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Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅲ タイトルデザインと過去の活版関連イベントデザインの記録



 

《さぁ、アダナ・プレス倶楽部 AD バッカス松尾が登場したぞ》
あたらしい活字版印刷を紹介するための、イベント企画骨子に関する話し合いは、年をまたいでつづいた。
ながい話し合いと対外交渉ののち、会場が「アルテ ピアッツァ美唄」にきまり、イベント・タイトルに『Viva la 活版 Viva 美唄』がきまり、テーマ・カラー「シェンナ」もきまった。
おまけに「こころのテーマ曲」として、イギリスのロックバンド、Coldplayのヒット曲『Viva La Vida』まできめてしまった。

その報告はあらかた、この『花筏』に掲載してある。
【リンク:Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅰ 開催のお知らせ  2013年03月13日
【リンク:Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅱ 準備着着進行中 !? 2013年03月15日
【リンク:Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅲ タイトルデザインと過去の記録 2013年03月28日

いまは企画細部の詰めの段階である。だからときおりパソコンから、ロック『Viva La Vida』が流れている。そんなときはおおかた、やつがれの思考のどこががいきづまっているときである。この動画には原語と対訳の歌詞もついているが、それを自分流に訳してたのしんでいる。
それでも周囲に遠慮して、深夜か休日にガンガン流しているが、パソコン内蔵スピーカーのこととて、音質はあまり感心しない。
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こうなると、いよいよアダナ・プレス倶楽部 アートディレクター/松尾篤史氏の出番となる。
ふつう松尾篤史氏は「バッカス 松尾」とされる。
もともと「バッカス」「松尾」は、ともに酒の神とされる。俚諺によると、天狗とは「バッカス  松尾」のことであろうとする ?   だから、すでにもってご神体であらせられるから敬称はない。しいていえば「バッカス松尾雨降男苔雫大明神」とでも呼ぶべきか。

何冊かの彫刻家/安田 侃カン氏関連の図書資料と、「アルテ ピアッツァ美唄  ギャラリーショップ」で買いこんできた DVD 『ARTE PIAZZA BIBAI』を、バッカス松尾と一緒に何度もみる。
さらに現地で撮影してきた写真資料もあらためてみてもらう。

DVD 『ARTE PIAZZA BIBAI』には、安田 侃氏が相当長時間登場して「アルテ ピアッツァ美唄」の展示空間形成の狙いをかたっているので、単に動画というだけでなく、彫刻家本人の、声の強弱、トーン、ニュアンス、表情、身振りをふくめて、肉声での解説がきける、とても良い資料となる。

テーマ・カラー「シェンナ」に関しても議論がつづいた。バッカス松尾からみると「アルテ ピアッツァ美唄」における「シェンナ」の色調に、微妙なバラツキが見えるのが気になるらしい。
そこでもう一度、みんなでイタリアのフローレンス州、シエナの旧市街地の写真を確認する。

シエナの旧市街を形成する建物のほとんどが、13-17世紀に完成している。そこにもちいられた「シェンナ」は天然顔料であり、もともと均一な色調をしていたわけではないであろう。それでもこれをおおきな景観、ランドスケープとしてみたときには、おだやかな統一感がみられる。

また注意深くみると、中央広場に面した商店の日除けテントは、現代の工業製品とおもわれるが、見事なまでにバーンドシェンナに統一されている。
それに対して、ふるい民家の屋根の色などは、それぞれが微妙に異なりながら、総体としてシエナのまちの景観を、シェンナ色でおおきく包みこんでいる。
つまり中世や近世の建築とはそんなものであり、天然素材とはそんなものであろう。現代の大量均一工業生産物とおなじものを中世にもとめても、収穫はすくないということになろうか。




《イベントのタイトル・カラーは、フレキシビリティをもった「シェンナ」に決定した》
タイトル・カラーは、こうして「バーントシェンナ」に決定した。
この色を、すこし濃いめの朱色(ウォーム・レッド)と考えれば、古来タイポグラファがもっとも珍重してもちいてきた色彩とほぼおなじである。

タイポグラファがこの色をおもくみる理由はさまざまあるが、もっとも重要なポイントは、これを色の面としてとらえると、誘目性(ひとの視線をとらえる)にすぐれ、またその色面に、活字版印刷基本色の、スミ乗せでも、白抜きでも、シェンナ(≒ 朱色、≒ ウォーム・レッド)にあっては、文字が判別・判読できるという点にある。
このような誘目性と判別性・可読性にすぐれた重宝な色は、どこにもありそうでいて、実はシェンナ(≒ 朱色、≒ ウォーム・レッド)のほかに、ほとんどないのである。

『文字百景 081  活字と朱色』(木村雅彦、朗文堂、2000年05月)
デザインワークにおいて、金赤色(黄100+赤100)をつかっていると困ることがあります。それは表紙などに、金赤インキを色の面として使うときの、スミインキとの相性の悪さです。

スミと金赤は、彩度差はありますが、明度差がすくないために、金赤の色面に、スミの文字を乗せたり、スミの色面に、金赤の文字を乗せたり、抜き合わせたりすると、いささか読みにくくなります。
とくに金赤の色面のなかに、白ぬきの文字と、スミ乗せの文字を組み合わせて使用したばあいなどに、うまくコントロールできないことがあります。

ところが、金赤のかわりに、ウォーム・レッド(朱色)を使うと、朱色の色面の中の、白ぬきの文字と、スミのせの文字を、ほぼ均等に読むことができます。
また、意外にウォーム・レッドの彩度が高いために、本文印刷用の文字の刷り色として使用しても、さきの記載内容を顕在化させるという目的を、難なくはたすことができるのです。
この機能性が、近代のタイポグラファにも評価され、書籍の表紙や、ポスターなどには、このスミとウォーム・レッド、朱色の構成がたくさんみられます。

このような理由もあって、小社図書でも、
◉『欧文組版入門』(ジェイムス・クレイグ著/組版工学研究会監訳、1989年12月05日)
◉ 『タイポグラフィの領域』(河野三男、1996年04月20日)
◉ タイポグラフィ・ジャーナル『ヴィネット』シリーズ
◉ 『欧文書体百花事典』(組版工学研究会編、2003年07月07日)
などの表紙やジャケットは、シェンナ色であり、朱色(ウォーム・レッド)である。

また、表紙こそ白地だが、帯(俗称:腹巻き)にシェンナ色をつかった書物『活字の宇宙』(アドリアン・フルティガー、2001年04月17日、朗文堂、p18)には以下のようにある。

「Schrift, Écriture, Lettering ── 文字と活字の発達史を木版印刷の上に追う」
1950年スイス・チューリッヒ工藝専門学校の卒業制作/アドリアン・フルティガー

このちょっとかわった、じゃばら折りの書物は、チューリッヒ工藝専門学校で、カリグラフィを主要なテーマとして学んでいたころの卒業制作を、ほとんどそのまま、書物としてまとめたものです。
わたしはこの学校で、文字の生成史をまなびましたが、そこでは書くことより、むしろ彫るという、身体的な行為を通じて文字を学ぶべきだと知りました。
それはわたしの一生を「彫刻士 Graver」として特徴づけることにつながりました。

この卒業制作がもととなって、わたしはシャルル・ペイニョ氏(Charles Peignot 1897-1983)に見いだされて、パリの名門ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所で、活字人としての幸運なスタートを切ることができました。また同社でメリディエン(子午線、Meridien)、ユニヴァース(宇宙、Univers)や、そのほかのさまざまな活字書体をつくることになりました。

《タイトルデザイン、活字書体は、欧文「オンディーヌ」と、和文「銘石 B 」に決定》
アドリアン・フルティガー(Adrian Frutiger  1928- )は、この卒業制作作品がもととなって、いまは亡きシャルル・ペイニョ(Charles Peignot  1897-1983)にみいだされて、ふるくは文豪オノレ・バルザックの創始にはじまり、これもいまは無きパリの名門活字鋳造所「ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所」に、1950-57年にかけて住み込みで働くことになった。

同社でフルティガーがのこした主要活字書体は以下の通りである。
◉プレジデント(大文字のみ)……………………1952年
◉フェビュス………………………………………1953年
◉オンディーヌ……………………………… 1953-4年
◉メリディエン…………………………………… 1954年
◉ユニヴァース…………………………… 1954-55年(写植先行)
◉エジプシャン F …………………………………………1956年(写植先行)

フルティガーは、パリでの生活を終えて、現在は祖国スイスのベルン郊外で、80歳代なかばの生活を静かに送っている。
ここであらためて、フルティガーのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所時代の活字設計を検証すると、20世紀活字における名作とされる「メリディエン 子午線」、「ユニヴァース 宇宙」などのほとんどの活字書体を、24-28歳という、とても若い時代に設計していることにおどろく。

上図は『ドベルニ&ペイニョ社活字見本帳 1952年版』の口絵部分である。フランス活字「オンディーヌ」はこの翌年に発売が開始されたが、この大冊の冊子版活字見本帳には、まだ掲載が間に合わなかったとみられ「オンディーヌ」は紹介されていない。
フルティガーによると、同社に在社時代は左ページ写真の 4F 部分に住みこみで働いたということであった。

この建物は現存し、「ルマン24時間耐久自動車レース」の開催で著名な「損害保険会社:ルマン社」が使用している。
上図右ページはド・ベルニ家とペイニョ家の歴代経営者の肖像であるが、最上部に同社の創業者として「オノレ・バルザック」の肖像画が紹介されている。
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オノレ・バルザック(Honoré de Balzac  1799年5月20日-1850年8月18日)は、19世紀フランスを代表する小説家であったが、このひとが開設した活字鋳造所が「ド・ベルニ家 & ペイニョ家」両家によってささえられ、通称「D et P 社、D & P社」として170年ほどの歴史をフランスで刻み、多くの名書体をうんだことはほとんど知られていない。

バルザックは、ほとんど度を超えた印刷狂であり、また活字狂でもあった(参考資料:』「ワインより中身の濃いフランス・タイポグラフィ」『文字百景 038』酒井哲郎、朗文堂。「石のエクリチュール断章」『ユリイカ』片塩二朗、青土社、1998年05月)。

ツールというちいさなまちからパリにでてきた20歳の青年バルザックは、法律の学業をほうりだして、貸し本屋であつかう程度の軽い読み物を書きだした。そのうちにロール・ド・ベルニという、貴族階級で、母親のような歳で、しかも9人の子持ちの女性と「いい仲」になった。
「de ド」はこの時代でもすでに形骸化しているとはいえ、貴族階級の敬称である。またのちには、バルザックも勝手に「de」を冠して名乗っていた。

バルザックはロール・ド・ベルニ夫人の資金をふんだんにつかって、1825年に印刷・出版業に手をそめ、さらに活字鋳造業にも進出した。その創業の地はパリのセーヌ左岸、カルチェラタン地区のこみち、マレー・サンジェルマン通りであり、現在の呼称はヴィスコンティ通り17番地である。
その創業の建物は現存して、いまは出版社が使用しているが、正面壁面のレリーフによって、その由来・歴史が紹介されている。

バルザックの小説のファンならご存知の『谷間のゆり』の主人公、モルソン伯爵夫人とは、このロール・ド・ベルニ夫人がモデルだったとされる。
このマダム・ド・ベルニの肖像画がのこされているが、豊満な胸に、ぽっちゃりと厚い唇で、いかにもフランス上流階級の蠱惑的な女性である。

あわれなことに、ムッシュ・ド・ベルニ、つまりガブリエル・ド・ベルニの肖像画はのこっていない。この人はバルザックに資産を勝手に湯水のようにつかわれ、妻がバルザックと不倫関係にあったとして、歴史の片隅に名をのこすだけである。

