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聚珍倣宋版と倣宋体-04 宋朝体活字の源流:四川宋朝体龍爪 と 龍爪槐をめぐって

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DSCN7902 DSCN7891 DSCN7899 DSCN7898《 北京清華大学にて 龍爪槐 と であった 》
2015年01月11日[日]の午後に、中国北京の清華大学にいった。
キャンパス巡りの中途で、奇妙な枝ぶりの樹木をみつけた。 同大 美術学院 副教授/原 博先生、書きしるしていわく、
「 その樹は、龍の爪のエンジュで、中国ではこう書きます 」。

―― < 龍爪槐 > !

ここから、頭がいっぱいになって、ただでさえおそい歩みが、凍りついたようにこわばり、すべてが疲労となっておそってきた。
ふるく、中国周王朝 ( 前1100ころ-前256 ) の時代、三公の位をあらわす高貴な樹木とされたのが < 槐  カイ ・ えんじゅ> である。
その槐の一種の < 龍爪槐 > は、冬枯れのころに剪定され、まさに龍の爪のような奇観を呈する。
【 関連URL : アダナ ・ プレス倶楽部ニュース / [会員情報] 中国清華大学 美術学院/原 博先生 陳 輝先生とお会いしました 】

「 木をみて、森をみず 」 なる格言がある。 やつがれのばあい、まことにもって恥ずかしながら、「 木をみて、木をみず 」 であった。
これまでの訪中で、西安 ・ 洛陽 ・ 南京 ・ 鄭州などで、間違いなく < 槐 > をみては
いた。
それよりなにより、北京の紫禁城 ( 現故宮博物院 ) のあちこちに < 龍爪槐 > が植えられており、紫禁城の北、景山公園は < 龍爪槐 > の名所だとされていることをつい最近知った。
すなわちやつがれは、あちこちで < 龍爪槐 > の垂れさがった枝ぶりや、蝶のように可憐な花を、間違いなく目にはしていたが、みてはいなかったということになる。

natu 龍爪槐 中国百度百科/枝のたれた夏の龍爪槐 葉の生いしげった龍爪槐 龍爪槐の花シンシンと冷えこむ北京の冬の夕刻に<龍爪槐>を知ったため、葉の生いしげる姿や、蝶のように可憐な花も撮影していなかった。 そのため上掲三点の写真は 中国版百度百科 からのものであることをお断りしたい。 【 百度百科 : 龍爪槐ウェブ  龍爪槐画像集

またわが国の代々木公園にも龍爪槐があり、あちこちで栽培もされているようである。
代々木公園のものは、1984年(昭和59)、東京都と北京市との友好都市05周年を記念して、北京市から寄贈されたものだという。 わが国では、枝が湾曲して垂れさがるようすから、「 しだれえんじゅ 」 とも呼ばれている 【 花紀行・花おりおり 】。

また、わが国ではほどんど研究の手がおよんでいないが、近代印刷史研究に欠くべからざる重要な場所が、 中国浙江省寧波の < 槐路 > にあり、その通りをめざして車を走らせたこともあった。
それなのに、この < 龍爪槐 > なる樹木のなまえを知らず、また冬枯れの寒風のもと、剪定されたこの怪奇な樹木の姿を(みて)みなかったばかりに、無知をさらした。  無残なものであり、ここに不明をお詫びしたい。

【 関連情報 : はじめての京劇鑑賞*そのⅢ-A 老北京 中国印刷博物館と紫金城を展望する 2014年02月24日

DSCN7870 DSCN7880北京清華大学のあちこちに植栽されていた<龍爪槐>。 花をつけ、実もおちてから、このような枝ぶりに剪定されている。  こうするとかえって翌春の枝ぶりがよくなるという。 DSCN7897 DSCN7895《 槐 えんじゅ/カイ を知るために 》
えんじゅ 【 槐 】 ヱンジュ ―― 広辞苑
( ヱニスの転 ) マメ科の落葉高木。 中国原産。 幹の高さ約10-15メートル。 樹皮は淡黒褐色で割れ目がある。 夏に黄白色の蝶型の花をつけ、のち連珠状の莢サヤを生じる。 街路樹に植え、材は建築 ・ 器具用。 花の黄色色素はルチンで高血圧の薬。 また乾燥して止血薬とし、果実は痔薬。 黄藤。 槐樹。 季語は夏。

【 槐 】 ―― 漢字源
① 省略 ( 広辞苑とほぼおなじ )
② { 名 } 三公。 また三公の位。 周代に朝廷の庭に三本の槐エンジュを植え、三公がそれに向かってすわったという故事にもとづく。
<熟語>
【 槐安夢 】 カイアンノユメ   唐の李公佐の小説 『 南柯記 』 にある。酔夢のひとつ。
【 槐位 】 カイイ 三公の位。 『 槐座 カイザ ・ 槐鉉 カイゲン ・ 槐鼎 カイテイ 』。 朝廷の庭に三本の槐エンジュを植え、三公がそれに向かってすわったという故事や、鼎カナエの三本足や、鉉ゲン(鼎の耳の金具)を三公にたとえたことから。
【 槐棘 】カイキョク  槐の木とイバラの木。 三公九卿をさす。
【 槐市 】 カイシ   漢代の長安の東方にあった市場の名。 槐を植え各地の産物 ・ 書籍 ・ 楽器を売買し、学問も論じたので、のち、大学の別名となった。
【 槐宸 】 カイシン  天子の宮殿
【 槐門 】 カイモン  三公 ・ 大臣の家柄

《 四川宋朝体 龍爪 と名づけられた 顔 真卿書風とは 》
いつも混乱がみられるので、まず<顔氏世系表>から世代を追って顔氏一族を紹介しよう。

【 顔 之推 がん しすい 】
531年-?  南北朝時代の学者。 山東省臨沂リンギのひと。 あざなは介。 南朝の梁、北朝の北斉・北周につかえ、さらに隋につかえた。 著書に 『 顔氏家訓 』 がある。
『 顔氏家訓 』 は七巻からなり、隋の601-04ころ成立した。 著者みずからの体験を基礎とした処世訓の書。 乱世を生き抜いてきた著者の経験 ・ 見解が広汎かつ具体的に述べられているので、当時の貴族の生活 ・ 社会の状況をうかがう貴重な史料とされる。

【顔 師古 がん しこ】
581-645年。 中国唐代の学者。 万年(陝西省西安市)のひと。 顔之推の孫で、唐二代皇帝太宗 ・ 李世民の近臣。 訓詁の学にすぐれ、『 漢書 』 の注釈を書いた。
太宗皇帝 [ 唐朝第二代皇帝、李 世明、在位626-649 ] 自身も能書家であり、儒教の国定教科書として 『 五経正義  ゴキョウ-セイギ』 を近臣に編集させた。 そこで使用する書体として、編集協力者の顔 師古による正体(正書・楷書)、すなわち 「 顔氏字様 」 をもちいた。

【 顔 元孫 がん げんそん 】
?-714年。万年 ( 陝西省西安市 ) のひと。 あざなは聿修。 進士となり唐の高宗から玄宗の時代に活躍した。 顔杲卿の父親。 祖父・顔師古の「 顔氏字様 」 を整理して、、『 干禄字書 カンロク-ジショ 』 にもちいた。 この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。

【 顔 杲卿 がん こうけい 】
602-756年。 唐代玄宗につかえた忠臣。 山東省臨沂リンギのひと。  常山の太守であったので、顔 常山ともされる。 唐の玄宗の末年(755-63)におこった安禄山父子、史思明父子の叛乱 「 安史の乱 」 で捕らえられ、安禄山をののしって殺された。 子の泉名と季明も殺された。
この従兄弟父子の死、とりわけ姪の李明の死を悼んで顔 真卿によって行草書で書かれた、追悼文の草稿ともいえる、稿本 『 祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ 』 は、自筆本が台湾 ・ 故宮博物院に現存する。

【 顔 真卿 がん しんけい 】
709年-85。 唐代玄宗の忠臣。 万年 ( 陝西省西安市 ) のひと。 あざなは清臣、諡は文忠、顔魯公とも呼ばれる。 「 安史の乱 」 に際し、平原太守として武功があった。 徳宗のとき叛乱をおこした李 希烈の説得にあたったが殺された。 書芸の評価はきわめてたかい。
四川宋朝体顔 真卿 (ガン-シンケイ  709-85) の生誕から1300年余が経過した。
この顔 真卿生誕1300年祭を契機として、顔 真卿の業績の再評価がなされ、いまなお中国各地では顔 真卿がおおきな話題となり、顔 真卿関連の書芸展が盛んに開催され、関連図書の刊行もさかんである。

顔 真卿生誕1300年(2009年イベント開始)を期し、早朝から賑わう西安碑林博物館

2011年09月、中国陝西省西安をおとずれた。
顔 真卿関連の石碑が集中する 「 西安碑林博物館 」 の 第3-4室 は、日中は中国人をはじめ、各国からの団体客が押しよせ、あまりの混雑で、ほとんど碑面の閲覧もできないほどの状態だった。
たまたまホテルが至近の場所にあったのを幸い、翌早朝に再度参観に訪れた。
このときもまだ、ご覧のように顔真卿生誕1300年記念の赤い垂れ幕が掲出されていた。
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robundo type cosmique には、この顔真卿書風に淵源をみる、四川刊本書体  『 四川宋朝体 龍爪 Combination 3 』 がある。
わが国では、顔真卿生誕1300年祭のことは、書法界の一部で話題になったものの、ひろくはあまり関心がもたれなかったようである。
そこであらためて、唐王朝中期の、忠義の志をもった政府高官にして、文武のひとでもあった顔真卿を紹介し、あわせてデジタル ・ タイプ 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 を紹介するとともに、この書体をもちいた名刺製作の実例をご紹介したい。

