた、欧陽詢、虞世南、褚遂良らにも臨模(見て写しとること)を命じた。

◎欧陽 詢(オウヨウ-ジュン あざなは信本シンホン、557-641年)
『皇甫誕碑』(詳細図版:中国版)、『九成宮冷醴銘』(詳細図版:無為庵乃書窓)、『藝文類聚』。

◎虞 世南(グ-セイナン あざなは伯施ハクシ、557-641年)
『孔子堂碑』(詳細図版:無為庵乃書窓)、『北堂書鈔』。

◎褚 遂良(チョ-スイリョウ あざなは登善トウゼン、596-658年)
宰相(≒首相)の重職にあったが、武氏[則天武后]の皇后冊立に反対して、愛州[いまのベトナム]に左遷され同地で没した。『雁塔聖教序』(詳細図版:無為庵乃書窓

欧陽 詢『皇甫誕碑』拓本、原碑は西安 碑林博物館蔵
『西安碑林銘碑Ⅰ』陝西省博物館、1996年11月 


昨秋訪れた、欧陽詢の書『皇甫誕碑』がかつて置かれていた皇甫誕の墓。いまは広大な農地のまっただなかにひっそりと存在している。地元では幼童もこの小丘が「皇甫誕の墓地」であることをしっていたが、ガイドブックなどには触れられていない。
唐代のこの規模の墓には、ふつう、ここにいたる神道(参道)があって、左右に楼塔や石の門としての「闕ケツ」があり、墓の直前には墓標が屹立して荘厳をきわめていた。西安郊外にのこるいまの皇甫誕の墓地は、畠にかこまれ、神道・楼塔・闕は消滅して無い。そしてここの墓の直前にあった『皇甫誕碑』(詳細画像:中国版)が、いまは西安 碑林博物館に移築されていることになる。(関連記事:朗文堂-好日録011 吃驚仰天中国西游記

それでも王羲之と『蘭亭序』への愛着さめやらぬ太宗は、ついにみずからの柩に『蘭亭序』はもちろん、生涯をつうじて収集した王羲之の書幅のすべてを副葬させるにいたった。
太宗の陵墓は西安市郊外、九嵕山キュウソウサンにある「昭陵 ショウリョウ」である。
この陵墓は五代、後梁のとき(10世紀初頭)、盗賊あがりの武将・温韜オントウが墓室をあばいたとする説もあるが、真偽のほどは定かでなく、未盗掘とされている。したがっていまなお、この巨大な山塊のいずれかに、太宗の遺がいとともに、『蘭亭序』をはじめとする王羲之の書幅も眠っているとみられている。



太宗・李世明の陵墓。西安市郊外九嵕山にある「昭陵」。近年になって李世明の巨大な立像が建てられ、観光地として整備されつつあるが、ここにいたるためには狭隘な山道(車で走行できるがチョット怖い)がつづき、道中には案内板もなく、訪れるひとは少ないようだ。



昭陵『玄武門』跡地にて。番犬のつもりでいるのか、一匹のちいさな犬がつきまとって離れなかった。やつがれは、ただ[李 世明は、こんな山中に、なぜこれほどまでに巨大な陵墓をきづいたのか……]という感慨にとらわれていた。また太宗・李 世明の墓碑はアメリカにあるともきいた。9月中旬、山稜を吹き抜ける風は爽やかだった。いずれ詳細紹介の機会を得たい。

ちなみに王羲之7世の孫とされる僧・智永は、真書(楷書)と草書をならべて書き分けた『真草千字文』(詳細画像:中国版)を800作書いて、南朝の諸寺に寄進したとされる。
しかしながら中国では『真草千字文』の真筆はすべて失われ、宋代にこれを石刻したものが「関中本」とされて西安 碑林博物館に伝わるだけである。
さいわいなことに、日本には『真草千字文 小川本』とされる真筆の一作が、ほぼ完全な状態で伝わっており、国宝に指定されている。 

《出尽くした感のある顔 真卿の書芸論》
顔 真卿の書に接するものは、たれもがつよい衝撃をうけ、それだけに好悪の感情が明確にわかれるようだ。また中国でも顔 真卿の書に関心がもたれるようになったのは、没後300年ほどをへた北宋の時代からであった。

その最初は宋朝第4代・仁宋皇帝(趙 禎、1022-1063)の信任が厚く、詔勅の起草などを担当する「翰林学士カンリン-ガクシ」であった蔡襄(サイジョウ、あざな・君謨クンボ、1012-1067)が、顔 真卿の書、なかんづく『祭姪文稿』(サイテツ-ブンコウ、後述)などにみる行書に傾倒して、平正秀逸な風格を継承した書を発表した。代表作に『蔡襄 尺犢 サイジョウ-セキトク 扈従帖 コジュウジョウ』がある。「尺牘セキトク」とは、てがみ、書状、文書のことである。



蔡襄 尺牘 『扈従帖』

この蔡襄は、欧陽脩(オウヨウ-シュウ 1007-72)の名前とともに記憶にとどめたい。
わが国ではさらに遅れて、ひろくはようやく昭和になってから関心がもたれたようである。