ところがバルザックの印刷狂・活字狂とは、所詮文士の道楽であったようで、4年あまりで莫大な負債をかかえてあっけない破綻をむかえた。ところが「加福は糾える縄のごとし」か、「塞翁が馬」というのか、バルザックがタイポグラフィから撤退したこの1825年に、ガブリエルとロールの18歳の息子、アレクサンドル・ド・ベルニがその活字鋳造事業を継承し、次第に手腕を発揮することになったのだから驚きである。

『Specimen Divers Caracters Vignettes』
(文字活字とオーナメントの見本帳、1828年。1992年復刻版より)。
◉  発行所は「活字鋳造所  ローラン と ド・ベルニ」とされている。バルザックは1925年にタイポグラフィから撤退しているが、その名前は扉ページ右下隅に「印刷者:オノレ・バルザック  Imprimé per H. Balzac」とだけ、ちいさく表示されている。
◉ オノレ・バルザックと、ロール・ド・ベルニ夫人の肖像画。
◉ バルザックが使用していた「アルビオン手引き式活版印刷機」。バルザックは相当の印刷狂であって、このほかにも最初の総鉄製として知られる「スタンホープ手引き式活版印刷機」も所有していた。これらの印刷機をふくむ活版印刷関連の諸設備は「サッシェ城 バルザック記念館」(日本語版)に現存【リンク:バルザック使用の印刷設備画像している(未見)

バルザックは、1829-1837年 にかけて、当時の城の所有者であるマルゴンヌ氏に招かれて、毎年このサッシェの城館に長期滞在した。 バルザックは「ゴリオ爺さん(Le Pere Goriot)」や、「谷間の百合(Le Lys dans la Vallee)」などの作品をサッシェ滞在中に執筆しており、バルザックが用いた部屋や印刷設備が当時のままの状態で保存されているようである。

レクサンドル・ド・ベルニは、当初はバルザックが連れてきた技術者/ローラン(J. E. Laurent)にたよることが多かったものの、長ずるにおよび、近隣の活版印刷関連機器メーカーのペイニョ家から妻をむかえ、活字部門を「ド・ベルニ&ペイニョ社」とした。

なかでもペイニョ家の後継者に優秀な人物が多かったが、その兄弟三人が第一次世界大戦で戦没したために、それを追悼して、フランス国立印刷所の旧社屋は、パリ市「ペイニョ三兄弟通り」と「グーテンベルク通り」に面して建っている。

なおフランスでは、グーテンベルクが活躍した15世紀のころ、現:ドイツ領の マインツ市 (独:Mainz マインツ)とは、フランス領の「Mayence マイエンス」であったとする。
そのためにフランス領マイエンスのひと、グーテンベルク(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg、c.1398-1468年2月3日)のことを、フランスではフランス人であったとするふうがある。

その後に敏腕して大胆、かつ慧眼にとんだシャルル・ペイニョが登場して、同社は1827-1972年までの145年におよぶながい歴史を刻んだのである。
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ところで、オノレ・バルザックが手をつけ、アレクサンドル・ド・ベルニが育成し、ペイニョ三兄弟が丹精をこめ、シャルル・ペイニョが開花させたフランス活字はどこにいっったのだろう。
その複製原型、すなわち活字父型は、フランス国立印刷所に寄贈されており「Référence la bibliothèque Deberny et Peignot Foundry」に厳重保管されている。

またその複製権は、スイスの活字鋳造所「Haas社」に譲渡されたが、金属活字界の長期低落傾向のなかにあって、ドイツ系の企業に譲渡され、現在は同国内で電子活字データーとなっている。しかしながらいまもって、ドイツ国内でも企業間を転転として、ながい流浪の旅をつづけているのは、すこしものがなしいものがある。


「オンディーヌ  Ondine」とは、フランス語で「水をつかさどる精霊」で、湖や泉に住んでいて、ほとんどのばあい、美しい女性のすがたとして描かれている。
語源はラテン語の unda(波の意)とされ、欧州各国語では、ウンディーネ(独:Undine)、アンダイン、あるいはアンディーン(英:Undine)、オンディーナ(伊:Ondina)などとされるが、ここではフランス発祥の活字でもあるので「オンディーヌ  Ondine 水をつかさどる精霊」としたい。

「オンディーヌ」の原姿は、すでにチューリッヒ工藝専門学校の卒業制作のなかにもあらわれており、フルティガーが22-3歳といった、春秋に富んだ時期の、みずみずしい活字書体である。
活字書体「オンディーヌ」は、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所から1953-4年にかけてシリーズ活字として順次開発・発売されている。
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すこし厄介なことだが、この頃のフランスの活字鋳造所では「ディド・ポイント」という活字サイズのシステムを採用していた。ディド・ポイントシステムにおける 1pt. とは、フランスの常用尺の 1/72 インチ(≒0.3759 mm)を採用してきた。このシステムはフランスだけでなく、欧州大陸諸国でも採用したため、コンチネンタル・ポイントともされる。

これと、英米諸国(どういうわけかわが国も)の活字鋳造所がもちいているシステムは、「ほぼ 1/72 インチ ≒0.3514 mm」を 1pt. としてきた。これは「アングロ・アメリカンポイント、アメリカンポイント、さらに略して単に ポイント」ともされる。
現代のコンピューター組版システムでは、「正確な 1/72 インチ = 0.3528 mm」を 1pt. としているものがほとんどである(DTP Point)。
この厄介で重要なタイポグラフィにおける基本尺度の問題、すなわち欧州大陸と、英米諸国における基本尺度の相異は、新宿私塾か、活版カレッジで学ぶのが手っとり早い。
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「バッカス松尾」は、スイス出身のアドリアン・フルティガーと、フランスのド・ベルニ&ペイニョ活字鋳造所に敬意を表して、無理なく、しっかりと、ディド・ポイントシステムの活字グリッドによって、タイトル・デザインを構築した。
原寸を欠く、ソーシャル・メディアのディスプレー上では確認しずらいとおもうが、フランス発祥のディド・ポイント活字を、そのままアメリカン・ポイントシステムに依存するのはいささか考えさせられるものがある。
したがって「オンディーヌ」のようなフランス発祥の活字にとっては、ここにみるように、ディド・ポイント方式に依拠した「バッカス松尾方式割り出し」においては、なにかと座りがよいものだ。

 《Viva la 活版 Viva 美唄 制定和文書体は『銘石 B 』》
「Viva la 活版 Viva 美唄」のタイトル・デザインの漢字・和文制定書体は『銘石 B 』である。
ここで、はなしがすこしかわるが、中国江南の地から誕生した書風「碑石体」に触れたい。

東晋のひと王羲之オウギシと、その従兄弟イトコ、 王興之オウコウシの墓誌の書風である。
なにぶん小社が発売しているパッケージ書体のため、いささかムキになるかもしれないが、ご容赦を。

これまでもしばしば、十分なインパクトがありながら、視覚にやさしいゴシック体、それもいわゆるディスプレー・タイプでなく、文字の伝統を継承しながらも、使途のひろいサンセリフ ── すなわち、わが国の電子活字書体にも「ヒューマン・サンセリフ」が欲しいとの要望が寄せられていた。
確かにわが国のサンセリフ ≒ ゴシック体のほとんどは、もはや自然界に存在しないまでに鋭角的で、水平線・垂直線ばかりが強調されて、鋭利な画線が視覚につよい刺激をあたえている。

2012年04月、欣喜堂と朗文堂が提案したデジタル・タイプ『ヒューマン・サンセリフ  銘石B』の原姿は、ふるく、中国・東晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種で、とくに「碑石体ヒセキ-タイ」と呼ばれる書風をオリジナルとしている。
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魏晋南北朝(三国の魏の建朝・220年-南朝陳の滅亡・589年の間、370年ほどをさす。わが国は古墳文化の先史時代)では、西漢・東漢時代にさかんにおこなわれていた、盛大な葬儀、巨費を要する石碑や墳墓の建立が禁じられ、葬儀・葬祭を簡略化させる「薄葬」が奨励されていた。

その薄葬の推奨者/曹操(三国魏の始祖。あざなは孟徳。没後武王と諡オクリナ。その子・曹丕が帝を称して魏をたて、追尊して武帝という。廟号は太祖。155-220)の墓と伝承されるものは30有余もある。

ふるいはなしではない。2009年12月27日、甲骨文出土地として著名な安陽市小屯村のちかく、すなわち中国の河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村に位置する、東漢(後漢)末期の墓「西高穴セイコウケツ2号墓」が、河南省文物局によってその発見が公表され、おおがかりな発掘調査がなされ、東漢末の権臣・曹操の墓であると認定された。そのためにここは「曹操高陵」とも称される。
また2010年6月11日、国家文物局により2009年度全国十大考古新発見に選定された。

ところが中国の歴史家のあいだでは、相当の実績と権威のある河南省文物局、国家文物局の「認定・選定」にもかかわらず、いまだにその真贋論争はやまないようである。
歴史をふり返ると、薄葬に徹したがゆえに、すでに唐の李世明・太宗(唐の実質的な建朝者。第二代皇帝。598-649)が7世紀半ばに高句麗親征に出かけた際に、2-3世紀の中国の先賢に敬意を表すべく「安陽県の曹操墓」に詣ったとされる。ところが、それが「西高穴セイコウケツ2号墓」にあたるのかどうかも不明である。薄葬はときに混乱をまねく例である。
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こうした「薄葬令」のために、紹興のまちに会稽内史として赴任し、楷書・草書において古今に冠絶した書聖とされる王羲之(オウギシ。右軍太守  307?-365?)の作でも、みるべき石碑はなく、知られている作品のほとんどが書簡であり、また真筆は伝承されていない。
現在の王羲之の書とは、さまざまな方法で複製したもの、なかんずくそれを法帖ホウジョウ(先人の筆蹟を模写し、木石に刻み、これを木石摺りにした折り本)にしたものが伝承されるだけである。

王興之の従兄弟・書聖/王羲之(伝)肖像画。
同時代人で、従兄弟イトコの王興之も、こんな風貌だったのであろうか。

『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土した。王興之(オウ-コウシ 309-40)は、王彬オウ-リンの子で、また書聖とされる王羲之(オウ-ギシ  307-65)の従兄弟イトコにあたる人物である。

この時代にあっては、中国伝統の、地上に屹立する壮大な石碑や墓碑にかえて、埋葬者の係累・功績・生没年などを「磚セン」に刻んで墓地にうめる「墓誌」がさかんにおこなわれた。『王興之墓誌』もそんな魏晋南北朝の墓誌のひとつである。
『王興之墓誌』の裏面には、のちに埋葬された妻・宋和之の墓誌が、ほぼ同一の書風で刻されている(中国・南京博物館蔵)。

この墓誌は煉瓦の一種で、粘土を硬く焼き締めた「磚 セン、zhuān、かわら」に碑文が彫刻され、遺がいとともに墓地の土中に埋葬されていた。そのために風化や損傷がほとんどなく、キャラクター数はすくないが、全文を読みとることができるほど保存状態が良好である。

『王興之墓誌』の書風には、わずかに波磔ハタクのなごりがみられ、東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれている。遙かなむかし、中国江南の地にのこされた貴重な碑石体が、現代日本のヒューマン・サンセリフ「銘石B Combination 3」として、2012年04月、わが国に力強くよみがえった。

《王羲之の伝承墓のこと》
王羲之の従兄弟、王興之の墓から出土した『王興之墓誌』を紹介した。ならば一族のひとであり、2歳ほど年長の王羲之の墓、および墓誌を紹介しないと片手落ちになろう。

