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タイポグラフィ あのねのね*019 わが国の新号数制活字の原器 504 pt. , 42 picas

 これはナニ? なんと呼んでいますか?
仮称「活字の原器」 と「活字のステッキ」
わが国新号数制
活字の最小公倍数 504pt., 42 picasとは

活版関連業者からお譲りいただきました。

2012年03月17日 掲出/2012年12月25日 修整版


《この「活字のステッキ」!? 差しあげますよ……。そしてもっともたいせつな「活字原器」》
2011年の暮れ、年内いっぱいでの廃業を告知していた有限会社長瀬欄罫製作所の残務整理を手伝った。その際同社第 2 代社長:長瀬慶雄ナガセ-ヨシオ氏が、自動活字鋳植機(小池式和文モノタイプ)の作業台にあった器具を差し出し、
「コレは大事にしていたものです。名前はわからなくなったけど、いわば《活字の原器》と《活字のステッキ》だけど、必要ですか?」
ときかれた。

「HAKKO」の刻印から、この器具の製造所は、かつて長野県埴科郡ハニシ-グン戸倉町戸倉3055に存在した活字鋳造機器の有力メーカー、株式会社八光活字鋳造機製作所の製造であることが判明した。

2012年4月7日追記:
アダナ・プレス倶楽部恒例の《活版ルネサンス》(2012年3月30-31日)に際して、長瀬欄罫の諸資料を整理したところ、さらにふるいものとみられ、メッキが施されていない、いくぶん錆びの発生がみられる総鉄製の「活字の原器・活字のステッキ」を1セット発見した。
これは持ち手のつけ方からみて、左利きのひとのために製造された「活字のステッキ」だと想像された。

製造年月日はどこにも記載がなかった。
素材はスチールにクロームメッキを施したものとみられたが、ひとつで2キロほどの重量があってひどく重かった。また留め金はふたつのネジできつく締められ、ほとんど固定されていた。
写真奥は右利きのひと用で、手前は左利き用だとする。ずいぶんと親切なものだった。

《ふつうの「ステッキ Composing Stick」と、特殊な「活字のステッキ」》
活字版印刷術の現場でのふつうの「ステッキ  Composing Stick」とは、和文の組版では植字チョクジ(組版)の現場でもちいられる器具である。
欧文組版ではステッキに活字を拾いながら組み並べるが、和文組版では文選を終えた活字をステッキに移動して、活字組版の行長を一定に揃えて組むための道具である。

ふつうは左手にこれを持ち、右手で活字・込め物・罫線などをステッキの上にのせて、左手の親指でクリックしながら組み並べ、いっぱいになったら取りだしてゲラに移すものである。
そのために「ステッキ」は、できるだけ軽量であることが求められ、なおかつ行長によって変化する組幅を固定するための留め金を、しっかり保持するだけの十分な強度を求められる。
そのために素材は、鉄製・アルミ製・ステンレス製などがあるが、ほとんど製造ラインが停止していたものを、アダナ・プレス倶楽部が近年復活させて、製造・販売にあたっている。

ところが長瀬欄罫製作所の「活字のステッキ」は、「の」のひと文字が入っている分だけ「組版ステッキ」とはおおきく異なるものであった。
まず、なによりその重量である。鉄製とおもわれる素材に、クローム・メッキがほどこされ、2キロはたっぷりあって、片手で長時間保持するものではないことは明らかであった。

また「組版ステッキ」の留め金は、行の組み幅によって可変できるようにスライド式になっていて、固定する留め金は、ネジ式・小型レバー式などがある。ところが「活字のステッキ」の留め金は、きわめて頑丈なもので、締めつけもきつく、ほぼ本体にがっちりと固定されていた。