《文治の宋王朝と淳化閣帖 ── 複製術の普及》
ここで足をとめて、なぜ宋代になって蔡襄や欧陽脩らが、顔 真卿の書をたかく評価するにいたったのかを考えてみたい。
唐王朝末期、複製術としての印刷の技法が発生し、それが盛んにおこなわれるようになったのは、小国に分立した五代(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)の時代をへて、ふたたび登場した統一王朝・宋の時代であった。

宋(960-1279)は趙氏の国で、太祖・趙 匡胤(960-976)が建朝した。宋の太祖が帝位につくと、地方に軍閥が蟠踞した唐の失敗にこりて、地方の精鋭軍を中央にあつめ、また軍閥の力をそいで、皇帝が直接軍を統帥することとした。また文官優位を明確にして、その権限を著しくつよめていった。重文軽武(シビリアン・コントール!?)をとなえた太祖の時代は17年間におよんだ。

宋・太祖の没後、弟の趙 匡義が帝位を継承して太宗・匡 義(976-997)となった。太宗は歴史書の編纂や仏典の翻訳などを奨励し、随朝にはじまった科挙の制度を強化した。
すなわち科挙の最終試験に帝みずからが臨席して「殿試デンシ」を実施し、その登第者(及第者)を進士と呼んだ。その進士のうち、首席を状元、次席を榜眼、三席を探花と称した。このあらたな科挙の制度は清朝末期までつづいた。

また太宗は施策の中心に、漢王朝・唐王朝といった漢民族正統王朝への復古主義をうちだした。とりわけ書においては、五代十国の時代に各地に散逸した古今の名跡を、ふたたび宮中にあつめることにつとめた。
さらに太宗は、その集積された名跡を侍書(ジショ、皇帝に侍する文書官)の王著オウチョに命じて審定・編輯させ、これを模刻して拓本に摺り、名跡集の作成を命じた。

歴史上初の書法全集ともいえる名跡集『淳化閣帖 ジュンカ-カクジョウ』全10巻は、王著の没後、淳化3年(992)に完成した。各巻の内容は以下のとおりである。
  ・第1巻        歴代帝王
  ・第2-4巻      歴代名臣法帖
  ・第5巻         諸家古法帖
  ・第6-8巻      王羲之法帖
  ・第9-10巻     王献之法帖  

本書は『淳化秘閣法帖』ともいう。法帖ホウジョウとは、書跡を石、煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」、板目木版などに刻した名跡集で、書法の手本の意味をなし、権威の象徴としても理解される。
宋・太宗も王羲之・王献之の二王の書を愛好していたため、『淳化閣帖』(詳細図版:中国版)は全10巻のうち、王羲之・王献之父子の書が半数の5巻を占め、これによって「二王」の書の位置が、国家の書法の基盤として強固なものとなった。

ところが……、宋代初期の『淳化閣帖』には、やはり! というか、なぜ? というか、顔 真卿の書作は「歴代名臣法帖」にも「諸家古法帖」にもまっったく紹介されていない。これがある意味では、顔 真卿の書と、そのひととなりを理解するための、ひとつの起点となるできごとである。

この『淳化閣帖』のもたらした影響はおおきかった。まず模刻が法帖制作の主流となり、法帖をつくるばあいに模刻を用いることが一般的となった。
また『淳化閣帖』の拓本は、宋・太祖から家臣への下賜品として、きわめて少数制作されたとみられ、宋の時代でも『淳化閣帖』自体の模刻が頻繁におこなわれた。また『淳化閣帖』を増補したり一部を修整した法帖も編纂された。

この『淳化閣帖』の原版(原板)は早くに失われた。またこんにち伝存して、原拓として確認されているのは、東京・書道博物館所蔵、宋代の拓本とされる『夾雪本』(詳細画像:書道博物館)と、上海博物館の『最善本』(詳細画像:無為庵乃書窓)のみである。したがって一般にこんにちに伝わるのはみな、後世に複刻されたものばかりである。

そのため『淳化閣帖』の原本の製造技術が、石刻であったか、あるいは巷間よくいわれるように棗ナツメの木をもちいた木刻であったかなど、不明なところが多い。また五代の南唐で、これに先んじた別の法帖が複数存在したとする説もある。
編輯面でも多くの齟齬がみられ、編輯にあたった王著にたいしては厳しい批判がなされている。

いずれにしても、それまでは真筆を鑑賞するか、おおきな碑の拓本でみるだけという限定された書法界に、書を模して、閲覧しやすいおおきさに木石に刻して、その拓本をとるなどの技術によって、「複製術」が敷衍したのは宋の時代であった。
もしかしたら(希望的観測ながら)、これらの技法によって、顔 真卿の書も複製されていたとみなすことも可能な気がするがいかがであろう。

【本稿アップ後に、無為庵乃書窓主人より新情報をいただいた。 顔 真卿の法帖とみられる ── 影印からみるかぎり真跡から碑刻したというより、集字したものとみられるが ── ものが、宋代に存在したことがあきらかになった。ここに紹介したい。2012.07.10追記 】

顔 真卿『忠義堂帖』(詳細画像:無為庵乃書窓)は、宋・嘉定8年(1215年) 劉元剛が顔 真卿の書を集めて石に刻し、顔 真卿の祠堂に設けたもの。原石は現存するといわれるが不明。清代になってから、種種の摸本がみられる。

