月別アーカイブ: 2014年8月

一枚の絵はがき/Gallery Bar Kajima と オーナー 加島牧史のWebSite開設

ギャラリー バー カジマ

 <ギャラリー バー カジマの展覧会案内の絵はがきが URL になるのか? チトさびしい>
どこか気になるモノクロの絵はがきが、几帳面に三週間に一度ずつ送られてくる。
送り主は<ギャラリー バー カジマ>で、オーナーは加島牧史マキシなる人物である。
要は次回のギャラリー展示の紹介だが、そこに添えられた文章がいつも含蓄があっておもしろい。すなわちやつがれは<ギャラリー バー カジマ>と、オーナー加島の隠れたファンであった。

オーナー加島は、数奇な少年時代を送ったひとで、その父君は「伊那の老子」とされる奇妙人である。検索(詮索?)が得意のかたはすこしでも検索すると、オーナー加島のただごとならぬ前半生を知ることになる。
銀座でこんな個性あふれる店をひらく漢 オトコ には、やはり秘められたドラマがあるのは当然であろう。そしてこんな 漢 がすきなのがやつがれである。

彫刻と詩は最高の芸術の形態だといわれている。
しかしこれを生業にすることほど困難なことはない。
彫刻家になることは、彫刻の奴隷になることを意味する。その魅力は計り知れないからだ。
何もないところから形を削りだし、手によって、からだによって彫刻は生まれる。そこには意識ではとらえら切れない存在の深みに向かう魔力があるのだ。
川口茉莉は普段はデッサンのモデルをしながら、彫刻を作っている。すでに奴隷への道を歩きはじめたのだろうか。
「ジャコメッティーとともに」という本の中で、ジャコメッティーが矢内原に「自分は王様の奴隷となって、毎日デッサンを描いていられるなら、なんと幸せなことだろう」と告白した。三十五年前に夢中になったセリフをふと思い出した。 (加島)

http://gbkajima.jimdo.com/<ギャラリー バー カジマ>は銀座コリドー街の一画にある。
Gallery Bar Kajima  ギャラリーバーカジマ 
東京都中央区銀座7-2-20 山城ビル 2 階
営業時間 14 : 00-24 : 00
TEL : 03-3574-8720

江戸時代のこのあたりは、江戸千代田城の外堀にあたる山城河岸に面して水運に恵まれていた(現在は埋め立てられて首都高速道路に変貌している)。
そのために、山下町、山城町、鍋町などは、江戸城に近接していても、武家地ではなく町人地とされ、おもに刀槍、鍋釜などの金属関係の職人の町でもあった。

秀英舎 ・ 大日本印刷も、この一画にあった職人工房の印刷機器と活字を譲渡されて、ほどちかい数寄屋橋で創業している。
そんな歴史をたどってこの周辺を歩いたこともあった。
銀座とはいえコリドー街の周辺はいまでも庶民的な町で、古き良き新宿ゴールデン街にも似た猥雑さもある。
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<ギャラリー バー カジマ>が開店してから13年ほどが経過したらしい。当初の絵はがきはオフセット平版印刷だったが、オーナー加島のパソコンスキルの向上とともに? 最近はパソコンプリンター出力方式に変化してきた。
ところがオーナー加島は、あふれんばかりの豊穣なことばを有しており、次回展示の作家紹介 ・ 作品紹介をしるすうちに、ついつい筆(キーボード)がすべって !?、絵柄面がことばで埋まり、しかもあくまでもテキスト優先の紙面製作のために、作品図版や写真画像の紹介が切手サイズほどになることがあっておもしろかった。

<ギャラリー バー カジマ>に最初にいったのは、小社ノー学部の友人であり、やつがれもその真摯な創作姿勢に共感している、アーチストMM女史が「アートの奴隷」となって、しばらくの間この店の「日曜日担当特別ママ」になったためであった。いまはMM女史が両親の介護のために郷里に戻ったので日曜日は休業である。
四谷 ・ 新宿地区にながく、そこにかじりついた地衣類のようにほとんど新宿を動かないやつがれだが、なんどかノー学部に引っぱり出されて<ギャラリー バー カジマ>を訪ねた。
それでも下戸であるやつがれは「バー」を苦手とするが、なかなか旨い珈琲がでて居心地がよかった。

ところでそのオーナーの加島牧史氏であるが、御年 5? 歳にしてついにブロガーとして登場したらしい。
今回の絵はがきの宛名面の下部にはこうあった。

やっと自分でウェブサイトとブログを始めた。
全く見当がつかないけれど、書きたいことがいろいろあるから少し続けようと思う。
読者がいないとさみしいので、一度開いてみてください。