伝 顔 真卿の肖像画 中国版Websiteより 

《 顔 真卿書風を継承する、四川刊本と、四川宋朝体字様のふるさと 》
中国の西南部 ・ 四川省は、ふるくは蜀ショクとよばれていた。
蜀は唐王朝末期の板目木版による複製法、刊本印刷術の発祥地のひとつで、その刊本字様 ( 書風 ) は顔 真卿書法の系譜をひくものとされている。

また四川刊本は 「 蜀大字本 」 とも呼ばれ、
「 字大如銭、墨黒似漆 ―― 字は古銭のように大きく、字の墨の色は黒漆のように濃い 」
として高い評価がされている。
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強勢王朝として威をほこった唐王朝(20代、618-907)ののち、五代十国の混乱期をへて建朝された、宋 ( 北宋、960-1127 ) の時代にも、唐王朝官刊本の伝統的な体裁を四川刊本は継承していた。
また女真族の金国との争乱に敗れ、都を開封 ( 中国河南省の都市。黄河の南方平野に現存。 Kaifeng,  東京 ・ 汴ベン京とも ) から、臨安 ( 現浙江省  杭州 Hangzhou ) に移して建朝された南宋 ( 1129-1279 ) での刊刻事業の継続と、覆刻 ( かぶせぼり ) のための原本の供給に、四川刊本は大きな貢献をはたした。

ところが、こうした四川刊本も、相次いだ戦乱と、くり返しおこなわれた<文字獄>などの文書弾圧のなかに没して 、『 周礼 シュライ 』 『 新刊唐昌黎先生論語筆十巻 』 『 蘇文忠公奏議 』 など、きわめて少数の書物しかのこっていない。
そのような四川刊本の代表作が、わが国に現存する 『 周礼 』 ( 静嘉堂文庫所蔵 ) である。 

『周礼 シュライ』(巻第9より巻首部、静嘉堂文庫所蔵、重要文化財)

『 周礼 シュライ 』 は 『 儀礼 ギライ 』 『 礼記 ライキ 』 とともに中国の 「 三礼 サンライ 」 のひとつで、周代 ( 中国古代王朝のひとつ。 姓は姫。 37代。 前1100ころ-前256 ) の官制をしるした書。
『 周礼 』 は周 公旦 ( シュウコウ-タン、兄の武王をたすけて 商(殷)の 紂王 チュウオウ を滅ぼした。
周の武王の没後、甥の成王、その子康王を補佐して文武の業績を修めた。 周代の礼樂制度の多くはその手になるとされる ) の作と伝えるが、 『 周礼 』 の著者とその成立年度には議論もある。

『 周礼 』 は秦の焚書で滅したとされたが、漢の武帝のとき李氏が 「 周官 」 を得て、河間の献王に献上し、さらに朝廷に奉じられたものが伝承される。

本来 『 周礼 』 は 「 天官 ・ 地官 ・ 春官 ・ 夏官 ・ 秋官 ・ 冬官 」の六編からなるが、「 冬官一編 」 を欠いていたので 「 考工記 」 をもって 「 冬官 」 にかえている。
静嘉堂文庫所蔵書は 巻第九、巻第十だけの残巻ではあるが、南宋 ・ 孝宗 (127-200) のころの 「 蜀大字本 」 とされ、同種の本はほかには知られていない。
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《 顔氏書風にみる、龍爪と蚕頭燕尾 》
 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 は、林 昆範 ・ 今田欣一 ・ 片塩二朗の三名で構成された、ちいさな研究会 「 グループ 昴 スバル 」 の研鑽のなかで、主要なテーマとなったもので、『 周礼 』 を、なんども調査し、臨書し、試作をかさねるなかから誕生したデジタル ・ タイプである。

『 周礼 シュライ 』 の力強い字様には、横画の収筆や曲折に 「 龍爪  リュウソウ 」 とされる、鋭角な龍の爪ツメにも似た特徴が強調されている。 これは起筆にもあてはまり、またどっしりとした収筆も印象的である。
縦画の起筆にみられる 蚕頭 サントウの筆法は 『 周礼 』 においてはさらに強靱になり、龍爪に相対している。

このような顔真卿に特徴的な書法は 「 蚕頭燕尾 サントウ-エンビ── 起筆が丸く蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つに分かれているところからそう呼ばれている 」 とされ、また 「 顔法 」 とも呼ばれて、唐代初期の様式化された楷書に、あたらしい地平を開いた。

この顔真卿の書風が四川刊本字様の手本となり、おおらかで力強く、独自性のある刊本字様へと変化したといえよう。 これはまた、工芸の文字としての整理がすすんだことをあらわし、唐代中期の顔真卿の筆法の特徴を十二分に引き継いでいるともいえる。

 『 四川 シセン 宋朝体 龍爪 リュウソウ  Combination 3 』 は、このような顔真卿書風と、四川刊本字様を継承した、あたらしいデジタル ・ タイプとして誕生した。
このように顔氏一族に伝承されてきた 「 顔氏字様 」 と、顔家伝来のその書風をさらにたかめた顔真卿の書風を、『 中国の古典書物 』 ( 林昆範、朗文堂、2002年03月25日 p.97 ) では以下のように紹介している。

唐の時代には写本とともに、書法芸術が盛んになって、楷書の形態も定着した。 その主要な原因のひとつとしては、太宗皇帝 [ 唐朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649 ] 自身が能書家であり、儒教の国定教科書として『五経正義 ゴキョウ-セイギ』を編集させたことにある。 そこで使用する書体を、編集協力者の顔師古ガン-シコによる正体(正書・楷書)、すなわち 「 顔氏字様 」 をもちいたことが挙げられる。

「 顔氏字様 」 はのちに 顔 師古の子孫、顔 元孫 ガン-ゲンソンが整理して 『 干禄字書 カンロク-ジショ 』 にもちいられた。 この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。
このように顔家一族から顔 真卿に伝承された 「 顔氏字様 」 は、あたかも唐王朝における国定書体といってもよい存在で、初期の刊本書体として活躍していた。 


『 多宝塔碑 』 ( 原碑は西安 碑林博物館蔵 )

拓本は東京国立博物館所蔵のもので、北宋時代の精度のたかい拓本とされている。 現在は繰りかえされた採拓による劣化と、風化がすすみ、ここまでの鮮明さで碑面をみることはできない。

顔真卿の楷書のほとんどは石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、 「 一碑一面貌 」 とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔真卿の楷書による石碑の特徴である。
『 多宝塔碑 』 は、長安の千福寺に 僧 ・ 楚金ソキン(698―759)が舎利塔を建てた経緯を勅命によってしるしたもので、もともと千福寺に建てられ、明代に西安の府学に移され、現在は西安 碑林博物館で展示されている。顔真卿44歳の書作で、後世の楷書碑の書風より穏やかな表情をみせている。 

行草書で書かれた草稿ともいえる、稿本 『 祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ 』 などの書巻は、自筆本が台湾 ・ 故宮博物院に伝承するが、顔真卿の自筆楷書作品とされるのは、わが国の書道博物館が所蔵する、晩年(780年、建中元年)の書作 『 自書告身帖  ジショ-コクシン-ジョウ 』 だけである。

《 四川宋朝体 龍爪 をもちいて名刺を製作する 》
デジタル ・ タイプ  『 四川宋朝体 龍爪 Combination 3 』 には、和字 ( ひら仮名 ・ カタ仮名 ) として  「 もとい、さきがけ、かもめ 」 の 3 種の和字がセットされている。
原字製作者は 欣喜堂 ・ 今田欣一氏によるもので、今田氏自身がWebsite内の 「 龍爪 」 において、詳細に設計意図、背景などをしるしているので、あわせてご覧いただきたい。 

この 『 四川 宋朝体 龍爪 Combination 3 』 は、おおきく使うと、まさに 「 龍爪 」 と名づけられたように、天空たかくかけめぐる飛龍のように、勇壮な、勢いのある書体として立ちあらわれてくる。
また、板目木版による刊本字様(書体)として、ながらく書物にもちいられてきた字様のため、12pt.-18pt. といったすこし大きめな本文用書体としても、十分な汎用性をもった書体である。

このくらいのサイズだと、もはや 「 飛龍、龍の爪 」 というより、かわいらしい 「 辰の落とし子 」 のような、素直な刊本字様としての姿が立ちあらわれてくるのも面白い書体である。 それだけにつかいやすく、個人的な意見で恐縮ながら、とても好きな書体でもある。

そんなためもあって、 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 の発売以来、この書体をもちいて名刺を印刷している。本心ではせめて 「 株式会社朗文堂、片塩二朗 」 だけでも、原字製作者の了承をいただいて、金属活字をつくってみたいところであるが、なかなか意のままにならないでいる。
そこで下記のようなデジタルデータを作成して、軽便なインク ・ ジェット・プリンターで 「 出力 」 していたが、どうしても滲みがひどく、また紙詰まりがしばしば発生するので、困惑していた。

朗文堂には活版印刷事業部 「アダナ ・ プレス倶楽部 」 があり、「 Adana-21J,  Salama-21A 」 という活版印刷機の設計 ・ 製造 ・ 販売もおこなっているので、それを活用しないことはありえない。
たまたまコピー機が複合機にかわり、あわせてファクシミリ番号がかわったので、下記のデジタルデータをもとに樹脂凸版を作成して、「Adana-21J」による「 カッパン印刷 ≒  レター ・ プレス 」 を実施した。


