月別アーカイブ: 2011年1月

花こよみ 008

花こよみ 008

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

 雪の降る日に 柊 ヒイラギの

あかい木 コ の実が たべたさに

柊 ヒイラギの葉で はじかれて

ひょんな顔する 冬の鳥

泣くに泣かれず、笑うにも

ええなんとしょう、冬の鳥

                        薄田泣菫(ススキダ-キュウキン 1877-1947)

朗文堂-好日録007 景況と女性の眉、活字書体の選択

朗文堂-好日録 007

❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖

◎ヤツガレ、風邪の治りかけでポワ~んとしておる。
新春早早なさけない。昨週末から、咳はでるは、鼻水はたれるはで、まことにもって無残であった。かかりつけ医のヒロオカ奴に駆け込んで、いつもの風邪薬4日分。土曜・日曜とどこにも出かけずグダグダしておった。本を読もうにも薬のせいかトロトロしてくるので、ただ毛布をひっかぶって、ゴホゴホ、ズルズル、チ~ンとやっていた。なさけないことはなはだしかった。24日[月]、なんとか出勤。それでもなんとなく、いまだにポワ~ンとしている。

¶ ところでかかりつけ医のヒロオカ奴、ひとの顔をみるたびに「もうタバコはやめましたか?」と薄ら笑いを浮かべながら、嫌みたっぷりいう。当世、たれも好きこのんでタバコを吸っているわけがない。単に年期のはいった、あはれなニコチン中毒重症患者なだけだ。だからむしろ同情してほしいのだが、どうもこのごろは社会的に、このあはれな症状を呈する患者にやさしくない。ましてをや、国家までが、卑劣千万、やらずぶったくり、ひとの中毒症状につけこんで、高額な税金まで巻き上げるおそろしい時代だ。ヤツガレほぼ一年ぶりの風邪っぴきだったが、ヒロオカ奴、今回は別のテできた。「タバコがやめられる内服薬がある、社会保険が使える云々……。風邪がなおったら来るように」ト偉そうにのたまう。「当院での治療実績は禁煙成功率80%だ!」ト鼻をピクピクうごめかせる。

¶ ウ~ン、これは蠱惑的かつ誘惑的ではないか。何度も禁煙に失敗し、ましてや風邪で咳がでているのに、タバコを吸っている莫迦にも甘い響きであるな。「禁煙成功率80%!」か。しかしである、あらかじめ20%は失敗する(逃げ道がある)ことになっておるではないか。もし、もしもであるが、吾輩がそっちのグループに入ったら、ヒロオカ奴、喜色満面、それを医学界論文に発表するに違いない。これまでもヒロオカ奴は、吾輩をネタに何本か医学論文を書いたにちがいないと睨んでいる。こんども「65歳・男性・喫煙歴56年・極めて悪質也――薬剤積極投与するも、長年の喫煙の悪癖を脱せず――」かな。ヒロオカ論文調ではな。

◎女性の眉と活字書体の、えもいわれぬ相関関係とは――
ところで諸君、女性の眉と、書体選択が、おもわぬ相関関係にあることをご存知かな。どうせ風邪でポヨ~ンとしているのだから、たまにはこんな話題も如何かな。女性とは、本能のどこか、どうやら触覚が世界規模において優れているようだ。景気とは、所詮 気 のものである。良くも悪くもなったりする。『広辞苑』においても、【景気】 ①様子。けはい。ありさま。景況――である。つまり女性とは世のなかの、気配、ありさま、そして景気波動までをを触覚中心の本能のどこぞで捉え、それをファッションに取りこむ才に優れているらしい。それがさざなみのごとくに波及すると流行となり、ついには景況をも左右するから怖ろしい。吾輩のように、衣食住には関心がないと本気でほざき、十年一日のごとくのドブ鼠ファッションとはえらい違いだ。つまり巷間よくいわれるのが「景気が悪化すると、スカート丈が短くなる」だ。かの英国のツィッギーが典型か。大阪万博のころとおもって欲しい。ミニ・スカートが流行った時代とは、世界規模の不況であった。これはファッション業界では半ば定説となっているそうだ。

¶ ここで女性の眉である。ふるく中国乱世の時代、ひとりの女官が眉を細くして、蛾 ガの触覚のような三日月型の眉を描いたところ、それが食うや食わずの乱世の女性の心を捉え、「蛾眉 ガビ」として、あのひろい中国全土に拡がって、われもわれもと眉を細くしたという。古来、女性とは、なにはともかれ、美しくありといという「美的欲求」にはひどく敏感なのだ。「景気が悪化するとスカートが短くなる」とはファッション界の俚諺リゲンだが、化粧品業界の俚諺リゲンでは「景気が好転すると、女性の眉は太くなる」とされる。おもいおこしてほしい。バブルの1980年代を、美しく、たくましくも駆け抜けていった女性たちは、みな太い眉をしておった。石田ひかりや石原真理子 モトイ 真理恵の眉は驚くほど太かった。W浅野とされた、浅野ゆう子、浅野温子だって、黒々とした眉をしておった。そして景気にかげりが生じた安室奈美恵チャン以降、わが国の女性の眉は細くなったとヤツガレ感じているが如何かな。

¶ ファッションや美容には蘊蓄をのたもう評論家も、自称批評家もいるが、社会の片隅に蟠踞バンキョする「書体印象派」の一部は、女性の眉と活字書体と景気波動の相関性などにはまったく関心をしめさないようだ。しかしヤツガレ、この20年ほど続く世界不況に際しても、書体の流行だけは適切に捉えておった。ただ株式投資は(元手がないから)やらないし、占い師のごとき評論家でもないので、それを己の企業運営――つまり儲けに反映できないのが腹立たしいが。ともあれ、明治の開闢 カイビャク からの活字意匠の変化を追ってくると、演繹法でも帰納法でもなんでもこいだが、ともかくおのずと導きだされる簡単な結論がある。

¶ つまり、「経済不況下においては、活字書体のウエイトは細くなる。そして丸味のある活字書体が好まれる―片塩式書体法則1」――である。どうやら世界景気も落ちるところまで落ち、あとは上昇軌道を期待できるところまできたようだ。いまは、夜明け前のもっともくらいときにあるとみている。これからは、「経済好況下においては、活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる―片塩式書体法則2」――がみられるはずだ。活字書体も社会の風潮を背景にしており、決して無縁ではないのである。わかりにくければ、女性の眉とスカート丈に注意することだ。この片塩式書体法則1・2は、おもに、あるいは先行して、商業印刷に反映されるが、ながい尺度でみると、雑誌・新聞などの近接メディアを通じて、図書の印刷用活字書体にも影響をあたえるのだ、友よ! いまはただ女性の眉毛のふとさに注目しよう