 この「活字のステッキ」のなかに、「組版ステッキ」であれば最初におこなう作業 ── 組みたいとおもう行長に相当する込め物を並べ入れて、留め金を固定する ── における、「行長を固定するための込め物」に相当するのが「鉄製の金属片、活字の原器」である。これを「活字のステッキ」に入れる。
もちろん留め金は、はじめからほとんど固定されているので、1キロほどの重量の金属片は、ぎりぎり「活字のステッキ」に差し込むことができる。すなわち「活字の原器」と「活字のステッキ」は、ふたつが揃ってはじめて意味をなす、活字鋳造現場での検査器具である。
────
ここでひとつお断りがある。ここでいう「活字の原器」「活字のステッキ」とは、あくまでも仮称である。「活字の原器」とは、上図「活字のステッキ」の奥にはめ込まれた金属片である。これは長瀬氏談からとったものである。
その際の状況は、暮れもすっかり押し詰まった2011年12月29日、本品の譲渡作業後にちかくの喫茶店に移動して、筆者にこの器具の名称と役割をくどく聞かれて、苦しそうに、
「ふつうはアテとかアテガネっていってたかな。まぁ活字の原器のようなものですよ」
と述べたことによる。
こうした背景から、ここでは「活字の原器」「活字のステッキ」とも、まだ正式名称ではないが、そのまま借用することにした。

『VIVA!! カッパン』より、活字と活字の大きさ、号数制活字とポイント制活字

この「活字原器」に刻印された数字との関連から、この器具は、活字の大きさや高さに日本工業規格(JIS規格)が適用された1962年(昭和37)以降の活字、いわゆる「新号数制活字、JIS規格活字」に対応するものではなく、現在でも関東近辺で採用されている、いわゆる「旧号数制活字」に対応する測定器具だと推定された。
またもっともふるくから開発された号数制活字ながら、イングリッシュ系とされて、ながらく他の号数制活字となにかと「相性」のわるい、四号と一号活字が「活字の原器」の測定範囲に入っていないことも印象的なものだった。これに関しては後述する。

2012年12月25日追記:
上記のパラグラフには問題がある。どう計算しても、この「活字の原器・活字のステッキ」は「新号数制活字、JIS規格活字」に対応するものであり、むしろ「新号数制活字、JIS規格活字」が導入された1962年以降に、その趣旨を徹底させ、また端境期における混乱を収束させるために製造されたとみられるからである。

「新号数制活字、JIS規格活字」の原案は、札幌・株式会社ふかみやの初代社長・深宮榮太郎の考案によるもので、はやくも昭和4年に「深宮式新活字」として誕生している(「深宮式の新活字」『フカミヤ八十年史 1918-1998』 p37-41)。
すなわち「旧号数」と「新号数制活字、JIS規格活字」の歴史的背景をもうすこし研究・分析・取材しなければならなくなった。
したがってまことに申し訳ないが、もうしばらく、上記1パラグラフは保留にさせていただきたい。

この金属片「活字の原器」は、きわめてたいせつにされていて、使用しないときには中面にラシャを貼った専用の木製ケースにはいっている。木製ケースには「HAKKO」の社名か、マークが、焼き印で刻されている。
購入価格も「活字の原器と活字のステッキ」のセットで、とても高額だったとされる。
「そうだなぁ、見習いの給料と、職人の給料の間くらいの感じだったかな」
「そうすると、いまなら20万円ほどですか?」
「そう、いまなら15-20万円くらいの感じかなぁ。ともかく高かったんだよ」

「活字のステッキ」にはめ込まれた「活字の原器」。
この左右の数値、504pt.と177.135mm に注目していただきたい。

《わが国の金属活字ボディサイズの最小公倍数、504pt.》
わが国の近代活字版印刷術の開始以来、活字ボディサイズには混乱がみられ、「大きさはあっても、寸法のない活字」と酷評されたり、大正期からさまざまな議論が交わされてきた。しかも製造現場での混乱が収束しても、活字ボディサイズに関する議論はやむことはなかった。
しかしながら、これらの議論とは、かくいう筆者をふくめて、活字版印刷術の現業経験に乏しい論者によってなされることが多く、ありていにいえば、活字鋳造現場の実態を熟知しないままの議論が多く、生煮えであり、成果に乏しく、空理空論とされても仕方がない側面がみられた。

すなわち、この「活字の原器、活字のステッキ」の登場によって、タイポグラフィ研究者を自認するほどのひとならば、全面的に議論の再構築を求められることになった。
もちろん活字鋳造に際しては、ノギスやマイクロメーターも使用されている。しかしながらこうした機器での計測だけでは十分とはいえないのが活字でもある。