印刷にあたったのは、粘り強く金属活字鋳造法を学んでいる日吉洋人さん。残念ですが小生が印刷すると、太明朝をもちいたために、字画が混みあっている  「 新宿私塾 」 の 「 塾 」 の字と、@メールアドレスの 「 @ 」 がインキ詰まりを起こして調整に難航する。

樹脂凸版による 「 カッパン印刷 」 とはいえ、なかなかデリケートなところもある。 ところが、さすがに日吉洋人さんはそんな障壁は軽軽とこなして、アッというまに 500 枚の名刺を刷りあげていた。

「 たかが名刺、されど名刺である 」。 とりあえずは軽便なコンピューター ・ プリンターで我慢できても、次第になにか物足りなくなる。 今回は樹脂凸版による 「 カッパン印刷 」 で製作した。
しかしながら、やはり金属活字による「活字版印刷」には、いまだに小生が言語化できないままでいる 「 Something Good 」 がある。 もちろん 「 Enything Bad 」 もあるのだが……。
ですから、いつの日か 「 株式会社朗文堂、片塩二朗 」 だけでも金属活字をつくってみたい、そして胸をはってお渡しできる名刺をつくりたいというのが、目下の小生の見果てぬ夢であろうか。   

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-04 再度中国印刷博物館資料に立ちもどる。

《 2011年09月 北京爽秋のもと、ノー学部がはじめての北京訪問 》
09月下旬-10月中旬ころの北京の気候を、「北京爽秋」という。
喉がひりつくような猛暑がさり、寒風が吹きすさぶながい冬までのあいだ、わずかに、みじかい、北京の爽やかな秋のことである。

杭州 ・ 紹興 ・ 寧波 (ねいは ・ ニンボウ) など、江南の浙江省と、黄河上流から中流域の、西安 ・ 洛陽 ・ 鄭州 ( ていしゅう ・ Zhengzhou、黄河中流南岸。古代王朝商〈殷〉の前半期のみやことされる) ・ 安陽 (甲骨文出土地、文字博物館がある。 古代王朝商〈殷〉後半期のみやこ) など、陝西省と河南省あたりを訪問していたノー学部が、ようやく2011年09月下旬に首都 : 北京を訪問した。

折りしも 「 北京爽秋 」 とされるとき。 大空がはろばろと澄みわたり、涼風がここちよい、もっとも麗しい北京がみれる佳いときであった。
北京爽秋 北海公園DSCN2711DSCN2719DSCN2713DSCN2806 DSCN2805北京印刷学院と併設の印刷博物館。 下部は紙型 ( ステレオタイプ ) 型どり製造装置

《 観光名所をひとめぐり。 そして北京印刷学院と併設の印刷博物館を訪問 》
北京がはじめてというノー学部のために、とりあえず、景山公園、故宮博物院(旧紫金城)、北海公園、明の十三陵、万里の長城などの観光名所をひととおりまわった。
やつがれは北京訪問は 7-8 度目になるが、以前のような観光ガイドつきの旅とちがって、それなりの新鮮さがあった。
それでもそんな観光写真をここにご紹介しても退屈であろう。

このとき、北京訪問を決意したきっかけのひとつは、「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 への訪問だった。
この施設は1970年代に、写真植字機の開発とその輸出 ・ 移入などで、わが国の関連業界とも接触がみられたが、その後、なぜか情報がほとんど途絶えていた。 その理由を知りたかったし、施設もみたかった。

結果だけをいえば、2011年09月に訪問した 「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 での収穫はすくなかった。
博物館の規模は宏大で、展示品もとてもすばらしかったが、地下の印刷機器の陳列場をのぞいて撮影禁止であり、図録などは 「 未製作 」 ということで入手できなかった。

また交換プレゼントに小社の図書を相当数用意して、現役の教育者との面会をもとめたが、それも2011年09月の最初の訪問のときは実現しなかった。
【 リンク : 花筏 新 ・ 文字百景*04 】

さらになさけなかったのは、上掲写真のうち、地下展示場の 「 紙型製作機 」 にもちいる巨大なブラシ ( 手づくり ) の未使用品を小社が保有しており、4-5年にわたって壁にぶら下げていた。
もちろん販売だけを目的としたものではなかったが、残念ながらタイポグラファを自称する皆さんでも、ほとんどこれに関心をしめさなかった。 それも当然で、名前を知らず、用途も知らないのだから、簡単な説明だけではただのおおきなブラシとおもわれても仕方なかった。

 ところがこのブラシをみて、奪いさるように強奪 !?  していったのは、パリにアトリエをもつ版画家の某氏であった。
このかたは版画家ではあるが、個人で 「 スタンホープ型手引き活版印刷機 」 を所有されている……、つまりタイポグラファである。 当然このブラシの用途もご存知だった。 その上で、現在の作業環境にあわせての利用を目的とされた。

誤解をおそれずにしるせば、わが国のタイポグラファの多くは、単なる 「 活字キッズ 」 がほとんどで、実技と実践がなく、またシステムとしての印刷と技芸という、本来のタイポグラフィへの関心が乏しいのは物足りないものがある。
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それでもあきらめずにいると運は拓けるもので、下掲写真は翌翌年の2013年11月、友人の紹介をえて、中国印刷博物館に、副館長/張 連章 ( Zhang Lian Zhang ) 老師を訪問したときのものである。
ノー学部にとっては二度目の北京訪問となった。 このとき北京ではすでに「北京爽秋」とはいえず、
11月初旬でも朝夕などはコートが欲しくなるほど冷え込んでいた。
中国印刷博物館正面ロビー中央の銅像は、中国のタイポグラファが 「 活字版印刷術発明者 」 として、きわめておもくみる 「 畢昇 ヒッショウ 像 」 (990-1052) で、下掲写真はその銘板である。
畢昇像畢昇銘板〔 畢昇の発明による活字版 —— 意訳紹介 〕
畢昇像 —— 畢昇(ヒッショウ 990-1052)は 北宋 淮南ワイナン ( 現在の湖北省黄岡市英山県 ) のひと。
ながらく浙江省杭州にあって木版印刷に従事した。 宋王朝仁宗 (趙 禎) の 慶歴5年 (1044)、膠泥コウデイ製の活字による組版をなして、活字版印刷にあたらしい紀元をもたらした。 畢昇は印刷史上 偉大なる発明家である。

〔 筆者補遺 〕
中国印刷博物館では、畢昇の功績はきわめてたかく、500年ほど遅れて、活字版印刷術を大成したグーテンベルクよりも、畢昇のほうを < 発明者 > として数等たかく評価していた。
したがって畢昇に関する研究も相当すすんでいて、館内には大きなスペースをもちいて、畢昇の膠泥活字の製造作業を、ていねいなジオラマ ( 復元模型 ) によって展示 ・ 解説していた。

1990年 ( 平成 2 ) 畢昇の墓誌が発見され、没年が1052年であることがあきらかになったが、生年は970年説、990年説などと異同があ る。
わが国では活字創始者/畢昇のことは、ほとんどおなじ時代の北宋のひと、沈 括 (シン-カツ 1030-94) の 『 夢渓筆談 』 のわずかな記述を出典とするが、そろそろ新資料にまなぶときかもしれない。

ここでいう 「 泥 」 は、わが国の土の軟らかいものとはすこし異なる。 現代中国では 「 水泥 」 としるすとコンクリートになる。 したがって 膠泥 コウデイ とは 膠 ニカワ が溶解してドロドロしたものと理解したい。
この膠泥は、なににもちいるのかは知らないが、現代中国でも容易に入手できるので、一部の好事家は 「 膠泥活字 」 の再現をこころみることがある。
【 リンク : 中国版百度百科 畢昇膠泥活字 図版集 】
【 リンク : 中国版百度百科 畢昇(活字版印刷術発明者) 】

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《美華書館と、後継企業としての華美書館 ・ 商務印書館の消長》
このときは印刷博物館副館長 ( 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 。 印刷博物館館長は共産党幹部であり、張氏が実質的な責任者 ) との同道だったので、館内の撮影もゆるされた。
ところが300枚を優にこえる膨大な数量の写真となった。 しかも広い館内を駆けまわってのシロウト撮影だったから、整理にもう少し時間をいただきたい。

中国では1937-1945年までの日中間の微妙な紛争を 「 抗日戦争 」 と呼ぶ。
わが国ではその前半部分を 「 北支事変 」、「 上海事変 」 などとし、後半部分を 「 大東亜戦争 」 することが多い 【 ウィキペディア : 日中戦争 】。

併設の 「 北京印刷学院 」 は、こうした 「 抗日戦争 」 を主要研究テーマのひとつとした 「 愛国教育 」 の拠点校である。 つまり直近の戦争として 「 抗日戦争 」 を取りあげることが多く、どうしても 「 北京印刷学院 」 は、 「 反日的 」 なかたむきがみられることになりがちである。
それを受けて 「 中国印刷博物館 」 では、中国各地の印刷所と図書館を標的とした、旧日本軍による砲撃のなまなましい惨禍を、文書 ( 印刷物 ) や写真として記録 ・ 所有 ・ 展示していた。 これらの資料の閲覧は、かなりつらいものがあった。