昭和初期、長い不況下にあったわが国の書籍印刷用書体――明朝体は、きわめて細くなっていた。
康文社印刷所社主、吉原良三(1896-不詳)は、印刷同業組合の理事として、「変体活字廃棄運動」にも深く関わった人物であるが、同時に「新刻」と称して「細形明朝」の販売に積極的であった。
(『日本印刷大観』昭和13年、差し込み広告)


本文用明朝体は明治末期をピークとして、複製の連鎖のためもあって、昭和前期にはすっかりやせ細っていた。昭和初期の大不況期には、それを逆手にとって「細形明朝」として発売する業者も登場した。図版は細形活字を積極的に製造・販売した康文社印刷所の書体見本。上/新刻九ポイント細形明朝体、下右/新刻五号細形明朝体、下左/新刻六ポイント細形明朝体

¶ バブルとは「それいけ、ドンドン」の時代でもあった。「でっかいことは、いいことだ」と指揮棒をふるったチョコレート会社もあった。重厚長大の、もはや古き良き時代となってしまったが……。活字は写植活字の全盛時代。つぐつぎと新書体が発表されていた時代でもあった。このバブルの直前、株式会社写研から発売された「ナール」は、ウエイトが細く、フトコロを大きくとった、新鮮な丸ゴシック体であった。しかし発表・発売直後に、第1次石油ショックがおそった。この急激な経済環境変化は、のちのバブルの崩壊のように緩慢に作用したのではなく、激震のようにわが国を揺さぶった。もちろん大不況に陥ったが、それでも「ナール」は好感をもって迎えられ、爆発的なヒット書体となった。つまり「ナール」は、製作者の意図とは別に、「不況になると、活字書体のウエイトは細くなる。そして丸味のある活字書体が好まれる―片塩式書体法則1」に完璧に合致していたのである。爆発的ヒットはなにも偶然ではないのだ。このころの女性の眉は幾分細かったことはもちろんである。「ナール」はもっとも細いウエイトから出発し、順次ウエイトを太めながらシリーズを形成していった。それでもデミ・ボールド・ウエイトの「ナールD」から以降は、さしたる成績を収めなかった。景気は好況期に入りつつあったのである。

¶ つまり「ナール」シリーズの拡張期の時代は、もはやバブル前期に突入していたのである。「好況になると活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる――片塩式書体法則2」の時代である。写研は丸ゴシック系の「ナール」シリーズに代えて、字面が大きく、フトコロのひろい、新ゴシック体「ゴナ」シリーズに注力し、これまたきわめて大きな成果を収めた。しかも「ゴナ」シリーズは「ナール」シリーズとは逆に、最初に極太、ウルトラ・ボールド「ゴナU」が発売され、もっとも好まれたのだ。それがバブル期の書体法則「好況になると活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる――片塩式書体法則2」である。それ以後のさざ波のような景気の浮揚期には、写研「スーボ」、「新聞特太ゴシック体 YSEG」、モリサワ「MB-101」などという、極太の書体が、入れ替わり立ち替わりして浮沈していった。2011年のいま、こうしたバブル期に盛大に使用された書体の使用例を見かけることはまずないといって過言ではあるまい。活字書体の選択も、社会風潮や景気の動向を鋭敏に反映しているのである。*書体名は各社の登録商標である。*

¶ 今朝の電車の中吊り広告で、薬品メーカーとアルコール飲料メーカーの広告が並んで掲示されていた。見出し書体は両社とも同じ書体で、丸くて細くてナヨットしたデジタル書体だった。サイズも位置もほぼ同じでおもわず苦笑した。風邪には新ビールが効くのかな? いずれ「片塩式書体法則3」もこのブログロール「花筏」に発表しよう。まぁ、風邪の抜けきれないいまだから、この辺にしようかな。
本日1月25日[火]、晴天なるも寒風つのる。ここにて擱筆。

A Kaleidoscope Report 005 『東京築地活版製造所紀要』紹介

A Kaleidoscope Report 005


資料/『東京築地活版製造所紀要』紹介

ふしぎな資料がある。題して『株式會社東京築地活版製造所紀要』である。題名が平板だし、パラッとみたときは単なる企業紹介誌かとおもって精読はしなかった。しかも流通部数がよほど少なかったのか、ほとんどの論者がとりあげることがなかった資料である。だから、この小冊子が、いつ、どこからきて、なぜ筆者の手許にあるのかもわからない。つまり装本だけはやけに丁寧だが、薄っぺらな小冊子である。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所 昭和4年10月)

本文ページ/四号明朝体 26字詰め 12行 字間五号八分 行間五号全角アキ

冊子の装本仕様は以下のようになっている。

天地184ミリ×左右127ミリ
大和綴じを模した和装仕上げ
表  紙  皺シボのある薄茶厚手紙、活字版墨1色片面刷り
口 絵 部  5葉(裏白片面印刷。塗工紙に石版印刷したとみたいが、
オフセット平版印刷の可能性あり)
本   文  10ページ(非塗工紙に活字版墨1色両面印刷/活字原版刷りとみたい)
本文組版  四号明朝体 26字詰め 12行 字間五号八分 行間五号全角アキ
刊  記  無し(本文最終行に 昭和四年十月とある)

『株式會社東京築地活版製造所紀要』と題されたこの冊子は、刊記こそないものの、収録内容と活字書風からみて、昭和4年10月に、東京築地活版製造所によって、編輯・組版・印刷されたとみることができる。しかし「紀要」とは、「大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物」とされる。もちろん「ことば」は時代のなかで変化するが、本冊子を「紀要」として公刊した意図がみえにくい内容である。つまりこの冊子は、現在ならさしずめ「企業紹介略史」ともいえる内容である。

本ブログロールには、この全文を現代文として釈読し、若干の句読点を付した「釈読版」と、原本のままを紹介した「原文版」を掲載した。時間が許せば読者にはこの両方をお読みいただきたいが、「釈読版」の一部には、筆者が私見を述べた項目をこれから随時挿入する予定である。したがって本稿を閲覧される読者は、面倒でも「更新アイコン」をクリックしていただきたい。筆者の挿入部分は黒く表示し、釈読部と他文献からの引用部分は青く表示してある。

当時の社長は第五代松田精一(-)であった。このひとは、東京築地活版製造所の社長であるとともに、長崎の十八銀行頭取でもあったことは本ブログロールでも既述した。しかし筆者をふくめて、論者の一部は、本木昌造の男子・本木小太郎を第2代の社長においたために、それ以降の社長の世代紹介に齟齬ソゴをきたしていた。『株式會社東京築地活版製造所紀要』を所蔵していながら、筆者も先行文献にしたがって、疑問を抱きつつも、本木小太郎を第2代社長として紹介したことがある。ここに不明を恥じてお詫びするとともに、本稿をもって歴代社長をできるだけ丁寧に紹介したい。