王羲之は4世紀の時代をいきたひとである。わが国でいえば古墳時代であり、まだひとびとは「字」をもたなかった時代のことである。
王羲之の墳墓の地と伝承される場所は紹興(会稽)周辺、浙江省嵊州ジョウシュウ市金庭鎭キンテイチン瀑布山バクフザンをたずねた。嵊州市は紹興から高速道路で2時間ほど、その嵊州市からさらに山間の道を東へ20キロほどいった山中に、道教の廟「瀑布山」はあった。

山を背に、爽やかな風が吹きぬける、立派な堂宇を連ねた道教の廟であった。
墓地は山裾の高台にあったが、明代に「重修」したと墓碑の背後にしるされていた。墓地本体は「磚セン」を高くつみあげ、その上に夏の艸艸が密生した円墳がのっていた。

魏晋南北朝にあっては「薄葬」が奨励されたために、おおきな墳墓や石碑はほとんど見られないが、いささか立派すぎる墳丘であった。また墳丘を修理した際にも、この時代の墓地にほとんどみられるような「墓碑銘」出土の報告はない。
この王羲之の墳墓とされる墓からは従兄弟や親族の墓地のような「墓碑銘」は出土しなかったのであろうか。
また中国の古代遺跡によくみられる大樹の「古柏」は、伝・蒼頡ソウケツ墓の寺院前の見事な「古柏」はもとより、北京郊外・明の十三陵の「古柏」より、よほど若若しい木だった。

墓地伝承地の周囲には、書芸家が寄進した書碑がたくさんみられたが、その多くが昭和期日本の書芸家の寄進によるもので、チョイともの哀しいものがあった。
ただ齢ヨワイをかさねた王羲之が、終ツイの栖家としたなら、この嵊州市郊外の山中の空間は、それにふさわしいものとおもえる場所ではあった。すなわち4世紀のひとの墳墓を、21世紀に、異国のひとがフラリとたずねたとしたら、この程度の収穫で我慢すべきであろうとおもえる場所であった。

《この程度なら、お茶の子さいさい !!  といいながら、目の元気な朝にチェックをと持ち帰り》
こうして「バッカス松尾」による、タイトル・デザインが決定した。若きアドリアン・フルティガーによる、フランス活字「オンディーヌ」も新鮮だったし、「銘石 B 」とのバランスも絶妙にとれていた。
ところがこれをタイポグラフィ・ブログロール『花筏』にアップするといったら、
「レター・スペースの調整が不十分です。朝の目の元気なうちに、もういちどチェックしたい」
ということで持ち帰ってしまった。

それから3日後、ようやく届いたタイトル・デザインデーターを、皆さんに紹介した。
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その間、ふるいファイルをひっくりかえしていたら、もうすっかり忘れていたイベント・タイトルがでてきた。また忘れないうちに、ここに紹介したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《アダナ・プレス倶楽部発足後、最初期の大型イベント  【ABC タイポグラフィ ! 】の記録》
もう間もなく、あれから6年の歳月を数えることになる。
2007年06月11日-07月02日、青山ブックセンター(青山本店)で【ABC タイポグラフィ ! 】と銘うったイベントを、同店と、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部の共同で開催 した。

もともと朗文堂の出版部(Book Cosmique)と、書店・青山ブックセンターとの関係はふかいものがある。それは朗文堂が正式に出版コードをとって出版に進出した年と、株式会社ボードの運営によって、それまでの広尾の店舗のほかに、東京メトロ六本木駅の至近距離に「青山ブックセンター六本木店」を設けた年はおなじ年だったことに端を発する。

「青山ブックセンター六本木店」は、建築、アート、デザイン、写真集などに力をいれて集荷し、また洋書もたくさん陳列していた。営業時間も深夜までという画期的な営業で、夜業のおおい造形界の支持はあつかった。また当時の六本木、赤坂、渋谷、青山といった地区には、デザイナーというか、あたらしい造形者のスタジオも多かった。

書店員さんも、優秀な人員がおおくあつまっていた。振りかえれば狭隘なスペースだったが【朗文堂 Tシャツ展】を開催したこともあった。
当然歴代店長にはお世話になったし、六本木店の優秀なスタッフが、その後あいついで開店した「新宿ルミネ1・2号店」、「青山本店」、「自由が丘店」、「福岡店」、「橋本店」などの店長となった。
そこでもなにかと交流があったし、昼時をねらって「新刊書籍紹介の営業」にでかけては、ちかくの喫茶店などで、書物談義のあれこれを、あつくかわすことができた。
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2004年のことだったと記憶している。「青山ブックセンター」に、最初の、おおきな不幸がおそった。その後も同店はなんどか騒動をくりかえし、経営権は二転三転した。
ともかく小社としては、初進出のときから、とてもお世話になってきた書店さんだけに、2004年7月のあの大騒動のときも、なにもせず淡淡と静観していた。その姿勢は現在もかわらない。

「朗文堂の出版事業部 Book Cosmique が設立した際には、青山ブックセンターさんにとてもお世話になりました。こんどは活版印刷機器製造販売事業部  アダナ・プレス倶楽部が本格スタートします。先年来いろいろあったにしても、こんどは応援団として、やはり青山ブックセンターさんのお世話になりたい……」
こんなお願いを、当時まだわずかにのこっていた、ふるい「青山ブックセンター」のスタッフにもちかけた。こうして2007年06月11日-07月02日という、かなり長期間のイベントが実現した。

イベント名は 【ABC タイポグラフィ ! 】を提案した。
「ABC は、最近は当社の略称から、愛称として浸透してきましたけど、このタイトルはすこし大胆すぎませんか」
ベテラン書店員さんは、いくぶん不安そうにかたった。
ふるくいう。前回もいった ── 「名は 体タイをあらわす」ト。
ここでの「体 タイ」は、ものごとの本質ないしは実体の意である。当然たいせつなものとなる。

ここでまた、情念系・大石  薫と、酒の神・バッカス松尾が登場する。
「ABC は銅版彫刻に源流がある活字書体で、カッパプレート・ゴシックヘビーをもちいて、青山ブックセンターさんへの力づよい応援のこころをあらわします。
de は、やはり『ABC で』ということで、場所をあらわしますが、細身のプリンス・スクリプトにすることで、意外性のある『 』としました。こうすることでリズムとメリハリが発生します。

またあえて『 』と、アキュート(揚音符、鋭アクセント)をつけたのは、こうすることで接頭語の「de」ではなく、ようやく『   で』と読まれますし、平板な声調の「で → 」ではなく、「ABC で  ↗」という、強めのニュアンスにもなるからです。
そして『タイポグラフィ』は、カナモジ会のアラタを参考に書きおこしていますから、斬新ですし、とてもインパクトがあります」

ちなみに、朗文堂のコーポレート・カラーは「黄色から赤までのあいだの、無限の中間色」である。あえてマンセル色相環を持ちだすまでもないが。
アダナ・プレス倶楽部のイメージカラーは、これとすこしかえて、深みのあるみどり色「ブリティッシュ・グリーン」である。
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ここでいいたいことは山のようにあるが、どうせ誤解されるだけだからやめておこう。
ただし、書店を全国規模でみると、いちにちに一店舗以上が転廃業しており、印刷企業にいたっては、その倍以上のカウントで転廃業が続いている現状がある。
気分がおもくなるが、印刷設計士(グラフィックデザイナー)を職業とされるかたは、どうか一度検索して確認してほしい。

彫刻家:安田 侃は、色と素材に敏感であり、イタリアのトスカーナ州にアトリエをおいて、そこで産出される白大理石の彫刻作品と、シェンナの砕石を、はるばる美唄まではこんできている。
色彩や素材とは、造形家にとってはそれほどたいせつなものである。
画家は、油彩でも水彩でも岩絵の具でも、できあいの色はほんのわずかなので、自分で大半の色をつくりだしている。
陶芸家、版画家、染織家、紙工家、彫金家、硝子工芸家、そして活字版印刷術者(タイポグラファ)も、必要とする色が、できあいであることのほうがまれである。当然ながら、必要とする色は自分でつくりだすことのほうが多い。

すなわち、みずからの身体・躰・五感をもちいて造形にかかわる技芸家(アーチスト)は、こと色彩と素材に関して、パソコンソフトウェアのうえで「設定」したり、カラー印刷された色の小片(カラーチップ、色見本)などを添付して、それをギョウシャに指示することで、ことすめりというわけにはいかないのである。

あえて今回の会場を、はるかにとおい「アルテ ピアッツァ美唄」にして、「身体性のともなった造形活動」を主題としたことも、このあたりにおおきな契機があった。
そしてここまで読みすすまれた読者のなかに、もし印刷設計士(グラフィックデザイナー)のかたがいらしたら、みずからのアイデンティフィケーションを見つめなおす機会を「Viva la 活版 Viva 美唄」でともにしていただけたら幸いである。

現在のスケジュールでは「Viva la 活版 Viva 美唄」は2013年07月13日[土]―15日[月・祝] 9:00―17:00 となっている。
そのトップ・バッターは13日[土]早朝から、やつがれ担当のタイポグラフィ・ゼミナール【タイポグラフィの過去・現在・未来】の予定である。東京ほか、福岡・新潟・大阪・徳島・名古屋などの各地から駆けつけられる会員は、おおかた土曜日早朝のフライトで北海道にはいられるようである。したがって金曜発先乗りの3名のほかは、ほとんどたれも間に合わない時間帯である。
地元のかたがどのくらい聴講されるか皆目わからない。それでも聴衆は3名でも5名でもまったく構わない。ともかく全力投球する。それがタイポグラファの役割と信ずるがゆえである。

閑話休題 ところで ── カッパプレートは、アップライト・キャピタル・ローマン(大文字)だけの活字書体であるが、金属活字では、おもしろいフォント・スキームをもっており、スモール・キャピタル(小型大文字)が、上図の見本のように、大文字よりすこしだけたかさが低いものから、小文字程度のたかさまで、大小さまざま、何段階かある。

つまり上図「GRAND FINALE」では「語頭  G, F」はアップライト・キャピタル・ローマンであるが、「RAND, INALE 」には、「語頭の G, F」とふとさは同一で、たかさのことなるスモール・キャピタルが数種類選択できる。
管見ながら、現代の電子活字でこうした対応をしている事例はみたことがない。

また、ここにみる「カタカナ活字」が契機となって、アダナ・プレス倶楽部ではのちに、原字著作権者:ミキ家と、原字ライセンス所有者:モトヤの了承のもとに、金属活字「アダナ・プレス倶楽部特製 アラタ1209」を製造し、継続して販売にあたっている。
リンク:こんな時代だから、金属活字も創っています! アラタ1209
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【ABC タイポグラフィ ! 】の名称は、当初は書店担当者は不安があったようだった。ところが意外に客層からは好評で、来場者も多かった。そしてアダナプレス倶楽部のキックオフ・イベントとして、良いおもいでとして記憶にのこっている。
その記録は下記のアーカイブ・リンクを参照していただきたい。
リンク:アダナプレス倶楽部便り:ニュースNo.018  ABC タイポグラフィ !