その一例として —— 温厚な張 連章氏が、このときばかりは表情もけわしく、詳細に説き、みせてくれた資料がある。
それは 「 上海商務印書館と 付属図書館 」 にたいして、旧日本軍が至近距離から照準をあわせ、砲弾をあびせて、印刷機器、活字鋳造設備、活字在庫などを焼失させた数枚の写真であり、それを掲載した新聞であった。
また付属図書館では、稀覯書をふくむ、蔵書数十万冊が焼失したという詳細な記録資料だった。

わが国では、英米系の宗教印刷所 「 美華書館  The American Presbyterian Mission Press 」 が喧伝されるわりに、この 「 商務印書館と 付属図書館 」 と、これと双璧をなす 「 中華書局 」 に関しては知るところがすくない。
既述したように、上海の 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 の施設の大半は、わが国の砲撃によって焼失したが、北京の施設が健在で ( いずれ紹介したい )、それを基盤として発展し、両社ともに現在もなお、中国最大級の印刷会社であり、出版社でもある。

1915年(大正04年)美華書館は中国系資本の 「 華美書館 」 と合併した。 この 「 華美書館 」 は1928年(昭和03)に清算された。
それに際して、美華書館に発し、華美書館に継承された設備は、すべて商務印書館に譲り渡された。 また
人員の多くもここに移動したという歴史を有する企業である。

すなわち……、まことにつらいことではあるが、わが国は、「 明朝体活字のふるさと 美華書館 」 の上海での後継企業を、砲撃目標を眼前に置き、至近弾をもって砲撃して、ほとんど壊滅に追いこんでいたのである。
それを言い逃れのゆるされない、大量の資料を眼前にして知ったとき、1990年ころ、上海での印刷人の取材に際して、かれらが一様に示した、つよい反発の因ってきたるところを熟慮しなかったおのれが恥ずかしかった。
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その際 「 宣戦布告無き、激しい戦闘 」 が上海で二度にわたって展開した。
そのためにこの戦闘は 「 上海事変 」 とされるが、実態は、砲爆撃をともなった、まぎれもない中華民国軍と日本軍との戦闘であった。

「 第一次上海事変 」 (1932年 昭和07年 1-3 月 )【 ウィキペディア : 第一次上海事変 】、「 第二次上海事変 」 (1937年 昭和12年8月13日-)【 ウィキペディア : 第二次上海事変 】、この二度にわたって、中華民国軍と日本軍は上海を舞台にはげしく衝突した。

そのときの 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 への砲撃による 痛痛しい焼損印刷機器が 「 北京印刷博物館 」 に展示されていた。
また砲撃で焼失した図書館の蔵書のなかには、宋版 ・ 元版などの稀覯書はもとより、孤本( 唯一図書 ) も多かったとする写真と文書記録がのこされていた。 言いのがれのできない蛮行であり、文化的損失であった。

かつて、「 失われし、ふるき、よき印刷所-明朝体活字のふるさと 」 として、「 美華書館 」 を称揚し、その現地探訪記として 『 逍遙 本明朝物語 』 ( 1994年03月16日 ) までしるした責任がやつがれにはある。

ふりかえれば取材をかさねていた1980-90年のころ、当時は 「 失われた歴史のロマン 」 として 「 美華書館 」 をとらえ、まことに呑気なことに、「 破壊してしまった 」 その跡地をたずね、さらにノー天気なことに、資料のすくないことを慨嘆していた自分が恥ずかしくもあり、その消長への問題意識にかけていたことをおおいに反省せざるを得ないいまなのである。

写真とはこわいもので、「 中国印刷博物館 」 二度目の訪問でのやつがれの表情は硬い。
【 ウィキペディア : 美華書館】。 【 ウィキペディア : 美華書館画像集 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館図像集 】

しかしながら、上海事変による美華書館の後継企業たる、「 商務印書館 」 へのはげしい砲撃のことは、やつがれはこのときはじめて知った。 もちろん看過はできないが、いまのところやつがれの手にあまることがらである。
さりながら、小論での提示とはいいながら、その後 「 美華書館 」 をめぐって、広範な影響をあたえ、さまざまな歴史発掘にいたった小論 『 逍遙 本明朝物語 』 のときと同様に、これから 「 商務印書館 」、「 中華書局 」 などを紹介し、こころざしある有識者とともに、タイポグラフィの進化と深化にむけた努力をなすことが、「美華書館」へのあまりに過剰な称揚の先がけをなしたひとりとして、やつがれがわずかながらも責任をとることのひとつとしたいとおもうこの頃である。
2013 11再訪時 畢昇像 印刷博物館再訪写真右より  邢 立 氏 Xing Li 、 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 、やつがれ、ノー学部

《中国 印刷博物館に展示されている、中国における活字原型製造法の概略史》


< 展示パネル 「 銅模 (字模)」 釈 読 >   翻訳協力 : 郝 丽敏

「 銅模 (字模)」 ―― 活字母型
1895年 〔 清朝光緒20年、明治28年 〕、かつて美華書館のアメリカン人 ウィリアム ・ ガンブル〔ギャンブルトモ。 ガンブルの中国音表記 : 姜別利  *01 〕と会合をかさねていた、中国人の印刷技術者が、電鋳法による活字母型を製作し、活字版印刷術の応用をおおいに推進した。

1906年、上海出身の周 松猷は電鋳法による活字母型専門製作所である「菘蘊字所」を開設した。
その後、申報館、世界書局、呉順記、商務印書館、中華書局、芸文印刷局、漢文正楷印書局、北京文嵐籍などの印刷所 ・ 出版社 ・ 活字鋳造所では、書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、高 去塍、陳 履坦、英 子敬らによって設計された、楷書体や倣宋体〔わが国の宋朝体〕を開発し、その後の定型化された活字書体となった。

1940-50年代になると、活字母型製造業者が一定の規模になっていき、また一定量の機械式活字母型彫刻機を導入して活字母型の生産をおこなった。
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〔筆者補遺〕
◯ タイトルの「 銅模 」 ( 字模 ) は、いずれも活字母型をあらわす。 「 模 」 は、「 模型  真似 写した型 」 とされるように、わが国の 「 ≒  型 」 をあらわす。
「 銅模 」は電鋳法の時代、その固定支持材に銅をもちいたことによる。
「 字模 」は機械式活字母型彫刻機 ( わが国の俗称ベントン彫刻機 ) の時代、その彫刻材料 ( マテリアル、通称 マテ ) が、おもに真鍮となり、電鋳法との差異化のためにもちいられた。

◯ *1  姜別利――ガンブルに漢音をあてたもの。 William Gamble,  ( ? -1886
アメリカのプロテスタント宣教師兼活版印刷技術者。 はじめ寧波(ねいは、ニンボウ)のアメリカ租界にて印刷をおこない、のち上海租界に美華書館を設立、移転。
長崎に居住していた、ギド ・ フリドリン ・ フルベッキの仲介をえて、明治06年06月ころに来日して、長崎製鉄所活版伝習所に技術を伝えたとされる。

ギャンブルは幕末に、すでに俗称ヘボン辞書として知られる、ジェームス・カーティス・ヘボン編 『 和英語林集成 』 ( 1867年 ・ 慶応03年 ) を岸田吟香の援助も得ながら刊行していた。 またその明治05年の再版本も美華書館の印刷によっている。
このように、巷間知られる以上に、上海時代、それも来日以前から、わが国の薩摩藩士、岸田吟香らの知識層との交際はひろく、『 和訳英辞書 』 ( 明治02 )、『 官許大正増補和訳辞林 』 ( 明治04 ) ―― 前記二冊の大型辞書は いわゆる 「 薩摩辞書 」 として知られる。
『 仏和辞典 』 ( 明治04年01月 )、『 和英語彙 』 ( 明治05 )、『 官許独和字典 』 ( 明治06年05月 ) などを、上海美華書館で組版 ・ 印刷 ・ 製本作業を担っていたことはもっと注目されてよい。

◯ 書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、……らによって設計された、楷書体や倣宋体 〔 わが国の宋朝体 〕 を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
もともと 「 書 」 をおもくみる中国では、活字版印刷が隆盛する前に、「 書 」 そのものを転写できる石版印刷がさかんだったという近世印刷史の特徴があった。

丁 補之、丁 善之の兄弟が開発した 「 聚珍倣宋版 」 はすでに一部紹介した。
鄭 午昌は 漢文正楷印書局に、「 正楷書活字 」 をのこし、この二種類の活字書体は、昭和初期に 名古屋 : 津田三省堂によってわが国にもたらされ、「 宋朝体活字 」 「 正楷書活字 」 として、いまなお盛んに使用され、さらにさまざまなバリアントもうんできた。

そのほかには、「 新魏 シンギ」 という名の、魏碑体から範をとったとみられる特徴のある活字書体と、「 小姚 ショウヨウ」 が 「 上海字模一廠 」 から発売されている。
北京文嵐籍の 「 倣宋体活字 」 は、発売直後から 丁 補之、丁 善之兄弟とのあいだで深刻な争いが発生したもので、北京文嵐籍の 「 倣宋体活字 」 は現代の視点でみると 相当問題がある。

最大手の商務印書館は、独自の倣宋体活字を開発しており、これは大阪 : 森川龍文堂から  「 龍宋 」 という商品名でわが国でも発売されたことがある。  おおらかな、やわらかみのある倣宋体 ( 宋朝体 ) といってよい。
「 龍宋 」 はそのご モリサワに譲渡され、写真植字の時代には好評だった書体であるが、いまのところデジタル化はされていないようである。