活字鋳造の現場では、すでに、遅くとも1955-1962年頃から「活字の原器を、活字のステッキに入れて、そこに鋳造活字を指定の個数分組み並び入れて検証する」という、現業者に特有の「きわめて即物的かつ明快な方法」、それだけに議論の余地のない方法によって、活字のボディサイズの測定と検証がなされ、こうした検証を経た活字が印刷現場に供給されていたのである。────
ここで筆者をはじめ、読者諸賢にも「最小公倍数」(Least Common Multiple, L.C.M)を復習していただきたい。最小公倍数とは、ふたつ以上の整数または整式が与えられたとき、それらの公倍数のうち、正で最小または最小次数のものをいう〔広辞苑〕。

すなわちこの「活字の原器」に刻された504pt. , 177.135mm とは、わが国の主要活字の最小公倍数として提示されていることになる。
そして明治最初期からもちいられてきた四号サイズと、その倍角の一号サイズは除外されていた。それは上掲の『VIVA!! カッパン』の「活字の大きさ:号数制」をご覧いただくと、四号と一号は(アングロ・アメリカン)ポイントサイズにおいて、≒オヨソの印つきとはいえ、ほかの号数活字とは異なっており、最初から最小公倍数となるべきポイントの整数ではなかったためではないかとおもわれた。

「活字の原器」の中央部の数字は、G は号数をあらわし、P は(アングロ・アメリカン)ポイントをあらわす。つまり最小公倍数504 pt.の「活字の原器をいれた活字のステッキ」のなかに、さまざまな号数とポイントの活字が、何本はいるのかを、実際の活字をもって検査・検証するためものである。
そしてその際の公差は、右下隅に表示された+0.015mm 以下でないと不合格とされてきたほど厳格なものであった。

製造元の八光活字鋳造機製作所は19461年(昭和21)の設立であるが、その設立者・酒井修一は戦前からの活字鋳造機製造所として著名だった林栄社の工場長経験者であり、この両社ともほとんど記録をのこさず1965-75 年の間に閉鎖された現在、この「活字の原器と活字のステッキ」がいつから発売されたかはわからない。
しかしながら長瀬氏の記憶によれば、おそらく1955年(昭和30)ころから、こうした検査・検証をへて、わが国近代の活字がつくられていたことを示す物的証明のひとつが出現したことになる。

504pt. の意味するところ

七号活字      96本    9ポイント活字   56本
六号活字      84本    五号活字      48本
7ポイント活字   72本    三号活字      32本
六号活字      64本    二号活字      24本
8ポイント活字   63本

これからここに提示された504 pt.の最小公倍数にもとづいて、さまざまな研究がはじまることになる。まことに楽しみなことである。
繰りかえしになるが、筆者がこの「活字の原器をいれた、活字のステッキ」の譲渡をうけたのは、2011年の暮れも押し詰まった12月29日であった。そして正月をはさんで「活字の原器をいれた活字のステッキ」は、しごくちいさなグループの間の、おおおきな話題となっていた。
あきれることに、何人かは正月の屠蘇気分はどこえやら、「活字の原器をいれた、活字のステッキ」で鳩首し、さまざまな検証をかさねていたのである。諸賢の研究の一助になればとご紹介した。

おひとりはアドビシステムズ株式会社の山本太郎さん。もうおひとりは、21世紀の、そして平成の日本で、最初の金属活字鋳造見習工として勇気ある精進をつづけている日吉洋人さん(武蔵野美術大学基礎デザイン学科助手)です。

★     ★     ★

 ◎送信者:山本太郎 2012年01月05日 10:55
片塩二朗様
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

さて、504 ptのステッキの件ですが、504という数を素因数分解すると、2^3 x 3^2 x 7 = 504となります(ここで、x^yは、xのy乗の意味です)。このことから、次の事が言えるでしょう。

45 pt以下で、このステッキの長さが整数のボディサイズの倍数と一致するのは以下のサイズに限られます。
2, 3, 4, 6, 7, 8, 9, 12, 14, 18, 21, 24, 28, 36, 42