そして気になる一行もあった。
また、メールのDMもはじめようと思う。はがきから移行可とされるかたは、メールを送ってください。
【URL : GalleryBar Kajima 】
【Mail : gbkajima@gmail.com 】

銀座コリドー街の小道に、ギャラリー兼バーを開いて13年。
3週間ごとに変わる展覧会と、
メインディッシュにも、ご飯のおかずにもなる大盛料理、
ビール、ワイン、スコッチウィスキーなどお酒にもちょっとこだわって、
気楽にゆっくり美味しくお過ごしいただきたいと思ってます。
昼間の喫茶では、珈琲と数種のお茶と、手作りの甘いもの、ビールもあります。
作品と音楽やパフォーマンスのコラボレーションライブもやっています。
(営業時間 : 14 : 00-24 : 00 日曜 ・ 祭日休み)

◎ オーナー紹介
加島牧史 ( かじま まきし )
編集、ギャラリーマネージャーを経て、1999年ギャラリーバーとき、
2001年ギャラリーバーカジマをオープン。
以後はひたすらここでお客を待つ。
◎ 近年の翻訳本
『 もう殺さない 』 サティシュ ・ クマール著
『 アンサー 』 ジョン・アサラフ&マレー ・ スミス著

やつがれ、出力に手間取り、郵送費も莫迦にならないであろうが、まだ当分はわがままをいって絵はがきで情報をいただきたいとおもう。
そして【URL : GalleryBar Kajima 】を訪問した。開設から間もないとはいえ、そこはオーナー加島のことゆえ、すでにブログを中心に、あふれるようなコンテンツ(テキスト)に満ちていた。

與 談 ──────────────
やつがれ、オーナ加島とは大勢と店にいったときに一度お顔を拝見しただけで、別に親しい関係ではない。それでも 5? 歳にして URL に挑戦する勇気に拍手を送りたいし、銀座にでかけることがあったら、ぜひ<ギャラリー バー カジマ>に寄ってみたいものである。

そしてやつがれの友人弁護士が御年 6? 歳( 70 歳間近)にして、まもなくブロガーとしての登場に挑戦中である。こちらはおおいに心配のいまである。

皆さまの友人、台湾の林 昆範さんが Red Dot 賞を獲得されました。

列印 列印

台湾で活躍する林 昆範さん。
林 昆範さんは中国大陸の少数民族とその造形の調査を精力的に重ねています。

2014年05月には山東省に調査に出かけ、取材のさなかに肩を骨折されましたが、順調に恢復されて、07月02日久しぶりに来日されて、<タイポグラフィ講演会 『中国の古典書物』増刷版 刊行記念講演会>を担っていただきました。
08月にはいると、ふたたび大陸にわたり、中国広西チワン族自治区のまち、陽朔県にでかけられています。

林 昆範さんはまた、今年の春に二つの iF 賞を受賞されましたが、07月末には産学協同プロジェクトの成果として、中国南東部の少数民族衣装に使われた文様と伝統色を生かして、陽朔にある観光会社のブランドイメージをつくり、Red Dot 賞を獲得されました。 ここに受賞作の一部をご紹介いたします。

【 花筏 : 朗文堂好日録-036 台湾春節:林昆範さんの年賀状 】
【 活版アラカルト : 林 昆範 『中国の古典書物』増刷版 刊行記念講演会の記録 】

【展覧会】 TYPE FROM LONDON -ロンドンの友人・河野英一さんからの情報

TFL_FLYER_01【展覧会】 TYPE FROM LONDON -ロンドンの友人・河野英一さんからの情報

朗文堂/アダナ・プレス倶楽部の皆さま
ご健勝のことと拝察、残暑お見舞い申上げます。
英国はもう冷え冷えとした秋です。

イアン・モーティマー氏 Ian Mortimer OBE が、今08月末に<TYPE FROM LONDON>のイベントに招かれて、はじめてめての日本訪問となりました。
イベントは日本でもファッション・デザインで著名なポール・スミス Paul Smith ギャラリー主宰で、わずか五日間ほどのタイトな日程で動かれるとか。

モーティマー氏は、気さくな優しい人物ですし、タイプ・アーカイブ(ミュージアム)の主力サポーターのひとりです。
また、活版印刷を通じた社会貢献により大英帝国勲章 OBE (Order of the British Empire) の称号を授与されており、英国でも超一流の活版印刷家として活動され、シェイクスピアのソネットなどの美しい活版作品を製作されています。
また、歴史上著名なブックデザイナーやタイポグラファや出版人のクラブ The Double Crown Club (DCC) と、The Wynkyn de Worde Society (WdeW) の一員でもあります。