内容は、もともとは碑や題名なども含まれていたが、現在のものは尺牘セキトク(手紙)が大部分を占めるようになった。無為庵乃書窓主人としては『忠義堂帖』の「裴将軍詩」に惹かれております。 
これが本物なのか、否か、また行書なのか草書なのか、また顔 真卿の書の中でどのような位置にあるものなのか、不明のまま現在に至っております。

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また北宋・南宋の時代を通じて、活字版印刷術も登場し、文治主義・宋の文化の普及におおきな貢献をなしたことが推量されるのである。
以下にこのブログロール 花筏 《タイポグラフィ あのねのね*020》に紹介した事柄に、若干の補筆をくわえて、宋からそれにつづいた元代の印刷術の振興をみてみたい。

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現代の中国では、北京印刷学院付属 中国印刷博物館(北京市・内部撮影不可)と、下記に図版紹介した、中国文字博物館(河南省安陽市。同館は開設からまもなく、図録などはきわめて未整備の段階)に、宋代の「膠泥活字・陶活字」「木活字」などを復元したレプリカが展示されている。知る限りでは印刷実験までなされた形跡はない。

 中国/北京市。北京印刷学院に付帯する「中国印刷博物館」。 地上3階・地下1階の大型施設であるが、印刷関連大型機器展示場の地階以外は撮影禁止で、 案内パンフレット、図録集なども無かった。併設の「北京印刷学院」ともどもわが国で知ることが少ないが、展示物は質量とも群をぬくすばらしさである。2011年9月

 2010年10月に新設された「中国文字博物館」。甲骨文発見の地、河南省安陽市の駅前に巨大な外観を誇る。同館は必ずしも交通至便とはいえず、河南省省都・鄭州(テイシュウ  Zhengzhou)から電車でいく。さらに、甲骨文出土地として知られる、いわゆる安陽市小屯村 ── 中国商代後期(前1300頃-前1046)の都城「殷墟」までは、さらに駅前のターミナルから、バスかタクシーを乗り継いでいく必要がある。宿泊施設も未整備だとの報告もみる。したがって当面は鄭州からタクシーをチャーターして、日帰りされるほうが無難である。2011年9月

 《チョット寄り道。中国のふるい活字製造法とその消長》


畢昇の膠泥活字(陶活字) レプリカ(『中国文字博物館』文物出版社 2010年10月)
左:右手に「膠泥活字」、左手に「膠泥活字植字盆」(10文字が入っている)を手にする畢昇銅像。右端上部は「膠泥活字の大小のレプリカ」。右端下部はネッキもある金属活字で、どうしてここに近代の活字が紹介されているのか不明。
『中国文字博物館』は、規模は壮大で、甲骨文に代表される収蔵物には目を瞠るものもあるが、まだコンテンツや解説は未整理な段階にあった。

上2図:農器図譜集 巻20「造活字印書法」『農書』(元・王楨著、明・嘉靖年間刊)
                  (『図解和漢印刷史』長澤規矩也、汲古書院、昭和63年1月) 
下図  :中国安陽市「文字博物館」展示の「活字板韻輪盆」復元品
中国・元の時代の「活字ケース」ともいえる「活字板韻輪盆」の復元品。基本的に中国の音韻順に木活字が収納されているが、助詞などで使用頻度の高いキャラクターは「大出張 オオシュッチョウ」などと同様に、別扱いで中央部に収納されていた。      

 中国宋時代の古典書物『夢渓筆談 ムケイ-ヒツダン』に、北宋・慶暦年間(1041-48頃)に畢昇ヒッショウが「膠泥コウデイ活字」を発明したとする記述がある。
ここにみる「泥」が、わが国では「水気があって、ねちねちとくっつく土 ≒ 土の状態」に重きをおくので、「膠泥活字」の名称をさけて、むしろ「陶活字・陶板活字」などとされることが多い。

ところが「泥」は、その扁が土扁ではなく、氵サンズイであるように、「金泥≒金粉をとかした塗料」「棗泥ソウデイ≒ナツメの実をつぶしたあんこ」「水泥≒現代中国ではコンクリート」など、むしろ「どろどろしたモノ」にあたることが多い。

昨年の秋、中国河南省安陽市に新設された「中国文字博物館」を訪れた。そこでみた畢昇の銅像と、手にしている「畢昇泥活字」は、展示用のレプリカとはいえ、ひと文字が5センチ平方ほどもある大きな「活字」で、あまりに大きくて驚いた。
またガラスケース越しではあったが、素材は溶かした膠ニカワを型取りして固形化させたか、よく中国でつくられる煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」と同様の手法で、粘土を型取りして焼いたものとみられた。詳細な説明はなかった。

 つづいて元の時代の古典書物『農書 造活字印書法』に、元朝大徳2年(1298)王禎オウテイが木活字で『旌徳県志 セイトク-ケンシ』という書物を印刷したことがしるされている。
残念ながら畢昇の「膠泥活字」も、王禎の「木活字」も現存しないし、この木活字をもちいたとする書物『旌徳県志』も現存しないので、レプリカをみても推測の域をでない。