整数ではない10.5も、21の1/2なので、割り切れます。

このステッキは、日本におけるポイント制活字の実用的な多くのサイズに対応しているという意味では、よく考えてあり、興味深いものがあります。

ただし、「504 pt」と明記している以上、これはあくまでポイント制を基準にしたものだという点は明らかです。
号数活字との対応についても、JISが行っているのと同様、ポイント単位に換算した対応関係を基にしたものでしかありません。10.5 の整数倍が504に一致するからといって、それは「10.5 pt = 5号」ということを初めから前提にしているから5号と一致するに過ぎません。
他方で、「10.5 pt = 5号」という関係がポイント制成立以前に存在しなかったこともまた自明のことです。もちろん、JISがはっきりと明記してしまったように、「10.5 pt = 5号」という想定を無条件に受け入れた上で、それを慣習として倣って作られた5号活字が10.5 ptと一致することもまた自明なことです。つまり、既製のポイント制および号数とポイント制との慣習的な対応関係を受け入れた上で、後付けで作られたものと考えられます。

JISにおける号数とptとの対応関係のようなものが受容され、普及していたのであれば、このステッキが便利で機能的であったであろうことも、十分予想できます。
ただ、そのこととSmall Picaや5号の歴史的なボディの大きさの議論とは、関連はありますが、少し論点が異なるように思います。
───
◎ 送信者:日吉洋人  2012年01月09日@メール
片塩さま
日吉です。
例の504グリッドを制作していて気づいたのですが、6号=7.875アメリカンポイントだよってことですか?

片塩さま
何度もすいません。日吉です。
先ほどのつづきですが、6号が7.875ポイントで、5号が10.5ポイントだとしますと、名刺を組版する際に使うインテルの長さが、5号24倍なので……、8ポイントだと二分あまりますが、6号だとピッタリおさまりますので気持ちがいいですね。
今後DTPで本文を組版する時には、あえて実験的に本文の文字サイズに7.875ポイントを使ってみたいと思います。

片塩さま
日吉です。これが最後です。
まだ旧号数のすべてで計算したわけではありませんが、例えば、5号24倍(252ポイント)で割り切れないところ(例えば、8ポイント、10ポイント、11ポイントあたり)に突如「号数」が現れるような印象を受けました。
なぜ号数がそのように現れたかと考えますと、単純に複数のサイズの活字を一緒に組んだときに、分物を使わずにすむからだと思います。ならば初号とは何かってなりますが……。
それでは失礼します。お休みなさい。

504pt.と  五号24倍の相関関係の考察表  日吉洋人

2012年12月25日 修整版  



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2012年04月07日追記:
グラフィックデザイナー K 氏。ご来社のうえ談。

わたしはパッケージのデザインが多いのですが、その際、基本尺度としてメートル法だけでなく、曲尺カネジャク単位を考慮します。曲尺の一尺、およそ30.303センチと、この504pt.の表にあらわれる号数制活字は、なにか関連があるようにかんじました。
きょう「活字の原器と活字のステッキ」の実物を拝見しましたので、これから調査に本腰をいれたいとおもいます。

朗文堂-好日録023 気がつけばカレンダーが1枚だけ!

《2012年11月15日 GK デザイングループ  創立60周年祝賀会》
秋晴れの15日[木]、「GK デザイングループ 創立60周年祝賀会」に出かけた。会場は椿山荘。招待客は600名余におよび、グループ各社の社員も加わって、さしもの椿山荘の大ホールも人混みでいぱいだった。

GK デザイングループは 1952年、戦後の荒廃の中から、ふるい工芸にかえ、生活の復元と進展を求めて、インダストリアルデザインを中心に創立された。
代表を  栄久庵憲司氏  として、東京藝術大学出身者を中心とした Group of Koike = GK として出発したのを最初とする。

会場にはGKデザイングループ最初期の作品である、ヤマハ発動機 YA-1 と キッコーマン卓上醤油瓶などが展示され、同社の60年にわたる数数のデザイン製品群が、いまなお鮮度を失わないことにあらためて驚いた。
記念品にお饅頭をいただいた。お祝いの大福かとおもったが、カットすると意外な趣向がかくされていて、鮮やかな紅白の紋様があらわれた。
栄久庵さんもお元気だったし、心のこもった、すばらしい祝賀会だった。