まず、『株式會社東京築地活版製造所紀要』が刊行された昭和4年10月前後において、東京築地活版製造所がどのような状況にあったのかを調べたい。つまり同社がなぜ、『株式會社東京築地活版製造所紀要』なる小冊子を、相当の経費をかけてまで製作する必要があったのか、そしてこの冊子が、なぜほとんど一般には流布することなく終わったのか、本冊子製作の真の目的を探るためである。

「東京築地活版製造所の歩み」

(『活字発祥の碑』所収 牧 治三郎 編輯・発行 同碑建設委員会 昭和46年6月29日)

・大正12年(1923年) 3月
東京築地活版製造所本社工場、新社屋完成。地下1階地上4階竣成。

・大正12年(1923年) 9月
関東大震災により築地本社及び月島工場の全設備が羅災。

・大正14年(1925年) 4月
野村宗十郎社長病歿、享年69才、正七位叙賜。

・大正14年(1925年) 5月
常務取締役に松田精一社長就任 [長崎十八銀行頭取を兼任] 。

・大正14年(1925年)11月
『改刻明朝五号漢字』 総数9,570字の見本帳発行。

・大正15年(1926年) 2月
『欧文及び罫輪郭花形見本帳』 を発行(74頁)。

・大正15年(1926年)10月
『新年用活字及び電気銅版見本帳』 を発行。

・昭和 3年(1928年)
大礼記念 国産振興東京博覧会 国産優良時事賞。 大礼記念京都大博覧会、国産優良名誉大賞牌。 御大典奉祝名古屋博覧会、名誉賞牌。 東北産業博覧会、名誉賞牌各受賞。

・昭和 4年(1929年) 9月
『欧文見本帳』 を発行 (68頁)。

・昭和 5年(1930年) 1月
時代に即応し、創業以来の社則を解いて 印刷局へ官報用 活字母型を納品。

・昭和 5年(1930年) 6月
五代目社長 野村宗十郎の胸像を、目黒不動滝泉寺境内に建立。

・昭和 6年(1931年)12月
業務縮小のため 小倉市大阪町九州出張所を閉鎖。

・昭和 7年(1932年) 5月
メートル制活字及び 『号数略式見本帳』 を発行。

・昭和 8年(1933年) 5月
『新細型9ポイント明朝体』 8,500字完成発売。

・昭和 9年(1934年) 5月
業祖 本木昌造の銅像が 長崎諏訪公園内に建立。

・昭和10年(1935年) 6月
松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。

・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。

・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。

・昭和11年(1936年) 7月
『新刻改正五号明朝体』 (五号格)字母完成活字発売。

・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。

・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において 会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。

これは「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』のパンフレットに、牧治三郎がのこした記録である。年度順に簡潔に述べてあるが、もうひとつ当時の活字鋳造所、東京築地活版製造所の状況や苦境がわかりにくいかもしれない。つまりこの『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、すでに同社が主力銀行/第一銀行、十八銀行の資力だけでは到底支えきれない窮状にあり、別途に主力銀行を選定し、その支援をもとめるために製作されたものだとみられるからである。東京築地活版製造所は創立者・平野富二の時代から、渋澤榮一との縁から第一銀行、そして松田源五郎との縁から長崎の十八銀行とは密接な関係にあったが、それでもなお資金不足に陥ったということであろう。『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、東京築地活版製造所の創立から、昭和4年(1929)までの「企業正史」を目論んだとはいえ、創立当時の内容は、ほとんど第1次『印刷雑誌』(明治24年・1891)「本木昌造君ノ肖像并行状」、「平野富二君ノ履歴」を一歩もでることがない資料である。

金融関係の資料であるから、明瞭な公開資料は乏しいが、東京築地活版製造所が解散・閉鎖された際の主力銀行は★日本勧業銀行と、第一銀行であったとする資料がのこされている。また株式会社★第一銀行は、かつて存在した日本の都市銀行である。統一金融機関コードは0001、前身の第一国立銀行は国立銀行条例による国立銀行(民間経営)、いわゆるナンバー銀行の第一号、渋澤榮一が第一代頭取で、明治6年(1873)年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である。1971年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となる。現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行である。

ここで渋澤榮一(1840-1931)に若干触れたい。渋澤は東京築地活版製造所創立者の平野富二とは昵懇であり、これもやはり平野富二の創立にかかる株式会社IHIの主要取引銀行であり、主要株主としてみずほ銀行グループがいまも存在するからである。渋澤は天保11年(1840)武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。はじめ幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営した。また王子製紙の創立者でもある。ほかにも紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業の設立に関与し、財界の大御所として活躍した。渋澤は長寿をたもち、引退後は社会事業、教育に尽力した。昭和6年(1931)に歿した。すなわち東京築地活版製造所が本当に苦境にあったとき、すでに最大の支援者・渋澤榮一は卒していたのである。

いずれにしても、東京築地活版製造所は『株式會社東京築地活版製造所紀要』発行後まもなくから、主要取引銀行に、第一銀行・十八銀行にかわって、日本勧業銀行が徐々にその中枢を占めるにいたった。もしかすると、東京築地活版製造所中興のひととされる野村宗十郎の積極作戦が、過剰設備投資となり、同社の経営を圧迫したのかもしれない。また新築の本社工場ビルが移転の当日に関東大地震に見舞われるという、大きな被害を回復できないままに終わったのかもしれない。

長崎のナンバー銀行/十八銀行頭取を兼任していた第5代代表・松田精一が昭和10年(1935)6月に辞任後は、同社における伝統ともいえた長崎系の人脈・血脈が途絶えた。したがってこれ以降の経営陣は日本勧業銀行系の人物が主流となったと見なすことが可能であろう。すなわち牧治三郎の記述によると、「もと東京市電気局長」大道良太専務取締役(詳細不詳)が第6代代表として就任した。しかしながら、同年同月には大道に代えて吉雄永寿(詳細不詳)を専務取締役・第7代代表に選任している。当然ながらこの唐突な人事の裏には相当の争い――日本勧業銀行系と、第一銀行、十八銀行による主導権の争奪があったとみることが可能である。もともと吉雄姓は長崎には多く、新街私塾塾生名簿にもたくさん登場する姓であるが、新街私塾塾生名簿は幼名でしるされているため、まだその人物を特定できない。しかしながら、吉雄永寿の専務取締役就任が長崎人脈への経営権の奪還とみなせるので、この時点ではまだ日本興業銀行は主導権を全面的には奪取していなかったとみたい。