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宋朝第2代太宗と『淳化閣帖』では評価されなかった顔 真卿であるが、第4代仁宋・禎(1022-1063)の礼部尚書で、詩人・書芸家の蘇軾(ソショク、蘇東坡 ソトウバ,トモ、1036-1101)は、以下のように述べている(この項は、おもに『書の宇宙13 顔真卿』石川九楊、二玄社、1998年4月30日によった)。

「顔魯公(真卿)の書は、なみはずれて力強く、古来の法を一変した」
「顔公、法を変じて新意を出し、細筋、骨に入りて秋鷹シュウヨウの如し」
さらに蘇軾はことばをかさねて、こうもしるしている。
「顔 真卿の書を見ると、いつも彼の風采が思い浮かぶ。その人となりが思い浮かぶだけではなくて、盧杞ロキをなじり、李希烈リ-キレツを叱りとばす姿をまざまざと見るような思いがするのは、なぜだろうか」

ところが、蘇軾、黄庭堅(コウ-テイケン 1045-1105)とならぶ北宋時代の三大家のひとり、米芾(ベイフツ、1051-1107)は、顔 真卿の書を以下のようにまで書いたそうである。
「顔 真卿と柳公権の跳踢チョウテキの法は、後世の醜怪悪札の祖となった」
石川氏はさらに筆をついで(同書p.8)、つぎのようにしるしている。

この、顔 真卿の書が、醜悪、俗書であるという評価は、中国書論史上、なんども繰り返されている。「書は人なり」という人口に膾炙した説を思い出させる「風采が思い浮かぶ書」という評価と、一見まったく反するかのような「醜怪悪札の祖」という評が、顔 真卿の書には同居している。これは相反するふたつの評価ではなくて、この両者を含んだ評価が、蘇軾のいう「新意」であると解するべきであろう。

《一碑一面貌、蚕頭燕尾と評される顔 真卿の楷書》
顔 真卿の楷書のほとんどは、石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、「一碑一面貌」とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔 真卿の楷書による石碑の特徴である。

また、顔 真卿の楷書、なかんずく後期の楷書に特徴的な書法は「起筆に筆の穂先をあらわさない≒蔵鋒ゾウホウ」であり、「蚕頭燕尾サントウ-エンビ≒ 起筆が丸く、蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つに分かれているところからそう呼ばれている」とされる。この書法は「顔法」とも呼ばれて、唐代初期の様式化された楷書に、あたらしい地平を開いたとされている。

このようなこまごまとした書芸論や書法論は、余人に任せたい。あるいはもはや語りつくされているかもしれない。
ここではむしろ、のこされたわずかな書から想起して、後世に描かれたであろう、顔 真卿の肖像画ふたつを中心に、わずかな楷書拓本を紹介し、自書・肉筆であることがあきらかな『祭姪文稿』の記載内容を理解し、その激情が紙面いっぱいにほとばしったような書をみながら、いまから1300年余以前の「漢 オトコ」顔 真卿の生きように迫ってみたい。

すなわち蘇軾(蘇東坡)がのこした述懐、
「顔 真卿の書を見ると、いつも彼の風采が思い浮かぶ。その人となりが思い浮かぶだけではなくて、盧杞ロキをなじり、李希烈リ-キレツを叱りとばす姿をまざまざと見るような思いがするのは、なぜだろうか」
という未解決の疑問に、盧杞、李希烈とはなにものか……。なぜ顔 真卿は、かれらをなじり、叱りとばしたのか……からはじめ、顔 真卿の心情の解析に、蟷螂トウロウの斧をふりかざして迫ってみたいのである。
 

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《顔 真卿の碑文との再会 ── 西安 碑林博物館》

中国 西安 碑林博物館。展示館入口「碑亭」の前で。2011年09月
かつては来訪者が絶えなかった日本人の団体客はおおきく減少していたが、現在は平日でも中国各地からバスをつらねてやってくる団体の参観者で大混雑を呈していた。
おりしも西安市では「世界花の博覧会」が開催されていて、イメージ・キャラクターの「柘榴 ザクロ」(陝西省名産の果実。花博?)が正面入口を占拠して、ドーンといすわっていた。

このごろの西安 碑林博物館は、平日でも日中はほとんどこの写真のような(あるいはよりいっそう)大混雑をきたしているそうである。まして「顔 真卿生誕1300年祭」とあって、顔 真卿の銘の周辺は押すな押すなの混雑であった。そのために早朝の参観でなければ、碑面をゆっくり見ることはできなかった。 


顔 真卿生誕1300年(2009年イベント開始)を期し、早朝から賑わう西安 碑林博物館
顔 真卿関連の石碑が集中する西安 碑林博物館の碑石展示室は、日中は中国人の団体客が押しよせていて、あまりの混雑でほとんど碑面の閲覧もできない状態だった。たまたまホテルが至近距離にあったのを幸い、早朝に再度参観に訪れた。
このとき(2011年09月)もまだ、ご覧のように顔真卿生誕1300年記念の赤い垂れ幕が掲出されていた。

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文化大革命のころの「四旧追放運動」からしばらく、義務教育から書法(書芸とも)の授業が廃されることなどがあった中国書法界だが、改革開放の時代をへて、近年の書法教育の普及には熱が入っており、書法家の意気も軒昂たるものがある。
また顔 真卿生誕1300年を迎え、多くの収蔵物を有する西安 碑林博物館は平日でも多くの参観者で混雑をきわめていた。