当時の青山ブックセンターは、書店業界の苦闘のさなかにあった。その間に、さびしいことだが、本当に活字と書物が好きな書店人の多くが去っていった。いまはすっかり世代交代して、店舗を訪問しても、見知った顔をみれないのはさびしいかぎりである。

ところがなにを気にいってくれたのかしらないが、【ABC タイポグラフィ ! 】の残渣のように、【ABC de ………… 】の名称が同店のイベント名称としてのこっているのは、ほほ笑ましい。
ところがそこに、酒の神・バッカス松尾がいないせいか、書体は平板であり、アキュートつきの「 」もつかわれていないようだ。
ふるくいう。前回もいった。もう一度いおう ── 「名は 体タイをあらわす」ト。
ここでの「体 タイ」は、ものごとの本質ないしは実体の意である。当然たいせつなものである。



《バッカス松尾は、ここでもフランス活字を使用していた》

「ビフィール Bifur」は1929年、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所から発売された、見出し用活字である。
原字製作はアドルフ・ムーロン・カッサンドル(Adolphe Mouron Cassandre、1901-1968)である。カッサンドルは、さまざまなポスター作品などを手がけたフランスのグラフィックデザイナー、舞台芸術家、版画家であり、またタイポグラファでもある。
本名はアドルフ・ジャン=マリー・ムーロン(Adolphe Jean-Marie Mouron)であるが、略称としてA. M. Cassandreを作品へのサインなどに使用したひとである。

「ビフィール Bifur」のおおきなサイズの活字は、ふとい画線部と、万線のようなほそい画線部が、一種の組み合わせ活字となっていて、バッカス松尾は、2009年からはその機能をもちいて3色刷りでの表現に挑戦した。


《アダナプレス倶楽部名物:活版オジサン。これだけは美唄にも連れていこう》


Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅱ 準備着着進行中 !?


《 Viva la 活版 Viva 美唄、イベントの名称を決定 》
あたらしいイベント概略が次第にかたまると、まずその名称の議論が活発にかわされる。
ふるくいう。―― 「 名は 体タイをあらわす」 ト。
ここでの 「 体 タイ」 は、ものごとの本質ないしは実体の意である。 当然たいせつな議論となる。  そのあらましは 『 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』 にしるしてある。

そもそもやつがれは、どういうわけか名称に  “ VIVA ”  を冠することが多い。
“ VIVA ”  とは 「 すばらしき、すばらしい。  あるいは、美しい、麗しい。 むしろ驚きを込め、積極的に、讃歌 」 という意をこめてもちいている。
もともとイタリア語やスペイン語の  “ VIVA ”  は 「 歓びの声、歓声 」 にちかい。
わが国での訳語として馴致している 「 萬歳、万歳 」 の漢の字は、和訓音では 「 ばんざい 」 とも 「 まんざい 」 とも読めるから避けたいところだ。

まして めでたく 「 バンザーイ ( 三唱 )」 ではすこしニュアンスが違うとおもわれるし、用例はふるくからあるようだが 「 万才 」 にいたっては、どうかご勘弁をというところだ。
ついでながら 「 漫才 マンザイ 」 は、関西で、滑稽なはなしをかわす掛合演芸で、大正中期に舞台で演じられ、昭和初年のころに漢の字表記として 「 漫才 」 は定着したものとされる。
本心では 「 Viva  ワォ~ 」 としたいくらいなので、「 萬歳、万歳、バンザーイ 」 は敬遠している。
フ ゥ ~、 漢の字がからむと、はなしがまことにややこしくなる。


“ la ”  は 定冠詞で、 “  la  Frida ”  のように、女性の名前の前に置くと 「 フリーダちゃん 」 のようなニュアンスになって、愛情と親しみをあらわす。

つまり、『 Viva la 活版 Viva 美唄 』 とは、活版印刷という技芸 ( Art ) と、北海道美唄における、丹精をこめて形成された、彫刻 ・ 景観 ・ 自然への讃歌として 『 すばらしき 活版、すばらしい 美唄 』 のおもいから名づけられた。
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名称決定までには、さまざまな議論があった。 ところが、テーブルにさりげなく置かれた一冊の画集が決定打となった。 議論は即座に収束して 『 Viva la 活版 Viva 美唄 』 の名称が決定した。
このたった一枚の絵画が、みんなのこころをおおきく揺りうごかしたのである。

     

のちに知ったことだが、活版カレッジ ・ アッパークラスの 「 横ちゃん 」 は、このひとの絵を小学生のときに見て、いまだに忘れられないほど、おおきな衝撃を受けたということであった。
ところが、まことに恥ずかしきかぎりだが、やつがれはこのときまで、いたましくも、はかなく、そして精一杯につよく、みずからの人生をいききった メキシコうまれの画家、フリーダ ・ カーロ ( Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón 1907-1954 ) のことはなにも知らなかった。
したがって以下しばらくは、申しわけないが情念系を得意とする !?  大石 薫からの受け売りと、にわか仕込みである。
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フリーダ・カーロ は、 ハンガリー系ユダヤ人移民の職業写真家を父として、1907年メキシコにうまれた。
6 歳のころ 急性灰白髄炎 ( ポリオ ) にかかり、右腿から踝クルブシにかけての成長が止まって痩せ細り、これを隠すために、ズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた。

学業は優秀で、当時ようやく女性にも開放されたメキシコの高度教育機関 「 国立予科高等学校 」 へ進学した。 ここで文学や絵画にたいする関心が高まったフリーダは、次第に画家への道を目指すようになった。

1925年、フリーダが18歳のとき、通学に乗っていたバスが路面電車と衝突し、多くの死傷者が発生する事故がおきた。 このときフリーダも 生死の境をさまようほどの重症をおい、その後も事故の後遺症で、背中や右足の痛みに悩まされた。 その痛みと病院での退屈な入院生活を紛らわせるために、本格的に絵画を描くようになったという。

1929年、フリーダが22歳のとき、21歳年上の画家 ディエゴ ・ リベラと結婚した。
この結婚も、その後の妊娠にも、不幸がかさなった。 病気や事故による躰の障害がもととなって、背骨と胎盤が傷ついていたために、いたましいことに 3 度にわたってフリーダは流産した。
また芸術家肌で奔放な夫 ・ リベラは浮気をかさね、なかでもフリーダの実の妹 クリスティナ と関係をもつなどしたために、フリーダのこころにおおきな影を落とすこととなった。 フリーダもまた、夫 ・ リベラへのあてつけのように、日系アメリカ人/イサム ・ ノグチ  と関係をもつなどの騒動がかさなった。

そんなこともあって、フリーダ ・ カーロとディエゴ ・ リベラは、10年余におよんだ結婚生活に終止符をうって、1939年に離婚が成立した。 フリーダはメキシコの生家である 「 青い家 」 にもどって、ひとりで闘病と創作活動をつづけた。
ところがほぼ一年後に、フリーダは、互いに経済的自立をはかること、互いに不貞をはたらかないこと、などの条件を提示して、リベラと復縁して、「 青い家 」 での同居生活にはいった。
こうしてようやくこころの安寧を取りもどしても、間断なくおそう脊髄の傷みはおさまらず、投与された鎮痛剤も効かないほどの苦痛が間断なくおそうようになり、ついに右足切断手術をうけるという闘病生活がつづいた。
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メキシコ人、フリーダ ・ カーロは、200点ほどの作品をのこし、シュルレアリズムの画家とされている。 そのほとんどは自画像であり ( 画像集リンク )、 躰とこころのやまいに苦悩する自分のすがたを、カンバスにそのまま叩きつけたような 「 痛痛しい作品 」 が多い。

ところが晩期の作品に、明るい色彩に満ちた静物画をポツンとひとつのこしている。 みずからカンバスにしるして 『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』 である。
もう一度 画面に 『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』 を紹介したい。

フリーダ ・ カーロは1954年7月13日、47歳にして 幽明 さかいをことにした。
その遺灰は、生家であり、ディエゴ ・ リベラとのおもいでにあふれる 「 青い家 」 にねむっている。
いま 「 青い家 」 は、「 フリーダ ・ カーロ記念館 」 として一般公開されている。
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たび重なる不幸と困難に見舞われながら、それでもなお、人生の最後に 『 すばらしき人生 』 といえるだけの、明るく澄みきった心境にいたった フリーダ ・ カーロの短い晩年ををおもう。
  彼女の生涯と作品は、「 生きること 」 と、「 創ること 」 のためには、誠心誠意、真剣に向き合うべきだという問題提起を突きつけられるとともに、それに立ちむかう勇気もあたえられる。

さぁ、こうしてイベントの名称は 『 Viva la 活版 Viva 美唄 ―― すばらしき 活版、すばらしい 美唄 』 に決定した。 こうなれば、あとは一瀉千里、一気呵成である。
『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生  フリーダ ・ カーロ 』 の一枚の絵画に感動したのなら ―― そう、皆さんご存知の、イギリスのロックバンド、Coldplay のヒット曲、
  『 Viva La Vida 』 ( リンク : Coldplay-Viva La Vida  4:03 YouTube ) を、まことに勝手ながら 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 の 「 こころのテーマ曲  !? 」  に決定とさせていただいた。
この曲は YouTube での再生回数が 122,100,000 回(一億二千二百十万余 2013年03月16日)におよぶ。 そのうちの20-30回は、アダナ ・ プレス倶楽部会員の再生によるものであろうか。

《 Viva la 活版 Viva 美唄 ―― イベント名称と概略がきまったら…… 》
こうしてイベント名称が 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』、「 こころのテーマ曲 」 が 『 Viva La Vida 』 に決まった。
『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 の会場となる 「 アルテ  ピアッツァ 美唄 」 の概略は、この 『 花筏 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』(2013年03月13日)で紹介した。

彫刻家/安田 侃氏によって形成された 「 アルテ ピアッツァ美唄 」 には、公共施設によくみられる 「 サイン ・ ボード 」 と称する案内板はほとんどない。 それどころか、門も塀も仕切りらしきものもない。
したがって入場料の徴収場所もないから、当然入場は無料である。
「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 には、勝手に出入りし、何時間でも観覧したり、芝生や木陰での読書はもちろん、樹木にもたれてウツラウツラと うたた寝までできる。
おまけに 「 カフェ アルテ 」 の水出し珈琲は、水がおいしいせいなのか、ともかく絶品である ( ただし、ここと、ギャラリー棟の ミュージアム ・ ショップの商品は有料 )。

「 ストゥディオ アルテ 」 の外観。 この左手奥に 「 カフェ  アルテ 」 の入口がある。ギャラリー棟や彫刻広場からは、いくぶん離れており、樹木に遮られて相互に見通すことはできない。 右側の森のなかまでつづくテラスには、しばしばリスが顔をだす。
このひろびろと明るい 「 ストゥディオ アルテ 」 を拝借して、『 Viva la 活版 Viva  美唄 』 の活版ゼミナールと、タイポグラフィ ・ ゼミナールを開催する予定である。 展覧会は、この坂の下、彫刻広場と水の広場に面したギャラリー棟の 「 ギャラリー  アルテ 」 で開催する。

だから来場者は、好きな場所から 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 にはいり、好きなところから出てゆくことになる。
そしてあちこちに、さりげなく ―― 実際は実に巧妙かつ趣向を凝らして ―― 置いてある彫刻作品と、偶然のように、出会い、発見し、邂逅のよろこびを感ずることになる。

ときには、傾斜のいくぶん上部にあるために、彫刻広場 ( アートスペース ) など、下からの視界を樹林に遮られている 「 彫刻ストゥディオ 」 と 「 カフェ  アルテ 」 の建物に出あわないまま、彫刻広場と、ギャラリー棟の周辺を見ただけで、十分満足して帰るひともいるらしい。
それはそれで良しとするのが、この施設の特徴のようである。

来場者の多くが、ブログロールや短文ブログに、好意的な記録をのこしている。
その多くは 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 周辺の、豊かな樹林や、一面の芝生の鮮やかな緑と、アートスペースの 「 彫刻広場 」 と 「 水の広場 」 を中心とした、純白の大理石による彫刻との鮮やかなコントラストに目を奪われているようである。
この純白の大理石は、イタリア中西部、トスカーナ州の州都 ・ フィレンツェ郊外のピエトラサンタで産出されるものだという。 彫刻家/安田 侃氏は、この白大理石をもとめて、いまもってイタリアのフィレンツェ郊外、ピエトラサンタに主要なアトリエを置いている。

春の雪解けから、晩秋の積雪までのあいだ、すなわち緑が萌えているころに、この大理石の見事なまでの白さを、ほとんどボランティアで維持しているのは 「 NPO法人 アルテ ピアッツァ  びばい 」 と、「 アルテ市民ポポロ 」 の皆さんである。
「 アルテ市民ポポロ 」 有志の皆さんは、三ヶ月に一度、この大理石をひとつひとつ丹念に洗って、汚れを落とす作業を展開するそうである。 小社社員約一名も、どうやら 「 アルテ市民ポポロ 」 になったらしい。

── NPO法人 アルテピアッツァ びばい
アルテピアッツァ 美唄は、自然と彫刻が調和する美しい空間です。 アートを通じて、地域と人、人と人、そして過去と今、未来を結ぶ場として、美唄のまちに新たな 「 時 」 を積み重ねてきました。 このかけがえのない空間を、これまでにも増して確かに支えていくために、「 アルテ市民ポポロ 」 の取り組みがスタートします。

地域の枠を越えて アルテピアッツァ 美唄 を支える思いを共通項としたコミュニティ 「 アルテ市民ポポロ 」 の誕生です。 「 アルテ市民ポポロ 」 に参加される皆さんは、この空間を揺るぎなく次代に伝えていく上で大切な役割を担うコミュニティの主役です。
“ バトンを未来へ ”
新しい絆を結ぶコミュニティの一員としてご参加くださることを心から願っています。

《 テーマ ・ カラーの設定 ―― ルネサンスをうんだまち、シエナの、シェンナ色 》
さて、ここでまた、自称 情念系 ・ 大石  薫 が、
「 今回の 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 テーマ ・ カラーは、バーントシェンナに決まりですね 」
とのたもうた。 そも 「 バーントシェンナ 」 とはなんぞや ?