昭和12年(1937)11月、吉雄永寿(詳細不詳)専務取締役・第7代代表が辞任した。この後任には「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の――牧治三郎」阪東長康専務取締役・第8代代表が就任した。そして国家権力構造と密接な関係があったとみられる阪東長康がどこかから――筆者は日本興業銀行とみなす以外にはないとおもうが――「派遣」され、その指揮下、就任のわずかに5ヶ月後、昭和13年(1938)3月、東京築地活版製造所は社員の嘆願も空しく、日本商工倶楽部での臨時株主総会において会社解散を決議した。吉雄永寿は栄光の歴史を誇った東京築地活版製造所を売却する使命をおびて「派遣」されたとしかみることができない人事であり、事実である。そしてついに、東京築地活版製造所はここに明治5年(1872)以来の栄光の社歴を閉じることになった。

ここで奇妙な事実がある。業界トップの企業であり、有力な広告主でもあった東京築地活版製造所の動向は、印刷業界紙誌は細大漏らさず記録していた。ところが昭和10年ころから、同社の動向は業界紙誌にほとんど登場することがなくなった。そして、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部での臨時株主総会において一挙に会社解散を決議。、従業員150余人の歎願も空しく、一挙に解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧業銀行から現在の懇話会館に売却され、昭和13年(1938年)3月、 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。――この間の詳細は記録されないままに終わってきた。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』は同社の解散に先立つこと9年5ヶ月前の記録である。そして解散決議後、同社の土地・建物は、債権者の日本勧業銀行から現在の懇話会館にまことにすみやかに売却された。それに際して、当時はたくさんあった印刷・活字業界紙誌は、日頃は各社の業績や消長を丹念に細大漏らさず紹介していたのに、なぜか「東京築地活版製造所解散」の事実を、わずか数行にわたって報道しただけで、一切の媒体が奇妙な沈黙を守っている。どこからか、おおきな圧力があったとしかおもえないし、筆者がもっともふしぎにおもうのはこの事実である。

牧治三郎は、この『活字発祥の碑』パンフレットのほかに、『印刷界』にも当時の東京築地活版製造所のなまなましい記録をのこしているので、再度紹介しよう。

*     *     *

続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』(編輯・発行 全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 [大阪活版製造所社長を兼任] 、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [平野]造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25―6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治27―8年戦役 [日清戦争] の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の [活字] 鋳造機は、手廻機 [手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機] 120台、米国製トムソン自動[活字] 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 [自動] 鋳造機  詳細不明。 調査中] 1台で、フユーサー機は日本 [製の活字] 母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 [した。その]後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 [ い ] にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
[はなしが] 前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で [はあるが] 、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易 [学] でいう鬼門[裏鬼門にあたるの]だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版 [東京築地活版製造所]の重役で、[印刷機器輸入代理店] 西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 [で] の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 [に] 解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである

受賞経歴

東京築地活版製造所の象徴的存在・本木昌造

第1代代表/平野富二 第2代代表/曲田 茂 第3代代表/名村泰蔵 第4代代表/野村宗十郎

小図:明治7年の同社 大図:明治37年の同社

小図:第5代代表/松田精一 大図:昭和4年ころの同社

*      *

株式会社東京築地活版製造所紀要
[釈 読 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

◎  活版製造の元祖 ◎

本邦における活字製造の元祖は東京築地活版製造所であるとあえて申しあげさしていただきます。社は明治六年[一八七三]七月、営業所を東京京橋区築地二丁目に設け、爾来ジライ[それより以後]一意改善に向かって進み、ここに五〇有余年[1873-1929年、およそ56年]、経営の堅実、基礎の強固となったことは、つとに世人セジン[世のなかのひと]より認められている所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造 モトギ-ショウゾウ 翁であります。まずその事績からお話しいたします。

氏は文政七年[一八二四]六月九日、肥前ヒゼン[旧国名、一部はいまの佐賀県、一部はいまの長崎県]長崎に生まれました。本木家は徳川幕府に仕えて、阿蘭陀通詞 オランダ-ツウジの職を執っていましたが、弱冠にして父の職を継ぎました。時あたかも外国船の来航ようやく頻繁となり、鎖港あるいは攘夷など、世論は紛々たるの時にありました。翁は静かに泰西 タイセイ[西洋] 諸国の文物の交流の状態を探り、遂に活字製造のことに着眼しました。勤務の余暇にはいつも泰西の印刷術を見て、その印刷の精巧なることに感嘆して、わが国をして文化の域に至らしめるためには、このように鮮明な活字を製造して、知識の普及を計らなければならないと決意しました。

それ以来これを洋書の中に探ったり、あるいは来航した外国人に質問したりして、常にあらざる苦心をした結果、数年で少々その技術を会得し、嘉永四年[一八五一]ころに至って、はじめて「流し込み活字」[流し込み活字は後出するが、どちらも素朴なハンド・モールドとされる活字鋳造器を用いたとみられる]ができあがりましたので、その活字によって『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』と題する一書を印行して、これを蘭国 オランダ に贈りましたところ、おおいに蘭人の賞賛を博しました。これが本邦における活字鋳造の嚆矢 コウシ、ハジマリ であります。[このパラグラフの既述には、ながらく議論があった。すなわち嘉永4年・1851年という年代が早すぎるという説。数年前まで「流し込み活字」の実態が不明だったこと。『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』なる書物が現存せず、この既述の真偽を含めて議論が盛んだったが、いまだ定説をみるにいたらない]

しかし翁は、流し込み活字による活字製作の業をもって足りるとせず、益々意を活字鋳造のことに傾けて、文字を桜やツゲの板目に彫ったり、あるいは水牛の角などに彫って、これを鉛に打ちこみ、あるいは鋼鉄に文字を刻して、銅に打ちこんだりと、様々に試みましたが、原料・印刷機械・インキなどのすべてが不完全なために、満足のいく結果をみるにはいたりませんでした。

たまたま明治年間[1868年1月25日より明治元年]にいたって、米国宣教師姜氏[後出するウィリアム・ガンブルの中国での表記は姜別利ガンブルである。すなわち、米国宣教師姜氏と、上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏とは同一人物とみなされる。ながらくこの事実が明らかにならず、混乱を招いた]が上海にあって美華書館 ビ-カ-ショ-カン なるものを運営しており、そこでは「ガラハ電気」で字型[活字母型]をつくり、自在に活字鋳造をしていることを聞き及び、昇天の喜びをもって門人を上海に派遣して研究させようと思いましたが、姜氏らはこれを深く秘して示さなかったので、何回人を派遣しても、むなしく帰国するばかりでした。