西安 碑林博物館第1室『開成石経』とその部分拡大  

《隔世の感、浦島太郎現象の連続 ── 15度目の中国の旅》
いささか旧聞に属するが、昨2011年9月に、中国からの留学生で、すでに中国各地に帰国して活躍している諸君に慫慂されて、ノー学部と同道して久しぶりの中国にでかけた。
9年ほど前に体調を崩したこともあって、しばらく中国に出かけなかった。気がついたらパスポートの有効期限が切れていた。ついでに古いパスポートも引っぱり出してみたら、過去に14回中国に出かけていたことがわかった。

1978年が最初で、ほとんどの旅は1980年代に集中していた。そのころの中国には「竹のカーテン」と揶揄されたバイアスがあって、どこへ行くのにもガイドの同行を求められ、通貨は「兌換券・兌換元」という外国人専用の奇妙な紙片をもたされた。
したがって「兌換元」が通用する、情報・環境が整備された場所にしかいけなかった。この兌換券は1993年まで使用された。
すなわち過去の旅は「観光旅行」にとどまり、過去の中国旅行の経験や知見が、まったく役立たないことを痛感させられる旅となった。

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《開成石経をもとに開設された、西安 碑林博物館》
「西安 碑林博物館」は、明代に(盛唐時代の1/4ほどの規模となって)築造された城壁に囲まれた、西安城の南門(明徳門)から、城壁にそって700メートルほどいった三学街の端にある。
「西安 碑林博物館」のメーンの展示物は、晩唐・開成2年(837)、中央官僚養成のために、長安の「大学タイガク、のちに改組・改称されて国子監コクシカン」に建立された「石の書物」ともいうべき『開成石経 カイセイ-セッケイ』114石、両面あわせて228面、都合65万252字の石碑群が、おもい存在の石碑群として碑林第1室を占めている。
この西安 碑林と『開成石経』に関してはヴィネット10号 石の書物 ── 開成石経』(グループ昴、朗文堂、品切れ、2003年6月12日)に詳しい。

展示館のまえに、ちいさな亭があって「碑亭」とされている。ここには唐・玄宗皇帝の豊艶な隷書による『石台孝教』(天寶4年・745)が収容されている。この『石台孝教』の隷書は、漢代の硬質な隷書とことなり、豊潤な八分隷によって、大胆かつあでやかに書丹されている。
この隷書の碑はまこともって艶冶エンヤとするしかことばをもたない。それを四方からみるだけで、時間はどんどん過ぎていく(詳細図版:無為庵乃書窓)。

蛮勇をふるって(『石台孝教』にふけるのをあきらめ)、碑亭から展示第1室にはいると、114石におよぶ巨大な『開成石経』が圧倒的な迫力で迫ってくる。この『開成石経』と『石台孝教』の収蔵と展示をもとに、西安 碑林博物館は 「歴史展示室」「石刻芸術陳列室」と、全国各地からあつめられた巨大な銘碑・石碑が陳列されている「碑林」の三部門からなっている。

 
盛唐時代のみやこ  長安城復元図(『随唐文化』陝西省博物館、中華書局、1990年11月)
現在の西安の城壁は明代に造築されたもの。上図盛唐時代の長安城の1/4ほどの規模になった。盛唐時代の長安城は、大雁塔のある慈恩寺も城内にあった。慈恩寺の境内は広大で、右から3ブロック目、下から2-3ブロック目の「晋昌街・通善街」を占めていた。

「西安 碑林博物館」は、唐の開成2年(837)に刻された『開成石経』と、碑亭内の『石台孝教』(天寶4年・745)とともに、当時の国立大学ともいえた「国子監」の敷地にあったが、唐代末期に長安城が縮小されて、ほぼいまの西安城の規模となったとき、「国子監」は城外にとりのこされ、『開成石経』などの石碑群は野ざらしの状態になっていたとされる。

それを憂い、開平3年(909)に石碑群は城内に移転され、さらに北宋の元祐2年(1087)「府学の北」の地に移されたとされている。
おおくの資料はこのとき「開平3年(909)」をもって西安 碑林博物館の発祥としている。しかしながら、「北宋の府学」は崇寧2年(1103)に「府城の東南隅」に移されたため、この「崇寧2年(1103)」をもって西安 碑林博物館発祥の年とする説もある。

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 《顔 真卿 生誕1300年祭と、顔家歴代の著名人》
顔 真卿(ガン-シンケイ 709-85)の生誕から1300年を迎え(正確には2009年が生誕1300年)、いまなお中国各地では顔 真卿がおおきな話題となり、顔 真卿関連の書法展と、その巡回展が盛んに開催され、また顔 真卿書法書の刊行もきわめて盛んである。

わが国でも《顔 真卿とその周辺》(東京国立博物館、2009年4月28日-6月7日)が開催されて話題を呼んだ。
また中国における《顔 真卿生誕1300年記念──第1回顔 真卿顕彰書法展、第2回顔 真卿顕彰書法展》には、日本人の書法家の活躍もめだったようで、とてもよろこばしいことである。
  ◎ 矢部澄翔氏
      顔 真卿『自書告身帖』の臨書作品を出品し、「西安碑林館長賞」(最高賞)を受賞。