13世紀の末、イタリア中西部、トスカーナ地方の富裕なまちのいくつかで、ひとつの潮流 「 La  Rinascita 」 が勃興した。
わが国ではそれを明治初期に訳語をあてて 「 文芸復興 ・ 学芸復興 」 としたが、やがてフランス語由来で、それが英米語を経由した 「 Renaissance,  ルネサンス 」 と呼ぶようになった。 イタリア語 「 Rinascita 」、フランス語 「 Renaissance 」 を直訳すると、いずれも 「 再生 」 である 。

北海道美唄市出身の彫刻家/安田 侃氏が、ルネサンス発祥の地のひとつとされる、トスカーナ州フィレンツェ郊外にアトリエを置いていることは前述した。
イタリアにいってフィレンツェをたづねるには、ミラノから、あるいはローマから、電車でフィレンツェに入ることが中心である。

電車がトスカーナ地方に入ると、車窓からみえる風景がかわり、ものなりが豊饒で、市民生活もゆたかにみえる。 それよりなにより、まちの色彩はろばろとひろがって、あかるくなる。 北部のミラノやヴェネツィアとも、また首都のローマとも、まちの色彩がおおきく異なることにおどろく。

つまりほかのまちでみる、くすんだ灰色か、おもい暗褐色の屋根瓦や壁面とは異なって、このあたりの屋根瓦や壁面は 「 シェンナ 」 という名の、明るい朱色というか、明治初期のわが国の煉瓦色を、もうすこしおだやかにしたような、あるいは鉄錆びたような朱色の色調が中心となる。
それがまた、風雨にさらされ、古さびて、独特な軽快さと、明るさとなって、味わいゆたかな景観を形成している。
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イタリア中西部、トスカーナ州 州都 「 フィレンツェ Firenze 」 は、ふるくから地中海貿易と金融業によって財をなした、メディチ家などの富の蓄積があり、13世紀末から次第にルネサンスをもたらしたまちのひとつである。 こんにちでも観光名所として、世界中からの観光客が絶えないまちである。 人口およそ36万人。

州都 フィレンツェの南方 およそ50キロほどのところに 「 シエナ、シエーナ  Siena 」 のまちがある。
現在の人口はおよそ 5 万5000人ほどの中都市であり、中世の姿をとどめる旧市街は 「 シエナ歴史地区 」 として世界遺産に登録されている。 

 シエナは、中世には金融業でさかえた有力都市国家であり、13世紀から14世紀にかけて最盛期をむかえた。 このころのシエナはトスカーナ地方の覇権をフィレンツェと競い、たびたび武力衝突もみた。 またその経済力を背景としてルネサンス期には芸術の中心地のひとつであった。
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ここからはなしがすこしく厄介になる。 まちの名前と、色の名前である。 この、まちの名、顔料の名、色の名前は、似ているだけに混同されやすい。
わかりにくければ、それぞれ Wikipedia にリンクを付与したので、参照していただきたい。

シエナ、シエーナ   Siena 」 のまちから産出した岩を砕いて、それを原料とした天然顔料を 「 n 」 をひとつ足して 「 シェンナ   Sienna 」 という。
「 シェンナ 」 はまた、天然顔料素材の名であり、その独特の色味から 「 色の名前 」 でもある。

「 シェンナ 」 は、人類がもっともふるくからもちいた天然顔料の一種であり、ふるい洞窟の壁画などにも 「 シェンナ 」 の使用の痕跡をみることができる。
「 シェンナ 」 の名前の由来は、「 シエーナ, シエナ 」 から産出した岩をもちいたことによる。
「 シェンナ 」 は、水和酸化鉄を主成分とし、ケイ酸コロイドと、少量のマンガンを含む、天然の岩を原料とする。 いくぶん黒味を帯びた、黄褐色の顔料である。

天然顔料の 「 シェンナ 」 には、焼結していないものと、焼結したものとがある。
その顔料は 日本工業規格 JIS でも 「 色名 」 として定義され、JIS 慣用色名として 「 マンセル値 」 によって定義されている。

◯ 焼結していないもの ―― 「 ローシェンナ row sienna 」。 黄色味のつよい色をしている。
   ローシェンナ ( JIS 慣用色名 )     マンセル値 4YR 5/9
◯ 焼結してあるもの ―――「 バーントシェンナ  burnt sienna」。 酸化第二鉄を主成分とした赤褐色の顔料としてもちいられる。
   バーントシェンナ ( JIS慣用色名 )       マンセル値 10R 4.5/7.5  

さて…… 、彫刻家 ・ 安田 侃氏がもたらした 「 シェンナ 」 は、「 ローシェンナ 」 なのか 「 バーントシェンナ 」 なのか、その記録は 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 の広報物には見あたらない。 どうもその双方を行きつ戻りつしているようにおもえるが確証はない。
安田 侃氏はどうやらやつがれと同年のうまれらしい。 そして7-8月には、しばしば美唄のアトリエ 「 ステゥディオ アルテ 」 にあらわれるようである。 できたらご本人に伺いたいものである。

 

Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅰ 開催のお知らせ

 朗文堂 アダナ・プレス倶楽部では、手動式卓上小型活字版印刷機 Adana-21J を中核としながら、活字版印刷(以下活版印刷、活版とも)のこんにち的な意義と、その魅力の奥深さの普及をとおして、身体性をともなった造形活動の姿勢を重視し、ものづくりの純粋な歓びの喚起を提唱してまいりました。活版印刷の今日的な意義と、魅力の奥深さをより一層追求するためには、活字版印刷術の技術と、知識の修得はもちろんのこと、「ものづくり」と真剣に向き合うための姿勢と環境も重要です。
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そこでアダナ・プレス倶楽部では、活字組版を中心とした実践と、発表の場のいっそうの充実のために、過去5年間4回にわたって開催してまいりました「活版凸凹フェスタ」を一時中止  して、もう一度じっくりと構想を練りなおし、技芸を磨く準備期間と、制作期間を経て、「ものづくり」と真剣に向き合う姿勢を育む活動へとシフトすることになりました。


その第一弾として、本年7月の3連休に、北海道の美唄ビバイ市にある、
「アルテ  ピアッツァ 美唄」において、
『Viva la 活版 Viva 美唄』を開催いたします。

【名 称】 Viva la 活版 Viva 美唄
【会 期】 2013年07月13日(土)―15日(月・祝) 9:00―17:00
(最終日は13:00まで)
【会 場】 ARTE PIAZZA BIBAI アルテ ピアッツァ 美唄
北海道美唄市落合町栄町
http://www.artepiazza.jp/
【入 場】 無 料
(ゼミナールの一部に参加費が必要なものもあります)
【主 催】 朗文堂 アダナ・プレス倶楽部

【本イベントのオフシャルサイト    :アダナ・プレス倶楽部 NEWS 】
【本イベントのバックアップサイト :朗文堂 NEWS 】

★      ★      ★

「アルテ ピアッツァ美唄」は、美唄市の出身で、世界的な彫刻家として知られる安田 侃(ヤスダ カン 1945- )氏が、いまなお創作を継続している、大自然と彫刻がたがいに相共鳴する彫刻の野外公園美術館です。

イタリア語で「芸術広場」を意味する「アルテ ピアッツァ 美唄」は、自然と人と芸術の新しいあり方を模索し、提案し続け、訪れる人々に自分の心を深く見つめる時間と空間を提供するすばらしい施設です。

そのような素敵な環境にある「ストゥディオ アルテ」 と、昭和のぬくもりをのこす旧栄小学校にある「ギャラリー アルテ」 の一画をお借りして、『Viva la 活版 Viva 美唄』では、各種のゼミナールと、活版カレッジ有志による活字版印刷を中心とした展示をおこないます。

「ストゥディオ アルテ」と隣接している「カフェ アルテ」では、おいしい珈琲(絶品です ! )や紅茶やケーキが楽しめます。またお天気にめぐまれ、戸外のテラスで軽食でも摂っていると、エゾリスがチョロチョロと顔をだしたりします。

★      ★

美唄市 は、かつては四大産炭地のひとつとされて、三菱鉱業、三井鉱山、中小の炭鉱などが進出して、全国でも有数の炭鉱都市として栄えたまちです。最盛時には炭鉱までのローカル鉄道「美唄鉄道」がはしり、1950年代の最盛時の人口は10万人弱という繁華なまちでした。

1970年代にはいると、国の施策として石炭から石油へのエネルギー転換がはかられ、このまちでも1973年に三菱美唄炭鉱が閉山されて、ほとんどの炭鉱の灯が消えました。活気のあった炭鉱住宅はひっそりと静かになり、子どものいなくなった小中学校は廃校となりました。

それから40年ほどの歳月がすぎ、現在の美唄市は人口2万5000人ほどで、ここがおおきな産炭地だったことを忘れさせるほど、豊かな緑がひろがり、すっかり静かなまちになりました。それでも空知地方の中核都市、物資の集散地としての役割を担い、廃鉱のまちにありがちな暗さがないのがふしぎなくらいです。

[以下の部分は、アルテ ピアッツァ 美唄『popolo』広報誌を参考にしました]
アルテ ピアッツァ 美唄が誕生したきっかけは、1981年にイタリアで創作活動を続けていた安田 侃氏が、日本での創作活動の拠点を探していた際に、廃校となっていた旧栄小学校に出あったことにはじまります。

もともと安田氏は、地元美唄駅の鉄道員の息子として、この地にうまれたひとでした。栄小学校の朽ちかけた木造校舎は、数十年前の標準的な小学校の木造建築様式であり、子どもたちの懐かしい記憶と、ぬくもりがそのまま残っていたとされます。

そして校舎の一部に併設されて、しかもいまなお開設されている、ちいさな美唄市立栄幼稚園に通う子どもの姿が安田氏の心をとらえたとかたっています。
そこではエネルギー革命という、過酷な時代に翻弄された歴史を知らず、無邪気に遊ぶ園児たちを見て安田氏は決意しました。
「この子どもたちが、心をひろげられる広場をつくろう」。
それがアルテピアッツァ 美唄誕生のきっかけとなったといいます。