◯ 書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、……らによって設計された、楷書体や倣宋体 〔 わが国の宋朝体 〕 を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
清朝末期から、民国初期の活字開発をしるしたこのパネルには、うっかりすると看過されがちだが 「 明朝体 宋体 」 の名前がみられない。
わが国の140年の歴史を刻んだ近代活字版印刷においては、終始明朝体がその中核をしめる書体であった。
どういうわけか中国における「明朝体 宋体」への関心は低く、ある種冷淡ともおもえることがある。 これは明朝体以外の書体を分析する作業から、おのずとあきらかになりそうなことがらである。

◯ 1940-50年代になると、活字母型製造業者が一定の規模になっていき、また一定量の機械式活字母型彫刻機を導入して活字母型の生産をおこなった。
このパネルを前にして、中国への機械式活字母型彫刻機-いわゆるベントン彫刻機の導入時期を張 連章 氏にうかがった。
「 清朝末期、それも上海租界地でのことは資料がすくないのですが、機械式活字母型彫刻機は、商務印書館、中華書局などの大手には、清国末期から民国最初期には導入されたとされています。 丁 補之、丁 善之の聚珍倣宋版は、中華書局での機械式活字母型彫刻機をもちいた活字とされています 」
わが国に機械式活字母型彫刻機-いわゆるベントン彫刻機が導入されたのは、1912年(明治45)印刷局への導入がはじめとされてあらそいがない。
清朝最末期をラストエンペラー、宣統帝 溥儀の時代とすると、1908(明治41)-12(明治45・大正元) となる。 地下倉庫でみた機械式活字彫刻機は、ATF 社のものでも、わが国の製造でもなかった。 どうやらほぼおなじころに、機械式活字母型彫刻機が 日中双方に導入されたとみてよいようである。る。
                                                                                                                                                                  
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【 初出 活版 à la carte : はじめての京劇鑑賞*そのⅢ-A 老北京 中国印刷博物館と紫金城を展望する 2014年02月24日 】

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-01

 

商標_聚珍倣宋印書局マークDSCN0899商標_聚珍倣宋印書局
《 稀覯書 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 について 》
2013年6月と11月、2014年01月と 中国 ・ 北京を訪問した。 さまざまなひとにおあいし、さまざまな企業、さまざまな場所にいった。 そのとき、なにかとやつがれらをサポートしていただいたのが 「 シンさん 」 であった。

11月の訪問のおり、「 シンさん 」 が、
「 大切にしている図書です 」
といって鞄から取りだしたのが、『 聚珍倣宋版式各種様張 しゅうちん-ほうそう-はんしき-かくしゅ-ようちょう 』 であった。

そのときは撮影をゆるされ、01月に再会した折には低解像度の複写版をいただいた。 いずれきちんとした研究者の手によって、まとまった形での発表を 「 シンさん 」 は望まれていた。

もともと宋朝体活字にはこだわりがあった。 それ以来やつがれは、この資料と 「 宋朝体活字、聚珍倣宋版、仿宋体活字 」 の様様な資料を、折に触れては取りだして、周辺情報との突き合わせをしていた。
ところで最近、「 シンさん 」 が同書を北京のタイポグラフィ ・ イベントに展示したところ、SNS メ ディアに一斉に画像がながれてしまったという。
「 シンさん 」 は同書を個人所有していることを公表しないとしていたにもかかわらずである。展示会は撮影禁止で、鍵付き硝子ケースのなかに入れてあったのにと嘆いていた。

もちろん SNS メディアのユーザーの一部であろうが、昆虫採集に熱中する少年のように、ともかく目新しいものに飛びつき、あるいは、あたかも脊髄反射のようにメディアに掲載してしまうのは、わが国でもしばしば見られるところである。
こんないきさつがあって、「 シンさん 」 はやつがれに、はやい発表を督促してきた。 ところがやつがれは 「 きちんとまとめる 」 ことを苦手とする。すなわち適任ではない。

《 わが国の基幹書体の明朝体に愛着はあるが、さらなる発展を望むには おのずからなる限界がありそうだ 》
近代明朝体活字が 「 上海租界 ( 外国人居留地 ) 」 からわが国に導入されて、160年ほどの時間が経過した。
明朝体活字は、疑いもなく、わが国、明治の文明開化と近代化をもたらし、国民の読書、情報伝達におおきな役割と貢献をはたしてきた。

さりながら、明朝体活字の初期開発は、近代化という名のもとに、欧米における産業革命の成果をとりいれ、さまざまな機器をもちいて開発された活字書体である。
明朝体活字は、ひろくは中国の楷書のカテゴリーにありながら、開発初期に、すでにモダンスタイル ・ ローマン活字をうんだ西洋合理主義の影響からか、造形としての 「 字 」 をあたかも突きはなすような姿勢がみられた。
すなわち、「 篇 ・ 旁 ・ 冠 」 などを組み合わせてもちいる、いわゆる 「 分合活字 」 開発の歴史にみられるように、「 字  ≒ 漢字」 にたいする徹底した割り切り、すなわち合理化、様式化、分業化された製造態勢がなされている。

そのためか、「 字 ≒ 漢字 」 がもともと内包している、ひととことばの歴史の堆積、手技の痕跡、身体性の発露などは、みごとなまでに消し去られている。
換言すれば、ふつうの生活者はもとより、書芸人、書写人でもこの 「 字 」 の書風を描くことができない。 また、一定の訓練を経ても、道具と機械 ( 現代ではコンピューターとソフトウェア ) の援助なくして、その原字をつくることもできない、いわば一種の工業製品ともいうべき、無機質な存在の 「 字 」 となっている。

こうして明朝体活字の 「 字 ≒ 漢字 」 には機能性がむき出しになり、水平 ・ 垂直線ばかりがめだつ、鋭利な線質となり、およそ自然界には存在しない機械製造による造形物、工業生産の産物として、近代明朝体活字は時をかさねてきた。
もちろんこの間、東京築地活版製造所の平野富二、その右腕 : 曲田 茂マガタ-シゲリ、後継者のひとり : 野村宗十郎らの献身的な改刻の努力があった。
さらに秀英舎 (現 : 大日本印刷 ) にあっては、創業者 : 佐久間貞一、第二代 : 保田久成、関連企業 : 製文堂  逸見久五郎らの功績も看過できない。
それだけでなく、たくさんの有名 ・ 無名の活字製造業者が明朝体の改刻に取り組んできた。 その結果、明治の後期ともなると、
「 上海租界 ( 外国人居留地 ) からもたらされた…… 」
というより、見方をかえれば、わが国独自の活字書風としての完成をみるにいたった。

さらに明朝体活字にとって追い風となっったのは、わが国の近代文章語における仮名、なかんずくひら仮名の存在と、その併用をあげたい。
わが国の近代文章語とは 「 字 ≒ 漢字 」 の上だけで形成されたものではない。 やわらかで、書芸や手技の痕跡をいかした柔軟な和字、ひら仮名、カタ仮名に加えて、「 字 ≒ 漢字 」 を併用することよって、無機質で、能面のような、近代明朝体活字 「 字 ≒ 漢字 」 の組み版は、表情豊かな、馥郁とかおりたつような印刷紙面を形成して、近代文章日本語の形成に貢献してきたといえよう。

ここに、わが国の読書人にみられる 「 ひら仮名活字と組み合わされた 」 明朝体活字への愛着と拘泥と、「 字 ≒ 漢字 」 の明朝体活字だけをもちいる 中国の民衆 ・ 読書人にみられる、明朝体活字への無関心、ないしは軽視の姿勢の、彼我の相違を理解することができる
──────
後述の機会を得たいが、高齢化して病床についた毛沢東 ( Mao Zedong  1893-1976 ) の読書への意欲はいっこうに衰えをみせず、魯迅の著作の全巻を読みたいと希望したという。
このころの毛沢東はさすがに視力が低下していたので、28pt 見当のおおきなサイズの活字を特別鋳造して、「 毛主席特別版 」 として刊行したことがあったと、紫禁城図書館 館長にうかがった。

その任にあたったのは、中国印刷 ・ 出版界で双璧をなす 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 であったが、指示された活字書体は 「 商務印書館 → 仿宋体 」、「 中華書局 → 聚珍仿宋版 」であったという。
なにしろときの最高権力者 : 毛沢東の「希望」であり、両社ともに全力をあげて活字の新鋳造にあたり、印刷したが、病床の毛沢東があまりにはやく読了してしまって、どんどん次巻を督促されて困惑がはげしかったという。
「 商務印書館 」 「 中華書局 」 といえば、わが国の 「 大日本印刷 と 凸版印刷 」 に相当するおおきな企業体である。 ところが両社ともに、印刷 ・ 製本はともかく、活字組版がまったく追いつかず、傘下の企業を総動員して活字組版をおこなって製作にあたったという。

このはなしは、中国紫禁城内紫禁城図書館長 : 翁 連渓氏にうかがった。 そのときは毛沢東が好んで通ったという中国湖南省料理店 「 澤園酒家  タクエン-シュカ」 で、遅い昼食をご一緒したときであった。
「 澤園酒家 」は、中国中央政府が密集している中南海への出入り口にある。 道路をはさんだ向かい側には一般人は立ち入ることができない。

帰国の日、「 シンさん 」 にホテルから空港まで送っていただいた。 高速道路が渋滞して搭乗時間が切迫していたが、最近、版画からタイポグラフィにすっかり関心を移行させた 「 シンさん 」 が、急に車を路肩に寄せて、あわただしく 「 毛主席特別版 」 の数冊の図書をとりだして、撮影をしろ、よく見てくれということだった。