しかしながら、事業に熱心なる本木氏は、いささかも屈する所無く、なおも研究を重ね、創造をはやく完成しようと計画していた折り、薩摩藩士・重野厚之丞シゲノ-アツノジョウ氏(維新後政府の修史事業にあたる。文学博士・東京大学教授/重野安繹シゲノ-ヤスツグ 1827-1910)が薩摩藩のために上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)、及びワシントン・プレスという、鉄製の手引き印刷機が用を成さずに、空しく倉庫にあることを聞き、早速それらの機器の譲渡を受けて様々に工夫をこらしました。

それでもまだ十分なる功績を挙げることができずにいましたが、当時上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏が、任期が満ちて帰国することの幸いを得て、これを招聘 ショウヘイ して長崎製鉄所の付属施設として、「活版伝習所」を興善寺町の元唐通事会所跡[現在の長崎市立図書館]に設けて、活版鋳造および電気版の製造をはじめました。このようにして活字製造の事業はいささかの進歩をみるにいたりました。

◎ 東京築地活版製造所 ◎

長崎製鉄所の付属施設であった「活版伝習所」にあった者が、のちに二つに分れて、ひとつは長崎新町活版所となって、その後、東京築地活版製造所、および、大阪活版製造所を創始しました。またもうひとつは、長崎製鉄所と共に工部省に属し、明治五年[1872]東京に移って勧工寮活版部となり、のちに左院活版課と合して太政官印刷局となり、さらに大藏省紙幣寮と合して印刷局[現、独立行政法人・国立印刷局]となったのであります。

明治四年[1871]夏、本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月、活字の販路を東京に開かんと思いまして、若干の活字を携えて上京しました。当時東京にも同業者はありましたが、何れも「流し込み」と称する[素朴な活字鋳造器、ハンド・モールドによった。いっっぽう平野富二らは、これを改良したポンプ式ハンド・モールドを用いたとされる]不完全な方法でできたものであって、しかもその価格は、五号活字一個につき約四銭であったのを、氏はわずかかに一銭宛で売りさばきましたので、需要者は何れもその廉価であって、また製造の精巧なることに驚嘆しました。同年文部省の命を受け、活版印刷所を神田佐久間町の旧藤堂邸内(現・和泉町)[神田佐久間町は現存する。秋葉原駅前から数分、現和泉小学校、和泉公園の前、旧藤堂藩の藩邸に隣接して、小者・中間などが居住した地域とみられている。現在は神田佐久間町の名前で商住地が並んでいるあたりとみられる]に設けました。

翌明治六年[1873]に至り、いささか販路も拓け工場の狹隘を感じましたので、七月京橋築地二丁目へ金参千円を費やして仮工場を設けました。同七年[1874]には本建築をなして、これを震災前 [関東大地震 大正12年9月1日、1923] 迄事務室として使用していました。同八年(1875)九月、本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。

明治九年(1876)には更に莫大なる費用を投じて、煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。社は率先して(明治十二年[1879])活字改良及その他工業視察のために、社員曲田成[マガタ-シゲリ]を上海に、本木翁の一子、本木小太郎氏を米国および英国に派遣しました。

明治十五年[1882]に至り、政論各地に勃興して、いたるところで新聞・雑誌の発刊を競うようになって、活字および印刷機械の用途はすこぶる活況を呈すようになりました。同時に印刷の需用も盛んになりましたので、同十六年冬に石版[印刷]部を設置し、翌十七年、さらに[活字版]印刷部を設けて、石版・活版の[平版印刷と凸版印刷の]両方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れるようになりました。

明治十八年[1885]四月、合本会社(株式会社)組織に改組することに決して、平野富二氏を挙げて社長に、谷口默次氏[大坂活版製造所社長を兼任]を副社長に、松田源五郎[長崎・十八銀行頭取]、品川東十郎[本木家後見人格]の二氏が取締役として選任せられました。[ここに挙げられた人物は、すべて長崎出身者である。すなわち東京築地活版製造所は長崎色のつよい企業であった]

明治二十二年[1889]六月、平野氏社長の任を辞しましたので、新帰朝者・本木小太郎氏がかわって社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏が[お目付役兼任として]取締役として選ばれました。同二十三年一月、本木[小太郎]氏辞任によって、支配人曲田成氏がかわってその社長の任に就きました。[本木小太郎の社長心得期間は半年間。結局小太郎は社長に就任せず、その後は旧新街私塾系の人物のもとを放浪し、その最後は、谷口黙次の次男で、三間家に入り、東京三間ミツマ印刷社長となった三間××の家で逝去した。三間家は現・銀座松屋のあたりとみられている]

明治二十六年[1893]十二月、我国の商法の実施に依りまして、社名を株式会社東京築地活版製造所と改めました。翌二十七年十月曲田社長病歿し、そのために名村泰藏ナムラ-タイゾウ氏が専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業を督励した結果、事業は発展し、明治三十九年六月、資本金を二十萬円としまして、日露戦役[明治37-38 1904-05]後の事業発展の経営に資する所といたしました。四十年九月名村社長病に殪タオれました。よって取締役野村宗十郎氏が選ばれて専務取締役社長となったのであります。

[野村宗十郎]氏は当社中古の一大異彩でありまして、明治二十三年[1890]入社以來献身的な精神をもって事に臨み、剛毅果断ゴウキ-カダン、しかも用意周到で、自ら進んで克くその範を社員に垂れました。社務の余暇にも常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず、遂に我邦最初のポイントシステムを創定して、活版界に一大美搖をあたえたのであります。そのために官は授くるに藍綬褒賞を以てして、これが功績を表彰せられたのであります。

そのほかにも印刷機械の製作ならびに改良の目的をもって、明治四一年[1908]三月、東京市京橋区月島西仲通に機械製作工場を設けたり[大正十二年九月一日、関東大震災で焼失]、活字販路拡張のために、明治四十年一月大阪市西区土佐堀通り二丁目に大阪出張所を、さらに大正十年[1921]十一月三日、小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、その事蹟は枚擧に遑イトマないほどでありました。

かくして[野村宗十郎]氏の努力は、日に月に報じられてきた時恰トキ-アタカモ、大正十二年九月一日、千古比類のない大震災に遭いまして当社の設備はことごとく烏有ウユウに帰してしまったのであります。[この日、東京築地活版製造所は新社屋が落成し、まさに移転作業の最中に罹災した。幸い新築の新社屋は無事だったが、月島の機械工場は全面罹災し、活字鋳造機、活字母型、その他印刷機もほとんどが焼失した。また焼失を免れ、改造をほどこされた新社屋も、その正面入口が鬼門だとのうわさが絶えず、歴代社長はそのうわさに脅かされることになった]