その後、安田 侃氏と、彼のおもいに共感した多くの人びとの尽力によって、1992年に栄小学校の廃校跡地を中心に、広大な敷地をもつ、世界でも希有な彫刻公園「アルテ ピアッツァ 美唄」が開園しました。

アルテ ピアッツァ 美唄は、樹林と草原の中に、40点あまりの石彫とブロンズの作品が配置され、それぞれが自然と溶け合いながら豊かな空間を創りだしています。
展示空間としてよみがえった校舎や体育館では、さまざまな展覧会、講演会、コンサートなどがさかんに開かれています。
中央の芝生の広場では、夏には水遊び、冬には雪遊びにやってくる大勢の子どもが走り回ります。かつて、ここに通っていた子どもたちの記憶と、現在の子どもたちの明るい歓声が、混じり合ってこだましています。

ここを訪れる人は、はじめてきた人でも、どこか懐かしい気持ちがするといいます。

安田 侃氏はかたっています。
「アルテピアッツァ 美唄 は幼稚園でもあり、彫刻美術館でもあり、芸術文化交流広場でも、公園でもあります。ですからわたしは、誰もが素に戻れる空間、喜びも哀しみもすべてを内包した、自分自身と向き合える空間を創ろうと欲張ってきました。この移り行く時代の多様さのなかで、次世代に大切なものをつないで行く試みは、人の心や思いによってのみ紡がれます」

アルテピアッツァ 美唄は、自然と人と芸術の新しいあり方を模索し、提案し続け、訪れる人びとに自分の心を深く見つめる時間と空間を提供しています。それはまさに、芸術の本質に通じているのです。

【動画紹介:アルテ ピアッツァ美唄 YouTube 8:18】

タイポグラファ群像*002 杉本幸治氏 ─ 本明朝・杉明朝原字製作者/ベントン彫刻法の普及者 ─ 三回忌にあたって再掲載

杉  本   幸  治
1927年[昭和02]04月27日-2011年[平成23]03月13日

◉ 杉本幸弘氏・細谷敏治氏から写真掲載許可をいただき、あらたなデーターで再掲出します。
◉ 講演会会場撮影:木村雅彦氏。 2012年01月13日
◉ 杉本幸治氏三回忌にあたり、2013年03月13日、再掲載いたしました。 

1927年(昭和02)04月27日、東京都台東区下谷うまれ。
東京府立工芸学校(5年履修制の特殊な実業学校。現東京都立工芸学校に一部が継承された)印刷科卒。

終戦直後の1946年( 昭和21)印刷・出版企業の株式会社三省堂に入社。今井直一専務(ナオイチ 1896-1963年05月15日 のち社長)の膝下にあって、本文用明朝体、ゴシック体、辞書用の特殊書体などの設計開発と、米国直輸入の機械式活字父型・母型彫刻システム(俗称:ベントン、ベントン彫刻機)の管理に従事し、書体研究室、技術課長代理、植字製版課長を歴任した。

またその間、今井専務の「暗黙の指示と黙認」のもとに、株式会社晃文堂(のち株式会社リョービ印刷機販売、リョービイマジクス株式会社。2011年11月から、株式会社モリサワに移譲されてモリサワMR事業部 → 株式会社タイプバンク → モリサワとなった)の「晃文堂明朝体」の開発と、「晃文堂ゴシック体」の改刻に際して援助を重ねた。

1975年三省堂が苦境におちいり、会社更生法による再建を機として、48歳をもって三省堂を勇退。その直後から細谷敏治氏(1914年うまれ)に請われて、日本マトリックス株式会社に籍をおいたが2年あまりで退社。
そののち「タイポデザインアーツ」を主宰するとともに、謡曲・宝生流の師範としても多方面で活躍した。
金属活字「晃文堂明朝体」を継承・発展させた、リョービ基幹書体「本明朝体」写植活字の制作を本格的に開始。以来30数年余にわたって「本明朝ファミリー」の開発と監修に従事した。

2000年から硬筆風細明朝体の必要性を痛感して「杉明朝体」の開発に従事。2009年09月株式会社朗文堂より、TTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。同年11月、OTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。

特発性肺線維症のため2011年03月13日(日)午前11時26分逝去。享年83
浄念寺(台東区蔵前4-18-10)杉本家墓地にねむる。法名:幸覚照西治道善士 コウガク-ショウサイ-ジドウ-ゼンジ。

◎        ◎        ◎        ◎

東日本大震災の襲来の翌翌日、特発性肺線維症 のため入退院を繰りかえしていた杉本幸治氏が永眠した。
杉本氏は、わが国戦後活字書体史に燦然と輝く、リョービ基幹書体「本明朝体」をのこした。また畢生ヒッセイの大作「硬筆風細明朝 杉明朝体」を朗文堂にのこした。
わたしどもとしては、東日本大震災の混乱の最中に逝去の報に接し、万感のおもいであった。
これからは30年余におよぶ杉本氏の薫陶を忘れず、お預かりした「杉明朝体」を大切に守り育ててまいりたい。

在りし日の杉本幸治氏を偲んで

杉明朝体はね、構想を得てから随分考え、悩みましたよ。
その間に土台がしっかり固まったのかな。
設計がはじまってからは、揺らぎは一切無かった。
構造と構成がしっかりしているから、
小さく使っても、思い切り大きく使っても
酷使に耐える強靱さを杉明朝はもっているはずです。
若い人に大胆に使ってほしいなぁ。

-杉本幸治 83歳の述懐-


上左)晃文堂明朝体の原字と同サイズの杉明朝体のデジタル・データー
上右)晃文堂が和文活字用の母型製作にはじめて取り組んだ金属活字「晃文堂明朝」の原字。
(1955年杉本幸治設計 当時28歳。 原寸はともに2インチ/協力・リョービイマジクス)

ふたつの 「書」 の図版を掲げた。かたや1955年、杉本幸治28歳の春秋に富んだ時期のもの。こなたは70歳代後半から挑戦した新書体「杉明朝体」の原字である。

2003年、骨格の強固な明朝体の設計を意図して試作を重ねた。杉本が青春期を過ごした、三省堂の辞書に用いられたような、本文用本格書体の製作が狙いであった。
現代の多様化した印刷用紙と印刷方式を勘案しながら、紙面を明るくし、判別性を優先し、可読性を確保しようとする困難な途への挑戦となった。制作に着手してからは、既成書体における字体の矛盾と混乱に苦慮しながらの作業となった。名づけて「杉明朝体」の誕生である。

制作期間は6年に及び、厳格な字体検証を重ね、ここに豊富な字種を完成させた。
痩勁ながらも力感ゆたかな画線が、縦横に文字空間に閃光を放つ。
爽風が吹き抜けるような明るい紙面には、濃い緑の若葉をつけた杉の若木が整然と林立し、ときとして、大樹のような巨木が、重いことばを柔軟に受けとめる。

《杉明朝体の設計意図――杉 本  幸 治――絶 筆》

2000年の頃であったと記憶している。昔の三省堂明朝体が懐かしくなって、何とかこれを蘇らせることができないだろうかと思うようになった。 ちょうど 「本明朝ファミリー」 の制作と若干の補整などの作業は一段落していた。 しかしながら、そのよりどころとなる三省堂明朝体の資料としては、原図は先の大戦で消失して、まったく皆無の状態であった。

わずかな資料は、戦前の三省堂版の教科書や印刷物などであったが、それらは全字種を網羅しているわけではない。 したがって当時のパターン原版や、活字母型をベントン彫刻する際に、実際に観察していた私の記憶にかろうじて留めているのに過ぎなかった。

以下3点の写真は、機械式活字父型・母型彫刻システムを理解するための参考として掲載した。2008年09月28日、山梨市・安形製作所における《アダナ・プレス倶楽部  活字製造体験会》活字母型製造試作作業の模様。
同体験会は、活字原字製作を参加者が独自におこない、活字パターン(亜鉛凹版・2インチ)製造をアダナ・プレス倶楽部が担当した。活字母型彫刻は山梨市の安形文夫氏の指導のもとで、12ポイントの活字母型を彫刻体験し、それをもって、のちに活字鋳造所、横浜の築地活字に出向き、12ポイント活字の鋳造を実体験するというものであった。
なお、このとき活字母型彫刻の指導にあたられ、アダナ・プレス倶楽部に支援を惜しまなかった同社所長:安形文夫氏は膵臓癌のため2012年元旦早朝2時に逝去された。
【タイポグラファ群像*004 安形文夫】。

戦前の三省堂明朝体は、世上から注目されていた「ベントン活字母型彫刻機」によるもので、最新鋭の活字母型制作法として高い評価を得ていた。この技法は精密な機械彫刻法であったから、母型の深さ[母型深度]、即ち活字の高低差が揃っていて印刷ムラが無かった。加えて文字の画線部の字配りには均整がとれていて、電胎母型[電鋳母型トモ]の明朝体とは比較にならなかった。

しかしながら、戦後になって活字母型や活字書体の話題が取り上げられるようになると、「三省堂明朝体は、ベントンで彫られた書体だから、幾何学的で堅い表情をしている」とか、「 理科学系の書籍向きで、文学的な書籍には向かない」 とする評価もあった。

確かに三省堂明朝体は堅くて鋭利な印象を与えていた。しかし、それはベントンで彫られたからではなく、昭和初期の三省堂における文字設計者、桑田福太郎と、その助手となった松橋勝二の発想と手法に基づく原図設計図によるものであったことはいうまでもない。

世評の一部には厳しいものもあったが、私は他社の書体と比べて、三省堂明朝体の文字の骨格、すなわち字配りや太さのバランスが優れていて、格調のある書体が好きだった。そんなこともあって、将来なんらかの形でこの愛着を活用できればよいが、という構想を温めていた。

三省堂在職時代の晩期に、別なテーマで、辞書組版と和欧混植における明朝活字の書体を、様様な角度から考察した時、三省堂明朝でも太いし、字面もやや大きすぎる、いうなれば、三省堂明朝の堅い表情、すなわち硬筆調の雰囲気を活かし、縦横の画線の比率差を少なくした「極細明朝体」をつくる構想が湧いた。

ちなみに既存の細明朝体をみると、確かに横線は細いが、その横線やはらいの始筆や終筆部に「切れ字」の現象があり、文字画線としては不明瞭な形象が多く、不安定さがあることに気づいた。
そのような観点を踏まえて、まったく新規の書体開発に取り組んだのが、約10年前からの新書体製作で「杉本幸治の硬筆風極細新明朝」、即ち今回の 「杉明朝体」という書体が誕生する結果となった。

ひら仮名とカタ仮名の「両仮名」については、敢えて漢字と同じような硬筆風にはしなかった。仮名文字の形象は、流麗な日本独自の歴史を背景としている。したがって無理に漢字とあわせて硬筆調にすると、可読性に劣る結果を招く。 既存の一般的な明朝体でも、仮名については毛筆調を採用するのと同様に、「杉明朝体」でも仮名の書風は軟調な雰囲気として、漢字と仮名のバランスに配慮した。

「杉明朝体」は極細明朝体の制作コンセプトをベースとして設計したところに主眼がある。したがってウェイト[ふとさ]によるファミリー化[シリーズ化]の必要性は無いものとしている。一般的な風潮ではファミリー化を求めるが、太い書体の「勘亭流・寄席文字・相撲文字」には細いファミリー[シリーズ]を持たないのと同様に考えている。

「杉明朝体」には多様な用途が考えられる。例えば金融市場の約款や、アクセントが無くて判別性に劣る細ゴシック体に代わる用途などがあるだろう。また、思いきって大きく使ってみたら、意外な紙面効果も期待できそうだ。