活字スケールを持参しなかったのが悔やまれたが、それはたしかに 「 仿宋体、 聚珍倣宋版、わが国の宋朝体 」 といってよい活字書風であった。
晩年の毛沢東が、わざわざ指示した活字書体が 「 仿宋体、 聚珍倣宋版、わが国の方体宋朝体 ( ほぼ真四角な宋朝体 )」であり、「 宋体活字 わが国の明朝体活字 」 でなかったという事実は、うすうす小耳にしていたとはいえ、実物を眼前にしておおきな衝撃であった。

これも徐徐に紹介したいが、『 珍倣宋版式各種様張 』 の巻首に置かれた 「 縁起 ≒ はじめに 」 は、丁 善之の筆になるとおもわれるが、浙江省杭州のひと丁 善之は、明朝体 ( 縁起では宋体 ) 活字を日本の字としている。 どうやら丁 善之は、明朝体活字が 「 上海租界地 ( 外国人居留地 )」 から日本にもたらされた事実を知らないようにみられるのである。

したがって、ここ「花筏」では、近代明朝体活字に代表される活版印刷機器と、活字版製造におおきな功績をのこした東京築地活版製造所の歴史を、もう一度整理する作業と平行して、「 聚珍倣宋版、仿宋体 」 活字と、わが国の 「 宋朝体 」 活字を紹介していきたい。

正直なところ、『 秀英体研究 』 (片塩二朗 大日本印刷 2004年12月12日 )をまとめ、「秀英体平成の大改刻 」 プロジェクトを終えて、ようやく東京築地活版製造所のまとめに着手したばかりのいまである。

したがって 「 聚珍倣宋版 ・ 仿宋体と、宋朝体 」 に言及するのはいささか荷が重いのである。
本稿シリーズと、やつがれの既刊書 「 津田伊三郎と宋朝体 ・ 正楷書体活字の導入 」 「 それでも活字はのこった 森川龍文堂と森川健市 」 『活字に憑かれた男たち』 (片塩二朗 朗文堂 1999年11月02日 )をお読みいただき、有意の皆さんのご参集をお待ちする次第である。

聚珍倣宋版表紙DSCN0892 DSCN0895 《 活字組版印刷見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 と、創成者 : 丁 輔之 と 丁 善之 》
『 聚珍倣宋版式各種様張 』 は、現存する中国有数の印刷 ・ 出版企業 「 中華書局 」 が発行したもので、図書 ・ 書籍というより、杭州の 「 聚珍倣宋印書局 」 から譲渡をうけて、あらたに 「 中華書局 」 に導入された活字書体、名づけて 「 中華書局聚珍倣宋版 」 による、活字組版と活版印刷の見本帳である。

この活字組版見本帳は、かつて長澤規矩也氏が所蔵していたとおもわれ、わが国にも紹介されたことがある。
『 図解和漢印刷史 』 (長澤規矩也 汲古書院 昭和51年2月 ) の「図版集 縁起 論語巻之一  p.77-79 」 と、 「別冊 《 解説 》 図版77-79 」 である。まずこれを紹介したい。

図版77-79 聚珍倣宋版各種様張 民國刊( 聚珍倣宋版 ) 縁起及一頁
錢塘の丁氏が創成し、丁仁が倣宋印書局を興し、後、中華書局が使用権を獲得した。 倣宋聚珍版、見本帖から抽印した。縁起は漢字活字の歴史にも及ぶので、全文を収録し、見本組の一ページをも示す。

これ以降、宋朝体に言及した文献のほとんどは、この長澤規矩也氏の解説を引用している。 筆者も前掲 『 活字に憑かれた男たち 』 で、この箇所を引用させていただいた。
これから順次 『 聚珍倣宋版各種様張 』 を考察するのにあたって、あらためてタイポグラフィの見地から、まず表紙から再考察に着手したい。

《 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 の構成 》
1.  表紙の考察
聚珍倣宋版表紙

題簽の様式を模したとみられる表紙は、本文用紙とは別紙で、六号無双罫によって四囲をかこまれ ( 単辺匡郭 キョウカク )、そこにタイトル 「 聚珍倣宋版式各種樣張 しゅうちん-ほうそう-はんしき-かくしゅ-ようちょう」 が二行にわかれて置かれている。

「 倣 」 の字は、本書のなかでもしばしば 「 仿 」 とされている。本稿では差し支えのないかぎり、これ以降はわが国の常用漢字の 「 倣 」 をもちいる。
「 樣 」 はわが国の常用漢字 「 様 」の異体字である。 これ以降は 「 様 」 をもちいる。
その大きさは初号倍角 (中国では初号を頭号とする。 ともに84pt 相当 ) に一致するが、ここまでのおおきなサイズの鋳造活字を製造したとは考えにくく、なんらかの凸版 ( 木活字、木版、電気版 ・ いわゆる電胎版 ) をもちいたとみられる。
また、後述するが、中華書局にはこの時代、わが国にさきがけて、すでにパンタグラフ理論を応用した 「 批字模雕刻機。 機械式活字父型 ・ 母型彫刻機 」 ( わが国の俗称 : ベントン彫刻機 ) が導入されていた ( 中国印刷博物館資料 )。 したがって金属素材に直に凸状に機械彫刻していた可能性も否定できない。

中央には製作時期と、製作者名 「 癸亥初夏錢塘輔之丁仁題 」 が一号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝体 ) で、字間にわずかなスペースをいれてしるされている。
「 癸亥 キガイ、みずのと い、みずのと いのしし 」 は、中国 (わが国) の十干十二支で、ここでは1923年 ( 大正12 ) となる。
「 錢塘 銭塘 」は、近代中国では浙江省の中心都市のひとつ 「 杭州 ハンジュ」 である。
「 輔之 丁 仁」は、わが国でいうならさしずめ 「 源九郎 義経 」 のような標記であって、「あざな(字) : 輔之、姓 : 丁、名(元名) : 仁 」 (以下、 丁 輔之 テイ-ホシ) である。
整理すると、以下のようになる。
「 1923年 ( 大正12 ) の初夏、銭塘のひと、姓は丁、あざなは輔之、名を仁の、丁 輔之が、これを題した 」。

匡郭にかえて設けられた無双罫の枠外右側に、この見本帳の体裁がしるされている。
「 仿宋元版槧本封面式 」
最初の字 「 仿 」 は、「 仿 ・ 倣 ホウ、ならう ・ まねる ≒ 模倣 」 の意である。
この表紙でも、タイトル部分では 〈 聚珍 「 倣 」 宋版 〉 とされたように、「 仿 ・ 倣 」 は同音同意の字であり、置き換えが可能な字である。 しかしながら、現在の中国では簡体字の採用によって、「 仿 」 が中心となっている。

 「 槧本 さんぽん 」 は古文書の意。
「 封面式 」 の 「 封面 ほうめん 」 とは、表紙裏の扉ページをさすことが多いが、ここでは片面印刷で、中央に版心をあらわす 「 魚尾 」 をおき、それをセンターの目印として二つ折りにしてつづったものとした。

見開きにすると、版心には、右側に 「 中華書局聚 」 が置かれ、左側に 「 珍倣宋版印 」としたものがおおい。 また杭州時代の活字組版を流用したものか、一部に 「 聚珍倣宋 版印書局 」 とするものがある。
製本様式は専門外であり、また 「 和綴じ 」 といういささか困惑する名称があるの で詳細に及ばないが、簡便な綴じ本になっている。
これを整理すると、以下のようになる。
「 宋王朝と元王朝時代の木版刊本にならい、古文書を活版印刷にし、二つ折りにしてつづったもの 」

《 聚珍倣宋版 ≒ 宋朝体活字の創成者-丁 輔之 と 丁 善之の肖像写真 》
2. 創成者の肖像写真

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活字組版見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 には、別紙の表紙のあとに、「 縁起 ≒ はじめに 」 が二丁04ページあり、そのうしろに一丁02ページで 「 創辧人 丁 輔之」と、「創辧人 丁 善之遺像」の肖像写真がある。
画像は写真凸版印刷とみられるが、幾分鮮明度を欠く。

写真キャプション 「 創辧人 」 の 「 辧 」 は、弁の異体字で、ここでは創成者とした。
写真キャプションは右起こし横組みで、「 創辧人 丁 輔之」 では、二号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝 ) にスペースがはいっている。
「 創辧人 丁 善之遺像 」 では三号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝 ) にスペースがはいっている。

このふたりはどちらが年長かわからないが兄弟とみられている。 若いころは、杭州西湖の白堤 ( 白居易の築造とされるおおきな堤 ) にある 「 西泠印社 」 と関係が深かったようで、杭州にはこのふたりによる 「 聚珍倣宋印書局 」 がのこした、木活字本、金属活字本など、おおくの関連資料がのこっている。
その清朝最末期 ( 明治末期-大正初期)の製造と みられる木活字本の一冊を、最近都内の大学図書館が購入した。研究の進捗をまちたい。

丁 輔之 ( てい-ほし 1879-1949 清朝末期-中華民国時代 明治12-昭和24 ) は、70年ほどの人生をいきたひとで、篆刻家、書画家としてしられる。
丁 輔之は 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 を刊行した1923年(大正12)には44歳ほどの年齢であったはずだし、清朝は1911年 ( 明治44 ) に崩壊して、中華民国の時代となって 十余年が経過しているが、頭髪はいまだに清朝時代の風習の 「 辮髪 ・ 弁髪 」 のようにもみられる。 あるいは単にひたいがはげ上がっていただけかもしれない。