剛毅に富んだ[野村宗十郎]社長は、毫ゴウも屈せず益益鋭意社業を督して日夜これが復興に盡瘁ジンスイせられた結果、着々曙光を認め大正十三年[1924]七月十九日、鉄筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣なお灰燼の裡ウチに、屋上高く社旗を翩翻ヘンポンとさせるにいたりました。その業漸く成らんとするに際し、大正十四[1925]年四月二十三日、享年六十九才をもって逝去されました。

大正十四年[1925]六月、取締役松田精一[長崎・十八銀行頭取を兼任]氏、選ばれて社長に就任せられ、同年九月資本金を倍加して金六拾萬円とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

株式会社東京築地活版製造所紀要
[原 文 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

株式会社東京築地活版製造所紀要
活版製造の元祖

本邦に於ける活字製造の元祖は東京築地活版製造所であると敢て申上げさして頂きます。社は明治六年七月榮業所を東京京橋區築地二丁目に設け爾來一意改善に向つて進み、茲に五十有餘年、經榮の堅實、基礎の鞏固となつた事は夙に世人より認めらるる所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造翁であります。先づ其事蹟から御話致します。

氏は文政七年六月九日肥前長崎に生まれました。本木家は世々幕府に仕えて和蘭陀通詞の職を執つて居ましたが弱冠にして父の職を繼ぎました。時恰も外船の來航漸く繁く鎖港或は攘夷等と世論紛々たるの時に當りまして、靜かに泰西諸文物隆興の狀態を探り遂に活字製造の事に着眼しました。勤務の餘暇常に泰西の印刷術を見て其の印刷の精巧なるに感歎し、我國をして文化の域に至らしめるには此の如く鮮明な活字を造つて智識の普及を圖らなければならないと決意して、以來之を洋書中に探つたり、或は來航外人に質問したりして非常の苦心をした結果數年で稍々會得し、嘉永四年の頃に至つて始めて流込活字が出來上りましたので「和蘭陀通辯書」と題する一書を印行して之を蘭國に送りました所、大いに蘭人の賞賛を博しました。之れ本邦に於ける活字鑄造の嚆矢であります。然て活字製作の業之を以て足れりとせず氏は益々意を鑄造の事に傾けて、或は文字を櫻、黃楊の板目、又は水牛角等に彫つて之を鉛に打込み、或は鋼鐵に刻して銅に打込んで種々試みましたが原料、印刷機械、インキ等總べて不完全な爲めに満足な結果を得るに至りませんでした。

偶々明治年間に至つて米國宣教師、姜氏が上海に在つて美華書院なるものを設立して[ガラハ(電氣)]で字型を造り自在に鑄造をすると聞いて昇天の喜びを以て人を上海に派して研究させ様と思いました所が、彼れは深く秘して示さぬので幾囘行つても失敗して空しく歸國するばかりでした。

然し事業に熱心なる本木氏は聊かも屈する所なく尚も研究を重ね創造を早からしめ樣と計畫の折柄、重野厚之亟(文學博士重野安繹氏)が薩藩の爲め上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)及印刷機械(ワシントン・プレス)が用をなさぬと云つて空あしく庫中に藏してあると聞き、早速之を譲受け種々工夫をこらしましたが未だ充分なる功績を上げ得ぬので、當時上海の美華書院活版技師ガンブル氏の滿期歸国を幸い之を傭聘し長崎製鐵所附属として活版傳習所を興善寺町元唐通事會所跡に設けて活版鑄造及電氣版の製造を始めました。かくて活字製造の業稍々進歩を見るに至りました。

東京築地活版製造所
活版伝習所に在った者が後に二つに分れて、一は長崎新町活版所となって其の後、東京築地活版製造所及大阪活版製造所を創始しました。一は製鐵所と共に工部省に属し明治五年東京に移って勧工寮活版部となり後ち左院活版課と合して太政官印刷局となり更に大藏省紙幣寮と合して印刷局となったのであります。

明治四年夏本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月活字の販路を東京に開かんと思いまして若干の活字を携えて上京しました。當時東京にも同業者はありましたが何れも流込と称する不完全な方法で出来たものであって然も其値も五號活字一箇に付約四錢であったのを氏は僅かに壹錢宛で賣捌きましたので需要者は何れも其廉価であって又製造の精巧なるのに驚嘆しました。同年文部省の命を受け活版印刷所を神田佐久間町舊藤堂内(現今和泉町)に設けました。

翌六年に至り稍々販路も拓けまして工場の狹隘を感じましたので七月京橋築地二丁目へ金参阡餘圓を費して假工場を設けました。同七年には本建築をなして之を震災前迄事務室として使用して居ました。同八年九月本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。明治九年には更に莫大なる費用を投じて煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。社は率先して(明治十二年)活字改良及其他工業視察の爲め社員曲田成を上海に、本木翁の一子小太郎氏を米國及英國に派遣しました。明治十五年に至り政論各地に勃興して到る處新聞雑誌の発刊を競う様になって活字及印刷機械の用途は頗る活況を呈す様になりました。同時に印刷の需用も盛んになりましたので同十六年冬に石版部を設置し、翌十七年更に印刷部を設けて石版活版の兩方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れる様になりました。明治十八年四月合本會社(株式會社)組織の事に決して平野富二氏を擧げて社長に、谷口默次氏を副社長に、松田源五郎、品川東十郎の二氏が取締役として選任せられました。

明治二十二年六月平野氏社長の任を辭しましたので新歸朝者本木小太郎氏代て社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏取締役として選ばれました。同廿三年一月本木氏辭任に依り支配人曲田成氏代て其任に就きました。