杉本幸治氏を偲ぶ  しごく内輪の会

杉本幸弘・吉田俊一・米田 隆・片塩二朗・根岸修次(記録担当)
2011年05月19日[木] 朗文堂 PM05:00-

◎ 片塩:早いもので杉本幸治先生の四十九日忌の法要も終えられました。
そこで本日は、ご長男の杉本幸弘ユキヒロさんをお迎えして、晩年の先生を手こずらせた!? この5人で、ご供養半分、こぼし半分で、杉本先生(以下 先生とも)のおもいでばなしをしよう……、ということでご参集いただきました。
ともかくここにいるメンバーは、先生にはお叱りを受けることが多かったんです。
◎ 杉本幸弘(杉本幸治氏長男/以下 幸弘):オヤジはなにぶん東京の下町うまれでしたから、江戸っ子気質カタギというか、叱るときはポンポン容赦なかったですね。
それでも、いうだけいわせておけば静かになるし、いってしまったことは忘れるので、母も妹も、もちろんわたしも、だまっていわせておきました。お叱りが、こう頭の上を滑っていくのを待つわけですね(笑)。
◎ 吉田:われわれはそうはいかないから、ハイ、ハイってね。まぁなんやかやと、よく叱られたなぁ(笑)。

◎ 米田:パソコンでも、車でも、先生はけっこうわがままをいったでしょう?
◎ 幸弘:オヤジがパソコン(Mac)を購入して、使用をはじめたのは1980年代、60代前半のころでした。
◎ 吉田:NEC 98型の全盛期からじゃなかったんだ?
◎ 米田:時代のせいでしょうけど、パソコン開始年齢としては比較的ご高齢になってからですね。
それでも先生は難しいソフトウェアでも完ぺきに使いこなしていらっしゃった。
◎ 片塩:そうそう、あきらかに、わたしより数段マックの扱いにはくわしかったですね。ほとんどE-メールはなさらなかったようですけど。
でも1980年代からパソコンをはじめたというのは、年齢は別として、遅くはないでしょう。
◎ 吉田:たれかと違って、携帯電話を愛用されたし、ケイタイメールはよくいただきましたよ。
◎ 片塩:どうせわたしはデジタル・オンチで、ケイタイも使いませんからね(笑)。
それを笑って、先生はいつも「オレは技術者 エンジニア だからな」と自慢されていた。

◎ 幸弘:オヤジがもっとも愛用したのは一体型の i Mac で、OS-9と OS-X を選択併用できる機種でした。オヤジはおもに OS-9 を使用していましたね。
また車の運転免許証をとったのもほぼ同時期で、わたしが免許を取得したのをみて「オレもとる」ということではじまりました。これも60代の前半でしたね。
それ以来すっかり運転マニアになって、どこにいくのにも車。それも事前に路線図をじつに詳細に、隅隅まで確認して、ここで右折、ここで左折と決めて、渋滞していてもほとんど変更しない。ともかく地図のとおりにまっすぐに(笑)。
なにせ頑固でしたからね、自分で車を運転して2009年まではでかけていました。

◎ 米田:2009年10月ころに、医者から外出を禁止されたでしょう。あのころから先生は弱られたのかもしれませんね。
◎ 幸弘:いや、その前から体調は十分とはいえませんでした。
2006年04月22日《杉本幸治 本明朝を語る》(リョービイマジクス主催)の講演会があったでしょう。その前夜まで、オヤジはひどく熱があって。
ともかく体調が悪くて、セーターやパジャマやら、いっぱい着込んで、その上にドテラまで羽織って寝込んでいたんですよ。ですから明日はとても無理だろうとおもっていたら、早朝からたれにも告げず、ひとりで出かけてしまって驚きました。
◎ 吉田:そうでしたか! 講演ではお元気だったけどなぁ。熱があるようにはみえなかったけど、咳き込みがあって、ちょっと心配はしました。
それに「特発性肺線維症」なんて持病はたれにもおっしゃらなかったし。
◎ 片塩:そうそう、ひどい咳をしていた。それでもわたしも、チョットした喘息程度かなとおもっていましたね。
でも講演はいやだ、いやだって逃げまわっていたのに、あの日の先生の講演は熱演で、たくさんご来場いただいた聴講者も随分刺激を受けていたようですよ。
◎ 幸弘:ともかくあの日のオヤジは、そおっと出ていったんですよ。家のものはたれも知らなかった。わかっていれば止めたでしょうね。
◎ 米田:そうだったんだ。知らなかったですね。でも先生はお元気で、夢中になって話しておられたなぁ。

◎ 片塩:あの少し前から先生は、勤労動員に追いまくられた戦時中の東京府立工芸時代のはなしや、三省堂時代のはなしをよくされるようになっていました。そして大切にされていた「石原忍とあたらしい文字の会」の一括資料などをお譲りいただきました。それと、『太平洋戦争下の工芸生活』(東京都立工芸学校23-26期編集委員会 平成09年03月27日 私家版)などを嬉しそうにおみせになるんですね。
このタイトルの題字製作は先生ですが、おもしろいことに、骨格はほとんど「本明朝」そのものですね。先生にはこの骨格が染みついていたのかなぁ。
先生は同校の本科印刷科25期生で、2期先輩に野村保惠さんが、3期後輩の金属工芸科に澤田善彦さんがいらっしゃった。この本は面白いですよ。印刷と工芸、あるいは工芸と美術・芸術・デザインの関係と相違がとてもよくわかります。

『太平洋戦争下の工芸生活』 表紙の題字は杉本幸治氏による。
(東京都立工芸学校23-26期編集委員会、私家版、平成09年03月27日)

『杉本幸治 本明朝を語る』 表紙デザイン:白井敬尚氏
(編集・製作/組版工学研究会 リョービイマジクス 2008年01月25日)

◎ 吉田:講演会のあとが、またひと騒ぎあったなぁ。
◎ 米田:あの黄色い表紙の講演録『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス発行)にまとめたのは、結局先生が再出演されたわけですか?
◎ 片塩:そうなんですよ。リョービイマジクスさんが撮影した DVD 画像をみて、先生は講演内容が断片的で、まとまりがないとお気に召さなかった。
これじゃあ説明になってないなぁ、と何度も首を振られてね。
そこで再度資料を取り揃えて、歴史的視点を中心にかたろうとなって……。この部屋(朗文堂)で3時間ほど対談しました。そのころはまだ酸素タンクは使っておられなかったですね。

◎ 吉田:あとから、随分先生が原稿を添削したようですね。
◎ 片塩:あれは添削ではなくて、テープから起こした原稿をみて、ここはオレが死ぬまで発表しちゃ駄目。ここはオレと細谷敏治さんが亡くなるまで駄目っていうのがほとんどですね。
だいたい三分の二ほどの原稿がカットされました。
◎ 吉田:戦後の活字の復興に発揮した、三省堂・今井さんの使命感とその功績、細谷さんと先生の、おふたりのおおきなご努力は、まだ発表できないんですか?
◎ 片塩:それは杉本先生の厳命ですから。小社のO社員も立ち会って、厳重に約束させられましたから。
ただ、わたしがお話しをもとに少し書き込んだ部分は、
「どうしてこの事実がわかったんだ?」
と、原稿からお顔をあげてふしぎそうでした。
「あのお話しと、このお話しを連結すると、このように帰納されますけど、違いますか?」
と伺うと、
「いや、この通りなんだ。間違いなくこの通りなんだ。そうなんだけど……、たれもこうした事実に目をむけなかったからな。この辺の事情がよくわかったなぁ」
とおっしゃるんですね。もちろん自分がおはなしになったことですよ。
それでもまた原稿に視線をさげて、赤ペンで大きくバツ印をつけて、「これはオレが死ぬまで駄目」となるわけです。

◎ 幸弘:ともかくオヤジは、戦後すぐから、あちこちの活字鋳造所や印刷所にいかされたといっていましたね。
◎ 片塩:そうなんです。本当は各社の明朝体の活字書風をみれば、「三省堂明朝体」、あるいはそのとおい原型となった、昭和初期の秀英体、とりわけ秀英四号明朝体との関係がわかることですが、おおかたの「活字ファン」は、漢字にはほとんど関心がなく、活字を仮名書風を中心にみて、印象をのべたり、評価するんですね。
やはり全体、もっともキャラクター数とさまざまな特徴のある漢字をみないで、仮名活字だけで活字書体をかたってもねぇ……。おのずと限界はありますよ。
各社とも復興にあたって、仮名書風くらいは、独自に、あるいはむしろ意図的に独自書風で開発していますし、その後も仮名活字は各社とも改刻が繰りかえされていますから、戦後のあわただしい活字復興の実態が、おおかたにはいまでもわからないようですね。

◎ 幸弘:オヤジがT印刷にいっていたことも、意外に知られていないようですね。
◎ 片塩:もちろんです。意外にではなく、まったく「秘密」だったんでしょうね。
もちろん例外はありますが、おおまかにいってD社系は津上製作所製の彫刻機で、細谷さんが基本操作指導にあたり、K社系とT社系は不二越製作所製の彫刻機で、基本操作指導は杉本先生のご担当だったようです。これは今井専務の指示だったと先生はおっしゃっていました。
そういう意味で晃文堂は、戦後に、なんのしがらみもなくスタートした活字鋳造所でしたし、社長の吉田市郎さんとも波長があって、晃文堂での原字製作からはじめ、まったく最初からつくる活字製作作業が楽しかったんでしょうか。それが「晃文堂明朝」、「晃文堂ゴシック」の製作につながり、のちの「本明朝体シリーズ」の展開につながったんでしょうね。

◎ 吉田:先生の「本明朝」へのこだわりは、ふつうじゃ考えられないほどだった。ちょっとでもスタッフが手を入れても激怒するほどのこだわりで……。
◎ 片塩:ですからわたしも「本明朝-L, M, B, E」と、「杉明朝体」にこだわるのは、そのすべてが杉本幸治さんという、いち個人が、26-7歳からはじめて、お亡くなりになる寸前の83歳まで、半世紀はおろか、57年余のながきにわたって、コツコツと、たったおひとりで製作されたということにあります。
もちろん明朝体の最大の特徴は、分業化できることにあります。ですから晃文堂やリョービイマジクスのスタッフの支援・協力はあったにせよ、「本明朝」の根幹部分には、たれにも手も触れさせなかったでしょう?
◎ 吉田:外字の隅隅まで、それはもう厳格でしたね。
写真植字書体開発も後期になると、コンピューターの支援、いわゆるインター・ポーレーションで、シリーズやファミリーを拡張していました。それが「本明朝-L, M, B, E」だけは、インター・ポーレーションを一切もちいず、金属活字時代のオプティカル・スケーリング(個別対応方式)のように、ひとつひとつのウェイトを、コツコツとおひとりでお書きになった。
幸彦さん、お父さん ── 杉本幸治さんというかたは、そういうひとだったんですよ。
◎ 幸彦:そうでしたか……。なにせウチでは、かみなりオヤジの面ばかりみていましたから。
◎ 米田:先生はシャイなひとだったし、家ではなにもおっしゃらなかったでしょうけど、ともかく、凄い! のひとことでした。たれにもできることじゃなかった。 

◎ 吉田:ですから「本明朝-U」には、先生はすこしご機嫌斜めだったな。
◎ 米田:あれは吉田さんのアイデアでしたか?
◎ 吉田:いや、ユーザーのご希望と、リョービとリョービイマジクスの総意ということで……(笑)。
◎ 米田:あのウェイトだと、インター・ポーレーションといってもたいへんだったでしょう?
◎ 片塩:まぁ、いろいろあっても、先生からみると──「本明朝-U」は、吉田俊一が勝手にやったこと。「本明朝-Book」は、片塩がリョービを焚きつけてやったこということで……。なんやかや、ともかくいろいろありましたねぇ(笑)。