いっぽう丁 善之は生没年ともにあきらかではなく、1923年 ( 大正12 ) のとき、すでに歿していたとみられ、写真は 「 遺像 」 として、相当修整の痕跡がのこる画像がしるされている。
したがって、実際に活字 「 聚珍倣宋版 」 の元字版下を製作したのは、このふたりのうちいずれが中心だったのかはつまびらかではない。

しかしながら、丁 輔之の遺作のほとんどは、篆刻と画文であり、活字紹介はきわめてすくない。
また、丁善之の没後まもなくとみられるが、丁 輔之が杭州の聚珍倣宋版印書局とその活字資料を、上海の中華書局に売却したこと。
また中華書局では 「 聚珍倣宋版 」 のサイズの拡張 ( シリーズ化 ) と、新聞扁平活字と同様に、「 批字模雕刻機。 機械式活字父型 ・ 母型彫刻機」( わが国の俗称 : ベントン彫刻機 ) の縦横比を調整すれば、比較的容易に製作することができ、「 割り注 」 などにもちいられた 「 夾註字 ・ 双行字 」 ( わが国では長体宋朝活字とする。 わが国では方体宋朝活字より、本来は 「 割り注 」 などのために開発された長体宋朝活字が好まれた ) の開発に終始し、あらたな、めぼしい活字書体を発表していないことをあわせて考察すると、あくまで現状では、活字開発の中心人物は丁 善之であったとおもいたい。

《 聚珍倣宋印書局の登録商標に関して 》
3.   聚珍倣宋印書局の登録商標

DSCN0899商標_聚珍倣宋印書局マーク

丁 輔之、丁 善之による 「 聚珍倣宋印書局 」 は杭州におかれたが、その早期から類似活字の登場になやまされ、「 北京文嵐社 」 などとは、相当深刻な法廷闘争を展開していた記録ものこされている (シンさん蔵)。
このころの中国では、活字書体の権利関係の法規が十分ではなく、それにかえて、せめてものおもいから 「 商標登録 」 を申請していたものとみられる。
画像の一部の登録商標を取りだし、その一部に修整を加えたものを拡大紹介し、オリジナルデータはちいさく紹介した。

デザインは、中央に 「 宋 」 の字をおき、外周部両端中央にシンプルな形態の 「 魚尾 」 をおいている。 この魚の尾を模した文様は、刊本時代に版心 ( 折り目 ) の役割をはたしたもので、目的と機能があった。 現在では市販の 「 四百字詰め原稿用紙 」 の中央におかれることがある。
上部には企業名 「 聚珍倣宋印書局 」 をおき、下部には 「 股份有限公司 」 をおく。
股份グーフィン有限公司は株式会社の意ととらえたい。

表記された 「 民国紀元 ・ 中華民国暦 」 中華民国09年とは、1920年 ( 大正9 ) のことで、活字組版見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 刊行のわずか三年前のことであった。 [この項つづく]

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-02 縁起 ものごとのはじめ 釈読

わが国の近代印刷活字の 「 明朝体 ・ 宋朝体 ・ (正)楷書体 」 は、それぞれ19-20世紀初頭、中国の近代活字に源流を発するものであるが、かの国ではちがう名前でよばれている。
いくぶんくどくなるが、ここでは混乱をさけるために、できるだけ双方の呼び名を併記していきたい。

そこで早速、『 聚珍倣宋版式各種樣張 』( 中華書局 1923年 ・ 大正12 ) の巻頭におかれた 「 縁起-ものごとのはじめ 」 から、中華民国時代の中国の、聚珍倣宋版 ( 中華書局の宋朝体活字 ) の原字制作者ともくされる、善之丁三在(丁 善之テイ-ゼンシ。姓 : 丁、あざな : 善之、名(元名) : 三在。 生没年不詳)が、明朝体や宋朝体 ( 宋体字 ・ 明朝字、聚珍倣宋版 ) をどうみていたのか、興味ある資料があるので、拙訳ながら紹介したい。

なおこの 「 縁起 」 と組版例一例の 「 図版 」 の部分は、『 図解和漢印刷史 』 (長澤規矩也 汲古書院 昭和51年2月 ) の 「 図版集 縁起 論語巻之一  p.77-79 」 と、 「 別冊 《 解説 》 図版 77-79  」 に図版として紹介されたことがある。
長澤規矩也はこの紹介を 「 別冊 《 解説 》 」 で次のようにだけ簡略に紹介している。

図版 77-79   聚珍倣宋版各種様張 民國刊( 聚珍倣宋版 ) 縁起及一頁
錢塘の丁氏が創成し、丁仁が倣宋印書局を興し、後、中華書局が使用権を獲得した。 倣宋聚珍版、見本帖から抽印した。縁起は漢字活字の歴史にも及ぶので、全文を収録し、見本組の一ページをも示す。
聚珍倣宋版表紙 DSCN0895 DSCN0892

 

聚珍倣宋版01 聚珍倣宋版02聚珍倣宋版03『 聚珍倣宋版式各種様張 』 に紹介された活字組版例/縁起/
一号聚珍倣宋版 ( 一号方体宋朝活字 )。 縦組み、ベタ組。 一行23字。 10行。 行間四分。

『 聚珍倣宋版式各種樣張 』( 中華書局 1923年 ・ 大正12 )
縁 起 ―― ものごとの はじめ ―― 釈 読

中国上古には、糸の結びかたで物事を記録した。 文と字が発明されてからは、物事の記録が容易になったが、木簡と竹簡が用意されるまでにはまだ多くの苦労があった。
春秋戦国時代の大国にして、中国史上最初の中央集権国家となった秦王朝時代 ( BC 221-BC 206 ) の蒙恬モウテン将軍が筆を発明 ( モウテン。 秦の武将。 始皇帝のとき匈奴を討ち万里の長城を築いたが 丞相李斯リシらに投獄され 二世皇帝のとき自死。 蒙恬の筆の発明説には異論もある。 ?-BC210 ) してから書がはじまった。
つづく漢王朝時代の蔡倫(サイリン。 東漢の宦官カンガン、あざなは敬仲。 生没年不詳 ) が、105年に樹皮 ・ ぼろ布 ・ 魚網などから紙を製して、和帝 ( 穆宗。 劉 肇。在位88-105)に献上したとされる ( 蔡倫の紙の創始説には異論もある )。  紙が発明されてから巻物が登場した。

隋王朝 ( 581-619 ) のはじめ、宮廷で書物の作製がさかんになり、「 鋟版  シンパン 」 という彫刻版が登場して、唐王朝 ( 618-907 ) と、五代の諸王朝 [ 唐から宋への過渡期に華北に興亡した、後梁 ・ 後唐 ・ 後晋 ・ 後漢 ・ 後周の五王朝。 907-60 ] がこれを踏襲した。
この技術はその後、北宋 ( みやこは黄河中流の汴 ベン、開封 Kaifeng。960-1127 ) の時代にはおおいに整備されて盛んなものがあった

北宋までの時代の印刷版は、能書家の文字を版に彫ったので、書風はその都度ちがっていた。 したがって北宋時代の図書をみると、唐代の欧陽詢 ( オウヨウ-ジュン 557-641 ) の書風をまねた 「 欧体字 」 がおおく、その字画の構造は力強く、端麗適切で充実して、歪みや、崩れもなく立派なものであった。

近代のいわゆる宋体字 [ 明朝体活字 ] はこの書風に由来している。 しかしながいときのなかで、宋王朝の字様は失われ、とりわけ北宋の木版刊本にみられた、端麗適切で充実した、欧陽詢の書風は徐徐にうしなわれて、ただ漠然と、その刻字の外周をなぞり、形を真似る ( 膚郭之字 ) だけとなっている。

北宋から臨安 ( 杭州 ) にみやこをおいた 南宋 ( 1127-1279 ) を経て、元王朝 ( 蒙古族王朝。 みやこは大都 ・ 現北京。 1271-1368 ) の時代になると、木版の書風には 「 趙松雪チョウーショウセツ の書風 」 [ 趙子昂 チョウースゴウ。 姓は趙、あざなは子昂、名は孟頫 モウフ、号は松雪、松雪道人。 宋の皇族の末、元の文人。 1254-1322 ] を用いるものがふえて、明の隆萬年間 ( 1566一1620 ) には、木版専門に「方体書」の書き手、すなわち能書家にかわり、版下の書き手を職業とするものもあらわれた。

すでに宋の時代に、木版による刊本印刷だけではなくて、よりコストが安い、活字による印刷がおこなわれていた。 そこでは泥字 [ 膠泥活字。 ニカワを焼結した活字 ]、瓦字 [ 磚 ・ 練り瓦。土 ( 粘土 ) を扁平に焼き、方形 ・ 長方形の活字としたもの ]、錫字 [ スズを主要素材とした金属活字 ]、銅字 [ 銅を主要素材とした金属活字 ]、木字 [ 木製の駒に字を裏字にして直刻した活字。 木活字 ] といった各種の素材が試みられていた。

清王朝(1616-1912)のはじめのころは、満洲王朝だったにもかかわらず、むしろ漢民族の文化が推奨されていた。 清の乾隆年間 ( 1735一95 )、北京の有名な刻書処、紫金城内の武英殿では、『 大清一統史 』、『 明史 』、『 四庫全書 』 などの数おおくの古今の図書を刊行し、その木活字は25万個を超え、活字かえて、縁起のよい 「 聚珍版 」 [しゅうちん-ばん]とよばれ、北宋についで活字版印刷の中興の時代となった。