  ◎ HILOKI 氏
      第2回 顔 真卿 生誕1300年記念書展  グランプリ受賞

西安市雁塔路の噴水公園に建つ、武将姿の顔 真卿石像。西安城内中央通りの開放路・和平路を縦貫し、玄奘三蔵ゲンジョウ-サンゾウゆかりの慈恩寺大雁塔ジオンジ-ダイガントウにいたる広い道幅の縦貫道「雁塔路 ガントウ-ロ」には、唐の太宗(李世民  在位626-649)の盛大な巡幸行列の再現彫刻をはじめ、唐王朝時代の政治家・文人・書法家などの巨大な石像が列をなしている。夜は噴水とともにライトアップされ、古都・長安(西安)のあたらしい観光名所となっている。
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《わが国にもある、顔 真卿関連の諸資料》
根岸の里で著名なJR鶯谷駅から至近の一画に、画家にして書芸家の中村不折(ナカウムラ-フセツ 1866-1943)が蒐集した膨大なコレクションを収蔵する「書道博物館」がある。中村不折は新聞『小日本』の挿絵を担当し、それを通じて正岡子規と親しく、その自邸も路地をはさんだ斜め前と近接していた。

また島崎藤村の『若菜集』『一葉集』『落梅集』の装本・挿絵を担当し、夏目漱石『吾輩は猫である』『漾虚集』、伊藤左千夫『野菊の花』などの挿絵を描き、ブック・デザイナーの先駆けとしても知られるひとである。また森鴎外は遺言で墓標の書家に中村不折を指名し、ただ「森林太郎」とだけしるさせている。

JR鶯谷から書道博物館にいたるあいだのわずかな路地は、残念ながら風俗店がひしめき、少しの辛抱が必要である。そこを経て書道博物館にいたる。同館の斜め前には、正岡子規が居住していた「子規庵」がある。裏庭では四季折折の艸花が美しい。建物は第2次世界大戦で焼失したが、子弟が協力してほぼ当時の姿に復元されている。

書家としての中村不折は、北朝の彫刻風の際だった楷書に惹かれ、コレクションの中心は北朝系の書蹟が多い。当然北魏派の影響がつよかった顔 真卿にもこだわりがあったようである。
その研鑽から得られた書『龍眠帖』は、当時の南朝様式のもとで停滞していたわが国の書芸界に衝撃を与えた。
また、そのデザイン性の高さと親しみやすさから、店名や商品名の揮毫を依頼されることも多く、現在でも「新宿中村屋」の看板文字、清酒「真澄」や「日本盛」のラベル、「神州一味噌」「筆匠平安堂」のブランディングなどに中村不折の作品がのこっている。 

書道博物館はそんな中村不折のコレクションをもとに開設され、現在は台東区が維持・管理にあたっている。
書道博物館はまた、顔 真卿の作品の所蔵が多い。本館ロビー左手の主展示室には、たいてい顔 真卿『多寶塔碑』の巨大な拓本が掲出されている(詳細画像:無為庵乃書窓)。

『多寶塔碑』は天宝11年(752)の建立で、みやこ長安の千福寺に僧・楚金(698-759)が舎利塔を建立するにいたった経過について、勅命をもって、岑勛シンクンが文章をつくり(撰)、当時44歳の若き顔 真卿が筆をとり、史華シカが石刻したものである。
勅命をうけて碑の書写にあたるのは、すでに書法家としての顔 真卿には相当の評価があったとみられるが、顔 真卿後半期の楷書碑とくらべると、おだやかで整正な楷書といってよい。

このような顔 真卿による楷書の石碑は、ほとんどが西安 碑林博物館にある。「一碑一面貌」、いずれも個性に富んだ、魅力ある碑文ばかりである。年代順に整理して紹介しよう。
なお画像は筆者がIT弱者ゆえ、「無為庵乃書窓」主人にお許しをいただいて、おもにはそちらで閲覧していただけるようにした。

◎『多寶塔碑』[タホウ-トウヒ、天宝11年・752、顔 真卿44歳の書]  (詳細画像:無為庵乃書窓)

◎『麻胡仙壇記』
[マコ-センダンキ、暦6年・771、顔 真卿63歳の書](詳細画像:無為庵乃書窓) 

◎『顔勤礼碑』

[ガンキン-レイヒ、乾元2年・759、大暦14年・779の両説ある。顔 真卿70歳のころ、曾祖父・顔礼の墓碑を撰ならびに書したもの](詳細画像:無為庵乃書窓)

◎『顔氏家廟碑』[ガンシ-カビョウヒ、『顔惟貞ガン-イテイ廟碑』とも。顔 真卿が72歳のとき、父・惟貞のために廟をつくり、碑をたてて顔家の由来をみずから述べしるしたもの](詳細画像:無為庵乃書窓)

などがしられる。



顔 真卿『自身告身帖』より部分。書道博物館蔵。
『台東区立書道博物館図録』(平成19年10月1日)より部分紹介

また「書道博物館」の新館2階「特別展示室」は、ほぼ顔 真卿の作品で埋めつくされている。なかでも目を惹くのは『自身告身帖』である。この書巻は、顔 真卿の自筆楷書として唯一現存するものとされている。
『自身告身帖』は顔 真卿の晩年77歳の書である。顔 真卿の高齢化にともなって、名誉職ともいえた皇子の教育係に転任するように命じられた辞令を、自らに宛てて書いたものである。
おそらく顔 真卿はこの「棚上げ」ともみられる任命には不満があったとみえて、送筆にいくぶん遅滞がみられる。それでも77歳にして、これだけの楷書をのこすとは、躰はもとより、精神もそうとう頑健な人物であったとみたい。