毎日新聞社に津上製作所製造のベントン彫刻機第1ロット、2台が導入された折の写真。
1949年。後列左から3人目が小塚昌彦氏。写真は同氏提供。

◎片塩:またベントン彫刻機のはなしにもどりますが、先生は K,T 印刷系の企業は不二越製作所製のベントンが多く、どうにも具合が悪くて難儀した、とこぼされていました。
なにしろおおきな企業とそのグループ各社は、お互いにメンツがあるから、互いに協力することなく、張りあって開発したんでしょうか……。
機械式活字父型・母型彫刻機(ベントン)は、三省堂の今井直一ナオイチ専務(当時、のち社長)が、活字に一家言おありになって、金属活字はすでに明治末期から開発が停滞し、既成書体の電鋳活字母型(電胎活字母型トモ)はすでに疲弊していて、使用に耐えないとされました。
そしてたとえ戦禍を免れたとしても、電鋳法の活字母型は耐久性においてすでに限界であり、また活字母型深度にバラツキがあるため、活字の高低差がもたらす印刷ムラに問題があるとされ、各社に根本的な改刻か、廃棄をうながされたんですね。

今井さんは当時の印刷界では数少ない大学(現・東京藝術大学)出身者で、アメリカにも留学され、最新の技術情報にも詳しく、印刷連合会や印刷学会の重鎮でもありました。そんな今井さんでしたから、第二次世界大戦の壊滅的な被害から、活字と活字版印刷の敏速な復興を、タイポグラファのリーダーとして、一種の使命感をもって願っておられた。
そのために、大正時代の末に米国から輸入して、関東大震災と第二次世界大戦の被害をのがれた、自社の機械式活字母型彫刻機を公開して、それをもとに両社がそれぞれ独自に設計図をおこして、津上製作所と、のちに不二越製作所による国産機が誕生しました。
またベントン彫刻機を導入したほとんどの企業に、ともかく敏速な復興のために、ほぼ実費だけで活字パターンまで提供されました。

この機械式活字母型彫刻機の採寸のときの記録が大日本印刷にのこっていますが、それによると、三省堂側の立会人は入社直後、23歳当時の杉本先生です。
大日本印刷機械部と津上製作所の技術陣が、三省堂に出向いて採寸したわけですが、その際先生は、機械式活字母型彫刻機をばらして分解・採寸することを、頑として許さなかったんですね。
23歳ですよ、まだ先生は。このころから一度口にするとひかなかったようですね。

それでも多数の部材を、大日本印刷機械部と津上製作所の技術者たちは、解体することなく採寸・スケッチして、そこから模倣国産機をつくったわけですから、日本の工業技術力は、敗戦直後とはいえ高かったわけですね。
ところが、大日本印刷、毎日新聞社、三省堂などが、最初から津上製作所に発注していましたから、細谷さんの会社を含めて、あちこちの企業に、いまでも「国産ベントン彫刻機 第一号機」があります。まぁ第1ロットという意味でしょうか。

ところが、それに続いてあらそって導入した各社は、どこでも英文の機械操作説明書だけでは困ってしまった。それだけでなく、活字原字が無い、活字パターンが無い、基本操作がわからない、彫刻刀の刃先の研磨法がわからない、粗仕上げから精密仕上げへの切りかえ段階と、その方法がわからない……、ともかくわからないことだらけだったんですね。
そこで三省堂社員のおふたりが在籍のまま、あちこちの企業に、今井専務の「暗黙の指示と了承・黙認」のもとに、ときとして活字パターンとともに「派遣」されたのが実態だったようです。

◎ 米田:先生は、今年にはいって細谷敏治さんに会われたんですって?

細谷敏治氏  ──  ほそや としはる
1913年(大正2)山形県西村山郡河北町カホク-マチ谷地ヤチうまれ。谷地町小学校、寒河江サガエ中学校をへて、1937年(昭和12)東京高等工芸学校印刷科卒。
戦前の三省堂に入社し、導入直後から機械式活字父型・母型彫刻機の研究に没頭し、敗戦後のわが国の金属活字の復興にはたした功績は語りつくせない。

三省堂退社後に、日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい活字自動鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型製造には必須の技術となった。
実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月01日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年1月20日」を取得している。

この活字父型焼結法による特許・実用新案によった「機械式活字母型製造法」を、欧米での「Punched Matrix」にならって「パンチ母型」と名づけたのは細谷氏の造語である。
したがって欧米での活字製造の伝統技法「Punched Matrix」方式は、わが国では弘道軒活版製造所が明治中期に展開して「打ち込み母型」とした程度で、ほかにはほとんど類例をみない。
また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
(2011年08月15日撮影、細谷氏98歳。左は筆者)。

◎ 幸弘:最後の検査入院の2日前でした。2011年02月06日に、どうしても細谷さんに会いたいからって、私と妹のふたりがかりで車にのせて、多摩の老人施設におられる細谷さんをお訪ねしました。
◎ 吉田:細谷さんはご高齢だけど、ともかくお元気だからなぁ。先生よりだいぶ年長でしょう。
◎ 片塩:1913年(大正2)のおうまれですから、98歳におなりです。先生より15歳ほど年長になられますね。
でも、お病気になってから細谷さんとお会いになったなんて泣けるなぁ。
あのおふたりが、戦後わが国のほとんど全社の活字復興に果たした役割は、筆舌に尽くしがたいけど、対談でも先生は細谷さんにたいして「愛憎こもごも」といった感じではなされていましたから……。特に新聞活字母型の量産体制には、先生は少少ご不満があったようでした。
◎ 幸弘:あのときは、とても嬉しそうにふたりで話しこんでいましたね。オヤジはもっぱら「杉明朝体」の自慢。そのときの写真もここに撮ってありますよ。
◎ 吉田:先生、肌の色つやはまったく変わっていませんね。お元気そうだ。

左)細谷敏治氏98歳。 右)杉本幸治氏83歳。 2011年02月06日。杉本幸弘氏撮影。
細谷敏治氏と、杉本幸弘氏のご了解をいただいてこの写真を公開した(2012/01/06)。

◎ 片塩:これは、わが国の戦後明朝活字を構築された両巨頭の記念すべき写真ですよ、幸弘さん。この写真では先生は酸素マスクをつけてすこし痛痛しいけど、細谷さんのご了解をいただけたら公開してもよろしいですか?
◎ 幸弘:細谷さんのご了承があれば、わたしは結構ですよ。
オヤジはしばらく入院・退院を繰りかえしましたが、結局2011年02月08日に再入院(検査入院)となって、あの大地震の2日後、2011年03月13日(日)午前11時26分「特発性肺線維症」で亡くなりました。

◎ 吉田:最後の入院から6日後にお亡くなりになられた。みんな、また検査入院かとおもって油断していました。
あのときは救急車で入院でしたか?
◎ 幸弘:いえ、グズグズってなったので、私の車で病院まで急いでいきましたが、即刻集中治療室に入って。結構衰弱していましたね。

◎ 片塩:わたしも先生の「検査入院だから……」、に安心というか、無警戒でしたね。
この入院前か、入院中かに、先生からどこか妙なお電話をいただきました。お加減はいかがですか? と聞いて、お見舞いにいくと伝えたら、
「格好悪いとこを見られたくないから、来なくていい」
そしてこぼすんです。
「米田クンが来てくれないから、プリンターが動かない」
そこで、
「米田さんへの、杉明朝改刻への免許皆伝の件はどうなっていますか」
と伺うと、
「もう米田クンは免許皆伝だよ」
とおっしゃるんですね。そして、
「片塩さんが前から欲しがっていた雲形定規を差しあげる」
というんですね。なにかいつもと違って、おはなしが妙でしたから、
「先生、そんなことをおっしゃらず、はやくお元気になってください」
とお伝えするだけで精一杯でした。

◎ 幸弘:去年の夏、「杉明朝体」がおむね終わって、体調の良いときに川崎まででかけて、MAC-PROと、書体製作ソフトやアドビのCS-4を購入しました。それは去年の春(2010 年04月)の入院のときに、ベッドの横でノート・パソコンで書体がつくれたらいいな……、といっていたんです。
ところが退院したところ、それまでの i Mac が故障して駄目になったんですね。
ですから08月15 日に買って、18日に届いたんですけど、2階に置いたので階段がきつくて……。
そしてすぐ、また08月20日に再入院になりましたから、結局2回くらいしかあたらしいマックは使っていなかったようです。
◎ 米田:ケーブルだって、ふるいスカジー・タイプだったし、切り替えはたいへんでした。
◎ 片塩:今度のマックは、「下からフニャーって画像が沸いてきて、なんか気持ち悪いんだよなぁ」なんておっしゃっていましたね。

◎ 吉田:先生はことしになってから、「杉明朝体・ボールド」をつくるって急にいいだしたし、最後まで新書体の製作にこだわっていたね。
◎ 米田:あれはですね、先生は「杉明朝体」は 6 pt.-9 pt.くらいの小さなサイズでの使用を見込んでいたんです。ところが、朗文堂さんからの組版資料として、どんどん小さいのから大きなサイズまでの組版サンプルが届くから、
「大きなサイズ、太い杉明朝体もいいなぁ」
となって、
「それなら先生、杉明朝体 ボールドを書いてください。わたしが中間ウェイトを製作しますから……」
こんないきさつがあって、先生は意欲を燃やされたんですね。

◎ 吉田:それで米田さんへの免許皆伝というはなしだったのか。
「杉明朝体」は最初の企画では「超極細硬筆風明朝体」だったんでしょう。
◎ 片塩:いや、先生の命名は「超極細硬筆風明朝体 八千代」でした。それをわたしが、
「八千代なんて、どこかの芸者みたいですな」
とやっちゃって……(笑)。
口にしてから、しまったとおもったけどもう遅い。またきついお叱りで。
それと、わたしは最後まで「杉明朝体」は R 社さんから発売していただきたいとおもっていました。小社はその任にあらずと。それでも先様にもいろいろご都合があって……。

『杉明朝体』 フライヤー(朗文堂 2009年9月)

杉明朝OTFフライヤー 詳細画像

◎ 幸弘:細谷さんとの面会でも、この写真のように「杉明朝体」のカタログをふたりでみながら、熱心に書体談義をしていましたよ。
◎ 片塩:それは嬉しいことですけどね。でもですよ、わたしは先生がのこされた「杉明朝体」とともに、いまでも「本明朝-L, M, B, E」は、戦後活字史の名作中の名作だとおもっていますから。
◎ 吉田:これでいいんじゃないですか。先生も得心されておられたしね……。
ところで、03月11日、東日本大震災の日に、米田さんは病院にお見舞いにいっていたんですね。亡くなる2日前だけど。

◎ 米田:03月11日は金曜日でしたが、電車で武蔵小杉の病院にお見舞いに出かけました。
先生はときどき酸素マスクをはずしてお元気で、そろそろ帰ろうかなというときに、まずドカンときて、つづいてユッサユッサときました。医者も看護師もバタバタと避難するし、ほかの患者さんもそうとう動揺されていましたね。
それで携帯電話は通じないし、夕方になって失礼しましたが、バスがこない。そこで駅まで歩いたら、電車はまったく動いていない。結局武蔵小杉から千葉県白石市の自宅まで、20時間ほどかけて徒歩でかえりました。
◎ 一同:それはたいへんだぁ! 米田さんは真面目だからなぁ。……その辺の漫画喫茶とか、カプセル・ホテルとかにもぐりこもうと考えなかったんですか?
◎ 米田:いや、もうどこもいっぱいでしたよ。半分ムキになって歩きました。
◎ 一同:杉本先生のはなしはつきないね。ここでは先生に献杯もできないから、このへんでちょっと席を変えましょうか……(合掌)。