乾隆帝画像 DSCN0476 DSCN0487 DSCN0642
清朝末期のわが国 [ 中国 ] は、海禁 [ 鎖国 ] をおこなっていたが、わずかに外国にむけて開放されていた香港には、キリスト教の宣教師たちが、鉛製の活字と印刷機械をもちこんで、漢字の活字一セットをつくった。 これはいわば 「 香港字 」 というもので、現在の四号活字にちかい寸法であった。

日本では書籍印刷のために、明朝字 [ 明朝体活字 ] という鉛製の活字を、大小のサイズで七種類もつくり [ 明治後期のわが国では、初号、一号 ― 八号、都合九種類の活字サイズが存在していた ]、活字印書の業 [ 活版印刷業 ] が大繁盛して、この明朝字なる活字書体を便利なものとしていた。
そこである中国人が、印刷のために日本から明朝字 ( 明朝活字 ) の七種類をわざわざ輸入した。 それをみると、書風としては 「 膚郭宋体 ≒ 字の魂魄がぬけて、輪郭をなぞっただけの宋体 」 であり、しかもひとつの書風しかなかったのである。

べつにふるさだけにこだわるつもりはないが、日本の明朝字 [ 明朝体活字 ] は、北宋刊本の刻字にみるような、端正な彫刻風の味わいがなかった。
そこでここに、北宋時代の木版刊本の字様 [ 木版上の書風 ] と、紫金城武英殿の木活字 「 聚珍版 」 からまなび直して、方体と長体の、大小のサイズの活字をつくり、ここに 「 聚珍倣宋版 」 と名づけた。 印刷業者の利用を待つゆえんである。
銭塘善之丁三在記於春江寓齋
──銭塘のひと。姓 : 丁、あざな : 善之、名(元名) : 三在 ( 丁 善之 ) 春江寓齋においてしるす
[翻訳協力 : 林 昆範老師]

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ながい引用になったが、この文章は 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 ( 中華書局 1923年 ・ 大正12 ) という、一種の活字組版見本帳の 「 縁起 ( ものごとのはじめ )」として、浙江省銭塘 ( 杭州 ) ・ 善之 丁 三在 ( 以下、丁善之 テイ-ゼンシ 生没年不詳 ) の記録としてのこされたものである。

『 聚珍倣宋版式各種様張 』 が発行された1923年 ( 大正12 ) には丁 善之は物故していたとみられ、巻頭に 「 丁 善之 遺像 」 として写真が紹介されていることは前回報告した。
またその兄弟とみなされている 丁 補之 ( テイ-ホシ 1879-1949 清朝末期-中華民国時代 明治12-昭和24 ) が同書の表紙を題している。 

丁善之は 「 縁起 ( ものごとのはじめ )」 のなかで、奇妙なことに、わが国ではよく知られている、また浙江省銭塘 ( 現 杭州 ) からはさほど遠くない、上海にあった美華書館の動向についてはひとことも触れておらず、日本の明朝体活字 ( 宋体字 ・ 明朝字 ) とは、その最初期には、美華書館のもののほとんど模作であったことを知らないようある。
そしてなにより驚くのは、中国における近代活字 「 金属活字の宋体字 ( 明朝体活字 )」は、明治末期-大正初期にかけて、どうやら日本から中国への逆輸出されたものであったと想像できることである……。

近代明朝体活字が 「 上海租界 ( 外国人居留地 ) の美華書館 」 からわが国に導入されて、160年ほどの時間が経過した。 明朝体活字は、疑いもなく、わが国、明治の文明開化と近代化をもたらし、国民の読書、情報伝達におおきな役割と貢献をはたしてきた。

たしかに長崎に伝来した美華書館版活字は、平野富二 ( 1846-92 ) が東京に進出して、東京築地活版製造所を設立して活字製造と印刷機器製造を開始し、曲田成 ( マガタ-シゲリ  1846-94 )、野村宗十郎 ( 1857-1925 ) ら歴代の経営陣の意欲的な取り組みや、名はのこらなかったが、曲田茂が招聘した数名の中国人工匠や、竹口芳五郎 ( 1840-1908 ) らの東京築地活版製造所の職人の改刻をへていた。
さらに秀英舎 ( 現 : 大日本印刷 ) にあっては、創業者 : 佐久間貞一 ( 1848-98 )、第二代 : 保田久成 ( 1836-1904 )、関連企業 : 製文堂  逸見久五郎 ( 生没年不詳 ) らの功績も看過できない。

それだけでなく、わが国にあってはたくさんの有名 ・ 無名の活字製造業者が明朝体の改刻に取り組んできた。 その結果、明治の後期ともなると、
「 上海租界 ( 外国人居留地 ) 美華書館からもたらされた…… 」
というより、見方をかえれば、わが国独自の活字書風としての完成をみるにいたったものである。

その結実は明治20年代の末ころ、ほぼ明朝体活字は完成の域にたっしたとみられるので、中華民国時代 ( 大正時代 - 戦後まもなくの1949年まで。 現在は台湾政府となっている ) の 丁 善之からみたら、まったく美筆書館のものとは異質の書風にみえたかもしれない。
それよりも、「 上海租界 ( 外国人居留地 )」とは、換言すれば 「 治外法権の外国占領地 」 ともいえたきわめて特殊な場所であり、キリスト教の広報宣伝機関でもあった美華書館の存在などは、ほとんど一般市民は知らなかったとみたほうがよいであろう。
聚珍倣宋版04 『聚珍倣宋版式各種様張』に紹介された活字組版例/論語巻之一 朱熹批註本を例として
半葉(01ページ)ごとに

基本組版 : 一行20字。10行。
単辺匡郭枠 : 六号無双罫、天地55倍、左右39倍。
界線 : 五号 1/8 罫線(中国呼称不明。わが国の通称 トタン罫。1.3125pt)
本文 : 二号聚珍倣宋版(二号方体宋朝)、字の脇に圏点(けんてん 小丸)を加えている。
双行註(割り注) : 三号長体聚珍倣宋版(三号長体宋朝)。

聚珍倣宋版05

 『 唐確慎公集 』( 中華書局刊 1920年代 )/筆者所蔵。 近近詳細紹介。

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-03 倣宋体活字書風に拘泥した毛沢東

DSCN0487 DSCN0476 DSCN0477 DSCN0471修復なった紫禁城(故宮)武英殿前で。 写真左から : 邢 立(Xing Li)氏、紫禁城内紫禁城図書館長 : 翁 連渓氏、やつがれ、朱 有福氏 (2013年11月)
DSCN7776 DSCN7780DSCN7799 DSCN7846 DSCN7804いくつかの用件があって、2015年正月早早、01月09日-12日にかけて北京を訪問した。
中国でも正月元旦は01月01日(新暦)で休日となるが、ことしは休暇を01日[木]-02日[金]の02日間としたために、04日[日]は出勤日となっていた。

中国でのお正月、「春節」は、むしろ旧暦で祝い、困ったことに毎年すこしずつずれている。
2015年は02月18日が大晦日で、18日[水]-24日[火]までの07連休となる。
 いくつかの企業では02月18日[水]-03月01日[日]までの12日間を特別休暇としている。
ともかく「春節」の前後一ヶ月ほどは、いかに勤勉な中国人といえども特別で、物流も滞りがちになり、注意が必要な時期となる。

その期間を避けてのあわただしい中国訪問であったが、11日[日]だけを休日として、沢園酒家(泽园酒家 北京市西城区南長街20号)を再度訪れた。
沢園酒家は紫禁城西華門からすぐちかく、政府要人が執務 ・ 居住(一般人は立ち入り禁止)する「中南海」に面した、中国湖南省料理を中心としたちいさなレストランである。
ここで一昨年、2013年の訪中時に、紫禁城図書館長 : 翁 連渓氏に昼食をご馳走になった。

DSCN7850沢園酒家は、毛沢東(Mao Zedong  1893-1976)のもとで、長年料理長をつとめたオーナーが開いたちいさな店であるが、故郷の湖南省料理が懐かしかったのか、しばしば毛沢東が訪れ、二階の個室では外国の要人とも会食していたことで知られている。 

この店の二階には小部屋が04室あるが、その壁面は毛沢東の写真で埋めつくされている。
そのひとつに油絵があり、晩年になっても読書欲が衰えがなかった毛沢東が、病床で読書をしている姿が描かれていた。
前回は撮りそこなったその絵画の写真を撮りたくて、中国の知人に個室を予約していただき、駆けつけた次第であった。

晩年の毛沢東は、好悪をはっきり表明するようになり、図書に関しても、活字書体、組版様式(誌面設計)、紙質、製本にまで厳格な要求が多かったとされる。
その状況の一端、たとえば絵画のなかで毛沢東は図書を丸めるようにして読んでいるが、それは重くて厚みのある、堅い上製本を嫌い、中国南方の竹を原料とした、軽くて腰の強い用紙をもちいたためである。
そんな様様を知ることができるのがこの絵画であった。
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そんな1970年代初頭の、いわば < 毛主席特別版図書 > を積極的に収集されているのが友人の邢 立 ( Xing Li ) さんである。

いずれ邢 立さんのご協力を得て、その周辺の情報もお知らせしたいが、今回は、いつもの劣悪な写真で恐縮ですが、邢 立さん愛蔵の < 毛主席特別版図書 > のほんの一部と、行草風のシグネチュア < 毛 沢 東 > の初号角の活字母型(電鋳法)だけをご紹介した。
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【 関連情報 : 花筏 宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-01  2014年04月23日 】
【 関連情報 : 花筏 宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-02  縁起 ものごとのはじめ 釈読