『自身告身帖』にも、後半期の顔 真卿の楷書に独特な「向勢」の書風はのこされており、縦画の送筆部分をもっともふとくすることで迫力と豊満さをあらわしている。向勢で変化しているのはおもに線の外側であり、内側の線を直線にすることで、文字空間の美しさをたもっている。
さすがに特別展でもないかぎり『自身告身帖』の現物は展示されないが、「特別展示室」にはほぼ常時、できのよい原寸複製書が展示されている。またこの複製書はギャラリー・ショップで販売もされているからうれしい。

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《顔氏一族における[漢字楷書]字体の標準確立への執念》
ここでふたたび舞台を中国に移そう。顔 真卿という異才をうんだ、顔氏の一族をみよう。

中国で、魏・呉・蜀の三国が分立した220年ころから、南朝の陳が滅亡する589年までのおよそ360年間を「魏晋南北朝」という。この魏晋南北朝の末期から、顔家は「古訓学──字や文章の古典に通じ、故人の訓誡を説く」に通じた名家として歴史に名をのこしている。
また顔氏の遠祖はきわめてふるく、孔子の高弟であった「顔  回」(ガン-カイ、春秋末期の魯の賢人で、孔子門下十哲のひとり。前514-前483)だともされている。

顔家の本貫の地は、いまの中国山東省、ふるくは瑯邪 臨沂ロウヤ-リンギと呼ばれていた地方だが、顔 真卿(ガン-シンケイ 709-785)のうまれは、父の勤務地であった長安だったともされる。あざなは清臣セイシン。
父の名は顔 惟貞ガン-イテイ、母は殷氏のひとであった。13人兄弟の7番目の子供としてうまれた。
また平原太守ヘイゲン-タイシュをつとめたことから「顔 平原」とも呼ばれ、魯郡開国公 ログン-カイコク-コウに封ぜられたことから「顔 魯公ガン-ロコウ」とも呼ばれている。

中唐の玄宗皇帝治世下の734年(開元22)に、26歳で科挙の進士に登第(及第)して中央官僚となり、唐王朝中期の玄宗・肅宗・代宗・徳宗の4人の皇帝に仕えた。
その唐王朝朝廷へのまったき忠勤ぶりは、わが国幕末の思想書に紹介され、尊皇攘夷を掲げて維新をめざした若者に多大な影響をあたえた『靖献遺言』(セイケン-イゲン、浅見絅斎アサミ-ケイサイ、1684-87)によって知られることになった。すなわち顔  真卿は唐王朝を正統とみなして忠義をつくし、その王朝の敵対者には徹底的に抵抗した。

こうした、かたくなまでに儒学的忠義をつらぬき、さらには名書家として名をのこした顔 真卿を理解するために、すこし歴史をさかのぼって顔氏歴代をみてみよう。 
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顔 之推(ガン-シスイ  531-602頃、あざなは介。中国の南北朝時代末期の学者)
顔氏の家は魏晋南北朝(220-589)の末ころから、瑯邪臨沂ロウヤ-リンギ(山東省)をおもな本拠地として、代代「訓詁クンコ学──字や文章の古典に通じ、故人の訓誡を説く」に通じた、文武の名家として名をのこしている。
よく知られる人物では、遠祖とされる顔 回はともかく、顔 之推(ガン-シスイ  531-602頃)がいる。顔 之推は儒学者として、 梁・北斉・北周・隋などの南北朝末期の諸王朝につかえ、また子孫への訓誡をしるした書物『顔氏家訓』(7巻 2巻本も存在)をのこした。この顔 之推は、顔 真卿の五世の祖とされている。

顔 師古 (ガン-シコ 581-645。中国初唐の学者)
初唐の学者にして、顔 之推の孫にあたるのが顔 師古(ガン-シコ 581-645)である。師古はあざなで、名は籀チュウであった。やはり訓詁の学に通じ、唐の高祖(唐王朝初代皇帝、李 淵)のとき中書舎人になったため、高祖の詔書は顔 師古の手によったとされる。
また貞観の治でしられ、自身も能書家であった太宗(唐王朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649、598-649)のとき、中書侍郎(チュウショ-ジロウ 中書・門下両省の実質上の長官。また六部リクブの次官)となり、また勅命をうけて、孔 穎達コウ-エイタツとともに『五経正義  ゴキョウ、ゴケイ-セイギ』(180巻 638年) を撰した。

この『五経正義』は『顔氏字様』にもとづく楷書正体(正書)字体で書かれ、儒教でおもくみられる五種の経典、すなわち『易』『書』『詩』『礼 ライ』『春秋』の経典解釈のうち、ひろく諸家の説から適当と認められる解釈をまとめたもので、科挙(官吏登用試験)の受験者、および五経の訓詁をまなぶものの必読書とされた。
この顔 師古は、後述する顔 玄孫の祖父の兄(大伯父)にあたる人物とされている。顔 師古の手になったとされる『顔氏字様』は、顔 玄孫『干禄字書』のさきがけとなった字書であるが、散逸して現存しない。
しかしながら、顔 玄孫『干禄字書』は、祖先・顔 師古の労作が参考とされており、またその記述内容だけでなく、「字様 ≒ 刊本の上にあらわれた書風」としての「顔氏字様」も、良かれ悪しかれ唐代の知識層におおきな影響をあたえた。