明治廿六年十二月我國商法の實施に依りまして社名を株式會社東京築地活版製造所と改めました。翌廿七年十月曲田社長病歿し爲めに名村泰藏氏専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業督勵の結果事業發展し、明治三十九年六月資本金を弐拾萬圓としまして日露戦役後の事業發展の經營に資する所と致しました。四十年九月名村社長病に殪れました、依て取締役野村宗十郎氏選ばれて専務取締役社長となったのであります。氏は當社中古の一大異彩でありまして、明治廿三年入社以來獻身的精神を以て事に臨み、剛毅果断、而かも用意周到で自ら進んで克く其範を社員に垂れました。社務の餘暇常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず遂に我邦最初のポイントシステムを創定して活版界に一大美搖を興えたのであります。爲めに官は授くるに藍綬褒賞を以てし之れが功績を表彰せられたのであります。其他印刷機械の製作並に改良の目的を以て明治四一年三月東京市京橋區月島西仲通に機械製作工場を設けたり、活字販路擴張の爲め、明治四十年一月大阪市西區土佐堀通り二丁目に大阪出張所を更に大正十年十一月三日小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、其事蹟枚擧に遑ない程でありました。斯くして氏の努力日に月に報じられて來た時、恰も大正十二年九月一日千古比類のない大震災に遭いまして當社に富んだ社長は毫も屈せず益々鋭意社業を督して日夜之れが復興に盡瘁せられた結果着々曙光を認め大正十三年七月十九日鐵筋コンクリート四階建の大建物は竣工し四隣尚ほ灰燼の裡に屋上高く社旗を翻するに至りました。其の業漸く成らんとするに際し大正十四年四月二十三日享年六十九才を以て逝去されました。

大正十四年六月取締役松田精一氏選ばれて社長に就任せられ同年九月資本金を倍加して金六拾萬圓とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

朗文堂 ― 好日録006 達磨輪廻転生の世界へ 月映 藤森静雄をみる

朗文堂-好日録 006

❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖

《 いただいたダルマで 輪廻転生リンネ-テンショウ の世界に突入か 》
¶ カレンダーがあたらしいものにかわった。西暦2011年、平成の御代も数えて23年になった、ト、ここで年号をなんとか確実に覚えようとしている。
ことしは大正元年から数えて100年、もし昭和の御代が続いていれば昭和86年となる。よくわからないが、まことにめでたいことである。

2009年11月  宇都宮駅で無償配布されていたダルマ

¶ だが、もともと冠婚葬祭はできるだけご容赦を、ト念じているから、本音では祭のひとつ、正月を、さほどめでたいとはおもっていない。 むしろ、きょうとおなじ、あすがあって欲しいと願う。 しょうがない、つぎの正月まで、またポチポチやるか、という程度だ。

¶ 2010年最後の日、31日[金]も出勤した。 電話はちっとも鳴らないし、@メールもほとんど着信なし。 みんないったいどこにいったのだ。 そうか、年末年始休暇だとおもいあたる。
だからなんとなく(かえって)リズムが狂って、まとまりがないまま時間がすぎた。
夜更10時半退勤。 ちかくの「あおい書房」がまだ開いている時間だ。 そこで休日用の文庫本を購入。司馬遼太郎 『この国のかたち 4 ・ 5 ・ 6 』、宮城谷昌光ミヤギタニ-アキミツ 『三国志 1 ・2 ・ 3 』。
司馬さんの連載は、初出 『 月刊 文藝春秋 』 のときから読んでいる。上製本、文庫本と読んできたが、ぼろぼろになったので、また買った。

¶ 上製本はとっておくが、雑誌と文庫はどちらかというと睡眠導入剤。  だからすぐにぐちゃぐちゃになる。
やつがれ、もし文庫本が 「 電子出版 」 になったらまことに困る。 現状の文庫本や雑誌は、夜ごと、枕の下に埋もれ、尻や出っ腹に敷かれ、毛布と布団と敷布の間で行方不明になり、足蹴にされて布団からずり落ち、ときにはよだれでベトベトになっている。

それでもよい、頑丈、かつ、万に一つでも よだれによる感電事故などがない、また最低限の組版規範を達成した 「 電子機器 」 に成長したら、槍でも鉄砲でも 「 電子出版 」 でもなんでも良いぞ。  おそらくそんなものは当分登場しないから、いまのところはとりあえず、文庫を顔にのせて惰眠をむさぼるか。

¶ 帰宅後すぐに 『 この国のかたち 』 を読みはじめた。 久しぶりの司馬節、司馬史観に夢中になって03冊とも読了。 やはりこのひとは凄いな、ト 改めて脱帽。
このひと、いまにありせば、この乱世をいかに喝破するかとおもう。 かくするうちに しらじらと夜があけ、新年になっていた。
アダナ・プレス倶楽部 「 餅プレス大会 」 の折りの冷凍餅をチンして、マッタリおいしい大阪昆布の佃煮と食す。 旨し。  リポビタンD 1 本グビリ、これこそまことにもって、優雅なお節セチとお屠蘇トソではないか、ト 吾輩 初春にあたり 独居しておもう。

¶ 朝まだきの室外にでて、空中庭園で一服つけたら、おもわぬことに、黄色い花が一輪咲いていた。 「 こいつは春から、ほんとうに縁起がいいわい 」、ト 写真機でパチリ。
それにしてもコイツはどこから来て 植木鉢の真ん中を占拠して、どうしてこんな日に初花をつけたのかふしぎだ。 もちろん名もしらぬ。 花は蒲公英タンポポに似るが、草丈は 50 cm ほどもある。 吾輩の空中庭園には雑草という名のあはれな艸はない。 むしろすべてが雑草ともいえる 。だから コレハ ナンダ とおもったが、放っておいただけのこと。

¶ 元旦から駅伝をテレビでみる。  オフサカ-ゲーニン-録画版-莫迦嗤い-番組 はみない。
実業団の駅伝はかなり熱くなったが、学生の箱根駅伝はあまりにショーアップされて燃焼不足。 体育会学生がついにゲーニンになったのかナ。 アナウンサーの絶叫もチトうるさい。
だから往路はみたが、復路はパス。 ミヤギタニ文庫版 『 三国志 』 を手にする。 ここのところ北方謙三 『 揚家将 』  『 水滸伝 』 『 揚令伝 』 にすっかりはまっていた。
現在はいったい何巻になるのかわからない 『 史記 』 を、刊行されるたびに、待ってました ! と購入。 ケンゾウめ、司馬遷の名作をここまで勝手に改竄、断裁するのかとおもう。 えれぇ筆力だ、ト 呆れるばかりなれど、やめられない。

¶ もちろん ケンゾウ 『 三国志 』 もすでに読んでいた。 そんなケンゾウ節のせいもあって、久しぶりのミヤギタニに、すぐには入りこめなかった。それでも20ページほども読み進めると、すっかりミヤギタニに捉まったから単純なものだ。 このネットリ絡みついて離さない、大蛇アナコンダのような文体も味がある。 結局外出時も鞄に入れて持ち歩き、休暇中に読了。