【 Ian Mor­timer 氏の詳細 : http://imimprimit.com 】
【 展覧会の詳細 : http://typefromlondon.com/ 】

タイポグラファ群像*006 澤田善彦

澤田善彦澤 田  善 彦

(さわだ よしひこ 1930年(昭和05)07月15日-2014年(平成26)07月23日 享年84)
[写真提供 : 澤田嘉人氏]

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■ 澤 田 善 彦  略 歴 

  • 印刷人・活字人。東京都出身。1930年(昭和05)-2014年(平成26)。享年84
  • 1930年(昭和05)07月15日、東京都北区にて出生。
  • 1936年(昭和11)生家が板橋駅近く、新撰組関係者の記念碑付近に移転した。
  • 1937年(昭和12)滝野川谷端ヤバタ小学校入学。
  • 1943年(昭和18)戦時体制下にあった谷端国民学校卒。
    同年、水道橋の東京府立工芸学校金属工芸科に入学。同校印刷科の三年先輩に 野村保惠 氏、二年先輩に 故杉本幸治 【タイポグラファ群像*002 杉本幸治 】 がいた。
    在学中は勤労動員が相つぎ、大日本印刷市ヶ谷工場写真凸版係、パイロット航空機風防組立工場などに動員された。
  • 1943年(昭和18)4月10日の東京大空襲で板橋の自宅が罹災し、目白通り沿いの下落合に転居。
  • 1948年(昭和23)03月改組改称された東京都立工芸高等学校卒。
    同年04月大日本印刷株式会社(DNP)研究所に入社。同月千葉大学(夜間部)に入学したが、1950年(昭和25)経済的理由で中退。
  • 大日本印刷株式会社(DNP)では活字版印刷部門、オフセット平版印刷部門を経て、1967年(昭和42)04月-75年(昭和50)にかけ、社命により海外勤務。
    香港の Asocial Printers Ltd. 工場長、Peninsula Press Ltd. 社長などを歴任。
  • 1975年(昭和50)香港勤務を終えて日本に帰国。CTS(Computer Typesetting System)大日本に勤務し、その後大日本製版株式会社、エスピー大日本株式会社などを経て、1983年(昭和58)よりCTS大日本工場長。
  • 1985年(昭和60)大日本印刷株式会社退社。
  • 1988年(昭和63)リョービイマジクス株式会社社長:吉田市郎氏に招かれ、同社プリプレス部部長として勤務。のち取締役情報システム部部長として平成明朝体などの開発にあたる。
  • 1994年以降、JAGATのDTPエキスパート認証制度に認証委員として参画。
  • 1995年(平成07)ダイナラブジャパン株式会社に入社し取締役副社長就任。
  • 1998年(平成10)1998年1月 ダイナラブジャパン株式会社退社。
    リョービイマジクス株式会社顧問に就任。
  • 2008年(平成20)大動脈瘤手術。
    退院後「和光市ゆめあい福祉センター」のパソコン講師などをつとめた。
    埼玉県和光市に在住して自宅療養に専念。
  • 2014年(平成26)07月23日逝去。 享年84
  • 【主要著作】
    『この一冊でDTPがわかる プリプレス用語集』 (印刷之世界社)
    『プリプレス用語1000語―CTS・DTP・CEPS』 (印刷出版研究所)
    『ページネーションのすべて―DTP & 組版の基本 & フォント環境』 (JAGAT)
    『変わるプリプレス技術』 (印刷学会出版部)
    『DTPエキスパート用語辞典』 (共著、JAGAT) ほか多数
  • 【JAGATのサイトに執筆したコラム】 
    『DTP玉手箱』 /『印刷100年の変革』/『フォント千夜一夜物語』など
    [本項は2011年07月 澤田善彦氏にお目通しいただき、加除修整したものである]

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《澤田善彦さんが亡くなった。だんだん本物の印刷人が減ってきてさびしくなっている》
 印刷人:澤田善彦さんが逝去され、初七日忌もすぎた。
澤田善彦さんは圭角の無いお
ひとがらで、また組織人として、集団でものごとをまとめていくことにたけておられた。

だんだん本物の印刷人が減ってきて、さびしくなっている。
戦後東京の印刷人の主流をなしてきたのは、おもに以下のみっつの教育機関の出身者であった。
◎ 旧制東京高等工芸学校 → 新制大学になれなかった唯一の旧制高校とされる。
◎ 旧制東京府立工芸学校 → 現東京都立工芸高等学校
◎ 帝都育英学園専門学校 → 育英高等専門学校印刷科 → 現サレジオ高専