◎ 顔  玄孫 (ガン-ゲンソン 生没年不詳)
 顔 師古の四世の孫であり、顔 真卿の伯父とされるのが顔 元孫(ガン-ゲンソン 生没年不詳)である。顔 元孫は祖先の顔 師古がのこした『顔氏字様』を整理して、『干禄字書』(カンロク-ジショ 1巻)をのこした。
『干禄字書』は800余字(の漢字)を音韻別に配列して、その「楷書字体の正・俗・通」を弁じたものである。顔 元孫の定義によれば、『干禄字書』で正字として分類されている字体が、確実な根拠を持つ由緒正しい字体であり、朝廷の公布文書のような公的な文書や、科挙の答案などにはこれを用いるべきであるとする。

いっぽう、通字は正字に準ずるものとして扱われ、長年習慣的に通用してきた字体であり、通常の業務あるいは私信などで使用する分には差し支えないとした。俗字は、民間で使用されてきた字体で、日常的・私的な使用は良いが、公的な文書では用いるべきではないとした。
『干禄字書』は後世の字体の正訛を論ずる際の典拠にながらくもちいられた。


『干禄字書』(柳心堂リュウシンドウ 明治13年12月 国立国会図書館蔵)

顔 玄孫は名はよくしられるが、生没年に関する記録はない。またその著作の『干禄字書』は、官版(政府刊行書)ではなく、いわば顔家の私家版の書物であるが、わが国にも相当ふるくからもたらされたとみられ、書写本や江戸期刊本などが現存している。また国立国会図書館のデジタル化資料には  『干禄字書』(柳心堂、明治13年12月)が紹介されている。
このように顔氏一族に伝承されてきた『顔氏字様』を『中国の古典書物』(林昆範、朗文堂、2002年03月25日 p.97)では以下のように紹介している。

唐の時代には写本とともに、書法芸術が盛んになって、楷書の形態も定着した。その主要な原因のひとつとしては、太宗皇帝[唐朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649]自身が能書家であり、儒教の国定教科書として『五経正義 ゴキョウ-セイギ』を編集させたことにある。そこで使用する書体を、編集協力者の顔 師古ガン-シコによる正体(正書・楷書)、すなわち「顔氏字様」をもちいたことが挙げられる。
「顔氏字様」はのちに顔 師古の子孫、顔 元孫ガン-ゲンソンが整理して『干禄字書 カンロク-ジショ』にもちいられた。この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。
このように顔家一族から顔 真卿に伝承された「顔氏字様」は、まるで唐王朝における国定書体といってもよい存在で、初期の刊本書体として活躍していた。 

『多宝塔碑』(原碑は西安 碑林博物館蔵)
拓本は東京国立博物館所蔵のもので、北宋時代の精度のたかい拓本とされている。現在は繰り返された採拓による劣化と、風化がすすみ、ここまでの鮮明さで碑面をみることはできない。

繰りかえしになるが、顔 真卿の楷書のほとんどは石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、「一碑一面貌」とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔 真卿の楷書による石碑の特徴である。
『多宝塔碑』は、長安の千福寺に僧・楚金ソキン(698―759)が舎利塔を建てた経緯を勅命によってしるしたもので、もともと千福寺に建てられ、明代に西安の府学に移され、現在は西安 碑林博物館で展示されている。顔 真卿44歳の若い時代の書作で、後世の楷書碑の書風より穏やかな表情をみせている。 
なお、顔 真卿の自筆楷書作品とされるのは、わが国の書道博物館が所蔵する、最晩年(780年、建中元年)の書作『自書告身帖 ジショ-コクシン-ジョウ』だけである。
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まもなく、蘇軾が活躍し、多くの木版刊本「宋版」をうんだ臨安(現・杭州)を訪問する。
蘇軾こと蘇東坡の詩でよく知られるのは、つぎの『春  夜』であろうか。
    『春  夜』    蘇 軾
    春 宵 一 刻 直 千 金
    花 有 清 香 月 有 陰
    花 管 楼 台 声 細 細
    鞦 韆 院 落 夜 沈 沈

今回の短い旅では、春の宵を愛で、月光に照り映えるお花畑のブランコ(一説にポルトガル語から。ふるい中国では鞦韆シュウセン)に游ぶ少女の姿をみることはできないだろうが……。

蘇軾はまた、中国史上きってのグルメとしても知られる。
豚のバラ肉をとことん煮詰めた料理「東坡肉 トンポーロウ」は蘇軾が発案したそうである。旅の同行者ノー学部は困ったことに、ここのところもっぱら
「東坡肉」の研究に余念がない。
やつがれは衣食住にほとんど興味・関心がない。でも内緒で「東坡肉」を食べてみたいとおもう。
旅を終えたら新資料をもって顔 真卿のその後をしるしたい。     【この項つづく】