《2012年11月18日[日] 新宿御苑遊歩道を散歩》
すぐ近く、あるいて 2 分とかからないところに新宿御苑正門がある。ところが燈台もと暗しというか、あまりに近きが故に、めったに訪れることがないのが新宿御苑でもある。
イチョウの黄葉が見事なので、外周路ともいえる遊歩道に出かけた。有料の苑内にはいると、なにかと規制(芝生立ち入り禁止、禁酒・禁煙 ! )が煩わしいが、遊歩道には最近、ちいさなせせらぎがもうけられ、また無料で解放されていて、散歩にはとても良い環境になった。

平日の昼間でも、ウォーキングにいそしむ高齢者や、ちいさな犬をつれた近在のひとがゆったりと歩いている。ようやく樹木も成長して、良い環境がもどってきた。これならわざわざ遠出して、人混みにもなれながら「もみじ狩り」になどにいく必要がなさそうである。

遊歩道にはギンナンの実がたくさん落ちていた。
10年ほど前まで、この季節になると、酒好きの某編集者が、袋いっぱいのギンナンの実をひろってきて、帰りがけに来社して自慢していた。左党のかれは晩酌のつまみにギンナンを煎ったものは好適だといっていた。
いまはそうしたひとも減ったとみえて、ギンナンの実は踏まれるままになって、独特の異臭をはなっていた。
そんな小径を歩きながら、最近うわさもきかなくなった、いいささか酒乱の某氏をおもった。

《2012年12月08日[日] 神田神保町の咸亨酒店に行く》
家人が週末に書芸塾に通っているので、神保町三省堂本店で待ち合わせ。
会社のすぐ近くにあった「あおい書店」が閉鎖され、三越百貨店のあとにできた「ジュンク堂書店」も移転したので、気軽に書物を買える書店がちかくに無くて不便である。
だから神保町まででかけた。そこで北原謙三『岳飛伝』ほか数冊の書物を購入し、塾帰りの家人と落ち合って、近くの「咸亨 カンキョウ 酒店」で夕食。

同名の中国料理店「咸亨 カンキョウ 酒店」は紹興酒(黄酒)の提供で知られ、また魯迅が好んだ酒店として著名である。たまたま今年の7月に、本場の中国・紹興の魯迅の旧居近くの「咸亨 カンキョウ 酒店」をたずねたことがあった。
このときは、水にあたって腹具合がわるく、またドライバーの潘 偉飛さんにすすめられて、おそるおそる食した「臭豆腐」にまいったが、すべての料理がいたくおいしかったことは覚えていた。
その店を模した、雰囲気の良さそうな中国料理店が、書芸塾の近くにあるので行ってみようと誘われて、三省堂からは幾分距離があったのでブツクサいいながら歩いた。

イヤァ、チョイとやつがれ驚いた。旨かった。本場の「咸亨酒店」と較べても遜色がなかった。
上掲写真右側の料理は、蘇東坡の考案によるとされ、家人の大好物「杭州名物 東坡肉 トンボーロー」を模し、寧波家庭料理風に仕立てた豚の旨煮料理である。写真を撮るのも忘れて半分食べてからの撮影で、妙なものとなっているが、ともかく旨かった。
若者の掲示板などでも「咸亨酒店」はそこそこの評価を得ているようである。

ただ、神田神保町の「咸亨酒店」は紹興というより、そこからほど近い港町、寧波(ネイハ、ニンボー、波を寧ヤスんずる)料理であった。また本格的な中国料理(値段はさほど高くなかったが)を楽しむには、4-5人で出かけて、いろいろな料理を楽しむのがコツである。ふたりだけでは3皿もとったら満腹になってしまう。

紹興の「咸亨酒店」、そして蘇東坡、王羲之などのことを『花筏 朗文堂-好日録 016』にしるした。当時の写真を探して、さらにこれらの書芸家と料理に迫ってみたい。
なにやら料理がメーンになりつつある『花筏』の昨今。それでも若者にかこまれて、十分タイポグラフィ漬けの毎日ではある。──つまりこの項目は書きかけである。