澤田善彦さんがまなばれたのは「東京府立工芸学校金属工芸科」であった。この学校はきわめて特殊な実業学校であったという。
すなわち旧制の小学校、いわゆる尋常小学校とされた06年間の履修ののちに入学する学生と、さらに旧制高等小学校(新制中学校に相当)を履修した学生が混在していた。
とりわけ当時需要が多かった、それだけに求人が多かった「印刷科」は入学がむずかしく、故杉本幸治 【タイポグラファ群像*002 杉本幸治 】 は高等小学校を卒業後に受験したが、入試に失敗し、一年間の「浪人生活」をおくっている。

つまり東京府立工芸学校とは、実業教育期間(インターン制度)をそなえた授産教育施設であり、履修期間も3-5年間とながく、現東京都立工芸高等学校とはかなりおもむきをことにする。
現代ではむしろ、高等専門学校(いわゆる高専)としてとらえたほうが旧制東京府立工芸学校の概要がわかりやすいかもしれない。

澤田善彦さんは谷端ヤバタ小学校(谷端国民学校)を卒業後、現役で東京府立工芸学校に入学され、戦時下と戦後の大混乱のもとで、5年間の履修ののちに卒業されている。ともかく優秀なひとであった。
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はじめて澤田善彦さんにお会いしたのは、1988年(昭和63)旧晃文堂(リョービイマジクス株式会社)社長:吉田市郎氏のご紹介にはじまった。したがってリョービ時代からのおつきあいで、大日本印刷時代の澤田善彦さんのことはほとんど知らない。

あれからほぼ四半世紀、25年ほどが経過した。この間にはさまざまなことがあったが、ご逝去から間が無く、まだ気持ちの整理がつかない部分も多い。
ただひとつ、多大なご迷惑をおかけしたプロジェクトがあった。それは澤田善彦さんはどこにも書きのこされていないし、これからもやつがれが詳細をしるすことはないであろう。

1990年の頃、やつがれはボストンで日本語用書体開発のプロジェクトに携わっていた。ところが作業が5-6割かた進行したところで、このプロジェクトはそっくりシアトルの某社が買収するところとなった。
ボストンの企業の首脳陣は、株主への責任から辞任するということであったが、やつがれには継続してシアトルでプロジェクトの進行をはかるようにつよく説得した。しかしながらボストンのスタッフとは開発当初から労苦をともにしており、シアトルへの移転はやつがれには考えられなかった。

それでもボストンとシアトルからの再再にわたる督促をうけ、後任に澤田善彦さんを推薦して了解を得た。澤田さんは、
「ひとが途中までやったプロジェクトは、意外と面倒なことがおおいですよ」
と渋られたが、なんとか強引に押しつけてしまった。

その引き継ぎにニューヨーク経由ボストンへ、そこでの短時間のミーティングののちに、シアトルまで澤田善彦さんと同行した。
澤田善彦さんはそれから二年ほどで、見事にその書体をシアトルでまとめられ、その後のサポート体勢まで構築されて退任された。そしてそのデジタル書体は、いまも基幹書体として多くのパソコンにデフォルトで搭載されている。
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病を得られてからの澤田善彦さんからのメールは、当初は16pt.であったが、後半は36pt.のおおきな文字サイズで送られてきた。これらのデーターは、いまは使用をやめて保存してある Windous XP のなかでねむっている。
また遺稿と遺品がやつがれの手許にのこされた。
遺稿は未定稿で、既発表資料には記述されなかった事柄も多い。ただしご家族関連の事柄が多く、これはいずれ澤田家からの発表を待ちたいところである。

また以下に掲げたスナップ写真は、澤田さんが和光市のご自宅をすっかりバリアフリー体勢にリフォームされたおりに、友人の吉田俊一氏といっしょにお訪ねしたときのものである。いわゆるガラケー、それも旧式のガラケーを無理矢理奥様にお渡しして撮影していただいた。
忘れられない、そして貴重な写真となった。

その折、額にコンパクトにまとめられた活字資料を頂戴した。いちおう固辞したが、ご夫妻で、
「ぜひとも持っていってください」
ということで持ち帰った。これが澤田善彦さんの著作とともに形見となってしまった。
すこし時間をいただいて、この活字資料を整理・分析して紹介したい。
いまはただ、幽冥さかいを異とされた澤田善彦さんのご冥福を祈るばかりである。

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