凄い人混みの川越大師喜多院の達磨市

¶ そこで凡人、01月03日[月 正月休暇]、箱根駅伝観戦を早早に中断。 帰京したノーガク部と、川越喜多院の達磨市にでかけた。 このダルマは一昨年11月、宇都宮駅で偶然 「 高崎ダルマ市 」 を開催していて、無償配布をうけたもの。
俚諺 リゲン にいうぞ、「 タダほど高いものはない 」 ト。 まったくそのとおりで、ちょっとした願いごと (ささいなものだ、内緒だけど) をして片目を入れておいたら、昨年年末にめでたく念願成就とあいなった。 だから両目に墨がはいったが、サテその処分に困惑した。
信心などほとんどないが、「 このダルマさんを、まさか燃えるゴミにはだせないなぁ 」 ということで、Website で調べて、一番近く、休暇中にダルマ市を開催している川越にでかけた。

¶ びっくりした。東武線川越駅を降りたら、いきなりそこから長い行列。 「 喜多院 達磨市 専用往復バス切符 」 を売っていた。 行列の後尾についてようやく切符を買って、ピストン輸送の満員バスになだれ込むように乗り込む。
喜多院についたらますます押すな押すなの人混み。 人にアタル(中毒する)たちのやつがれは、もう青息吐息、酸素欠乏症状を呈する。 ラッシュアワーの通勤電車の比じゃない。 ただただうしろから突きとばされてあるく仕儀となる。

¶ 捨てにきた モトイ  お納めにきたダルマだから、べつに潰れても構わないはずだが、吾輩、なぜか後生大事にダルマを抱えてあるく。「達磨納め所」 の立札をみつけてそこに猛進。
道中、やはりことしのダルマも要るな、 ト おもいつく。 あたらしいダルマを購入。 衝動買い。 これでは輪廻転生 リンネ-テンショウ、来年もまたまた川越に来なくてはならなくなった。
つまり、結局のところ、タダでもらった達磨が ―― おそらく業者の狙いどおり、有料の新品に変わっていた。 <ウ~ン、ダルマ屋長期販売戦略か>。 しかも 「 達磨納め所 」 で志納金投入。交通費、食費その他を考慮するとかなりのもの。

¶ それでも餅ばかり食していたので、人混みをかきわけ、あちこちの屋台で怪しげなものをさまざま食した。 「 じゃがバター」 は旨かった。 ジャガイモを蒸かして、そこに一斗缶に入った 「 バター付け放題 」 だった。が、これはバターというよりマーガリン以下のシロモノ、黄色いなにか油の一種か。 むかしの学校給食のジャムバターをおもいだした。
さらに「たこ焼き」、「牛串 ―― 和製シシカバブー」、「お好み焼き」などを、ノー学部が得意げにつぎつぎと買ってくるママ食す。それにしても、あの人混みのなかで、よく喰いまくったなぁ。

新旧のダルマ。どちらが美男におわすか?

ダルマ納め所で、小さいながらも頑張る吾輩のダルマ。

¶ 昨年一年間、毎日にらめっこしてきた高崎ダルマとのお別れに、新旧の達磨をもって祠の裏に入りこんで記念撮影パチリ。 よくみたら高崎ダルマは小ぶりながら、彫りが深いお顔立ちで、なかなかの美男におわしました。 だから別れがたいおもいもある。
新人 ・ 川越大師のは、顔がでかく、彫りが浅い顔立ちで、なんとなくロンパリ ・ メンタマだった。 眉宇ビウ のあたりもきもち迫力に欠けるかな。 まぁこんなものかと納得。

¶  高崎ダルマをもって 「達磨納め所」 に入る。 うずたかく積まれたダルマがあった。 みんなが大願成就で両目を入れていたし、裏面には願文があった。 ほとんど無病息災、家内安全などと平凡だったが、なかに 「一攫千金 イッカク-センキン」 という、おそろしいのか、はたまた図々しいのかわからん願文を書き、両目を入れたおおきなダルマを発見。
その上にやつがれ高崎ダルマを鎮座させた。「一攫千金」 を成就したひとは、宝くじをあてたのか、泥ボーにはいったのかしらないが、メンタマも眼をむくようにでかかった。 その上に鎮座したのだからことしは凄いぞ。

¶ それにしても、この人混みの民草は、儚ハカナき願望をいだき、そのささやかな成就を謳歌しておるというのに、なぜにマス ・ メディアは、めでたい正月早早、口角泡を飛ばし、性事 モトイ 政治と金、性事 モトイ 政治不信、オザワ問題などと、十年一日、いつまでたっても (毎年 ・ 毎月 ・ 毎時) おなじことどもを、飽きもせで、たんなる繰り言をならべたて、セージの足を引っ張って得意になっておるのか。
すべてのつまらんギョー-カイ-ジンどもよ、雁首揃え 「 川越 喜多院 達磨市 」 へ詣るべし。
そしてアチチアチチの 「じ ゃがバター」 を食すれば、諸君のつまらんヒステリーや、欲求不満も解消するはずだ。 ともかくうるさいんだよ、あなたがたギョー-カイ-ジンは ネ。

宇都宮美術館外観(同館案内より)

《 あくまでも美術館にいったのだ、餃子を食しにいったのでは無いはずだ が 》
¶ 01月04 日[火 ・ 赤口・ 正 月休暇]、宇都宮美術館 「日本近代の青春 ―― 創作版画の名品」 展にいく。 ここはともかくゆったりとした時間が流れているから好きだ。 おまけに帰りがけには名物デッカイ餃子も喰えるしな。
さすがに正月、駅からの宇都宮美術館行きのバスはまったく貸し切り状態。 されど駐車場は栃木 ・ 宇都宮ナンバーの車でいっぱい。地 元客の来館者がおもいのほか多かった。

¶ 版画の印刷版と印刷方式にこだわった丁寧な解説におどろく。 ようやくここまできたか…… のおもい。 明治以降の木版画の多くは、バレン刷りではなく機械刷りであった。 印刷用の版、印刷版を理解してくれたようで欣快のおもい。 詳細省略。
「月映 ツクハエ」 にあらためて感動。 いずれ恩地孝四郎邸訪問記をアップの予定。 写真は同館案内パンフレットのもの。01点だけ、ちょいと藤森静雄を気取った、影印のある風景をパチリ。

明るい樹林に夕陽が射しこんでいた。

¶ 01月10日[月 ・ 成人の日 ・ 祝日]、正月明けから、05,06, 07日と営業したが、どこか間抜けな週であった。 バタバタしただけで、なにもまとまらずに時間だけが過ぎた。 まぁ暖機運転というところか。
01月11日[火 ・ 鏡開き]、いよいよ朗文堂も本格始動。 この週、すでにスケジュール表に余白無くビッシリ。

本日01月11日、一点の雲無き快晴。されど気温10度と寒し。
正月は終わった、燃えねばならぬ。

花こよみ 007

花こよみ 007

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

はつ春に 咲くやこの花 名をしらず

よみし ひとを しらず